デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.701-719(DK030152k) ページ画像

明治六年癸酉四月(1873年)

大蔵省議事章程ヲ頒布シテ各地方ノ長次官七十余名ヲ会シ、井上大蔵大輔議長トナリテ地方要務ノ諸件ヲ議ス。栄一章程ノ題言ヲ草シ、会議ニ与ル。議題ノ最モ重大ナルモノハ地租改正ノ方法ナリシガ、審議ノ結果石盛・検見ヲ廃シ、地価賦税ノ画一ナル新法ヲ実施スルニ決ス。是ニ於テ議長ハ議員中若干名ヲ委員ニ選ビテ、地租改正法ヲ起草セシメ、案成ルニ及ビ栄一井上大輔ト共ニ審議シ、将ニ正院ノ決ヲ仰ギテ之ヲ公布セントスルニ際シ、栄一井上大輔ト共ニ辞職シタルヲ以テ、其ノ施行ハ新ニ大蔵事務総裁トナレル参議大隈重信ニヨリテ行ハレタリ。


■資料

青淵先生伝初稿 第七章三・第六二―第六四頁〔大正八―一二年〕(DK030152k-0001)
第3巻 p.701 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章三・第六二―第六四頁〔大正八―一二年〕
○上略 翌六年四月各地方の長次官七十余名を大蔵省に会し、井上大蔵大輔議長となりて地方要務の諸件を議せし時、議題の最も重大なるものは地租改正の方法なりき。かくて審議討論の結果、地券面に於ける地価に課税することを可決せしかば、議長は議員中若干人を委員に選びて地租改正法を起草せしめ、案成るに及び先生は井上と共に審議し、将に正院の決を仰ぎて之を公布せんとするに際し、偶々同年五月十四日先生・井上の両人連袂辞職の事ありしかば、其施行は新に大蔵事務総裁となれる参議大隈重信によりて行はる、即ち同月十九日大隈は法案を具して正院に上申し其採決を得たり。かくて七月二十八日地租改正に関する上諭を頒下し、太政官よりも布告を以て「今般地租改正に付、旧来田畑貢納の法は悉皆相廃し、更に地券調査相済次第、土地の代価に従ひ、百分の三を以て地租と可相定旨被仰出候条、改正の旨趣別紙条例の通可相心得、且つ従前官庁並に郡村入費等、地所に課し取立来候分は、総べて地価に賦課可致、尤も金高は本税金の三ケ一より超過すべからず候」と令し、同時に地租改正条例・地租改正施行規則及び地方官心得書を頒てり。○下略


