◆◆10000000111◆ ◆◆◆ ◆◆ ▼▼DK010000a▼ ★★01001★ 序 少壮、文章軌範を読んで、文章にはいろいろの体裁があることを知ると共に、凡そ序文をものするの如何に至難なるかを考へたことがあつた。それにも拘らず、現在までに数篇の序文を認めたが、何れも顧みて忸怩たらざるを得ないもののみである。然るに、今又、財団法人竜門社が「渋沢栄一伝記資料」を刊行するに就いて、予が偶同社の理事長たるの故を以て、その序文を草せざるを得ざるに至つたのである。 青淵渋沢翁に関し、殊にこの序文を草するに当り、直ちに想起せられるは、翁自身が嘗て執筆せられたる序文である。その幾十篇の中、特に「第一銀行五十年小史」の序文に心ひかるるものあるは、必ずしも予自身が同行に関係するところ深きが故のみではないが、それは姑く措くとしても「徳川慶喜公伝」の自序が情理を併せ尽して惻々人に迫るものあり、これを読んで涙せざるものなく、然も克く懦夫をして起たしむるの概あるは、一に翁の慶喜公に対する衷情の発露に因るものであると云はねばならない。蓋し★★01002★序文をものするが如きは、翁としては恐らく一些事に過ぎなかつたであらうが、然も尚かくの如き神工赫奕たる大文字となつたのである。即ち唯一篇の序文すら、斯程の感銘を人に与ふる翁その人の伝記資料集成の巻頭に、序文の筆を執ることは、一面身に余る光栄であると同時に、他面己が菲才を顧み、転た恐竦の感なきを得ない。 さりながら、凡そ一個人の伝記資料として、かかる浩翰なる典籍が完成せられたることは、予等の欣快に堪へざるの私情はとにかく、その由来を叙述して、主旨の存するところを疏明するは、刊行者として進んで果さなければならない責務の一つに属する。加之、後に述ぶる如き青淵翁と竜門社との関係、又翁の予に対する薫陶の恩誼に思を致せば、進んで一文を草したいとの念自ら湧き出づるのである。これ、予が不敏を顧みず、事のここに至れる経緯を審にし、併せて所懐の一端を披瀝せんとする所以である。 抑々、竜門社が最初、青淵翁の門下後進などにより、一修養団体として創設せられて以来、六十年に垂んとするその歴史は、終始翁の道徳経済合一主義の昂揚とその実践とを信条とし、国運の発展に寄与せんとする奉公の精神を以て一貫して来た。然も当社をして今日の如き組織と機能とを具備するまでに発展せしめたものは、一に翁の偉大なる人格に基くその教化、指導に外ならないのであつて、竜門社からすれば、翁とは正しく★★01003★形影離るベからざる関係にあるものと云はざるを得ない。竜門社が翁の伝記資料を編纂して、これを公にするは、啻に後輩としての途たるのみならず、実に当社の使命の一端を果す所以であると信ずる。 幕末以来、明治・大正及昭和の三聖代に亘る青淵翁の事歴及びその根幹を成す人格、思想が、我が国史に如何なる影響を及ぼし、国運の発展に幾何の貢献を致したかは、夙に明治の前期以来、公にせられた翁の幾多の伝記、評論などによつて世に周知のことである。その単行本として著述せられた伝記のみにても二十種を算し、その中でも、さきには白石喜太郎氏によつて著されたる数種、又後にしては財団法人渋沢青淵翁記念会の事業として、幸田露伴先生の執筆せられたる「渋沢栄一伝」の如き、それぞれ出色の好著たるを失はない。 その他、雑誌、新聞等に掲げられたる翁に関する評伝、月旦の如きに至つては到底枚挙に遑なき程であるが、然も翁の一生をして真に光彩あらしめて居るものは、翁が国民学校の国定修身教科書中の人となれることであつて、これにより翁は後世、幾百千万の少国民の教材となつて親炙せられることであらう。されば翁その人に関する限り、今にして予が蛇足を加ふる要は毫も存しない。 ★★01004★ しかし、教材としての翁の小伝は別として、普くその伝記、評論などを閲するに、これによつて翁の事績、人格、思想などが観察せられ、叙述せられ、又論評せられて居るところは、必ずしも未だ正確、詳細、十分とは認められない。かの白石氏による「渋沢栄一翁」の如きは略ぼ翁の全貌を写し、終始の纒まりも得て居るもののやうであるが、尚その完璧を期するには、翁その人が余りに偉大であつたと云はねばならない。又幸田露伴先生の「渋沢栄一伝」に至つては、たしかに伝記の体裁としても一新生面を拓きたるものであつて、さすがに一代の文豪たる先生の卓見は恐らく泉下の翁をして知己を得たるの感を抱かしむるものと評せらるべきであらうが、憾むらくは翁の後半生を伝ふるに欠くところがある。 