デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
21節 瓦斯
4款 大阪瓦斯株式会社
■綱文

第12巻 p.719-732(DK120100k) ページ画像

明治36年8月(1903年)

是ヨリ先当会社アメリカ合衆国紐育市コンソリデーテツド瓦斯会社社長ブレジーヲシテ出資セシメ、
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資本金四百万円トナスニ決定セシガ、此ノ外資輸入ヲ起因トシテ遽ニ大阪市ノ道路使用権ノ拒否ニ遇ヒ、両者ヲ繞リテ激烈ナル紛擾ヲ惹起セリ。藤田伝三郎・原敬・中橋徳五郎等之ヲ憂慮シ調停ニ立ツ。栄一間接ニ調停ノ援助ヲナス。是月ニ至リ当会社大阪市トノ間ニ報償契約ヲ締結シ得テ該問題解決ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三五年(DK120100k-0001)
第12巻 p.720 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三五年
十一月十九日 曇
○上略 畢テ岸精一氏ト大坂瓦斯会社ノコト其他ノ要務ヲ談話シ○下略
十一月二十四日 晴
○上略 大坂瓦斯会社ノコトニ関シ米国人パリス及岸・松原ノ両氏来話ス夜同事件ニ付テ内海内務大臣ヲ官邸ニ訪フテ種々ノ協議ヲ為ス○下略
十一月二十五日 曇
○上略 午後四時米国人パリス及片岡・岸・松原ノ緒氏来リテ大坂瓦斯会社ノコトヲ協議ス○下略
十一月二十六日 曇
午前九時内務大臣官邸ヲ訪ヒ大阪瓦斯会社ノコトヲ談ス○下略
十一月二十八日 曇
午前八時芝山内ニ於テ原啓氏《(原敬)》ヲ訪ヒ大坂瓦斯会社ノコトヲ談ス○下略
十二月二日 晴
○上略
此朝岸精一氏来リテ大坂瓦斯会社ノコトヲ談ス
十二月二十九日 晴
○上略 畢テ再ビ兜町ニ於テ岸精一氏ニ会話シ大坂瓦斯会社ノコトニ関シ市原氏ニ托シテ藤田・河上両氏ニ書状ヲ送ル、午後六時芝山内ニ抵リ原啓氏《(原敬)》ヲ訪ヒ大坂瓦斯会社ノコトヲ協議ス、夜内海内務大臣ヲ訪ヒ同シク瓦斯会社ノコトヲ談話ス、夜八時王子別荘ニ帰宿ス○下略


渋沢栄一 日記 明治三六年(DK120100k-0002)
第12巻 p.720-721 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三六年
四月一日 曇
○上略 十時兜町宅ニ抵リ米国人コツプマンノ来訪ニ接ス、大川平三郎通訳シテ大坂瓦斯会社ノコトヲ談ス○下略
四月廿五日 小雨
○上略 ○大阪旅行中午後二時宴畢テ網島ニ藤田氏ヲ訪ヒ井上伯ニ面会ス、松本重太郎氏来会シテ瓦斯会社ノコト及大坂紡績会社ノコトヲ協議ス○下略
六月十三日 晴
八時○午前松方伯ラ三田ニ訪ヒ大坂瓦斯会社ノコト及京釜鉄道会社ノコトヲ談ズ○下略
六月十五日 曇
○上略 九時○午前兜町事務所ニ抵リ十時米国人チソン氏松原重栄氏ニ面話ス、大坂瓦斯会社ノコトヲ協議ス、午後米国人アーレン氏来話ス○下略
六月廿六日 雨
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○上略 畢テ高崎大坂府知事ノ来訪ニ接シ、紡績工場合同ノコト及大坂瓦斯会社ノコトヲ談ス○下略
   ○内務大臣男爵内海忠勝(自明治三十四年六月二日至同三十六年七月十六日)ハ元大阪府知事(自明治二十八年十月十日至同三十年十一月十三日)ナリキ。藤田ハ藤田伝三郎ナリ。松原重栄ハ村井兄弟商会ノ総支配人ニシテ、後、村井吉兵衛ノ米国煙草会社ノ取締役、文書課長トナル。


竜門雑誌 第一六八号・第四三―四四頁〔明治三五年五月二五日〕 ○大阪瓦斯会社の外資輸入談(DK120100k-0003)
第12巻 p.721 ページ画像

竜門雑誌 第一六八号・第四三―四四頁〔明治三五年五月二五日〕
    ○大阪瓦斯会社の外資輸入談
青淵先生・御園直輝《(片岡直輝)》・浅野総一郎・松本重太郎諸氏等か主として企画中なる大阪瓦斯会社の外資輸入に付き、大阪毎日新聞は記して曰く
 同会社の外資輸入の件に就ては曩に浅野氏の手を経て米国紐育市のブラヂー氏に放資の相談あり、同氏の代表者としてチゾン氏技師長ミラー氏態々渡来して昨冬既に実地の調査を遂げ、帰米の上その顛末を資本主に報告したる結果、その交渉いよいよ纏りたる由にて、両氏はこのほど再び渡来して再昨日東京に於て会社の代表者と会合の上取極めたる契約の要領は左の如し
  一会社の資本金三十五万円を四百万円に増資し十分の五以上をブラヂ氏にて引受くる事、なほ本邦株主の希望とあれば十分の七までは引受くべき事
  一現在取締役五名の外六名を増員し(此増員の取締役は重に米国の資本主を代表せしむること)取締役の総員を十名となし、又監査役三名は従来のまゝ据へ置く事
  一現在二十円払込のものに対しては更に至急三十円の払込をなさしめ、而る後三百六十五万円の増資を決定する事