世外井上公伝 第一巻・第五〇七―五一九頁 〔昭和八年一一月〕(DK030152k-0002)
第3巻 p.701-706 ページ画像

世外井上公伝 第一巻・第五〇七―五一九頁〔昭和八年一一月〕
  第三章 大蔵大輔としての経論
     第七節 最初の地方官会議
 公は大蔵卿の代理として六年四月に議事章程を頒布した。これは大蔵省に於てわが国最初の地方官会議を開くための議事規則であつて、
 - 第3巻 p.702 -ページ画像 
全篇二十三節、百四十七章から成つてゐる。実に空前の整備した議事規則である。この議事章程は、当時紙幣頭であつた芳川顕正が外国の議事規則に傚つて起案し、題言は渋沢栄一の筆に成つたものだと伝へられてゐるが、とにかく公の英断によつてその頒布を見、地方官の会議を創めて起すことになつたのである。
 地方官会議は、今日では事務を議する為の地方官の会合に過ぎないが、この大蔵省で催した地方官会議は余程趣を異にしてゐた。議事章程第一章に「斯集会議事ハ、専ラ大蔵省関係ノ地方庁ニ於テ実際ニ施行スル事務ヲ限リ、敢テ他ノ省事務ニ干渉スルコトヲ許サズ。尤出費等ニ付キ干渉スルハ此限ニアラズ。」とあつて、主として大蔵省内の事務に限られてはゐるが、当時の大蔵省は、前にも述べた如く、今日の大蔵省の外、内務・農林・商工・逓信の各省の事務をも掌り、なほ一部の裁判権をも有してゐて、実に内閣の大半の勢力を占めてゐたのである。されば省内の事務とはいひながら、実際は国政の大半に関する事なのであつて、今日の衆議院の性質を帯びたものであつた。それで議事章程第十八章にも、「議員ノ議場ニ於テ事ヲ議スルノ際ニ当リテ各寮ノ専務官員ニ非ズ、又府県知令参事モ地方ノ官員ニアラズ。唯一般地方ノ事務を議定スルノ立法官ニシテ、一般ノ議員ト見做スベシ。」と述べてゐるのでもその性質の一斑は知られよう。畢竟するに、公がこの会議を設けた精神は、その題言中にもある如くに、「大ニ此会同ヲ興シ各其胸臆ヲ披キ、心緒ヲ紓ベ、利弊ヲ討論シ、得失ヲ商搉シ、法ノ煩ナルハ之ヲ刪リ、事ノ麁ナルハ之ヲ密ニシ、順序ヲ定メ、権限ヲ詳ニシ、各恪奉遵守スル所アリテ扞格支吾ノ患ナク、独四肢ノ首領ニ応ズル如ク、気脈流暢和通シテ毫モ痞塞停滞ナカラシメントス。是固リ大蔵ノ地方ニ企望スル所ニシテ、地方ノ大蔵ニ望ムモ亦応ニ之ニ出デザルベシ。然則此会同ヲ以テ民事凡百ノ振興ヲ要シ、将来施政ノ修整ヲ期スベクシテ、而シテ国力政権ノ確立スル、之ニ依テ待ツ事ヲ得可シ。」といふものであつて、その大なる抱負を見るべきである。世には明治初年の地方官会議といへば、木戸が議長となつて八年六月に開催した以来のものを称してゐるが、実はそれより二年前に於て、公は既にかくその端を開いてゐるのである。たゞ一は議会の試みとして、一は大蔵省の催しとして、その触出しが異なるだけである。
 この地方官会議の議員は、大蔵省よりは各寮司の奏任官、地方官にあつては令・参事の内一人づつを列席させる。而して議長は大蔵卿がこれに当り、議長の選任で一二の副議長を置くことにしてゐる。会議は一箇年の間に両度開会し、四月一日より同三十日まで、及び十月一日より同三十日までを開議の定期とした。
 公の地方官会議に関する抱負並びに組織の大体は右の如くである。かくて公は地方官に対して四月一日に参集すべきやう布達し、尋で開会の準備のため予め左の事項についてその意見を提出せしめた。
  今般各地方官会同集議之儀ニ付、来四月一日ヲ期シ著京可致旨既ニ及布達候、就而者別紙記載之件々、主任之於寮局取調、総表ニ仕立、本月廿八日限差出シ可申、尤其向担当之者担任、各寮局打合、重複遺漏無之様可致、此段相達候事
 - 第3巻 p.703 -ページ画像 
    明治六年二月七日     大蔵大輔 井上馨
  別紙
  一、正税之収額
    但、各地方各自之名称アルヲ詳記ス
  一、雑税之収額
    但、右同断
  一、水利・堤防・道路・橋梁・樋管・用悪水路等土功一切之費
  一、神社・官舎・倉庫・牢獄等営繕一切之費
  一、第一常備金遣払過不足
  一、官員月給、使部以下等外小使等之給料等
  一、賞金其他一切臨時之支給
  一、家禄・賞典米其他一切米払之総額
  一、官員増員
  一、準備金之納・不納・負債並貸附高
  右条件之外、凡歳入出統計ニ関スル金穀出納、辛未○四年十月ヨリ壬申○五年九月迄一歳之総額ヲ掲ゲ、此内細目ヲ区別件別シ、名称ヲ詳記シ、一時之費用等迄区画之旧県名ヲ分別、一府一県毎総表ヲ作リ、猶本年之分将来増減之見込可相立事
かくて会議は四月八日から開催せられた。議長は規程に従つて公が之に任じた。討議事項は次の如きものである。
  一、租税之事
    附リ、夫米夫金之事
   一、物産種類之事
   一、去ル辛未十月ヨリ壬申九月迄、収入総計並庁費若干、上納若干、未納若干取調之事
   一、延米・口米永・差米・目溢米之類、貢米ニ課シ取立候種類高割付之分或ハ他之方法共、一ケ年収入之総計取調候事
   一、旧米四公六民、六公四民等、各種取立様之事
   一、管内旧貫区々之分等、平均ヲ求、昔日ニ比シ多少之平準ヲ失ヒ候義無之トモ難申ニ付、比較概算取調之事
   一、地券税施行方法、於実際著手之順序見込之事
   一、相撲狂言之類諸興行並遊女芸妓税、一ケ年収入総計取調之事
   一、旧来水旱損用捨引、損地・荒地手当米下渡方等、区々有之候件々取調之事
   一、朱印地並寄附等高入、並未ダ高入ニ不相成分取調之事
   一、地所売買之節、原価ニ割合、一ケ年之利益何朱ト定メ売買致シ候哉、実際之模様取調之事
   一、於管下見込相廃候雑税之種類取調之事
  一、置米金並第一・第二常備金之事
   一、新県已来、壬申九月迄遣払ヒ員数総計、並同十月ヨリ明治六年十二月迄費用見込之事
   一、華士族卒給禄、並賞典禄、其他米金費用之事
  一、町用・村用並総テ民費ヲ課スル事
 - 第3巻 p.704 -ページ画像 
   一、米金取立高之事
   一、割賦取立仕様之事
  一、遣払之廉々取調之事
  一、水利・堤防・道路・梁《(橋脱カ)》・樋管・用悪水路之事
   附リ、神社・官舎・倉庫・牢獄其他一切、官より仕払之分取調之事
   一、従来修築仕法之事
   一、右ニ付入費高之事
