デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
1節 外遊
3款 欧米行
■綱文

第25巻 p.178-249(DK250008k) ページ画像

明治35年6月13日(1902年)

是日栄一、ニューヨークニ着ス、十五日同地ヲ発シテワシントンニ抵リ、十六日同国大統領ルーズヴェルトニ白亜館ニ謁ス、蓋シ大統領ガ官命ヲ帯ビザル外人ヲ引見スルハ異例ナリト云フ。此時大統領大ニ日本ノ美術ノ精妙ト軍隊ノ勇武トヲ称揚ス。栄一之ニ答ヘテ、己ハ専ラ商工業ニ従事スル者ナレバ、自今ソノ発達ニ勉メ、以テ他日斯業ニツキ称讚セラレンコトヲ期スル旨ヲ述ブ。畢リテマウント・ヴァーノンニ赴キ同国国祖ワシントンノ墓ニ詣デ、同夜出発シテ十七日ニューヨークニ帰着、二十一日同地ヲ発シテナイアガラニ赴キ、二十三日再ビニューヨークニ帰ル、二十四日ニューヨーク商業会議所会頭ジェサプ、同理事委員長スミス主催ノ歓迎会ニ出席シ、今後両国商工業者ノ交誼ヲ益々親密ナラシメンコトヲ力説ス。二十六日ニューヨークヲ発シテ近傍ノ諸市ヲ巡覧シ、二十八日四度ニューヨークニ入ル。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三五年(DK250008k-0001)
第25巻 p.178-185 ページ画像

渋沢栄一 日記   明治三五年      (渋沢子爵家所蔵)
六月十三日 曇
午前八時朝飧ヲ畢リ、八時過兼子及一行ト共ニ公園ヲ巡覧シ、九時半ブリンモール女学校ニ抵リ校内ヲ一覧ス、此学校ハ寄附金ヲ以テ成立セシモノニシテ、開校後十四・五年ヲ経過セリト云フ、女生徒四百五
 - 第25巻 p.179 -ページ画像 
十人位ヲ入ルヽ寄宿アリ、講堂・運動場・書籍館、其他水泳場等ノ設備極テ整頓ス、蓋シ此校ハ大学程度ナルヲ以テ十八歳以上ノ生徒ヨリ入校ヲ許可スト云フ、近年此学校新築ノ挙アリテ其醵金弐拾五万弗ヲロツクフエイラーニ依頼シ、同氏之ニ応シテ新築竣工セリト云フ、午後一時ホテルニ帰宿シ、午飧後ヒラドルヒヤ市内ニ建設セルジラード貧児学校ヲ一覧ス、蓋シ此学校ハ千八百四十八年ニ開設スルモノニシテ、仏国人ジラードナル者米国ニ移住シテ大ニ稼殖シ、家富ミ財多キモ其子無キヲ以テ老後其財産ノ総計当時ノ貨幣ニテ六百五十万弗ヲ挙テ此学校ニ寄附シ、終ニ貧児授業ノ主旨ヲ以テ開校セシモノナリト云フ、其堂宇ノ壮大、美麗ナル寄宿舎、又ハ会食堂其他百事設備至レリ尽セリト云フヘシ、貧児寄宿ノ数ハ現在千六百人ナリト云フ、数名ノ理事アリテ其協議ヲ以テ校長・副校長ヲ撰挙シ、校務ヲ処理セシム、書記・会計等ノ役員モアリテ各其事務ヲ執ル、保母数十名アリ、就中老女ノ全体ヲ監督スルモノアリ、校内ノ人称シテ千六百生徒ノ母ト云フ、一覧畢テ講堂内ニ生徒及来観者ヲ招集シ、校長ヨリ挨拶アリ、余モ一言ノ謝詞ヲ述ヘ市原氏之ヲ通訳ス、畢テ本校ノ後園ニ於テ生徒兵式体操アリ、陸軍少将来リテ指揮ノ任ニ就ク、午後五時四十分停車場ニ抵リ汽車ニ搭シ、夜八時紐克府ニ着ス、対岸ノ停車場ニ正金銀行支店長長崎氏・堀越氏其他十数名ノ日本人来リ迎フ、同所ニ於テ艀船ニ搭シテ紐克府ニ抵ル、内田領事夫妻其他数名来リ迎フ、同所ヨリ馬車ニテ内田領事夫妻ト共ニ「ホテルマゼスチツク」ニ投宿ス、此旅館ハ有名ナル中央公園ニ面スルヲ以テ眺望頗ル佳ナリ
六月十四日 晴
午前内田領事夫妻来ル、朝来各種ノ本邦人及新聞記者等続々来訪ス、内田領事ト当地ニ於テ取扱フヘキ事務ニ付テ打合セヲ為シ、添書類ヲ交付ス、終日来人アリテ外出スルヲ得ス、夕方堀越氏ノ案内ニテ日本料理ノ饗宴アリ、夜十時帰宿ス、同伴者ハ兼子外一行皆招宴セラル
六月十五日 晴
午前内田領事夫妻・長崎氏夫妻・堀越氏其他数十名ノ来訪者アリ、十時内田領事ト共ニセントラル公園ヲ巡遊シ、グランド将軍ノ墳墓ヲ参拝ス、兼子・西川嬢同伴ス、車中堀越氏ト商会ノ事務ヲ談話ス、午後一時帰宿、午飧後行李ヲ理シ、三時三十分ノ発車ニテワシントンニ赴ク、兼子及一行同伴ス、ヒラドルヒヤ、ポルツモールヲ経テ午後八時過華盛頓ニ達ス、ホテル〔    〕《(欠字)》ニ投宿ス、梅浦氏ハ此地ニテ来会ス、公使館ノ書記官中村氏来リ迎フ、公使ハ此夜宴会ノ約アリシヲ以テ後刻来訪ノ事ヲ告ク、夜十時高平公使来ル、明日大統領謁見ノ手続ヲ協議ス
六月十六日 雨
午前九時中村書記官来ル、謁見ハ十二時四十五分白宮即チホワイトハウスニ於テスル事ヲ告ケ来ル、十時スチービンス来ル、十一時高平公使来ル、市原盛宏ヲ随ヒ相伴フテ大蔵省ニ抵リ、長官シヨーウ氏ニ会見ス、更ニ国務省ニ抵リ長官ヘー氏ニ面会シ、十二時四十五分ニ大統領ニ謁見ス、梅浦・萩原ノ二氏同伴ス、謁見ノ際ニ於ケル談話及国務大蔵長官会見ノ手続トモ別ニ記載スル処アリ、畢テホテルニ帰リ午飧
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シ、食後直ニ議院ニ抵リ、上下両院会議ノ景況ヲ一覧ス、上院ハ人員少ク議場寂寥タリシト云トモ、下院ハ二・三ノ議員熱心ニ演説中ナリキ、暫クシテ議院ニ隣レル書籍館ニ抵リ一覧ス、畢テ電車ヲ僦フテ華盛頓ノ墓所ニ抵ル、墓所ハ都府ノ南方〔  〕《(欠字)》哩ノ地ニアリ、河川邱ヲ繞リテ眺望佳絶ナリ、往時ワシントンノ居住セシ家屋及家具其他ノ什器悉ク室内ニ陳列シテ行人ノ一覧ニ供ス、蓋シ各都府ノ富家ノ婦人等醵金シテ此設備ヲ為スモノナリト云フ、夕七時帰宿、直ニ公使館ニ抵リ此夜余カ為メニ設ケラレタル晩飧ノ宴ニ列ス、食卓上公使ノ挨拶ニ対シ一場ノ謝詞ヲ述フ、夜十二時発ノ汽車ニ乗組ミワシントンヲ発シ紐克ニ赴ク
六月十七日 晴
午前七時半紐克着、マゼスチツクホテルニ投宿ス、内田領事・堀越氏其他諸氏来リ訪フ、午後瓦斯会社ノ事業ニ関シ曾テ東京ニ於テチゾン氏ト談判セシ手続ニヨリブレチ氏来話ス、種々談判ノ末、会社株式ノ増額及割増金ノ払入其他ノ事全ク協議整了ス、依テ東京瓦斯会社及浅野氏等ヘ発電ス、是レヨリ先、午前煙草会社ニ抵リ、ヂユーク氏ニ面会ス、蓋シ東京ニ於テチゾン氏ヨリ紹介アリシ一人ナリ、会談ノ後旅宿ニ帰ル、此夜八時ライヤン氏来話ス、ライヤン氏ハモルトン信托会社重役ノ一人ニシテ、チゾンヨリ紹介アリシ人ナリ、面会ノ際種々ノ談話ヲ為シ、殊ニ金融談ト興業銀行ノ事ニ関シテ細話ス
六月十八日 晴
午前内田領事・堀越・長崎其他ノ諸氏来会ス、十時内田領事・市原盛宏ト共ニブレヂ氏ノ事務所ヲ訪ヒ、昨日会談ノ事ニ関シ尚二・三ノ要務ヲ議シ、且同氏管理ノ電灯・瓦斯両会社一覧ノ事ヲ請ヒ、来ル二十日ヲ以テスル旨ヲ約ス、畢テスチルマン氏ニ面会ス、同氏ハ当地ニ於テ有名ノ人物ニシテナシヨナール・シチーバンクノ頭取ナリ、会談数刻多ク米国金融界ノ将来ニ付テ其意見ヲ叩キタリ、畢テ〔   〕《(欠字)》信托会社ニ抵リゲーヂ氏ニ面会ス、同氏ハ曾テ大蔵長官ニ任シタル人ニシテ尤モ老練堅固ヲ以テ名アルモノナリ、銀行制度ニ関シテ種々ノ質議ヲ為ス、ローヤルスクラブト云フ集会所ニ於テ午飧ヲ為シ、更ニ市役所ニ抵リ市長セスロー氏ニ面話ス、午後五時頃旅宿ニ帰リ、此夜紐克在留ノ本邦人数十名ノ余カ為メニ催フセル宴会ニ出席ス、セリート称スル有名ノ割烹店ナリ、食卓上一場ノ演説ヲ為ス、夜十一時帰宿ス
六月十九日 晴
此日ハ本邦及英国其他ヘ出状ノ書信ヲ裁スル為メ外出ヲ謝絶シ、終日家ニ在テ書信ヲ作ル、篤二・佐々木・大橋・益田其他三・四ノ出状ヲ為ス、又高平公使・英国林公使・諸井・能勢等ノ領事ヘモ出状ス
六月二十日 晴
午前九時ブレヂ氏ヨリ兼約ニ従ヒ電気自動車二輛ヲ以テ工場一覧ノ事ヲ勧メ来ル、其男及瓦斯工場支配人案内トシテ来ル、依テ梅浦・萩原清水・元治・八十島ノ諸氏ト共ニ行テ一覧ス、堀越氏モ同伴ス、先ツ電気工場ニ抵ル、技師誘引シテ詳細ニ説明ス、発電ノ器械十二箇ニシテ拾弐万八千馬力ニ達スト云フ、工場ハ河岸ニ接近シテ極テ便利ノ地ナリ、一覧後瓦斯工場ニ抵リ先ツ水性瓦斯製造場ヲ一覧ス、其設備頗
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ル広大ナリ、一日製造高千八百万立方尺ノ力アリト云フ、次ニ石炭瓦斯工場ニ抵ル、本邦ノ工場ト大同小異ニシテ只其規摸大ナルノミ、一日ノ製造高五百万立方尺ナリト云フ、市中供給ノ瓦斯総量冬季ハ八千万立方尺ニシテ、夏季ハ三千五百万立方尺ニ減シ、平均五千万立方尺其価ハ千立方尺ニテ壱弗ナリト云フ、三工場ノ観覧畢リテ午後一時旅宿ニ帰リテ午飧シ、東京瓦斯会社ヘ向ケ電報ヲ発シテ、去ル十七日ニ打電セシ事項ノ回答ヲ促ス
此日東京瓦斯会社ヨリ電報アリ、当方ヨリ打電ノ事ハ速ニ大株主ノ協議会ヲ開キテ大要ヲ決スヘシト申シ来ル
午後四時市長セスロー氏来訪セラル、過日ノ約束ヲ履行セルナリ、延見ノ後市政ニ関スル種々ノ質問ヲ為ス(筆記ニ詳ナリ)午後五時過帰ル、七時高峰譲吉氏ノ案内ニヨリテ当府西宮ト称スル日本料理店ニ抵ル、兼子及一行同伴ス、西宮ハ紐育ニ於ル日本割烹店ノ最上位地ニ居ルモノナリ、十時過キヨリ帰路市街ヲ徒歩シ、有名ナル、オルドルフアストリヤホテルニ抵リ、其家屋ノ結構、客室又ハ舞踏場、其他庖厨等ニ至ルマテ一覧ス、夜十二時旅宿ニ帰ル
六月二十一日 雨
午前時七時過朝飧ヲ畢リ八時発ノ汽車ニテナイヤガラニ赴ク、梅浦・萩原・清水・八十島ノ諸氏随行ス、堀越善重郎及エブリ氏ハ案内者トシテ同伴ス、汽車ハハタソン河《(ド)》ニ沿フテ北行ス、両岸小邱蜿蜒シテ河水清駛ナリ、頗ル本邦ニ旅行スルノ想アリ、十一時頃オルバニーニ抵ル、紐育州ノ首府ナリト云フ、遠見又繁華ノ一市街タルヲ知ル、午後五時バツハロー市ニ達シ、直ニ汽車ヲ替テナイヤガラニ抵ル、エンタルナシヨナールホテルニ投宿ス、投宿後散歩シテ大瀑布ヲ一覧ス、蓋シ此瀑布ハ米国有名ノ湖水流レテ川ト為ル所ニシテ、其巨大ナル真ニ想像ノ外ニアリ、之ヲ瀑布ト云ハンヨリハ、寧ロ一大河ノ天上ヨリ下界ニ飛下スルノ観アリ、瀑布ハ二個ニシテ一ヲ米国領瀑布トシ、一ヲ加奈多領瀑布トス、此日ハ米国方面ノ各所ヲ一覧シ、午後七時半旅宿ニ帰ル、此日夕方ヨリ雨晴ル
六月廿二日 晴又雨
午前八時旅宿ヲ出テ馬車ニテ瀑布ノ下流ナル巨川ヲ超ヘ、前岸加奈多方面ノ瀑布ヲ一覧ス、米国瀑布ニ比スレハ更ニ大ナリ、小邱ニ登リテ石油瓦斯ノ発火スル一井ヲ見ル、頗ル奇観ナリ、午後一時旅宿ニテ午飧シ、再ヒ市街電車ニテ市中ヲ一覧シ、且瀑布ノ下流ニ沿フテ行程六七哩〔   〕《(欠字)》ト云フ処ニ抵リ、再ヒ車ヲ回シテ旅宿ニ帰ル、蓋シ下流ノ奔湍ヲ一覧スル為メナリ、三時半水力電気会社ニ抵ル、副社長ランキンス氏ハ日曜ナルニモ拘ハラス出社シテ余等ノ一行ヲ迎ヒ、工場ヲ一覧セシメ且詳細ニ其設備ノ実況ヲ説明ス、水力ノ総高ハ拾万五千馬力ニシテ、拾個ノ水筒ニ拾個ノダイナモーヲ装置ス、其工場ノ堅牢ニシテ精密ナル驚クニ堪ヘタリ、使用ノ人員ハ昼夜三回ニ区別シテ八人宛ヲ使役スルノミナリト云フ、此会社ハ加奈太方面ニ於テモ水力電気工事ヲ起シ、其馬力概略弐拾万馬力ヲ得ルノ設計ナリト云フ、一覧畢テ旅宿ニ帰リテ夜食ヲ為シ、午後七時紐育行ノ夜行汽車ニ搭ス
六月廿三日 晴
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午前七時紐育着、停車場ヨリ馬車ヲ僦フテホテルマセスチツクニ投ス朝飧後内田領事来リ相伴フテ米国貿易会社スチービンス氏ノ招宴ニ抵ル、市原盛宏同行ス、十一時半スチービンスノ事務所ニ於テ暫時談話シ、更ニ〔   〕《(欠字)》ニ抵リテ午飧ス、銀行者・商業家十数人来会ス、午飧後ブレヂ氏来リテ、過日協議セシ東京瓦斯会社増資方法ニ関シテ計算上ノ異見ヲ申述ヘラル、依テ種々説明セシモ了解スルヲ得ス、明日ヲ約シテ去ル、午後三時旅宿ニ帰ル、モルトン信托会社々長モルトン氏来ル、談話数刻ニシテ去ル、午後七時半ブレヂ氏ノ招宴ニ応シテホテルホフマンニ抵ル、一行相伴フテ出席ス、此日会スル者二十一名ニシテスチルマン、モルトン、シフ、ヂユーク、ベーカー等何レモ府内有名ノ巨商ナリ、饗宴ノ設備モ割烹ノ配置美善ヲ尽セリ、夜十一時宴散シテ帰宿ス
六月廿四日 晴
午前九時旅宿ヲ発シテ紐育市ノ手形交換所ニ抵リ支配人〔   〕《(欠字)》氏ノ案内ニテ各室ヲ一覧シ、且交換ノ手続ヲ見ル、同盟ノ銀行ハ五十九ニシテ大蔵省モ亦加盟シアリト云フ、交換ノ時間ハ十時ヨリ始リテ四十五分ニテ結了ス、頗ル敏活簡易ナリ、一覧後種々ノ説明ヲ聴キ書類ヲ請フテ去テ興信所ニ抵ル、所長ノ案内ニテ信用録編纂ノ順序、印刷製本ノ手続ヨリ、探訪方法又ハ郵便・電報ノ発送等マテ各室ニ就テ詳細ニ説明セラル、惜クハ時間少キヲ以テ営業ノ要領、通信員ノ数又ハ問合ハセ報答ノ景況及収支ノ計算等ヲ聞ク事ヲ得サリキ、一覧畢テ紐育商業会議所ヨリノ招宴ニ係ル午飧会ニ出席ス、チヤーレススミス当日ノ主人トシテ周旋甚タ務ム、蓋シスミスハ十年前本邦ニ来遊セシ時東京商業会議所ヲ代表シテ余カ王子ノ宅ニ招宴セシ人ナリ、此日会スル者ハ十数名ニシテ前大蔵長官ゲージ氏、前ノ内務長官〔   〕《(欠字)》氏其他諸会社従事ノ人々モ列席セリ、食卓上スミス氏ヨリ挨拶演説アリ依テ簡単ナル答辞ヲ述ヘ、且東京商業会議所及全国商業会議所聯合会ヨリ附托セラレタル意志疏通ノ事ヲ陳述ス、食事畢テ午後二時半ヨリブリヂ氏ノ事務所ヲ訪ヒ昨夜饗宴ノ謝詞ヲ述ヘ、且東京瓦斯会社増資ノ事ニ関シ種々ノ談話ヲ為スモ、充分ノ了解ヲ得サルヲ以テ再会ヲ約シテ去ル、午後五時旅宿ニ帰ル
六月廿五日 晴夕方ヨリ雨降ル
午前九時ヴワンデリツプ来話ス、氏ハシチー国立銀行副頭取ニシテ頗ル論客ナル由ニ付種々ノ談話ヲ試ミシモ今夕スチルマン氏ノ宴会ニテ款話スヘキ旨ヲ告テ帰ル、十二時領事館ニ抵リ夫ヨリミユーチユワル性命保険会社ニ抵リマカーヂー氏ニ面会ス、午後一時午飧ノ饗宴アリ食卓上主人外数名ノ演説アリ、余モ一場ノ答詞ヲ述フ、此日会スル者ハゲーチ、モルトン、ロツクヘーラー、ナシヨナルバンクオフコンメルス頭取其他数名ニシテ賓主合テ十二名ナリ、何レモ当府有力ノ巨商ナリキ、食事畢テハリマン氏ノ事務所ヲ訪ヘシモ面会ヲ得サルニヨリ領事館ニ於テ暫時休足シ、午後三時再ヒハリマン氏ヲ訪ヒ種々ノ会談ヲ為シ午後四時半旅宿ニ帰ル、午後七時半スチルマン氏ノ招宴ニ応シテ其家ニ抵リ、市原盛宏同行ス、当日来会ノ相客ハゲーチ氏、ロツクヘーラー、ヴハンデリツプ及ネバタ州ヨリ撰出セラレシ議員ノ一人ニ
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テ賓主僅ニ六人ニシテ主人ノ待遇頗ル懇篤ナリ、食卓上種々ノ談話アリ、畢テ主人ノ案内ニテ室内ヲ一覧ス、此日ノ饗応ハ仏国風ノ割烹ニシテ高尚ニシテ且善美ヲ尽セリ、其食器及室内装飾ノ如キモ総テ優美壮麗ヲ極ム、以テ当地有数ノ豪富タルヲ知ルヘシ、午後十一時帰宅ス
六月廿六日 晴
午前八時旅宿ヲ出テニユージルシーニ抵リ、アメリカン煙草会社ノ製造場ヲ一覧ス、会社員ハリス同伴ス、煙草製造工場ハ数個ノ家屋ヨリ成リテ各室ニ極テ斬新ノ器械ヲ装置シ、其宏壮整備真ニ観ルヘキモノアリ、畢テ兼子・元治・八十島及堀越等ト共ニ〔    〕《(欠字)》ニ抵リ、阪谷達三ノ墳墓ニ詣ス、達三ハ明治十九年起立工商会社員トシテ当地ニ滞在シ、病ヲ以テ当地ニ於テ死去セシナリ、畢テ此地ノ一茶店ニテ午飧シ、午後三時四十分旅宿ニ帰リ、更ニ旅装ヲ整ヘテ旅宿ヲ発ス、蓋シボストンニ赴ク為メナリ、市原ヲ除キ一行同伴ス、ブルークリンヨリ汽船ニ搭シ船中ニ一泊ス、船ハ此航路ニ供スル特種ノ構造ニシテ船室ノ位置粧飾頗ル美麗ナリ、午後五時半頃開帆ス、両岸ノ緑樹青草翠ヲ絶ス、其間壮大ノ家屋ヲ見ル、夜深クシテ船少ク動揺ス
六月廿七日 晴
午前六時船ホールリバーニ着ス、船ヲ下リテ汽車ニ搭ス、八時ボストンニ着ス、直ニ同地旅館ホテル〔   〕《(欠字)》ニ投シテ朝飧ス、此地ノ停車場ニオルソム時計製造場副社長〔   〕《(欠字)》及事務主任ダンカン外数名来リ迎フ、食後時計製造場一覧ノ為メ汽車ニテボストンヲ発シ、四十五分ニシテオルソムニ着ス、工場ノ事務員数名来リ迎フ、一同工場ニ抵リ各室ヲ巡覧ス、其器械ノ精巧ナル驚ニ堪ヘタリ、工場ノ後面ハ河ニ沿フテ小邱アリ、其前面ハ市街ニ通スル大道ニシテ、路傍ニハ緑樹鬱叢トシテ恰モ公園ノ趣アリ、工場ノ男女職工凡ソ三千人ニシテ、一日ノ製造高三千個ナリト云フ、工場ニ於テ職工ヲ待遇スル極テ懇切ニシテ、殆ント家人ニ遇スルノ状アリ、一覧畢テ工場ニ隣レル事務室ニ於テ立食ノ午飧ヲ饗セラル、副社長・工場長其他ノ事務員数名接伴ス、工場ノ前面ニテ新聞紙ノ請求ニ応シテ撮影シ、午後二時オルソムヲ去リ汽車ニテボストンニ帰ル、ボストン商業会議所ニ抵リ会頭及会員数名ニ会見シ寸間談話ヲ為シ、三時過ヨリリント云フ地方ニ抵リ、靴製造工場ヲ一覧ス、ボストン人ウエード氏案内ス、此地ニハ数所ノ製靴場アリ、其中ノ巨大ナル一工場ヲ見ル、器械ノ設備頗ル整頓セリ一覧畢テ午後七時ボストンニ帰リ、馬車ヲ僦フテ市街及公園等ヲ遊覧ス、馬車巡遊中ウエード氏同伴シテ日米人ノ性質・風俗等ニ関スル種種ノ議論アリ、頗ル趣味アルヲ覚フ、夜八時ホテルニ於テ夜飧ス、此夜ボストンナル新聞紙ノ探訪者来リテ、種々ノ談話ヲ為ス
六月廿八日 晴
午前八時旅館ヲ発シ、汽車ニ搭シテ十一時過ニユーヘーブンニ抵ル、市原盛宏来リ迎フ、直ニ下車シテ先ツ此地ノ旅舎ニ投シ、更ニ車ヲ僦フテ市原ト共ニ此地ニアルヱール大学校ノ校長ヲ訪フ、面会ノ後二・三ノ談話ヲ試ミ、更ニ旅舎ニ於テ午飧ス、午飧後ヱール大学ノ校舎各室ヲ歴覧ス、博物館ニテ前世界ノ動物ノ骨ヲ見ル、其大ニシテ奇異ナル驚クニ堪ヘタリ、一覧畢テ馬車ニテ東岩ト称スル公園ニ抵ル、公園
 - 第25巻 p.184 -ページ画像 
ハ邱陵上ニアリ、嶺ニ登リテ一望スレハニユーヘーブンハ眼下ニ在リ遠近青山緑樹遥曳シテ其間河川沼湖アリ、頗ル絶景ナリ、此日ハ来遊ノ人少ク園中極テ幽静ナリ、蓋シ米国有数ノ学校ハヱール、ハーバートノ二校トシ、二百年来学者・政事家又ハ事業家ヲ出セシコト少ナカラスト云フ、故ニ此幽静ノ土地ハ即チ紐育、シカゴ其他各都府ノ繁昌熱閙ノ根元ニシテ、所謂静ヨリ動ヲ生スルモノト云フヘシ、午後五時ニユーヘーブンヲ発シ七時過紐育府帰着、此夜堀越氏ヲ伴ヒ兼子ト共ニ市中ノ曲芸ヲ見ル
六月廿九日 雨
此日ハ村井保固氏ヨリ午飧ノ招宴ニ応スルノ約アリ、又明夕ハ当地ノ本邦人ニ留別ノ宴ヲ開クノ催アルヲ以テ、朝来堀越氏来リテ種々周旋ス、十一時ノ汽車ニテリバーサイドナル村井氏宅ニ抵ル、生糸合名会社佐藤氏同伴ス、堀越氏案内者トナリテ兼子ト共ニ宴ニ応ス、汽車ヲ下リテ雨強ク行路困難ナリシモ、村井氏ヨリ馬車ヲ迎フルヲ以テ少時ニシテ其家ニ抵リ、本邦風ノ午飧ヲ饗セラル、味頗ル美ナリ、食後村井・堀越二氏ト事務上ノ談話ヲ為シ、四時ノ汽車ニテ帰宿、直ニ衣服ヲ更メテ高等商業学校出身ノ人々ヨリ招宴セラルヽ夜飧会ニ出席ス、堀越・荒巻其他十名来リ会ス、其割烹店ヲカフヘーマルタント云フ、仏国風ノ料理ニシテ極メテ美ナリ、食後商業教育ニ関スル種々ノ談話ヲ為シ、夜十一時帰宿ス
六月三十日 晴
午前東京送リノ書状ヲ裁ス、十一時市原盛宏ト共ニ馬車ニテモルトントラストコンヘニーニ抵リ、ライヤン氏ニ面会シ、金融ノ件及信托事業ニ関スル談話ヲ為ス、陸軍長官某氏ニ面会ス、午後一時米国亜細亜協会ノ会同席ニ出席ス、午飧ノ饗宴アリ、会スル者四十余人、会長ヱブ氏ノ代理ニテ書記フオード氏ヨリ演説アリ、依テ之ニ答詞ヲ為シ、市原ヲシテ通訳セシム、高平公使・内田領事モ来会ス、午後二時半ブレヂ氏事務所ニ抵リ、瓦斯会社増資ノ件ニ関シ種々ノ談判ヲ為セシモ終ニ協議ニ至ラサルニヨリ、其次第ヲ余ヨリハ会社ヘ、ブ氏ヨリハチゾンニ書通シテ、其上ニテ更ニ相談スヘキモノト為シテ、ブ氏ヲ辞シテ横浜正金銀行・領事館等ヲ訪問シ告別ヲ為シ、午後六時帰宿シ、更ニ衣服ヲ更メテカフヘーデルモニユト称スル料理店ニ抵リ、本邦人十数名ニ留別ノ宴ヲ開ク、会スル者高平・内田・長崎夫妻・高峰・堀越佐藤・高橋・上野等賓主合計十八名ナリ、食卓上一場ノ謝詞ヲ述フ、高平・内田及高峰氏各演説アリ、夜十一時散宴帰宿ス
七月一日 晴
午前本邦留守宅・佐々木・浅野・大倉・大橋氏等ノ五名ヘ書状ヲ発ス大橋氏ヘハ更ニ一書ノ公信ヲ発ス、又商業会議所ノ事ニ関シテハ、大倉・井上両氏ヘ米国各地商業会議所訪問ノ顛末、即商工業界意志疏通ノ事ヲ報告ス、午前十一時市原盛宏ヲ伴ヘ森村組商店及生糸合名会社ニ抵リ告別ノ辞ヲ述ベ、午後一時ヱクイテーブル性命保険会社ニ抵リマコツク氏ニ面会シ、社長アレキサンドル氏ト会話シ共ニ午飧シテ、午後二時領事館ニ抵リ、夫ヨリ堀越商会・三井物産会社・同伸会社等ヲ歴訪シ、更ニホテルエンパイルニテ高峰氏ヲ訪ヒ、スチルマン氏ノ
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留守宅ヲ訪問シテ午後六時過帰宿シ、七時内田領事ノ宅ヲ訪ヒ本邦料理ノ饗宴ヲ享ク、夜十時帰宿ス


