デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2025.3.16

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.741-779(DK030154k) ページ画像

明治六年癸酉五月七日(1873年)

大蔵大輔井上馨ト連署シテ奏議ヲ上リ、政府財政ノ基礎ヲ確立ス可キ必要ヲ痛論ス。其書新聞紙上ニ現ハルヽニ及ビ、物議大イニ起リ、太政大臣三条実美・大蔵省事務総裁参議大隈重信ノ奏議ニ対スル反駁書ヲ各省使府県等ニ達示ス。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之五・第三一丁 〔明治二〇年〕(DK030154k-0001)
第3巻 p.741-742 ページ画像PDM 1.0 DEED

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之五・第三一丁 〔明治二〇年〕
其頃自分は深く時勢に感ずる所があつたから、政事上の意見を筆記して一篇の文章を綴つたが、字句の不調を免れぬ処もあるに依て、其潤飾を那珂通高といふ人に嘱託したが、漸く脱稿したから、辞表を出した翌日に、其稿本を携へて井上を訪問して、両国橋の辺で面会した
 - 第3巻 p.742 -ページ画像 
が折節芳川顕正も其席に居合せた、偖て其文章を井上に示した処が、井上は一読して、全く其意を同うするゆゑ、共にこれを建白しやうといふことで、終にその意見を両人の奏議として、三条公を経て奏上したが、其後間もなく曙新聞が此の書の全文を登載して、世間に公にした処から、江藤新平などの悪みを増して、政府の秘事を世間に漏泄したといふ廉を以て、井上は若干の罰金を徴せられました、去れども両人に於ては、既に辞職と決心して辞表を奉呈した上であるから、敢て忌憚する所もなく、自己の意見は十分人に語ることを厭ひませむから、それでは宜くないといつて、大隈から手紙を寄来して忠告もあつたが其れすら挨拶もせぬ程であるから、政府でも両人の決意を翻すことは出来ぬと察したとみえて、五月廿三日《(マヽ)》に至つて、依願免出仕といふ辞令が下りました


渋沢栄一書翰 井上馨宛(明治六年)五月六日(DK030154k-0002)
第3巻 p.742 ページ画像PDM 1.0 DEED

渋沢栄一書翰 井上馨宛(明治六年)五月六日  (井上侯爵家所蔵)
昨夜呈御覧候奏議、今朝より那珂と共ニ頻ニ推敲いたし、漸浄書仕候間、乃チ調印之上差上申候、明日正院へ奉呈候義ハ宜御取計被下度候尤も生ハ一紙之置手紙を添て、今夕之を大隈へも相廻し置候
右申上度 匆々頓首
  五月六日                渋沢栄一
    世外老台
  尚々何卒新聞紙にも出し申度、其辺よろしく御取計被下度候
  ○此書翰ニヨリ奏議が栄一ト那珂トニヨリ起草サレタルモノナルコト明カナリ。又新聞紙ニ公表スルコトモ栄一ノ発意ニ出ヅルコトト察知セラル。


渋沢栄一 書翰 大隈重信宛(明治六年)五月六日(DK030154k-0003)
第3巻 p.742-743 ページ画像PDM 1.0 DEED

渋沢栄一 書翰 大隈重信宛(明治六年)五月六日
                  (早稲田大学図書館所蔵)
  明治六年五月渋沢栄一氏辞職ノ件ニ付大隈老侯宛秘書
拝稟爾来愈御清暢奉賀候、偖小生義此度之大号令御発表ニ付、微身放免之義を切ニ大輔ヘ相迫り、既ニ上表仕置候間、何卒平生之御懇遇を以、早々願意相貫き候様御措置被下度候、尤も此御発令ニ付大輔にも不満有之候由ニて、遂ニ相共ニ不平を唱ひ、政府之御不都合をも不顧筋ニ相成候ハ深く恐悚之至ニ候得共、小生退身之願望ハ今日ニ生し候義にハ無之、既に閣下ヘハ一昨年来度々御様子も伺試候事にて、幸此度之御更革にてハ先大蔵之事務ハ十之五六ハ減省之姿ニ有之候旁以奉仕候も実ニ蛇足を添候様にも被相考候義ニ御坐候、又此御発令ニ付而ハ客冬以来時々愚案御下問も有之、畢竟其章程抔ハ小生之草案ニ出候ものも有之候処、一旦御発表ニ際し苦情らしく退身を相願候には定而閣下之御疑惑も被為在候哉、然り是亦不得已事と奉存候、其謂ハ昨年十一月井上大輔正院之命ニ抗し籠居退身を乞ふ之時ニ於て、小生ハ其分ならさるも勉而其間ニ奔走し、方今政府之御着目ハ理財を以て第一と被為成決而空理に渉りて庶務之御皇張を御勉無之様、且此紛紜ハ詰り大蔵より生し候事なれハ、何分正院之権力を増し、財政ハ正院ニ上操《(ママ)》して堅く費途を節略いたし度、其措置ニ於ても兎角理財を肝要とするを以て此更革之御趣旨と被成候ハヽ、爾来大蔵を担任せし者も其任
 - 第3巻 p.743 -ページ画像 
を全くするを得て而して向後之奉事も処し易く相成、其上正院之権力に頼り各省無限之求需を拒候ハヽ、其間ニ紛議も少き筋にて、所謂名正しく事順なるニ付先第一ニ其辺ニ御注意有之度、且弥御更革ニ付而ハ小生ハ御都合ニより放免を蒙り度、併不得已ハ正院秘書記なりとも従事可仕決而大蔵ニ御据置ハ奉命難仕と其縁由まて縷陳仕置、其後大輔大坂行之節も尚反復閣下之面前ニ開陳仕、尋而大輔帰京後ハ御更革筋も御流れ之様相見候間、時々大輔ニ叩き西郷参議帰京ニ及んてハ弥御発表可被成と奉存候間再三大輔へ申述、前文理財を緊要とするを以て此御釐正有之との大旨明著相成度、且其取捨得失も充分御協議之上発令後に至り矛盾牴牾無之様と、都合四五度卑見之底を払ひ陳弁いたし、既に御発表之前日も聊仄聞之次第も有之候間、更ニ大輔へ相通し夫故大輔ハ当日時刻に先ち参朝いたし、其所見を以て閣下ニ御覆議申上候得共、最早不可遏之勢ニ成行候とて、御渡之詔書持参帰省申聞候次第ニ御坐候、右詔書並正院之章程にてハ前にも申上候理財之事ハ別ニ御掲示も無之、詰り是迄費用供給之際ニ於て大輔之頑論抗議を被為厭其任を殺き其責を減し候まてと相見ひ、何分要旨前日と齟齬いたし候様愚考仕候、故ニ大輔今日之苦情ハ或ハ其辺にして竟ニ其職務を辞退候にハ無之哉と相考候、併是ハ小生ニ於ては聊関係無之義にて小生之放免を奉願候ハ、唯事務之省するを見て宿望を達し度心事而已にして、決而不平苦情等を交候義ハ無之候間、閣下厚御諒察被下度候、乍併斯迄事理之支吾候も如何之行違より生し候哉実ニ可惜之至ニして閣下尚大輔と御再議も有之候ハヽ、或ハ御理解可相成歟、是閣下と大輔との間ニ在りて小生ハ敢而不管之義と奉存候、右ニ付小生今日之退身ニ於てハ不平もなく苦情もなく実ニ澹然御允許を待候迄ニ候得共、無似と雖とも従来大蔵之員ニ連り縦ひ身ニ充分之責任なかりしも、又聊見解なき能わす、故ニ方今政府之措置多く躁行軽進之弊あるハ小生之探く憂慮する処にして、向後閣下之大雄力を以て御捩止有之度事ニ御坐候、此際小生之苦情唯此事ニ付不文も不顧一篇之奏議を呈し度、昨来籠居閑暇に頼り漸脱稿仕候間、謹而呈其一本候、何卒小生之愚衷此奏議に於て御賢察被下度候、併卑見浅学敢而時弊ニ適当候哉ハ難測、唯小生にして自ら之を信し候まゝ井上にも相謀り正院ヘハ両名にて奉呈仕候義ニ御坐候、其取捨に於てハ偏ニ閣下ニ嘱望候而已ニ御坐候、籠居以来今日まて一度拝趨も不仕、且其手続も何等之行違より相生し候哉との御懸慮と《(マヽ)》可被為在と奉存、殊ニ出身以降別而御眷顧を蒙り実に知己と奉仰候ニ付、爾来之情状並小生之心事達尊聴置度無用之長文御鞅掌之時間を妨け却而恐縮仕候、いつれ不日放免を得候上にて緩々拝光尚拾遺可申上候 頓首
                        (朱印)
  五月六日              渋沢栄一
    参議大隈閣下
  先日ハ御盛宴ヘ陪し候様御下命之処、拝趨不仕背高旨恐悸之至ニ候、御海涵奉仰候


