デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
1節 儒教
2款 陽明学会
■綱文

第26巻 p.23-27(DK260004k) ページ画像

明治41年5月17日(1908年)

是日陽明学ノ大家東沢潟ノ息敬治等、王陽明学会拡張ノ為メ、本郷湯島麟祥院ニ有力者招待会ヲ行フ。栄一出席シ演説ス。同日推サレテ評議員ト為リ、又当会ノ指導経営ヲ委任サレテ尽力ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四一年(DK260004k-0001)
第26巻 p.23 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
五月十四日 晴夕曇 暖
○上略 食後 ○朝食東敬治氏来リ、十七日王陽明学講演ノ為集会ノ事ヲ話シ予ノ出席ヲ請ハル、依テ諾シ遣ス ○下略
   ○中略。
五月十七日 雨 寒
○上略 午後一時本郷麟祥院ニ抵リ、王陽明学会ノ集会ニ出席ス、曾テ東敬治氏ヨリ勧誘セラレシモノニ係ル、席上意見ヲ述ヘ ○下略


竜門雑誌 第二四〇号・第二九頁 明治四一年五月 ○王陽明学会(DK260004k-0002)
第26巻 p.23 ページ画像

竜門雑誌  第二四〇号・第二九頁 明治四一年五月
○王陽明学会 陽明学の大家たる故東沢潟翁の令息敬治氏及結城蓄堂菊池晋二等諸氏の主唱に依り本月十七日午後二時より湯島麟祥院に於て王陽明学会の開催あり、当日は陽明の真蹟、画像及同学派に属する明清大学の遺墨等を陳列して展観に供し、猶諸大家の講演ありしが、青淵先生にも出席の上、東久世伯・渡辺国武子・井上哲二郎《(井上哲次郎)》・江木衷の諸氏と共に一場の講話を試みられたり
   ○講話ノ筆記ヲ欠ク。


竜門雑誌 第二四六号・第七一―七二頁 明治四一年一一月 ○陽明学会(DK260004k-0003)
第26巻 p.23-24 ページ画像

竜門雑誌  第二四六号・第七一―七二頁 明治四一年一一月
○陽明学会 陽明学の大家たる故東沢潟翁の令息敬治氏等の主唱に依り、本年五月湯島麟祥院に王陽明学会を開かれ、青淵先生にも出席の上一場の講演を為したることありしが、右東氏等は芝三田小山町に陽明学会なるものを設立し、青淵先生には同会評議員の一人に推選せられたり、同会の主意書及会則左の如し。
    陽明学会創立主意書
 方今奎運隆昌東西の文物一として具備せざるは莫し、而して独り精神修養の学に至つては則ち未だ欠点あるを免かれず、是れ夙に有識者の憂ふる所なり、本会玆に見るあり、即ち先覚に諮議し同志を糾合して、斯学の妙訣を皷吹し知行の真理を闡明し、以て士気の衰頽を未墜に防ぎ、心性の涵養を永遠に修めんとす、希くは有志者速に来て本会に賛同し共に斯道を推拡し、以て世道人心をして興起せしめられんことを、此れ啻に昭代の美挙なるのみならず、亦経国憂世の士の宜しく急に務むべき所なり。
    陽明学会会則
 - 第26巻 p.24 -ページ画像 
  第一条 本会は陽明王子の学を振興し、以て世道人心を扶植するを目的とす
  第二条 本会《(部)》を東京に、支部を地方に置く
  第三条 本会の事業は概左の如し
  (一) 学舎を設け後進を教育すること
  (二) 陽明学に関する書籍の収輯保存を図り、並に有益の著作を刊行すること
  (三) 毎月一回例会を開き、毎年一回大会を開くこと
    但し時々講演会を公開すること
  第四条 本会は特別・協賛・賛助・賛成員・通常会員の五種となす
   特別会員は毎月弐円以上、協賛員は毎月壱円、賛助員は毎月五拾銭、賛成員は毎月参拾銭を出資し、通常会員は本会発行の雑誌を毎月購読せらるゝものとす。
    但し碩学高徳、並に斯学の功労者は名誉会員に推薦することあるべし。
  第五条 特別・協賛・賛助・賛成会員には毎月雑誌を頒呈す
  第六条 本会に評議員若干名・主幹一名・幹事若干名を置く
    但し主幹は本会首唱者東敬治之に任し、評議員は主幹之を推薦し、幹事は評議員の承諾を経て主幹之を嘱託す
  第七条 本会則は大会の決議、若くは評議員の評決により改正することを得
   明治四十一年五月
            東京市芝区三田小山町一番地
              陽明学会主幹 東敬治
                  幹事 相羽忠雄
                  幹事 結城琢
                  幹事 亀谷聖馨
                  幹事 生出亀之進
又評議員は左記二十四名なり
  文学博士 井上哲次郎         八巻九万
    公爵 二条基弘       男爵 細川潤二郎
       大谷靖           大倉喜八郎
    男爵 尾崎麟太郎         若宮正音
       渡辺忠        子爵 渡辺国武
  文学博士 高瀬武次郎      伯爵 宗重望
    伯爵 柳原義光          松尾清次郎
       小牧昌業     法学博士 江木衷
       朝吹英二          菊地晋二
    男爵 吉川重吉       男爵 南部甕男
  文学博士 三宅雄次郎      子爵 鳥尾光
    男爵 渋沢栄一       伯爵 東久世通禧


