デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
25節 取引所
1款 東京株式取引所
■綱文

第13巻 p.627-635(DK130065k) ページ画像

明治33年5月8日(1900年)

栄一、農商務省ニ商工局長木内重四郎ヲ訪フ。木内局長近ク海外ニ出張スルヲ以テ、取引所制度ソノ他ニ関シ調査ヲ要スル諸点ヲ談ゼルナリ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三三年(DK130065k-0001)
第13巻 p.627 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三三年
四月八日《(五)》 曇
○上略午後一時農商務省ニ抵リ、木内商工局長ニ面会シテ、同氏仏国行ニ関シテ調査ヲ要スル意見三項ヲ陳ス(商業会議所条例改正ノ事、取引所ノ規程改正ノ事、信托会社ノ実況調査ノ事)○下略



〔参考〕明治史料顕要職務補任録 下巻・第三三三頁〔明治三六年三月五日〕(DK130065k-0002)
第13巻 p.627 ページ画像

明治史料顕要職務補任録 下巻・第三三三頁〔明治三六年三月五日〕
    商務局長
三十一年三月八日内務書記官兼貴族院書記官ヨリ任 木内重四郎 千葉 三十一年十一月一日廃官更ニ商工局長ニ任
    商工局長
三十一年十一月一日商務局長ヨリ任(三十三年三月廿四日欧米差遣) 木内重四郎 千葉
三十三年五月廿一日木内局長欧米各国出張中代理 美濃部重吉 兵庫 三十三年六月十八日罷
卅三年六月十八日木内局長各国ヘ出張中水産局長ヨリ代理 牧朴真 島原士 三十四年三月十二日罷


〔参考〕木内重四郎伝 (馬場恒吾著) 第一二六―一四三頁〔昭和一二年一〇月〕(DK130065k-0003)
第13巻 p.627-634 ページ画像

木内重四郎伝(馬場恒吾著)第一二六―一四三頁〔昭和一二年一〇月〕
 ○第六章 商工局長
    五 二度目の洋行
 - 第13巻 p.628 -ページ画像 
 三十三年の洋行に就ては、憑拠すべき文献が断片的で、その足跡を追記し得ないのであるが、兎に角氏は随行者として杉本書記官を同伴し、親友内務書記官井上友一氏と同船して先づ仏国に赴いた。巴里到著匆々井上氏が病気に罹り、市立病院へ約三ケ月入院したので、氏は手の届く限りの親切を尽し、且つ井上氏の竹馬の友で且つ氏の親友である清水澄氏が伯林に留学してゐるのを呼寄せ、専心看護して貰つたといふ事である。伯林では氏も随行の杉本氏も独逸語が得意でなかつたので取引所問題に関する官庁の調査、取引所に於ける実際の研究、並にシモラー博士に就いて取引所の沿革並に学理の究明等、悉く新渡戸稲造博士の通訳並に指導を煩はすこと二週間に及んだ。官庁に於ける調査の場合、氏等は日本の官吏として好遇され、応待に椅子を与へられたのであるが、この有名なる博士は単なる通訳として遇せられ、起立のまゝ事を弁じたといふ笑柄もあつた。○下略
    六 限月短縮令
 氏の外遊中、三十三年十月内閣が更迭し、伊藤侯の政友会内閣が組織され、林有造氏が農商務大臣となつた。丁度氏の帰朝の頃、この内閣は貴族院と大衝突を演じ、詔勅の降下によつて辛うじて議会を切抜けたが、間もなく蔵相渡辺国武氏と、他の政友会閣僚との衝突によつて、内閣は僅か五ケ月の短命で瓦解し、三十四年六月、桂内閣が成立し、平田東助氏が農商務大臣に任ぜられた。これは氏の帰朝後三ケ月の事であつた。この内閣は純粋の官僚内閣であり、超然内閣であつたが、氏は平田農相の同意を得て、鋭意取引所法令改正の起案に従事したのである。
