デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

2章 交通
1節 海運
3款 日本郵船株式会社
■綱文

第8巻 p.252-254(DK080012k) ページ画像

明治42年6月6日(1909年)

是年古稀ニ渉ルヲ以テ、第一銀行他少数ノ関係ヲ除キ、諸事業ヨリノ引退ヲ決意シ、是日同会社取締役ヲ辞ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四二年(DK080012k-0001)
第8巻 p.252 ページ画像

渋沢栄一日記 明治四二年
六月十一日 雨冷
午前六時半起床入浴シ畢テ朝餐ヲ食シ、来人ニ接ス○中略日本興業銀行・日本郵船会社・日清汽船会社等ヲ歴訪シテ、今般取締役監査役辞任ノコトニ付一応ノ事情陳述ヲ為ス○下略
六月十九日 雨冷
十二時兜町事務所ニ来ル○中略近藤廉平氏来リ、日本郵船会社辞任ノコトニ付謝詞アリ○下略
七月七日
午後五時築地瓢屋ニ抵リ、日本郵船会社ヨリノ案内ニ係ル宴会ニ出席ス、同会社辞任ニ付テ催ス所ナリ、近藤氏ヨリ一場ノ謝詞アリ、依テ答詞ヲ述へ、夜十時散会


竜門雑誌 第二五三号・第四八頁〔明治四二年六月二五日〕 辞任書(DK080012k-0002)
第8巻 p.252 ページ画像

竜門雑誌  第二五三号・第四八頁〔明治四二年六月二五日〕
    辞任書
拙者儀頽齢に及び事務節約致度と存候間、貴社「何何役」辞任仕候此段申上候也
  明治四十二年六月六日          渋沢栄一
    書状
拝啓、時下向暑の候益々御清泰奉賀候、陳は小生儀追々老年に及ひ候に付ては、関係事務を減省致度と存し、今回愈々第一銀行及東京貯蓄銀行を除くの外、一切の職任を辞退致候事に取極候に付、別紙辞任書差出候間、事情御了察の上可然御取計被下度候、尤も右様役名は相辞し候へ共、向後とて従来の御交誼上必要に臨み御相談に与り候事は敢て辞する処に無之候間、其辺御承知置被下度候、此段申添候 敬具
  明治四十二年六月六日          渋沢栄一


日本郵船株式会社 第二十四期後半年度 営業報告書(DK080012k-0003)
第8巻 p.252 ページ画像

日本郵船株式会社 第二十四期後半年度 営業報告書
   第十 役員
一取締役男爵渋沢栄一氏ハ本年六月八日辞任セラレタリ
  ○日本郵船株式会社五十年史第九一〇頁ノ年表ニヨレバ六月八日辞任トアリ尚ホ竜門雑誌(第四八二号・昭和三年一〇月)所収伊藤米治郎氏執筆ノ「渋沢先生と郵船会社」ニモ亦同八日トアリ、恐ラク六日辞任通達、八日受理容認ノ順序ナラン。然レドモ辞任月日ノ正シキモノハ、爾余ノ諸会社ト同ジク辞任ヲ発表サレシ六月六日トス。


日本郵船株式会社 第二十五期前半年度 営業報告書(DK080012k-0004)
第8巻 p.252-253 ページ画像

日本郵船株式会社 第二十五期前半年度 営業報告書
 - 第8巻 p.253 -ページ画像 
   第二 株主総会
一明治四十二年十一月二十六日、東京市麹町区有楽町一丁目東京商工会議所ニ於テ、第二十四期後半年度ノ定時株主総会ヲ開ク、出席株主二千二百九十五人、此株数二十九万八千六百一株、社長近藤廉平会長席ニ著キ、左ノ件ヲ議了セリ、○中略
一取締役男爵渋沢栄一氏辞任ニ付、慰労金贈与ノ件ハ取締役ニ一任スルコトニ決ス


