デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.719-741(DK030153k) ページ画像

明治六年癸酉五月四日(1873年)

是ヨリ先、各省経費増額ノ要求益々烈シ。大蔵大輔井上馨極力論争シタレドモ、遂ニ拒ム能ハズ。乃チ五月三日ニ至リ辞意ヲ決シ、吏僚ヲ集メテ之ヲ告グ。栄一之ニ同ジ、是日辞表ヲ奉呈ス。十四日願ニ依リ出仕ヲ免ゼラル。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之五・第二九―三〇丁 〔明治二〇年〕(DK030153k-0001)
第3巻 p.719-720 ページ画像

雨夜譚  (渋沢栄一述) 巻之五・第二九―三〇丁 〔明治二〇年〕
○上略 翌六年に引続いて、各省と大蔵省との紛議は絶えなかつた、前にも申す通り江藤新平と井上との間は別して不折合で、所謂氷炭相容れずといふ中だから、江藤の意中では、全体井上は怪しからむ人物だ、唯々各省を詰めるばかりで、而して自分が大蔵省を専横するといふのは実に不埒だ、若し此の儘にして打捨て置く時には、何処まで跋扈するか知れぬ抔といつて、益々其軋轢が烈しくなつた、政府でも三条公は頻りに心配しられるが、西郷・板垣は頓着せず、大隈も如何したのであるか、各省の政費増給を拒絶するといふ大蔵省の具申書面を政府から却下になつたから、井上は自身に政府へ出頭して、委曲其理由を陳弁したれども、各参議はこれを聴納れぬといふので、井上は歎息の余り自分へ内話するには、最早大蔵省の事務には絶意した、畢竟此の見易き正当の道理が行はれぬといふは、政府に於て井上を信任せぬのであるから、今更是非もない事だが、今一度政府に出て一身の精神を大隈
 - 第3巻 p.720 -ページ画像 
に吐露して見て、それでも政府に採用せられぬ時は、潔く仕を致すより外はないと予じめ其決意を自分に示して、五月三日に再び政府へ出頭して、泣血論弁しられたけれども、矢張其言は用ゐられることが出来ずして、其日の十一時頃に大蔵省に帰つて、自分を始め其他の吏員を招いて、始めて辞職の事を発言した上、更に自分に向つて、今申述べたる如く、乃公本職を辞すると決心した以上は速に此の処を退出するが、就ては足下を始め一同に跡の始末は宜しく御頼み申すといつて既に其席を退かむとするから、自分は急にこれを引留めて、貴君が御辞職も去ることながら、拙者も亦思ふ仔細があるから此の際貴君と共に辞表を呈しませう、蓋し拙者の職を辞すると申すのは今日発意した訳ではない、即ち一昨年以来胚胎して居ることで、辞職を請願したのも既に再三のことだから、貴君も御熟知の通りであります、然るを今日まで留任したといふは、全く貴君が抱持せられた財政改良の主義に感じて、一臂の力を尽さうと決意したからのことであるが、今に及んで其持論が行はれぬ以上は、何を目的に貴君の跡に留る必要がありませうぞと明言して、終に井上と袖を聯ねて大蔵省を去つたのは、其日の十二時過ぎであつたが、軈て両人共辞表を政府へ奉呈しました。
  ○右ト同様ノ談話多ケレドモ「竜門雑誌」第四九一号所載栄一談話「予が退官前後の事情」ハ詳細ナルモノノ一ナリ。


報知新聞 第五十一号附録二 【私儀不能短才ノ身ヲ以是…】(DK030153k-0002)
第3巻 p.720 ページ画像

報知新聞 第五十一号附録二
私儀不能短才ノ身ヲ以是迄奉務仕候得共倩愚考仕候ニ即今万機御更革ノ御時態ニ奉対何分奉事ニ堪兼候間何卒出仕御免被成下度此段奉願候也
 明治六年五月四日            大蔵省三等出仕
                        渋沢栄一
正院御中
  ○附録二ニハ大蔵大輔井上馨及ビ栄一ノ奏議ヲ掲ゲ、ソノ末尾ニ両者ノ辞表ヲ載セタリ。
  ○第五十一号ノ発行日ハ明カナラズ。同号ニハ明治六年五月トアルノミ。因ミニ当時ノ新聞ニハ月ノミヲ記シ、日ヲ記サザルモノ多シ。
  ○日要新聞第七十五号附録(紀元二千五百三十三年五月)ニモ「両名家建議」トシテ奏議ヲ掲ゲ、其末ニ井上及ビ栄一ノ辞表ヲ掲ゲタリ。但シ此両辞表ニハ日附ナシ。


渋沢栄一 書翰 井上馨宛(明治六年)五月五日(DK030153k-0003)
第3巻 p.720-721 ページ画像

渋沢栄一 書翰 井上馨宛(明治六年)五月五日   (井上侯爵家所蔵)
拝啓今朝ハ些遅刻なから高約を践罷出候処、㝡早御外出ニ付、偏ニ彼場と心得、直ニ人車を拝趨候得共、生憎休業にて尊来ハ無之趣、遂ニ御行違之儘帰宅仕候、偖昨日来之御模様何か異情も有之候哉、生ハ昨日表を差出候処、昨夕渡辺林来訪申聞にハ、未タ正院へ上達いたし呉不申由、併今日ハ相達候事と奉存候、此度ハ幸ニ宿望も可相遂と、只只怡悦罷在候
今朝宮中之火ハ実に恐懼之涯、御同愕之至ニ御座候
右御様子相伺候まで 匆々
  五月五日
                     渋沢栄一
 - 第3巻 p.721 -ページ画像 
   世外老兄
  尚横浜亀善今朝宅へ参り、彼会社之義申聞候間、老台へ申上候様と相答置候、是ハ先日申上候通年賦之方同人共之願望と被存候、宜御賢考御指揮被下度候
  小生頃日之時体を苦慮之余り一篇之建議出来候、是ハ所謂置手紙として大隈へ差出候積ニ御座候、何れ明日頃ハ可入尊覧候 拝具
  ○此書翰中ノ表トハ辞表ノ意ナル可シ。然リトスレバ栄一ノ辞表ヲ奉呈セルハ前掲報知新聞第五十一号附録ノ明示セル如ク、又後掲「世外井上公伝」ノ推定セル如ク五月四日ナラン。


世外侯事歴 維新財政談 下・第四〇一―四一四頁 〔大正一〇年九月〕 三七 井上侯辞職の顛末(DK030153k-0004)
第3巻 p.721-722 ページ画像

世外侯事歴維新財政談 下・第四〇一―四一四頁〔大正一〇年九月〕
  三七 井上侯辞職の顛末
        男爵渋沢栄一 益田孝 侯爵井上馨
        伯爵芳川顕正 佐伯惟馨     談話
渋沢男 井上侯の所謂天下経綸は大蔵省時代からの御議論で、あの時分にあれだけの考を立て、前後貫徹して頭の中に経綸を組立てた人ですから、実に国家有益なんである、是は実に頼るべき人だと私は深く信じて、今でもそれを能く記憶して居る。其後明治六年の辞職は全く出来心で、ヤケを起したと云ふ様な塩梅である。五年に母堂が逝去になりました、浜町にお居での時分です。其喪中に四年から五年秋頃までは、財政は井上さんに大抵信任して来た内閣が、侯に対する工合が悪くなつた。それで侯は頻に不平を言はしつて、一箇月許り引込んで居つた、三条さんが心配して私の家まで来られた事がある。「井上を出すやうにして呉れろ」と言つて……其時はそれで折合ふて、一旦出勤されたが、畢竟、太政官との衝突は、さう金を使つちやいかぬ、そんな事は出来ないと云ふ争に帰著する。司法省あたりの説が、兎角に井上は唯自分の権力を張つて、我儘な理屈を言ふて、他の方面を圧伏する事許り考へて居る、天下は大蔵省に掌握する様な事をするから、いかぬと云ふ誹謗、及び井上の様な乱暴な政治をしては、迚も財政は持切れぬぞと云ふ議論が盛んである。極端に言ふと、江藤新平と、井上さんとが喧嘩する様にも見えた。それが糾れ糾れて六年の五月に愈々堪忍袋が破裂したのだ。辞職の前日か、私に是非出て来いと云ふ達しが来て、出て見ると井上さんは内閣の方へ行かれて、散々激論したのでせう、大変御機嫌が悪い、怒りきつて帰つて来て、神田橋内の大蔵省で、三菱を呼んで来いと云ふ、火が付く様な有様で……吾々二人共辞職しては困ると云ふお話「仕方がない、そんな事を言つたつて私は御免蒙る」「それは困るだらう、二人一緒に出ると云ふことは宜くなからう」、「宜くなければ貴所お止めなさい」、「迚も俺にはやれぬ」、「貴所にやれないものを私にやれと云ふのは無理ぢやございませぬか」、「イヤ誰か来るからやれ」、「誰が来るからツて、分りもせぬ人に附いてやる了簡はないから、貴所がいけなければ、私もいけない」、「そんな事を言ふと何だか政府に向つて喧嘩腰になつて宜しくない」、「喧嘩腰になつて宜くなければ貴所がお止めなさい、私は喧嘩腰でも何でもない、是非
 - 第3巻 p.722 -ページ画像 
此処で罷めて貰はなければ困る、一昨年の事などは、お忘れになりましたか」、「忘れはせぬけれども、そんな事を言つて呉れぬでも宜いぢやないか」と云つて、侯は頻りに留められたけれども、私は其時分喧嘩の衝には当つて居らぬが、「此処で罷めさして下さるが、御親切ぢやないか、一昨年あの通り言つたのを、今になつて俺が罷めるから、貴様残れと言つちや、余り無理ぢやありませぬか」、「まア仕方がない、それぢやアやれ」と云ふので、二人共に辞表を出した五月の十幾日かと思ふ。 ○下略