 氏の取引所法令改正の主眼は、従来取引所が世の淳風を害し、悪投機業者を跋扈せしめ、その他幾多の弊害を醸しつゝある事例に鑑み、これ等を芟除すると共に、その重要なる経済機関たる機能を健全に発揮せしむるため、これが根本的革新を期したのであるが、氏はこれがために洋行中取調べたる外国に於ける取引所取締の実情、我国に於ける取引所の沿革並に現状等に就て弘く研究考察した。而して我国の取引所の担保制度と株式組織制度とは維新以来発達し来つたもので、現行取引所法の二大眼目であるが、その利弊相半ばし、これを根本的に革新することは、事甚だ容易でないのみならず、経済界に大変動を惹起する虞れがあり、且つ法律の改正は議会の協賛を要するので、到底短日月に目的を達し難い事情もあり、氏はこの問題には姑らく手を触れない事とし、勅令の改正によつて可能なる範囲内に於て革新の実を挙ぐることに、最初に決心したのであつた。而して氏の腹案がほゞ成り、平田農相・総務長官安広伴一郎氏と聯絡を保ちつゝ、局内に於て極秘のうちに成文の協議を進めたのであるが、三十四年四月頃《(五)》には取引所側に於て、早くもこの事を嚊ぎ付け、聯合して反対運動を起すに至つた。即ち中野武営(東京)、田中源太郎(京都)、磯野小右衛門(大阪)、吉田禄在(名古屋)の各取引所首脳は、折から京都に出張せる平田農相を訪問し、縷々改正の非を陳情したのであつた。之に対して平田農相は、その問題に就ては自分は全然相談に与つて居ない、木内局長とよく談合されたら可からうと答へた。その後この反対運動は、益
 - 第13巻 p.629 -ページ画像 
益熾烈となり、政府各方面に手を伸ばしたり、木内局長排斥運動にまで及んだのであるが、かゝる運動は氏の決心を益々鞏固にする反対効果を齎らすに過ぎなかつた。尤も氏は民間の意の在る所を知るに努めなかつたのではなく、是より先きその腹案を決定するに方つて、中野武営氏と面会し、それとなく取引所の改革に関する意見を聴取してゐたのである。かくて五月初めには勅令改正案がほゞ脱稿したので、氏はこれを平田農相に示し、その要綱を説明したが、農相はその改革の温和なのに案外な様子で、決意の後は脱兎の如く邁進すべきであるがそれ迄は秘密に慎重に取運び、他から乗ぜられぬやうにと注意されたのであつた。
 氏の成案せる勅令改正案は、実は平田農相が意外とした程、それ程温和なものではなかつた。氏の平素の硬論に比して温和ではあつたらうが、尚ほ頗る苛酷なるものがあつた。その一例として転売・買戻しを禁止する条項があつたのである。定期市場に於ては現物の受授は極めて少なく、多くは転売・買戻しによりて帳簿上を整理し、その差金を損益することが「相場」の通念となつてゐるのであるが、氏はこれを以て定期取引に於ける流弊の根源となし、期末に於て必ず現物を受授するの制度を確立せんとしたのである。併しこれは非常な大改革であつて、かゝる急激なる変革は直ちに現在の取引所の存亡に関する大問題でなければならない。法令の推敲中に、氏の下に在つて主として立案に参画した会社課長加納友之介氏が熱心にこの転売・買戻しの禁止条項を削除放棄すべきことを氏に勧告し、これに依つて反対論を緩和し、案の無事通過を図ることが、寧ろ得策であると説いた。而して外に於ては中島行孝翁が大に氏に自重を勧め、余りに血気に走せて却つて我利の徒に陥られることの不得策であることを説くあり、氏の先輩も多くは温和説を可とし、内に於ては安広長官また温和な意見であつたので、氏も遂に硬論を放棄し、一日も早く決行を期する事とし、転売・買戻しの条項を緩和して、勅令改正案の成案を見るに至つた。この際、加藤高明氏また氏の相談に与つた一人であるが、加藤氏の意見は「それは相談する迄もなく、君が自分で適当だと信ずる案を提出したらよいので、それを採用すると否とは、農商務大臣のする事であり、それを行ふと否とは内閣の決する事である。君は大臣でないのだから、大臣の責任を負ふ義務もなし、それが行はれないからとて引退する必要もない。一体君は仕事に対する自信が強過ぎる、進んで責任を負はうとする勇気は称すべきであるが、それが為に僭越の譏りを受けることは宜しくないであらう」と、氏のために大に忠告する所があつた。明敏で然かも熱情漢であつた氏に対する冷徹氷の如き加藤氏の風姿、洵に眼前に髣髴たるものがある。