竜門雑誌 第一六九号・第四二頁 明治三五年六月 紐育よりの電報(六日十四日紐育発)(DK250008k-0002)
第25巻 p.185 ページ画像

竜門雑誌  第一六九号・第四二頁 明治三五年六月
    紐育よりの電報(六日十四日紐育発)
渋沢男一行は昨夜当地に安着したり


(アメリカ合衆国大統領秘書官) 書翰写 渋沢栄一宛 一九〇二年六月一八日(DK250008k-0003)
第25巻 p.185 ページ画像

(アメリカ合衆国大統領秘書官) 書翰写
                 渋沢栄一宛 一九〇二年六月一八日
                (コングレスライブラリー所蔵)
          Letter press copy
                   June 18,1902
My dear Sir:
 I write at the request of the President to say that he takes great pleasure in sending to you the enclosed note of introduction to Dr.Morris K.Jesup, President of the New York Chamber of Commerce.
                 Very truly yours,
                 Secretary to the President
Baron Shibusawa,
   Care of Japanese Minister,
        Washington,D.C,


渋沢男爵欧米漫遊報告 全国商業会議所聯合会編 第一〇―三三頁 明治三五年一二月刊(DK250008k-0004)
第25巻 p.185-194 ページ画像

渋沢男爵欧米漫遊報告 全国商業会議所聯合会編
                   第一〇―三三頁 明治三五年一二月刊
  ○欧米各地商業会議所訪問顛末
○上略
    華盛頓
同年六月十六日、渋沢男爵ハ高平公使同道、市原盛宏氏ヲ随ヘ、先ツ大蔵長官シヨウ氏(Hon. Leslie Mortier Shaw.)ヲ大蔵省ニ、国務長官ヘイ氏(Hon. John Hay.)ヲ国務省ニ訪問シ、夫ヨリ更ニ高平公使同道、梅浦精一・市原盛宏及萩原源太郎ノ三氏ヲ随ヘ、大統領ルースヴヱルト氏(Hon. Theodore Roosevelt.)ヲ其官舎ニ訪問シタリ、其会談ノ模様左ノ如シ
(一)大蔵長官シヨウ氏ト会談ノ要領
渋沢男爵ハ先ツ来意ヲ告ケ、且ツ曰ク 貴国ノ進歩ハ兼テ聞及ヒタル所ナルモ、今目前ニ其実況ヲ見ルニ及ヒ一層感服セリ
シヨウ氏曰ク 貴国近時ノ進歩モ亦余ノ夙ニ敬慕スル所ナリ、若シ他日機会モアラハ、余モ男爵カ今回我国ニ来遊セラレタルカ如ク貴国ニ一遊ヲ試ミタク思ヘリ……今回男爵ノ来遊ハ何レノ道ヲ取ラレタルヤ
渋沢男爵曰ク 余ハ去月下旬桑港ニ上陸シ、其後汽車ニ依リシカゴ、ピッツボルグ、ヒラデルヒヤ等ヲ経テ両三日前紐育ニ到着セリ、其途次各地ニ立寄リ農工業ノ模様ヲ一覧シタレハ、此度ハ暫ク紐育ニ
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滞在シ主トシテ商業ノ実況ヲ視察シタク思フナリ
時ニ訪客ノ刺ヲ通シテ面会ヲ求ムル者甚タ多ク、且ツ其公務最モ繁忙ヲ極ムルモノヽ如シ、依テ談話ヲ玆ニ止メ、国務長官ヘー氏ヲ訪問スルコトヽセリ
(二)国務長官ヘー氏ト会談ノ要領
渋沢男爵ハ先ツ来意ヲ告ケタルニ、ヘー氏ハ椅子ヲ与ヘテ着座ヲ勧メ且ツ曰ク
 曩ニ貴国ヨリ松方伯来遊セラレ、今又男爵ノ如キ親シク実業ニ従事シ経済的眼識ニ富マルヽ紳士ノ来遊セラレタルハ、余ノ大ニ満足スルノ所ナリ
渋沢男爵曰ク 余ハ夙ニ貴国進歩ノ著明ナルヲ聞キ一タヒ其実況ニ接シタク思居リシモ、種々故障アリテ其素志ヲ果スノ好機ヲ得サリシカ、今回図ラスモ欧米旅行ヲ思ヒ立チ、先ツ貴国進歩ノ実況ヲ見、殊ニ今日閣下ニ拝謁スルノ機会ヲ得タルハ余ノ最モ光栄トスル所ナリ、余ハ貴国ニ上陸以来日尚ホ浅シト雖トモ、其見聞スル所ニ拠レハ百事其進歩ノ壮大ナルハ只々敬服ノ外ナシ
ヘー氏曰ク 近時貴国ニ於テハ種々ノ点ニ於テ長足ノ進歩ヲナシ、其名声世界ニ嘖々タリト聞ク、是余ノ私ニ敬慕スル所ナリ
渋沢男爵曰ク 我日本ハ開国以来貴国ノ誘導ニ依リ稍々国運ノ進歩ヲ見タリト雖トモ、其実力猶ホ未タ充分ニ発達セサルハ余ノ私ニ遺憾トスル所ナリ、蓋シ我国ニ於テハ昔時封建ノ余風トシテ世間ニ軽視セラレタル商工業モ近時ヤヽ重視セラルヽ所トナリタレハ、此上ハ世界的進歩ノ方針ヲ取リ、内外ノ協力ニ依リ国富ヲ開発スルノ必要ヲ認ム、就テハ欧米商工業者ト我国商工業者トノ間ニ益々懇親ヲ厚フシ、時宜ニヨリテハ相提携シテ国家ノ進歩ヲ企図センコトヲ望ム是レ実ニ日本全国商業会議所カ其望ヲ同フシ、余ニ附託スル所アリタル所以ナリ
ヘー氏曰ク 男爵ノ希望セラルヽ所ハ余ノ共ニ希望スル所ニシテ、我国商工業者ニ於テモ亦固ヨリ同感ナルヲ信ス、就テハ余ハ可及的男爵ノ希望セラルヽ趣旨ノ貫徹センコトニ尽力スヘシ
(三)大統領ルースヴヱルト氏ト会談ノ要領
渋沢男爵ハ先ツ来意ヲ告ケ、且ツ曰ク 今回、不図貴国ニ来遊ノ機会ヲ得テ、今日閣下ニ拝謁スルヲ得タルハ、余ノ大ニ光栄トスル所ナリ
ルースヴヱルト氏曰ク 男爵ノ来遊ハ何レノ道ヲ取ラレタルヤ
渋沢男爵曰ク 去月下旬桑港ニ上陸シ、シカゴ、ピッツボルグ、ヒラデルヒヤ等ヲ経テ、両三日前紐育ニ到着セリ……由来我日本ガ今日ノ地位ニ達シタルハ実ニ貴国ニ負フ所少シトセス、是我国人カ常ニ貴国ニ向テ感謝スル所ナリ
ルースヴヱルト氏曰ク 貴国近時ノ進歩ハ余ノ兼テ伝承スル所ナリ、由来貴国ノ美術ハ世界ニ冠絶スト称セラレ、又貴国ノ軍事ニ至リテモ其名声嘖々タルモノアリ、現ニ清国事変ノ後彼地ヨリ帰リタル将校等ヨリ聞ク所ニ拠レハ、貴国軍隊ノ勇武ナルハ露国・独国・仏国ハ勿論、英国ト雖トモ共ニ皆賞讃スル所ニシテ、殊ニ其行為ノ厳正
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ナルハ我合衆国軍隊ノ模範トスルニ足ルヘシト云ヘリ、是余ノ大ニ敬慕スル所ナリ
渋沢男爵曰ク 我国ノ美術及軍事ニ関シ閣下ヨリ賞讚ノ辞ヲ聞ク、実ニ満足ノ至ニ堪ヘス、併シ余ハ現ニ実業ニ従事スル者ナルカ、我国ノ商工業ハ夫ノ美術・軍事等ニ比スレハ其名声極メテ寂々タルノ憾アリ、故ニ余ハ今後益々奮励シテ商工業ノ発達ニ勉メ、他日再ヒ閣下ニ拝謁スルトキハ、閣下ヨリ我国ノ商工業ニ関シテ更ニ同一ノ讚辞ヲ辱フセンコトヲ期ス
ルースヴヱルト氏曰ク 男爵ノ所見ハ大ニ余カ意ヲ得タル者アリ、今後男爵ニシテ益々貴国商工業ノ発達ニ勉メラルヽニ於テハ、必スヤ其好果ヲ見ルヘキハ余ノ確信スル処アリ、之ヲ要スルニ余ハ男爵ノ所見ニ対シ熱誠ナル同情ヲ表スル者ナリ
渋沢男爵曰ク 余ノ所見ニシテ幸ニ閣下ノ同情ヲ辱フシタルハ余ノ大ニ満足スル所ニシテ、是余カ永ク記臆シテ忘レサラント欲スル所ナリ、此事ハ帰朝ノ上特ニ我国ノ商工業者ニ通シテ其注意ヲ喚起センコトヲ期ス、猶玆ニ一言シタキハ、余カ日本ヲ出発スルニ当リ当時東京ニ開設中ノ日本全国商業会議所聯合会ハ、我国商工業者ト欧米商工業者トノ間ニ交誼ヲ親密ナラシムルノ必要ヲ認メ、特ニ其決議ヲ以テ余ニ附託スルニ相互ノ間ニ意思ノ疏通ヲ図ランコトヲ以テセリ、此事タル余ノ不才ナル或ハ其任ニ堪ヘ得ヘキヤ私ニ懸念ニ堪ヘスト雖トモ、苟モ機会アラハ可及的其趣旨ノ貫徹センコトニ勉ムルノ考ナリ、願ハクハ閣下之ヲ領意セラレンコトヲ
ルースヴヱルト氏曰ク 男爵ノ希望セラルヽ所ハ余モ又大ニ希望スル所ナリ、就テハ余ハ欣然、余ノ力ニ為シ能フ限リ尽力スヘシ……男爵ハ既ニ紐育州商業会議所会頭ニ面会セラレタルヤ
渋沢男爵曰ク 日本ヲ出発ノ際、貴国公使ヨリ紹介状ヲ附セラレタリト雖トモ未タ面会セス、何レ紐育ヘ帰着ノ上面会スル見込ナリ
ルースヴヱルト氏曰ク 国務長官トモ協議ノ上特ニ同商業会議所会頭ニ照会シ、可及的男爵ノ希望セラルヽ趣旨ノ貫徹スル様心配スヘシ就テハ本日午後男爵旅行ノ目的ヲ摘記シ、余ノ手許迄送ラレタシ
渋沢男爵曰ク 敢テ厚意ヲ謝ス
ルースヴヱルト氏曰ク 高平公使ハ余ノ最モ平素親交シ、且ツ大ニ信頼スル所ニシテ、殊ニ同公使夫人ハ交際場ニ名声アルノ人ナリ、願ハクハ男爵ノ帰朝セラルヽ上ハ相当ノ手続ニヨリ貴国天皇陛下ニ伝奏セラレ、且ツ陛下ノ政府ニモ宜シク之ヲ伝達セラレタシ
渋沢男爵曰ク 諾
因ニ記ス、渋沢男爵ハ六月十六日夜華盛頓ヲ発シ、翌十七日朝紐育ニ帰着シタルカ、此会見ノ結果ニ依リ六月十七日附ヲ以テ大統領ルースヴヱルト氏ヨリ特ニ紐育州商業会議所会頭ジエサップ氏ニ宛テ親署ノ手簡ヲ送ラレタリ、為念其訳文ヲ左ニ示ス
      訳文
拝啓、陳ハ昨日日本公使同席ニテ東京商業会議所会頭渋沢男爵ニ面会候処、同男爵ハ日本商工業ノ発達ニ至大ノ関係ヲ有セラルヽ人ニシテ現ニ日本商工業者ト欧米商工業者トノ間ニ於ケル交誼ヲ親密ナラシメ
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ンコトヲ希望セラレ候、同男爵ハ社交上及商工業上最高ノ地位ヲ有セラルヽノ紳士ニ付、特ニ貴会議所ニ紹介シテ其考慮ヲ煩ハシ候 敬具
  一千九百二年六月十七日
             テヲドール・ルースヴヱルト(親署)
  ニウヨーク州紐育市
    モリス・ケー・ジエサップ殿
    紐育
同年六月二十四日、渋沢男爵ハ一行ヲ随ヘ紐育州商業会議所会頭モリス・ケー・ジヱサップ氏(Mr. Morris K. Jesup.)及同商業会議所理事委員長チヤーレス・ヱス・スミス氏(Mr. Charles Stewart Smith.)ノ招待ニヨリ、紐育パイン街第六十番ダヲンタヲン・アッソシヱシヨンニ至リ午餐ノ饗応ヲ受ケタリ
当日主人側ニ列シタル人々左ノ如シ(会頭モリス・ケー・ジヱサップ氏ハ病気ニ付欠席ス)
 合衆国前大蔵長官
            ヲノレーブル・ライマン・ジエーゲージ
            (Hon.Lyman J.Gage)
 合衆国前内務長官
            ヲノレーブル・コルネリアス・イヌブリッス
            (Hon. Cornelius N. Bliss.)
 合衆国信託会社前社長
            ジヨーン・エ・スチユワルト
               (Mr. John A. Stewart.)
 銀行業者
            ジヨーン・クロスビー・ブラヲン
               (Mr. John Crosby Brown.)
 鉄道及海上保険業者
            エ・フホスター・ヒッギンス
               (Mr. A Foster Higgins.)
 商業者
            ジヨーン・テイ・テッリー
               (Mr. John T. Terry.)
 グリーンウイッチ貯蓄銀行頭取
            ジヨーン・ハルセン・ローヅ
               (Mr. John Harsen Rhoades.)
 紐育州商業会議所前会頭
            アレキサンダー・イ・オアー
               (Mr. Alexander E. Orr.)
 紐育市長
            ヲノレーブル・セス・ロウ
               (Hon. Seth Low.)
 ハノーバル国立銀行頭取
            ジエームス・テイ・ウードワード
               (Mr.James T.Woodward)
 紐育州商業会議所理事委員長
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            チヤーレス・ヱス・スミス
               (Mr.Charles S.Smith.)
 紐育州商業会議所書記長
            ジヨルジ・ウイルソン
               (Mr.George Wilson.)
当日宴会ノ席上ニ於テ、紐育州商業会議所理事委員長チヤーレス・ヱス・スミス氏ハ、会頭モリス・ケー・ジエサップ氏ニ代リ左ノ趣旨ヲ以テ開会ノ辞ヲ述ヘタリ
 諸君、今回日本ニ於ケル最モ富豪者ノ一人ニシテ、現ニ同国商工業ニ至大ノ関係ヲ有シ、且ツ勢力ヲ有セラルヽ東京商業会議所会頭渋沢男爵カ、商工業視察ノ為メ我合衆国ヘ来遊セラレタルハ我々ノ最モ欣喜ニ堪ヘサル所ニシテ、是本日玆ニ諸君ト共ニ同男爵ヲ歓迎スル為メ此会ヲ開キタル所以ナリ、唯時恰モ夏季ニ属シ、会員中旅行者多ク、随テ多数ノ会員ヲ来会セシメ以テ此珍客ヲ迎フルノ機会ヲ得サリシハ我々ノ甚タ遺憾トスル処ナリ、希ハクハ同男爵ニ於テハ之ヲ領意セラレンコトヲ、云々
渋沢男爵ハ、之ニ対シ左ノ趣旨ヲ以テ答辞ヲ述ヘタリ
 本日ハ会頭モリス・ケー・ジヱサップ君及理事委員長チヤーレス・ヱス・スミス君ノ懇篤ナル招待ヲ蒙リ、図ラスモ諸君ト共ニ面識ノ機ヲ得タルハ余ノ大ニ光栄トスル所ナリ、只今スミス君カ余ノ地位ニ関シ述ヘラレタル辞ハ過賞ニ属スルモノアリ、余ノ敢テ当ラサル処ナリト雖モ、只余カ多年日本商工業ノ発達ヲ希図セルノ精神ニ至リテハ、蓋シ自ラ期スル処ナクンハアラサルナリ、余ハ東京商業会議所創立以来引続キ会頭ノ任ニ在ル者ナルカ、此因ミニヨリ曩ニ余カ日本ヲ出発スルニ当リ、当時東京ニ開設中ノ日本全国商業会議所聯合会ハ、我国商工業者ト欧米商工業者トノ間ニ交誼ヲ親密ナラシムルノ必要ヲ認メ、特ニ其決議ヲ以テ余ニ附託スルニ相互ノ間ニ意思ノ疏通ヲ図ランコトヲ以テセリ、此事ハ頃日ワシントンニ於テ貴国大統領閣下ニ謁見ノ節モ陳述シ置キタレトモ、猶本日此機会ヲ以テ一言ヲ諸君ニ呈ス、願ハクハ諸君充分之ヲ領意シテ、今後日米商工業ノ関係ヲシテ益々密切ナラシメンコトヲ、云々
次ニ紐育市長セス・ロウ氏モ亦起テ同男爵ノ為メ挨拶ノ辞ヲ述ヘタルカ、食後猶彼我ノ間ニ充分胸襟ヲ開キ懇談時ヲ移シタリ
同年同月三十日、渋沢男爵ハ市原盛宏氏ヲ随ヘ、米国亜細亜協会ノ歓迎会ニ臨ミタルカ、当日相客ハ高平公使ニシテ、席定マルヤ同協会書記長ジヨーン・フヲルド氏(Mr. John Foord.)ハ同協会ヲ代表シテ左ノ通リ歓迎ノ辞ヲ述ヘタリ
 渋沢男爵閣下、余ハ玆ニ当協会員及其他ノ列席者ニ代リテ閣下ニ一言ヲ呈スヘシ、今回日本ノ理財及商工業ヲ代表セラルヽ閣下カ我国ヘ来遊セラルヽニ際シ、本日閣下ヲ歓迎シ会見ノ光栄ヲ得タルハ、当協会ノ最モ満足スル所ナリ
 回顧スレハ貴国カ封建ノ時代ヲ脱シ、世界ノ最モ進歩シタル国民ト伍スルニ至リタルハ近世史上特筆スヘキ一大現象タリ、而シテ此変革ハ閣下ノ生涯中ニ発現セラレ、其直接ノ結果中現ニ閣下カ親シク
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関与セラルヽモノ多キニ居ルヲ疑ハス
 嘗テ我国ノ提督ペルリーカ貴国ニ到リテ、多年閉鎖セラレタル旧日本ノ門戸ヲ破ルニ当リ、其手段ノ聊カ非礼ニ渉ルモノアリシニ拘ラス、貴国民ノ雅量ニ富ムヤ、今日ニ於テハ何人ト雖トモ之ニ対シテ聊カ悪感ヲ抱クモノナシ、是ヲ以テ一千八百五十四年始メテ条約ヲ締結シタル以来、日米両国ノ和親ハ年ヲ追フテ厚ヲ加ヘ、其貿易亦益々増進セリ、殊ニ地形上距離ノ近接ハ彼我ノ通商ニ便利ヲ与ヘ、両国民ニ共通セル不撓ノ企業心ハ期セスシテ相互ノ同情ヲ結合スルノ情況ヲ呈セリ、是豈両国ノ為メニ欣喜セサルヘケンヤ
 米国ノ資本ハ近時漸ク日本ノ事業ニ注入セラレツヽアリ、現ニ石油業ノ如キ煙草業ノ如キ其実例ニアラスヤ、若シ貴国カ商法ヲ改正シ我国民ヲシテ事業ノ経営上貴国民ト同一ノ便利ヲ得セシムルニ於テハ、我国資本ノ多額カ更ニ益々貴国ニ注入スヘキハ余ノ疑ハサル所ナリ
 想フニ将来日本商工業ノ発達ハ、閣下其人ノ如キ名誉アリ先見アリ且ツ機敏ナル観察ト周密ナル智慮トヲ以テ、国富ノ増進ヲ経営スル人物ノ手腕ニ待ツ所アルハ極メテ明白ノ事実ナリ、左レハ閣下カ今回我国ニ来遊セラレタルハ日米両国間ノ経済上並ニ商工業上ニ新脈絡ヲ形成スルモノニシテ、即チ貴国ノ繁昌ハ我国ノ繁昌ヲ増進スル所以タルヲ失ハス、随テ貴国ノ進歩ハ我国ノ友情的協力ニ待ツ所ナクンハアラサルナリ
 曩ニ日英協約ノ締結セラルヽヤ、当協会ハ此協約ヲ以テ日本ノ国威ヲ維持スルト同時ニ極東ニ於ケル商業ノ門戸開放ヲ維持スルノ保障トシテ祝賀セリ、余輩ハ此協約ヲ以テ東方亜細亜ノ平和ヲ維持スルニ必要ナルモノト信スルト同時ニ、苟モ之ヲ妨ケントスルモノハ独リ日本ノ利益ヲ害スルノミナラス、又北米合衆国ノ利益ヲ害スルモノト認メタリ、仮令我国ハ正式ニ此協約ニ加盟セストスルモ、其政略ハ即チ我国ノ取ラントスルノ政略ナリ、其目的ハ我国ノ達セントスルノ目的ナリ、大英国・日本・合衆国ノ如キ三大国民ノ利害及感情カ斯ノ如ク合同セル以上ハ、地球上如何ナル強国若クハ如何ナル聯合強国ト雖モ、決シテ之ニ対敵スヘキニアラサルナリ、而シテ此合同ハ人類ノ平和及進歩ヲ生スルモノニシテ、又世界生民ノ一半ヲシテ其社会上ニ於ケル地位ヲ高メシメ、物質上ノ幸福ヲ増スモノナリ、貴国民及我国民ノ関係実ニ斯ノ如シ、果シテ然ラハ今後両国ノ人民永ク相親愛シ、相互ノ信用ニヨリテ米国ノ資本ヲ日本ニ注入シ以テ両国ノ人民ヲシテ共ニ大ナル利益ヲ得セシメンコトハ余輩ノ切ニ希望スル所ナリ
 今ヤ閣下ノ如キ、日本ノ商業界中最モ進歩的ニシテ且ツ最モ善良ナル代表地位ヲ有セラルヽ人ノ来遊ハ、以上ノ希望ヲ達スルニ最モ有益ナル助力タラスンハアラス、而シテ今回閣下カ我国ヘ来遊セラレタル実例ハ、必スヤ貴国商工業上ニ高地位ヲ有スル他ノ人々ニモ襲用セラレ、又我国ニ於テ同様ノ地位ヲ有スル人々モ此例ニ依リテ貴国ヘ漫遊ヲ試ムルコトヽナリ、今後太平洋ノ商業カ益々拡張スルニ従ヒ、之ニ密接ナル関係ヲ有スル両国民ヲシテ互ニ其意思ヲ充分ニ
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疏通セシムルノ効果アルヘキハ、余ノ深ク確信スル所ナリ
渋沢男爵ハ、之ニ対シ左ノ趣旨ヲ以テ答辞ヲ述ヘタリ
 書記長フヲルド君、及紳士諸君、余ハ本日米国亜細亜協会ヨリ懇篤ナル招待ヲ受ケ、玆ニ此都会ニ於ケル有力ナル先進諸君ト面識ノ機会ヲ得タルハ、余ノ最モ光栄トスル所ナリ
 蓋シ諸君カ此協会ヲ組織セラレタルノ目的ハ、従来米国ト亜細亜各国トノ間ニ成立セル交誼ヲ益々親密ナラシメ、兼テ其人文ノ発達ト物質ノ進歩トヲ希図セラルルニ在ルヘクシテ、斯ノ如キ協会ノ成立セルコトハ余ノ大ニ歓喜スル所ナリ
 書記長フヲルド君ヨ、貴下カ余ノ地位ニ関シテ述ヘラレタル所ハ稍稍過賞ニ亘ルモノアリ、余ノ敢テ当ラサル所ナリト雖トモ、只余カ多年日本商工業ノ進歩ヲ希図スルノ意念ニ至リテハ、蓋シ自ラ期スル所ナクンハアラス、嘗テ今ヲ距ルコト四十余年前貴国ノペルリー提督カ始メテ我国ニ来リ、当時殆ント昏睡ノ域ニ沈淪セシ我国民ヲ警醒センカ為メ、稍々烈シク我門戸ヲ叩キタルコトアリシハ事実ナリ、然レトモ我国民ハ之ニ対シテ毫モ悪感ヲ抱カサルハ勿論、畢竟スルニ我国カ鎖国ノ旧状ヲ脱シ、泰西ノ文明国ト始メテ条約ヲ締結スルニ至リタルハ、実ニ此警醒ノ然ラシムル所ニシテ、爾来我国民カ政治上ニ軍事上ニ将タ社会上ニ諸般ノ制度ヲ改正シタルノミナラス、商工業上ニ於テモ漸次開発スル所アリタルハ主トシテ貴国ノ親切ナル指導ト同情アル助力トニ負フ所少カラス、此点ニ就テハ我国民カ永ク之ヲ記臆シ、深ク貴国ニ向テ感謝スル所ナリ
 貴国ノ資本ヲ我国ニ注入スルコトニ就テハ、石油業ノ如キ又煙草業ノ如キニ見ルモ、当事者双方共ニ利益ヲ得テ各満足スルノ実蹟アルハ余ノ最モ喜フ所ナリ、蓋シ貴国ノ資本家カ我国民ト共同シテ経営スヘキ事業一ニシテ足ラス、例ヘハ銀行業ノ如キ、信託業ノ如キ、鉄道業ノ如キ、航海業ノ如キ、鋼鉄業ノ如キ、一トシテ共同ノ経営ニ適セサルモノナシ、既ニ石油業ノ如キ煙草業ノ如キ、其新計画ノ第一着ニ於テ好果ヲ奏セルコト斯ノ如キヲ見レハ、今後貴国ノ資本ヲ我国ニ注入スルコトハ前途極メテ好望アリト謂ハサルヘカラス
 玆ニ一言諸君ノ了承ヲ請ハント欲スルモノアリ、曩ニ余カ日本ヲ出発スルニ当リ、当時東京ニ開設中ノ日本全国商業会議所聯合会ハ、我国商工業者ト欧米商工業者トノ間ニ交誼ヲ親密ナラシムルノ必要ヲ認メ、特ニ其決議ヲ以テ余ニ附託スルニ相互ノ間ニ意思ノ疏通ヲ図ランコトヲ以テセリ、此決議タルヤ意義広濶ニシテ聊カ漠然タルノ嫌ナキニアラスト雖トモ、要スルニ我国商工業者カ一般ニ貴国商工業者ニ対シテ好意ヲ有スルコトヲ表明シ、兼テ従来両国商工業者間ニ成立セル交誼ヲシテ一層親密ナラシメントノ趣旨ニ外ナラサルナリ、願ハクハフヲルド君カ先刻演説セラレタルカ如ク貴国ノ有力ナル商工業者カ今後続々我国ヘ来遊セラレ、且ツ清・韓ニ就テモ其実況ヲ視察セラレンコトヲ、是全国商業会議所聯合会ヨリ附託ノ趣旨ヲ達スル所以ニシテ、実ニ我国商工業者ノ最モ熱望スル所ナリ
 貴協会ノ解釈セラルヽ所ニヨレハ、日英協約ハ東洋貿易ノ開放ヲ維持スルノ保障ニシテ、貴国ハ仮令形式上其当事者ニアラストスルモ
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精神上ニ於テハ恰モ日英協約ニ同盟セルモノナリト、余カ本日貴協会員諸君ヨリ此言ヲ聞クヲ得タルハ余ノ最モ満足スル所ナリ、蓋シ此日英協約タル其政治上ノ効果ハ暫ク措キ、兎ニ角商工業上ヨリ之ヲ見ルトキハ、東洋ニ於ケル商工業ノ発達上有益ナル勢力ヲ与フルモノト謂ハサルヘカラス、此ノ如キ平穏ナル勢力範囲内ニ於テ貴国ノ資本家カ東洋ニ著目シ、我国民ト共同シテ清・韓ノ富源ヲ開発スルヲ得ハ同盟ノ効果蓋シ他ニ之ヨリ有益ナルモノアラサルヘシ
 我国ハ貴国ニ比シ地積及富源ニ於テ著シク譲ル所アル而已ナラス、事業上ノ智識ト経験トニ於テモ亦大ニ及ハサルモノアリ、然リト雖トモ我国ノ清・韓ニ於ケル其距離ハ僅ニ一葦帯水ノミ、随テ我国ハ多クノ文字ヲ共通シ、其風俗人情ノ近邇セル点ニ於テ特種ノ便利ヲ有スルノミナラス、殊ニ清国ハ日清戦役以来近世ノ文明ヲ輸入スルニ意アリ、我国ヲ目スルニ其模範者若クハ指導者ヲ以テシ、爾後益益我国ニ親善スルノ傾向アリ、此際我国ノ有スル特種ノ便利ニ結合スルニ貴国ノ低利ナル資本ト優等ナル智識経験トヲ以テシ、互ニ相提携シテ清・韓ノ富源ヲ開発スルハ豈目下ノ急務ニアラスヤ
 余ハ終ニ臨ンテ一言ス、願クハ貴協会ニ於テハ鋭意前述ノ目的ヲ遂行スルコトニ努力セラレ、以テ東洋諸国ノ富源ヲ開発セラレンコトヲ、是レ独リ東洋ノ為メノミナラス、亦実ニ貴国ノ進歩ト繁栄トヲ増進スル所以ナリト確信ス
次ニ高平公使ハ、左ノ如ク挨拶ノ辞ヲ述ヘラレタリ
 渋沢男爵ハ多年我国商工業ノ発達ニ尽瘁セラレ、現ニ我国商工界ニ於テ枢要ノ地位ヲ占ムル人々中ニハ男爵ノ後進者タル者頗ル多シ、左レハ男爵カ此海外旅行中見聞セラルヽ所ハ、其種類ノ何タルヲ問ハス共ニ我日本ノ後進者ニ取リテ尠カラサル利益アルヘキヲ信シテ疑ハサルナリ、男爵ノ我商工界ニ於ケル地位ハ実ニ斯ノ如シ、故ニ此米国亜細亜協会カ斯ノ如キ盛宴ヲ開テ男爵ヲ歓迎セラレタルハ、独リ男爵ノ光栄ナルノミナラス、又実ニ我々日本人ノ光栄タラスンハアラス、申ス迄モナク太平洋上ノ商業ハ日米両国人ノ共同ニ待ツモノ多シ、男爵カ今回ノ一遊ハ、蓋シ男爵ヲシテ此日米両国人共同ノ楔子タラシムルニ至ルヘキヲ信シテ疑ハサルナリ
    ボストン
同年六月二十六日、渋沢男爵ハ堀越商会堀越善重郎氏同道、萩原源太郎及八十島親徳ノ両氏ヲ随ヘ、ボストン商業会議所ヲ訪問シタルニ、会頭リンコルン氏(Mr. William H. Lincoln.)ハ副会頭ブラヲン氏(Mr.L.S.Brown.)其他重立タル会員数名ト共ニ之ヲ待受ケ、同男爵及一行ヲ別室ニ延テ会見シタリ、当日列席者ノ氏名ハ左ノ如シ
 ボストン商業会議所会頭
            ウイルリアム・エッチ・リンコルン
               (Mr.William H.Lincoln.)
 同副会頭
            エル・エス・ブラヲン
               (Mr.L.S.Brown.)
 同書記長
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            エルウイン・ジー・プレストン
               (Mr. Elwyn. G. Preston.)
 同会計主任
            ダニール・デイ・モルス
               (Mr. Daniel D. Morss.)
 同常議員
            アモス・ヱス・クレーン
               (Mr. Amos S. Crane.)
 同同
            ヱドワード・シー・ポール
               (Mr. Edward C. Paull.)
 同同
            ホワード・ピー・ハリス
               (Mr. Howard P. Harris)
 同同
            ダニール・ダブルユー・ランレット
               (Mr. Daniel W. Ranlet.)
 同不動産管理委員長
            ウイルリアム・オー・ブラニー
               (Mr. William O. Blaney.)
 同不動産管理委員
            アーサー・ヱル・ロビンソン
               (Mr. Arthur L. Robinson)
 同前会頭
            ハルシー・ビー・グードウイン
               (Mr. Hersey B. Goodwin.)
 同仲裁委員長
            フランク・エ・ノヰス
               (Mr. Frank A. Noyes)
 ステート・ミルリング会社々長
            バルナード・ジエー・ロスウエル
               (Mr. Barnard J. Rothwell.)
渋沢男爵ハ先ツ来意ヲ告ケ、且ツ曰ク 余カ曩ニ日本ヲ出発スルニ当リ、当時東京ニ開設中ノ日本全国商業会議所聯合会ハ、我国商工業者ト欧米商工業者トノ間ニ交誼ヲ親密ナラシムルノ必要ヲ認メ、特ニ其決議ヲ以テ余ニ附託スルニ相互ノ間ニ意思ノ疏通ヲ図ランコトヲ以テセリ、是紐育滞在ノ余閑ヲ以テ貴地ニ来リ本日貴会議所ヲ訪問シ貴下ニ会見ヲ求メタル所以ナリ、願ハクハ貴下ニ於テ充分之ヲ領意セラレ、貴会議所会員諸君ニモ宜シク伝達セラレンコトヲ云々
リンコルン氏曰ク 委細貴意ヲ領セリ、今回男爵カ商工業視察ノ為メ我合衆国ヘ来遊セラレタルハ本会議所ノ最モ欣喜スル所ナリ、就テハ本会議所ニ於テモ男爵カ当地ヘ来着セラレタルヲ機トシ歓迎ノ設備ヲ為シタク希望セリト雖モ、聞ク所ニヨレハ明日早朝当地ヲ発シ紐育ヘ帰着セラルヽ趣ニテ、其希望ヲ達スルヲ得サルハ甚タ遺憾ト
 - 第25巻 p.194 -ページ画像 
スル所ナリ、云々
右ノ外、猶ボストンノ商工業又ハ合衆国実業ノ進歩発達等ニ関シ彼我ノ間ニ種々ノ談話アリ、夫ヨリ会頭リンコルン氏及書記長プレストン氏ノ案内ニテ、同会議所ニ於ケル相場ノ通信及各重要商品集散高調査ノ模様等ヲ観覧シ、種々説明ヲ得タリ
○下略


