デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.12

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.741-779(DK030154k) ページ画像

明治六年癸酉五月七日(1873年)

大蔵大輔井上馨ト連署シテ奏議ヲ上リ、政府財政ノ基礎ヲ確立ス可キ必要ヲ痛論ス。其書新聞紙上ニ現ハルヽニ及ビ、物議大イニ起リ、太政大臣三条実美・大蔵省事務総裁参議大隈重信ノ奏議ニ対スル反駁書ヲ各省使府県等ニ達示ス。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之五・第三一丁 〔明治二〇年〕(DK030154k-0001)
第3巻 p.741-742 ページ画像

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之五・第三一丁 〔明治二〇年〕
其頃自分は深く時勢に感ずる所があつたから、政事上の意見を筆記して一篇の文章を綴つたが、字句の不調を免れぬ処もあるに依て、其潤飾を那珂通高といふ人に嘱託したが、漸く脱稿したから、辞表を出した翌日に、其稿本を携へて井上を訪問して、両国橋の辺で面会した
 - 第3巻 p.742 -ページ画像 
が折節芳川顕正も其席に居合せた、偖て其文章を井上に示した処が、井上は一読して、全く其意を同うするゆゑ、共にこれを建白しやうといふことで、終にその意見を両人の奏議として、三条公を経て奏上したが、其後間もなく曙新聞が此の書の全文を登載して、世間に公にした処から、江藤新平などの悪みを増して、政府の秘事を世間に漏泄したといふ廉を以て、井上は若干の罰金を徴せられました、去れども両人に於ては、既に辞職と決心して辞表を奉呈した上であるから、敢て忌憚する所もなく、自己の意見は十分人に語ることを厭ひませむから、それでは宜くないといつて、大隈から手紙を寄来して忠告もあつたが其れすら挨拶もせぬ程であるから、政府でも両人の決意を翻すことは出来ぬと察したとみえて、五月廿三日《(マヽ)》に至つて、依願免出仕といふ辞令が下りました


渋沢栄一書翰 井上馨宛(明治六年)五月六日(DK030154k-0002)
第3巻 p.742 ページ画像

渋沢栄一書翰 井上馨宛(明治六年)五月六日  (井上侯爵家所蔵)
昨夜呈御覧候奏議、今朝より那珂と共ニ頻ニ推敲いたし、漸浄書仕候間、乃チ調印之上差上申候、明日正院へ奉呈候義ハ宜御取計被下度候尤も生ハ一紙之置手紙を添て、今夕之を大隈へも相廻し置候
右申上度 匆々頓首
  五月六日                渋沢栄一
    世外老台
  尚々何卒新聞紙にも出し申度、其辺よろしく御取計被下度候
  ○此書翰ニヨリ奏議が栄一ト那珂トニヨリ起草サレタルモノナルコト明カナリ。又新聞紙ニ公表スルコトモ栄一ノ発意ニ出ヅルコトト察知セラル。


渋沢栄一 書翰 大隈重信宛(明治六年)五月六日(DK030154k-0003)
第3巻 p.742-743 ページ画像

渋沢栄一 書翰 大隈重信宛(明治六年)五月六日
                  (早稲田大学図書館所蔵)
  明治六年五月渋沢栄一氏辞職ノ件ニ付大隈老侯宛秘書
拝稟爾来愈御清暢奉賀候、偖小生義此度之大号令御発表ニ付、微身放免之義を切ニ大輔ヘ相迫り、既ニ上表仕置候間、何卒平生之御懇遇を以、早々願意相貫き候様御措置被下度候、尤も此御発令ニ付大輔にも不満有之候由ニて、遂ニ相共ニ不平を唱ひ、政府之御不都合をも不顧筋ニ相成候ハ深く恐悚之至ニ候得共、小生退身之願望ハ今日ニ生し候義にハ無之、既に閣下ヘハ一昨年来度々御様子も伺試候事にて、幸此度之御更革にてハ先大蔵之事務ハ十之五六ハ減省之姿ニ有之候旁以奉仕候も実ニ蛇足を添候様にも被相考候義ニ御坐候、又此御発令ニ付而ハ客冬以来時々愚案御下問も有之、畢竟其章程抔ハ小生之草案ニ出候ものも有之候処、一旦御発表ニ際し苦情らしく退身を相願候には定而閣下之御疑惑も被為在候哉、然り是亦不得已事と奉存候、其謂ハ昨年十一月井上大輔正院之命ニ抗し籠居退身を乞ふ之時ニ於て、小生ハ其分ならさるも勉而其間ニ奔走し、方今政府之御着目ハ理財を以て第一と被為成決而空理に渉りて庶務之御皇張を御勉無之様、且此紛紜ハ詰り大蔵より生し候事なれハ、何分正院之権力を増し、財政ハ正院ニ上操《(ママ)》して堅く費途を節略いたし度、其措置ニ於ても兎角理財を肝要とするを以て此更革之御趣旨と被成候ハヽ、爾来大蔵を担任せし者も其任
 - 第3巻 p.743 -ページ画像 
を全くするを得て而して向後之奉事も処し易く相成、其上正院之権力に頼り各省無限之求需を拒候ハヽ、其間ニ紛議も少き筋にて、所謂名正しく事順なるニ付先第一ニ其辺ニ御注意有之度、且弥御更革ニ付而ハ小生ハ御都合ニより放免を蒙り度、併不得已ハ正院秘書記なりとも従事可仕決而大蔵ニ御据置ハ奉命難仕と其縁由まて縷陳仕置、其後大輔大坂行之節も尚反復閣下之面前ニ開陳仕、尋而大輔帰京後ハ御更革筋も御流れ之様相見候間、時々大輔ニ叩き西郷参議帰京ニ及んてハ弥御発表可被成と奉存候間再三大輔へ申述、前文理財を緊要とするを以て此御釐正有之との大旨明著相成度、且其取捨得失も充分御協議之上発令後に至り矛盾牴牾無之様と、都合四五度卑見之底を払ひ陳弁いたし、既に御発表之前日も聊仄聞之次第も有之候間、更ニ大輔へ相通し夫故大輔ハ当日時刻に先ち参朝いたし、其所見を以て閣下ニ御覆議申上候得共、最早不可遏之勢ニ成行候とて、御渡之詔書持参帰省申聞候次第ニ御坐候、右詔書並正院之章程にてハ前にも申上候理財之事ハ別ニ御掲示も無之、詰り是迄費用供給之際ニ於て大輔之頑論抗議を被為厭其任を殺き其責を減し候まてと相見ひ、何分要旨前日と齟齬いたし候様愚考仕候、故ニ大輔今日之苦情ハ或ハ其辺にして竟ニ其職務を辞退候にハ無之哉と相考候、併是ハ小生ニ於ては聊関係無之義にて小生之放免を奉願候ハ、唯事務之省するを見て宿望を達し度心事而已にして、決而不平苦情等を交候義ハ無之候間、閣下厚御諒察被下度候、乍併斯迄事理之支吾候も如何之行違より生し候哉実ニ可惜之至ニして閣下尚大輔と御再議も有之候ハヽ、或ハ御理解可相成歟、是閣下と大輔との間ニ在りて小生ハ敢而不管之義と奉存候、右ニ付小生今日之退身ニ於てハ不平もなく苦情もなく実ニ澹然御允許を待候迄ニ候得共、無似と雖とも従来大蔵之員ニ連り縦ひ身ニ充分之責任なかりしも、又聊見解なき能わす、故ニ方今政府之措置多く躁行軽進之弊あるハ小生之探く憂慮する処にして、向後閣下之大雄力を以て御捩止有之度事ニ御坐候、此際小生之苦情唯此事ニ付不文も不顧一篇之奏議を呈し度、昨来籠居閑暇に頼り漸脱稿仕候間、謹而呈其一本候、何卒小生之愚衷此奏議に於て御賢察被下度候、併卑見浅学敢而時弊ニ適当候哉ハ難測、唯小生にして自ら之を信し候まゝ井上にも相謀り正院ヘハ両名にて奉呈仕候義ニ御坐候、其取捨に於てハ偏ニ閣下ニ嘱望候而已ニ御坐候、籠居以来今日まて一度拝趨も不仕、且其手続も何等之行違より相生し候哉との御懸慮と《(マヽ)》可被為在と奉存、殊ニ出身以降別而御眷顧を蒙り実に知己と奉仰候ニ付、爾来之情状並小生之心事達尊聴置度無用之長文御鞅掌之時間を妨け却而恐縮仕候、いつれ不日放免を得候上にて緩々拝光尚拾遺可申上候 頓首
                        (朱印)
  五月六日              渋沢栄一
    参議大隈閣下
  先日ハ御盛宴ヘ陪し候様御下命之処、拝趨不仕背高旨恐悸之至ニ候、御海涵奉仰候


