デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

2章 幕府仕官時代
■綱文

第1巻 p.542-548(DK010043k) ページ画像

慶応三年丁卯八月二十日(1867年)

是ヨリ先、八月十六日瑞西ヲ発シテ和蘭ニ赴キ、同月十八日ヘーグニ到着ス。是日徳川昭武ヘーグニ於テ和蘭国王ウイルレム第三世ニ謁ス。居ルコト数日、栄一モ亦、軍艦製造所ノ観覧、シーボル
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ト別荘ニ於ケル清遊等ニ陪ス。一行ノ同国滞在中幕府留学生林研海・伊東玄伯等周旋大イニ勉ム。


■資料

航西日記 巻之五・第十一―十八丁(DK010043k-0001)
第1巻 p.543-545 ページ画像

航西日記 巻之五・第十一―十八丁
同 ○慶応三年八月 十六日 西洋九月十三日 晴。午後一時半。荷蘭へ出発す。仏都巴里へ帰るべき人人にハ半時前出立す 夕五時。再《ふたゝび》ハアルへ抵り。トロワロワの客舎にて夜餐し。夜九時又滊車に乗り徹暁す
同十七日 西洋九月十四日 晴。朝六時半。バアデン国タルムスタートといふ所にて小憩し。午前九時。マイヤンスに抵り。ランヌ河の涯より。滊船に乗る。小巒昿野の間に。村落市街遠近に見ゆ。夕五時ボンヌに抵り金星《エドワルドヲル》といふ客舎に宿る
同十八日 西洋九月十五日 晴。朝六時滊車にて発し。午後一時ランヌ河を済る。河幅広く水深くして。剰時々洪水の患あれハ。橋梁の架すへき術《てたて》なく。巨船を泛め。轍軌《てつき》《キシヤミチ》を通し滊車来れハ轍道《てつ》に載せはしらしめ平地にひとしくさらに滞碍《たいかい》《サシツカヘ》なからしむ。午後一時。荷蘭国界セイヘナールへ抵る荷蘭より迎として。リユーテナントコロネルフワンカツペルレン。及御国の留学生等出むかひ。夫よりウエツトレフトへ抵り。同二時半ロツトルダムへ至り。滊車に移りて。直に市街を巡覧ありて。同三時半発す
此ロツトルダムは。マアスといふ河に添たる。一都府にて頗る繁花の地なり。蒸気帆前船とも多く碇泊し。総て荷蘭内地へ来舶する人の上陸せる所なり。砲台警衛の軍艦も多く備ハれり
同四時国都ハアへ抵りぬ。滊車場まて国王より。迎の馬車三輌を粧《よそ》ひ側役バロンスヌーケルトテシヤウベルといふ者出迎ひてホテル好景楼《ベルビユ》といふへ請しぬ。此日到着するを見んとて土人群集して道路に塡ちたり 少焉《しばらく》ありてコロネルとも来りて安着を祝せり。巴里へ電線をもて到着を通し。留学生等も来祝す
同十九日 西洋九月十六日 曇。朝。議事堂にて。闔国の大礼典の集会あるにより見物あるべしとて兼て国王より招待ありて。午十二時。迎の馬車来る。各礼服にて出らる。礼式掛も出迎ひて。堂中桟敷様の所に請す。午後一時。国王及貴官の大臣等。各馬車にて来り途中ハ。歩兵隊にて警衛し。王車の前後ハ騎兵凡四小隊 一小隊三十二騎 にて囲み。王車ハ八馬。毎馬御者二人宛。衣服馬車の粧ひ殊に美麗を尽せり。王車に従ひ聯行せるものハ。二馬に駕せし。車三輌六馬に駕せし車三輌。王車共に七輌なり
国王議事堂に着し中央の小高き所に座を設け。貴官及諸民の惣代なるもの其前を左右に羅列し。即国王着座して。懐中より一小冊を出して高声に是を読む。其趣旨ハ先其年の無事百姓の安寧を祝し。それより政治可否。得失。凡審理。財賦。吏胥の曲直其他万般の事を下問せらるゝにて毎年恒例なりといふ。式畢りて国王帰去せり。当方も続て帰去す。其途中市外田園なとを遊覧し夕四時帰宿す
同廿日 西洋九月十七日 曇。晩晴。午時。銃砲製造所。歩兵屯所等を見るに陪す。夕五時国王謁見の式あるにより迎の車駕二輌来。一輌は国王の乗車にて。四馬を駕し粧飾最壮麗なり。御者四人其は駕せる馬に乗て御せり 先駈の騎兵二騎 各同様の礼服にて美麗なり 少焉ありて。護従
