デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

3章 静岡藩仕官時代
■綱文

第2巻 p.93-109(DK020004k) ページ画像

明治二年己巳一月十六日(1869年)

一月十六日

是ヨリ先、前年十二月静岡藩勘定頭平岡準蔵ニ商法会所ノ設立ヲ建議シテ容レラレ、是日静岡紺屋町ニ商法会所ヲ開ク。栄一其頭取タリ。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述) 第四巻・第二一―二五丁 〔明治二〇年〕(DK020004k-0001)
第2巻 p.93-96 ページ画像

雨夜譚 (渋沢栄一述) 第四巻・第二一―二五丁 〔明治二〇年〕
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○上略 偖て自分は、右の志願を以て勘定組頭の職は辞退したものゝ、此の先き静岡に住居するには、農商いづれの業に従事したら宜いかといふ一段に至ては、頗る其採択に苦慮しましたが、其頃新政府から、諸藩へ石高拝借といふことを許されました、是は御一新に付て、金融に著しき窮迫を告げた所から、凡そ五千万両余の紙幣を製造して、軍費其他の経費を支へたが、其紙幣は民間の流通があしきゆゑ、それを全国に流布させんが為め、諸藩の石高に応じて、新紙幣を貸し付け、年三歩の利子で、十三箇年賦に償却するといふ方法でありました、蓋し此の方法は、前にも申した通り、新紙幣の流通を円滑にしやうといふ意で設けられた、即ち政府の財政方略であります、其処で静岡藩への割付総高は、七十万両程であつて、其年の末までに、新政府から交付せられた金高は五十三万両だといふことは、自分が駿河へ往くと直に人から聞いて居つたに依て、前にもいふ通り、商業にて聊か世に功能を顕はしたいと、様々工夫して居た際であるから、此の石高拝借の事に付て、一つの新案を起しました、
其頃静岡藩の勘定頭で、平岡準蔵といふ人は、自分が先年京都で陸軍奉行支配調役を勤務の時に、歩兵頭の顕職に居られて数回の面識もあつたから、此の人に面会して、意中の新案を相談に及ぼふと思つて、訪問した所が、早速の面会を得たから、其処で自分の身の成行きを詳しく述べ、且過日勘定組頭に仰せ付られた時は不本意に堪へませぬ事情もありましたから、甚だ失礼を致しましたが、畢竟自分は当御藩に藉つて俸禄に衣食を謀るといふ意念はなく、唯々前公の厚き恩遇に感じて、此の地に参つた訳であります、殊に従来志を同くした友人なども多くは離散死亡して、独り余命を存する場合でありますから、爾来は官途の外で何ぞ一事業を起して、それに従事して聊か国益を謀らうと考へましたからの事であります、就ては一ツの新案が浮びましたから御参考までに申述やうと存じて今日推参した訳であります、其新案といふは即ち彼の石高拝借金に関係した事で、当静岡藩に於ての紙幣拝借の高は五十万両以上であると聞及びましたが、若し此の金を迂濶に藩庁の政費などに支消した時には、静岡藩は其返済方を如何に処置なさる見込であるか、既に幕府を廃して王政に復古した以上は、此の末、真の郡県政治になるが当然の事と考へられます、若し果して郡県政治になるとすれば当藩などは新たに置かれたことであるから、別に余財のあるべき筈はない、其上現在封土は狭し、歳入は少なし、殊に諸事新規といふ場合で、却て費用は多い姿だから、結局、此の拝借金返納の余裕は生じますまい、然る時は一旦政事上の破産をした当藩が再び財政上の破産に陥らねばならぬ訳合であるから、今日からこれを予防するのが肝要と思はれます、それには此の石高拝借の金高をば都て別途の経済として、これを基本に興業殖産の事を発達させ、其運転中に生ずる所の利益を以て、返納金に充てる事にしましたならば、藩庁の御利益は申すまでもなく、地方人民の上に於ても此の上の幸福はあるまいと考へます、又静岡は小都会ではあるが随分相応の商人もあることでありますから、原資金を貸与して其商業を一層盛んにすることは、敢て難事でもなからう、元来商売といふものは一人一ケの力で
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はこれを盛んにすることは出来ぬものだから、そこは西洋に行はれる共力合本法を採用するのが、最も必要の急務であらうと思ふ、今此の共力合本の便利有益を、有力の商人に会得させたならば此の地方でも幾分の合本は出来るに相違ないから、此の石高拝借金を基礎としてこれに地方の資本を合同させて、一個の商会を組立、売買貸借の事を取扱せたならば、地方の商況を一変して大に進歩の功を奏することを得るであらう、加之ならず、今日静岡藩から其端緒を開いたら、自然と各地へ伝播して日本の商業に於ても少しは面目を回復する一端と相成りませうと思ひますから、是非此の方法を御採用あるやうにしたい、且又其商会の監督は固より御勘定頭の任として諸般の取扱方を視察せられ、只其運転方の枢機を自分に一任せらるゝやうに願ひたい、左すれば地方の商人中に於て相応の人才を撰抜して、各部の事務を分担させ、所謂協力同心して進歩の効を奏するやうに処置する見込であるから、速に此の商会設立の事を許可になることに御尽力ありたいと、詳細に話しをしました、平岡は始終の話しを聞いて、イヤ能く分つた、至極面白い新案だ、成程此の後の政体は郡県制になるかも知れぬ、仮令郡県制度にならぬとしても、石高拝借を使つて仕舞つて他日返納に差支へるやうでは困る訳だに依て、制度の如何に拘らず、深く注意をせねばならぬ次第である、就ては今段々話しを聞いた足下の新案を熟考して見たいから、其方法を委しく書面にして差出す事にといふ指図があつたから、詳細に方法を認めて計算書までも添へて平岡の手へ差出したのは明治元年の歳末でありました、
明れば明治二年の春、平岡は右の方法書に拠て、終に藩庁の評議を決して静岡の紺屋町といふ処に相当の家屋のあつたのを事務所として、商法会所といふ名義で、一の商会を設立し、地方の重立つた商人十二名に用達を命じ、恰も銀行と商業とを混淆したやうな物が出来ました此の商法会所の全体の取締は、勘定頭の任として、自分は頭取といふ名を以て、其運転上の主任となつて、勘定所の役人数名を各部の掛員として、これに用達幾名かを附属して、業務を執ることになつた、其業務の大要といふは、商品抵当の貸付金又は定期当座の預り金、或は地方農業の奨励として京阪其他に於て米穀肥料等を買入て、これを静岡其他の市街に売却し、又は地方の村々へ貸与する等の事柄であつたが、其原資金といふのは悉く新政府の紙幣、即ち太政官札ばかりであつて、其時分には正金との取引は時の相場によるものとしてあつたが一般の人心が紙幣に習慣せぬのと、新政府に安心が薄いといふ情態とで、大きに其価格は低落したけれども、将来を予想してみるのに終には此の紙幣流通の為めに、諸物価は却て騰貴を示すに相違ないから、今の内に早く此紙幣を正金に交換して、物品を買入れて置くが利益が多からうと考定したに依て、掛員御用達等とも協議をして、東京では肥料を買ひ、大阪では米穀を買入れた、
  ○右ノ談話ニ言フ所ノ石高拝借トハ明治元年ニ発行サレタル太政官札ヲ列藩石高ニ応ジ万石ニ付一万両ヅツ拝借仰セ付ケラレタル事実ヲ指ス。其詳細ニ付テハ「貨政考要」中編政府紙幣ノ事歴、第一章総説、第一節政府紙幣ノ種類、第一類太政官札及ビ「明治財政史」第十二巻、第十三編、第三
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章政府紙幣、第二節太政官札ヲ参照スベシ。
  ○本文平岡準蔵ニ商法会所仕法及ビ計算書ヲ提出シタルヲ明治元年冬トス。
然レドモ栄一自筆ノ「組合商法会所御取建之儀見込申上候書付」ニハ巳正月トアリ。又栄一自筆ノ日記(自明治元年十一月三日至同二年正月十八日)ノ明治二年正月元日ノ条ニモ「朝商法会所之儀見込書取調夕平岡四郎を訪ふ」トアリ。故ニ見込書ヲ正式ニ提出シタルハ明治二年ノ正月ナリシガ如シ。但シ同日記十二月廿一日ノ条ニ「杉浦と共に大六手代人勇助面会商社之儀申談す」トアリ。廿二日ノ条ニモ「商社之儀ニ付見込織田和泉殿へ申立る」トアレバ、既ニ十二月中ニ其儀ヲ建議シタルモノナラン。更ニ廿八日ノ条ニ「御用書類取調いたす」トアレド、コノ御用書類ハ見込書ヲ指スモノナラン。故エ見込書モ既ニ十二月中ニ起草セラレタルモノト思ハル。