財政改革ニ関スル奏議 〔明治六年五月七日提出〕(DK030154k-0004)
第3巻 p.743-748 ページ画像

財政改革ニ関スル奏議 〔明治六年五月七日提出〕
   (本書ハ、明治六年五月四日、大蔵省三等出仕タリシ青淵先生ガ、財政上ノ意
 - 第3巻 p.744 -ページ画像 
見廟議ト相愜ハズ、上官大蔵大輔井上馨氏ト袂ヲ連ネテ職ヲ辞スルノ後三日二人連署シテ政府ニ提出セル意見書ナリ。世ニ伝フル所ノモノハ訛誤紕繆少カラズ、乃チ先生ノ手稿ニ拠リテ校正シ、活刷ニ附シテ以テ定本ト為ス)
 国家ノ隆替ハ固ヨリ気運ノ然ラシムル所ト雖モ、亦未ダ政府挙措ノ当否ニ由ラズンバアラザル也。維新ヨリ以来、未ダ十年ナラズシテ庶績緒ニ就キ、万方化ニ嚮ヒ、内ニハ数百年既ニ衰ヘタルノ紀綱ヲ恢弘シ、外ニハ五大洲方ニ盛ナルノ政刑ヲ折衷シ、封建ヲ変ジテ以テ郡県ヲ定メ、門閥ヲ廃シテ以テ賢材ヲ挙ゲ、律ハ万国ノ公法ヲ兼ネ、議ハ四境ノ輿論ヲ尽シ、学ハ八区ヲ別テ無智ノ民ヲ誘ヒ、兵ハ六鎮ヲ置テ不逞ノ徒ヲ懲ス。一瞬遠キニ達スルハ舟車同ジク蒸気ノ力ヲ藉リ、万里急ヲ報ズルハ海陸並ニ電信ノ機ヲ頼ム。心ヲ貿易ニ用ヒ、力ヲ開拓ニ尽シ、貨幣製ヲ正シウシ、街衢観ヲ異ニス。其他製鉄灯台鉄路ヨリ以テ屋舎衣帽几床繖履ノ細ニ至ルマデ、日ニ変ジ月ニ革リ、駸々乎トシテ開化ノ域ニ進ムコト、駟馬モ及ブ可カラザルノ勢アリ。此クノ如クニシテ已マザレバ、数年ヲ出デズシテ文明ノ具備スルコト、之ヲ欧米諸国ニ比スルモ、亦当ニ慚色ナカルベキ也。苟モ国家ニ志アル者、皆喜ンデ相慶スルヲ知レリ。然リ而シテ臣等独リ爰ニ憂フル所アリ。蓋シ憂ハ憂ニ終ルニ非ズ、必ヤ喜アリテ其間ニ存シ、喜ハ喜ニ終ルニ非ズ、必ヤ憂アリテ其中ニ存ス。故ニ憂アレバ其喜ブ可キ者ヲ求メ、喜アレバ其憂フベキ者ヲ慮ル。是ニ於テ乎挙措当ヲ失ハズシテ、国家以テ開明ノ真治ヲ致スヲ得ン。夫レ開明ノ言タル、其称ハ一ナリト雖モ、推シテ其帰スル所ヲ論ズレバ、判然岐ツテ二ツト為サヾルヲ得ズ。開明ノ政理上ヲ主トスルハ、形ヲ以テスル者ニシテ、開明ノ民力上ヲ重ンズルハ、実ヲ以テスル者ナリ。形ヲ以テスル者ハ求メ易クシテ、実ヲ以テスル者ハ致シ難シ。今欧米諸国ハ民皆実学ヲ務メテ智識ニ優ナリ。故ニ人々各自其力ニ食ム能ハザルヲ以テ大恥トナシテ、我民ハ則之ニ反ス。士ハ徒ラニ父祖ノ穀禄ニ藉ルヲ知テ、未ダ文武ノ科ヲ究ムルヲ知ラズ。農ハ徒ラニ郷土ノ常ニ仍ルヲ知テ、未ダ耕桑ノ術ヲ講ズルヲ知ラズ。工ハ徒ラニ傭作ノ価ヲ論ズルヲ知テ、未ダ器械ノ巧ヲ求ムルヲ知ラズ。商ハ徒ラニ錙銖ノ利ヲ争フヲ知テ、未ダ貿易ノ法ヲ明ニスルヲ知ラズ。是皆其力ニ食ムコト能ハザル者ニシテ、其際一二才識ヲ以テ称セラルヽ者アリト雖モ、多クハ請託機ニ投ジ、壟断利ヲ罔スルノ徒ニ過ギズ。甚シキハ詐欺百出、誣冒万変、産ヲ破リ家ヲ亡ボスニ至ル者、比々トシテ之レアリ。今斯クノ如キノ輩ヲ駆テ、一朝遽ニ開明ノ域ニ届ラシメント欲ス、亦猶ホ卵ヲ見テ時夜ヲ求ムルガゴトキ也。臣等嘗テ中夜窃ニ謂ラク、長ク大都ニ在テ一タビ海外ニ航シ職ヲ奉ズル久シカラズトセズ、事ヲ閲スル多カラズトセザレバ、其智識昔日ニ愈ルヤ必セリト。退而其長ズル所ノ者ヲ求ムレバ、依然タル呉下ノ阿蒙ノミ。因テ起坐大息スル者之ヲ久ウス。臣等ノ遇フ所ヲ以テシテ猶且然り、況ンヤ生レテ偏境僻邑ニ在ル者ニ於テヲヤ。是ニ由テ之ヲ観レバ、今日ノ開明ハ民力上ヲ重ンズルモノニアラズシテ、政理上ニ空馳スルモノ、固ヨリ智者ヲ俟テ後ニ知ラザル也。苟モ政理上ノミヲ主トセン乎、人々愛国ノ情ヲ存スレバ、誰カ敢テ文明ノ政治、欧米諸国ノ如クナルヲ企望セザル者アランヤ。是ヲ以テ現今在官ノ士
 - 第3巻 p.745 -ページ画像 
足未タ其地ヲ踏マズ、目未ダ其事ヲ見ズ、僅ニ訳書ニ窺ヒ、之ヲ写真ニ閲スルモ、亦且ツ奮然興起シテ之ト相抗セントス。況ンヤ比年海外ニ客遊スル者ニ於テヲヤ。其帰ルニ及ンデハ、或ハ英ヲ以テ優レリトシ、或ハ仏ヲ以テ勝レタリトシ、蘭ヤ米ヤ孛ヤ墺ヤ、皆其長ズル所ヲ以テ我ニ比較シ、街衢貨幣開拓貿易ニ論ナク、兵ニ学ニ議ニ律ニ、蒸汽電信ニ、衣服器械ニ、凡以テ我ガ文明ヲ資ク可キ者、糸毫遺サズ、繊細洩サズ、以テ我ガ具備ヲ求メザルナキニ至ラン。是固ヨリ人情ノ止ムヲ得ザル所ニシテ、未ダ以テ非トナス可ラズト雖モ、徒ラニ其形ノミヲ主トシテ其実ヲ重ンゼズンバ、政治遂ニ人民ト背馳シ、法制益美ニシテ人民益疲レ、百度愈張リテ国力愈減ジ、功未ダ成ルニ至ラズシテ国已ニ貧弱ニ陥リ、善者アリト雖モ其ノ後ヲ善クスル能ハザラントス。果シテ此クノ如キ也、其レ何ヲ以テ国タルヲ得ンヤ。是レ人々ノ喜ブ所ニシテ、臣等ノ以テ憂フル所ナリ。凡ソ天下ノ事ハ預メ標準ヲ高遠ニ期セザル可ラズト雖モ、其手ヲ下スニ方テハ、則チ歩々序ヲ逐ヒ、着々実ヲ認メ、政理ヲシテ民力ト相負カザラシムルヲ要ス。決シテ躁行軽進、速成ヲ一日ニ求ムベカラズ。武臣均キヲ秉ルノ日ハ、国各其制ヲ異ニスト雖モ、人ヲ挙ル必ズ門閥ヲ以テス。是故ニ位ニ在ル者ハ肉食ノ徒ニ止リテ、政刑却テ卑職賤吏ノ手ニ出ヅルニ由リ、教化法律ノ何物タルヲ知ラズ、故キヲ按ジ、例ニ拠リ、武断決ヲ取ルヲ以テ、事却テ苟簡ニシテ、未ダ紛擾ノ患ヲ見ズ。因襲ノ久シキ、民モ亦見テ以テ常トナシテ、敢テ之ヲ異シム者アルコト無ク、海内乂安玆ニ二百余年、一旦外交事起ルニ及デ、始メテ其害大ニ見ハレ、収拾ス可ラザルニ至レリ。爾来志士仁人争起競趨、其身ヲ殺シテ以テ維新ノ運ヲ挽回スルヲ得タリ。是時ニ当リテハ、其勢ヒ旧弊ヲ撥除シ、庶政ヲ更張シテ、天下ノ耳目ヲ一洗セザル可ラズ。是ヲ以テ先ヅ視聴ヲ広ムルヲ求ム。既ニ視聴ヲ広ムルヲ求ムレバ、故常ニ安ンズルヲ恥ルヲ知ル。既ニ故常ニ安ンズルヲ恥ルヲ知レバ、猛省勇決、昔日ノ弊ヲ盪尽セザル能ハズ。是ニ於テ乎倒行逆施、挙テ其事ニ従ヒ、凡ソ国体兵制刑律教法学則工芸民法商業ヨリ百般ノ技芸ニ至ルマデ、之ヲ一時ニ更革シテ、以テ万国ト抗衡セント欲ス。是レ気運ノ然ラシムル所ト雖モ其挙措モ亦此ニ出ズンバアラザル也。之ヲ良医ノ病ヲ治スルニ譬フ。疾方ニ劇ナルニ当ツテハ、先ヅ投ズルニ劇薬ヲ以テセザル可ラズト雖モ、其漸ク平カナルニ迨デハ、温補ノ薬ヲ与ヘテ以テ其元気ノ復スルヲ待ツ。是タ[是レ]之ヲ其術ヲ得タリト謂フ。故ニ良医ノ期スル所ハ唯元気ノ復スルヲ待ツニ在テ、必ズ先ヅ投ズルニ劇剤ヲ以テス。天下ヲ為スノ術モ、亦何ゾ此ニ異ラン。既ニ投ズルニ劇剤ヲ以テシテ、其疾漸ク平カナルヲ致シ、庶績緒ニ就キ、万方化ニ嚮フ。是レ宜シク温補ノ薬ヲ与フベキノ時也。故ニ今日政府ノ事ヲ施設スル、歩々序ヲ逐ヒ、着着実ヲ認ムルヲ要トシテ、計未ダ此ニ出ルヲ知ラズ、猶ホ疇昔ノ軽佻ニ傚ヒ、徒ラニ百事ノ躁進ヲ勉ム。是レ臣等ノ甘心スル能ハザル所ナリ。然リ而シテ其之レヲ致ス者、臣等固ヨリ由来スル所アルヲ知レリ更始ノ際、政府専ラ人才ヲ抜擢スルニ急ニシテ、天下ノ人士モ亦自ラ奮テ其用ニ供セント欲ス。苟モ一芸ヲ挟ミ一能ニ誇ルモノ、雲集麕至身ヲ闕下ニ致スヲ願ハザル者ナクシテ、昔時靡盬ノ節ニ従フ者、或ハ
 - 第3巻 p.746 -ページ画像 
