デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
10節 陶器製造業
1款 京都陶器会社
■綱文

第11巻 p.410-416(DK110059k) ページ画像

明治20年5月(1887年)

是月栄一、田中源太郎・浜岡光哲等ト京都陶器会社ヲ設立ス。当会社ハ二十五年ニ至ツテ解散セリ。


■資料

青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第四七―五一頁 〔明治三三年六月〕(DK110059k-0001)
第11巻 p.410-411 ページ画像

青淵先生六十年史(再版)第二巻・第四七―五一頁〔明治三三年六月〕
 ○第二十六章 陶器業
    第二節 京都陶器会社
京都陶器株式会社ハ明治二十年五月ヲ以テ京都府下紀伊郡深草村字福稲ニ設立シタルモノニシテ、其資本額ハ五万五千五百円ナリ、先生ハ同社株主ノ一人ナリ、同社設立趣意書ニ曰ク
 我国工芸美術ノ製産ニ富ムヤ、蓋シ欧米諸国ニ比スルモ譲ラサル所ナリ、而シテ其製産物ノ未タ盛大ナラス、其販路ノ未タ拡張セサルモノハ職トシテ其製産物ノ時好ニ投シ精好ヲ極メサルト、其製産家ノ衆力ヲ合セ規模ヲ大ニセサルニ由ラスンハ非ラサルナリ、故ニ我国ノ工芸美術品ニシテ能ク此ノ辺ノ改良ヲ施サハ製産ヲ増シ国力ヲ大ニスルヲ得ルヤ必セリ、其物品ノ種類ハ少カラサルモ就中、陶器ノ如キハ我国ノ名産ニシテ更ニ其改良ヲ施シ、以テ輸出ヲ海外ニ盛ニスルヲ期スヘキナリ
 皇祖神武天皇、椎根津彦命ニ命シ大和国天香山ノ土ヲ以テ五器ヲ造ルヲ始ト為ス云々史書ニ見ユ、其後往々其法ヲ国内各地ニ伝ヘ二千有余年間ハ曾テ陶器製造ヲ絶ツコトナシ、殊ニ京都ハ旧シノ帝都ノ在ル所ナレハ自ラ百般ノ工芸美術、皆盛ニ此ノ地ニ行ハレ古今相踵テ名工妙手ノ輩出セルアリ、近世ノ仁清乾山木米ノ如キハ実ニ我国陶器業家ノ巨擘ニシテ、其製作ノ改良進歩ニ於テ大ニ力アリ、今日我国各地製作ノ陶器ヲ聚集シテ其優劣ヲ比較スルニ、其品位ノ高尚ナル風致ノ閑雅ナル、又形状図様新奇精巧ナル総テ京都ノ右ニ出ルモノナシ、是レ京都陶器ノ我国中ニ称揚セラルヽ所以ナリ、然ラハ則チ今日陶器ヲ改良スルモノ宜シク其最モ優等ナル製作地、即チ京都ニ就テ計画スルニ若クハナカルヘシ
 更ニ転シテ我国陶器ノ外国ニ輸出スルヲ察スルニ、其初メ明治六年澳国維納府大博覧会ニ出品セシニ原シ、爾来漸ク欧米諸国ニ輸出スルニ至リ一時名声ヲ海外ニ博シタルモ、畢竟彼国人カ日本製作品ヲ珍異新奇ナリトシテ玩弄スルタメニ購求スルニ止マリテ、未タ日用必須ノ器物トナラサルニヨリ其販路モ遂ニ拡張スル能ハサルノミナラス、反テ漸次狭小ナルニ至レリ、試ミニ米国ヘ輸出セシ陶器ノ価格ヲ調査スルニ、十年以前ニ在テハ八十万円以上ニ昇リシモ、近時ニ至リテ既ニ二十万円に減縮セルヲ見テ知ルヘシ、輸出ノ景況如此