雨夜譚会談話筆記 下巻・第七九四―七九八頁 〔昭和二年十一月―昭和五年七月〕(DK020004k-0002)
第2巻 p.96-97 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 下巻・第七九四―七九八頁 〔昭和二年十一月―昭和五年七月〕

一、明治維新当時の先生の御気持に就て
先生「今日の問題は難しい事を聞いてあるネ、はつきりしたお答は出来兼ねるヨ」
白石「今度からは少し先生に伺ひます方針を改めました。事実の推移よりは御心持を伺ひたいと思ひます。此第一番目の事項に付ても維新当時先生はどんなお考で以て、時勢に処しておいでになつたか、また旧幕臣の人達はどんな考を持つてをつたかと云ふ事に就て、お話を承りたいのでございます」
先生「全体の旧幕臣が明治新政府に対して、どんな考を持つてゐたかそれは各その人自身でないと判り兼ねる。然し大体に於て、新政府に仕へる事はどうしても厭だ、義理が悪い、極端に云つて見ると、新政府は薩長の政府だから、これに仕へる事は二君に仕へる事に外ならぬと云ふやうな考を持つて居つた人もあつた。
  また中には僅かではあつたが、此有様が長く続くかどうかわからないと云ふ消極的な考をした者もあつた。けれども十中八、九の人々は、新政府にいゝ地位を得度いとの望を抱いてをつたやうに思ふ。それでは私はどうであつたかと云ふに、私自身としては絶対に新政府に仕へる意向はなかつた。勿論民部公子の御伴をして欧羅巴に渡る頃は、政治家となつて世の中に多少とも貢献して見たいとの考を持つてをつた。民部様と御一諸に仏蘭西に五ケ年位は学問研究のためにとどまる事になつてゐたから、五ケ年一生懸命に研究したら完全とまで行かないにしても何か得て帰る事が出来るに相違ないと思つてをつた。ところが突然大政奉還となり、その上民部様が水戸家をお継ぎになる事になつて、どうしても帰国しなくてはならない破目になつて仕舞つた。実際あの時ばかりはサアこれからと云ふ処で帰国することになつて、私としては全く方向を失つた気持であつた。最初に考へてをつた政治に就いては何ら学ぶ所もなかつたし、技術家になるには技術の腕がない。まして今更百姓になる気にはどうしてもなれず、一層首でも括つて死んで仕舞ひ度い気にもなつた。然し私が仏蘭西に滞在中深く感じた事が一つあつた。それは我国が彼の地に比較して官尊民卑の弊が甚だしい事である。私はせめて実業界に丈けでも此の弊を直して見たい。それには民業の発展が
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必要である。それは三井や鴻の池と云ふやうな金持はある。けれども今後は金を持つてゐるだけでは何にもならぬ。少くとも民業を進めると云ふ事は一人が金持になると云ふ事ではいかぬ。それには合本組織がよい。勿論その合本組織を実行するには能力学識が必要な事は言ふまでもないが、これさえ実行出来たら、金の為めに威張ると云ふ事はなくなるであらう。又これによつて民間の知識が進めば自然官尊民卑の弊はなくなる。何でもお役人の言ふことは御無理御尤と常に頭を下げる必要もなくなることになるのである。こんな考を以て初め静岡藩で合本組織をやつて見た。それがあの商法会所であつた。ところが世の中の事と云ふものは一から十まで自分の思ひ通りには行かぬもので、折角商法会所の仕事がうまく行きかけてゐるとき、新政府から呼び出しがあつた。 ○下略