 いよいよ勅令改正案が確定したので、氏は更に、改正理由書を起稿し、農相の決裁を得て五月二十日之を内閣書記官長柴田家門氏に送付した。この閣議案は直ちに法制局に廻付されたので、氏は二十三日法制局に出頭し、多少字句を修正したのみで原案を通過した。この成案に就て、氏に同情協力したる人々は法制局長官奥田義人氏・同参事官岡野敬次郎氏・農商務省勅任参事官一木喜徳郎氏であつた。奥田氏が
 - 第13巻 p.630 -ページ画像 
農商務次官時代、如何に氏と相許したかは前に述べた。一木・岡野両氏は氏の最も尊敬した学者であり、人格者であつて、殊に一木氏に対しては氏は学生時代より傾倒して居り、氏が内務省を去る時、松岡次官に運動して一木氏を内務省勅任参事官に推薦し、憲政党内閣成立して一木氏が辞意を決せし際、氏は切に勧めて翻意させた。最近一木氏は大学教授専任で閑地に在つたので、氏は請うて農商務省参事官を兼任せしめ、勅令改正案の成案に参画して貰つたのであつた。岡野氏は伊東農相の下に勅任参事官となり、氏と協力して省内刷新に努め、大に意気投合したが、憲政党内閣に際して農商務省を去つた。この際も木内氏は大に留任を勧告したのであつたが聴かれなかつた。その後岡野氏は一たび農商務省に復帰したが、今は法制局に在り、氏の最も心血を注いだ取引所改革の裏面に、これ等先輩友人の協力のあつた事は特記すべきである。
 明治三十五年六月三日、いよいよこの取引所に関する改正勅令が官報に公布された。閣議に於ては曾禰蔵相から異論があつたので、氏は蔵相を訪問して反覆説明し、僅かに文字の修正に止め、漸やくその同意花押を得たのであつた。改正勅令の要旨は左の通りである。
 一、取引所の資本金は従来三万円以上であつたのを十万円以上に改めた、又株式組織の取引所は資本金の半額以上、少くも十万円の払込を終つた後でなければ開業し得ぬ事とした。(第一条)
 これは地方に簇出した群小取引所を自滅させると同時に、売買取引の違約から生ずる損害賠償は当然取引所の責任なので、取引所の資本を潤沢にして之に充てしむる事としたのである。日本に於ける取引所の総数は、氏の就任当時は百二十八ケ所の多きを算し、その後漸次解散せしめたが尚ほ八十二ケ所に上り、地方小都邑の取引所は中央の相場によつて賭博行為をなすものが少くない現況であつたから、その取潰しは至当であつたが、併し現に資本金十万円以上の大取引所は、そのうち僅かに十一ケ所に過ぎず、当時不景気の折柄、俄に全額払込をなすとか、資本金を増額することは容易の事でなく、全国中小取引所に取つては非常な打撃で、その生死存亡に関したのである。
 二、株式組織の取引所の利益が年一割を超えた場合は、一割に当る金額を控除したる残額の二分の一は、必ず賠償責任準備金として積立てる事とした。(第七条)
 由来取引所の配当は毎決算期頗る不同で、多い時は五割、七割、十割にも上り、不況に際しては忽ち無配当となる。従つて取引所株の価格は常に動揺する。この項は配当を一割に制限した訳ではないが、相当額の積立を強制したもので、証拠金を納め手数料を払つて取引する者の損害を保護せんとする当然の措置であつた。
 三、取引所は、会員及び仲買人に身元保証金を納めしめるのであるが、その保証金は必ず金庫に供託せしめる事とした。(第九条)
 これは極めて簡単で、従来その保管銀行等に就ては定款で農商務大臣の認可を受けしめてゐたが、この保証金は損害担保の用に充つる重要のものであるから、その取扱を厳重にし、金庫に供託せしめて安全確実を期したものである。
 - 第13巻 p.631 -ページ画像 
 四、売買取引の期日を直取引は五日以内、延取引は百五十日以内、定期取引は有価証券は二ケ月以内、米其他の商品は三ケ月以内の限月に依る事とした。但し農商務大臣が必要と認めれば、米以外の商品は種類によつて、二ケ月に短縮せしめる事が出来る事とした。(第十二条)
