デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
2節 蚕糸絹織業
1款 京都織物株式会社
■綱文

第10巻 p.578-597(DK100051k) ページ画像

明治20年5月5日(1887年)

是ヨリ先、二月二十七日附ヲ以テ京都織物会社創立願書提出中ノトコロ、是日創立許可セラレ、六月二十二日京都商工会議所ニ於テ創立認許後第一回ノ株主総会ヲ開ク。栄一、大倉喜八郎・益田孝ト共ニ相談役ニ選挙セラル。尋イデ七月一日府立織殿払下許可セラレ、以後明治二十三年五月一日迄仮営業ヲ為シ、二十三年五月一日ヲ以テ営業開始ト為ス。


■資料

(京都織物会社) 実際考課状 第一回 明治二一年八月(DK100051k-0001)
第10巻 p.578-579 ページ画像

(京都織物会社) 実際考課状 第一回 明治二一年八月
明治廿年二月廿七日発起人惣代浜岡光哲・田中源太郎外十一名ヨリ創立願書ニ定款ヲ添ヘ府庁ヘ捧呈シ、同五月五日付ヲ以テ当会社創立ヲ認許セラレタリ
明治廿年七月一日上京区第三十一組一ノ舟入町府立織殿払下ノ許可ヲ得タルニ依リ、翌二日事務所ヲ同所へ移転ス、現今本社ノ位置即チ是レナリ
明治廿年八月旧織殿ヨリ引継ノ職工ヲ更ラニ本社へ雇ヒ入レ、試業トシテ織機及諸器械ヲ運転シ、仮リニ営業ヲ始メタリ
明治廿年八月三日技師近藤徳太郎・稲畑勝太郎・高松長四郎ノ各部長ヲシテ、欧米各国ニ於ケル織物・染物・整理業ノ景況視察及ヒ諸器械購入ノタメ派遣ヲ命ス
同日委員浜岡光哲ハ商工業視察ノ為メ欧米諸国巡回トシテ渡航セルヲ以テ、本社各部ノ器械購入外人雇入建築製図取調、及ヒ技師監督等ノ件々数ケ条ヲ嘱托ス、同月十四日各部ノ技師ヲ伴ヒ英船ベルチツク号ニ搭シ桑港ヘ向ツテ横浜港ヲ出発セリ
    願伺届ノ事
明治廿年五月十九日織殿地所建物及ヒ器械等払下願書ヲ府知事ニ捧呈シ、同年七月一日聴許セラル
同二十年五月十九日愛宕郡吉田村字下阿達ノ地所(坪数一万七千八百九十四坪二台)払下ノ願書ヲ府知事ニ捧呈シ、十一月十九日付ヲ以テ聴許セラル
明治廿年六月廿七日上任役員ノ姓名印鑑及ヒ本社印章ヲ府庁ヘ届出タリ
明治廿年七月廿三日商標(杼ヲ交叉シタルモノ)登録願書ヲ農商務省専売特許局ヘ出願ス、同十一月九日純絹織物商標登録聴届済ノ指令ヲ得タリ
明治廿年十月十九日本社地所建物ノ登記ヲ願出テ該手続ヲ了ル、同三十一日地券書換ヲ出願シ、即日書換ノ上直チニ下附セラル
明治廿年十二月十三日愛宕郡吉田村字下阿達ノ地所登記ヲ願出テ、同
 - 第10巻 p.579 -ページ画像 
手続ヲ了ス、同廿日地位上伸書ヲ府庁ヘ出願シ、同廿一年一月廿二日地位等級調査確定ノ上下附セラル
明治廿年十二月二日撚糸工場用地トシテ愛宕郡南禅寺村南禅寺所有ノ地所(五千百三十七坪)ヲ同寺ヨリ購入ス、同十六日登記及ヒ地券書換ヲ出願同手続ヲ了ル
    株主総会及委員会ノ事
明治廿年六月廿二日株主総会ヲ京都商工会議所ニ開キ、創立委員ヨリ本社創立事務ノ大要ヲ報告シ、定款並ニ旅費日当定則ヲ議決シ、併セテ役員撰挙ヲ行フ、内貴甚三郎・浜岡光哲・田中源太郎・渡辺伊之助・熊谷辰太郎ノ五氏ヲ委員ニ、渋沢栄一・大倉喜八郎・益田孝ノ三氏ヲ相談役ニ当撰シ、更ラニ委員ノ互撰ヲ以テ、内貴甚三郎ヲ委員長ニ、熊谷辰太郎ヲ撿査掛ニ撰任セリ


(京都織物会社) 半季実際考課状 第五回 明治二三年八月(DK100051k-0002)
第10巻 p.579 ページ画像

(京都織物会社) 半季実際考課状 第五回 明治二三年八月
    創業期及営業紀元之事
本社各工場ノ設置一切工程ノ順序等本年四月中ニ於テ全ク整頓シ、其廿七日開業式ヲ挙行シタルニ付、明治廿年五月ヨリ本年四月卅日ニ至ル三ケ年間ヲ創業期トナシ、本年五月一日ヲ以テ営業開始ノ紀元ト為ス
    皇后陛下御臨啓並ニ開業之事
四月廿七日皇后陛下ニハ午前御出門ニテ本社へ御臨啓、各工場ヲ御通覧アラセラレ、且特別ノ思召ヲ以テ金弐百円ヲ下賜セラレタルニ付、此恩賜金ハ之レヲ社員職工扶助料基金トシテ貯存セリ、是日還御ノ後本社開業式ヲ行ヒ、其招ニ応シテ来臨スル者六百六拾弐名ナリシ


