デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
1節 実業教育
1款 東京商法講習所
■綱文

第26巻 p.501-523(DK260081k) ページ画像

明治8年11月(1875年)

是ヨリ先九月、森有礼、米国人教師ヲ招聘シテ商法講習ノ私塾ヲ興シタリシガ、幾許モ無ク清国駐箚弁理公使ヲ拝命シ、其経営ニ任ズル能ハザルニ至リ、是月、之ヲ東京会議所ノ管理ニ移ス。栄一、益田孝・福地源一郎ト共ニ其経営委員ニ挙ゲラル。翌九年五月、東京会議所ハ其行務ヲ府庁ニ還納セシヨリ当講習所モ亦府庁ノ管轄トナリ、矢野二郎命ゼラレテ其所長トナル。


■資料

青淵先生公私履歴台帳(DK260081k-0001)
第26巻 p.501 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳         (渋沢子爵家所蔵)
    民間略歴 (明治二十五年迄)
明治八年八月 故森有礼子ヲ助ケテ商法講習所創立ニ従事ス
 明治五六年ノ交、故森有礼子米国ニ在テ我邦ニ商法講習所ノ設立ヲ企図シ、東京会議所ニ向テ賛助ヲ求ム、当時ノ会議所議員其事業ノ必要ナルヲ認メテ、衆議ヲ経テ其資金補給ノ事ヲ約シ、森子米国ヨリ帰朝シテ遂ニ之ヲ創立ス、然ルニ明治八年十一月森子任ニ清国ニ赴クニ当リ、其講習所ヲシテ全ク東京会議所ノ附属トナシ、並ニ其事務ヲ管理セラレン事ヲ請フ、衆議之ヲ許諾シ、会頭ヲ以テ其事務ヲ管理セシムルモノト定ム、其後九年五月講習所ノ事務ヲ府庁ニ還納セシモ、尚府知事ノ委嘱ニヨリ其事務ニ参与ス
  以上明治二十五年五月十日調
   ○栄一ノ東京会議所ニ関与セルハ明治七年十一月以降ニシテ、八年十二月二十七日会頭並ニ行務科頭取タリ。本資料第二十七巻所収「東京会議所」及ビ第二十四巻所収「東京市養育院」参照。


矢野二郎伝 島田三郎編 第五一―五四頁 大正二年五月刊(DK260081k-0002)
第26巻 p.501-502 ページ画像

矢野二郎伝 島田三郎編  第五一―五四頁 大正二年五月刊
 ○本伝
    一〇 商法講習所長となる
明治五年九月東京営繕会議所の権限を拡め、土木以外の事務を処理することゝなりたるを以て、改称して東京会議所といふ、九年府下の公事が府庁と会議所との間に岐るゝの嫌あるを以て、保管の資金を府庁に引継ぎ、会議所は其収支を議決する所となり、其後地方議会の開かれんとするや、府民の事を二途に議す可きにあらずと為し、会議所は其家屋・物件を府庁に納付し、自ら会議所を解散したるを以て十年二月其結果、商法講習所支出予算の議決権も、自ら府会の権内に属するに至れり
 - 第26巻 p.502 -ページ画像 
是より先講習所は、森の去ると倶に其首脳を失ひ、会議所頭取渋沢栄一・議員益田孝・福地源一郎等嘱托せられて其委員となりたりと雖、各人皆其専業あり、主人なきの空屋、隣人奈何ぞ、代りて其家業を治むるを得んや、講習所は僅に其名称と形骸とを留めて残喘奄々たり、之をして復活せしめんとせば種々の準備を要す、資金も必要ならん、補助者も必要ならん、然れども責任を取る首脳は第一の要事なり、而して其人を得んことは難中の至難事なりき
明治の改革は政治の改革先づ成りて、其影響を社会に及ぼせるものなり、哲学的史家は更に深遠の観察を下すべしと雖、活動者は此改革進行の中流に游泳して、思を政治の範囲外に馳するもの甚稀なり、功名は偏へに政治的競争にありと信ぜられたり、明治七八年の日本は、武士が封建を再興せんとする宿夢より尚未だ覚めず、各地の騒擾皆此思想より発したり、其最進歩したる思想の人と雖、世界の思潮に乗じて政治的改革を遂げんと欲するに在りて、其信念に緩急の別ありと雖、官民共に此範囲を出でざりき、有為の材を懐きて功名の志を有する者多くは官界に馳せて政権を握らんとす、何人か眇たる講習所、而かも気息奄々たる講習所、商賈とならんとする学生の講習所に身を投ずるものあるべけんや、此の如くにして新に場所を木挽町に移したるも、今の農商務省所在地数月の間は空屋徒らに存して其主人なき姿なりき、二郎の米国より帰りて在野の一矢野となりたるは此時に在り、渋沢・益田は疾くに其適材なるに嘱目し、此難局の衝に当らんことを勧誘したり、勝安房・大久保一翁は江戸出身の先輩なるを以て助言したり、大久保は森の去るに際し、知事として講習所の管理を移すに斡旋せしも、其年の末(八年十二月)府知事より教部少輔に転任し、権知事楠本正隆知事に陞任せり二郎初め之れに応ぜざりしが、知友先輩の熱心なる勧誘と、米国実業界の形勢に感ずると、森の遺業なると、是等の事輳まりて其心を動かし、遂に意を決して、此前途暗黒、多労少酬の事業を引受くるに至れり
○下略


東京経済雑誌 第一二巻・第二七六号 明治一八年八月一日 ○東京商業学校沿革演説(DK260081k-0003)
第26巻 p.502-503 ページ画像

東京経済雑誌  第一二巻・第二七六号 明治一八年八月一日
    ○東京商業学校沿革演説
 左ニ記スル所ハ、東京商業学校商議員渋沢栄一君ガ、去ル十日同学校卒業生徒仮卒業証書授与式ノ節ニ演説セラレタル要領ナリ
○上略
予ガ玆ニ言ハント欲スル所ノ者ハ、即本校今日ニ至ル迄ノ沿革ナリ、只此一事子等ガ注意ヲ喚起スルニ於テ充分ナリト考ヘリ、何トナレバ本校ノ沿革ヲ知ルトキハ、予ガ本校ニ於ケル従来苦心ノ度ヲ知ルコトヲ得ベク、而シテ予ガ左迄苦心シタル所以ハ、マタ偶然ニアラザル所以ヲ知ルベケレバナリ、抑本校ノ起源ハ明治七八年ノ交ニアリ、七年東京会議所議員ハ商業教育ノ必要ヲ陳ヘテ之ヲ府知事ニ上請セシガ、会々森有礼君(此時合衆国弁理公使タリ)此ノ事ヲ聞キ深ク其挙ヲ嘉シ、自ラ教師ヲ選バレ、八年八月ニ至リ米人ウヰットニー氏教師トシテ来航セリ、此ノ時予ハ会議所ノ会頭タリシガ、以為ヘラク今日ニ当リテ殊更巨額ノ金ヲ費シ教師ヲ聘シテ商業学校ヲ設クルノ急要ナシト因リテ府知事ニ就キ之ヲ止ントセシカトモ、已ニ会議所議員ノ上請セ
 - 第26巻 p.503 -ページ画像 
シ所ナレバ今更中止スル能ハズトテ、乃チ会議所ニ於テ同氏ヲ雇ヒ之ヲ商法講習所ニ貸与シ、同所ノ教務ハ森君専ラ之ヲ管理セリ ○下略
   ○此演説全文ハ本款明治十八年七月十日ノ条ニ収ム。