財政改革ニ関スル奏議 〔明治六年五月七日提出〕(DK030154k-0004)
第3巻 p.743-748 ページ画像PDM 1.0 DEED

財政改革ニ関スル奏議 〔明治六年五月七日提出〕
   (本書ハ、明治六年五月四日、大蔵省三等出仕タリシ青淵先生ガ、財政上ノ意
 - 第3巻 p.744 -ページ画像 
見廟議ト相愜ハズ、上官大蔵大輔井上馨氏ト袂ヲ連ネテ職ヲ辞スルノ後三日二人連署シテ政府ニ提出セル意見書ナリ。世ニ伝フル所ノモノハ訛誤紕繆少カラズ、乃チ先生ノ手稿ニ拠リテ校正シ、活刷ニ附シテ以テ定本ト為ス)
 国家ノ隆替ハ固ヨリ気運ノ然ラシムル所ト雖モ、亦未ダ政府挙措ノ当否ニ由ラズンバアラザル也。維新ヨリ以来、未ダ十年ナラズシテ庶績緒ニ就キ、万方化ニ嚮ヒ、内ニハ数百年既ニ衰ヘタルノ紀綱ヲ恢弘シ、外ニハ五大洲方ニ盛ナルノ政刑ヲ折衷シ、封建ヲ変ジテ以テ郡県ヲ定メ、門閥ヲ廃シテ以テ賢材ヲ挙ゲ、律ハ万国ノ公法ヲ兼ネ、議ハ四境ノ輿論ヲ尽シ、学ハ八区ヲ別テ無智ノ民ヲ誘ヒ、兵ハ六鎮ヲ置テ不逞ノ徒ヲ懲ス。一瞬遠キニ達スルハ舟車同ジク蒸気ノ力ヲ藉リ、万里急ヲ報ズルハ海陸並ニ電信ノ機ヲ頼ム。心ヲ貿易ニ用ヒ、力ヲ開拓ニ尽シ、貨幣製ヲ正シウシ、街衢観ヲ異ニス。其他製鉄灯台鉄路ヨリ以テ屋舎衣帽几床繖履ノ細ニ至ルマデ、日ニ変ジ月ニ革リ、駸々乎トシテ開化ノ域ニ進ムコト、駟馬モ及ブ可カラザルノ勢アリ。此クノ如クニシテ已マザレバ、数年ヲ出デズシテ文明ノ具備スルコト、之ヲ欧米諸国ニ比スルモ、亦当ニ慚色ナカルベキ也。苟モ国家ニ志アル者、皆喜ンデ相慶スルヲ知レリ。然リ而シテ臣等独リ爰ニ憂フル所アリ。蓋シ憂ハ憂ニ終ルニ非ズ、必ヤ喜アリテ其間ニ存シ、喜ハ喜ニ終ルニ非ズ、必ヤ憂アリテ其中ニ存ス。故ニ憂アレバ其喜ブ可キ者ヲ求メ、喜アレバ其憂フベキ者ヲ慮ル。是ニ於テ乎挙措当ヲ失ハズシテ、国家以テ開明ノ真治ヲ致スヲ得ン。夫レ開明ノ言タル、其称ハ一ナリト雖モ、推シテ其帰スル所ヲ論ズレバ、判然岐ツテ二ツト為サヾルヲ得ズ。開明ノ政理上ヲ主トスルハ、形ヲ以テスル者ニシテ、開明ノ民力上ヲ重ンズルハ、実ヲ以テスル者ナリ。形ヲ以テスル者ハ求メ易クシテ、実ヲ以テスル者ハ致シ難シ。今欧米諸国ハ民皆実学ヲ務メテ智識ニ優ナリ。故ニ人々各自其力ニ食ム能ハザルヲ以テ大恥トナシテ、我民ハ則之ニ反ス。士ハ徒ラニ父祖ノ穀禄ニ藉ルヲ知テ、未ダ文武ノ科ヲ究ムルヲ知ラズ。農ハ徒ラニ郷土ノ常ニ仍ルヲ知テ、未ダ耕桑ノ術ヲ講ズルヲ知ラズ。工ハ徒ラニ傭作ノ価ヲ論ズルヲ知テ、未ダ器械ノ巧ヲ求ムルヲ知ラズ。商ハ徒ラニ錙銖ノ利ヲ争フヲ知テ、未ダ貿易ノ法ヲ明ニスルヲ知ラズ。是皆其力ニ食ムコト能ハザル者ニシテ、其際一二才識ヲ以テ称セラルヽ者アリト雖モ、多クハ請託機ニ投ジ、壟断利ヲ罔スルノ徒ニ過ギズ。甚シキハ詐欺百出、誣冒万変、産ヲ破リ家ヲ亡ボスニ至ル者、比々トシテ之レアリ。今斯クノ如キノ輩ヲ駆テ、一朝遽ニ開明ノ域ニ届ラシメント欲ス、亦猶ホ卵ヲ見テ時夜ヲ求ムルガゴトキ也。臣等嘗テ中夜窃ニ謂ラク、長ク大都ニ在テ一タビ海外ニ航シ職ヲ奉ズル久シカラズトセズ、事ヲ閲スル多カラズトセザレバ、其智識昔日ニ愈ルヤ必セリト。退而其長ズル所ノ者ヲ求ムレバ、依然タル呉下ノ阿蒙ノミ。因テ起坐大息スル者之ヲ久ウス。臣等ノ遇フ所ヲ以テシテ猶且然り、況ンヤ生レテ偏境僻邑ニ在ル者ニ於テヲヤ。是ニ由テ之ヲ観レバ、今日ノ開明ハ民力上ヲ重ンズルモノニアラズシテ、政理上ニ空馳スルモノ、固ヨリ智者ヲ俟テ後ニ知ラザル也。苟モ政理上ノミヲ主トセン乎、人々愛国ノ情ヲ存スレバ、誰カ敢テ文明ノ政治、欧米諸国ノ如クナルヲ企望セザル者アランヤ。是ヲ以テ現今在官ノ士
 - 第3巻 p.745 -ページ画像 
足未タ其地ヲ踏マズ、目未ダ其事ヲ見ズ、僅ニ訳書ニ窺ヒ、之ヲ写真ニ閲スルモ、亦且ツ奮然興起シテ之ト相抗セントス。況ンヤ比年海外ニ客遊スル者ニ於テヲヤ。其帰ルニ及ンデハ、或ハ英ヲ以テ優レリトシ、或ハ仏ヲ以テ勝レタリトシ、蘭ヤ米ヤ孛ヤ墺ヤ、皆其長ズル所ヲ以テ我ニ比較シ、街衢貨幣開拓貿易ニ論ナク、兵ニ学ニ議ニ律ニ、蒸汽電信ニ、衣服器械ニ、凡以テ我ガ文明ヲ資ク可キ者、糸毫遺サズ、繊細洩サズ、以テ我ガ具備ヲ求メザルナキニ至ラン。是固ヨリ人情ノ止ムヲ得ザル所ニシテ、未ダ以テ非トナス可ラズト雖モ、徒ラニ其形ノミヲ主トシテ其実ヲ重ンゼズンバ、政治遂ニ人民ト背馳シ、法制益美ニシテ人民益疲レ、百度愈張リテ国力愈減ジ、功未ダ成ルニ至ラズシテ国已ニ貧弱ニ陥リ、善者アリト雖モ其ノ後ヲ善クスル能ハザラントス。果シテ此クノ如キ也、其レ何ヲ以テ国タルヲ得ンヤ。是レ人々ノ喜ブ所ニシテ、臣等ノ以テ憂フル所ナリ。凡ソ天下ノ事ハ預メ標準ヲ高遠ニ期セザル可ラズト雖モ、其手ヲ下スニ方テハ、則チ歩々序ヲ逐ヒ、着々実ヲ認メ、政理ヲシテ民力ト相負カザラシムルヲ要ス。決シテ躁行軽進、速成ヲ一日ニ求ムベカラズ。武臣均キヲ秉ルノ日ハ、国各其制ヲ異ニスト雖モ、人ヲ挙ル必ズ門閥ヲ以テス。是故ニ位ニ在ル者ハ肉食ノ徒ニ止リテ、政刑却テ卑職賤吏ノ手ニ出ヅルニ由リ、教化法律ノ何物タルヲ知ラズ、故キヲ按ジ、例ニ拠リ、武断決ヲ取ルヲ以テ、事却テ苟簡ニシテ、未ダ紛擾ノ患ヲ見ズ。因襲ノ久シキ、民モ亦見テ以テ常トナシテ、敢テ之ヲ異シム者アルコト無ク、海内乂安玆ニ二百余年、一旦外交事起ルニ及デ、始メテ其害大ニ見ハレ、収拾ス可ラザルニ至レリ。爾来志士仁人争起競趨、其身ヲ殺シテ以テ維新ノ運ヲ挽回スルヲ得タリ。是時ニ当リテハ、其勢ヒ旧弊ヲ撥除シ、庶政ヲ更張シテ、天下ノ耳目ヲ一洗セザル可ラズ。是ヲ以テ先ヅ視聴ヲ広ムルヲ求ム。既ニ視聴ヲ広ムルヲ求ムレバ、故常ニ安ンズルヲ恥ルヲ知ル。既ニ故常ニ安ンズルヲ恥ルヲ知レバ、猛省勇決、昔日ノ弊ヲ盪尽セザル能ハズ。是ニ於テ乎倒行逆施、挙テ其事ニ従ヒ、凡ソ国体兵制刑律教法学則工芸民法商業ヨリ百般ノ技芸ニ至ルマデ、之ヲ一時ニ更革シテ、以テ万国ト抗衡セント欲ス。是レ気運ノ然ラシムル所ト雖モ其挙措モ亦此ニ出ズンバアラザル也。之ヲ良医ノ病ヲ治スルニ譬フ。疾方ニ劇ナルニ当ツテハ、先ヅ投ズルニ劇薬ヲ以テセザル可ラズト雖モ、其漸ク平カナルニ迨デハ、温補ノ薬ヲ与ヘテ以テ其元気ノ復スルヲ待ツ。是タ[是レ]之ヲ其術ヲ得タリト謂フ。故ニ良医ノ期スル所ハ唯元気ノ復スルヲ待ツニ在テ、必ズ先ヅ投ズルニ劇剤ヲ以テス。天下ヲ為スノ術モ、亦何ゾ此ニ異ラン。既ニ投ズルニ劇剤ヲ以テシテ、其疾漸ク平カナルヲ致シ、庶績緒ニ就キ、万方化ニ嚮フ。是レ宜シク温補ノ薬ヲ与フベキノ時也。故ニ今日政府ノ事ヲ施設スル、歩々序ヲ逐ヒ、着着実ヲ認ムルヲ要トシテ、計未ダ此ニ出ルヲ知ラズ、猶ホ疇昔ノ軽佻ニ傚ヒ、徒ラニ百事ノ躁進ヲ勉ム。是レ臣等ノ甘心スル能ハザル所ナリ。然リ而シテ其之レヲ致ス者、臣等固ヨリ由来スル所アルヲ知レリ更始ノ際、政府専ラ人才ヲ抜擢スルニ急ニシテ、天下ノ人士モ亦自ラ奮テ其用ニ供セント欲ス。苟モ一芸ヲ挟ミ一能ニ誇ルモノ、雲集麕至身ヲ闕下ニ致スヲ願ハザル者ナクシテ、昔時靡盬ノ節ニ従フ者、或ハ
 - 第3巻 p.746 -ページ画像 
其才ナシト雖モ、遽ニ捨ツ可カラズ。今日操觚ノ才ニ名アル者、或ハ其釁アリト雖モ、長ク棄ツ可ラズ。是ヲ以テ野ニ陟ボス可キノ士アリテ、朝ニ黜ク可キノ人ナク、百官ノ闕クルナキ、未ダ此時ヨリ盛ナルハアラザル也。夫レ官其人多ケレバ、必ズ其事ヲ作コスヲ好ム。既ニ其事ヲ作コスヲ好メバ、必ズ其功ヲ成スヲ喜ブ。今政府意ヲ民力上ニ注セズシテ、力ヲ政理上ニ専ニシ、百官又事ヲ作コシ功ヲ成スニ急ナレバ、勢ヒ実用ヲ捨テ空理ニ馳スルノ弊ナキ能ハズ。況ヤ愛国ノ至情ヨリ、彼ガ開明ノ政治ヲ欽羨シテ、驟ニ之ト相抗セント欲スルニ於テヲヤ。是ニ於テカ唯事務ノ振興ヲ求メテ、治具ノ漏欠アランコトヲ之レ恐ル。故ニ害トシテ陳ゼザルナク、利トシテ講ゼザルナク、或ハ隙ニ投ジテ以テ容ルヽヲ求ムル者アリ、或ハ新ヲ衒フテ寵ヲ要スル者アリ、院省使寮司ヨリ府県ニ至ルマデ、各自其功ヲ貪テ、往々其官ヲ増ス。是ヲ以テ百事湊合、万緒蝟集、互ニ相牴触シテ、政府モ亦自ラ其弊ニ堪ヘザラントス。且夫レ其官アレバ其給ナカルベカラズ。其事アレバ其費ナカルベカラズ。是故ニ事務日ニ多キヲ加ヘテ、用度月ニ費ヲ増シ、歳入常ニ歳出ヲ償フ能ハザレバ、之ヲ人民ニ徴求セザルヲ得ズ。夫レ政治ノ要、其端固ヨリ多シト雖モ、渙号ノ今日ニ際セル、須ラク理財ヲ以テ第一義トスベシ。理財苟モ法ヲ失セバ、要費給スルヲ得ベカラズ。要費給スルヲ得ベカラザレバ、百事何ヲ以テ挙ガルヲ得ンヤ。是ニ於テ乃チ之ガ賦税ヲ増シ、之ガ傭役ヲ起シテ、以テ斯民ヲ督呵シ、其極斯民ヲシテ安息スル能ハズシテ、国モ亦随テ凋衰ヲ免レザラムシルニ至ラン。是レ古今ノ通患ニシテ政府ノ深ク寒心セザルベカラザルモノ実ニ此ニアリ。今全国歳入ノ総額ヲ概算スレバ、四千万円ヲ得ルニ過ギズ。而シテ予ジメ本年ノ経費ヲ推計スルニ、一変故ナカラシムルモ、尚ホ五千万円ニ及ブベシ。然則一歳ノ出入ヲ比較シテ、既ニ一千万円ノ不足ヲ生ズ。加之維新以来国用ノ急ナルヲ以テ、毎歳負フ所ノ用途モ、亦将ニ一千万円ニ超エントス。其他官省旧藩ノ楮幣及ビ中外ノ負債ヲ挙グルニ、殆ンド一億二千万円ノ巨額ニ近カヽラントス。故ニ之ヲ通算スレバ、政府現今ノ負債実ニ一億四千万円ニシテ、償却ノ道未ダ立タザル者トス。然則速ク其制ヲ設ケテ、逐次之ヲ支消セザルベカラズ。然ラズンバ後来人心ノ信憑ヲ固確スル能ハズシテ、一朝不虞ノ変アル、困頓跋疐、臍ヲ噬ムトモ及ブ可カラザルニ至ラン。然リ而シテ政府未ダ意ヲ此ニ注セズ、却テ百度ノ更張ヲ勉メ開明ヲ政理上ニ求ムルコト猶ホ昔日ノ如クナラバ、斯民ヲ保護スルノ道安クニカ在ル。政府既ニ斯民ヲ保護スルノ道ヲ得ズ、斯民其レ何ヲ以テ蘇息スルヲ得ンヤ。議者乃チ曰ク、瘠土ノ民ハ労シ、沃土ノ民ハ楽ム。楽メバ貧ニシテ、労スレバ富ム。故ニ其智ヲ進メテ之ヲ富マサント欲セバ、其賦税ヲ厚クスル、速カニ欧米諸国ノ如クセザル可ラズト。噫何ゾ其言ノ謬レルヤ。欧米諸国ノ民タル、概ネ智識ニ優ニシテ特立ノ志操ヲ存ス。且其国体ノ然ラシムル所ヨリ、常ニ政府ノ議ニ参スルヲ以テ、其相保持スル、猶ホ手足ノ頭目ヲ護スルガ如ク、利害損失内ニ明ニシテ、政府ハ唯之ガ外廷タルニ過ギズ。今我民則之ニ異ナリ、久シク専擅ノ余習ニ慣レ、長ク偏僻ノ固陋ニ安ジ、智識開ケズ志操確カラズ、進退俯仰、唯政府ノ命ニ之レ遵ヒ、所謂権利義務等ノ
 - 第3巻 p.747 -ページ画像 
如キニ至リテハ、未ダ其何物タルヲ弁ズル能ハズ。政府令スル所アレバ、国ヲ挙ゲテ之ヲ奉ジ、政府趣ク所アレバ、国ヲ挙テ之ニ帰シ、凡ソ風習語言服飾器什ヨリ、日用翫具ニ至ルマデ、先ヲ争ヒ後ルヽヲ恐レテ、政府ノ好尚ニ摸セザル者ナシ。夫レ上ノ好ム所下焉ヨリ甚シキアリ、故ニ互市ノ際ニ於ケルモ、彼ノ器物翫什ヲ輸入スルコト常ニ多クシテ、輸出ノ品ハ僅ニ十ノ六七ニ居ルニ過ギズ。民安ンゾ其貧弱ニ陥ル、日一日ヨリ甚シカラザルヲ得ンヤ。古人言アリ、曰ク、民ヲ視ル傷ムガ如シト。今ヤ政府ノ斯民ヲ視ル、啻ニ傷ムガ如キ能ハザルノミナラズ、却テ之ヲ法制ニ束縛シ、之ヲ賦税ニ督呵スル、或ハ昔日ニ加フルアリ。戸ニ編籍ナキヲ得ズ、里ニ社証ナキヲ得ズ、宅ニ地券ナキヲ得ズ、人ニ血税ナキヲ得ズシテ、訴訟ノ費アリ、違詿ノ罰アリ、物貨販品牛馬婢僕ニ至ルマデ、皆其律ナクンバアラズ。是ヲ以テ一令下ル毎ニ、輒チ斯民惘然措ヲ失シ、其嚮フ所ヲ知ラズ。商ニ就テ得ザレバ工ニ就キ、工ニ就テ得ザレバ農ニ就キ、家ヲ破リ産ヲ失フ者、比々相踵グ。其凋衰ニ赴ク者モ、亦昔日ニ倍スルアリ。夫レ此ノ如キナリ政府ハ愈歩ヲ開明ノ域ニ進メテ、民ハ愈陋ヲ野蛮ノ俗ニ甘ンジ、上下ノ相距ル、何ゾ啻霄壌ノミナランヤ。政理ノ民力ニ負ク既ニ此ニ至ラバ、其善ナル者未ダ以テ善トナスニ足ラズ、其美ナル者未ダ以テ美トスルニ足ラズ、唯其憂フベキヲ見テ、未ダ其喜ブベキヲ見ザルナリ。蓋シ物各其量アリ、国各其力アリテ、政治ノ要ハ時勢ニ適スルヲ貴シトス。故ニ政府ノ事ヲ施為スル、能ク我国力ヲ審ニシ能ク我民情ヲ察セズンバアル可ラズ。夫レ出ルヲ量リテ入ルヲ制スルハ、欧米諸国ノ政ヲ為ス所以ニシテ、今我ガ国力民情未ダ此ニ出ル能ハザル者、人人ノ能ク知ル所ナレバ、方今ノ策ハ、且ラク入ヲ量テ出ルヲ制スルノ旧ヲ守リ、務テ経費ヲ節減シ、預メ其歳入ヲ概算シテ、歳出ヲシテ決テ之ニ超ユルヲ得ザラシメ、院省寮司ヨリ府県ニ至ルマデ、其施設ノ順序ヲ考量シ、之ガ額ヲ確定シ、分亳モ其限度ヲ出ルヲ許サズ、其負債紙幣ノ如キハ、無用ノ費ヲ減ジ、不急ノ禄ヲ省キテ、支消兌換、漸ヲ以テスルノ法ニ供シ、事其序ヲ逐ハザレバ進マズ、法其実ヲ認メザレバ挙ゲズ、斯民ヲシテ蘇息スル所アラシメ、天下ヲシテ、政府ノ趨ク所、大ニ昔日ニ異ナルヲ明ラカニセシメザルベカラズ。是今日ノ時勢ニシテ、我ガ国力民情ノ適トスル所、未ダ此ニ愈レル者アラザルナリ。此法苟モ一定セバ、尽ク其長官ヲ会同シテ、公示スルニ要旨ヲ以テシ、交々相誓約シテ、此目的ヲ失ハザルヲ務メトシ、夫ノ施為ノ緩急、処置ノ前後、或ハ用ヲ兵制ニ豊ニシテ、費ヲ法律ニ歉ニシ、或ハ額ヲ工術ニ加ヘテ、貲ヲ学則ニ損シ、或ハ農租ヲ逓減シテ商税ヲ増加スル等ノ如キニ至テハ、衆議ヲ尽シテ其宜キヲ斟酌シ、政理民力相背カザルヲ以テ、後来ノ標準トナスベキ也。果シテ此ノ如クナレバ、斯民モ亦其向フ所ヲ知リ、自ラ富実ノ本ヲ勉ムルヲ得テ、政理ト共ニ開明ノ歩ヲ進ムル者、足ヲ企テ俟ツ可キ也。然ラズンバ、内外ノ変必ズ不測ノ間ニ生ジテ、土崩瓦解、検束ス可カラザルニ至ラン。之ヲ如何ゾ政府ノ挙措其当ヲ得タリト謂フ可ケンヤ。臣等無似ト雖モ、亦久シク乏シキヲ理財ニ承ケタリ。是ヲ以テ施為ノ務メニ於テハ、未ダ大ニ其功ヲ奏スルヲ得ズト雖モ、其実際ヲ親験躬履ノ迹ニ求ムレバ、未ダ必
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シモ見解ナシト謂フ可ラズ。臣等ノ見ル所ヲ以テ之ヲ慮ルニ、今日ノ開明、唯ニ其喜ブ可キ者ヲ見ザルノミナラズ、其大ニ憂フ可キ者、将ニ弾指ノ間ニ在ラントス。是レ固ヨリ政府ノ措置如何ニ在テ、気運ノ然ラシムル所ニ非ザル者、昭々乎トシテ明ナリ。夫レ知テ言ハザルハ不忠ナリ。知ラズシテ言フハ不智ナリ。臣等縦ヒ不智ノ譴ヲ受ルトモ決シテ不忠ノ臣タルヲ欲セズ。是ニ於テ乎、既ニ其職務ニ堪ヘザルヲ以テ骸骨ヲ乞ト雖モ、区々ノ心、今日ニ恝然タルニ忍ビズ。故ニ敢テ其愚衷ヲ留メテ、以テ政府ノ少シク回顧スル所アランヲ望ム耳。其尽言極論、威厳ヲ冒涜シテ顧忌スル所ナキハ、固ヨリ斧鉞ノ誅ヲ甘ズルヲ以テナリ。臣馨臣栄一憂懼ノ至リニ堪ズ、誠恐誠惶、昧死以聞。

  ○奏議ノ掲載サレタル新聞ハ左ノ如シ。
   一、新聞雑誌、附録、第九十八号ニハ全文ヲ掲載ス。明治六年五月トアルノミニテ日ヲ欠ク。奏議ヲ掲載セル未尾ニ「此奏議ハ各種新聞紙ニ刊行スルモノ頗ル誤字衍文ナキ能ハズ、因テ正本ニ就キ補刪校訂以テ看客ノ需ニ供ス」トアリ。因ミニ新聞雑誌ハ明治七年十二月廿八日第三百五十七号ヲ以テ終リ、明治八年一月二日ヲ以テ「あけぼの」ト改題セリ。
   二、郵便報知新聞、第五十一号、附録二ニハ全文ヲ掲載セル上ソノ末尾ニ井上及ビ栄一ノ辞表ヲモ掲ゲタリ。明治六年五月トアルノミニテ日ヲ欠ク
   三、東京日々新聞、第三百六十八号、明治六年五月十三日ノ投書欄ニ奏議ノ抜萃ヲ掲ゲ、ソノ始メニ「井上渋沢両公ノ建言書紙短ク文長シ、已ム事ヲ得ズシテ此ニ大意ヲ抄出ス、全章ノ如キハ他局ノ新聞紙ニ見エタリ」トアリ。而シテ同紙、第三百七十二号、明治六年五月十七日ニ「井上渋沢両公ノ奏議ヲ新聞紙ニ記載スベキモノニ非ルニ前号ニ掲示セルハ過ナリ、因テ之ヲ大方ノ君子ニ謝ス」トアリ。
   四、日要新聞、第七十五号、附録(紀元二千五百三十三年五月)ニ奏議及ビ辞表ヲ掲グ。
   五、日新真事誌、五月九日


太政官日誌 明治六年第七十号 ○五月十八日(DK030154k-0005)
第3巻 p.748-749 ページ画像PDM 1.0 DEED

太政官日誌 明治六年第七十号
○五月十八日
  大蔵大輔井上馨、大蔵省三等出仕渋沢栄一、建言書ヘ御指令、左ノ通 建言書略之
建言ノ主意其立論適当ノコトニ候得共、事ヲ挙ケ実ヲ指シ候所ハ現実ト相違候儀不少、尤政理民力相背カサルヲ以テ後来ノ標準ト為スベキ等云々ハ適切ノ筋ニテ、既ニ今般太政官事務章程改正被 仰出候 御主意ニ候得ハ、右等ノ儀ニ付テハ安心可有之候、然ル処歳出入ヲ概算シ、一千万円余ノ不足ヲ生シ候等ノ儀書載候得共、右ハ米価壱石弐円七十五銭ヲ以テ算当候積ニテ、且此内ニハ逐年繰戻ニ相成候分、又ハ廃藩置県ノ如キ非常ノ入費、或ハ一時ノ費ノミニテ年々例算スヘカラサル者モ有之、其上政府現今ノ負債ヲ論シ、実ニ一億四千万円ニ下ラズト有之、是亦計算上大ニ相違ノ廉不少、彼是実事ニ徴シ勘合候得ハ必シモ毎年一千万円ノ不足ヲ生シ、又一億四千万円ノ巨債ヲ負ヒ候訳ニ無之、旁右等申出ノ儀不都合ノ次第ニ付、書面其儘差戻候事
  ○芝崎猪根吉所蔵文書中ニ左ノ奏議返却ノ通達アリ。
       奏義一冊《(議)》
 - 第3巻 p.749 -ページ画像 
  右及御返却候間御落手可有之候也
     明治六年五月十八日 史官
   渋沢正五位殿
  コノ通達ノ次ニコヽニ掲ゲタル「建言ノ主意」云々ノ指令ヲ掲ゲタリ。