契約の大要は右の如くにして、当初先方の申出は五百万円の会社にせんとの望みなりしも、三十五万円より一時に五百万円にせんこと如何あるべしとのことより遂に四百万円に決し、又先方に渡すべき株式も重役のもの殆んど四分の三以上に上りをれば、これ等を分割する筈なり、なほ事業の性質も当初は点灯に重を措きたりしも、之を改めて諸工場の動力・庖厨用暖房用を主とする見込にて、大体の設計完成までには約二ケ年を要すべきも、博覧会までには一部事業の開始をなすべき設計なり、尚同会にては本日当市に重役会を開き定款変更の協議を遂げ、直に臨時総会の通知をなして未払込金の払込をなさしむべき都合にて、浅野氏は同日チゾン、ミラー二氏を伴ひ来阪の筈なり、而して右の払込を終ると同時に再び臨時総会を開きて前記の増資案を附議せん筈なるが、右出資に対しては先方よりは前記事項の外に何等条件の提供なしと云ふ


竜門雑誌 第一七二号・第四三頁〔明治三五年九月二五日〕 ○大阪瓦斯会社新株募集景況(DK120100k-0004)
第12巻 p.721-722 ページ画像

竜門雑誌 第一七二号・第四三頁〔明治三五年九月二五日〕
○大阪瓦斯会社新株募集景況 大阪瓦斯会社の新株募集は、報酬問題等の種々の議論あるにも拘らず、元来利益ある会社なれば応募者頗る多く、二万九千株の内昨日までに約二万株に達したり、而してその内本邦人の申込にて五百株以上の分左の如し
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 二千株 浅野総一郎   二千株 安田善次郎
 一千株 渋沢栄一    一千株 村井吉兵衛
 八百株 松本重太郎   五百株 住友吉左衛門
 五百株 片岡直輝    五百株 江副廉三
右の外五百株以上応募の予告者数名あれど未だ申込なきよし、尤も一時申込を躊躇し居たる向も其後追々申込をなす模様なれば、期日までには満株以上となるべしと


片岡直輝翁記念誌 業績編・第八―二六頁〔昭和三年四月〕【石川辰一郎編】(DK120100k-0005)
第12巻 p.722-731 ページ画像

片岡直輝翁記念誌 業績編・第八―二六頁〔昭和三年四月〕
 ○財界に於ける貢献(渡辺千代三郎口述)
  五、大阪瓦斯会社に関する事
    外資輸入と報償契約
 日清戦争後の事業勃興に際し大阪に資本金一百万円の瓦斯会社を計画し其設立許可を得て会社の創立を見ましたが、其後経済界悲況に陥りましたので資本を再度減少して三十五万円の会社として名義だけ存在して居りました。然るに東京の浅野総一郎氏は東京瓦斯会社に関係し瓦斯事業に経験がありましたので、此滅亡に垂たる会社の株式の過半数を買収し好機会を俟つて事業遂行に着手せんと着眼されました。然るに瓦斯事業の如き地方的公共事業の経営を為すには、其地方に於ける名望ある勢力家を局に当らしむる必要あることは明なる事でありますから、機敏なる浅野氏は平賀博士を通じ故人に其社長たらんことを懇請されました。故人は一応其任に非ずと辞退されましたが、決して面倒を掛けざれば名誉職同様にてよき故枉げて社長の職を引受けられたしとの事にて其請に応じられました。当時故人は月給百円の社長になつたと云つて戯談された事があります。然るに明治三十三年に至り本邦に於て外資輸入熱が勃興し、第一に村井兄弟商会が米国煙草会社と提携し日本にて紙巻煙草製造業を経営することになりました。其頃経済界の人々の間には外資輸入により金融の逼迫を緩和し事業の隆盛を図らざるべからずとの議論が盛でありまして、外資輸入といふ事は今日とは異り国家的重要問題視せられた観がありました。村井兄弟商会への外資輸入に関係せし法律家は米国人にアレキサンダー・チーゾンといふ人がありましたし、日本では法学博士岸清一君が関係されました。村井商会の成功は天下の羨望するところとなりましたからチーゾン氏の在留中多数の人々は氏に縋りて、更に外資輸入を成功せしめんと各種の企業を提示して其相談を試みました。浅野総一郎氏も其一人にして、氏の関係経営する鉱山・セメント・汽船会社等十数種の会社を列挙されし趣にて、其中には大阪市に瓦斯を供給する瓦斯会社を挙示してありました。チーゾン氏は一度此種の書類を携へ帰米して資本家と協議されしところ米国一般には当時未だ日本の事情広く了解されて居らざりしも、大阪市が日本第二の大都会にて百方位の人口を有せしことは承知されて居りし由にて、相談を受けし資本家アンソニー・エヌ・ブレデイーといへる人が瓦斯事業にて成功せし人なりし為め百万の人口を有する都会へ瓦斯を供給する独占権があれば、資本を供給して共同事業を経営するも苦しからずとて、先づ技術者を派遣
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して其実状を調査されました。然るに技術者の報告も良好なりしやにて、三十五年に至り外資を輸入して、日米共同事業として瓦斯事業を経営するの協議を始むるに至つたのであります。