 - 第11巻 p.411 -ページ画像 
勢ヒナルニヨリ、我国各地ノ製造家ハ互ニ競争シテ製品ノ改良ヲ務ムルモ徒ニ井蛙ノ偏見ヲ用ヒ、外国需用ノ実況ヲ知ラス、是ヲ以テ其計画姑息ニ流レ方法宜キヲ得スシテ、日ニ外人ノ信用ヲ失ヒ曾テ輸出ヲ増スノ功ヲ見ル能ハサルハ亦是非モナキ次第ナリ、今若シ陶器ノ改良ヲ実行セハ海外ノ需用ハ其増加スヘキコト予メ知ルヘキ所ニシテ、其例ヲ挙クレハ彼ノ仏国カ陶器日用品ヲ米国ニ輸出スル近年日ニ増加シテ、輓近一箇年ノ輸出価格殆ント一千二百万円ノ多キニ上レルアリ、販路ノ拡張ハ豈望ナシトセンヤ、況ンヤ外人モ亦我国ノ陶器ヲ改良シ博ク欧米諸国ニ輸出スルノ望ヲ抱クアルオヤ
 夫レ我国ノ陶器ハ已ニ外人ニ属望セラレ、京都ノ陶器ハ我国内ニ冠タレハ、京都ニ於テ一ノ陶器会社ヲ起シ以テ其改良ヲ謀リ其販路ヲ拡張スルハ、実ニ適当ノ方案ナルヘシ、且ツ京都ニハ多年欧米又ハ清国ニ在リテ陶器ノ実業ヲ研究シタルモノ数名アリテ、改良ノ為メニハ尤モ好機関アリ、故ニ此ニ相当ノ資本ヲ集メテ右ノ技術師ヲ用ヒ、又外人ト力ヲ合セテ製品ノ品位風致及形状、図様等ヲ考按改良シ、海外諸国日常必須品ノ需要ニ応スルノ計画ヲナサハ、今日輸出衰退ノ運ヲ一転シテ之ヲ増進セシムルコト敢テ疑フヘキニアラサルナリ
 尚且我国陶器ノ海外ニ輸出シ得ル所以ヲ述ヘンニ、欧米諸国ノ職工賃ハ我国ノ職工賃ニ比シ平均四倍以上ニ当レリ、而シテ我国ノ職工ハ能ク之ヲ用ルモノアレハ手芸ノ巧ナル、敢テ欧米ノ職工ニ譲ラサルナリ、此ノ如キ低廉ノ職工賃ヲ以テ製作シタル物品ハ之ヲ海外ニ輸出スルニ当リ、決シテ価値ノ高貴ナル為メニ販路ヲ妨ケラルヽ患アルコトナシ、殊ニ仏国ノ如キ其有名ナル陶器製作地里毛樹《リモージユ》ノ製品十分ノ九ハ米国ニ輸出スルヲ目的トシ、就中アビラン製造場ノ如キ職工千余人ヲ使役スル一大製造場ナレトモ、其製品ハ総テ本国ニ販売セス一ニ米国ニ輸出スルヲ目的トセリ、此ノ如ク職工ノ賃金我国ニ四倍スル仏国ノ製造品ニシテ、尚米国ニ輸出スルヲ得ルトセハ、我国ノ如キ低廉ナル職工ヲ用ヒテ製作シタル陶器ハ之ヲ輸出シ、仏国ノ製品ト競争スルモ亦為シ難キニアラス、即我国陶器ノ輸出ニ目的アル昭々乎トシテ明ナリ、前陳ノ理由アルニヨリ我輩玆ニ発起人トナリ、京都ニ一大陶器会社ヲ組織シ外国ノ製式ニ倣ヒ、内地ノ製作法ヲ交ヘ洋和ノ数室ヲ建築シ、以テ陶器改良ノ製造場ヲ設置セントス、其製品ノ如キハ外国須要ノ地ニ外人ト代理店ヲ約シ、以テ之ヲ販売セシメントス
云々ト又以テ其目的ノアル所ヲ知ルヘキナリ
同社一箇年製造高ハ弐万五六千円、職工ノ数ハ百廿五人(男九十六人女二十九人)ナリト云フ