京都織物株式会社五十年史 第四七―八一頁 〔昭和一二年一一月〕(DK100051k-0003)
第10巻 p.579-587 ページ画像

京都織物株式会社五十年史 第四七―八一頁 〔昭和一二年一一月〕
 ○第一部第一章 創立
    第四節 創立認許と府立織殿の払下げ
 京都織物会社創立願書に対し、明治二十年五月五日を以て認許された。
 勧第一七一号
 書面願之趣承認候事
   明治二十年五月五日
             京都府知事 北垣国道 
 之よりさき同年一月六日、創立事務所を、三条通烏丸東入るに設置し、創立認可とゝもに、同年五月十九日付を以て織殿地所建物及び機械等払下願書を府知事に提出。同年七月一日聴許あり。翌二日会社事務所を織殿内に移した。織殿の払下げ代金は地所建物壱万円、諸機械壱万円合計弐万円であつた。
 「事務所移転」(明治二十年七月十日日出新聞記事)京都織物会社は既に創立事務所を河原町二条下ル京都府立織殿へ移し、曾つて同社より京都府へ請願の通り、地所建物及諸機械とも同社へ払下げらるゝ筈にて、事務引継方取調のため、勧業課より牧野属が出張中なるが、不日引渡しを了る都合に付、其上は直ちに京都織物会社の標
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示を掲ぐるよし。
 「織殿に就て」(明治三十年京都府内務部第四課編纂京都府著名物産調所載)織殿は明治七年の創立にして本府より仏国に留学せしめし佐倉常七・井上伊兵衛の二名をして彼の土の織法を教授せしめ、事業漸く発達に及んで明治十一年に工場を増築し、舶来機械と模造機械とを併せ八十台を置き、男女職工百二十余名を使用するに至れり。一時之を府下磯野小右衛門に払ひ下げ民業となせしが、更に之を買戻し直轄工場とし、其事業を拡張し、上は 帝室御料より公侯貴顕紳士紳商等の用ふる精良品は多く本殿の織成を須つに至れり。目下使用せる「メカニツク」の如き簡易軽便の利益あり、一般当業者の注意を喚起し、西陣織工も多く之を使用す。又仏国購入細幅機械天鵞絨毛立機械再整機械の如きは皆好結果を顕はし、事業上一層改良の実を見る。然るに明治二十年渋沢栄一・浜岡光哲外数名の請願に依り之を払下げ今復た民業に属せり、京都織物会社之れなり。
    第五節 最初の株主総会
 創立認許後最初の株主総会は明治二十年六月二十二日京都商工会議所において開会、創立委員を代表して浜岡光哲氏より当社創立事務の概要報告あり、次に定款並に旅費日当定則等を議決、併せて委員相談役の選挙を行ひ、且つ委員の互選を以て委員長・検査掛を選任した。
                 委員長    内貴甚三郎
                 委員     田中源太郎
                 同      浜岡光哲
                 同      渡辺伊之助
                 同(検査掛) 熊谷辰太郎
                 相談役    渋沢栄一
                 同      大倉喜八郎
                 同      益田孝
 同年七月十日委員会において、定款第九条に拠り株金払込期日及び社員の分課分掌を定め、各課の事務章程、営業規則等を議決した。副支配人として田村宗兵衛氏、織物部技師長として近藤徳太郎氏、染物部技師長として稲畑勝太郎氏、整理部技師長として高松長四郎氏がそれぞれ任命せられた。
 会社商標(杼を交叉したるもの)は同年七月二十一日登録願書を農商務省専売特許局へ提出、同年十一月九日付を以て聴届済の指令に接した。
  「明治二十年六月二十二日株主総会録事」
  明治二十年六月二十二日午後一時より京都商工会議所に於て株主総会を開き、創立委員より創始以来今日迄委員に於て取扱たる諸件を報告し、定款及旅費日当定則等を議定し役員の選挙をなす。
 其概況を記するに左の如し。
   本日午後三時開議、出席者七十二名代理委託者二十九名合計百一名其株数七千九百六十四株にして創立委員は主位に其他の株主は客位に各其席に着く。創立委員浜岡光哲曰、
○中略
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   創立委員田中源太郎曰、只今浜岡氏より陳述せし如く、創立委員の職務は既に是にて了へたるを以て是より更に役員を選挙し其役員に於て諸事計画すべき順序なりと雖も、是迄の委員にて総会に附議すべき議案は起草し置きたり。故に之を議案として会長又は議長に纏方を托し従来取調べたる委員より答弁する事とせん。
   川村清七曰、御苦労ながら議長は其儘浜岡氏に托せん。
   浜岡光哲は前の手続もあり且つ兎や角する内に時間も費ゆるを以て旧委員にて纏むる事とせん。然らば是より定款を議すべき旨を述ぶ、書記第一章を朗読す。(編者曰く、定款は創立願書の項参照)
○中略
   田中源太郎曰、議決を要するの件々は全く玆に了りたり。是れより役員を選挙する事なるが其前に委員に於て取調べたる支出予算を報告せん、是れは今度選挙せられて上任する所の委員と支配人との受持つべき事件なれば、今より之れが充分の取極めを為す能はずと雖も。現在株主諸君中当会社は如何なる目論見を以て営業を始むるや、又如何なる機械家屋を要するやも知了せず、真に五里霧中に株金の払込を為す人多き様に見受くるなり。如此く会社に淡泊にては自然当社の不利益なるを以て、其計画の大体を御話申置くは全く無益の事に非ざる而已ならず、株金払込等の期限を予知するは、必要の事なりと思考すれば、玆に其大略を述ぶべし。偖当社金五拾万円の内固定資本は何程と云ふに、総高参拾四万余円にして此予算より多少増減する事はあるべきも、今日の所にては参拾四万円余を不動資本に宛つるの見積なり。此外に撚糸部は全く其区域は立ち居れども、織物染物部は未だ区域の立ち兼ぬる事なり。今技術師の調査に依りて集めたる支出高は海外より購入する器械買得費拾五万余円にして、内地にて購入するものは壱万九千余円とす、敷地代建築費及織殿払下代価を合せて九万五千余円なり、機械の組立及試業等に消費するもの六千余円、其外株券の拵へ並に創業費等へ八千六百余円を要し、機械購入の為めに技術師を欧洲へ派遣し又は機械組立に外国人を雇入るゝ費用に壱万弐千余円を要す、是れは目下必要なるものにして総額弐拾九万余円なり。此外予備に八千余円を置けり。又撚糸は重に水車を使用する筈なるが、疏水工事は二十二年十一月に至り全く成功するの予定にして、今より殆んど三年後にあらざれば之を使用する能はざるが故に、只今より夥多の金員を支出して撚糸場を設けたりとて其用を為さざるなり。依て三ケ所を置くと見積りあれども当分先づ一ケ所を置くの見積を以て其費用を加入し、而して其次に置く所の第二第三の分は之を除けり。此費用は四万六千余円にして合計参拾四万余円となる故に、先づ参拾万円を募集し、若し此予算に不足を生ずるときは委員会にて決議し一時限り他より借入るゝの見積りなり。創業の際に不用の金を多く集むれば不利益なるが故に、可成は筒一杯にするの積りを以て予定したるなり。
  尚ほ此予算に付御尋もあらば技術師より集めたるものに依り御答
 - 第10巻 p.582 -ページ画像 
をなすべし。又募集の見積等は後に選挙せられたる委員が定むる筈なりと雖も、予め之が金額期日等を取調べ置きたれば先づ別紙御承知ありたし、若し之を変更するときは定款第九条の如く特に御報告することゝし、此旨を新任委員に引継ぐことにし委員に於て取計ふ様にすることゝせん。
○中略
   役員選挙
  浜岡光哲は是より委員五名並に東京株主中より相談役三名を選挙することにせんとて投票用紙を配付す。即ち其票数当選者の姓名は左の如し。
   一千三百九十八票   (当選) 内貴甚三郎
   一千三百七十票    同    田中源太郎
   一千二百八十三票   同    浜岡光哲
   九百五十一票     同    渡辺伊之助
   八百〇九票      (辞選) 高木斉造
   七百三十四票     (当選) 熊谷辰太郎
  右当選の委員互選して内貴甚三郎を委員長に推選す。
   一千二百八十三票   相談役  大倉喜八郎
   一千二百六十四票   同    渋沢栄一
   一千二百〇三票    同    益田孝
  浜岡光哲曰、此場合に於て一寸相談したき事あり、其は此会社は銀行や商業会社とは趣を異にするを以て、同一の方法に拠るべからざるものあり。然るに先に議決したる定款に拠れば必ず年に両度の総会を開かざるを得ず、而して此会社は暫くの間は利益なきやと云へば多少の利益あり。即ち織殿に於ては東京にても好評を博し続々注文あるを以て、其為すべきの業は充分之あり、来年六月迄は暫くの間も手を休めざるなり。左すれば定款に拠れば来年一月には必ず総会を開かざるを得ざれども、前にも述べし如く銀行や商業とは其趣を異にするを以て、必ず之を開く程の必要を見ず、且つ来年七月迄には機械も略整頓し建築も稍成功するを以て、旁一月の総会を七月に延ばしては如何。
  浅井文右衛門曰、開かずして可ならん。
  田中源太郎曰、一月の総会は利益配当の事なるを以て、之を開きしとて別に多分の費用を要するにはあらざるを以て、報告旁之を開くも可なれども、起業中の諸件は是を結了する迄は其報告をなすに頗る困難なるものあらん、左すれば之を変則とし規則に在る故必ず之を開くとせずして、営業の都合に拠り或は之を開き、或は之を開かずと定め置けば、後の委員も大に便利ならん。
  三木安三郎曰、織殿営業に係る分のみをなして起業に係るものは延ばしては如何。