 瓦斯会社設立当時の明治二十九年頃には瓦斯事業に関する法令もなく瓦斯製造供給の独占権の有無につき明瞭の規定ありし訳ではありませんでした。三十万円や五十万円にて大阪全市及接続町村へ瓦斯供給販売の計画を為すこと能はざるは勿論のことにて今日より考ふれば杜撰の甚しき目論見と申さなければなりません。当時の瓦斯会社は今日の岩崎町工場の一部に倭小の建物が存在せしに過ぎず、敷地は数千坪ありましたが大半は沼地にて隣地は岩崎墓地でありまして夜に入りては殆んど人の通行を見ぬ辺鄙でありました。米国より調査に参りました技術者は大体の調査を終り良好の報告を為せしため更にチーゾン氏の来朝を見るに至り、始めて片岡社長と公式交渉を開始するに至りました。米国側の最初の申出は資本金を六百万円とし、其五割一分を米国側にて引受け残余を日本側にて応募せよとの事でありました。之は米国人の方にて出資をすると決すれば百万円二百万円の増減に頓着する訳ではありませんでしたが、公共事業の経営でありますから、若し大多数の株を外人が所有し居る時は地方の感情を害する虞ある故、右様の申出を為せし由でありましたが、丁度其頃は北清事変の後にて日本経済界の最も不況な時でありましたから、本邦側では東京大阪多数の有力実業家が此事に関係されしに拘らず、米人の申出を聞き何れも恐怖の念を発せられ、かゝる膨大の計画は当時の財界に於て計画すべきことならずと逡巡されました。渋沢子爵の如きも日米資本家提携の鼓吹者でありましたから本件に干与されましたが、瓦斯事業の如きに二百万円三百万円など放資するは当時の状勢よりして無謀なりとて殆んど顧られなかつた由であります。それ故日本側より極力資本金低減の交渉を試みまして、日本側は二百万円を主張せしに、米国側は最低三百万円は事業着手と共に必ず必要を感ずべく、又米国より態々資本を東洋へ輸入して共同事業を経営するに、米国側の引受資金僅に一百万円(五十万弗)の少額にては、代表者を送りて事業に干与する価値を認めざるにつき、資本金を三百万円とし止むを得ざる場合は七割までを米国側にて引受くべし、若し之にても協議成立せざれば速に手を引くとの申出でありまして、殆んど協議は破れんと致しました。当時私は瓦斯会社と何等の関係はありませんでしたが、自分の従事の社用を帯び東京にて故人と同一の旅宿に滞在して居りました。或日故人は私を訪問し事の成行を談じ、東京大阪の有力実業家共同するも百五十万円の資金応募を為す能はずとは、如何にも国辱の感ありて残念に堪へず、何とか名案はあらざるかと懇談ありしにつき、熟考の後故人に申しましたのは米国側にて三百万円の七割を引受くるに於ては残余は九十万円に過ぎず然るに東京の連中も今に至り全然投資を欲せずとは申されまじく、殊に現在三十五万円の過半は浅野氏が所有し居ることなれば大阪側にて五六十万円の資本を引受くるとせば、協議を成立せしむるに至るべければ令弟直温君を煩し当時大阪財界の巨頭松本重太郎・阿部彦太郎・土居通夫諸君を始め従来瓦斯会社に関係せし有力者
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を招集し事情を詳述して、此外資輸入を成立せしむる様尽力を依頼さるれば、必ず成立を見るに至らんと献策せしに、故人は電話に依りて之が交渉を為し、幸に予定通り米国の申出の資本金三百万円に応ずることにて調談成立しました。大阪方にて此条件引受に最も尽力されしは阿部彦太郎氏なりしことを後日に至り承知しました。かくて一旦は資本金三百万円にて大阪瓦斯会社を日米共同経営に決せしに、其後村井吉兵衛氏及横浜の有力者等より加入申込まれし為め、資本金を四百万円と為すに至りたる次第であります。
 此の交渉は東京にて秘密裡に行はれ、其の成立を見るや故人は直ちに帰阪し、大阪にて公然此の調談契約書を調製するの準備をされました。既に申しました通り、当時外資輸入の事は容易ならざる難事業でありましたから、之が成功は当事者として誇るに足るものでありましたが、其交渉中は故人も秘密を守り、親友にして時の大阪市長たりし鶴原定吉君にすら少しも其相談をされなかつたが談判成立し帰阪するや、大阪毎日新聞経済記者へ外資輸入成立の事情を洩されし為め、大阪毎日新聞は直ちに其の詳細を報道しました。鶴原市長は此報道を見て日夕交游し居る片岡君にしてかゝる公共事業を計画するとなれば何故市当局者に予め同意を求めざりしか、市長を蔑視したる仕方なりと感情を害せられた模様でありました。是より先き鶴原君は当時紐育総領事たりし内田定槌君より到来せしミユニシパル・モノポリーと題する書籍を通読し、米国に於て公共事業の経営を私立会社に独占せしむるを不可とするの議論勃興し居るを知り、此議論にて瓦斯会社に対抗せんと窃かに決意し、大阪朝日新聞記者本多精一氏と会して予め相談を為し、更に朝日新聞社に村山社長を訪問し、大阪市の為め其後援を委嘱されし由にて、朝日新聞社は編輯会議を開き大阪市を後援し瓦斯会社の独占権を否認するを社是と決定し直ちに公共事業独占権攻撃の論説を連日掲載するに至りました。之れ我国にて公共的事業に対する報償契約成立の濫觴であります。朝日新聞社は右様の態度に出でましたが、此頃の大阪毎日新聞は実業家機関の観がありましたのと、両新聞は互に弁難攻撃するを営業政策と為し居りしやの趨勢ありし為めと時の毎日新聞社長小松原英太郎氏は嘗て内務省官吏として地方行政に関係されし事があつて、市と会社間に於ける大論争の焦点となりし道路使用問題に就きましては一隻眼を有して居られ、瓦斯会社の主張する既得権を尊重するを是なりとし、大阪市が突然瓦斯会社の道路使用に対して異議を申出づるは不当なりと考へられ、毎日新聞紙上にて極力朝日新聞の主張に反対の論説を掲載されました。