   一、入費高、従来官より取賄来り候分、或ハ歩通リ手当、又ハ民費ヘ課シ取立候仕法、並金高等取調之事
  一、置県前より之勘定ハ、辛未九月迄勘定帳、並同十月より壬申九月迄勘定帳等、出京より同差出無之テハ差支候間、至急夫々可差出事
  一、官私囲米金員数、並開産備荒等従来之方法或ハ向後施行見込有之分取調之事
 数多き問題の中で最も重大であつたのは、地租改正の方法であつた。当時議員の説は大凡三派に分れた。
 第一説、旧慣の租額を金位に換算し、之を地券の段別に賦課し、漸次各地の品位とその租額とをして、交々相適当するに至らしめることを希望する。
 第二説、その技葉を弥縫するよりは、寧根柢を更植するに如かぬ。故に断乎として石盛《こくもり》を廃し、検見《けみ》を止め、地価賦税の画一な新法を施行することを希望する。
 第三説、地租を改正せねばならぬのは固よりであるが、古例旧慣は遽かに除き難いから、五六年間は姑く徳川氏の旧制に法り、専ら中正な検見法に従つてその田租を収め、以て各地租額の不平均を矯正し、而して漸次に地券を発行し、人民の新制に慣れるを俟つて後、画一の新法を行ふことを希望する。
 右第一説は、租穀輸漕の困難を去り国庫の収入を固定する上に於て、頗る中庸持重の所見であつたが、当時七十余員の中、之に左袒した者は寔ニ寥々たるものであつた。蓋し当時管内の地租偏重に悩むものは議員中千《(十カ)》の七に居たので、是等重租地方の長次官は一致して旧租を排して、この租額の軽重を全国的に平均しようと希望しない者はなかつたのである。然るに之に反対する多数者に在つては、遽に全国的の租額平均は望まずして唯姑くは各国郡内の偏重を漸次に整正するに止めたいと希望してゐたのである。これ衆議の第一説を排した所以である。次に第二説の支持であるが、これが会議で最も多数を制した説であつたのは、一応は不思議に感ぜられる。即ちその所見あまりにも急進に過ぎる感があつたからである。併し当時重租に苦しんだ地方の長官及び次官は、一般に新法に熱中してゐない者は無かつたので、虚心平静に深慮するならば、その説がこゝに到達するのは自然の勢であつた。惟ふに我が国数百年来理財の途は支離滅裂の余弊を承け、外国貿易の盛況に赴いた当時に於て、宜しく時機に適合した法を行はねば何を以て一国の財政方針を立てることを得ようかといふ論であつた。
 - 第3巻 p.705 -ページ画像 
これ急進論が多数を制した所以である。又第三説は、最も持重した所見でもあつたらうが、実際には適しなかつたところである。何となれば、徳川氏の旧制たる検見の収租は全くの手加減である。徳川氏の税吏は幼少より租務税算の中に成長し、地理に慣れ斗量を暗んじ、一目して軽重方寸の差等に瞭然たるものがあつたから、収租に公平を維持し得られたのである。而もそれすら、屡々百姓の不平を招いたのである。況んや明治維新後は、東北人が九州地方を治め、四国人が北陸地方を管する有様となつたから、官民の間に事情相通ぜず、検見の如き極めて幾微の妙処を官民の間に求めることが全く不可能であつた。故に寧ろ薄税に失するも、重歛に陥らないやう力めるのが、地方官の至情であつた。その弊としては終に武断で地租を減じ、小物成雑税を除去するに至つた。政府は地方官令を発して、漫りに税率を増減することを戒めたのは、実に故あつたのである。而も今第三説に従つて地方官に委するに検見収租の法を以てしたならば、実際年を逐うて減少しつつある田租が、更に一層の減少を来たすのは必然である。又漫りに減租を実行しても、その仁恤は寒民に遍からずして、反つて富戸に帰するやうに為る。故に検見は実際に行ふべきものでないことが知れる。これで大体第三説に賛した者が僅少であつたといふ事が解る。
 前記の如く議員の全部は旧租の積弊を除くことを希望したので、議長たる公は、議員中から委員を選定し、地租改正法を草案せしめることにした。然るに後日に至つて案成るに及んで、会々公は突然官を辞した為、大隈参議が大蔵省事務総督と為り、議場総括の任に就き、右の案を議員に頒つて逐条審議を了し、而して後始めて之を議決したのである。
 この地方官会議の終末に就いては、或は福島県令安場保和が主と為り大蔵省案に反対したから、公が怒つて会議を中止したと説くものがあり、又政府部内でかくの如き会議に異論を挟んだから、遂に中止したのであると説く者がある。併し安場等が反対したが為中止したのではなく、この大蔵省会議は、行政官の権限を超越して、立法官の権限を犯すものであるとの非難が廟堂で起り、正院で議事章程を破毀したので、会議は停頓のやむなきに至り、そのうちに公が辞職したため中止の姿と為つたのである。併しかの議題たる地租改正の如きは、大隈が公の後を承けて結末を付けたもので、その他は論議未了と為つたものもあつたのである。当時左院の三等議官であつた宮島誠一郎は左院に会議を起すことを建議し、公の辞官によつて折角召集した地方官を各自帰県せしめるのは、政府の為に遺憾であるとし、何とか良策を立てて地方官を引留め、左院で一会議を起したいと、書を板垣参議に送り、且つ五月十三日に西郷参議を訪うて之を謀つたところ、西郷も大いに之を賛して、即日左院の議に附することを約した。然るに副議長伊地知正治が病気不参の為、西郷から交渉開始を得ず。全く機会を失したので、地方官は一旦之を帰県せしめることになり、十八日に地方官一同を太政官に召集して三条太政大臣からその旨を達した。その演説の中に、「一体各地方長官ノ議会ハ民務之便宜ヲ実地ニ徴考スル緊要ノ事ニテ、政理上得益少シトセズ。故ニ今後議事之体裁ヲ選定シ、
 - 第3巻 p.706 -ページ画像 
左院ニ於テ毎歳之ヲ開クベシ。(中略)各県ノ体裁ニ至テハ、目下実務ノ碍アツテ、更正ヲ加ヘザルヲ得ザルノ外ハ、左院ノ議会ヲ開ク迄都テ従前ノ通据置、更ニ分合附削ヲ為サザル可シ。各地方官能ク此旨ヲ体シ、一層勉励可有之事。」とあつた。公の辞職の為折角召集した地方官会議も蛇尾に終つたのは、真に惜むべきことではあるが、これが動機と為つて引続き正院に地方官会議の議があり、後年地方官会議が開催されるに至つたことから見れば、相当効果の有つたものといはねばならぬ。大蔵省文書・理財稽蹟・議事章程・大日本憲政史・日本憲政史・評伝井上馨・佐伯惟馨談