明治財政史 第一巻・第五九九―六〇一頁〔明治三七年四月〕(DK030154k-0006)
第3巻 p.749-754 ページ画像PDM 1.0 DEED

明治財政史 第一巻・第五九九―六〇一頁〔明治三七年四月〕
明治六年六月会計法沿革上ニ於テ最モ著明ナル一事実ヲ生セリ、乃チ政府ノ見込会計表ノ公布是ナリ、而シテ此見込会計表ノ発布セラルヽニ至リシハ曩ニ大蔵大輔井上馨同三等出仕渋沢栄一二氏ノ財政整理ニ関スル建議ヲ動機トシテ顕ハレ来リシモノナリ、抑モ明治五六年ノ頃ニ於テハ維新創始ノ際ニシテ官制未タ整備セス、従ヒテ各省ノ権限自ラ明劃ナラサルモノアリ、故ニ各省ノ事務ハ長官其人ノ手腕如何ニ依リ伸縮スルノ形況ナリ、大蔵省ハ明治二年会計官ノ後ヲ継テ以来其事務漸次拡張シ、一時ハ今日ノ内務、農商務、逓信諸省及会計検査院ノ所管セル事務ヲモ包含シ、且ツ明治ノ人才ハ多ク大蔵省ニ集リタルヲ以テ共権力頗ル盛大ナルモノアリキ、井上大蔵大輔ハ明治三年乃至六年ノ間大蔵省中首要ノ地位ヲ占メ、殊ニ大蔵卿大久保利通欧米巡回中ハ大蔵卿代理ノ資格ヲ以テ其事務ヲ専行セリ、斯クシテ漸ク政府部内ニ反対者ヲ生シ、参議兼司法卿江藤新平ノ如キ最モ其反対ノ位地ニ立テリ、是ニ於テ井上大蔵大輔ノ意見往々廟議ニ納レラレサルモノアリ、明治六年五月七日大蔵省三等出仕渋沢栄一ト共ニ政府ノ財政ニ関スル一大建議ヲナシ、同月十四日二氏袂ヲ連ネテ官ヲ辞セリ、其建議ノ主旨ハ要スルニ民力ヲ休養シテ国家ノ富強ヲ計リ、一般ノ政務ハ国庫歳入ノ力ニ応シテ漸ヲ以テ之ヲ拡張スヘク、出入平衡ヲ失シテ維新ノ大業中途ニシテ蹉跌スルノ憂ナカラシムヘシト云フニアリ、而シテ全国歳入ノ総額ヲ四千万円歳出ヲ五千万円トナシ、歳入不足一千万円、其他ノ負債一億三千万円ノ巨額ニ上レリトシ、大ニ財政ノ悲況ヲ唱ヘテ経費ノ緊縮ヲ痛論セリ(建議全文ハ緒言ノ部ニ出ツ)此建議ハ固ヨリ廟議ノ納ルヽトコロトナラス直ニ却下セラレタリ、其指令全文左ノ如シ
      指令    明治六年五月十八日
  建言ノ主意其立論適当ノ事ニ候ヘトモ事ヲ挙ケ実ヲ指シ候処ハ現実ト相違候儀不少、尤政理民力相背カサルヲ以テ後来ノ標準トナスヘキ等云々ハ適切ノ筋ニテ、既ニ今般太政官事務章程改正被仰出候御主意ニ候ヘハ、右等ノ儀ニ付テハ安心可有之候、然ル処歳出入ヲ概算シ一千万円余ノ不足ヲ生シ候等ノ儀書載候得共、右ハ米価一石二円七十五銭ヲ以テ算当候積ニテ且此内ニハ逐年繰戻ニ相成候分、又ハ廃藩置県ノ如キ非常ノ入費、或ハ一時ノ費ノミニテ年々例算スヘカラサル者モ有之、其上政府現今ノ負債ヲ論シ、実ニ一億四千万円ニ下ラスト有之、是亦計算上大ニ相違ノ廉不少彼是実事ニ徴シ勘合候ヘハ必シモ毎年一千万円ノ不足ヲ生シ、又一億四千万円ノ巨債ヲ負ヒ候訳ニ無之、旁々右等申出ノ儀不都合ノ次第ニ付書面其儘差戻候事
然ルニ此建議ノ漏レテ横浜日新真事誌ニ掲載セラルヽヤ世人ヲシテ政府ノ会計危殆ナリトノ疑惑ヲ懐カシムルニ至リ、朝野ノ議論大ニ沸騰
 - 第3巻 p.750 -ページ画像 
スルニ至レリ、是ニ於テ乎政府ハ其信用ヲ維持センカ為メ、歳計概算ヲ公ニスルノ必要ニ迫リ、初メテ歳入出見込会計表ヲ公布シ、世人ヲシテ其疑ヲ解カシメンコトヲ力メタリ

  番外達                 各省使府県
 前大蔵大輔井上馨同三等出仕渋沢栄一前日差出候建言中謬誤之廉有之候ニ付、歳計概算更精密取調候様大蔵省事務総裁参議大隈重信ヘ兼而相達置候処、此度別紙之通取調差出候ニ付為心得此段相達候事
  明治六年六月九日       太政大臣 三条実美

(別紙)
参議大隈重信謹テ 太政大臣閣下ニ白ス、曩キニ前大蔵大輔井上馨同三等出仕渋沢栄一カ辞職ニ臨ミ閣下ニ上ル所ノ建議、其論固ヨリ憂国ノ衷情ニ出ルト雖モ措辞実ニ過キ議論激ニ超エ、且歳出入ヲ計ルニ至テハ多ク臆測ノ概算ニ出ツ、是閣下ノ其書ヲ黜テ采用セサル所以ナリ然而シテ誤テ新聞紙ニ刊行セシヨリ中外人民其主職ノ上書タルヲ以テ固ヨリ真確ナルコトト信シ、大ニ紛紜ノ物議ヲ生スルニ至ル、重信現職大蔵ノ総裁ヲ辱クス、特ニ其会計実況ノ当否ヲ弁明スヘキノ欽命ヲ奉セリ、於是テ其省ニ就キ其主職ノ官員ニ審問シ其簿記ヲ査覈シ実額ヲ計算シ乃チ別記ノ正数ヲ得タリ、因テ簿録上呈ス、抑モ財政ハ皇国安危ノ関係スル所苟モ其当ヲ誤レハ不測ノ患害ヲ醸スコト弾指ノ間ニ在ルヤ固ヨリ論ヲ俟サルナリ、然ルニ今二氏ノ論スル所ノ如クナレハ我政府ニ対シ中外人民ノ信憑依頼ヲ薄クシ、是カ為メニ凝惑ヲ生スルニ至ラン、然ル時ハ其関係スル所亦大ナリトス、故ニ切ニ望ム今録呈スル所ノ歳計表ヲ遄ニ中外人民ニ公布シ、以テ其疑惑ヲ解キ其物議ヲ止ンコトヲ、誠恐ノ至ニ堪ヘス
一此歳入ハ近年ノ収納科目ニ準拠シテ今後周年ノ税額ヲ計上シ、其収入シ得ヘキノ大数ヲ挙クルモノナリト雖モ既往ハ実際之レヲ収課スルニ及ンテハ、未納或ハ延納其他種々ノ通弊アルヲ以テ常ニ其額ニ充ツル能ハサルコトアリシナリ、然レトモ今ヤ実際上ニ付テ監督シ如此ノ通弊ヲ釐正シテ万緒其序ヲ得ルニ至ラントスレハ、歳入ノ額ハ増加スルトモ減損スルノ理断ヘテナキナリ
一此歳出モ亦前年ノ科目ニ因拠シテ計上セシナレハ今後ニ至テモ大ナル差異ヲ生スルコトナカルヘシ、然レトモ定数ノ費ハ省冗節制シ百般其序ヲ得ルニ至テ必ス減省スヘキモノナリ、然リ而シテ臨時失費ノ如キハ予算シ得難キモノナレハ其額或ハ之レヨリ増加スルヤモ難測モノナリ、然レトモ歳入ノ歳出ヲ償フ能ハザルノ害ナキハ決然疑フヘカラサルナリ
一先次倫敦ニテ告知セシ我歳出《(歳入脱カ)》ノ表、澳国博覧会ニ我公使ノ携帯セシ表、及ヒ今此ニ掲クルモノト歳入歳出ノ金額相異ル所以ヲ弁明セン、抑我邦ヤ各外邦ト異ニシテ庶民ヨリ納ルヽ所ノ租税多クハ米ヲ以テスレハ、其米価ノ高低ニ因リ出入ノ額ニ於テ大ナル差異ヲ生スルナリ、実ニ今年ノゴトキハ米価低下ノ極度ト雖モ猶今此ニ掲示スル金額ノ歳入アル又近時ノ如キハ辰巳両度ノ戦争及ヒ廃藩立県ノ改革ヲ
 - 第3巻 p.751 -ページ画像 
施行セシナレハ其費莫大ニシテ二三ケ月間ノ算計ニ於テモ亦大ナル差異ヲ生セシナリ、又税法更生ノ際大ニ収納ノ額上ニ差異ヲ生セシニ因テナリ、今ヤ廃藩立県ノ挙モ整ヒ其序ニ就キ税法ノ釐正モ其端緒ヲ得ルニ至リシナレハ 縦令ハ従来ノ田地ハ是迄一般政府ノ処有ノコトキ権アリシカ、近時地券ヲ施行シ人民所有タルノ確拠ヲ得セシメ且従来ノ米納ヲ廃シ、金納ノ税額ニ釐正スレハ米価ノ高低ニヨリテ歳入ノ増減ナキ等ヲ云 歳入ノ税日ニ増シ月ニ加ルニ従テ起手ノ事業モ大ニ増加スヘシト雖モ、歳入ノ歳出ヨリ多キハ論ヲ待サルナリ
一今此ニ掲クル定費臨時費ノ如キハ素ヨリ確定ノ数ニハアラス、今ヤ創業ノ際新タニ着手スヘキ百般ノ作業則チ轍路ヲ設ケ灯台ヲ築キ電線ヲ架シ諸般ノ工場ヲ開設シ或ハ官庁ヲ造営シ陣営ヲ建築スル等ノ費用ヲモ計上セシモノナレハ、明年歳出ノ額減損スルコト必然ナリ上ニ掲クル件々ノ如キハ一時成功ノ上ハ年々新建スヘキモノニアラス、唯修繕ノ細費ヲ要スヘキモノニシテ又夫レヨリ生スル利益アルコト疑ナシ、然ラハ追年歳出ハ減シ歳入ハ加ルニ至ルヘキナリ、万一歳入ノ額不足ノコトアルトキハ上ノ如キ起手スベキ業ニ付緩急軽重ヲ計リ箇裏ノ緩軽ナルモノヲ次年ニ譲リ得ルコトナレハ到底歳入ノ歳出ヲ償フ能ハサルノ害ナキコトヲ重言スルモノナリ、諸事ノ成功及ヒ其費用ノ如キハ次年ニ出ス処ノ表中ニ於テ明了ニ掲示スヘキナリ
一国債ノ如キハ内外ノ両債ヲ負フト雖モ外債ヲ償フニハ諸族ノ禄制ヲ定メ有余ヲ以テ不足ヲ償フノ規ヲ設ケテ以テ之ヲ支消スルノ一処法アリ、又内債ノ如キハ之レニ充ルモノアリ、則チ政府ヨリ庶民江貸出セシ金穀ナリ、又紙幣ノ発行アリト雖モ之レニ充ルニ準備金ト称スルモノニシテ大蔵省ノ倉庫中ニ蔵蓄セシモノアリ、此三条ノ分明ナル解説ハ不日精細ニ調査シテ公布スヘキモノナリ
   明治六年歳入出見込会計表
    歳入之部
第一 正租   総計金四千百万六千四百四拾八円弐拾八銭三厘
    内訳
   田租      金四千弐拾六万三千五百八拾八円六拾銭
   三府地税商売免許税其外 金三拾壱万六百弐拾三円六拾八銭三厘
   各種ノ鑑札税  金三拾三万五千円
   船税      金三万四千円
   婢僕車馬ノ税  金六万三千弐百三拾六円
第二 印紙税 総計  金百三拾万円
第三 酒類其外各種ノ税  総計金弐百拾三万七千六百四拾壱円
    内訳
   酒類税     金七拾七万四千円
   絞油税     金五万五千円
   砂糖税     金弐拾八万七千七百七円
   各種ノ税    金百弐万九百三拾四円
第四 海関税並諸税    総計金百八拾弐万三千九百九円
    内訳
   東京        金四千六百八拾四円
 - 第3巻 p.752 -ページ画像 
   横浜        金百弐拾七万四百八拾壱円
   兵庫        金三拾万五千弐百三拾八円
   大坂        金八万九千三百三拾四円
   長崎        金拾五万三千七百弐拾三円
   新潟        金四百四拾九円
第五 郵便税汽車電信ノ収入    総計金四十万円
    内訳
   郵便税       金弐拾万円
   汽車電信ノ収入   金弐拾万円
第六 北海道収納高   総計金三拾三万八千八百拾弐円五十銭
    内訳
   産物ノ税      金三拾壱万円
   海関税       金弐万弐千円
   正租雑税      金六千八百十二円五十銭
第七 臨時種々ノ入高   総計金百七拾三万七拾弐円五十銭
    内訳
   貸出金及利足    金百弐拾弐万千九百八拾弐円五十銭
   欠所物其外払下ケ  金三拾万八千九拾円
   贓贖金       金弐拾万円
 通計
  通常歳入 金四千七百万六千八百拾円七拾八銭三厘
 通計
  臨時歳入  金百七拾三万七拾弐円五十銭
歳入総計  金四千八百七拾三万六千八百八拾三円弐拾八銭三厘
    歳出之部
第一 国債消却 総計金弐百六拾七万九千百円
    内訳
   無利足ニテ元金ヲ償還スヘキ内国債 金五拾万八千七百円 明治五年同六年 分
   利足ト共ニ元金ヲ償還スヘキ内国債及利息 金百拾万四百円 同上
   一時償還スヘキ内国債 金弐拾五万円
   外国債   元金四拾五万円利足金三拾七万円
第二 貫属家禄賞典米 総計金千弐百六拾壱万三千八百拾六円三拾五銭五厘
第三 営繕堤防  総計金四百万円
第四 外国交際  総計金拾万六百四拾円
第五 太政官   総計金三拾三万円
第六 各省使府県 総計金弐千百三拾五万五千六百七拾弐円拾銭九厘
    内訳
   外務省   金拾六万八千七百円
   大蔵省   金八拾九万三千四百九十九円
   陸軍省   金八百万円
   海軍省   金百八十万円
   文部省   金百三十万円
   教部省   金五万円
   工部省   金弐百九十万円
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   司法省   金六十三万円
   宮内省   金六十四万三千五百五拾弐円六十銭九厘
   開拓使   金百十七万七千三百十二円五十銭
   三府    金八十万三百四十壱円
   諸県    金弐百九十九万弐千弐百六十七円
第七 府県捕亡及邏卒費 総計金八十五万円
    内訳
   三府邏卒 金五十七万九千三百十三円
   各県捕亡及邏卒 金弐十七万六百八十七円
第八 米英仏澳 公使館 金八万九千弐百円
第九 紐育外六港 領事館 金弐万百六十円
第十 臨時歳出 総計金四百五十五万七千三十円
    内訳
   大蔵省郵便改正旧藩楮幣引換改造及国債証書製造其外 金百六十四万弐千六百円
   特命全権大使各洲巡行 金十七万弐千三百円
   澳国博覧会 金弐十四万弐千百三十円
   一般臨時費予備 金弐百五十万円
 通計
  通常歳出 金四千弐百三万九千四百八十八円四十六銭四厘
 通計
  臨時歳出 金四百五十五万七千三十円
 歳出総計 金四千六百五十九万六千五百十八円四十六銭四厘
 歳入総計 金四千八百七十三万六千八百八十三円弐十八銭三厘
 歳出総計 金四千六百五十九万六千五百十八円四十六銭四厘
 歳入ノ歳出ヨリ多キ高
  金弐百十四万三百六十四円八十一銭九厘
     国債
      内国債
  有利足債 金千三百七十五万五千八百七十三円
  無利足債 金千二百七十一万八千四百七十八円
   合金弐千六百四十七万四千三百五十一円
    内
   金七十五万八千七百円 年賦ノ内明治五年六年分並一時支消ノ分共本年償却ノ高
   残債金弐千五百七十一万五千六百五十一円 明治七年以後可償却分
      外国債
  債金五百五十万九千五十円
 合内外国債 三千百二十二万四千七百壱円
此見込会計表ノ公布アルヤ、曩ニ井上・渋沢二氏ノ建白書ニ依リテ一度政府財政ノ危殆ニ一驚ヲ喫セシメタル世人ヲシテ更ニ又其会計ノ豊ナルヲ信セシムルニ至リ、政府カ此会計表ヲ公ニシタル目的ハ爰ニ充分ニ達セラレタルモノナリ、而シテ右会計表ノ正否ハ明治十三年二月制定明治元年乃至八年八期間決算報告ニ徴スレバ自カラ瞭然タルモノアラン
右ノ見込会計表ハ一歳間ニ入ルヘキモノト出ツヘキモノトヲ概算シタ
 - 第3巻 p.754 -ページ画像 
ルニ止マリ、所謂予算ノ性質ヲ有スルモノニアラスシテ太政大臣ノ達文ニモ啻タ「為心得」トアリテ命令ノ意ヲ示サヽルナリ、然レトモ一度此会計表ノ公布アルヤ政府ハ之ニ拠リテ会計事務ヲ処理監督スルコトノ頗ル便宜ニシテ効果ノ大ナルヲ悟リ、爾後毎年此表ヲ調製公布スルノ習慣トナリ終ニ変遷シテ真正ノ予算ヲ形作ルニ至レリ、則チ此見込会計表ノ公布ハ会計法規ノ発達上ニ於テ大ナル影響ヲ及ホシタルモノト謂フヘシ、蓋シ当時井上・渋沢二氏ノ財政ニ関スル建白書ハ直チニ政府ノ却下スル所トナリタリト雖モ、此建白ハ実ニ意外ノ良結果ヲ我国会計整理上ニ生シタルモノト云フヘシ、之ヲ欧米諸国ニ就キテ考フルニ立憲政体ノ国ニアラスシテ会計ヲ公示スルモノ未タ之アラサリシナリ、然ルニ其当時已ニ我国ニ於テ政府ノ会計ヲ公示シタルハ良制トシテ大ニ誇ルニ足ルモノト云ハサルヲ得ス