小菅慶太郎氏報告(DK110059k-0002)
第11巻 p.411-412 ページ画像

小菅慶太郎氏報告
京都陶器会社(京都織物会社創立後相次テ創立)最初北垣知事斡旋ニヨリ独乙人ヲ発企人中ニ加ヘ、日独合弁事業トシテ経営スべシトノ儀アリシモ、後多数ノ意見ニテ矢張邦人ノミノ株式組織トシ、渋沢子モ又《(之)》ニ加入シ資本金弐拾万円ヲ以テ洛南深草村福稲ニ於テ設立セリ、営
 - 第11巻 p.412 -ページ画像 
業科目ハ貿易向ノモノニ力ヲ入レ、洋式器具ノ生産ヲ専ラトス
技師長佐藤友太郎氏(其後神戸税関ニ奉職セラレタル由)
佐藤氏ハ長崎ノ人、京都府ノ留学生トシテ仏蘭西リモージユンノ陶磁器研究所ニ入リ、技ヲ研キ同市ノ画工ノ娘ヲ納レテ夫人トシ、手ヲ携ヘ帰朝シ会社ノ事業ニ従事ス、創立後一年リモージユンヨリ製陶機械ヲ購入シ、生産能力愈揚ラント《(シ脱)》タリシモ数年ノ後、或ル事情ノ為メ竟ニ解散ノ止ムナキニ至レリト
   ○右ハ昭和十四年三月九日、本伝記資料編纂員石川正義、関西採訪ノ折、京都ニ立寄リ京都商工会議所秘書係主任小菅慶太郎ニ依頼シテ調査ヲ乞ヒタル報告ナリ。