 これは後に大問題を起し、遂に氏をして辞職せしめ、更に惹いて平田農相を辞職せしめた所謂る限月問題である。氏は従来の定期市場の当・中・先の三ケ月期限を長きに過ぎるとなし、断然これを二ケ月に限定したのである。その最大の理由は、氏の説に従へば、この期限が長いのは無謀な投機心を助長し、実際生活を脅威する危険が多く、虚業家を増加し、国家の生産力を減殺するといふのである。又定期取引を短期とし決済を頻繁にすることは、取引所側に於ても、信用以上の無謀なる投機が減少する結果、契約不履行・売買停止・不合理なる解合等の紛議を少なくし、取引所が損害を蒙ることの危険を防ぐことが出来、従つてこの危険のために日本の取引所のみが実行してゐる一割から最大五割といふ証拠金の徴収も緩和し得るであらうし、手数料も軽減する事とならう。尚又、商業資本は固定を忌み、運転回数の頻繁なるを尚ぶが、三ケ月期限では資金運転は一年四回、二ケ月期限では一年六回運転する事となり、商業上に、一段の進歩を加へるものである。之を世界の有価証券市場に見るも、倫敦は二週間、巴里は半ケ月を決済期限とし、紐育の如きは翌日受渡を原則としてゐるが、未だ曾て期限延長を唱へられた事がなく、それ程処理の敏捷を必要として居り、資金が敏活に運用されてゐるのである等等、氏はこの限月短縮の正当なる所以を弁じてゐる。唯だ米の取引に関しては、証券市場と異なり、一年四回三ケ月決済制は二百余年来の慣行であり、実際に於ても聚散に要する時日・資本の固定・危険の負担等、幾多事情を異にするものあり、之は期限を短縮しない事とした。
 五、会員組織の取引所に於ける転売・買戻しを禁止した。(第十三条)
 これは氏が硬論を譲歩したもので、最初の氏の立案では、総ての取引所に於ける転売・買戻しを禁止するといふのであつたが、これを会員組織の取引所に止め、株式組織の取引所に於ては之を認容する事としたのである。その理由は、会員組織の取引所は担保(損害賠償)の義務を負はぬから之を認容しないといふのである。尚、前に述べた曾禰蔵相の異議といふのは、曾禰氏は会員組織保護論者で、株式組織の取引所のみに之を許容するは不条理であるから、転売・買戻しは全廃すべしといふ意見であつた。
 六、取引所に於ける米の格付については、農商務大臣の認可を受けしめる事とした。(第十三条第二項)
 取引所に於ては、普通市場に於て見ることの出来ないやうな劣等米を代用品として格付を加へ、受渡しに供せられることが多いので、勝手に格付を定めさせず、必ず農商務大臣の認可を受けさせる事とし、受渡しの正確を期した。
 七、仲買人の免許料十円を百円に引上げた。(第十六条)
 - 第13巻 p.632 -ページ画像 
 仲買人は資力信用のある者を精選する必要があり、軽々しく入退せしめぬ意味である。
 八、この改正勅令は明治三十五年七月一日より施行する(公布後廿九日目)。又、資本金額又は払込金額十万円に達せぬ株式組織の取引所は同年十一月十三日迄《(三十)》に資本を増加し、且つ払込をする事。
といふのである。
 この改正勅令は、一般世間は勿論、営業者に対して迅雷耳を掩うに遑ない程突如公布されたので、囂々たる物議を惹起した。新聞は賛否相半ばしたが、取引所関係者の反対は凄まじい勢ひで爆発した。この朝、東京株式取引所理事者中野武営・伊藤幹一の両氏が来訪したので氏は官報を示し且つ改正の要点を説明したのであつたが、両氏は未だ官報を見て居らず、唯だ唖然、茫然、愕然たるばかりで辞し去つた。その際氏は両氏に対して、取引所に於て仲買人を集め、勅令改正の点を説示して予め市場の動揺に備へたらよからうと忠告したのであつたが、この忠告も二人の耳に入らなかつたらしく、何等の処置をも講じなかつたので、市場は恐慌状態を呈し、前日二百円なりし東株は前場百五十円に暴落し、為めに後場を休場するに至り、惶惑怨嗟の声は取引所内に充満した。
 氏は勅令の公布と共に各方面の意見を叩いたのであるが、伊東巳代治男最もこれに反対し、都筑馨六氏も反対意見であつた。併し井上馨伯は欣然これに賛し、限月は寧ろこれを一ケ月に短縮すべく、且つ転売・買戻しは一律にこれを禁止すべきであると最強硬論を唱へ、この際政府は、虚業家の反対などに辟易逡巡すべきでないと、氏を激励した。又仙石貢氏・大倉喜八郎氏・岩下清周氏等は賛意を表し、友人石井菊次郎氏・井上友一氏等は氏の英断を称し、双手を挙げて快哉を叫んだ。但だ岩崎弥之助男は当時英国に滞留したので、氏は親しくその意見を聞くことが出来なかつた。