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のコロネル来りて嚮導し。従行都て。六人。夕五時半。王宮に入り国王へ謁見し両国懇親の祝詞を述られ。国王も厚く来意を答謝あり。礼畢て太子の別宮に抵り。夫より。フランスフレデリーといふ国王の弟の邸を訊問せらる。帰舎の後此地市中惣代ヨンノヘールフルステーイトいふ者来り安着を賀す。英国より在留せる理事官《シヤルジダツヘール》来り候す。巴里留守館のものより書簡をもて安着を賀す
同廿一日 西洋九月十八日 晴。西北の港ニユーヨジツプといふ所にて。軍艦製造所等を見るに陪す。コロネル嚮導し。朝七時より。滊車にて午時同所に達す。水師提督并附属士官数人礼服にて出迎ひ、許多の兵卒を出し警衛せしめ。尤慇懃鄭重なり。途上兵隊ハ。捧銃の礼をなし。楽手は奏楽して。祝せり。先客舎に請し暫《しばら》く憩息ありて。港口に碇泊せる艦中へ請す。時に惣軍艦祝砲せり。水夫は皆檣桁に登らしめ。御国旗を掲け。艦へ移る毎必祝砲あり。フランスアンリイといふ惣鉄船ハ。市街に接近なりとて。祝砲なし。軍艦。製造。いつれも宏大堅牢にして最新奇製多し。看了りて病院を見る夜十時帰宿す
同廿二日 西洋九月十九日 晴。午後二時。プランス」フレデリー及アレキサンドル客舎に来り賀す。魯国在留ミニストル」ロツトルダムシドクトルキルシス等来候す
同廿三日 西洋九月二十日 晴。朝八時。アムストルダム府を見るに陪す
  アムストルダムは。荷蘭の別都にてハアヘより市街も広く且繁花なり。河海舟楫の便宜しく。川筋多く市街を切断し処々に大橋を架し。中には橋桁を左右に旋回し。又ハ上下する仕掛あるもの多し。蓋通船帆檣の碍りなからしむるなり。地勢略本邦大坂《ほゞ》に似たり。商估銀行なとも大なるありて貿易繁盛なり
同十時先来丁《レイデン》といふ所にて。蒸気もて水を吸上る器械ポンプを見る 是は同所にある巨大の池沼を開墾する為め。用ゆるといえり
夫より。アムストルダムへ抵りジヤマン 金剛石 製造所。造船所。及博覧会等を見る。此所の鎮台。及水師提督等。嚮導せり
 此総鎮台ハ。本地至重の任にて。高年にして才略抜群の者ならでハ任に堪へず。往昔ハ威権。国王にひとしかりしといふ
同廿四日 西洋九月二十一日 曇。午前十時。レイデンといふ所へ出遊せるに陪す。是は巡回中傭入の書記通弁官シーボルト亡父の別業在るによりシーボルト其所へ招待せしなり。此父ハ。年来。御国長崎に在留せしものにて。在留中聚めたる。本邦の古人の書画。古器物珍奇の品なと。都て御国様に陳謝し。且庭前仮山池ありて樹卉の植並へも欧風ならず。殊に目に染て人々坐《そゞろ》に感慨を起せり。園翁網を挙て魚を得料理などし。懇《ねんごろ》に饗しあえり
同廿五日 西洋九月二十二日 午後一時荷蘭国太子の弟。アルキサンドルを尋問す。白耳義のシヤルジタフエール来候す
同廿六日 西洋九月二十三日 曇。此日国王より。再懇親《ふたゝび》の招待あり。但留別の謁見なり。夕五時迎の馬車来る。迎送応接甚慇懃鄭重なり。蓋此国は各国と異なり。御国と年久しく和親を通し交易をなし遂に信義を失はす。且千八百年の初仏国那破烈翁に侵撃せられ。国殆んと淪滅し。東洋所々属国にも本国の威権行ハれず港々にも。其国旗を建るを得さる程なり
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しが。僅に本邦長崎港のみ。依然国旗を掲るを得たりしかは。永く是を徳とし常に御国の信義を忘却せすといふ。其交諠久しきを経て衰へさる感すへし。夜八時帰館。側役スヌカール及コロネル。其外留学生等へ夜餐を具す。同夜白耳義ミニストル来候す