布令掛合留 雑款之部・自明治五年至同六年(DK030154k-0007)
第3巻 p.754 ページ画像PDM 1.0 DEED

布令掛合留 雑款之部・自明治五年至同六年 (東京府庁所蔵)
第五百三拾四号
前大蔵大輔井上馨同三等出仕渋沢栄一建言中謬誤之廉有之候趣ヲ以更ニ精密取調書別紙添御達有之右ハ即今新聞紙ニモ掲載有之衆人目撃可致哉ニ付別段府下一般公布不致候半而可然存候一応見据之程相伺候条御指揮被下度候也
  明治六年六月十二日
               東京府知事 大久保一翁
 太政大臣 三条実美殿
 (朱書)
 伺之通
  明治六年六月十五日 太政大臣之印


本邦人ノ外国訪問関係雑件 第五巻(DK030154k-0008)
第3巻 p.754-755 ページ画像PDM 1.0 DEED

本邦人ノ外国訪問関係雑件 第五巻 (外務省所蔵)
 (別冊)右大臣岩倉具視特命全権大使トシテ締盟各国ヘ派遣之件
第五十六号
  明治六年五月廿日 東京ヲ発ス
○上略
大蔵大輔井上馨同三等出仕渋沢栄一両人之奏議今便御廻申入候各新聞紙ニ梓載有之候通リニ御座候処、実地計算上相違之廉不少不都合之次第ニ付、別紙之通御附紙を以書面其儘御差戻相成候条為御心得申進候
○下略
                 上野外務少輔
                 江藤参議
                 大木参議
                 板垣参議
                 後藤参議
                 大隈参議
                 西郷参議
                 三条太政大臣
    特命全権大副使
          御中
  大蔵大輔井上馨同三等出仕渋沢栄一ノ建言ニ御附紙ノ写
 - 第3巻 p.755 -ページ画像 
建言ノ主意其立論適当ノ事ニ候エトモ ○下略
第五十七号
  明治六年五月廿七日 東京ヲ発ス
○上略
先便申進置候通大蔵大輔井上馨同三等出仕渋沢栄一両人辞職之節差出候奏議中実際と相違之廉不少候処、已ニ横浜新聞ニ訳文梓載致シ候ニ付而は遍く海外ニ伝播可致ハ勿論右新聞より外国於て御国計疑惑を来し候様ニ而は不容易事ニ候条、自然外国人より疑問も有之候ハヽ可然御弁解有之度候、右之趣各国在留御国公使江も為心得相達候積リニ而候
○下略
                 上野外務少輔 花押
                 江藤参議
                 大木参議
                 板垣参議
                 後藤参議
                 大隈参議
                 西郷参議
                 三条太政大臣 印
         特命全権大副使
               御中
第五十八号
  明治六年六月十七日 東京ヲ発ス
○上略
先便以来申進置候前大蔵大輔井上馨同三等出仕渋沢栄一之建言中謬誤之廉有之、中外人民之疑惑を生シ候次第ニ立至リ、依て会計実況之当否を弁明し別冊之通布達致し候条此段申入候
○中略
井上渋沢之建言謬誤之廉を弁明致候布達書数部御廻し申入候条、各国在留御国公使江も一部ツヽ御頒達有之度候
○下略
                太政大臣以下連名
        特命全権大副使
              御中


世外侯事歴 維新財政談 下・第四〇五―四一〇頁 〔大正一〇年九月〕 三七 井上公辞職の顛末(DK030154k-0009)
第3巻 p.755-757 ページ画像PDM 1.0 DEED

世外侯事歴 維新財政談 下・第四〇五―四一〇頁〔大正一〇年九月〕
  三七 井上公辞職の顛末
         男爵渋沢栄一 益田孝 侯爵井上馨
         伯爵芳川顕正 左伯惟馨     談話
○上略
渋沢男 芳川さんですヨ、建白書を新聞に出して宜いと云つたのは。柳橋に「よしかは」と云ふ家があつた、彼処へ行かれて、私は増田屋に行つて居る、それで出会つて遊ぶと云ふのが……磊落千万の話ですけれども、其時分の常であつた。デ渋沢居るかと云ふので使を寄越された。それで「よしかは」へ行くと、芳川顕正さんがお居でで……あの文章を見せたら、是は名文章だ、是は渋沢が書きはすまいと云ふから、書きました。ナニ君の手ぢやない、君には書けない
 - 第3巻 p.756 -ページ画像 
とか、何とか冗談言つて、それから実は斯うだ、是は名文章だ、実に賛成だとか何とか言つて、頻に煽てゝ、新聞に出せ出せ……と云つて、日新真事誌の号外となつて出た。(明治四十一年十二月三日)
○中略
渋沢男 江幡五郎に頼んで書いて貰つた。さうして原稿を作つて見た、丁度其頃に辞職せにやならぬ場合になつた。だから辞職して書き掛けたのでなくて、辞職前にさう云ふ案を私だけは書いて見たのです。さうして伺はうと思つて居る中に、辞職騒動が起つたのです尤も其間に、始終面倒で、とても遣れぬ遣れぬと云ふ事は、屡々仰有つて居られたのですけれども、愈々今日は土壇場になると云ふ事はまだ分らなかつた。そこで私共の考には、其時に大輔で居らした井上さんは、もう辞すに相違ないと、心に感じを有つて居つた。デ私自身にもどうしても斯う云ふ制度の仕方では宜くない、財政には少しも重きを措いてない、御心配は御無理ないと、固より私も同主義で、且百事御指揮の下に働いて居りましたから、同説を一番強く持つた一人であつた、それで今の意見書みたいな物を拵へ掛けて居つた。マア文章が好くなくちやアいかぬと思ふて、自身の文章ぢやア迚もいかぬから、江幡といふ人が大蔵省に……それも侯爵が入れやうぢやないかと云ふので入れた。江幡を元と能く知つて居つたのは木戸さんで、木戸さんが、江幡はなかなか好い文章家で、何かに役に立ちはせぬかと思ふから、あれを大蔵省あたりで使つて置いて呉れないかと云ふので、それを井上さんに仰有つた。斯う云ふ事を木戸が言ふから、好かつたら使つて置いて呉れないかと云ふ事で、江幡を入れて置いた、後に那珂通高と云つた人です。それに私が相談して斯う云ふ意見書を書きたいと思ふが、君書いて呉れぬかと云つて、書掛けて居ると騒動が起つた。騒動と云ふのは、大輔がどうしてもモウ退かにやならぬと云ふ、切迫した場合になつて、夫から辞表を出して、其翌日であつたか、翌々日であつたか、取纏めてそれを持つて行つて御覧に入れた。丁度其日に、今の芳川伯がお側に居りまして、其時分の有様は、丁度先刻お話の廃藩置県の事が、ヒヨツと生じて来る様な訳だから、余り鄭重の思案はなしに、考へた事はごく真率に、やつて仕舞ふと云ふ様な流儀で、こんな文章を書いたが、閣下見て下さらんかと云つて上げた、ドレ見せろと云ふので芳川さんと共に読んで、宜からう、いつその事二人で、辞表に対する建白にしやうぢやないか、さうして下されば大変有難い、そこで終の方がまずいと云ふので、幾らかの修正をお加へになつた様に覚えて居る。それから、それを直して持つて行つて、お目に懸けて、宜しいと云ふので、二人の名前で出した。出しただけなら叱られはしない、それを新聞に出せと云ふので、新聞に出してしまつた。それは日進真事誌にも出たが、曙新聞にも出した、青井秀といふ人が扱つた。それで江藤新平さんが、政府の秘密を発く、井上は長く官に在つて、容易ならぬ体であるに拘らず、さう云ふ事をする、殆んど朝敵同様な事だと云ふので、縛ると云ふ論だつたさうです。
井上侯 縛つて牢に入れると云ふのぢや。
 - 第3巻 p.757 -ページ画像 
渋沢男 共に縛られる訳ぢやつたさうです。それで其時分の制度で、何でも封書推問と言ふので、直様呼出さず、如何なる了簡で斯う云ふ事をしたかと、封書で推問が来る。其推問に向つて答弁をしてやる。其答弁の結果二十幾円かの罰金となつた。
井上侯 裁判所へ呼出されて、私は出た。
渋沢男 私は出ませんかつた。
井上侯 私は呼出されて出た。それで是は入牢と覚悟した、すると額は覚えぬが罰金を取られた。 (明治四十二年二月四日)
   参照
     申渡
                  従四位 井上馨
  其方儀大蔵大輔在職中兼テ御布告ノ旨ニ悖リ渋沢栄一両名ノ奏議書各種新聞紙エ掲載致ス段右科雑犯律違令ノ重キニ擬シ懲役四十日ノ閏刑禁錮四十日ノ処特命ヲ以テ贖罪金三円申付ル
    明治六年七月廿日
      司法省臨時裁判所


新聞雑誌 第百三十四号 明治六年八月 【七月二十日臨時裁判所申渡シ】(DK030154k-0010)
第3巻 p.757 ページ画像PDM 1.0 DEED

新聞雑誌 第百三十四号 明治六年八月
七月二十日臨時裁判所申渡シ
(井上馨ニ対スル申渡略ス)
              大蔵省七等出仕
                  岩崎轍輔
其方儀井上馨渋沢栄一両名ノ奏議書新聞紙ヘ附与致スベキ旨馨儀局中ノ者エ申付ルヲ事務多端ノ折柄トハ申ナカラ掲載致シ差支ヘサル分ト見做シ各新聞紙ヘ附与致ス段右科雑犯違令ノ重ニ擬シ懲役四十日官吏犯公罪例ニ依リ贖罪金六円申付


世外井上公伝 第一巻・第五四九―五六九頁 〔昭和八年一一月〕(DK030154k-0011)
第3巻 p.757-759 ページ画像PDM 1.0 DEED

世外井上公伝 第一巻・第五四九―五六九頁〔昭和八年一一月〕
○上略
 初め渋沢は時局の容易ならぬのを見て、予め那珂通高 旧盛岡藩儒江幡梧楼 に嘱して、財政意見書を作らしめてゐた。然るに今や時機が到来したので、五日に渋沢は之を公に示したところ、公は之を翻読して、「これはよく出来た。併しも少し数字を入れて確なことを書足さねばならぬ。吾輩が手を入れるから、一つ連名で政府へ出さう。」とて筆を執つて所々を増補した。それを渋沢が持帰り、また那珂と共に修正して、六日に出来上り、七日を以て之を正院に提出した。その消息は渋沢から公に宛てた書中に、「昨夜呈御覧候奏議、今朝より那珂と共ニ頻ニ推敲いたし漸浄書仕候間、乃チ調印之上差上申候、明日(七日)正院へ奉呈候義ハ、宜御取計被下度候、尤も生ハ一紙之置手紙を添て、今夕之を大隈へも相廻し置候、」 井上侯爵家文書 とあるので判然する。○建議書略ス第七四三頁参照
○中略
 さて公及び渋沢は右の如き連名の建議を出したので、政府は最早二人の意志を翻さすことの難いのを知つて、これが辞表を聴届けることに為つた。乃ち先づ九日を以て、参議大隈重信をして大蔵省事務を兼
 - 第3巻 p.758 -ページ画像 
ねしめ、十四日に公及び渋沢の職を罷めた。而して十八日に朝廷ではかの上表を批覆して、その政理と民力と相背馳す可からざる議は頗る適切であるが、我が国債を一億四千万円として歳計に一千万円の不足を生ずるといふ点は、全く一石の米価を弐円七十五銭と仮定し、また廃藩置県の如き臨時巨額を要するものを算入したに因るのであるから、全く奏議者の臆測に過ぎない概算であるとして、政府は終に之を却けた。その指令は左の如くである。
   建言ノ主意、其立論適当ノコトニ候ヘドモ、事ヲ挙ゲ実ヲ指シ候処ハ、現実ト相違候儀不少、尤政理・民力相背カザルヲ以テ、後来ノ標準ト為スベキ等云々ハ適切ノ筋ニテ、既ニ今般太政官事務章程改正被仰出候御主意ニ候ヘバ、右等ノ儀ニ付テハ安心可有之候、然ル処歳出入ヲ概算シ、一千万円余ノ不足ヲ生ジ候等ノ儀書載候ヘドモ、右ハ米価一石二円七十五銭ヲ以テ算当候積ニテ、且此内ニハ逐年繰戻ニ相成候分、又ハ廃藩置県ノ如キ非常ノ入費或ハ一時ノ費ノミニテ年々例算スベカラザル者モ有之、其上政府現今ノ負債ヲ論ジ、実ニ一億四千万円ニ下ラズト有之、是亦計算上大ニ相違ノ廉不少、彼是実事ニ徴シ勘合候ヘバ、必シモ毎年一千万円ノ不足ヲ生ジ、又一億四千万円ノ巨債ヲ負ヒ候訳ニ無之、旁右等申出ノ儀不都合ノ次第ニ付、書面其儘差戻候事
政府の弁解はとにかくも、元来が主管者の上書であつたからして、中外は政府の弁明を信ぜず、頗る物議に渉つたので、政府は大隈をしてその省に就き、再び簿記を査覈して実額を計算せしめた。
 嚮に公はかの建議書を政府に提出した後、渋沢の意見に従ひ之を新聞に投書する考であつた。五月六日附、渋沢から公に送つた書翰の追書に、「何卒新聞紙にも出し申度、其辺よろしく御取計被下度候、」 井上公爵家文書 とあるのを見れば、上表すると同時に原稿を新聞社へ送つたものらしい。その掲載された新聞紙は、新聞雑誌 附録第九十八号 ・日要新聞 第七十五号 ・日新真事誌 五月九日 及び外字新聞である。かくて政府の秘密を暴露して人民に不安を与へたといふ論が起つた。而も之を横浜の外字新聞にまでも掲載されたとなつては、猶更棄置きがたい問題となつた訳である。公と永炭相容れなかつた江藤参議の如きは、之を黙過すべきで無い。彼は先頭に立つて公並びに渋沢を弾劾し、政府の秘事を故らに世に泄したのであるから、彼等を捕縛すべしなどと壮語した。かくて司法当局者の活動となり、大蔵省員の兼子謙・佐伯惟馨・稲垣某等が司法省に拘留せられるに至つた。 ○中略
さて司法省に於ては公等に対する擬律の方法が手間取り、漸く七月二十日に至り、司法省臨時裁判所から左の申渡 井上侯爵家文書 があつた。
                     従四位 井上馨
   其方儀大蔵大輔在職中、兼テ御布告ノ旨ニ悖リ、渋沢栄一両名ノ奏議書各種新聞紙ヱ掲載致ス段、右科雑犯律違令ノ重キニ擬シ、懲役四十日ノ閏刑禁錮四十日ノ処、
  特命ヲ以テ贖罪金三円申付ル。
     明治六年七月廿日         司法省臨時裁判所
渋沢子爵の談話にも、「明治六年五月、侯と予は当時名高かりし建白書
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を提出して、施政方針の大に誤まれることを論ずると同時に退職したるなり。共時頗る失笑に堪へざりしは、侯と予が其建白書を新聞紙上に発表したる廉を以て、侯は二十幾円 ○三円ノ誤 予は四円幾銭の罰金に処せられたことあり。予が建白書を草して侯に示すや、侯は喜んで之れを容れ、直ちに太政官に提出すると同時に、世に公にすべしと云はれたり。予は其時其筋に建白するは兎も角、世に公にするは如何あるべきかと諫めしかど、侯は例の気性で、何に構ふものか、斯る誤れる政府の方針は広く知らしめざるべからずとて、遂に之を当時の新聞紙に掲載せしめたる次第なり。時の司法大輔たりし故江藤新平氏と侯とは、平素より非常に仲悪く、一時一物皆衝突の種となり、侯が建白書を出して職を退くと共に、江藤は高等探偵二三人を侯と予の身辺に附き纏はしめ、新橋方面に於て豪遊を試みし際の如き、随分珍談もありき。斯くて右建白書の新聞紙上に出でて政府の失政暴露するや、世論喧囂を極めたるは勿論、江藤は得たり賢しとなし、井上と渋沢は太い奴なり、職を奉じながら身退くや忽ち政府の失敗を発くとは捨置き難し。重刑に問はざるべからずと主唱し、其結果遂に前記の滑稽なる罰金となれる次第なり。」 竜門雑誌 と。この談話によれば新聞掲載の首唱は公になつてゐるが、前述の如く渋沢の手紙に端を発したものとも考へられぬこともない。公と渋沢とは意気相投じ進止共に行動を一にし、声の響に於けるが如き間柄であつたから、敢へて発議の孰にあるかを問ふ必要はなからう。
○下略



〔参考〕竜門雑誌 第七二号・第二―七頁〔明治二七年五月〕 予算論(文学士阪谷芳郎君演説)(DK030154k-0012)
第3巻 p.759-761 ページ画像PDM 1.0 DEED

