デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
1節 綿業
1款 大阪紡績株式会社
■綱文

第10巻 p.91-101(DK100009k) ページ画像

明治23年10月1日(1890年)


 - 第10巻 p.92 -ページ画像 

大阪織布会社ヲ買収シテ分工場トナシ、綿布製織業ヲ兼営ス。翌年七月国内市場ノ逼迫ニヨリ綿糸ヲ清国ニ輸出シ、本邦紡績業海外輸出ノ嚆矢ヲナス。


■資料

大阪紡績会社第拾五回半季考課状 自明治二三年七月 至同年一二月(DK100009k-0001)
第10巻 p.92 ページ画像

大阪紡績会社第拾五回半季考課状 自明治二三年七月 至同年一二月
            大阪府西成郡三軒屋村大字三軒屋
                     大阪紡績会社
明治廿三年七月ヨリ十二月ニ至ル本社事務要項ヲ提略シ、株主各位ニ報告スルコト左ノ如シ
    ○株主総会決議之事
一七月十九日大阪ニ同十五日東京ニ株主総会ヲ開キ、前季純益金配当方法ヲ決議セリ
一同時臨時会ヲ開キ大阪織布会社譲受ノ件ヲ議シ、調査委員五名ヲ撰定セリ
一八月二日大阪ニ同廿七日東京ニ臨時総会ヲ開キ、大阪織布会社ノ譲受ノコトニ決議セリ
    ○願伺届ノ事
一七月二日大阪府庁ヘ日本形船第三号紡績丸仮鑑札引換願書ヲ差出セリ
一八月二日外務省ヱ英国人解雇届ト共ニ僑寓標返上セリ
一同月二十日大阪府庁ヘ日本形船第四号紡績丸仮鑑札引換願書ヲ差出セリ
一九月廿六日同府庁ヘ大阪織布会社ヲ大阪紡績会社織布工場ト改称シ十月一日ヨリ紡織兼営ノ儀ヲ届出セリ
    ○製造実況之事
一七月一日ヨリ十二月廿八日ニ至ル操業日数百四十五日間ノ製糸高ハ四百六拾五万六千六百〇六封度余ニシテ其原綿消費高ハ五百六拾四万八千八百九拾封度余ナリ、此一日ノ平均製糸高ハ三万弐千百拾四封度トス
一十一月一日ヨリ十二月廿八日ニ至ル就業日数八十三日間ノ製布高ハ五拾九万九千九百拾碼ナリ、此一日ノ平均七千弐百廿七碼余トス
    ○製品売捌事情之事
一本季間製糸売捌高ハ太細合計四百三拾八万三千六百〇三封度余ニシテ此代価八拾五万六千百四拾六円余トス
一本季間製布売捌高ハ合計五拾九万三千六百四拾壱碼余ニシテ、此代価四万四百五拾弐円余トス
一本季間製糸ノ商情ハ前季ニ引続キ愈沈滞ノ情ヲ呈シ售路殆ント壅塞シ、為ニ製糸常ニ停留ヲ極メ勢ヒ糸価ヲ保ツ不能、全般ノ商情《(ママ)》ニ誇ハレ、愈糸価低落ヲ促シタルカ故収益随テ歉薄ヲ告ク、実ニ是レ本社創業以来未曾有ノ情態ト言フベシ
一織布工場ハ引継以来日尚浅ク加フルニ前項ニ陳ル如ク商情萎微ノ為収益充分ナラサリシモ、製品滞積ノ虞ヲ免カレ相当ニ銷售スルヲ得タリ

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大阪紡績会社第拾五回半季考課状 自明治二三年七月 至同年一二月(DK100009k-0002)
第10巻 p.93 ページ画像

大阪紡績会社第拾五回半季考課状 自明治二三年七月 至同年一二月
    明治廿三年十二月三十一日現在株主表
 姓名       住所             株数   株金額
渋沢栄一   東京市深川区福住町        六〇〇 六〇〇〇〇
堀口貞治郎  大阪市西区土佐堀一丁目      三六〇 三六〇〇〇
鵜川与治兵衛 滋賀県近江国蒲生郡八幡町字永原町 三五〇 三五〇〇〇
松本重太郎  大坂市東区平野町四丁目      三二〇 三二〇〇〇
毛利元徳   東京市品川区高輪南町       三一八 三一八〇〇
○中略
合計四百廿一人               壱万弐千株 百廿万円


