デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.14

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第24巻 p.5-30(DK240001k) ページ画像

明治7年11月(1874年)

是ヨリ先、明治五年十月十四日、東京府庁ハロシア皇子ノ来朝ニ備ヘ、府下ノ乞丐ヲ駆集メ、ソノ処置ヲ東京営繕会議所ニ諮ル。蓋シ東京営繕会議所ハ旧幕時代ニ於ケル市民共有金ノ管理ニ当リ、旧町会所ノ担当セル市街ノ営繕ト市民ノ賑恤救済事業等ヲ継承セルニ由ル。仍ツテ東京営繕会議所ハ翌十五日、右窮民ヲ本郷加州邸内ニ仮収容シ、更ニ同月十九日浅草溜ニ移ス。ナホ東京営繕会議所ハ同月、東京会議所ト改称セシモ、引続キ此収容所ヲ主管シ、明治六年二月四日、浅草溜ヨリ上野護国院ニ収容者ヲ移シ、爾来養育院ト称ス。

是月栄一、東京会議所共有金取締ニ嘱託サレ、同時ニ当院事務ヲ掌理ス。


■資料

東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年 渋沢栄一述 第三―六頁 大正一一年一一月刊(DK240001k-0001)
第24巻 p.5-6 ページ画像

東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年 渋沢栄一述  第三―六頁 大正一一年一一月刊
    一 養育院の濫觴
○上略
 抑も本院の濫觴は明治五年十月、東京府が本郷なる旧加州邸に於て東京府養育院の名を以て窮民救助の事業を開始したるに肇まるのであるが、実は其前身があつたのである、即ち明治三年《(五年)》の頃或外国の皇族が日本に渡来せらるゝに当り、東京市中に多くの乞食が俳徊すると云ふのは、貴賓に対して礼を欠くし、体裁も宜ろしくないから、これを狩り集めて市中の俳徊を差止めやうと東京府で思ひ付いたのが本院事業の萌芽である、当時狩り集め得た乞食の数は三百人未満であつたが貴賓退京後直に之れを解放して再び市内に俳徊せしむるは策の得たるものでないと云ふので、車善七と云ふ当時の非人頭に引渡して其世話を託することゝなつた。
    二 当初の救助資金は楽翁公の七分金
 当時東京府の手には共有金の名を以て一種の資金が保管されてあつた、之れは寛政年中時の賢宰相たりし、奥州白河の城主松平越中守定信、即ち白河楽翁公が江戸の町政を改革し町費を節約して其剰余を積立て、更に官金を下付して備荒貯蓄資金とし、永久に之れが増殖を図からしめたる所謂七分金の後身であつて、維新後之れが東京府に引継がれて府の共有金となつたのである、而して府は此共有金を利用して諸般の公益事業即ち市内各所の橋梁修理とか、又は共同墓地の仕事と
 - 第24巻 p.6 -ページ画像 
か、瓦斯事業の設備とか、商法講習所の補助とかに提供して居たのであるが、養育院事業も亦た其創始の際に於ては資源を此共有金に仰いだのである。
    三 余と養育院との関係は明治七年より
 養育院の創立せられたるは前述の通り明治五年であるが、余が養育院に従事するやうになつたのは、明治七年、即ち今より四十八年前であつた、但し当初から養育院長に任ぜられたのではなく、前述の七分金の取締方を府知事から依託せられて、遂に之を財源として土木其他諸般の公益事業を経営する営繕会議所の事務にも参加することゝなつた、而して養育院も此営繕会議所経営の一事業であつた為め、当然本院との関係が結ばれたのである。
○下略


社会事業 第一一巻第一二号・第九三―九五頁 昭和三年三月 子爵渋沢栄一氏を中心とする座談会(DK240001k-0002)
第24巻 p.6-8 ページ画像

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東京市養育院月報 第三三五号・第一九―二一頁 昭和四年六月 第十一回従業員慰労会に於ける挨拶(昭和四年五月十九日於飛鳥山渋沢院長邸)養育院長子爵渋沢栄一(DK240001k-0003)
第24巻 p.8 ページ画像

東京市養育院月報  第三三五号・第一九―二一頁 昭和四年六月
  ○第十一回従業員慰労会に於ける挨拶(昭和四年五月十九日於飛鳥山渋沢院長邸)
               養育院長 子爵 渋沢栄一
○上略
明治七年私が初めて養育院に関係した当時養育院は上野の護国院にありました、当時の主任は神保某・飯田某と云ふ人々であつたが、収容児童に対する取扱方が如何にも厳格で聊か苛酷に過ぐる嫌がありはせぬかと思はれる位であつた、元来養育院収容の児童は不幸にして早くより父母の慈愛の手を離れた気の毒な子供達であるので、孰れもいぢけて仕舞つて居た、私は之れでは子供の将来の為め決して策の得たものでないと感じたので、今少しく親切な扱方に改めたがよろしからうと注意したが、二人共子供は厳格に躾けねば惰弱になると云つて反対した、然し私の考へでは、子供が母親の懐ろに抱かれて泣くのは決して悲みを意味して居るのではなく、寧ろ泣くこと夫れ自身が子供にとり一種の慰めであると思ふので、どうしても心を打込んで児童の為めに親に代つて心配して呉れる人が必要であると感じ、後ちに木下某を任用して之れが改善を行つた結果、児童の性質が非常によくなつたのであります
○下略


養育院六十年史 東京市養育院編 第三八―四四頁 昭和八年三月刊(DK240001k-0004)
第24巻 p.8-11 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第三八―四四頁 昭和八年三月刊
 ○第一章 養育院の起源
    第二節 町会所の廃止と営繕会議所の設立
○上略
 この営繕会議所は、従来の町会所に比すれば、その取扱事業の範囲を拡大し、府下の修路・架橋・瓦斯灯・商法講習所・共葬墓地等の外
 - 第24巻 p.9 -ページ画像 
救貧施設即ち養育院の事業に与かつた。而して明治二年(一八六九)施設せられたる三田救育所は、五年に至り遂に廃止となりたるを以て同年九月二日東京府より各区戸長・世話掛に宛て左の通り通達した。
                 戸長  世話掛
                 各区  戸長
 先般救育所被廃候後福島嘉兵衛願により引受申付置候窮民共の内、差向老幼並癈疾等の者共別紙の通扶助手当差遣し復籍申付候条、爾後其小区に於て世話行届候様可致事
  但手当米金の儀は営繕会議所より相渡可申候、尤年々扶助の分は日々其区戸長に於て受取置下渡候様取計可申事
○中略
 右の救育所とは旧幕時代に屡々散見する所謂救小屋に類し、随時数ケ所に設置して急迫せる窮民を収容する施設なりしが、先般これを廃止したるにより、各区に於て世話すべく、その手当米金は営繕会議所より交付すべしと通達したのである。
    第三節 窮民救済方法の諮詢
 救育所は臨時的施設に属する為め、一旦これを廃止したるが、窮民は依然として存在するを以て、こゝに常住的救済施設を代置する要あり、果然九月に入り府庁は営繕会議所に向つて窮民並に乞食等の救済方に付、諮詢の沙汰あり、これに対し会議所は評議の結果、左の三策を答申した。
 申九月中窮民並乞食之徒救済之儀本府より沙汰有之、左之条衆議之上申立候
  第一
 工作場を開くか為に都下に募り、有志之者に会社を結はしめ、方法詳細の調書を会議所へ出させ、右の窮民等を工人として自ら其力に食はしむ、工作場を建つるの費等は、会社の不足を補ふ為に会議所より若干の金を貸す、年賦を以て返納すへし
  第二
 前条の如くすれは全策なれとも、一朝にして工作場建らるへきものにあらねは、先、日雇会社を結はしむ、其法会社を数ケ所に建て、窮民若干人つゝを貸し与へ、或は人力車を挽かせ或は草を苅り堀を鑿つ等の役に使ふ、此等皆な社長の意に任せ雇銭を以て窮民を養ひ其余は会社の贏利になすへし、然とも徒に罪人を役使すると同様ならしむへからす、会社建築の入費は前条の如く姑く貸も可なり
  第三
 工人雇役等に使ふへからさる癈疾老幼あるへし、此等は高敞の善地を択らひ長屋を建て、病者に医薬を給し、幼者は師を延て是を教へしむへし、此輩は所謂天下の窮民にして告るなきものなれは、都下の財を捐て養ふも理の当然たるへし
  右之通評議仕候以上
    壬申十月                会議所
府庁は右の建策を嘉納し、以てこれが施設を慫慂する所あつた。
 十月偶々露国皇子(按ずるに、この皇子とはアレクセイ大公と云ひ
 - 第24巻 p.10 -ページ画像 
アレクサンドル二世(一八五五―一八八一)の第三皇子、アレクサンドル三世(一八八一―一八九四)の二番目の弟ならん。長弟ウラヂーミルは陸軍の重鎮となり、アレクセイは後海軍の大提督となつたが、日本海に於ける敗戦その他品行関係にて不評を招き、辞職して仏国に逃げ行きたる人であろう。)来朝期近きに迫り、この際府下に乞食物貰体の俳徊する不体裁を取締る必要生じ、その処置方につき、府庁より会議所へ達しあり、会議所は十月十三日、これが処置につき左の通り建議した。
 府下乞食徒逐日増加何分難捨置、殊に魯国の親王来朝期近きに迫り至急処分の儀相議候様達しに付、即ち三野村利左衛門・斎藤純蔵・田畑謙蔵・西村勝三等府庁へ向つて其所置(非人取集方)を申述す曰く、差向き駆集したる乞食徒をは本郷旧加州邸隙宇に移し、長谷部善七をして其事に従事せしめ、然後浅草溜(溜とは旧幕の時病囚の為に設けた監獄なり、善七之れに従事す猶初の如し)へ移らしめんと議する所あつた。
府庁はこの建議を可として、同日左の布告を各区に達したのである。
 一、近来乞食物貰体之者往々府下に俳徊候趣相聞、此儘差置候ては取締筋も不相立候に付、処分左之通相達候事
 一、来る十七日限り各区精細取調へ、管内管外之無別総て取押へ、一先召連れ本郷元金沢邸跡御用地へ可差出事
    但、管内之者は追て復籍申付候に付、管外之者は放逐可為致候条、其旨可相心得事
 一、郷村之分は総て村役人に於て前条之通屹度取計可申事
 一、邏卒にて取押候分も町役人へ引渡候筈に付、受取候上は前書御用地へ可差出事
 一、右御用地へ差置き中は日々相当の業体相仕向使役候儀と相可心得候事
    壬申十月十五日     東京府知事 大久保一翁
斯の如く当局は広く窮民救済の方策を講じつゝある際、露国皇子来朝期迫りたれば、先づ以て乞食物貰の市中に俳徊する不体裁を取締る必要より、これを一ケ所に収容する議を生じ、いよいよこれを遂行せるもの、即ち養育院の濫觴を為したのである。
    第四節 養育院の創立
 養育院を創設するに至れる当時の状況は、叙上の如くなるが、更にその前後の経過を見るに、十月十三日東京府の川上大属、会議所へ出頭し、府内の窮民及乞食等漸次増加したるにより、最早これを放任し難きに至れるを以て、至急その処置方を協議する所あり、翌十四日、府より会議所の三野村利左衛門を呼出し、窮民及乞食取纏方、その留置場所並手当等の協議ありしを以て、氏は不取敢出頭の上本郷元加州邸跡明長家へ取纏むる所存なる旨を陳じ、十五日右明長家検査の為め府より掛り川上大属、会議所より阿部潤平・野村計三・高尾駿平・戸長頭村松為渓等出頭し、又窮民及乞食取纏め方手続に関し囚獄司より松村出頭あり、川上大属と種々打合せたる結果、先づ以て車善七(長谷部と云ひ非人頭としてその取扱に従ひ浅草溜に居住)へ取扱方を協
 - 第24巻 p.11 -ページ画像 
議することゝ決し、一同は浅草溜へ出頭の上、協議を重ね食事万端をも請負はしむるに決議し、同日より右明長家へ府内の窮民及乞食約二百四十人を収容した。この窮民及乞食収容事務開始の十五日は、即ち養育院創立の日である。
 斯く元加州邸跡の明長家へ窮民及乞食等を収容せるは、一時の応急手段に過ぎざりしを以て、同十九日に至りこれを浅草溜へ引渡しを了し、右の明長家は単にその事務取扱所に止めたのである。 ○下略