東京高等商業学校同窓会会誌 第六一号 明治四一年一二月 明治時代に於ける実業及実業教育実験談(男爵渋沢栄一)(DK260081k-0004)
第26巻 p.503 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第六一号 明治四一年一二月
    明治時代に於ける実業及実業教育実験談
                     (男爵 渋沢栄一)
○上略
 東京高等商業学校の起りと云ふものは、森有礼といふお人が亜米利加へ、公使として行かれたのが其責任何れであつたかを記憶しませぬが、時の東京府知事大久保一翁と懇意の為め、海外の実業的学校、英語でビジネス・スクールと、私は英語に熟しませぬけれども、其時分から言伝へました。さう云ふ者があるから、是非日本でも追々に各種の教育をやかましく言ふ、商売人にも教育が無くちやいけないから、東京市の如き、其時は市とは申さなかつた、府と言ひました、是非左様な設が必要ではないか、自分は大にそれに力を尽して見たいと思ふのであるが、自力では困るから府庁より何かの補助が欲いと云ふので東京府知事が、多少の資金を供へませうと云ふことを約束して置かれた。其の為に森といふ人が帰国の時に一教師を連れて来たのが、此高等商業学校が組立てられる抑々初であつた。其時には東京府には、一種の共有金があつて、其の金の中から森君に多少の費用を補助すると云ふ事であつた。而して其学校をば商法講習所と云ふ名を以て、一人の外国人に二三人の日本人が附属して、一学校が開かれた。今伺ふと宮川君は其頃の学生でお出なすつたと云ふから、あまりお若いとばかりは申上げられぬかも知れぬ。(喝采)所が其後に森君が支那の公使に行かれるに就て、其学校の経営が困ると云ふので元と共有金を以て補助すると云ふ関係からして、引続いて東京府の方に相談になつて、其学校を東京府のものにして呉れ、家屋も地所も買ふてくれ、後の教育方法も継続してくれと云ふ事であつた。そこで東京府の者共が申合せて其共有金に依つて此学校を購ひ入れて、さうして後を持続することになつたのです。其頃は私は東京府の共有金の取締といふ事を知事から嘱托されて居つた、但し本職分は第一銀行の頭取―其時は頭取といふ名は付けませぬで、総監といふ名で勤めて居りましたけれども、実務は頭取であつた。本職の外に今のやうな事を併せ務めましたので、実際他の人々とも種々協議して終に其学校は必要であるから東京府で維持して宜いではないかと云つて経営する事になつた。
○下略
   ○此演説全文ハ本款明治四十一年十月二日ノ条ニ収ム。


商法講習所書類 明治一二年(DK260081k-0005)
第26巻 p.503-504 ページ画像

商法講習所書類  明治一二年        (東京府庁所蔵)
  七月新鐫東京商法講習所規則
    東京商法講習所沿革誌
東京商法講習所ハ、明治六年米利堅在留弁理公使森有礼氏之ガ教師ヲ聘シテ以テ商法ノ挙ヲ本邦ニ明カニセント欲スルニ起ル、故ニ前教師
 - 第26巻 p.504 -ページ画像 
ウヰットニー氏来航ノ年月ハ則チ講習所ノ端ヲ托シ、初ヲ書スノ時ナリ、蓋シ八年八月ヲ以テ米人ウヰットニー氏我国ニ来航シ、旧会議所之ガ傭主トナリ、而シテ有礼氏之ヲ借リ私学ヲ尾張町ニ仮設シ生員ヲ招集ス、既ニシテ有礼氏学ヲ木挽町ニ移サント欲シ、旧会議所ノ地ヲ借リ土ヲ運ビ材ヲ鳩ム、講堂ノ経始成ルニ向ントシテ偶々航清ノ命アリ、終ニ其事ヲ果サズ、十一月廿二日校事ヲ挙ゲテ之ヲ旧会議所ニ附ス、爾後旧会議所之ヲ管理シ、毎事府庁ニ稟議シテ頗ル刱建スル所多シ、然レトモ学猶尾張町ニ在リテ未ダ本地ニ移スニ遑アラズ、時ニ生員ノ業ヲ肄フ者廿六人、此月高木貞作ヲ以テ講習所掛トナシ、ウヰットニー氏ト共ニ教務ヲ司ラシム、九年五月三日教師館功ヲ起ス、越テ十五日学ヲ今ノ商法講習所ニ移シ廿日校事皆府庁ノ直轄ニ帰ス、廿六日矢野次郎命ゼラレテ商法講習所長トナリ、専ラ校務ヲ経理ス、七月廿六日教師館竣功、廿八日ウヰットニー氏移テ之ニ居ル、是ニ至リテ校事略備リ、講堂全ク其用ヲ為スヲ得タリ、八月十七日学則ノ編纂新ニ成リ、府庁ニ稟議シテ生員ヲ増スノ広告ヲ班布ス、廿六日講堂ヲ区分シ、吏員ヲ置キ、庶務ヲ裁定ス、九月四日実地科ヲ創置ス、十一日新ニ生員ヲ選収スル廿四人、十一月廿二日所長斯学ノ四遠ニ布及セン事ヲ欲シ、将来ノ教授方法ヲ定メテ、正変二則及国語ノ三科ニ分チ、別ニ貸費生徒ヲ設ケ置キ、業成ルノ後府県諸港ニ派出セシメ、支校ヲ設立スルノ予備ヲ為シ、且本所ニ塾舎ヲ建テ、生員ヲ養フ等ノ数事、及此黌ヲ維持スル会計必須ノ金額ヲ確定シ、府庁ノ扶助ニ依リ、学務上ニ経費スル所ニ比スレバ、其効ヲ収ムルノ多カラン事ヲ欲スルノ諸方略ヲ府庁ニ建議ス、然レトモ遂ニ報セス、此月本所ノ地ヲ以テ官有地第四種ニ列スルノ命アリ、是ニ至リテ東京商法講習所ノ名其実ト始メテ完タシ、時ニ生員ノ籍ヲ此学ニ係ル者四十二人、十年四月十四日卒業生森島修太郎・成瀬正忠ヲ以テ商法講習所助教心得ニ任ス、九月十四日森島修太郎ヲ助教ニ任ス、是ヨリ先高木貞作既ニ助教ニ任ス、同月十九日之ヲ免ス、十一年三月三十日森島修太郎職ヲ辞ス、成瀬正忠代テ助教ニ任ス、四月一日英人フレデリッキ・アドリヤン・マヤーヲ延テ教務ヲ分担セシム、五月三日ウヰットニー氏ノ約ヲ解キ、時ニフレデリツキ・アドリヤン・マヤーヲシテ教務ヲ司サドラシム、八月十五日生員ノ寄宿ヲ乞フ者多キヲ以テ、府庁ニ乞ヒ、仮リニ教師館ヲ以テ塾舎トナスノ允ヲ得、十二年二月之ヨリ先キ入学試験毎ニ纔ニ合格ニ至ラザルノ生員アリテ、往々篤志ヲ空フスルハ、全ク府下正則英語学校ノ乏シキニ因ルヲ以テ、英人アレキサンドル・ヂヨセフ・ヘヤーヲ傭ヒ、之ガ教務ヲ司サドラシメン事ヲ申請シ、既ニシテ准可ヲ得実ニ同月十八日也、三月一日始メテ予備科ヲ開ク、現今本科生員四十六名・予備科生員四十一名アリ、是則チ本所創立以来ノ概略ナリ、蓋今日ノ事ハ大河ノ蹄涔ナリ、喬岳ノ蟻垤ナリ、実ニ記載スルニ足ル者ナキカ如シト雖トモ、然トモ大河モ蹄涔ノ多キニ過キス、喬岳モ蟻垤ノ聚リニ過キス、他年此学ノ盛大ヲ致ス、蓋今日ノ事之レカ基趾ヲナスニアラズンバアラザルナリ、故ニ既往ノ成績略著明ナルモノヲ記シテ、以テ観者ニ供ス