世外井上公伝 第一巻・第五四七―五四九頁 〔昭和八年十一月〕(DK030153k-0005)
第3巻 p.722-723 ページ画像

世外井上公伝  第一巻・第五四七―五四九頁 〔昭和八年十一月〕
 渋沢子爵の談話に拠ると、各省では大蔵省の主張を容れず、なに公の反対なんか構ふものかといふ風で、盛んに濫費したので、真実の喧嘩と為つて了ひ、公も最早我慢が出来ず、六年五月三日であつたらしいが、内閣から省へ帰つて来て、「もう乃公も辞職の外は無い。」と渋沢等の昼餐中の席に来て述懐し、「さあ辞表を書いて呉れろ。」と無雑作に秘書官に吩咐けた。後世から見ると、あまりに明放して意外のやうに見えるが、当時はこんな調子であつたといふ事である。公の辞表を書かせたのは、渋沢の述べた如く五月三日は確実であらう。紙幣頭芳川顕正が公に渋沢の辞表を如何に取扱ふかを伺出た五月五日附の文中に、「別帋渋沢の辞表、昨日本省え差出候所、尊台え之副書モ有之、旁如何様取扱可然歟、拝面之序を以相伺可申様、大少丞より被頼申候ニ付、為持上候間、可然様御指揮奉希上候。」井上侯爵家文書とあるから、四日に渋沢は単独で本省へ出したものらしい。然るに渋沢子爵の談話に拠ると、五月三日に公が癇癪玉を破裂させて、辞表を出すといひ出した時、渋沢は「貴卿が辞任をなさるなら、私も罷めます。」といつたが公は「国家の為だから後任者の為尽してくれ。」といつて聴入れなかつた。すると渋沢は、「それは貴卿の勝手が過ぎると存ずる。以前私が辞職を志した際御慰があつて、罷める時は一所にやめると仰しやつたでは有りませんか。」と述べて大議論と為り、結局二人同時に辞表提出と為つたといふことである。前記芳川の書翰の意とは合致しないかと思はれる。惟ふに二人一所に出したといふのは、辞表に非ずして、政府弾劾の建白文の事であらう。辞表は別々に出したもので、公のは五月三日に提出したものの如く判ぜられる。

  ○コヽニ掲グル「世外井上公伝」ニ栄一ガ辞表ヲ提出セルハ五月四日ナラントアルハ正シケレド、井上馨ノ提出セルヲ五月三日ト推定セルハ疑ナキニ非ズ。報知新聞、第五十一号、附録二ニ栄一ノ辞表ノ前ニ掲ゲタル井上馨ノ辞表ニハ五月七日ノ日附ケアリ。参考ノ為ニ之ヲ左ニ掲グ。
    先般大久保大蔵卿洋行ノ砌ヨリ当省ノ事務代理担当仕実ニ不容易重任菲才ノ所堪ニハ無之候ニ付固ヨリ辞職当然ノ儀ニ候処、御維新ノ際徒ニ自安相計候様成行候テハ多年ノ朝恩ニ可答道ニモ無之、姑ク大方ノ毀誉ハ不相顧自任努力罷在候、然ルニ又退テ熟考仕候得ハ、馨ノ菲才無識以テ従事仕候共前途目的更ニ難相立、空ク賢路相塞却テ又多年ノ朝恩ニ可答道モ無之、強テ自安相計候ニハ無之候得共、此儘奉職候テハ不自知ノ甚敷モノニテ恐懼無限奉存候、其委曲今日三職ヘ縷述仕候次第ニ付、位職返上仕候 謹白
 - 第3巻 p.723 -ページ画像 
     明治六年五月七日
                  大蔵大輔 井上馨
    正院御中


芝崎猪根吉所蔵文書(DK030153k-0006)
第3巻 p.723 ページ画像

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太政官日誌 明治六年 第六十八号 ○五月十四日(DK030153k-0007)
第3巻 p.723 ページ画像

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百官履歴 下巻・第一四〇―一四二頁 〔昭和三年二月〕(DK030153k-0008)
第3巻 p.723 ページ画像

百官履歴  下巻・第一四〇―一四二頁 〔昭和三年二月〕
            東京府平民 渋沢栄一 篤太郎
○上略
同六年癸酉五月十四日 依願免出仕但位記返上ノ儀不被及御沙汰候事
同月十五日 御用滞在被仰付候事
同年十二月十三日 御用滞在被免候事
同月廿五日 織物一巻下賜候事


本邦人ノ外国訪問関係雑件 ○第四巻(DK030153k-0009)
第3巻 p.723 ページ画像

本邦人ノ外国訪問関係雑件            (外務省所蔵)
○第四巻
 (別冊)右大臣岩倉具視特命全権大使トシテ締盟各国ヘ派遣之件
    (朱印)
       外事左局   五月廿日差立
           (朱印・塩田)
        左局 (印)
第四十八号 田辺書記官ヘ之書案
例文
一三月六日附貴信五月二日到着 ○下略
○中略
一井上大蔵大輔渋沢栄一職位辞表差出願之通免職被仰付尤返位之義御沙汰不被及候
○中略
右之条々得貴意候也
 明治六年五月廿日             宮本大丞
    田辺一等書記官殿

本邦人ノ外国訪問関係雑件 ○第五巻(DK030153k-0010)
第3巻 p.723-724 ページ画像

○第五巻
 (別冊) 右大臣岩倉具視特命全権大使トシテ締盟各国ヘ派遣之件
第五十五号
  明治六年五月十四日 東京ヲ発ス
 - 第3巻 p.724 -ページ画像 
○上略
大蔵大輔井上馨三等出仕渋沢栄一之両人辞表差出事情不得已義ニも有之願之通り被 聞召候事ニて候右ニ付同省各寮司之職員忽チ方向ヲ失ひ候趣を以て紛紜申立之儀も有之依テ当分参議大隈重信大蔵事務総裁被 仰付候井上渋沢ヘ左之通御達相成候
    依願免本官        大蔵大輔 井上馨
     位記返上之儀ハ難被及御沙汰候事
                      同人
     御用滞在被仰付候事
                 三等出仕 渋沢栄一
     都テ井上同文言
○下略
                   上野外務少輔
                   江藤
                   大木
                   板垣
                   後藤
                   大隈
                   西郷
                   三条
     特命全権大副使
           御中


竜門雑誌 第一四六号・第八―一〇頁 〔明治三三年七月〕 ○東京商業会議所の祝賀会に於ける青淵先生の演説(DK030153k-0011)
第3巻 p.724-726 ページ画像

