デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
10節 陶器製造業
1款 京都陶器会社
■綱文

第11巻 p.410-416(DK110059k) ページ画像

明治20年5月(1887年)

是月栄一、田中源太郎・浜岡光哲等ト京都陶器会社ヲ設立ス。当会社ハ二十五年ニ至ツテ解散セリ。


■資料

青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第四七―五一頁 〔明治三三年六月〕(DK110059k-0001)
第11巻 p.410-411 ページ画像

青淵先生六十年史(再版)第二巻・第四七―五一頁〔明治三三年六月〕
 ○第二十六章 陶器業
    第二節 京都陶器会社
京都陶器株式会社ハ明治二十年五月ヲ以テ京都府下紀伊郡深草村字福稲ニ設立シタルモノニシテ、其資本額ハ五万五千五百円ナリ、先生ハ同社株主ノ一人ナリ、同社設立趣意書ニ曰ク
 我国工芸美術ノ製産ニ富ムヤ、蓋シ欧米諸国ニ比スルモ譲ラサル所ナリ、而シテ其製産物ノ未タ盛大ナラス、其販路ノ未タ拡張セサルモノハ職トシテ其製産物ノ時好ニ投シ精好ヲ極メサルト、其製産家ノ衆力ヲ合セ規模ヲ大ニセサルニ由ラスンハ非ラサルナリ、故ニ我国ノ工芸美術品ニシテ能ク此ノ辺ノ改良ヲ施サハ製産ヲ増シ国力ヲ大ニスルヲ得ルヤ必セリ、其物品ノ種類ハ少カラサルモ就中、陶器ノ如キハ我国ノ名産ニシテ更ニ其改良ヲ施シ、以テ輸出ヲ海外ニ盛ニスルヲ期スヘキナリ
 皇祖神武天皇、椎根津彦命ニ命シ大和国天香山ノ土ヲ以テ五器ヲ造ルヲ始ト為ス云々史書ニ見ユ、其後往々其法ヲ国内各地ニ伝ヘ二千有余年間ハ曾テ陶器製造ヲ絶ツコトナシ、殊ニ京都ハ旧シノ帝都ノ在ル所ナレハ自ラ百般ノ工芸美術、皆盛ニ此ノ地ニ行ハレ古今相踵テ名工妙手ノ輩出セルアリ、近世ノ仁清乾山木米ノ如キハ実ニ我国陶器業家ノ巨擘ニシテ、其製作ノ改良進歩ニ於テ大ニ力アリ、今日我国各地製作ノ陶器ヲ聚集シテ其優劣ヲ比較スルニ、其品位ノ高尚ナル風致ノ閑雅ナル、又形状図様新奇精巧ナル総テ京都ノ右ニ出ルモノナシ、是レ京都陶器ノ我国中ニ称揚セラルヽ所以ナリ、然ラハ則チ今日陶器ヲ改良スルモノ宜シク其最モ優等ナル製作地、即チ京都ニ就テ計画スルニ若クハナカルヘシ
 更ニ転シテ我国陶器ノ外国ニ輸出スルヲ察スルニ、其初メ明治六年澳国維納府大博覧会ニ出品セシニ原シ、爾来漸ク欧米諸国ニ輸出スルニ至リ一時名声ヲ海外ニ博シタルモ、畢竟彼国人カ日本製作品ヲ珍異新奇ナリトシテ玩弄スルタメニ購求スルニ止マリテ、未タ日用必須ノ器物トナラサルニヨリ其販路モ遂ニ拡張スル能ハサルノミナラス、反テ漸次狭小ナルニ至レリ、試ミニ米国ヘ輸出セシ陶器ノ価格ヲ調査スルニ、十年以前ニ在テハ八十万円以上ニ昇リシモ、近時ニ至リテ既ニ二十万円に減縮セルヲ見テ知ルヘシ、輸出ノ景況如此
 - 第11巻 p.411 -ページ画像 
勢ヒナルニヨリ、我国各地ノ製造家ハ互ニ競争シテ製品ノ改良ヲ務ムルモ徒ニ井蛙ノ偏見ヲ用ヒ、外国需用ノ実況ヲ知ラス、是ヲ以テ其計画姑息ニ流レ方法宜キヲ得スシテ、日ニ外人ノ信用ヲ失ヒ曾テ輸出ヲ増スノ功ヲ見ル能ハサルハ亦是非モナキ次第ナリ、今若シ陶器ノ改良ヲ実行セハ海外ノ需用ハ其増加スヘキコト予メ知ルヘキ所ニシテ、其例ヲ挙クレハ彼ノ仏国カ陶器日用品ヲ米国ニ輸出スル近年日ニ増加シテ、輓近一箇年ノ輸出価格殆ント一千二百万円ノ多キニ上レルアリ、販路ノ拡張ハ豈望ナシトセンヤ、況ンヤ外人モ亦我国ノ陶器ヲ改良シ博ク欧米諸国ニ輸出スルノ望ヲ抱クアルオヤ
 夫レ我国ノ陶器ハ已ニ外人ニ属望セラレ、京都ノ陶器ハ我国内ニ冠タレハ、京都ニ於テ一ノ陶器会社ヲ起シ以テ其改良ヲ謀リ其販路ヲ拡張スルハ、実ニ適当ノ方案ナルヘシ、且ツ京都ニハ多年欧米又ハ清国ニ在リテ陶器ノ実業ヲ研究シタルモノ数名アリテ、改良ノ為メニハ尤モ好機関アリ、故ニ此ニ相当ノ資本ヲ集メテ右ノ技術師ヲ用ヒ、又外人ト力ヲ合セテ製品ノ品位風致及形状、図様等ヲ考按改良シ、海外諸国日常必須品ノ需要ニ応スルノ計画ヲナサハ、今日輸出衰退ノ運ヲ一転シテ之ヲ増進セシムルコト敢テ疑フヘキニアラサルナリ
 尚且我国陶器ノ海外ニ輸出シ得ル所以ヲ述ヘンニ、欧米諸国ノ職工賃ハ我国ノ職工賃ニ比シ平均四倍以上ニ当レリ、而シテ我国ノ職工ハ能ク之ヲ用ルモノアレハ手芸ノ巧ナル、敢テ欧米ノ職工ニ譲ラサルナリ、此ノ如キ低廉ノ職工賃ヲ以テ製作シタル物品ハ之ヲ海外ニ輸出スルニ当リ、決シテ価値ノ高貴ナル為メニ販路ヲ妨ケラルヽ患アルコトナシ、殊ニ仏国ノ如キ其有名ナル陶器製作地里毛樹《リモージユ》ノ製品十分ノ九ハ米国ニ輸出スルヲ目的トシ、就中アビラン製造場ノ如キ職工千余人ヲ使役スル一大製造場ナレトモ、其製品ハ総テ本国ニ販売セス一ニ米国ニ輸出スルヲ目的トセリ、此ノ如ク職工ノ賃金我国ニ四倍スル仏国ノ製造品ニシテ、尚米国ニ輸出スルヲ得ルトセハ、我国ノ如キ低廉ナル職工ヲ用ヒテ製作シタル陶器ハ之ヲ輸出シ、仏国ノ製品ト競争スルモ亦為シ難キニアラス、即我国陶器ノ輸出ニ目的アル昭々乎トシテ明ナリ、前陳ノ理由アルニヨリ我輩玆ニ発起人トナリ、京都ニ一大陶器会社ヲ組織シ外国ノ製式ニ倣ヒ、内地ノ製作法ヲ交ヘ洋和ノ数室ヲ建築シ、以テ陶器改良ノ製造場ヲ設置セントス、其製品ノ如キハ外国須要ノ地ニ外人ト代理店ヲ約シ、以テ之ヲ販売セシメントス
云々ト又以テ其目的ノアル所ヲ知ルヘキナリ
同社一箇年製造高ハ弐万五六千円、職工ノ数ハ百廿五人(男九十六人女二十九人)ナリト云フ