渋沢栄一書翰 写 林董宛 (明治三五年)六月一九日(DK250008k-0005)
第25巻 p.194 ページ画像

渋沢栄一書翰 写   林董宛 (明治三五年)六月一九日  (財団法人竜門社所蔵)
客月廿二日附貴翰紐克府着之後落手拝見仕候、高台益御清穆敬賀、小生も漸く当地迄罷越申候、偖貴地之状況ハ例之御祝典ニて非常ニ御取込ニ付、都合ニより少々延引候方却而可然との来示拝承仕候、当米国之模様も他之地方ハ僅ニ一・二泊位ニて所謂雲煙過眼ニ打過候得共、紐克府ニハ少々引合向も有之、又高平公使・内田領事抔も種々心配いたし呉、余り僅少之時日ニて重立候人々ニ面会出来兼候様ニてハ跡々之都合もよろしからす抔被申聞候旁、来示も有之候ニ付、予期之時日を変更し、来月二日発之マセスチツク号ニ乗組候事ニ決定仕候(最初之見込ハ六月廿五日開帆之オセヤニツク号なりしを一週間相延し候義ニ候)依而英京到着之時日ハ七月八・九日と相成可申と存候ニ付、御含可被下候
倫敦滞在中之宿所ハ三井物産会社渡辺専次郎ニ頼置候ニ付、リバプール着船之際ニハ電報も可差出と存候得共、旅宿之事ハ物産会社ニ御聞合被下候ハヽ相分り可申と存候
ベーリンブロブルより派出せしビセツト氏ハ最早帰国之筈と存候得共其後之消息相分り兼候、同人日本滞在中引合置候都合ハ、小生貴地着之上詳細申上、此上之御高配相願候積ニ御座候、尚此鉄道会社関係以外之要件も一・二有之候ニ付、是又拝眉之上申上御添心相願申度と存候、いつれ近日貴地着之上万申上候筈ニ候得共、来示ニ従ひ一便延引致候義申上候旁、拙翰奉呈仕候 匆々不宣
  六月十九日           紐克府ニ於て
                      渋沢栄一
    林公使閣下
          侍史


竜門雑誌 第一七〇号・第二六―二七頁 明治三五年七月 ○青淵先生より渋沢社長に宛てたる手翰(DK250008k-0006)
第25巻 p.194-195 ページ画像

竜門雑誌  第一七〇号・第二六―二七頁 明治三五年七月
    ○青淵先生より渋沢社長に宛てたる手翰
昨日来両通の書状相認候後、貴方五月三十日附御状只今落手両地ともに平安の義は安心致候、別封に申進候如く船中は一時閑暇なりしも、米国着後は諸事遊覧の為めに忙しく、紐克府到着の後は日々諸事訪問と名士の来訪とにて、真に寸暇も無之有様に御座候、今日抔も早朝より瓦斯工場と電気工場とを一覧の為め三・四時間相掛り帰宿昼食、直に来人有之、殊に紐克市長抔来訪種々の市政等に関する談話に数時相掛り、従是他の案内にて夜食に罷越候筈に候、明日はナイヤガラ見物に罷越候都合にて、二十三日帰府、直に其の昼と夜とに両度の約束有之、廿四日には商業会議所より案内せられ候など、引続き只忙殺と申
 - 第25巻 p.195 -ページ画像 
す有様に御座候
大川老人病気の模様御申越相成驚入申候、平三郎氏も既に遠州より帰京と申事に候はゞ、猶田中とも相談看護に手抜無之と存候へ共、御心添可相成候、穂積歌子より被相送候和歌は至極面白く候、此方は其の後多忙の為め韻事等は忘却仕候、其の中船に乗り候はゞ何か相考可申と存候
右は御答旁一書如斯に御座候
  六月廿日                   栄一
    渋沢篤二殿


東京経済雑誌 第四六巻第一一四三号・第二〇六―二〇七頁 明治三五年八月二日 米国便り(六月三十日紐育発)(男爵渋沢栄一)(DK250008k-0007)
第25巻 p.195-196 ページ画像

東京経済雑誌  第四六巻第一一四三号・第二〇六―二〇七頁 明治三五年八月二日
    米国便り(六月三十日紐育発)(男爵 渋沢栄一)
拝啓、時下益御清栄奉敬賀候、陳は小生等の一行は去五月十五日横浜出帆、二十三日ホノルヽに着一泊、翌二十四日同地を発し三十日無事桑港に安着致候、同地に四泊し、六月三日同地を発しサルトレーキ・シチー、デンワル等を経、八日シカゴーに着二泊し、十一日同地を発しピツツボルクを経、十二日ヒラデルヒアに着一泊し、翌十三日同地を発し即日当紐育に着、爾来今日迄同地に滞在致候、当紐育滞在中時期を見ワシントン、ナイアガラ、ボストンも一遊を試み候、兼て六月二十五日ホワイト・スタール会社汽船「オシアニツク」号にて英国に渡航する予定の処、高平公使より米国滞在の日数短期に失するの憾あり、就ては今少しく期日を延し、米国商工業者中可成多数の有力者に会談するの機会を得候方、彼我懇親上裨益可有之旨懇切に勧告の次第も有之、又林公使よりも現時竜動に於ては載冠式の為め一般に雑踏し殊に商工業者の如きは最も繁忙を極むるの際なれば、同地への来着は数日間延期候方可然旨来信有之、依て出発の期日を延引し、愈来七月二日ホワイト・スタール会社汽船「マジエスチツク」号にて出発の事に決定致候、扨て兼て東京出発前商業会議所聯合会より附託の件は、当合衆国に到着以来常に其注意を怠らさる所に有之候、尤も桑港に於ては商業会議所、シカゴーに於ては「ボールド・ヲフ・トレード」、ヒラデルヒアに於ては商品陳列館等を訪問したるも、滞在日数少く右附託の趣旨を充分貫徹するの機会を得さりしが、過日ワシントンに於て大統領へ謁見の際(別紙第一号参照)、当紐育に於て商業会議所会頭ジエサツプ氏及理事委員長スミス氏主催の午餐会に於て、同会議所会員の有力者に会見したる際(別紙第二号参照)、及ボストンに於て商業会議所会頭リンコルン氏、副会頭ブラヲン氏其他同会議所会員中の有力者に会見したる際(別紙第三号参照)には、本件に関し充分其趣旨を表明し、猶右の外当紐育滞在中エジソン会社々長ブラツデー氏主催の晩餐会、相互生命保険会社々長マツカジー氏主催の午餐会、シチー・ナシヨナル・バンク頭取スチールマン氏主催の晩餐会等に招待を受けたる際には、合衆国信託会社々長ゲージ氏、(前大蔵長官)フホルストナシヨナル・バンク頭取ベーカル氏、スタンダード石油会社々長ロツクヘーラー氏、モルトン信托会社々長モルトン氏、ナシヨナル・バンク・ヲフ・コムマルス頭取ヘンドリツクス氏、シチー・ナシヨナル・
 - 第25巻 p.196 -ページ画像 
バンク副頭取ワンデリツプ氏其他紐育に於て最も知名なる商工業者数名に会合して、彼我打解け懇話を交ふるの機を得候に付、其都度相互の間に意思の疏通候様尽力致候、固より其効果の如何に就ては今日に於て明言難致候得共、之を要するに前記商業会議所聯合会より附託の趣旨は、大統領を始以上諸氏の間には稍領意せられたる事と存候、猶欧洲に於ける摸様は他日更に御報道可致候得共、当合衆国の摸様は不取敢其経過の大要を御報道致候間、聯合各会議所並に東京商業会議所会員諸君へも宜しく御伝達相願候、先は此段得貴意候、早々頓首
○下略
   ○別紙第一号乃至第三号ハ「渋沢男爵欧米漫遊報告」第一〇頁ヨリ第三三頁ニ至ル間ノ記事トホヾ同様ニ付キ略ス。
   ○本書翰名宛ハ東京商業会議所副会頭大倉喜八郎及ビ井上角五郎両人ナリ。