養育院六十年史 東京市養育院編 第四七―五三頁 昭和八年三月刊(DK240001k-0005)
第24巻 p.11-13 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第四七―五三頁 昭和八年三月刊
 ○第一章 養育院の起源
    第五節 永久救貧策の議
 府当局並会議所は、窮民救済を以て一時的に止むる趣旨に非りしことは、町会所及救育所を廃止せる当時の諮詢及答申に徴して既に明白なるが、大久保東京府知事は十月十日付書面を以て、永久の救貧方法につき会議所に向ひ諮詢する所あり、会議所亦これに答申せる文書によりて更に明かなるものがある。
 近時は米価も平均の方、加之公私建築営繕数多自然下々及潤沢候節に付、従来窮民救助手当は断然相止め、其費並地代残籾利金等を以て何方へか工作所相設候方救助之趣旨も永存為国可然、各右金取扱の訳も後世へ可相残、両全と存候、此段可申聞候也
  但し即今の道路橋梁に用るは是迄の通り
   壬申十月十日                一翁
     会議所衆中
 即ち窮民救助手当を廃止し、永久策として工作場設立の議提唱あり依て会議所はこれに対し、左の通り答申した。
 窮民救助の為工作場を開き工業を起し永久生産を立可申様御書下の趣奉拝承候、至極の御良法と奉存候、然と雖右を官府にて御設有之候ては入費不少、又会議所にて取扱候訳にも難相成候、依て都下有志の者を募り夫々見込為差出篤と審問の上資本金を貸候か又は右に付出願の筋有之候はゝ時宜に随ひ御用済相成可申かと奉存候
  壬申十月                  会議所
斯くて東京府より左の布告を為すに至つた。
 一、窮民救済の儀は仁恤の筋には候得共、徒らに口腹をのみ養せ候ては却て其身を懶惰放肆になし終身の為に不相成候、依て工作場を開き外国器械其外便利の方法相立諸日用品物製造候はゝ、窮民共自然工業に習ひ永世公私の大益と相成可申候、依て有志の者右製造方見込有之候はゝ其方法、並財本何程、工人何百人資給可申儀を取調会議所へ可差出候、財本不足に候はゝ衆議の上一廉の引立方可有之候間、早々可申出候事
 一、窮民救済の為に工作場・日雇会社等取建の儀、会議所より申立の趣も有之聞届置候条、右取立に付方法見込有之候はゝ同所へ可申出候事
   壬申十月         東京府知事 大久保一翁
会議所も亦左の文面を印刷して各区へ通達した。
 - 第24巻 p.12 -ページ画像 
 一、窮民乞食一時扶助を得候ても終身の産業無之ては取続難相成に付、今般府庁伺済相成都下有志の者は工作場取立、外国器械其外便利の方法を以右窮民共を工役に用ひ、終に常産を得候方略有之候はゝ可被申出候、且亦右窮民共の内にて工業に望み無之者は、日雇として人に為雇衣食を供し候様為致度、依之日雇会社を取立候方法右両様共取調、会議所へ可申出候、右工作場並人足入置候場所等に付入費不足の分は、衆議の上一廉の引立方可有之候事
   壬申十月                 会議所
府知事は去る十月十七日限り乞食等を処分せるが、尚ほ注意を促す為め、十月二十六日付を以て左の通り各区戸長へ通達した。
                        各区戸長へ
 従来乞食等へ米銭を与ふるは畢竟姑息の情より出候事にて、其実は一時飢餒を免れしむるのみ、却て其者を放逸に至らしむるに付米銭を与へ候儀は一切不相成、尤右体の者去る十七日限り処分申付候に付ては向後俳徊候儀者無之筈に候得共、自然他より潜入し候者有之夜中庇下へ差置又は米銭等差遣し候者有之候はゝ見当り次第邏卒にて差押、施し候当人へ二銭つゝ過料可申付候条此旨兼て可相心得事
  但し寄方無き癈疾不具の者は会議所に於て夫々救助の筋可取立候間、愛憐の志より右費用に充度者は、寡多の別なく同所へ差出候儀自由たるへき事
 右之趣市在区々不洩様可相達事
  明治五年十月二十六日    東京府知事 大久保一翁
同年十月二十八日に至り、会議所は、左の伺を府知事に提出した。
 一、乞食徒当地出生にて身寄有之候ものは、身寄の者呼出し相違無之候はゝ復籍可為致哉
 一、復籍致候共、身寄の者窮民にて引取救助難行届難渋の旨申立候はゝ、入籍為致置、改工作場入りを願出候様可申談哉
 一、他国出生のものは其県へ御引渡可相成事に候哉
 右伺申上候也
  壬申十月二十八日              会議所
府はこの伺の趣を認めたるを以て、会議所は遂に日雇会社建設の議を提唱したのである。
 都下乞食の徒甚多有之、復籍の儀度々被仰出候得共今以相絶不申候右を放逐致候は可憐儀に候間、尚又食を以て養ひ候は無益の至に候間、日雇会社を申談、都下有志のものに為取結、日々雇役に取用、右雇賃を以て自分自養為致候儀可然奉存候
これに付、府より各区戸長へ向け左の通り布達した。
 窮民救済の為め工作場・日雇会社等取建の儀、会議所より申立の趣も有之聞届置候条、右取立に付方法見込有之ものは同所へ可申出事
  右の趣区々無洩可触知もの也
   壬申十一月        東京府知事 大久保一翁
斯くて救助の計画は着々進行せしが、先づ以て急を要する養育院建設の為め、該敷地の選定に入つた。
    第六節 養育院敷地の選定
 - 第24巻 p.13 -ページ画像 
 明治五年十月十五日より開始せる窮民乞食の収容は臨機の処置に属し、去九月会議所より提出したる救助法三策の内、癈疾及鰥寡孤独を救助するは、養育院の趣旨なるを以て、十一月四日これが常住施設として適当の敷地を選定すべき上申に対し、府庁より候補地として左の通り通牒された。
 一、駒込 元水戸邸開墾主私有、六万三千八百四拾三坪、長屋 弐間に弐拾間程
 一、巣鴨 田辺県上邸、凡そ弐千五百坪、建坪 百五坪八合三夕三才程
 一、麻布 鷺之森 新見県上邸、凡そ弐千五百坪、建坪 四十五坪五合程
 一、平尾 金沢県上邸、凡そ八万坪、建家無之
 一、白山御殿跡
右評議の結果、現今の情況にて、これ等広大の地を要せざるべく、上野護国院地所に建物あれば先づこれを購入し、その不足を修補してこれを養育院と致度旨を上申し、他方護国院にこれを交渉せるに、五日同院の地所並建物は、会議所にて買受差支なしとて、左の書面を差出された。
 一、総建坪 百六十七坪
    此代金八百三十五両也 但壱坪に付金五両割
 右代金見積前書之通り御座候也
  壬申十一月五日
               東叡山寛永寺衆徒 護国院
 これにより翌六日、府庁掛員並に会議所委員等、護国院に出頭視察せる結果、七日養育院地所として可然との允裁を得、府庁及会議所より更めて同所を検査し、養育院境界五千八百六十九坪の四隅に地杭を建て玆に引渡を了し、同月十七日に至り護国院廃屋購求の代金として五百円を支払ひ、翌十八日、会議所議員中より養育院掛りを左の通り定めた。
          榎本六兵衛  名代 阿部潤平
          田畑謙蔵   同  野口吉兵衛
          藤田東四郎  同  岡田宇右衛門
          岡田平馬   同  来留原兼蔵
          西村勝三   同  野村計三
○下略