東京商工会沿革始末 同会残務整理委員会編 第一一―一二頁 明治二五年五月刊(DK260081k-0006)
第26巻 p.505 ページ画像

東京商工会沿革始末 同会残務整理委員会編
                      第一一―一二頁 明治二五年五月刊
    ○東京会議所
○上略 次ニ東京府知事ハ明治六年十月前米国駐剳弁理公使森有礼ト協議シ、商法講習所ヲ新ニ木挽町ニ開設シ、米国ヨリ教師ヲ聘傭スル事ヲ約シタルニ由リ、府庁ハ其後明治八年森有礼ガ公務ヲ帯ビテ清国ニ赴クニ当リ、商法講習所ノ事務ヲ全ク会議所ノ管理ニ移シ、都テ共有金ヲ以テ其費用ヲ支弁セシメタリキ是今ノ高等商業学校ノ濫觴ナリ
斯ノ如ク東京会議所ハ道路橋梁修繕事務ノ外ニ養育院事務・共同墓地事務・瓦斯灯及街灯事務・商法講習所事務ヲ管理処弁シタルニ付キ、委員ハ皆其事務ノ煩擾ニシテ整理完全セザルヲ憂ヒ且共有金原資ノ漸次減少シテ余分ナキニ至ルヲ憂ヒ府知事ニ推薦スルニ、府下有志者才幹アル者某々等ヲ委員ニ依嘱セラレン事ヲ以テシタルニ、府知事ハ其推薦ヲ納レ明治七年十一月ヲ以テ渋沢栄一等ニ共有金取締ノ事ヲ嘱托シ、其後翌八年四月ヲ以テ此諸氏ヲ会議所ノ委員ニ任シタリキ
○下略


(増田充績) 書翰 渋沢栄一宛 (明治未詳年)九月三〇日(DK260081k-0007)
第26巻 p.505 ページ画像

(増田充績) 書翰  渋沢栄一宛 (明治未詳年)九月三〇日
                     (渋沢子爵家所蔵)
今朝者種々御教示難有、講習所之儀昨日御撿印相済候ニ付、従是府庁ヘ可差出与存居候内、同所より別紙之通届書持参ニ付承糺候処、右者木挽町之方ハ差向米人旅館ニいたし候儀ニ付、営繕出来候迄之間尾張町於而開業之旨申聞候処、左候ハヽ府庁江之御届書与齟齬仕候間、又々懸紙之通取直し申候間、別紙相添猶奉伺候、此段申上候也
  九月三十日
追而外壱通ハ最前之儘にて差出候積り御座候 以上
  渋沢様         充績
      別紙添        再拝
   ○別紙欠。


東京日日新聞 第一一一四号 明治八年九月四日 【先達ても記載せし通り…】(DK260081k-0008)
第26巻 p.505 ページ画像

東京日日新聞  第一一一四号 明治八年九月四日
先達ても記載せし通り、森有礼君の発起にて福沢・箕作の諸先生も周旋せられ、商法学校を開かんと、既に木挽町十丁目に立派なる講習所を建築せられたり、其教師としてアメリカより迎へたるホヰツトニー氏も最ハや此ごろ着京に成りたるよしなれバ、遠からずして開業せらるゝなるべし、我が日本国の商法に疎き、素より論を待ざりしが、今この学術の我が国に開け始むるハ実に国家富強の基礎と云ふべし、勝安房公ハ、近ごろ所労にて引籠り居られけるが、仕事もせずにたゞ月給を取るも相すまぬことなれども、是を政府に返すも変なものなりと思案の折から、商法学校の事を聞て、是レ幸ハひに我が宿昔の志願に叶へりとて、本月一日金千円を助力せられたり


会議所伺 第二号 自明治六年至明治七年(DK260081k-0009)
第26巻 p.505-506 ページ画像

会議所伺  第二号 自明治六年至明治七年     (東京府庁所蔵)
 - 第26巻 p.506 -ページ画像 
奏任出仕             (印)庶務本課
  製作寮
    建築局
       御中
木挽町六丁目会議所附商法講習所地内道筋御取開之儀云々御掛合之趣承知いたし、即会議所江相下ケ候処、敢而差支無之旨申出候間、御局御見込之通可然御取斗有之度《(此三字明瞭ヲ欠ク)》、此段及御回答候也