竜門雑誌 第一四六号・第八―一〇頁 〔明治三三年七月〕
  ○東京商業会議所の祝賀会に於ける青淵先生の演説
  東京商業会議所の祝賀文及先生答辞の要領は前号の紙上に記せしも今其の速記を見るに是れ啻に単なる答辞に留まらず広く経済社会の事に関するあれば玆に全文を掲載す
○上略 此官を辞します迄に自分が強く感じたのはどうであるかと申すと、国は斯く開けて事物は追々進歩して往くが政治的事物の進歩して往く割合には商工業的進歩は甚だ乏しい、是は大いに国の為めに憂ふべきことではあるまいか、自分が最初革命的の考を持つて居る時分には学問も浅薄才識も乏しいに拘はらす事に依つたら天下を料理しやう位な考は起して居つた、それこそ三尺の剣を以て天下を制御せんと云ふ位な誠にノツパツシの思案を持ちもしました、其時には徳川の政治が腐敗して官を世々にし、職を世々にし、百姓町人に対する待遇を見ても総て其当を失して居る、是は一ツ革命せねば国は立たぬと云ふ感念を惹起したのですけれども、再び斯く新政府へ出まして勤めて見ますると、まだ其時分は今日の如く老いたりと云ふのではございませぬ、極く壮年の際ではあつたが偖己れの力の足らぬ学問の乏しいと云ふことが大いに感じられて、是は吾々が中々此世の中に立つて天下を料理するなどと云ふやうな意念を持つよりは寧ろ我力に相応することで世を益するが宜からうと云ふ感念を強く起しましてございます、其身に相応することで世を裨益するとは何うであらかと申しますると、唯今申しまする通り政治とか教育とか軍事とか云ふやうなものは、日に月に海外の学説、若くは人才を輸入して益々進んで往くに拘はら
 - 第3巻 p.725 -ページ画像 
ず、独り商売工業と云ふものに対しては始終政治の奴隷となつて居る傾きがある、どうか之を進めたいと云ふ考を起した、之が即ち私の第三の考でありました、初めには革命的の意念を以て是非此幕府は倒さんければならぬと云ふ望を起し、今は此商売工業と云ふものが斯様な低い所に居つては到底国の富強を為すことは出来ないと云ふことを感じました、偖左様に感じて見ると商売人の力が足らぬのみならず、品格も足らぬ、種々なる不足を皆備へて居る、是では商売と云ふものが世の中に発達して来ることは出来ない、縦し投機者流の人があつて大金持になつた所で、商売人に品格と云ふものが備はるとは言へない、又海外貿易に上手な人が出来て生糸を輸出するとか綿糸を買入れると云ふやうな事業が成立すればとて、それで商売の品格が進んだとは申されない、即ち商売人の凡ての品行と云ひ、学問と云ひ、思想と云ひ何もかも政治家と相対比して進み行かなければどうしても商売人の品位、又は実力と云ふものが十分になつたとは言へなからう、又日本の商売が海外の強国と争ふと云ふことは出来ぬであらうと強く感じました、私は今申す程の事柄を身自らで行ひ得ると云ふ自惚は持ちませなんだ、又自ら頼む程の才能もありませなんだ、併し左様に謙退して見た所が誰がそれをやるか、其時の商業者を見渡した所で、先づ三井組では三野村利左衛門・斎藤純造・永田甚七、又小野組では小野善右衛門・行岡庄兵衛・江林嘉兵衛、或は京都大阪にも為替組と称する豪商があつて其番頭さんにも所謂白鼠の輩もありましたが、是等は皆官員に逢へば畳三枚も隔てねば挨拶も出来ぬと云ふ有様だ、是は決して私が今誇言をするのではありませぬ、故に私は是非此間に己れの身体を投じて成るか成らぬか一つやつて見るより外はない、自分は政治社会に付ては自から頼む程の才能もなし又之は甚だ言悪い言葉で私が言ふたら諸君は「ノウ」と御答があるでせうが、第一に門地もなし、但し此門地のないと云ふことは余程申悪い口上ですけれども、真情実話として申上ます、故に官途に居ることは私の身体をして此世に尽すに不利益な訳であるから、成敗は第二に置て先づ此商売界に身を投じて商業と云ふものゝ位地品格及其実力を十分に進めて見たいと云ふ覚悟をしましたのが、明治五年頃よりのことでありました、然るに明治六年には今日も相変らず御懇意にして居ます井上大蔵大輔が大蔵省を辞さんければならぬ場合に至りまして、其時に私は大蔵少輔の位地に居りまして、井上大輔を御助け申して大蔵省の事務を扱つて居つた、而して其時分に政府部内の評には渋沢は寧ろ温和な男で、余り過激な議論をせぬ奴だ、甚だ使ひ易い人間だと云ふことで別に他から悪く言はれるやうなことはなかつた、そこで私の考へまするには、今井上伯が辞して私が跡へ残りますると、私の希望は何れの日に達し得られるか分らぬから、私も共に辞職と決心した、故に明治六年の五月には大蔵省の長次官が二人一緒に辞すと云ふことになつて、其時分の官庁と云ふものが甚だ粗雑であつて、一向秩序がなかつたと云ふ有様は、今考へて見ても酷い事をしたやうでございましたが、井上伯が辞すると共に私も去らねば去ることは出来ぬと覚悟して辞表を提出しました、当時其筋より再三の説諭がございましたが、これだけは固く執つて動かな
 - 第3巻 p.726 -ページ画像 
かつた、殊に大隈伯などは色々と懇切に説諭なされましたが、どうしても自分に考へる事があるから辞職を聞届けて貰ひたいと言つて辞し遂げましたのは最早三十年近くの昔話となりました。○下略


竜門雑誌 第一五八号・第九―一〇頁 〔明治三四年七月〕 実業発達の必要(DK030153k-0012)
第3巻 p.726 ページ画像

竜門雑誌 第一五八号・第九―一〇頁 〔明治三四年七月〕
○上略
  実業発達の必要
私は明治六年から商売人になりまして、殆ど三十年商人で世の中の事に苦心経営致して居るのでございますが、維新以前の日本の商売人といふものは、今申す如くに世の中から疎んぜられた。疎んぜられると同時に力が細くて、決して是商売人では、日本の国をして十分なる力を張ることの出来るものでなからうとまで虞れたのです。私は別に学問のために渡航したのではありませぬが、維新以前に欧羅巴へ一年ばかり参つて、彼地の有様を観察しましたが、海外の形勢は、まるで違つて居る。殆ど国家といふものは、商売とか工業とかいふものが基礎になつて、さうしてそれを進めて行くといふことに付て、政治とか軍事とかいふものがあるので、大きく云へば国である。小さく云へば人である。其人の重なるものは何んであるかと云へば、即ち生存上最も必要なる実業である。此実業を強めるのが、即ち国の富を増し、力を殖すのである。斯かる主義を以て、欧米の国では進みつゝあるのに、維新当時の日本は是に反対して、実業に従事する者が、唯だ政治家の奴僕手足の如く扱はれて居る。己れ自身の奴僕手足の如くなるのは宜いが、政治家の奴僕手足になつては、国の富を増し、力を張るといふことは出来ぬのであります。従つて国が弱いのである。貧しいのである。是では日本は真に国力を張ることが出来ぬと、不肖ながら私は頻りに憂へた。どうかして此実業家といふものの位地を進め、力を増すといふことでなければ未来の日本の国家は貧弱に陥るの外はない。是は私一人が憂へたばかりでなく、心有る人は皆憂へたのです。 ○下略
  ○明治三四年四月二一日造士会ニ於テ為シタル栄一ノ演説ノ一節ナリ。


竜門雑誌 第一七四号・第五二頁 〔明治三五年一一月〕 The Creator of Industrial Japan(DK030153k-0013)
第3巻 p.726 ページ画像

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竜門雑誌 第二五二号・第九―一〇頁 〔明治四二年二月〕 ○明治五年の財界(承前)(青淵先生)(DK030153k-0014)
第3巻 p.727 ページ画像

竜門雑誌 第二五二号・第九―一〇頁 〔明治四二年二月〕
  ○明治五年の財界 (承前) (青淵先生)
○上略
官職辞退始末 自分は別に才能があるでもなければ、学問があるでもなく、又門閥があるでもない、官職に居つて栄達を求むるより寧ろ商売人になる方が国家に貢献することが出来るであらう、斯う云ふ覚悟を以て明治四年に井上さんに官を罷めたいと云ふことを申し出た所が前に申したやうに盆と正月が一緒に来たと云ふ様な時代であつたから許して呉れない、甚しきに至つては非常に怒られる、二度辞表を出したけれども、差押へられて、遂に明治六年に至つた、六年には井上さんが辞表を出されたから全く私に対する綱が切れて仕舞つた、尤も井上さんが長官の位地、私が次官のやうな位地に居つたから二人とも退いて仕舞ふと云のは甚だ乱暴な行為だと人には言れたけれども、乱暴を恐るれば自分は留まる外ない。(未完)


竜門雑誌 第二五三号・第八頁 〔明治四二年六月〕 ○明治五年の財界(承前)(青淵先生)(DK030153k-0015)
第3巻 p.727 ページ画像

竜門雑誌 第二五三号・第八頁 〔明治四二年六月〕
  ○明治五年の財界 (承前) (青淵先生)
留まれば自分の宿志は何時までも遂げられないから乱暴の誹りを受けても已むを得ぬことゝして井上さんが帰つた後で回章を出して大蔵省の各局長悉くは記憶しないが、陸奥、芳川、渡辺(清)、岡本、小野など十数人の人を集めて、不幸にして大輔は政府と意見を異にして辞表を出された、然るに此の際自分が共に辞表を出すと云ことは頗る矯激な行為であるけれども自分が官を辞したいと云ふ希望は年久しいのである、然るに井上さんが是非とも留まれと云ふことで今日まで留つて居つたが、此の機会を失へば遂に官を辞することは出来ないと思ふ故に已むを得ぬから進退を共にする、跡は差支のないやうに政府の処置があるだらうと思ふが、自分が辞表を出すに付て一言諸君に申して置くのであると云ふ申訳をして書面を出した、其書面は今でも大蔵省にあるだらうと思ふが、余ほど注意して書いた。其の時分に陸奥宗光氏が其の書面を見て、真に親切な書き方である、君は却々注意の届く人だと云つて褒められたことを覚えて居る、先づ大蔵省と私の縁が切れたのはさう云ふ次第であつた。 ○下略