養育院六十年史 東京市養育院編 第六〇―七一頁 昭和八年三月刊(DK240001k-0006)
第24巻 p.13-18 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第六〇―七一頁 昭和八年三月刊
 ○第二章 会議所経営時代
    第一節 浅草より上野へ
 府内を徘徊する乞食等を集めて浅草溜に預けたるは一時の応急処置にして、収容者中の身元判明せるものは、戸籍掛より夫々身寄のものへ引渡し、又健康にして力役に適するものは日雇会社に遣はし、人足として労働せしめた。明治五年(西暦一八七二)十一月末、人足五十人の食料九十日分百五拾円を払ひ、又六年一月八日百人、十日七十八
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人を該会社に引渡したる等の記録により、当時の措置を察せられる。これより先き上野護国院内に起工せる新規病室の建築も竣工期漸く近けるを以て、これが移転準備を行つた。当時会議所の養育院掛は、行岡庄兵衛・西村勝三・杉村甚兵衛の三名なりしが、六年一月改暦と共に、高崎長右衛門(名代武村哲馬)・後藤庄吉郎の二名を増し、一月八日の会議始めに、一同は会議所へ出頭し、先づ左の通り院長(課長)の任命を見た。
        記
      月給金弐拾円        飯田直之丞
  右養育院々長申付候間諸事不取締無之様実精可相勤候也
   酉一月八日                会議所
 単にこれを名義上より見れば、初代の院長なるが如きも、事実は養育院の課長(本章末尾参照)にて養育院掛の外、この常務一名と小使三名とを置いたのである。一方浅草溜に預置ける間の収養者の食費その他は、預主たる長谷部善七の要求に応じて会議所より支払ひしが、愈々新築落成して上野に移転すれば、院内に於て食事を供するの要あり、依て一月二十三日、賄方を赤井善蔵へ交渉したるに、提出されたる見積書は左の通りであつた。
    御請書之事
 養育院窮民御賄方私へ被仰付候に付ては救養の御仁恤奉拝伏、別紙積書の通り食料は不及申、老幼病者の手当向等信実を尽し働人足共都て不精義無之様取締可仕候、為其御請書依如件
  明治六年酉年一月
         第一大区六小区錦町一番地 赤井善蔵
    三食賄積書(括孤内は朱書換算)

    粥
    煮味噌
  朝           代銀壱分《(金壱厘六毛六糸六忽)》
    梅干
    香の物沢庵     代銀七厘《(金壱厘壱毛六糸六忽)》
    飯
    菜
  昼  の内一種     代銀五分《(金八厘三毛三糸三忽)》
    汁
    香の物       代銀七厘《(金壱厘壱毛六糸六忽)》
    但、隔日汁に致し候はゝ二分五厘《(四厘壱毛六糸)》つゝ過銀《(金)》に相成候間、病者保養の為め一ケ月一度此過銀《(金)》を以牛肉を相用可申事
    飯
  夕 寒気の節は雑炊見計
    香の物       代銀壱分《(金壱厘六毛六糸六忽)》
              無菜に付余分に致す

 一、右三食一日一人白米四合の割
    代銀壱匁四厘三毛《(金壱銭七厘三毛八糸三忽)》  両に弐斗三升替《(壱円に付)》
     但 二升五合高下御入用増減奉願候
 一、味噌は金壱円に付拾貫目より拾壱貫目積り
     但 一日壱人に付目方拾五匁積り
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 一、菜の物は煮染塩干肴の内相用候事
 一、沢庵壱樽参拾五匁位《(金五十八銭三厘)》より四拾五匁迄大小平均壱本五食《(金七十五銭)》に割壱人に当る
 一、三食薪代 一日銀拾七匁五分《(金二十九銭二厘)》 日割二百人一日壱人銀八厘八毛に当る《(金壱厘四毛六糸六忽)》
 一、働人足給金割
   釜屋壱人 飯焚の事              金参円也
   菜汁方壱人                  金弐円也
   米トギ香の物掛り壱人             金弐円也
   水汲水風呂掃除薬煎方炭油取扱候者四人 金壱円五拾銭つゝ
   長役惣世話役壱人               金五円也
     〆八人 此月給〆金拾八円也  此一日分卅六匁《(金六十銭)》  二百人に割壱人分壱分八厘《(金三厘)》
 掛行灯拾五ケ所           夜八時有明見計半減にす平均壱ケ所三夕積り
  一夜分代銀参匁弐分《(金弐拾弐銭)》 二百人に割壱人分銀六厘六毛《(金壱厘壱毛)》
    但壱升に付四貫四百文替《(金四拾四銭)》
  風呂焚薪入用一日分         但焚人足は掃除人より兼勤の事
   代銀弐拾匁《(金参拾参銭参厘)》  弐百人に割壱人分銀壱分《(金壱厘六毛六糸六忽)》
 右者人員弐百人を目途に算当仕候処当時見積より人数相減、且現積に付壱人に付銀参分増《(金五厘)》
   一日一人に付銀二匁六分壱厘七毛《(金四銭三厘六毛壱糸)》
    但人員相増候節は減方勘弁可仕候
 右之通相違無御座候以上
  明治六年一月              赤井善蔵
賄方は右の如く決定したるが、収容者中には病者あるを以て、予て照会中の医師村上正名に二月三日出頭を命じた。
                本所相生町二丁目
                  町医師 村上正名
 右者当今給料等取極候場合にも至り兼可申哉に付、窮民引移後病者診察配剤相頼、薬代売貼の定価を以自身並塾中毎日或は隔日等に見廻り候様致度、篤と当人へ引合可申事(会議所記録)
斯くて同医師を招じたが、爾来養育院医師として永く尽している。若し収容者中、病者多しとすれば上野新舎へ移転間もなく或は死亡者なきを保せず、これが措置方を講ぜずば差支ふべしとて、賄方赤井善蔵へ相談せるに、同人は「従来寄子等死去の節、菩提寺として石碑建立しある谷中七軒町日蓮宗大雄寺へ送り、一人に付回向料その外一式銀弐分位差遣はし由」申出で、同寺は養育院の近傍に付、これを善蔵方へ相任せ可然との議起り、埋葬の儀は暫時斯く定め、後来は近傍へ設置すべき旨を議決し、二月三日愈々窮民移転に付、左の覚書を評議に附した。
 一、窮民引移に付左の覚書評議に廻す
   惣人数百弐拾六人     当時溜預け窮民
    但男女子供共
     内
      弐拾参人      病者  重体
 - 第24巻 p.16 -ページ画像 
      六拾参人程     病者  軽病
      四拾人程          壮健
    但軽病のものは人力車にて引取、重病のものはアンダ(註、箯輿)にて引取、尤長谷部方にて拾挺程有之候得とも囚獄司御預り品に付、同司へ願の上取用候積り、願方は善七より申立る積り
 一、引取前々日善七方へ相達し軽病壮健の者は散髪可致候事
 一、右前々日相達壮健のもの入湯致させ、軽病のものは身内をぬぐひ見苦敷無之様手当可致候事
 一、アンダ舁人足は日雇会社より召連候事
 一、アンダ拾挺程有之由に付時宜に寄釣台拾荷も相雇可申か
 一、千束村地内人力車通行の儀は村役人へ善七より引合可申積り
 一、アンダの儀囚獄司へ申立候処差支無之旨
 一、当日長谷部善七方より引移の節女の分を先へ為引移、夫より壮健のもの病者とも差送り候はゝ便利可然
 一、病者手当人力車の儀数挺に付手心致置可申事賄方へ申付候もの
 一、浅草紙拾五貫程買入壱人壱帳つゝ相渡可申事
 一、壮健のものは途中藁草履為相用候事
 一、引移方延刻可致候間惣人数半減分弁当用意賄方へ申付度候事
   但 竹の皮包 むすび 香のもの
 一、養育院賄は右引移の日を初日に相立可申事
斯くして移転の準備は略ぼ整ひ、上野の新築病室も愈々落成を告げたるを以て二月四日に至り浅草溜より上野へ移転した、予て移転準備の協議中とは多少異なり、箯輿よりも人力車が多く利用せられてゐる。
 一、重病のものは釣台(是は鶴間より人足共差出す)軽病のものは人力車にて相送る
 一、御仕着せ衣類請負人遠州屋平八より積廻し候事
   但し夜の物は養育院より相廻す
 一、右差送候節日雇会社鶴間由次郎、福重喜平次頼に付罷出並世話役のもの召連候に付、夫々途中付添養育院へ罷越候事
 一、人力車数挺に付右渡世重立候早川助次郎外拾壱人附
 一、善七方伍長惣長の内途中取締のため為附添候事
 一、午後二時溜引払に付潤平外三人養育院より相廻候事
 一、午前同刻養育院へ野村計三・院長飯田直之丞相詰罷在候間打合諸事手配致す
 一、右人員の内壮健弁利相成候もの差向六人相撰、病者世話方申付候事
 一、惣人員へ兼て仕立置候蒲団壱組つゝ相渡す
   但銘々木札へ名前相印細引を以〆縊候様為致候事
 一、枕の儀兼て木枕買上の積候得共、同品払底且病者も有之候間、クヽリ付箱枕買上相渡候事
 一、午後九時用済に付夜番並火の元等厚く心付候様賄赤井方其外一同へ申付引取候事
斯くて上野の新築へ移転を了し、翌二月五日左の通り東京府へ上申し
 - 第24巻 p.17 -ページ画像 
た。
 昨四日養育院落成に付兼て長谷部善七方へ相預け置候窮民同院へ引移申候
  惣人員百拾四人
 右者男女内訳壮健のもの軽重病者並惣体名籍の儀は至急取調不日詳細可申上候得共、先此段御届申上候也
  酉二月五日                 会議所
    御掛御中
当時浅草溜預けの窮民は百二十六人なりしが、内十二人の重病者は動かし難く、その儘預け置きたる為め、百十四人となつたのである。
    第二節 移転直後の措置
 移転直後に於て種々の措置が行はれた。二月六日先づ小形の「養育院」及大形の「東京府養育院」なる二種の印章を刻し、府庁へ上申してこれを使用することゝした。同日村上医師始めて出頭、飯田院長並久留原兼蔵立会の上、先づ病者を点検せる結果、村上医師より薬品は凡弐拾品入用の趣申出あり、任意買入ることゝした。こゝに於て会議所は、尚ほ府内に散在する窮民乞食等の措置に付、東京府に対し左の通り上申した。
 窮民乞児の儀に付ては先般御布告有之、会議所におゐて右の内壮健のものは日雇会社へ入候て為働、病者は養育院へ入れ療養相加候間此上窮民乞児等有之候はゝ右の通取計申候筈に御座候、然る処近来追々乞児相見申候、右は全く邏卒等の見落にも可有之哉、何卒精々御取調相成、籍有之者は帰籍為致度、其余前文の通に取計申度此段申上候也
  明治六年二月八日              会議所
    御掛御中
これにより府知事は、各区戸長に対し、左の通り通達された。
                      区々戸長
 乞食処分の儀に付ては去壬申十月中相達置候次第も有之候処、即今所々社寺地其外等へ乞食体のもの排徊致候趣相聞候間、兼て相達候通り尽く取押へ会議所へ引渡方取計可申事
  酉二月九日         東京府知事 大久保一翁
(朱書)
 右布達へ本府常務掛より添書附来る
 乞食処分の儀別紙の通り区々戸長へ御達相成、警保寮へも通達方相成候間、兼て相達置候通戸籍掛へ可申立候也
  酉二月九日                 常務掛
    会議所
既に収容者の移転を了して、府内乞食等の一掃を期する所あり、こゝに陣容を新たにする為め、養育院掛西村勝三は、有志に対し資金募集の儀を提出し、左の回章を発した。
 鰥寡孤独癈疾のものは天下の告る無きものにして最憫むへきものなり、こたひ衆議して養育院を建てそれ等の輩を育ひ、その費皆全部預備の内より出たり、然れとも余あるを以て足らさるを補ひ智ある
 - 第24巻 p.18 -ページ画像 
を以て下愚を助くるは天下の道理なれば、各相議してその資の多寡を問はす各幾金を出して院中の資とすへし、志あらん人々はその数その名を記させたまへと申す
右に付、忽ちにして左の通り壱千弐拾五円の寄附があつた。
                    三野村利左衛門
                    斎藤純蔵
              金五百円
                    行岡庄兵衛
                    田畑謙蔵
              金五拾円  西村勝三
              同     岡田平馬
              同     榎本六兵衛
              同     藤田東四郎
              同     林留右衛門
              金弐拾五円 鹿嶋清兵衛
              同     鹿嶋利右衛門
              同     倉教我
              同     鹿嶋清左衛門
              同     蔵田清左衛門
              同     奥三郎兵衛
              同     高崎長右衛門
              同     堀越角次郎
              同     杉村甚兵衛
              同     後藤庄吉郎
              同     三谷斧三郎
               計金壱千弐拾五円
右の各位は当時屈指の実業家にして、この醵金は院創業当初の寄附金であつた。 ○下略


