デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
9節 麦酒醸造業
2款 札幌麦酒株式会社
■綱文

第11巻 p.368-381(DK110055k) ページ画像

明治27年5月24日(1894年)

札幌麦酒会社商法ノ実施ニ因リテ札幌麦酒株式会社ト改称ス。栄一取締役会長ニ就任シ、植村澄三
 - 第11巻 p.369 -ページ画像 
郎ヲ推薦シテ専務取締役ニ就任セシム。栄一、重任シテ明治三十九年三月同社合併解散ニ至ル迄其ノ地位ニアリ。


■資料

(札幌麦酒会社)政府関係書類(DK110055k-0001)
第11巻 p.369 ページ画像

(札幌麦酒会社)政府関係書類
[img 図](登記) 印紙弐円 同 同 同 同(大日本麦酒株式会社札幌支店所蔵)
             登記相受度陳述書
               北海道札幌区北二条東四丁目番外地
               札幌麦酒株式会社
                    専務取締役 植村澄三郎
     登記ヲ受クヘキ事項
第一 社名、札幌麦酒株式会社
第二 営業所、北海道札幌区北二条東四丁目番外地
第三 会社種類本店又ハ支店、株式会社本店
第四 会社ノ目的、麦酒醸造営業
第五 会社設立免許ノ年月日、明治廿年十二月廿八日
第六 会社開業年月日、明治廿一年一月一日
第七 資本総額、金拾万円
第八 株式総額、壱千株
第九 壱株ノ金額、壱百円
第十 払込金額、壱百円
第十一 会社存立時期、明治廿壱年一月ヨリ満二十ケ年
第十二 取締役ノ氏名住所
          東京市深川区福住町四番地
             取締役会長 渋沢栄一
          東京市赤坂区葵町三番地
             取締役   大倉喜八郎
          東京市深川区福住町壱番地
             取締役   浅野総一郎
          北海道札幌区北一条西十二丁目十二番地
             専務取締役 植村澄三郎
  以上四名
右ハ商法第百六十八条及第七十八条ニ基キ、定款設立免許書・株主名簿・会社印鑑・専務取締役印鑑等相添ヘ、同法第二十条ニ依リ届出候間、速カニ御登記相成度、此段陳述仕候也
   但起業目論見書之義ハ別紙御届書ノ通
  明治廿七年六月四日
札幌麦酒株式会社印     右当事者
                       植村澄三郎(印)
  札幌区裁判所
   判事 川井正巳殿


(札幌麦酒会社)考課状 第五回〔明治二七年一二月〕(DK110055k-0002)
第11巻 p.369-370 ページ画像

(札幌麦酒会社)考課状 第五回〔明治二七年一二月〕
一明治廿七年五月廿四日第四回株主総会ヲ東京日本橋区兜町第一国立銀行楼上ニ開キ、廿六年一月ヨリ十二月ニ至ル一ケ年間ノ諸計算ヲ
 - 第11巻 p.370 -ページ画像 
議了シ、併テ営業ノ景況ヲ報告セリ
一同日臨時総会ヲ開キ、廿六年十二月廿七日農商務大臣ヨリ認可ヲ得タル改正定款ニ基ツキ役員撰挙投票ヲ行ヒタルニ、渋沢栄一・大倉喜八郎・浅野総一郎・植村澄三郎ノ四氏取締役ニ、鈴木恒吉・大川平三郎ノ二氏監査役ニ当簽セリ、依テ更ニ取締会議《(役脱カ)》ヲ開キ、互撰ヲ以テ渋沢栄一氏ヲ取締役会長ニ、植村澄三郎氏ヲ専務取締役ニ撰挙シ、各承諾シテ上任セラレタリ
一同十月廿三日同所ニ於テ臨時総会ヲ開キ、定款第四条当会社資本金拾万円トアルヲ九万千七百円ニ、株数千株トアルヲ九百十七株ニ改正ノ件ヲ決議セリ


青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第一七三―一七六頁 〔明治三三年六月〕(DK110055k-0003)
第11巻 p.370-371 ページ画像