  浜岡光哲曰、只今織殿の部分のみの報告をなすとの説もあれど、自今の注文品中来年一月迄には成功如何と危むものあり、故に利益あれば之を報告し、然らざれば七月迄に延ばしては如何。現に陶器会社の如きは外国人との関係もありて、仕切の都合も之あるを以て
 - 第10巻 p.583 -ページ画像 
年に一度と定めたる程なれば、之を一度とするも格別差支はなかるべし。
  田中源太郎曰、元来定款なるものは営業を始めたる上に施行して相当するものにして、起業中に適するもの少なく、然るに起業中に之を適用せんとすれば頗る混雑なり。即ち右定款に拠りて報告することゝすれば、仮令僅少なりとも賞与金も入れば積立金も入用なり其他凡て定款通に行はざるべからず、左すれば半途にて報告し難きものありて甚だ困難なるべし。
  川勝光之助曰、別に総会を開くに及ぶまじ。
  三木安三郎曰、利益あれば報告し然らざれば報告せずとしては如何。
  田中源太郎曰、利益の有無に拠て開否を定むるときは、試業に対する僅々の利益あるも之を開かざるを得ず。若かず或は開き或は開かざることゝし、其時の都合は役員に任しては如何。
  浜岡光哲曰、織殿の営業は単に試験工場と見れば可なり。
  安盛善兵衛曰、七月にて可なり。
  浅井文右衛門曰、或は開き或は開かざる事と定め置けば其にて結構なりと。
  衆議一致に依り営業の都合により或は之を開き或は之を開かざる事とするに可決。
 右畢て一同散会す、時に午後六時三十分なり。
 「興業費予算作成の苦心」興業費予算は前掲創立願書に示され、又株主総会に提出されてゐるが、洋式規模の大工場組織を有する同業会社の無かつた当時のことゝて、企業予算は全く独創的に属し、創立委員は之を作成するに苦心を重ねた。当時農商務省技師であり、当社創立に当り大に斡旋し、後ち当社専務取締役に就任した荒川新一郎氏に意見を求めたので、同氏は参考資料として興業費予算一覧と所見を送附してゐる、この興業費予算は詳細なる内訳表を附されたものであるか、こゝにはその大綱を掲げる。
    京都織物会社興業費予算一覧
      但シ会社ノ資本五拾万円ニ対スル起業費予算ナリ
 一金弐拾九万五千七百五拾八円五拾銭六厘
    内訳
   金拾四万四百弐拾八弗九拾壱仙七  海外ヨリ買得スル機械購求費金額
   金壱万六千九百弐拾四円五拾銭   内地ニテ買得スル機械購求費金額
   金五万八千九百七拾弐円      敷地買得及建築費
   金弐千五百弐拾円         機械組立費
   金千七百九拾参円八拾銭      機械組立需用品並ニ試験用石炭等購買費
   金拾四円             事務所据付器具買入費
   金参百五拾円           事務所諸雑費
   金千弐百八拾円          試験費
   金四千五百円           器械買入洋行費
   金弐千弐百五拾円         外国人三名雇入費
   金参千六百円           起工中役員俸給
 - 第10巻 p.584 -ページ画像 
   金弐万円             織殿買受費
    外ニ千円            織殿修繕費
   金弐万四千五百弐拾七円七拾六銭  撚糸場起業費
   金五千五百六拾八円六拾八銭五厘  製薬所起業費
   金五千円             起業準備金
    外ニ金壱万円          染材買入費
     但シ西洋着ノ上営業使用ノ目的ヲ以テ買入ノ分故此金員ハ営業費ヨリ支払ノツモリ其中試験用ニ消費スル分ハ起工費中ニ入算スル見込
 一金弐拾〇万四千弐百四拾壱円四拾九銭四厘  営業費
      今日の実況に就き観察を下し聊か平生の持論を提出する左の如し
 一、費さずして執業上に差支なき事に資本を冗費し、過度に起業の費用を高むるときは、今後他方に発起する事業の起業経費の低度を極むるものと、他日市場に於て市利を競争する事難かるべし。況や本会社事業の如きは業派多種に渉り、且つ未だ確実の経験を有せず、随て開業後数年間は試験上に要する所の費用、果して想像外に出る者あるに於てをや。
 一、此起案に基き考慮を下すときは、今日の情勢に抑制され、姑息曖昧に決行する果して会社営利の本旨なるや、拙は敢て明言する能はざるなり。
 一、依頼に由り今玆に起業の予算書を提出すと雖も、業種頗る多端に渉るを以て一時に之を使用し。各業に着手し果して営利の見込確然たるや否や、拙敢て保証する能はざるなり。凡そ起業は営業経済の範囲内に在る以上は、小より大に及ぼし一業の整頓を俟つて次業の起設に渉り順次歩を進め、最初企画する所の目的を達すべし、若し世況の狂態に惑ひ其挙措を誤るときは、独り会社の不利のみならず、全国の事業に病毒を及ぼすこと亦大なるべし。
 一、凡そ事業は為さゞれば止む。為して其挙を失すれば其禍害為さざるの不利よりも亦大なり、挙措最も慎むべきなり。拙の愚考に由れば最初議定する所の順序に基き今日は先づ染色と整理の二業に着手し、其の結果を鑑査し而して後機織業に着手するを以て全勝の策なりと確信す。此の間調査を内外に極め経験を実例に積めば、他日着手の時に於て起工の難易得失亦同日の論に非らざるべし。夫れ水を好む者は溺るゝの危きあり。鳥を逐ふ者は山を見ざるの癖あり、拙を始め積年の艱苦を嘗め業術に熱心勉磨せるものは、動もすれば速かに之を実業に施行せんと欲するの志鋒より、単見直行亦自他の経験得失利害に念及せざるの患あり。能く之を抑制し普く之を利害に照鑑し、確然不抜の見込在る所に依り規模計図を定むべきなり。今直に志望を果さずとて豈夫他日果すべきの機なき理あらんや。将た夫れ理なきのみならず、会社の目的に汽織機設置の明文あるを以て他日起工する言を俟たず唯遅速前後の差あるのみ。故に今回織物技術者の洋行は実況及び織物機械の調査に止り、之を起設するや否やは調査報告の上熟議を遂げ、始
 - 第10巻 p.585 -ページ画像 
て裁定するを以て良策なりと愚考す。
 一、機械買入に於ても亦然り、機械の原理を審にせず、又使用上彼我職工巧拙の差異修繕難易の分界を顧みず、啻に其精巧を羨望し之を買得するときは果して臍を噬むの悔なきを免れず。又欲望多端に渉り種々の織機を一時に買試んと欲するときは、恰も職工学校の体裁に陥り、決して営利の目的を実際に試験する能はざるべし。染色整理及び撚糸の事業に於ても亦同一の理なるべし。
 一、此予算中建築組立費等は拙が従来の実験に由り調定する所に出づと雖も、若し指揮意の如くならず、之に関する人に緩慢不周到にして然かも過量の品物を浪費するあるが如きに於ては、此予定算額に超越する幾倍なる果して知る可からざるなり。元来現業を負担する者と雖も、皆会社営業の経済を以て其責に当らしめざる可からざるは固より言を俟たず、決して現技者は品物を製出すれば足るとの感想を抱かしむ可からざる事最も緊要なり。今や起業予算概費成り之を提出するに当り、聊か愚考を陳し以て諸君の参鑑に供する此の如し。
                      荒川新一郎
○下略
    第八節 創立当時の株主及株金払込徴収
 明治廿年七月から廿一年六月に至る株式名義書換数は三千五株で、この譲渡人員四百四十四名、譲受人百五十名であつた。第一回考課状に掲げられた廿一年六月末現在株主数は二百五十八名で、壱百株以上の株主は左の通りである。
    株主氏名表 (明治廿一年六月末現在 壱百株以上)
 住所  姓名    株数   住所  姓名    株数
 東京 渋沢栄一   四〇〇  東京 西園寺公成  一五〇
 同  西邑虎四郎  三八〇  京都 磯野小右衛門 一四五
 同  今村清之助  二八〇  同  池田長兵衛  一四五
 同  大倉喜八郎  二八〇  同  村田嘉兵衛  一四五
 京都 三木安三郎  二〇四  大阪 熊谷辰太郎  一四五
 東京 益田孝    二〇〇  京都 山中利右衛門 一四五
 京都 尾崎半兵衛  二〇〇  同  船橋繁之助  一四五
 同  渡辺浅七   二〇〇  同  三越得右衛門 一四五
 同  内貴甚三郎  一九五  同  杉本新左衛門 一四五
 同  西村治兵衛  一九五  同  田中源太郎  一三五
 同  熊谷市兵衛  一九〇  同  芝原嘉兵衛  一三五
 同  岡本治助   一八八  同  広畑久兵衛  一一五
 同  浜岡光哲   一八五  同  河村清七   一一〇
 同  渡辺伊之助  一八五  東京 深川亮蔵   一〇〇
 同  曾和嘉兵衛  一八五  同  浅野総一郎  一〇〇
 同  中井三郎兵衛 一八五  京都 浅井文右衛門 一〇〇
 同  井上治門   一七一  同  下村忠兵衛  一〇〇
 明治廿年五月より廿三年四月卅日に至る仮営業期間に於て、資本金五拾万円、株数壱万株に対し八回にわたり払込を徴収した。かくして
 - 第10巻 p.586 -ページ画像 
本社新工場を完成せしめたのである。則ち廿年七月二十一日より二十五日までに第一回株金一株に付五円を徴収、次いで同年九月第二回払込一株に付五円。廿一年二月第三回一株に付拾円、同年六月第四回一株に付五円、同年十月第五回一株に付五円、廿二年四月第六回一株に付五円、同年十月第七回一株に付五円、廿三年四月第八回一株に付五円、以上一株の払込高は四拾五円。合計四拾五万円の払込となつた。
又当社株式は京都取引所に於て廿二年六月定期売買の認許を得、七月一日より之を開始した。
○下略
    第九節 創立当時の従業員
 創立当時における役員並に社員職工数は明治廿一年六月末現在において左表の如くである。職工は新工場建築の進捗に伴ひ新規に募集したが、特に養成部を設置して年少男女工の養成に努め、二十二年三月さらに工女三十余名を募集したので、同年四月十一日聖護院町園子爵邸を借入れ新工場寄宿舎の竣工するまで同所を工女寄宿舎に当てた。