竜門雑誌 第一七〇号・第二四―二六頁 明治三五年七月 ○渋沢男爵米国大統領に謁見す(萩原源太郎)(DK250008k-0008)
第25巻 p.196-198 ページ画像

竜門雑誌  第一七〇号・第二四―二六頁 明治三五年七月
    ○渋沢男爵米国大統領に謁見す(萩原源太郎)
  本編は青淵先生が大統領ルーズヴエルト氏に謁見、国務卿ヘー氏と会見中に為せし問答録にして、其席に陪せし東京商業会議所書記長萩原源太郎君の筆記に係れり
 渋沢男一行は六月十三日米国紐育に着し、同十五日ワシントン府に至り、翌十六日午前十一時高平公使同道、大蔵長官シヨウ氏に面会し、引続き国務省に至り国務長官へー氏に面会し、夫れより十一時四十分更に大統領ルーズヴエルト氏に謁見したり、大統領は男爵を其官舎なるホワイト・ハウス階上の書斎に延見し、懇談卅分余に渉りたり、蓋し稀有の特例たりと云ふ、其会見の詳細左の如し
    △国務長官へー氏との会談
渋沢男先づ来意を告げたるに、へー氏は椅子を与へて着座を勧め且つ曩に貴国より松方伯来遊され今又男爵の如き親しく実業に従事し経済的眼識に富まるゝ紳士の来遊せられたるは余の大いに満足する処なり
渋沢男曰く 余は夙に貴国進歩の著名なるを聞き、一度其実況に接したく思居りしも、種々の故障ありて其素志を果たすの好機を得ざりしが、今回図らずも欧米遊行を思立ち、先づ貴国進歩の実況を見、殊に今日閣下に拝謁するの機会を得たるは、余の尤も光栄とする処なり、余は貴国に上陸以来日尚浅しと雖も、其見聞する処に依れば百事其進歩の壮大なるは只々敬服の外なし
へー氏曰く 近時貴国に於ては種々の点に於て長足の進歩をなし、其名声世界に嘖々たりと聞く、是れ余の私に敬慕する所なり
渋沢男曰く 我が日本は開国以来貴国の誘導に依り稍や国運の進歩を見たりと雖も、其実力猶ほ未だ充分に発達せざるは余の私かに遺憾とする処なり、蓋し昔時封建の余風として世間に軽視せられたる商業も近時稍々重視せらるゝ処となりたれば、此上は世界的進歩の方針をとり、内外の協力に依り富を開発するの必要を認む、就ては欧米商工業者と我国商工業者との間に益々懇親を厚ふし、時宜に依りては相提携して国家の進歩を希図せんことを望む、是れ実に日本全国商業会議所が其望みを同ふして余に之れを附托したる所なり
 - 第25巻 p.197 -ページ画像 
へー氏曰く 男爵の希望せらるゝ所は、余の共に希望する処にして、我が商工業者に於ても亦固より同感なるを信ず、就ては余は可及的男爵の希望せらるる趣旨を貫徹せんことに尽力すべし、云々
    △大統領ルーズヴエルト氏との会談
渋沢男は先づ来意を告げ且つ曰く 今回不図貴国に来遊の機会を得て今日図らず拝謁するを得たるは、余の大に光栄とする処なり
ルーズヴエルト氏曰く 男爵の来遊は何れの途を採られたるや
渋沢男曰く 去月下旬桑港に上陸し、シカゴ、ピツツボルグ、ヒラデルヒヤ等を経て、両三日前紐育に到着せり、由来日本が今日の地位に達したるは実に貴国に負ふ所少しとせず、是我国人が常に貴国に向て感謝する処なり
ルーズヴエルト氏曰く 貴国近時の進歩は余の予て伝承する所なり、由来貴国の美術は世界に冠絶すと称せられ又貴国の軍事に至りても其名声嘖々たるものあり、現に清国事変の後彼地より帰りたる将校等より聞く処に拠れば、貴国軍隊の勇武なるは露国・独国・仏国は勿論英国と雖も共に皆賞賛する処にして特に其行為の厳正なるは我合衆国軍隊の模範とするに足るべしと云へり、是れ余の大に敬慕する処なり
渋沢男曰く 我国の美術及び軍事に関し、閣下より賞賛の辞を聞くは実に満足の至りに堪へず、併し余は現に実業に従事するものなるが、我国の商工業は夫の美術・軍事等に比すれは其名声極めて寂々たるの感あり、故に余は今後益々奮励して商工業の発達に勉め、他日再び閣下に拝謁するときは閣下より我国の商業に関し更に同一の賛辞を辱ふせんことを期す
ルーズヴエルト氏曰く 男爵の所見は大いに余が意を得たるものあり今後男爵にして益々貴国商工業の発達に勉めらるゝに於ては、必ずや其結果を見るべきは余の確信する処なり、之を要するに余は男爵の所見に対し、熱誠なる同情を表するものなり
渋沢男曰く 余の見る処にして幸に閣下の同情を辱ふしたるは、余の大に満足する処にして、是れ余が永く記憶して忘れざらむと欲する処なり、此の事は帰朝の上特に我国の商工業者に通じて其注意を喚起せんことを期す、猶玆に一言したきは、余が日本を出発するに当り、日本全国商業会議所は、我国商工業者と欧米商工業者との間に交誼を親密ならしむるの必要を認め、特に其決議を以て余に附托するに、相互の間に意思の疏通を図らんことを以てせり、余の不才なる或は其任に堪へ得べきや私に懸念に堪へずと雖も、苟も機会あらば可及的其趣旨の貫徹せんことに勉むる考なり、願くば閣下之れを領意せられ度し
ルーズヴエルト氏曰く 男爵の希望せらるゝ所は余も亦大に希望する処なり、就ては欣然余の力に為し能ふ限り尽力すべし、男爵は既に紐育商業会議所会頭に面会せられたるや
渋沢男曰く 出発の際貴国公使より紹介を附せられたりと雖も、未だ面会せず、何れ紐育へ帰着の上面会する見込なり
ルーズヴエルト氏曰く 国務長官とも協議の上、特に同会議所の会頭に照会、可及的男爵の希望せらるゝ趣旨の貫徹する様心配すべし、就ては本日午後、男爵旅行の目的を摘記し余の手許迄送られ度し
 - 第25巻 p.198 -ページ画像 
渋沢男曰く 敢て閣下の厚意を謝す
ルーズヴエルト氏曰く 高平公使は余の平素尤も親交し、且つ大に信頼する処にして、特に同公使夫人は交際場裏に名声ある人なり、願くば男爵の帰朝せらるゝ上は、相当の手続により貴国 天皇陛下に伝奏せられ、且つ陛下の政府へも宜しく之れを伝達せられ度し
渋沢男曰く 諾
右にて全く会談を了りたり
   ○「東京日日新聞」第九二三七号(明治三五年七月一八日)ニ右ト殆ト同一ノ記事アリ。


竜門雑誌 第一七〇号・第一四―一七頁 明治三五年七月 ○青淵先生漫遊紀行(其二)(八十島親徳)(DK250008k-0009)
第25巻 p.198-200 ページ画像

竜門雑誌  第一七〇号・第一四―一七頁 明治三五年七月
  ○青淵先生漫遊紀行(其二)(八十島親徳)
○上略
    △紐育着
午後六時 ○六月一三日一行汽車に搭して費府を発し同八時紐育津に着す、堀越善重郎氏及長崎剛十郎氏を始め日本人三十余名出迎はれ津を渉りて午後九時二十三丁目停車場に着す、内田総領事・同令夫人・瀬古・岩下氏外三十余名出迎ひ、一行は馬車にてホテル・マゼスチツクに投す
六月十四日 晴、在留本邦紳士・紐育諸新聞記者等朝来来訪の為め、先生始め一行終日在宿殆と迎接に遑あらず、午後六時堀越善重郎氏の招待に依り、日本料理店倉田屋に到る
    △紐育市(第八信)
                    (米国紐育六月十九日発)
六月十五日 晴、紐育目今の気候は宛も東京に於ける七月中旬に匹敵するものあり、寒暖計日に八十八九度より九十度に及び炎威実に燬くが如し、午前中はセントラル・パークを観覧し、故グラント将軍の墓に詣つ、一行今日迄甚しき失策をなしたる者なきも、米人中には往々に一行の身分を誤解し、シカゴ・トリビユーン新聞の如き余を指してヴアイス・ブレシデントと称し、又或宴会に於ては渋沢元治君を令息と呼へり、好一対の誤認と称すべきか、又先生と同令夫人と馬車を同ふせられ、之に市原氏と西川令嬢と陪乗するに当りては宛も両親附添の新婚旅行の観あり、差向き我々はベスト・メンの地位にて幾分か焼け気味なきに非らず、呵々
午後二時四十五分発汽車にて先生以下華盛頓市に向ひ、同八時卅分着中村公使館書記官等出迎えられ、直にニユー・ウヰラー・ホテルに投宿す、此夜高平公使・中村書記官等先生を訪問せらる
    △大統領に謁見
六月十六日 午前晴、午後雨、先生は午前中高平公使と共に大蔵卿シヨー氏・国務卿ヘー氏等を各其官庁に歴訪し、午後零時四十五分ホワイト・ハウスに於て大統領ルーズベルト氏に謁見し、市原盛宏氏の通訳に依り約三十分間対談せらる、先導は高平公使にして、一行中よりは梅浦・萩原の両氏随従せり
対談の要旨は、大統領先つ日本の軍事上の発達、美術の精巧等を賞讚し、先生は米国商工業の非常に盛大なるを頌し、更に進て後日本邦に
 - 第25巻 p.199 -ページ画像 
於ても米国を始め先進国の例に傚ひ益々商工業の進歩と発達とを努め他日再ひ謁見を得たる際には今日の軍事及美術に対する褒辞を我商工業に向て下さるゝの機到らんことを望む旨を対え、大統領は之に対して、其時機の到る決して多年を要せさるへしと述へ、且つ先生か我商工業者の希望する彼我意志の疏通なる義に就て述ぶる所ありしに、大統領は之に対しては熱心に耳を傾けられ、可及的尽力する所あるべしと答え、且つ米国に於ける重なる商工業者に対し親署の紹介状を贈与せられたり
又談話中大統領は、現任高平公使の適任なるを称し、且つ公使夫人の交際場裡に花を添ゆるを賛したりと、要するに大統領は非常の好意を以て先生に接し、其対談の間相互の意思大に疏通するものありたりと云ふ、午後観光其序次左の如し
 大審院・上院・下院

図表を画像で表示大審院・上院・下院

 上院傍聴 定員七十余人、中出席二十人、傍聴者二百余人。宛もイリノイ選出レパブリカン党のカロン氏、パナマ運河案の賛成演説中なりき 下院傍聴 定員三百七十人、中出席二百五六十人、傍聴人三百余人、バンダーソン氏議長として議場を整理す、カリフオルニヤ選出アロン氏演説中 



 内外人共傍聴は随意なり、次に下院附属の図書館を見る
 午後三時電気鉄道に搭し、アレキサンドリア市を経て十四哩程なるモントウエノンに赴き、国祖ワシントンの墓に展す
午後八時日本公使館に招かる、先生及令夫人を正賓とし、梅浦・市原萩原・渋沢(元治)の諸氏、西川嬢並に余も其席に陪す、主人側よりは高平公使及令夫人を始め渡辺砲兵大佐、小松・中村両書記官、埴原外交官補・速水書記生・スチーブンス顧問等列席、一同歓を罄して辞し、夜半十二時発汽車にて紐育に向け帰途に上る
    △紐育滞在
六月十七日 晴、午前七時半華盛頓市より帰着、先生は午前十一時を以てアメリカン・トバコ・コムパニー社長ヂユーク氏を訪問せり、午後四時紐育瓦斯会社々長プレデー氏来訪会談、同八時モルトン・トラスト会社々長モルトン氏及びホイトネー氏来訪接見せり
六月十八日 晴、午前先生には合衆国トラスト・コムパニー社長ゲージ氏を訪問し、次でブレデー氏を訪ひナシヨナル・シチー・バンク頭取スチルマン氏にも面会せり、午後には商業会議所を訪ふ、会頭旅行中なりしを以て書記長に面会す、其より市庁にセスロー市長と会談し更に株式取引所を観覧して、紐育商業の中心地たるダウン・タウンを巡覧し、ブルークリン橋上の繁昌を見て一先づ旅館に帰る
午後七時在留官民の招待に依り料理店シエリーに赴く、主人側よりの出席員は
 内田定槌   内田夫人   田中都吉   長崎剛十郎
 長崎夫人   荒牧国三郎  村井保固   村井夫人
 手塚国一   上野昭道   佐藤永孝   古谷竹之助
 大谷幸之助  堀越善重郎  瀬古孝之助  岩下清朝
 牛窪第次郎  高橋徳治   山田馬次郎  阪部次郎
 頭本元貞   原鶴次郎   高峰譲吉   高峰夫人
 河村静三   茂木喜太郎  和田森菊次郎
 - 第25巻 p.200 -ページ画像 
等の諸氏にして、内田総領事・頭本・上野諸氏のテーブル・スピーチあり、客の側に於ては青淵先生・梅浦・市原両氏の謝辞を兼ねて同しくテーブル・スピーチを試み、非常の盛況を極む
六月十九日 曇、高田商会のヨング氏、米国貿易商会のスケープンス氏、内田総領事等を始め内外紳士数名来訪せり、先生には旅館に在りて諸般の調物並に書状の認め等に従事せり
一行当初の予定は本月二十五日を以て紐育を発し渡英する筈なりしも英国皇帝戴冠式の前後は、倫敦の旅館孰れも輻輳甚しかるべきを察したると、視察要務の都合とに依り、日程を変更して紐育発を七月二日と改定せり


竜門雑誌 第一七〇号・第四二―四三頁 明治三五年七月 欧米漫遊中之青淵先生(DK250008k-0010)
第25巻 p.200-201 ページ画像

竜門雑誌  第一七〇号・第四二―四三頁 明治三五年七月
  欧米漫遊中之青淵先生
    ○青淵先生の消息
○上略
同 ○六月十四日 紐育に着、ホテルマジエスチツクに投宿せらる
同十五日 紐育を発し華盛頓に至り「ニウ・ウイルラルド・ホテル」に投せらる
同十六日 先生には高平公使同道、市原盛宏氏を随へ、大蔵長官シヨウ氏・国務長官へー氏を訪問し、夫より更に高平公使同道、梅浦精一市原盛宏・萩原源太郎の三氏を随へ大統領ルースベルト氏に謁見せらる、午後中村書記官の案内にて大審院に至り、夫より上院及下院に至り暫時其議事を傍聴し、夫より衆議院附属書籍館を一覧し、夫より更にマウントワルノンに至り、初代大統領たりしジヨルヂ・ワシントンの墳墓に参詣せらる、此夜華盛頓を発し紐育に向はる
同十七日乃至七日二日 紐育滞在中先生には公私の用務最も繁忙を極め、或は各所の工場を一覧し、或は土地富豪家の招待を受け、日本人在留者の歓迎会に臨み、其間又各方面の来訪客に接する等実に寸暇なき有様にて、随て一行の者亦殆ど安眠するの暇を得ざるの有様なりし斯の如く先生には公私繁忙なりし為め、兼て六月二十五日紐育を発し英国に向ふ予定なりしも、不得已之を延期して七月二日紐育を発することに決せられたり
七日二日 紐育を発して英国に向はる
七月十一日 無事倫敦に到着せられたる旨電報ありたり
    ○青淵先生と米国大統領・国務卿及大蔵卿
青淵先生には六月十六日高平公使同道、市原盛宏氏を随へて大蔵卿シヨウ氏・国務卿ヘー氏を訪問せられ、夫れより更に高平公使同道、梅浦精一・市原盛宏・萩原源太郎三氏を随へ大統領ルーズヴヱルト氏に謁見せらる、大統領には先生を其官舎「ホワイト・ハウス」階上の書斎に延見せられ懇談三十余分に渉りたり、是れ蓋し稀有の特例なりとぞ、其会見の模様及問答の筆記等は、本号通信欄萩原源太郎氏の筆記に審なれば玆に再録せず
    ○米国大統領の青淵先生紹介状
青淵先生が去六月十六日米国大統領ルースヴヱルト氏に謁見せる結果
 - 第25巻 p.201 -ページ画像 
に依り(萩原氏の筆記文参照)ルースヴヱルト氏より特に紐育商業会議所会頭ジヱサツプ氏に送りたる青淵先生紹介の親書は左の如しと云
 拝啓、陳は昨日日本公使同席にて東京商業会議所会頭渋沢男爵に面会候処、同男爵は日本商工業の発達に至大の干係を有せらるゝ人にして、現に日本商工業者・欧米商工業者との間に於ける交誼を親密ならしめんことを希望せられ候、同男爵は社交上及商工業上最高の地位を有せらるゝ紳士に付、特に貴会議所に紹介して其考慮を煩はし候 敬具
  一千九百二年六月十七日
             テヲドール・ルーズヴヱルト(親署)
  ニウヨーク州紐育市
    モリス・ケー・ジヱサツプ殿


竜門雑誌 第一七一号・第七―一五頁 明治三五年八月 ○青淵先生漫遊紀行(其三)(八十島親徳)(DK250008k-0011)
第25巻 p.201-207 ページ画像

竜門雑誌  第一七一号・第七―一五頁 明治三五年八月
  ○青淵先生漫遊紀行(其三)(八十島親徳)
    △「コンソリデーテツド」瓦斯会社(第九信)
                 (米国紐育六月廿五日発)
六月二十日 本日青淵先生以下男子一統は、有名なる瓦斯及電気会社長プレヂー氏より、特に令息を派して迎えられ、電気自動車に駕して「コンソリデーテツド」瓦斯会社二十一町目水性瓦斯工場・十四町目石炭瓦斯工場及び紐育「エヂソン・コムパニー」(電気原動力供給業)等を見る
抑も紐育市には従来九個の瓦斯会社存立せしを、プレヂー氏の力に依り悉く之を併合して一会社となし、其名称を「コンソリデーテツド」瓦斯会社と改称す、而して近来に至りては復同氏の力に依り此大瓦斯会社に「エヂソン・コンパニー」を併合したれば、名は瓦斯会社と称するも其実際に於ては紐育市全体に於ける瓦斯・電気一切の会社を網羅せるものなりとす、今左に所観二・三工場の概況を紹介すべし
 紐育「エヂソン・コムパニー」
  電気動力供給の会社にして、本支工場を合せ総馬力三十五万馬力当工場のみにて十一万八千馬力を有す、但し現今は八千馬力を動かし石炭一日二百五十噸を使用す、悉皆運転する時は一日千噸を要すと云ふ、汽機汽缶の数共に五十六個、一個の馬力二百五十馬力なりと云ふ
 瓦斯会社二十一町目工場
  当工場は元石炭瓦斯のみを製出せしか、千八百八十八年水性瓦斯製造に変更したるものにして、一日二千万立方尺を製出するの力あるも、頃者は一日八百万立方呎を販売せりと云ふ、而して千立方尺の価は一弗にして、需要者の内訳百分比例は約左の如しと
   灯火用  五〇   庖厨用  三〇   熱用  一〇
   動力用  一〇
  右は単に当一工場のみの概況なれと、元九会社を併合したるものなれは其大瓦斯会社全体の工場を総括する時は其資本金八千万弗配当は年八朱にして、瓦斯の販売高、冬季に在りては一日八千万
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立方尺、夏季に在りても尚一日三千五百万立方尺を下らすと云ふ
 瓦斯会社十四町目工場
  当工場は旧式の石炭瓦斯を製する工場なりとす
午後紐育市長セス・ロー氏、一行の旅館を訪問し、先生と会談する事三十分、午後七時高峰博士の案内に依り日本料理店西宮に到り日本食の饗応を受く、内田総領事亦臨席せり
    △ナイアガラ瀑布
六月二十一日 雨、今朝八時三十分中央停車場発の急行列車に搭し、先生以下ナイアガラ瀑布見物の途に上る、一行の外堀越善重郎・エヴリーの両氏同行す
往く往くハドソン河辺の青山緑水を賞し、オルバニー、ユチカ、シラキユース、ロチエスター、バツフアロー等を経て午後五時三十分ナイアガラに着し、「インターナシヨナル・ホテル」に投す、同ホテルは亜米利加側の瀑布に接し、庭園より歩して瀑布の上に出つるを得へし、投宿の後庭園を経てゴート・アイランド並にスリー・シスター島等を逍遥す、風光の明媚、規模の壮大、到底筆紙の能く尽す所にあらず
    △「ナイアガラ」水力電気会社
六月二十二日 晴、午前先生以下一行ナイアガラの釣橋を渡りて加奈陀側に出て、往く往く勝景を賞して焚燃泉《バーニングスプリング》を見、更に休憩所より一同合羽を纏ひ岸上より昇降機《エレヴエートル》に倚りて崖下なる瀑布の下に降る、飛沫濃霧を生し宛も竜の淵に躍りて雲を起せるが如く、爽涼の気膚に徹して夏尚ほ寒きを覚ゆ
午後「ナイアガラ・ゴージ・レールロード」会社々長の好意を以て特に差向けられたる同氏自用の電車に搭し、更に下流の見物をなす、行程七哩余、峡間の右岸に沿ひリユーストンに往復す、激流奔湍、奇勝画も亦及ばず、先生も真に連日多忙の疲労を癒せられたるが如し、午後三時有名なる「ナイアガラ」水力電気発電所を見物す、同社(ナイアガラ・フオール・パワー・コムパニー)副社長ランキン氏懇切に案内せらる、蓋し当発電所は世界第一のものにして現に五千馬力の「ダイナモ」十個を運転し、今更に十一個を増設するの工事中なり
水力は瀑布の上流より之を工場内に導き、鉄管を以て地下百四十尺の深さに落下せしめ、其の力を以て機械を運転し、更に其動力を工場内地上の発電機に伝ふ、其使用を終りたる水は千七百尺の隧道を穿ち之を瀑布の下流に放流す、而して電力は目下二十五・六哩以内の距離内に供給するに過ぎざるも、早晩トロント地方即ち百哩内外の距離に迄及ほす計画なりと云ふ、其一馬力一ケ年の使用料は二十弗なり
大瀑布の見物を終へ一先づホテルに帰へり、晩餐を終りて後午後七時発夜行列車に搭し、紐育に向け帰途に上る
    △ブレヂー氏の宴会
六月二十三日 晴、午前七時三十分紐育に帰着す、先生には正午米国貿易商会のスチープン氏に招かれ「ダウンタウン・アツソシエーシヨン」の午餐会に赴く、同商会副社長パーク氏を始め、ハイネマン、エヂーゼニンク、ボートウの諸氏主客十二名にして、外に内田総領事も臨席せり
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午後先生はブレヂー氏と会見し、午後七時よりは先生以下一行悉くブレヂー氏の案内を受け「ホフマン・ハウス」に到る、ブレヂー氏主人席に着す、先生は氏の右に座す、来会の諸氏は左の如し

図表を画像で表示--

  前知事              モルトン    前市長              グラント  第一国立銀行頭取         ベーカー    クンスロープ商会         シツソ  国立市銀行頭取          スチールマン  コンソリデーテツド煙草会社々長  ヂユーク  米国煙草会社           フルテー    コンソリデーテツド煙草会社相談役 ハーリス  コンソリデーテツド瓦斯会社書記長 コートリー   米国煙草会社副社長        ヒル  前鉄道コムミツシヨナー      ピアズリー   シカゴ・ビーブル瓦斯会社々長   ナツプ 