大阪紡績会社第一六回半季考課状 自明治二四年一月 至同年六月(DK100009k-0003)
第10巻 p.93 ページ画像

大阪紡績会社第一六回半季考課状 自明治二四年一月 至同年六月
    ○株主総会決議之事
一一月廿一日大阪ニ同廿二日東京ニ株主総会ヲ開キ、前季純益金配当方法ヲ決議セリ
一右総会ニ於テ頭取・取締役・相談役ノ撰挙ヲ行ヒ、松本重太郎・熊谷辰太郎・佐伯勢一郎取締役ニ、渋沢栄一・矢島作郎・藤本文策相談役ニ重任セリ


大阪紡績第一八回半季実際考課状 自明治二五年一月 至同年六月(DK100009k-0004)
第10巻 p.93 ページ画像

大阪紡績第一八回半季実際考課状 自明治二五年一月 至同年六月
    ○株主総会決議之事
一一月十四日大阪及東京ニ株主総会ヲ開キ、前季利益金配当計算ヲ決議セリ
一同会ニ於テ取締役・相談役ノ撰挙ヲ行ヒ、伊庭貞剛氏取締役新撰ニ当リ、其他旧員重任セリ


(大阪紡績株式会社) 創業二十五年沿革略史 〔明治四一年一〇月〕(DK100009k-0005)
第10巻 p.93-94 ページ画像

(大阪紡績株式会社) 創業二十五年沿革略史 〔明治四一年一〇月〕
○明治二十三年本社ハ本邦紡績業ノ発展ト共ニ将来綿布製造業ノ之二伴フベキヲ覚知シ、曾テ同一ノ目的ヲ以テ設立セラレタル大阪市西区松嶋大阪織布会社ニ交渉シテ同社ヲ買収シ、本社分工場トナシ滊織機三百三十台ヲ運転シ綿布製織業ヲ兼営セリ、是レ本邦ニ於ケル完備セル滊織機工業ノ権輿ニシテ、爾後益々業務ヲ拡張シ現今四千百四十六台ヲ運転スルニ至レリ
○明治二十三年末ヨリ二十四年ニ亘リ米価ノ昴騰金融ノ逼迫ハ、工商業ヲシテ萎微不振ニ陥ラシメ製糸ノ販路ハ日々壅塞セリ、此時ニ方リ印度棉糸ノ輸入額ハ未ダ著シク減退スルニ至ラザルニ、内地紡績業ノ発展ハ其産額ヲ増加シタルヲ以テ、忽チ需給ノ平衡ヲ失ヒ糸価ハ両般ノ影響ニヨリ非常ニ暴落スルニ至レリ、此際本社ハ大勢ニ鑑ミル所アリ、印度棉花ヲ適宜混和シ孟買糸ニ優レル左二十手ノ製糸ヲ紡出シ明治二十四年七月之ヲ清国ニ輸出シ、本邦綿糸輸出ノ急先鋒タル栄称ヲ得シト共ニ当時輸入綿糸中多額ヲ占メタル印度糸ヲシテ将来其途ヲ絶ツニ至ラシメ、又他方ニ於テ本邦紡績業ヲシテ能ク需給ノ平衡ヲ保チ長足ノ進歩発展ヲナサシムルニ足ルノ機因ヲ爰ニ作出シタリシナリ
○綿布製造業ハ明治二十三年十月大阪織布会社工場買収以来、製品ノ
