デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.658-660(DK030145k) ページ画像

明治六年癸酉一月十五日(1873年)

滞欧中ノ大蔵卿大久保利通及ビ工部大輔伊藤博文ニ書ヲ送リ、大蔵省内ノ事情ヲ報ジテ、其対策ヲ熟慮センコトヲ求ム。


■資料

渋沢栄一 書翰 大久保利通・伊藤博文宛(明治六年)一月一五日(DK030145k-0001)
第3巻 p.658-660 ページ画像

渋沢栄一 書翰 大久保利通・伊藤博文宛(明治六年)一月一五日
                (伊藤公爵家所蔵)
  明治六年一月十五日              従東京
爾来杳濶御起居も不奉伺候得共、定而不相替御清穆鋭意交際事務御鞅掌と奉遥賀候、御一行御平寧御担当之公事も追々御行届、即今ハ仏国辺御巡回にも候哉と奉想像候、客歳十月中浣御発之公信にてハ、尚英府御滞在之由、然時ハ一歳ニ漸二国之御巡歴ニ而、此末之御摸様如何可有之哉と、頗瀰久之御事と存候へとも、他之諸邦は此二国之如く御長滞も有之間敷ニ付、何れにも本年中にハ御帰朝と翹足御待申上候、御国内も異情無之、兎角藩札交換租税改正其外旧観を改め候ニ付、民心不安、小動揺ハ有之候得共、敢而関心すへき程にも無之、地方官も拮据努力、一昨年廃藩之発令已後僅一歳半之時間にハ出来過候程之勢にて、大概政治も一般ニ帰し、法制禁令ハ勿論ミンシバル之雑務まて先ハ一軌に出候様相成、租税会計抔も稍条理観るへきに立至り申候、此上両年も無事ニ進歩候ハヽ実ニ三年余之光陰ハ一紀之星霜を過候様之景状ニ変し、何事も今昔之歎可有之と被存候
併爰ニ一事最以大関心之義有之候、夫ハ先いつも同病同患にて、政府之体裁其宜を得さるニ有之候、既に十一月初旬より井上も之を憂ひ、辞職の帰国のと抛擲論を出し、生憎大隈も灯台見分とて旅行中、西郷ハ帰国 島津故隅州ニ異説有之ニ付説得上京之為メ相赴候なり 条公と板垣のミにて、中々折合も付兼可申と、生之身処ハ別而苦難いたし候、其原由ハ先頃暫時御帰京之際ニ相生せし控訴ニ比《(マヽ)》しく候得共、何分井上之断念強く、決而生輩之言を容れす、又条公とて山県抔も時々相論し候得共、確乎承引も無之、井上既に然れハ生之微力素より一日を維持いたし兼、去り迚両人籠居候而
 - 第3巻 p.659 -ページ画像 
ハ大蔵省之繁忙なる忽他方へ繋累し、先ハ百事瓦解ニ属し、折角一歳余之勉力も水泡ニ帰し可申、もし又生而已安然当務ニ処し候とも大体之齟齬右之如くなれハ、是も目途ハ難相付、如何可致哉と百方焦思之上、先大隈之帰京を相待候外無之候間、夫迄之処ハ唯正院へ公然と御処置をせり立現務に於てハ調理いたし居、延て十一月廿八日 御改暦ニ付此日御用仕舞旧十二月三日より新年と相成洋暦同様相成申候 に至り緊しく正院へ上言いたし、条公板垣之面前ニ於て爾来正院之挙措允当ならさると各省を視る猶東周之七国に於る如く、一時遁れ之御申訳而已にて、立法も行政も都而各省之任と相成、而して正院ハ其乞ふに任せて之を許可し、一方之を拒み、若しくハ之を討議すれハ之を一方に下し、摸稜䠖跙豈唯政府之体《(趦趄)》を玷蔑するのミならす、凡庸之人士も其行を為すを恥る処にして、実に将来ハさて置、目前之事務如何御統理被成候哉、もし栄一此不敬之言を正院に呈するニ御憤怒も御坐候ハヽ、邦家之幸福此事にして、決而一身ニ顧慮ハ不致候間、相当之御譴責被下度、尤も本日より大蔵之事務ハ担任相成兼候旨を以不念大声感泣相迫り候処、条公板垣ももて余し、今日即刻之指揮ハいたし兼候ニ付、一月四日迄と 政始之恒例ニ付四日迄の命あり 御日延ニ相成候 各寮頭《(マヽ)》と右等之情実を憂ひ、其上生辞表を奉上いたし候ニ付、首領を失ひ候筋ニ付、一同申合、向後之御指揮を伺出候次第ニ立至り候 其翌日大隈帰京ニ付、不取敢罷越、爾来之紛紜を詳明ニ演述し、将諸省にも内々其情況を承知いたし、悉く正院へ相迫り、漸自反之御処置有之其上井上ヘハ条理情実を以てせめ立候ニ付、同人も昨日より出勤いたし先一段落相済候