竜門雑誌  第七二号・第二―七頁〔明治二七年五月〕
  予算論 (文学士 阪谷芳郎君演説)
○上略 日本に於て予算のことが、始めて政治家の問題に上りましたのは明治六年からのことでござります、其以前に於きまして、予算のことはどうであつたかと云ふと、先づ予算と云ふものは無かつたと云つて宜しい、即ち明治元年御一新以来、明治六年迄の間と申すものは、先づ未だ世の中が太平と申す訳に往かない、御一新の戦争が済みましても、まだ藩と云ふものが成立つて居つた、其藩の廃せられたのは明治四年の七月でござりますが、それ迄は政府の財政はどう云ふことに落付くか、さつぱり目当が立たぬ、当時の政治家も、財政のことに就いて、大に心配したことでござりまして、到底財政の基礎と云ふものが立たぬ以上は、明治政府の運命も覚束ないものであると云ふことを、苛く憂へた、夫故に大蔵省に於きましては、頻りに予算を立てると云ふことを主張しました、即ち今の大隈伯、井上伯、それから第一銀行頭取渋沢栄一氏、是等の人々が予算を立てなければ、将来政府の運命はどう落付くか分らぬと云ふことに就いて、大に苦心をしたのでござります、其予算の始めて稍々出来ましたのは、明治六年でござりまして、其時に大蔵省に職を執つて居つたのが今の内務大臣井上伯、第一銀行頭取渋沢栄一氏で、此二氏が政府の歳入が幾らと云ふ計算を立てゝ、其中から政府の歳費を定めて往くと云ふ計画を立てた、然る
 - 第3巻 p.760 -ページ画像 
所当時に於きましては、御一新創草の際で、中々予算で各省の事務を制限すると云ふ思想が発達しない時でありますから、それは大蔵省が途方もない窮屈なことを云ふ、さう云ふ歳出を制限するのは明治政府の発達を止むるものであるから、さう云ふことをして貰つては困ると云ふのが、他の各省の苦情であつた処が、井上伯は例の果断家でありますから、歳入を量らずして歳出をすると云ふことは出来ぬと云ふことを主張せられた、終に非常な議論の末、故の参議大久保利通君が其事を太政官にあつて仲裁をせられて、まあまあさうどうも、歳出を限ると云ふことは宜しくあるまい、先づ此処は事務を拡張した方が宜からうと云ふことで、井上渋沢二氏の計画が破れた、そこで井上渋沢二氏は大に憤激して、彼の有名な建白書を作つて、それを太政大臣三条実美公に呈して、即日辞表を出して立去つた、其建白書は日新真事誌と云ふものに井上氏が投書し、日新真事誌に掲載になりました、其中にどう云ふことが言つてあつたかと云ふと、どうも明治政府の財政の立て方が甚だ宜しくない、入ることを量らずして出ることを為すから、到底歳入を以て歳出を維持することが出来ぬ、段々と頭が膨れて尾つぽの方がつぼむと云ふことで、事務は大変に拡がるけれども、財力が続かぬから、仕舞には倒れて仕舞はなければならぬ、即ち明治六年の一年の歳入に於ても、巨万の歳入不足を生ずると云ふことがあつた、そこで世論が八釜敷なつて、まだ明治六年のことで王政維新後、政府の信用が薄いのに、大蔵省の当局者からさう云ふ建言が出たから、政府の運命が覚束ないと云ふので、大変議論が沸騰したことである、そこで政府に於きまして、是は捨置き離いことである、何でも此建言書の事実を打消さなければならぬと云ふことから、遂に今の大隈伯が財政の調べを命ぜられて、それから二三週間の中に再び財政の調べが着きまして、歳入と歳出とを対照して、明治六年歳入歳出見込会計表と云ふものを作つて政府に提出せられた、其見込会計表に依ると、前の井上渋沢二氏の建白は、事実を失つたものである、政府の歳入歳出ハ、決して危険なものでない、却て巨万の剰余を生ずると云ふ弁駁であつた、そこで政府は前の井上渋沢二氏の建言を打消すが為に、見込会計表と云ふものを新聞に掲載致しまして之を世間に示した、是が我国の予算と云ふものゝ起りました始めでそれより後は毎年見込会計表を政府が作つて新聞に出すと云ふことになつたのでございます、そこで――乍併此見込会計表と云ふものは不完全なもので、唯歳入が幾らに、歳出が幾らと云ふ大ザツパの計算を示す為に出来上つたのでござります、乍併予算と云ふものを人民に示すと云ふことの考と云ふものは、是から段々と発達して来る様になつたので、之を他の各国の例に照して考へますると、中々政府が会計を公けにすることは他の国ではやつて居らぬ、詰り血を流し屍を原野に曝して、非常な騒動があつて、憲法が出来て、それから政府の歳計を示すと云ふことがあつた、我国の如く奇妙な、一二の政治家の争から発達して来たのは、珍しい事実であります、乍併其事実と云ふものは、甚だ日本の為めに幸福なことになつて、其以来必ず予算と云ふものは人民に示さなければならぬと云ふことになつて来た所が、其始めに於きまして、単に予算と云ふものを作
 - 第3巻 p.761 -ページ画像 
つたに止りましたが、未だ決算を示すと云ふことの考はなかつた、然る処予算を作つて見ると、其結果がどうなつたかと云ふことは、必ず人民が知りたい、又政府の当局者に於ても、唯予算はこうであつたと云ふことを広告して、其後とは知らぬとはいかぬ、そこで決算と云ふものを序でに示すと云ふことになりました、即ち明治十一年に決算規則と云ふものが出来まして、決算と云ふものを世の中に示すと云ふことになつて来た、そこで予算決算と云ふものが出来て来たに就きまして、段々とそれに附属した会計規則と云ふものが自然と必要になつて来まして、遂に明治十四年に至つて会計法が出来た、其会計法が出来たに就いて、会計検査院と云ふものを置かれて、会計検査院規則と云ふものが出来て来ると云ふと、それから段々会計の監督方法が発達して来た、其後明治十八年に至つて、予算条規と云ふものが出来、続いて歳入歳出の出納規則が出来、ずつと進んで明治二十二年に今日の会計法が出来て、遂に憲法と共に明治二十二年二月十一日に発せられたのであります。 ○下略


〔参考〕明治政史 第六編(明治文化全集第二巻・第一八四―一八五頁)(DK030154k-0013)
第3巻 p.761 ページ画像PDM 1.0 DEED

明治政史 第六編(明治文化全集第二巻・第一八四―一八五頁)
○上略
 之を聞く井上渋沢二氏の建白書新聞紙に登載せらるゝや、政府二氏を譴責するに濫に政府の秘事を世に公にするを以てす。井上抗論して曰く、政府の会計を世に公示するは欧米各国皆然らざるはなし。何の不可か之あらんと。依て政府も亦大に悟る所あり、会計表を公にするに至れりと。当時二氏の建白書は直に政府の却下する所となりしと雖も、此建白は実に意外の良結果を我会計整理上に生じたるものと云ふべし。之を欧米諸国に就きて考ふるに、立憲政体の国にあらずして会計を公示するもの未だ之あらざるなり。然は則我国に於て会計を公示したるは特別の美政と云はざるを得ず。 ○下略


〔参考〕官許 日新真事誌 第二周年・第四一号〔明治六年六月二〇日〕 論説(DK030154k-0014)
第3巻 p.761-762 ページ画像PDM 1.0 DEED

官許 日新真事誌 第二周年・第四一号〔明治六年六月二〇日〕
    論説
大蔵省事務惣裁大隈君カ政府ニ上書セシ輸出入ノ一書ヲ当新聞ニ掲載シテヨリ余等之ニ因テ貴官ノ投ズル正説ヲ見ント希望スル已ニ三四日に至ル、而テ未タ曾テ其説ヲ得ザルヲ以テ敢テ自己ノ愚考ヲ述ベン、彼書タル全件皆肝要ニシテ従来日本新聞紙ニ記載セル事件中ニ就テ最大切ノ者ト云フ可シ、故ニ彼書ヲ読ム中外人民ハ大ニ井上渋沢両氏ヲ擯斥ス、而テ余等亦両氏ヲ閣テ論議セザル能ハス、如何トナレバ彼等ガ建白ニ因テ醸生スル国辱一日ニシテ之ヲ洗滌シガタケレバナリ、井上ノ献白及《(マヽ)》ヒ大隈ノ上書ニ付テ関係スル事件ハ実ニ広大ニテ諸看官モ忽チ之ヲ理解スルニ至ラン、井上等政府ニ書ヲ献セシ所以ノ本意ハ余等今玆ニ贅セズト雖モ、彼等ノ罪ハ必ラズ司法省ニ於テ裁断アル可キナリ、且其裁決律例ヲ論スルハ新聞家ノ職務ニアラザレハ暫ラク裁断アルヲ待テ後其可否ヲ弁駁スベシ、余等今只管大隈君ノ上書ヲ信ス而テ之ヲ信用ス可キ所以アリ第一ニ彼書大隈君ノ名ヲ保ツ此大蔵事務惣裁ノ名誉ハ今玆ニ贅スルヲ俟タズシテ其徳既ニ昭ニ人敢テ之ヲ疑議ス
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ルナシ、外国人モ亦常ニ大隈君ヲ称シテ正直其任ニ堪ユル人物ト為ス、彼ノ上書中ニモ既ニ其名ヲ手記スルニ依リ之ヲ看読スル人々ハ深ク其説ヲ信用ス是等ヲ以テ已ニ紛々タル世議モ漸クニシテ和解スルニ至ル
井上氏大蔵省ニ於テ奉職セシヤ已ニ久シク、其職ヲ辞スルノ際建白書ヲ政府ニ呈進ス、其心ヤ誠忠ヨリ出ルニアラスシテ忿怒ヨリ出ルモノナラントス而シテ大隈君モ亦タ其事務ニ於テ意衷ノ潔白《(マヽ)》ナラザルモノアルカ若シ、果シテ然ラバ日本国ノ大事ニ至レルヤ必セリ、然レドモ大隈君ハ固ヨリ良臣ニシテ其品行ニ於ルモ亦実ニ信ス可キナリ、而シテ如シ同氏ノ政府ニ上ル歳出入ノ高不正アルトキハ綿密ナル計算ヲ得サル者ニテ中外人民ノ信用ヲ失ヒ且ツ其耻辱少シトセザルベシ、吾ガ輩ハ彼書面ノ趣ヲ以テ信用シ且ツ宿疑ヲ解ケリ、既ニ横浜ニ於テ外国人皆此書ヲ以テ確証トナスベシ、今若シ英亜各国ニ於テ斯ノ如キ事件アルトキハ其人民必ス井上氏ヲ以テ大隈君ニ答応ヲ為サシム可シ、且如何ナル道理ニヨリテ両氏其献白ヲ為セシ乎判然此儀ヲ示サン事ヲ乞ハン、大隈井上両氏ヲシテ詳ニ各上書ノ意ヲ弁明スルニアラサル迄ハ其可否ヲ決スルコトヲ得ス、且両氏共永ク其任ニアリテ力ヲ国家ニ致シ、共ニ罪科アルニアラサレハ両氏互ニ其算計表ノ原拠ヲ示シ以テ大隈氏上表ノ可否モ亦弁論スヘキナリ、三氏ノ上表ニ依テ新ニ歳出入及ヒ収税国債ノ正算ヲ宇内ニ公告シ其事実ヲ明論セシヲ以テ余等ノ宿念漸クニシ其一ヲ得喜躍自ラ止マザル処ナリ、因テ斯ノ如キ事件ニ処スル方法ヲ以テ日本国民ニ告ク


〔参考〕郵便 報知新聞 第五四号附録・第五―七丁 〔明治六年五月〕 【近頃新聞ヲ閲スルニ井上渋沢二氏ノ奏議アリ】(DK030154k-0015)
第3巻 p.762-763 ページ画像PDM 1.0 DEED

郵便 報知新聞  第五四号附録・第五―七丁〔明治六年五月〕
○近頃新聞ヲ閲スルニ井上渋沢二氏ノ奏議アリ、書中廟堂行政ノ跡ヲ論ジテ軽進序ヲ失シ、政理貌ヲ務メ民力内ニ衰凋スルノ憂ヲ述ベ、審切懇悃至ラサル所ナシ、予以為ク、憂国愛民斯ノ如キ者復得ベカラズト、而シテ今二氏共ニ辞職退身ス、予深ク惑ヘリ、夫レ政理民力相適セサル可カラサル固ニ然リ二氏ノ之ヲ論ズル実ニ其分ナリ、然レトモ其文ニ曰古ハ民ヲ視ル傷カ如シト今啻傷ムガ如クスル能ハサルノミナラス却テ之ヲ法制ニ束縛シ之ヲ賦税ニ督呵スル昔日ニ加フ、編戸籍無キヲ得ス氏社証無キヲ得ス宅ニ地券無ク人ニ血税ナキヲ得ス而シテ訴訟ノ費違註ノ罰アリ、物価販品牛馬婢僕ニ至マテ皆其律ナキ非ス、一令下ル毎ニ輒斯民惘然措ヲ失シ云々ト、夫賦税ノ則ヲ定ムル固ニ難シ一朝ノ業ニ非ス、今其変革ノ際或当否ノ差ナキ能ハザルナリ、社証戸籍地券等ニ至ツテハ税ヲ収ムル必然ノ理ナリ、其始メテ之ヲ施ス悉ク寛急ノ序ヲ得ル能ハザルナリ、之ヲ法制ニ束縛シ賦税ニ督呵スル昔日ニ加フト云フトキハ則チ徒ニ政事ノ謗ヲ開ク亦既ニ甚シ、戸籍地券国債其他論スル所ノ如キハ専ラ大蔵省ノ職務ニシテ突然今日出ルモノニ非ス、而シテ井上氏ノ如キハ目今大蔵卿ノ代理ナレハ宜ク黽勉担当スベシ、然ルニ之ヲ前日ニ黙シテ今日ニ論スルハ何ゾヤ、予惑ヘルノ甚シキナリ、将タ前日ハ以テ之ヲ是トシテ今日ハ其非ヲ悟ルカ、然ルトキハ則チ自ラ其過ヲ挙テ上下ニ謝スベシ、何独政府ヲシテ其罪ヲ受ケシム可ンヤ、又其文ニ曰、何ヲ以テ国タルヲ得ンヤ、又曰内外ノ変不
 - 第3巻 p.763 -ページ画像 
測ニ生シテ土崩瓦解撿束スベカラサルニ至ル、其他危殆患難ノ端歴々詳言セリ、苟モ此ノ如キヲ知ラバ凡ソ国民タル者ハ悲憂憤慨身ヲ致スベキナリ、況ンヤ彼ノ二氏ノ如キハ其位尊ク其職重ク又其地ニ居テ其施政ノ得失ヲ知ルコト審旦精当サニ粗骨砕身斃《(マヽ)》テ而シテ已ムハ固トニ其責任ナリ、然ルヲ今回辞退身シテ之ヲ他人ニ委セントスルハ豈大臣憂国愛民ノ情ナランヤ、予ノ疑惑喋々已マザル所以ナリ、因テ論弁スルコト此ノ如シ、若明解アラハ乞フ一筆ヲ惜マザレ、斯ク云フ者ハ東京第五大区小二区ニ寄セル入間県ニ独立自主ノ農民某ナリ ○右投書


〔参考〕世外侯事歴 維新財政談 上・第六九―七〇頁 〔大正一〇年九月〕(DK030154k-0016)
第3巻 p.763 ページ画像PDM 1.0 DEED

世外侯事歴 維新財政談  上・第六九―七〇頁〔大正一〇年九月〕
○上略
渋沢男 何でも私は確にあなた ○井上侯 にお目に懸つたのは、伊藤さんの築地の家ぢやなかつたかと思ふ。大隈さんの隣に居つた、彼処から立たれたでせう、何でも玄関の処で、オヽ貴様渋沢かと云つて、私はお目に懸つたのを覚えて居ります。閣下が洋服を着ておいでになつた、お帰りがけ、私が行つた。所で、アヽそれなら、是から懇意にしなくちやならぬと云つて、立談したのを覚えて居ります。私は恭しく礼をしたのに、一向頓著なしに、オヽ貴様渋沢かと云ふやうな調子で、アヽおれは井上だ、どうか宜しくお頼み申すと云つたやうな風で、あまりひどい人だと思つて、それで私はお目に懸つたのを覚えて居る。多分伊藤さんの玄関だつたと思ふ。それが三年十一月か、四年春か、時日は判然覚えませぬが、其時です。それから此方へお留りになつて、彼方の方は其関係から馬渡がやつて居る時分には、始終此方から閣下が指図しておいでゞした。
                (明治四十五年三月二十日)


〔参考〕竜門雑誌 第三二九号・第三八―四一頁〔大正四年一〇月〕 ○故井上侯を憶ふ(青淵先生)(DK030154k-0017)
第3巻 p.763-765 ページ画像PDM 1.0 DEED

