デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第2巻 p.440-444(DK020109k) ページ画像

明治三年庚午八月二十四日(1870年)

大蔵少丞ニ任ジ、従六位ニ叙セラル。


■資料

百官履歴 下巻・第一四〇頁〔昭和三年二月〕(DK020109k-0001)
第2巻 p.440 ページ画像

百官履歴 下巻・第一四〇頁〔昭和三年二月〕
         東京府平民 渋沢栄一 篤太郎
同月 ○明治三年八月廿四日 任大蔵少丞 ○同日 叙従六位
 - 第2巻 p.441 -ページ画像 

青淵先生公私履歴台帳(DK020109k-0002)
第2巻 p.441 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳
同○明治三年八月廿四日 任大蔵少丞             同○太政官
同 同         叙従六位              太政官


大蔵省沿革志 本省第三・第八五丁(明治前期 財政経済史料集成 第二巻・第一一ニ頁〔昭和七年六月〕)(DK020109k-0003)
第2巻 p.441 ページ画像

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青淵先生伝初稿 第七章一・第四七―五二頁〔大正八年―一二年〕(DK020109k-0004)
第2巻 p.441 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章一・第四七―五二頁〔大正八年―一二年〕
○上略 同月○明治三年八月 廿四日更に大蔵少丞に転任し、従六位に昇る。少丞は大丞と共に大少輔の次に位し、寮司の頭正と同じく奏任官たり。明治二年七月の職員令に大少丞を註して「省事を糺判する事を掌る」とあり、又同四年八月の大蔵省職制にも大少丞の条に「卿輔の命に従て省中各課の事を管理し、各寮司の事務を通知するを掌る。省中各課の事務に就ては、其担任の制限によりて卿輔に対し之を調理するの責に任ず。卿輔の命令により、其名を以て時々各官省各局へ往復する文書、又は各寮司其他へ指令等の事を掌る。成規例格を明にして各寮司等処務の順序を調査す。各寮司其他より期を逐て報知する考課状を受け、之を検閲して卿輔に呈す。他方出張の事あれば、其時に当り郷輔より殊に其処務の制度を定めて之を命じ、又は此職より請問して之を定む。
大録以下の所務を董督して書記の事を詳知し、其能否勤惰を監視して進退黜陟を具状す」と見えたるにて、其職とする所を知るべし。爾来先生は省務の全般に渉りて其機密に参与せり。○下略


青淵先生伝初稿 第七章一・第五〇―五二頁〔大正八年―一二年〕(DK020109k-0005)
第2巻 p.441-442 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章一・第五〇―五二頁〔大正八年―一二年〕
此時に際し、大蔵省は大輔に大隈重信あり、少輔に伊藤博文あり、大丞に井上馨、得能通生、上野景範あり、少丞に先生及び安藤就高あり此外造幣頭は井上馨の兼ぬる所にして、監督正は田中光顕、租税権正は前島密、河津祐邦、営繕正は平岡温熙、通商正は中島信行、出納正は林信立等なり。概ね当代の雋材にして大隈伊藤の両人其牛耳を執る。
二人は共に新政府の事実上の首脳者たる参議大久保利通の知遇信任を受け、凡百の事業皆其協賛に係れり、されば両人の勢力は朝野に振ひ、従うて大蔵省の勢力もまた他の諸省を圧す、ことに両人は其少壮気鋭に乗じて、革新に急に、西洋文明の移植に熱心なり、其頃両人の住宅は共に築地にありて相隣り、主義政見を同じくする者、省の内外を問はず、皆其邸に集り、高論放談して経世を策す、先生及び井上馨等亦其一人なり、世人字して築地の梁山泊といへりとぞ。而してこの梁山泊は、維新の初における進歩的施設の策源地なりしなり。かくて先生と大隈・伊藤・井上との交情は日に親密を加へ、曩に省内一人の知己なきを歎じたるもの、今や同志相得て省内の重きを為すに至れり。大隈・伊藤は幾くもなく他に転じたれども、井上はなほ久しく大蔵に留り、先生と膠漆の交を締せり。先生が是等英邁の士と相倚り相助けて
 - 第2巻 p.442 -ページ画像 
或は制度法規を立案し、或は幾多の文化事業を建設し、次で明治の聖治を輔翼したる手腕は、実に鮮明なるものなりき。