会議所伺 第三号 明治八年(DK260081k-0010)
第26巻 p.506-507 ページ画像

会議所伺  第三号 明治八年          (東京府庁所蔵)
地第三百四拾六号
    府下会議所等名称之義ニ付再伺
府下会議所外五ケ所名称之義ニ付、本年二月三日地第廿七号ヲ以相伺候処、会議所・瓦斯元地・商法講習所□官有地第三種《(者)》ニ組込候様云々同三月八日御指令相成候ニ付、相当之借地料等取調、尚相伺可申処、阪本町廿八番地会議所之義者府下一般民費之賦課、其他道路・橋梁之経費取調等諸事合議之為庁より民費ヲ以設立候得共、毎事官員も出張為致、元来府庁出張所同様之儀ニ有之、且木挽町十町目商法講習所之義者従来御国商法之議、鎖国風習規模小未免ニ付外国人より取引中不利ヲ主トシ、終ニ損害相招候而已ニも無之、御国全体衰微可相醸相歎候より、商法学校取立候見込有之、草創之事ニ付入費も不尠候ニ付、尚維持方法等頻ニ苦慮罷在候処、此上相当之借地料等為差出候而者折角設候教場も忽衰頽ニ趨候哉与深愚念致し候折柄今般御省乙第百十四号御達賦金之内ヲ以建設スル伝習所等者官有地第四種ニ偏入候様之趣も有之候、旁前段当所之儀も右等ニ準拠し官有地第四種ニ御組替相成度取建催主会議掛一同申立、府庁おゐても同断相願度、実際困難之次第夫是事情御洞察之上可然御示令被下度、此段再応相伺候也
  明治八年九月廿九日    東京府知事 大久保一翁
    内務卿 大久保利通殿
 追而本文講習所地所之儀先般全部分取束惣坪四千四百四十九坪弐合五勺与申進置候処、同所之儀今般改正道敷ニ係リ、別紙図面色分之如ク分裂相成、随而区別相立候而已ナラス地所番号等も夫々相附ケ居候間、何分今日ニ至リ最前ノ通リ其儘講習所之一名而已附シ候も不都合ニ付、分裂相成候分ハ同所附属地ニ致し置候方与存候、右ハ先般上申候節と地所変換致候ニ付此段も申進候也
(別筆・太字ハ朱書)
割印書面会議所其他共民費ヲ以設立之趣ニ付伺之趣旨難聞届、最前指令之通可相心得事
  明治八年十月九日   内務卿 大久保利通

第百三号
七年十二月十七日第十八号以書面、会議所・養育院・力役場・瓦斯元地・商法講習所五箇之地面厳定奉伺候処、会議所・瓦斯元地・商法講習所ハ官有地第三種ニ組込相当之拝借料相納、其他ハ官有地第四種ニ可組入旨之御指令敬承仕、猶七年十二月七日之御布令ヲ以衆議勘弁仕
 - 第26巻 p.507 -ページ画像 
候処、俄斯元地ハ追テ市中ヘ売渡後日ニ至リ聊利益ヲ収メ候手組モ御座候得者、御指令之通相心得、会議所・講習所ノ義ハ府下ノ人民之利害得失ヲ論シ候ト商法ノ教導トニ係リ何レモ収利ノ筋無御座、全ク学校ノ部類ニ付養育院外一ケ所同様第四種組入相当可仕ト奉存候間、四種ヘ御組入被下候様仕度、此段申上再度奉伺候也
  明治八年九月二日          会議所
    御掛
       御中
   ○「会議所伺」(第三号明治八年)ニ拠レバ明治八年三月会議所ヨリ御掛ニ提出セル伺書ニ於テ「年々入費高見込」欄中商法講習所教師給料トシテ金三千円計上サレアリ。


会議所伺 第三号 明治八年(DK260081k-0011)
第26巻 p.507 ページ画像

会議所伺  第三号 明治八年          (東京府庁所蔵)
(欄外・太字ハ朱書)
 [十月十三日 ○明治八年達之儀
知事
             庶務本課(印)
奏任出仕(印) (印)
             地券取扱(印)
    御達之案
              会議所
会議所並商法講習所設立地名称之義、先般申立之趣モ有之内務省ヘ相伺候処、民費ヲ以設立之儀ニ付伺之趣旨難聞届、最前指令之通リ、可相心得旨達シ有之ニ付、官有地第三種ト相心得、相当之拝借料上納可致候此旨相達候事
  月日            長官
右之通リ相達拝借料収入之義其地券取扱ニテ取調之上尚相伺可申候也


会議所伺 第四号 自明治九年至明治一〇年(DK260081k-0012)
第26巻 p.507-508 ページ画像

会議所伺  第四号 自明治九年至明治一〇年    (東京府庁所蔵)
                  (欄外別筆)
                  [五月一日立稿(印)
知参事             第一課(印)
 (印)
会議所頭取渋沢栄一より別紙ヲ以商法講習所新設之義申出取調候処、当時借屋ニ而、月々失費も有之趣ニ相聞候間、右等ヲ以衆議一決之様子ニ付、御聞済ニ相成可然相伺候也
割印書面伺之趣聞置候事
(別紙)
府下商法講習所之儀ハ、現今至要ナルヲ以テ明治六年十月中森有礼殿弁理公使之節、帰朝之後前知事大久保一翁殿ト御協議之上、教師トシテ米人ホウヰッニー氏ヲ雇入該校ヲ木挽町八丁目十三番地ヘ開設スヘキ旨ヲ以テ、右地所御下渡相成、八年九月中前書教師ヲ五ケ年間雇入右給料及諸費共壱ケ年合金三千円ハ年々御下付被下候上、当会議所ヨリ支給之積リヲ以テ伺済相成候処、同所学校営繕向キ完備不仕、其上一時同所ヘ教師居住為致候間、同月中仮ニ尾張町二丁目二十三番地ニ於テ開業仕候、尤其実務ハ有礼殿之責任ニ有之候得トモ同年十一月中御同人清国行ニ付、名実共向後当会議所ニテ担当可仕旨御説諭之趣モ有之候ニ付、一切之事務有礼殿ヨリ引受候後、教師ハ元有礼殿家族居住之場所ヘ転居為致候上、転校可仕ト奉存候処、右ハ和製館ニテ其上手挟《(狭)》ニ有之、差支候処、西洋館ニ模様替仕候テハ多分之失費相掛候間
 - 第26巻 p.508 -ページ画像 
此度衆議一決之上更ニ同所ヘ教師館一棟新築致シ度、右経費ハ積蓄金ヨリ仕払候積ヲ以テ、吟味ノ上省略仕取調候処、別紙之通合金千六百七十二円三十五銭相成、不相当之廉モ無之候ニ付、早々御允裁相成候様仕度、依之別紙絵図書類相添此段奉伺候也
  明治九年第四月       東京会議所頭取
                     渋沢栄一
    東京府権知事 楠本正隆殿
   ○別紙略ス。


