デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

1編 在郷及ビ仕官時代

1部 在郷時代

2章 青年志士時代
■綱文

第1巻 p.181-183(DK010006k) ページ画像

安政二・三年乙卯・丙辰(1855-1856年)

十六・七歳以後従兄渋沢喜作ト共ニ近傍諸村ノ若者頭等ヨリ推サレテ其指揮ニ当ル。


■資料

渋沢栄一伝稿本 第二章・第三〇―三二頁〔大正八―一二年〕(DK010006k-0001)
第1巻 p.181 ページ画像

渋沢栄一伝稿本 第二章・第三〇―三二頁〔大正八―一二年〕
○上略 先生十六才に及びては、かねて好める闘犬にも厭きて、専ら家業に努めたれば、自ら文学の方には遠ざかりたれども、なほ好める道なれば、全く之を廃するに至らず、業務の余暇には詩文を作りて、藍香の添削を受くるを常としたれば、郷党の間にも重きを為すに至れり。当時血洗島附近の習慣として、男子十五才に達し元服すれば「若い者」の仲間入りをなすことなるが、其仲間には「若い者頭」といふ者数名ありて之を統率す、先生は喜作と共に、事理に通じ弁舌に秀でたるのみならず、機智才能に富みたれば、評定などのある場合には、進んで意見を述べ、又世話せることも多かりき。鎮守の宮の修繕・祭礼、又はそれに村芝居を打たせる等の事には、大抵二人率先して事に任じたれば、先生と喜作とは遂に附近諸村中の有力者に推され、若者頭を指揮する地位に立ち、事毎に先づ先生等の意嚮を聴くにあらざれば着手する能はざるに至れり。此に於て先生も亦村の為青年の為に努力せしが、或時之が為に、晩香翁の姪にして其実家の家督たる渋沢宗助長徳を面斥せしこともありき。此宗助は初め新三郎と称し、先生の剣道の師たることは前に述べたり、然るに父祖以来の富を擁して勢力甚だ強く専横の挙動あるを免かれず。或年鎮守の諏訪神社を修理するに際し、其神体は従来かゝる場合には吉岡磯次郎といふ者の家に安置する慣例なるに、宗助は専断に之を己の家に移して保管せり。村の青年等皆不服なれども、宗助の威光に恐れて何人も争ふこと能はず、陰に之を罵るのみ。先生伝聞していたく驚き、直に喜作と共に宗助を訪ひ処置の誤れるを説き、容易に応ぜざるより、大に論難詰責して、遂に吉岡磯次郎の家に移したりき。此事ありてより先生等の名声大に揚り、村の青年は皆先生等に心服し、何事も指導を仰ぐに至れり。
先生は生来の健康に加ふるに筋骨逞しく、膂力人に過ぐ、故に剣道の仕合にも、最後には得物を打捨てゝ敵と組打し、遂に勝を得るを常とせり、然れども相撲には極めて弱かりしといふ。又物を担ふの力は、村中にても一二を争ひ、他人の持て余したる俵などを、如何にも軽ろげに運びしこと屡々なりき、又畠を耕し畦を起すに「進さく」と唱へ、五人程同列にて之に従ふことあり、其折にも先生が先に立ちて働けば他の者は容易ならざる苦痛を感じ「若旦那は強力に任せ無理なる仕事のみして困る」とは、彼等が常に訴へたる繰言なりき。


雨夜譚会談話筆記 下・第六七六頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕(DK010006k-0002)
第1巻 p.181-182 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 下・第六七六頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕
 - 第1巻 p.182 -ページ画像 
諏訪神社への御参拝に就て
先生「○中略 私が若い頃、血洗島には若い者と云つて、十四五から廿四五迄の仲間があつた。それはサヽラ踊とか他村との関係に就ての集りである。此若い者が是非諏訪神社を建直し度いと種々話合つた。私も此仲間に這入つて世話した関係から、私は世話人に選ばれて居た。そこで材木を買つて愈本殿を作り換へる運びとなつた時、私は郷里を出て京都に上つて仕舞つた。」○下略