竜門雑誌 第四八一号・第六九―七〇頁〔昭和三年一〇月二五日〕 渋沢先生と郵船会社(伊東米治郎)(DK080012k-0005)
第8巻 p.253 ページ画像

竜門雑誌  第四八一号・第六九―七〇頁〔昭和三年一〇月二五日〕
  渋沢先生と郵船会社(伊東米治郎)
    第四節 取締役就任中の精励
 渋沢子爵の郵船会社取締役たりしは明治二十六年十二月一日から同四十二年六月八日まで、前後十六年であるが、此の間氏の精励ぶりは実に絶大なものであつた。此の期間に於て日本郵船会社にとつて幾多の重要なる事件が起つた。中に就き特筆大書さるべき事件は前記の孟買航路の確立、二十七八年の戦役に際し軍隊及軍需品の輸送、戦後に於ける欧米濠三大航路の開始、之れに伴ふ資本金の増加、三十一年に於ける欧米二大航路助成法の制定、三十二年《(三)》の北清事変に於ける軍事輸送、三十五年の揚子江航路開始、三十七八年の日露戦役に於ける軍事輸送、三十九年の盤谷航路開始等であるが、此のほか比較的小なる事件の起生せる事は殆んど毎月の如くで、殆んど送迎に遑なき有様であつた。
 然かも是等の案件の多くは対外関係を有したので、会社当局者は常に慎重なる態度をもつて事に処するの必要を感じ、毎週取締役会を開くを常とした。斯くの如く頻繁に取締役会を開催したのは諸会社中稀れに見た所であつたが、渋沢子爵は多事多忙なる身を以て、其の貴重な時間を割愛し、毎会必ず出席して熱心に所見を披瀝せられ、終始当局者を裨補せられたのは一同の深く感激した所であつた。
 思ふに、子は其の多数関係会社の中、最も対外関係事項の多かつた郵船会社に、其の識見と方策とを試むるの題材を発見せられ、毎回興味を以つて、右の重役会議に出席せられたものであらうが、更らに吾等の見逃がしてはならぬ点は、子が国家経済の先覚者を以て自ら任じ後進を導ひて対外関係の諸交渉に過失無からしめんとする至情に出でた事である。


実業之世界 第六巻第七号〔明治四二年七月一日〕 日本郵船株式会社(渋沢栄一談)(DK080012k-0006)
第8巻 p.253-254 ページ画像

実業之世界  第六巻第七号〔明治四二年七月一日〕
    日本郵船株式会社(渋沢栄一談)
      (明治十八年十月設立払込資本二千二百万円配当年一割二分渋沢男は当会社の取締役)
是は、元来共同運輸会社と三菱汽船会社とが合併して日本郵船会社となつたものであるが、さて、合併して公共的の性質は帯びたものゝ、どうも三菱一個人のものゝやうに見えて面白くない。夫れで渋沢を入れたら名実共に公共的のものになるであらうと云ふ事で、明治二十六年に岩崎男から頻りに入社を懇請された。乃で私は、さう云ふ事なら
 - 第8巻 p.254 -ページ画像 
荘田(平五郎)も入れよ、中上川(彦次郎)も入れよと云ふので、三人共に入つて、八百万円の資本を二千二百万円迄に増資し、従来なかつた欧洲航路・濠洲航路なども新たに拓いた。吾々は其の名は伴食重役であつたけれども活動に就いては十分力を入れたものである。
只今は、社長近藤廉平・副社長加藤正義及其他の堅実なる重役の経営の下に、社運も頗る順潮で、且つ前途にも心配がない。で、私が辞職しても社会には大した損失がない。
  ○栄一在任中及ソノ前後ニ於ケル同社ノ業務及資産状態ハ左表ノ如シ(日本郵船株式会社ノ沿革及現状〔大正一二年七月〕ニ拠ル)
              船舶総噸数  一艘平均噸数  航海里数   荷客運貨     資本金    資産価格
                           (一期間)  (一期間)
                  噸     噸     千浬       円      千円      千円
第一期末十九年九月    六六、七一五 一、〇七六  一、四〇九   三、四九一  一一、〇〇〇  一三、一六八
第五期末二十三年九月   六七、三一〇 一、四〇二  一、五三〇   四、五〇四  一〇、七五〇  一二、七八五
第十期末二十八年九月  一〇一、三四二 一、七七八 ※一、一三三   五、八六〇   八、八〇〇  一八、〇〇二
第十五期末三十三年九月 二〇四、七一三 三、〇五五  二、六八六  一四、八一四  二二、〇〇〇  三八、二一三
第二十期末三十八年九月 二五〇、九〇五 三、四三七 ※一、三三七   九、一五六  二二、〇〇〇  四七、三七四
第廿五期末四十三年九月   二八一、二二三 四、〇七六 三、二七五  一九、〇八七  二二、〇〇〇  五三、七一八
第三十期末大正四年九月   四二八、〇一五 四、六〇二※四、〇〇五  三三、四四九  二二、〇〇〇  七一、八五六
第三十五期末大正九年九月  四九四、〇二八 四、七九六※五、三四四 一二八、九九三 一〇〇、〇〇〇 二一九、一五四
第三十七期末大正十一年九月 五六〇、五三一 五、二三八 五、〇五二  六八、八九三 一〇〇、〇〇〇 一九三、七三〇
   ※印ハ御用船ヲ除キタル計算ナリ