会議所伺 第四号 自明治九年至明治一〇年(DK260081k-0013)
第26巻 p.508-509 ページ画像

会議所伺  第四号 自明治九年至明治一〇年     (東京府庁所蔵)
東京会議所沿革一覧 全
   ○会議所・修路科・養育院・墓地科・瓦斯灯科・礦油灯科・現華灯科ノ各項略ス。
    商法講習所
一先ニ前ノ米国駐剳ノ我カ弁理公使森有礼君カ帰朝ノ後ニ当リ、西洋商法ノ書籍ヲ講習スヘキ応ニ当今ノ必要ニ在ルヘキヲ以テ、府知事公ト商法講習所開設ノ事ヲ協議セシ事アリ、明治六年十月三十一日府庁ハ会議所ニ該校ヲ開設スヘキ事ヲ説諭シ、其地位ヲ指示ス、乃チ之ヲ奉シ木挽町八町目十三番地ヲ下与セラレン事ヲ申稟ス
一明治八年九月十三日外人ホウヰツニー氏ヲ、本年五月ヨリ十三年六月ニ迄ル五年間年給弐千五百円ヲ以テ会議所ニ雇倩スヘキ条約ヲ為シ、之ヲ府庁ニ上申ス
一同日又ホウヰツニー氏ヲ雇倩スヘキニ従ヒ、講習所ノ如キ其実起立人タル森有礼君ノ私立学校ニ係ハリ、其当務ノ責任ハ有礼君ニ存スルヲ以テ、則会議所ト有礼君トノ間ニ条約ヲ修メ之ヲ府庁ニ上申ス
一同月二十四日会議所及ヒ森氏及ヒホウヰツニー氏講習所事務上ノ条約ヲ修メ、会議所ハホウヰツニー氏給料ノ外五年間毎年金五百円ヲ講習所ニ支給シ、以テ其経費ヲ補助スヘシト定ム、此挙ハ府庁ノ許可ヲ得テ決定スル所ナリ
一商法講習所ハ応ニ木挽町ニ開校スヘシ、然而シテ営繕未タ成ラス、九月二十四日先ツ仮リニ尾張町二町目弐拾三番地ニ就キ開業《(此字不明)》ス、由テ其由ヲ府庁ニ上申ス
一同年十一月二十二日講習所ノ如キ其名ハ会議所ノ管保スル所ニシテ其実ハ森氏ノ掌握スル者ニ在リ、今ヤ森氏清国行キニ臨ム、自今宜ク講習所ヲ以テ会議所ノ掌握ニ帰シ、且ツ森氏建築スル所ノ木挽町家屋及ヒ附属諸器械ノ如キ之ヲ会議所ニ納附セシメ、其森氏ノ負債ニ係ル四千〇五十九円ノ如キハ諸レヲ会議所ニ負フテ速ニ消却シ、将来同校経費ノ如キハ府庁下附スル所年資三千円ノ外、尚其消費アレハ又賦金ヲ以テ下付アル事ヲ要スヘシト府庁ニ申稟ス、本業起立ヨリ本年 ○明治九年五月廿五日迄ニ、経費総斗金八千五百弐拾五円八拾九銭弐厘、而シテ府庁ノ下付スル所ハ金四千百六拾五円拾七銭ニシテ、金四千三百六拾円七拾弐銭弐厘ハ、是レ会議所ノ蓄積ヲ以テ支弁スル所ノ者ナリ
   ○此ノ「東京会議所沿革一覧」ハ、明治九年六月一日東京会議所会頭タル栄
 - 第26巻 p.509 -ページ画像 
一ノ名義ニテ東京府権知事楠本正隆ニ提出シタルモノナリ。
   ○明治九年五月二十五日東京会議所ハ其行務ヲ府庁ニ還納シ、従テ東京商法講習所モ亦府庁ノ管轄ニ帰シタリ、右行務還納ニ関スル当講習所関係資料ヲ次ギニ掲グ。
   ○尚行務還納ニ就イテハ本資料第二十七巻所収「東京会議所」明治九年五月二十日ノ条及ビ第二十四巻所収「東京市養育院」明治八年十二月二十一日ノ条参照。


記事摘要 従明治九年至十年(DK260081k-0014)
第26巻 p.509-510 ページ画像

記事摘要  従明治九年至十年      (東京市養育院所蔵)
 一明治九年一月十六日議事開場ニ付出頭之人員
     会頭  渋沢栄一
     副会頭 福地源一郎
     議事役
       益田孝       成島柳北
       西村勝三      岡田平馬
       杉村甚兵衛     高崎長右衛門
       後藤庄吉郎     堀越角次郎
       辻純市       奥三郎兵衛
       荒尾亀太郎     千葉勝五郎
       清水卯三郎     吉村甚兵衛
       吉川長兵衛     大倉喜八郎
      不参
       三野村利左衛門   向井市郎兵衛
       倉教我       藤田清右衛門
 本日会頭議案ヲ出ス事左之通リ
  第一議 ○略ス
  第二条
会議所ハ行務ヲ都テ府庁ヘ引渡ス事ヲ希望ス、若シ行ハレザレハ一ケ年行務ノ金額ヲ上申シ其高ヲ東京府ヨリ受取ルヘシ、現金ノ有金ハ会議所ノ永続ノ為ノ外ニハ費ス事アタハズ
  第三条
府庁ヨリ下附スベキ論目ヲ預定スル事、若シ議決ヲ採用セザルトキハ府庁ヨリ其事由ヲ陳述スル事、右ヲ預聞スル事(議決)(議決)《(太字ハ朱書)》
  此事ハ明日渋沢ヨリ知事ヘ弁説スヘシ
  第四条
行務ノ課長ヲ取極メ人撰スル事
     庶務課長兼地所  増田充績
     瓦斯課長     筒井与八
            副 平内彦三
     ランプ課長    阿部潜
            副 片山喜八
     養育院課長    飯田直之丞
            副 神保尹成
     修路課長     竹本白清
     墓地課長     高尾駿平
 - 第26巻 p.510 -ページ画像 
     商法講課長  追而乙骨太郎ヲ頼ム積リ
             議事役より兼勤
     会計課長  六ケ月期限 西村勝三
                 吉川長兵衛
                          右議決
  第五条
行務課長官員ノ月給ハ従前之通仕給之事
  属員モ余リ変革セヌ事ガ宜イナリ  (議決)
  第六条
会議所建白受取之看板ヲ引込スヘキ事  (議決)
  第七条
議事役一同無給  (議決)
一子一月十七日此日決議之通リ行務役ニ申渡相成候事
   ○渋沢家所蔵文書ニ同一ノモノアリ、其ニ依レバ第二条モ議決トアリ。