青淵先生伝初稿 第七章四・第一―一九頁〔大正八年―一二年〕(DK020109k-0006)
第2巻 p.442-444 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章四・第一―一九頁〔大正八年―一二年〕
大蔵省時代に於ける先生の事業は頗る多岐に渉れり、従うて其財政経済に関する努力の如き、尚重要なる諸件に富めりと雖も、暫く筆路を転じて先づ殖産興業の方面を叙せん。
明治の新政府が欧米の長所を採りて、大に産業を起さんとする時に当り、国内の商佑概ね進取経営の気力に乏しくして、時運の開発と相伴はず、其徒の為すがまゝに放任する時は、富国の実を挙ぐること得て期すべからず、此に於て政府は自ら手を下して各種の事業を起し、或は資を給して之を幇助するなど、一々其模範を示し、以て国民を指導啓発せんことを試みたり。凡そ明治初年に勃興せる商工業にして、政府の経営に成り、又ハ其援助指導の下に計画せられざるもの殆ど稀なり。鉄道・汽船の如き運輸交通機関は更にもいはず、瓦斯・電気の如き、抄紙、印刷の如き、紡績・織物の如き、製紙・養蚕の如き、さては硝子、煉瓦・陶磁器より貿易・金融の事に至るまで皆然らざるはなし。かく保護干渉によりて一世を指導せんとせる政策は、実に大久保利通に出で、比較的多くの俊才を集めたる大蔵省が、他の諸省と共に此政策実施の任に当りたるは亦当然の事なり、今少しく前に遡りて商工業勃興の一斑を語らん。
明治政府は其成立以来、金融を疏通し、殖産興業を奨励するを以て第一の経済政策と定めたれば、明治元年閏四月東北の戦雲未だ歛まらざるの際、早くも商法司を会計官中に置き、当時京都にあり尋で其支署を東京・大阪に開設せり、蓋し三都は商業上枢要の地なるを以てなり。商法司は専ら内国商業を管理する所にして其下に商法会所を設立せんとしたるが、其議は後に変更したるにや、同年十一月貿易商社といへるものを創設せり。貿易商社は、政府が東京府下の豪商を慫慂して商法司監督の下に成立せるものにて、三井八郎右衛門を総頭取に任じ、別に数名の肝煎を置けり、蓋し我貿易商人を保護し、貿易の伸張を図らんとせしなるべし。然るに翌二年通商司を置きて商法司を廃し、尋で会計官を廃し大蔵省を置くに及びて、通商司は同省に属す、程なく又民部省に移管し、三年七月再び大蔵省の所管に復したれども、四年七月に至りて通商司も亦廃せらる。其設立の当初、政府より委任せられたる権限は、「物価平均流通を計るの権、両替屋を建つるの権、金銀貨幣の流通を計り、相場を制するの権、開港地貿易輸出入を計り、諸物品売買を指揮するの権、廻漕を司るの権、諸商職株を建つるの権、諸商社を建つるの権、商税を監督するの権、諸請負を建つるの権」等なりき。かくて其所轄監督の下に、通商会社・為替会社・廻漕会社を置き、商業・金融・海運の諸業を経営せしめたり。
通商会社とは、甞て商法司の下に設立せる貿易商社の改称にして、通商司開設の後、其所轄に帰したるものたり。東京の外、京都・大阪・兵庫・大津・堺・小浜の各所にも置き、内地商人の合本組織により、専ら外国貿易の衝に当り、且つ貨物を抵当として商人への貸付を行ひ、
 - 第2巻 p.443 -ページ画像 
諸国物産の供託販売の事をも取扱ひ、兼ねて倉庫業をも営めり。又為替会社は、通商司と共に設置せられしものにて、同じく各地の富豪を慫慂し、其合資により成立したれども政府は其資本の不足を補ふ為に、通商会社と共に巨額の太政官札を貸与せり、是れ一面に於て官札の流通を計らんとする手段なりき。かくて為替会社は東京・横浜・新潟・京都・大阪・神戸・大津・敦賀の八箇所に起りしが、其施設する所は、専ら其資本を融通運転して、通商会社に助力を与へ、併せて民間金融の便を図るにあり、即ち両替・為替・預金・貸付・洋銀・及び古金銀の売買を以て本業とし、且つ紙幣発行の特権を附与せらる。紙幣には金券・銀券・銭券・洋銀券の四種あり、金券は各社共に発行したれども銀券は東京、洋銀券は横浜、銭券は京都・大阪の為替会社のみ発行し、且つ金券は正金と引換へ、洋銀券は洋銀と引換ふるの外、他は皆官省札と引換ふる規定なりき。ほゞ今日の銀行事業に類似せるを知るべく、銀行紙幣発行の濫觴も亦玆に存するを知るべし。廻漕会社は明治二年十二月、政府が廻船問屋・飛脚問屋・運送問屋等を慫慂して設立せしむる所にして初め廻漕会所と称し、東京霊岸島に設け、加納久三郎をして其事を取扱はしめ、三年正月より、東京・大阪間の定期航路を開く、資本金は概ね為替会社より融通貸与せり、蓋し通商会社・為替会社と相依り相助けて、商工業を振作せんとするなり。