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   役名       等級  俸級      人員   委員長      特等   ――     一人   委員       特等   ――     四人   技術部長     一等  五拾円     三人   副支配人     二等  参拾円     一人   工務掛      三等  拾八円     一人   同        四等  拾五円     一人   同        五等  拾弐円     一人   書記兼出納簿記方 六等  拾円      一人   書記兼株式係   八等  七円      一人   受附工務係    十等  四円五拾銭   一人                四円      一人   小供           参円      一人            等外  弐円弐拾五銭  一人   小使           四円      一人                弐円五拾銭   一人    総計                  二十名 



        男女工
  指図画工  給料月給八円一人、壱円弐拾五銭三人計四人
  工男    日給、五拾銭二人、参拾五銭一人、参拾銭四人、弐拾五銭六人、弐拾銭四人、拾五銭六人、拾弐銭十人
                                    計 三十三人
  工女    日給、拾七銭二人、拾五銭二人、拾四銭一人、拾参銭一人、拾弐銭五厘一人、拾弐銭五人、拾銭二人、九銭二人、八銭一人、七銭二人、六銭五厘一人、六銭一人、五銭四人、四銭四人                計 二十九人
                                   総計 六十六人
  男工は多く織工にして製造品位により尺に付幾千と工銀を定む、故に其平均の大略を玆に掲ぐ。女工は糸繰下拵等にして総じて日
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給なり。
  「職工養成」(明治二十一年二月二十一日日出新聞記事)京都織物会社にては、現時同社員の欧洲行ありて、帰朝の上には多数の職工を要する事故、今の内より養成し置かざれば後日事業に差支へを来すならんと、今度同社内に養成部といへるを置き十二歳より十七歳迄の男女を募集して、之に織業の初歩を教ふることゝなりたりと。
  「工女雇入」(明治二十一年三月三日日出新聞記事)同会社は今度十一二年より十四五年迄は女子を雇用する事となれり。之は海外特派員の通知にして、外国にては汽織機に従事する者は、何れも十一年位より十二三の女子に限ると、然るに同会社は近く新工場設立の上、是非汽織機を据付ける筈なれば、今より右年齢に適し、織物に志ある女子にして雇入れを望む者、当分の中三十人計り雇入れ、機械据付迄は現在の工場にて手芸を伝習せしむる筈にて、往々は五六十人計りも使用する目的なりと。
  「女工募集」(明治二十二年二月十九日日出新聞広告)
     広告
  今般本社織物部女工年齢十二歳以上十八歳迄ノ内当分三十名ヲ限リ募集候間志望ノ人ハ本日月中ニ本社事務所ニ申出有之度候也
    二十二年二月十八日
                      京都織物会社