青淵先生六十年史(再版)第二巻・第一七三―一七六頁〔明治三三年六月〕
 ○第三十七章 麦酒醸造業
    第一節 札幌麦酒会社
○上略
廿七年五月新定款ニヨリ先生・大倉・浅野及ヒ植村澄三郎取締役ニ、鈴木恒吉・大川平三郎監査役ニ当撰シ、先生ハ取締役会長トナリ、植村ハ専務取締役トナリ、専ラ社務ニ鞅掌ス
廿七年ポルマン任期満チテ帰国ス、是ニ於テ学理ノ応用及ヒ品質ノ改善ニ関スルコトハ農学士矢木久太郎ニ、其他醸造ノ事ハ創業以来従事シ来レル林源次郎ニ分任ス、同年征清ノ事アリ、連勝ノ勢ハ気運ヲ一変シ一般ノ景気振興シテ麦酒ノ需用頓ニ増加シ、販路愈々膨大シテ、廿八年ノ夏季ニ至テハ貯酒欠乏シテ殆ト供給ヲ欠カントシ、空前ノ盛況ヲ呈シヌ、廿九年酒窖ヲ増築セシモ商況益々好運ニ向ヒテ復タ又其ノ狭キヲ感シ、再ヒ増築ヲ要スルニ至リ、今日既ニ其工事ニ着手セリ其竣功ノ後ニ至レハ一箇年優ニ一万二千石ヲ産スルヲ得ヘシ
大麦種子改良ハ最注意経営セシ事ニシテ、廿七年中独逸国ヨリ良種四十石ヲ輸入シ、又廿九年中米国ヨリ良種三十石ヲ輸入シ広ク農家ニ配布シ、廿九年春季ノ大麦品評会ヲ同社構内ニ開キ、麦質ノ改善麦作ノ奨励ニ資シ、爾来毎年開会シ、肥料モ亦種子ト共ニ汎ク貸与シ、苦心経営其ノ効果遂ニ空シカラスシテ漸次其ノ品位ヲ高ムルノミナラス、産額亦著シク増加スルニ至リシハ喜フヘキノ現象ナリトス
今ノ如ク我邦ノ習慣喫好推移ノ勢、誠ニ顕著ニシテ、麦酒ノ如キ軽淡芳滋ナル好飲料カ今後ノ社会ニ歓迎セラルヘキハ蓋シ自然ノ数ナリ、加之清酒造石税ノ増加モ亦タ痛ク麦酒ノ需要ヲ刺激シ斯業前途ノ隆運予メ卜スルニ難カラサルモノナリ、同社当局ノ人々ハ此ノ間ニ於テ徐ニ将来ノ為ニ企画施設スル所アリ、以テ他日雄飛ノ素地ヲ造ラントシ廿九年資本ヲ増加シテ三拾万円トナシ(廿八年増シテ十三万円トシ以テ二十九年ニ至ル)矢木技師ヲ独逸ニ派遣シテ日進ノ醸造術ヲ研究シ且ツ諸般ノ視察ヲナサシム惟フニ数年ヲ出テスシテ技術ノ精、設備ノ完、大ニ看ルヘキモノアルニ至ラン、又タ他方ニ於テハ麦芽製造ヲ起サントシ、既ニ其ノ準備ニ着手シタリ、蓋シ現時麦酒醸造所ノ数既ニ十ヲ以テ、数フト雖モ、其原料麦芽ハ殆ント全ク独米両国ヨリ輸入スルモノニ係ル、今ノ時ニ当リ大ニ其製造ヲ勉メテ輸入ヲ杜絶シ、他醸造所ヲシテ悉ク内国製麦芽
 - 第11巻 p.371 -ページ画像 
ヲ使用スルコト同社ノ如クナラシムルハ国家経済上必須ノ事ニシテ、亦タ頗ル有望ノ業ナラストセンヤ
同社製品ノ博覧会又ハ共進会ニ於テ賞ヲ受タルコト次ノ如シ
 一廿三年七月第三回内国勧業博覧会ニテ三等賞受領
 一廿五年八月北海道物産共進会ニ於テ二等賞受領
 一廿八年第四回内国博覧会ニ於テ有功三等賞受領
左表ハ同社創立以来事業成績ノ一斑ヲ示スモノナリ
   ○表ハ後掲(第三七九頁)ニツキ略ス。
同社ノ麦酒カ今日ノ如ク精良トナリ、今日ノ如ク盛大トナルマテニハ随分困難アリタルナリ、要スルニ青淵先生カ百折不撓人ヲ用ユルニ妙ヲ得タルコトハ同社ノ成功ニ最モ与テ力アリ、今ヤ同社ハ盛ニ資本ヲ増加シテ東京ニ分工場ヲ設置セントスルノ計画アリ


青淵先生に関する諸氏の談話 「麦酒会社との関係に就て(植村澄三郎氏談)」(DK110055k-0004)
第11巻 p.371-372 ページ画像

青淵先生に関する諸氏の談話 (雨夜譚会所蔵)
    麦酒会社との関係に就て(植村澄三郎氏談)
 別項に御話した通り、北海道炭礦鉄道会社の方は、常任監査役と云ふ比較的閑散な身柄になつた処、明治二十七八年の頃であつた、青淵先生から次のやうなお手紙があつた。
  貴殿は炭礦鉄道の監査役になつたさうだから仕事は非常に楽になつたことゝ思ふ、就ては自分が大倉・浅野等とやつて居る麦酒会社の世話をしてくれまいか、また君は北海道の事情には通じて居る筈であるから、同姓喜作と共にやつて居る十勝開墾会社の方も世話をしてくれぬか、何れ詳しい事は東京へ来られた時お話しやう
これが私の札幌麦酒会社へ関係する動機であり、且つ十勝開墾の御世話をする端緒であつたのである。
 札幌麦酒会社に対して、先生が心を用ひられ、親切に経営せられたことに就ては、一々これを書き尽すことは出来ない程であるが、中にあつて特に私の感動したことを語らう。最初此の会社は資本金百万円の合資組織で、先生初め大倉喜八郎氏その他東京並に大阪等の有力な方が出資者となつて居た。然し経営は非常に困難であるのに、私の不慣れな仕事であり、又北海道炭礦鉄道の片手間であつたから、常に先生から御手紙によつて指導を受け、年二三回は東京へ出かけて親しく指導を受けた、けれども一時は十万円の払込が取れず、借金が六万円以上も出来てどうにもならぬこともあつたが、十三万円増株し、後三十万円で工場を拡張し、各所に販路網を張つて、漸く販路も広まるやうになつたのである。其の頃私は販路を広めなければならぬので、自ら先生の添書を携へて各地に赴いたが、或る時越後の長岡へ行き、其処の六十九銀行頭取を訪ねた、何んでも此の銀行は創立に際して先生から御指導を受けたもので、先生の手紙を出して会見すると、その頭取は直ちに「ではビール販売の看板を銀行へ出しませう」と云ふお話であつた、然しビールの看板を銀行へ出したのでは売れさうもないから其の事はお断りしたが、此一事によつても如何に先生が尊敬せられて居たかゞ判る。その他新潟、及び北陸の各地を廻つた私は、何処で
 - 第11巻 p.372 -ページ画像 
も同じやうに先生のお蔭で歓迎せられ、先生が遠く斯かる地方にまでお世話を為して居られるのを知つたのである。
○下略