 此の争議の勃発しました一両日前、チーゾン氏及岸清一君と予とは同車して帰阪しましたが、チーゾン氏は私の大学に在りし頃の先生でありましたから、着阪匆々に此両氏を英語を談ずる阪地の有力者に紹介せんと欲しまして、鶴原市長を訪問して私の招待に応じ右両氏と会食あらん事を懇談せしに、同氏は之を謝絶されましたから、私はチーゾン氏が曾て私の先生でありしと、岸君は特別の親友でありますのに此度両氏共に大阪瓦斯会社外資輸入の調談に関し来阪されし事なれば瓦斯事業の如き公共事業に特別の関係ある市長たる貴下に会見の機会
 - 第12巻 p.725 -ページ画像 
を与へんとする私の衷情を察し枉げて承諾されたしと談ぜしに、実はかやうかやうの次第にて片岡と大争論を開始する決心なれば、君には気の毒ながら招待に応じかぬると申され、遂に道路使用権の事より道路には国府県道と里道との区別ありて、里道の管理は全然市町村に在れば、其の使用を許可すると否とは全く市町村長の権限に属して中央政府は勿論地方庁に於て左右し能はざるにつき、大阪瓦斯会社は予め予の同意を得て里道使用の特権を得ざれば瓦斯管敷設の途なかるべしとの談なりしかば、私は行政法規の事は殆んど理解せず、岸君の如きも普通法律以外の事とて或は承知し居らざるやも測られず、事の紛糾に陥らざる前何卒相当の注意を与ふるを許されたしと懇談せしに、然らば道路に上述の如き区別あることを岸君に注意するだけは認諾すれども、其以外の事柄は絶対に秘密を守られたしとの事でありました。かやうの次第にて私が催ふせし宴会へは鶴原市長は出席なく主たる目的を失ひながら、現藤田男爵・岩下清周など英語を解する数名の人とチーゾン・岸両氏並に故人とを集めて宴会を終り、翌日私は両氏の旅宿を訪れ、岸君に其旨を通じ注意を促しました。そこへ当時の大阪府書記官山田新一郎君来訪ありたれば、談話は国府県道里道の区別に及びましたところ、山田君も両者の区別あること是認せられましたから、私は此争議の将来につき深く心配の念を感ずるに至りました。
 かやうの形勢にて大阪の新聞界は両派に分れ、多数は市の主張を後援し、大阪毎日と山田敬徳君経営の大阪新報とが瓦斯会社側の主張を声援されました。玆に於て議論は日と共に危激となり、大阪市に於て始めての市民大会を催ふし、喧々囂々と瓦斯会社攻撃を為すことゝなりまして、遂には大阪一地方の問題でなく日本全国に於ける大問題となりました。瓦斯会社側の主張は、会社成立に際し大阪市及接続村へ瓦斯供給の目的を以て会社設立の許可を中央政府に申請して之が許可を得たると共に大阪府庁に於ても同様許可を与へたる事業なるに、公共の用に供する公道の使用を拒否する権能は市町村に存せず。況して特別市制施行の時代に前記の許可を獲得せしことなれば、一面に於て市としても同意し居る筋合なれば、数年の後に至り不理窟を主張して既得権を損ずるは不当なりと主張されましたが、市の側にては道路は一に営造物にして之れが建設維持を担任する者に其管理につき全権を有すること他の営造物と異るべき筈なく、従つて其道路を使用せんとする者は予め管理者たる市長の同意を経ざるべからずと主張して一歩も譲らなかつた次第でありまして、此問題が起るまでは兄弟同様に交際せし片岡・鶴原両君も遂に交際を断つの止むなきに至られました。両君は孰れも剛毅の性質とて互に信ずる処を主張し寸毫も譲歩することなく、弁難攻撃は数月の久しきに亘るも底止致しませんでした。玆に於て藤田伝三郎翁起つて之れが調停を試むるを大阪市の公益上必要なりとし、翁自ら中心となり原敬・小山健三・中橋徳五郎諸氏始め市側の主張代表者として鶴原市長・村山朝日新聞社長、瓦斯会社側の主張代表者として片岡瓦斯会社長・小松原毎日新聞社長を招集し、調停会を組織して此問題を互譲解決せしめんと致されました。
 かくて之等の諸君は屡々会合して意見を交換されましたが、容易に
 - 第12巻 p.726 -ページ画像 
双方の一致点を見出すに至りませず、其年も暮れまして三十六年初夏の頃に至るも尚解決を見ませんでした。或時中橋君に面会しましたから、一体調停は如何に進み居るや余りに遅々たらざるかと尋ねましたら、同君は最早大体の争点は解決の見込附きしに、或配当以上の利益金に課する賦課率に関し些細の意見相違し居り如何にしても双方とも相譲らうとせぬから困難至極なり、一体鶴原と片岡とは親友の間柄であるのに相会するも目礼をする位にて打解けて談話を交へぬなどゝは困つたことなりと話されし事がありました。然るに同年八月に至り、漸く一致点を見出すに至りましたのは、調停の労を執られし諸君の忍耐尽力の賜でありましたでせう。同年六月下旬仮契約が成立し、鶴原市長は基契約案を八月六日の市会へ提出されましたところ、議場甚しき紛擾を醸したる末漸く其契約案を可決するに至りました。是を以て見まするも、一面鶴原市長が容易に譲歩せざりし事を了察するに足りました。斯の如く三十五年七月には僅かの日子にて日米協同経営計画の成立を見ましたのに、直ちに会社と市との間に紛擾を招きましたから、米国の資本家は一時失望の模様なりしが、此解決を見て直ちに事業遂行に着手されました。