竜門雑誌 第二七九号 第三七―四一貢 〔明治四四年八月〕 合本事業経営の実験(青淵先生)(DK020004k-0003)
第2巻 p.97-100 ページ画像

竜門雑誌 第二七九号 第三七―四一貢 〔明治四四年八月〕
  合本事業経営の実験 (青淵先生)
   本編は青淵先生の談として八月一日発行の雑誌『実業の日本』誌上に掲載せるものなり。(編者識)
 維新の前に於ける余の政治上の行動は全く失敗の歴史であつたから維新後は念慮を政治上に絶ち、実業家として国家に多少なりとも貢献したいといふ意念であつた。
 余が家業を擲ち志士の間に交るに至つたのは、幕府の所謂世官世禄の弊を感じたからである。老中、若年寄、町奉行、勘定奉行、寺社奉行、大目付、お目付といふ様な要地の官吏は総て家柄によつて定まり才能学識あれば何人でも就任するといふ訳に行かなかつた。尤も後に出来た外国奉行の如きは人物を本位とした有様もあつたが、其他は人を取るのでなく家柄を取るのであつた。如何に屑々たる小人でも、家柄さへよければ、幕府の要地に立ち得たのである。
 既に無能の人でも家柄で要地に立ち得るから、其下に有能の人を置き、実権は自ら其人の手に移らざるを得ぬ。故に表面要地を占める人は木偶の如きもので、他から操縦されて動くのである。近頃称せられる属僚政治といふものと同じである。これでは到底国家の強盛を期することは出来ぬ。聞けば外国軍艦は我国に来り、進むでは我国をも占領せんとするではないか、外夷に国を奪れてたまるものか。この危急を挽回するには、先づ幕府を倒し、以て鞏固なる国家を作らねばならぬ。かういふ念慮から、余等は同志と共に、国事に奔走したのであつた。
 然るに其後京都で一橋家に奉公せねばならなくなり、辛苦経営して兵備を創制し、財政を整理し稍其の緒に就いたと思ふと一橋公が入つて将軍家を相続されたから、余も亦公に随うて幕臣となつた。
 余は公の将軍家御相続に反対の意見を懐いてゐたから、幕臣となつても甚だ面白くない。既にして水戸の民部公子が仏国博覧会に派遣され、引続き留学するといふので、余も亦其随行の一員に加へられ、慶応三年正月出発し、幕府が瓦解したので、明治元年十二月横浜に帰着した。
 - 第2巻 p.98 -ページ画像 
 帰つて見ると僅に二ケ年の変であるが、世は丸で引くり返つて前に同志とした人々も或は病死し或は戦死し或は箱館へ脱走し或は隠れてしまつたとかいふ有様で、知つた人もない、又あつたからとて、人に依頼して身を立てやうといふ心も出なかつた。僅に三四年前を追懐すると夢の如くである。討幕を目的として起つた自分は、一橋家を経て幕臣となり、今又外国から帰れば、幕府は倒れて新政府が建つてゐる。桑滄の変といふか、総てが最初の想像に背馳して失敗したから、爾来意を政治上に絶つた、自分の一生は最早これまでで済んだと同様、一段落をなしたから、今後は駿河へ行つて余所ながら慶喜公を御見送りしやう、又駿河へ行けば、多少欧洲で見て来たこともあるから、必ず何かする事もあるだらうと思うて、終に駿河に行つた。
 当時静岡藩では大久保一翁が中老職で、平岡準蔵が勘定頭を勤めて居た。この平岡は去年京都でも数回の面識もあつたし、且つ余に対して大に信用を置いて呉れた。といふのは当時海外に派遣されたものは兎角其計算が粗漏で規律が立なかつた。費用が不足すれば、幾何でも要つただけを請求し、余あれば役得と心得て私し、決して明瞭に計算を示したことがない。誠に困つたことであり、不都合の処為であつたが、幕末のゴタゴタ騒中であるから、罪することも出来ず、海外御用といへば、実に不規律を極めて居つた。然るに余は公子留学中の計算を明瞭に記録し、茶碗茶卓の微に至るまで行衛を明にし、厘毛も誤魔化したことがない。当然のことではあるが、当時に於ては異数とせられ、為に益々信用を得た。
 余が静岡に行き宝台院(慶喜公)に伺候し、各国巡回中の実況から、公子の仏国留学等を落ちなく言上し、旅宿に逗留してゐると、勘定組頭を申付けるといふ辞令書を渡された。蓋し渋沢も欧洲を巡回して来たから、只はおかれぬといふので、斯ることになつたのであらう。併し自分が静岡に行つたのは、全く世を捨てゝ前公の側に安居を図つた訳で、要路に立つことは素志に協はなかつたから切に勧められたのを強ひて辞退し、寧ろ農商の業に従事して平穏に残生を送らんとした。
 当時の商人といへば、其地位も卑く、学問ある者もなかつた。少し金あるものは高利貸に類したことをやり、然らざれば小売商に過ぎなかつた。余は欧洲各国の状態を見、各国が商業に熱心せるを察し、我国も今後大に商業を起し、工業を起し、商工業者の位地を高め、以て富強を謀らねばならぬことを感じた。
 其頃新政府から諸藩へ石高拝借といふことが許されてゐた。これは維新に際し金融が著しく窮迫を告げたから、政府は凡そ五千万両の紙幣を製造し、軍事其他の経費を支へたが、この紙幣は民間の流通が悪かつたから、之を全国に流布させる為め、諸藩の石高に応じて新紙幣を貸付け、年三分の利子で十三ケ年賦に償却するといふ方法であつた。静岡藩への割付総高は七十万両ほどであつたが、元年末までに新政府から交付せられた金高は五十三万両であると聞いた。余は商業で聊か世に貢献したいと工夫してゐた際だから、この石高拝借に就て、一の新案を起した。
 是に於て余は勘定頭の平岡準蔵を訪ね、勘定組頭を辞した失礼を謝
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し意中の新案を相談した。『当静岡藩で拝借の紙幣は五十万両以上であると聞くが、若しこの金を迂濶に藩庁の政費などに費消する時は、藩は返済方を如何に処置なさる御見込であるか、既に幕府を廃して王政に復古した以上は、この末、真の郡県政治になるが当然の事と考へられる。若し果して郡県政治になるとすれば、当藩などは新に置かれたことであるから、別に余財のあるべき筈はない。其上に現在の封土は狭いし歳入は少なし、殊に諸事新規といふ場合で、却つて費用が多いから、結局この拝借金返納の余裕を生じまい。然らば一旦政事上の破産をした当藩は、再び経済上の破産に陥らねばならぬ訳合であるから、今日之を予防するが必要と思はれる。それにはこの石高拝借の金高をば、総て別途の経済とし、之を基本に興業殖産の事を勉め、其運転中に生ずる利益を以て返納金に充てることにしたら、藩庁の利益はいふまでもなく、地方人民の上に於ても、此上の幸福はあるまい。又静岡は小都会であるが、随分相応の商人もあるから、原資金を貸与して、其商業を一層盛にすることは敢て難事でもなからう。元来商売といふものは、一人一己の力では、之を盛にすることは難い、西洋に行はれる合本法を採用するが最も急務であると思ふ。今この地方でも幾分の合本は出来るに相違ないから、石高拝借を基礎として、之に地方の資本を合同させて、一個の商会を組立て、売買貸借の事を取扱せたならば、地方商況を一変して大に進歩の功を助けるであらう。又今日静岡藩で其端緒を開いたら、自然と各地へ伝播し、日本商業の面目を一新せしむる一端ともならう。
 愈々御採用になれば、商会の監督は固より勘定頭の任として、諸般の取扱方を視察せられ、只其運転方の枢機を自分に一任するやうに願ひたい、さすれば地方の商人中にて相応の人材を選抜して各部の事務を分担させ、所謂協力同心して、進歩の効を奏するやう処置する見込である、速に此商会設立の事を許可になることに御尽力ありたい』と述べた。平岡も至極面白い新案だ、就ては其方法を委しく書面にして差出せといはれ、詳細に方法を認めて計算書までも添へて平岡の手へ差出した。
 藩庁の評議は忽ち決し、静岡の紺屋町といふ所に、相当の家屋があつたのを事務所として商法会所といふ名義で一の商会を設立した。全体の取締は勘定頭の任で、余は頭取といふ名を以て事業運転上の主任となつた。地方の資本は勿論多くはなかつたが、我国で合本事業の起つたのは、これが嚆矢であつた。
 勘定所の役人数名を各部の係員とし、之に用達幾名かをつけて業務を執つた。この用達といふは地方の重立つた商人十二名に命じたもので、月番に勤務した。
 会所の業務は商品抵当の貸附、又は定期当座預金、或は地方農業の奨励として京阪其他に於て米穀肥料等を買入れ、之を静岡其他の市場に売却し又は地方の村々へ貸与する等、銀行と商業とを混淆した様なものであつた。殊に当時静岡には移住民が多く、米の需要が多かつたから、大阪其他で安く仕入れて彼等に供給し、或は移民に業を与へ製茶養蚕等を発達させる為に多く金を貸与した。
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 商会の事業は有利に進行し、応分の利益を収めるまでに運び、又市内でも預金するものなどが追々増加し、世人も其利便を感じ、稍当初の目的を達する様になつて来た。
 開業したのは二年二月であつたが、五月に藩庁から、商法会所として藩の資本で商業するは、朝旨に悖るから、事業は兎も角其名称を改正せよといふ内意があつて、種々評議の上、常平倉といふ名称に改めた。
 自分は此事業を育成し、日本に合本事業の先を示さうといふ考であつたから、専念、その発達に力めてゐた、何も之に由つて金を儲けたい、位地を造りたいなどといふ野心は毛頭懐かなかつた。現に自分は勘定組頭を仰付けられた時にも辞し又家に帰れば土蔵もあり田地もある、痩身代ながらも人の厄介を受けないでも済む、殊に自分の月給は五十円位であつたと思ふ。不足はなかつたが借家住ひして事業に熱心したのは、一に之に由つて合本事業を発達させるのと、藩の石高拝借を満足に返済せんとするに過ぎなかつた。然るに其年の十月に朝廷からの御用とあつて、太政官の弁官から自分に宛て、早速東京へ出ろといふ召状が来た。自分は新政府に出仕する意念は少しもない、況してこれまでの丹精を以て新創の事ながらも商会は稍其端緒に就いた。前途には種々の希望もあり、又これで一身を終る精神であつたから、今更出仕することは好まない。そこで自分は是まで取掛つた事務も多いから、至急に上京は出来ぬ、何卒半ケ月も御猶予を願ひたいといつたが、聴かれない。若し藩がそんな請願でもすれば、それこそ静岡藩は朝旨に悖つて、有用の人材を隠蔽する、禍心を包蔵するものと疑はれ却つて宝台院の御迷惑になることだから、何でも朝命を奉じて勤仕せよとの事であつた。
 自分も止むを得ず一応出京して御用召に応ずる決心をしたが、直に辞職する積りであつたから、常平倉の事務に就ては、斯様斯様取扱はれたいといふ事を掛員一同に申残して静岡を出立した。
 大蔵省に出任してからは、種々の事情があつて直に退任することも出来ず、心ならずも明治六年まで在官し、終に再び民間に下つて当初の目的たる合本事業の発達に微力を用ふることになつた。
 会所が追々整理して来た時に、余は退任したのであるが、併し之ありしが為に、後静岡藩が廃された時にも石高拝借金は大概政府へ返してしまつた。他の諸藩は碌にこの石高拝借金を返納した向はなかつたが、此事に就ては幾分か自分も快心に感じてゐる。