斯く明治前期以来、数十年に亘つて世に出でたる幾多の伝記、評論を以つてしても、未だ翁の事績、人格、思想を観察し、叙述し、論評する上に、正確、詳細、十分を保し難いのは果して如何なる理由に拠るものであらうか。畢竟それは翁の事歴が余りに多岐広汎に亘り、その全般を尽さんが為めには殆ど無類の尨大なる資料を必要とするにも拘らず、斯かる資料の未だ蒐集、編纂を完うせらるるに至らなかつたのに因るものと察せられる。 ★★01005★ 或は「文は人なり」といふが、予は更に「事は人なり」と云ひたい。蓋し人世は所詮、実行が主であり、実行の伴はない理論に終つてはならない。即ち崇高なる人格、思想の発露せられ、具象化せられたる事績こそ、結局「人」そのものであらねばならない。この意味に於いて翁が九十二年の全生涯に亘り文字通りに躬行実践せられた経路を明かにするは、そのこと自体が、主観的にも客観的にも、「青淵主義」を昂揚する所以であり、世道人心に裨益するところ尠からざるは論を俟たない。 されば、翁の側近者も亦竜門社としても、夙に翁に関する伝記資料の蒐集又は伝記編纂の為めに幾多の努力を払つて来たことは云ふまでもない。その始めは明治二十年に、翁の深川邸に於いて翁の経歴に関する直話を請ひ、これを筆記して「雨夜譚」を編することを得たが、その輯むるところは天保十一年、翁の生誕に始まり、明治六年の大蔵省退官に至る三十四年間の推移に過ぎない。その第二次計画と見るべきは竜門社の事業として明治三十年より同三十三年に亘り、翁の還暦を祝する記念の為に、阪谷芳郎氏を委員長として編纂した「青淵先生六十年史」の刊行であつて、翁の正伝として公にせられた最初のものであるが、それとても、翁が九十二年の全生涯より観れば、尚その半生を物語るに過ぎない。従つて、その第三次計画は当然の行きがかりとして問題とならざる★★01006★を得なかつたのである。 然るところ、翁が多年の素志にかかる「徳川慶喜公伝」の編纂事業は、翁みづからの主宰下に、文学博士萩野由之氏を編纂主任とし、井野辺茂雄、渡辺轍、藤井甚太郎、高田利吉の諸氏を編纂委員としてこれに当り、大正六年を以てその完成を告げたので、これを機として穂積陳重、阪谷芳郎両氏の発意に基き、強ひて翁の許諾を得た上、右の「徳川慶喜公伝」の編纂関係者をして、そのまま翁の伝記編纂に当らしめることとし、同年以降同十二年に亘り兜町渋沢事務所に於てこれに着手したのがその第三次計画と見てよからう。この計画によつて「青淵先生伝初稿」第一章乃至第二十五章の脱稿を見たるにより、一まづ、その最初の部分を補修して「渋沢栄一伝稿本」第一章乃至第五章を、既に活版にすら附したのであつた。然るに図らずも同十二年九月一日の大震火災に禍せられて同事務所は大破し、あたら関係諸資料は殆ど焼失したので、これらの稿本も結局、未完成又は未公刊のままに葬り去られたのみならず、同震災後に於ける時局に鑑みるところあつて、遺憾ながら同事業を廃止したのであつた。 その後、渋沢敬三氏の主張により、伝記の編纂と資料の蒐集とを截然区別し、伝記編纂を側近者に於いてなすことは適当にあらざる為めこれを止め、専ら資料の蒐集に努力★★01007★することになり、その一として、大正十五年より、同じく渋沢事務所内に設置せられた雨夜譚会は、昭和五年に至るまで、引きつづき翁みづからの回顧談を筆記して稿本「雨夜譚会談話筆記」上下二巻を纒め得たのである。同筆記は未だ公刊せらるるには至らないが、然もこの催しは、言はば翁の伝記編纂に関する第四次計画に相当すべきものであり、同筆記はその貴重なる成果であつたと認められる。 以上の如き経緯のうちに、翁に関する伝記又は伝記資料の編纂には、幾星霜を閲して多大の努力が払はれて来たが、然も、未だ伝記資料の完全な集大成を見るに至らなかつたのは、畢竟、翁の生前中これを期待するを得ざるが故に外ならない。斯くて、これらの計画は何れも未完成のままに経過して来たところ、図らずも、昭和六年十一月十一日を以て翁は遂に易簀せられ、翁の伝記について根本的に考慮せざるを得ざるに至つた。 ところが翁を追慕せられる人人によつて組織せられた渋沢青淵翁記念会に於いて、その事業の一として、前に記した幸田露伴先生の「渋沢栄一伝」の起稿を嘱せられたので、翁の伝記編纂のことは一応解決して、資料蒐集の方が残された訳であつた。 