二年六月太政官より三府及び諸開港場への達に、通商司設置の趣旨を述べて「宇内万国財を生じ貨を集むるの道、百物を流通し貿易を便にするにあり、凡そ土に肥痩の差ひ、地に寒暖の別あり、則ち其生産するもの亦自ら従て異なり、之をして有無相通じ百貨往来せしむる者は商なり、然るに我皇国商律未だ備はらず、財を生ずるの道未だ隆ならず、今や各国相往来し、通商開くるにあたつて金銭物価其平均を失し、上下の疲弊日に甚し、故に商律を立て、貨幣の融通を助け、廻漕の便を設け、内外輸出入の多寡を量つて物価を平準ならしめ、万物流通、財を生じ貨を集むる基を開くにあり」といへるもの、やがて此三会社を設けたる所以なり。されば我国に合本組織の商事会社あるは、実に貿易商社を以て嚆矢と為すと共に、為替会社を以て銀行の鼻祖と為すべし。通商会社・為替会社・廻漕会社は、共に通商司の保護監督の下に其営業を開始し、互に協力して商工業の発達を期するにありしが、就中政府が最も意を用ゐたるものを通商・為替の両会社と為す、此両会社は輔車唇歯の関係を有し、通商司の重要なる機関なりき。為替会社規則第六条に「通商司為換会社・商社・両組の儀は、互に相助け合候て事業をなし候儀に付、一家の如く睦合、実効相顕候様可致、因ては両会社の諸帳面は、社中の者は勿論、両会社総頭取始め、組々相互に随意に見改るの権あるべき事」とあり。比の如くなれば、政府の保護頗る厚く為替会社に対しては、資本金を貸与せる外、尚屡々官金を供託して運転せしめ、貸付金の延滞せる場合には、政府に於て之が処分を引受くべきを保証し、又通商会社に対しては、無抵当にて為替会社より資金の借入を許すなど、大に其発達を助成せり。明治三年十二月、東京通商会社は名称を東京商社と改めしが、大阪商社・神戸商社・京都開商会社・大津開商会社・堺開商会社・敦賀開商会社などいへる称呼、其
 - 第2巻 p.444 -ページ画像 
頃より旧記文書に散見せるを見れば各地方の通商会社も亦東京と同じく改称せるものなるべし。 以下便宜汎称して商社と記す 翌四年三月に至り、各地商社の所轄を地方庁に移すことゝなりしが、為替会社のみは尚通商司の管する所なりき。然るに其年七月五日通商司廃止せられて、為替会社は出納司監督の下に立つことゝなれり。此の如く商社の所轄を改め、尋で通商司を廃したるにつきては、種々の事由あり、商社の事は、四年三月大蔵省より太政官への届に、「商社の義は、其初立会合衆の財力を以て、外人の射利の商策を挫候様勧奨誘導いたし候故を以、是迄通商司に於て管轄いたし候得共、所詮地方官にて取扱不申候ては不都合に付、夫々其地方官へ引渡可申と存候」と見えたるにて、大蔵省の意見を知るべく、又通商司を廃せる原因は、諸会社を設立して商工業を振作せんとせる最初の目的に反し、其経営意の如くならざるに基けるに似たり。
初め通商司の設けられたる、三会社の前後創立せられたる、概ね皆先生が仕途に就かざる以前の事に属す、三年八月先生が大蔵少丞に任ぜらるゝに及びて、通商の事務始めて先生の専当となりたれども 上文参照 此時は三会社とも皆萎微して振はず、先生をして大に失望せしめたり。
政府の厚き保護を受け、有利なる条件の下に営業を開始せる三会社は、経営さへ宜しきを得ば、内外商業の発達に伴ひて、利益を増進せんこと疑ひなかるべきに、諸会社共に皆多大の損失を蒙りて、営業振はず、四年の春に至りては、其前途望みなき事益々明白となれり、商社を通商司より地方庁の所轄に移したるは、正に此際にあり。されば京都府は、京都開商会社が損毛のみ重なり衰微を極めたる故を以て、容易に其引継を肯ぜざりしを見ても其間の事情を察するに足らん。通商司の廃止の如きは、蓋し会社の不振に伴ふ自然の運命なりといふべし。而して諸会社がかゝる不振に陥れる所以を考ふるに、其組織半官半民にして、政府の干渉甚しきに失したる事其一なり。当時商工業なほ幼稚にして民間の企業未だ起らず、為替会社の貸付が、商人よりも寧ろ諸藩に多かりしが如き其一例なり。されば民間の要求未だ起らざるに、政府が宋人苗を引くの助長策を取れるが為に、計画に齟齬を生じたる事其二なり。然れども最大の原因は、経営の方法宜しきを得ざるにありしなり、蓋し此の如き合本組織は、我国未曾有の事にして、人々未だ共同営業に慣れず、会社事業の何物たるかをも解せず、加ふるに商法条例等会社の営業方法を規定せるものなく、先生の手に成れる立会略則さへ刊行せられざる時なれば、常に旧套を墨守せる町人の、事に当りて失敗せるは敢て怪しむに足らざるなり。此に於て先生等は意を是等の諸会社に絶ち、新に国立銀行の議を決して、専ら其設立に従へり。