渋沢栄一 日記 自明治元年十一月三日 至同 二年正月十八日(DK020004k-0004)
第2巻 p.100-102 ページ画像

渋沢栄一 日記 自明治元年十一月三日 至同 二年正月十八日
○上略
 十二月廿八日 晴
朝より御用書類取調いたす、夕方杉浦来る、平岡庄七来る、謹慎被命居候武沢市五郎来
 十二月廿九日 晴
朝出殿謹慎之者儀ニ付大目付へ見込申談す、平岡四郎へも同断申談す退出後御用書類取調いたす、郷里東京諸方へ書状認る、勇助へ相渡す
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 明治二年巳正月元日 晴
朝商法会所之儀見込書取調、夕平岡四郎を訪ふ、夫より杉浦面会四ツ過帰宿
 二日 雨
朝川村三介来、謹慎之者儀ニ付内談有之、右ニ付土肥八十三郎呼寄、心得方相尋内談之上川村方へ遣す、杉浦来る、見込調方ニ付申談す、祐助来る、夕方当地町人荻原四郎兵衛《(萩原四郎兵衛)》へ可罷出旨申遣す
 三日 雨
朝荻原四郎兵衛《(萩原四郎兵衛)》来、商法之儀開墾之儀等申談す、杉浦愛蔵来、商社之儀ニ付見込取調いたす、仏行御入用調いたす
 四日 晴
朝より仏行御入用調いたす、午後平岡四郎へ罷越す、商法見込書差出す同人御殿御出ニ付、御殿ニ而面会いたす、帰宿後仏行調物いたす
 五日 晴
北村彦次郎来、商法筋申談す、仏行調物いたす
 六日 晴
商法見込書持参御殿ニ而一翁殿ヘ上ル、見込之儀申立る、仏行調物いたす
 七日
仏行調物いたす、平岡四郎を訪ふ
 八日 晴
仏行調物いたす、明十日可罷出旨御目付より達書来ル、鵜飼弥一来、夕方平岡四郎を訪ふ
 九日 雨
仏行調物いたす、杉浦愛蔵来
 十日 晴
朝出殿、仏行調物出来之分持参いたす、午後商法見込書之儀ニ付、中老衆御列座ニ而御談有之、見込之儀逐一申立る、夕方帰宿調物いたす
 十一日 晴
昨夜北村彦次郎・荻原四郎兵衛《(萩原四郎兵衛)》来、商法筋見込之儀申談す、朝仏行調物いた《(し脱カ)》御入用残調御品残高とも明細書調済之上出殿ニ而差出す、中老衆御覧之積ニ付御用部屋へ差出す
 十二日 晴
調物残之分御殿へ差出す、商法筋御取開之儀、中老衆へ御催促申上る近々御沙汰可有之旨被申聞
 十三日 晴
今日御殿へ罷出候様頭より被申達、四ツ頃出殿、昼後御用召御役御免御勘定頭支配中老手附被命、商法之儀申上る、御入用調之儀相済候旨申上る、浜中義左衛門来、北村彦次郎来
 十四日 晴
朝出殿商法会所掛之者申立る、此日商法会所御用重立取扱被命、御勘定矢村小四郎・坂本柳左衛門・御用取扱被命、午後紺屋町役所見廻り間取其外申談す、夕方三田伊右衛門・杉浦愛蔵来、御用達呼出之儀申達す
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 十五日 晴
朝紺屋町御役所罷出、御破損等見分、御役所間取調分いたす、明日御用達一同呼出之積申達す、間取其外御普請等取調之儀、出殿之上四郎へ申立る、夕方宮の崎一翁殿旅宿へ罷越し今日之手続申立る、御役所へ引移り、御役屋敷之積を以住居可致旨被申渡、夜浜中義左衛門来
 十六日 晴
朝紺屋町御役所へ罷越す、御用筋取扱ふ御用達之者九人へ会所御用達申渡、商法会所御取開之旨趣申聞る、小遣之者手代之者御普請之事等申談し、一同見込書可差出儀等申談し、夫より出殿、取扱候御用向一翁殿へ申立る、開成所雑物請取方いたし御勘定所へ預置、御勘定下役之者両人会所御用掛申渡
 十七日 晴
此日東照公御忌日ニ付、諸向休局
□《(中カ)》将様久能御参詣有之、終日在宅ニ而会所規則并諸向へ御達御案取調いたす、夕林研海・杉浦愛蔵御勘定下役両人来、前田重五郎へ大塚市左衛門義再応申談遣す
 十八日 雨夕晴
例刻会所出勤、御案類取調、御普請向坂本柳左衛門へ申談、大工へ申付る、畳屋へ表替申付る、重五郎宿所之儀四郎へ申立る、会所内へ引移之積申付る、御触案一翁殿へ差出す、見込申上之書類御入用仕上書とも御下御催促申上る、大塚市左衛門儀和泉殿へ申立る
夜紙幣差引御利益調いたす
(表紙)

