デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

2章 幕府仕官時代
■綱文

第1巻 p.579-596(DK010047k) ページ画像

慶応三年丁卯十一月九日(1867年)

是ヨリ先、徳川昭武一行十月二十四日ヨリ巴里ニ留マルコト十一日、十一月五日昭武ニ随ヒ巴里ヲ発シテ英国ニ向フ。同七日倫敦ニ着シ、八日議院ヲ観ルニ陪ス。是日昭武、英国女王ヴイクトリヤニウインゾル離宮ニ謁ス。尋イデ十日ヨリタイムス新聞社・図書館・大砲製造所・機械製造所・閲兵式・水晶宮・英蘭銀行・軍艦製造所等ヲ観ルニ陪ス。


■資料

航西日記 巻之六・第九―二八丁〔明治六年〕(DK010047k-0001)
第1巻 p.579-585 ページ画像

航西日記 巻之六・第九―二八丁〔明治六年〕
同 ○慶応三年十月 廿四日 西洋十一月十九日 晴。午前十一時。一同来集して。安着を賀す
同廿五日 西洋十一月二十日 晴。午後三時。ビユツトシヨウモンといふ花園を見る。夕五時半。今度到着の本邦の留学生八人来候す
同廿六日 西洋十一月廿一日 晴。此地在留の英国公使交替によつて。新公使来りて名簿を出す
同廿七日 西洋十一月廿二日 晴。無事
同廿八日 西洋十一月廿三日 曇。無事
同廿九日 西洋十一月廿四日 晴。英国巡覧十一月六日と定む
同晦日 西洋十一月廿五日 曇。無事
十一月朔日 西洋十一月廿六日 曇。郵船の便あれハ。各郷信を寄す。英国巡歴従行の人々と。此地に留守の人々を撰定す
同二日 西洋十一月廿七日 曇。英国行の旅装を理《とゝのハ》しむ
同三日 西洋十一月廿八日 曇。行中旅費兌換の事を巴里出店東洋銀行に托す
同四日 西洋十一月廿九日 曇。明後六日即日曜日巴里発途の事を在留の英国公使へ。書翰を以て言遣す
同五日 西洋十二月一日《(マヽ)》 曇。午前十一時馬車に乗旅館《のり》を発し。カールテノヲルより滊車に移《うつり》。此処まてフロリヘラルト」シーベリヨン」カシヨン」コロネル等其余の人々懇篤に送別せり 一行凡て十七人なり。地方次第に。北に移れは寒気も増り。暮六時半フロンギユといへる。仏国北辺の海に沿《したが》ふ地にいたり。旅客の都合に従ひ。此処より船を雇ひ英都倫敦の大橋まて航すことありと云 夜七時カレイ港へ着き。オテルデヅサンといふに投宿せり。英国より此地に在留せる。コンシユル来候す。明日発船の事とも談せり
同七日 西洋十二月二日 曇。午後雪。朝五時英国メジヨールエドワル旅舎に来候し。昨夜より風あしけれハ発船の延引を告る。午前十一時漸静なりとて。馬車にて発し港口まてゆき。郵便の滊船に移れり 此港口の英国飛脚船堅牢なれハ勁風激浪にも堪ゆるといふ風猶烈しく。忽地四望暗黮として船の揺動甚し。須臾にして。凍天雪を噴し甲板上。飛雪と逆浪と相激して。一時に銀山こゝに
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崩るかとあやしまる船中是を視る人稀なり 此日他の航船の破推せし已に五六艘に及べりといふ。其一艘ハ本船の〓行の間。眼前に目撃せしが。檣折れ艫摧けて。物凄き景状なりし 辛うして。同三時英国ドウブル港へ着く。風あしけれハ平常の投錨場に着船なしがたく頓《には》かに最狭《いとせま》き港口《みなと》へ漸く上岸し。少焉《しばらく》して馬車来り。此地セ子ラール。鎮台及コロ子ルなと出迎ひ。市街の入口なる旅舎にしハらく憩ひ。人々郷導して客舎に請し。階上の広間にてセ子ラール鎮台其余の官員我公使の。此地に抵りしを賀せる礼式をなす。其式公使を広間の正面に請し。祝詞を呈す左の如し
  ドーブル港。及ドーブル府の支配人。并紳士等謹而ユウル。ロヤル。ハイ子ス《殿下》。英吉利の地に上陸し給ふを祝賀す。貴国漸次欧洲各国の形勢を了解し。且交を厚ふせんと欲し。此度我国に来臨し給ふハ我等に於ても。総て我国人の為にも大に喜悦する所なり。是我クイン《女王》と東方の盛なる御国との交際を厚ふし。両国貿易益利を生し。且開化世中に弘《ひろま》るべき確証といふへし。我等ユウル。ロヤル。ハイ子スの幸福を祈り。此府中の人々ユウル。ロヤル。ハイ子ス及貴国を尊敬するの意を表す。千八百六十七年第十二月二日トブル府町寄合の印を証として申す。支配人ゼジチアーチワトノキ。書記官。ヱドワルドトノツクルノキ記す
   右祝詞を呈する時ハ。支配人の側に侍者礼式に用ゆる具。数品を捧け。此国在留中附属を命せられしメシヨールヱドワルもまかり出て祝詞を呈す。午後四時。客舎を発し。国王より出せる滊車に乗。暮六時倫敦府へ着く。此節両側に。一中隊歩兵を列し。捧銃奏楽あり 滊車場にハ。盛飾の滊車を備へ郷導せり。此府にある御国の留学生等も一同出迎ひ。暮六時半ブルツクストリイトの客舎へ請せり。此客舎ハ。招請の為に設て。其余滞留中賄方万事。国王より命し置れし由且購雇の士官シーボルトは。旧此国附属の士官なれハ。我公使滞在中ハ同国より命して附属せしむるとなり
同八日 西洋十二月三日 曇。此地季秋より仲春頃まて連日曇天濛霧深く咫尺を弁せず。広閣巨廊又ハ幽窗深室及切要の事務ある市店なと。多くは白昼に@烟《(マヽ)》を点す。寒威も尤澟烈《りんれつ》たり。午前十一時。外国事務執政。ロードルスタンレン来り賀し。明日国王謁見の事を談す。尤懇親の応対ゆへ万事簡易殺等《(マヽ)》なれハ。盛服の装なく陪従も減省せられんを請ひ。且国王当時都外ウエントソールといふ別宮に在るに因て同所に来臨ありたき事ともを談せり。夜七時附属メシヨールヱドワル郷導ありて。議政堂へ参らるゝに陪せり
  陪従八人なり。此議政堂ハ。ダイムス川に瀕《ひん》して広大なる堂なり内議場二ケに分れ。一ハ貴戚の人々議する所。一ハ諸民の議する所なりといふ
恒例議事ハ夜に入つて開くと云。頭取のもの出て所々を前導せり
同九日 西洋十二月四日 曇。午後一時。外国事務執政ロードスタンレン。及メジヨールヱドワル郷導にて。同二時謁見の式あり
  王の馬車三輛を備へて迎ふ。第一車ハ公使。弁全権と英国外国事務執政。シーボルト。第二車ハ伝従歩兵頭。并ヱドワル。第三車ハ侍士三人なり。馬車前駆二騎添ひ。王宮の正門内階下にて下乗せり此時一中隊の兵卒楽手隊等平面に列し。捧銃奏楽あり。夫よ
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り。宮中石階を上り廊下にて暫時休息。程なく奥より士官出て先導し唐戸内に楫し 此内の間を白書院と云 女王の居所に至る。時に女王ハ後ろに女官一人次に士官一人女官一人を従へ。稍《やゝ》進んて謁せらる。公使一礼ありて演説す。側よりシーホルト英語に訳し。是を述。女王も慇懃に答謝あり。次に其女官士官を引接し畢れハ。全権より以下三人一人宛女王に謁し。夫より表書院へ楫し茶果等を供し。陪従一同接伴に連り退出せり
畢りて宮中に羅列せる。古器什物類を観る。又本の席へ復れは。白紙の牒へ直筆の名簿を請ひり。夫より退出して夕五時帰館同夜八時。国王の招待にて劇場を看るに陪す。同十一時帰宿 劇場の模様は各国概ね其体裁を同うすれは。之を略す