青淵先生に関する諸氏の談話 「麦酒会社との関係に就て(植村澄三郎氏談)」(DK110055k-0005)
第11巻 p.372 ページ画像

青淵先生に関する諸氏の談話        (雨夜譚会所蔵)
    麦酒会社との関係に就て(植村澄三郎氏談)
○上略
 扨て私は欧米を廻るに就て農学士の矢木久太郎君と同行した。矢木君は私がビール会社を引受けた時入社した人であるが、当時は独逸人のポールマンと云ふ人が技師長で万事指導して居り、他は職工長以下の者のみであつた、そしてビールの売高は、年千石に過ぎなかつたのに、ポールマンの年俸は八千円であつたから、一石につき八円に当つて居たのである。従つて到底斯かる高級者を置くことが出来ぬ、且つ彼は独逸人気性を現はし、材料も機械も悉く独逸本国のものを使用せねば承知しないと云ふ風なので、愛国的気性は感服するが、日本の会社としては感心出来なかつたので、私が大学卒業の技師長を採用しようとして、其旨青淵先生に御相談の上御願ひ申した、すると先生が直ちに大学の方に交渉せられたものと見え『大学で助教授をして居る矢木久太郎と云ふ人があるがどうか』と仰せられるので面会して見ると適当の人と思はれたから、直に『可なり』と復命し、給料は当分見習として月三十円の手当とし、後は本人の腕次第と云ふことにした、すると大学の先生連中が反対し『左様に好遇しないのならば行かぬがよい、月給五十円以上でなくては行くな』と云つたそうであるが、先生は『本人がよいと云ふのに、大学の教師が左様なことを云ふのは判らず屋た、かまはず置け』と云はれ相手にしなかつたが、矢木君は出世して会社の技師長となり次で取締役になり、且つ技術も発達し博士号までもとつた、今日は病気の為め職を辞して閑散な地位にあるが、先生のお眼鏡にかなつて札幌ビール会社に入社し成功を納めたのであつた、今更先生の眼識に感ずる次第である。
○下略


渋沢栄一 書翰 植村澄三郎宛(明治二七年)三月一四日(DK110055k-0006)
第11巻 p.372-373 ページ画像

渋沢栄一 書翰 植村澄三郎宛(明治二七年)三月一四日
                   (植村澄三郎氏所蔵)
爾来益御清適御坐可被成奉賀候、然は一事御相談旁御内意相伺候ハ、小生等貴地ニ於て営業為致候札幌麦酒会社之事務、近来各種之器械も増設し、其規模ハ稍拡張いたし候得共、今以担当者ニ其人を得す、社務不整理なるのミならす、販路も未タ充分ニ不相進、昨半季抔ハ終ニ得失不相償仕合ニ御坐候、尤も麦酒醸造方ハ先年来雇入有之候独乙人ニ一任いたし居候処、此独乙人も技術ハ相応ニ相見候得共、利己之念多く、其上兎角事務員と折合不宜、実ハ向後之管理方ニ困却罷在候、元来会社之組織ハ株式会社ニ成立せしも、大株主ハ小生・浅野・大倉之三人ニて、格別多人数之株主も無之、今日迄浅野之縁戚ニて鈴木恒吉と申者、東京ニ於て従来麦酒販売業相営居候ニ付、両三年来同人を小生等三人之名代として実地在勤担当者ニ充候処、自宅之業務も有之
 - 第11巻 p.373 -ページ画像 
候為、冬分ハ詰合も難出来、其上動もすれハ、外国技術方と紛議相生し、常ニ議論に日を送候姿ニ有之、殊ニ他之事務員中ニも不折合不少候、旁将来之措置何とか恰好之工夫を要し候場合と相成候、就而もしも賢台ニ於て全体之管理御引受被下候義相叶候ハヽ、内々之御相談を以、相当之株式を御名義ニ書替、取締役之一人ニ相成、小生之名代を兼、実地在勤、百事御指揮相願度と奉存候、但現今之御職掌なれハ、他之取締役ニ当撰候とも条理上御差支有之間敷、又当方之事務とても敢而賢台全力を以御管理無之とも、大体之方針小生等と御打合申上、其要旨ニ従ひ、時々事務員を御督励被下候ハヽ、行届可申歟と愚考仕候、右ニ付小生等之企望ハ素より賢台現在之御職任ハ其儘ニて、御余力ニ御引受ハ被下間敷哉と申上候義ニ御坐候
乍去麦酒会社之業務ハ賢台未タ御経験も無之、且貴社之御職掌も片手間ニ御任被成兼候御場合なれハ強而申上候訳ニも相成不申、もし又右等ニ御差支無之とも、賢台ニ於て御好無之との事なれハ是又致方無之候得共、到底小生も浅野・大倉も自身在勤ハ仕兼、去り迚単に雇員ニてハ一般之思入も如何と被存、遠隔之土地ニ付、可成ハ平生御互ニ相信し相親ミ候一人を得申度と、小生ニ於て色々と愚案いたし、終ニ御内意伺試候義ニ候、幸ニ御同意被下候様なれは一寸御出京相願、百事拝面ニて御依頼可仕と存候、但此一書を呈し候義ハ浅野・大倉ニハ相談之上ニ候得共、会社事務員へハ不申示候ニ付、現況御聞取被下候事共必要なれハ、電報なりとも仲田渥美と申両人へ申遣し、現状詳細ニ申上させ可申候
右之段内々御摸様相伺度如此御坐候 匆々不一
  三月十四日
                      渋沢栄一
    植村澄三郎様


渋沢栄一 書翰 植村澄三郎宛(明治二七年)三月二八日(DK110055k-0007)
第11巻 p.373-374 ページ画像

渋沢栄一 書翰 植村澄三郎宛(明治二七年)三月二八日
                   (植村澄三郎氏所蔵)
三月廿一日附御回示拝読仕候、然は小生等貴地ニ設立営業罷在候麦酒醸造事業之管理を貴台御担任被下候義相叶申間敷哉との御伺ニ対し、縷々之御答逐一拝承仕候、貴台とても此醸造事業ニ御経験無之ハ小生も承知仕候得共、相当之技師を得て醸造本務其宜を得、及販売上ニ充分之注意を以て他地方より競争致来候ものニ打勝候ハヽ幾分之利益有之候仕事と被存候、而して其工場ハ昨年来相当之設備をもいたし候間、先以完全とも可申と相考候得共、現任之技師ポルマル《(ポルマン)》と申人ハ是迄之経歴ニてハ技術ハ適当と被存候得共、頗ル貪慾我儘之性質ニて、会社之経済上ニも満足とハ難申候ニ付、本年九月限解雇仕度と相考候義ニ御坐候、尤も同人解雇後之方法如何ハ目下種々熟考中ニ御坐候間、兎ニ角貴台御引受被下候義ニ候ハヽ、一応現況御詳知被下、其上小生等拝光万事御協議申上様仕度と存候
過日電報も拝見仕候ニ付、直ニ仲田等へ申遣し、実地御詳知之都合取計置候、又御出京ハ来月廿日頃と御考之由拝承、多分其前大倉氏も貴方へ旅行いたし候様可相成候間、もし百事同氏との御相談ニて行届候
 - 第11巻 p.374 -ページ画像 
ハヽ、強而御出京被下候ニも及申間敷、もし又其上ニも一応御出京破下度様なれハ、大倉氏より御打合可申上と存候
仲田渥美之人々も余り完全之事務員とも難申候得共、仲田ハ小生従来世話中之者ニ付、両三年前差遣し候義ニ候、御管理被下候後、尚他ニ可然人物御入用ニ候ハヽ何様ニも繰合可申と存候
又技師候補者として目下肥田と申人差遣し置候処、此者ハ少々差支之義有之、此際解雇之筈ニ御坐候、是ハ会社ニ於て目的を変せしニハ無之、肥田之身上不得已事情相生し候義ニ御坐候、其上本人之叔父肥田昭作と申人より承及候処ニても、何分将来之望乏敷よし被申候、旁終ニ右様取計候義ニ御坐候
右等不取敢拝答迄如此御坐候 匆々不一
  三月廿八日
                      渋沢栄一
    植村澄三郎様


