デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.309-311(DK030102k) ページ画像

明治五年壬申二月十二日(1872年)

大蔵大丞ヲ免ジ、大蔵省三等出仕ヲ仰付ケラレ、大蔵少輔事務取扱ヲ命ゼラル。紙幣頭ヲ兼ヌルコト元ノ如シ。コヽニ於テ栄一事実上ノ大蔵次官ノ地位ニ立テリ。


■資料

太政官日誌 明治五年第十一号自二月九日至十四日(DK030102k-0001)
第3巻 p.309 ページ画像

太政官日誌 明治五年第十一号自二月九日至十四日
○壬申二月十二日
免本官                大蔵大丞 渋沢栄一
大蔵省三等出仕            従五位 渋沢栄一
  但、大蔵少輔事務取扱可致事


百官履歴 下巻・第一四一頁 〔昭和三年二月〕(DK030102k-0002)
第3巻 p.309 ページ画像

百官履歴 下巻・第一四一頁 〔昭和三年二月〕
              東京府平民 渋沢栄一 篤太郎
○中略
同五年壬申二月十二日 免本官 ○同日 大蔵省三等出仕被仰付候事 兼官如故
 但大蔵少輔事務取扱可致事


渋沢子爵家所蔵文書 【本官大丞被免】(DK030102k-0003)
第3巻 p.309-310 ページ画像

渋沢子爵家所蔵文書
当省三等出仕渋沢栄一義元大丞兼紙幣頭ニ候処三等出仕被
仰付候節免本官与而已ニ而兼官之御沙汰無之ニ付而ハ従前之通紙幣頭兼任ニ有之候哉此段相伺候也
   壬申 二月廿八日        三等出仕 渋沢栄一
                   大蔵大輔 井上馨
    正院御中
  (朱書)
   本官大丞被免
 - 第3巻 p.310 -ページ画像 
  兼任紙幣頭
  如元候事
     正院之印


雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之五・第二三―二四丁 (明治二〇年)(DK030102k-0004)
第3巻 p.310 ページ画像

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之五・第二三―二四丁 (明治二〇年)
偖て其歳も暮れて、明治五年の春となつたが、去年大蔵少輔に任ぜられた吉田清成といふ人が、英国に於て公債を募集する為めに洋行を命ぜられました、此公債募集の事は、大蔵省で井上が立案したもので、其主意は華士族の禄制を設けて、一時にこれを給与し、国庫が永年の負担を免かれやうといふ方法であつて、其原資に充てる為めに、外国に於て公債を起して、正金銀の資本を備へ、終に紙幣兌換の事も此資本にて行ひ得らるゝ見込を以て、吉田少輔に欧羅巴派遣を命ぜられたのである、吉田が出立の際に、自分は大蔵三等出仕に任ぜられて、少輔の事務を取扱ふことを命ぜられました、これは其歳二月の事で、今歳は大蔵卿の大久保も洋行中であるから、省中の事務は井上が全権で自分はこれを補翼する次官の任であつた、