 大阪市と瓦斯会社との間に締結されました此契約を世間にて報償契約と称し、我国にて自治体と公益事業経営会社間に其の事業経営に関し締結せし契約の嚆矢でありまして、爾来全国に於ける報償契約の模範となりました。
 瓦斯会社の増資発表と共に右様の紛擾を招きましたから、本邦に於ける資本家は自ら株式の応募を躊躇するに至り、容易に予定の株式を募集することが出来ませず、岩下清周君の斡旋にて北浜銀行は一万株前後の株式を引受けましたに拘はらず、米国側に六割五分強の株式応募を懇請し、漸く全株式の引受を見ましたとの事であります。此外資輸入の端は浅野氏により開かれ、渋沢子爵・大橋新太郎其他東京方面に於ける多数資本家の賛同ある筈でしたが、中途の紛擾を見て東京方面の資本家は殆んど手を引かれまして、新大阪瓦斯会社は漸次に米国資本家と故人を中心とする大阪方面に於ける資本家との共同経営会社となりました。
 故人が真の民間実業家となられ、当時世人が熱心成功せんと致しました外資輸入を実現せられましたのは大成功でありまして、大阪実業界に陸離たる光彩を放たれましたのと、過去に於ける故人の積威とに由りまして、大阪瓦斯会社は資本金数百万円に過ぎませんのに、関西事業界に於ける重鎮と認めらるゝに至りました。
    瓦斯供給事業の経営
明治三十六年八月報償契約の成立を見ましたから、愈事業遂行に着手することゝなりましたが、一方に於て、会社の設立許可後数年の久しきに亘るも工事施行に着手致しませんでしたので、或は殆んど特許取消の厳命に接せんとする危機に及びましたから其失効を喰止めんが為め、松島町の道路へ三吋半の鉄管を埋設されました。製造工場の建設を見ず瓦斯供給の計画をも立てざるに先ち、道路に導管の敷設を見たなど申しましたれば、今日瓦斯に関係ある方々は失笑されませうが、
 - 第12巻 p.727 -ページ画像 
前述の次第で不経済の事とは知りながら止むを得ず実行されたとの事であります。此間に於て、技師長たる米人カロール・ミラー氏は岩崎町所有地に新設すべき工場の設計並に瓦斯供給組織の計画を為したれば、故人は工場建設の敷地に要する隣接地所の買収に着手されましたが、容易に其目的を達する能はず、土地収用法に依り辛ふじて所要の土地を得るなど困難を感ぜられました。然るに、此時分に於きましては、我国の一般工業界は未だ幼稚でありまして、瓦斯工業創設に要する機械其他の諸材料は総て外国より輸入を要しましたのと、瓦斯炉を建設する熟練職工など殆んど皆無でありましたが、整然たる設備を短日月の間に遂行せんとするには外国人の手を借らなければなりませんでした。然るに翌明治三十七年二月には日露開戦を見るに至りましたる為め、外国品の購入等につき頗る支障を感じましたのと、故人も岸博士も米国資本家アンソニー・エヌ・ブレデイー氏と未だ一面識なかりしにつき、相会して親しく従来の経過を談じ且つ将来の経営方針等に関して予め熟議を遂げ設計の確定、機械及材料の購入等につき賛同援助を得んとの目的を以て、明治三十七年四月故人は岸博士及技師長カロール・ミラー氏と相伴ひて米国に渡りアンソニー・エヌ・ブレデイー氏と会合熟議を遂げ、ブレデイ氏の周旋により一万立方呎の瓦斯溜及精浄器、六十五万立方呎の瓦斯発生炉の購入及其建設請負を独国バマーグ会社へ紐育より電信にて注文を為し、其他所要の材料たる鉄管、瓦斯メートル等は米国の製造会社へ注文を了し同年六月初旬帰朝されました。之が故人最終の海外旅行でありました。帰朝後は工場敷地の沼地埋立工事を始め中之島本社の新築決定、大阪全市に亘る瓦斯導管埋設工事の遂行等頗る多忙に暮されました。当時私は東京にて閑散生活を致して居りましたところ、故人と岸博士との推薦によりまして此年十一月副社長兼財務総長として瓦斯会社に入社致しました。
 今日にては何百万立方呎といふ瓦斯溜の建設すら容易に本邦工業会社の手で建設出来ますが、明治初年頃より事業を経営して居りまする東京瓦斯会社の如きすら僅に三十五万立方呎位の瓦斯溜を所有せしに過ぎなかつた実状でありますから、大阪瓦斯会社の設計は膨大に失せずやとの批評もありましたがさすがは米国技術者の達見とでも申しませうか、開業後幾くならずして拡張に次ぐに拡張を以てし、今日の大工場を必要とするに至りました。明治四十年頃までは蘇土以東に於ける第一の大規模たる瓦斯工場と呼ばれしなど、本邦瓦斯工業の如何に幼稚であつたかを察するに足ります。
 日米提携して事業を経営するは始めての経験でありましたから、時時意思の疎通を欠くこともあり、米人の側で何事も米国式に準ぜんと為し、故人始め私共も相当外国の事情に通暁して居りましたが、米国人の所望通り万事を処理せんとするは、我国にて実行し難き事情を知るが為め容易に賛同を表し難く、さればとて一々理由を述べて反対することも出来ざる始末に遭遇しまして予想以外の困難を感じました。就中工事請負人と監督技師たる外国人との間に時々誤解を生じ争論を醸せし事少からざりし等は故人も私も頗る辛労せし所であります。一例を申しますれば、三十八年晩春の頃瓦斯導管埋設工事請負人と監督