渋沢栄一 書翰 植村澄三郎宛(明治二七年)四月一七日(DK110055k-0008)
第11巻 p.374 ページ画像

渋沢栄一 書翰 植村澄三郎宛(明治二七年)四月一七日
                   (植村澄三郎氏所蔵)
同姓喜作氏貴地出張之幸便ニ托し一書啓上仕候、然者札幌麦酒醸造会社向後管理之義、先頃書中貴台へ拝願仕候処、目下工場之実況御一覧之上御見込相立候上ハ御引受も可被下旨御回示相成、其後掛員へも委細申遣し候間定而実地御熟覧も被下候事と存候、就而小生も種々勘考候処、将来同会社営業ニ付専一ニ思考すへきハ醸造技師之一点ニ御坐候、是迄関係せし鈴木恒吉抔之見込ハポ氏ハ相断候而も日本人ニて小林と申職工揚り之人も有之候間、稍間に合可申との事なれとも実ハ懸念不少哉と存候、依而もしも貴台ニ於て向後之管理方御任し被下候ニ付而ハ第一ニ此技師ハ如何可致哉篤と御考慮被下御申越被下度候、又販売之事務も今日迄ハ製額も少く候得共、弥以弐千五百石も製出候様なれハ今日迄之手配ニてハ不充分と存候、其上近頃ハ大坂東京よりもせり込候趣ニ付、右等へ対し程克相談いたし余り無法之競争ニ不相成詰り北海道ハ可成丈当会社之製品ニて売弘メ候様之工夫必要と存候処鈴木之手配も右等ハ頗ル不完全ニ有之候ニ付、其辺ニ御注目被下賢案も有之候ハヽ相伺申度と存候
先頃も申上候如く大倉氏も本月又ハ来月中ニハ貴方出張と申事なれとも、小生ハ可相成ハ貴台御任被下候ハヽ一度御出京被下、右等之要点ハ御面会之上詳細御打合申上度と企望仕候
尚委曲ハ同姓へも申伝候間御聞取被下、至急貴案御回示被下度候、此段書中申上候 匆々不一
  四月十七日
                      渋沢栄一
    植村澄三郎様


渋沢栄一 書翰 植村澄三郎宛(明治二七年)七月三日(DK110055k-0009)
第11巻 p.374-375 ページ画像

渋沢栄一 書翰 植村澄三郎宛(明治二七年)七月三日
                   (植村澄三郎氏所蔵)
尊翰拝読仕候、然者矢木氏欧洲派遣ニ付而ハ大倉氏ハ帰朝後会社従事
 - 第11巻 p.375 -ページ画像 
之年限を十ケ年と相望候由ニ付、其通り御修正被成候由拝承仕候
且又頃日来東京人ニてマルツ製造工場を北海道ニ設置之相談相始候義御聞込ニ付、当麦酒会社ニ於て速ニ増資之事を決し、右原料製造之業務兼営候様被成度と御考相成、大倉・浅野ニも御打合之処、同意之旨御答申上候、旁右増資議案御取調被下候云々、委細増田より承知いたし、小生も御同意ニ付右議案ニハ少々修正意見申聞、近々貴台より営業予算御遣被下候ハヽ速ニ臨時会相開候様可仕候、右ニ付而ハ尚時々御往復も可仕候得共、如斯業務拡張いたし候ニ付而ハ、向後之御担当も一層緊要ニ相成可申ニ付而ハ、其報酬も素より相増可申筋ニ有之、随而炭礦会社之方ニ対する御勤務ハ可成片手間ニ相済候様御考被下度もし又夫ニてハ差支候様なれハ寧ロ彼れを御辞しニて此方ニ御専務被下度と奉存候間、其辺も御含置被下度候、此段拝答如此御坐候 不備
  七月三日
                      渋沢栄一
    植村澄三郎様


渋沢栄一 書翰 植村澄三郎宛(明治二七年)八月五日(DK110055k-0010)
第11巻 p.375 ページ画像

渋沢栄一 書翰 植村澄三郎宛(明治二七年)八月五日
                   (植村澄三郎氏所蔵)
奉啓、益御清適御坐可被成抃賀之至ニ候、然者過日尊書ニて詳細御申越被下候麦酒製造事業拡張ニ付、御取調相成候予算書ハ頃日落手拝見仕候得共、元来実験無之小生ニ付細事までハ相分り兼候、乍去大体ニ於てハ既ニ御同意申上候次第ニ付、速ニ増資之為株主臨時総会も相開可申と存候、殊ニ大倉氏とも打合候処、同氏も小生と同案ニ御坐候、只玆ニ一事申上候ハ右様会社事務拡張ニ付而ハ向後随而要務も相増可申ニ付、賢台御担任之程度如何之御都合ニ候哉、過日も申上候如く弥以当方丈ケ御専任と申事ニハ相成申間敷哉、右ハ当会社之為尤以緊急之関係ニて此増資取極候一条件とも可申ニ付、不取敢御伺申上候、何卒御伏臓なく御申示被下度候
右拝復旁得御意度如此御坐候 匆々不一
  八月五日
                       ○署名脱
    植村澄三郎様
          拝復
 尚々大倉氏ニ於ても賢台全然御担任之事、只管企望罷在候義ニ候間為念申上候也