其才ナシト雖モ、遽ニ捨ツ可カラズ。今日操觚ノ才ニ名アル者、或ハ其釁アリト雖モ、長ク棄ツ可ラズ。是ヲ以テ野ニ陟ボス可キノ士アリテ、朝ニ黜ク可キノ人ナク、百官ノ闕クルナキ、未ダ此時ヨリ盛ナルハアラザル也。夫レ官其人多ケレバ、必ズ其事ヲ作コスヲ好ム。既ニ其事ヲ作コスヲ好メバ、必ズ其功ヲ成スヲ喜ブ。今政府意ヲ民力上ニ注セズシテ、力ヲ政理上ニ専ニシ、百官又事ヲ作コシ功ヲ成スニ急ナレバ、勢ヒ実用ヲ捨テ空理ニ馳スルノ弊ナキ能ハズ。況ヤ愛国ノ至情ヨリ、彼ガ開明ノ政治ヲ欽羨シテ、驟ニ之ト相抗セント欲スルニ於テヲヤ。是ニ於テカ唯事務ノ振興ヲ求メテ、治具ノ漏欠アランコトヲ之レ恐ル。故ニ害トシテ陳ゼザルナク、利トシテ講ゼザルナク、或ハ隙ニ投ジテ以テ容ルヽヲ求ムル者アリ、或ハ新ヲ衒フテ寵ヲ要スル者アリ、院省使寮司ヨリ府県ニ至ルマデ、各自其功ヲ貪テ、往々其官ヲ増ス。是ヲ以テ百事湊合、万緒蝟集、互ニ相牴触シテ、政府モ亦自ラ其弊ニ堪ヘザラントス。且夫レ其官アレバ其給ナカルベカラズ。其事アレバ其費ナカルベカラズ。是故ニ事務日ニ多キヲ加ヘテ、用度月ニ費ヲ増シ、歳入常ニ歳出ヲ償フ能ハザレバ、之ヲ人民ニ徴求セザルヲ得ズ。夫レ政治ノ要、其端固ヨリ多シト雖モ、渙号ノ今日ニ際セル、須ラク理財ヲ以テ第一義トスベシ。理財苟モ法ヲ失セバ、要費給スルヲ得ベカラズ。要費給スルヲ得ベカラザレバ、百事何ヲ以テ挙ガルヲ得ンヤ。是ニ於テ乃チ之ガ賦税ヲ増シ、之ガ傭役ヲ起シテ、以テ斯民ヲ督呵シ、其極斯民ヲシテ安息スル能ハズシテ、国モ亦随テ凋衰ヲ免レザラムシルニ至ラン。是レ古今ノ通患ニシテ政府ノ深ク寒心セザルベカラザルモノ実ニ此ニアリ。今全国歳入ノ総額ヲ概算スレバ、四千万円ヲ得ルニ過ギズ。而シテ予ジメ本年ノ経費ヲ推計スルニ、一変故ナカラシムルモ、尚ホ五千万円ニ及ブベシ。然則一歳ノ出入ヲ比較シテ、既ニ一千万円ノ不足ヲ生ズ。加之維新以来国用ノ急ナルヲ以テ、毎歳負フ所ノ用途モ、亦将ニ一千万円ニ超エントス。其他官省旧藩ノ楮幣及ビ中外ノ負債ヲ挙グルニ、殆ンド一億二千万円ノ巨額ニ近カヽラントス。故ニ之ヲ通算スレバ、政府現今ノ負債実ニ一億四千万円ニシテ、償却ノ道未ダ立タザル者トス。然則速ク其制ヲ設ケテ、逐次之ヲ支消セザルベカラズ。然ラズンバ後来人心ノ信憑ヲ固確スル能ハズシテ、一朝不虞ノ変アル、困頓跋疐、臍ヲ噬ムトモ及ブ可カラザルニ至ラン。然リ而シテ政府未ダ意ヲ此ニ注セズ、却テ百度ノ更張ヲ勉メ開明ヲ政理上ニ求ムルコト猶ホ昔日ノ如クナラバ、斯民ヲ保護スルノ道安クニカ在ル。政府既ニ斯民ヲ保護スルノ道ヲ得ズ、斯民其レ何ヲ以テ蘇息スルヲ得ンヤ。議者乃チ曰ク、瘠土ノ民ハ労シ、沃土ノ民ハ楽ム。楽メバ貧ニシテ、労スレバ富ム。故ニ其智ヲ進メテ之ヲ富マサント欲セバ、其賦税ヲ厚クスル、速カニ欧米諸国ノ如クセザル可ラズト。噫何ゾ其言ノ謬レルヤ。欧米諸国ノ民タル、概ネ智識ニ優ニシテ特立ノ志操ヲ存ス。且其国体ノ然ラシムル所ヨリ、常ニ政府ノ議ニ参スルヲ以テ、其相保持スル、猶ホ手足ノ頭目ヲ護スルガ如ク、利害損失内ニ明ニシテ、政府ハ唯之ガ外廷タルニ過ギズ。今我民則之ニ異ナリ、久シク専擅ノ余習ニ慣レ、長ク偏僻ノ固陋ニ安ジ、智識開ケズ志操確カラズ、進退俯仰、唯政府ノ命ニ之レ遵ヒ、所謂権利義務等ノ
 - 第3巻 p.747 -ページ画像 
如キニ至リテハ、未ダ其何物タルヲ弁ズル能ハズ。政府令スル所アレバ、国ヲ挙ゲテ之ヲ奉ジ、政府趣ク所アレバ、国ヲ挙テ之ニ帰シ、凡ソ風習語言服飾器什ヨリ、日用翫具ニ至ルマデ、先ヲ争ヒ後ルヽヲ恐レテ、政府ノ好尚ニ摸セザル者ナシ。夫レ上ノ好ム所下焉ヨリ甚シキアリ、故ニ互市ノ際ニ於ケルモ、彼ノ器物翫什ヲ輸入スルコト常ニ多クシテ、輸出ノ品ハ僅ニ十ノ六七ニ居ルニ過ギズ。民安ンゾ其貧弱ニ陥ル、日一日ヨリ甚シカラザルヲ得ンヤ。古人言アリ、曰ク、民ヲ視ル傷ムガ如シト。今ヤ政府ノ斯民ヲ視ル、啻ニ傷ムガ如キ能ハザルノミナラズ、却テ之ヲ法制ニ束縛シ、之ヲ賦税ニ督呵スル、或ハ昔日ニ加フルアリ。戸ニ編籍ナキヲ得ズ、里ニ社証ナキヲ得ズ、宅ニ地券ナキヲ得ズ、人ニ血税ナキヲ得ズシテ、訴訟ノ費アリ、違詿ノ罰アリ、物貨販品牛馬婢僕ニ至ルマデ、皆其律ナクンバアラズ。是ヲ以テ一令下ル毎ニ、輒チ斯民惘然措ヲ失シ、其嚮フ所ヲ知ラズ。商ニ就テ得ザレバ工ニ就キ、工ニ就テ得ザレバ農ニ就キ、家ヲ破リ産ヲ失フ者、比々相踵グ。其凋衰ニ赴ク者モ、亦昔日ニ倍スルアリ。夫レ此ノ如キナリ政府ハ愈歩ヲ開明ノ域ニ進メテ、民ハ愈陋ヲ野蛮ノ俗ニ甘ンジ、上下ノ相距ル、何ゾ啻霄壌ノミナランヤ。政理ノ民力ニ負ク既ニ此ニ至ラバ、其善ナル者未ダ以テ善トナスニ足ラズ、其美ナル者未ダ以テ美トスルニ足ラズ、唯其憂フベキヲ見テ、未ダ其喜ブベキヲ見ザルナリ。蓋シ物各其量アリ、国各其力アリテ、政治ノ要ハ時勢ニ適スルヲ貴シトス。故ニ政府ノ事ヲ施為スル、能ク我国力ヲ審ニシ能ク我民情ヲ察セズンバアル可ラズ。夫レ出ルヲ量リテ入ルヲ制スルハ、欧米諸国ノ政ヲ為ス所以ニシテ、今我ガ国力民情未ダ此ニ出ル能ハザル者、人人ノ能ク知ル所ナレバ、方今ノ策ハ、且ラク入ヲ量テ出ルヲ制スルノ旧ヲ守リ、務テ経費ヲ節減シ、預メ其歳入ヲ概算シテ、歳出ヲシテ決テ之ニ超ユルヲ得ザラシメ、院省寮司ヨリ府県ニ至ルマデ、其施設ノ順序ヲ考量シ、之ガ額ヲ確定シ、分亳モ其限度ヲ出ルヲ許サズ、其負債紙幣ノ如キハ、無用ノ費ヲ減ジ、不急ノ禄ヲ省キテ、支消兌換、漸ヲ以テスルノ法ニ供シ、事其序ヲ逐ハザレバ進マズ、法其実ヲ認メザレバ挙ゲズ、斯民ヲシテ蘇息スル所アラシメ、天下ヲシテ、政府ノ趨ク所、大ニ昔日ニ異ナルヲ明ラカニセシメザルベカラズ。是今日ノ時勢ニシテ、我ガ国力民情ノ適トスル所、未ダ此ニ愈レル者アラザルナリ。此法苟モ一定セバ、尽ク其長官ヲ会同シテ、公示スルニ要旨ヲ以テシ、交々相誓約シテ、此目的ヲ失ハザルヲ務メトシ、夫ノ施為ノ緩急、処置ノ前後、或ハ用ヲ兵制ニ豊ニシテ、費ヲ法律ニ歉ニシ、或ハ額ヲ工術ニ加ヘテ、貲ヲ学則ニ損シ、或ハ農租ヲ逓減シテ商税ヲ増加スル等ノ如キニ至テハ、衆議ヲ尽シテ其宜キヲ斟酌シ、政理民力相背カザルヲ以テ、後来ノ標準トナスベキ也。果シテ此ノ如クナレバ、斯民モ亦其向フ所ヲ知リ、自ラ富実ノ本ヲ勉ムルヲ得テ、政理ト共ニ開明ノ歩ヲ進ムル者、足ヲ企テ俟ツ可キ也。然ラズンバ、内外ノ変必ズ不測ノ間ニ生ジテ、土崩瓦解、検束ス可カラザルニ至ラン。之ヲ如何ゾ政府ノ挙措其当ヲ得タリト謂フ可ケンヤ。臣等無似ト雖モ、亦久シク乏シキヲ理財ニ承ケタリ。是ヲ以テ施為ノ務メニ於テハ、未ダ大ニ其功ヲ奏スルヲ得ズト雖モ、其実際ヲ親験躬履ノ迹ニ求ムレバ、未ダ必
 - 第3巻 p.748 -ページ画像 
シモ見解ナシト謂フ可ラズ。臣等ノ見ル所ヲ以テ之ヲ慮ルニ、今日ノ開明、唯ニ其喜ブ可キ者ヲ見ザルノミナラズ、其大ニ憂フ可キ者、将ニ弾指ノ間ニ在ラントス。是レ固ヨリ政府ノ措置如何ニ在テ、気運ノ然ラシムル所ニ非ザル者、昭々乎トシテ明ナリ。夫レ知テ言ハザルハ不忠ナリ。知ラズシテ言フハ不智ナリ。臣等縦ヒ不智ノ譴ヲ受ルトモ決シテ不忠ノ臣タルヲ欲セズ。是ニ於テ乎、既ニ其職務ニ堪ヘザルヲ以テ骸骨ヲ乞ト雖モ、区々ノ心、今日ニ恝然タルニ忍ビズ。故ニ敢テ其愚衷ヲ留メテ、以テ政府ノ少シク回顧スル所アランヲ望ム耳。其尽言極論、威厳ヲ冒涜シテ顧忌スル所ナキハ、固ヨリ斧鉞ノ誅ヲ甘ズルヲ以テナリ。臣馨臣栄一憂懼ノ至リニ堪ズ、誠恐誠惶、昧死以聞。