内田総領事亦列席す、以上の紳士は孰れも当市の豪商又は勢力家にして、多くは五千万弗以上の大資産家なりとす、食堂の装飾は善を尽し美を極め、料理・待遇一点の間然すべきものなく、一行無上の歓を罄せり
    △手形交換所
六月二十四日 晴、午前正金銀行紐育出張所副主任荒牧国三郎氏の案内を以て先生以下一行紐育手形交換所を参観す、書記長ウヰリアム・ジエレー氏懇篤に案内せらる、其建物の美観亦人目を駭かすに足る、目下交換所の組合銀行五十九、外に組合外にして代理交換を托せるもの七十二あり
其手形交換は毎日午前十時より開始し、僅々四十分間にして交換高無慮二億五千万弗に達す、実に紐育一日の交換高は東京交換所約半年間の交換高に匹敵す、組合銀行は一行より二名宛の手代を派し、一名は手形を携え来り又其交換したる手形を携え帰り、他の一名は計算の衝合せに従事す、其挙措敏速実に熟練の程感嘆の外なし
交換所経費は当初組織の際各行より資本金に比例して醵出し、其年々の経費は毎年組合銀行より二百弗、組合外銀行より五百弗を徴収し、若し不足を生ずることあらば、組合銀行其交換高に応して出資するを常とすと云ふ
交換所組合銀行間には恐慌に際して相互救済等の法あるを以て、新に会員の加入を許さず、一定数の外は悉く代理交換を托するに過ぎず、又交換尻は米国には中央銀行の設なきを以て、悉く現金を以て之を決済す、而して借越の銀行は午後一時三十分を以て其金額を交換所に提供し、貸越銀行は午後三時を以て之を受取るものとし、総て交換所其中間に介して之か斡旋の労を執り、現金受授の煩労を避くる為め、組合銀行間に限り流通すべき一種の紙幣(即手形)を発行せり
    △興信所
次に「ブラツド・ストリート」会社(興信所)に到り、社長クラーク氏の案内にて仔細に内部を観覧す、同社はクラーク氏の創立に係る一個の私設会社にして、目下会員の数無慮八百万人、内外各地八万箇所に「ヱジエント」を置き、絶えず綿密なる調査に従事す、其組織の宏大驚くべく、社内を左の各部に分てり
 印刷部   計算部   出納部   総務部   通信部
 秘密報告部 調査部   電信部   郵便部   統計部
 外国部   申込受付部 監査部
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    △商業会議所会頭の午餐会
午後一時、紐育洲立商業会議所会頭モーリス・ケー・ジエソツプ氏の案内にて午餐会に招かる、会場は「ダウンタウン・アツソシエーシヨン」なり、目下は避暑旅行期にして有力家三百名の中在市者十数名に過ず、列席者の少なきは甚だ遺憾に堪えざる旨、予め主人側より断りありたり、招待に応したるは先生を初め一行の男子全体にして、左に主人及相客の姓名を掲げん
 紐育洲立商業会議所会頭      モーリス・ケー・ジヱソツプ
 同役員会議長           チヤールズ・ステワード・スミス
 同前会頭             アレキサンダー・イー・オーア
 紐育市長             セス・ロー
 合衆国トラスト会社前社長     ジヨン・エー・ステワード
 銀行家並に商人          ジヨン・チー・ターリー
 海上保険会社社長         エンゴーン・ヒツギムス
 商業会議所書記長         ジヨージ・ウヰルソン
 貯蓄銀行頭取           ジエー・ハツセン・ローデス
 前内務卿商人           コメリンス・エン・ブリンス
 ハノンス銀行頭取         ロバート・ウツドワード
 合衆国トラスト会社社長前大蔵卿  シモンズ・アイ・ゲージ
孰れも当代の有力なる財政家・銀行家若くは商人にして、スミス氏は先づ[シヤンパン]の盞を挙け青淵先生の日本商工業界に於ける泰斗たる事実を嘆賞し、且つ之を列席者に紹介し、更に先生の媒介に依り将来日本と商工業上益々親密の関係を開かんことを希望し、終に先生の来遊を多として其健康を祝し、次に先生は此種の会合に招待せられたるは頗る光栄とする所にして衷心感謝の至りに堪えざる旨を述へ、更に日本商工業者の外国人に対する意思の疏通、商業会議所聯合会の決議等に就き述ふる所あり、終りに将来益々密接の関係を生ぜんことを希望して答辞となし、市原氏之を通訳す、次にロー市長は商業者以外の点に於て先生の人となりを賞賛し、将来彼我両国益々提携して、啻に商業のみならず文明的各般の点に於て共に倶に一層の進歩をなす必要あるを認むる旨を述べ、主客歓を罄して散会せり
午後四時、先生はプレヂー氏を其事務所に訪問会談す、此日英国皇帝盲腸炎に罹らせられ、終に昨日を以て切開術を受けさせられしも容体軽からず、戴冠の式は無期限に延引せられたる旨の新聞号外に接す
当地来着の当時、即六月中旬は温度九十度内外に達し暑気頗る凌ぎ難かりしも、昨今は八十度内外に下降し大に爽快を感ずるに至れり、寒暖の不順驚くべきものあり、時々雷鳴雷雨あり
    △名士との往復
六月二十五日 晴、午前九時三十分「ナシヨナル・シチー・バンク」副頭取バンダリツプ氏旅館に来訪せられ暫時会談す、午後零時三十分銀行家マツカーデー氏の招待に応じ、同氏の邸に至る
午後二時南太平洋鉄道会社々長ハリソン氏を其事務所に訪問す、午後七時卅分「ナシヨナル・シチー・バンク」頭取スチルマン氏の案内にて同氏の邸に至る、副頭取バンダリツプ氏亦同席せり
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    △ボストンに向ふ(第十信)
                 (米国紐育六月廿九日発)
六月二十六日 晴、午前九時紐育の対岸ジヤーシーシチーに到り、米国煙草会社の「ジヤーシー」分工場葉巻煙草の操業を見物す、総支配人ハルリス氏懇切に案内せらる、次に山中商会牛窪大次郎氏の案内にて汽車行程四十分なるニユー・ブランスウヰツク市に到り、故阪谷達三氏(阪谷芳郎氏の亡兄にして起立工商会社々員として当地に在り、去る明治十九年病殁せし人)の墓に展し、午後四時紐育に帰る
午後五時三十分、紐育市南端波止場より「フオール・リヴアー・ライン」の汽船「ピユーリタン」号に搭し、ボストン市に向ふ、堀越善重郎氏及「アメリカン・ウオルサム」会社員守谷氏案内として同行せらる、一行の中市原氏は用務処理の為め紐育に滞留す
    △時計製造業と造靴業
六月二十七日 晴、午前八時ボストン市に着し「ツーリーン・ホテル」に朝食を喫し、更に午前十時の列車に搭し、行程三十分なるウオルサム市に到る、時計会社のダンカン、アツブルトンの両氏同行案内し、工場に入りて親しく懐中時計の製造を見る
「ウオルサム」時計会社は千八百五十四年の創立にして、目下職工三千五百人を使役し、一日の製出高二千五百個に達す、微細の部分に迄機械を応用せる所唯驚嘆を価するのみ、一個の懐中時計の完成には百四十回の手数を経るものなりと云ふ
更に同社々長・副社長等の厚意に依り、事務所各室に於て午餐の饗応を受く、市長クレメント氏亦来会し、食事中重役アツブルトン氏簡単なる挨拶を述べ、先生の為め祝盃を挙く、先生亦答辞を陳べ、守谷氏之を通訳す
午後二時ボストン市に帰着、商業会議所に到り会頭リンコルン氏始め理事十二名に面会し、所謂彼我商工業者意志疏通に関する対話を試み先方亦之に対する意見を述ぶ、堀越善重郎氏通訳の労を執れり
午後三時ボストン市を発し、行程二十五分にしてリン市に到る、ボストン市より日本好きの老翁勲五等ウエート氏同行し「エー・イー・リツツル」靴会社を参観す、総支配人ノイエス氏丁寧に案内す
抑もリン市は米国中靴製造の中心地にして数十の工場あり、人口六万全く同業者を以て成ると云ふ、其「リツツル」会社工場のみを以てしても職工千二百人を使傭し、一日五千足を製出す、同市各工場の製造品は之を米国全体及欧洲に輸出すと云ふ、米国に於ては靴の別誂ひなることなく、需要者は皆出来合の品を求む、去れば男子の靴のみを以てしても大小各三十余種あり、其操業の実況を見れば始め皮革の截方より下縫仕上に至る迄悉く微妙精巧なる新式機械を使用し、可及的人力を省き且つ迅速に完成することを期す、一例を挙くれは底と甲との縫付の如き、従前人力を用ゐ居たりし場合に於ては一人一日僅に二十足を製出するに止まりしも、現今使用する「グーヂヤー」製「ターアン・ソーイング・マシン」を以てすれは十秒間に一足を縫ひ終ると云ふ、米国にては製靴業は工業中頗る重要の者にして、且つ之に伴ふ機械の発明等年々見るべき者多し
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午後六時ボストン市に帰り、一行はウエード、山中の諸氏と共に市の公園ジヤメイカ・プレーン方面に馬車を駆りて遊覧を試む
    △[エール]大学
六月二十八日 晴、午前八時発汽車に搭してボストン市を発し、紐育への帰途「エール」大学参観の為めニユー・ヘブン市に下車す、時に正午なり、偶々市原氏紐育より当地に来り一行に合す、同大学教授フアーナム氏出迎はれ、氏の案内に依りて「ニユー・ヘブン・ホテル」に投宿す、先生は先つ大学総長ハツドリー氏を訪問し、後フアーナム教授の先導に依り同大学(目下夏期休業中)図書館・美術教場・運動場・金石標本室並に新築中の食堂等を巡覧す、終りてフアーナム教授の好意に依り郊外イースト・ロツクに遠乗を試む
同校は市原氏の曾て遊学せし所なれば、総長・教授共に一行に優待を加へられたり
午後六時三十分紐育市に帰着、午後九時市内四十二丁目なる「パラダイス・ガーデン」に到り、興行中なる手品・軽業・舞踏其他の演芸を見物す
    △商業学校出身者の饗宴
六月二十九日 雨、森村組支配人村井保固氏の案内に依り、汽車にて一時間の行程なるリヴアー・サイドに赴き、同氏の邸に於て昼餐の饗応を受く、堀越善重郎氏亦同行せり
午後七時当市在留高等商業学校出身者の招待に依り、先生以下一行二十六丁目「カフエ・マルタン」に到る、食事中総代として堀越善重郎氏の演説及之に対する先生の謝辞あり、宴終りて後先生より高等商業学校の現況及将来之が組織を拡張して商業大学となすの希望、並に文部省と交渉中の状況に就き談話する所あり、更に商業教育並に同窓者の海外に在りての心得等に就き胸襟を披きて閑談を試み、歓を罄して辞し去りたるが、当日主人側の出席者は左の如し(イロハ順)
 岩下精朝 (三井物産)   新田道九 (三井物産)
 堀越善重郎(堀越商会)   藁谷英夫 (三井物産)
 河村   (タタ綿会社)  田中都吉 (領事官補)
 高瀬経徳 (領事館書記生) 高橋徳治 (高田商会)
 矢島俊吉 (堀越商会)   山田馬次郎(大倉組)
 荒牧国三郎(正金銀行)   広瀬実光 (森村組)
 森本啓太郎(正金銀行)   最上   (正金銀行)
    △米亜協会招待会(第十一信)
             (愛蘭クインスタウン七月九日発)
六月卅日 晴、先生は午前ジヨン・セイ・マツコツク氏其他の来訪に接したる後「アメリカン・アジアチツク・アツソシエーシヨン」の招待会に臨み、一場の演説を為されたるが、先生の演説に亜て高平公使より左の意味の挨拶ありたり
 渋沢男爵は多年我商工業の発達に努力せられ、現時我商工界に於て枢要の地位を占むるの人は多くは男の門下たり、されば男が此海外旅行に於て見聞せらるゝ所は、其何の種類たるを問はず共に我日本の後進者に取りて尠からざる利益あるべきを信じて疑はざるなり、
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男の我商工業に於ける実に此の如し、故に此アメリカン・アジアチツク・アツソシヱーシヨンが此の如き盛宴を開て男を歓迎せられたるは、独り男の光栄なるのみならず、又実に我々日本人の光栄ならすんばあらず、申す迄もなく太平洋上の商業は日米両国人の共同に須つもの多し、男が今回の一遊は、蓋し男をして此日米両国人共同の契子たらしむるに至るべきを信じて疑はざるなり
最後に「アメリカン・アジアチツク・アツソシエーシヨン」の書記ジヨン・フヲード氏より大要左の如き歓迎の辞を述べたり
 我々会員は、今日此席に於て日本国の実業若くは財政を代表せらるる貴重なる来賓を歓迎するを喜ぶものなり、往年我水師提督ペルリが日本を警醒して泰西の文明を輸入したりし以来、日米の関係は甚だ親密にして、事実上両国間に締結せられつゝある平和条約は日本が世界各国と締結したる条約の最初のものにして、両国の交際は此条約の連続に伴ふて年と共に親密に趣きつゝあるを見る、今や石油業に、煙草業に、米資が盛に日本に向ふて流入しつゝあるに当り、男の如き強力の人あり千里を遠しとせずして来遊せられ、一面には外人に与ふるに資本の運用に関する充分なる助言を以てすると同時に、他の一面に於て日本に於ける法律其他の障害撤去に尽力せられつゝあるを聞くは、男に対して切に我々の感謝する所なり、之を要するに男の如き有力なる人士が我国に来遊せられしは日米両国の為めに甚だ祝すべきのことにして、今後も男の如き日本の人士が続々我国に来遊せられ、日米両国人をして太平洋の商戦場裏に於て相提
 携せしむる為、意思の疏通に尽力せられんことを祈らざるを得ず
右終て雑談に移り、次で散会したるが、先生は午後ブレヂー氏其他を往訪し、七時より更に先生主人となり、高平公使・同夫人・内田総領事・同夫人・村井保固・同夫人・高峰譲吉・同夫人・堀越善重郎・エブリー・長崎剛十郎・佐藤正興其他荒牧・高橋・山田等の諸氏を料理店「デルモニコ」に招待し小宴を開けり
    告別と出発
七月一日 曇、此日先生は午前中来訪客に接し、正午マツコツク氏の招待会に臨み、午後よりスチルマン氏を始め我総領事館・三井物産会社支店・堀越商会支店・同伸会社支店・森村組・生糸合名会社支店・横浜正金銀行支店・高峰譲吉氏等を歴訪し告別の辞を述べ、午後七時より内田領事の招待会に出席せり


竜門雑誌 第一七一号・第四四―四六頁 明治三五年八月 欧米漫遊中之青淵先生(DK250008k-0012)
第25巻 p.207-209 ページ画像

竜門雑誌  第一七一号・第四四―四六頁 明治三五年八月
  欧米漫遊中之青淵先生
    ○青淵先生に対する欧米諸新聞の論評及記事(其二)
○上略
      △六月十三日紐育夕刊新聞
六月十三日紐育「イヴニング・ヂヤーナル」は「日本のモルガン到着」Japanese Morgan Hereと題し、今日当紐育市に着したる渋沢男は一億弗の富豪なりと注解し、先生の肖像を掲け、日の出帝国「フラワーリー・キングダム」のジヱー・ピー・モルガンたる渋沢男は、日本に
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於て最も著名なる人物なるが、今拾数名の紳士・紳商を伴ふて当市に到着せり云々、夫れより先生が日本に於ける数十会社の長たること、一億弗の富豪たることを記せり
      六月十四日紐育「ヘラルド」
六月十四日の「ゼー・ニユーヨーク・ヘラルド」は「日本の大財政家当市に来る“Great Finacier of Japan is here”と題し、尚ほ屡々当国のジヱー・ピーアポント・モルガンと称せられたる渋沢男来ると前置し、夫れより記して曰く
 日本財界に牛耳を取り、其財政上に於ける名望・地位は伊藤侯爵の政治上に於ける地位・権勢にも匹敵する渋沢栄一男は、昨日費府より当市(紐育市)に着せり、男爵は日本の富豪にして四十の銀行・会社・鉄道等の長となり、日本の発達上に貢献する所甚だ尠なからず、又男爵は其資本金総額二億円の巨額に上る鉄道・汽船其他多くの有名なる工業会社を管理し、其名声の隆々たるよりして屡々日本のジヱー・ピーアポント・モルガンと称せられ、其管理する会社は五朱乃至二割の配当を為さゞるはなし、男は又二十有五ケ年間東京商業会議所会頭となり、商工業上の智識開発と諸事業の革新とに尽されたり
 又男爵は此の漫遊中殆んど十六名の人々を同伴せるが、其最も多くは、皆米英両国大学の学位を有する人なり、就中男の通訳市原氏は「ヱール」大学の哲学博士の単位を有せり、設令ひ夫れ男爵は今回の旅行を以て単なる観光の保養漫遊とせらるゝも、此等一行の人々には当米国に於ける商工業の進歩を視察し、大に学得あらしめんか為めに同伴せられたるや明なり(中略)、通訳者市原氏の語る所によれば、男爵は桑港着後以来米国進歩の速なることに驚かれたり、就中桑港より途上視察せしシカゴ、ピツツスブルグ、及費府に於ける「ボルドウイン・ロコモーチーヴ・ウオーク」の如きは特に男の注目を引けり
 男爵か昨日費府の「ギラード・コレツヂ」に於て為したる演説の主旨に依れば、米国の進歩を以て米国々民の大なる物質的勢力に帰し日本の進歩は米国を以て模範と為せしかば、同国に負ふ所少なからず、米国は既に世界の最大国となれるも、新日本は僅に米国を追跡しつつあるに過きず
是れより先生が大統領に謁見の筈なること、及び六月末を以て欧洲に向て出発せらるゝことを記し、最後に先生の小伝を掲けて曰く
 渋沢栄一男は千八百四十年東京に近隣せる地方に生れ、年少の時期には古典を学び、青年の時代に製藍業に従事したるも、後直に身を政界に投じ政府の財務官となれり、又男爵は千八百六十九年西欧の文物を修むる為め仏蘭西に航したるも、久しからずして帰朝の上帝国政府大蔵省の租税頭となれり、後幾何もならずして官を退き、爾後専ら商工業上に身を委ね、日本に於ける重なる会社は殆んど男爵の設立発企に係らさるはなし
      △六月十四日紐育「コムマーシアル」
六月十四日の紐育「ゼー・コムマーシアル」は『日本資本家の来遊』
 - 第25巻 p.209 -ページ画像 
“Japanese Capitalist here”と題して、簡単に先生の日本に於て最も著名の人物たること、及費府に於ける動静を記し、最後に近々の内ワシントンに於て大統領ルースヴヱルトに謁見すべしと記せり