竜門雑誌 第三一〇号・第一一―一四頁 〔大正三年三月〕 ○論語と予(其一)(青淵先生)(DK030153k-0016)
第3巻 p.727-730 ページ画像

竜門雑誌 第三一〇号・第一一―一四頁 〔大正三年三月〕
  ○論語と予 (其一) (青淵先生)
 取り立ててお話し申す程のことも有りませぬ。学問上論語に趣味を有つてをるといふのではない。私は漢学者でも洋学者でも無いから、哲学上の問題を研究す可き資格が無い。然し私は近来特に論語に深い趣味を有つて居るが、其れには理由が有る。仮令私が浅薄な学問でも論語を喜ぶ様になつた縁故は一応話す理由が有る。
 私の故郷は東京から二十里許り隔つてをる埼玉で親は半商半農の稼をして居た。家庭は至つて方正厳格で聊か親は百姓中に在つては学問を好む方で、文章を作つたり、書を書いたり俳句などをも作つてゐた
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深くは無いけれども好きな方であつた。其れで漢籍の経典を好み、充分では無いけれども、四書五経を後藤点の朱註で読み、本文丈では不充分故経典余師を用ひて読んで居た。私は親から最初素読を習つたので、七歳位から始めた、初め大学を読み、次に論語を読みかけたが、八歳許りになつて、親も忙しく、且内々では勉強の甲斐が薄いといふので、五六町の所に藍香通称新五郎といふのが居た。此は私の従兄で私よりは十歳年上で、十年許り前に故人になつたが、此の藍香は当時十八歳位であつたけれども、天稟記憶がよく、深く学んだといふのでは無いけれども、四書五経を百姓読み(扁とか作りとかで読む流義)でなく、立派に読んで居た。字義も明かで、其上道徳家で、若くより身持が好く、私の親とは叔父従兄の間柄であつて互に敬愛してゐた。其れで新五が代つて本を教へよとのことで、之からは四書五経を藍香に従つて農業に従事しつゝ読んだのである。然し何の趣味を有たず、充分に道理は判らなんだ。所が菊池菊城といふ人があつて、此の人は経学者で、朝川善庵や太田錦城に従ひ、古学派や朱子学派や折衷学派の様子を知つてゐた。朝川は朱子学派、太田は折衷学派であつて、菊城は此等を攻究して居て論語を講義した。其こで菊城が藍香の宅へ時々来るのを幸に、論語郷党篇位まで一週間余りも泊つて居て、毎晩菊城から講義を聴いた。此の時は学而、為政、八佾、里仁などは所々に感じを有ち、文章理義も大分考えて見た。そして唯論語が読めるとか、文章理義をを知つてをるといふことで誇つてはならぬ、論語には言に訥にして行ひに敏ならんことを欲すとも、弟子入つては即ち孝、出でゝは即ち弟、慎んで信、汎く衆を愛して仁に親しむ。行うて余力有れば即ち以て文を学べともあつて、道理を知つてをることを誇るのは好くない。実行が大切である。学を誇るは過ちで、実行を勉めなければならぬ。王陽明などは知行合一とか致良知とか説いてをる実行といふことになると、朱子の説は薄い様だ、理義は整つてゐても、実行に乏しい様だ、王陽明の方が実行の点になると好いと云ふ説もあつたので、私も然うかと感じたことも有つた。
 私の十四歳の時が嘉永六年ペリーが浦賀に来た年で、其の翌年が安政元年で外交問題が段々八釜敷なつて来た。固より十四五歳の子供故国家の事務に関して行届いた思案を有つ程のことは無かつたけれども、モウ大学でも読むと治国平天下を夢みる。唯だ修身斉家といふこと丈では物足らぬ思ひがして、国体とか政治とかいふことを考へ出す。然うなると自然に進んで我が国体の歴史とか、封建制度の起源とか、朝廷はドウなければならぬとか、色々の事を考へる様になる。世の中が年一年に騒々敷くなる故、従つて自分の考も騒々敷なり、家業の暇には子供でありながら国家の事を考へる。然して尊王攘夷が国民の勤めで、徳川の遣り方は間違つてをる。本来の国体に背いてゐる。王朝尊ぶ可し、夷蛮討つ可しといふ考にかぶれる。城公が斯く主張したものだから、自分もかぶらされた。城公の高弟を以て自ら任じてをる私は、先に立つて騒ぎ出し、モー此の時分は論語どころで無くなつた。尤も孔子に真似て、少正卯を誅す位の考は有つたが、静に論語を研究するといふ様なことは無くなつた。然して十年許りの間は論語と
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絶交して居たといふ有様であつた。
 二十四歳になつて故郷を出でて、一ツ橋に奉公をした。其れから色色変化をして、恰度二十八歳になつて仏蘭西へ参ることになつた。明治元年は二十九年、翌三十の歳に政府に召し出され役に就き、明治六年まで勤めてゐた。此の三十五歳までは論語に就いて深い考を有たなかつた。深い趣味を有つて読む場合が無かつた。が六年官を辞して、元来の希望の実業には入る事になつてから、論語に対して私は特別の関係が出来た。其れは始めて商売人になるといふ時、不図心に感じたのは此からは愈銖錙の利もて世渡りをしなければならぬが、志を如何に有つ可きであらうかに就て考へた。その時前に習つた論語のことを思ひ出したのである。論語には己を修め人に交はる日常の教が説いてある。論語は最も欠点の少い教訓であるが、此の論語で商売は能まいかと考へた。そして私は論語の教訓に従つて商売し、利殖を図ることが能ると考へたのである。
 そこへ恰度玉乃といつて岩国の人で後に大審院長になつた。書も達者で文も上手、至つて真面目の人で、役人中では玉乃と私とはマー純吏と言はれて居た。二人は官で非常に懇親にし、官も相並んで進み、勅任官になつた。二人は共に将来は国務大臣にならうといふ希望を懐いて進んで居たのだから、私が突然官を辞して、商人になるといふのを聞き痛く惜まれ、是非にといつて引止めて呉れた。私は其の時井上さんの次官をして居たので、井上さんは官制の事に就いて内閣と意見を異にし、殆んど喧嘩腰で退いた。そして私も井上さんと共に辞したから、私も内閣と喧嘩して辞した様に見えたのである。勿論私も井上さんと同じく、内閣と意見は違つてゐたけれども、私の辞したのは喧嘩ではない、主旨が違ふ。私の辞職の原因といふのは、当時の我が国は政治でも教育でも著々改善すべき必要がある。然し我が日本では商売が最も振はぬ。商業が振はねば、日本の国富を増進することは出来ぬ。これは如何にもして他の方面と同時に商売を振興せねばならぬと考へた。其の時までは商売に学問は不要である。学問を覚ゆれば反つて害がある。貸家札唐様で書く三代目といつて、三代目は危険であるといふ時代であつた。そこで不肖ながら学問を以て利殖を図らねばならぬといふ決心で商売人に変つたのであるけれども、然しそこまではイクラ友人でも解らなかつたのだから、私の辞職を喧嘩だと合点し、酷く私を誤つてをるとして責めた。君も遠からず長官になれる。大臣になれる。お互に官に在つて国家の為に尽す可き身だ。然るに賤しむ可き金銭に眼が眩み、官を去つて商人になるとは実に呆れる。今まで君を然ういふ人間だとは思はなかつた、と言うて忠告して呉れた。其の時私は大に玉乃を弁駁し説得したが、私は論語を引き合に出したのである。趙普が論語の半ばで宰相を助け、半ばで吾が身を修めるといつた事などを引き、私は論語で一生を貫いて見せる。金銭を取扱ふが何故賤いか。君の様に金銭を賤しむ様では国家は立たぬ。官が高いとか、人爵が高いとかいふことは、然う尊いもので無い、人間の勤む可き尊い仕事は到る所に在る。官丈が尊いので無いと、色々論語などを引いて弁駁し説きつけたのである。そして私は論語を最も疵の無いも
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のと思うたから、論語の教訓を標準として一生商業を遣つて見やうと決心した。其れは明治六年の五月の事であつた。
 其れからといふものは勢論語を読まなければならぬ事になり、中村敬宇先生や信夫恕軒先生に講義を聴いた。いづれも多忙なものだから、終りまでは成し遂げなんだが、昨年の夏から大学の宇野さんにお願して復始めた。主として子供の為に遣つてをるが、私も必らず出席して聴く。そして色々と質問が出たり、解釈について意見が出たりして仲々面白く有益である。只今郷党まで進んでをる。一章一章講義し皆で考へて本当に分つて後進むのだから、なかなか進まないが、其の代り、意味は善く判つて、子供なども大変に面白がつてをる。
 私は今までに五人の手で論語を講究してをるが、学問的でないから、面白くないと思ふ所は何とも思はず過すから、時には深い意味を知らずに居ることがある。例へば泰伯第八の、邦有道貧且賤焉恥也。邦無道富且貴焉恥也。の語の如きも、今となつて深い意味を含んでゐることを知つた。此度は論語を委しく講義してをるので、色々な点に気が付いて悟る所が多い。然し論語は決して六ケ敷学理ではない。六ケ敷ものを読む学者でなければ判らぬといふ様なものでない。論語の教は広く俗用に功能があるので、元来解り易いものであるのを学者が六ケ敷して了ひ、農工商などの与り知る可きもので無いといふ様にして了つた。商人や農人は論語など手にすべきものでないといふ様にして了つた。之は大なる間違である。     (未完)


竜門雑誌 第三一一号・第一八頁 〔大正三年四月〕 ○論語と予(其二)(青淵先生)(DK030153k-0017)
第3巻 p.730 ページ画像

竜門雑誌 第三一一号・第一八頁 〔大正三年四月〕
  ○論語と予 (其二) (青淵先生)
  本稿は青淵先生が大日本漢文学会の請ひにより説話せられたるものにして同会発行の漢文講義録第六号に未完の儘掲載せられたるを以て編者は長篇のものと信じて之を転載したり然るに同講義録第七号に掲ぐる所のものは左の数行に過ぎずして全く完結を告げ居るなり(編者識)
 斯の如き学者は、譬へば八ケましき玄関番のやうなもので、孔夫子には邪魔物である。こんな玄関番に頼んでは、孔夫子に面会することは出来ぬ。孔夫子は決して六カシ屋でなく案外サバケた方で、商人でも農人でも、誰にでも会つて教へて呉れる方で、孔夫子の教へは実用的の卑近の教へである。
 右の如き次第で、明治六年より今日に至るまで、四十余年の間、論語の教訓に依つて商業、興業等を務めて来たので、自分の是れまでしたことは、地下に於て孔夫子に叱られぬ積りである。孔夫子から見たらばまだ不充分の所も多からう。然し自分は己れを欺いたことは少しも無い。孔夫子の教の為めに自分の富を積むことは不充分であつたとしても、国家の富に向つて聊か微力を尽した考である。孔夫子の教と富とは一致す可きもので、仁を為せば富まないといふことは誤であつて、仁義を実行してこそ真の富が得られるのである。と堅く信じてをる。其れで私は常に論語を離さないのである。(完)