渋沢栄一 御用日記(DK010043k-0002)
第1巻 p.545-548 ページ画像

渋沢栄一 御用日記
 八月 ○慶応三年 十六日 晴         九月十三日
朝御道筋取調、本日第一時半御発御徹夜、十八日四時荷蘭ハアヘ御着と相定其段在留之ミニストル江申達す、同国留学の御国生徒へも申遣す、渋沢篤太夫ヲリエンダルバンクニ而千ポンド為替仏貨ニ而請取、大統領其外江御遣し品書記官江相渡、御附添申上レ書記官江被下物有之
第一時半御発、尤隼人正始外国方役々は半時前ニ発軔、一行も減しぬれば車中寂寥なり、夕五時バアル御着、過日御止宿ありしトロワロワといふ客舎に而夜餐御調、夜九時再滊車御乗組、車中御通夜、翌暁六時半バアデン国タルムスタートといふ地ニ而御休息、滊車御乗替
 八月十七日 晴又曇              九月十四日
朝九時マイヤンス御着、同地は欧洲第一の洪河ランヌの涯浜ニ而蒸気船の便あれば本地より川蒸気御乗組、直ニ出帆ニ而ランヌの流に随ひ舟行頗る清興なり、両岸は総而小山或は曠原等ニ而其間村落市街の遠近に断続し、流に随ひ眺を異にし、舟中頗る清興を添ふ、併便船なれは乗合多にて雑沓は其厭ふへきを覚ゆ、夕五時ボンヌ御着、エトワルドヲルといふ客舎御投宿
 八月十八日 雨                九月十五日
朝六時御発、滊車御乗組直に発軔、昼後一時頃滊車の儘ニ而ランヌ河を航す、こは河はゝの広く水深くして剰へ洪水の患あれは橋梁の架すへき術なく、いと大きなる船に鉄道を具せしを水上ニ数多浮め置、滊車来れば其儘に右の船橋ニ載せ、蒸気もて船を遣り、着岸の後又鉄路を走らしむ、具製簡便ニ而尤壮牢なり、昼一時過荷蘭国境セイヘナル御着之処、荷蘭より為御迎ルーテナントコロネル」フワンガツペツルレン」及御国留学生五人罷出て、御迎申上る、暫時御休息に而、夫よりウエツトレツト御着、第二時半過ロツトルダム御着、滊車御乗替なればとて馬車にて市街御巡覧直ニ滊車場ニ而尚又御乗組、三時半発軔す、ロツトルダムはマアスといふ大河に添ふたる一都府ニ而、頗る繁華の土地なり、蒸滊帆前船共多く碇舶せり、総而荷蘭内地へ舶来せし人の上陸所なりといふ、砲台其他警衛の船抔多く着あるといふ、四時廿分国都ハアヘ御着、蒸滊車場迄国王より為御迎礼典に用ゆる美麗の馬車三輌を出し、側役バロンスヌーケルトデシヤウベルフといふ者御出迎申上る、夫より市街を御通行ニ而ホテルデベールジユといふ客舎御投館 此日御着の式を見んと土人、数多汽車場に群集せり 御着後、御迎に罷出し側役及コロネル共罷出御機嫌を伺ひ御安着を祝す、且明日本地議事堂ニ而闔国の大礼典なる集会之儀有之ニ付、御覧之旨申上る、尤十二時頃御越被下度旨其外手筈夫々申聞る、此夕御安着之旨巴里江伝信ニ而申遣す、留学生林研海・伊東玄伯・赤松大三郎・松本銈太郎・緒方洪哉罷出る、研海・玄伯・大
 - 第1巻 p.546 -ページ画像 
三郎は御滞在中罷出御用取扱之積、外両人は引取勤学可致旨申達す
 八月十九日 曇                九月十六日
朝コロネル罷出、御滞在中同人御附添申上候様国王より被命し旨申上る、本日議事堂御越之手筈申聞る、第十二時御越尤其車は国王より被差送候礼車ニ而、公子には御狩衣、石見守も同様礼服、其余は羽織着用ニ而御供議事堂の楼上なる桟敷様の処江椅子相設、礼式懸之者罷出て御接待申上る、一時頃国王及貴官共美麗なる馬車ニ而罷来る、往来は歩兵隊ニ而道を固め、王車の前後は騎兵凡四隊宛 小隊三十二疋立 ニ而警衛し、王車は八馬を駕せる車ニ而、毎馬御夫弐人を添ふ、其衣服及馬車の装飾いと華麗を尽せり、王車に随て聯行せしは弐馬を駕せし車壱輌、四馬を駕せし車弐輌、六馬を駕せし車三輌、王車ともに七輌なりし、国王議事堂ニ着して中央の小高き処に座を設け、貴官及諸民の総代なる者其前及左右に羅列し、扨国王着座之後懐中より一小冊を出して高音にこれを読む、其趣旨は其年の無事平寧にて人民の安息せる哉否を問、毎事政刑の可否善悪を下問せるニ而、年々の佳例なりといふ、右之式終て直に元の車ニ而罷帰る、式終ると公子も同時ニ御退出、御帰路市外の林田園の景を御一覧ニ而、夕四時御帰館