同十日 西洋十二月五日 曇。午前十一時。タイムスといふ所の新聞紙局へ郷導ありて之を看るに陪す
  此新聞紙局ハ。欧洲第一の大局にして。其刻板至て精密にして。文体ハ亦簡易なり。一日四十人にて。二時間十四万枚余の紙数を摺出し。毎日諸方へ鬻く。其器械甚巧みにして且弁利なり。午後一時半戎器を貯る所を見る。何れも古代の。刀槍銃砲其余珍奇の古器物等あり。此内方今所用のシナイドルといふ。新発明の銃七万挺を蔵す。又騎馬武者の木偶あり。是ハ此国初代王より。歴代の王の戎服の肖像なりといへり
帰路。銃砲製造所にて刀剣鍛錬の仕方等を視る。夕五時半帰宿す
同十一日 西洋十二月六日 曇。郊外ウーリツチといふ所にて大砲製造。器械及製作の体を視る。朝十時滊車に乗テイムスといふ都府間にある河の橋を越。同十一時ウーリツチへ抵り 此節一中隊余の歩兵半側に列し。捧銃ありて。同所セネラール二人。及附属士官数員出迎ふ 夫より馬車にて屯所前にいたる。此所にハ黒き戎服の兵隊。一中隊士官等も出て前に同し 其所を過て調練場に至る。各隊の砲兵陣列し。調兵の支度せし場所を一巡し。其傍に設たる。巨大のテントの如く作りたる陣屋へ入。其屋中に貯置大砲車台弾丸。軍艦。砲台築立の具。浮梁。仮橋。其余種々の攻守の器械旧製或新発明の品を精密に模造したる雛形図式を見。又調練場へ至りセ子ラールクートの宰轄せる。大隊旗の本にて此日の調兵を一覧す。此兵は騎砲とて大砲に騎兵を并たるなり。隊二坐
  野戦砲。毎坐六門。一門の砲に騎兵を添ふ外に大砲を駕せる馬六匹を聯駕し。其馬に砲兵三人を乗す。七騎の兵ハ。大砲の前に並立せり。砲の後ハ弾薬車一輛に四馬を駕し。砲兵二人其馬に乗り攻撃の時ハ。前の騎兵にて駈催《くさい》し。忽ち馬より下りて発砲し。又馬に乗り引退く。騎兵。砲門。弾薬車とも。総て一馳駈する。其進退坐作の迅速。挙止変化の自在。掌に運がごとし
次に砲兵一坐。砲六門 其次巨砲四門。二砲宛二坐 此方の大隊旗の本に至るを合図に各隊起りて。行軍式をなせり。大隊旗下に至る毎に士官各剣を立て礼し。回旋して三度に及べり
  但始ハ徐歩。次ハ疾歩終ハ急歩なり。いつれも規矩整斉。馬首車輪の位置。寸分も差錯なし
行軍三次にして。前に列せる騎砲兵。二坐ハ調兵場に止り其余ハ徐歩して各陣営に退く。其止りたる二坐の騎砲兵ハ。各隊に分離して。発砲挙動あり。此挙動。迅速にして。規則正しく。且馬車運用の坐作。頗る精妙なり 発砲せる凢半時。種々攻
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撃の挙動をなし畢て。陣営に就く。其より屯所を視。兵隊士官を教育の。学校。築造。地理。舎密。算量所。其外諸学科。及休日遊息所を設。器械を備へて。遊戯に用ゆる細工物の。製作所。運動術。の稽古所。兵隊の催せる劇場なとあり。此屯所を見了《おハ》る頃屯所の前にて太子の弟。出て一礼あり
  此弟王ハ十五六才なるが。勤学の為。兵隊に加り此地に寄宿勤学中のよし。勤学中ハ衣服諸賄とも。惣て其学科に因て。次第差等を定め。平士率と同しく勉励す。王弟といへとも貴戚を挟《はさみ》て規則を犯すこと。能はすといふ
  一覧畢りて。屯所の食盤所にて午飯す
  此食盤場ハ。調兵の時。ゼ子ラール始め貴官の人食事の為に設く上下倶に同盤せり
其より大砲製造所にいたり。巻張の巨砲製造の法乃弾丸鋳立。小銃の鉛丸製方。其外大砲附属の器械。製作等を見。又大砲車台。製造所に至り。其製作を視る
  車台の材ハ。樫槻の如き堅質の材なれとも。器械仕組鋸にて。挽割るに其軽易鋏《はさみ》もて。紙布を裁か如し。頃刻にして数十の車輪其他の具を製し出せり
又大砲製造所に至り。破裂丸。実弾にて。鉄船《ストンボウル》を破摧する弾。旧砲の巨丸等。種々新発明の精製を視《みる》。夕四時半帰宿す。夜五時半。御国の留学生世話役ロエートの招待ありて。夜影画の伎を看る。同九時頃帰る 影画ハ本邦のものに異らす 此夜九時半過ヘールマゼスチイスヤートルといふ劇場に失火あり
同十二日 西洋十二月七日 曇。朝十時半。典籍貯所を見に陪す
同十三日 西洋十二月八日 雪。午後一時。キリストルパレイスといふ。硝器にて作り立たる。巨屋を見るに陪す。滊車に乗。行程凡一時程なり
  此キリストルパレイスは。都府郊外にて。先年此地にて催せし博覧会の跡地なりしが。其後種々修飾して。士民遊覧の場とハなしたり。其楼台ハ鉄の柱にて。家根ハ硝子にて葺立。其中に各国古代の宮殿の模様。其他古器物を陳羅し。入口ハ㝡長き階廓にて。処々曲折して登る。品物展観の場ハ広き板間にて。其側に巨大なる集楽場あり。音頭の者坐を中央に設け。其前後左右は大なる磴道の如くにて。向高に机席を設け。会日にハ五千人余を集め。一時に奏楽すといふ。其広き板間の正面ハ。階梯にて下り庭の前に出る。此庭遊歩の為めに。設けたるにて奇草佳木を栽え。処々に噴水あり。各所に床机を備へ縦覧せしむ。尤園中曠茫として高低曲折。或危石を立。飛泉を挂け。流に沿て石梁を架す。林逕を逡巡すれは。一の池上に到る池中の小島に孤岩突兀として。其側に猛獣悪魚の形を摸造し皆岩に負《より》て蟠屈す。都て日暮しの奇観といふへし
同十四日 西洋十二月九日 曇。朝九時半。スリウスベリ子スといふ所にて。大砲の町打を観る。先砲兵の陣営より。築城。台場。等の地図なと一覧し発砲の手前其外車台の俄に損せし時に応し。繕方手続の調練を視る。
  此手前ハ。士官と兵卒と打交ての調練なり。其士官ハコロ子ルよ
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りカビテインまて総て。期限一年許の交代にて。兵卒に加運動手前《くハヽり》をなすと云
夫より海岸へ到り大砲の打方を視る
  此打方ハ。海岸に挂け並へたる。六十斤程の筒にて。破烈丸を発せり。的ハ海中に幟と石とにて遠近処々に設置。満潮にハ隠れて見えされハ乾潮を俟て試発す。此地ハ遠浅にて乾潮にハ。英里法八里程引と云 的場ハ各所に布置し。近きハ四五百間余。遠きハ二里程もありぬへし的の形方にして〓《(マヽ)》のことく。尤堅牢なりといふ。此日遠近とも。六ケの的に発せしが。何れも格別の差《たかい》なく。其的の辺りへ至れり。又櫓仕掛にて。望遠鏡台の如く。其上長二間許なる半截せしボンベン筒を備へ置。火箭を発す。此ハ長き椎の実にして。其箭を載せて火を注《つく》る尤猛烈。其中る者ハ。堅牢鉄艦といへとも。必焚毀破摧《ふんきはさい》せざるなしといふ
又一ケの砲試場に至り。種々の弾丸 弾丸の手本種々の形有 を貯ふ所を見。再ひ海岸に至り三百斤の大砲を発す
  此弾丸ハ。鋼鉄にて敵船を突裂するに用ゆるなり。其的二十丁余なるか発せしより。七八丁程前にて弾丸破裂し。其勢ひ弥増して鋭利巨鏃《ゑいりこそく》の如き弾丸の尖先にて。鉄船を突摧《とつさい》《ツキクズス》せるものなり
又鉄板にて。製する台場の雛形。及鉄板を打抜く術を視る