明治文化全集 第四巻・憲政篇〔昭和三年七月〕 ○第二二三―二二六頁 議事章程(DK030152k-0003)
第3巻 p.706-709 ページ画像

明治文化全集  第四巻・憲政篇〔昭和三年七月〕
 ○第二二三―二二六頁
  議事章程
     題言
 明治戊辰ノ春、大政一新、政令漸ク一ニ帰スルモ当時干戈未タ戢ラス、憲典未タ立タス、封建ノ故体ニ依リ列藩ノ治ヲ異ニス。是時ニ当テ官省府藩県ノ制ヲ設ケ各其吏務ヲ分掌セシメ、且従前侯伯ノ名ヲ罷メ之ヲ藩知事トシテ其部事ヲ管セシム。是ニ於テ郡県端ヲ開キ、制度緒ニ就キ、紀綱漸ク綜理スル所アリテ民心稍方向ヲ得ルト云トモ、然レトモ体裁猶一時ニ具備セサルヲ以テ爾来屡廟議ヲ尽シ、官省府県ノ制置随テ相釐革シテ、竟ニ辛未ノ秋一タヒ廃藩ノ令下リテ封建全ク制ヲ解キ、郡県始テ治ヲ更メ、国力政権真ニ維一ノ基礎ヲ定メタリ。然リト云トモ多年因襲ノ積弊勉テ芟除セサル可ラサルヲ以テ、諸般ノ制度先ツ更革ヲ主トシ、其施ス所多ク旧制ヲ廃棄シ新規ヲ創立スルニ急ニシテ未タ之ヲ調理スルニ遑アラス。是亦勢已ムヲ得サルニ出ツ、然而テ時ニ緩急アリ事ニ秩序ナカル可ラス、既ニ其廃スヘキヲ廃シ棄ツヘキヲ棄テ、以テ郡県ノ体ヲ定ムレハ亦能ク之ヲ修整回護シテ、其保全ヲ勉メサル可カラス、若シ尚輒ク釐革ヲ覓メテ徒ニ変易ヲ事トセハ、百事竟ニ渙散シテ法制統理ノ期ナキニ至ラン。苟モ然ラハ嚮キノ勉力スル所ノ者悉ク之ヲ泡沫ニ附スルノミナラス、其国憲タル者果シテ何レノ日カ確立スルヲ得可ケンヤ。是レ実ニ深ク古今ニ考覈シテ将来ヲ審定セサル可ラサル所以ナリ、夫レ大蔵ト地方ト均ク是レ政府ノ一部分タル固ヨリ言ヲ俟タス、今大蔵ノ地方ニ於ケル、分形一体相与ニ連結シテ須臾モ相離ル可ラス。然レトモ大蔵ハ輦轂ノ下ニ在リテ親ク地方仔細ノ実況ヲ目挙スルアタハス、故ニ其令スル所ノモノ審案熟議ニ出ルト云トモ、或ハ理論ニ馳セテ実務ニ適切ナラス、或ハ過慮ニ渉リテ施為ニ不便ナル者ナシトセス。且ツ地方ノ庶務ニ従事スル其如何ンヲ詳悉セサルヨリ、命令布達動モスレハ相矛盾シテ一条件ノ如キモ尚数回ノ往復ヲ煩ハシ無用ノ時日ヲ消スルニイタル、地方ノ大蔵ヲ視ルモ亦ソノ思考ヲ亮知スル能ハス、凡ソ全国歳出入ノ多寡較量ヨリ、楮幣ノ処置、負債ノ弁償及税法ノ釐革等ニ至ルマテ、其施設如何ナル順序ヲ以テシテ会計ノ主本如何ナル定度アルヤヲ忖度セス。其着目スル特ニ一管内ニ過キサルヨリ、或ハ大蔵ヲ思擬シテ之ヲ苛酷トシ、其余裕ナキヲ厭フテ互ニ無根ノ嫌猜ヲ抱キ、竟ニ疎隔ノ患ヲ生スルニ至ル。夫レ此ノ如ンハ大蔵ノ本源何レノ日カ開達シテ、地方ノ支流何時カ暢
 - 第3巻 p.707 -ページ画像 
通スルヲ得ヘケンヤ。是レ政府斯民ニ負クノ大ナルモノニシテ、而モ官其義務ヲ尽サヽルノ責ヲ免ル可ラス、蓋シ今ノ地方タルヤ、維新以降百度沿革ノ際ニ逢遭シテ多ク旧藩ノ遺制ニ浸潤ス、内ハ以テ民風ヲ易ヘ土俗ヲ改ムルニ易カラス、外ハ以テ布令ヲ奉シ督責ニ応スルニ難ンス。加之百事蝟集繋累随テ生ス、其煩冗猥雑亦言フ可ラス、曩ニ県治条例及諸規則書ノ如キ漸ク之ヲ具載スト云トモ、概ネ皆倉卒ノ際一時ノ考按ニ成ルモノニシテ、其条款亦頗ル簡単ニ過ク故ニ、之ヲ今日ニ処スル常ニ相齟齬抵触シテ其規矩ニ照準スル能ハス、凡ソ事太タ簡単ナレハ更ニ条規ヲ設ケテ其具備ヲ求ム、既ニ詳密ニ至レハ随テ煩冗ノ弊ヲ生ス。是ニ於テ又其界限ヲ定メテ之ヲ修整セサル可ラス、是レ事物ノ常情ニシテ而モ易フヘカラサルノ公理タリ。此際汎ク古今ヲ参酌シ時勢ヲ審量シ、之ヲ内ニ法リ之ヲ外ニ規リ、空理ヲ去リ実践ニ基キ以テ将来施政ノ軌範ヲ論定シ、其叙次ヲ正シ節目ヲ明ニシ、彼ノ県治条例ニ増補シテ地方ノ一大典型ヲ設立シ、併テ地方従前費途ノ分界ヲ明拆シテ其制限ヲ定メサル可ラス。何ヲカ之ヲ制限ト云フ、曰ク能ク其事務ノ細大ヲ分別シ、其権限ト責任トヲ明ニシ、大綱能ク理リテ小節拘留ノ患ナク、且其財務ノ如キハ収入ノ租額ヲ明詳ニシ、其費途ノ地方ニ属スルハ概算分定シテ全ク之ヲ委ネ、其公収スヘキハ悉ク之ヲ大蔵ニ納メ、其計算ヲ明瞭ニシテ濫雑汗漫ナカラシムル是ナリ。是寔ニ治民ノ主要、理財ノ本幹ニシテ、然モ大蔵ノ夙夜黽勉之ヲ思テ止マサルモノニシテ、地方ノ如キハ未タ全ク其意ヲ体スルヲ得ス。是他ナシ旧藩ノ宿弊未タ脱セス、吏事多ク陋習ヲ改メス、加之管轄ノ廃置分合相継キ、事務交渉紛冗ニシテ其為ス所或ハ中廃スルアルヨリ、一歳ノ出入ニ於ルモ尚其計算ヲ明瞭ニスル能ハス、何ソ全般ノ整理ヲ顧慮スルニ遑アランヤ。然リト云トモ吏事熙ラサレハ治化洽カラス、計算明ナラサレハ会計当ル可ラス、苟モ職ニ此ニ在ル者豈其責ヲ逭ルヽヲ得可ンヤ。是ヲ以テ毎歳其管内ノ施政ト歳入出ノ計算ヲ明詳ニシ、課ヲ考シ状ヲ具シ之カ簿冊ヲ製シテ之ヲ大蔵ニ致ス。