竜門雑誌 第一七二号・第一五―二五頁 明治三五年九月 ○洋行日誌(其四)(梅浦精一)(DK250008k-0013)
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竜門雑誌  第一七二号・第一五―二五頁 明治三五年九月
    ○洋行日誌(其四)(梅浦精一)
六月十五日 拝啓、然れば去る十五日午後四時四十五分ヒラデルヒヤ発車前一書投函、同八時十五分ワシントン着、同停車場に於て渋沢男爵一行の来着を相待ち居候処、軈て八時三十分一同来着被致、即ち男爵夫人には去る十日シカゴに於て拝別以来六日目、又男爵一行には去る十一日夜ヒツチボルグに於て分袂以来四日目にて此に再会、一同無事を祝し、公使館より出迎はれたる書記官中村氏に誘はれ直ちに馬車を駆りてホテル・ニユー・ウエルランドに投宿仕り候処、間もなく高平公使も旅館へ被来、渋沢男爵と会談数刻、私共も久々にて面会、明十六日大統領に謁見等の手続を相願ひ候、伊藤侯及松方伯抔の被参候節も、兎角当国に於て滞在の時日短く充分の視察を遂げらるべき余地なかりしは遺憾なり、今度渋沢男爵の如きは日本商工業を代表せらるるに於て、斯る機会は復た容易に得べからざる事なれば、願くば当国の滞在を延ばし紐育に於て有力なる商工業者に面会あらば、仮令今日直ちに其結果を奏し難きも他日日本の商工業との結合連絡を取るに於て其功や著大ならんと思惟するに付、責めては英国の渡航を一航丈け延ばさるべしと切に渋沢男爵に向て忠告せられたり、此結果として一昨十七日当市着の上種々評議の末、来る廿六日当市出帆可致筈の処更に一航を延ばし、来る七月二日出帆の事に決定仕り候
六月十六日 前夜炎熱過度の為め朝来降雨稍々冷気を生じ候へとも、寒暖計は尚ほ八十五六度にして、前夜は暑熱の為めか何分眠ること能はず、僅かに払暁頃一時間計りトロトロ眠らんとする際、萩原君傍より大声叱呼、早や已に七時に近し、男爵已に起て外出の用意整ひたりとて頻りに急ぎ起てられ、怱々支度を整へ朝食抔銘々用意の中、公使館より中村書記官等被参、渋沢男爵先づ大蔵長官シヨウ氏及び国務長官ヘイ氏を訪問せられ、右了るの後午前十一時四十五分より例の大統領の官宅なるホワイト・ハウスに到り、高平公使に誘はれて三階なる書籍室に入り、渋沢男爵は其傍に通弁市原盛宏君と扣へ、其傍に小生(即ち梅浦)並に萩原書記長座を占め、軈て十二時八分大統領ルースベルト氏は別室より入り来り、公使より順序握手せられ、直ちに渋沢男爵と会談を開かれたり
(会談筆記は既に本誌第百六十九号に記したるを以て省略せり)
午後セネート(上院)及ハウス・オヴ・レプレセンテチーブ(下院)の議事を傍聴し、又其建築に千五百万弗を費したりと称する米国第一の書籍館を一覧す、此館は床・階段・柱・壁等多くは皆大理石を以てし、且つ之に鳥獣花草等其他種々古代の風俗を模して彫刻を施せり、只惜むらくはワシントンの古蹟を探ぐらんとて発車の時間切迫せるが為め充分観覧する事能はざりしを、更に歩を転じてマウントベルノンに到る、此地はワシントンの旧蹟にして市を距る事十五哩余、電車一
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時間にして達す、ワシントン住居の邸宅内其愛翫する什器等各室に陳列せり、一見其素朴なるを知るべし
午後三時に市を発して六時帰府
此夜高平公使、渋沢男爵夫婦及一行の為めに公使館に於て饗宴を開かれ頗る盛大なりき、主人の方は
 公使及夫人      小松緑書記官
 中村書記官      植原正直外交官補
 速見一等書記生
 渡辺忠三郎陸軍大佐
 海軍大佐西伸六郎君は旅行中に付出席なし
午後十二時ワシントンを発し、翌十七日午前七時三十分紐育へ着す
六月十七日 当市七十二丁目第八街ホテル・マゼスチツクに投宿す
本日は数日間の旅行の為め疲労甚しく終日休憩、此ホテルはセントラル・パークス(中央公園)の両側に在り、小生が宿泊せる部屋は公園に面し、窓を開けば其全景を一望の下に集むる所にして、頗る覊情を慰むるに足る、晩食の後月に乗じて独り公園を散歩し、帰路偶々三井物産会社の岩下清朝君に邂逅し、更に歩を転じて共に篠田恒太郎君を其旅寓に訪ふ
小生が寓せるマゼスチツク・ホテルは七十二丁目コロンボス通りに在りて、篠田君の旅寓を距る事僅に七・八町許なれ共、当市に入着の初日にして市街鉄道若くは高架鉄道に依るの便を知らざるが故に、岩下君の案内に依りて初めて其目的を達するを得たり
六月十八日 早朝より大倉組山田馬次郎氏の案内を得て、先つ高架鉄道に搭じてダウンタウン(下町と云ふ意にて元来紐育商業繁盛の地は此下町にありて、此ホテルの在る部分は上町と称し、多く富豪家の住する場所なり)に行き、大倉組・高田商会・正金銀行等を歴問し、且つ有名なるブルークリン鉄橋を東北にて往返し、其来往馬車の頻繁なるに一驚を喫したり、而して帰路ウオルドルフアストリア・ホテルを一覧す
 此ホテルは三十四丁目第五の通に在りて十六階なり
 客間の数は凡そ千六百なり
 貴賓室三ケ所・舞踏室大小四ケ所・土耳古室・写真室・化粧室・花草室・食堂大小六ケ所・結婚室等各々其装飾器具の完備せる宮殿と雖も蓋し其設備の点に至ては遥かに及ばざるべし、独逸の皇族プレンス・ヘネリイ、李鴻章・山県大将其他世界各国有名なる貴賓は、此ホテルの貴賓室に投宿せられたりと云ふ
 此ホテルは地下四十呎・地上二百呎にして、屋上には欄干を巡らし夏季は各種の草木を此に移植して宿泊者の運動に便すと云ふ
 地下に庖厨あり、皿を洗ふ機械を用ゆ、貯肉室あり、毎日千二百斤の牛肉を消費すと云ふ
 又電気灯二万五千灯にして三千馬力の機械を使用す
 庖厨の料理人は男女合して百人、而して此ホテルの総使用人は一千五百人なり
 ホテルに於て地下に酒及煙草を貯蔵する倉庫あり、而して酒は五十
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万弗、煙草は三十万弗に下らずと云ふ
 此ホテルの建築費は一千二百万弗にして、常に左官・大工等各種の職工を常用し新築修理に使用すと云ふ
此夜六時三十分より当市在留日本人諸氏、渋沢男爵及夫人・市原盛宏氏・小生(梅浦)・西川嬢をシヱリイと称する料理店に招き盛大なる饗宴を催され、席上内田領事より開会の演説に次ぎ、渋沢男爵の答辞あり、小生(梅浦)も亦強請せられ不得止一場の演説をなせり、其趣意は米国の強大なる其の勢旭日の昇るが如し、其欧洲諸国を凌駕して東洋に商権を握るの日は近きにあるべしと信ず、此時に於て大に我貿易に力を致すべき者は現に当市に多年在留せらるゝ諸氏にありとせば、諸氏の任たる頗る重大なるべし、予は桑港に上陸してより未だ二旬に達せず、而して此地に滞在せんとするの日も亦極めて少なければ、到底商工業上に充分の視察を遂くるが如きは企て及ぶ所にあらず、依て多年諸氏が研究経験せらるゝ所の実験談を聞き、以て之を我日本の土産と為さんと欲するが故に、諸氏は予が男爵に随従して当地に滞在中は、冀くば煩累を厭はず余等の質問に対し説明の労を取られんことを望む云々
今其主人方の姓名を録すれば左の如し
 牛窪第二郎・田中都吉・茂木喜太郎・手塚国一・上野昭道・和田守菊次郎・坂部二郎・瀬古孝之助・内田定槌・同夫人・堀越善重郎・荒牧国三郎・原鶴次郎・古谷竹之助・岩下清朝・高峰譲吉・同夫人山田馬次郎・高橋徳治・佐藤永孝・長崎剛十郎・同夫人・村井保固・同夫人
六月十九日 午前十時萩原氏と共に商業会議所に到り、理事長スミツス氏及書記長ウヰルソン氏と会談数刻後、正金銀行長崎氏を訪問して帰る
六月二十日 午前十時より、渋沢男爵に随行して当市の電気及瓦斯工場を一覧す
当市の瓦斯会社は九会社合併して今は一会社を成す、其資本金八千万弗なりと云ふ、又ヱジソン電気会社は此瓦斯会社を買収して更に電気瓦斯の一大団結を為せりと、其内部の如何は知らず表面は瓦斯と電気と其名を異にし、其営業を異にするものゝ如し
瓦斯の全市供給高は冬季は一日八千万立方呎・夏季は三千五百万立方呎なりと云ふ、而して其代価は千立方呎に付一弗の割合にて、此内より市税と州税とを合して平均七仙を徴せらるゝと云ふ
石炭の代価は現今有煙一噸に付三弗、無煙一噸四弗なり、尤も目下石炭鉱夫ストライキ中にて無煙炭の採掘これなきが為め、不得止当市各工場に於ては専ら有煙炭を使用すと云ふ
午後七時高峰譲吉氏の案内に依り、渋沢男爵及一行に日本料理を饗せらる、此日本料理は西宮和吉なる者夫婦にて調理したるものにて、此人は故公使吉田清成氏に随従して当国に来たり、当市に在住する事十三年余にして、之を専業とする由
六月二十一日 八時三十分、一行ナイヤガラに向け出発す(但し男爵夫人・西川令嬢・市原盛宏・渋沢元治の両君は紐育に留まる)
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午後四時三十分頃ナイヤガラに着し、インターナシヨナルホテルに投ず
六月二十二日 午前九時、馬車を駆りて対岸カナダ州に到りボルニングスプリングを見る、頗ぶる奇観なり、夫れよりナイヤガラフオルスパウワーコンパニーより供せられたる特別電気車に搭じて、ナイヤガラ河に沿ふて降る事七哩余に達す、後又ホテルより馬車を雇ふて同会社に到り、其水路取入口等の構造及発電所等を見物して帰る
此会社に現在据付けあるダイナモは一台五千馬力宛にて十台乃ち五万馬力にして、此内一万五千馬力は此地を距る二十六哩なるバツフロー市の電灯・電車其他の工業用に向て供給し、残り三万五千馬力は此会社の近傍に於て各種の製造業に供給すと云ふ、此水力は「シユペリオル」、「ミシガン」、「ヱーロン」、「イリー」と称する米国五大湖の四湖より湧出する水の湊合して、其「オンタリオ」湖に注ぐに当り百五十呎の断崖ありて、有名なるナイヤガラ瀑布を為すより利用したるものなるが故に、四時水量に変化を生ずることなく、又僅かに一哩四分の一の距離にして二百呎の落差あるを以て、水力利用上蓋し最大の利益を有するものと云ふべし
此全水力は優に五百余万馬力を起し得るものと称するが故に、現今は其五百分の一を利用するに過ぎざるなり
右の工場は瀑布の上流約一哩三分の一の所に在りて、其水車室は巾二十呎・深百八十呎・長四百六十三呎の所に都合十台を併置せり、今更に此十台の外に五万余馬力を利用するの計画にて発電機据付中なり、其排水溝は巾二十呎の煉瓦巻隧道にして市街の下部約二百呎瀑布の下流数百呎の下に達す、而て此排水は十二万馬力を起すに足と云ふ、右工場に据付ある十台の発電機は皆ピツチボルグのウエスチングハウス会社の製造に係るものにして、水車に直結し交流・二相式・電力二千二百「ヴオルト」と云ふ、今建設中の新工場には右同様の発電機十一台を置くの設計にして、其の製造は「ゼネラル・エレクトリツク」会社に於て専ら担当据付中にて、今年中には竣工の由なり
右の外対岸カナダに於て発電所建設起工中のものは終に二十万馬力に至らしむるの計画の由にて、目下電力の総供給高は約五万馬力なれども現に十二万馬力の新申込ありと、其盛なる驚くに余りあり、右電力の供給先きを挙ぐれば
 一、製紙会社、ナイヤガラ市に在りて一日百二十噸の紙を製出するものにて、此会社は八千馬力を使用すと云ふ
 二、「ピツチボルグ・リダクシヨン」会社、此会社は以前「ピツチボルグ」に於て蒸気力を以て電力を起し、電気分解法にて「アルミニユーム」の製造を為し居りしが、ナイヤガラ市に於て水力電気の供給起りしより以来此に工場を移し、現に五千馬力を使用すと云ふ
  近来「アルミニユーム」の諸種の工芸品殊に電力線に応用せられ頗る好結果を奏したるは、其製造費の極めて安きが為めなりと云ふ
 三、カアボランダム製造会社、此物質は金剛砂の如き堅き砂にて工
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業上需用多きものゝ由にて、元来是はペンシルバニヤ州に於て蒸気力に依りて製造したる由なれ共、此地に水力利用以来「アルミニユーム」同様此に製造所を移し、目下二千馬力を使用すと云ふ
 四、アルカリ製造会社、苛性曹達及漂泊粉を製造する工場にして、今現に二千四百馬力を使用するに過ぎざれ共、数月の後に於ては七千二百馬力に増加するの見込なりと云ふ
 五、カルシユムカアバイド製造会社、此の工場はアセチリン瓦斯を製造するものにして、電気炉用として電力を使用するの高は世界第一と称する由なれども、其高の如何を聞かざりし
 六、ナイヤガラ電気化学工業会社、一千二百馬力を使用す
 七、食物会社、昨年五月十五日に創立せる由にて、電灯及電気炉、重にパンを焼く為めに用ゆ、二千五百馬力を使用す
  電気にてパンを焼く時は第一臭気なく、塵埃煤等に犯さるゝ事なく、全体一様に熱気を通すが故に大に良好の結果を得ると云ふ
 八、グラフアイト製造会社、此工場は無形晶炭素より「グラフアイト」を製造する者にして、目下千馬力を使用すれども遠からずして二倍の電力を使用するに至ると云ふ
 九、「バツフアロー」ナイヤガラ瀑布電灯電力会社、電灯・電気鉄道其他各種の目的に向て千有余馬力を使用す
右の外ナイヤガラ市内に於て各種の小工場に供給する電力は一千余馬力にして、其市外各地に供給するものを挙ぐれば
 十、「トナワレダ」電力会社、「ナイヤガラ」と「バツフアロー」の間に在り千馬力
 十一、「バツフアロー」には二万「ボルト」にて一万五千余馬力を遠送し、「バツフアロー」鉄道会社「バツフアロー」電気会社大小エレヴヱーター等に向て約一千二百馬力
 電気ヱレヴヱーターに向て五百馬力を供給し、専ら穀物運送に使用すと云ふ、其他各種の各物に向て数百馬力宛を遠送供給すと云ふ
以上ナイヤガラ発電会社に於て調査したる要領にして、此会社は千八百九十一年即ち今より十一年前に起業し、千八百九十五年今より七年前より始めて電力を供給発売するに至り、爾来今日に於て其供給高五万馬力に達して、尚新申込高十二万余馬力なりとせば需用多くして殆ど之に応ずる事能はざるの実況なり、豈盛ならずや
此に特に記すべき一事は同会社の電力発売の価格なり、即ち現今其代価は一日二十四時間々断なく使用して、一馬力に付一ケ年二十弗なりと云ふ、我日本の京都の電力供給代価は比較的低価なりと称するも、蓋し此代価の割安なるには遠く及ばざるべし、他日研究の材料として玆に附記す
右等の調査を了し、即ち二十二日午後六時三十分ナイヤガラを発し紐育に向ふ、此夜汽車中にて一行快談殆ど一時に到る、二十三日午前七時三十分紐育着、復たマゼスチツク・ホテルに投ず
六月二十三日 此日は午前七時三十分、ナイヤガラ市より帰着、朝餐の後市内見物に出掛け、先づ故グランドの墓に参詣致候処、此日幸に好天気にて此墓地の所在地は市の上部に位し、ホツトソン河畔に在り
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て、其絶景は云はん方なし、米国人がグランド氏の国家に大功あるを永遠に伝へんことを期し有志寄附金を以て建設せるものゝ由にて、建築材料の大部分は大理石にして、其構造の壮麗なる二百五十万弗余の巨額を費したりと云ふも、決して過当にあらざるを信ずるなり
又歩をセントラルパーク(中央公園)に転じ馬車を駆りて園内の山水を見る、岩石の突出して路辺に横はるもの、喬木の小亭を越えて池頭に垂るゝものゝ如き総て是れ天然にして、紐育市内の繁雑を去りて別天地に在るの感を起さしむ、米国人の園芸なるものは兎角天然的にあらずして人造的所謂箱庭的のもの而已と想像したるに、此公園を一見するに至りて米人も亦深く其天然的の山水を愛する者なるを知れり
此日午後七時、当市合併瓦斯会社の社長エー・エン・ブラツデイ氏が渋沢男爵の為めにホフマンハウスと称する料理店の天蓋に於て晩餐を饗せらるゝを以て、一行中小生及市原盛宏・萩原源太郎・清水泰吉・渋沢元治・八十島親徳の六名接伴の約ありて頓て時刻を失せず一同参会したるに、当日の主人公たるブラツデイ氏は接伴として来会せられたる来賓諸氏を男爵始め一行の人々に紹介せられ、其来賓は皆当紐育市に在りて商工業若くは金融界又は市政上に於て有力なる諸氏にして(此姓名を認め可差上筈之処、却て煩雑ならんと存候に付、態と相省き申候)小生の左にはアメリカ煙草会社の社長ヂユーク氏著席し、右には紐育市ナシヨナルバンクの頭取スネルマン氏其席を占め、頻りに彼我の商売関係等を語りたる中には、ヂユーク氏は彼の村井兄弟の組合人にして我日本との関係を此煙草業の為めに起したるは、第一此営業の会社に利益あるを思ふのみならず、日本の為めにも亦大に利益を与ふるものなるべしと信ずる故に、幸に此事業にして成功を奏するを彼我互に認識せらるゝに至らば、他の工業又は商売に向ても亦同様の関係を生じ結合を求むるの端を啓くに至るべしと説かれ、スネルマン氏は日本現今の金利が果して一割内外に在るものとせば、紐育市の金利四・五朱の間に出でざる低利の金を日本に利用するの途将来多々之れあるべし、只惜むらくば一は日本の事情に通暁せざると、一は当国に資本を投下するの途乏しからざるが故に未だ着手せざるのみ、幸に渋沢男爵の如き日本商工業に至重の関係を有せらるゝ諸氏の力を便りて彼我次第に密接の関係を生せば、米国資本を大に日本に利用するに至るは近き将来にあるべしと説かれ、要するに米国人否当紐育市巨商豪估が如何に我日本の商工業に向て其眼光を傾注するかは、此交話に依りて察するに足らん、此夜馳走の献立には渋沢男爵の肖像を写真石版にて表紙に掲げたる美濃紙二ツ折大のものにして、食卓は楕円形にて其卓の中央には各種の草花を配置し、其中に数百の五色電気球を点じ、室の周囲には緑樹と花草とを以て飾りたるを以て、恰もホフマンハウス十二階の天蓋に在りて空中花園の楼閣に在るの思を為さしむ、此晩餐会は主客合せて二十二名なりしが、一名の為めには少くも百五六十弗を費したるものなるべしと云へり
六月二十四日 午前九時より渋沢男爵と共にクリアリングハウスに至り、各同盟銀行手形切符等交換の手続を一覧す、毎日交換は午前十時に開き正午に終る、此日の交換高は約二億二千万弗にして、昨一ケ年
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間の交換高は一日平均約二億五千万弗なりと云ふ、然る時は其一日の交換高は日本東京交換所の半ケ年の交換高と殆と相同じ、而して東京の交換所に於ては其交換差額は日本銀行の仕払切符を以て決算結了すと雖ども、当紐育に於ては其差額は一々其負担銀行より正金を交換所に払ひ込以て結了すと云へり、而して其仕払銀行は午後一時三十分に於て正金を交換所に払込み、其請取銀行は午後三時に於て其正金を交換所より請取るべき規定にして、若し仕払銀行が定時に其仕払を怠るときは之に対し相当の制裁を加ふるの規定あるは勿論、万一其義務を果すこと能はざるものある時は、之に対する処分法の如きは別に規定のあるあり(但し此規則書は別に申受けたれば此に記載せず)現在同盟銀行は五十九銀行にして、毎行一ケ年に二百弗を醵出す、而して其経費の収入に超過するものは、同盟銀行各自が其交換高に比例して之を支弁すと云ふ
交換所を辞し萩原氏と共に商業会議所に至り、書記長ウヰリヤム氏に就きて質問する所あり、即ち左の如し
 一、紐育市の商業会議所は、州法に依りて設立するものにあらずして商業者の自ら組織する団体なり
 一、会員の選挙法は所謂入会取調委員なるものあり、会員の紹介する候補者を調査し、其入会の諾否を決す
 一、会員中より会頭・副会頭及理事者若干を選挙し、団体事務一切を委任す
 一、会議所経済は会員入会料二十五弗、外に会員一名に付一ケ年二十弗宛を醵出して、以て之を維持す
 一、会議所総会は毎年一回日を定めて招集し、理事委員等の集会は臨時必要に応じ招集す
 一、商売貿易上に関する利害を討議し、其意見を政府に建議す
其他会議所職員の員数等に就き二・三の質問を試みたるに、職員と称するものは書記二・三名及小使(掃除役)六・七名に過ぎずして、輸入品の統計等は税関の調査に基き編纂すと云ふ、元来会議所の定款・規則等を申受け度しと請求したるに、目下其改正案に就き調査中なるが故に其印刷出来次第倫敦迄送付せんことを約して帰る
此日午後一時ダウンタウン・アツソシエーシヨンに於て商業会議所会頭ゼソツプ氏及理事長スミツス氏より午餐の饗応を受け、渋沢男爵始め一行中、市原・萩原・清水・八十島・渋沢元治・小生都合七名にして、主人側にては会頭ゼソツプ氏は当日病気の為め不参なりしが、其他臨席せられたる諸氏は
 アル・ジー・ゲージ 前の大蔵大臣
 シー・エヌ・ブリス 前の内務大臣
 ジエー・エー・スチユワート 前のトラスト会社長
 ジヱー・ジー・ブラウン 銀行家
 エー・フアスター・ヒギンス 鉄道及海上保険会社
 ジヨン・チー・テリー 商人
 ジエー・エツチ・ローヅ氏 グレンウエチ貯蓄銀行頭取
 エー・エフ・オール 前の商業会議所会頭
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 セス・ロー氏 紐育市長
 ヂエー・チー・ウードワード ハノーバー国立銀行頭取
 チヤールス・エス・スミツス 前の商業会議所会頭
 ジヨージ氏 商業会議所書記
以上の諸氏着席、宴の将さに終らんとする時スミツス氏は立ちて、今回渋沢男爵が世界漫遊の機会を以て、日本全国商業会議所を代表して彼我商工業の関係を将来益々親密ならしめんことの重望を以て此に来遊せられたるを歓迎し、同男爵の日本商工業に至大の勢力を有せらるるを讚賞し、且つ時正さに夏季避暑旅行時節に属するが故に紐育多数の商業者が斯る政客に接する栄を得ざるを惜み、殊に会頭ゼソツプ氏が偶々病気の為めに臨席すること能はざるを謝し、此に会議所に代りて歓迎の辞を述ぶとて、シヤンパン盃を挙げて男爵及一行の健康を祝せり、渋沢男爵は、曩きに大統領に拝謁の時に於て漫遊の目的を述べたるが如く、先づ其趣意より説き起し、日本全国商業会議所を代表して其意思を表白すると同時に、今玆に諸氏と握手交話の栄を得るのみならず、如此厚礼なる午餐を我等一行に饗せられたるを謝し、乃ち復たシヤンパン盃を取りて会議所の万歳及臨席諸君の健康を祝せられたり、次に市長セスロー氏は日本人が高尚なる思想に富むを羨慕し、就中詩を詠じ和歌を楽むの趣味に至りては米国人が拝金の趣味に比して果して孰れか楽しきやと評せられたり(是れ或は紐育商業者に向て諷する所あるものゝ如しと雖も、同氏演説中は卓上彼我の交話盛にして充分聞き取ること能はざりしは遺憾なりき)同氏は前のコロンビヤ大学総長なりしが、前市長タルヴアンウエツク氏に代り当年一月市長に就職したるは、全く前市長の市政紊乱、腐敗其極に達し人心之に飽きて、終に同氏を大学より担ぎ出したる由なれども、爾来市政の整理は市民属望の如く相運ばざるより今は不平の声も漸く高く、此虚に乗じて反対党より種々攻撃の手段を講じて排斥せんと隠謀する者も少なからざる由、玆に於て我東京市政の現状を追想して転た感慨に堪へず、星党の退くの後金子男の手腕果して其刷新を実行し得るや否疑なきを得ざるなり
当日の来会者は多くは皆白髪老体なりしと雖ども、其説く処は極めて活溌勇壮にして青年男子も尚及ばざるの慨あり、小生の右に着席せる老人は合衆国トラストンコムパニーの前社長なるスチーワルト氏ならん、頻りに問を発して曰く、日本の美人は細腰瘠躯顔色青白なる者を最とすと聞けり、我国の婦人は多くは肥大にして臼の如き者あり、君果して孰れを好むやと、小生稍々益々窮せりと雖ども、米国婦人は概するに肉肥、顔色桃の如し、且つ起座活溌なるは最も感賞する所なりと雖ども、其肥大臼の如きものに至ては同日に論ずべき限りにあらずと答へり、然るに同氏は直ちに此問題を渋沢男爵に移したるに、市原君は其通訳を躊躇したるに、ゲージ氏傍より言を挟んで曰く、男爵は両ながら之を愛するならんと、一座大笑せり
午後二時大倉組に至り、山田馬次郎氏に案内を乞ひ先づ客船にて対岸なるブルークリンに渡り、市街鉄道に搭じてコニイ・アイランドと称する場所に至る、此所は各種の興行見世物場にして、恰も東京浅草観
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音奥山の如き場所にして其規模は更に大なるのみ、其遊戯物中、数頭の木馬円形の建物内其中真より三尺位づゝ離れて四列又は五列に数頭の木馬を繋ぎ合せ、機械の働にて之を回転するときは此木馬は其首尾を上下して疾走するの仕掛にして、男女老幼の別なく拾弗を払ふて此木馬に乗れば胴を木馬の首部より上下に貫通する鉄棒に革皮を以て結び付け運転を始むるものにして、其回転は一転は一転より速かにして凡十回転にして止む、小生も亦萩原・山田両君と共に試みたるに、実に其壮快なる活馬に乗りて去るが如くにして、少しも落馬の掛念あるなし、此類の遊戯物は明年大阪に於て催会の博覧会抔に輸入せば、第一我国人に活溌なる遊戯を導くの一端にして至極妙ならんと存じ候、其他窺き目鏡の如きも亦一興ならんか、是れは先づ一銭を目鏡の前面に設けある孔に投じて、把手《ばね》を自ら回転するときは活動写真が眼前に種々無量なる曲芸を演ずるものにして、其演芸を終れば忽ち暗黒となり、又一銭を投じて把手《ばね》を回転せば其演芸を繰り返すこと前の如し、此類のものは番人を要せず観客を招くことを得るの趣向にして、頗る面白きものならんと思はる、其数種の遊戯演芸は概ね機械的にあらざれば則ち理数的に出でざるはなし、我等田舎漢には総て皆新奇にして口を開き仰て看板を見ること数刻、山田君に促されて始めて歩を転ず田舎漢の真相此に至りて益々著る
午後四時三十分頃にマンハタンアイランドに到る、此地にホテル在り海岸に臨み其眺望極めて善し、又傍らに海水浴場あり、紐育市貴女紳士は納涼の為め多く此地に出遊するが故に、夏季に至れば殊に雑沓すと云ふ
帰路汽車に搭じて同所よりブルークリン鉄高を渡り、紐育市内の停車場に下車し、此より再び市街鉄道車に乗りテ、ブロウドワイの近傍三十七町目なる倉田某方に到り、日本料理を命じ大に喰ふて帰る