組合商法会所御取建之儀見込申上候書付 (栄一自筆)(DK020004k-0005)
第2巻 p.102-104 ページ画像

組合商法会所御取建之儀見込申上候書付 (栄一自筆)
                 (渋沢子爵家所蔵)
一此度御城下おゐて国中組合商社御取建被成候付而は、士農商の無差別右組合相願候者は出金方の多少に不拘加入為致候儀、尤右ニ付御運上御冥加又は株金身元金等一切無之、全士民戮力之商法ニ而、御国産輸出売買便利いたし、売先ニ而〆買等被致候之患無之ため、御取建相成候儀、且元手金融通よろしく候ハヽ、御国産追々増加いたし、国中の富饒可相成儀ニ付、御取建相成候処の御趣意柄士民一統江其筋々より御布告有之度右下案差上候間、御添削之上御触示被成候様仕度奉存候
一商法会所ハ府中清水港及横浜と三ケ所に御取立相成候様仕度候得共、横浜之儀ハ自然御差支之品も可被為在奉存候ニ付、先府中清水港両所ニ御取開被成度、尤御場所之儀は早速取調可申上候得共、差向御人撰之上会所取締壱両人、調役壱両人御命被為成度、右進退は総而御勘定所ニ而御取扱之筈ニ候得共、既に一局を御任し被成候上は尋常瑣少之出納ハ取締之者へ御委任被成、年分凡仕上勘定及臨時廉立候御失費有之候節ハ、申上之上御差図に随ひ取扱候様御命有之度奉存候
一組合願出候者より出金之節ハ、多少に不拘御国産会所印紙相渡、当人之存寄ニ任せ、商法之元手金江組込候とも、又ハ商法之損益に不拘全利分を取候様為致候とも勝手次第ニ為組入、商法に組入候ハヽ
 - 第2巻 p.103 -ページ画像 
其年之損益に随ひ、利金割渡し、金利而已二候ハヽ、年壱割弐分之積を以年末に至利金相渡候様可致、尤組入候もの之内御免相願候者ハ、商法に加入致居候ハヽ、其年之勘定相済候上ニ而元利相戻し被免候様可致、金利取ニ而加入の者ハ月割を以元利共相渡候様致度、将又組合之者之内差掛り無拠入用金有之拝借願出候ハヽ、当人より出金之員数丈貸下候様可致、右利金之儀ハ年壱割五分を以為相納候様致度奉存候
一商法為取扱方ハ、士人不手馴之儀ニ付、商人之内身元有之是迄横浜商ひ致来、世間之聞も宜候者共へ被命、会所用達ニいたし為取扱度尤御城下及市在之内ニ而身元有、律義ニ商売致居候者共取調、会所附といたし、用達に随ひ為取扱候様仕度、尤右被命候付而は、身元金等も為差出可然筋ニ候得共、素々組合商法之儀ニ付、矢張身分に応し元手金ニ加入為致、身元金は無之方可然奉存候、乍去用達并会所附等被命候上は身元引請書は会所おゐて取置候様可仕、且又其者共之精不精に依り被免候も新規差加候も会所取締之者之申立次第其見込に任せ御下知有之候様仕度、右用達及会所附等は尚人撰之上可申上候得共、会所規則之儀ハ差向別紙之通相定置候様仕度奉存候
一御国産は差向茶を第一といたし、漆器・椎茸其外数々品類も可有之候得共、都而輸出いたし候品々は其時々之相場、且売先の景気に随ひ売買為致度、輸入候洋物も土地柄人民の望に応し売捌候様仕度、尤売買品とも時々相場書会所へ為書出、輸出品ハ可成丈高価に為買入、売捌品は下直ニ売却候様可為致、且又土地之便宜に随ひ、迫而養蚕之御法御開相成候ハヽ、輸出品は漸々増加可仕奉存候、右は開墾之御法に係候儀ニ付、迫而土宜取調候上ニ而見込可申上奉存候
一諸運上御冥加等一切無之ニ付而ハ、商社御取建被成候とも別ニ御利益無之筋ニ候得共、上を利し候より国を利し候処之御趣意ニ随ひ候儀ニ而、眼前之御利益相現れ不申候とも、国中の融通よろしく、会社貯蓄之金銀多分出来候ハヽ、追而御新政被令候節、一廉御用立候様可相成儀ハ申上候迄も無之候、尤右会社ニ而相集り候利金之内、弐分宛年末惣勘定之節、高ニ割合引落し、会社金といたし置、掛り役々并商法取扱候商人共、給金及会所入用等仕払候様可仕、右は壱ケ年御試之上ニ而取調見込可申上候間、其節御取究被成下候様仕度奉存候
一組合候者之内全金利取ニ而加入之者も可有之ニ付、会所おゐても金銀貸借之法無之候而ハ融通不便利ニ付、身元有之候商人共会所へ願立手限商売いたし度者へは元手金貸渡候様仕度候得共、唯平常之質地引当等ニ而貸下いたし遣候而ハ、貸金会所同様相成、却而御国害ニ付其売買之品引当ニいたし、日分三厘之利足為差出、売買損益ハ当人任せニ候得共、右売買相済候迄は会所荷物ニいたし、利金は損益ニ不拘為相納候様仕候ハヽ、融通宜候而貸附会所同様之悪弊は有之間敷奉存候
一右会所御取建ニ付而ハ、差向会所御取建入用も有之、且又元手金之内少分たりとも御下金無之候而は、御用為取扱候商人共気受も不宜且は国中おゐて会社を信する之意薄く相成候筋ニ付、差向御出方も
 - 第2巻 p.104 -ページ画像 
願上度儀ニ候得共、御物入多之御時節ニ付、右之段申上候も恐入儀ニ奉存候間、此度私御預相成居候民部大輔殿仏国御滞在中御入用金仕上残金之分、別紙之通ニ御坐候間、右之分会所へ御任せ被成下、会所御取建入用は右之内ニ而遣払相立、残金之分会所元手金江御差加相成候様仕度、尤会所取建方ハ可成丈御入用不相嵩候取斗可申、且又自然商人之内ニ而仮会所相成候御場処有之、当人承服之上は御試中右ニ而御間に合せ候様仕度奉布候
一会所へ組合出金いたし候者、荷物引当拝借致候者、輸入之洋物相渡売捌為致候もの等之内、自然心得違之者有之、無法申立、会所おゐて取捌出来兼候節ハ、会所取締之者申立次第、其御筋ニ而御吟味之上御裁判被成下候様仕度奉存候
右之通見込取調書申上候間御採用被成下度、尤右御取用相成候付而ハ全新規一局御開同様之儀ニ付、取締被命候者、才能之有無により御美政も御国弊と相成候間、篤と御人撰之上其任に堪候ものへ御命有之候様仕度、且又掛り役々等多分に被命候而は、暫時を争ひ候商法抔別而差支多く相成、時機を失ひ候事共可有之候間、御試中は別而掛り役々御減し方可然奉存候、尚御取開ニ付而ハ、会所規則及取扱方等ニ付、相洩候廉も可有御坐奉存候間、右等は取締被命候者実地に試候上ニ而可申上奉存候間、全初発御取建之手続見込有之候処而已申上候次第ニ御坐候、御斟酌之上早々御取開相成候様仕度、依之別紙御布告案会所規則書御入用仕上明細書とも相添、此段申上候
                        以上
  巳正月                  渋沢篤太夫
  ○本冊ニハ本文中ニアル附属書類ハ添附ナシ。