  此鉄台場ハ。一ケの雛形なりしが。其内面ハ石にて築立。厚さ凡三尺許なり。内外面とも厚さ四寸余の精鉄にて包み立たり。鉄板を打抜しハ。鉄船を突摧するための試にして。厚さ七八寸許の鉄板に。一尺許の樫木を畳み。是を鉄板の扣木とし。其樫木ハ太き鉄縄を幾度も索《なへ》て重ねたるにて。引通し締付《しめ》たるものなり。其砲ハ六十斤許にて。十丁余の距離にて。鋼鉄弾を以て試みしが。其鉄板を貫きたりしを見るに。恰も網羅のことく。内面の材ハ惣て摧破して全《まつたき》を見す其外六寸。四寸許。なる鉄板を試しも。多かりしがいつれも摧破せり。又別に発明して製せる。鉄板一枚僅に貫く能ハさるものありとて。本国所領のマルタ島へ。此度精鉄の炮台を制する其練鉄の法を用ゆといふ
同十五日 西洋十二月十日 曇。朝十時半。バンクオフヱンゲランドといふ。政府の両替局。并ひに金銀貨幣拭改の場。及貯所。地金積置場。紙幣製作所等を視る
  場所広大にて。製作の方頗る簡易軽便。且厳粛なり。金銀の貯蓄せる宛も阜坵《ふきう》の如く。小鉄車にて。地金を運搬し造幣局ハ。地金の鎔陶より板金の製法。及円形圧裁する器械。幣面の摸様を印出する方。輪縁の鐫刻より。造作せし貨幣の分量権衡の検査等。又紙幣の製造。究て精緻にて。方法も亦厳密なり。総て順次に局を分ち其器械を陳列し。細大至らさる所なし。是等を見ても国の富庶なる推知すべし
同十六日 西洋十二月十一日 晴。午前十一時。ポルツムウスといふ地にて。軍艦蓄所。其余海軍器械を視るに陪す。滊車にて。午後一時。本地ホテルビイールと云に投宿す
  滊車場に兵卒等捧銃立剣奏楽ありて。馬車の後には。赤戎服の騎
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兵二騎従へり。在勤のアトミラールセ子ラール。其他士官数員礼服にて迎送せり。又二ケの勤番所ありて歩卒を備へ。海岸にて祝砲あり。薄暮雲収り。客舎海岸沿ひ。草筵中の孤屋にて眺望尤佳なり
同十七日 西洋十二月十二日 晴。午前十時郷導ありて。城門内に入る。門内の市街を過き。港口に至りて。戦争の時。士官兵卒を運漕せるセラゼスといふ巨艦を視る
  此艦ハ。尋常の郵船に同して。稍大なり。士官の部屋ハ至て美麗なり。乗組千六百人を運漕し。蒸気七百馬力。一時間英里法十四里を駛と云
又近来発明にて。元来巨船の航海に不便なる船を。中截し蒸気を改更したるを視る
  是ハ精鉄にて五ケの円形の砲門を備へ。其砲門の厚さ一尺余の鉄板の内部ハ。堅材の一尺八寸許を畳みあけ。発砲の時ハ其砲門を器械にて廻らし。巨砲の巣口を出して発す。毎砲三百斤宛也と云。船の縁ハ総て鉄にて釣塀のことくに為し置事あれハ船縁を釣卸し水面僅数尺許になし。敵より狙撃なし難き様にして敵船に近寄れハ。実弾を以て。敵船を摧破するに便す。此船ハ都て軍艦の傍側。又ハ砲台の近辺。咽喉要枢に備え。進攻せる敵艦を。狙撃するを要すといふ
又巨艦二艘にて。大礮点発の手続。及小銃隊の運動。并に巨砲の的打を視る
  此二艘矴泊せし。舳舮相接せし際《あハひ》に。釣橋を架《わた》し。各艦を往来して。視る者に便す。的打ハ千八百ヤルトの 一ヤルトハ我三尺弱に当り千八百ヤルトハ即九百間にて十五丁なり 距離せる海中に向け。板に黒丸を点したる標的を立。初度ハ実丸にて一発宛八次。再度ハ破裂丸四発宛連発せり。大砲調練小銃の運転及的打の法。尤整粛にて勁捷なり。連発の丸多く。其的を外れす。破裂丸ハ毎弾寸分の差なく水際に至りて破裂せり
右て畢帰陸す。夫より広大のドツク。并に軍艦製所に往て。附属鉄板蒸気。其他種々器械の製を視る。夜七時セ子ラールヒレーの在留せる陸軍所にて夜餐の饗あり
同十八日 西洋十二月十三日 曇。朝七時半。ホルツムウスを発し。兵卒等の礼式到着の時の如し 滊車にて。同十時半グートといふ地にて馬車に移り。オルトルジヨツクトといふ所にて。三兵の大調練。并戦具器械を観るに陪す グートより調練場まて。二里程の間迎候の赤隊の騎兵。二隊にて先導す
  此日。調練の三兵ハ。戦隊に作りて一斉に並立し。当方。調兵場に抵ると。忽地環旋し竪剣の礼ありて。行軍式をなし。初隊大砲一坐 一坐六門。騎兵四十。騎但一坐一列なり 次隊撒兵一中隊 八十人。歩兵九中隊 八十人宛。次騎兵十二小隊 六小隊宛。二種何れも赤服にて。金飾の兜を戴き。一種ハ兜の総赤く。一種ハ黄なり。毎隊十二騎宛なり 次大砲三坐 一坐六門一門二十余斤。次土坑兵一中隊 八十人 次歩兵九小隊 八十人宛。次輜重一隊 車二十輛。一車六馬を駕し。別に予備車。八輛を附属す 次二の輜重 車十六輛一車に四馬を駕し別に予備車四輛を添前の。一隊ハ多く浮橋。釣橋。又ハ険阻なる所に架して。躋踄する為の具を載する次の一隊ハ。糧食。陣営の具。攻撃の器械。及病傷兵の養生具等を備へたり 其行軍。各隊竪隊に作り。環旋し一隊一列にて相隔て。二隊の楽手各添て奏せり 但一隊ハ歩兵隊へ。一隊ハ騎兵隊へ添へ。歩兵の行軍ハ。歩楽手。騎兵ハ騎楽手にて奏せり
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徐歩の行軍一巡畢て。再ひ環回して稍々急歩し。又環回して疾歩す。疾歩ハ騎兵砲兵のみにて。馬ハガロといふ至て駿足なり。尤整斉一列一歩の差なし 行軍畢て。砲兵発砲せり。其発声畢る頃。後ろに屯せる騎兵進撃し。騎兵敵陣を駆崩し引退く。歩兵進みて一斉に発砲せり。夫より攻進襲撃の挙動転変し再ひ。三兵を合して。三列となし各戦隊に作り。砲騎歩と順次をもて。総掛の挙動。各隊連発の術をなし畢て。各隊分離し。特角に方陣を作り。砲銃交発して終る
又調練場側の広サ十間許の小川に彼の運輸し来る浮梁の器械を。其士官指令して車より卸し。暫時に浮橋を造れり
  此浮梁幅六尺許。長二間余の薄き鉄板にて。丸き浮嚢を作りたるを水上に浮め。上下に縄を附。其浮嚢に二寸角許の細木を多く架し。尤川幅に随ひて。其嚢を増し最初架せし所に。兵卒六人を載せて突出し。続て前岸に達せしむ。夫より。細木の上に厚一寸五分幅八寸余の板木を並へ。忽地幅一間半許の橋を造り出せり。其板を並べ畢りて。浮橋の両縁ハ。細き木に縄の附きたるものにて板と細木とを結合せ。動揺摧破の患なからしむ。橋梁成て。一隊の騎兵を渡す。何程広き河にても是を増架すれハ。容易に。渡るを得るといふ。其軽便簡易感ずべし
又兵隊の屯所を見る
  調練場の七八町右の方ハ。総て兵隊の屯所にて。三兵とも屯集して。日課をもて調練を為す。其屯所の製作二階のなき長屋を幾棟も。連築し各アベセにて。其屯所の牌号を定め置。尤士官の屯せるハ。稍々大にして二階又は三階なりいつれも妻孥あるものハ。同居すといふ
午後二時。屯所中にある。ゼ子ラール官舎にて午飯し。再ひグートに抵り滊車にて。夕五時倫敦に帰着す
同十九日 西洋十二月十四日 雨。朝十時ヱトワル郷導して都府中を流る。巨川テイムスより滊船にて川口に在る。鉄艦製造の器械を視るに陪す
同二十日 西洋十二月十五日 曇。無事