竜門雑誌 第一七三号・第九―一五頁 明治三五年一〇月 ○洋行日誌(其五)(梅浦精一)(DK250008k-0014)
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竜門雑誌  第一七三号・第九―一五頁 明治三五年一〇月
    ○洋行日誌(其五)(梅浦精一)
六月二十五日 此日はダウンタウンと称する即ち紐育下町を視察せんとて、午前九時頃より萩原・八十島両氏と共に出掛けたるに、市中第一商業繁盛の区域とて、其雑沓名状すべからず、就中労働者・下等人種の棲息する部分は、其醜体見るに忍びざるものあるあり、而して動もすれば白昼腕力を加へらるゝの危険なしと云ふべからずと聞き、愴惶去て正金銀行に至り小憩す、午後再び出でゝ「アクヱーリム」水族館を見る、各種の水族を集めて漏すことなし、亦以て一見の価値あるなり
晩餐の後藤田恒太郎氏を其旅館に訪ひ、偶々工学十粕谷陽二氏に面会す(同氏は一昨年東京電車鉄道会社に於て購買せる機械の検査監督の為め当地を距るスケネクダデイの「ゼネラル・ヱレクトリツク・コンパニイ」の工場に在留し居りて、男爵一行の来遊を聞き当地に出向せるなり)
席上二・三の日本人あり、共にルーフガアデンに一遊を試みんことに決し、高田商会の高橋徳治君を案内者として該場に到る、其演芸頗る
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新奇にして我等東洋人をして特に拍手喝采せしむるものあり、十一時三十分ホテルに帰る、帰路偶々強雨に逢ふ、雨水衣帽を徹し全身濡鼠に化す
二十六日 午前十時紐育生命保険及「ヱクイテブル」生命保険会社を訪問す、両社共社長不在なるを以て一は副社長、一は其秘書に面会し再訪を約して帰る
午後四時ホテルを発しボストンに向ふ、此行に加はりたる者は市原盛宏氏を除き外一同なり、東洋汽船会社の代理人なるヱプリイ氏は、桑港より始終男爵一行に随伴して汽車乗込より乗替等の手続一切を担当し、一行をして毫も外国旅行の不便を感ぜしめざりしは全く同氏あるが故にして、一行は深く同氏の尽力を多とせり、此行に於ても亦同氏先づボストン行汽船乗込の手続を整へ、ダウンタウンなる「オールドコロニイステヰムポートコムパニイ」の汽船発着所に到り、直ちに本船に乗込み各自寝室等の番号振り分けを定めつゝある間に、本船は漸く発着所を発して次第にアイストリバアの流れに遡ぼり、ブルークリン鉄橋の下に進行せり、蓋し本船は四千噸以上の大船にして三階に区分せられ、其一階の左右には寝室を設け、二階も亦其左右に寝室を設け、中央には談話室あり、書籍室・音楽室等あり、其下階には中央に喫煙室等ありて、其隣室に食室を置く、左右両側に切符売捌所・事務室・役員室及散髪場等あり、進んで一段下層に至れば酒店あり、又一方に下等船客室及乗込水夫部屋を設く、其構造の壮麗緻密なる実に紙筆の以て尽すべきにあらず、故に船底より甲板に至る迄は少くも六十呎以上なるべし、此甲板より二本の檣ありて高く中天に屹立せり、故にブルークリンの鉄橋は如何に水面より高く離るゝも、本船の此鉄橋を横切る時は此檣を傾倒するにあらざれば通過し得ざるべしと思ひきや、何の苦もなく此橋下を其儘通過したるは実に一驚を喫せり
蓋し同会社に属する此般の汽船十四隻ありて、男爵一行の搭じたるものは「ビユリタン」と称するものにして、本船は常にフオル・リバアラインに属するものなり、本船進行と共に左は紐育、右はブルークリンの市街を両眼に看過す、就中其ブルークリン市街の中央に位する合衆国政府に属する造船所の如きは、殆ど五百「ヱーカル」の地面に渉り頗る巨大なるを認む
六月二十七日 午前六時四十分フオルリバアの汽船発着所に上陸し、直ちに汽車に乗り移り七時三十分に於てボストンに達す、紐育よりボストン迄海陸路合せて約二百廿二哩なりと聞けり
廿七日は不相変好天気にして、寧ろ冷気を覚ゆ、男爵一行が桑港上陸以来各地視察の間雨天の為め困却したるは、彼のピツチボルグに於て「カアネギイ」製鋼場を縦覧したるの日と、ワシントンに於て市中見物の時とのみにて、其他は降雨の困難を感じたること絶えてこれなきのみならず、時正さに蓐暑に際し、当紐育の如きは例年百度以上の熱度に苦悩するの時節なるに拘らず、男爵一行が此地に到着以来一日として暑熱を感じたることなきは、誠に天幸にあらざるなきを得んや
朝餐を「ホテルトウレン」に取り、暫時休憩の間「ワルサム・ウオツチ・コンパニー」の重役諸氏男爵一行を先づ「ホテル」に歓迎せられ
 - 第25巻 p.219 -ページ画像 
直ちに諸氏の案内に応じて時計会社に向て出発せり
此ワルサムはボストンを距る約二十哩の所にありて、此時計会社は千八百五十年の創立に係り、ロビンソン、アツプルトン両氏の発起せるものゝ由にて、現在其株主は僅かに六名に過ぎずと云ふ、此社は男女職工凡そ三千人を使用し(内男千五百人・女千五百人)其賃銀は一人平均二弗五十仙なりと云ふ、而して百五十馬力《(六脱)》の汽機二台、即ち千三百馬力を以て全工場の動力を供給す、此会社の現任社長はフヱツチ氏副社長はアツプルトン、会計監督はロビンソン氏なり、当日フヱツチ氏は不在の故を以てアツプルトン氏代りて工場を案内せられたり、而して玆に特筆すべきは、此の工場に多年勤務する老技師にして其名をチヨルチと称する人は、其年齢六十六才にして瘠躯皺面、一見して一銭の価値だもなきが如き老人なれども、此老人こそ此会社に向て偉大の功労者にして、今日同工場に於て使用する各般の自動機械は同氏が十数年の辛苦経営発明したるものにして、今日「ワルサム」時計会社の世界に向て声名を轟かしたるは全く此老人あるが為めにして、前年独乙皇太子ヘンリイ殿下の当国に来遊せられたるとき、合衆全国に於て工業・商業其他各種の事業に向て大功労ある偉人百名を挙げて晩餐会の催しありたるとき、此老人は第一に其撰に与かり此晩餐会に臨席して、殿下より真先きに握手の恩遇を辱ふしたる人物なりと云へり、今日此偉人を出したるは豈啻に同会社の利益のみならざるなり
工場縦覧の後女工寄宿舎を一覧す、此舎内には男子未結婚者は入るを禁ずる由にて、各自寝室・浴室・便所等の構造より、食室の設備等の完全なる敬服の外なし、男爵一行此客室に於て各々洗嗽の後、更に導かれて会社の会計室に到れり、此には立食の設けありて社員諸氏一行の為めに接待の労を取られ、又此ワルサム市の市長モルレイデイクラメント氏も此席に在りて頻りに其接待を助けられたり、同氏は午前は市務を執り、午後は此会社に来りて会計の事務を司ると云へり
此ワルサム市は人口二万人にして、其繁栄は此会社あるが為めなりと云へり
立食の正さに終らんとするとき、会社重役諸氏は男爵一行歓迎の意を述べ、且つ一行が此漫遊を無事に果さんことを祈り、次に渋沢男爵は之に向て答辞を述べ、且つ会社の万歳と社員諸氏の健康を祝すとて一同「シヤンパン」盃を挙ぐ、時正に二時三十分、発車の時刻に切迫せりとて、急に特別馬車に乗らんとするに当り「ボストン・ヘラルド」新聞社員男爵一行を撮影せり、帰途渋沢男爵及萩原・堀越善重郎二氏は直ちにボストンに帰り、商業会議所訪問の上、靴製造所を一覧せられ、一行はケンプリツヂに於て下車し「ハアバアト・ユニベルシテイ」(大学)を一覧の後、路を市街鉄道に取りてボストンに到り「ライブラリイ」(書籍館)と「ミユゼユム」(博物館)とを縦覧して、午後五時「ホテル・ウオレン」に帰る
時に山中繁次郎氏一行の為めに特に馬車を用意せられたるに付、其厚意を謝し市街より遠く郊外に出遊を試み、先づコンモンウエルス、ブルツクライン、ジヤマイカブレイン等の名所を車上にて看過し、七時三十分「ホテル」に帰る
 - 第25巻 p.220 -ページ画像 
此山中繁次郎氏は大阪山中骨董店の若主人にして、数年来ボストンに日本・支那の古器物及雑貨等の販売店を開き、近年次第に繁盛を致せりと聞けり
二十八日 午前八時ボストンを発し、途中ニユウヘヴンに立寄り「ヱール」大学一覧の上、午後六時当紐育に来着仕候、一行は不相変健全一人の病者無之、殊に小生の如きは僅々数日間の滞在中出来得る限り視察範囲を拡めん為め、日夜奔走夜分は十二時前寝に就き候事は極めて稀にして身体往々疲労を感じ、馬車又は汽車に搭じたる時は始終仮眠り致候程なるにも拘はらず、是れと申し胸部又は腸胃に於て持病の襲来を訴ふること無之、先以今日迄健康に打過ぎ候は誠に大幸と窃に喜居候間、御安神可被下候
此地は「ヱール」大学の所在地として特に有名なる場所に有之、幸に「ヱール」大学には市原盛宏君前年留学のことゝて、予て渋沢男爵ボストンの帰途立寄られ候事を大学理財学の博士ヘンリー・ワルコン・フアーネン氏に被申送候為め、同氏は男爵一行を其停車場に待たれ、男爵一行が「ホテル」に於て午餐中馬車の用意抔行届き居り、同氏の案内にて先以て大学校内教授室・試験室・生徒寄宿舎・参考室・体操室及其附属「トルコバス」等を縦覧し、夫れより馬車を駆りて遠く郊外の小丘に登り全市を一望の下に集め、此に小憩の後五時同地発の汽車に搭じ、六時紐育中央停車場に安着仕候、右フアーネン氏は嘗て日本に在留せし由にて、誠に懇切に男爵一行を待遇せられたるは感謝に堪へず候、只惜むらくは大学は暑中休業中にして課業の実況を目撃する事能はざりしと、其総長も亦避暑旅行中の由にて面会せざりしは、遺憾とする所に御座候
 小生当紐育に滞在中見聞の次第は概略右の通に御座候、来る七月二日「ホワイトスター」汽船会社の汽船「マゼスチツク」に乗込み英国へ向け出発の筈に御座候間、二十九日より二日迄四日間の出来事は船中にて筆記、跡より御通信可仕と存候
 以上御通信中には当合衆国商工業に就き大体の観察・所見等を認め漏し候に付、此辺は追て申上候積に御座候、其他見聞取調の事柄にして遺漏の点も不少に付、此等は追て補正可致積に御座候間、右御諒承被下度候
  △補遺(一)
○中略
一当紐育市滞在中渋沢男爵及一行が会見せる重なる紳商諸氏は
 ヱジソン会社々長 ブラツデイ氏
 相互生命保険会社々長 マツカジー氏
 シチイ・ナシヨナルバンク頭取 スチールマン氏
 合衆国信托会社々長 ゲージ氏(前大蔵長官)
 フオルスト・ナシヨナル・バンク頭取 ベーカー氏
 スタンダード石油会社々長 ロツクフヘラー氏
 モルトン信托会社々長 モルトン氏
 ナシヨナルバンク・オヴ・コンマルス頭取 ヘンドリツクス氏
 シチイ・ナシヨナル・バンク副頭取 ワンデリツク氏
 - 第25巻 p.221 -ページ画像 
其他知名なる商工業者数名なり(此姓名は追て報道可致候)
○下略


竜門雑誌 第一七二号・第三六―三九頁 明治三五年九月 欧米漫遊中之青淵先生(DK250008k-0015)
第25巻 p.221-224 ページ画像

竜門雑誌  第一七二号・第三六―三九頁 明治三五年九月
  欧米漫遊中之青淵先生
    ○青淵先生に対する欧米諸新聞の論評及記事(其三)
      △六月十四日紐育「ゼー・イヴニング・テレグラム」
六月十四日の「ゼー・イヴニング・テレグラム」は青淵先生の肖像を掲げ、「日本財界の帝王」・「日本のピーアポント・モルガン」たる渋沢栄一男“King of finance in Japan. Baron. Eiichi Shibusawa Japan's“Pierpont Morgan”と題し、前号(四十五頁)に掲げし紐育「ヘラルド」と全く同一の称賛文を掲げたるも、重複するを以て玆に省略せり
      △六月十五日「アメリカン・ヂヤーナル」
六月十五日の紐育「アメリカン・ヂヤーナル」は青淵先生及令夫人並に市原・萩原・清水・八十島四氏の肖像を掲げ「日本のピーアポントモルガンたる渋沢男」“Baron Shibusawa, the J. P. Morgan of Japan”と題し、先づ先生が日本の最富豪たることを記し、次に先生の談話の概要を掲げたり
      △六月十六日「ゼー・ヘラルド」
六月十六日の「ゼー・ヘラルド」は青淵先生の肖像を掲げ「日本のモルガンたる渋沢男」“Baron Shibusawa, the Japan Morgan”と題し記して曰く
 日本のピーアポント・モルガンと称せらるゝ渋沢男は、夫人及多くの富有なる日本商人を従へ前週中費府の視察を為したり、男の富は一億弗に上り日本の大財政家として恰も東洋に於けるモルガンの如く実業界の覇鎮たり、男は日本に於ける最富豪として知られたるが男の有する鉄道は同国鉄道の百分の四十に上り、尚ほ且つ朝鮮に於ては京仁鉄道を敷設し更に進んで京城釜山間に鉄道の敷設中なり、男は今日令夫人及令嬢(西川嬢を令嬢と誤解せるならん)を伴ひてワシントンに趨き、予て日本全国商業会議所より委托せられたる任務を果さんか為め大統領ルースヴヱルト氏に謁見せらるべし云々
      △六月十六日「デーリー・ピユーピル」
青淵先生一行か米国に着するや、珍客として是を歓迎し到る所「日本のモルガン」なりとの称号を与へしことは各新聞の記事を以て其一斑を知るに足るが、玆に最も面白き長論文を草したるは紐育市の社会党機関新聞「デーリー・ピユーピル」なり、六月十六日の同紙はLively“Competition”と題し、青淵先生が米国産業の発達は競争より来れりとの言を以て天来の福音となし『男爵は数時間の滞在を以て、生来の米人よりは能く米国の真相を喝破せしものなり』と賛辞を呈し、先生の此言を援きて熾に「ビーフ・トラスト」を攻撃し先生の滞在の永からん事を望めり
      △六月十七日「ワシントン・ポスト」
六月十七日の「ゼー・ワシントン・ポスト」は伊藤侯爵を除く外日本
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帝国の大人物《グレーテストマン》たる渋沢男「ニユー・ウヰラード」の客たりと冒頭に置き、先生の大富豪・大財政家たることを記し、且つ先生が多くの銀行数十の鉄道・工業会社等の頭取・社長又は重役たることを記せり
      △六月十七日「ワシントン・タイムス」
六月十七日の「ゼー・ワシントン・タイムス」は「ワシントンに於ける東洋の大財政家及其一行」“Great Oriental Financier and his party in Washington”と題し、記して曰く
 日本のピーアポント・モルガンと称せらるゝ渋沢男は、夫人及七人の日本人を伴ひ昨日当市に来着、「ニユーウヰラード」に投じ、同日高平公使同道の上「ホワイト・ハウス」に於て大統領ルースヴヱルト氏に面謁せり、尚ほ且つ国務及陸海軍省を歴訪しヘイ及シヨー両氏とも会見したるが、渋沢男は英語を談ぜざるも、横浜に於ける第一銀行支店の支配人たる市原氏、男の通訳として種々なる談話ありたり
と記し、其れより先生が米国の国情に就て称賛せる辞を掲げ最後に一行中の氏名を記載せるが八十島君をGasoshima、清水君をShimiger萩原君をHigiwara、梅浦君をUmera、西川嬢をVishigawa、と綴れるが如き甚しき間違なりと謂ふべし
      △六月廿四日「紐育ヘラルド」
六月廿四日の「ゼー・ニユーヨーク・ヘラルド」は青淵先生の肖像を掲げブラヂー氏の催に係る煙草業者の先生招待会の光景を記して曰く
 「日本のモルガン」として著名なる大実業家渋沢男爵はホフマン・ハウスに於てブラヂー氏の催しにかゝる男爵歓迎会に昨六月廿三日出席せられたり、男爵は日本に於て数多の大会社を管理せらるゝものなるが、米国来訪の目的は米国実業界の視察及斯道大家と会見せん為めなりと云ふ、同夜の晩餐会の招待に与りし人々は多くは富豪及著名の実業家なり、当夕の有様を云はんに「ホフマン・ハウス」の階上庭園《ルーフガーデン》の一部を以て会場に充て、花にて粧飾を施し、来賓の囲繞する大食卓の中央にスミラツクス(花名)の花壇あり、其より各種の旗旒出てゝ嫋々食卓を繞れり、背面には緑に交ゆるに米国薔薇又は麝香撫子を以てし、紅白緑紫の電灯は所々に散在せる花把の中に輝き、「ブラヂーの催せる渋沢男爵歓迎会」“Dinner given by Anthony N.Brady in honor of Baron Shibusawa”なる文字鮮かなり、当夕渋沢男其他一行は米国風の洋装にて出席せられ、ブラヂー氏の右に渋沢男爵、左に男の通訳者市原氏着席せり、云々、以下出席者の氏名を録せるも既に八十島君の紀行に詳記せるを以て省略せり
      △六月廿四日「紐育タイムス」
六月廿四日の「紐育タイムス」にも亦、青淵先生及一行の人々が米国煙草業者として有名なる「アメリカン・コンチネンタル・アンド・コンソリデーテツト」煙草会社の取締役アントニー・ヱン・ブラヂー氏の招待を受け「ホフマン・ハウス」に午餐せることを記したるが、其記事前掲「ヘラルド」と同一なれば省略す
      △六月廿七日の「ボストン・ヘラルド」
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六月廿七日の「ゼー・ボストン・ヘラルド」には「東洋のモルガンたる富豪男爵の来遊」と題し、左の記事を掲載せり
 東洋のピーアポント・モルガンたり、日本の大銀行家たる男爵渋沢栄一氏は今朝当市に到着せり、氏の一行は半ば観光視察の目的を以て米国各地を周遊しつゝあり、一行は男爵夫人並に梅浦・八十島・西川・萩原・清水・堀越・渋沢の諸氏にして、フオール・リバア線に依り紐育よりツーレンに着したるが、東洋汽船会社の桑港支店支配人アベレー氏之が案内の労を取れり
 男爵は丈け短き快活なる六十前後の老紳士にして、一行の諸氏同様能く英語を話せり、氏が富は二億円「約一億弗」と称せられ、現に東京及大坂商業会議所の長たるのみならず、数十種の会社・銀行の社長若しくは頭取たり、一行の米国に着したるは本月一日にして、既に東方諸州の各地に於て商業上並に教育上の視察を終へ、今や当市に来りて時計及び靴の製造に付き視察を為す由にて、朝餐後一行はツーレンを発してアメリカン・ワルサム時計製造会社に赴き、午後はリーンの靴業を観る筈なり、右に付ワルサム時計製造会社よりはガンカン、アツブルトン、ロツバンスの諸氏来会して一行を別仕立の汽車に迎へ、午前十時ツーレンを発しワルサム停車場よりは更に用意の馬車数輛を駆りて製造場に案内し、約一時間半を費して此宏大なる工場を巡覧し終りたり
      △其他米国諸新聞
以上諸新聞及前々号並に前号に掲たる諸新聞の外、尚費府、紐育、ワシントン、ボストン、シカゴ等到る処の米国新聞紙上には、異口同音に或は日本の大財政家・大人物・大富豪とし東洋のモルガンとして称賛歓迎の辞を載せさるものあらざりしも、今之を一々訳載せんには紙数の許さゝるのみならず、徒に同一の記事を以て満さるゝ恐れあるを以て之を省略せり、就中二新聞(切抜の為め新聞名不明)の論評あり一は徒に誇大の言を為して方外もなきことを記したるも、他は極く真面目に能く先生の人と成り、及先生来遊の日米商工業上に利すべきことを説き、稍々出色の点あれば、今両紙の記する所の概要を掲げん
 甲新聞 日本の最富豪にして且つ唯一の実業家たる渋沢男は、家族従者十数名を伴ひ当国に来遊せるが、其所持革鞄は二百七十二個の多きに上り、非常に大仕掛なる旅行を為しつゝあり、男爵今回の来遊目的は日米両国商工業者の親交を増すと、我商工業を視察せんが為めなりと云ふ、男は日本のピーアポント・モルガンと称せらるゝが、実に其名に負かす日本に於ける主要なる数多の銀行、七ケの鉄道、数多の炭坑、殆んど半ダースの航海会社、其他保険・瓦斯・電気・絹綿紡織・羊毛・印刷・帽子・製麻・麦酒醸造・汽車製造・船渠等七十二会社の社長にして、其私有の富三億弗(六億円)に上り其管理する会社の総資本金七億弗(十四億円)なり、云々
 乙新聞 近時日本朝野の名士の漸時米国に来訪するは、日米両国間将来の商業に干し喜ぶべき現象と云ふべく、畢竟、是れ米国の制度及産業の発達が絶東の名士を誘引せしものと云ふべし伊藤・後藤・松方・鳩山其他渋沢男の漫遊は両国間の商業結合を愈
 - 第25巻 p.224 -ページ画像 
鞏固ならしめ、相互の発達に対し相利せしむるものなり、渋沢男は日本の金融界及実業界に於ける大立物にして、氏の如き地位と名声を有するは絶東に於て稀なりとす、氏の勢力は日本殖産界の殆と全般に亘り、其干係せる事業は各種雑多、其経歴は将に明治史の一節をなすものなり、而して氏も亦他の日本の実業家の如く下流より身を興し、其手腕により今日あるを至せり、初め千八百六十七年に氏は旧幕より仏国へ派遣せられしか、翌年近世国家は其基礎を実業に置かさるべからすとの観念を抱きて帰朝せり、氏に非んば誰か当時此に着眼し今日の日本あるを致さん、云々


竜門雑誌 第一七四号・第五八頁 明治三五年一一月 ○青淵先生令夫人の和歌(DK250008k-0016)
第25巻 p.224 ページ画像

竜門雑誌  第一七四号・第五八頁 明治三五年一一月
    ○青淵先生令夫人の和歌
○上略
      ○「ナイアガラ」の滝を見て
ときめきてさかゆる国に音たかく
     千ひろの底にひゞくたきつ瀬
○下略


欧米紀行 大田彪次郎編 第一二六―一九三頁 明治三六年六月刊(DK250008k-0017)
第25巻 p.224-240 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

神戸又新日報 第五八八一号 明治三五年一〇月三一日 渋沢男爵視察談(DK250008k-0018)
第25巻 p.240-241 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