竜門雑誌  第三二九号・第三八―四一頁〔大正四年一〇月〕
  ○故井上侯を憶ふ (青淵先生)
  本編は雑誌「向上」十月一日発行の紙上に掲載せる青淵先生の談話の要領なり
                          (編者識)
▲始めて侯を知る 井上侯の薨去は洵に痛嘆の至りである。侯は政事の表面に立つて、華々しい活動をされた方では無いが、維新以来、国家に貢献された事は、私が事新しく申すまでもなく偉大なものである。畏れ多い事であるが御誄詞の中に、「勤王ノ大義ヲ唱ヘテ克ク回天ノ偉業ヲ翊ケ、海外ノ状勢ヲ察シテ終ニ開国ノ宏猷ヲ賛シ、力ヲ廃藩置県ノ際ニ竭シ、績ヲ財政経済ノ局ニ貽シ、忠忱節ヲ効シ、勇決難ニ膺リ齢八旬ヲ踰エテ望ミ一世に隆シ。」と仰せられたのは最も能く侯の経歴を表彰されたものと思ふて感佩に堪えぬのである。私が侯を知つたのは明治三年の冬であつて、当時侯は大蔵少輔の職に在り、私は大蔵少丞であつた所から、親しく侯の指揮を受けるやうになつたのである。元来、侯は官僚風の型へはまらぬ人で所謂豪傑とか、志士とかいふ風であつた。殊に其頃は年令も若く、英気勃々として、如何にも上杉謙信流で疾雷耳を掩ふに暇な程の性急なる御人で、而して辺幅を飾る事などは更に無かつた。
 - 第3巻 p.764 -ページ画像 
▲開国主義を唱ふ 侯も最初は熱心な攘夷論者で、御殿山の焼打に加つた時には、最終まで居残つて火を付けた程であつたが、其後説を一変して、開国主義を唱ふるに至つた。其れは文久元年に、横浜在留の英国商人の心配で、侯は六七人の同志と共に英船に便乗して、欧羅巴に抵り、英国滞留中、偶々英仏米蘭四ケ国の聯合艦隊が、馬関を砲撃するといふ事を聞いたので、伊藤公と共に、急遽帰朝し、攘夷の藩論を和げやうとして、日夜非常に奔走し、遂に開国説に一致せしむる迄、容易ならざる骨折をせられた。其結果として攘夷派の人より要撃されるやうな目に遇つたのである。私抔は其頃も、尚攘夷の可能を信じて居たのであつたが、侯は既に悟る処があられたから、此点は私の深く恥入る次第である。
▲直情径行雷と避雷針 侯は実に直情径行の人であつて、事物を判断するに毫も仮借することがなかつた。故に一面には敵も沢山もつて居られたやうに思ふが何事に就ても、其結果を透視する明識に富み論理を詳細に吟味する人では無かつた。又一度交りを結んだ者に対して飽く迄親切を尽された事は侯の生涯を一貫して特筆すべきである。然し切角の親切心から尽された世話で、時には干渉となり、大きな声で罵詈する事も多く、為めに雷だと人から言はるる位であつた。私は幸に格別叱らるゝ事も無かつたから他の人々も珍らしく思ふて、日露戦争後、東京の銀行家が三井集会所に集つた時、侯も出席されて公債発行の事に就て種々評議の際に、第百銀行の池田君が、「雷のある以上は、避雷針が無ければならぬ」といふて、私を顧みて一笑した事があつた。
▲余と侯との関係 侯と相識りしは明治三年であるが、四年の春頃から私は百事侯に尊属して大蔵省の事務を取扱ふたから、別して御懇親を厚ふし、爾来満二年、即六年五月までは、殆んど侯の女房役を勤めて居たので、始終色々な事に関与した、当時の大蔵省は、今日とは違つて内務・逓信・農商務及司法の一部に属すべき事務をも担当して居たのであるが、私は専ら財政経済の方で、銀行条例を設けるとか、貨幣制度を定めるとか、兌換券を発行するとか、会社法を立てるとかいふ事務に当つて侯の主張と私の愚見とは、概して一致した。民業を盛にしたいといふ事、政府の事業を減じ度いといふ事、官尊民卑の弊を去つて、飽迄官民間を連絡させたいといふ事等が其主なるものであつた。殊に聯絡といふ事には、終始格別に熱心であられたものか、聞く所によれば御臨終の囈語にまで「聯絡」「聯絡」と呼ばれたとの事である。侯は明治六年に政府と意見を異にし、遂に辞職するに至つた、故に私も其際、侯と共に退官することゝした。尤も私は其以前にも辞意を決したことがあつたが、侯の忠告によつて二年程延引した。当時私の意見としては、我国の経済界の将来を考察すると、政府に於て如何に心を砕き、力を尽して貨幣法を定め、租税法を改正し、会社法を設け、興業殖産の事を奨励したとて、今日の前垂商人では到底真成に商工業を改良進歩せしむる事は出来ぬ。就ては自分も官を退いて身を商業界に委ね、及ばずながらも率先して日本の商工業に寄与したいといふのであつて、是は侯も全然賛成されたのである、仍で私には出来
 - 第3巻 p.765 -ページ画像 
得るか知れぬが兼ての理想を試めして見たいと申した処が、侯も漸くの事で諾されて、共に辞職したのである、其後私は第一国立銀行に入る事になりて爾来侯の御助力を受けた場合も少くなかつた。
▲侯爵の親切心 明治六年の退官後は侯も民間の事業に着手せられ一時先収会社を設立されたが、再び官途に就かれ、種々なる官職に歴任されて、終に元老の地位に列せられて、功名共に一世に隆くなられた。私の特に忘れられぬのは侯の親切心の深かつた事である。夫れは明治七年の冬に第一国立銀行と最も深い関係のあつた小野組が破産すべき悲境に陥つた時、一日侯は突然私の宅に訪ねて来られ、共に飯を喰ひに行かぬかと誘はれた。其頃侯とは毎々料理屋などに出入りして重要の案件をも協議したことがあつたから、其日も誘はるゝ儘、何気なしに山谷の八百善へ行つた。四方山の話をしながら夕飯を仕舞つた。侯は膝を進めて、「時に小野組が大分危い様子だが、一体銀行から貸出してある金に対しては如何いふ処置を取る了簡か、独り君の前途に関係するばかりでなく、財界の為に心配の次第である。創立したばかりの第一国立銀行が若しも蹉跌する様なことになると、将来の起業に非常なる影響を来す訳である。実に此件に就て君の所存を聞度い為めに、態と此処まで来て貰つたのである」。と言はれた。余は真に其厚意に感激した。勿論其前にも小野組の事に就ては、多少の談話はないでもなかつたが、これ程までに侯が心配して下さらうとは思はなかつた。仍て其親切心に対して、余もまた事情を逐一吐露して、玆に始めて堅く決心することが出来た。それで私は侯に対し、「実は斯々に処分しやうと計画を立てて居たのである。」と精細に前後の顛末を物語つて、後要するに小野組との示談は整つて居るが未だ三井組との交渉が出来て居らぬ。」といふと、侯は「宜しい。三井組の方は僕から話してやらう。」と曰はれて、其難関も予定通りに決了して、案外小事件として切り抜けることが出来た。若し此時に侯の親切な言葉が無かつたならば、当時の第一国立銀行はどうなつたか判らない程である。此一例でも侯の親切心の深かつたことは充分に解るのである。而して侯は其れを自分から恩恵らしくするやうなことは少しも無かつた。
之を要するに、侯は靄然たる君子人では無かつたが、事に当りて、極めて質実であつて、能く結果を見るの明識に富み人に対して飽く迄親切であつたのは実に敬服推称すべきものであつた。殊に侯の如く国家の大事に任ずる人は、兎角細事に疎なるのが普通であるが、侯は決して夫れで無く、細大共に細密に行届いて、一度び其事に任ずれば徹底せねば止まぬのは、実に天稟といふべくして、終に今日の偉名を博せられた所以であらうと思ふ、国家益々多事なるに際して、侯の薨去せられたのは、返へす返へすも痛惜に堪えぬ次第である。 (完)


〔参考〕竜門雑誌 第六一七号・第一―一八頁〔昭和一五年二月〕 大蔵省在官時代における井上馨及青淵先生の健全財政・健全通貨主義(土屋喬雄)(DK030154k-0018)
第3巻 p.765-779 ページ画像CC BY 4.0