 一方反対運動は益々熾烈で、日を追うていよいよ底止する所を知らぬ有様であつた。勅令公布後二日の六月五日には飛電によつて早くも全国取引所同盟聯合会が結成され、熱烈なる叫びを挙げ、反対の気勢を煽つた。六日には仲買人総会代表者等が取引所規定改正延期請願書を携へて桂首相・平田農相に陳情した。十日には東京商業会議所は総会を開き、今回の勅令発布によつて経済界に非常な動揺を生じたのは遺憾に堪へない、政府は将来苟くも商工業の利害習慣に大関係ある法令の改廃に際しては、慎重事に臨み、商業会議所に諮詢し、商工業者の意見を採用して経済発達を奨励するの実を挙げられたいといふ建議を為した。而してこの反対は、単り株式界のみならず、各方面からも火の手が挙つた。氏は飽迄公明正大で、不正を成るべく少くし、専心業界の利益を図る以外何物もなかつたのであるが、結果は怨嗟と誹謗とを一身に集注せられ、或は腕力暴行を加ふるの噂さへ伝へられるに至つたが、氏は毅然として動ぜす、正義の前の何の暴力があらうかと毫も意に介さなかつた。
    七 辞職
 是より先き、氏の持論であつた日英同盟は同年二月十二日に締結せ
 - 第13巻 p.633 -ページ画像 
られ、桂首相・小村外相はこれを議会に報告して非常な喝采を博し、内閣は衆議院に一の与党をも持たなかつたけれども、無事に議会を切抜けた。その年議員の任期が満了したので八月に総選挙が行はれた。平田農相は初め取引所法令改正の如き世の物議を起し易き問題を、総選挙を前に控へて決行することは徒らに反対の気勢を添へ、政局の紛更を招くであらうことを予感し、これを総選挙後に公布すべきことを唱へたのであつたが、法令の内容も著るしく緩和されたので大に安堵し、遂に六月にこれを決行したのであつた。かくて七月一日に改正法令の実施を見、総選挙は曲りなりにも八月十五日に行はれたのであるが、限月問題に対する反対は毫も衰へざるのみか、益々物情騒然たるものがあつた。一方政府は、対露関係のいよいよ切迫せるに鑑み、海軍第三期拡張の肚を決め、その財源は期限付であつた地租増徴を、永久税として之に充てる事とし、次の議会にこれを決行する計画であつた。これには伊藤侯を党首に載き、議会に絶対多数を占むる政友会を懐柔する外はないのであるが、この際取引所の如き問題で財界政界を挙げて騒ぎ立てゝゐることは甚だ都合が悪かつたのである。いはゆる大事の前の小事で、場合によつては、この限月短縮を取消し、以て世論を鎮静せしむる外はないといふ事に漸次台閣の方針が傾いて来た。しかし此の打開策も、政府の面目威信は兎に角として、一人の硬骨木内を動かすことの容易ならざるに直面して、大に手古摺らねばならなかつたのである。かくて事態は三竦みのまゝ陰鬱に推移するのみであつたが、この情勢を憂慮した倉知鉄吉氏は暫く木内氏を洋行せしめ、その間に政府が善後策を講ずべきであると做し、氏及び政府当局に進言したのである。氏はこの紛乱の渦中を自から逃出すなどゝいふ事は男子として断じて出来ないと云つて之に応じなかつたが、政府は百方苦慮の末、終に倉知氏の案を採用し、恰も好し、米国セントルイスに万国博覧会が開催され、日本もこれに参加する事となつたので、同年十一月その準備のため木内氏に米国出張を命じた。氏は自分の留守中に政府の行はんとする所が明かに察知されるので、胸中万斛の不平を懐きつゝも、已むなく十二月廿四日渡米した。
 氏の洋行と前後して、政局は大波瀾を捲起して居た。十二月二日加藤高明氏の斡旋によつて、多年の政敵たる伊藤・大隈の両巨頭が同氏邸に会同し、これに西園寺枢相も参加し完全に握手したのであつた。そこで政友会と憲政本党とは提携して政府の財政計画に反対するの議を決し、第十七議会に臨んだのである。世に次官内閣と貶称された桂内閣が、この伊藤・大隈連繋の巨砲に直面して、洵に鎧袖一触の観を呈したのであつたが、桂首相は十二月廿八日地租継続案の否決に際して議会を解散し、翌年三月総選挙を行つた。併し大勢は内閣に取つて不利になるとも、有利になる道理はなかつた。政局が斯くの如く紛糾したので、氏の留守中に決行すべく期待された限月復旧問題も早急には運ばず、同年四月に至つて漸やく之を実行したのであつた。氏は米国からメキシコに廻つて同月末に帰朝したのであるから、氏の帰朝を前にして政府が決行を取急いだ慌しさの程が思遣られる。