渋沢栄一 御用日記(DK010047k-0002)
第1巻 p.585-586 ページ画像

渋沢栄一御用日記
 十月 ○慶応三年 廿四日 晴 火       十一月十九日
第十一時半御帰館、御祝として向山隼人正始御迎之者御供之者共御同案之午餐被下、御附添コロ子ル教師共罷出る、第一時御案着《(安カ)》、御祝としてフロリヘラルト罷出、御機嫌を伺ふ
 十月廿五日 晴 水              十一月十九日《(二十日カ)》
御土産御残置之分取調之ため石見守・篤太夫外国方旅宿江罷越、第三時ビユツトシヨウモンといふ花園御遊覧、夕五時半御帰館、コロ子ル高松凌雲御雇両人御供
夜五時半此度到着セシ留学生徒八人御目見被仰出、夜餐被下、取締栗本貞次郎召連罷出る
昨夜江戸表より御送相成し御服類到着、今朝開緘御品取調分いたす
 十月廿六日 晴 木              十一月廿一日
巴里在留之英国公使交代に付新任之者より名札差出す、御旅館御人費凡
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積篤太夫よりコンマンターレ江申談ス
 十月廿七日 晴 金              十一月廿二日
朝十時隼人正石見守英国公使館江罷越、同国御越之儀引合、意太里公使館江罷越、御巡国中彼是取扱ありし挨拶申入る
 十月廿八日 曇 土              十一月廿三日
午後御旅館御入用之儀ニ付、日比野清作罷出る、夜石見守篤太夫外国局旅宿罷越す、御巡国御入費御旅館御入用迂及是迄御遣払之仕分方申談す
 十月廿九日 晴 日              十一月廿四日
英国御越之儀来十一月五日則土曜日巴里御発と御治定相成
御附添之者一同御手当類来十二月分迄内借相済
 十月卅日 曇 月               十一月廿五日
俊太郎・篤太夫御買上ニ付罷越す、馬車壱輛十一月限ニ而御断之積、篤太夫よりコンマンタントに申達す
 十一月朔 曇 火               十一月廿六日
御国行用状差立る、京都行江戸行とも封入
御直書封入差出す、英国御供御旅館御留守之者共石見守より口達申渡す
 十一月二日 曇 水              十一月廿七日
篤太夫外国局塩島浅吉御旅館御置附以後御贈品に可相成御品改突合せ調分いたす
御旅館御入費凡積コンマンタントより差出候に付、翻訳之上御入用積いたす、江戸表より御取寄品京地より御持越之品調分いたす
 十一月三日 木                十一月廿八日
高松凌雲英国御用済之上は願之通外宿可致旨、石見守より申遣す、同人是迄罷在候部屋山内文次郎引移之積申達す、英国御越明後五日と御治定、尤カレイより同国軍艦ニ而迎申上、御滞留中は御旅館其外毎事英政府おゐて御取扱申上る旨ミニストルより申上る、篤太夫東洋バンク江罷越仏貨英貨に為替いたす、御入用之儀に付日比野清作御旅館江罷出る、馬車御減に付ワレイデビイ御減之儀篤太夫よりコンマンタント申談す御留守中右夫婦之者御暇之積申談置
 十一月四日 曇 金                十一月廿九日
山内文次郎御旅館為引移に付、是迄御夫罷在候部屋取繕ひ篤太夫引移り、篤太夫跡木村宗三、宗三跡江文次郎引越之積、篤太夫よりコンマンタン江申談す
英国行之儀五日御出立之積之処、其六日日曜日ニ而先方御着御不都合可有之に付、六日巴里御発之旨英公使館江申遣す、同国留学生之者へも電信に而其段申遣す
 十一月五日 曇 土                十一月卅日
御出発御理装 記事なし
 十一月六日 曇 日                十二月一日
朝十一時半御旅館御発し、尤御陪従之者御見立之者其半時前相発し、カールデノヲルより滊車御乗組、夕七時十分カレイ港御着