渋沢栄一 書翰 植村澄三郎宛(明治二七年)八月二四日(DK110055k-0011)
第11巻 p.375-376 ページ画像

渋沢栄一 書翰 植村澄三郎宛(明治二七年)八月二四日
                   (植村澄三郎氏所蔵)
八月十八日附尊翰拝読仕候、然者札幌麦酒会社業務拡張ニ付、貴台向後御担任之模様先頃書中内々御伺申上候処、炭壙鉄道会社《(礦)》との関係縷縷御申越被下一々拝承仕候、畢竟今日之位地ニても当方ニ於てハ懸念と申次第ニハ無之、殊ニ先般御出京之際ニも小生より炭壙《(礦)》との御関係ハ御勧告申上候程ニ付、決而此際凡テ同社を御退任被下度と申義ニハ無之候、乍去大倉氏抔ハ先日も一方を御辞退被下専心御担任を全望せ
 - 第11巻 p.376 -ページ画像 
し程ニ付、増資ニ付而ハ勿論右様相願度と被申候旁不取敢一書御内意相伺候次第ニ候、併此度之御回答被下候御趣旨ハ御尤千万ニ付、此上強而も申上兼候間、先以今日之姿ニ致置候義ハ相心得申候、尤も万一ニも向後麦酒会社之方ニて是非とも貴台専心ニ御担当被下候を必要と被考候時機相生し候ハヽ、其時ニハ事情ニ拘はらす断然当方ニ御専属被下候様之御決意ハ被成下置度と奉存候
右様相願候上ハ此際当方之人操等《(繰)》ハ小生等ハ別ニ彼是不申上候間、都而貴案ニ御任せ可然御取計可被下候
右不取敢拝答仕候 匆々不一
  八月廿四日
                      渋沢栄一
    植村澄三郎様


渋沢栄一 書翰 植村澄三郎宛(明治二七年)一一月一三日(DK110055k-0012)
第11巻 p.376 ページ画像

渋沢栄一 書翰 植村澄三郎宛(明治二七年)一一月一三日
          (植村澄三郎氏所蔵)
客月十日附尊翰拝読仕候、御病気之為御入院之処爾後追々御快方之由拝賀之至ニ候、時下向寒之際、別而御摂養専一ニ奉祈候
矢木久太郎欧洲派遣ニ付指図書草案御遣被下一覧仕候、矢木も令弟も先日来両三回面話之上、貴方之状況も承り申候、又矢木へ之指図書ハ少々修正を加ひ本書を作り、小生より相渡申候外ニ独乙ハ青木公使、英国ハ三井物産会社支店長なる渡辺専次郎氏へ詳細添書いたし置候、御安心可被下候
先頃株高増加ニ付来年之営業ハ尚一段拡張可仕旨御見込御申示被下拝承仕候、只懸念なるハ百事進歩之際ハ好都合なるも、其退縮之時ニ大なる損毛又ハ手違等無之様盛運之時ニ注意仕度と存候、呉々も御留念被下度候
マルツ製造ニ付而ハ原麦播種且培裁之方法専務《(マヽ)》ニ付、夫ニ付而も御高配之由御尤千万ニ御坐候、既ニ其方針ニ着手候上ハ是非とも成熟致候様此上とも御尽力奉祈候、令弟ニも染々談話仕候処、至極穏当ニて間ニ合候人物と存候、追々御引上御任用被下度候、矢木も充分之覚悟ニて外国行之様子ニ付、帰国之時ニハ一ト廉之効相顕し可申と存候
右等拝答旁申上候 匆々不一
  十一月十三日
                      渋沢栄一
    植村澄三郎様
          拝復