大蔵之ヲ集輯編纂シテ以テ全国ノ歳入出ヲ統計シ、入ヲ称リ出ヲ制シ、能ク収入ノ租額ヲ以テ凡百ノ需用ニ供シテ其出納ヲ愆ラス、而シテ其較計ノ如キハ瞭然タル簿冊ヲ作リ、週歳ノ入額ト費途トヲ詳明ニシテ之ヲ地方民人ニ公示シ敢テ一毫ノ疑ヲ容レサラシム、若シ然ラサレハ其収ムル所其用ユル所ニ於テ各相嫌疑ナキ能ハス、且其下民ノ如キハ施政ノ要旨ヲ了セスシテ其貢スルモノハ目シテ之ヲ掠奪トシ、政府ノ酷薄ヲ訴ヘ竟ニ之ヲ怨嗟スルニ至ルモ亦知ル可ラス。是乃チ民事財政ノ挙否ニ関渉スルモノニシテ、実ニ大蔵地方ト共ニ其分掌ノ責ニ任スル所ナリ。故ニ大ニ此会同ヲ興シ、各其胸臆ヲ披キ心緒ヲ紓ヘ、利弊ヲ討論シ、得失ヲ商搉シ、法ノ煩ナルハ之ヲ刪リ、事ノ麁ナルハ之ヲ密ニシ、順序ヲ定メ搉限ヲ詳ニシ、各恪奉遵守スル所アリテ杆格支吾ノ患ナク、独四肢《(猶)》ノ首領ニ応スル如ク、気脈流暢和通シテ毫モ痞塞停滞ナカラシメントス。是固リ大蔵ノ地方ニ企望スル所ニシテ、地方ノ大蔵ニ望ムモ亦応ニ之ニ出テサルヘシ。然則此会同ヲ以テ民事凡百ノ振興ヲ要シ、将来施政ノ修整ヲ期スヘクシテ、而シテ国力政権ノ確立スル之ニ依テ待ツ事ヲ得可シ。因テ此ニ注意スヘキ大綱五事ヲ提要シテ通知ニ供スル左ノ如シ
 - 第3巻 p.708 -ページ画像 
第一 地方ノ県治条例ニ於ル一日欠クヘカラサル緊要ノ典籍トス。然レトモ其条款昔日匆々ノ予定ニシテ、今日更正セサル可ラサルモノ件々相望メリ、因テ条ヲ逐ヒ日ヲ叙テ参考商量シ之ヲ蒐輯大成シテ所務ノ標準トセンコトヲ要ス。
第二 制規厳粛ニ過レハ処事舒ル能ハス、然リト云トモ、漫ニ覊束ヲ解キテ事定規ナケレハ、渙然放散亦収拾ス可ラス。現今地方経費ノ如キ細大之ヲ上操シテ頗ル拘束ニ過ク、故ニ向後地方収入ノ租額ヨリ更ニ経緯ノ分界ヲ定メ、経租ヲ納メ緯租ヲ留メ、以テ其地方ノ費途ニ充テ、其収散ノ界限ヲ略定シテ相踰越悖犯スルコトナキヲ要ス。
第三 各地方歳入出ノ計算詳カナラサル可ラス、計算詳カナラサレハ大蔵ノ会計明カナラス、会計明カナラサレハ量為ノ目途立ツ可ラス、今夫レ九県ノ計算詳カナリト云トモ一県ノ計算詳ナラサレハ之ヲ通算統計スルニ由ナシ。今ヤ各県廃置以来未タ数年ヲ経ス、其近キハ未タ数月ヲ閲セス、且従前ノ錯雑ニ際ス、一朝整理ニ至ラサルハ亦已ムヲ得サルモノニシテ特ニ其稽緩ヲ責ムヘカラスト云トモ、爾後猶此ノ如ンハ大蔵何ヲ以テ理財ノ要務ヲ達スルヲ得ンヤ。故ニ毎県一歳ノ入ヲ審調シ又其出ヲ按算シ、期ヲ逐ヒ約ニ従テ之ヲ申牒シ、以テ会計ノ根楨ヲ定メン事ヲ要ス。
第四 陋習ヲ去リ開明ニ誘フハ地方ニ職タルモノヽ要務ナリ。然リト云トモ能ク其先後ヲ審ニシ、実理ニ基カスシテ偏ニ其形ヲ摸シ其名ヲ衒ハヽ、其弊浮夸儇薄ニ陥リ却テ真ノ開化ヲ妨ケ、民人ヲ傷害スルニ至ラン、夫レ人民ノ富ハ即チ政府ノ富ニシテ、政府ノ力ハ即チ人民ノ力ナリ、能ク其国力ヲ量リ民財ヲ愛ミ実際ニ注目シ苟モ軽佻ニ渉ルヘカラス、且甲県ハ徒ニ軽進ヲコトトシ、乙県ハ却テ趑趄スル如キハ大ニ政治ノ鈞量ヲ失ヒ、人民ノ顧望ヲ来シ全国一致ノ力ヲ逞スルヲ得可ラス。故ニ各県一時ノ急功ヲ貪ラス、他日ノ大成ヲ期シ相待テ斉ク其歩ヲ誇メンコトヲ要ス。
第五 大蔵ノ地方ニ於ル能ク言情ヲ洞通シ、事態ヲ明暁ニシ、苟モ威迫制圧ノ弊アル可ラス、地方ノ大蔵ニ於ル亦能ク其旨趣ヲ体認シテ其情実ヲ蔵匿セス、誠悃勉励以テ其事ヲ奉スヘシ。之ヲ要スルニ全国理財ノ基礎ヲ立テ各地民治ノ功蹟ヲ奏スルハ、固ヨリ協同戮力相待テ相離レサルノ致ス所ナリ、故ニ彼此ノ際誓テ杆格疎絶ノ弊ナク各其本分ノ責任ヲ辱シメサランコトヲ要ス。
 以上五款ハ此会同議事ニ於テ最モ注意スヘキノ大綱タリ、其会議ノ規条ニ至テハ別ニ本篇ニ於テ之ヲ説明スレハ、各其叙次ヲ詳悉シテ敢テ其規程ヲ愆ル勿レ。
                 大蔵卿代理
  明治六年四月          大蔵大輔 井上馨 謹誌
    目次
第一節 会議制限ノ事
第二節 官員ノ事
第三節 議員ノ職分並権利ノ事
第四節 決議規則ノ事
 - 第3巻 p.709 -ページ画像 
第五節 定員ノ事
第六節 紀律ノ事
第七節 事務提起ノ事
第八節 建言ヲ圧抑スル事
第九節 建議ヲ延期スル事
第十節 建言ヲ修正シ議案ヲ分割スル事
第十一節 増補ノ分案章節ヲ換位スル事
第十二節 建言者自己ノ改案或ハ修正ノ事
第十三節 修正ニ係リタル規則ノ事
第十四節 議案ノ旨趣ヲ改正スル事
第十五節 課程案ノ事
第十六節 律例案ノ事
第十七節 読議案ノ事
第十八節 欠則案ノ事
第十九節 議事序次ノ事
第二十節 発言ノ方法
第二十一節 発言ノ主意
第二十二節 発言ノ度数
第二十三節 討論ノ紀律ノ事