竜門雑誌 第三三九号・第二〇―二二頁 〔大正五年八月〕 ○実験論語処世談(一五)(青淵先生)(DK030153k-0018)
第3巻 p.730-731 ページ画像

竜門雑誌  第三三九号・第二〇―二二頁 〔大正五年八月〕
 - 第3巻 p.731 -ページ画像 
  ○実験論語処世談 (一五) (青淵先生)
     ▲三条公茅屋を訪はる
 三条実美公は、略の無かつたと共に又、定見のなかつた人である。斯く申上るは畏れ多いことであるが、三条公は全く無定見の方であつた。今日或る者から意見を申上げると、その日は其気になつて居られるが、明日になつて又他の者から違つた意見を申上げると、矢張又その気になられる。始終、御自分の御意見は、フワフワして孰れにでもなるといふ具合の方であつたのである。殊に、経済上の問題になるとこの無定見が一層甚しかつたやうに私には想はれたのである。
 三条公は元来殿上人で公卿出身であつたから経済の事などに精通して居られさうな筈もなく、随つて財政上の知識も乏しいので、斯く無定見に陥られたものでもあらうが、太政大臣をして居られた頃、太政官の参議方から、斯く斯くの事業の為に経費を支出するやうにとの依頼を受ければ、それ丈けの支出をするに足る財源の果してあるや否やなどに就ては篤と調査もせられずに、之に承諾を与へられてしまつたものである。然し、それが大蔵省の方に廻つて来てから、私等より、兎ても爾んな事業の為に支出する丈けの財源が無いからとて跳ね付けてしまへばなるほど其れも尤もだ、といふ気になつたもので、毫も確乎たる定見があつて決裁を与へらるゝのでは無かつたのである。随つて、三条公は太政大臣の職に在る間、始終、太政官の参議側と各省の当局者側との間に狭まつて、非常に困つて居つたものらしい。
 現に私が、大蔵省に故井上侯の次官の如くになつて勤めて居つた頃の事であるが、三条公は両三度私を神田小川町の茅屋に御訪ね下されたほどである。三条公は当時太政大臣で、昨今で申せば内閣総理大臣である。世間から其の頃の太政大臣は、今日の総理大臣よりも猶ほ重く貴く視られて居つたものであるが、その貴い太政大臣の三条公が大蔵省の一小官に過ぎぬ私の私宅を態々御訪ね下されたのであるから、私も大に恐縮に存じたのであるが、井上侯は大蔵大輔で、如何に太政官からの命でも、財源が無いから支出するわけにゆかぬと頑張るに拘らず、太政官の参議方は什麼しても支出させろと太政大臣の三条公に迫るので、三条公は之を井上侯に御相談になると、井上侯は例の気質で、そんなに無理を云ふことなら直ぐ辞職してしまふからと騒ぎ出すのに手古摺られ、私へは、井上侯を余り騒がせぬやうにしてくれ、井上が騒ぐのみか、渋沢にまで一緒になつて退くの辞職するのと騒がれては全く困つてしまうから、との御話であつたのである。然し私は断然として、無い財源からは如何に御懇談でも支出するわけには参らぬと、明瞭に拒絶したのであつたが、三条公は万事に斯んな調子で、定見の無かつた為に、何時でも甲乙懸争の板挟になつて、困られたものである。


竜門雑誌 第三四四号・第四四―四五頁 〔大正六年一月〕 ○道徳と経済(青淵先生)(DK030153k-0019)
第3巻 p.731-733 ページ画像

竜門雑誌 第三四四号・第四四―四五頁 〔大正六年一月〕
  ○道徳と経済 (青淵先生)
○上略私は矢張り同じく埼玉県下の百姓でありますが、二十四五から浪人になりまして、それから一昨々年に御薨なりになりました徳川慶喜
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公に御奉公致しました。其慶喜公が一橋家から将軍になられたので幕府の人になつて、終に海外に参りまして、海外に居る中に世が一変して幕府が倒れて、御一新と云ふ改革が行はれた。そこで日本に帰つて来たやうなことであります。私も最初は攘夷鎖港を頻りに申して居つた一人でありますが、併し追々に世の中の変遷に眼を転じて見ますと、唯単純なる攘夷鎖港は出来得ぬと思ひました。寧ろ彼れの長所を取つて我国を進めて行く外ないと云ふ観念が起つて参りました。今申した海外の旅行中に様子を見ますと外国では徳川時代に見たような士と商工業者との間の階級等の有様がまるで異つて居る。且つ総ての事物即ち今申す経済、モウ一つ近頃の言葉で申すと物質的文明、是が日本と全く形を変へて居る。のみならず之を取扱ふ処の商工業者の態度人格、又それを支配すべき、士側の人のそれと接触する工合が、全体に於て総て其様子が異つて居るので、是に大に感発しまして、若し彼れが善いのなら我れが悪い、我れが善いのなら彼れが悪いのである。今まで攘夷鎖港を唱へたが、物質的文明はどうしても、彼れに敵はぬ是はいかぬと思ふならば之を良くしなければならぬ。之を良くしやうと云ふならば、彼れに学ぶより外ない。之を学ぶには実業地に至つて其実業の振合を広く知つて往かなければならぬと思ひました。併し是までさう云ふ覚悟も無し、見聞も狭いから、帰国しましても何等することも出来ず、丁度前に申す通り、最初は政治家気取で行つたものが不幸にして幕府の崩壊となつて、其幕府の自分の主君は謹慎恭順をして居つた。帰つて見ますと静岡の小さい寺に蟄居してござるやうな有様であつたからして、どうも自分が縦令其以前討幕主義を考へた一人であつても、自分の身としてはモウ政治上に望みを置くべきものでない。是から以後は、微力ながら国家に尽すには、商工業即ち物質的の進歩を図る位地の一人になりたいと、斯う思つて其決心を以て世に立たうと考へたのであります。併し静岡に居る間に、一旦政府に勤めるやうになりました。それは辞退がなし得られぬで、大蔵省に四五年勤続を致しましたが、明治六年に銀行界に這入りました時に、此に初めて申し上げた道徳と経済とが一致し得るものであらうと云ふことを深く心に懸けた積りでございます。
 其時の話は其対手の人を失ひましたから証拠立てて申上げられぬのを遺憾に考へますが、私の極く親友なる玉乃世履と云ふ御人が同じく大蔵省に勤務されて居られた。後に此人は大審院長になられましたが、私が官を辞します時に親友としてひどく諫めて呉れました。役人上りの商売人は、悪くすると過を仕出かすものである。是迄成功した人を聞いたことはない。物質的文明の開拓を進めたいと云ふ意嚮は宜いけれども、どうもそれは人格を損ずるものである。幸に同僚として長い間共に相訓練し合つた君である故に、どうもさう云ふ意嚮あることを甚だ望まない。矢張り役人で世を送つた方が宜からうと云ふ警告を受けた。私は是に答へて言ふには、それは如何にも御親切の御警告であるが、自分が商売人として世の中に立つに及んでは、不法不理の事を為さず、徳は失はぬ積りであります。烏滸ケ間敷いことであるが私は宋の趙普に倣ふて、論語の半分を以て一身を修め、論語の半分を
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以て錙銖の利を営んで往きたいと思ふ。長い目を以て御覧下さいと云ふことを明言したのが明治六年であります。故に此道徳と経済と云ふものは全く一致の出来るものと考へまして、微力ながら殖産を図るに就ては道徳に背かぬことを是非努めなければならぬと覚悟したのであります、それに就て第一、事業と云ふことよりは国家と云ふことを観念して、さうして事業をやらねば、指導的の位地に立ち、而も金融業者として、総ての商工業者の模範となる位地に立つべき責任を尽す訳には往かぬ。故に縦令力は鈍くても、利益は多く収め得られぬでも、苟くも仁義道徳を欠くことがあれば、それに従事することが出来ぬと云ふことを主義として経営を致した積りであります。


青淵先生六十年史 (再版) 第一巻・第四六八―四六九頁 〔明治三三年六月〕(DK030153k-0020)
第3巻 p.733 ページ画像

青淵先生六十年史 (再版)  第一巻・第四六八―四六九頁〔明治三三年六月〕
先生ノ職ヲ辞セントスルヤ、友人玉乃世履、松本暢、先生ヲ神田小川町ノ寓居ニ訪ヒ其志ヲ翻カヤサシメント欲ス、二人ハ当時政府中人材ヲ以テ聞ヘ、先生ト最モ親善ナルモノナリ、二人ノ議論ハ先生有為ノ才ヲ以テ民間ニ下ルヲ惜ムニアリ、先生語ヲ極メテ其謬見タルヲ反駁シ、国家ノ基礎ハ商工業ニアリ、政府ノ官吏ハ凡庸ニテモ可ナリ、商人ハ賢才ナラサル可ラス、商人賢ナレハ国家ノ繁栄保ツヘシ、古来日本人ハ武士ヲ尊ヒ政府ノ官吏トナルヲ無上ノ光栄ト心得、商人トナルヲ恥辱ト考ルハ抑モ本末ヲ誤リタルモノニシテ、我国今日ノ急務ハ一般人心ヲシテ力メテ此ノ謬見ヲ去リ、商人ノ品位ヲ高フシ人才ヲ駆リテ商業界ニ向ハシメ、商業社会ヲシテ最モ社会ノ上流ニ位セシメ、商人ハ即チ徳義ノ標本、徳義ノ標本ハ即チ商人タルノ域ニ達セシメサル可ラス、予レ従来商業ニ於テ経験ニ乏シト雖モ、胸中一部ノ論語アルアリ、論語ヲ以テ商業ヲ経営シ、両君ノ観ニ供セントスト断言セリ、此ノ論語ヲ以テ商業ヲ営ムノ一言ハ、世人ノ伝ヘテ佳話トスル所ニシテ、二人モ大ニ先生ノ識見ニ服スト云フ
先生当時詩アリ曰ク
  官途幾歳誤居諸。  解印今朝意転舒。
  笑我疎狂尚未已。  献芹留奏万言書。
  ○昭和八年上枠セラレタル「青淵詩存」ニヨレバ「解印」ノ詩ハ次ノ如シ
官途幾歳費居諸。解印今朝意転舒。笑我杞憂難掃得。献芹留奏万言書。