(鈴木恒吉)書翰 植村澄三郎宛(明治二七年)三月一六日(DK110055k-0013)
第11巻 p.376-378 ページ画像

(鈴木恒吉)書翰 植村澄三郎宛(明治二七年)三月一六日
                   (植村澄三郎氏所蔵)
拝啓仕候、貴台益御清康之段奉謹賀候、偖昨年中ハ高橋宗吉氏ノ件ニ付御厚配ヲ蒙リ候段奉拝謝候、右ニ付上京早々御礼状ヲ進呈可仕筈之処、予テ御話シ申候リヨウマチス病ニ悩ミ、医療ニ針治尚熱海ニ入浴等ニテ未タ治療中、為ニ御疎音仕候段御海容可被下候、陳ハ愚生是迄札幌麦酒会社ノ委員総代トナリシハ、御了承ノ如ク去ル十九年大倉喜
 - 第11巻 p.377 -ページ画像 
八郎君ニ於テ該麦酒所ヲ官ヨリ払下ケラレ、其後(廿年十二月)現今ノ重役諸君ニ於テ会社組織ニ被遊候処、廿二年迄利益ヲ見サルニヨリ廿三年ニ至リ、渋沢・大倉・浅野三君ヨリ愚生ニ委員総代ノ御依頼有之候得共、身不肖ノ拙子殊ニ一店ヲ開キ居ル事故辞退仕候処、浅野氏ヨリ(浅野氏ハ愚生ノ縁者)説諭ニヨリ御受致シ、且前記ノ如ク愚生一店ヲ有スル故其季ノミ札幌麦酒会社ニ出張可仕事ニ御承諾ヲ乞、今日迄勤メ来リ候得共廿三・廿四両年間ノ本社営業ノ景況ニテハ本社従来ノ規模少ナル為、北海道全道ノミニ販売スルモ麦酒ニ不足ヲ生スル有様ニ付、重役ニ愚見ヲ述ヘ御同意ヲ得テ廿五年工場建増機械据付等ニ着手シ、昨廿六年完成セシヲ以テ愈手広ク営業スヘキ順序ト相成シモ、遺憾ナルカナ愚生ノ如キ札幌会社ニ六ケ月東京ニ六ケ月ト申、勤メ方ニテハ社務ニ不弁ヲ感シ、又ハ会社ノ不為ト心得又其他本社醸造師独逸人ポルマン氏ト意見ノ相合サル廉モアリ、彼レヲ禦サントセハ尚反対ノ苦情ヲ起シ愚生ノ痩腕ニテハ彼レヲ禦スニ難シ、殊更ニ六ケ月間ハ愚生不在ニシテ彼レニ会社ヲ任セ置ク姿ナレハ、愚生勤続ハ却テ会社ノ不利益ト心得、昨年上京早々重役三君ニ右之次第ヲ上申シ、他ニ委員総代御撰定ノ義ヲ願候処、ポルマン氏ハ本年九月ノ期限ニ解雇スヘクニ付、勤続セヨト御厚意ヲ蒙リ候得共、愚生ハ実ニ札幌ニ居住出来得サル身分ニ付、心配罷在候処、今回渋沢・大倉・浅野三君ニ於テ御配慮被下、尚且渋沢君ヨリ貴台ニ札幌麦酒会社専務取締役ヲ願度旨ノ御状ヲ送呈被遊候趣、昨日同君ヨリ御話シ有之候ニ付、愚生ハ右御厚意ヲ拝謝シ帰宅仕候、就テハ愚生ハ尚前記略述ノ次第ヲ貴台ニ御賢察ヲ仰キ、渋沢君ヨリ御状ヲ以テ御依頼ニ及候趣旨御承諾被成下度懇願仕候
最モ炭礦鉄道会社ノ事務御多忙トハ拝察仕候得共、去リトテ渋沢・大倉・浅野三君ヲ始メ其他株主諸君モ役員トシテ札幌麦酒会社ニ居住被成難キ業務アル諸君ナレハ、此際貴台ニ於テ、貴社ト兼勤ノ御工風被下、渋沢君降テ愚生ノ願意ヲ御承諾被成下候ハヽ麦酒会社ハ勿論、重役諸君並株主一同モ大満足ト奉存候間、只管懇願仕候 頓首
  明治廿七年三月十六日
                     鈴木恒吉拝
    植村澄三郎様
 追伸 愚生トポルマン氏トノ間ニ反対ヲ生セシ原因ヲ御参考迄ニ申述置候
  一昨廿五年本社ノ機械据付ニ際シポ氏ヨリ申出ノ次第ハ、目下大坂ニ独逸ヨリローテと申据付師来リ居ル故、右ノ者ニ本社ノ機械据付方申付ラレタシ、最モ日当三十マーク(当時三十マークハ金拾円ニ相当シ壱ケ月参百円ニ当ル)其他薪石炭油等本社持ニシテ本人ニ住家ヲ与ヘ、危険保険料四百円ヲ要ス、又大坂ヲリ札幌迄又札幌ヨリ横浜迄往復汽車汽船賃(上等)又ハ旅行中ノ日当等ヲ要ストノ事ニ付、愚生ハ先年独逸機械製造所ヨリ本社ヘ機掛送付《(械)》ノ際、据付師ノ月給ヲ申来リシ反訳書ヲ見セシニ(前記ローテノ宅ト本社ノ註文セシ機械製造所ハ同一ナリ)月給弐百五十円外独逸ヨリ札幌迄往復旅費ヲ請求スト有之シニ付、ポ氏ニ右月給ノ
 - 第11巻 p.378 -ページ画像 
相違ヲ尋シニポ氏ニ相違ノ理由ハ知ラス、独逸機械製造所ノ申付ナリトテ、ローテヨリ申来リシヲ通知セシノミトノ答ニ付、愚考スルニ如何ニモポ氏ノ言辞ニ疑フヘキ廉多キノミナラス、ポ氏ノ申条ニテハ諸雑費モ存外有之候事故、渋沢・大倉・浅野三君ニ協議シ右ローテヲ断リ、札幌製糖会社雇ノダーゼレル氏ニ機械据付ヲ托シ、且又ローテナルモノ本社ノ機械据付図面ヲ所持シ居レトモ、本社ニテ据付申付ニナラサレハ独逸ヘ持帰ルト不法ヲ申スニ付、右等責メシニ原因致候


(鈴木恒吉)書翰 植村澄三郎宛(明治二七年)六月二二日(DK110055k-0014)
第11巻 p.378-379 ページ画像

(鈴木恒吉)書翰 植村澄三郎宛(明治二七年)六月二二日
                   (植村澄三郎氏所蔵)
拝啓、時下不順之気候(入梅中ナルニ暑気強ク、寒暖計日々九十度辺ヲ昇降シ更ニ雨ナリ、暑中ノ如シ)ニ候得共益御多祥奉謹賀候
過日御滞京中ハ百事失敬仕候、且其際ハ御厚志ヲ以テ本社ニ御就任被下候段御礼申上候、小生モ為ニ御安心仕、目下僂麻質斯病ヲ熱心治療致居候、是全ク貴兄ノ御厚志ヨリ、自儘ニ治療ヲ得ラルル事ト奉謹謝候、偖五月廿八日付並本月六日付御懇書ヲ賜リ候処、前記治療ノ為メ他出致シ不在ニテ御返書延引ニ及候段御許容可被下候、而シテ函館ヨリ御出状中渡辺氏ニ御面晤且種々御懇話被下候段拝承仕候、又松田学氏発起ノマルツ製造会社創立書ニ付、御発足ノ際上野停車場ニ於テ貴兄ヨリ御話シ有之候間、早速浅野氏ヲ訪問シ右書類一覧ヲ申入候処、写シ取シ上御廻シスヘシトノ事ニ付待居候処、漸ク一昨廿日ニ至リ浅野氏ヨリ用談有之旨申来リシニ付出張仕候処、彼ノマルツ製造会社創立書調査ノ話ニ付、書類ヲ暫時借用致度ト申入候処、未タ写シ取リ不申候ニ付一両日猶予有之度トノ事ニ付、不得止其意ニ随ヘ帰宅仕候、右之次第ニ付浅野氏ヨリ書類廻リ次第調査仕愚見ヲ可申上候、又本月六日付ノ御状ニ依レハ去月三十一日海陸御無事御帰札相成候趣奉大敬存候、而シテ本月一日麦酒会社ニ御出頭被下、ポ氏ニ御面晤有之其翌日ニ至リポ氏ヨリ例ノ条約話シ申出候趣拝承仕候、尚且去ル十九日増田多郎氏貴状ヲ持参御来訪ニ相成、ポ氏解雇三ケ月前云々ニ就キ貴兄ヨリ御説明ヲ受ケシ故、彼レノ奸知語温和ヲ以テ情話ニ亘リ尚雇継ノ意ヲ迎ヘントセシ趣、如才ナキ人物ト存候
本年貴道ハ大漁之為上景況之由幸ヒ之事ト存候
ポ氏ヲシテ麦酒造込ヲナサシムヘキ為メ小樽並函館等ニ預ケ荷御配慮之段謹謝之至リニ候、又拙店ニ於テ、東京各販売所ヘ麦酒取扱之件ニ付、御来示ノ趣ヲ以テ一ケ年間御受可仕事ト店ノ者共ニモ申聞、増田氏迄御挨拶仕候間同氏ヨリ巨細可申上筈ニ付御了承可被下候、又本社登記本月四日ニ相済候趣安心仕候、小瓶黒ヒール代金壱円廿銭ハ(壱打ス《(衍カ)》)至当ト存候得共、販売人吉田豊吉ニ右代金ニテ宜キ哉否問合確答可仕候間両三日御猶予可被下候、小生帰籍届書之件ハ会社ヨリ書面ヲ出シ事済ニ相成シ趣ニテ捺印ノ用紙御返却被下、又農会退員届仲田ニ申付被下候由、右ハ仲田ヨリモ事済ニ相成候旨通知有之候、右両様御手数之段御礼申上候、先ハ乍延引御回答旁御疎音之申訳如此ニ御座候 拝具
 - 第11巻 p.379 -ページ画像 
  廿七年六月廿二日           鈴木恒吉拝
    植村澄三郎様
         侍史
   ○追伸略ス。