渋沢栄一 英国御巡行日誌(DK010047k-0003)
第1巻 p.586-594 ページ画像

渋沢栄一 英国御巡行日誌
 - 第1巻 p.587 -ページ画像 
 慶応三年丁卯十一月六日 晴 日         十二月一日
此日英国御越之積兼而御手筈相成ぬれは、第十一時半御旅館を御発し、馬車に而カールジユノヲルといふ滊車場御越、十二時発軔之滊車御乗組 御陪従之者御見立之者共多人数なれはとて十一時より御先に汽車場罷越す、フロリヘラルト」シベリヨン」カシヨン」御附添コロ子ル等御見立申上る
公子英国御越之儀は仏国博覧会之挙被為済候上は各国御巡行之御手初に可被成御手筈之ところ、当時同国之女王外出之旨巴里在留公使より被申越、且同国のため他邦御巡行に御不都合有之候而は女王にも不本意之至に付便宜次第可申越旨をも申立ありしかは、玆に其期よろしく御招請申上度女王より被申越れし旨在留公使より申立、則此日御出発と相成
              英国御巡行御附添人数名面
                   向山隼人正
                   山高石見守
                   保科俊太郎
                   三田伊右衛門
                   高松凌雲
                   箕作貞一郎
                   渋沢篤太夫
                   菊地平八郎
                   井坂泉太郎
                   加治権三郎
                   三輪端蔵
                   シーホルト
                隼人正従者壱人
                石見守従者壱人
                小遣
                   綱吉
                   アンリイ
                都合一行拾七人となりぬ
此日は空曇り風寒く滊車中も寂寥なり、地勢追々北移しぬれは夜に入ては寒威甚し、夜六時半ブロンギユといふ仏国北辺の海に接せし地、御着 平常の旅人は此地より船を雇ひ英都倫敦府の大橋迄航すといふ
夜七時十分カレイ御着、オテルデデツサンといふ客舎御投館、折節英国より在留せるコンシユール罷出、御機嫌を伺ふ、明日御航海之手続及蒸気船用意いたし有之旨申上る
 十一月七日 曇午後雪寒甚 月         十二月二日
朝英国より罷越したるメジヨールヱトワル罷出る、昨夜より風強く殊に逆風なれは御航海無覚束旨申上る、十一時頃風少しく静なるとて再御出帆之儀申立、十二時午飯相済馬車に而客舎を御発し、北辺の港口ニ而御乗組 御船は英政府より差出せし飛脚船ニ而巨大ならされとも堅牢にて怒濤激浪に航する船なりといふ 御乗船直に御出帆のところ風尚烈しく、港口より白浪空を掀ゆるはかりにて、剰煙霧濛朧として四望弁せす、逆浪の激せし時は船中天に騰奔し九地に没入するを覚ゆ、この〓行は暫時なれとも船の動揺はけしきこと兼而聴伝ありぬれは、公子を奉始一同船室に潜居せしか、船洋中に出し頃は海疾に苦さる人は十に一二なりし、されとも公子は御厭もなく折々甲板上ニ而御歩行、或は洋中に難破せし船ありと船将申上れハ、しはし御覧抔被成しか、終には少しく御船気ニ而一同とひとしく御寝に附かれし第二時頃より風雪つよく甲板上は逆浪の打上けし潮と積雪とにて物すこき風情なりしと覚しか、見し人は稀なり 此日同しく航海せし飛脚船多く難破して困苦せしといふ、御航海中二艘程難船ありしか、いつれも檣折れ楫摧け、乗組の有無は弁ねとも哀れなる有様なりし 第三時英国ドウブル港御着 此日御着は平
 - 第1巻 p.588 -ページ画像 
常投錨之場処に着岸なしかたく途を替て着船せしといふ いと狭隘なる港口より御上陸、御迎之馬車来り居たれハ、御乗組、直に市中の入口なる客舎にて暫時御休息、御上陸場迄本地ゼ子ラール市中鎮台及コロ子ル抔罷出御出迎客舎江御案内申上、御茶カツへー抔被召上 上陸後は海疾稍癒ゆれとも最前の苦悩烈しけれは余疫と寒威とにて快然の人は稀なりし 此日客舎の入口なる広間にてゼ子ラール鎮台其外共公子御渡英の辱きを謝し、其平寧を祝する礼式をなす、一同礼服ニ而罷出、広間の正面に公子を請して、左の祝詞を呈す
   日本公子ヒスロヤルハイ子ス民部大輔殿下江申す
ドブル港及ドブル府之支配人並紳士等謹而 ユウルロヤルハイ子ス英吉利の地に上陸し給ふたるを祝賀す ユウルロヤルハイ子スの貴国漸欧洲各国の形勢を了解し、且交を厚ふせんと欲するに付、此度盛大なる日本君主の親弟我国に来臨し給ふは我等於も総而我国人の為にも大に喜悦する処なり、又ユウルロヤルハイ子スの我国を尋問し給ふは我貴きクイーンと東方の盛大なる君主との交際を厚ふし、両国の貿易益利益を生し、且開化世中に弘まるへき確証といふへし、我等 ユウルロヤルハイ子スの幸福を祈り、此府中の人々ユウルロヤルハイ子ス及貴家を尊敬するの意を表す
   千八百六十七年第十二月二日
     ドブル府町寄合の印を証として申す
                 支配人
                  ゼジチアーチワード手記
                 書記官
                  ヱドワルドノツクル手記
右祝詞を呈する節は支配人頭の側に侍者礼式に用ゆる具数品を捧げたり、英国御滞在中御附添を命せられしメシヨールヱドワルも罷出て祝詞を呈す、御着岸の節は二十一発の祝砲あり、礼式終て第四時客舎御発し、滊車場より国王より出せる滊車御乗組、夜六時倫敦府御着 此日の滊車は別に公子の為に設けしにて馳行尤駿速なり、滊車御乗組の節道の両縁に一中隊の歩兵相列し捧銃の礼を為し楽手奏楽せり 倫敦の滊車場には為御迎礼車数輛を出して御案内申上る、御国留学生川路太郎・中村敬輔其他生徒一同御出迎申上る、夜六時半ブルツクストリイト英国政府ニ而相設置きし客舎御投館 兼而国王より御招請之積ニ而客舎は政府より相設け、御滞在中御賄向万端申上る旨御附添之者申上る、且御雇士官シーボルト儀元英国に附属之士官なれは御滞在中は同国より御附添申付旨申聞る
 十一月八日 曇 火              十二月三日
本地は地位北移しぬれは秋後より寒気強く、殊に連日霧深く快晴の日なし、朝より霧深く咫尺弁せす、寒威も尤澟烈なり、第十一時外国事務書記官ハモンド罷出て御機嫌を伺ふ、第二時第一等外国事務執政ロードスタンレン罷出御安着を祝す、明八日国王御逢之旨申立る、尤御懇親之御逢ニ付、御平服ニ而御越相願度、且御陪従人数御減し有之度国王は当時倫敦都外なるウエントリールの別宮に在之旨、其外手続申上罷帰る、夜川路太郎・中村敬輔・ロヱード罷出る夜七時御附添メジヨールヱドワル御案内、本地の議政堂御越、隼人正・石見守・俊太郎凌雲・篤太夫御附両人御供川路太郎も同様御供被仰付、議政堂はタイムスの川に瀕して広大なる堂宇なり、議事場二ケ処ニ分れ其一は貴戚
 - 第1巻 p.589 -ページ画像 
の向、其一は諸氏の決議する処也、恒例議事は夜に入て開くといふ、御越之節は議事最中なりし、同所頭取之者罷出て諸方御案内申上る
 十一月九日 曇 水              十二月四日
此日国王御逢之積ニ付、午後御支度、外国事務執政ロードスタンレン及メジヨールヱドワル御案内、隼人正・石見守・俊太郎・伊右衛門御雇両人シーボルト御供、第二時客車御発し、本地の滊車場より滊車御乗組、第三時別宮御着、滊車場江礼車御乗組、夫より御逢之式有之 此日之式は別に記裁《(載カ)》したれはこゝに略す 御逢済夜六時御帰館、夜八時御招待ニ付本地の劇場御越、隼人正・石見守・俊太郎・伊右衛門・凌雲御雇両人御供、夜十一時御帰館、箕作貞一郎・渋沢篤太夫本地バンク罷越、御用意金為替請取、川路太郎同道いたす
第一等ミニストルロードテルジイ、第二等エジヨト罷出て御機嫌を伺ふ
 十一月十日 曇 木              十二月五日
此日調兵御覧に入る旨昨日御附添之者申上しか、天気あしく調兵なしかたしとて、第十一時よりタイムスといふ巨大なる新聞紙局江御案内申上る、隼人正・石見守・俊太郎・貞一郎・篤太夫御雇両人御供いたす 本地の新聞局は欧洲に有名なる巨大の局なり、其刮字板摺出し之製作尤精巧簡易なり一日四十人の工人ニ而二時間十四万枚余の紙数を摺出し、毎日諸方に鬻く、其器械頗る緻密ニ而精妙を尽せり 第十二時御帰館、午餐後第一時半頃より本地武器貯所御越、隼人正・石見守・俊太郎・伊右衛門・凌雲・貞一郎・篤太夫御雇両人御供、古代の武器、刀・槍・銃砲逐一御歴覧、其余種々奇古物御覧相成 御覧ありし中に当節所用之銃シナイトルといふ新発明の銃、一箇の貯所に七万挺を蔵置といふ、其外古代の珍品夥しく陳羅せり、別に騎馬武者の人形あり、当国初代の王より歴代の肖像戎服の儘真形せしなりといふ 御帰路鉄砲師御立寄、新製之銃御一覧、刀剣鍛錬の仕方御覧、五時半御帰館、夜川路太郎罷出る、此日国王・太子及妃其外江御送品取調、目録相添御附添士官江引渡す
大君御写真公子御写真各一枚を并て国王江御贈相成
 十一月十一日 曇 細雨 金          十二月六日