青淵先生伝初稿 第七章二・第二―三頁 〔大正八―一二年〕(DK030102k-0005)
第3巻 p.310 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章二・第二―三頁 〔大正八―一二年〕
○上略 先生は二月十二日本官を免じて新に三等出仕に補し、大蔵少輔事務取扱を命ぜらる、三等出仕は勅任の栄班たり。此に於て井上は事実上の長官として省務を総攬し、先生は次官の地位にありて之を輔け、肝胆相照して新政に当り、大蔵省の全権は二人の手に移れり。而して其施設せる事業は、概ね先生が大少丞時代より継続せるものなれば、便宜前に遡りて合叙する所あるべし。
   ○栄一ガ事実上ノ次官ノ地位ニ立チシハ、此時ニアレドモ、明治四年十一月大蔵卿大久保利通米欧回覧ノ途ニ上リ、井上馨大蔵大輔ヲ以テ大蔵卿ノ代理タリシ時以来、事実上ノ大蔵次官ニ近キ地位ニアリシトイフコトヲ得ベシ。井上ノ四年九月十八日附大久保宛ノ書翰ノ一節ニ「過日来乳児之於慈母ニ似たる御苦配を懸、何とも恐縮之仕合ニ御座候。全見破り楽地を求むる之心底ニ無之、難船中暗礁迄避ル之意ニ候間、必々不悪被思召候様奉願候、何分微力御代理之処も無覚束候得共、上野・渋沢之力を便りニ、力を尽し可申候。」(大久保利通文書)ト言ヘルヲ見レバ、当時井上ハ栄一及ビ上野景範ヲ最モ頼リトシタルコト察セラル。然ルニ上野ハ栄一ト同日ニ大蔵省三等出仕ヲ仰付ケラレタルモ、同年九月四日ニハ外務省三等出仕トシテ外務省ヘ転ジ、再ビ大蔵省ニ帰任セザリキ。サレバ、四年十一月以降退官マデ井上大輔ノ最モ頼リトセルハ栄一ナリシナリ。


竜門雑誌 第二四四号・第一頁 〔明治四一年九月〕 井上侯爵(青淵先生)(DK030102k-0006)
第3巻 p.310-311 ページ画像

竜門雑誌 第二四四号・第一頁 〔明治四一年九月〕
  井上侯爵 (青淵先生)
  此篇は先生が目下大患に罹れる井上侯爵を見舞はるゝに先だち北海道より帰京の途次、本月六日汽車中にて談話せられし所にして、本月八日の時事新報に掲載せる所なり。
△四十年間の交際 予が井上侯と懇親を結びたるは実に明治三年にして、爾来四十年其間侯と予と処世の方向を異にせりと雖も、日本財界の為めに貢献する所あらんとするの精神に至ては毫も異なる所あるを
 - 第3巻 p.311 -ページ画像 
見ず、回想すれば三十七年の昔、即ち明治四年の廃藩置県当時に於ける最も困難なる我国財政料理の大任に当りしものは即ち井上侯にして、予は侯の下に於て次官の事務を掌れり、当時の大蔵省は今日の大蔵、内務、農商務の管掌事務を兼ね尚ほ司法省一部の事務をも掌りて其範囲頗る広く、且つ当時の財政は過渡時代にありて其処理頗る困難なるものありき、然るに侯は機敏の頭脳と緻密なる思慮とを以て事に当り、予亦た侯を補けて財政整理と殖産工業発展《(興カ)》の途を講じつゝありしに、当時太政官の施政方針往々財政整理方針と相背馳して、却て財政をしてますます紊乱せしめんとするが如き傾向ありて常に意見の衝突を免れざりき、其結果明治六年五月侯と予は当時名高かりし建白書を提出して施政方針の大に誤れることを論ずると同時に退職したるなり ○下略
   ○同様ノ談話ハナホ多シ。


竜門雑誌 第二二六号・第六―七頁 〔明治四〇年三月〕 目下の経済事情(青淵先生)(DK030102k-0007)
第3巻 p.311 ページ画像

竜門雑誌 第二二六号・第六―七頁 〔明治四〇年三月〕
  目下の経済事情 (青淵先生)
  此篇は先生が経済学協会の懇請に応じ昨年○明治三十九年十二月二十一日の会合に臨み演説せられたる所。
○上略
其頃は私は大蔵少輔といふものであつたが、今の大蔵大臣より、仲々モウちつと威張つた、今の大蔵大臣は仲々謙遜で殆ど総てが平民的にやられますので、結構と私は思ひます、私共はまだ二本差の癖が余程あツたものですから、其時分の大蔵少輔は平民の前へ出るといふと、叩頭を後へするといふやうな有様で……(哄笑)
○下略
   ○此談話ハモトヨリ戯言ナレドモ「二本差の癖」云々ハ或程度迄事実ナリシナラン。