会議所伺 第二号 明治自六年至七年(DK240001k-0007)
第24巻 p.18-19 ページ画像

会議所伺  第二号 明治自六年至七年     (東京府文庫所蔵)
当所之儀ハ旧町会府ヨリ引継キ営繕会議所ト相称シ候処、申九月廿七日頭取共ヨリ存寄上申候処同十月各区戸長江営繕会議取共《(所頭脱)》ヨリ申立之義モ有之候間、以来溝渠浚方道路橋梁水道等之修繕ハ本府営繕掛引受出金之儀ハ是迄通リ為取扱候ニ付、同所ハ自今会議所ト被改候条、市井之義ハ勿論諸事心附候義同所エ可申立趣御布告相成、同月晦日会議所エモ自今諸事見込申出候モノ有之候ヘハ厚ク協議ヲ遂ケ可申旨、更以御書附被仰達候ヨリ以来ノ沿革当時ノ景況大凡左ノ通リニ御座候
○中略
一壬申十月魯国皇子来朝ノ節市街ニ俳徊スル乞丐者ヲ駆集メ、一時救恤セシヨリ更ニ養育院ヲ設立ス是ハ町会所ヨリ引送リノ地上リ金ヲ以テ此費用ニ充ツ
一右窮民一時之救済迄ニテ、終身之生活相立候様世話不致候テハ詰リ懶惰ニ陥リ候ニ付、幼弱ノ者ハ相応ノ職業ヲ学バセ、壮健ノ者ハ夫夫力役ニ就シム
○中略
 右之通リニ御座候 以上
 - 第24巻 p.19 -ページ画像 
  明治八年第三月               会議所


東京商工会沿革始末 同会残務整理委員編 第三―一二頁 明治二五年五月刊(DK240001k-0008)
第24巻 p.19 ページ画像

東京商工会沿革始末 同会残務整理委員編  第三―一二頁 明治二五年五月刊
    ○東京会議所
同年 ○明治五年十月露西亜国皇子来朝ノ事アリ、此期ニ先チ東京府知事ハ此国賓ヲ歓迎スルニ際シ府下ニ数万ノ乞丐ヲ徘徊セシムルハ東京ノ美観ニ非ザルヲ以テ、彼共有金ヲ以テ之ガ処理ヲ為サシメント欲シ、又営繕会議所ノ委員全体ハ、此共有金ヲ将テ専ラ道路橋梁ノ一分ニノミ支弁シ他ノ公益事業ヲ顧ミザルハ市民ノ志ニ非ザルヲ以テ、更ニ其歩ヲ進メ、府下一般ノ為ニ公議スルノ場トナシ以テ漸次東京府民会ノ階梯タラシメント冀ヒ、即チ同年九月廿七日ヲ以テ会議規則ヲ議定シ之ヲ府庁ニ稟請シタルニ、府庁ハ速ニ其稟請ヲ聴納シ且ツ垂示スルニ議事ノ条目ヲ以テシタリ」是ニ依テ此時ヨリシテ改メテ東京会議所ト更称シ、頭取並係員ヲ選挙シ一方ニ於テハ行務ヲ掌トリ一方ニ於テハ議事ヲ為スノ体裁ヲナセリ」東京府庁ハ同年十月十四日ヲ以テ会議所ヲシテ乞丐ノ処置ヲ議セシム、此乞丐ハ既ニ府庁ガ駆集メタル所ナレバ事頗ル急施ヲ要スルニ付キ、先ツ本郷旧加州邸ノ空牢ニ入レ、尋デ浅草溜溜ハ暮府ノ時牢檻ニ属シタルモノニシテ、蓋シ病囚多ク此ニ置レタリト云フニ移シ、翌年二月上野ニ養育院ヲ仮設シテ此ニ移シ、都テ共有金ヲ以テ其費ニ充テタリキ是今ノ東京養育院ノ濫觴ナリ
○中略
斯クノ如ク東京会議所ハ道路橋梁修繕事務ノ外ニ養育院事務・共同墓地事務・瓦斯灯事務・商法講習所事務ヲ管理処弁シタルニ付キ、委員ハ皆其事務ノ煩擾ニシテ整理完全セザルヲ憂ヒ、且共有金原資ノ漸次減少シテ余分ナキニ至ルヲ憂ヒ、府知事ニ推薦スルニ府下有志者才幹アル者某々等ヲ委員ニ依嘱セラレン事ヲ以テシタルニ、府知事ハ其推薦ヲ納レ、明治七年十一月ヲ以テ渋沢栄一等ニ共有金取締ノ事ヲ嘱托シ、其後翌明治八年四月ヲ以テ此諸氏ヲ会議所ノ委員ニ任シタリキ」
○下略