竜門雑誌 第三五三号・第三一頁〔大正六年一〇月〕 喜寿碑除幕式に於て(青淵先生)(DK010006k-0003)
第1巻 p.182 ページ画像

竜門雑誌  第三五三号・第三一頁〔大正六年一〇月〕
 喜寿碑除幕式に於て(青淵先生)
  ○本篇は青淵先生の大正五年喜寿に躋られたるを祝し且高徳を頌せんが為め先生の郷里埼玉県大里郡八基村大字血洗島の村人中心となり、同村の出身者及先生と最も深き縁故を有せる少数の人々申合せ、同地村社諏訪神社境内に喜寿碑を建立し、同年十月一日の吉日を以て之が除幕式を執行したる際述べられたる青淵先生の演説なりとす。(編者識)
○上略 私の故郷に対する観念は、我家の父母及び親戚に対しても常に心を傷めましたが、より以上に痛心したのは、此諏訪神社に対して、青年の頃に本社の改造を図つて、其頃の若い者仲間、即ち今日の青年団が此小なる血洗島にもありまして、私は其青年団の後進者として有為の少年と見られて、何事に拘らず、村内の世話役を托されて居つたのである。故に神社の本殿再建に就ても、諸方を奔走して木石を買入たり、又は構造の設計をしたり、種々なる世話を致しました。当時大工の棟梁に彦蔵と云ふ人がありました。今日も其家は存して居るだらうと思ひます。其頃は彦大工と通称した、此彦大工が専ら工事を担任致して、本殿の稍々出来上つて、未だ完全に至らぬ間に、一身の変化を惹起したから、神社に対して相済まぬと思ふたけれども、工事の終局を待つては居られぬので、余儀なく国家の為めには、神社も第二第三として家を去りましたが、夫だけは深く心に懸つて居つたのであります。○下略


竜門雑誌 第五四〇号・第四頁〔昭和八年一一月〕 【一村の興隆と自治的精神】(DK010006k-0004)
第1巻 p.182 ページ画像

竜門雑誌  第五四〇号・第四頁〔昭和八年一一月〕
○上略 慥か二十才か二十一才の時であつたと思ふが、此大字血洗島の鎮守のことに就て、若い者の一人として関係して居つて、どうも鎮守の社が余り大きな社ではない。近所の鎮守様は非常に立派なのがある、若い者として之を歎はしく思つて、皆んなに謀つて、其再建を思立つた。漸く建築に掛つて、拝殿丈けは仕上つたが、其中に自分の身体に変化を来して家を去つて仕舞つた。○下略
   ○右ハ栄一ガ明治四十一年九月二十八日、八基村民ノ招請ニ応ジ、同村鎮守社諏訪神社ノ祭典ニ臨ミタル際、特ニ同地方農業家ノ為メニ述べタル『一村の興隆と自治的精神』ト題スル講演ノ筆記ノ一節ナリ。


実験論語処世談 (渋沢栄一著) 第三四四頁 〔大正一一年一二月〕 喜寿碑除幕式に於て(青淵先生)(DK010006k-0005)
第1巻 p.182-183 ページ画像

実験論語処世談(渋沢栄一著)第三四四頁〔大正一一年一二月〕
○上略 喜作の父と私の父とは実の兄弟であつたのだから、私と喜作とは従兄弟の親族関係になるのだが、喜作は私よりも二才の年長者であつ
 - 第1巻 p.183 -ページ画像 
た。何事にも私と喜作とは、幼年の頃より二人揃つて行《や》つて来たもので、漢学も尾高惇忠先生に就て一緒に稽古し、居村の世話も二人で一緒になつて行つたものである。
 何か居村に事件が起つても、渋沢の二人が出て来れば話が纏まるとさへ謂はれて居つたものであつたが、漢学の造詣は多少私の方が喜作より深かつた。又性質の上から謂つても、大に其傾向を異にした所があつて、私は何事にも一歩々々着々進んで行かうとする方であるに反し、喜作は一足飛びに志を達しやうとする投機的気分があつた上に、猶ほ他人を凌がうとする気象もあつたので、○中略 二人は幼年より何事も一緒に揃つて行つて来たに拘らず、これが私と喜作との著しい相違点であつたのである。○下略