 八月廿日 曇晩晴               九月十七日
朝赤松大三郎をアムストルダム」フアンドルマートスカーベン江為替金請取方談判ニ付差遣す。
昼十二時、鉄砲製造所歩兵屯所等御一覧、三時御帰館、石見守・保科俊太郎・御雇両人御供、石見守は夫より本国議政ミニストル七人江訊問、公子御着彼是取扱有之挨拶申述御名札差遣す
本日は国王謁見之手筈、昨日御附添之コロネルより申上あれば、御逢之節御口上案御応接振取調、夕五時為御迎礼車二輌、其一は国王之馬車ニ而四馬を駕せる尤も美麗を尽せるに御者四人を添 弐人の御夫は駕せし馬に乗りてこれを馭せり 外ニ御先払之騎兵弐騎 いつれも同様礼服ニ尤美麗を尽せり 無程御附添コロネル御程合申上けれは直様御出向、石見守御附添コロネルシーボルト第二車は俊太郎篤太夫御雇之者両ニ而五時半王宮御越《(人脱)》、国王御逢之上太子の別宮江御訊問御逢、夫よりプランスフレデリーといふ国王之弟御訊問、夕六時御帰館 此日御面謁之手続は別紙に悉しく記したれは之に略す 昼後本地市中惣代ヨンクヘールヘーフルステーイトといふ者御安着を祝す、英国より在留せしシヤルシダフヘール御機嫌を伺ふ、巴里より御用状到来御着御祝同地平安之儀申来る
 八月廿一日 晴風涼              九月十八日
此日本地西北之港ニユーヨジツプニ而軍艦及其製造所等御覧之旨御附添コロネル申上、御供は石見守・俊太郎・凌雲御雇両人、シーボルト外ニ留学生林研海伊東玄伯等ニ而、朝七時半御旅館を御発し、本地の滊車場ニ而滊車御乗組、昼十二時頃ニユーヨシツプ御着、本地の水師提督其附属士官数員礼服ニ而御出迎申上、数多の兵卒を出して途上警衛せしめ、其接待甚慇懃鄭重なり 御着之節兵隊捧銃の礼を為せり楽手は奏楽して御着を祝せり 直様客舎に御越、暫時御休息、夫より港口に碇舶せる軍艦に御越、之ところ御越の軍艦毎ニ弐拾壱発の祝砲をなせり、尤ブランスアンリイといふ惣鉄船は市街接近に投錨しありしかは、市中に妨ありとて祝砲はなし、軍艦に御着之節は水夫は総而帆桁に登らせ最高の檣に御国旗を建、御巡
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覧之節も毎艦に而祝砲を為せり 祝砲の数都合九度、百八拾九発なりし 御一覧後先の客舎ニ而御昼食、夫より病院御一覧、夜十時御帰舘
渋沢篤太夫フワンドロマートスカツペン江為替金請取方之儀ニ付留学生赤松大三郎同道アムストルダム罷越す、右請取方取斗夜十時帰宿 帰路レードといふ処ニ而御帰之蒸気車と同しくなりたれは御供いたして罷帰ぬ 昼後国王より使者差遣し、国王及王妃の写真進せらる
 八月廿二日 晴                 九月十九日
比日終日御休息ニ而御在館記事なし
昼後プランスフレデリー及アレキサンドル」魯国より在留せるミニストル」等御訊問申上る、ロツトルダム之ドクトルキルシス御機嫌伺として罷出る、渋沢篤太夫小遣綱吉召連れ朝六時出立、巴里江罷越す、綱吉儀本地御着之節不穏之働あれは巴里ニ而謹方申付へくとて道中小遣としてアンリイをも召連、途中無滞此夕十一時巴里着、同人ハ御留守取締木村宗三江引渡、其外諸用相弁其夜は御旅館に一泊
