デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第2巻 p.428-431(DK020103k) ページ画像

明治三年庚午八月六日(1870年)

木戸孝允栄一ヲ其ノ居ニ訪ヒ、時事ヲ談ズ。


■資料

木戸孝允日記 第一・第三八〇頁〔昭和七年一二月〕(DK020103k-0001)
第2巻 p.428 ページ画像

木戸孝允日記 第一・第三八〇頁〔昭和七年一二月〕
同六日○三年八月 雨午後晴、湯島に至り渋沢租税正を訪ひ時事を相語る此人は曾て徳川民部卿に随ひ仏国に留学せし也六字過帰家
 - 第2巻 p.429 -ページ画像 

雨夜譚会談話筆記 下・第六五〇頁〔昭和二年一一月―五年七月〕(DK020103k-0002)
第2巻 p.429 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 下・第六五〇頁〔昭和二年一一月―五年七月〕
先生「○上略 木戸とは湯島に居る時会ひたいとてやつて来たので打ちとけて話した。何でも『わざわざ来たのではない、近所まで来たから一寸寄つた』とて当時大蔵省に江幡五郎 那珂通高)と云ふ者が居た、文章のよく出来る人であつたが、木戸が此人を自分が使ひたいからくれぬか、と云ひ、次で『一体君はどう云ふ身柄であるか、主義はどうか』などゝいろいろなことを聞いて『親しく話して見ないと判らぬから』とも云つて帰つた。」


処世の大道 (渋沢栄一著) 第三〇八―三一〇頁 〔昭和三年九月〕 ○木戸孝允の人物鑑識眼(DK020103k-0003)
第2巻 p.429-430 ページ画像

処世の大道(渋沢栄一著)第三〇八―三一〇頁〔昭和三年九月〕
  ○木戸孝允の人物鑑識眼
○上略
 明治六年の五月に及び、愈よ私が井上侯と共に官を辞して大蔵省より退くことになり、辞表を提出した時に、井上侯と私との両人より、奏議として三条公を経て上つた建白書がある。この建白書は私が案を立てて、当時大蔵省の一吏員であつた江幡五郎氏に起草せしめたものである。この江幡氏は後に至り那珂通高と称した人で、盛岡に生れ聖堂で学問をした、漢学の造詣頗る深き達文の学者であつたのだが、この一文が当時曙新聞に登載せられ、世間に公にせらるゝや、如何にも名文であるなぞと賞められたものである。
 これは私が未だ官途から退かぬ前の明治四年の春頃であつたやうに記憶するが、木戸孝允公は一日突然私を湯島天神下の茅屋に御訪ね下された。取次の者が、「木戸公が御見えになつた」と申すから、「木戸公ならば参議であらせられて、太政官でも偉い方である。あの木戸参議が私の宅なぞへ御訪ねにならう筈が無い。屹度人が違ふだらうから、能く調べて見よ」と取次の者に申付けたのであるが、「イヤ……矢張り参議の木戸孝允公である」との事故、何の御用で態々御越し下されたものかと、恐縮しながら座敷に御案内申して、御用を窺ひあげると、別に大した用件でも無く、「実は江幡といふ者を貴公の方の大蔵省で使用つてるさうであるが、彼人を太政官の方に採用したいと思ふ。同人の学識に就ては十分に調査もしてあり、又承知しても居るが、その人物が果して如何なるものか、之を明にし得られぬので困つて居る。依て同人に就き貴公の観た所を、腹蔵なく私に申し聞かせてくれ」との事であつたのである。
 私は江幡氏に就て私の観た丈けのことを詳細申述べ、其人物を木戸公に御説明申上げたのであつたが、木戸公が私を態々茅屋に訪れられたのは、其真意が江幡氏の人物を知らうとするよりも、実は之を口実にして、渋沢は一体何ういふ人間であるか談話でもして試やうといふにあらせられたものかも知れぬ。仮令それにしても、申さば刀筆の一吏に過ぎぬ江幡を太政官に採用する件に付、その人物を知る為め、微位の官吏に過ぎぬ私の茅屋まで、参議の貴い御身分を以て態々来駕あらせられた所によつて見れば、木戸公が如何に人を用ひるに細心の注意を払はれ、適材を適所に置かんとする事に御心を傾けさせられたも
 - 第2巻 p.430 -ページ画像 
のであるかを伺ひ知るに足るのである。
  ○木戸孝允ト栄一トノ会見ハ是日ガ最初ナリシモノノ如シ。爾後数度会見シ又書状ヲ発セルコト木戸考允日記ニ見エタリ。爾後ノ資料ハ以下ニ参考トシテ掲グ。