京都織物株式会社五十年史 第九三―一〇一頁 〔昭和一二年一一月〕(DK100051k-0004)
第10巻 p.587-591 ページ画像

京都織物株式会社五十年史 第九三―一〇一頁 〔昭和一二年一一月〕
 ○第一部第二章 営業開始
    第一節 光輝に満てる開業式
 明治廿三年四月中を以て、本社各工場の設置一切の工程を終り、五月一日を以て営業を開始す。御幸橋東茫々たりし荒地には、堂々たる洋式新工場が出現し一偉観を呈した。四月十七日 皇后陛下には本月廿七日を以て当社に行啓あらせらるゝ御予定の御趣、宮内書記官並に京都府知事より内達あり、当社にてはこの絶大なる光栄に感激し、内貴委員長はじめ各役員以下従業員一同は、至誠を竭し奉迎準備に万全を期した。
 四月廿七日 皇后陛下には本社へ行啓あらせられ、親しく各工場を御覧の後、御機嫌麗はしく御還啓あらせられた。当日特別の御思召を以て金弐百円を御下賜あらせらる。当社は恩賜金を拝受し、一同恐懼感激措く処を知らず、これを社員職工扶助料基金として、永く光栄を記念した。
 皇居陛下御還啓の後、当社は至大の光栄に感激しつゝ、こゝに光輝ある本社開業式を挙行す。招に応じて来臨する者六百六十二名の多きに上り、稀有の盛大を呈した。
    第二節 開業当時の概況
 開業当時の機台数は、汽織機五十五台、手織機八十台にして、製造品は主として紋織無地織及び「ハンカチーフ」類で、多くは注文品にかゝり第四期○二二年七月一日より一二月末 には宮内省御用御召服地調達の命を蒙り、又墺国ヘンリー親王殿下御注文品も成功を得た。廿三年二月十八日に
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おいて汽織機色繻子の製造に成功し、之を錦里繻子と名づけた。本邦繻子反染の製造はこれを以て嚆矢となす。廿三年に入り宮内省より御召服地調達の下命を拝すること数回に及び、又帝国議事堂及び芝離宮装飾品織立方は皆当社の入札に落札した。再整部・染物部の製造高も漸増を示したが、染物部はその規模宏大であるため、収支償ふに至らなかつた。
 撚糸機械はさきに仏国に注文した分が、廿三年九月以後大半到着せるも未だ工場の新設を見ないので、染物工場内を区劃し、その北部に据付け、附属諸品一切の到着を得て、廿四年十月一日より試運転をなし好結果を得た。撚糸工場敷地として、すでに南禅寺所有地所を購入したが、売買約定履行に関し本社より訴訟を提起するのやむなきに至り、その結果本社の勝訴となりしも、其後営業方針の変更により同所に撚糸工場を新設する当初の計画を中止し、明治廿七年二月同所有地壱万六百五坪五合及び吉田町所有地の内四千五百弐拾六坪を大阪中村弥吉氏へ売却した。
 宮内省御用納品の取扱其他の販売については、当初より主として曾和商店之に当り、次いで東京杉田幸五郎商店と販売の契約を結んだ。
 「開業当初の懐ひ出」(曾和嘉一郎氏談)明治二十一年春、兄嘉兵衛が出資し、私は労働出資の下に(ソ)組を組織しました。私方も従来皇宮御造営品の御用を承つてをりました。旧織殿製品が福山技師(前京都府勧業課技手)時代から、相当ストツク品がありますが、之を織物会社が直接売ると云ふ訳にゆかぬので、私の方がこの販売に当りました。御造営御用品を一手に引受けるべく、関係業者は織殿の払下を計画したが不成功に終り、且つ御用品も分割して御下命になつたので、兄嘉兵衛は織物会社の株を持ちて(ソ)組を開業するとともに、会社の代理店的に販売に当りました。そこで東京尾張町二丁目に店舗を構へて、毎日宮内省へ、御用伺ひに参りました。当時馬場先(会議所附近)御濠内から二重橋までは旧屋敷町で、大名屋敷の空家が並んでゐました。三間位な広さの道路で、籠で行きました。御用品は車で持ち込みました。御造営事務局は旧屋敷町に在つて、その附近には竜ノ口勧工場(現在の百貨店の如き陳列場)などがありました。馬場先一帯が取払はれ、公園風になつたのは、皇居が御造営になつてからで、ズツと後年であります。
  御用品を一手で御引受けするといふ様なことは出来ません、それは製造が至難なからです。当時製織仕易いものは、飯田・川島・伊達の各氏が持ち仕難いのを織物会社が承つてゐました。皇居の御天井は大したものであるから、御下命品も随分大ものが多く、数々納品した中に、特に多く且つ立派なのは、豊明殿の御装飾に用ひられた金糸交織のもので、外国品のモールがないため、本金糸を使はれました。幅は五尺の長丈物で、これが最高権威の製品でした。その他立派な柱巻き、壁張りなどを納めましたが、柱巻といつても、檜の太い大きな柱ですから、実に立派なものでした。
  皇居御造営御用品の裏地は、すべて繻子でありました。初め荒川造営局技師が桐生の成愛社に下命しましたが、経も緯も染めたもの
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で、これは私の方で納ました。その頃後練り後染めの繻子が現はれ出し、一般的にも需要が多いので、織物会社でもこの完成に苦心し遂に汽織機色繻子の生産に成功されました。これが錦里繻子であります。
  会社の近藤技師が帰朝された時の土産見本に、両綾風の無地で紋の押されたものを見ましたので、御造営御用の仕事を終つて何をやらうかと考へてゐた私は、この見本から思ひついて、洋服地の絹裏地を作つて貰ひました。紋織は織殿時代から廿四年頃までつゞき、紋織の「ハンカチーフ」などは、織物会社が織り初めたもので、内地向として、よく売れました。芸妓などが之を持ち、洋服を着た人は、胸前のポケツトに入れて、少し見せることが流行したのです。羽二重の「ハンカチーフ」は、横浜の下野商会に勤めた堀越氏が渋沢さんにすゝめ、織物会社で織りました、これも、よく売れましたが、後に他に模倣者が続出し遂に粗製濫造に陥つて勢ひを失ひました。
  帝国議事堂及び芝離宮の御用品は、(ソ)組から納めました。
  憲法発布に当り官等による金モール入の大礼服を、織物会社で織りましたが、仏蘭西から金モールを取寄せて参考とし、大に苦心されました。針金を使ふことがうまくゆかず、細いカタン糸で間に合せて納めました。
  皇后陛下の御召御洋服が会社へ御下命になつたことがあります。紅葉模様のもので、大和錦風の織方では不可ぬ、洋服地であるから洋画風にせよとのことでありましたが、なかなかそれがうまく織れないので、遂に阪田属官が入洛して俵屋に投宿せられ、製織について調査に来られました。私も随行致しました。稲垣支配人が幾種類のもの五六十反を持参して訪問し、阪田属官に見せましたが、何れも通らなかつたのです。日が切迫してゐるので大に叱られました。その時阪田属官から観桜観菊御会に召された御服を拝観致し、よく研究して漸く御用を完ふ致しました。
  高輪の伊藤公(当時総理大臣)の御邸に伺つた際、奥様(梅子夫人)にお目にかゝりました。私は「御所の御用だけで、まだ市中に売れませぬが、どうすればよろしいでせうか」と御尋ねすると、梅子夫人は「今に全体が洋服になると思ふから、やがて売れることにならう」と申されました。当時所謂鹿鳴館時代の欧化主義全盛の時で、年一回天長節には外務省主催の大夜会があり、舞踏が催されてゐました。梅子夫人は「一度見せてやらう」と便宜を与へられたので、たしか第二回目の大夜会の時に参観致し、その華やかときらびやかに唯々驚きました。然し日本婦人の洋装はどうも格好が悪い。その時分は袖も丈も長く、スタイルや色彩の具合が、なつてゐなかつたのです。梅子夫人は洋装運動のため、馬車に乗つて山内・毛利・島津さんなどの各大名華族の方々を訪ひ、織物会社の洋装地見本を持つて行かれました。伊藤さんの邸が洋装地の取次所のやうなことになつて、代金もちやんと伊藤さんのところへ集つてゐました。梅子夫人の洋装運動は実に熱心なものでしたが、欧化主義の侵透で、今
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にも日本中の人が洋装になるのかと思ふ程に、一般的にも盛んでありました。それから間もなく鹿鳴館事件が発生し、欧化主義反動時代に入つて、洋風は全く姿を隠してしまひました。
  明治廿一年十一月十九日織物会社製品の販売店となつた杉田幸五郎氏(東京市京橋区出雲町)は元道具屋で、その当時は家具装飾店でありました。伊藤公と縁故があり、皇居御造営の際にも御用を承つた一人です。
    第三節 開業当時の重役並に従業員
 営業開始当時(廿三年六月末現在)における重役以下社員は三十八名、職工は男女合計三百十名にして、詳細は左の如し。
     役員以下社員

図表を画像で表示役員以下社員

 等級       俸級       人員 特等  委員長    ―      壱人 同   委員     ―      四人 壱等  支配人   百円      壱人 同   技師   八拾円      参人 弐等       参拾円      弐人 参等      自弐拾円      参人         至弐拾五円 四等       拾五円      弐人 五等       拾弐円      弐人 六等        八円      弐人 八等        七円      参人 九等        六円      参人 拾等      自四円五拾銭    参人         至五円 等外      自壱円五拾銭    九人         至四円五拾銭  合計             参拾八人 