はゝその落葉 (穂積歌子著) 第一九―二〇丁 〔明治三三年二月〕(DK030153k-0021)
第3巻 p.733-734 ページ画像

はゝその落葉 (穂積歌子著) 第一九―二〇丁 〔明治三三年二月)
○上略
其年もかはりて明治六年の夏とハなりぬ、此年頃大人にハ御官ますます進ませ給ひけれど。元より位山高根をよぢて月の桂手折らんとの御望もおはしまさず。民間に下りてこそなかなかに御国に益するのすべはあれ。との御志しきりなりければ。ことし五月十四日切に申し請ひて御仕を辞させ給ひけり。この事聞しめし及ばせられ。
かしこき御あたりにてもいといと惜ませ給ひ。太政大臣三条実美の公には、親しく神保町の家を訪はせ給ひ、ねもごろにさとしとどめ給ひけれど。実業に力を尽さん事こそ本来の望にハ候へ。よし仕を辞し申したりとも。御国に尽すの誠心はつゆも変る事候まじければ、といら
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へ奉り給ひて。終に止り給はざりけり。


竜門雑誌 第五一九号・第一一三頁 〔昭和六年一二月〕 追悼演説(男爵益田孝)(DK030153k-0022)
第3巻 p.734 ページ画像

竜門雑誌 第五一九号・第一一三頁 〔昭和六年一二月〕
  追悼演説 (男爵 益田孝)
○上略
私は故翁にお目に懸りましたのは、明治五年で、当時翁は井上大輔侯爵と最も困難なる財政の衝に当つて居られまして、二百八十諸侯の財政を皆明治の大蔵省に引受けられて、先づ財界の始末、藩札の始末、非常なる難物を調理されて、先づ明治の財政の基礎を立てやうと云ふことに努力致されまして、既に明治六年に執行した所の物品税を廃して金納にすると云ふことまでの方案を尽く調査されたのであります。然る所維新の大事業に成功した諸豪傑が、皆各行政の機関を扱つたものでございますから、其引受けた行政の機関を怱ちに立派にしやうとするものですから、其金を大蔵省に望むこと甚しい訳になつて、如何に財政の基礎を堅固に立てやうと云ふても、さう一時に行政機関を発達させると云ふことは到底望むべからざることであるから、先づ徐々にやらうと云ふことを両氏が最も説得に掛かつたのでございますが、中々さう云ふ説得は聴きもしなかつたので、大蔵省との衝突は甚しかつたものですから、到頭井上侯爵は肝癪玉を破裂して、さうして明治六年に両公共に政府を辞されて民間に立たれたのでございます。私は明治五年に井上侯の勧めに依つて造幣権頭に任ぜられて其時初めて故翁にお目に懸かりましたが、大阪に勤務中に辞職されたものでございますから、私は此両氏が政府に居らぬ以上は何条政府に居るべきやと、直に東京に帰りまして辞表を呈しました。故翁は吾々に仰せられました、以来己は生涯政治には関係しないことを誓ふぞ。成程其通りでありました。 ○下略