  ○奏議ノ掲載サレタル新聞ハ左ノ如シ。
   一、新聞雑誌、附録、第九十八号ニハ全文ヲ掲載ス。明治六年五月トアルノミニテ日ヲ欠ク。奏議ヲ掲載セル未尾ニ「此奏議ハ各種新聞紙ニ刊行スルモノ頗ル誤字衍文ナキ能ハズ、因テ正本ニ就キ補刪校訂以テ看客ノ需ニ供ス」トアリ。因ミニ新聞雑誌ハ明治七年十二月廿八日第三百五十七号ヲ以テ終リ、明治八年一月二日ヲ以テ「あけぼの」ト改題セリ。
   二、郵便報知新聞、第五十一号、附録二ニハ全文ヲ掲載セル上ソノ末尾ニ井上及ビ栄一ノ辞表ヲモ掲ゲタリ。明治六年五月トアルノミニテ日ヲ欠ク
   三、東京日々新聞、第三百六十八号、明治六年五月十三日ノ投書欄ニ奏議ノ抜萃ヲ掲ゲ、ソノ始メニ「井上渋沢両公ノ建言書紙短ク文長シ、已ム事ヲ得ズシテ此ニ大意ヲ抄出ス、全章ノ如キハ他局ノ新聞紙ニ見エタリ」トアリ。而シテ同紙、第三百七十二号、明治六年五月十七日ニ「井上渋沢両公ノ奏議ヲ新聞紙ニ記載スベキモノニ非ルニ前号ニ掲示セルハ過ナリ、因テ之ヲ大方ノ君子ニ謝ス」トアリ。
   四、日要新聞、第七十五号、附録(紀元二千五百三十三年五月)ニ奏議及ビ辞表ヲ掲グ。
   五、日新真事誌、五月九日


太政官日誌 明治六年第七十号 ○五月十八日(DK030154k-0005)
第3巻 p.748-749 ページ画像

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明治財政史 第一巻・第五九九―六〇一頁〔明治三七年四月〕(DK030154k-0006)
第3巻 p.749-754 ページ画像

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布令掛合留 雑款之部・自明治五年至同六年(DK030154k-0007)
第3巻 p.754 ページ画像

布令掛合留 雑款之部・自明治五年至同六年 (東京府庁所蔵)
第五百三拾四号
前大蔵大輔井上馨同三等出仕渋沢栄一建言中謬誤之廉有之候趣ヲ以更ニ精密取調書別紙添御達有之右ハ即今新聞紙ニモ掲載有之衆人目撃可致哉ニ付別段府下一般公布不致候半而可然存候一応見据之程相伺候条御指揮被下度候也
  明治六年六月十二日
               東京府知事 大久保一翁
 太政大臣 三条実美殿
 (朱書)
 伺之通
  明治六年六月十五日 太政大臣之印