八月廿三日 晴                  九月廿日
朝八時御旅館を御発し、アムストルダム江御越、十時頃レイデンといふ地ニ而蒸気ニ而水を汲ほしぬる器械御一覧同所《ポンプ》ニ而御昼食、第十二時半再滊車御乗組アムストルダム御着、ジヤマン製造所造船所及博覧会其外所々御巡覧、尤本地総鎮台及水師提督等御案内申上る 尤総鎮台は本地の汽車場迄御出迎申上る此鎮台は本国至重之任ニ而高き才略抜群の者ならてハ其任ニ堪す往昔は其威権稍国王にひとしかりしといふ 渋沢篤太夫巴里御用済夜九時半帰着
八月廿四日 曇                  九月廿一日
朝御取扱申上し数員之士官江被下物之取調いたす、昼十時半レイデンといふ地御越、尤御雇之書記通弁官シーボルト亡父の別業なれはとて御招請申上たれは石見守・俊太郎・凌雲御雇之者両人留学生三人とも被召連、シーボルト亡父は年久しく御国長崎港に滞在したれは其留滞中取集めたる奇古之品抔数多陳羅しあるを御一覧、御休息後御慰とて園池に網し二三尾の魚を得、御携ニ而夕五時御帰館、此日同人江九谷猪口一組を被下
 八月廿五日 雨                九月廿二日
午後一時太子之弟アレキサンドル御訊問、石見守・俊太郎御供いたす白耳義国シヤルジダフヘール江明後日当地御出立其都府江御越之旨、并御供名前書申遣す、旦夕五時石見守訊問、毎時談判可及旨をも書翰ニ而申遣す
 八月廿六日 曇                九月廿三日
御滞在中御世話申上し者共江被下物有之、此日国王江再御逢ひ之ニ《(筈脱カ)》付夕五時より御越、石見守・俊太郎・凌雲・篤太夫御雇両人シーボルト御供其手続は謁見の節のことく、御迎之馬車罷越し、王宮の入口より正面に二間を御行越し一の広間にて御逢、数々御懇談ニ而御引取此日国王は小礼服ニ而御逢申上る、公子御供之向は平服ニ而御越相成、御越之節は国王次の席迄御迎、御帰し之節は馬車御乗組之処迄御見送申上る、其御接待甚慇懃なりし
夕六時半御滞在中夫是御取扱申上ぬるスヌカール及御附添コロ子ル其外留学生とも御同案之夜餐被下、石見守・俊太郎・凌雲・篤太夫・シ
 - 第1巻 p.548 -ページ画像 
ーボルトと御相伴、石見守外国ミニストル始外役々江御暇之ため可罷越之ところ在宅無之趣ニ付、コロネルを以御挨拶申遣す、夜白耳義国ミニストル罷出、御機嫌を伺ふ、明日同国御越之御程合伺度旨申聞る、石見守面会手続申談し罷帰る


(山高信離手稿)航梯日乗(DK010043k-0003)
第1巻 p.548 ページ画像

(山高信離手稿)航梯日乗 (赤松男爵家所蔵)
○上略 十六日 ○慶応三年八月 第十時半於議政館副統領御面会、第十二時十五分出発ニ而隼人正安芸守太一伊右衛門貞一郎文次郎ハ巴里へ赴く、尤も隼人正ハ各国御附添可申処ナレトモ、安芸守申合御用取扱可申段被仰渡ニ付、御附添不申上、文次郎は通弁之都合ニより是も同様御付添不申上事トなりぬ、公子ニハ第一時十五分御発軔、阿蘭江被為赴、御供ハ石見守俊太郎凌雲篤太夫御附四人也、第五時七分バアル御着、以前のホテルニ御休息、第九時十五分同所御発軔徹夜御乗車
   ○航梯日乗ハ山高岩見守信離ノ欧洲紀行ナリ。コヽニハ栄一ニ就キ記セル所ノミヲ掲ク。以下同シ。


(日比野清作) 各国江公使御巡行御留守中日記(DK010043k-0004)
第1巻 p.548 ページ画像

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