此日は倫敦郊外之ウーリツヂといふ地ニ而大砲製造器械及製作の仕方砲兵の調練を御覧に入るとて朝十時より御発し、御附添ヱトワル御案内隼人正・石見守・俊太郎・伊右衛門・貞一郎・篤太夫御雇両人シーホルト御供、チヱーリングクロスといふ滊車場ニ而滊車御乗組、テイムスといふ都府を中裁せる洪河の橋上を滊車ニ而御渡、十一時頃ウーリツヂ御着、本地の滊車場御着之節一中隊余の歩兵半面に正列して捧銃の礼を為せり、為御出迎同所セ子ラール両人及附属士官数多罷出、馬車御乗組ニ而屯所の前に至る セ子ラール其外騎馬に而御案内申上る、外に騎兵二隊御車の前後より御警衛申上る、諸方御巡覧之節も同様警衛申上る 屯所の前には黒き戎服の兵隊一中隊、赤き戎衣之歩兵隊一中隊計一列に並立して捧銃の礼をなし、士官は手に持し剣を竪て敬礼を為せり、屯所の前を御通過ニ而調兵場御越のところ調兵場には組々の砲兵各処に陣列して調兵の用意せり、調兵場の前を御一周ニ而其傍に設置ぬる一の巨大なるテントのことく作りたる陣屋に御入り、貯蓄し置る大砲車台弾丸軍艦砲台築造之具浮橋仮橋其外種々攻守に用ゆる武器旧来之古典より新発明之品迄精密に模造しある雛形を御巡覧再ひ調兵場御越ニ而本日のゼ子ラールルウードの宰せる大隊旗之本ニ而運動御覧、此日の砲兵は騎砲兵とて大砲に騎兵を并せたる隊二座 野戦砲毎座六門一
 - 第1巻 p.590 -ページ画像 
門の砲に騎兵七騎を添ふ、外に大砲の駕せる馬六疋を聯駕し、其駕せし馬に砲兵三人を乗たり、七騎の騎兵は大砲の前に並立せり、砲の跡は弾薬車壱輛に四馬を駕し二人の砲兵駕せし馬に乗りたり、攻撃之節は前の騎兵は駈催し、忽ち馬より下りて発砲し、又馬に乗り引退く、騎兵砲門弾薬車とも総而一斉に駆馳し、其進退座作の駿速なる挙動の簡易静粛なる人の四足を使ふことし 其次に砲兵一座 砲六門 其次は稍大なる砲四門にて、二座なり、公子の大隊旗の本に御着あるとひとしく、各隊に指令し笠隊《(竪)》に作りて行軍の式を為せり、其行軍大隊旗の前に至ると士官各剣を竪て、礼を為し環旋して三度に及へり、初度は徐歩次は少し疾く、終は急歩なり、いつれも規矩正粛にて馬首車輪の位地寸分の齟齬なし 行軍三次にして前に列せる騎砲兵二座は調兵場に止り其余は徐歩して陣営に退けり、其止まりたる二座の騎砲兵は各隊に分離して発砲の挙動をなせり 其挙動迅速にして規矩正しく馬車運用の坐作頗る精妙を究たり 発砲凡半時間種々攻撃の挙動をなし、其技終て陣営に退けり、夫より屯所御越ニ而兵隊士官を教育せる学校築造地理精舎算量其外諸学科及休日之ため遊見所を設置、器械を備置て遊戯に用ゆる細工物の製作所兵隊ニ而催せる劇場抔逐一御歴覧、屯所の側なる食盤の間に御越、御昼食 此食盤場は調兵の節セ子ラール始貴官之向食事する為なりといふ、此日御案内之者御供之者一同御同案 午飯前、屯所之前ニ而太子之弟御逢有之 太子之弟は十五六才なりしか、勤学のため兵隊に加り本地に寄宿す、其勤学中は其衣服諸賄とも惣而其学科に因て等を定め貴戚を以て其則を換ゆる能わすといふ 午飯後一同御案内申上、大砲製造所御越、巻鉄の巨砲製造之法及弾丸鋳立小銃の鉛丸製方其外大砲に用ゆる器械製作逐一御歴覧、夫より大砲車台を製する場所御一覧 車台の材は樫槻の如き材に而器械に仕掛し鋸もてこれを挽裂く、其易きこと鋏にて紙布を裁することし、頃刻にして数十の車輪及其他の具を製し出す 御一覧後再ひ大砲弾丸の製造所御越、破裂丸及実丸ニ而鉄船を破摧する弾旧砲の巨丸様々新発明之精製御覧、第四時半頃御覧済馬車御乗組ニ而滊車場御越、夕五時過御帰館
先に汽車場御着之節二十一発の祝砲を発せしか、其期早く御聴取なしとて御昼食済之節再二十一発の祝砲を為せり、御案内之者は終日騎馬にて諸方を駈廻り御供せり
夜五時半、御国留学生世話役ロヱート御招請申上ニ付、隼人正・石見守・俊太郎・伊右衛門御雇両人御供ニ而御越、留学生取締川路太郎・中村敬輔も罷出御餐応申上、夜影画之技御覧に入る、九時過御帰館夜九時半過ヘールマセスチースヤートルといふ劇場より焼失二時間計ニ而鎮火
 十一月十二日 曇微雪 土            十二月七日
朝十時半より典籍貯所御一覧、石見守御雇両人シーホルト御供、十一時半御帰館、第二時外国事務執政御訊問、隼人正・石見守・三田伊右衛門御雇両人御供シーホルトエトワル御案内、国事執政御訊海軍会議所御立寄、第三時半御帰館、第三時頃巴里より御用状来る、御国御用状封入有之
上様より公子江御直書封入有之、室賀伊予守より石見守江御用状差越す、夜十時博覧会御用向ニ付外国方塩鳥浅吉商人卯三郎召連罷越す
 十一月十三日 雪 日             十二月八日
第一時キリストルパレイスといふ硝器ニ而作立たる巨屋御覧に入るとて、エドワル御案内、石見守・俊太郎・凌雲御雇両人シーボルト御供にて御越 キリストルパレイスは都府郊外ニ而先年本地に而催せし博物会の跡なりしか其後種々修飾して土民の遊覧場になし置ぬ、其楼屋は鉄の柱にて屋根は硝器にて葺立、其中に各国古代の宮殿の模様其他奇古の品を陳羅したり、入口はいと長き階廊にて、処々に曲折してこれを登る、品物展観之場は広き板間にて其側に巨大なる集楽場あり、音頭之者の座を中央に設け、其前後左右大なる磴道のことく、向高に机席を設たり、会日には五千人を集め一時に奏楽すといふ、其広き板間の正面は階子ニ而これを下りて庭前に出る、其庭は遊歩の為に設けたる苑園にして、奇草佳木を植並へ処々に噴水あり、遊見する人の為には各処に机床を備へたり、苑囿広大にして高低あり、曲折あり、或は危巌に添ふて泉を灑き、流に随て石橋を架せり、尤壮麗を尽せり、其庭前を下りて園林を繞り、一の池上に至る、其池の中央に突兀せし危巌あり、其側には奇虫・怪介猛獣・悪魚の類を模造し、巌に添えて蟠屈せり 御一覧済、第四時半御帰館
 - 第1巻 p.591 -ページ画像 
 十一月十四日 曇 月             十二月九日
此日スリウスベクー子スといふ地ニ而大砲の遠打御覧に入るとて、御附添のエドワル御案内、隼人正以下一同御供、朝九時半御発、馬車ニ而本地の滊車場御越、滊車御乗組、第十一時半同所御着 御着の節砲岸にて二十一発の祝砲を発せり 砲兵の屯集せる陣営に御案内、築城台場等の地図御一覧、夫より大砲貯所に而発砲の手前及車台の損せし時取繕ひの調練御一覧 此手前は士官と兵卒と打交りて、其士官はコロネルよりカビテイン迄なり、総而各士官期限をもて壱年程交代ニ而兵卒に加わり運動手前を為すといふ 御一覧後屯所中の食盤場ニ而午餐 御陪従之者御案内之者とも一同御同案ニ而午餐 夫より海岸に御越 此地は海岸遠浅ニ而乾潮之節ハ英里法八里程引潮すといふ 大砲の打方御一覧 丁打之仕方海岸に掛並へたる六十斤程の筒に破裂丸を込て発砲せり的は海中に在りて、鉄と石とにて遠近各処に設置、満潮には潮に隠れはとて乾潮を期して試砲す、近きは弐百間余遠きは英里法二里(御国の三十丁)其貌方にして箱のことく、尤堅牢なりといふ、此日遠近とも六箇の的に発砲せしがいつれも其的に至れり、又火矢を発する技を御覧に入る、火矢は長き椎之実弾のことくにて望遠鏡台の如き台を立、其上に長弐間計なる鉄筒の半切せしを備置、火矢を載て火を注す、其火勢猛烈にして迅速なり、敵陣を焚討する時の具といふ 御一覧後別ニ一箇の試砲場御越、種々の大砲御覧、弾玉貯所ニ而是迄相用ひし弾丸種々を見本にするとて備置きしを御覧、再ひ海岸に御越、三百斤の大砲之試発御一覧 此弾は刃鉄ニ而敵船を突裂之用なり、其的弐十丁余なりしか打砲せしより三四丁程にして其弾破裂し、其勢を増し、其弾丸の先鋭利なる処ニ而鉄船を突椎すといふ 御一覧後、同所ニ設置たる鉄台場之雛形及試のため鉄板打抜たるを逐一御歴覧 鉄台場は唯一箇の雛形なりしか其内面は石ニ而築立、凡三尺厚程なり、内外面とも四寸余厚の精鉄ニ而包立たり、鉄板を打抜きしは鉄船を突推するの試にして、厚七八寸の鉄板に壱尺計の樫木を畳みこれを鉄板の請とし其樫木は太き鉄張を幾度も索重ねたるにて引通し〆附たるものなり、其砲は六十斤程ニ而十丁計の距離ニ而刃鉄弾もて試しを御らんしか其鉄板を貫きしこと恰も網羅の如く、内面の材は総而摧破して全材を見す、其外ニ六寸四寸位の鉄板を試しもいと多かりしか、いつれも網目のことく摧破したり、右之試を為せし後別に発明して製せし鉄板一枚僅に貫くこと能わすとて、本国所領のマルタ島江此度精鉄の砲台を製するに其錬鉄の法を用ゆへしといふ 第三時御一覧済馬車ニ而滊車場御越、直ニ発軔、夕五時半御帰館 此日同所御着之節在勤之士官多人数罷出御迎申上る、砲兵屯所ニ而は短銃を持し、歩兵捧銃の礼をなせり
 十一月十五日 曇 火             十二月十日
朝十時半本国政府ニ而立置たるバンク御覧に入るとて、御附添之エトワル御案内、石見守・俊太郎・伊右衛門・篤太夫御雇両人シーボルト御供、金銀貨幣掛改之場及貯所・地金積置所・紙幣製作所逐一御歴覧夫より金銀銅の貨幣を製する場所江御越ニ而御一覧、此日は金銀の製作なく、唯銅のみ製する見る、其製造の法頗る簡易軽便にて然厳粛なり 両替所の広大にて金銀の貯蓄せしことなる形状これニ而も其国の富庶を推計るへく思わる 第一時半御覧済、御帰館
此日隼人正・伊右衛門・シーボルト同道、外国事務執政の役所江罷越御国議ニ付引合有之、第三時半帰館