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技師米人ルーゲンボルグ氏との間に些々たる事より行違を生じ、日本の労働者が短刀にてルーゲンボルグ氏の背部を突きたる珍事を生じたる事がありました。加ふるに岩崎町工場へは十数名の独逸人出入して建設工事に従事して居りましたが、日露戦争中の事にもあり故人は何かと云ふべからざる気苦労を感ぜられました。此間社内多少の波瀾はありましたが、幸に工事は日と共に進み、三十八年八月には中之島に於ける本社の建築落成しまして、九月より新築の赤煉瓦家屋内にて執務することになりました。当時大阪には大建築少かりし事とて、大正末期に及んでは既に見すぼらしき建物と認めらるゝに至りましたが、新築当時は大阪に於ける著名の建築として世人の注目を惹きました。位置が渡辺橋南詰なりし為め、一部実業家間にては、瓦斯会社へ行くを渡辺橋へ行くと云ひ、故人の別称として渡辺橋の意見は如何であらうなど申す様の次第でありました。九月中には岩崎町工場の工事も略落成し、予定の導管埋設工事も竣工致しましたから、慎重なる準備を為し十月二十日より営業開始を致しまして、十一月初開業式を挙げ広く官民の賓客を招待し故人が一場の挨拶を致されました。瓦斯の使用が便利で経済で衛生的であることは、今日別段説明を為さざるも衆人の熟知さるゝところでありますが、開業前までは大阪の人々は、殆んど瓦斯の使用に無経験でありましたから、口頭や書面で説明しても世人の注意を喚起し能はざりしにつき、実地試験により瓦斯使用の効能を示さん為め心斎橋通に瓦斯器具陳列所を設け、大阪舎密会社に於ける剰余瓦斯を譲り受け、圧搾して特別の容器に入れ陳列所に運搬し、毎夜数個の瓦斯灯に点火して瓦斯の灯火の光力甚大なるを広告するとか、一日二三回時を定め炊事用器具の実地試験を公示せしなど、故人は此際今日の人々が思ひ及ばざる辛労を致されました。
 営業開始の頃に於ける瓦斯の用途は主として灯火用でありまして、之に次ぎ動力用炊事用の順序でありました。之は当時未だ電灯の改良進歩今日の様でありませず、電灯のフヰラメントは頗る脆弱であり、且つ光力も微弱でありましたのに、瓦斯の方はマントルの発明ありて従前に比し光力頗る強大となりましたので、大に世人の歓迎を受けました為であります。然るに薪炭代用所謂炊事用としては因襲の久しき竈を変造若くは除却する時は不測の災害を醸すとの迷信ありしと、瓦斯にて炊爨せし食物は臭気ありとか腐敗し易きとか甚だしきは有毒なりとの愚説行はれて、容易に此方面に販売領城《(域)》を開拓することが出来ませんでした。故に当時は灯火用としての需要は販売瓦斯量の約八割を超え、工業用動力及熱力並に炊事用熱力を合して約二割位の有様でありました。此際に於て会社の特に便益を得ましたのは、砲兵工廠に於ける熱用として日々四五万立方呎の需要ありしことであります。此特別契約締結につきましては、故人が時の太田提理と懇談の結果砲兵工廠にては従来所有ありし小規模の瓦斯発生設備を撤廃して此契約を締結されし次第にて一大英断でありました。爾後二十余年今猶此契約を継続し、世界大戦争の際に於ける瓦斯会社困難の時代にも能く工廠の需要に応じ、武器其他の軍需品製造を遺憾なからしめましたのは、此契約の結果でありまして、瓦斯会社としては大に誇るに足る次第で
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あります。此契約が前例となりまして、明治四十三年七月には造幣局とも特別の契約を締結し、造幣局自身に於ける瓦斯発生装置を撤廃されまして、今日に至るまで貨幣製造の熱用として御用を勤めて居ります。之等特別契約の分は暫らく例外でありますが、一般公衆の瓦斯に対する観念は先きに述べました如き次第でありましたから、米国にて瓦斯営業に経験ありしシー・ピー・クッシュマン氏と協議し、新奇の趣向を凝らし或は新聞広告に或は新聞記事に或は小冊子に瓦斯の用法を説明すると同時に、便益も多く衛生的なると経済的なるとを縷述し公衆の注意を喚起しましたのみならず、男女多数の勧誘人を使用して販売高の増加せんことに努めました。其の効能は幸に著大でありまして、瓦斯の需要は日と共に増加しましたから開業翌年には既に瓦斯炉第一回の拡張を必要とするに至り、続いて四十三年までには第二回第三回と更にレトルトの増設工事を完成し、尚大阪舎密会社より瓦斯購入の契約を致しました。之より先き、四十一年には二百万立方呎の容量ある瓦斯溜を建設しましたから、一日平均四百万立方呎以上の瓦斯の製造販売力を有する事になりました。かくの如く需要の激増と共に社運も隆盛に向ひましたに拘はらず、故人は自重して配当率を向上せしめず、所有物償却を充分ならしむることに致す等専ら会社の基礎を確実ならしむる方策を講ぜられました為め、其後会社が遭遇せし再三の災難に際し能く之を切り抜けて今日の瓦斯会社あらしむるに与て功あつた次第であります。