商法会所規則(DK020004k-0006)
第2巻 p.104-106 ページ画像

商法会所規則                (渋沢子爵家所蔵)
此度御城下おゐて組合商法会所御取建、国中之金銀融通宜敷、商売便利相成、御領民利潤いたし、御国産随而相殖候様と之御趣意ニ候条、組合加入致度者は士農商之無差別、多少ニ不拘加入金いたし、商業相営可申、右商法取扱方之儀は、別紙会所規則書之通たるへく間、何れも厚く相心得、無掛念加入可致候、尤組合相願候者は、早々紺屋町商法会所江可申立候事
  巳正月
(以下栄一自筆)
   組合商法会所規則
 今般御城下おゐて商法会所御取建、組合商社御開被成候儀ハ、国中の金銀融通よろしく、御国産相殖候様との
 御趣意ニ而、全御領民利潤いたし候ための御仕法ニ候間、掛り役々とも別而厚く相心得、正路之取扱いたし、御趣意相貫候様可致候事
一組合加入相望候ものハ、士農商の無差別、出金の多少に不拘商法に組込出金いたし、利益相計り候とも、又は金利取ニ而加入いたし候とも、当人勝手次第たるへく候、尤無拠儀有之、御免相願候者ハ商法に加入候ハヽ、其年の勘定済之上ニ而元利下戻し可申、金利取ニ而加入之者ハ月割を以元利相戻し可申事
 - 第2巻 p.105 -ページ画像 
  但、壱ケ年未満ニ而御免相願候ものハ、出金より三ケ月迄は無利足之事
一出金員数之義ハ多少に不拘申立次第会所御印之証書相渡可申、尤名面差出候儀お《(を)》不好向は会所御用達、又ハ会所附商法取扱候商人へ申談、其名面ニ而加入候とも勝手次第たるへく、証書は其出金申立候者へ相渡、本人之名面は相糺し申間敷事
  但、商法ニ組合候ものは、年末惣勘定之上、損益とも加入金之高に応し、正しく割合利金高之内、弐分宛は会所金ニ積置可申事
金利取ニ組合候ものは、年末惣勘定之上、加入金高ニ応し、年壱割弐分之利分相渡可申、尤内弐分ハ会所金ニ積置可申事
一商売筋之義は都而御用達并会所附商法取扱候商人へ為相任、時宜に随ひ、売買可為致候得共、年末惣勘定并時々之出納は掛り役々ニ而見留之上為取扱可申事
一輪出輸入之品物相場書は御用達并会所附之商人より可申立、右商社売買筋ニ付而ハ、決而〆売〆買等手狭窮窟之義無之ハ勿論、買上候品は可成丈高価に引取、売品は下直ニいたし候様可心掛事
  万一心得違之者有之、自己之相場相立、下方難渋之儀有之候ハヽ申立次第取糺し、事実無相違上は其者商法差留可申事
一利徳割合之金子元金へ差加候とも、又ハ別段加金いたし候とも勝手次第たるへく、尤証書ハ其都度相渡可申事
一証書焼失、又は紛失いたし、其段無紛上は印紙を以早々相届可申、左候ハヽ其旨本帳へ認入、月日等相改、押切印いたし、替り証書相渡可申事
一加入金之内、臨時要用ニ而借用いたし度ものハ、申立次第加入金之員数ニ応し、貸下可致、尤右返納之節ハ年壱割五分之利足相添可申事
一会所万一焼失いたし候節ハ、組合利金之内より分割を以取建置、追而会所積金相殖候節、償戻し可申事
一会所へ申立、金子借請、商業相営度ものハ、輸出輸入に不拘願立次第荷物引当貸渡可申間、日分三厘之利足差出可申、尤右荷物ハ売買相済候迄は会所荷物ニいたし、利金損益は勿論売買諸入用ハ都而当人持たるへく、荷物売払済之上、定メ通之元利とも無相違相納可申事
  但、右之分ハ何程利益有之候とも全当人持之儀ニ付、弐分之会所積金は為差出申間敷事
一総而会所へ組合商業相営候者ハ、身元引請書(○徳川公爵家所蔵「御書付元」所収の規則には「引請書」の代りに「引請之証書」とあり)差出置可申、万一組合之内不時之災厄、又は商法ニ付大損毛有之、難渋およひ候者は取調之上、会所積金之内を以救助可致、尤商法ニ付売掛滞り又は相場之高下により売買品請取渡等ニ付相手方不法之儀有之候ハヽ、申立次第会所ニ而取糺し、早々裁判可致遣事
  但、右入用金は其事柄及当人の身分に応し、会所積金之内より救助被下候儀も可有之事
右之通規則相定置、尚追々事実に当り衆議お《(を)》尽し、箇条増減も可有之
 - 第2巻 p.106 -ページ画像 
候得共、都而自己之取斗を以、右規則に相戻り候様之儀決而致間敷事
  巳正月                     商法会所
  ○徳川公爵家所蔵「御書付元」ニ此規則ヲ掲グ。本文ハ右ニ掲グル所ノモノニ殆ンド同ジ。タダ仮名ヲ漢字トスルモノアルノミナリ。而シテソノ前書トシテ左ノ如ク記サル。
      大目付 御目付 江渡候書付
  此度御城下おゐて組合商法会所御取建、国中の商売便利相成、御領民利潤致し御国産随而相殖候様との御趣意ニ付、組合加入いたし度者は士農商之無差別多少ニ不拘加入金いたし商業相営可申、右商法取扱方之儀は別紙会所規則書之通相心得、無懸念加入可致候、尤組合相願候者ハ早々紺屋町商法会所江可申立候
  右之趣御家来中江不洩様可被相触候
        正月
  右之通大目付御目付江相達候事
       正月廿日
  ○右ニヨレバ、ココニ掲グル栄一ノ草案ガソノマヽ規則トシテ公布セラレタルナリ。