        男工
   日給   人員     日給   人員
  六拾五銭  弐人    弐拾四銭  壱人
  六拾銭   弐人    弐拾参銭  参人
  五拾五銭  五人    弐拾弐銭  八人
  五拾銭   四人    弐拾銭   拾四人
  四拾八銭  弐人    拾九銭   壱人
  四拾五銭  四人    拾八銭   八人
  四拾参銭  四人    拾七銭   七人
  四拾銭   四人    拾六銭   七人
  参拾六銭  壱人    拾五銭   八人
  参拾五銭  四人    拾四銭   弐人
  参拾四銭  四人    拾参銭   参人
  参拾銭   七人    拾弐銭   拾四人
  弐拾八銭  弐人    拾壱銭   参人
  弐拾七銭  五人    拾銭    拾弐人
  弐拾六銭  壱人    九銭    弐人
  弐拾五銭  六人    七銭    壱人
 - 第10巻 p.591 -ページ画像 
  六銭    壱人    四銭    壱人
  五銭    六人
        女工
   日給   人員     日給   人員
  弐拾七銭  壱人    九銭五厘  壱人
  弐拾銭   四人    九銭    四人
  拾九銭   壱人    八銭五厘  参人
  拾八銭   六人    八銭    拾参人
  拾七銭   四人    七銭五厘  壱人
  拾六銭   参人    七銭    参人
  拾五銭   八人    六銭五厘  参人
  拾四銭   七人    六銭    拾壱人
  拾参銭   弐拾壱人  五銭五厘  七人
  拾弐銭   七人    五銭    九人
  拾壱銭   六人    四銭五厘  壱人
  拾銭    弐拾七人
   男女工合計   参百拾名


渋沢栄一 書翰 斎藤峰三郎宛 (明治二三年) ○四月一七日(DK100051k-0005)
第10巻 p.591 ページ画像

渋沢栄一 書翰 斎藤峰三郎宛 (明治二三年) (斎藤峰三郎氏所蔵)
 ○四月一七日
出立後無異十四日ハ西原一泊、十五日大坂へ下り今日迄ニて此度出張之主務ハ相済候ニ付、明日ハ神戸へ罷越支店之事務一覧後、熟皮会社を見廻り廿日大坂へ帰り廿二日頃ニ西京へ罷越、廿七日迄同地滞留(但廿七日ニ織物会社開業式有之故ニ候)廿八日頃ニ四日市へ罷越、三十日ニハ帰京之積ニ御坐候
○中略
  四月十七日
                      渋沢栄一
    斎藤峯三郎殿

渋沢栄一 書翰 斎藤峰三郎宛 (明治二三年) ○四月二二日(DK100051k-0006)
第10巻 p.591 ページ画像

 ○四月二二日
○上略
織物会社之開業ハ廿七日と取極候由、出張之序一寸立会候積ニ御坐候
○中略
  四月廿二日
                      渋沢栄一
    斎藤峯三郎様
  ○京都ヨリノ書翰ナリ。

渋沢栄一 書翰 斎藤峰三郎宛 (明治二三年) ○四月二三日(DK100051k-0007)
第10巻 p.591-592 ページ画像

 ○四月二三日
○上略
大沢氏へ一書可申進之処、相略し左ニ御伝言之要旨申進候
佐野氏より差出候報告書ハ至急大坂へ相廻し、山辺・川村ニ一覧為致、右相済候ハ、直ニ印刷ニ付シ申度ニ付、東京へ返付候様御申遣被下、且兼而相托せし印度・日本之比較調も可成早々文案を草し、拙生帰京之上、直ニ一覧大坂へ打合候様仕度、又聯合会ハ五月下旬ニ東京開会
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之積ニ付、其前政府へ之建白書案も起草仕度、夫是御取調被下度候、右当用御答旁如此御坐候 不一
  四月廿二日
                      渋沢栄一
    斎藤峯三郎様
  ○京都ヨリノ書翰ナリ。


中外商業新報 第二四二二号 〔明治二三年四月二二日〕 渋沢栄一氏の帰期(DK100051k-0008)
第10巻 p.592 ページ画像

中外商業新報 第二四二二号 〔明治二三年四月二二日〕
    渋沢栄一氏の帰期
去る十四日松方大蔵大臣の召に応じて大阪に赴きし渋沢栄一氏には、昨今漸く彼の金融円滑策に関する要件をば了はられしも、兼て京都・四日市の両所に所用ありて是非本月下旬に際して同地方に赴かるべき筈なりしかば、其の帰途先づ四日市の要事を済せ、又た京都に引返し来る二十七日執行の筈なる京都織物会社の開業式に臨み、夫より愈々帰途に就かるゝ予定なりと聞けば、同氏帰京の期日は、多分来る二十九・三十両日の内なるべし


中外商業新報 第二四二三号 〔明治二三年四月二三日〕 渋沢栄一氏(DK100051k-0009)
第10巻 p.592 ページ画像

中外商業新報 第二四二三号 〔明治二三年四月二三日〕
    渋沢栄一氏
同日○四月二二日 大阪午後〇時二十五分特発本社午後一時着
渋沢栄一氏には只今斎藤商務局長と同列車にて京都に赴き、来る廿七日執行する京都織物会社の開業式に臨み、夫より直に帰京の途に就かるべき筈なり


竜門雑誌 第五号・第一七―一八頁 〔明治二一年九月二五日〕 ○京都織物会社(DK100051k-0010)
第10巻 p.592-593 ページ画像

竜門雑誌 第五号・第一七―一八頁 〔明治二一年九月二五日〕
○京都織物会社 同社ハ明治十九年十二月、資金卅五万円を以て創設し、諸織物染物捻糸整理の業を、西洋風の機械を用ひて営むを目的とす、発起人は浜岡光哲・内貴甚三郎の諸氏、及東京の紳商渋沢栄一・益田孝・大倉喜八郎等の諸氏も加はりて、三組玉蔵に事務所を設けたりしに、当時諸会社の創設陸続として起るの際なれは、京都の有志の中には別に染物会社又は捻糸会社を立つるの企ありたるを以て、同一地に同業の会社を二つ設くるは自然競争起りて結局双方の損害たるへしとて、右両社と合するの議起り、遂に従来の資本金を増して更らに五十万円とし目下五十円株中廿五円宛払込済となりて、既集の額は廿五万円あり、斯くて昨年八月浜岡氏は欧米商工業視察として洋行の途に上るを幸ひ、其監督に同社の技師近藤・稲畑・高松の三氏を派遣して前記四業の景況視察を兼ね諸器械購入並に外人雇入建築製図取調等を托して器械営業開始の緒に就きたると同時に、手織の方をも開始せんとて嘗つて出願中なりし京都府織殿の払下を得て、同所に事務を移し、従来同織殿にて用えし職工等を其儘雇入れて、同八月中より諸器械の運転を始め今尚試験中なり、同社織物染物整理の三工場敷地は同府下吉田村の官有地一万七千八百坪を払下けたる者にて本年四月仏の里昂より浜岡氏の一行か送り越したる平面図に依りて各工場の位置を定め、染物用の井戸を堀りて清水の験査を為し建築事務所を設置する
 - 第10巻 p.593 -ページ画像 
等・諸事の用意を整へたるに、去る七月に至り浜岡氏は技術上の取調器械買入等の事を済し、技師近藤氏と共に帰朝せるを以て、已に其頃工場の築方に着手中なり、右三工場及倉庫は之れを煉化造りとし、事務所石炭小屋製薬場化学試験所等は木造にする由なるか、工費は八万五千円の予算なり、又捻糸工場の敷地は愛宕郡南禅寺村にして、琵琶湖疏水の線路に当りて水力利用の点に於て最も都合よき場所なりと云ふ、前に記したるか如くなるを以て、未た開業の期日は定かならすと同地よりの通信