明治文化全集 第四巻・憲政篇〔昭和三年七月〕 ○第一〇―一二頁 議事章程解題 〈尾佐竹猛〉(DK030152k-0004)
第3巻 p.709-711 ページ画像

○第一〇―一二頁
  議事章程解題 〈尾佐竹猛〉
 明治最初の地方官会議は今日の地方官会議と異り、議会の試みであり、一大権威を有してその議事規則をも「議院憲法」と称した程であつたことは別項説明の通りであるが、その先駆を為したのは大蔵省の会議であり、その規則は実にこの議事章程であつた。
 当時の大蔵省は内閣の中堅であり、その管掌する事務は今日の大蔵省の外、内務、農林、商工、逓信、各省の事務を掌り、且つ近く迄は裁判権をも有した一大勢力であり、その実権は時に太政官を凌駕することさへあつた。それ故に地方官会議を召集するの実力をも有して居つたのである。
 明治六年四月、大蔵卿代理大蔵大輔井上馨は議事章程を頒布した、全篇二十三節、百四十七章より成る議事規則で、当時、これ程詳細に規定したものは無かつた。即ち、我国最初の最も整つた議事規則である。
 この起案は芳川顕正が外国物を翻訳したので、題言の筆者は渋沢栄一である。その題言の内に
  大ニ此会同ヲ興シ、各其胸臆ヲ披キ心緒ヲ紓ヘ、利弊ヲ討論シ得失ヲ商搉シ、法ノ煩ナルハ之ヲ刪リ、事ノ麤ナルハ之ヲ密ニシ、順序ヲ定メ権限ヲ詳ニシ、各恪奉遵守スル所アリテ杆格支吾ノ患ナク、猶四肢ノ首領ニ応スル如ク気脈流暢相通シテ毫モ痞塞停滞ナカラシメントス。是固ヨリ大蔵ノ地方ニ企望スル所ニシテ、地方ノ大蔵ニ望ムモ亦応ニ之ニ出テサルヘシ、然則、此会同ヲ以テ民事凡百ノ振興ヲ要シ、将来施政ノ脩整ヲ期スヘクシテ、而シテ国力政権ノ確立スル之ニ依テ待ツ事ヲ得可シ。
 - 第3巻 p.710 -ページ画像 
との一節がある、以て其抱負を知るべきである。
 その十八章に
  議員ノ議場ニ於テ事ヲ議スルノ際ニ当リテ各寮ノ事務官員ニ非ス又府県知令参事モ地方ノ官員ニアラス唯一般地方ノ事務を議定スルノ立法官ニシテ一般ノ議員と見做スヘシ故ニ一寮ニ関シ或ハ一県ノミノ事ヲ主張スルコトアルヘカラス
とありて、後の地方官会議と趣旨を同じくし、単なる事務官の会同では無いのである。
 これにつき参考となるのは
  杉秋田県令ノ説ニ、当今地方官ノ措置方法一轍ニ出テサルハ、土地人情及ヒ官員ノ才不才ニ因ルコト素ヨリ論ヲ待ズト雖モ、互ニ割拠ノ勢ヲ為シ気脈ヲ通セサルヨリシテ弊害随テ生スル実ニ少カラズ、是予ガ深ク憂ル所ナリ。抑廃藩置県以来封建ノ余習地ヲ払ヒタル筈ナレトモ、動モスレハ、彼県ハ此県ヲ侮リ、名ハ県ニシテ実ハ藩ナリ。因テ思フニ大蔵省中ニ会議所ヲ設ケ、地方官奏任以上、在府ノ者ハ、毎月三日宛集会規則ヲ定メ、互ニ一局同僚ノ念ヲナシ、治術ヲ問ヒ要法ヲ謀リ、此ヲ捨テ彼ヲ取リ、決シテ忌憚包蔵スルコトナク心情ヲ吐露シ、時アツテ本省及ヒ各寮長官モ亦其席ニ臨ミ、民情ヲ問ヒ租税ノ軽重治民ノ得失ヲ論シ上下隔絶ノ憂ナキトキハ、終ニ各県措置方法一轍ニ帰シ封建ノ余習モ始メテ一洗セン。且余カ如キ不才ニシテ治体ニ暗キ者ハ益ヲ得ルコト極メテ多カルヘシト、云々。
とある明治六年一月新聞雑誌第七十二号に出た意見である、これと似通つた趣旨が右の題言の内にも散見するから、こんな思想から大蔵省会議も促進されたらしいが、勿論一面に於ては当時勢を為して居つた憲政思想の影響も干つて力があつたのである。
 斯くて
 明治六年四月八日より開会したのである。
  諸県出張所内会議所ニ於テ府県長官集会、地方民政ノ衆議之アリ大蔵大輔並同省諸寮頭等出勤、規則ハ全ク英国議事下院ニ傚ヘル由ナリ(新聞雑誌第八十九号)
とあつて天晴れ、文明開化を気取つたのである。
  議事は士族の禄制に始まつたのである。
  士族の禄制といふ大事件が御ざいましたらう、其事を地方官あたりにお諮りなされた所が失敬な話だけれ共、其時の地方官先生は士族の禄制といふ事が土台分らぬ。どうして宜いものやら訳が判らぬ、それで大概の県治条例の事やら、何やらと云ふ者が到底分らぬ……
  閣下(井上)の大方の御趣旨といふものは、是等の処分をするには、大蔵省単独でやつてはいかぬ、地方官とでも相談をして、会議に懸けてやつて見やうと云ふ事で、お懸けなされた事はお懸けなされたが皆無分らぬ云々(世外侯事歴維新財政談下巻の内、佐伯惟馨談)
 然るに右の佐伯説では、地方官が解らぬから井上が怒つて此会議を止めたやうに述べてあるが、これは正鵠を得た言では無い。
 - 第3巻 p.711 -ページ画像 
 この時は大蔵省の権力過重の為め、太政官と権限に関し紛紜あり、内務省創設の議もあり、加ふるに征韓論直前の廟堂にて風雲頗る穏ならざるの時であつたから、この大蔵省会議の規則は行政官の権限を超越して、立法官の権限を犯すものなりとの非難が起り、太政官正院よりは此章程(この頃は官制を章程といふ)を破毀し、為めに会議は停頓したのである。而して一面この会議の中堅たる井上馨は財政上の意見を異にするとの理由にて辞職したのである。即ち明治初期の政変たる、井上・渋沢の辞職があつたので、会議も自然立消へとなつたのである。
 然るに一面には折角召集した地方官会議だから、引留めて議会の体裁にしたらとて、左院から西郷隆盛へ交渉し、西郷も賛成したが、その運びに至らなかつたことは、別項『国憲篇纂起原』に記す通りである。
 斯くて、地方官を帰県せしむることゝなり、三条太政大臣よりその旨を達し、その言中
  一体各地方官ノ議会ハ民務之便宜ヲ実地ニ徴考スル緊要ノ事ニテ政理上得益少シトセス故ニ今後議事ノ体裁ヲ選定シ左院ニ於テ毎歳之ヲ開クヘシ其規則等ハ決定ノ上頒布ニ及フヘシ、云々。
とありて、爾来は左院に於て開く予定であり、左院に於ても此年秋召集の積りであつたが、征韓論の大政変あり、内務省の創設もあり、この案件も暫らく問題外となつたが、幾多の曲折を経て翌七年五月には地方官会議の告諭となり、再転して大阪会議の結果、翌八年の地方官会議となつたのである。而して大坂会議は井上の斡旋に負ふ所が多いのであるから、その地方官会議は右の大蔵省会議の後身といふも可なりである。従つて地方官会議が我が憲政史上重要なる地位を占むるを知るものは、また大蔵省会議の研究をも忽諸に附してはならぬのである。
 飛檄四方徴令参 開庁新議民政要
 朝議経緯分区域 夕論地券定租調
 諸県誠成概算表 各員拝受可否標
 一篇奏議長解印 会議場前草蕭々
これは大蔵省会議の中途廃絶を歎じた詩である。(新聞雑誌第百九号)
 猶ほ詳細のことに付ては拙著『維新前後に於ける立憲思想』を参照せらるれば幸甚である。