  此紛議之原因ハ、兼而伊藤閣下之御持論之如く、即今各省とも其委任之事務重に過き、殊ニ行政官ニ立法を兼務せしむるの姿ニ付、第一理財之事抔正院にハ茫乎漠然に附し、敢而御懸念も無之、本年歳入之概算四千万円程ニ付、願くハ歳出も同額位に御定め有之度と時々申立候得共、今日之処俄ニ各省之事務減省不相成との事にて、預メ四千六百万円之目的ニ相定め、不足六百万円ハ追而補給之工夫可致との事にて、井上も目下之形勢不得已と稍承服いたし、其通公達相成候筈之処、其後正院にて各省之物議と抗論を恐れ、或ハ之を発せす、其発するも忽ち之を取消し、妄意ニ之を裁制し、尤も工部省抔ハ昨年之定額ニ五十万も遣過有之候処、尚又本年之額御定之後之を変し、先其申請ニ任せ渡方可致との事ニ而、十一月四日井上正院にて之を抗論いたし候へとも、発輝とハ論弁無之、所謂朽木に鎸する如くニ付、此事ニ及候義ニ御坐候、其他之件々も有之、之を縷述すれハ枚挙に遑あらす先頃台湾生蕃問罪之事抔も実ニ妄意偏断ニ属し可申之処、先稍其事ハ寛緩ニ相成候得共、都而依頼之力無之兎角彼より建議すれハ之ニ応し、是より議すれハ之を可とし、一妾白毛を抜き一妻黒毛を抜き終に其良人ハ無毛之人と相成候との古諺之如き有様にて、唯々杞憂此事ニ御坐候、要するニ各省布置之体未タ宜を得す、其任重に過ぎ其責明かならす加之立法も行政も各省之を兼持して而して正院ハ唯空権を握り虚位を頼て其中間ニ居候姿故、いつも此弊を生し、而して大蔵省ハ尤其甚しきものなれハ、其弊之感するも亦尤速にして、今日之事ある所以と存候、因而ハ是非其事を減し、其任を軽くし、聊議事と施政との分界を設立するを以て矯弊之当務と奉存、大隈ヘハ愚考をも申立置候義ニ御坐候
 - 第3巻 p.660 -ページ画像 
前書之次第ニ付、先大蔵之病気ハ平愈之姿ニ候へとも、又他之省へ伝染いたし、同様之苦情相起り可申と、矢張関心ハ免れす、到底此姿にてハ如何可有之哉と被存候間、願くハ閣下各位之内御帰朝御調理之処渇望之至ニ候、生之卑職素より是等之言を以て政府を誹り、殊ニ御帰朝抔奉促候ハ頗位置を失ひ、越爼之極とハ奉存候得共、実ニ向後之事共関心ニ不堪次第ニ付、唯愚考之儘申上候次第ニ候間、宜御諒察被下度候、是迄も時々懸念ハ有之候得共、是等之事遠く万里外ニ申上、御多忙中却而奉煩高慮候義と、都而差扣候得共、即今之景況にてハ甚苦念之至ニ付、敢而申上候義ニ御坐候、尚此混雑ニ付而ハ各方より御通達も可有之と奉存候間、夫是御参考被下度、併大蔵ニ相生し候紛紜ハ、生実ニ其事を尽し候義ニ候間、其説も亦確たるものと御承認被下度候
吉田之募債一件も唯遷延而已、即今之摸様にてハ利足引上り、六ケ敷事と被存候就而ハ同人ハ御帰国被成候方、却而御都合にハ有之間敷殊ニ全省右様之勢ニ候処、大久保閣下吉田とも御不在にてハ、井上の苦心可想之至ニ候、何卒其辺御推意被下度候
大蔵省ハ百事先相運候、旧藩負債も略ホンド之処置に掛り、紙幣之如きハ即今引換最中ニ有之、銀行も追々創立之勢、租税も順を追て改革いたし、駅逓ハ頻ニ歩を進め、外国郵便をも相開候積、其他省中之体裁も無用之事ハ先無之、実務勉励にて打揃ひ、面白く相勤候姿ニ御坐候出納規則省中処務順序抔ハ余程手続相立、都合よろしく候、乍去前文申上候通之次第故、一省之事務進歩候とて偏廻りの車輪にして其効之無之而已ならは《(ずカ)》、或ハ他方ニ繋累し、終ニ紛議を来し候様相成候まてにて、真ニ長大息之至ニ御坐候、生ハ素と一介之書生にして人之触望《(マヽ)》もなけれハ随而其所任も少く、決して建国之功臣ニ歯して、麒麟閣の捨扶持に余生を楽むの存念ハ無之候間、詰り食禄に奉事する給金取一様之看を受け、又自らも之に甘し、敢而邦国を我物らしく心得候様之間違ハ不仕候得共、実ニ前々申上候通之有様にてハ、此末如何可有之哉、所詮現在之廟上諸賢哲にも御困難と奉恐察候間、右等之情状遠く奉脳尊聴候次第ニ候間、何とか御熟慮御方策御坐候様奉渇望候
時下通常之景況にも申上度事多端ニ候へも、其尊聴を怡はすへき事ハ他人之報知又ハ新聞紙等に譲り玆ニ唯奉煩高慮候事而已申上度、匆々
                          頓首敬白
  第一月十五日夜
                        (朱印)
                 渋沢栄一 拝具
    大久保大蔵卿閣下
    伊藤工部大輔閣下
辰下凛寒徹骨。灯火明滅。硯水将凍。屡呵禿筆。遠寄万里之外。以乞春風和融万枯皆生之恩賚
  伊藤閣下御骨折之繰糸場も漸其功を竣メ、新糸出来いたし候ニ付博覧会へ差出候積ニ御坐候
  陸奥同行近日発程、一覧之心得ニ御坐候
  両閣下御留守宅御平寧之由、御降心可被成候
  ○大久保利通及ビ伊藤博文ハ岩倉特命全権大使ノ副使トシテ明治四年十月米欧回覧ニ上リ、此時滞欧中ナリ。