明治二年巳正月 商法御会所規則書 萩原控(DK020004k-0007)
第2巻 p.106 ページ画像

明治二年巳正月
商法御会所規則書  萩原控   (萩原太郎次郎氏所蔵)
此度於御城下商法会所御取建相成候ニ付而は、各支配之御年貢米御入用残之分都而会所ニ而一手ニ御払方為取扱候間、其段兼而可被心得候尤御領国之儀は人口ニ応し米穀不足ニ付無届糴米不相成候事
右之通惣町中末々迄不洩様可相触者也

  巳正月廿三日 府中奉行所 御印 町年寄
右之通被 仰渡候間此段相触申候以上
  巳正月廿四日 町年寄 会所

 正月十六日御開之節御用達被命候者
  北村彦次郎 萩原四郎兵衛 勝間田清左衛門 宮崎五郎左衛門
  塚本孫兵衛 野崎彦左衛門 野呂整太郎 馬場惣左衛門
 其外追々被仰付四月八日東西之者へも手付等被命掛り訳被申渡候事


商法御会所規則並御書付綴込(DK020004k-0008)
第2巻 p.106-107 ページ画像

 商法御会所規則並御書付綴込 (萩原太郎次郎氏所蔵)
(表紙)
 明治二年巳正月十六日御開法
 同 八月二十七日御廃止相成
商法御会所規則並御書付綴込
   但元御代官館紺屋町西傍屋敷ヲ以会所御取建御開より御廃止迄鶴夫儀会所金銀取扱或は預り等は勿論商事関係少も不致候間勘定□ニ抱り無之
巳六月二十日駿州府中之儀静岡と御唱替被仰出候
町奉行所御廃止相成候事八月二十六日
                 萩原四郎兵衛控
               七月廿六日改名鶴夫

 - 第2巻 p.107 -ページ画像 
商法会所御取建相成候ニ付而は商法筋ニ係り候儀は其支配江不相達御領内商民共直々会所江呼出、夫々商法御用向取扱可申、尤用達用聞等申付候節は其段商法会所より各々江相達候筈ニ付、可被得其意候
右之通各所奉行同添奉行江相達候間可被得其意候
此度府中江商法会所御取建相成候ニ付、商法筋之儀は素より御領内開墾、其外御国益筋之儀、都而同所江御任せ被成候間、其方共心付候儀は勿論、支配所内之者御国益筋之儀申立候ハヽ、会所申談取斗候様可被致候
   正月
右之通各所奉行同添奉行江相達候間可被得其意事

此度御城下ニおゐて商法会所御取建被成候ニ付而は、各支配之御年貢米御入用残之分都而会所ニ而一手ニ御払方為取扱候間、其段兼而可被心得候、尤御領内之儀人口ニ応し米穀不足ニ付、無届糴米不相成、猶委細之儀は御勘定頭可被談候事
右之通各所奉行同添奉行江相達候間御不益無之様御払方可被取斗候事


常平倉御取建一件留(DK020004k-0009)
第2巻 p.107 ページ画像

常平倉御取建一件留           (萩原太郎次郎氏所蔵)
商法会所御掛り
 御勘定役 中老手付 渋沢篤太夫   御下役 前田重五郎
           一 篤太郎
御勘定        矢村小四郎       萩野徤太郎《(萩野健太郎)》
           四
〃          坂本柳左衛門      渡辺源次郎
           柳元
           二
〃          平島直次郎       伊藤三四郎
           三
〃          田中彦八        黒柳徳三郎
           死
〃          佐久間忠左衛門
           五
〃          吉田徳左衛門
           別格   亨
〃           黒沢謙蔵
            六
〃           服部平八