 十一月十六日 晴 水             十二月十一日
此日ポルツムウスといふ地ニ而軍艦貯所其外海軍器械を御覧ニ入るとて御附添エドワル御案内、石見守・俊太郎・凌雲・貞一郎・篤太夫御雇四人シーボルト御供、朝十一時御旅宿を発し本地の滊車場ニ而滊車御乗組、第一時四十分ホルツムウス御着、夫より御迎馬車に御乗替ホテルピイールといふ客舎御投宿 此日汽車場御着並客舎御着之節とも海岸ニ而二十一発宛の祝砲を発せり、汽車場江は赤く装へし歩兵一中隊を出し、士官は礼服ニ而皆剣を立て礼を為せり。兵卒は捧銃の礼を為せり、馬車御通行之節は楽手隊奏楽し、御車の後には赤き戎衣の騎兵二騎従へり、本地在勤之アドミラフルセ子ラール其他数員之士官いつれも美しき礼服ニ而罷出御案内申上て客舎御越客舎の前には二箇の歩兵勤番所を設け交番の哨兵を出し置きたり 第二時客舎ニ而御昼食、御一覧は明日とて此日は客舎ニ而御休息、隼人正伊右衛門は引合筋有之ニ付御陪従なし、此日は雲霧稍晴て時々日光を見るを得る、倫敦都御着以来連日の曇天剰へ煙雲多く四望分明ならす、殆鬱陶を覚へしか此地は海に接し気候も稍暖かに其時薄暮なりしか海天晴暉夕陽の雲間に映する光景頗る快然たり、客舎は海岸に添
 - 第1巻 p.592 -ページ画像 
ふたる広き草薗中に在りて、市街に雑せされは尤静閑にして眺望甚佳なり
 十一月十七日 晴 木            十二月十二日
朝十時御附添エトワル御案内、石見守以下一同御供、馬車ニ而本地の城門内に入、門内の市街御通行ニ而港口に碇泊せる戦争之節士官兵卒を運送せるセラジスといふ軍艦御越ニ而御一覧 客舎御発之節、歩兵弐中隊、門前に列して、捧銃の礼を為し、白き戎衣の楽手賀楽を奏せり、御車の後には赤き戎服の騎兵弐騎附添たり、軍艦御着之節弐十一発の祝砲あり、其軍艦の製尋常の飛脚船にひとしく稍大なり、士官の部屋部屋抔いと美麗に調へり、乗組人千六百人を運輸し、一時間英里法十四里を航すといふ、蒸気七百馬力あり、近日当地を発しアレキサンテリヤに航すといふ 軍艦御着之節アトミラールパンスレー及附属士官数多礼服ニ而御出迎、軍艦中諸部屋食盤所兵卒の宿所等不残御案内、御一覧後港口よりバツテイラ船御乗組、港内ニ碇泊せる軍艦御案内、其最初御越ありしは近来発明ニ而製作せる元来の巨艦の航海に不便なるを船の中程より中裁し、其蒸気を改め精鉄ニ而五箇の丸き砲門を備へ壱箇の砲門に弐門の巨砲四箇の砲門に壱門宛の巨砲を備へたり、其砲門の厚サ壱尺余鉄板の内は材木壱尺八寸程のを畳上け、発砲の節は 其砲門を器械にて廻らし、巨砲の口を出して打砲す毎砲三百斤宛なりといふ 船の縁は惣而鉄板にて釣塀のことくなし置、戦争之節は船縁を釣下ケ、船水面に浮むこと僅数尺になし、敵より狙撃為し難くし己は敵船に近寄り、実弾ニ而敵船を摧破すといふ、此軍艦の要砲台の近港咽喉の地に碇舶し、進攻せし敵の巨艦を狙撃すといふ、御一覧後再バツテイラニ而別に碇舶しある巨艦弐艘を御巡覧 二艘碇舶せし舳と舮の相接せし処に釣橋を架し各船を往来して御覧有之 其巨艦中ニ而大砲点発の調練及小銃隊の運動御一覧又別に巨砲的打をなさしむ、其仕方千八百ヤルトの距離ある海中に白き板に黒き丸を点せる的を立、初めは実丸ニて壱発ツヽ八次、次に四発宛聯発に破裂弾を発砲せり 大砲の調練小銃の運動及的打の法尤正粛にて勁捷なり、連発の弾多く其的に違へす、破裂丸は水際にて毎弾寸分の差なく発せし様なと精巧至妙を究むといふへし 御越ありし軍艦毎に中央の檣に御紋附たる御旗を建、御乗組のバツテイラには御国旗を建たり、御一覧済御上陸、市街中にあるアドミラールの役所ニ御越ニ而御休息、御昼食 御昼食之節は石見守・俊太郎・貞一郎御雇両人とも御供、其余は客舎に罷帰る、此日為御相伴アドミラール附属士官提督之妻子縁戚之婦人御同案申上る、午餐中其庭前ニ而賀楽を奏せり 午饗後同所にある広大のドツク御覧、夫より軍艦製造所御越軍艦に附属せる鉄板蒸気其他種々之器械製作を逐一御覧、夕四時御帰館
夜七時ゼ子ラールビレーの在番せる陸軍役所にて夜餐、御饗応之旨ニ而御附添エトワル御案内、石見守・貞一郎シーボルト御供ニ而御越、夜十時御帰館 此日之御案内申上し提督其他士官数多罷出、御相伴申上る
 十一月十八日 曇 金            十二月十三日
朝七時半ポルツムウス御発、滊車場ニ而八時発軔之滊車御乗組 客舎御発之節海岸ニ而二十一発之祝砲を発せり、歩兵一中隊客舎の前に正列し、捧銃の礼を為し、楽手奏楽せり 第十時半頃グードといふ地ニ而馬車に御乗替、夫よりヲルトルシヨツクトといふ調兵場に至る、こは兼而陸軍三兵の調練を御覧に入るとて相設けしなれは調兵場御着之頃此日調練すへき兵隊は各所陣列し悉く戦隊に作りて一斉に並立せり グートより調兵場迄弐里計の道程あり、為御迎赤隊の騎兵弐隊罷越て馬車御附添いたす 公子調兵場に御着あるとひとしく、其戦隊の兵隊忽ち環旋し竪隊になして行軍の式をなせり、最頭は騎兵の附属せし大砲隊二座 壱座砲六門騎兵四十騎、尤一座一列ニ而行軍せり 次に撒兵一中隊 八十人 歩兵九中隊 八十人程宛 其次に騎兵拾弐小隊 六小隊宛二種、いつれも赤服ニ而金色の兜を戴く、一種は兜の房赤く、一種は黄なり、毎隊三十二疋宛 次に大砲三座 壱座六門弐拾斤余 次に土坑兵一中隊 八十人計土坑兵は行軍之節御覧ある
 - 第1巻 p.593 -ページ画像 
前を行過て、隊を離れ楽手隊の後に引退く 歩兵九小隊 八十人程 其次に輜重一隊 車弐拾輛一車ニ六馬を駕て予備車八輛を附属せり 其次に又輜重一隊 車拾六輛毎車四馬外ニ予備車四輛を添ふ、前の一隊は多く浮橋・釣橋又は道路の急岨なる処に架し、躋浅する具を載せたり、次の一隊は兵粮陣営の道具攻守に用ゆる器械及病兵手負人の養生する具を備へたり 其行軍各隊竪隊に作り環旋し、一隊一列にて公子の御覧ある前を徐歩す、其御覧ある場処と兵隊の行軍する距離を隔て二隊の楽手隊行軍の奏楽を為せり、一隊は歩兵の楽手、一隊は騎兵の楽手、歩兵の行軍は歩楽手にて奏楽し、騎兵の行軍は騎楽手奏楽せり、徐歩之行軍一周し終て再ひ環回して稍急歩にて行軍し、又環回して疾歩の行軍を為せり 疾歩の行軍は騎兵砲兵而已ニ而は馬はガロといふ至極の急歩なりしが、其距離静粛にして列中一騎の遅速なし 行軍済て兵隊は其部分にて各処に整頓す、其時公子は少し御車を進めて小高き地に御越ニ而御覧、夫より砲兵の発砲を為し、発砲畢る頃後に屯せる騎兵進撃を為し、騎兵敵陣を駈崩し、引返くとひとしく歩兵進て一斉に発銃せり、夫より攻進襲撃の挙動様々に運転し、再ひ三兵を並せて三列になし、各一斉に戦隊を作り、初に砲次に騎、終に歩の順序を以、総掛之挙動、各隊連発の技芸をなせり、聯発終て又各隊に分離し特角に方陣を作り、砲銃交発の技を為し、三兵之調練終る、夫より調練場の側にある小川の辺に御越し、輜重兵の技芸御一覧、其法先に運行之節、車に載せし器械を試る為にして、調練場の側にある広拾間計の小河にかの運輸し来る浮橋の器械を其士官指令して暫時に車より下し、兼而設けある周囲六尺計に、長弐間余の薄き鉄板ニ而浮袋を作りたる物を水上に浮め、其小口に縄を附、其浮袋に弐寸角程の細木の弐間計なるを多く架し、川巾に随て浮袋の数を増し初に架せし処に六人の兵卒を戴て水中に突出し、相続て前岸に達せしむ、已に達岸して其の細木の上に厚サ壱寸五分、巾八寸余の板を並へ忽ち巾壱間半余の橋梁を作り出せり、其板並へ終て橋の両縁は細き木に縄の附きしを以て板と細木とを結合せ動揺破摧の患なからしむ、其仕方軽便に具足せし事、驚くへく、感すへし、橋梁成て一隊の騎兵を渡せしに絶而破壊の患なし、此日試みしは川巾狭けれとも其器械を増しこれを作らは何程広き河巾ニ而も容易に作り為すといえり、其時間僅に半時程なりし、御一覧終て馬車ニ而兵隊の屯所御一覧 此地は総而兵隊の屯所ニ而、三兵共屯集して日課を以て調練を為す、其屯所の製二階なき長屋のことく、幾棟も建築し、砲兵・騎兵・歩兵其他の兵隊各アベセニ而其屯所の牌号を定め置、恰も一市街をなせり、其士官の屯せるは稍大にして、二階又は三階をなせり、士官も兵卒も此地在住の兵は妻子あれは共に住居すといふ 第二時本地セ子ラール之官邸ニ而御休息、午餐 此日はセネラール其外士官許多御同案ニ而御相伴申上る 夫より同所御発し、再びグード御越汽車御乗組、直ニ発軔、夕五時倫敦御帰着
 十一月十九日 雨 土            十二月十四日
朝十時御発し、御附添エドワル御案内、石見守・俊太郎・伊右衛門・凌雲・貞一郎御雇之者両人御供、馬車ニ而都府中の巨河テイムスより川蒸気御乗組、川口に設ある鉄船製造所御越、鉄艦を製する器械逐一歴覧、御二時御帰館
渋沢篤太夫英貨引替方ニ付、川路太郎同道ヲリエンタルバンク罷越、午後同人ロヱドに御頼相成而公子御滞英中同人方御旅館可相成積ニ付諸御買上物いたし置候取調方ニ付罷越す、川路太郎・中村敬輔立会之上取調いたす、此夜右品々引合方ニ付、太郎・敬輔罷出調訳いたす
 十一月廿日 曇 日             十二月十五日
第二時ロエド罷出る、昨夜調分いたし候品々引取方申談、約定書面取
 - 第1巻 p.594 -ページ画像 
為替いたす、御附添之メジヨールエトワル江被下物有之