〔参考〕竜門雑誌 第二四九号・第二―一一頁 〔明治四二年三月〕 青淵先生の訓言(DK030153k-0023)
第3巻 p.734-738 ページ画像

竜門雑誌 第二四九号・第二―一一頁 〔明治四二年三月〕
  青淵先生の訓言
 来会の諸君に一言の謝辞を申上げます、今夕は竜門社の社則を改革致して将来大に社運を発展せしめやうといふ計画で、段々其調査も届いて、玆に評議員を選定し規則書を議定になりまする為に、此式日をトして御会同を催されましたのは、最も喜ばしいことでございます、予て今日御催しのあることを承知致して居りましたから、悦んで当日を待つて居りましたけれども、実は今夕玆に私が申述べやうといふ、即や本社の本体ともなさらうといふことが、甚だ腹案が不満足で、諸君の意を満すことが出来ぬと惧れまするけれども、併し今日までの行掛りで、是非此社の綱領として私の平常抱持して居る所を、仮令其趣旨は拙いにもせよ、其の言辞は冗長に過ぐることがあるにも致せ、会の起原に稽へて、これを以て此社の主義綱領に致したいと云ふことでありますから、不肖ながら敢て辞せずに玆に愚見を述べて本社の綱領に代へるやうに致さうと思ふのでございます。
 匹夫而為百世師一言而為天下法と云ふことは蘇東坡の韓文公廟碑に
 - 第3巻 p.735 -ページ画像 
書いてあつたやうに思ひますが、なかなか凡庸の人に出来べきことではございませぬ、故に今私が申述べることは渋沢の一家言ではないのです、古聖賢の訓言を私の口に由つて伝へるのでありますから、仮令渋沢其人が貴くなくても、渋沢の口から発することは必ず貴いと御覧下すつて宜からうと思ふのでございます、併し渋沢が唯単に論語の素読を致したばかりであつたならば、如何に古聖賢の言を述ぶると雖も斯の如き学問あり実験あり、世故にも熟して居る多数の諸君に依つて更に拡張改革して行く竜門社の主義綱領とすることに物足らぬやうに相成りはしまいか、故に古聖賢の言を述べるに就ての歴史がございますから其歴史を玆に申述べて併せて、古聖賢の言を本社の綱領に代へるやうに致さうと考へるのでございます。
 諸君も御承知の通、私の一身は既に六十年史で御編纂下されたやうな訳で種々に変化を致して居るが、最後の変化が銀行業者となつた、此銀行業者となるに就ての意念はと申すと、既に国家に貢献しやうといふ考から、二十四歳よりして、七八歳迄の四五年間は、今日死なうか明日死なうか、所謂死生の間に出入して、或る場合には慷慨扼腕、或る場合には長鋏を弾じて悲歌を吟ずるといふやうな境遇でありましたが、意外にも世の中が変化して王政維新の政治が海外旅行中に行はれ、其処へ帰つて来た私の一身でございますから、数年朝廷に微官を勤めましたけれども、どうしても心に安んじなかつたのです、国家に尽すには自分の材能と云ひ又其時の境遇と申し、官途に居るは本望でもなし、又私の身分としても宜しきを得たるものでない、如何となれば幕府を倒さうとして世に奔走をした身が、一変して幕府の臣下となつて、さうして今日此維新に際して顕揚の位置に立つといふことは、若し出来得ても好まぬ、一幕臣となつた以上は、どうか他の方面に貢献したいものである、斯く考を起しましたのは、惟ふに一国として政治ばかりが発達してもいかず、法律ばかり進歩してもいかず、又軍事ばかりが強くなつてもいかぬ、それと伴つて国の富といふものが進まなくてはならぬ、殊に欧羅巴の有様を皮相ながら観た所では、他の方面よりは此商工業の発達進歩に力を用ゆる事が甚だ多いやうである、是に反して日本は全く其方は度外視して居る、此点だけは己れ自身が大に力を尽して見たならば、聊か貢献が出来るであらう、詰り仏蘭西から帰つて来た時に、全く己れの一身は生れ代つたやうなものであるから、先づ是までを一世紀と致して、第二世紀の未来は商工業に依りて奉公したならば、徳川氏を亡さうとか、外国人を斬らうとかいふた意念の反対で、所謂功罪相償ひはしないか、同時に此商工業者の階級頗る卑く、又商工業者自身の思想も頗る拙劣であるが、これは将来どうしても此儘ではゐぬものであらう、又置いてはならぬものである、斯様に自分は考へたのであるが、さて其銀行業者として経営するには如何なる標準に依るか、どうぞ利用厚生の事業に従事するからには、此利用厚生が道理正しく世の為になるやうにしたいものだ、仮令己れの為す事業が微々たりと雖も、又己れの経営する事柄が力乏しと雖も、亦一身に得る所の財力が甚だ少しと雖も、どうぞ道理を失はぬ範囲に於て、此事業の経営が出来ぬものではなからう、而して其道理を失は
 - 第3巻 p.736 -ページ画像 
ぬといふ標準が無くてはならぬ、其標準は如何なるものに依て宜いか、浅学の私他に広く求めやうもございませぬから、孔子の訓即論語に依つたならば、必ず大過なく事業の経営が出来るであらう、斯様に祈念した訳であります、同時に今尚能く記憶して居りまするが、元来商工業に就て国家の富を図る、其志す所はそれで善いが、事実其事に効能があつても、それに従事する人に利益がなかつたならば、其事は決して繁昌せぬのである、福沢諭吉といふ人の説に、大変に心を尽し興味を帯びて書いた書物でも、多数の人が沢山見る書物でなければ其実世の中を裨益せぬものである、それ程力を注がぬ書物でも社会の人が沢山見るものはそれだけ効能も多いと言はれた、至つて卑近の説で頗る敬服しがたいやうにもあるが、或点から云ふと大に道理がある、実業も尚其通りで、之を世の中に拡めやうといふのに、利益なくして拡めることは到底出来ぬからして、どうしても此商工業に従事するといふにも、商工業者が相当なる利益を得て発達するといふ方法を考へねばならぬ。其方法は如何にして宜いか、一人の智慧を以て大に富むといふか、己れ自身は仮に其智慧があつたならば富むかも知らぬが、極端に云ふと一人だけ富んでそれで国は富まぬ国家が強くはならぬ、殊に今の全体から商工業者の位置が卑い、力が弱いといふことを救ひたいと覚悟するならば、どうしても全般に富むといふことを考へるより外ない、全般に富むといふ考は是は合本法より外にない、故に此会社法を専ら努める外ないといふ考を強く起したのである、されば大蔵省に居る時分に立会略則、会社弁などゝいふ書物を作つたのも、右等の意念から致したのであつて、其事は今日斯くまでに為し得るといふ理想は持たなかつたけれども、今に会社法に依つて日本を富まさう商工業者の位置を進めやうと思ふたことは少しも忘れは致しませぬ、而して此会社を組織して行くには、如何なる手段があるかといふことは、是も私は最も考へたことである、自分等法律は能く解らず、政体などには甚だ疎い、併ながら例へば立憲とか独裁とか或は共和とか凡その政体の差別は心得て居つたが、丁度此の会社の組織は一の共和政体のやうなものである、株主は尚国民のやうなものである、選まれて事に当るものは大統領若しくは国務大臣が政治を執るやうなものである、果して然らば其職に居る間は其会社は我が物である、而して其職を離るゝ時にはそれこそ直さま敝れたる履を捨つるが如き覚悟を持て居らねばならぬのである、故に此会社に立つものは、其会社を真に我ものと思はなければならぬ、又或る場合には全く人の物だと思はなければならぬ、其権衡を誤ると会社を安穏に維持することは出来ない、飽くまでも其会社を私し会社の勢力に依て我身を利し、会社の御蔭を以て我幸を得るといふやうなことがあつたならば、是れ即ち会社を家にするのだ、国家を家にするのだ、国家を家にするといふことは既に憲法の精神からは大なる誤である、会社といふものを安穏に健全に盛ならしむるは、今の覚悟が甚だ必要だと斯う私は深く、覚悟しましたのです、斯く申すと少しく自惚口上になつて、或は明日如何やうなことがあるかも知らぬが、自分は右の心を一日も忘れずに第一銀行に奉職した積りである、幸に三十五六年未だ株主から一度も苦情を受
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けたこともないやうに思ひまするし、又自分が職務を動かされやうとも動かうとも思ふたことのないのは、或は僥倖でもございませうが、明治三四年頃大蔵省に居つて会社を起さねばならぬと思付くと同時に此会社を経営するは斯る覚悟でなければならぬと思ふた念慮が、始終脳裏に存した為であると申して宜からうと思ふのでございます。
 今申す商工業を盛にし国の富を進めるやうにして、其間に立つて商工業者の位置をも進めたいと考へたことが、それが論語に依つたといふのではないのです、是は唯私が自分の境遇としてさういふ方針に依つて経営したが宜からうと考へ定めたのであるが、其事業を行ふや標準は論語に依るが宜からうと斯ふ思ふたのであつて、其以来の経営は苟も道理といふものに依らねば、事は行ふべからざるものといふことを深く自分は覚悟して、或は其間に自分の思ふたことで誤つたことがあるかも知れぬのです、是は蓋し私の智慧の至らぬのである、が自ら欺いて是は道理に外れるけれども併し利益だから此方に傾いたといふことは、未だ嘗て私は致さぬといふ事を玆に証言して憚からぬのでございます。為に其事業がいつも跼蹐として進まず、甚だ派手々々しいことが無いけれども併し幸にして過失なく久しうして先づ蹉跌を来さぬのは、私は惟精惟一の致す所であると聊か自負するのでございます。もう一つ玆に御話して置きたいのは孔子の訓が久しう伝つて誤解が益益多く、利用厚生の事柄と仁義道徳とが始終同じ道行を為すべからざるものにせられて居つたやうに思ふのです。宋朝の学者中の生萃なる朱熹が閩洛の学問、即ち周茂叔、邵康節、張横渠、程明道、程伊川などいふやうな人々の段々攻究し来つたことを集めて、大成して此論語の朱註といふものが最も盛に行はれて、経訳といふものは殆んど此派に止まるが如き勢をなした、其頃は支那は頻に理学を盛にする場合であつたから、一時学者社会を風靡したやうに見えます、私も広く書物を読んだ訳ではないが――、然るに徳川幕府が政治を専にする場合になつて、余り戦争の長く継続した所から、殆ど皆無学不文と云ふ有様になつて来た、此弊を救はうとしたのが徳川家康といふ人の考でありませう、段々学者を集めて学問を世に進めるやうにしたい、其学問は差向き漢学であつて、而も是が朱子学であつた、後に享保頃に色々の人が輩出して其説を異にし、種々に学風が紊れたが、松平定信といふ人は最も朱子学は弊が少いというて、他の学派を禁ずる迄に至つたのです、其以前元亀天正頃からして慶長元和に渉つて、藤原惺窩、林羅山の如き学者に依つて盛に朱子学の行はれたる頃より、学問といふものは唯一種の道理を説くものといふことになつて、学問と事実の行ひといふものを全く一にすることは出来なかつた、而して此漢学といふものは武士以上の者の修むべきものとなつて居つた、仁義とか忠孝とかいふものは殆んど普通の人に余り必要のない如くになつて居つた、殊に前に申す商工を卑むといふ風習であつたから、そこで此功利を論ずる方の側は、学問は殆んど顧みなかつたのであります、是に於て学問といふものと功利といふものとは全く引離れて、先づ学理では斯ういふこともあるといふことで、偶々学んだ人の論は事実に於て共に行ふべからざるものゝ如くになつて来た、既に朱子の訓が其通りであるの
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に加へて、日本の実体がさういふ有様であつたから、日本に於て漢学の訓ゆる道徳仁義といふものと、利用厚生との懸隔が日に増し遠くなつた、殆んど利義といふものは別物の如く相成つて来たのです、為仁則不富、富則不仁、利に附けば義を得られぬ、義に依れば利は得られぬ斯ういふやうに誤解してしまつたのです、所が孔子の訓は決して私はさうでないと思ふ、例へば顔淵の言に飯疏食、飲水、曲肱而枕之、楽亦在其中矣、斯いふと成程此利用厚生功名富貴のことは、とんと意にせぬやうに見えるけれども、元来それらの解釈が悪いので、飯疏食、飲水、曲肱而枕之、といふことを望めといふ趣意ではない、楽亦在其中――後句がある、不義而富、且貴、於我如浮雲、飯疏食飲水といふのは不義を嫌ふためにさうしたいといふ意味であつて、飯疏食飲水のが望みだと、斯ふ解釈しては大なる誤である、漢学の誤は多くはさういふ点にある、例へば富与貴是人之所欲也、不以其道得之不処也、反対に貧与賤是人之所悪也、不以其道得之不去也、孔子は常に利用厚生のみを説きは致さぬけれども、例へば仁と云ふ字を強く解釈して孔子が子貢の問に答へた言に、曰如有博施於民、而能済衆如何、謂仁乎、子曰何事於仁必也聖乎、尭舜其猶病諸、して見ると此仁義道徳といふことは飯疏食飲水のみであるならば、博施於民、而能済衆といふことは怪しからんことゝ言はなければならぬ、所が何事於仁必也聖乎、尭舜其猶病諸、仁どころではない、それは聖人も尚為し兼ねることだと斯ふ答へた、それは何かといふと博施於民、而能済衆といふのは、即ち今の聖天子のなさることである、又少くとも王道を以て国を治むる人の行為である、王道を以て国を治むる人は決して利用厚生を離れて王道が行はれるといふことは無い筈であると私は思ふのです、嘗て孔子の祭典で、実業界から見たる孔夫子といふ表題で演説したことがありますが、私は殆んど二千五百年前の孔子とは甚だ近いものである、孔子は吾々の最も近き友達と思ふたのである、それを其後の種々なる学者が段々に障壁を築いて、実業界と孔子とは友達でないかの如くにしてしまつた、幸に二千五百年後の今日に私が孔子と実業界とを近くして見せると斯ういふ大言を吐きましたが、蓋し孔子を地下に起したならば肯くであらうと私は思ふのです。
  ○右ハ栄一ガ明治四十二年二月十一日竜門社ノ組織変更発表会ニ於テ為シタル演説ナリ。