竜門雑誌 第四八一号・第七八―七九頁 〔昭和三年一〇月二五日〕 青淵先生と麦酒事業(植村澄三郎)(DK110055k-0015)
第11巻 p.379-380 ページ画像

竜門雑誌 第四八一号・第七八―七九頁 〔昭和三年一〇月二五日〕
  青淵先生と麦酒事業(植村澄三郎)
○上略
 而して従来全力を用ふるも一箇年の醸造高僅かに千余石に過ぎざりしが、今や容易に二千五百石を醸造し得るに至り二十三年金拾万円に増資せり。其の後日清の役起り内地との海運全く杜絶して経営上多大の打撃を蒙り、事業大に沈滞して明治二十七年金九万壱千七百円に減資するの止むなきに至れり。此の時北海道炭礦鉄道会社取締役たりし余、新に入りて専務取締役となり、鋭意事業の恢復発展に務めたり。後直幸に創業以来未曾有の好成績を挙げ後に拾参万円に増資し、次いで二十九年三月更に参拾万円に増資して事業の拡張を企て、三十二年遂に金六拾万円に増資し別に社債弐拾万円を募集して東京本所なる旧佐竹侯の邸を購入し、吾妻橋々畔に一大分工場の建設を企図せり。初め此の土地を購入するや工場の建築機械の設備等は務めて欧米新式の長所を採用せんとし、其の起工に先ち専務取締役たりし私及技師長矢木久太郎氏を欧米に派遣するに決せり。両人は明治三十三年九月を以て出発し、著名の麦酒醸造所五十余箇所に就きて諸般の構造設備の状況を親しく調査研究の上帰朝した。依つて其の齎せる欧米最新式の建築法に基きて工を起し三十六年に至り竣工せり。此処に於て札幌を本社となし、東京を支店として両工場に於て醸造に従事し大いに販路拡

図表を画像で表示--

 年度      放下資本                                   醸造石数     益金         払込資本        社債及借入金        計                     ◎印ハ損金              円           円              円          石       円 明治二十一年  七〇、〇〇〇・〇〇        〇・        七〇、〇〇〇・〇〇     四〇八 同二十二年   七〇、〇〇〇・〇〇        〇・        七〇、〇〇〇・〇〇     八四〇     七六〇 同二十三年   八一、二四〇・〇〇   一二、四五三・三四三    九三、六九三・三四三     六一二 同二十四年   九三、二九〇・〇〇    五、九二一・三二六    九九、二一一・三二六   一、〇七二   八、七〇九 同二十五年   九三、二九〇・〇〇   四六、五八六・〇五九   一三九、八八六・〇五九     七二〇     六二六 同二十六年   九三、二九〇・〇〇   六一、六六一・七〇三   一五四、九五一・七〇三   一、〇三一   八、三三二 同二十七年   九三、二九〇・〇〇   六一、八四六・〇五一   一五四、一三六・〇五一   一、一〇〇   一、五五四 同二十八年   九一、七〇〇・〇〇   六一、五〇七・八八四   一五三、二〇七・八八四   一、七〇五   七、一六〇 同二十九年   一五七、一八〇・〇〇   六、四〇〇・〇〇〇    一六三、五八〇・〇〇   三、四二六   三四、八九六 同三十年    一九〇、三四〇・〇〇   三、二〇〇・〇〇〇    一九三、五四〇・〇〇   五、九二七   六四、七三八 同三十一年   一九八、〇〇〇・〇〇       〇・       一九八、〇〇〇・〇〇   六、一四〇   六〇、〇五二 同三十二年   二九〇、〇〇〇・〇〇 二〇〇、〇〇〇・〇〇〇    四九〇、〇〇〇・〇〇  一一、二六一   八七、六五〇 同三十三年   二九〇、〇〇〇・〇〇  二〇〇、〇〇〇・〇〇    四九〇、〇〇〇・〇〇  一四、三〇〇  一〇九、五二二 同三十四年   二九〇、〇〇〇・〇〇  二〇〇、〇〇〇・〇〇    四九〇、〇〇〇・〇〇  一三、五九一   九九、三三〇 同三十五年   四五九、〇〇〇・〇〇  二〇〇、〇〇〇・〇〇    六五九、〇〇〇・〇〇  一六、七九七   九七、一一五 同三十六年   六〇〇、〇〇〇・〇〇  五〇〇、〇〇〇・〇〇  一、一〇〇、〇〇〇・〇〇  二〇、四五〇   八六、三八八 同三十七年   八〇〇、〇〇〇・〇〇  四八〇、〇〇〇・〇〇  一、二八〇、〇〇〇・〇〇  二四、〇四九  一二四、七七八 同三十八年   八〇〇、〇〇〇・〇〇  四四五、〇〇〇・〇〇  一、二四五、〇〇〇・〇〇  三五、八五三  四六七、〇四一 同三十九年   合同 