渋沢栄一伝稿本 第六章・第三五―四一頁〔大正八―一二年〕(DK020004k-0010)
第2巻 p.107-109 ページ画像

渋沢栄一伝稿本 第六章・第三五―四一頁〔大正八―一二年〕
○上略 会所は官民合同の出資に成り、藩庁の出資金に加ふるに藩内士民の出資を以てし、士民の出資は之を営業資本としての出資と、預金利子を目的としての出資とに分ち、前者に対しては利益配当を行ひ、後者に対しては利子を支払ふ、共に年末一回とす、されば前者は一種の株式にして、後者は信託預金に類似せり、又其営業は出資者并に一般商工業者への貸附と、商業を営むとにあること、文中に見えたるが如し。かくて商法会所の成立するや、先生は商法会所の御用を重立ち取扱ふべしとの辞令を受け、尋で班を進めて御右筆格となる、此前後に於て藩士矢村小四郎・平島直一郎・坂本柳左衛門・田中彦八・吉田徳左衛門・黒沢謙蔵・服部平八郎・前田重輔・伊藤三四郎・黒柳徳三郎・萩野健太郎・渡辺源次郎等は会所掛となり、民間よりは北村彦次郎・萩原四郎兵衛・勝間田清左衛門・宮崎五郎左衛門を御用達肝煎、塚本孫兵衛・松本平八・野崎彦左衛門・野呂整太郎等三十余人を御用達となす、なほ御用達介・手附頭取・手附などいふ者四十余人あり。
 - 第2巻 p.108 -ページ画像 
用達は駿府清水湊・浜松・江尻・中泉・藤枝・島田・興津・大宮・沼津等を始め、駿遠二国内の豪商・豪農を選びたるものにて、皆先生の支配下に属し、各商法掛・貸附掛等を分担して駿府・清水の両会所に分属せり。東京会所の事は詳ならず。会所の経営は先生之を専当すれども、勘定頭平岡四郎・小栗尚介の二人其上にありて之を監し、中老大久保一翁更に其上を綜理せり。
商法会所の資金は大体に於て藩庁の出資と士民の出資とより成ること上文にいへるが如し、かくて藩庁は元金として金一万六千六百二十八両二分・永十文八分四厘を支出し、別に政府より借用せる金札の内二十五万九千四百六十三両余 金札三十八万五千九百五十一両・永四十六文九分なり 札百四十八両三分を以て正金百両に換算す。 を加へたり、士民の出資は所謂差加金にして、金一万四千七百九十五両二分・永四十一文七分・金札三千八百三十両 此金札も正金に換算せる額なり。 あり、官民の出資総額二十九万四千七百十七両・永五十二文五分四厘となる、即ち商法会所の総資本金なり。藩庁より支出せる元金一万六千余両の約三分の一は、昭武仏国滞在中、先生が整理し倹約して貯蓄せるものなりき。商法会所の事業としては、既に其規則の条下に説明せるが如く、貸附金は、出資者へは差加金高までを無抵当にて貸附け、一般商人へは商品抵当にて貸附くるの外、産物元入代、又は肥し物代として村々への貸附等あり、其種類により、年一割五分・一割二分、又は日歩三厘の利子を徴す。預金は即ち差加金の一部にて、平素士民の預入を受くるものにあらず、此外藩の勘定所へ其要求によりて融通せることもあり、是等は今日の銀行営業に類す。
商業方面にありては、各地に於ける米穀・茶・蚕卵紙・繭・水油・塩・砂糖・半紙・下駄・鼻緒・肥し物干鰯・〆粕・油粕・糠。等の買入れと其販売とを重なるものとす。但肥し物即ち肥料は、領内の農民に貸附けて其利を徴したり。米穀は大阪・柏崎・関東の各地にて、水油は勢州にて、塩は赤穂及び甲信地方にて、茶は宇治及び勢州にて多く買入れしものゝ如し。又蚕卵紙・繭は概ね之を横浜に出して売却せしが、当時先生の同族渋沢宗助同地に生糸店を開き居たりしかば、其手を経由し、又古河市兵衛をして取扱はしめたることもありき。養蚕懸りといふ者当時の文書に散見すれば、藩内にても此業を営めるならんか。かくて清水港に倉庫を建てゝ、米穀等を貯蔵すると共に、常に人を取引地に送りて買入・売却等の事を為さしめ、就中大阪は商業地として最も注意を要するが故に、屡々会所掛の人々及び重なる用達商人を派して、相場の変動を始め、一般の商況を視察報告せしめたり。且又廻漕の用に便するが為に、数艘の船舶を買入れ当時廻漕業者として世に知られた嘉納治郎作に托して之を掌らしむるなど、先生の経営は著々として発展せり。是等の事は商法会所の規則にも示せるが如く、会所と商人と組合ひて売買したることもあれど、多くは会所の一手にて之を営みしに似たり。
当時の政府紙幣即ち金札と正金との取引は、時の相場によるの定なれども、士民多く金札を喜ばず、通用渋滞して価格下落す、これ国民が未だ紙幣の通用に慣れざると、政府の信用尚薄きとに由るものなるが先生密に思へらく、斯かる有様にては、紙幣流通の為に、将来諸物価の騰貴を促すに至るべければ、今の中に紙幣を正金と交換し、又物品
 - 第2巻 p.109 -ページ画像 
を買入れ置かば、必ず利益を得るに相違なしとて、常に用達商人等に訓示し、東京にては肥し物、大阪にては米穀を購ふなど、専ら意を玆に用ゐたり。此年二年四月二十九日、政府は紙幣と正金との間に差を立つるを厳禁し、若し違ふ者あるときは、本人は勿論、本人所属の府藩県長官・領主共に曲事たるべきを令せり、而して此事ははしなくも会所内に紛擾を醸すの一因となれり。



〔参考〕渋沢栄一伝稿本 第六章・第八六―八八頁〔大正八年―一二年〕(DK020004k-0011)
第2巻 p.109 ページ画像

渋沢栄一伝稿本 第六章・第八六―八八頁〔大正八年―一二年〕
抑々我国が欧洲の制度に倣ひ、所謂合本組織の商事会社を組織せるは、慶応三年の末に勘定奉行小栗忠順の計画に基き、京阪地方の富豪を勧誘して設立せる「商社」俗に兵庫商社を最初とす、然れども、此商社は完全に其組織か了せざる前に解散したれば、取り立てゝいふべきほどの事なし。推新の後に及び、政府は明治元年三井八郎右衛門等府下の富豪に内諭して貿易商社 後に東京商社と改称すを、大阪の富豪三井権右衛門等を勧誘して摂津米油会社を起さしめ、二年また三井組・小野組・島田組を始め、各地の富豪を慫慂して、三府・五港及び其他の商業地に通商会社 初め開商会社といふ と為替会社とを設立せしめ、或は貿易を行ひ 貿易商社の如き 米油の限月取引を許し、摂津米油会社の如き 或は広く商業に従事し、通商会社の如き 或は民間の金融機関となすなど、為替会社の如き。商業の振興に力むる所あり。是等の事は後章に於て別に細叙せんとす 是等は孰れも商業会社の起原と見るべき者なれども、多くは五六の富豪の合資組織に初まり、比較的多数の出資者を集めたる為替会社とても、要は発起人の勧誘に応ぜし者のみに限られたり、先生によりて静岡藩に企てられたる商法会社か、藩内に布告して出資者を公募せるが如きを見ず。蓋し上述の諸商社は、今の合資会社の如く静岡の商法会所・常平倉は寧ろ今の株式会社と相似たり、等しくこれ合本組織なれども、先生の理想とする所夙に一頭地を抜き、広く一般民衆の資本を合本せんとせしことは特筆に値すべし。○下略
  ○我国ニ於ケル会社企業ノ成立ニ付イテハ、ナホ菅野和太郎著「日本会社企業発生史の研究」ヲ参照スベシ。