小菅慶太郎氏報告(DK110059k-0002)
第11巻 p.411-412 ページ画像

小菅慶太郎氏報告
京都陶器会社(京都織物会社創立後相次テ創立)最初北垣知事斡旋ニヨリ独乙人ヲ発企人中ニ加ヘ、日独合弁事業トシテ経営スべシトノ儀アリシモ、後多数ノ意見ニテ矢張邦人ノミノ株式組織トシ、渋沢子モ又《(之)》ニ加入シ資本金弐拾万円ヲ以テ洛南深草村福稲ニ於テ設立セリ、営
 - 第11巻 p.412 -ページ画像 
業科目ハ貿易向ノモノニ力ヲ入レ、洋式器具ノ生産ヲ専ラトス
技師長佐藤友太郎氏(其後神戸税関ニ奉職セラレタル由)
佐藤氏ハ長崎ノ人、京都府ノ留学生トシテ仏蘭西リモージユンノ陶磁器研究所ニ入リ、技ヲ研キ同市ノ画工ノ娘ヲ納レテ夫人トシ、手ヲ携ヘ帰朝シ会社ノ事業ニ従事ス、創立後一年リモージユンヨリ製陶機械ヲ購入シ、生産能力愈揚ラント《(シ脱)》タリシモ数年ノ後、或ル事情ノ為メ竟ニ解散ノ止ムナキニ至レリト
   ○右ハ昭和十四年三月九日、本伝記資料編纂員石川正義、関西採訪ノ折、京都ニ立寄リ京都商工会議所秘書係主任小菅慶太郎ニ依頼シテ調査ヲ乞ヒタル報告ナリ。