〔参考〕竜門雑誌 第二五八号・第一〇―一四頁 〔明治四二年一一月〕 渋沢男爵と商業道徳(男爵阪谷芳郎君)(DK030153k-0024)
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竜門雑誌 第二五八号・第一〇―一四頁 〔明治四二年一一月〕
  渋沢男爵と商業道徳 (男爵 阪谷芳郎君)
唯今梅博士よりして非常に韓国の法典のことに付きまして有益の御演説を十分に伺ひました、時間も余程経つて居りますから、もう別に申上げぬ方が宜いかと考へますが、順序と致しまして一言致します。
○青淵先生と商業道徳 私は渋沢男爵と商業道徳といふことで一寸申上げたいと思ひます、今日は御承知の通に我竜門社の最も尊崇致し最も推戴致して居る所の男爵が御洋行中であらせられるので、いつもの通に其の音容に接することの出来ぬのは甚だ遺憾でありますが故に、其人を懐ふことを述べた方が宜からう、斯ういふ考で唯今の題を選みました。
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先日或る人が私に尋ねて申しまするのに、渋沢男爵の商業道徳といふ御演説は屡々拝聴した、又其渋沢男爵の商業道徳論を基本として竜門社の主義綱領といふを組立てられたといふことを拝聴した、併ながら此道徳の中に商業道徳といふものが別にあるものであるや否やといふ問である、道徳といふものが、さう色々農業道徳とか、一般に吾々が道徳と信じて居るものゝ外に、さういふ一種特別のものがあるのであるか、どうかといふ問を受けたのであります、是は一寸面白い質問である、其答も一寸面白からうと考へます、私の是に対する答は、道徳として別に商業道徳といふものは無論ない、道徳といふものは即ち人間の守るべき道であつて、人間の守るべき道に別に商業道徳といふものはない、併ながら青淵先生が商業道徳説を標榜されたに付ては、自ら又其処に商業道徳と称すべきものがありと云つても宜い、斯ういふことを答へたのであります。
日本に於て商業道徳といふ言葉を用ゐ、又商業道徳といふ説を鼓吹したのは誰である、又之を実行したのは誰であるかといふと、蓋し男爵である、男爵が始めて其事に著想をして、始めて其事を実行したものと私は信じます、度々男爵の御演説に付て聴きまする通、渋沢男爵が官を辞して商業に従事するといふことを決心せられたのは、明治六年の大蔵省退官の時でありますが、其の時に男爵の親友たりし故の大審院長の玉乃判事が見えて、貴方はどういふ考へを以て商業を為さるかといふことの質問に遭つたときに、男爵の答が論語を以て商業を営むといふことを答へた、是は度々男爵の口から聴いて諸君も能く御承知のことゝ思ひます、併ながら私が論語を幾ら読んでも、論語の中に商業といふことは何も無い、蓋し此孔子孟子の説いて居ります道徳論の中に、父子に親あり、君臣に義あり、夫婦に別あり、長幼に序あり、朋友に信あり、此五教といふものが先づ孔孟の教の重なる点である、商業のことに付ては言ひ及んだものはない、支那の色々の書物を読んで見、又我邦維新前の和漢学者などの書物を読んで見ましても、此商業のことに付て別に道徳を論じたものはない、さうして見ると、此商業といふものは如何に支那日本に於て見られて居つたかといふと、商業といふものは道徳の外に置かれたに相違ない、既に士農工商といふて、此商なるものは日本に於きましては、人間の階級の最下層に置かれてあつたのは、即ち之は政治上社会上の地位に於て、商業家といふものが一番下層に置かれて居つた証拠である、尚其他に学者といふものは、商業家を道徳の眼界中に置いて居られなかつたと斯う見られるのであります、其社会の最下層にありし所の商業家を、社会の最上層に持上げるといふ決心と、学者社会から道徳の範囲外に置かれた所の商業家を、道徳の範囲内に入れやうと決心したのは、是は即ち渋沢男爵と言はなければならぬ、即ち渋沢男爵と玉乃判事の問答が、抑々日本人中に於て商業家は道徳を守らなければならぬといふことを始めて発心して始めてそれを実行しやうと決心した、それが最初の瞬間時であつたと見るより外はない、此説は私は誤つて居らぬと思ふ、若し誤つて居るならば証拠を挙げて貰ひたい、どうも私は色々読んで見たけれども、商業の道徳を論じたものは決してない、学者が商業家を賤ん
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だ説はある、既に幕府の時代の有名なる漢学者でありますけれども、其人の文集を先日読んで見た所が、貿易は盗賊の術なりといふことが書いてある==貿易は盗賊の術といふのが幕府の時代に於て、最も有名なる碩学者の文章の中に載つて居る、貿易は盗賊の術なり――諸君は皆盗賊である(笑)其人の目から見ると即ち商業家といふものは道徳のないといふどころではない、全く道徳界の中に在るべき人でないと斯う見て居つたのであります、又其時代もさう見て居つたので、実に驚いた話である、さうして見ると此明治六年に渋沢男爵と玉乃判事の問答といふものは、日本の商業歴史に於て非常に著目しなければならぬ点で、其時の大発心は、大宗教家の発心と同じやうな訳で、其時の時代が促したのか知らぬが、渋沢男爵の脳髄に非常なる著想が起つてさうして此実業界の社会的地位を上げ、少くとも道徳的観念を非常に注入しなければならぬと決心した始りであるから、是は即ち渋沢男爵の商業道徳と云ふものゝ本体である、それからしてずつと説き来つて段々今日の御集りの如き多数の人が養成せられ、此主義を共にして日本の此商業上の地位、商業上の道徳といふものを組立つて来て、此竜門社が始めて主義綱領の中に青淵先生の商業道徳論を基本としたといふことになるのである、是はその人に答へたといふばかりでなく、或は此中には多少其人と同じ問を発する人があるかも知れぬが、十分に此事は了解して置かなければならぬのである。
○国交際の変遷商道徳の実行 今日は青淵先生が留守である、留守であるといふことは此総会の為めには不幸である、音容に接することの出来ぬのは不幸であるが、併し何の為に不在であるかといふことを考へなければならぬ、青淵先生は日本の実業家を率ゐて、日本の商業道徳を代表して亜米利加に渡つた、亜米利加といふ国はどんな国かと云ふと、即ち五十二の大なる国が集つて共和国を成して居る、又其他に大なる領地といふものがあつて非常なる大国である、其大共和国の大統領其他の賛成を得て彼国各地商業家中有力なる人々から案内を受けて、堂々として日本の実業家を引率して乗込んで行かれた、是は私は非常なる出来事と思ふ、日本の政治上の歴史に於ても亦商業上の歴史に於ても、此一の事件といふものは蓋し一紀元を画する所の出来事と思ふ、其人が即ち我竜門社員の推尊する青淵先生であるといふことは非常に愉快なることである、又其人が如何なる結果を生ずるかといふことも非常に愉快のことである、近頃欧羅巴に於て==私も昨年廻つて見ましたが、此交際の仕方といふものが非常に変つて参つた、今日に於きましては外務省の役人が外交をすると云ふ時期は通り去つて、丁度日本でも重大なる政治上の相談とか或は実業家の相談が温泉場とか海水浴場で行はれる如く、有名なる君主大統領若くは総理大臣外務大臣といふやうな人が、頻りに海上旅行とか避暑旅行をするとか温泉旅行をするとか云つて、其処で以て世界の平和に関する重大なる問題が今日解決されて居る、能く新聞で御覧なさる通、英吉利の現皇帝も能く旅行をなさる、独逸のカイゼルも能く旅行をされる、或はヨツトに乗つて遊びに行く、或は病気保養と称して温泉場に行く、誠に表面は平和簡単なことでありまして、其間に於て如何なる人が或る場所に寄つて居る
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かといふことを確かめて見ると、或は全権大使とか外務大臣とかいふやうな堂々たる看板を掲げて行くにあらずして、さういふ所で重大の事が決せられるといふことである、それは即ちどういふことであるかといふと、一国を代表される人が互に接近して親密になり、意思を疎通し、平和を図り、商業を盛にするといふ便利のことが行はれる、悲しい哉日本は東洋に僻在して居る為に、さういふ便利を失つて居る、是は余程進めて行かなければ日本の外交とか交際とかいふことは十分でない、此時に於て我実業家五十人を率ゐて渋沢男爵が亜米利加に乗込んで行かれたといふことは、非常なる日米両国間の交際を親密にし、意思を疏通し、知識の交換を為すといふ上に於て、言ふべからざる利益があるであらうと思ふ、それは即ち何で出来たかと云へば、四十何年間男爵の苦心に依つて、日本の商業が段々開発して行き、同時に日本の商業道徳といふものを進めて、此の如き人物が日本の商業家であると彼の国人に示して恥かしからぬ位置に達したからである、之を考へますると、明治六年男爵の官を辞された頃、一人の商業家も、学者から三千年の余道徳の外に置かれたことを気付いた者もなければ、残念に思つた者も無かつた、社会からも政治上からも、商業家といふものは賤められて居つた其当時に於ては、迚も此旅行は出来はしない、此度の実行家の旅行といふものは、君主帝王から堂々たる信任状を持つて行くのではない、即ち国民の信任状を荷つて行つたのである、日本歴史あつて以来此の如き盛なることはない、国民的信任状を以て、国民的使命を帯びて、堂々として行かれたのでありますから、即ち明治六年に於て男爵が商業家の道徳論といふことを言明せられた、其事を最上々に実行せられたのであります、即ち此商業道徳の論を此の如き程度まで男爵自ら実行して、世界に標傍せられたのであると考へなければならぬ、斯く考へますれば、今日男爵の音容に接せぬことは非常に吾々の仕合せであると斯う言はなければならぬのであります。
余り今日は時刻が経つて居り既に有益なる講演のあつた後で、唯私は吾々共の最も尊崇し推戴する其人の、多年唱へられた商業道徳論に就て、私の所感を一言致したに過ぎませぬ。(拍手)