〔参考〕明治財政史 第五巻・第三二八―三三一頁〔明治三七年一一月〕(DK030152k-0005)
第3巻 p.711-713 ページ画像

明治財政史  第五巻・第三二八―三三一頁〔明治三七年一一月〕
○上略
此ニ於テ明治六年四月各地方ノ長次官七十余名ヲ大蔵省ニ会合シ、地方要務ノ問題若干項ヲ議セシメ大蔵大輔井上馨親ク之カ議長タリ、其議題ノ最モ重大ナル者ハ地租改正ノ方法是ナリ、当時各議員ノ説大約三派ニ帰ス
 一 甲ノ説ハ旧慣租額(前一十箇年乃至若干年ヲ平均ス)ヲ金位ニ換算シ、之ヲ地券ノ段別ニ賦課シ、漸次各地ノ品位ト其租額トヲシテ交々相適当スルニ至ラシメント希望スル者其一ナリ
 - 第3巻 p.712 -ページ画像 
 一 乙ノ説ハ其枝葉ヲ瀰縫スルヨリハ、寧ロ根底ヲ更植スルニ如カス、故ニ断乎石盛ヲ廃シ検見ヲ止メ地価賦税ノ画一ナル新法ヲ行ハント希望スル者其一ナリ
 一 丙ノ説ハ地租ノ改正セサル可カラサルハ則チ固ヨリ言ヲ竢タスト雖モ、古例旧慣ハ遽ニ痛除シ易カラス、故ニ五六年間姑ク徳川氏ノ旧規ニ依リ専ラ中正ナル検見法ニ従テ其田租ヲ収メ以テ各地租額ノ偏畸ヲ矯正シ、而シテ逐次ニ地券ヲ授与シ、人民ノ漸ク旧態ヲ脱シ、新制ニ慣ルヽヲ俟テ、然ル後ニ画一ノ新法ヲ行ハント希望スル者其一ナリトス
而シテ此等ノ説ニ対シ当時租税事務ニ鞅掌セシ松方正義ハ左ノ如ク評セリ
  旧慣穀納ハ其運搬納付極テ煩ク、啻ニ人民其労費ニ堪ヘサルノミナラス、毎歳市場穀価ノ昂低素ヨリ常ナク、国産ノ財計得テ予算スヘカラス、故ニ穀納ハ金納ノ便ニ如カサル明瞭ナリ、然ルモ毎地毎号ノ収穫地価ヲ細穿シ、始メテ之ニ賦税スルカ如キハ其煩擾果シテ如何ソヤ、寧ロ毎村毎郡ノ租額(前一十箇年乃至若干年ニ平均ス)ヲ其穀代金額ニ算出シ、以テ之ヲ毎村毎郡ノ定額(若干年間定額ト為ス者)地租ト為スニ如カスト謂フ者、是本文第一派ノ所見ナリ、十年ノ今日ヨリ之ヲ顧思スレハ此説ハ頗ル中庸持重ナルヲ覚ユ、然レトモ当時議場七十余員ノ議者之ニ左袒スル者最モ僅少ナリシ所以ノ者ハ何ソヤ、各州各郡各村ノ地租某郡ニ在テハ極テ偏重、某郡ニ在テハ極テ偏軽、而シテ当時ノ議員其管内地租ノ偏重ヲ病ム者凡ソ十ノ七ニ居レリ、故ニ改租ヲ議スルヤ重租地方ノ長、次官ハ鋭意旧租ヲ痛掃シ、以テ彼此租額ノ軽重ヲ全国ニ平均セント企望セサルハ莫シ、之ニ反シテ此説ニ従ヘハ遽ニ全国租額ノ平均ヲ欲セス、唯各国郡内ノ偏軽偏重ヲ漸正シテ姑ク已マント企望ス、是レ衆議員ノ之ヲ排斥スルノ居多ナリシ所以ナリ
  上文ニ縷述スルカ如ク重租ヲ病メル地方ノ長、次官ハ大概新法ニ熱中セサルハ莫シ、故ニ後世ヨリ之ヲ皮相スレハ第二派ノ所見ハ急進ニ過キタル者ノ如シト雖モ、仮ニ身ヲ当時我カ国庫ノ龕底ニ置キ、平心深慮スレハ其説ノ実ニ已ムヲ得サル所以ノ者アルハ多言ヲ竢タスシテ明瞭ナリ、顧ミルニ我邦数百年来経済理財ノ法支離滅裂ノ余弊ヲ承ケ、地租ニ関スル法則ノ如キ前後錯雑ニシテ之レカ改革ハ僅ニ一部分ノ権力ヲ以テ得テ之ヲ為シ難ク、唯粗暴ニ手ヲ下セハ尚不都合ヲ醸生セシモ知ル可ラス、故ニ其正当ノ改革ヲ為サント欲セハ先ツ其悪根ヲ艾除シ、以テ鞏固タル基礎ヲ立サル可ラス、而シテ今一国内地租ノ一定法ヲ立テ而シテ明瞭ナル徴収法ヲ立テンニハ仮令地所ノ測量地価ノ査定ニ付若干ノ困難ヲ受クルモ撓マス屈セス之ヲ掃除シ、以テ本志ヲ達セスンハアル可ラサルナリ、是レ当場ノ議員カ最モ多ク此説ニ左袒セシ所以ナリ
  第三派ノ所見ハ最モ持重ニ似タリ、然リト雖実際ニ適シ難キヲ如何セン、何トナレハ則チ徳川氏ノ旧規ハ検見収租ヲ主トシ検見ノ妙処ハ意匠ノ活用ニ在リ、徳川氏ノ税吏大約其職ヲ世ニシ、髫齓ヨリ税算租牒ノ中ニ成長シ以テ其地方ノ税務ニ服事ス、地ノ肥瘠
 - 第3巻 p.713 -ページ画像 
穀ノ豊歉ニ於ケル、眼ハ算ト為リ手ハ斗ト為リ、寛猛軽重方寸ニ瞭然トシテ毫モ惑フ所ナシ、其人太タ不良貪墨ナルニ非サルヨリハ、以テ収租ノ平準ヲ維持スルニ足レリ、然ルモ尚ホ屡々其流弊ニ苦メリ、況ヤ維新以降ハ陸羽ノ人肥筑ヲ治メ、予土ノ士加越ヲ管シ、管庁ト部民トノ間動モスレハ事情通セス、其甚キハ言語スラ尚ホ且相通セサル者アリ、彼ノ検見ノ妙処ヲ以テ此ノ如キノ官民間ニ求ムルハ抑々亦難カラスヤ、且寧ロ薄税ニ失スルモ重歛ニ流レサルハ地方官ノ常情ナリ、其情ノ弊タル武断以テ地租ヲ軽減シ、雑税ヲ蠲除スルニ至ル、是ヨリ先キ元年八月各地方ニ令シ漫ニ其税率ヲ増減スルヲ督戒セシハ洵ニ所以アルナリ、然ルヲ今此説ニ従ヒ地方官ニ委付スルニ検見収租ノ権ヲ以テセハ、其収租ハ将ニ日ニ減ニ偏スルヤ必セリ、蓋維新以後検見ノ為メニ田租ノ逐年ニ減ニ偏シタル実例ヲ見ルアルナリ、顧フニ其減租ノ効功ヲシテ能ク純ラ窮氓寒民ニ覃及セシメハ、則チ仁恤ノ意ニ負カスト雖其実ハ決シテ然ラス、徒ニ漫然減去シ、其実利ハ却テ豪農殷戸ニ帰スルニ過キス、其然リ検見ノ実際ニ行フ可ラサルヤ断シテ知ルヘシ、是レ此説モ亦左袒スル者ノ僅少ナリシ所以ナリ
  以上三派ノ説ハ唯其進歩ニ漸急ノ別アルノミ、之ヲ要スルニ皆旧租ノ積弊ヲ除クヲ熱望セサル者ナシ、議長乃チ議員中若干員ヲ別選シテ委員ト為シ、地租改正法ヲ草案セシム、案成リ会々大輔故アリ、遽ニ其官ヲ辞ス、参議大隈重信大蔵省事務総裁ト為リ議場ヲ総括シ、其案ヲ議員ニ頒示シ、逐款事理ヲ審議セシメ而ル後ニ始メテ之ヲ議決セリ、此ニ於テ同年五月十九日大蔵省事務総裁ハ法案ヲ具シテ之ヲ正院ニ上申セリ
○下略


〔参考〕大日本憲政史 (大津淳一郎著) 第一巻・第五六三―五六四頁〔昭和二年五月〕(DK030152k-0006)
第3巻 p.713-714 ページ画像

大日本憲政史  (大津淳一郎著) 第一巻・第五六三―五六四頁〔昭和二年五月〕
 国会開設、憲法制定の問題と同時に、当時、政府の問題と為りしものは、他無し、地方官会議召集の議、即ち是なり。
 明治六年二月《(マヽ)》の交、大蔵省の職制、地方民政を兼ねるを以て、府県長次官を召集し、地租改正の事を議せんが為に、其の規則章程を設け可否の多数に因て議事を決せんとせしが、政府部内、異議あり、以為らく『是れ議院の権内に属する事にして行政者の為すべき所に非ず』と。正院之に反対せしかば、会議終に止むに至れり。尋で大蔵大輔井上馨、職を辞するに及び、地方官各自将に帰任せんとす。議官宮島誠一郎之を聞き、以為らく『左院に於て、地方官会議を開くは時宜に適し、策の最とも得たるものなり』と。板垣・西郷の両参議と謀り、地方官会議規則を編成し、其の会議を開かんとせしに、故ありて果さゞりしと云ふ。『国憲編纂起原』に曰く。
  政府御改革、続て井上大蔵大輔辞職候得ば、折角召集の地方官も其甲斐無之、各自帰せんとす。政府失信の罪免れ難し。此上は、何れか其良策を得て、其儘地方官を抑へ留めて、左院に於て、一会議を興し度、其旨板垣参議へ書状を遣し、十三日早朝、稲荷堀の西郷参議宅へ参り、面談先づ第一に国会院設立、並左院御改定の方
 - 第3巻 p.714 -ページ画像 
法を談じ候処、至極同意なり。猶又大蔵より召集の地方官会議も中止に相成、甚だ不都合の次第なり。幸に今般本院へ国会御委任相成候得ば、直様地方官を留めて、右院に於て会議被開候はゞ如何有之可申候と相語りしに、西郷大喜にて、御院に於て地方官を御引受け、御一会被下候へば、仕合の事、且、会議規則等も御取調に相成居候へば、後刻参朝、正院に於て、地方官御請取之議御達に可及、其節正院へ規則原案御持参有之度旨申聞にて相別、直様左院へ出勤の処、折節未だ副議長病気不参、其内正院より呼懸来候に付、大議官谷鉄臣代理出頭の処、伊地知不参の為め、地方官引渡の儀、西郷参議より発論無之。唯、国会院取調稿案の儀、相談のみにて大不都合なり。云々、他日板垣より承知致し、可惜機会を失ひ、残念の至りなり。