本邦人ノ外国訪問関係雑件 第五巻(DK030154k-0008)
第3巻 p.754-755 ページ画像

本邦人ノ外国訪問関係雑件 第五巻 (外務省所蔵)
 (別冊)右大臣岩倉具視特命全権大使トシテ締盟各国ヘ派遣之件
第五十六号
  明治六年五月廿日 東京ヲ発ス
○上略
大蔵大輔井上馨同三等出仕渋沢栄一両人之奏議今便御廻申入候各新聞紙ニ梓載有之候通リニ御座候処、実地計算上相違之廉不少不都合之次第ニ付、別紙之通御附紙を以書面其儘御差戻相成候条為御心得申進候
○下略
                 上野外務少輔
                 江藤参議
                 大木参議
                 板垣参議
                 後藤参議
                 大隈参議
                 西郷参議
                 三条太政大臣
    特命全権大副使
          御中
  大蔵大輔井上馨同三等出仕渋沢栄一ノ建言ニ御附紙ノ写
 - 第3巻 p.755 -ページ画像 
建言ノ主意其立論適当ノ事ニ候エトモ ○下略
第五十七号
  明治六年五月廿七日 東京ヲ発ス
○上略
先便申進置候通大蔵大輔井上馨同三等出仕渋沢栄一両人辞職之節差出候奏議中実際と相違之廉不少候処、已ニ横浜新聞ニ訳文梓載致シ候ニ付而は遍く海外ニ伝播可致ハ勿論右新聞より外国於て御国計疑惑を来し候様ニ而は不容易事ニ候条、自然外国人より疑問も有之候ハヽ可然御弁解有之度候、右之趣各国在留御国公使江も為心得相達候積リニ而候
○下略
                 上野外務少輔 花押
                 江藤参議
                 大木参議
                 板垣参議
                 後藤参議
                 大隈参議
                 西郷参議
                 三条太政大臣 印
         特命全権大副使
               御中
第五十八号
  明治六年六月十七日 東京ヲ発ス
○上略
先便以来申進置候前大蔵大輔井上馨同三等出仕渋沢栄一之建言中謬誤之廉有之、中外人民之疑惑を生シ候次第ニ立至リ、依て会計実況之当否を弁明し別冊之通布達致し候条此段申入候
○中略
井上渋沢之建言謬誤之廉を弁明致候布達書数部御廻し申入候条、各国在留御国公使江も一部ツヽ御頒達有之度候
○下略
                太政大臣以下連名
        特命全権大副使
              御中


世外侯事歴 維新財政談 下・第四〇五―四一〇頁 〔大正一〇年九月〕 三七 井上公辞職の顛末(DK030154k-0009)
第3巻 p.755-757 ページ画像

世外侯事歴 維新財政談 下・第四〇五―四一〇頁〔大正一〇年九月〕
  三七 井上公辞職の顛末
         男爵渋沢栄一 益田孝 侯爵井上馨
         伯爵芳川顕正 左伯惟馨     談話
○上略
渋沢男 芳川さんですヨ、建白書を新聞に出して宜いと云つたのは。柳橋に「よしかは」と云ふ家があつた、彼処へ行かれて、私は増田屋に行つて居る、それで出会つて遊ぶと云ふのが……磊落千万の話ですけれども、其時分の常であつた。デ渋沢居るかと云ふので使を寄越された。それで「よしかは」へ行くと、芳川顕正さんがお居でで……あの文章を見せたら、是は名文章だ、是は渋沢が書きはすまいと云ふから、書きました。ナニ君の手ぢやない、君には書けない
 - 第3巻 p.756 -ページ画像 
とか、何とか冗談言つて、それから実は斯うだ、是は名文章だ、実に賛成だとか何とか言つて、頻に煽てゝ、新聞に出せ出せ……と云つて、日新真事誌の号外となつて出た。(明治四十一年十二月三日)
○中略
渋沢男 江幡五郎に頼んで書いて貰つた。さうして原稿を作つて見た、丁度其頃に辞職せにやならぬ場合になつた。だから辞職して書き掛けたのでなくて、辞職前にさう云ふ案を私だけは書いて見たのです。さうして伺はうと思つて居る中に、辞職騒動が起つたのです尤も其間に、始終面倒で、とても遣れぬ遣れぬと云ふ事は、屡々仰有つて居られたのですけれども、愈々今日は土壇場になると云ふ事はまだ分らなかつた。そこで私共の考には、其時に大輔で居らした井上さんは、もう辞すに相違ないと、心に感じを有つて居つた。デ私自身にもどうしても斯う云ふ制度の仕方では宜くない、財政には少しも重きを措いてない、御心配は御無理ないと、固より私も同主義で、且百事御指揮の下に働いて居りましたから、同説を一番強く持つた一人であつた、それで今の意見書みたいな物を拵へ掛けて居つた。マア文章が好くなくちやアいかぬと思ふて、自身の文章ぢやア迚もいかぬから、江幡といふ人が大蔵省に……それも侯爵が入れやうぢやないかと云ふので入れた。江幡を元と能く知つて居つたのは木戸さんで、木戸さんが、江幡はなかなか好い文章家で、何かに役に立ちはせぬかと思ふから、あれを大蔵省あたりで使つて置いて呉れないかと云ふので、それを井上さんに仰有つた。斯う云ふ事を木戸が言ふから、好かつたら使つて置いて呉れないかと云ふ事で、江幡を入れて置いた、後に那珂通高と云つた人です。それに私が相談して斯う云ふ意見書を書きたいと思ふが、君書いて呉れぬかと云つて、書掛けて居ると騒動が起つた。騒動と云ふのは、大輔がどうしてもモウ退かにやならぬと云ふ、切迫した場合になつて、夫から辞表を出して、其翌日であつたか、翌々日であつたか、取纏めてそれを持つて行つて御覧に入れた。丁度其日に、今の芳川伯がお側に居りまして、其時分の有様は、丁度先刻お話の廃藩置県の事が、ヒヨツと生じて来る様な訳だから、余り鄭重の思案はなしに、考へた事はごく真率に、やつて仕舞ふと云ふ様な流儀で、こんな文章を書いたが、閣下見て下さらんかと云つて上げた、ドレ見せろと云ふので芳川さんと共に読んで、宜からう、いつその事二人で、辞表に対する建白にしやうぢやないか、さうして下されば大変有難い、そこで終の方がまずいと云ふので、幾らかの修正をお加へになつた様に覚えて居る。それから、それを直して持つて行つて、お目に懸けて、宜しいと云ふので、二人の名前で出した。出しただけなら叱られはしない、それを新聞に出せと云ふので、新聞に出してしまつた。それは日進真事誌にも出たが、曙新聞にも出した、青井秀といふ人が扱つた。それで江藤新平さんが、政府の秘密を発く、井上は長く官に在つて、容易ならぬ体であるに拘らず、さう云ふ事をする、殆んど朝敵同様な事だと云ふので、縛ると云ふ論だつたさうです。
井上侯 縛つて牢に入れると云ふのぢや。
 - 第3巻 p.757 -ページ画像 
渋沢男 共に縛られる訳ぢやつたさうです。それで其時分の制度で、何でも封書推問と言ふので、直様呼出さず、如何なる了簡で斯う云ふ事をしたかと、封書で推問が来る。其推問に向つて答弁をしてやる。其答弁の結果二十幾円かの罰金となつた。
井上侯 裁判所へ呼出されて、私は出た。
渋沢男 私は出ませんかつた。
井上侯 私は呼出されて出た。それで是は入牢と覚悟した、すると額は覚えぬが罰金を取られた。 (明治四十二年二月四日)
   参照
     申渡
                  従四位 井上馨
  其方儀大蔵大輔在職中兼テ御布告ノ旨ニ悖リ渋沢栄一両名ノ奏議書各種新聞紙エ掲載致ス段右科雑犯律違令ノ重キニ擬シ懲役四十日ノ閏刑禁錮四十日ノ処特命ヲ以テ贖罪金三円申付ル
    明治六年七月廿日
      司法省臨時裁判所


新聞雑誌 第百三十四号 明治六年八月 【七月二十日臨時裁判所…】(DK030154k-0010)
第3巻 p.757 ページ画像

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世外井上公伝 第一巻・第五四九―五六九頁 〔昭和八年一一月〕(DK030154k-0011)
第3巻 p.757-759 ページ画像