会議所伺 第二号 明治自六年至七年(DK240001k-0009)
第24巻 p.19-20 ページ画像

会議所伺  第二号 明治自六年至七年     (東京府文庫所蔵)
知事             
参事        庶務課
奏任出仕           
会議所惣代西村勝蔵外壱名《(西村勝三)》ヨリ別紙之通願出候儀、御差支モ有之間敷と被存、御聞届相成可然哉、相伺候也
達し案
割印書面願之通聞届候事
              
(別紙)
                    渋沢栄一
当今人望有之者両三名当所ヘ出頭為致度候処、差向キ右ハ下情ニ通シ有名之人物ニモ有之候間、出頭相頼申度衆議一定仕候ニ付、御沙汰被仰付度奉願候也
  明治七年第十月         会議所掛総代
 - 第24巻 p.20 -ページ画像 
                    西村勝三
                    田畑謙蔵
    東京府知事 大久保一翁殿


会議所掛リ人員各名録調 明治八年九月(DK240001k-0010)
第24巻 p.20-21 ページ画像

会議所掛リ人員各名録調 明治八年九月  (渋沢子爵家所蔵)
    当所各名記
                取締
                   渋沢栄一
                頭取
                   三野村利左衛門
                   向井市良兵衛
                   〆人員弐名
                掛
                   片山喜八
                   鹿島清左衛門
                   鹿島利右衛門
                   倉教我
                   岡田平馬
                   西村勝三
                   林留右衛門
                   蔵田清右衛門
                   奥三良兵衛
                   高崎長右衛門
                   杉村甚兵衛
                   後藤庄吉郎
                   大倉喜八郎
                   吉川長兵衛
                   〆掛人員拾四名
                臨時出頭
                   鹿島清兵衛
                   橋本六兵衛
                   堀越角次郎
                   村松為渓
                   片岡宗容
                   〆人員五名
                書記総長
                庶務取扱
                   増田充績
          分課
                   庶務掛三名
                   地所掛四名
                   同入札払掛三名
                   会計掛弐名
                   養育院掛五名
 - 第24巻 p.21 -ページ画像 
○中略
    明細録
○中略


図表を画像で表示明細録

 金拾円月給 金拾五円月給 金拾弐円月給 金廿円月給 金廿円月給 金廿三円月給 [img図]〓壱人ニ付日当金五拾銭宛 但当番弐人宛江 養育院 第六大区四小区深川八名川町 養育院構内 第五大区弐小区西三町六拾壱番地寄留 第弐大区壱区内幸町壱丁目壱番地 同 養育院構内 第四大区六小区池ノ端茅町弐丁目 第壱大区六小区本材木町壱丁目拾六番地 第十大区壱小区下谷金杉村安楽寺横町弐百三十六番地 第三大区弐小区麹町四丁目拾八番地 第壱大区七小区南大工町拾壱番地 第五大区三小区佐久間町四丁目五番地 第壱大区六小区本材木町弐丁目四番地 第壱大区拾四小区新葭町三番地 第三大区弐小区麹町四丁目拾八番地 前ニ記載兼務 瓦斯・修路・墓地・地所 小原権三郎 書記補 大西栄之助 書記 福島隆 同手代リ 竹井自清 力役場取締副院長 神保尹保 副院長 飯田直之丞 院長 辻喜平 吉川代 長屋玄次郎 奥代 中村寿政 林代 篠崎茂兵衛 倉代 西村玄堂 西村代 吉川長兵衛 奥三郎兵衛 林留右衛門 倉教我 西村勝三 


○下略


会議所伺 第四号 自明治九年至明治一〇年(DK240001k-0011)
第24巻 p.21-22 ページ画像

会議所伺  第四号 自明治九年至明治一〇年   (東京府文庫所蔵)
東京会議所沿革一覧
○上略
    養育院
一寛政年間幕府老中松平越中守定信江戸市中冗費ノ夥多ナルヲ察シ、撿ミルニ元年ヨリ三年ニ迄ルノ町費ノ平均ヲ以テシ、若シ痛ク之ヲ減省セハ三年ニシテ四万円金ヲ剰スヘキノ算計ヲ得タリ、因テ命ス今得ル所ノ剰額ハ理応ニ地主ニ還付スヘシト雖トモ、将来ノ臨時ノ費用ヲ支ユヘキノ策ナキヲ奈何セン、此ニ於テ宜ク其一分ハ諸レヲ町内ニ積ミ以テ非常ノ用ニ供スヘク、其二分ハ地主ニ還付シ、其七分ハ諸レヲ町会所ニ蓄積シ以テ予メ凶荒災異ヲ救フヘキノ資ニ備ユヘシ、其後官又一万円金ヲ賜フ、則併テ町会所ニ積ム、世人呼テ七分金ト云フ者即チ是ナリ
  此十行恐クハ《(附箋)》会議所起立ニ可記ヲ誤テ玆ニ載スルニアラサルカ《(秋山)》
一明治三年十二月官従前ノ蓄積方法ヲ止メシム、此際猶金円ノ存スル者アリ、因テ其従前管理スル所ノ賑恤救済ノ方法ヲ挙テ諸レヲ東京会議所ニ致シ、会議所ノ管理スル所ト為、伝テ今日ニ至ルヲ得ル者実ニ是越中守定信創意ノ町会所蓄積金ノ由テ資本ト作ルニ出テタル所ナリ
   養育院《(附箋)》ノ起立ハ原魯西亜皇子ノ来朝ニアタリ正院ノ内諭ニヨリ怱卒取設ケタル也、是ヲ頭首ニ不説カハ実事ヲ欠キ次条ニ抵触スヘシ 《(秋山)》
 - 第24巻 p.22 -ページ画像 
一五年九月府庁、会議所ニ乞食非人ヲ救済スヘキ方法ヲ諮問ス、会議所ハ衆議ヲ以テ其三策ヲ献ス、一ニ曰ク工場ヲ開ク、二ニ曰ク日雇会社ヲ設ク、三ニ曰ク老幼廃疾窮民ヲ救育ス、言皆嘉納セラル、十月十四日府庁、会議所ヲシテ官駆集スル所ノ乞丐ノ処置ヲ議セシム事甚タ急ナリ、乃チ目下本郷旧加州邸ノ隙牢ニ移シ長谷部善七ヲシテ事ニ従ハシメン事ヲ議定シ、其翌日焉ニ移ス、十九日更ニ浅草溜ニ移ス(溜ハ幕府ノ時牢檻ノ属タル者蓋病囚多ク焉ニ繋ルヽト云)善七ノ焉ニ従事スル猶初ノ如シ、十一月十八日上野護国院ノ建物ヲ購ヒ、営繕修築ヲ施シ窮民ノ養育所ニ充テントス
   前条附箋《(附箋)》ノ通ニ付於府庁ニハ整頓セン事ヲ欲シテ下問スル処モアリ、旁以三策ヲ献シタルモノナレハ、其意ヲ文中ニ不掲ケハ実事ヲ欠ク也 《(秋山)》
一六年二月五日養育院落成ス、此日窮民男女百四十人ヲ浅草溜ヨリ焉ニ移ス、爾来養育訓導ヲ腆クシ、加ルニ薬室ヲ設ケテ医師ヲ置キ、以テ能ク病者ヲ治療ス七年十一月本院ニ医員ヲ倩フ、而シテ府下病院附属ノ員ニ準スルモノ蓋府庁ノ命ニ依ル所ナリ、其給料ノ如キハ固ヨリ本院之ヲ支給ス ○八年一月十日曩ニ所倩ノ医員更ニ府下病院ノ本属ト為リ、其給料ノ如キモ病院ノ支給ニ属シ以テ当院ニ附属タラシム
 漉紙場ヲ設ケ、府庁下与スル所並本院購求スル所ノ古紙ヲ用ヒ、其男女婦女ヲシテ抄紙ノ業ヲ執ラシム、又幸橋内ニ力役場ヲ設ケ強壮ノ者ヲシテ道路ノ修繕ニ力役セシメ、其賃銭ノ幾分ヲ蓄積シ他日離院ノ際其独立活計ノ資有ラシメントス、又老幼婦女ノ如キハ其其力ニ応シ業ヲ授ケ、或ハ他ノ婢僕トナリ其賃ヲ求メシメ、或ハ工作ノ家ニ就キ以テ其業ヲ習ハシメ、他日各自生活ノ道ヲ保タシメン事ヲ要シタリ ○下略