会議所伺 第四号 自明治九年至明治一〇年(DK260081k-0015)
第26巻 p.510 ページ画像

会議所伺  第四号 自明治九年至明治一〇年    (東京府庁所蔵)
知参事             第一課
                       会議所
本日行務還納ニ付而者、属員之義ハ在来之儘ヲ以可引渡此旨相達候事事務受取出張官員より属員江達
 追テ何分之達有之迄事務可取扱事
    御請書
当会議処各課役員之儀、追而何分之御沙汰有之候迄事務可取扱旨御達之趣承知仕候、此段御請申上候也
  明治九年五月廿五日
                  庶務課
                     増田充積(印)
                    ○中略
                  講習所
                     喜多川元長(印)


東京十五区共有財産第二期調査報告 甲号 地(DK260081k-0016)
第26巻 p.510-512 ページ画像

東京十五区共有財産第二期調査報告  甲号 地
                      (東京府庁所蔵)
○上略
起立ヨリ九年五月ニ至ル経費左ノ如シ《(太字ハ朱書)》
    講習所勘定
出之部
一金八千五百弐拾五円八拾九銭弐厘
   内訳
 一金弐千弐拾五円八拾三銭三厘   講習所教師給並資金トシテ渡金
  千弐百五拾円          八年五月ヨリ九月マテ森有札渡シ
  弐百五拾円           十月分同人渡
  弐百五拾円           十一月分同人渡
  拾円              十二月分小買物
  八年十二月分
 - 第26巻 p.511 -ページ画像 
  弐百八円三拾三銭三厘      外国教師給料
  三拾円             高木給料
  弐拾弐円五拾銭         喜多川十一月半月十二月渡
  同五円             十二月小使給料
  八年四月ヨリ
  外国人教師ハ一ケ年弐千五百円ノ給料十二ケ月割
  一ケ月ニ付弐百八円三拾三銭三厘ニ当ル
  役員ハ高木貞作
  一ケ月分給料三拾円ノ割一人
      北川玄長
  同      拾五円一人
   外ニ小使  五円
  右ニ候所九年ニ至リ月給両人ニテ七拾五円ト相成ル
 一金四千五拾九円三拾四銭壱厘   家屋買入代
  右有札氏ヨリ一切引受外国人ヨリ負債ノ分償却
  右八年十一月廿四日渡ス
 一金百拾円            同断家税
  仮講習所ヲ尾張長《(町)》ヘ小時設ク旧家営繕中
  但シ八年十一月ヨリ翌年二月マテ四ケ月分一ケ月金弐拾七円五拾銭ツヽ也
 九年一月二日           九年一月・二月分
 一金百弐拾円           役員月給
    但シ属員三名ノ給料
 同
 一金四百拾六円六拾六銭六厘    同断二ケ月分外国人月給
 一金七拾五円           書籍買入代
    帳合法 弐拾五冊
    右米国ヨリ買入代
 一金六拾七円八拾八銭九厘     起立ヨリ翌年二月マデ雑費
  雑費内訳
   拾円             九年一月・二月小使給料
   弐拾円            仮役員二人免職ニ付手当
   拾八円弐拾銭         英和字書買入
   拾九円六拾八銭九厘      会議所直払
     此訳次ニアリ
   小払口也
  生徒手当外小払月々三円五拾銭斗ツヽ
  ナンキン椅子          十脚
  ストウー煙リ出シ代同金物共   森有札氏ヨリ付送リ椅子ノ代
 一金三百三拾七円弐拾三銭三厘   三月分諸費
  弐百八円三拾三銭三厘      外国人給料
  六拾五円            役員三名月給並ニ小使給料
  三拾七円五拾銭         家税
  三拾六円四拾銭         教師居宅修繕入費
 一金三百七拾八円六拾銭八厘    四ケ月分同断
  六拾六円            書籍二十五冊ノ代
  五円              小使給
  四拾銭             筆墨
  弐拾七円五拾銭         家税
  三円              生徒ヨリ助教ヲ手伝候ニ付手当
 - 第26巻 p.512 -ページ画像 
  五円              鉄板買上代
  弐百六拾八円三拾三銭三厘    教師役員給
  三円三拾七銭五厘        小払
     但シ花蓙十五畳ノ代
 一金九百三拾五円三拾弐銭弐厘   □月分同断
  四拾四円五拾七銭三厘      一月ヨリ四月マテノ講習所小払小買物代
  五百円             教師館新築入費受負金ノ内初度渡シ
  弐百六拾八円三拾三銭ヨ     教師教員給
  五円              小使給
  弐円弐拾弐銭五厘        人足転住ニ付車
  九円五拾銭壱厘         本月分小払
  拾三円七拾五銭         家税五月半月分
  拾七円五拾銭          重タン・敷物・畳其外森ヨリ買入
  四拾銭             筆墨共
  七拾四円四銭ヨ         門前生徒出入リ其外営繕入費
入之部
一金四千百六拾五円十七銭
   内訳
 一金弐千弐百五拾円        講習所教師給料並資金トシテ府庁ヨリ御下ケ渡
   内
 八年五月ヨリ同十一月マテ
  弐千円             講習所教師給料資金共下渡
 九年一月前十二月分ヲ
  弐百五拾円           下渡
 九年二月
 一金九拾八円           生徒授業料学資金受金
 一金六百弐拾六円七拾八銭六厘   本局ヨリ講習所ヘ渡金遣払残戻入
     但シ起立ヨリ
  下渡ノ金ト出金ト差引過金ノ分当年戻ル
 一金五百円            一月分・二月分資金受取
     右講習所定額ノ内
 一金五百円            三月・四月資金
 一金百九拾円三拾八銭四厘     五月分同断
 差引支出高
  金四千三百六拾円七拾弐銭弐厘
   ○本資料第二十七巻所収「東京会議所」明治七年十一月ノ条参照。