田中源太郎翁伝(水石会編) 第八二―八八頁〔昭和九年三月〕(DK110059k-0003)
第11巻 p.412-413 ページ画像

田中源太郎翁伝(水石会編) 第八二―八八頁〔昭和九年三月〕
 ○第二章 実業上の業績
    五 京都陶器株式会社
 京都陶器会社は、明治二十年五月、田中翁が浜岡氏や東京の渋沢氏と相計り、府下紀伊郡深草村字福稲(今の京都市深草町)に地を卜して設立したもので、最初の資本金は僅に五万五千五百円であつたが、間もなく弐拾万円に増資した。設立の目的は其趣意書に審かであるから左に掲げる。
   ○前掲ニツキ趣意書略ス。
云々と、又以て其目的のある所を知るべきである。同社一箇年の製造高は最初弐万五六千円、職工の数は百二十五人(男九十六人女二十九人)であつた
 翁は創立当初より取締役に挙げられ、他の重役と共に経営の衝に当つた。
    陶器会社に従事せる当時の思ひ出
               ――丹羽圭介翁談――
  私(丹羽圭介氏)は、明治二十年頃、京都陶器の新会社組織の際関係してゐたので、田中翁の懇望黙止し難く、二十年の七月、遂に役人生活を罷めて陶器会社の支配人として入社、経営の衝に当ることゝなつた。当時の社長は山添直次郎氏で、江州出身であるだけに極めて理財の才に富んだ人であつた。もと貫名の弟子で蠖軒と号してゐた。重役は田中翁を始め、内貴・浜岡・西村等の錚々たる人々のみであつたが、就中田中翁は会社の経営方針・方略等については一手に引受けて心配し、その中心勢力として働いてゐた。
  元来この陶器会社は、浜岡光哲翁が佐藤友太郎・近藤徳太郎等の人々を連れて明治二十年洋行の途に上り、仏国に於て陶器製造に関する専門の設備や機械類を見て乗涎措かず、一部の機械を購入して帰つたのが因で発起されたもので、浜岡翁等の視察中、米国には陶磁器は出来ない、殆どその全部を仏国リモージユからの輸出に仰いでゐる現状なので、これは一つ工賃も廉く、手先の技術も器用な日本人にやらせて、米国へ輸出することにしたなら、仏国品を凌駕して余りあるであらうとの見込で案を立て、遂に一大会社の成立を見るに至つたものである。
  かくて華々しく開業はしたものゝ、最初から機械類に弐拾万円、建物その他一切の設備費に五拾万円を投じ、莫大な固定資本を投じ
 - 第11巻 p.413 -ページ画像 
た為に予定したほどの利潤は挙らず、最初は内貴翁が社長の任に就き佐藤友太郎氏が技師長として経営の衝に当つたがどうにも経営難で業績は挙らなかつた。京都の比較的熟練した職工を使つて輸出向の食器類をこしらへて見たが、どうも高くついて仕方がない。原料の土も最初肥前から取寄せたが、それよりも尾州の方が運賃の関係上宜からうといふので、森村市左衛門翁に聞合して美濃や尾張から取り寄せ、はては工場もその地方で経営して見たりした。何様新らしい機械を購入したので、これを使ふ職人から仕立てゝかゝらねばならず、輸出向のものを製造しても高くかゝるので引き合はない、尾州に比して京都物は立派なものは出来るが、どうも手間がかゝつて高くつき、折角拵へた品物も思ふやうに捌けず、輸出も次第に寂れ、漸次経営困難に陥つた。この難局に当り、会社の経営に対する方針方略、資金の融通といつたやうな根本の仕事は、殆ど田中翁が一身に引受けて之に当り、他の同僚達には出来得るだけ心配をかけないやうに努めたものである。
 明治二十五年に米国シカゴ市に万国大博覧会が開かれたので、これを機会に陶磁器の状況を調査することゝなり、西村総左衛門氏と私とが渡米し、実地について調査した。ところが米国でも初め仏国のリモージユから供給を受けてゐたが、博覧会の鉱山館へ入つて見ると、既に米国内地で豊富な原料を製産し、ニユージヤーシーのトレントンに磁器の製造場が出来、仏国から熟練の職工を雇ひ込んで輸入品の半値位で供給できるやうドシドシ製造し、恰も仏国のリモージユを米国へ移したやうな状況であることがわかつた。こんな具合で、米人は私等に向ひ日本で製造するより、寧ろ職人を米国へ連れて来て当地(米国)で製造しなさい、石炭も原料も米国の方が遥に豊富ですから……などと、誇らしげに説明されるといつた風であつたので、私達はこれでは到底輸出品を日本で製造しても駄目であるといふことを観取し、帰朝と共に早速この状況を田中翁に伝へ、到底此上会社在続の見込なしとの意見を述べたので、田中翁も止むなく、この上の経営を断念し、僅に数年間にして明治二十五年遂に会社の解散を見るの止むなきに至つたのである。
  この解散の時まで会社の職工頭をしてゐた井上延年氏は、後に独立して五条坂で陶磁器業を営んだが、その子が故松風嘉定氏で松風工業会社を興し、京都否日本の陶磁器界に貢献すると共に、氏自らも京都実業界の大立物となつたのである。
  右と同時に私も会社を退いたが、その後暫く五車楼書店主の藤井孫六氏が社長として経営して見たが、これも長くは続かなかつた、この陶器会社の解散した後の建物は、村井が買ひ取つて印刷屋を開業し、更に煙草製造所に使つたりしてゐた。


田中源太郎翁伝(水石会編) 第三九八頁〔昭和九年三月〕 【天稟の理財家(丹羽圭介)】(DK110059k-0004)
第11巻 p.413-414 ページ画像

田中源太郎翁伝(水石会編) 第三九八頁〔昭和九年三月〕
 ○第七章 追頌録
    天稟の理財家(丹羽圭介)
○上略
 - 第11巻 p.414 -ページ画像 
 自分は田中さんの懇望により、役人をやめて京都陶器会社の支配人となつた、が、田中さんはこの陶器会社の経営については、一方ならぬ苦心を払はれた。会社の製品は宮内省の御用命を拝する光栄に浴した、が、これは田中さんが時の大蔵大臣松方正義伯に昵近になり、その後援を得られたことが与つて力がある。
○下略