事務撮要 自明治五年至明治八年(DK240001k-0012)
第24巻 p.22-25 ページ画像

事務撮要  自明治五年至明治八年      (東京市養育院所蔵)
戌八月近来諸方ヨリ該院建設ノ原因ヲ尋ル者アリ、其需メニ応シ此ヲ刷印スル者也
    東京養育院建設概略
都下窮民賑救ノ事ハ幕府ノ時初メハ府庫ノ穀ヲ出シテ急ヲ救ヒシカ、松平越中守定信老中タリシ寛政年中政務ヲ改革シ、専ラ倹素ヲ尚ヒ華奢ヲ戒メシ時、市中ノ冗費夥シキヲ察シ市尹ニ命シ元年ヨリ三年迄ノ市中ノ費ヲ平均シ痛ク費ヲ省シカハ、三年ノ間ニ〆四万金ヲ剰ス算計ヲ得タリ、因テ命スラク剰費ハ尽ク地主ニ与フ可キニ似タレトモサシテハ臨時ノ費ニ供ス可キ策ナキニ近シ、是ニ於テ其ノ一分ヲ其町内ニ積ミ臨時ノ備トシ、二分ハ地主ニ返シ与ヘ、七分ヲ以テ町会所ニ積蓄ヘ以テ恒例トス、平時ハ窮民ノ食ニ乏キ者ニ給シ、災異ノ時ハ多ク米穀ヲ出シ、或ハ仮屋ヲ造リテ粥ヲ施ス、其浩益後世ニ及ホセリ、当時官ヨリ一万金ヲ賜ヒ又一万金ヲ賜リテ其資本トス、後世ニ大災或ハ饑歳ニ御救小屋トテ建ラレシハ悉ク其積ム所ニ出シトナリ、維新ノ後庚午歳十二月積金ヲ止ラル、然レトモ尚ホ余ス所多ケレハ旧ニ依テ賑救スル事惰ラス、癸酉二月会議所掛リ等議スラク、窮民ヲ賑救ストモ徒ラニ一時ノ窮ヲ救フテ終身ノ業ヲ与ヘサレハ、救助ノ名アツテ実ナキニ近シト、因テ東京府ニ請ヒ養育院ヲ上野ニ設ケテ大ニ窮民ヲ養ヒ、病者ハ医薬ヲ給シ、壮者ハ力役工事ヲ教ヘ、幼者ハ読書・習字ヲ導キ
 - 第24巻 p.23 -ページ画像 
救恤ノ為メ力ヲ尽サヽルコトナシ、其費ハ皆彼ノ越中守定信カ創メラレタル町会所蓄積金ヲ資本トシテ行フ所ナリ
  其目左ノ如シ
一 一家病人アリ其介抱ニ差支シ、或ハ老幼多ク飢渇ニ苦ミ、或ハ兄弟親戚ノ絶テ無キ者、或ハ孤寡婦ニシテ告ルナキ者ヲ置ク
   棄児ヲ養フ事、酉ノ十月ヨリ其区ノ費ヲ以テ育スヘキノ御布令アリ
一 病者ハ病室ニ置ク、廃疾者・瘋癲者・疾疫者・盲人等各其舎ヲ異ニシテ一々看護人ヲ附シ療養ヲ尽サシム
   瘋癲者ハ時々囲中ヨリ出シテ沐浴シ、或ハ灌水セシメ、或ハ散歩シ、其劇易ニヨリ宜ニ従フ
一 壮者ハ院中工業所ヲ建テ自産ノ資ヲ為サシム、今設クル所漉紙場アリ、洗濯裁縫場アリ、雑工業場アリ、皆得ル所ノ利益ヲ等分シテ其半ヲ積テ出院ノ時ノ資本トシ、其半ヲ本人ニ給ス
一 幼者ニハ院内学校アリ、筆算ヲ授ケ日々学ハシメ、余暇ニハ体操場ニ出タシ運動セシメ、有志ノ者ハ大人ト雖モ夜学セシム
一 十年以上ヨリ造靴場或ハ諸職工ヘ随徒《(従カ)》セシメ、或ハ雇人ニ出スモアリ
一 入院中四時ノ衣服ヲ給シ且ツ沐浴所アリ、毎日其身体ヲ清潔ニシ以テ疾病ノ患ナカラシム、病舎並熱病舎ハ寝台ヲ具メ汚穢ノ気ヲ停滞セシメス
一 薬湯ヲ設ケ日々浴セシム
一 三食ハ定価ヲ以テ受負ヲ命シ賄ハシメ、掛リ等毎時検査シテ腐敗食ヲ与フルヲ厳禁ス
一 喪室
  是ハ院中ノ窮民病死セシトキ親族等ノ来会セサル間他ノ病人ト混居ス可ラサルヲ以テ、屍体ヲ此室ニ移シ、香火ヲ供シ喪儀ヲ行ヒ然ル後墓地ニ埋葬ス
一 医局ニ具ナフル諸器機ノ如キ、不足ノ品ハ掛リノ医員、医学部医院ヨリ其時々齎レリ
   但シ医学部医員臨床講義致シ度ク旨府庁ヘ協議ノ上治療ヲ施ス
一 教会ハ毎月土曜日ヲ以テ東本願寺大小講義二名宛来院説教ヲ宣布セリ
    工業科目
一 紙漉      半紙半切表紙判漉返シ等ヲ製ス
一 洗濯      窮民ノ衣類洗濯・裁縫並病人ノ衣服ヨリ夜具等ノ汚穢ヲ洗ハシム
一 雑工業     刺物・ヒゴ引・簾編ミ・揚枝・細スキ・藁細工等ナリ
一 盲人      按摩ヲ習ハシメ、午後十二時ヲ限リ出稼ヲ免ス
一 製紙会社日雇其外公園地掃除並ニ博物館草取ニ出ス者アリ
    窮民衣食ノ概略
一 壮者工業ニ堪ル者白米五合、但シ朝夕香ノ物、昼ハ菜・味噌汁、隔日時アリテ生魚ヲ附ス
一 患者虚弱ノ者   白米四合《(太字ハ朱書)》
   但シ朝ハ粥ヲ用ユ、患者ハ皆菜ヲ附シ、其症甚キニハ適宜ノ滋
 - 第24巻 p.24 -ページ画像 
養物ヲ与ヘ、婦人乳子アル者ハ菜ヲ附シ、孤児或ハ其母乳ノ出サル者ハ院中他ノ婦人ニ手当ヲ附シテ哺乳セシム
一 七歳未満ノ者ハ右ノ半減
    同衣類
一 三河木綿々入   花色大紋附
一 同単物      同断
一 繻絆
一 犢鼻褌男    一 ユマキ女
一 手拭
    夜具
           花色四布々団 壱枚
一 三河木綿
           同二布    壱枚
 病者用
一 唐ウンサイ    藁布団    壱枚
   但布団上敷トモ白ヲ用ユ
一 蚊帳       人員ニカナハシム
   但多クハ「サイミ」 ○貲布ヲ用ユ
右衣食トモ其時々価ニ異同アリ
    需用
一 斬髪職      窮民中ヨリ撰挙ス
   但毎日適宜ニ鬚髪ヲカラシム、婦人ハ更互ニ結髪セシム
一 遣紙
    配剤
一 水薬       凡一瓶五銭程ノ品トス
一 頓服       凡三銭
一 丸散       凡四銭
右病症ニヨリ不同アリト雖、唯其概略ヲ記ス
一 牛乳       凡一日三号二銭
一 牛肉浸      同八号五銭
    出入院順序
一 府下有籍ノ窮民入院セントセハ戸長奥印ヲ以府庁ヘ出願シ、庶務本課検印ヲ受、当所是ヲ認テ入院ヲ許ルス、且ツ出院セント欲セハ親戚ニテ地所差配人調印ヲ以生計ヲ建ヘキ事ヲ概記シテ差出スヘシ、若シ其資本金アラハ其簿ニ照シテ下附スルノ例規ナリ
    施与ノ順序
一 明治六酉年三月各区仁慈ノ者ト雖モ店頭《乞丐徒に》ニテ乞丐徒施スヲ《(以下三字抹消)》禁セラル、有志ノ者ハ金物共多少ニ不限該院江直チニ施スヘキノ公布アリ、因テ施入ノ物品ハ即チ領受シ而府庁江進達ス
    委員
一 事務長           壱名
一 副長            壱名
一 掛リ            拾二名

一 医員
   但医学部ヨリ附ス
一 調合生           三名
 - 第24巻 p.25 -ページ画像 
一 同下番二名   窮民中ヨリ撰挙ス
一 教師 和洋筆算ヲ兼ヌ    壱名
   但委員ノ内ヨリ兼務ス
一 筆算世話役         二名
   但窮民中ヨリ撰挙ス
一 仲番            四名
一 小使            二名
一 門番            二名
   外窮民中ヨリ壱名ヲ附ス
一 表門番           二名
一 世話役 内壱名傭人     五名
一 同助            三名
一 看護人 内壱名傭人     廿五名
一 狂人看護人         七名
一 盲人看護人         五名
   但窮民中ヨリ撰挙ス
右之件々経費金員ノ出納ヨリ窮民資本預ケ金並施与金其他人員ノ出入役員ノ勤怠等ニ至ル迄悉皆簿記シ入出院《(以下四字抹消)》ノ明細表ヲ造リ府庁江呈ス
  明治十年十月                養育院