〔参考〕木戸孝允日記 〔昭和八年三月〕(DK020103k-0004)
第2巻 p.430-431 ページ画像

木戸孝允日記〔昭和八年三月〕
   ○第二(第五〇―五一頁)
同九日○明治四年六月 雨、十字過筑地伊藤に至り 知事公横浜御着否の辺を伝信磯を以聞合せり、然るに御着のよし不相分、福地源一郎、渋沢□等とも相会話す○下略
   ○第二(第三九二頁)
同十日○明治六年六月 晴、□字伊太利亜ナーフルヘ着す、百四十里の海路、六字前揚陸、市街を車行、旧ホテルにて茶菓を認め、写真屋等に至り十字前帰艦、経度十一度五十八分三十分《(マヽ)》緯度四十度三十四分十六里十
二字
 当地《(鼈頭)》にて渋沢の書状を得る
   ○第二(第四〇六頁)
同廿八日○明治六年七月 晴、十字過より河瀬を訪ひ、大隈を訪ふ、皆不在、井上に至る、一昨年来の事情を聞得す、渋沢栄来会、三宇頃より隅田川へ舟行す、吉川□亦来会、十字井上に帰り一泊せり
   ○第二(第四一〇頁)
同六日○明治六年八月 晴、十字頃より井上来話余井上の羽州行をとゞむ、彼今日他へ関係するもの尤多く、則今直に此行をとどむるときは他人へ損失を及すものもまた不小、依て一度羽州に至り、余の得報知ときは速に帰京せんことを約せり、鳥尾山県西郷真俉等来話、四字頃より両国増田屋へ会す井上陸奥渋沢等も亦来会、九字皆去、途中白雨に逢ふ
   ○第二(第四一八頁)
同三十一日○明治六年八月 晴、朝横山孫一郎大倉屋商法の規則方法更に不相立、当時専ら豪商と唱ふるものも多く官員に媚び、各一時の僥倖争ひ、或は譎詐専らとし、真の商法の規則法方の不相立を歎し来て前途の主意談話し、云々を余に依頼せり○中略 九字頃より渋沢栄二《(マヽ)》を訪ひ談論数字、一字帰家○下略
   ○第二(第四二四頁)
同十四日○明治六年九月 雨○中略 伊藤春畝来訪、欧洲一別已来の事情を承了し、また本邦の近情を話す、渋沢栄一来話○下略
   ○第二(第五〇二頁)
同廿七日○明治七年二月 晴又曇○中略 五字の蒸気車にて直に横浜に至り井上世外の新宅へ一泊す、夜渋沢□も亦来話
   ○第三(第二四頁)
同六日○明治七年五月 晴、九字作間一介を訪ひ○中略 其より浮田八郎を訪ひ又青木の新宅を尋ね渋沢栄一を訪ひ十二字前伊勢に至り共に長安和惣の招に至る○下略
○中略
 - 第2巻 p.431 -ページ画像 
同九日○明治七年五月 晴、渋沢栄一陸奥陽之助書状到来
   ○第三(第一六六頁)
同廿三日○明治八年三月 晴又雨又晴○中略 四字過より山田顕義一同伊藤博文の宅に至る、山尾芳川渋沢井上福原大野等同席小酌談話○下略
   ○第三(一六七―八頁)
同廿六日○明治八年三月 晴烈風○中略 渋沢栄一来て大蔵省の事情世上不融通の所以を談話せり○下略
   ○第三(第一七四頁)
同十九日○明治八年四月 晴、渋沢栄一小室信太夫古沢迂郎来話井上馨一条なり○下略