世外井上公伝 第一巻・第五四九―五六九頁〔昭和八年一一月〕
○上略
 初め渋沢は時局の容易ならぬのを見て、予め那珂通高 旧盛岡藩儒江幡梧楼 に嘱して、財政意見書を作らしめてゐた。然るに今や時機が到来したので、五日に渋沢は之を公に示したところ、公は之を翻読して、「これはよく出来た。併しも少し数字を入れて確なことを書足さねばならぬ。吾輩が手を入れるから、一つ連名で政府へ出さう。」とて筆を執つて所々を増補した。それを渋沢が持帰り、また那珂と共に修正して、六日に出来上り、七日を以て之を正院に提出した。その消息は渋沢から公に宛てた書中に、「昨夜呈御覧候奏議、今朝より那珂と共ニ頻ニ推敲いたし漸浄書仕候間、乃チ調印之上差上申候、明日(七日)正院へ奉呈候義ハ、宜御取計被下度候、尤も生ハ一紙之置手紙を添て、今夕之を大隈へも相廻し置候、」 井上侯爵家文書 とあるので判然する。○建議書略ス第七四三頁参照
○中略
 さて公及び渋沢は右の如き連名の建議を出したので、政府は最早二人の意志を翻さすことの難いのを知つて、これが辞表を聴届けることに為つた。乃ち先づ九日を以て、参議大隈重信をして大蔵省事務を兼
 - 第3巻 p.758 -ページ画像 
ねしめ、十四日に公及び渋沢の職を罷めた。而して十八日に朝廷ではかの上表を批覆して、その政理と民力と相背馳す可からざる議は頗る適切であるが、我が国債を一億四千万円として歳計に一千万円の不足を生ずるといふ点は、全く一石の米価を弐円七十五銭と仮定し、また廃藩置県の如き臨時巨額を要するものを算入したに因るのであるから、全く奏議者の臆測に過ぎない概算であるとして、政府は終に之を却けた。その指令は左の如くである。
   建言ノ主意、其立論適当ノコトニ候ヘドモ、事ヲ挙ゲ実ヲ指シ候処ハ、現実ト相違候儀不少、尤政理・民力相背カザルヲ以テ、後来ノ標準ト為スベキ等云々ハ適切ノ筋ニテ、既ニ今般太政官事務章程改正被仰出候御主意ニ候ヘバ、右等ノ儀ニ付テハ安心可有之候、然ル処歳出入ヲ概算シ、一千万円余ノ不足ヲ生ジ候等ノ儀書載候ヘドモ、右ハ米価一石二円七十五銭ヲ以テ算当候積ニテ、且此内ニハ逐年繰戻ニ相成候分、又ハ廃藩置県ノ如キ非常ノ入費或ハ一時ノ費ノミニテ年々例算スベカラザル者モ有之、其上政府現今ノ負債ヲ論ジ、実ニ一億四千万円ニ下ラズト有之、是亦計算上大ニ相違ノ廉不少、彼是実事ニ徴シ勘合候ヘバ、必シモ毎年一千万円ノ不足ヲ生ジ、又一億四千万円ノ巨債ヲ負ヒ候訳ニ無之、旁右等申出ノ儀不都合ノ次第ニ付、書面其儘差戻候事
政府の弁解はとにかくも、元来が主管者の上書であつたからして、中外は政府の弁明を信ぜず、頗る物議に渉つたので、政府は大隈をしてその省に就き、再び簿記を査覈して実額を計算せしめた。
 嚮に公はかの建議書を政府に提出した後、渋沢の意見に従ひ之を新聞に投書する考であつた。五月六日附、渋沢から公に送つた書翰の追書に、「何卒新聞紙にも出し申度、其辺よろしく御取計被下度候、」 井上公爵家文書 とあるのを見れば、上表すると同時に原稿を新聞社へ送つたものらしい。その掲載された新聞紙は、新聞雑誌 附録第九十八号 ・日要新聞 第七十五号 ・日新真事誌 五月九日 及び外字新聞である。かくて政府の秘密を暴露して人民に不安を与へたといふ論が起つた。而も之を横浜の外字新聞にまでも掲載されたとなつては、猶更棄置きがたい問題となつた訳である。公と永炭相容れなかつた江藤参議の如きは、之を黙過すべきで無い。彼は先頭に立つて公並びに渋沢を弾劾し、政府の秘事を故らに世に泄したのであるから、彼等を捕縛すべしなどと壮語した。かくて司法当局者の活動となり、大蔵省員の兼子謙・佐伯惟馨・稲垣某等が司法省に拘留せられるに至つた。 ○中略
さて司法省に於ては公等に対する擬律の方法が手間取り、漸く七月二十日に至り、司法省臨時裁判所から左の申渡 井上侯爵家文書 があつた。
                     従四位 井上馨
   其方儀大蔵大輔在職中、兼テ御布告ノ旨ニ悖リ、渋沢栄一両名ノ奏議書各種新聞紙ヱ掲載致ス段、右科雑犯律違令ノ重キニ擬シ、懲役四十日ノ閏刑禁錮四十日ノ処、
  特命ヲ以テ贖罪金三円申付ル。
     明治六年七月廿日         司法省臨時裁判所
渋沢子爵の談話にも、「明治六年五月、侯と予は当時名高かりし建白書
 - 第3巻 p.759 -ページ画像 
を提出して、施政方針の大に誤まれることを論ずると同時に退職したるなり。共時頗る失笑に堪へざりしは、侯と予が其建白書を新聞紙上に発表したる廉を以て、侯は二十幾円 ○三円ノ誤 予は四円幾銭の罰金に処せられたことあり。予が建白書を草して侯に示すや、侯は喜んで之れを容れ、直ちに太政官に提出すると同時に、世に公にすべしと云はれたり。予は其時其筋に建白するは兎も角、世に公にするは如何あるべきかと諫めしかど、侯は例の気性で、何に構ふものか、斯る誤れる政府の方針は広く知らしめざるべからずとて、遂に之を当時の新聞紙に掲載せしめたる次第なり。時の司法大輔たりし故江藤新平氏と侯とは、平素より非常に仲悪く、一時一物皆衝突の種となり、侯が建白書を出して職を退くと共に、江藤は高等探偵二三人を侯と予の身辺に附き纏はしめ、新橋方面に於て豪遊を試みし際の如き、随分珍談もありき。斯くて右建白書の新聞紙上に出でて政府の失政暴露するや、世論喧囂を極めたるは勿論、江藤は得たり賢しとなし、井上と渋沢は太い奴なり、職を奉じながら身退くや忽ち政府の失敗を発くとは捨置き難し。重刑に問はざるべからずと主唱し、其結果遂に前記の滑稽なる罰金となれる次第なり。」 竜門雑誌 と。この談話によれば新聞掲載の首唱は公になつてゐるが、前述の如く渋沢の手紙に端を発したものとも考へられぬこともない。公と渋沢とは意気相投じ進止共に行動を一にし、声の響に於けるが如き間柄であつたから、敢へて発議の孰にあるかを問ふ必要はなからう。
○下略



〔参考〕竜門雑誌 第七二号・第二―七頁〔明治二七年五月〕 予算論(文学士阪谷芳郎君演説)(DK030154k-0012)
第3巻 p.759-761 ページ画像

竜門雑誌  第七二号・第二―七頁〔明治二七年五月〕
  予算論 (文学士 阪谷芳郎君演説)
○上略 日本に於て予算のことが、始めて政治家の問題に上りましたのは明治六年からのことでござります、其以前に於きまして、予算のことはどうであつたかと云ふと、先づ予算と云ふものは無かつたと云つて宜しい、即ち明治元年御一新以来、明治六年迄の間と申すものは、先づ未だ世の中が太平と申す訳に往かない、御一新の戦争が済みましても、まだ藩と云ふものが成立つて居つた、其藩の廃せられたのは明治四年の七月でござりますが、それ迄は政府の財政はどう云ふことに落付くか、さつぱり目当が立たぬ、当時の政治家も、財政のことに就いて、大に心配したことでござりまして、到底財政の基礎と云ふものが立たぬ以上は、明治政府の運命も覚束ないものであると云ふことを、苛く憂へた、夫故に大蔵省に於きましては、頻りに予算を立てると云ふことを主張しました、即ち今の大隈伯、井上伯、それから第一銀行頭取渋沢栄一氏、是等の人々が予算を立てなければ、将来政府の運命はどう落付くか分らぬと云ふことに就いて、大に苦心をしたのでござります、其予算の始めて稍々出来ましたのは、明治六年でござりまして、其時に大蔵省に職を執つて居つたのが今の内務大臣井上伯、第一銀行頭取渋沢栄一氏で、此二氏が政府の歳入が幾らと云ふ計算を立てゝ、其中から政府の歳費を定めて往くと云ふ計画を立てた、然る
 - 第3巻 p.760 -ページ画像 
所当時に於きましては、御一新創草の際で、中々予算で各省の事務を制限すると云ふ思想が発達しない時でありますから、それは大蔵省が途方もない窮屈なことを云ふ、さう云ふ歳出を制限するのは明治政府の発達を止むるものであるから、さう云ふことをして貰つては困ると云ふのが、他の各省の苦情であつた処が、井上伯は例の果断家でありますから、歳入を量らずして歳出をすると云ふことは出来ぬと云ふことを主張せられた、終に非常な議論の末、故の参議大久保利通君が其事を太政官にあつて仲裁をせられて、まあまあさうどうも、歳出を限ると云ふことは宜しくあるまい、先づ此処は事務を拡張した方が宜からうと云ふことで、井上渋沢二氏の計画が破れた、そこで井上渋沢二氏は大に憤激して、彼の有名な建白書を作つて、それを太政大臣三条実美公に呈して、即日辞表を出して立去つた、其建白書は日新真事誌と云ふものに井上氏が投書し、日新真事誌に掲載になりました、其中にどう云ふことが言つてあつたかと云ふと、どうも明治政府の財政の立て方が甚だ宜しくない、入ることを量らずして出ることを為すから、到底歳入を以て歳出を維持することが出来ぬ、段々と頭が膨れて尾つぽの方がつぼむと云ふことで、事務は大変に拡がるけれども、財力が続かぬから、仕舞には倒れて仕舞はなければならぬ、即ち明治六年の一年の歳入に於ても、巨万の歳入不足を生ずると云ふことがあつた、そこで世論が八釜敷なつて、まだ明治六年のことで王政維新後、政府の信用が薄いのに、大蔵省の当局者からさう云ふ建言が出たから、政府の運命が覚束ないと云ふので、大変議論が沸騰したことである、そこで政府に於きまして、是は捨置き離いことである、何でも此建言書の事実を打消さなければならぬと云ふことから、遂に今の大隈伯が財政の調べを命ぜられて、それから二三週間の中に再び財政の調べが着きまして、歳入と歳出とを対照して、明治六年歳入歳出見込会計表と云ふものを作つて政府に提出せられた、其見込会計表に依ると、前の井上渋沢二氏の建白は、事実を失つたものである、政府の歳入歳出ハ、決して危険なものでない、却て巨万の剰余を生ずると云ふ弁駁であつた、そこで政府は前の井上渋沢二氏の建言を打消すが為に、見込会計表と云ふものを新聞に掲載致しまして之を世間に示した、是が我国の予算と云ふものゝ起りました始めでそれより後は毎年見込会計表を政府が作つて新聞に出すと云ふことになつたのでございます、そこで――乍併此見込会計表と云ふものは不完全なもので、唯歳入が幾らに、歳出が幾らと云ふ大ザツパの計算を示す為に出来上つたのでござります、乍併予算と云ふものを人民に示すと云ふことの考と云ふものは、是から段々と発達して来る様になつたので、之を他の各国の例に照して考へますると、中々政府が会計を公けにすることは他の国ではやつて居らぬ、詰り血を流し屍を原野に曝して、非常な騒動があつて、憲法が出来て、それから政府の歳計を示すと云ふことがあつた、我国の如く奇妙な、一二の政治家の争から発達して来たのは、珍しい事実であります、乍併其事実と云ふものは、甚だ日本の為めに幸福なことになつて、其以来必ず予算と云ふものは人民に示さなければならぬと云ふことになつて来た所が、其始めに於きまして、単に予算と云ふものを作
 - 第3巻 p.761 -ページ画像 
つたに止りましたが、未だ決算を示すと云ふことの考はなかつた、然る処予算を作つて見ると、其結果がどうなつたかと云ふことは、必ず人民が知りたい、又政府の当局者に於ても、唯予算はこうであつたと云ふことを広告して、其後とは知らぬとはいかぬ、そこで決算と云ふものを序でに示すと云ふことになりました、即ち明治十一年に決算規則と云ふものが出来まして、決算と云ふものを世の中に示すと云ふことになつて来た、そこで予算決算と云ふものが出来て来たに就きまして、段々とそれに附属した会計規則と云ふものが自然と必要になつて来まして、遂に明治十四年に至つて会計法が出来た、其会計法が出来たに就いて、会計検査院と云ふものを置かれて、会計検査院規則と云ふものが出来て来ると云ふと、それから段々会計の監督方法が発達して来た、其後明治十八年に至つて、予算条規と云ふものが出来、続いて歳入歳出の出納規則が出来、ずつと進んで明治二十二年に今日の会計法が出来て、遂に憲法と共に明治二十二年二月十一日に発せられたのであります。 ○下略