青淵先生六十年史 竜門社編 第一巻・第七七六頁 明治三三年二月刊(DK260081k-0017)
第26巻 p.512 ページ画像

青淵先生六十年史 竜門社編  第一巻・第七七六頁 明治三三年二月刊
    第十五章 商業学校
○上略
是ヨリ先先生ハ東京会議所ノ会頭トシテ講習所事務ヲ管理セシカ、九年五月講習所ノ府庁ノ管理ニ帰シテ以来、府知事ノ嘱托ニヨリ講習所ノ事務ニ参与セリ ○下略


(森有礼) 書翰 渋沢栄一宛 明治一〇年八月一六日(DK260081k-0018)
第26巻 p.512-513 ページ画像

(森有礼) 書翰  渋沢栄一宛 明治一〇年八月一六日
                    (大久保利謙氏所蔵)
貴書拝見、愈御清安奉欣賀候、陳者旧会議所所轄商法講習所構地之内
 - 第26巻 p.513 -ページ画像 
木挽町十町十四番・同九町三十六番之両地所借地料、明治八年十二月よ利同九年十二月九日迄之分、小生より可納ものと御見定有之、此件ニ付縷々御申越之趣致承知候、右ニ付小生之見左ニ開陳ス
 第一 該地所ハ明治九年十二月前ハ、小生私用ノ為メニ東京府より拝借或ハ会議所より又借いたしタル事更ニナシ
 第二 該地所ニ築造シタル家屋ハ、小生之私用物ナレトモ、皆講習所用便之為ニ設ケ置キタルモノにて、明治八年九月中小生と会議所之間ニ取結ヒタル条約第三条之意ニ戻リタルものにあらす
 第三 明治八年十一月中会議所ヘ講習所を引渡之際、前記十四番・三十六番両地所ニ係ル借地料或ハ地税之義ニ付、約定ヲ為サヾリシ責ハ更ニ小生之可任ものニ無之、無論会議所之独任ニ帰ス
 第四 明治八年十一月中会議所と取結タル約書第三条、即チ講習所構地之義者今般更ニ会議所より府庁ヘ開申之上、比隣代価を以て払下ケ候積リ、尤森有礼住居之地処ハ追而協議之上、同人所有地ニ買受候歟又ハ借地いたし候とも其節之都合ニ寄処分いたすへく事と明瞭ニ記載有之、爾後九年十二月ニ至り小生より府庁ヘ願立拝借相済候故ニ、九年十二月迄前第三条之約定ハ充分之効能を有セル事判然タルヲ以て、未タ小生之借地ニ属セス、依然会議所之所轄タレリ
 第五 前顕之通タルニ因リ、講習所之四隅ニ立テアリシ会議所附属之標柱ハ、明治九年十二月即チ小生拝借願済之期迄現在シ、右願済之期後ニ至リ初而該柱を現今之場所ヘ移シ立ラレタリ
 第六 前数条之通、九年十二月前ハ十四番・三十六番両地所名実ともに小生之所借ニあらさるを以て、該地内ニアル小生私用之家屋ニ住居シタルトテモ終始浮足にて、定住之場合ニ至らす、故ニ仮ニ其家内ニ住居シタルトテ、之ニ因リ其地所之借人と見做サルヽノ理アル可ラス
以上開陳之次第にて木挽町十丁目十四番・同九町目三十六番ノ地所ハ共ニ明治九年十二月前小生ニ借主タラサリシ事分明ニ御了解可有之、此段及回答候也
  十年
   八月十六日               森有礼
  旧会議所会頭
    渋沢栄一殿


(矢野次郎) 書翰 渋沢栄一宛 明治一〇年一月二〇日(DK260081k-0019)
第26巻 p.513-514 ページ画像

(矢野次郎) 書翰  渋沢栄一宛 明治一〇年一月二〇日
                     (渋沢子爵家所蔵)
過日御廻シ之願書類並盟約書等、今日清書之上会計表・教授概則等ヲ附シ差出シ候間、御一覧被下、不都合之廉も御座候ハヽ早々御沙汰可被下候、且又右会計表の外ニ会計書一通ヲ添ヘ候ハ重複ヲ免レサル事ニテ如何哉トモ存候ヘ共、表ノミにてハ短文ニ過キ十分其意ヲ尽サヽル処モ有之候ニ付、両様差出候ヘ共御社中ヘ御輪議之節ハ可然御取捨可被下候、或ハ二ツなから添ヘ置候も亦可也ト奉存候
一内務省ヘの願書末文ニ校則・教則等ヲ附シ云々ト有之候ヘとも、目
 - 第26巻 p.514 -ページ画像 
今之処ニてハ右二種ヲ一々別冊ニ製候ニも不及ト存候ニ付、右末文ハ教授概則ト改メ、先達而中差上置候教授法見込書ヲ其儘清書致シ、但其教則中ヘ兼テ御内情之趣ニ従ヒ、福地氏ヘ商議之上、最上級ヲ加ヘ候得とも、右ハ余リ高尚ニ過キ矢張迂遠ノ二字ヲ免レサル事トハ存候ヘ共、福地氏之加筆且ハ前島氏内意之処モ有之、旁以先其儘認メ置候猶御社中御評議之節御決定被下度存候也
  但最上級ハ前文之如ク見込中ニハ相加ヘ置候ヘ共、右ニ適用之書籍ハ遺シ置申候、右ハ代価モ相嵩ミ会計上ニ取リ容易ならさる差響キを生し候故ニ御座候、夫レ是レ御面談ならては難尽議も有之、御会議之節ハ是非とも出席仕度処存ニ御座候也
  明治十年一月廿日          矢野次郎拝
    渋沢栄一様


矢野二郎伝 島田三郎編 序 大正二年五月刊 【序 … 青淵老人識】(DK260081k-0020)
第26巻 p.514 ページ画像

矢野二郎伝 島田三郎編  序 大正二年五月刊
    序
○上略 余か君を知りたるは今より三十八年前、余か東京会議所頭取たりし時に在り、此際薩南の俊才森有礼君か米国に鑑ミ商業の学校を私設し、幾許もなく清国公使として赴任せむとするに当り、其校の廃止に忍ひさるを以て、東京府知事大久保一翁君に商議し、知事より会議所に諮りて之を承継せしめ、商法講習所と改称し、君を以て其校長と為す、蓋し其英語に熟達し、且夙に商工業経営の知識に富めるものあるか故なり、是に於て余は甚た君の其任に適するを喜ひ、窃に其成功を期したり ○中略
  大正癸丑一月下浣、曖依村荘に於て
                    青淵老人識
                        
   ○矢野二郎、幼名ヲ次郎吉、長ジテ次郎兵衛ト称シ後更ニ次郎ト改ム、晩年好ンデ二郎ト書シ、遂ニ之ヲ以テ通称トス。(「矢野二郎伝」年譜ニ依ル)