 - 第10巻 p.94 -ページ画像 
銷售旺盛ニシテ前途頗ル有望ナリシモ二十五年一月ニ至リ畿内地方類似ノ綿布ヲ製出スルモノ多ク競争激甚ナルヲ以テ、更ニ新方面ニ向テ販路ヲ開拓スルノ要ヲ認メ、清国上海ニ輸出シテ販売ヲ試ミ稍其目的ヲ達シタリ、爾来年ヲ累ヌルニ従ヒ漸次ニ其歩ヲ進メ輸出ノ好況ヲ見ルニ至リシモ、三十年四五月ノ交ヨリ銀貨暴落対清為替激変ノ為メ未曾有ノ不振ヲ来タシ製品渋滞ノ窮境ニ陥リタリシモ、越テ三十二年ニ入リテハ商況回復需要頓ニ増加シ転タ供給不足ヲ感ズルニ至レリ、然ルニ三十三年北清拳匪ノ事変ハ全ク綿糸布ノ輸出ヲ杜塞シ韓国ニ於ケル防穀令ノ発布韓銭ノ下落ト相待テ本邦紡績業ニ痛切ナル打撃ヲ与ヘタリ、於玆益々綿糸布輸出販路拡張ノ急務ヲ感ジ上海ニ天津ニ牛荘ニ将タ仁川ニ社員ヲ派シ、又ハ支店出張所ヲ設ケ孜々トシテ販售ノ路ヲ索メ以テ今日輸出旺盛ノ素地ヲ作リ、現今一ケ年ノ綿糸布輸出金額約五百万円ヲ計上スルニ至レリ
本社製造綿布ノ内、厚織及雲斎地ハ其地質強靭ニシテ軍用被服トシテ頗ル耐久ノ効アルコト夙ニ陸軍被服廠ノ認識セラルヽ所トナリ、明治二十三年ヨリ毎年多額ノ上納ヲ継続シ殊ニ日清・日露両戦役ノ際ノ如キ、軍需ノ急ヲ充タシ我社年来ノ旨趣ヲ貫徹スルヲ得タリシハ窃ニ以テ甚ダ光栄トスル所ナリ
  ○「綿糸を海外に輸出したのも大阪紡績が其の先鞭者であつた。同紡績の最初の頃の紡出番手は矢張り十四五番を中心としたのであつたが、明治十八年東京の共進会に出品すべく同十七年に、摂津の阪上棉を原料とし最も細き番手を紡出したるに始めて洋十七番手が出来た。
   ○中略
   印度綿を輸入する様になつてから大阪紡績は始めて二十番を紡出した。明治廿四年外国貿易の不権衡から財界の不振となり我紡績会社皆甚しき不況に陥りし時、大阪紡績は其の紡出した綿糸五梱を清国厦門に輸出した。之を本邦綿糸輸出の嚆矢とする。
    大阪紡績会社にて左二十手五梱を去三十日(廿四年七月)神戸出帆の尾張丸に積込み、厦門日本郵船会社代理店ピータセン商社へ向け輸出せしが、之れぞ内国産の綿糸を同地へ輸出せし嚆矢とす。(紡績聯合会月報)
   此記事では厦門に輸出した嚆矢の如く見ゆるも、実は海外輸出の嚆矢である。何故厦門を択んで輸出したかといふに、当時厦門は上海よりも天津よりも船都合の宜しかりし為めだといはれる。」(絹川太一編「本邦綿糸紡績史」第二巻第四〇五―四〇七頁)