浜岡光哲翁七十七年史 第一五二―一五四頁〔昭和四年八月〕(DK110059k-0005)
第11巻 p.414-415 ページ画像

浜岡光哲翁七十七年史 第一五二―一五四頁〔昭和四年八月〕
 織物会社に次いで、稲畑勝太郎・田中源太郎・山添直次郎等と共に翁の主唱し創設せるは京都陶器会社也。最初、北垣知事の斡旋により独逸人を発企人中に加へ、日独人の合弁事業として経営すべしとの議ありしも、後、多数の意見にて矢張邦人のみの株式組織となし、渋沢子もまた之に加入し、資本金二十万円を以て洛南深草村福稲に於いて設立の事となりつ。営業科目には、貿易向のものに力を入れ、洋式器具の生産を専らとせるが、こは彼の京都織物会社に於いて、婦人洋服地に重きを置きしと同様、欧化主義の時勢の然からしむるところたるやいまいふまでもなけむ。
 京都の陶器事業は、舎密局の当時、独人ワグネル博士主として之が指導に当り、「五条阪・粟田の名工は悉く博士の教へを受けて以来、京都陶磁器界に一生面を開き、七宝《クロアゾース》は今日の如く我が国特産品として多数海外に輸出するの盛況の源は玆に発せられ」○明石染人氏の論文「先駆したる京都の明治文化」より引用たりと謂はれ、京都陶器会社の技師長佐藤友太郎氏もまた、稲畑・近藤氏と同じく当年の舎密局伝習生にして府より仏蘭西へ留学せし一人とす。氏は長崎の出。渡仏してリモージユンの陶磁器研究所に入りて技を研き同市の画工の娘を納れて夫人とし、手を携へて帰朝するや大に京童の眼を駭かしたりてふ逸話の持主なりき。会社は創設後一年、翁、外遊の途次、佐藤氏が思ひ出多きリモージユンに至り、最新式の製陶機械を購入し、会社の生産能力はこれにより愈々揚らむとせしに、後、数年にして、株主重役間に意見の衝突を来し、竟に会社は解散の止むなきに及びき。翁の曰、
  京都陶器の解散も、其の原因はあながち事業の不振ばかりでなかつた。株主や重役が無配当を覚悟して、腹を括つてしつかり遣れば充分に成功の見込はあつたのだが大多数が目前の利益を逐うて、少し無配当が続くと、これでは困ると苦情を云ひ出すものだから、遣り通せなかつたのである。大体、事業といふものは、恁ういふことでは経営が出来るわけのものではないのだ。加之、当時は一般に科学的常識は殆ど皆無だといつて可い位で、われわれが陶器会社に試験所を置いて大に製品の試験や研究を行ひ、品質の改良向上を計らうとすれば、そむな試験をせられては困る。馬鹿らしい。止めてくれと云つて斯業者が苦情を持ち出してくる。理解を説いてきかしても中中解らないで、到頭折角の試験所を叩きつぶしてしまつて、やれやれ厄介払ひをしたと云つた調子だつた。織物会社の如きも、動力に水力を使ふことを私が提議した当時は、多数の重役は織物に水力などを使ふといふやうな乱暴なことがあるか。水といふものは急
 - 第11巻 p.415 -ページ画像 
激に沢山出るときもあれば、緩漫に少量しか出ないときもある。そむなもので機械を動かしては、織物にむらが出来て駄目だと云つて反対した。重役ばかりでなく、堂堂たる専門技師までが反対するのだから始末に終へなかつた。さういふ人達を相手にして新らしい事業を経営していつた当年のわれわれの苦心は、今の人に談しても、ちよつと想像がつき難からうと思ふ。云云。