渋沢栄一 日記 明治四一年(DK260004k-0004)
第26巻 p.24-25 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
 - 第26巻 p.25 -ページ画像 
十月二十九日 曇 冷
午前七時起床、風邪全快セサルヲ以テ入浴スルヲ得ス、褥中ニ在テ書類ヲ撿閲ス、東敬治氏来リ王陽明学会ノ事ヲ談ス ○下略


斯文六十年史 斯文会編 第三七三頁 昭和四年四月刊(DK260004k-0005)
第26巻 p.25 ページ画像

斯文六十年史 斯文会編  第三七三頁 昭和四年四月刊
    第五十二章 特殊研究学会
○上略
陽明学会 明治四十一年十一月に、東敬治の創立する所にして、評議員及維持員は、子爵渋沢栄一・奥宮正治の二氏なり。会の事業は、講演・講義・雑誌の発行にして、講義は東京市丸の内仲通十八号館渋沢事務所に於いて、毎月二回之を行ひ、雑誌は始より継続して発行し、昭和三年十一月に至りて、第百九十四号に達せり。最初は月刊なりししも、大正十二年の大震火災後、隔月発行と為せり。


青淵先生関係事業調 雨夜譚会編(DK260004k-0006)
第26巻 p.25-27 ページ画像

青淵先生関係事業調 雨夜譚会編    (渋沢子爵家所蔵)
  陽明学会(昭和三年二月二十五日調べ)
    陽明学雑誌と青淵先生
                      東敬治氏談
現在出して居る「陽明学」と云ふ雑誌は、以前「王学雑誌」と云ふ名称であつた。其前に「陽明学」と云ふ同じ名の雑誌が出て居つたが、之れは私が出して居たのではなく、吉本襄と云ふのが経営して居た。此人は土佐の人で、同じく土州の陽明学の泰斗であつた奥宮慥斎の又弟子である。明治三十五・六年の頃だと思ふが、牛込の築土八幡で此の「陽明学」を出して居つた。けれども維持困難の為め一年そこそこで止めて仕舞つた。私は其頃上京して吉本襄に薦められて、此雑誌の客員に無理やりに引張込まれた。何度も雑誌に書け々々と頼まれたが『自分は今時の者にわかる様な文章は書けん』と云つて、一遍位しか書かなかつた。「陽明学」が潰れ、此一派の中では種々な計画をした。中には可成り大きい事を企てた者もあつたが、何を言つても金が無いから実現せずに終つた。私は是等の連中とは全然別に「王学雑誌」と云ふ名で雑誌を発行する事として、其第一号を出したのは、明治三十九年三月だつた。海江田信義子爵(薩摩の人)が題字の代りに歌を寄せて呉れた。其時分私の住居は矢張り牛込の築土八幡卅番地にあつたが自宅を学舎にして「明善学舎」と名乗つた。明善学舎は陽明学の学舎であるが、何を云ふにも基本金がないので大変困難した。住居も転々として移り、半年たゝない三十九年の十月には、四谷の永住町三番地に引越した。雑誌と云つても大した物は作る事が出来ず、薄つぺらな物を発行した。之れは読者に販売するのでなく、会員に配つたのである。それだからと云つて会費を取る事もしなかつたから金に窮するのも道理だ。時には雑誌が製本屋で出来て居ても、それを取りに行くのに金がない事もあつた。が会員の中には同情してたまに十円位雑誌代として送つて寄越す者があつたので、之で今月は過せると云つた塩梅だつた。此時分に渋沢子爵は会員であつたが当時は単に学舎から雑誌を送つて寄越すと云ふ事に止まつて、それ以上子爵に援助を頼みに行
 - 第26巻 p.26 -ページ画像 
く等の事はなかつた。
私が渋沢子爵を知る様になつたのは、明治三十五・六年に上京して間もなくの事だつた。島田蕃根(註、明治初年廃藩置県後東京に出で、教部省に出仕し、宗教制度寺社等に就き調査する所あり。生家は毛利の家臣。詳細は大日本人名辞書九九七頁参照)の紹介によつて子爵と会つたのが其初まりである。私は元来長州の者で私の亡父東崇一《ソーイチ》(註沢潟と号す。周防岩国の人、陽明学を奉じて東遊し、佐藤一斎の門に入る。詳細は大日本人名辞書一七八六頁参照)が島田蕃根と交つて居つた関係から、私が「王学雑誌」を出す事となつた時、此人に話したら『それには渋沢さんを会員に加へた方が具合が宜からう』と云つて紹介して呉れた。それで子爵に頼んで会員に成つて貰ひ、雑誌を送つて居つたと云ふ訳である。所がどうしても雑誌の維持経営が困難で、此儘では継続出来なくなつた。