孤山の片影 (石川安次郎著) 第一七七―一七九頁 (大正一二年四月)(DK100009k-0006)
第10巻 p.94-95 ページ画像

孤山の片影 (石川安次郎著) 第一七七―一七九頁 (大正一二年四月)
 ○第十九大阪紡績会社の発達
    綿布製織業兼営
 日本に於て力織機に依る綿布製織業の起原は、明治二十年三月、大阪に設けられし淀川織布会社が嚆矢で有る、之と同時代に東京に於て小名木川綿布会社が設けられた、之れは丈夫氏と同時代に英国に於て綿布業の研究をしたる熊谷氏を中心として設立した者で、其の後神鞭知常氏が社長に推されて居た、丈夫氏は大阪紡績会社の事業が第二期拡張に入り、其の基礎の漸く堅実になつた時を以て、大阪織布会社を設立せられた、之を起す動機は丈夫氏が英国に於て紡績事業を研究中に、或る陸軍の大官に面会された時に在つた、其の大官は丈夫氏に向
 - 第10巻 p.95 -ページ画像 
つて将来日本の軍需品の独立が、必要で有ることを説かれ、綿糸ばかりでなく進んで綿布を織つて貰ひたいとの話が有つたので、丈夫氏は紡績事業の基礎が堅実になると同時に、藤田伝三郎・松本重太郎氏を初め、大阪紡績会社の資本家に謀り、明治二十一年を以て之が設立を決定し、二十二年六月から二百台の織機運転を開始したので有る、而して丈夫氏は此の姉妹会社を監督して居られたが、適当なる時機を以て之を大阪紡績会社へ併合して分工場となし、滊織機三百三十三台を運転する様になつた、大阪織布会社の設立と共に、織機を取扱ふ職工は、大阪紡績会社の一隅に練習所を設けて丈夫氏が之を養成した者で有る、織布会社の商務は明治二十三年から岩楯林造氏が担任し、紡績会社へ併合後も岩楯氏は明治三十三年迄、商務を担当せられた
    支那へ輸出
 明治二十三年から二十四年へかけて糸価の暴落したる時、丈夫氏は支那に向て販路を拡張するの案を立てられた、印度棉花を混入して孟買糸を凌ぐ所の左二十手を紡出し、之を以て支那へ輸出の道を開いたそれは明治二十四年七月で此の左二十手の製出が成功したる為めに、印度糸の輸入も之を防止することが出来た
  ○絹川雲峯「大阪織布会社」(「綿業時報」第九巻第一二号・昭和一六年一二月)ニ拠レバ、大阪織布会社ハ明治二十年ノ創立ニ係リ、五月九日創立願ヲ提出シテ、同十一日認可サレタルモノナリ。発起人ハ山辺丈夫・佐伯勢一郎・熊谷辰太郎・松本重太郎等九名ニシテ、スベテ大阪紡績会社ノ重役又ハ株主タリ。資本金ハ三十万円ニシテ、全発起人ニ於テ引受ケ、松本重太郎頭取トナル。織物ノ種類極メテ多様ニシテ工場ノ作業複雑ナリシタメ徒ラニ手数ト費用トノミ嵩ミ、却テ手織業者ニ圧倒サレテ営業漸ク困難ニ陥ルニ及ビ、明治二十三年九月二十六日解散届ヲ提出シテ、同三十日限リ資産負債権利義務一切ヲ大阪紡績会社ニ譲渡セリ。


竜門雑誌 第三一七号・第四〇頁 〔大正三年一〇月二五日〕 大阪紡績株式会社沿革史(一)(DK100009k-0007)
第10巻 p.95-96 ページ画像

竜門雑誌 第三一七号・第四〇頁 〔大正三年一〇月二五日〕
  大阪紡績株式会社沿革史(一)
○上略
    綿布製織業兼営
本邦に於て、力織機に依る綿布製織業の起原は、明治二十年三月大阪に創設せられし淀川織布会社に発す。殆ど同時に東京に於ても小名木川織布会社の創設あり、同社は二十一年七月織機二百台を据付けて開業し、同年大阪に於ては大阪織布会社の設立あり、織機三百三十三台中二百台は翌二十二年六月を以て運転を開始しぬ。本社は本邦紡績業の発展と与に将来綿布製造業の必ず之に伴ふ可きを予見し、同一目的を以て設立せられたる大阪織布会社に交渉し、同社を買収して之を本社分工場となし、滊織機三百三十三台を運転し、綿布製織業を兼営したり。是本邦に於て完備せる力織機工業の権興《(輿)》なりとす。其製織にかかる綿布は忽ちにして好評を博し、殊に厚織及び雲斎地は、其地質強靱にして、軍用被服として頗る耐久の効あるを、夙に陸軍被服廠に依り認識せられ、二十三年以来毎年多額の上納を継続せり。
○下略
  ○「大阪紡績株式会社沿革史」ハ大正三年六月、当時ノ常務取締役阿部房次
 - 第10巻 p.96 -ページ画像 
郎ノ編メルモノニシテ、同年九月五日発行ニ係ルパンフレツト様ノ小史ナリ。
   「大日本紡績聯合会月報」第二六八号(大正三年十二月)及ビ「竜門雑誌」第三一七・三一八号(大正三年十・十一月)ニ右沿革史全文ヲ転載シタリ。玆ニハ「竜門雑誌」ヨリ収録セリ。


岡村勝正氏談話(DK100009k-0008)
第10巻 p.96 ページ画像

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〔参考〕国際情勢と我が繊維界の陣容 上巻・第一六八―一七四頁 〔昭和一〇年一〇月〕(DK100009k-0009)
第10巻 p.96-101 ページ画像

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