〔参考〕浜岡光哲翁七十七年史 第一六四―一六九頁 〔昭和四年八月〕(DK100051k-0011)
第10巻 p.593-594 ページ画像

浜岡光哲翁七十七年史 第一六四―一六九頁 〔昭和四年八月〕
 ○第二編第五章 翁の外遊
    一 外遊の用件
○上略
 翁の同行者は、佐藤友太郎・稲畑勝太郎・高木才蔵・高松長四郎・近藤徳太郎の諸氏なりき。而して一行、概ね翁より年少の人人なりければ、翁は団長格となりて行程を定め、明治二十年七月、神戸港を後にし、先づ亜米利加に赴き、次いで仏・英・独を歴遊し、伊太利・白耳義・墺太利等を各視察して、翌二十一年五月に帰朝せるが、一行は外遊によりて、親しく海外先進国の文物を見、各地の状況を視察するに止まらず。その主たる用件は、彼地に於いて夫々然るべき当業者に会ひ、専門的施設を調査し、事業上の用件を果たすにありしかばほとほと異国の煙霞を楽しむが如き暇とてはなかりき。殊に翁はその関係せる事業の範囲の広汎なりしものから南船北馬、一層の繁劇を加へたりと見ゆ。
○中略
 次いで翁は独逸にて、染料其の他各工業施設の方面を視察せるが、京都織物会社の機械購入及び其の他直接業務上の用件にて、最も長期間、翁一行の逗留せしは仏蘭西なりき。京都織物は前年創立当時の営業方針に基き単に手織りの製織に従事すべく、翁が外遊に当り田中・内貴氏等の重役より托せられたるは里昂府にてジヤカード式の織機五十台を購入するに過ぎざりしも、翁は里昂府に至り機織工業の実地を視察するや、手織り以外、京都に於いて機織事業を大規模に起すの必要を痛切に感じ、機織機五十台並びに仏蘭西最新式の紋揚げ機械五十台を始め、繻子の再製に要するロールや、毛立ての機械や、其の他の夥しき機械器具ハもとより、これらの機械を運転するに必要なる、インジン、ボイラの類までも片つ端より、翁は独断を以て、或ひは購入し、或ひは注文し、一電一報、出荷通知を頻発し、在京都の重役連をして呆然たらしむるに至れり。翁の曰、
  欧洲機業の本場に於る嶄新の設準を視て、あまり私が思ひきつて新らしい機械器具を続続購入するものたから、浜岡が里昂で何を注文してくるか解らぬと云つて、重役間に大恐慌を起してゐた模様である。里昂の専門家も、京都織物会社で、製織も、染も、再製も皆一所に遣るのだと聞いて驚いてゐた。元来外国では、この三つは皆
 - 第10巻 p.594 -ページ画像 
別箇の会社で遣ることになつてゐたからである。滞留期間、機織は近藤、染は稲畑、再製は高松の各氏が彼地の技師から夫夫機械の組立や使用法を学び、貿易の方面は高木が研究し、私は全体を総括して、苟も善いといふ事は何の躊躇するところなく、極めて大胆に独断専行したわけである。云云。


〔参考〕田中源太郎翁伝 (水石会編) 第三二二―三二三頁 〔昭和九年三月〕(DK100051k-0012)
第10巻 p.594 ページ画像

田中源太郎翁伝 (水石会編) 第三二二―三二三頁 〔昭和九年三月〕
 ○第五章第二節 京都人としての翁
    二 浜岡翁との関係
○上略
 明治二十年、諸事革新の機運に乗じ両翁は逸早く京都の産業及諸工業の振興を計るべく、これが先駆として織物・陶器・貿易の三会社を起すことに着眼した。よつてまづ欧米の実地を視察し、彼国の進歩せる機械・器具を輸入し同時にその進歩したる技術を習得するの必要を認め、同年八月浜岡翁が団長格となり、佐藤友太郎・稲畑勝太郎・高木斎造・高松長四郎・近藤徳太郎等、気鋭の青年を率ゐて渡米し続いて欧洲に赴き、英・独・仏・墺・伊等の各国を歴遊して、親しく彼地の進歩せる文物制度を調査し、織物及染物の機械を購入して翌二十一年七月帰朝したのであつた、が、この間、田中翁は内に居残り、主として織物・陶器両会社を主宰し創業時代の百難に耐へつゝ、これが経営に任じてゐたのであつた。斯くして浜岡翁帰朝後、その輸入せし学理と機械を応用して会社の組織を充実し、玆に後年織物・陶器・貿易三大会社の成立を見る基礎は築かれたのである。
○下略


〔参考〕稲畑勝太郎君伝 (高梨光司編著) 第二〇九―二一三頁 〔昭和一三年一〇月〕(DK100051k-0013)
第10巻 p.594-595 ページ画像

稲畑勝太郎君伝 (高梨光司編著) 第二〇九―二一三頁 〔昭和一三年一〇月〕
 ○第三編第四章 染色技師として洋行
    一 浜岡等の一行に加はる
 京都織物株式会社は既に創立手続を完了したので、開業準備として第一に着手すべき重要なる仕事は、工場敷地の選定、工場の建築を外にしては、各種織物機械の買入と此等諸機械を運転すべきエンジン、ボイラー等の据附であつた。
 当時我国の機械工業並に鉄工業は、殆んど見るに足るものなく、織物機械、動力機関等の如きも、挙げて、これを海外に仰ぐは勿論、機械・機関を組立つる技師・職工も全部外国より傭聘するの外はなかつた。従つて新設の織物会社としては失づ何は措いても重役・社員を選抜して、海外に渡航せしめ、此の方面の用務を弁ぜしむる必要があつた。
 そこで織物会社に於ては、京都商工会議所会長にして同社重役の一人であつた浜岡光哲が、折柄実業視察のために欧米に漫遊するを機とし、浜岡に対して各部機械の購入その他の用務を託し、稲畑君並に近藤徳太郎・高松長四郎等を主任技師として、同行せしむることになつた。
 顧みれば君が京都府留学生として最初に渡仏したのは、明治十年十
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二月のことであり仏国留学を終へて帰朝したのは同十八年七月であつた。而して初度留学後十年を経、帰朝後満二年にして再び鵬程万里の行に就くに至つたのである。時に明治二十年八月君は年齢二十六であつた。
 斯くて浜岡の一行は君並に近藤・高松両人の外に高木斎造・佐藤友太郎等を加へ、横浜解纜の英船ベルチツク号に搭じ、先づ米国に赴き市俄古・紐育・華盛頓等の大都市を視察し、次で大西洋を横ぎり欧洲大陸に渡り、仏・独・伊・白・墺各国を巡遊し、巴里・里昂・伯林等に於て夫れぞれ所用を果したが、その間一行の最も長く滞在したのは仏国であつた。
    二 マルナス工場主の厚意
 当時仏国は欧洲大陸中に於ても、機業の本場として定評があり、特に里昂は絹織物の産地として、世界的に有名であつた。従つて仏国式機械を使用して同国生産に則る京都織物会社としては、里昂に範を採ることが最も得策であつた。
 更らに一行をして里昂に心を惹かしめたのは、里昂が稲畑君を始めとして、近藤・佐藤等の修学の地であり、特に同地には嘗て君が前後三年間徒弟として労務に服したマルナス染工場が在ることであつた。工場主マルナスも亦健在にして君の縁故に依て特別の厚意を寄せ、一行を懇切に待遇したので何彼につけて種々の便宜があつた。
 最初京都織物会社では、創立当初の営業方針に基き、主として手織の製織に従事すべく、浜岡重役に対してはジヤカード織機五十台の購入を託したのであつたが、一行が里昂に到り機織工業の実地を見るに及び、彼地の機業の進歩の著るしきに驚き、我国に於てもこれに傚つて機織事業を大規模に経営するの必要を痛感した。
 その結果として当初の方針を一変しジヤカード織機五十台の外に、仏国式最新紋揚機械五十台、繻子の再製に要するロール、毛立機械その他新会社に必要とする機械器具を悉く購入し、更らに此等の機械運転のためのエンジン、ボイラー等をも注文し、技師・職工の雇用に就ても契約し、一切の所要を果して帰朝の途に就いた。
○下略