竜門雑誌  第六一七号・第一―一八頁〔昭和一五年二月〕
  大蔵省在官時代における 井上馨及青淵先生の健全財政・健全通貨主義
                       (土屋喬雄)
    一
 健全財政なる言葉は、近年の用語であらうと思ふ。この言葉が何時
 - 第3巻 p.766 -ページ画像 
頃から用ゐられ始めたかについて、今私は明確にすることはできないが、少くともその普及し始めたのは、岡田内閣の藤井蔵相の時からであると思はれる。また健全通貨なる言葉はSound moneyの訳語であらうが、その用ゐられた初めについても今私は明かにすることはできない。それらの言葉そのものゝ初見に関する考証はともかくとして、かゝる財政方針及び通貨方針は大体において明治十四年以後松方大蔵卿の下における紙幣整理・財政整理の時代から昭和の初めまでは継承されて来たといふことができる、そして明治維新以後明治十三年末までは、かゝる財政方針及び通貨方針は決定的には実現することができなかつたし、近年我国が非常事態に当面するに至つて、かゝる財政及び通貨方針から脱却するの余儀なきに至つた、と言つてよいであらう。
 さていま最近における財政々策及び通貨政策はしばらくおき、明治維新より明治十三年までのそれを見るに、健全財政及び健全通貨といふべき方針は、その必要を認識した指導者はあつたにしても、到底実現しがたき情勢にあつたと思はれるのである。その情勢とは何かといへば、まづ維新の当初における新政府の財政状態が極めて窮乏したものであつて、その窮乏は若干の赤字があつて、それを補塡するのが困難であつたといふがごときものではなかつたのである。慶応四年正月初の鳥羽・伏見の戦、それにつゞく東征の費用のごとき、ほとんど準備がなかつた有様であつた。その後明治二年の版籍奉還や四年の廃藩置県をへて、全国が朝廷の下に帰したが、その後も確固たる財政的基礎を欠いてをり、しかも当時の情勢は、その薄弱なる基礎をこえて、はるかに多くの出費を迫つたのである。それは当時においては実に已むを得ざるに出づるのであつて、維新草創の際百事多端、旧制度の廃除、新制度の創設、旧幕府及び諸藩の負債の整理、秩禄の処分、殖産興業、軍備の充実、諸処に起つた不平士族等の鎮定、台湾征伐、西南役等々の経費莫大であつて、到底租税等の経常歳入を以てこれを賄ふことはできなかつたのである。それ故に、公債、不換政府紙幣、不換銀行券を多額に発行することを余儀なくされたのである。こゝに西南役後悪性インフレーションを惹起すに至つた根因があつたのである。
 いまこゝには、明治初年の財政状態、公債、政府紙幣及び不換銀行券の発行及び流通の事情について立入つて詳述することはしないが、それは全く初年以来不健全財政、不健全通貨にほかならなかつた。その不健全性はたゞにインフレーシヨンが悪性化した西南役後のみではなかつたのである。
    二
 以上のごとく、明治初期十余年間における我国財政及び通貨はその体制において確実な基礎をもつてゐたといふことはできなかつた。いはゞ不健全体制とも見らるべきものであつた。尤も不健全といつても、健全から不健全に転移したといふのでなく、変革の時代としてその新たなる基礎を確立せんとする過程にあつたのである。しかし、体制それ自体としての特徴は不健全のものであつたといふことができるのである。それ故に、当時においても財政及び通貨の基礎を確立し、
 - 第3巻 p.767 -ページ画像 
健全性を保持せんとする要求はあつたのである。そしてその要求を最初に代表するものは、井上馨及び青淵先生であつたといふことができる。そして、その最初の現れは、準備金の制度に見られる。
 準備金の制度は、明治二年十月政府発行紙幣証券並に公債証書を回収する基本及び国庫の予備として、不用物品売払代其他正租雑税外の諸雑入を蓄積し、これを積立金と称したのに起り、大蔵省出納司之を管理して来た。その後明治五年六月該積立金の名称を改め、始めて準備金と称し、準備金規則十二箇条を設け、その管理の法を定めた。同規則においては当時金庫中に現在し、新旧各種の真貨に旧諸藩発行紙幣準備金を加算して之を準備金と名付け、時に臨んで、金銀地金旧貨幣等を購入して貯蔵し、或は之を新貨に鋳造し、又は常用部に売却し或は紙幣公債証書を購入して準備金の増殖を謀り、政府発行証券の償還に供するものとし、何等の事故あるも、常用に資用し、又は他に流用を許さないことゝしたのである。この規則は大蔵大輔井上馨や青淵先生等が中心となつて制定したものである。(「明治財政史」第九巻、「準備金始末」―明治前期財政経済史料集成第十一巻所収―参照)
 「世外井上公伝」第二巻には、『政府が準備金を作らねばならぬことを始めて唱へたのは実に公である、然るに公が之を建言した年月に二説あつて、一は二年十月といひ、一は四年中といふのであるが、二年説とすれば、民部大丞兼大蔵大丞を以て、大阪府大参事に就任した時であり、四年説とすれば、民部又は大蔵の少輔から大輔までの在任中であつた』と言つているが、二説中いづれが正しいかは、いま明かでないとしても、井上馨がその主唱者の一人であつたことは明かである。そして「世外侯事歴 維新財政談 下」には、当時の関係者達の談として左の如く述べられてゐる。それは当時の財政の裏面を知るべき興味ある談話である。
 松尾男(臣善)準備金といふものをお拵へになつたのは、斯う云ふ動機があります。一番初が明治二年十月、閣下(井上馨)がお申出しになつた。其準備金といふのは、そんなに大きな金が出来る見込みでは無かつた。何やら岩鉄か何か売払つた臨時の収入だから積んで置けと云ふ様な小さい金で出来。それから明治五年になつた時は、準備金が彼方からも此方からも引張られて、千二三百万の者が出来た。硬い金で……それを本として、尚ほ歳入中にあつた現金を合して千六百万円の金を元になされて、是は公債もあるし、紙幣もあるから、国家の準備金が無ければならぬから、置くのだと云ふ事の書付がある。それで此金の使ひ途は、今三井の六百八十万円、之を引換へる外には使ふんぢやない。一時の流用の為に使つても、之を消費するのぢやないと云ふ箇条が、ズツとあつて、閣下始め芳川さん、郷さん、渋沢さん、渡辺清といふやうな人がズツと連判したものです。…………
 井上侯 二分金もあれば、分析したのもある、是は兌換準備である太政官札と云つた所が、どうしても引換へる本が無ければならぬ、其為に是はどんな事をしても使はれぬ、各省の長官も皆承知して呉れにやならぬ、宜いかと云ふので、太政官会議をした。成
 - 第3巻 p.768 -ページ画像 
程それだけの物が出来たら大丈夫だらう、使はぬと云ふ事になつて、一同決議をして判を捺した。其後条約を改正すると云ふので使節が出る、江藤が司法卿になつた。是非裁判所構成法を作る……と云ふ。法律は民法も無ければ商法もない、何も無いぢやないか、それに裁判所と言つたつて何をするか、構成法が出来たつて何になるか。「そんな事を言つても組織だけは拵へて置かにや行くものではない」と云ふやうな論で、まだ何も有りはせぬ、司法省が有つて裁判所も有るけれども、民法も無く商法も無く、何も有りはしない。その何も無いのに形を先に拵へて行かうと云ふ、だから、私共とは、どうしても論が衝突せざるを得ぬ様な筋になつた。それでもまだ此太政官札といふものも、余程出来にやならぬと云ふ考もあり、紙幣を増発すればする程、玆に正金を積んで置かなければならぬ。
 渋沢男 あの会議の時には、板垣、大隈、それから西郷さんも居りました。
 井上侯 皆それは使はぬと云ふ事になつて、紅葉山の蔵へ持つて行つて、チヤンと封をして入れて仕舞ふた。所がこんな事をせにやならぬ、イヤ陸軍はどうせにやならぬ、何はどうせにやならぬと云ふので、日本も前には幕府の領地八百万石だが、今では日本全国皆歳入として取るから、何処迄でも金はあると云ふ論だらう。そこで金はいくらでも有る、使節は出る、裁判所も何も皆拡張せにやいかぬと云ふ論が出て、どうしても金が無いと云ふと、それなら紅葉山にあるから、已を得んければ国家の為にするんだから出せと云ふ話だ。何でも三十日経たか経たない処に、そんな事を言ひ出した。そこで激しい論をして、どうしても是は出せぬ、前の約束があるから出さぬ、「いや出せ」と云ひ、出さぬと云ふ。夫で、「そんなに出さぬと云ふならば司法省の人を以て、大蔵省に押寄せて行つて取る」と云ふから、「それも宜からう、汝が方から押寄せて来れば、闘ふて追払ふてしまふから」と云ふ様な、激しい喧嘩になつた。……是は迚も行けぬ、財政経済を了解する者は一人も居らぬ。資本を拵へて、札の引換なども丈夫に拵へ様と思へば、直きに之を取つて使ふ、こんな事で迚も国家の経済は出来ぬと云ふ考が、余程俺に付いて来たのだ。…………
 渋沢男 あれが丁度、侯爵が其大経済の考を持つて居らしつたのと、もう一つは太政官札が五千何百万、どうでも正貨で引換へなければならぬと云ふ事を、大蔵省の事務を執ると共に強く御覚悟なすつた。……どうしても正貨を造るほかないと云ふのでした。
 井上侯 三井札を出した所が下り居る、太政官札といふものは、是から先になれば無闇に造らなければならぬ、だから何か引換へる準備を作らなければならぬ…………
 渋沢男 それは学問もあり、ケリーだかペリーだかの経済学は御覧なすつたのだから、経済の原理、貨幣の原理といふものは、唯標準ばかりではいかぬ、実物が無ければいかぬ位の事は、勿論十分御承知であつた。三岡、あの人はまるで反対です。世の中は紙幣
 - 第3巻 p.769 -ページ画像 
で行けるといふ論、太政官札の主唱者だ。此人は西郷さんや、板垣さんには頻に用ひらるゝ、三条さん、岩倉さんなども、井上が経済家などゝ云ふけれども、三岡に敵ふものかと云ふ………
 井上侯 維新の際は三岡がやつた。
 渋沢男 正貨準備を置くと云ふのは、井上さんの政策だ。三岡の方では、何をあんな箆棒なと云ふ訳だ。大隈さんが所謂井上説であつた。それが少し変つて来た、或は多数に負けたのか、心が動いたのか、何方か分らぬけれども、そこで井上侯が、とても駄目だと思つて見限つてしまつた。今迄辛抱したが、大隈までが分からぬ、板垣、西郷が分らぬのは、元から期して居るけれども、大隈が政府に居る以上は、あんな馬鹿な事は為まいと思つたが、やはり駄目だつたといふ訳である。デ、私から言へば唯乱暴だ……
 右の談話によつて、当時井上馨及び青淵先生が不換紙幣を如何に考へてゐたか、正貨準備を如何に重視してゐたか、またかゝる見解が如何に三岡八郎の通貨説と対立したものであつたか、更に当時の政府の首脳部の見解が如何であつたか等が窺はれる。言はゞ、維新直後の財政における裏面の消息が知られるのである。ともかく、こゝに現はれた井上馨及び青淵先生の主義は、健全財政及び健全通貨主義であり、またその主張が極めて確乎たるものであつたことがわかるのである。
    三
 青淵先生の健全財政主義及び健全通貨主義の現はれとも見るべきものゝ二は、先生が中心となつて調査・立案した明治五年十一月公布に係る国立銀行条例である。素朴に考へれば、国立銀行条例と財政とどういふ関係があるかと、疑はれるかも知れない。一般に国立銀行条例は、国立銀行の準拠すべき条例と考へられて居り、それに違ひはないが、そのほかに紙幣整理従つて財政整理の目的をもつたものであつたことを注意しなければならぬ。
 国立銀行条例は、周知のごとく、滞米中の大蔵少輔伊藤博文から明治三年十二月二十九日附を以て、紙幣発行会社を設立すべきことを建白せるに端を発するとされてゐるが、それは米国のナシヨナル・バンクの制度に倣つて紙幣発行の特権をもつ銀行を我国に設立して、政府紙幣を銷却すると同時に、金融を疏通する機関となし、一石二鳥の策に出でんとする議にほかならなかつた。伊藤少輔はその意見書と共に米国紙幣条例なる一書を参考として送達したのである。四年六月伊藤博文帰朝の後、これを実現せんとする機運進み、政府内において盛んに討議を行つた後、明治四年の末に到り、政府の議やうやくナシヨナル・バンクの制度を採用することに決定し、大蔵省において特に銀行条例編纂係を設け、当時紙幣頭であつた青淵先生、同権頭芳川顕正等をして専らその事務を管掌せしめ、さきに伊藤少輔より送付した米国紙幣条例を基礎とし、これに欧米諸国の貨幣に関する法律規則を参酌し、かねて我国の実情に照して審議立案し、また別にその施行細則たる成規の編成に着手したのである。五年六月条例及び成規の草案成り、これを太政官に上呈し、八月その裁可を経、十一月十五日第三百四十九号を以て布告されたのである。この条例の主眼とするところは、銀行
 - 第3巻 p.770 -ページ画像 
をして資本金の六割に相当する紙幣を上納せしめ金札引換公債証書に換へ、更にその証書を抵当として同額の銀行紙幣を発行せしめ、その紙幣は正貨兌換となすに在つたのである。それ故に一挙にして不換紙幣銷却の方法を立て、併せて世上一般の金融を疏通せんとするものであつた。同条例第六条の第二節に『国立銀行ハ右元高ノ目的ニ従ヒ其創立ノ許可ヲ得開業免状ヲ受クル前ニ大蔵省出納寮へ政府ノ公債証書ヲ預ク可シ』と云ひ、第三節には『其ノ高ハ元金高十分ノ六ニシテ次条ニ掲載スル入金割合ニ従テ之ヲ上納スヘシ』とある。第五節には『銀行元金ノ十分ノ四ハ本位貨幣ニテ之ヲ社中ニ積立右公債証書ノ代リトシテ紙幣寮ヨリ受取ル通用紙幣ノ引換準備ニ充ツ可シ』と規定し、更に、第八節に於て例示し、『譬ハ元金高五拾万円ヲ以テ創立スル銀行ナレハ内参拾万円ハ太政官又ハ民部省ヨリ発行スル金札又ハ大蔵省ヨリ発行スル新紙幣ヲ以テ直ニ之ヲ大蔵省出納寮ニ納ム可シ弐拾万円ハ本位貨幣ヲ以テ銀行ニ積立紙幣引換ノ準備トス可シ』となつてゐる。本条例が兌換銀行券の発行したがつて政府不換紙幣の整理をも企図したものであつたことは、明かである。
 国立銀行条例布告に至る経緯を「明治財政史」等、正史と見らるゝものについて見れば右のごとくである。そして、それにおいては、青淵先生は国立銀行条例の調査、立案者の一人として現はれるに過ぎないけれども、事実上更に深い関係があつたことは、「雨夜譚」巻五の左の一節によつて明かである。
 『貨幣改鋳の事も、其前から一の要務問題となつて、既に大阪に造幣局を作り、又貨幣の本位を銀にて立てるといふ評議は定まつて居たが、此事は本省の事務中に於て、尤も重要な事だから、格別精密の研究をせねばならぬ、又公債といふものは、欧米各国では専ら行はれて居るが、我邦では如何あらうか、紙幣は既にこれを発行して流通はしてゐるが、其引換の方法は如何すればよいか、諸官省各寮司の配置、並に其事務取扱の順序は如何すれば便利であるか、などゝいふ事柄をば、米国に人を派して研究させるやうにせられたい、と伊藤少輔の考案が出て、それを改正掛で審議して文案を作り、それから政府へ建議になつた、処が明治三年十月其議が容れられて、伊藤が亜米利加に行かれることになり、芳川顕正と福地源一郎とが、其随行を命ぜられました。
  それから此一行が亜米利加へいつて、段々現行の法規条例等を調査して、公債の方法は斯々で、其理由は云々、又紙幣の引換は、全国の国立銀行を創立させて、これによつて、金融の便利をつけ併せて紙幣兌換の事を取扱はせ、其銀行の条例は斯様に制定せられたい、又貨幣問題に付ては、曾て横浜に支店のあつた東洋銀行の主任者、英人ロベルトソンの建白によつて、東洋は銀貨国だから、銀を貨幣の本位にするのが適当である、といふことに一定して居つたが、偖て亜米利加に来て見ると亜米利加も金が本位に立つてあり、欧羅巴の国々も多くは金貨を本位としてあるから本位貨幣は金に定めるのが、文明国の通例だによつて、日本も金に改定しられたい、又政府の紙幣引換の方法に付ては、米利堅で千八
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百六十年頃に、多く紙幣を増発した為めに、其価が下落して、大に国家の困難となつたが、終にナシヨナル・バンクを立てゝ、漸く交換法を附けた時の歴史と手続とを調査して、詳細の事を申越され、又諸官省の職制章程などが充分に整頓して居らぬから、職掌の界限も明了でない、随つて責任の帰着する所が定らぬに依て米利堅の職制章程を調査した所が、此の通りであるといふこと迄すべて大蔵省へ向けて具申になりました、其文書の往復は何れも改正掛で取扱かつたから、大隈へ書送つた事柄には、自分の連署したものが多くあつたやうに記憶して居ます、前にいふ各般の事務は、改正掛に於て調査するものであるが、都て重要な事柄だに依て、即時に実施の運びに至らずして、明治四年の春夏となつて、伊達正二位が大蔵卿を辞職せられて、大隈も参議に転任になり、大久保利通君が大蔵卿の後を承け、其頃まで大阪の造幣局に居た井上馨君が大蔵大輔に任ぜられて、東京へ来られたから、其前伊藤から来た書状は勿論、取調書類なども、井上の一覧に供して此まで調査した銀行の創立、諸官省の制度、公債証書の発行など、何れも相談に及んだが、先づ速に貨幣の制度を定めて、其条例を発布するが、尤も急務であるといふことで、其草案を改正掛で自分が担任して取調に従事して居ました、所が四年の五月頃になつて、伊藤が亜米利加から帰国せられて、銀行条例制定の事、公債証書発行の事、及び諸官省の官制々定の事は、切に其実施を急がれましたから、井上も時機を見てこれを行はねばならぬといふ考へで、尚又其順序方法等の調査を改正掛へ督促される様になつて来ました。 (中略)
  昨年伊藤が米国から調査して来た国立銀行条例を実施しやうといふ見込で、其歳の夏頃から自分に其取調を専任されたから、勉強して調査を畢つたが、それを政府へ上申して、広く天下に布告になつたのは、其歳の八月二十五日であつた。其より以前に三井組に於て私立銀行を立てたいといつて、三野村利左衛門から請願したことがあつたから、井上に相談してこれを許可しやうとしたけれども、其頃から此銀行条例の取調に掛つたから、暫く三野村に猶予を命じて置いたが、其内今の条例が出来たに依つて、愈々此条例に準拠して、私立の名義でなく、国立銀行として創立しやうといふことになつて、即ち現今の第一国立銀行は其歳の秋頃から計画をしたものでありますが、これを国立銀行とする以上は、独り三井組ばかりでなし、小野組、島田組などゝいつて、東京府下に於て豪家の名あるものとも協同し、其他一般の株主をも募集することになつて、夫々相談も行届き、創立の願ひを出して許可を受けたのは、其歳の冬でありました。』
 これによつて見れば、この国立銀行条例について先生が改正掛長としても深い関係があつたことを察することができる。但し、この談話には兌換制度といふ問題には触れてゐないが「世外侯事歴 維新財政談」下の談話においては兌換の問題に触れて左のごとく述べてゐる。
 渋沢男 そこで三井から願を出したけれども、制度の定まらぬ前に
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銀行を造られても困る。其制度は伊藤さんが亜米利加から調べて来たものに拠るといふ事で、ほゞ井上さんはそれを調べて見ろと仰しやつた。所が其時に異説が出た、其異説は吉田清成といふ人が主張者であつた。それは英吉利流儀でなければならぬ。亜米利加流儀は統一が無くていかぬから、銀行は英吉利流儀に造るが宜からうと云ふのが吉田の説。勿論それは尤もなんです、決して悪くはないけれども、其時の伊藤さんや、井上さんの説は、亜米利加式に依つて兌換引換をしやうと云ふ、不換紙幣を兌換しやうと云ふのが趣意だつた、そこで亜米利加制度に拠らうとした。それが種々論があつて、幾度も寄合ひました、それでとうとう結局井上さんが判断して、まづ後にはどうするとも、此場合は伊藤の調べて来た亜米利加のナシヨナル・バンク・アクトを採用してやるが宜からうと思ふ。あまり愚図々々言つて居ると、時を遅らして成立たなかつたら仕方がない、三井などは大に力を入れて、銀行を造りたいと言つて居るから、其時を失はずに掛るのが宜からう事業などゝ云ふものは、一時に完成する訳に行かぬから、或は吉田の説も宜いかも知れぬ、亜米利加よりも英吉利の制度が宜いと云ふことは、金融一体の方法としては、然りであらうけれども、今日本に於ては此法を採用するが適当と思ふといふことに論が帰した。私もそれに御同意申した方。それで愈々、明治五年の十一月でしたか、条例が発布になつたのは……。
 芳川伯 さうすると吉田は、兌換は正金を以て兌換と云ふのぢやなかつたか。
 渋沢男 兌換は正金を以て兌換だが、兌換制度を直ぐ立てる事は出来ないと云ふので、中央銀行を立てなくちやいかぬと云ふ論だつた。亜米利加のやうに唯バラ撒き銀行を立てゝは統一が出来ぬからいかぬ。然らば兌換法はどうするか、それは今の所では……ないでも宜い。到底せぬで宜いといふ論ぢやないが、全然出来ないから、それは遣らぬでも、銀行の金融機関を作るが宜いぢやないか、さうして斯様な世話をしてやるには、万国銀行のやうなものを造るが宜いと云ふ論だつた。
 井上侯 日本のは太政官札が出て居つて別物だから………
 芳川伯 亜米利加のグリーン・バツクを、即ち太政官札・民部省札といふことに見てしまつた。
 渋沢男 それを吉田の論は、さう云ふ事をして置くと、今でも亜米利加は融通に統一を欠いて居るのだから、其悪例に倣ふには及ばぬぢやないかと云ふのが反対論だつた。それから、バンク・オフ・イングランドを造る時代は来るだらうけれども、今不換紙幣を兌換紙幣にする制度は、之を用ひる外はないぢやないか、且銀行が出来ぬ前に、親父から拵へて行つて、子供を後に造るといふ訳に行かぬと云ふので、とうとう此方が宜からうといふ事に定つた。
  頻に吉田は其事を言つて居ました。殊に伊藤さんとは殆んど喧嘩をするばかりに論じたのです。
 この先生の談によつて、当時の論争の一中心点が、兌換制度を直ち
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に実行するか否かにあつたことが明かであつて、伊藤博文、井上馨及び先生は兌換制度即施論であつたのである。そしてこの意見は、前に見た準備金制度実施に現はれたる意見と相通ずるものであつて、すなはち健全財政及び健全通貨主義の一つの現はれであつたといふことができる。