昔夢会筆記 中巻・第四〇―第四七頁〔大正四年四月〕(DK010047k-0004)
第1巻 p.594 ページ画像

昔夢会筆記 中巻・第四〇―第四七頁〔大正四年四月〕
○渋沢 ○中略 それから致しまして、伊太利の旅行をしまひ、其年の十二月に英吉利に参りました処が、英吉利でも大層丁寧に待遇をしてくれました。ポルツモースなどへも案内をしまして……、
○公 其時分英吉利の方では、待遇上に少しも変りはなかつたかね。
○渋沢 少しもございませぬ。やはり全くプリンスとしての待遇で、それらの礼式は、有栖川宮様が御出でになつた時と同じやうでございました。マルタ島のレセプシヨンなどは、今考へて見ても全く君上に対するレセプシヨンでございました。別に高い処へ公子を御置き申して、其時には向山は居ませなんだが、山高とそこの司令長官が附いて居りまして、さうして来た士官其他の人々に握手の礼をさせる、全く君臣の格でございました。それから倫敦へ参つた時も、旅宿は別に改めて取つてくれなかつたやうに思ひます。故にそれ程の取扱ではないか知れませぬが、やはりウインゾルで謁見があつたやうです。私は御供が出来ませなんだが、何でもポルツモースの軍艦訪問の時などは、十七発の礼砲を打つたやうに覚えて居ります。ですから礼遇等は鄭重でございました。唯英吉利の方では、商売人の待遇は日本に対して甚だ悪うございました。外国方もそれは大に心配しました。どういふ訳であつたか、それで拠なく為替金等のことは、仏蘭西の方から取扱をしたやうに覚えて居ります。○下略


竜門雑誌 第二六二号・第一―二頁〔明治四三年三月〕 【本邦鉄道の回顧】(DK010047k-0005)
第1巻 p.594 ページ画像

竜門雑誌 第二六二号・第一―二頁〔明治四三年三月〕
○上略 国運の発達を図るにはドウしても鉄道に拠らねばならぬといふ強い感じをもつやうになつたのは、外ではない、仮令ひ充分の知識はなくとも所謂百聞一見に若かずで、事実眼に見つゝおのづと深い感じをもつに至るは人間の常であるが、殊に予は明治の以前、民部公子に随つて仏蘭西に着し、而して仏蘭西から或は瑞西に行き、和蘭にも行き、白耳義をも廻つて巴里に帰り、再び伊太利に出掛けた。其時は仏蘭西と伊太利の国境なる例のモンスニー山の隧道《トンネル》は未だ出来上らぬ為に、半は其上を馬車で通つて伊太利に行つた。伊太利の都市は鉄道で経廻り、最終に英吉利へ旅行した。英吉利でも彼方此方と鉄道旅行を試みた。成程国家といふものは、斯くの如く交通の便が備はらでは国運の進歩発達を図ることが出来ぬと何も知らぬ自分さへ強き感覚を惹起したことは未だに深く記憶に残つて居る。○下略
   ○右ハ「本邦鉄道の回顧」ナル栄一ノ談話ノ一節ナリ。


(山高信離手稿) 航梯日乗(DK010047k-0006)
第1巻 p.594-595 ページ画像

(山高信離手稿) 航梯日乗 (男爵赤松範一氏所蔵)
慶応三年丁卯十一月六日 女王御招待此日第十一時御発程ガアルシユイールより十二時御発軔御附添
 向山隼人正  山高石見守  保科俊太郎  三田伊右衛門
 高松凌雲   箕作貞一郎  渋沢篤太夫  菊池平八郎
 井坂泉太郎  加治権三郎  三輪端蔵
 - 第1巻 p.595 -ページ画像 
天陰風寒夜寒甚し六時半フロンギユ港 仏地 御着 平八ハ此に舟を債《(マヽ)》ふてロントン府ニ航すと云 夜七時十分カレイ港御着ホテルデデツサンに御投宿在留英国公使参上英国より之御迎船到着致したる旨申出 ○下略


(日比野清作) 各国江公使御巡行御留守中日記(DK010047k-0007)
第1巻 p.595 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕竜門雑誌 第四二〇号・第三一頁 大正一二年 〔五月二五日〕 【半世紀前の倫敦市街】(DK010047k-0008)
第1巻 p.595 ページ画像

竜門雑誌 第四二〇号・第三一頁 大正一二年 〔五月二五日〕
○上略 余り昔の事で今夕お集りの諸君はその頃にはまだお生れではない方ばかりであると思ふ、従つて当時の英国を知つて居らるゝ方は多くあるまいと思ふ。当時私も偶然渡欧して仏・英・伊其他の交通状態を見て大に感じ、我日本も斯くありたいと願つたのである。実はその頃私共は西洋人を野蛮視し夷狄視したものである。私は欧洲各都市の交通状態を見て成るほど斯くありたい、これは経済上の利益である。又社会上の利益である事を感じた。倫敦の旅館の窓から道路を眺むると当時は未だ自動車はない、馬車、荷車、或は一種の鉄道馬車などが交通機関であつてその有様を見るに実に互譲の美徳が良く行はれ居る。立派な車が先へ行くではない、良い車なら先へ行くといふのはこれは先づ誰でも考へるが、さうではない、先きを急ぐ必要なものが先へ行くといふことになつてゐる。それは人々の申合せではないが、誠に具合よく行はれて居る。後で聞けば、自然にさういふ制度になつてゐるといふことで、今も尚敬服して居る。此の事は五十六年前のことである。○下略
   ○右ハ「半世紀前の倫敦市街」ト題スル栄一ノ談話ノ一節ナリ。


〔参考〕竜門雑誌 第五〇九号・第三一頁 〔昭和六年二月〕 【グラント将軍歓迎の追憶】(DK010047k-0009)
第1巻 p.595-596 ページ画像

竜門雑誌 第五〇九号・第三一頁 〔昭和六年二月〕
○上略 又私が曾て徳川民部公子に随つて仏国へ赴き、且つ西洋の各地を訪問した時、特に記憶に残つて居るのは、ドヴア海峡を渡つたとき、ドヴアの市民の総代が、日本の貴人を迎へると云ふので逸早く町の入口で歓迎文を読んだことであります。何んでも西洋の此の風習は、町の入口で、そのは入つて来る人に敬意を表し、町を自由に視察するための鍵を与へると云ふやうな意味で、尊い人に礼儀を尽すものださうでありますが、地方団体として有名な人を接待するのによい仕方である、結構な風習であると感じて居ましたから、当時グラント将軍を歓迎するに就て之を行ひたいと云ふで、益田、福地等の人々に諮つたと
 - 第1巻 p.596 -ページ画像 
ころ同意を得ましたので、先づ新橋駅へ着いた時、此の方法を採つて歓迎文を読んだのであります。○下略
   ○右ハ「グラント将軍歓迎の追憶」ナル栄一ノ談話ノ一節ナリ。