〔参考〕東京十五区会議事録 第一号 明治一二年一〇月(DK240001k-0013)
第24巻 p.25-26 ページ画像

東京十五区会議事録  第一号 明治一二年一〇月  (東京府文庫所蔵)
東京十五区会議事録第壱号
明治十二年十月廿四日、十五区共有財産処分会議ヲ開クヲ以テ、諸議員午後第二時ヲ期シテ東京府庁議事室ニ参集セリ
      出席議員 二十六名
      欠席     六名
      不参     一名
○中略
午後第三時開場、衆議ニヨリ府会議長十七番福地源一郎ヲ本日ノ仮議長ト定メタリ
○仮議長福地源一郎曰 衆議員ノ依頼ニヨリ仮リニ議長席ニ就キタリ此会ハ府会トハ異ナリ、十五区共有財産ノ取扱ヲ議定スルモノニシテ、乃チ十五区共有財産処分会議トモ云フヘキモノナリ、此議事ニ取掛ル前ニ本会議長ヲ選挙アルヘシ、若シ又緊要ナラハ副議長ヲモ選挙アルヘシ
○中略
於是三十番堀田正養ハ十七番ニ代リテ議長席ニ着ク、時ニ東京府知事ハ渋沢栄一ヲ従ヘ臨席アリテ、預テ配布セシ議案ノ通リ、第一ハ共有金、第二ハ恩賜金、共有金ハ嘗テ旧町会所ヨリ府庁ニ転シ、夫ヨリ営繕会議所トナリ、又東京会議所トナリ、府知事赴任ノ時ニ当リ、其建議ニヨリ理事ヲ府庁ニ引受ケタリ、此間ノ事ハ事務錯綜シテ聞取リ悪クキ事アルベク、殊ニ瓦斯ノ如キハ、番外ノ説明ノミニテハ詳カニ行届カヌ事モアルベクト知事ノ婆心ヨリ瓦斯局長渋沢氏ニ照会シ、具サニ其沿革ヲ説明スル様ニ命シタレハ、諸議員ニ於テモ篤ト聞キ取ベキ
 - 第24巻 p.26 -ページ画像 
旨演説アリ
○議長曰 唯今知事公ノ演説、又先刻仮議長モ申述ヘシ通リナレハ、渋沢氏ヲ議席ニ臨マシムベキヤ
○十八番荒木政樹曰 深ク希望スル所ナリ
於是渋沢栄一、番外二番ノ席ニ着ケリ
○番外二番渋沢栄一曰 諸君唯今知事公ノ御達シノ通リ、共有金ニ関シ瓦斯局ノ有様且ツ沿革ヲモ申述ブル様ニトノ仰セヲ蒙リタレハ、心ニ覚エタル事又留メ置キタル事ヲ集メテ玆ニ陳述スヘシ
 ○中略
 抑此共有金ノ起リハ已ニ府庁ノ報告ニ掲ケラレタル如ク、旧幕時代寛政以来江戸市中ノ地主ガ蓄積スル所ノ金額ニ係リ、所謂七歩金ト唱ヘ、当時ノ老中松平定信ガ仕法ニヨリ、市中ノ費用ヲ節減セシ高ノ七分ヲ積立タルモノニシテ、其残リガ乃チ共有金ノ原素ナリ、明治維新ノ後モ尚此法ヲ沿襲シ、町会所ヲモ存シ置キシガ、明治三年十二月ニ至リテ、官ヨリ沙汰アリテ其取立ヲ停止セリ、此停止ノ際ニ於テ幾許ノ金額ヲ存セシカ、之ヲ明言シ得サルハ甚ダ遺憾ナレトモ、当時ノ計算ヲ知ルニ由ナキヲ以テ、玆ニ叙述スル能ハス、併シナカラ其ノ知リ得タル所ヨリ説キ起サンニハ、先ツ東京会議所ノ沿革ヲ挿ミテ併セ述ヘサルヲ得ス、諸君幸ニ余ガ演説ノ他岐ニ渉ルヲ怪マザレ、扨此会議所ハ旧町会所ヨリ胚胎シ来リ、明治五年五月中府庁ヨリ積金ノ使用ヲ議シ、且之ヲ管理処弁セシムル為メ、府下有名ノ商人若干ヲ官撰シ、其始メハ営繕会議所ノ名ニテ建設シタルモノナリ、而シテ其後更ニ相詢リ、営繕会議所ハ名称ノ妥カナラサルヲ以テ、改メテ東京会議所ト称スル事ヲ請ヒ、広ク府下公共ニ関スル事務ヲ調理シタリ、其際府庁ヨリ交付セラレシ現金高ハ六拾七万円余ニテ、此金ハ第一ニ道路橋梁ノ修繕ニ供シ、其折遇々魯公子ノ来ルニ際シ、市中ニ乞児ノ多キハ見苦シトテ、養育院ヲ設ケテ之ヲ駆リ入レ、又ハ墓地ノ開墾、瓦斯灯・鉱油灯或ハ現華灯ト云ヘルモノヲ作ル等、追々会議ヲ以テ其費途ヲ定メ、府庁ニ具申シテ其支給ヲ弁スルノ手続ナリ、又或ハ府庁ヨリ下向アレハ之ニ答弁スル事モアリシナリ、但此時ニ於テ共有金ノ総額ハ実ニ幾許ノ高ニシテ、維新前ヨリノ計算ハ何等ノ都合ナリシヤヲ詳知スルニ由ナカリシハ、余ガ此演説ヲ為スニ於テ深ク遺憾トスル所ナリ、余ガ会議所ノ取締ヲ任セラレシハ明治七年十一月ニアリテ、其十七日始メテ新場橋ノ傍、即チ今ノ坂本学校トナリシ所ノ会議所ニ出テヽ、当時ノ議員諸君ニ面唔シ、先ツ其共有金ノ景況ヲ承知シタルニ、曩キニ交付セラレシ六拾七万円ノ額ハ、各種ノ要費ニ供セシヲ以テ殆ンド瑣少ノ額ヲ剰スノミナリシ ○下略



〔参考〕東京会議所記録(DK240001k-0014)
第24巻 p.26-27 ページ画像

東京会議所記録             (東京府文庫所蔵)
第八拾二号
    力役場設立概略
東京市中道路営繕之儀、兼而於御府ニ御配慮被為在追々修理相成候処馬車雑沓随テ修ムレハ随而損シ、甚シキニ至リ而ハ砂利未タ平均ニ至
 - 第24巻 p.27 -ページ画像 
ラスシテ既ニ窪ミヲ生シ候場所不少、且市中街衢広狭モ未タ確定ニ至リ不申、民費出処モ相定不申候間、救急之一策ニ出候ヨリ外無之、右ハ六大区毎ニ修路人足弐拾人宛ヲ以毎日巡修致シ、小損ニシテ未タ大壊ニ至ラサル先ニ手ヲ下候ハヽ当時之如クナル道路ニハ相成申間敷ト存候、右人足ハ養育院無籍窮民之内壮健之者ヲ相用ヒ、監督之者ハ会議所ヨリ差出シ、怠惰無之様毎日検査為致可申、窮民生計道路修繕一挙両得ト奉存候、右入費之儀ハ諸車並劇場・遊芸・料理・貸坐敷等之賦金ヲ相用候ハヽ引足リ可申候趣、明治六年十二月中府庁ヘ建言仕候処、同月廿八日建言之通リ許可相成、芸妓賦金之内壱ケ年金弐万円ヲ賦与セラル、依テ府下従前人宿渡世之者共ニ説諭致シ、日雇会社為取建、右会社江窮民之内壮健ニシテ年長シ、或ハ少壮ナレトモ蠢愚ニシテ所詮工事修業之見込無之者共相預ケ、六ケ月間之食料ヲ給与シ、力役入用之器具並衣服給与等ノ為メ無利足ヲ以テ若干金ヲ貸ス等、大ニ日雇会社ヲ助成シ、明治七年二月ヨリ修路小補ヲ施行ス、然ルニ最初ノ願意ニ悖戻シテ、旧人宿渡世束縛苛酷之弊逐日甚敷、社長等一身之利ノミ相謀リ全ク救窮之趣旨ヲ失候ニ付、七年六月一日右会社断然廃止、養育院力役場相設ケ、同所江引纏メ副院長ヲ置取締為致候、現今同場窮民百弐拾三人在場、右六月已来凡百七拾人ヨリ以下百人ニ不下賃銭之儀者一日壱人ニ付金弐拾銭ト相定メ、内資本之為メ積金・喰料夜具其他仕着セ・冠リモノ・草鞋・雨天休暇之節賄料・急病手当並日日当人渡銭共右入費一ケ月凡金五百八拾円平均ニ有之候、人足之内勉励致シ追々資本積金貯蓄ニ相成候ニ従ヒ、当人身寄之者ヘ説諭相加、受人為相立、活計之目途相立候上ハ入籍ノ儀御府ヘ願立、独立活計為相立申候
  明治八年第六月十七日            会議所
    御掛御中