〔参考〕明治政史 第六編(明治文化全集第二巻・第一八四―一八五頁)(DK030154k-0013)
第3巻 p.761 ページ画像

明治政史 第六編(明治文化全集第二巻・第一八四―一八五頁)
○上略
 之を聞く井上渋沢二氏の建白書新聞紙に登載せらるゝや、政府二氏を譴責するに濫に政府の秘事を世に公にするを以てす。井上抗論して曰く、政府の会計を世に公示するは欧米各国皆然らざるはなし。何の不可か之あらんと。依て政府も亦大に悟る所あり、会計表を公にするに至れりと。当時二氏の建白書は直に政府の却下する所となりしと雖も、此建白は実に意外の良結果を我会計整理上に生じたるものと云ふべし。之を欧米諸国に就きて考ふるに、立憲政体の国にあらずして会計を公示するもの未だ之あらざるなり。然は則我国に於て会計を公示したるは特別の美政と云はざるを得ず。 ○下略


〔参考〕官許 日新真事誌 第二周年・第四一号〔明治六年六月二〇日〕 論説(DK030154k-0014)
第3巻 p.761-762 ページ画像

官許 日新真事誌 第二周年・第四一号〔明治六年六月二〇日〕
    論説
大蔵省事務惣裁大隈君カ政府ニ上書セシ輸出入ノ一書ヲ当新聞ニ掲載シテヨリ余等之ニ因テ貴官ノ投ズル正説ヲ見ント希望スル已ニ三四日に至ル、而テ未タ曾テ其説ヲ得ザルヲ以テ敢テ自己ノ愚考ヲ述ベン、彼書タル全件皆肝要ニシテ従来日本新聞紙ニ記載セル事件中ニ就テ最大切ノ者ト云フ可シ、故ニ彼書ヲ読ム中外人民ハ大ニ井上渋沢両氏ヲ擯斥ス、而テ余等亦両氏ヲ閣テ論議セザル能ハス、如何トナレバ彼等ガ建白ニ因テ醸生スル国辱一日ニシテ之ヲ洗滌シガタケレバナリ、井上ノ献白及《(マヽ)》ヒ大隈ノ上書ニ付テ関係スル事件ハ実ニ広大ニテ諸看官モ忽チ之ヲ理解スルニ至ラン、井上等政府ニ書ヲ献セシ所以ノ本意ハ余等今玆ニ贅セズト雖モ、彼等ノ罪ハ必ラズ司法省ニ於テ裁断アル可キナリ、且其裁決律例ヲ論スルハ新聞家ノ職務ニアラザレハ暫ラク裁断アルヲ待テ後其可否ヲ弁駁スベシ、余等今只管大隈君ノ上書ヲ信ス而テ之ヲ信用ス可キ所以アリ第一ニ彼書大隈君ノ名ヲ保ツ此大蔵事務惣裁ノ名誉ハ今玆ニ贅スルヲ俟タズシテ其徳既ニ昭ニ人敢テ之ヲ疑議ス
 - 第3巻 p.762 -ページ画像 
ルナシ、外国人モ亦常ニ大隈君ヲ称シテ正直其任ニ堪ユル人物ト為ス、彼ノ上書中ニモ既ニ其名ヲ手記スルニ依リ之ヲ看読スル人々ハ深ク其説ヲ信用ス是等ヲ以テ已ニ紛々タル世議モ漸クニシテ和解スルニ至ル
井上氏大蔵省ニ於テ奉職セシヤ已ニ久シク、其職ヲ辞スルノ際建白書ヲ政府ニ呈進ス、其心ヤ誠忠ヨリ出ルニアラスシテ忿怒ヨリ出ルモノナラントス而シテ大隈君モ亦タ其事務ニ於テ意衷ノ潔白《(マヽ)》ナラザルモノアルカ若シ、果シテ然ラバ日本国ノ大事ニ至レルヤ必セリ、然レドモ大隈君ハ固ヨリ良臣ニシテ其品行ニ於ルモ亦実ニ信ス可キナリ、而シテ如シ同氏ノ政府ニ上ル歳出入ノ高不正アルトキハ綿密ナル計算ヲ得サル者ニテ中外人民ノ信用ヲ失ヒ且ツ其耻辱少シトセザルベシ、吾ガ輩ハ彼書面ノ趣ヲ以テ信用シ且ツ宿疑ヲ解ケリ、既ニ横浜ニ於テ外国人皆此書ヲ以テ確証トナスベシ、今若シ英亜各国ニ於テ斯ノ如キ事件アルトキハ其人民必ス井上氏ヲ以テ大隈君ニ答応ヲ為サシム可シ、且如何ナル道理ニヨリテ両氏其献白ヲ為セシ乎判然此儀ヲ示サン事ヲ乞ハン、大隈井上両氏ヲシテ詳ニ各上書ノ意ヲ弁明スルニアラサル迄ハ其可否ヲ決スルコトヲ得ス、且両氏共永ク其任ニアリテ力ヲ国家ニ致シ、共ニ罪科アルニアラサレハ両氏互ニ其算計表ノ原拠ヲ示シ以テ大隈氏上表ノ可否モ亦弁論スヘキナリ、三氏ノ上表ニ依テ新ニ歳出入及ヒ収税国債ノ正算ヲ宇内ニ公告シ其事実ヲ明論セシヲ以テ余等ノ宿念漸クニシ其一ヲ得喜躍自ラ止マザル処ナリ、因テ斯ノ如キ事件ニ処スル方法ヲ以テ日本国民ニ告ク


〔参考〕郵便 報知新聞 第五四号附録・第五―七丁〔明治六年五月〕 【近頃新聞ヲ閲スルニ…】(DK030154k-0015)
第3巻 p.762-763 ページ画像

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〔参考〕世外侯事歴 維新財政談 上・第六九―七〇頁 〔大正一〇年九月〕(DK030154k-0016)
第3巻 p.763 ページ画像

世外侯事歴 維新財政談  上・第六九―七〇頁〔大正一〇年九月〕
○上略
渋沢男 何でも私は確にあなた ○井上侯 にお目に懸つたのは、伊藤さんの築地の家ぢやなかつたかと思ふ。大隈さんの隣に居つた、彼処から立たれたでせう、何でも玄関の処で、オヽ貴様渋沢かと云つて、私はお目に懸つたのを覚えて居ります。閣下が洋服を着ておいでになつた、お帰りがけ、私が行つた。所で、アヽそれなら、是から懇意にしなくちやならぬと云つて、立談したのを覚えて居ります。私は恭しく礼をしたのに、一向頓著なしに、オヽ貴様渋沢かと云ふやうな調子で、アヽおれは井上だ、どうか宜しくお頼み申すと云つたやうな風で、あまりひどい人だと思つて、それで私はお目に懸つたのを覚えて居る。多分伊藤さんの玄関だつたと思ふ。それが三年十一月か、四年春か、時日は判然覚えませぬが、其時です。それから此方へお留りになつて、彼方の方は其関係から馬渡がやつて居る時分には、始終此方から閣下が指図しておいでゞした。
                (明治四十五年三月二十日)