 - 第11巻 p.380 -ページ画像 
張に努力せり。
 次いで明治三十六年第二回社債金参拾万円を募集し、翌三十七年二月金壱百万円に増資し、三十九年三月、日本大阪の二麦酒会社と合同し、大日本麦酒会社の設立となれり。札幌麦酒会社の合同に至る迄の事業状態を示せば左の如し。
   ○左ニ利益配当率ヲ表示ス。
    明治二十一年―同二十七年 無配
    〃 二十八年 六分
    〃 二十九年―同三十五年 一割八分
    〃 三十六年 一割五分
    〃 三十七年上半期 一割二分
    〃 三十七年下半期 一割五分
    〃 三十八年上半期 二割


(札幌麦酒会社)政府関係書類(DK110055k-0016)
第11巻 p.380 ページ画像

(札幌麦酒会社)政府関係書類
            (大日本麦酒株式会社札幌支店所蔵)
  (沿革大略)
当麦酒会社ハ、抑モ明治九年九月、専ラ本道生産ノ大麦消費ノ目的ヲ以テ、開拓使ニ於テ被設、同十五年三月、農商務省工務局所轄トナリ同十九年二月、再ヒ北海道庁ノ所轄トナル、同年十二月大倉組エ御払下ニ相成シ処、同二十一年更ニ渋沢栄一・大倉喜八郎・浅野総一郎外数名協議ノ上当株式会社トナス
曩ニ廿一年、北海道庁ニ於テ独逸国ヨリマツクス・ポルマント申ス者醸造師トシテ御雇入ノ上、弊社ニ御貸与ニ相成リ、同廿五年九月ニテ満期ニ付、弊社ニテ雇継キ致候、旧来製麦及醸造等ノ機械ハ人力ニテ運転且多クハ木品ノ処、同年五月起工廿六年三月ニ了ス新規工場ヲ建築シ独逸国ヨリ購入ノ機械ヲ据付ケ、爾来醸造石数ヲ増加スルニ至ル、其以前ニ於テハ壱ケ年八百石以上千百石以内ノ処、本機械据付醸造営業ハ本年ヲ以テ始業ナレトモ、概ネ千五百石醸出ノ見込ミ、而シテ販路ハ本道各地青森・新潟・仙台・横浜・東京等ニシテ毎年需用高ノ不足ヲ告グルニ至ル、然レトモ本年ハ殆ント例年ノ倍額ニ付、殊ニ社員ヲ派シ一層販路拡張仕候
尚会社経歴並醸造販売ノ景況前記ノ通ニ御座候也
  明治廿七年五月廿九日         札幌麦酒株式会社
  御料局出張所
    鷲見謹吾殿
本件ハ花房宮内次官東園侍従両官ノ御依頼ニ依テ調書ス
   ○以上「サツポロビール沿革資料」後篇ニ所載。
   ○北海道庁勧業年報ニツイテハ若干ノ原本ヲ参照。


(札幌麦酒株式会社)実際報告 第八回〔明治三〇年八月〕(DK110055k-0017)
第11巻 p.380-381 ページ画像

(札幌麦酒株式会社)実際報告 第八回〔明治三〇年八月〕
同三十年五月十六日臨時株主総会ヲ札幌本社ニ於テ開会シ、左ノ事項ヲ決議シタリ
 一取締役任期満了ニ付改撰シ、且任期ヲ此期ニ限リ明治三十二年十二月迄トナスコト
 - 第11巻 p.381 -ページ画像 
右ニヨリ取締役改撰ヲ施行シタルニ、前任ノ各位当簽シ、一同承諾上任セラレタリ、了テ取締役ノ互撰ヲ以テ取締役会長及専務取締役共重任セラレタリ


(札幌麦酒株式会社)実際報告 第一四回〔明治三三年八月〕(DK110055k-0018)
第11巻 p.381 ページ画像

(札幌麦酒株式会社)実際報告 第十四回〔明治三三年八月〕
明治三十三年二月十二日東京市日本橋区南茅場町二十番地本社出張店ニ於テ株主定時総会ヲ開会シ、明治三十二年七月一日ヨリ同年十二月三十一日ニ至ル下半季間ノ事業報告書・財産目録・貸借照表《(対脱カ)》・計算書及利益金分配案ヲ決議シ、引続キ株主臨時総会ヲ開キ取締役及監査役任期満了ニ付、改選ヲ挙行セシニ凡テ前任ノ各位当籖セラレ、各承諾重任セリ


(札幌麦酒株式会社)明治三拾年以後株主総会決議書類(DK110055k-0019)
第11巻 p.381 ページ画像

(札幌麦酒株式会社)明治三拾年以後株主総会決議書類
            (大日本麦酒株式会社札幌支店所蔵)
明治三十六年弐月拾四日、午前十時東京市本所区瓦町一番地当会社分工場ニ於テ株主定時総会ヲ開キ、明治三十五年七月ヨリ同十二月ニ至ル第拾九回事業報告書・財産目録・貸借対照表・及ヒ増益計算書《(損)》ヲ承諾シ、利益金分配案ヲ決議ス、終テ取締役五名(総員)及監査役弐名(総員)ノ任期満了改選ノ結果各重任セリ
    利益金分配案○略ス
右之通決議候也
  明治参拾六年弐月拾四日
              取締役会長 渋沢栄一
              専務取締役 植村澄三郎
              取締役   大川平三郎(印)
              同     大倉喜八郎(印)
              同     浅野総一郎(印)
              監査役   鈴木恒吉(印)
              同     谷七太郎(印)
              出席株主  田中喬樹(印)
              同     諸井時三郎(印)
    就任承諾書
一、明治卅六年弐月拾四日ノ株主定時総会ニ於テ取締役ニ当選相成、就任承諾候也
  明治卅六年弐月拾四日
                    渋沢栄一
    札幌麦酒株式会社
           御中
   ○札幌麦酒株式会社ノ解散ニ就テハ本書第三款「大日本麦酒株式会社」明治三十九年三月二十六日ノ項(第三九二頁)参照。