 ところで、明治五年十一月公布の国立銀行条例における兌換の趣旨は、当時の実情に即しないものがあつて、そこを貫徹することを得ず明治九年の条例の改正において兌換制度は停止されたのであつたが、それは後松方大蔵卿の下に、吉田清成説に唱へられた中央銀行設立の趣旨と共に確立されたことは、周知のごとくである。
    四
 次に挙ぐべきは、大蔵省と他諸省との間に行はれた経費定額をめぐつての対立・抗争である。それにおいて井上大輔及び青淵先生の堅持された立場は、いふまでもなく、健全財政主義ともいふべき立場であつた。これについては、先生自ら「雨夜譚」において詳細に語つてをられるところであるから、一々詳細に引用せず、その大意を述べ、他の資料を以て補ふことゝする。
 「雨夜譚」によれば、その問題が急迫したのは、廃藩置県後であつた。先生は四年八月大蔵大丞に任ぜられたが、廃藩置県前後は、大久保利通が大蔵卿、井上馨が大蔵大輔、先生が井上大輔を補佐する地位にあつた。当時大蔵省の職制及び事務章程も制定され、各寮司の仕事も稍々其区分が立ち掛つたけれども、当時は国庫の度支に定限がない所から、必要があれば直に政府から支出を大蔵省へ命ずるといふ有様であつた。然るに政府の仕事は何事も進歩を図るといふので、陸海軍の費用は勿論、司法省では裁判所を拡張せんとし、文部省では教育令の普及を図るといふ具合で、需むる所は八方で、之に応ずるのは一箇所であつたから、井上大輔も大いにこれに苦慮したことであつたが、大久保大蔵卿はとかく各省の需に応ずるやうな風であつたから、先生はこの間にあつて、特に苦慮尽力したのである。其頃先生は切に財政の統理せぬことを憂へ、同僚と合議して歳出入の統計表を作り、専ら量入為出の方針によつて各省経費の定額を設け、その定額によつて支出の制限を定めようと企てたが、未だ歳入の総額も明瞭でなく、正確の統計もできないうちに、其歳の八月頃政府で陸軍省の歳費額を八百万円に、海軍省の歳費額を二百五十万円に定めるといふ議があつて、大久保大蔵卿は已むを得ずこれに同意せねばならぬといふことで、先生等にその下問があつたので、先生は歳入の統計が出来上つた後に定額を立てられんことを主張し、大蔵卿の怒に触れたのであつた。そこで先生は辞意を決し、井上大輔を訪うて辞意を洩らしたのであつたがその慰諭によつて一旦それを翻へした。
 然るに、その秋大久保大蔵卿は、岩倉特命全権大使の副使として米欧回覧の途に上り、其後は井上大輔が卿の代理となり、先生は井上を補佐する次官の地位に立ち、五年春三等出仕に任ぜられた。そこで先生は鋭意努力、国庫の歳入総額を調査し、四千余万円といふ統計もできたので、大輔と共に政府に上申した、彼の量入為出の原則によつて、各省
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の政費を節約し、一方においては剰余金を作り、紙幣兌換の制をも設けたいといふ精神を以て大いに努力したが、その間に各省から経費を請求することが益々劇しくなり、四年の冬などは司法省、文部省の要求は極めて激烈であつた。大蔵省は之を拒み、終に各省と大蔵省との間に、『一種の権限闘争のごとき紛議が生ずる』に至つた。その対立の激化には、次の如き事情もあつた。即ち、廃藩置県の当時から大蔵省の事務は、いよいよ繁多を極めて、其上政費要求のことも、常に大蔵省に向つてその支給を請求せねばならぬ処から、自然と命を大蔵省に仰ぐが如き感情が見へて、次第に大蔵省の権力が強大になつて来る姿であつたから、各省の主任者は多く不平を唱へたが、就中司法卿の江藤新平などは平生井上大輔と相好からぬ間柄であつたから、尤も甚しく攻撃の鋒先を向けて来るやうになつた。この時太政大臣は三条公、西郷、板垣、大隈などが参議に列してゐたが、三条公は縉紳であり、西郷、板垣は政事上には有力であつたが、経済のことには疎略であつた。そのうち大隈参議のみは、大蔵省の実況をも熟知し、殊に井上との友誼も深いし、その主義も似てゐるから、太政官にあつても大蔵省のために尽力して、財政改善のことには別して斡旋の労をとられるであらうと窃に望みをつないでゐた、かくて井上は益々努力して、出来るだけ各省の経費を節約させて、全体の会計上から歳入の幾分づゝを余して、それを正貨で蓄積する方針で、頻りに尽力された。
 明治五年の十一月頃であつたが、時の外務卿副島種臣から台湾征討のことについて政府に建議したことがあつた。陸海軍の軍人などは頻りにこれを希望してこの建議の行はれんことを促したから、終に政府の議となつて、各省の主任者を三条公の邸に招かれて、このことの利害を討論された。この時青淵先生は井上の代りに参列して大いにその不可説を唱へて副島外務卿と議論した。先生の論旨は次の如くであつた。即ち、『今日の日本は王政維新などゝいつて、其名は誠に美なるやうだが、実は廃藩置県の後、その政務を顧みれば、毫も整理の実が挙らぬから、国家は疲弊して、人民は窮乏に苦む最中である。然るに此際事を外国に起して、干戈を用ゐようとするのは、実に危険千万な事で、仮令外征に勝利を得るにもせよ、内地の商工業を此上衰頽させる時は、徒らに虚名を海外に売るに過ぎぬことである』、といふのである。幸ひに政府においても副島の建議を採用にならずに済んだのであつた。この点については、大津氏の「大日本憲政史」第一巻にも記され、且つ井上馨の建議も掲げられてあるが、その建議によつて先生の当時の意見が詳細に知られる。
 ところが、その年の冬、又もや司法、文部の定額論が起つて、大蔵省では何処までも其増額を不可として政府に上申したけれども、政府は言を左右にして、司法、文部の請求を擯斥しなかつたので、井上は断然辞職の意を決し、年末に際し出勤しなかつたので、大蔵省の諸職員は執務の張合が抜けて、其方向を失ふほどであつたから、政府においても大いにそれを憂慮し、三条太政大臣は再三先生の私宅に訪ねて井上の出勤の勧誘を依頼すると共に、先生にも辞職の考へなど起さぬやうにと懇諭されたのであつた。
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 かくて定額論は一時折合ひがついたが、翌年に引続いて各省と大蔵省との紛議は絶えなかつた。依然として江藤司法卿と井上大蔵大輔との間は別して不折合で、江藤の意中では、全体井上は怪しからぬ人物だ、唯々各省をつめるばかりで、大蔵省を専横するといふのは、実に不埒だ、もし此儘にして打捨て置く時には、何処まで跋扈するか知れぬなどといつてますます其軋轢が劇しくなつた。政府でも三条公は頻りに心配されたが、西郷、板垣は頓着せず、大隈も如何したのであるか、各省の政費増給を拒絶するといふ大蔵省の具申書面を政府から却下になつた。そこで井上は自身に政府へ出頭して委曲その理由を陳弁したけれども、各参議はそれに耳を貸さなかつたので、井上は嘆息の余り、先生に内話して、最早大蔵省の事務は断念した、畢竟此見易い正当の道理が行はれぬといふのは、政府において井上を信任せぬのであるから、今更ら是非もないことであるが、今一度政府に出て、精神を大隈に吐露して見て、それでも政府に採用せられぬときは潔く仕を辞するより外はないと、語つた。かくて井上は五月三日再び政府へ出頭して極力論弁したけれども、やはり其言が用ゐられず、同日大蔵省へ帰つて、先生を始め吏員を招き、辞職のことを談じた上、更に先生に向つて、辞職を決心した以上は、速に此処を退出するが、就いては足下を始め一同に跡の始末は宜しく頼むといつて、退席せんとしたから、先生は共に辞表を提出する旨を申出で、一昨年以来再三辞意を洩したに拘らず、自分が今日まで留任したのは、貴下の抱持さるる財政改良の主義に感じて一臂の力を尽さうと決意したからのことであるが、今に及んでその持論の行はれぬ以上は、何を目的に貴下の跡に留る必要がありませうぞと明言して、井上と袂を連ねて大蔵省を退出したのであつたが、やがて両人共辞表を呈出したのである。
 その頃青淵先生は深く時勢に感ずる所があり、政治上の意見を草してあつたが、その文章の潤飾を那珂通高に依頼しておいたのが脱稿したので、辞表を呈出した翌日にその稿本を携ヘて井上を訪問し、それを示したところ、井上は全く同意見である故、共にこれを建白しようといふことゝなり、それを呈出した。その後間もなく曙新聞がその全文を登載して世間に公けにしたところから、江藤新平などの悪しみを増して、政府の秘事を世間に漏らしたといふ廉を以て、井上は罰金を課せられ、五月廿三日《(マヽ)》に至つて依願免出仕といふ辞令が下つたのである。
 以上の「雨夜譚」の談話のほかに、他の機会に先生の語つた談話にも健全財政主義の立場を示すものがある。それは西郷隆盛が先生を自邸に訪問した際に先生の執られた態度である。「雨夜譚会談話筆記」其他に先生の語られたところによれば、時日は明確ではないが、五年の冬頃西郷が先生を小川町の先生邸に訪ねた。西郷の依頼は相馬藩の興国安民法を存置して貰ひ度いといふことであつた。先生はこれに対して、『相馬藩の興国安民法も必要であるが、現在は全日本の興国安民法の甚だ必要な時節である。予算の如きも歳入を計つて歳出を定めねばならぬ。然るに限度も定めず、たゞ出せ出せと云ふのでは、徒らに公債ばかり増加してよくない結果を生ずる。此事は太政官へ陳情したこ
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ともあるから御聞及びのことゝ思ふ。此日本の興国安民法は棄てゝ省みずに、相馬の方のみ残せとは余り判らぬお話である』といふ趣旨を述べてその依頼を拒絶したのである。
 以上は青淵先生の談話の概要であるが、かくのごとき、井上大輔及び青淵先生の諸省の定額要求に対する抗争、延いて辞職の経緯については、なほ他の資料を以て補足しなければならぬ点が多い。
 いま、これを中間的立場にあつた大隈重信の伝記について見るに(大隈侯八十五年史、第一巻、一六頁以下及び四二八頁以下)大体左のごとく記されてゐる。
 明治四年十月、岩倉全権大使、大久保、木戸両副使等出発の後、間もなく、大蔵省と各省との間に大衝突が起つた。留守時代の各省長官は、外務は副島種臣の下に寺島宗則を大輔とし、軍政は山県有朋の下に川村純義、西郷従道をおき、司法は江藤新平が長官となり、文部は大木喬任が卿であり、大蔵省は大久保の留守中大輔の地位にゐた井上馨が事務を統督し、渋沢栄一がそれを補佐した。当時の大蔵省は今の内務、司法、農林、商工等の省務過半を支配して、権威頗る大であつた。井上は渋沢と共に多くの難問題を処理したが、余りに直前、邁進して、やゝもすれば専断の傾きが見えたので、各省長官中、不平を抱くものが少くなかつた。当時司法省では裁判を地方行政より独立させるため、また文部省では新学制を作成して普通教育を一般に布くために要求した経費を井上は過大だと拒み、内閣と大蔵省との間に烈しい軋轢を生じた。この時大隈は従来井上と共に急進主義をとつて、ほゞその行く道を同じうして来た関係から、つとめて井上を擁護したけれども、井上排斥の声は容易にやまず、明治五年の末、内閣、諸省と大蔵省との争ひが殊に激烈を加ふるに及び、大隈は各省長官を内閣に入れる事に定め、談笑のうちに容易く要務を解決するやうに計つた。その結果大蔵省と各省とは暫く平和の状態を持続することができた。けれども、井上に対する非難攻撃は間もなく再発し、国務の進行上、不都合が多かつたので、大隈は情意を尽して井上に忠告したが、井上は頑とゝ《(マヽ)》して妥協を斥けた。そこで大隈は井上が余りに我を張りすぎる嫌ひある点に慊らず、井上の主張する歳入の見積額には猶ほ相当の余裕ある事実を明かにし、各省要求の予算額が、必ずしも井上のいふ通り容認し難いほど財政困難でない旨を闡明した。太政官では大隈の意見を適当と認め、各省の要求費額を支出させやうとしたので、井上、渋沢は不満に堪へず、遂に明治六年五月辞職した。しかるに、井上、渋沢の建白書が新聞に掲げられると、内外人のうちには、政府の信用に関し疑ひを挟むものが少なくなかつたので、大隈はそれを遺憾とし新たに大蔵省事務総裁としての立場から見込会計表を公表し、内外人の疑惑を一掃し去つた。
 右の「大隈侯八十五年史」の記事は、大隈侯を弁護する意図を以て書かれた嫌ひがある。尤も今日より当時の複雑なる事情を正確に判断するのは困難であるが、この記事における井上大輔及び青淵先生に関する非難的見解は、多かれ少かれ偏頗の嫌ひあるを免れないと思ふ。
 更に「江藤南白」における記述は、一層露骨なものであつて、痛烈に井上派を非難してゐる。その大意を左に抄録しよう。
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 明治五年四月、江藤南白司法卿に任ぜられてより鋭意司法制度の改革を行つたが、明治五年末を以て一ケ年に対する予算を計上して要求した。その経費額を掲ぐれば左の如くであつた。
  甲 三府十二県の各裁判所一ケ年の経費を明治五年十一年分《(マヽ)》の支出を基本として積算した額 五十二万六百二十両余
  乙 本省並に三府十二県の裁判所は係る一ケ年の費用を予定計算する額 九十六万五千七百四十四両余
 右の要求に対し大蔵省の削減した所は四十五万両であつて、莫大であつた。江藤は国政の法治的組織を理想とし、司法権の独立を主張して其職に就き、着々予定の施設を実行しつゝあつた際、かゝる大削減に会したので、死力を尽して力争せんとした。当時新政創業の際とて経費の増加を来するに至つたのは、独り司法省のみではなく、各省皆然らざるはなかつた。文部省のごときも、五年十月教部、文部二省合併により文部卿兼教部卿となつた大木喬任の下に、同年百三十万両の省費を要求したが、大削減された。(他の資料によれば二百万円を半減された)そしてその際要求のまゝ容れられたのは、長州派の根拠たる陸軍省の予算額のみであつたのは(これに対しても青淵先生が削減を主張したことは前述のごとくである)当時心ある者をして疑念を抱かしめたのであつた。ともかく司法省と大蔵省との対立は最も劇しかつたが一日太政官において江藤が井上と会見したとき、江藤は経費支出の必要を説いて詰問したるに、井上はこれを拒んで『足下の要求は勿論根拠あるべきも経費の増加は国家経済のこれを許さゞるを如何せん』と答へた。江藤は罵つて曰く、『足下動もすれば、経済を口にするも、経済なるものは経世済民の道にして、必要の経費を按排するは経済の本旨とする所なり。足下豈経済を識らんや。足下の知る所は是れ只算盤勘定のみ』と。かくのごとく、井上は頑として聴かなかつたので、江藤はその職を賭しても争はんとし、六年一月に及び理由を具陳した辞表を提出した。大木も言聴かれざれば断然辞職せんとの決心を示したので、太政官も単に各省の論争としてこれを看過する能はずつひにこの問題に干与するに至つたので、司法対大蔵の争は今や一転して、太政官対大蔵省の問題となつた。当時大蔵省の権限は極めて強大であつて、その属するところの局課のみで十二の多きに達してゐたが、太政官と雖も大蔵省に対しては如何ともする能はざる有様であつた。こゝにおいて二月司法大輔福岡孝悌、司法大丞楠田英世以下四名も亦辞表を提出し、司法省は将に瓦解に瀕し、数十ケ所の裁判所其他の司法機関は運用を停止せんとするの事態に陥つたので、太政官も愕然として即日閣議を開き、両省の主張につき詳細なる調査をとげ、司法省の主張を根拠あるものとして、江藤以下の辞表を撤回せしめた。しかし、それは一時の鎮静にすぎなかつたので、その根本的解決を図らんとし、政府は財政状態の実際を調査する必要ありとし、当時大阪に出張中であつた参議大隈重信を召還し、その調査をなさしめた。大隈は約二ケ月の時日を費し、調査した結果、当時の財政は井上の声言のごとく窮迫せる状態ではなく、司法、文部の要求額を支出し得る余地ありとし、自ら会計予算書を編成して、之を政府に提出したので、政府は大蔵省に対し両省の要求を支出すべきことを命ずるに至り、井
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上大輔及び渋沢三等出仕の辞職となつたのである。
 右の「江藤南白」の記述も、全く江藤の立場を弁護する傾きあることは明かである。ところで、江藤の辞表の理由に、『元来各国と並立の叡慮を奉戴し、臣不肖司法の長官を拝命し、……即ち夙夜考慮仕候処並立の元は国の富強に在り。富強の元は、国民の安堵に在り、安堵の元は、国民の位置を正すに在り。』とある。この見解は、司法当局の言として当然であるといふことができる。しかし、これを井上大輔及び青淵先生の建議中『事務日ニ多キヲ加ヘテ用度月ニ費ヲ増シ、歳入常ニ歳出ヲ償フ能ハサレハ、之ヲ人民ニ徴求セサルヲ得ス、夫レ政治ノ要其端固ヨリ多シト雖モ、渙号ノ今日ニ際セル須ラク理財ヲ以テ第一義トスヘシ。理財苟モ法ヲ失セハ要費給スルヲ得ヘカラス、要費給スルヲ得ヘカラサレハ百事何ヲ以テ挙カルヲ得ンヤ。是ニ於テ乃チ之カ賦税ヲ増シ之カ傭役ヲ起シテ以テ斯民ヲ督呵ス、其極斯民ヲシテ安息スル能ハスシテ、国モ亦随テ凋衰ヲ免レサルニ至ラン。是レ古今ノ通患ニシテ、政府ノ深ク寒心セサルヘカラサルモノ実ニ此ニ在リ。』なる一節に比較対照するとき、再検討を要するものがあらう。
 ともかく、問題の中心点は、歳入歳出の見積額であるが、井上大輔及び青淵先生の建議中の概算においては、左のごとくである。
   歳入  金四千万円
   歳出  金五千万円
   歳入不足  金一千万円
   政府負債  金一億四千万円
 これに対する大隈大蔵省事務総裁の歳入出見込会計表は左の如くである。
   歳入総計  金四千八百七十三万六千八百八十三円二十八銭三厘
   歳出総計  金四千六百五十九万五千六百十八円四十六銭四厘
   歳入ノ歳出ヨリ多キ高  金二百十四万千二百六十四円八十一銭九厘
   内外債  金三千百二十二万四千七百一円
 右両者の差異は甚だ大であつた。されば、「明治政史」がこれを評して、『此見込会計表の公布あるや、曩に井上渋沢二氏の建白書に一驚を喫したる人心をして更に又政府会計の豊なるに一驚を喫せしむ』と記してゐるのも故なしとしない。
 当時における見積の多寡の問題はしばらくおき、井上馨及び先生の建白は、当時の財政制度に対し客観的に見て大なる効果を及ぼしたものであつた。「明治政史」には左の如く述べて這間の消息を明かにしてゐる。
   『之を聞く、井上渋沢二氏の建白書新聞紙に登載せらるゝや、政府二氏を譴責するに濫に政府の秘事を世に公にするを以てす。井上抗論して曰く、政府の会計を世に公示するは、欧米各国皆然らざるはなし、何の不可か之あらんと。依て政府も亦大に悟る所あり、会計表を公にするに至れりと。当時二氏の建白書は直に政府の却下する所となりしと雖も、此建白は実に意外の良結果を我会計整理上に生じたるものと云ふべし。之を欧米諸国に就きて考ふるに立憲政体の国にあらずして会計を公示するもの未だ之あらざるなり。然ば則我国に於て会計を公示したるは、特別の美政と云はざるを得ず』
 かくのごとく、井上馨及び先生の建白の効果を指摘したのは、「明治
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政史」のみではない。官撰とも見るべき「明治財政史」もその第一巻の冒頭にその建白を掲げ、かつその第三編会計法規、第二章一般会計法の章において、その建白の効果を指摘し『明治六年六月会計法沿革上ニ於テ最モ著明ナル一事実ヲ生セリ、乃チ政府ノ見込会計表ノ公布是ナリ。而シテ此ノ見込会計表ノ発布セラルヽニ至リシハ曩ニ大蔵大輔井上馨同三等出仕渋沢栄一二氏ノ財政整理ニ関スル建議ヲ動機トシテ顕ハレ来リシモノナリ。……当時井上、渋沢二氏ノ財政ニ関スル建白書ハ直チニ政府ノ却下スル所トナリタルト雖モ此建白ハ実ニ意外ノ良結果ヲ我国会計整理上ニ生シタルモノト云フヘシ、之ヲ欧米諸国ニ就キ考フルニ立憲政体ノ国ニアラスシテ会計ヲ公示セルモノ未タ之アラサリシナリ、然ルニ其当時已ニ我国ニ於テ政府ノ会計ヲ公示シタルハ良制トシテ大ニ誇ルニ足ルモノト云ハサルヲ得ス』と説いてゐる。
 かくのごとく見来れば、井上大輔及び先生の健全財政主義の主張は未だ機熟せざりしため、つひに敗れたのであつたが、その辞任に当つて公表した建白書は、政府会計公表の濫觴となり、また予算制度確立の機縁ともなつたのであつた。この意味において先生等の建白は明治財政史上不朽の意義を有するものと云はなければならないのである。
    五
 以上、井上馨及び青淵先生の明治初年における健全財政及び健全通貨主義の主張、施策、そのための闘争、その結末、建白等につき述べたが、資料については、なほ多く紹介すべきものがあるけれども、煩を避けて省略することゝした。しかし、以上を以てほぼその要点は伝へることができたと思ふ。
 最後に今一つ附け加へて述べておかなければならないことがある。それは先生の退官以後の問題であるが、明治十三年の春より夏にかけて先生等は、当時のインフレーシヨン防止策として予算緊縮及び不換紙幣整理の意見を抱き、これを当局に建議せんとしたことがあつた。これに関する新しい資料もあるが、この問題については、こゝに述べることを省く。しかし、先生のその意見は、明治十四年以降の松方大蔵卿の下に遂行された紙幣整理及び財政整理の先駆をなしたものであつて、先生は終始健全財政・健全通貨主義の一代表者であつたことを指摘しておきたいのである。
 要するに、井上馨及び青淵先生は、明治初期における健全財政及び健全通貨主義の代表者であつて、十四年に至るまではその主張を実現することはできなかつたが、つひに実現せられ、明治財政及び金融史上において不朽の貢献をなしたと見るべきである。そしてこのことについては、その事実の重要さにも拘らず、従来必ずしも正確に認識せられてゐないきらひがある。こゝにこの一文を草した所以である。

渋沢栄一伝記資料 第三巻 終