田中源太郎翁伝(水石会編) 第八二―八八頁〔昭和九年三月〕(DK110059k-0003)
第11巻 p.412-413 ページ画像

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田中源太郎翁伝(水石会編) 第三九八頁〔昭和九年三月〕(DK110059k-0004)
第11巻 p.413-414 ページ画像

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浜岡光哲翁七十七年史 第一五二―一五四頁〔昭和四年八月〕(DK110059k-0005)
第11巻 p.414-415 ページ画像

浜岡光哲翁七十七年史 第一五二―一五四頁〔昭和四年八月〕
 織物会社に次いで、稲畑勝太郎・田中源太郎・山添直次郎等と共に翁の主唱し創設せるは京都陶器会社也。最初、北垣知事の斡旋により独逸人を発企人中に加へ、日独人の合弁事業として経営すべしとの議ありしも、後、多数の意見にて矢張邦人のみの株式組織となし、渋沢子もまた之に加入し、資本金二十万円を以て洛南深草村福稲に於いて設立の事となりつ。営業科目には、貿易向のものに力を入れ、洋式器具の生産を専らとせるが、こは彼の京都織物会社に於いて、婦人洋服地に重きを置きしと同様、欧化主義の時勢の然からしむるところたるやいまいふまでもなけむ。
 京都の陶器事業は、舎密局の当時、独人ワグネル博士主として之が指導に当り、「五条阪・粟田の名工は悉く博士の教へを受けて以来、京都陶磁器界に一生面を開き、七宝《クロアゾース》は今日の如く我が国特産品として多数海外に輸出するの盛況の源は玆に発せられ」○明石染人氏の論文「先駆したる京都の明治文化」より引用たりと謂はれ、京都陶器会社の技師長佐藤友太郎氏もまた、稲畑・近藤氏と同じく当年の舎密局伝習生にして府より仏蘭西へ留学せし一人とす。氏は長崎の出。渡仏してリモージユンの陶磁器研究所に入りて技を研き同市の画工の娘を納れて夫人とし、手を携へて帰朝するや大に京童の眼を駭かしたりてふ逸話の持主なりき。会社は創設後一年、翁、外遊の途次、佐藤氏が思ひ出多きリモージユンに至り、最新式の製陶機械を購入し、会社の生産能力はこれにより愈々揚らむとせしに、後、数年にして、株主重役間に意見の衝突を来し、竟に会社は解散の止むなきに及びき。翁の曰、
  京都陶器の解散も、其の原因はあながち事業の不振ばかりでなかつた。株主や重役が無配当を覚悟して、腹を括つてしつかり遣れば充分に成功の見込はあつたのだが大多数が目前の利益を逐うて、少し無配当が続くと、これでは困ると苦情を云ひ出すものだから、遣り通せなかつたのである。大体、事業といふものは、恁ういふことでは経営が出来るわけのものではないのだ。加之、当時は一般に科学的常識は殆ど皆無だといつて可い位で、われわれが陶器会社に試験所を置いて大に製品の試験や研究を行ひ、品質の改良向上を計らうとすれば、そむな試験をせられては困る。馬鹿らしい。止めてくれと云つて斯業者が苦情を持ち出してくる。理解を説いてきかしても中中解らないで、到頭折角の試験所を叩きつぶしてしまつて、やれやれ厄介払ひをしたと云つた調子だつた。織物会社の如きも、動力に水力を使ふことを私が提議した当時は、多数の重役は織物に水力などを使ふといふやうな乱暴なことがあるか。水といふものは急
 - 第11巻 p.415 -ページ画像 
激に沢山出るときもあれば、緩漫に少量しか出ないときもある。そむなもので機械を動かしては、織物にむらが出来て駄目だと云つて反対した。重役ばかりでなく、堂堂たる専門技師までが反対するのだから始末に終へなかつた。さういふ人達を相手にして新らしい事業を経営していつた当年のわれわれの苦心は、今の人に談しても、ちよつと想像がつき難からうと思ふ。云云。


日本窯業大観 第六六頁〔昭和八年七月〕(DK110059k-0006)
第11巻 p.415 ページ画像

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大沢善助翁(三浦豊二編) 第一三四頁〔昭和四年一一月〕(DK110059k-0007)
第11巻 p.415 ページ画像

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〔参考〕京都商工要覧 第五一―五二頁〔昭和一三年九月〕(DK110059k-0008)
第11巻 p.415-416 ページ画像

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