〔参考〕世外侯事歴 維新財政談 下・第三七六―三八四頁 〔大正一〇年九月〕 三四 地租改正(DK030152k-0007)
第3巻 p.714-717 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕雨夜譚会談話筆記 上・第三五一―三五三頁〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕(DK030152k-0008)
第3巻 p.717 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 上・第三五一―三五三頁〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕
  一、「明治三十一年十二月十三日組織せし地租増徴期成同盟会に就て」
先生「質問の点は良く見ましたが此事柄はあまり記憶がありません。之は六十年史の中から採つた様に書いてありますが、六十年史中に其関係人の名前は出てゐませんか」
岡田「名前は有りませんけれども、子爵の御演説の速記が載せてあります」(演説速記を読む)
先生「此演説の趣意は一通り記憶してゐますが詳しくは知りませぬ。地租が実施されたのは、私が大蔵省を辞した後の事で、何でも明治六・七年頃と記憶します。話は其以前に溯るが、明治二年私が大蔵省に這入つた頃は、大分税の間に均衡の取れない所があつて、伊藤さん大隈さんを初め、私等は皆租税改正の必要を感じてゐました。そして大検地をやる必要があるとし、それに又度量衡の改正等を思ひ立つて、佐藤与之助を改正係に入れて改正をやりかけたのです。此大検地と云ふのが、所謂地租を課した時に行つた土地調べの事です。其以前には各藩で百姓に大変重い税を課したものでした。そこでこれではいけない。宜しく農を養はなければならぬ。農は国富の基であるから之を改め、之を盛にしなければいけないと云ふ考が、一般に行はれてゐました。その関係から其後地租制定の場合に負担を出来る丈軽くする様になつたのではないかと思ひます。ところが日清戦争になつて財政が窮して来ました。それで地租が他の租税との振合から安過ぎるとて、之を増徴しようと云ふ事になつたものでせう」
 ○下略


〔参考〕青淵先生伝初稿 第七章三・第四七―五八頁〔大正八―一二年〕(DK030152k-0009)
第3巻 p.717-719 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章三・第四七―五八頁〔大正八―一二年〕
租税の改革は先生の租税正たりし時より企て、米納を停めて金納の制に為さんとて改正掛にて之が調査研究に従事せるよしは上文に述べたり。此事は重大案件にて、成功を急ぎ難き事情あれば、明治元年以来政府は租税の賦課・徴収に関しては姑く旧慣に率由し、二年六月諸大名の版籍奉還の挙あるに及びても尚改むる所なかりき。然れども旧来の地租は、検見《ケミ》によりて土地の広狭地味の沃瘠を検し、其等級を定めて収穫の石盛《コクモリ》を算定し、課税の標準となすが故に、検見の情弊尠からず、人民の負担も平衡を失ふもの多かりき、よりて政府部内に於ても
 - 第3巻 p.718 -ページ画像 
新に土地の検査を行ひ石盛の不平均を定めんとの議あり、先生等が改正掛によりて全国測量の議を建てたるも亦此用意なるべし。されども政府の威信尚重からざる際に之を決行するは徒に紛擾を招くべきが故に、明治三年七月旧制を参酌し、大蔵省達として府藩県に頒布せるものを検見規則と為す、蓋し三年乃至五年間の検見を試み、其取箇附《トリカヅケ》によりて将来均一の租率を定めんとするものゝ如し。会々同年六月集議院判官神田孝平は田租改革の議を太政官に上り、石盛及び検見の弊を除かんとせば、宜しく土地の売買を許し、土地所有者には地券を交付し、地租は地券記載の地価に応じて金納せしむべきことを論ずるや、世論を喚起し、遂に地租改正の動機となれり。かくて翌四年七月廃藩置県によりて全国悉く政府の直轄となるに及び、租税の改正益々急を感ずることゝなりたれば、大蔵省は租法改革の実行を期し、四年九月大久保大蔵卿・井上大蔵大輔より、「地所売買放禁分一収税法施設」の議を正院に稟議せり、要は地所の永代売買を許し、各所持地の估券を改め全国地代金の総額を点検し、然る後簡易の収税法を定めんとするにあり。尋で同年十一月十一月或は十月に作る、是非を知らず井上は少輔吉田清成と共に、「内国税法改正見込」を正院に上申し、従来施行し来れる田租は、今俄に之を廃し離きが故に、先づ土地売買の禁を解き、地券税法を設け、且つ物産を興し、工芸を勧め、保護政策によりて輸出の盛大を謀り、其他内国租法の平準によりて農民貢租の偏重を除き、以て下に負担偏倚の弊なく上に歳入増加の利あらしむべきをいへり。以上は皆先生が大蔵大丞として参与献替せる所なりき。正院此議を納れ、更に施設の方法を調査研究すべしと大蔵省に命じたれば、先生等審議の結果、先づ東京府下に地券を発行することゝなり、四年十二月太政官は、東京府下、従来武家地・町地の称あれども爾来之を停め、一般に地券を発行し、地租を上納せしむるの令を布き、五年正月大蔵省達を以て、「東京府下地券発行地租収納規則」を頒つ、即ち地券発行の嚆矢にして地租は地券金額百分の二と定めたり。此の時に際し大久保・吉田の卿輔は前後して海外に赴き、大蔵省の全権は大輔たる井上と、少輔事務取扱たる先生との手に在りしなり。而して租税頭陸奥宗光・租税権頭松方正義等之を助け、税法の改正は著々として其歩を進めたり。
明治五年二月十五日、太政官は大蔵省の建議に基きて、「地所永代売買の儀、従来禁制の処、自今四民とも売買所持候儀被差許候事」と令し全国一般地所売買の禁を解き、土地の所有権を認めたり。而して郡村宅地の租法も亦、時機を待ちて旧制を廃し、一般に地券税法を施行すべき方針なりしかば、土地の売買譲渡に際しても同じく地券を交付することゝなし、同月二十四日大蔵省達を以て、「地所売買譲渡に付地券渡方規則」を定め、尋で七月四日に至り、土地の売買譲渡の場合と否とを論ぜず、一般に地券を授くる旨を達し、九月四日更に二月二十四日頒布の規則を増補せる「地券渡方規則」を制定せり。是より先き東京府下に地券を発行するや、将来之を全国の市街地にも施行せんとするの方針なりしかば、五年正月租税寮より其意を各府県に通達し、四月又東京府下の地租を改めて百分の一となせり。蓋し市街地は従来無税なりしかば今新に地租を課するに際し、努めて賦課を軽くして、漸
 - 第3巻 p.719 -ページ画像 
次府県に及ぼさんとするなり。かくて六年二月に至り、全国の市街地無税の分も亦本年より地租を徴する旨、大蔵省より各府県に達し、地券の制度此に始めて国内に普及することゝなれり。今左に一例として田畠の地券を示す


図表を画像で表示--

 [img図]〓   年 号 干 支 月       地券之証 押切印 某国某郡某村之内     何番                     某郡某村     一田何町何反何畝何歩     持主   何之誰       此高何拾何石何斗何升何合        此地代金何百何拾何両也 押切印 一畑何町何反何畝何歩          同人       此高何拾何石何斗何升何合        此地代金何百何拾何両也   右検査之上授与之                何府知事県令苗字名□               大小属苗字名右  □受付 



  ○右ニ参考資料トシテ掲ゲラレタル件々ニ関スル栄一ノ参与ヲ示ス資料少キヲ以テ、コヽニ参考ノ為ニ掲グルコトトセリ。