〔参考〕稲畑勝太郎君伝 (高梨光司編著) 第二二一―二二七頁 〔昭和一三年一〇月〕(DK100051k-0014)
第10巻 p.595-597 ページ画像

稲畑勝太郎君伝 (高梨光司編著) 第二二一―二二七頁 〔昭和一三年一〇月〕
 ○第三編第五章 京都織物会社を去る
    一 織物会社の開業
 斯くて稲畑君等は前後半歳余に亘る欧米視察を終り、明治二十年十二月帰朝したので、織物会社では同年十一月新工場敷地として官有地の払下を受けた吉田下阿達(当時愛宕郡吉田村)に於て、工場の建設機械の据付等を行ふことになつたが、当時の会社の規模は新旧工場を併せて敷地一万七千坪、建坪二千四百五十六坪、工場の内部を織物・染付・再製・撚糸及び機械の五部に分ち、公称馬力九八最大気圧六を有する滊缶を据え、男女職工五百三十人を使役する予定で、その時代の織物会社としては、最も規模の充実したものであつた。
 唯何と云つても当時は今日と異り、機械工業は極めて幼稚であつた
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から、仏国から購入した各種織機の運転に必要なエンジン、ボイラーの如きも、部分品の儘持ち帰つて、新たにこれを組立つるの外はなくその組立にも我国の鍛冶工では用を弁ぜぬので、態々仏国から鍛冶工を雇用した位で万事意の如く捗取らず、工場の建設と機械の据付に二ケ年を費やし、各工場の工程一切を終り、営業準備を整へたのは、明治二十三四月下旬であつた。
 是より先有栖川宮熾仁親王殿下には、明治二十一年七月一品弾正尹好仁親王二百五十年祭典執行のため御滞京中であつたが、同月二十一日市内御巡覧の途次、河原町工場(旧織殿)に成らせられた。事は高松宮御蔵版『熾仁親王日記』に左の如く見えてゐる。
  廿一日 晴
 一午前九時五十分、銅器・漆器職池田フジ、陶器職錦光山小林宗兵衛、七宝職並川靖之、友禅呉服物商西村総左衛門、京都織物会社巡覧、午後一時四十分帰館之事。
 偖て会社では工場設備が完成したので、いよいよ明治二十三年五月一日を以て営業開始に決し、四月二十七日開業式を挙行したが、折柄京都御駐蹕中の 皇后陛下(昭憲皇太后)には、畏くも開業式前に会社へ行啓遊ばされ、御手許よりして金二百円を御下賜あらせられた。
 此の日特に 皇后陛下の行啓を仰ぐに至つたのは、同社が我国最初の機械織物工場であるが故に、産業御奨励のため特別の御思召に依つたものと拝察するの外はないが、何れにしても国母陛下が尊貴の御身を以て、民間一会社に行啓あらせらるゝが如きは、当時としては稀有のことであつて、全社を挙げて感激恐懼し、只管誠心を籠めて奉迎に努めたが、わけても君は主任技師として御先導の役を勤め、場内の各設備に就て、詳細に言上するの光栄に浴した。
 君の当日の役目に対しては 陛下もいたく感賞あらせられ、香川皇后官大夫を経て、御褒詞を賜つたとのことである。
    二 繻子製造に着手
 京都織物会社は斯くて操業を開始したが、同社にあつて専ら染色方面を担任した君は、前年仏国留学中研鑽を積んだ、里昂の黒染法に依り、一種独特の繻子の染色を案出し、その製造に着手した。後年会社が都繻子の商標を附して、売出したものがこれであつた。
 従来の繻子は、前にも述べた如く普通南京繻子の名を以て呼ばれた外国品で、明治初年以来盛んに輸入せられ、その需要も年々増加したので、同十一年頃南京繻子の輸入を防遏するため、西陣曼陀羅町の永井喜七は、舎密局に於て伝習した洋式染法を用ゐ、模造品を造つたことがあるが、その成績は余り芳ばしくなかつた。故に南京繻子に対抗する品質優良の国産品を市場に出したのは、君の考案に成る都繻子が最初で、外国製繻子の輸入防遏の機運も、これに依つて促進されるに至つた。
 記述は聊か前後するが、君は往年仏国留学当時、欧洲諸国に於ても未だ嘗て使用されなかつた染色及び水洗用機械を発明し、明治二十年再度洋行に際して、独・仏両国政府に向つて専売特許を出願したが、此の事実は、当時我国にも喧伝せられ、同二十一年三月三十一日発行
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『東京日日新聞』には、左の如く報道してゐる。
     仏国里昂府に於て日本人の発明
 世界中に絹織物製造に首冠たる地は、仏国リヨン府たることは、衆人の知る所なり。而して、里昂府製絹業を区分するときは、織物・整理・染物の三業にして、織物・整理の如きは機械学の力に因り非常の発達を器械上に来たし、数十年前の如く人力にて(今日日本の織物整理両業の有様)製し来たりしものは殆んど之を滊力に変へ、即ち器械を以て人力に代換するの進達をなせり。然るに染物業のみに至つては化学的の進歩に因て、改良を加へたりと雖ども、未だ器械的に欠くる所少しとせず、即ち濡糸の水を駆除する器械・乾燥器械、其の他種々の発明ありと雖も、肝心の染物器械たるものなし。故に里昂府染物工場に於てすら、糸染に至りては皆人力に因らざるなし。然るに同府下に久しく留学して染業を研究したる稲畑勝太郎と云へる人深く之を憂へ、焦思苦慮して研究せしこと爰に年あり。遂に一の染物器械を発明し、里昂府に於て工業者学士、工師に其器械を示したるに大いに称賛を得たり。尤も此器械は将来に見込の多きものなれば、遂に仏独両政府より専売特許を得んが為め願書を差出せしが、右両政府の専売特許認可の下るを待て、英米両政府にも特許を願ふの目的にして、既に里昂府下の有名なる染物工場に於ては、同氏の許可を得て一の器械を製造せんとの計画中なり。但し同氏発明の器械に因るときは、色染及び洗濯等も同一の器械にて為し得べきものにて、一の器械にて二十余人の職工の代換をなし能ふべきものなりとの報あり。欧洲にてさへ発明なかりし染物器械を、日本人が発明したりとは、喜ぶべき報道にこそあれ。
 君の発明した染色及び水洗用機械は此の記事にある如く、従来人力に依つてのみ為し来つた染物製作を、機械に依つて行はんとするもので、当時にあつては染色界に一新時期を劃したものと云つてよく、里昂に於てもマルナス染工場を始めとし、爾余の工場も悉くこれを採用して好成績を挙げた。
 唯我国に於ては、当時の社会状態として、欧米に比較して工賃が廉く、器械を以てするも人力を以てするも、その間余り逕庭がなかつたので、折角の発明も自然その使用を見るに至らずして止んだ。併し兎も角も欧米人の未だ嘗て企て及ばなかつた染色器械を、君の卓抜せる頭脳に依つて考案したことは、日本人のために気を吐くものと云はねばならぬ。