そこで竜門社は、更めて正確、詳細なる翁の伝記資料を蒐集、編纂せんことを企図し、最初、昭和七年四月より文学博士幸田成友氏に編纂主任を嘱し、同博士の下に佐治祐吉、★★01008★山口栄蔵、増山清太郎、岡村千馬太、藤木喜久馬、中野重彦、杉本長重、西原俊二、木下清一郎、山本勇夫の諸氏を編纂委員としてこれに着手し、同十年十二月に至つて一段落を告げたのである。もつとも、この計画は全資料を編年体に集輯したものであつて、略ぼ遺漏なきを得たもののやうであつたが、更に完璧を期したしとの意向があつて、渋沢敬三氏の発議と厚意とに基き、再び竜門社の事業としてこれを更始することになつた。 即ち翌昭和十一年四月以降、東京帝国大学教授土屋喬雄氏に編纂主任を嘱し、同主任下に佐治祐吉、藤木喜久馬、(故)太田慶一、山本鉞治、吉村宮男、高橋善十郎、市河弘勝、石川正義、山口和雄、楫西光速、鹿倉保雄、松平孝、井東正一、山本勇、伊沢二郎、宇野脩平、手塚英孝、松浦総蔵、比嘉祐一郎、権藤友貞、石川巌の諸氏を編纂委員として第二次伝記資料編纂事業は開始せられた。本計画は天保十一年、翁の生誕より明治六年の大蔵省退官に至るまでを編年体により、その以後、昭和六年、翁の逝去に至るまでを身事、家門、事業等の部類別によるの方針を採り、前後を通じて七年の日子を費し、昭和十八年三月末日を以て遂に「渋沢栄一伝記資料」の編纂を完成し得たのである。 斯くて翁に関する伝記資料はここに始めて集大成を見たと云つても過当ではなく、今やその第一巻を刊行するの運びとなつたが、何分にもA5判、各冊約八百頁のもの合計★★01009★凡そ七十巻に及ぶ見込であつて、物資、労力の不足に因る出版難いよいよ切実ならんとする当今の状勢に鑑みれば、全編の刊行を完了するのに今後果して幾年を要するかは全く予測の限りではない。されば斯かる時勢の動向に察して、竜門社はこれこそ青淵主義に即し、ひたすら自粛自制して、真に本事業をして有意義ならしむれば以て足れりとする程度に止め、さしあたり一年一、二巻づつを続刊しつつ、諸般の情勢好転するの日を待ち、能ふベくんば一年八巻程度を出し、出来得る限り、これが完成を促進したいが、果して幾年の後か測り知り難い。加之これを資料とした完璧十全なる伝記の編纂せらるることは果して何十年の後であるか、殆ど望羊の歎なきを得ない。さりながら来るべきものは自ら来り、成るべきものは自ら成ることを期待し且希望する。その時始めてこの集成が、集成の意義を完遂したと断ずべきであらう。 若し夫れ、この集成が主として過去を語るの資料に過ぎざるの故を以て、特に当面の時局下、或は閑事業視せらるるの虞なきを保し難しとの遠慮に至つては、一たび本集成を繙かば、直にその憂の無用に属する所以が明かになるであらう。即ち本集成は「伝記資料」とは云へ、その包容するところのものは、必ずしも一個人として伝記に関する資料に止まらず、実に幕末以来、明治、大正、昭和の三聖代に亘る経済方面の史実を始め、政★★01010★治、外交、社会、教育、宗教、文化、学芸、等等に関する諸般の状勢を知悉せしむる上に資するところ、恐らく多大なるものあるべきを信じて疑はないからである。 わけても本集成を通じて看取せらるべき翁の全生涯を通じて、最も人心の琴線に触れ、後人をして発奮感激せしむるものは、実に翁の犠牲的精神、忠恕の心である。蓋し翁が徳川慶喜公を以て犠牲的精神の権化であると称揚し、公の伝記に於ける序文中にその趣旨を縷述して居られるのも、実は慶喜公によつて、たまたま翁自身の犠牲的精神を披瀝し、その真骨頭を闡明するの縁由を得られたものと評して宜からう。 終りに臨み、予は第一次及第二次伝記資料編纂事業に携れる諸氏、特に第二次計画に於ける土屋編纂主任を始め、編纂委員諸氏が彫心鏤骨の辛苦を忍び、克くこの大事業を完成せられた努力に対して深甚なる感謝の意を捧ぐると共に、本事業の為めに或は有益なる示教を賜はり、或は貴重なる資料を寄せられたる各位に対し、又当今、出版難のますます深刻ならんとするに際して、尚これが刊行に関する一切の担当を快諾せられたる岩波書店主に対し、ここに併せて厚く感謝の意を表する次第である。 昭和十八年十月十二日 ★★01011★ 財団法人竜門社 理事長 明石照男
(本資料は本書二七六頁までを昭和十九年六月岩波書店より第一巻として刊行したが右はその折の序文である。) DK010000a 1/4
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