デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第2巻 p.332-333(DK020040k) ページ画像

明治三年庚午二月二十三日(1870年)

二女こと子生ル。


■資料

渋沢栄一直筆 出産届(DK020040k-0001)
第2巻 p.332 ページ画像

渋沢栄一直筆 出産届              (渋沢子爵家所蔵)
    ○
出産御届 渋沢篤太郎
   私妻儀去廿三日暁分身女子出生母子共無恙罷在候此段御届申上候 以上
  午二月                 渋沢篤太郎
    ○
産穢ニ付出仕之儀奉伺候書付 渋沢租税正(朱印清行)(印)
    恒例
一産穢七日           二月廿三日ヨリ同月廿九日マテ
(割印)
右者産穢ニ付書面之通出仕差扣候様可仕哉此段奉伺候也
   午二月廿三日
                        渋沢租税正
  (上欄ハリ紙・割印前文ニツヾク)
 明廿四日ヨリ出仕可致事


青淵先生子孫一覧(DK020040k-0002)
第2巻 p.332-333 ページ画像

青淵先生子孫一覧
 - 第2巻 p.333 -ページ画像 
     二女
 渋沢栄一―こと
  母ハ前配尾高氏明治三年二月二十二日生、阪谷芳郎ニ嫁ス
   ○阪谷子爵夫人ハ昭和十四年十月二十六日逝去ス。


はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻之二・第四二丁〔明治三三年〕(DK020040k-0003)
第2巻 p.333 ページ画像

はゝその落葉 (穂積歌子著)巻之二・第四二丁〔明治三三年〕
琴子生れしハ明治三年の二月なりき。其夏の頃より母君の御乳細りてちごのおもふさまにハ肥えふとらざりければ。かくてハ病や出でなん。乳母して。はぐゝませ給へと。人々すゝめ申けれど。母君ハ我ふる郷にてハたとへちごのうゑて死ぬとも。めのとなど召しかゝふる者ハあらず。我身成り出でゝ程なきに。はや昔を忘れて心おごりせりと云はれんハ。ちごが病ミわづらふにもまして心苦しかりぬべし。とて聞き入れ給はず近きほとりに住ミける人の乳をこひなどして。はぐくミやしなひ給ひけり。此よし祖父君伝へ聞かせ給ひて。おごりをつゝしむも事にこそよれ。今ハ朝廷の官人の妻なるに。子の為めに乳母一人召し遣へりとて。何の憚りかある。と仰せおこさせ給ひしかば。いといたうよろこばせられ。やがて心まめやかにして乳のよきをえりて召しかゝへ給ひけり。


穂積歌子 (蘆谷蘆村著) 第五七頁〔昭和九年一月〕(DK020040k-0004)
第2巻 p.333 ページ画像

穂積歌子 (蘆谷蘆村著) 第五七頁〔昭和九年一月〕
○上略 めでたいことはつゞいて、あくる年の三月、歌子さんはお姉様になりました。妹は名を琴子とつけられました。後に男爵芳郎氏の夫人になつたのは此の琴子さんであります。此頃は、外国に蚕種を輸出することがはじまりましたので、祖父晩香翁は、時に其の取引のために横浜へ出るやうになり、時には祖母や、叔母さんも一緒に来て、泊つてゆく様になつたので、歌子さんには楽しい日がつゞきました。○下略



〔参考〕処世の大道 (渋沢栄一著) 第七一四―七一五頁 〔昭和三年一一月〕(第一二版)(DK020040k-0005)
第2巻 p.333 ページ画像

処世の大道 (渋沢栄一著) 第七一四―七一五頁〔昭和三年一一月〕(第一二版)
○上略 私の娘で阪谷男爵の夫人になつてゐるコト子は、別に大した学問があるといふでも無いのに、不思議に年月日に関する記憶が正確で、何年の何月何日には何んな事件があつたといふことを能く記憶して居る。故に私の一族では、斯んな事は何時あつたと誰も忘れてしまつてるやうな時には、之を阪谷男爵夫人に訊いてみると必ず之を記憶して居つて、何時何日だと知らしてくれる。為に私の一族は頗る重宝して居るのだが、年月日のみを記憶して居るわけにも行かぬもので、年月日を記憶して居ると同時に、事件の梗概をも記憶して居るのだ。大隈侯の記憶力も非凡だが、伊藤公の記憶力も実に非凡なもので、学問上の事でも何でも記憶して居られたものだ。阪谷男爵夫人は、学問がさまでに深いといふのでも無いから、学問上のことは覚えても居らぬが年月日に関した記憶力の非凡なのには私も時折驚かされる。○下略