そこで到頭子爵の後援に寄る様な事になつたが、其経路を話しすると斯うである。私の此仕事に対しては東久世通禧伯爵(明治御一新に際して七卿落の一人である)が同情を寄せて下さつて居たので、先づ此東久世伯爵に発起人に成つて貰つて、有力な実業家其他の人々の招待会を催し、其席上で雑誌拡張の計画を述べ後援の依頼をする事を企てた。併し滅多な場所でしても出席して呉れないから、変つた所を選ぶと云ふ事で、湯島の麟祥院にした。それも院の春日局の居間を特に頼んで融通して貰つた。此の春日局の居間とは、嘗て春日局が自分の部屋として居たとかで、其後誰にも会席として貸した事がなかつたそうだ。私の会を催したのが何年何月であつたかはつきり覚えぬが、大凡明治四十一・二年だつたと思ふ。其日百数十名ばかり案内した中で八十余名出席した。此出席者中から委員を選んで尽力を仰ぐ事とした。渋沢子爵にも委員になつて貰つた。前にも云つた通り其以前に於ける子爵との関係は通り一遍の会員に過ぎなかつたもので私は子爵の事は気に付かなかつた。それでは委員にはどう云ふ訳で成つて貰ふ様になつたかと云へば、大倉喜八郎さんが私に言つて呉れた。そして大倉喜八郎さんを雑誌の拡張委員に頼んで呉れたのは東久世伯爵である。私が東久世さんから紹介されて大倉さんに頼みに行つたら、大倉さんが『援助はしやう。併しそれは渋沢さんにも頼んだ方がよからう。自分よりも渋沢さんの方が人気があるから拡張も都合よく行くだらう』と教へて呉れたので、私が『それでは渋沢さんにお頼みしますが、大倉さんから薦められてお願に来たと明からさまに云つても差支ありませんか』と断つて、早速渋沢子爵を訪れて頼んだ。それから委員会を何度も開いて、其都度子爵に御出席して貰ひ偏に子爵の尽力を仰ぐ事を頻りに子爵に頼んだ。併し子爵は此明善学舎の趣旨、成り立ちを深く御存じがなかつた為めか、他の委員同等の援助なら引受けやうけれども、責任の大半を持込れるのは困ると云つた様な御考であつたので、私等から強いて頼むと席を立つて『今日は外に用事があるから……』と帰らうとなさる、そこで私が『雑誌が毎号お送りしてある筈で御座いますが、それで趣旨もお判りの事だらうと思ひます』と追ひかけて云ふと『いや、雑誌は毎号確に頂いて居る誠に難有ふ。御礼を言ふ』と及腰に返答なさる。到頭最後に私が
 - 第26巻 p.27 -ページ画像 
『それでは貴方に万事おまかせして、貴方の御考通りにやる事に致しますから』と突込んだ。すると子爵も『そう迄言はれると致方ない』と此上拒まれなかつた。之れが謂はゞ吾陽明学雑誌の第二回目の拡張である。同時に雑誌の名を「陽明学」と改めたのである、此時から陽明学会の経営が子爵の御尽力に頼る様になつた。それから余程経つて大正十二年の大震災前になつて、再び経営困難となり、第三回目の拡張を必要として此時も子爵に大いに御尽力を願ひ、子爵初め各方面の人々から約二万円の寄附を仰ぐ事になつたのであるが、生憎震災の為め其半額の一万円も集まることが出来ず、経営が苦しくなつて来た。依つて従来月刊雑誌であつた「陽明学」を隔月に発行する事にして継続して居る次第である。考へて見ると子爵の御世話になる様になつてから長い間であつて、其間度々子爵に金の御心配も懸けた。私が感じて居る事は、子爵は一度幾何の金を寄附しやうと約束なさると、必ずそれ丈はお出しになる。之れは金の事ではあるが、外にこんな人はない様だ。又数回経営困難に陥つて、子爵に雑誌の廃刊を申出た事も屡屡であるが、子爵は何時も『そんな事では駄目だ』と云つて反対なさる。之れは特に私が感じた事である。
渋沢事務所で陽明学の講義をする様になつたのも、子爵の希望であつて、震災前から続けてゐる。毎月二回、第二・第四の土曜日と定めてある。
最後に、陽明学と云ふのは孔子の教を説くに就て朱子学に対抗して起つたものである。朱子学派に在つては孔子の教を解釈するのが非常に狭義である。併し陽明学に於ては印度の仏も容れて拒まず、特に孔子の教を実際に当嵌める事に於ては朱子学が全く閑却した所であるが、之を大に説いた。此点に於ては渋沢子爵の主張と全く一致する所で、子爵が雑誌「陽明学」に尽力なさるのも、此処に基因して居る事と思ふ。序に震災前支那から子爵に宛てゝ、陽明全集が贈られた。此全集は大変善い本であつた。子爵は此全集に返り点・捨仮名・註釈・講義を附けるやうに私に頼みになつた事がある。