 然るに世事は意の如くならぬもので、明治四十五年に至りまして突如として瓦斯会社の為め計らざる災難を生ずるに至りました。其の次第は南区難波新地より同年一月十六日出火せし所謂南の大火災後に突発しました電車予定線路変更の為め、木津川筋に電車の通ずる大鉄橋(現大正橋)を架設せんとの議を大阪市にて計画するに至りましたので、従来木津川水運を利用して居りました運送業者諸工場は此予定線路変更につき反対の意を表するに至りました。大阪市にては電車予定線路に当りました町筋の人々が種々の方法を講じて、予定線路を他に変更せしめんと醜運動を為せしとの風説少からざりし際なると、南区に於ける予定線路は宗右衛門町筋なりしを、大火災を好機として現在の電車線路に変更せんとの企でありました。玆に於て其計画の是非について識者間に相当批難ありし事は明でありました。何となれば此の一両年前安治川筋に於ける川口より福島に通ぜし安治川橋(通称磁石橋)を水運利用の趣旨にて、大阪府会の議決に依り撤去せし次第なるに、木津川筋へは之と反対に新に固定橋を架設して、大阪市の特長たる水運の便を阻碍せんとする計画でありましたから、市参事会に於てすら市当局者を除き殆んど全員其変更計画に反対されし次第でありました。
 大阪瓦斯会社は岩崎工場にて所要の石炭を九州地方より直接船舶にて運送し来り荷揚し得る便利の位置を選定して工場建設を致しましたのに、此線路変更実現しますれば工場敷地の一部を収用され且木津川下流に橋梁が架設されることゝなり、積替水揚の為め石炭一噸につき少くも数十銭の費用増加を見ることゝなりますから、種々熟考の末同
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年二月三日大阪府庁に之に関する陳情書を提出し、工場敷地の収用を除外され、且つ架設の橋梁を開閉式橋梁と為し特に夜間交通僅少の際一二時間を限り船舶を航行せしむる様御命令あり度旨上申し、同月五日同様の陳情書を内閣総理大臣・内務大臣及鉄道院総裁へ提出するに至りました。上述の次第でありましたから単に瓦斯会社が陳情書の為めとか故人並に会社関係者の反対運動に依り電路変更許可の遷延せし訳にあらざるべけれど、幸か不幸か時の内務大臣は故原敬氏であり、次官は床次竹二郎君、地方局長は水野錬太郎君なりしと、大阪府知事は犬塚勝太郎君でありまして、此諸氏は総て故人並に岸博士及予等の親交ある方々なりし為め一部の人士は事実を捏造し大阪瓦斯会社が陰密の間に醜運動を為し、大阪市の事業を防害し公衆の便益を顧みざるものなりとの煽動を為すに至り、市長を始め有力新聞社之に加担して反瓦斯会社熱を煽勤し、其運動は極端に走り瓦斯を使用する者は公益を害する賊なりと論じ、故人始め私などへも日々多数の脅迫状到来したれば、府警察部より特別保護を加へらるゝに至りまして、一旦は大示威運動の計画成立しましたが、時恰かも、明治大帝陛下御大患の旨御公表ありし為め此示威運動は停止されて騒擾を醸すに至りませんでした。彼是する内に事実の真相も漸く明白となりまして、結局市の変更計画も許可に至りましたが、時の市長植村氏は遂に辞職さるゝに至り、其後故人に対し誤信に基きて事実無根の風説を流布して故人に迷惑を蒙らせし罪を謝する旨を市中の各新聞紙に公表して其終末を告げました。此陳謝交渉につきては故豊川良平氏専ら斡旋の労を執られ、陳謝状の起草には故人と植村氏との友人たる志立鉄次郎・高木利太の両君協議執筆されましたもので、一時世上の談柄となりました。
 此災難は半年以上に亘りましたのと、此時分に至りまして、宇治川水力電気工事竣成して漸く大阪市へ電気を供給するに至りましたのと電灯の改良顕著となり、単に光力の強大となりしのみならず、電球の持続力も従来十日乃至二週間位なりしものが、能く数十日間の使用に堪ふる様になりました為め、灯火用の瓦斯は漸次減少を見るに至ると同時に動力用瓦斯需要も漸次減少して、大部分は電力が代はることゝなりました。
 玆に於て故人は同僚と熟議し、一面需要を喚起する為めと一面社会の好評を博せんが為めに進んで瓦斯料金を引下げて、瓦斯売上の増加を計られましたところ、其商略は人気に投じ、此頃より工業熱用及炊事用として瓦斯の使用さるゝことに向ひまして、瓦斯販売高は毎期増加を見るに至りました。
 西洋の諺に『不幸は独り来らず』と申しますが、故人が瓦斯会社長たりし際には不幸は一再のみでありませんでした。前述の電路問題騒の後に、一時瓦斯需要の増加は遅々たる状態でありましたのに、大正三年には欧洲大戦が勃発致しました。其結果本邦の工業は概して破天荒の幸運に遭遇しまして一大進歩を見ましたのに、瓦斯事業のみは全国一般概して悲境に陥りました。其理由は戦争の為め諸物価急激の騰貴を招きましたのに、瓦斯事業は大体市町村の牽制を蒙りまして、生産費の騰貴に伴ひ瓦斯料金を引上ぐるの自由を有しなかつたから、全
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国に於て数会社は解散を決議したものもありましたし、無配当に陥りしものも幾多ありました。大阪瓦斯会社は云ふまでもなく報償契約締結の鼻祖でありましたから、此災難を痛切に感じた次第であります。大正四年下半期には来るべき一ケ年半位の需要石炭噸数を見込み購入契約を締結致し置きましたのに、諸物価の騰貴は日に月に著しきに拘はらず、瓦斯料金は報償契約に拘束せられ値上するを得ざりしかば、発熱原料として瓦斯程低廉なるものを見ざりし奇現象を呈しました。工業熱用に、炊事用に瓦斯の需要予想外に増加し先に契約せし石炭は約一年間に消費し尽し、戦前の石炭代価に比し三倍以上の高価にて石炭の買入を為さゞるべからざる悲運に立到り、已むを得ず大正六年三月に至り大阪市長に対し、諸物価労銀等騰貴し就中瓦斯製造原料の石炭市価暴騰したるにつきて追て炭価相当低落に至るまで瓦斯料金を千立呎に付金弐円参拾銭(開業当時は金弐円四拾銭)に復旧の儀を、報償契約第五条に基き協議方申出でました。