〔参考〕東京会議所記録(DK240001k-0015)
第24巻 p.27-28 ページ画像

東京会議所記録             (東京府文庫所蔵)
    貧民ノ義ニ付区戸長上申ノ趣御下問御答之添書
会議所積金ハ去ル明治五年壬申前大蔵大輔井上馨殿御指令ニヨリテ、悉皆道路橋梁等ノ費ニ遣ヒ払候事ニ区戸長承伏仕候上ハ、恤窮ノ定策ニ於テハ其時々別ニ見込モ有之義ト奉存罷在候処、此度焦眉急患ノ上申有之候ハ案外之義ト奉存候、元ヨリ都下莫大ノ人員窮困無告ノ者ナキ事ヲ難保ハ今日ヲ待チ始テ可知ノ事ニ無之、就而ハ一旦其遣払ヲ承諾セシ積金ノ残瀝ヲ以テ取立候一小養育院ニ給ヲ仰キ候ハ、予メ人民負担ノ覚悟モ無之哉ト不堪慨歎ノ至候、抑養育院ハ其始一時不得已ノ御処分ニ出、其末当所議員ノ情誼ト府庁深重ノ御保護ニ依テ、既ニ解散ニ属候積金ノ幾分ヲ余シ府下窮民ノ幾分ヲ養育仕、府庁ニモ多分ノ金員ヲ道路橋梁ノ費用ニ供セシ事ヲ御追思被為在、特ニ芸妓免両賦金ヲ下シ賜リ、其積金ニ出ルモノヲ併セテ聊以永続ノ工夫モ相立候ニ付更ニ盛意ヲ体認シ弥益済救ノ道ヲ広大ニ可仕ト奉存候処、俄ニ芸妓賦金ヲ病院ニ転附セラレ病院ヘハ娼妓賦金ヲ被付相当奉存候旨先達テ申上置、イマタ御指令無之候此末相続方如何可相成哉目途モ確定不仕痛心経営中ニ付、追而区画処分相立候迄ハ別紙御下問奉決答候趣ヲ以御処置相成候様仕度、猶此段以添書上申仕
 - 第24巻 p.28 -ページ画像 
候也
  但区戸長上申書面中入院出願極メテ無余義者ヘハ、戸長年寄申合手当差遣候由相見え候、救恤筋之義ニ付養育院掛リノ者ヘモ為心得置申度候、差急候事ニハ無之候得共右人員手当高等も委細為御調被下、当所ヘ御下ケ相成候様仕度奉存候
  明治八年七月廿八日         会議所東京会議所印
    御掛御中



〔参考〕東京日々新聞 第六四七号・報告 明治七年三月二九日 【修路人足ノ義ハ、養育…】(DK240001k-0016)
第24巻 p.28 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕東京日日新聞 第八八七号・報告 明治七年一二月二四日 【会議所修路人足ハ養育…】(DK240001k-0017)
第24巻 p.28 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕法令全書 明治七年 内閣官報局編 明治二二年五月刊 太政官達第百六十二号(十二月八日 輪廓附)府県(DK240001k-0018)
第24巻 p.28-29 ページ画像

法令全書 明治七年 内閣官報局編  明治二二年五月刊
○太政官達第百六十二号(十二月八日 輪廓附)      府県
済貧恤窮ハ人民相互ノ情誼ニ因テ其方法ヲ設ヘキ筈ニ候得共、目下難差置無告ノ窮民ハ自今各地ノ遠近ニヨリ五十日以内ノ分左ノ規則ニ照シ取計置、委曲内務省ヘ可伺出、此旨相達候事
    恤救規則
一極貧ノ者独身ニテ癈疾ニ罹リ産業ヲ営ム能ハサル者ニハ、一ケ年米壱石八斗ノ積ヲ以テ給与スヘシ
  但独身ニ非スト雖トモ余ノ家人七十年以上十五年以下ニテ其身癈疾ニ罹リ窮迫ノ者ハ、本文ニ準シ給与スヘシ
一同独身ニテ七十年以上ノ者、重病或ハ老衰シテ産業ヲ営ム能ハサル者ニハ、一ケ年米壱石八斗ノ積ヲ以テ給与スヘシ
  但独身ニ非スト雖トモ余ノ家人七十年以上十五年以下ニテ其身重
 - 第24巻 p.29 -ページ画像 
病或ハ老衰シテ窮迫ノ者ハ、本文ニ準シ給与スヘシ
一同独身ニテ疾病ニ罹リ産業ヲ営ム能ハサル者ニハ、一日米男ハ三合女ハ二合ノ割ヲ以給与スヘシ
  但独身ニ非スト雖トモ余ノ家人七十年以上十五年以下ニテ其身病ニ罹リ窮追ノ者ハ、本文ニ準シ給与スヘシ
一同独身ニテ十三年以下ノ者ニハ、一ケ年七斗ノ積ヲ以給与スヘシ
  但独身ニ非スト雖トモ余ノ家人七十年以上十五年以下ニテ其身窮迫ノ者ハ、本文ニ準シ給与スヘシ
一救助米ハ該地前月ノ下米相場ヲ以テ石代下ケ渡スヘキ事



〔参考〕法令全書 明治八年 内閣官報局編 明治二二年一二月刊 内務省達乙号第八十五号(七月三日 輪廓附)(DK240001k-0019)
第24巻 p.29-30 ページ画像

法令全書 明治八年 内閣官報局編  明治二二年一二月刊
○内務省達乙号第八十五号(七月三日 輪廓附)
窮民恤救之義ニ付テハ昨七年第百六十二号ヲ以御達ノ趣モ有之候処、爾後右等ノ者共救助筋申請ノ砌ハ左ノ箇条ニ照シ篤ト調査ノ上可伺出此旨心得トシテ相達候事
    第一条
一恤救規則ニヨル可キモノハ独身・老幼・癈疾・疾病等ニテ何等ノ業モ為ス不能、事実赤貧ニシテ曾テ他ニ保育スル者モ無之全ク無告ノ窮民而已ニ限ルヘシ、然ルニ唯年齢・癈疾等ノ名義ニヨリ救助伺出ル等ノ儀コレアリテハ恤救規則ノ趣旨ニモ乖戻可致ニ付、仮令七十年以上又ハ廃疾ノ者タリトモ其業ニヨリテハ生産ノ道可相立者ナシトセサレハ、篤ト現場ノ実況ヲ査定シ真ニ不得止者而已具状イタスヘシ
    第二条
一同上ニヨリ是迄其市村内或ハ鄰保ノ情誼ヨリ互ニ協救仕来ル如キハ別段官ノ給与ヲ不乞ヲ以本旨トスヘシ
    第三条
一同上ニヨリ互ニ協救スルト雖モ、若シ其手当不足ニシテ其内幾分ヲ官ヨリ不仰ハ補助スル不能等ノ如キハ、其幾分給助之次第及石数金員ニ至ル迄詳悉記載申出ヘシ
    第四条
一同上ニヨリ十三年以上七十年以下ノ者疾病中救助米賜ルト雖モ、全快ノ期ヲ篤ト調査シ、荏苒支給等無之注意イタスヘシ
    第五条
一同上ニヨリ疾病或ハ病者トノミ記載申請ノ向キ有之候得共、爾後左ノ雛形ニ準シ詳悉記載別紙ニ製シ具申イタスヘシ
  但規則脇書ニコレアル余ノ家人アラハ、本文雛形ニ記載スル本人名前ノ左傍ニ委詳書記スヘシ
    第六条
一同上ニヨリ五十日以内給与シ申請ノ節何月幾日ヨリ同幾日マテ何日分ト記載伺出ヘシ
    第七条
一同上ニヨリ伺済ミノ上其石割ヲ給与セシムルハ勿論ナレト、譬ハ一ケ年壱石八斗ヲ目途ニ立、其以内ヲ以テ足レリトスカ如キハ其数量
 - 第24巻 p.30 -ページ画像 
実地至当ニ斟酌シ適宜ノ所分ハ不苦候間、其旨精細具状イタスヘシ
    第八条
一老幼・廃疾・病等ニテ独身ニ非スト雖モ、余ノ家人七十年以上十五年以下タレハ本人ノミヘ独身ニ準シ給与スヘキ成規ノ処、若シ余ノ家人廃疾・疾病・老幼ニテ事実難捨置情故アラハ其者共ヘモ救助セシムル事モアルヘキニ付、其旨趣ヲ以具状スヘシ、併シ右様ノ場合ニオイテ一家数人ノ救助ニ及フトキハ、各自給与ヲ致サストモ其適度ニ斜酌シ可成丈減省ヲ見込ミ伺出ツ可シ



〔参考〕養育院六十年史 東京市養育院編 第三三―三四頁 昭和八年三月刊(DK240001k-0020)
第24巻 p.30 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第三三―三四頁 昭和八年三月刊
 ○第一章 養育院の起源
    第一節 明治当初の救済施設
 養育院創立当時の東京は、政治上の大改革を閲したる維新匆匆の際に属し、明治元年(西暦一八六八)四月、東征大総督の江戸入城あり七月江戸を東京と改め、十月車駕東京へ行幸あらせられ、こゝに名実とも帝国の首都となつたが、諸般の事物未だ俄かに旧態を革むるに至らず、特に慶応年間より府内の衣食品騰貴し、米騒動ありしを以て江戸時代より窮民救済に尽し来れる町会所は、窮民へ御救米銭を頒与し或は払米し(百文に二合五勺)救小屋・寺院等に於て焚出を為し、更に外米を買入れて応急の策を施せるが、窮民寺内に群居し乞食街頭に群集する等の惨状を呈してゐた。明治元年十一月に入り新政府は貧民救済策を講ずる所あり、翌二年(一八六九)九月は府管内乞食を旧里に帰してその再出を禁じ、且つ三田救育所を設けて窮民を収容した。四年(一八七一)六月は太政官より棄児養育法公布せられ、十五歳迄毎年米七斗を給与することゝなり、又行旅病人にして救護の途を有せざる者は、その所在地の官署に於て相当の救護を与ふることとし、行旅死亡人は当該官の検視を受け、その引取人なき者は最寄りの墓地に仮埋葬し、その本籍明なるものはこれに通じ、本籍不明の者は一定の期間これを公示すべく、又救護及埋葬等の必要なる費用は、本人又はその親族をして弁償せしめ、もしこれ等の者弁償すること能はざる時は、その町村の負担とする規則が公布された。斯の如く維新倉惶の際と雖も、官民共に救済施設に努力し、曾てこれを等閑に附せざりし事情を想察するに足る。