日本窯業大観 第六六頁〔昭和八年七月〕(DK110059k-0006)
第11巻 p.415 ページ画像

日本窯業大観 第六六頁〔昭和八年七月〕
京都陶器株式会社(元)京都。
 工場組織を以て磁器を製造せる本邦最初の工場にして、京都の事業家により組織せられ、内貴甚三郎・浜岡光哲・丹羽圭介等は其主なるものなりしと伝ふ、其創立に当りては仏国に留学せし佐藤友太郎工場の設計をなし、又技師長として経営に当れり、当時の工場は京都深草村にありて其廃止後は村井煙草製造工場の印刷工場となり、次で大蔵省煙草専売局印刷工場となり、現に専売局倉庫として存在せり、創立は明治十三―十四年頃なるべきか、仏国技師来りて機械の据付等を為し、其仏国型の倒焔式円窯は本邦に於ける最初のものなりしと云ふ。
   ○「日本窯業大観」所載「本邦窯業技術の進歩」中「洋食器」(百木三郎)ノ項ニ於テ当社ニ関シ「明治二〇年京都に設立せる前記の陶器工場に対しては殆んど製陶に要する一切の機械を具備せし点に於て、機械施設に関する吾国最初の記録を捧げて誤りなかるべし。」(第二三〇頁)ト記セリ。以テ当会社ノ明治初期製陶業ニ於ケル地位ヲ知ルベシ。


大沢善助翁(三浦豊二編) 第一三四頁〔昭和四年一一月〕(DK110059k-0007)
第11巻 p.415 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕京都商工要覧 第五一―五二頁〔昭和一三年九月〕(DK110059k-0008)
第11巻 p.415-416 ページ画像

京都商工要覧 第五一―五二頁〔昭和一三年九月〕
 ○第二章第五節 窯業
    第一款 沿革
○上略
 ところが明治維新の大変革は他の生産業と同様当市の窯業界にも甚
 - 第11巻 p.416 -ページ画像 
大なる影響を与へ、こゝに従来とは全く面目を一新するの必要に迫られるに至つた。すなはち外国との交易はこの頃より漸次発達し幾多の西欧文物が流入するにつれ、先づ陶磁器方面に於ては明治三年酸化コバルトの輸入を見、同九年には西洋絵具の使用が始まり、また同十二年には京都府勧業場に舎密局が設置されて独逸人ワグネルを聘し、その指導下に理化学の講習が開始されるに至つたが、彼はこれを製陶上に応用して幾多の改革を行ひ、後には更に一歩を進めて当市七宝の発達上にも亦大いに寄与するところがあつた。
 元来当市における七宝の製造は慶長年間京師の金工、平田道仁によつて初めて着手せられ、爾来寛永年間までその子孫十一代に亘つて代代受け継がれたのであるが此等はいづれも微々として振はず、其後徳川時代の中期に及んで五条坂の金工、高槻某なる者が泥絵具を用ひて襖の引き手・釘隠しなどを製し後世高槻七宝として一部に伝へられるところのものを製出したが之亦未だものにならず、降つて明治五年桃井英升が河原町三条上、旧加賀美屋敷に七宝会社を創立し、不幸その蹉跌を見るや之を遺憾として同七年並川靖之等が更に七宝窯を築いてその製作に当り漸やく之に成功して以来、菅谷謙次郎・初川吉兵衛・錦光山宗兵衛等陸続として斯業に携はるやうになり、爰に初めて七宝としての体裁を具へ得るに至つた。ところが此頃偶々舎密局のワグネルによつて琺瑯の改良が遂げられ、七宝製作上に新手法が加へられるやうになつたゝめ七宝は俄然世人の注目を惹き、遂にこゝに当市特産品の一として次第に隆盛を見るに至つたのである。
 陶業に於ては明治五年錦光山宗兵衛等が粟田焼の海外輸出を志して神戸の外国商館との間に取引を開始し漸次その需要を増大し、爰に粟田焼の海外輸出の端緒を開くに至つたが、降つて同十八年には京都陶器会社が創立されて仏国式の諸設備を購入し製陶に着手し、また同二十九年には全国に率先して五条坂に市立陶磁器試険場《(験)》が設置され、これに附属伝習所が併置されて子弟の養成に当ることゝなり、その製陶法には学理を応用しまた図案には特に意匠を凝らして時好に適合せしめんと努めた。後に此の試験場は政府に移管され国立陶器試験所となつて深草に移転したが、間もなく市に於ては之に代るべき工業研究所を新設し、窯業部を併置して従来と殆ど同様の試験・研究其他の事業を踏襲し、爾来鋭意諸施設の整備拡充に努むるところあり、今日では市立染織試験場と共に、当市産業界に於ける二大研究指導機関として愈々その重きを加へるに至つた。
○下略