〔参考〕竜門雑誌 第三二九号・第三八―四一頁〔大正四年一〇月〕 ○故井上侯を憶ふ(青淵先生)(DK030154k-0017)
第3巻 p.763-765 ページ画像

竜門雑誌  第三二九号・第三八―四一頁〔大正四年一〇月〕
  ○故井上侯を憶ふ (青淵先生)
  本編は雑誌「向上」十月一日発行の紙上に掲載せる青淵先生の談話の要領なり
                          (編者識)
▲始めて侯を知る 井上侯の薨去は洵に痛嘆の至りである。侯は政事の表面に立つて、華々しい活動をされた方では無いが、維新以来、国家に貢献された事は、私が事新しく申すまでもなく偉大なものである。畏れ多い事であるが御誄詞の中に、「勤王ノ大義ヲ唱ヘテ克ク回天ノ偉業ヲ翊ケ、海外ノ状勢ヲ察シテ終ニ開国ノ宏猷ヲ賛シ、力ヲ廃藩置県ノ際ニ竭シ、績ヲ財政経済ノ局ニ貽シ、忠忱節ヲ効シ、勇決難ニ膺リ齢八旬ヲ踰エテ望ミ一世に隆シ。」と仰せられたのは最も能く侯の経歴を表彰されたものと思ふて感佩に堪えぬのである。私が侯を知つたのは明治三年の冬であつて、当時侯は大蔵少輔の職に在り、私は大蔵少丞であつた所から、親しく侯の指揮を受けるやうになつたのである。元来、侯は官僚風の型へはまらぬ人で所謂豪傑とか、志士とかいふ風であつた。殊に其頃は年令も若く、英気勃々として、如何にも上杉謙信流で疾雷耳を掩ふに暇な程の性急なる御人で、而して辺幅を飾る事などは更に無かつた。
 - 第3巻 p.764 -ページ画像 
▲開国主義を唱ふ 侯も最初は熱心な攘夷論者で、御殿山の焼打に加つた時には、最終まで居残つて火を付けた程であつたが、其後説を一変して、開国主義を唱ふるに至つた。其れは文久元年に、横浜在留の英国商人の心配で、侯は六七人の同志と共に英船に便乗して、欧羅巴に抵り、英国滞留中、偶々英仏米蘭四ケ国の聯合艦隊が、馬関を砲撃するといふ事を聞いたので、伊藤公と共に、急遽帰朝し、攘夷の藩論を和げやうとして、日夜非常に奔走し、遂に開国説に一致せしむる迄、容易ならざる骨折をせられた。其結果として攘夷派の人より要撃されるやうな目に遇つたのである。私抔は其頃も、尚攘夷の可能を信じて居たのであつたが、侯は既に悟る処があられたから、此点は私の深く恥入る次第である。
▲直情径行雷と避雷針 侯は実に直情径行の人であつて、事物を判断するに毫も仮借することがなかつた。故に一面には敵も沢山もつて居られたやうに思ふが何事に就ても、其結果を透視する明識に富み論理を詳細に吟味する人では無かつた。又一度交りを結んだ者に対して飽く迄親切を尽された事は侯の生涯を一貫して特筆すべきである。然し切角の親切心から尽された世話で、時には干渉となり、大きな声で罵詈する事も多く、為めに雷だと人から言はるる位であつた。私は幸に格別叱らるゝ事も無かつたから他の人々も珍らしく思ふて、日露戦争後、東京の銀行家が三井集会所に集つた時、侯も出席されて公債発行の事に就て種々評議の際に、第百銀行の池田君が、「雷のある以上は、避雷針が無ければならぬ」といふて、私を顧みて一笑した事があつた。
▲余と侯との関係 侯と相識りしは明治三年であるが、四年の春頃から私は百事侯に尊属して大蔵省の事務を取扱ふたから、別して御懇親を厚ふし、爾来満二年、即六年五月までは、殆んど侯の女房役を勤めて居たので、始終色々な事に関与した、当時の大蔵省は、今日とは違つて内務・逓信・農商務及司法の一部に属すべき事務をも担当して居たのであるが、私は専ら財政経済の方で、銀行条例を設けるとか、貨幣制度を定めるとか、兌換券を発行するとか、会社法を立てるとかいふ事務に当つて侯の主張と私の愚見とは、概して一致した。民業を盛にしたいといふ事、政府の事業を減じ度いといふ事、官尊民卑の弊を去つて、飽迄官民間を連絡させたいといふ事等が其主なるものであつた。殊に聯絡といふ事には、終始格別に熱心であられたものか、聞く所によれば御臨終の囈語にまで「聯絡」「聯絡」と呼ばれたとの事である。侯は明治六年に政府と意見を異にし、遂に辞職するに至つた、故に私も其際、侯と共に退官することゝした。尤も私は其以前にも辞意を決したことがあつたが、侯の忠告によつて二年程延引した。当時私の意見としては、我国の経済界の将来を考察すると、政府に於て如何に心を砕き、力を尽して貨幣法を定め、租税法を改正し、会社法を設け、興業殖産の事を奨励したとて、今日の前垂商人では到底真成に商工業を改良進歩せしむる事は出来ぬ。就ては自分も官を退いて身を商業界に委ね、及ばずながらも率先して日本の商工業に寄与したいといふのであつて、是は侯も全然賛成されたのである、仍で私には出来
 - 第3巻 p.765 -ページ画像 
得るか知れぬが兼ての理想を試めして見たいと申した処が、侯も漸くの事で諾されて、共に辞職したのである、其後私は第一国立銀行に入る事になりて爾来侯の御助力を受けた場合も少くなかつた。
▲侯爵の親切心 明治六年の退官後は侯も民間の事業に着手せられ一時先収会社を設立されたが、再び官途に就かれ、種々なる官職に歴任されて、終に元老の地位に列せられて、功名共に一世に隆くなられた。私の特に忘れられぬのは侯の親切心の深かつた事である。夫れは明治七年の冬に第一国立銀行と最も深い関係のあつた小野組が破産すべき悲境に陥つた時、一日侯は突然私の宅に訪ねて来られ、共に飯を喰ひに行かぬかと誘はれた。其頃侯とは毎々料理屋などに出入りして重要の案件をも協議したことがあつたから、其日も誘はるゝ儘、何気なしに山谷の八百善へ行つた。四方山の話をしながら夕飯を仕舞つた。侯は膝を進めて、「時に小野組が大分危い様子だが、一体銀行から貸出してある金に対しては如何いふ処置を取る了簡か、独り君の前途に関係するばかりでなく、財界の為に心配の次第である。創立したばかりの第一国立銀行が若しも蹉跌する様なことになると、将来の起業に非常なる影響を来す訳である。実に此件に就て君の所存を聞度い為めに、態と此処まで来て貰つたのである」。と言はれた。余は真に其厚意に感激した。勿論其前にも小野組の事に就ては、多少の談話はないでもなかつたが、これ程までに侯が心配して下さらうとは思はなかつた。仍て其親切心に対して、余もまた事情を逐一吐露して、玆に始めて堅く決心することが出来た。それで私は侯に対し、「実は斯々に処分しやうと計画を立てて居たのである。」と精細に前後の顛末を物語つて、後要するに小野組との示談は整つて居るが未だ三井組との交渉が出来て居らぬ。」といふと、侯は「宜しい。三井組の方は僕から話してやらう。」と曰はれて、其難関も予定通りに決了して、案外小事件として切り抜けることが出来た。若し此時に侯の親切な言葉が無かつたならば、当時の第一国立銀行はどうなつたか判らない程である。此一例でも侯の親切心の深かつたことは充分に解るのである。而して侯は其れを自分から恩恵らしくするやうなことは少しも無かつた。
之を要するに、侯は靄然たる君子人では無かつたが、事に当りて、極めて質実であつて、能く結果を見るの明識に富み人に対して飽く迄親切であつたのは実に敬服推称すべきものであつた。殊に侯の如く国家の大事に任ずる人は、兎角細事に疎なるのが普通であるが、侯は決して夫れで無く、細大共に細密に行届いて、一度び其事に任ずれば徹底せねば止まぬのは、実に天稟といふべくして、終に今日の偉名を博せられた所以であらうと思ふ、国家益々多事なるに際して、侯の薨去せられたのは、返へす返へすも痛惜に堪えぬ次第である。 (完)


〔参考〕竜門雑誌 第六一七号・第一―一八頁〔昭和一五年二月〕 大蔵省在官時代における井上馨及青淵先生の健全財政・健全通貨主義(土屋喬雄)(DK030154k-0018)
第3巻 p.765-779 ページ画像

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