 然るに大阪市にては容易に此要求に応ぜんとせず、数月を経るも市会へ提案の運に至らず、斯の如き経済上不可解の難関に接し、故人は悶々の情に堪ふる能はず、遂に同年七月十四日瓦斯会社社長並に取締役辞任を申出で、予に其後任者たれと推奨されました。当時予は斯の如き困難の際瓦斯会社に社長たるは其の任にも非ず、且つ瓦斯事業に対しては故人と進退を共にせんとする決心にて従来執務し居りたれば故人辞任せらるゝに於ては予も共に隠退するを許されたしと強く主張せしも、故人始め同僚より種々慰撫勧奨ありて辞任する能はざるに至り、結局之を受けて後任社長となりました。之と同時に故人の令息片岡直方君は取締役副社長として入社せられ、第一回瓦斯料金値上の懸案は同年十一月に至り漸く解決を見た次第であります。


藤田翁言行録 第七〇―七四頁〔大正二年三月〕(DK120100k-0006)
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藤田翁言行録 第七〇―七四頁〔大正二年三月〕
    其四 大阪市対大阪瓦斯会社報償事件紛議の調停
大阪瓦斯株式会社は明治二十九年の創立に係り、同年二月同社より大阪府知事に対し、会社設立に付、道路河川の鉄管敷設の儀を出願したるに、当時の府知事内海忠勝氏は、同年七月を以て、大阪市街及び接近町村道路へ、瓦斯管敷設並に河川へ瓦斯管橋架設願の件、聞置く旨の指令を与へ、其遵守すべき事項十九個条を命令したるが、該命令書中に、鉄管敷設工事に就ては、大阪市と協議すべしとの明文あり、然るに同社が翌三十年愈々事業に着手せんとするに方り、端なくも市に対する報償問題起れり、当時鶴原市長の意見は、瓦斯事業の如き独占的且公共的のものは、其性質上市営と為すべきものなるも、既に会社の設立せられたる上は、市営論は姑らく措き、目下は一方に営業相当の監督と保護を加へ、且収入を図り、更に将来市に営業を移すの方針を取ると同時に、会社の成立を助くるを以て、最も穏当なりと云ふにありて、其要求せんとする報償要件として、伝ふる所は(一)瓦斯使用料を定め若くは変更せんとする時は、市の承諾を受くる事(二)公共用の瓦斯使用料は、割引を為すべき事(三)一定年限後市の買収に応ずべき事(四)収入の幾分を市に納附すべき事等にして、尚瓦斯の
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性質試験、会社の会計検査、資本増減の承認を受る事を以て、附随条件と為せり、之に対する会社側の意見は頗る強硬にして、市の要求に応ずるの模様なく、殊に会社の法律顧問米人チゾン氏は、曩に内海内相に面会して、会社の権利の確定不動なる事を聞き、市が如何なる要求を為すも、到底法律上効力なしと信じたるを以て、頑としてその要償に応ぜんとする意向なく、而して市に於ては反対の気焔益々熾んなかりしかば《(衍)》、一時事業の進行を見合すの止むを得ざるに至りぬ。
当時最も有力なる新聞紙は、各一方の主張を助けて議論を闘はし、互に固く執て譲らず、市民は市の権利利益に関するを以て、多くは市長の意見に賛同し、個人又は町区の団体より意見を提出し、或は有志演説会を開き、市民同盟会の名の下に、中之島公園に於て示威運動を行ひ、以て市当局者の主張に声援を与ふるに至り、市会に於て、市は報償を要求すべし、会社にして若し之に応せざれば、道路橋梁等の使用を拒絶し、且市自ら経営すべしとの建議案を可決せり。
斯の如く、此問題は、大阪市を動揺せしむるに至りたるを以て、有志者は之を憂ひ、速に之が解決を望みたるも、進んで調停の労を執るものなし、翁は此成行を見て、私かに憂慮に堪へず、三十五年一月、原敬・小山健三・小松原英太郎・村山竜平・中橋徳五郎の五氏を自邸に請じ、此問題は放擲看過すべきや、将調停の労を採るべきやに付、意見を徴したるに、議論区々にして帰着せずと雖、双方の意思を疏通して、円満なる局を結ばしむべしと云ふの点に一致し、鶴原市長、片岡瓦斯会社長に対し、交渉を開くことゝなれり、因て同日直に両氏の来邸を促がして交渉する所あり、結局此団体より調停案を提出して、交渉を重ねたりしも、相互の懸隔甚しく、調停の見込殆んど絶んとしたる事屡次にして、最後の妥協には双方共譲歩の余地無く、委員は愈々手を引くの外なきに至れり、然れど時恰も当市に於る博覧会開期に切迫せるを以て、此際調停不成立を発表せば、市民をして再び紛擾せしむべく、時機甚だ宜しからざるを以て、委員は双方に向ひ、強ゐて再考を求め、忍耐して時機を緩うし、以て其解決を望みたり、其間東京の渋沢男等も、間接に援助を与へられたるが、結局、三十六年六月に至り、双方の譲歩を得て、仮契約を締結し、次で本契約の交換を了り此間八ケ月を経て、全く本問題の解決を告げたり。