時事新報 第六八三二号 明治三五年一一月一六日 ○渋沢氏の米国談(三)(DK250008k-0019)
第25巻 p.241-243 ページ画像

時事新報  第六八三二号 明治三五年一一月一六日
    ○渋沢氏の米国談(三)
シカゴを去て紐育に往き、更ニワシントンにも往きて大統領に遇ひ、国務大臣にも面会したれども、元来ワシントン府は政治上の都会にして商工業の市府に非ざれば、自分の本領として申上ぐる程の必要もなかるべし、紐育に着きたるは十三日にして、七月一日まで滞在中ナイヤガラの滝見物にも出掛け、ボストンにも行きたり、其中に就てナイヤガラの滝の壮観は更めて云ふまでもなく、只日本の滝の如く尋常に水が流れ落つるに非ずして、段階を成したる大河が流落すると云ひたき位なり、其壮観は第二に置て、同地に於ける水力電気の話をなすべし、是れは四・五年前より掛けるものにしてアメリカンフオールの方にあり、総馬力十万五千馬力中四万馬力ばかりは売約既に整うて現に
 - 第25巻 p.242 -ページ画像 
使用しつゝありとか、同会社は更に大なる計画を以てカナダフオールの方にも之を企て、既にその設備に着手し、遅くも明年中には出来上る筈なり、其工事は多くは地中の仕事なれば明に模様を知ること能はず、百数十人の工夫が入込みて隧道を穿ち居るやうに聞きたるが、外部よりは僅に二・三人の人影を認むるに過ぎす、是れは二十万馬力の目論見なりと云ふ、自分等は水力電気は都会の需用を満たす為めに水力を引用するものにて、ナイヤガラも亦同じ趣向ならんと思案し居たるに、然らずして随分遠方より水力電気の設備ある界隈に工場を移すもあれば、或は新に水力電気に依てすべき事業を起し漸次工場町を形づくると云ふ有様なり、例に依て人を使ふことは極めて少なし、今は四万馬力を使用するに過ぎざれども、此の如き勢を以てすれば四・五年の間には三十万馬力の水を使用するに至るやも知れず、如何なる事業が発達するかは想像し能はざれども、兎に角彼の水力の働きに依て廉価に生産物を作り得らるゝは疑ひなきの事実なれば、亜米利加に於ても一大変化を起すに至るべしと思考せり、自分の往きたる時は何れのダイナモ工場も休日なりしかど特に副社長と二・三の事務員の案内に依て工場を一覧したるに、殆ど空屋同然にて只機械の働きつゝあるを見るのみ、其ダイナモの機械も日本の如き小機械に非ずして五千馬力《(十万五千馬力)》と云ふ大機械の備付けもありき、取締役員は昼夜八時間づゝの交代なりと云ふ、斯る大工場を八人か十人の役員で取締ると云ふは如何にも行届きたる仕組と感服するの外なし、自分も嘗て水力電気会社の世話を為したることあれど、其会社は僅に千五百馬力の小会社にして、其内一昨年の使用高は九百馬力なるに、技師長・助役・係員等五・六人を要をしたり、我は九百馬力の水力電気に五・六人の係員を使用し彼は十万五千馬力の水力電気に、如何に機械の力を借るとは云へ僅々十人しか使はぬとは比較になツた者に非ず、自分はアメリカンフオールの水力電気工場を一見して紐育に帰り来り、或宴会の席上にて、自分は本国に居る時ナイヤガラの瀑布の壮観を聞き、又水力電気の話も聞きて、工業の進歩は賀すべき事なれども天物を暴殄するの嫌なきか文明と風致は互に衝突して相容れざるものにやと疑ひたることもあれども、斯くまでとは思はざりし、今日の勢を以て進みたらんには行く行く亜米利加人は水力電気の世界無比なるに誇り得べきも、ナイヤガラの絶景壮観は消えて痕なきに至り、滝は途方もなき処より流るるに至りはせぬかと戯れたるに、マサカ夫程にも至るまじ、ナイヤガラの瀑布は何千万馬力と云ふ水力なれば如何に使ふとも使ひ切れる者に非ず、よしや使ひ切れる時代に到着するも彼の絶景壮観を荒らす程の事はさせじ、気にするに及ばぬと一笑せられたりき、ボストンは亜米利加の中にても最も古い土地だけありて、紐育抔と違ひ人間も古風にて落付けるが如し、英吉利は保守国、亜米利加は急進国にして、両極端を表し居るとせば、紐育は亜米利加人の性質を有し、ボストンは英吉利の気風を帯びて居るやに感じたり、勿論市街鉄道とか水道とか、或は商業会議所・陳列所・博物館の如きものゝ設備は流石に古き土地柄だけありて、シカゴ其他の都会より行届けりと雖も、気風は大に異なりて他の都会の人士の如く拝金宗の信仰力は幾分か薄きが如く、妙な
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る人物も少なからずして、天物暴殄を痛撃し居れる人もありき


時事新報 第六八三三号 明治三五年一一月一七日 ○渋沢氏の米国談(四)(DK250008k-0020)
第25巻 p.243-244 ページ画像

時事新報  第六八三三号 明治三五年一一月一七日
    ○渋沢氏の米国談(四)
ボストンにてウエツドと云ふ人に逢ひたるに、同氏は至て話好きにて種々の物語の末、自国を誹るは好まぬ事ながら、亜米利加に於ける拝金主義の盛なるは驚く許りにて、殊に紐育人の如き彼の勢を以て進みたらんには、果は如何に成行くべきか、我は遂に拝金宗の餓鬼道に陥りはせぬか、金は儲かるならん、市街も善尽し美尽すならん、なれども人として尊むべきは金のみに非ず、形而上の快楽は何の所に求むべきか、金さへ儲かれば他を顧みざるも可なりと云ふは決して天意には非ざるべし、然るに亜米利加人殊に紐育人抔の今日の有様は如何、心神安養の道備はれりと云ひ得べきか、予とても心神の安養のみを謀りて物質の進歩を後にせよとは云はざれども、紐育人の進歩は如何にも跛足にして、餓鬼道へ進みつゝあるに非ざるやを怪むものなり、日本は美術国と云はれるだけに、形而上の観念著しく発達せりと聞くなるに、足下が亜米利加に足を踏入れて物質的事物の観察を為すは、悪く云へば外道の稽古を為すに近からずや、喬木を去て幽谷に入るとは当さに足下の謂なるべし云々、是れは怪しからぬ、我国は忠君愛国とか尚武の気象とか、形而上の観念は大いに発達せりと雖も、物質的の進歩は一として見るべきものなし、今日の時世に処して武士は喰はねど高楊枝を気取りて物質的の進歩を忽にするに於ては、西洋諸国と肩を並ぶる所か東洋にも安んずる能はざるべし、自分等も及ばずながら日本の物質的進歩を謀りて、形而上の観念に伴はしめんとて殆ど三・四十年間の苦心経営を為したれども微力の及ぶ所に非ず、日本の物質的の進歩は欧米諸国に比して大に遜色あるが故に、遊びがてら産業上日の出の勢ある御国の実況を見に来りし者なれば、左様なる御忠告を受けたればとて、ハイ左様で御座るか畏つて候と感服するを得ず、蓋し足下の考は誤れり、否な足下の了簡こそ違へりとて、互に我見を固執して別れたりしが、斯る考を懐くは此人のみ非ず、其他に於ても同様の説を聞きしは自分が旅行中の一奇談として記憶する所なり、シチーオブナシヨナルバンクの総裁スチーマン氏《(ナシユナル・シテー・バンク・オヴ・ニウヨルク)》とは互に打解けて物語りたり、同氏は資力もあり、才学もあり、当時紐育の経済社会に於ける一流の紳士にして、内田領事の云ふ所に依れば彼の有力なるモルガン氏の向ふを張る位の有力家なりと、氏は日本に対し好為《(意)》を表し居る一人にして、特に自分等を自宅に招き鄭重なる饗応の席上に於て、自分は同氏に向ひ亜米利加は世界の新進国にして、僅の年数に驚くべき進歩を為したる国柄なれば、自国内の経営を為すに就ては固より他国人の力を要せざるは勿論なるべけれど、今後ますます東洋に向つて貿易上の拡張を謀るに就ては、日本と手を握りて事を為す方お互の利益に非ざるべきか、今日の所にてはお互に彼我の事情能く通ぜりと云ふを得ず、商売上に於ても遺憾なしと云ふを得ざれば、事情の疎通を謀りたきは自分が第一の望なれども、将来東洋に於ける商工業の経営は日本と共にする方、亜米利加の為めにも利益なるべし、併し自国の富と力
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は斯くまで鋭きゆゑ更に他国の力を仮るを要せずと云ふ御意見ならば夫れまでなれど、貴下等の御意見は如何にと問ひたるに、スチーマン氏は曰く、英国は国際上の関係より日本とは久しき以前より親密の関係ありて、既に日英同盟の成立を見るに至りし程なれども、亜米利加はお説の通り親密の度合は英吉利に及ばざるの感あり、従て取引上の関係も極めて密なりと云ふを得ず、甚だ遺憾とする所なれば、今後は取引上の繋ぎを緊密にすることは、予のみならず予等の同志も亦熱心に希望する所なりと誠心面に現はれて語られたりき、饗宴席上の事とて、列座の人々は何れも経済社会に於て有力なる紳士のみなれど、差当り斯く斯くの事に就て手を握つてとまでの話には進まざりしも、兎に角紐育の金融市場の有力家たるスチーマン氏等が斯る考案を有するからは、将来亜米利加人と手を握りて商売上の事を共にするは、強ち望なき事にも非ざるべしと思考せり
併し自分は欧米諸国遊覧の後、亜米利加と云ふ国は将来東洋に於て、日本と事業上の衝突を起しはせぬかと恐れざるを得ず、日本商品の未来の需用地は何処なりやと云へば、誰しも東洋と答ふるの外なかるべし、東洋市場は日本の独占に任ずべきや否や、寧ろ英吉利・独逸は与みし易しとも云ひ得べけれど、日の出の勢ある彼の亜米利加が、驚くべき彼の力を以てドシドシ廉価なる生産物を作り出し、而して悪く云へば突飛猛進して東洋市場に侵入するあらば如何、左なきだに日本今日の商工業は萎靡として振はず辛うじて現状を維持するに過ぎざる有様なるに、彼の如き殆ど天魔の力かと疑はるゝ猛勢を振うて突進せられたらんには、安んぞ知らん支那・朝鮮の市場は米国人の掌裡に陥りて、日本は其後に瞠若たる事なきかを、元来日本人の働く度合と亜米利加人の働く度合には非常の相違あり、日本人は体格も小さく智力亦劣れるが如し、加ふるに個人自活の力に乏しきは家族制度自然の結果なるべけれど一家殆ど家長の臑をかぢるの風習にて、大学に所謂「之を生ずる人少なく、之を食む人多ければ、財常に足らず」とは、日本にも当箝むるを得べし、之に反し亜米利加人は、男と云はず女と云はず個人銘々自立自活の力に富みて、他に依頼するの念甚だ少なし、自ら生じ自ら食めば財常に足るとは、蓋し亜米利加人の謂なるべし、欧羅巴も亦然り、搗てゝ加へて益々人の労力を節約するの工夫を凝らし資本豊にして寿命も亦長きが故に、何としても物を生産する上に於ては遺憾ながら競争の位置に立つを得ず、平均日本一人の生産力を一と仮定すれば、亜米利加人は五か十か、同じ道行をしても遠く及ばじと思はるゝに、日本人は廿五・六或は卅までも学問修業の為めに年数を潰し、五十になれば隠居すると云ふ始末にて、恰も日脚の短き冬の日に物を乾すと云ふやうなる力を、如何に生産裡に振ひたればとて何程のことを為し得べき、呉々も将来東洋市場の商敵として最も恐るべきは米国なれば、一孤島の中に閑居してピクピク生きて居さへすれば足れりと云ふ人は兎も角、日本の富を造り国運の発展を謀らんとする人人は、成るべく我国の事情を亜米利加に知らしめ、資本共通の途を開き行く行く相携へて進むと云ふ方針を執られんこと、予の切望に堪へざる所なり(完)
 - 第25巻 p.245 -ページ画像 

富の日本 第一巻・第七号 明治四三年八月 我富を我物と思はぬカーネギー氏の見識(渋沢男爵)(DK250008k-0021)
第25巻 p.245 ページ画像

富の日本  第一巻・第七号 明治四三年八月
  我富を我物と思はぬカーネギー氏の見識 (渋沢男爵)
○上略
    ○渾身唯是れ国家――ルーズヴエルト氏
 私が逢うた人物の中にも各々特長があるやうに見受けられた。政治家で申せばルーズヴェルト氏は何と評して宜いか、漢語の短句を以てアアいふ大偉人を評し尽すことは出来ぬ位に思ふが、要するにルーズヴェルト氏は斯うと己の信じた事は毫も忌憚する所なく、成し遂げずんば已まざるの大決心を以て渾身惟是国家、極めて濶達、極めて雄大其全力を其事柄に傾注すると云ふ、実に敬服すべき人物のやうに思はれた。
○中略
    ○着眼俊敏なるハリマン氏
 ハリマン氏には亜米利加でも又日本へ来られた時にも遇うて言葉を交はしたが、予て聞きし如く亜米利加人としては体格の小さい方である。併し全身総て智慧で固めたやうな人で、聊も抜目ない。さうして極く敏速に大体を判断して行くことは実に巧である。例へば第一銀行の事を尋ねるのに「当時預金はドノ位ありますか」「概略五千万円あります。米国抔のやうに多額の預金はないが、併し第一銀行といふのは日本の銀行界に於て相当の位地を占めて居りながら、預金は僅に五千万円位に過ぎぬ」といふと「日本の国で五千万円の預金を持つといふことは中々有力な銀行、其預金の種類は如何。商売人の差引尻が多いか、但しは金持の預金が多いかドウか、貸金の相手は如何にと云ふやうな事を尋ねて、僅かの談話にも其真相を知らんことを勉めて、話の無駄にならぬ心掛を持つて居る人と推想された。
○下略


竜門雑誌 第三五三号・第六〇―六五頁 大正六年一〇月 ○米国気質と其代表的人物(青淵先生)(DK250008k-0022)
第25巻 p.245-246 ページ画像

竜門雑誌  第三五三号・第六〇―六五頁 大正六年一〇月
  ○米国気質と其代表的人物 (青淵先生)
 本篇は七月十日及八月十日発行の雑誌「実業公論」誌上に掲載せられたる青淵先生の談話なりとす(編者識)
○中略
    △スチルマン氏の重望
 私が前後二回の米国訪問中、彼地の代表的実業家とも称すべき重なる名士数氏を挙げて見ると、明治三十五年旅行中に当時紐育のナショナルシチーバンクの総裁スチルマン氏の如きは先づ第一に指を屈する人であらうと思ふ。此人は今尚ほ健在であつて、暫く仏蘭西に行て居られたと思ふが、其の後銀行の総裁はワンデリツプ氏に譲つて、今は同銀行の総裁ではないが、此のスチルマン氏は米国経済界を達観して居る人物であり、又包容の才があつて却々人望ある人の様に見受けられた。米国にて電気事業及び瓦斯事業に付て人に知られて居るプレヂー氏――其人の子息は現に大阪の電気瓦斯会社の重なる株主となつて居る様に、其方面の大事業家であるが、是等の人々がスチルマン氏に
 - 第25巻 p.246 -ページ画像 
対すると、恰も弟子が其師に対する様に、財政上の意味でなく、其経験其智識に尊敬を払ひ、すべてを相談して決するといふ風にて、非常なる勢力がある。氏はまたロツクフエラー氏の親戚で、氏の令嬢はロツクフエラーの子息の嫁となつて居て、スタンダード・オイルコンパニーにも資本を出して事業関係を有つて居る。私は一夕右のスチルマン氏に招かれたが、其時には氏の愛婿たるロツクフエラー氏の子息も其時のナシヨナルシチーバンクの総裁の次官の位置にあつた、ワンデリツプ氏も列席で、家庭的の晩餐を饗せられた。私は同氏と数回面会した間に、これぞと云つて特に言ふ程ではないが、氏の風采と氏の態度は至て穏当で、いかにも大人物らしい風が見え、少くも米国に於ける一方の経済界を支配する大人物であると感じたのである。
    △才雋豪胆のハリマン氏
 同じ三十五年の際に、今は亡き人であるがハリマン氏に面会した。氏は米国人としては、比較的体格の小さい人で、五尺の小身渾て是れ智慧とでも言はふか、実に生々した智慧の人で、従つて比較的豪胆の人であつた。氏は、日露戦争後我国に来遊されたが、恰度其時東京市民はポーツマウスの条約が我が外交の失敗であると云ふので、ハリマン氏が東京に着いた晩に日比谷の騒動があつて、居合はしたるものも皆んな心配した位ゐである。当時故井上侯爵も同氏の歓迎会に出席されて居たが、氏の才雋豪胆の性格が其面目に躍如として、其一言一語着眼の鋭いのに感心され、『あれは人物だ』と言つて居られた。氏は其当時、満洲に於ける日露関係の将来を気遣つて、其緩衝地帯として米国が其中に一区劃を置くも妙策であると言つた。当時其言は行はれなかったが、其後果してノツクスの南満中立の意見を提出した。或はハリマン氏の意見の一つを実行せんとしたものとも思はれる。同氏は鉄道若くは海運に力を用ゐて、米国に於ける運輸交通上に於ての勢力家であり、恩人である。其智識の鋭い為めに、徳望の点に於ては欠点があつた様に見えたのである。明治三十五年の旅行中種々の人に会合したが、以上挙げたる人物は、其中の重もなるものである。
○下略


実業之世界 第一八巻・第一一号 大正一〇年一一月一日 予の渡米の目的と米国大実業家の印象(子爵 渋沢栄一)(DK250008k-0023)
第25巻 p.246-247 ページ画像

実業之世界  第一八巻・第一一号 大正一〇年一一月一日
  予の渡米の目的と米国大実業家の印象 (子爵 渋沢栄一)
○上略
    財界の巨頭シチルマン氏
 其時会つたのは政治家では今は故人となつたルーズベルト氏其他で実業家では、ナシヨナルシチーバンクの首脳シチルマン氏、シチルマンの引立で其の副総理になつたヴアンダーリツプ氏――此人は曾て大蔵次官をした人で、今はナシヨナルシチーバングを離れて独立してゐるが、昨年日本に来遊した――海運事業・鉄道事業の経営者ハリマン氏、事業家のグレシー氏等《(ブレジー)》とニユーヨークで会つた。カーネギー氏、ロツクフイラー氏等には遂に会ふ機会はなかつた。
 シチルマン氏は財界の重要人物で、モルガンと肩を並べる位の有力者であり、其他も皆当時米国財界に重きをなしつゝあつた人々であつ
 - 第25巻 p.247 -ページ画像 
た。氏は、人に接するに少しの隔意のない親しみのある、愉快な人で或晩、ニユーヨークの中央公園の附近にある自邸に、私を主賓として十数人を招待し晩餐会を催して呉れた。晩餐会が終つてから自分で各部屋を案内して呉れたが、私は通訳の市原盛宏氏――日本銀行に居つた人で、後朝鮮銀行を創立して総裁になつた人。今は故人である――と共に其説明を聞きながら従つたが、其寝室に行つて見ると、丁度寝台の所にナシヨナルシチーバンクの一日の仕事の成績が一覧表にして掲げてある。之れは毎日統計にして届けられるさうで、其日の一覧表には、差引帳尻ロツクフエラー九十万弗、スタンダード会社三百九十万弗など云ふ数字があり、預金総額が七億幾万弗に上つて居る。進歩したとは言へ未だ三十五年頃の我国実業界の現状に比較して、流石に大きな処は違つたものだと羨やましく思つた事であつた。
 シチルマン氏は至つて温厚な人で、且日本に厚意を有して居つたから、若し今迄存命であつたならもつと親交も深くなり、我国の為めにも都合のよい事が少くなかつたらう、惜しい事には既に故人となつて了うた。
 子息のシチルマン氏は、今父の業を継いで居るが此の人は父君よりは余程見劣りがする様に思はれるし、且余り親交がない。


実業之世界 第一八巻第一二号 大正一〇年一二月一日 米国十大実業家の印象(子爵渋沢栄一)(DK250008k-0024)
第25巻 p.247 ページ画像

実業之世界  第一八巻第一二号 大正一〇年一二月一日
  米国十大実業家の印象(子爵渋沢栄一)
○上略
    △親日的なブレジー氏
 今になつて思ひ出さるゝのは其頃の我国の状態である。初めて私が渡米したころ、即ち明治三十四・五年時分は、漸くにして我国の事業を盛んならしむるには第一に鉄道の布設、第二に工業を大に進歩せしめなければならぬといふ意見が盛んとなり、殊に鉄道を急速に延長するの必要ありとし、欧洲より鉄道借款をなして其の資に充てたやうな次第であるが、斯かる気運の勃興した時代であつたから、私が渡米して日本の現状を説明すると、初めて日本の実状を知つて興味を覚えた人も尠くなかつたが、ニユーヨークに於ける有名なる事業家ブレジー氏の如きも其の一人であつて、屡々会見する内に交際も親密になり、遂にはナシヨナルシチーバンクの首脳として米国金融界に重きをなすシチルマン氏と共に、日本に日米協力の事業を興して国民間の経済的握手をしようといふ相談をするまでに至つたのであつた。
 私は帰朝後、此事に就て更に我国の有力者とも協議し、アメリカの資本を仰いで此の勃興の気運にある鉄道・諸工業の発達を期したいと思ふといふ意見を述べた処が他の人々も賛成であり、又其時は金利の割合が高いので、投資側のシチルマン、ブレジー諸氏も承知し、両者の意見が一致したのであるが、遺憾ながら実行が出来なかつた。
○下略
   ○右ハ「竜門雑誌」第四〇四号(大正一三年一月)ニ転載サル。


竜門雑誌 第五三〇号・第一一一―一一二頁 昭和七年一一月 人格によつて敬服さるゝ国際人(頭本元貞)(DK250008k-0025)
第25巻 p.247-248 ページ画像

竜門雑誌  第五三〇号・第一一一―一一二頁 昭和七年一一月
 - 第25巻 p.248 -ページ画像 
  人格によつて敬服さるゝ国際人 (頭本元貞)
    一、先生に接した私
 私が初めて青淵先生に御目にかゝつたのは明治廿九年の春、飛鳥山の別邸で催された竜門社の総会に、時の総理大臣伊藤博文公が招待され、私は其の秘書官として出席した際である。其の時私が先生に附いて得た印象は、非常に慇懃な方であると同時に、国家の問題に就ては如何なる権威者に対しても堂々とその意見を直言して、政府の政策を非難することを憚らぬ人である、と云ふにあつた。此の席上青淵先生は伊藤公に対して、国家の予算に於て陸海軍費が非常に過大である旨を力説して、首相の注意を促された。即ち首相を賓客として招いて、その財政々策を非難されたので、随分思ひ切つたことを云ふ人であると感じた。其次に御目に掛つて親しく御説を伺つたのは、明治三十五年の晩春で、私が恰度アメリカの紐育に滞在中、たまたま欧米視察旅行の途、先生の一行が紐育に十日ばかり居られた時である。二・三度も御会ひしたが、或る時在留日本人が先生の歓迎宴会を催うした、私はその時先生の隣席に居たので、自分が米国で感じた事柄である、その天然資源の豊富なること、工業・商業の隆々たる発達をなすこと、実に驚くべきである旨を述べ、これに比較すると日本は頗る貧弱で、前途悲観すべきであると話した処、青淵先生は悲観すべき理由のないことを弁駁された上、日本は日本として経済方面のみならず各方面共世界の諸国に伍して大国として立行くを得る前途を持つことを諄々として語られ、非常に楽観して居らるゝやに見受けたが、其の見方の広く且つ深いのに敬服した。
○下略


竜門雑誌 第五一九号・第七一頁 昭和六年一二月 講話(頭本元貞)(DK250008k-0026)
第25巻 p.248-249 ページ画像

竜門雑誌  第五一九号・第七一頁 昭和六年一二月
    講話 (頭本元貞)
○上略
 先生が対外関係の中に於て、最も意を注がれたのは対アメリカでありまして、アメリカと日本との親善は、日本の国威を発揮する上に最も大切であるとされました、そして都合四度も米国を訪ねたのであります。最初は明治三十五年で、これは単に米国のみを訪問されたのでなく、世界の各国へ赴かれ、その途路、米国各地を訪問されたのであります。処がその際私は紐育に居りましたが、米国の新聞は「日本の大富豪来る、この渋沢と云ふ人は四億円からの大金持である」と書きたてたのであります。恰度青淵先生の御伴は、朝鮮銀行初代の総裁になつた市原盛宏君でありましたが、この時お互に米国新聞の発表を憤慨し「青淵先生は、国や他人を富ますことを考へて、自分の富むことを考へて居る人ではない、然るにこう云ふ風に大富豪であると新聞に出たのは、たゞ先生の関係して居られる銀行・会社の資本金を集めたものであらう」と判断したやうな次第で、実際当時は米国に於ても四億円と云ふやうな金持はなかつた時代であります。勢ひ先生は、米国各地で寄附申込を受けて弱つたと云ふことでありますから、私は極力先生の人なりを説明したのでありました。
 - 第25巻 p.249 -ページ画像 
○下略
   ○右ハ二松学舎主催青淵先生追悼会ニ於ケル演説ノ一部ナリ。