 この限月復旧に方つて、農商務省内の空気は決して淡々たるもので
 - 第13巻 p.634 -ページ画像 
はなかつた。取引所からは限月実施以来半年の成績を挙げて、到底営業の立ち行かぬことを訴へるし、都下三十余の銀行業者が反対陳情をなす等の事もあつたが、省内に於ては固より氏の部下に人材多く、敢然朝令暮改に反対したり、二月期を実行せる明治三十五年下半期の受渡高が前年下半期の受渡高を超過してゐるといふ事実を調査したりして、省議は容易に纏らなかつたが、結局農商務省令を以てさきの勅令の趣旨を変更し、以て限月を復旧するの権道を取ることになつた。その省令の全文は、
 有価証券ノ延取引ニ限リ、売買者間ノ同意ニヨリ、債権債務ノ移転ヲナシタル場合ニ於テ、取引所ハ其売買差金ノ立替又ハ預リヲナスコトヲ得
といふのであつて、外見上これは延取引に対する規定であつて、定期取引に於ける有価証券の受渡しを二ケ月に限定したさきの勅令とは全く無関係なやうに見えるのであるが、これは農商務省が表面を糊塗したに過ぎないので、この省令の発布と同時に、平田農相が内訓を発して、「延取引は現行法の規定によれば百五十日以内に受渡をなさしむるものではあるが、株式取引所は其定款により三ケ月より長い延取引を許さぬ規定を設けよ」と命令したのである。即ち名を延取引に借りて、その実定期取引三ケ月制を復旧したもので、胡麻化しとしては甚だ巧妙なやうである。だが、斯る弥縫策によつて政府が胡麻化しを為したといふ印象を世人に与ふる事が、寧ろ堂々と再び勅令を改正して朝令暮改の譏を受ける事よりも、一層悪いといふ事を平田農相は気付かなかつたのである。
 明治三十五年四月廿五日《(六)》、氏は米国より帰朝した。而して横浜上陸第一歩、この省令の発布を耳にすると同時に氏は辞職の意を決した。これは出発以前より予め覚悟した事であり、仕事に対する氏の熱意と信念とは、氏をしてその責任感に於ても大臣以上に痛切ならしめたものがあつたのである。斯くて氏は平田農相が旅行中であつたので、その帰京を待ち、海外出張用務の報告書を呈出すると共に正式辞表を差出し、五月十八日依願免官の辞令を受け、閑地に就いた。この辞職に対して、一木喜徳郎氏は極力これを諫止し、寧ろ法制局参事官か、知事に転任することを勧めたのであつたが、氏はそれをも屑しとしなかつた。
 解散後の議会は五月十二日に開かれた。総選挙の結果、野党の勢力は優るとも劣らず、政憲聯合軍の十字火の前に、桂内閣の運命は風前の灯火の如くに見えたのであるが、忽然として桂首相と伊藤侯との妥協が成立し、政友会は幾曲折を経て政府の財政計画を通過した。これに対して孤立したる憲政本党の憤恚やる方なく、遂に教科書事件と取引所問題に於て爆発し、問責決議案を提出するに至つた。取引所問題に対する糺弾は、政府が限月短縮の勅令の趣旨を省令にて抹殺し、事実上省令を以て勅令を変改せるは違憲違法なりといふにあつた。政友会が妥協の埋め合せとして之に賛成したので、決議案は殆んど全会一致で衆議院を通過し、その結果、議会閉会後間もなく、平田農相と菊地文相とは挂冠の止むなきに至り、取引所問題はこゝに落著した。
 - 第13巻 p.635 -ページ画像 


〔参考〕渋沢栄一 書翰 佐々木勇之助宛(明治三一年)四月二五日(DK130065k-0004)
第13巻 p.635 ページ画像

渋沢栄一 書翰 佐々木勇之助宛(明治三一年)四月二五日
(佐々木勇之助氏所蔵)
○上略
株式取引所之協議相整立会出来候様相成候義者幾分か調和之途と相成可申と存候、願くハ此末少々ニても相緩候様企望之至ニ御坐候
○下略
  四月廿五日               渋沢栄一
    佐々木勇之助様