一橋五十年史 東京商科大学一橋会編 第五―七頁 大正一四年九月刊(DK260081k-0021)
第26巻 p.514-515 ページ画像

一橋五十年史 東京商科大学一橋会編  第五―七頁 大正一四年九月刊
 ○第一期 商法講習所の創立より一橋への移転まで
    二 商法講習所の設立
○上略
  東京会議所の手より東京府の所管へ
 第一歩はかくて踏出された。政府既に理解なく、一般社会また冷淡なる、かゝる好奇の環境の中に商業教有の旗幟は玆に雄々しくも樹てられた。旗幟は既に樹てられたと云つても、内之を護るの人少なく、外また徒らに侮蔑冷笑するのみで之を援くるなく、商法講習所の前途は決して平坦なものではなかつた。
 八月開始して未だ其緒に着かざるに、肝腎の創立者森有礼が、清国駐箚全権公使に任命せられ、十一月任に赴かねばならなくなつた。創設四ケ月にして此事を見て、折角の講習所を挫折の余儀なきに至るものゝ如く思はれたが、森有礼は深く其閉鎖を惜んで、彼に代つて之が管理を為す人を求めた、而して当時の東京知事大久保一翁、権知事楠
 - 第26巻 p.515 -ページ画像 
本正隆に謀る所あつて、東京会議所(東京商業会議所の前身)が代つて管理する事になつた。この間会議所頭取渋沢栄一・副頭取西村勝三議員益田孝等斡旋大いに努むる所があつた。而して之が維持費は市民の共有財産なる七分金を以て支弁せしめた。
○中略
 商法講習所の管理が東京会議所の手に移つてより之が面目を一新せんとして、新に場所を木挽町十丁目に移転した。時恰も明治九年五月の事で、同年には府下の公事が府庁と会議所との間に岐るゝの嫌あるために、保管の資金を府庁に引継ぎ、会議所は其収支を議決する所となり、従つて商法講習所は東京府立となつたのである。
  矢野二郎所長となる
 然るに当時委員に挙げられてゐた渋沢栄一・益田孝・福地源一郎等は各々其事業に干与し、実業界に覇を唱へんとして寧日もなき身であつた為めに、一講習所の経営に専心すべくもあらず、於是人材を覓めて之が経営を一任せんとするに至つた。
 折も折、久しく米国にあつて此程帰朝せる者に矢野二郎(本名は次郎兵衛にて次郎を以て正しとすれど、自ら好みて二郎と書く。)なる有為の青年があつた。彼は炯眼時を視るの明あり、若くして洋学を修め、夙に欧洲に使し、横浜に翻訳所を設けては内外貿易に力を致せるもの、明治五年には森有礼の知遇を得て米国公使館に書記官として在つた者である。講習所委員又彼の適材なるに嘱目し、百方勧説した結果遂に其承諾を得て、玆に矢野二郎を商法講習所長に迎ふるを得た。之明治九年六月の事である。


森先生伝 木村匡編 第八二―八四頁 明治三二年刊(DK260081k-0022)
第26巻 p.515-516 ページ画像

森先生伝 木村匡編  第八二―八四頁 明治三二年刊
    第八章 米国より帰朝す
○上略
先生 ○森有礼は商法講習所を東京商法会議所に寄附して其管理に属したるは。特命全権公使として清国に赴任するか為のみ。別意あるに非す。故に商業教育のことは始終先生の脳裏を去らす、曾て清国に駐箚のとき。矢野次郎に送りたる書面。備さに其志の懇切周到なるを見るに足る。
 頃日三井物産会社より渡辺専二郎を倫敦支店に遣して従来傭使の英国人に代ゆ。聞く氏は曾て商法講習所に於て学業を終へ能く三井物産会社に仕へ竟に遣外の特選に当る者なりと。氏此地に着し。直に来て余を訪ひ。語るに君が講習所を提理し。専心事を勉め。講習所由て栄へ生徒由て大に業進むの実状を以てす。又新聞紙に拠て 皇帝辱くも金を講習所に賜ひしことを知る。此二好報并至り。余感喜已むなし。君斯盛運を目し為に多年の苦心を慰するの時を得たり。余亦為に賀詞を呈するは甚楽と為す所なり。然れとも苟くも忠愛の心を竭し。以て将来の慶福を図る者は。豈早成に安すへけんや。是余君か既往の功を祝ひ。仍将来愈々勤勉あらんことを望む所以なり夫吾邦人多くは商才に乏しく数理に短く沈実確正ならす。剰さへ外国通商を開きしより軽浮の商弊滋生し。将さに風俗為に紊れんとするの兆あり。蓋此弊たるや。一朝の能く矯正し得へきに非す。然り
 - 第26巻 p.516 -ページ画像 
と雖、講習所は我邦商学の由て起る所の要地なり。而して其生徒は他日将さに内外の商業を負担せんとする者なり。此輩をして正路に進入せしめ以て漸く今世の病害を除くは。豈至難の事ならんや。況んや誠忠勤篤君の如きありて能く後輩を誘導養育するに於てをや。余遠く海外に在り。窃に微力を添へ以て君の苦心を慰するに由なし故に君在任の間は少許の金を出し。聊生徒を奨励するの資に供せんと欲す。今先つ試みに三・四十円と定め。毎年卒業する所の生徒の内。品行端正なる者五・六名。各其望に依り有益の書籍を分与せは則如何ん。但生徒の品行を比較し之を甲乙するは或は難きことあらん。然れとも君の正眼能衆生徒を看破し。其当を誤らさるや固より疑なし。君若年々其労を辞せす。余の微意を達するを得せしめは幸甚。偖尚君に言はんと欲する事多し。姑く他日に譲る。
○下略


小山健三伝 三十四銀行編 第二五七―二五八頁 昭和五年一二月刊(DK260081k-0023)
第26巻 p.516 ページ画像

小山健三伝 三十四銀行編  第二五七―二五八頁 昭和五年一二月刊
 ○本伝
    第十四章 東京高商校長時代
○上略
 有礼森氏は世に先んずるの人なり。鎖国の夢いまだ全く破れざる時代に於て、早くも留学生となりて英国の地を踏みたる人なり。刀は武士の魂と固く信ずるものの尚いまだ多数を制する時代に於て、早く廃刀を建議したる人なり。されば明治三年少弁務使として米国在勤を仰付けらるるや、滞米四年の間に静に米国を洞察したり。而して米国の強大は其の富資の充実に基し、富資の充実は有為有識の士が競うて実業界に其の力を致すにあるを熟視し、我他日故郷に帰らば商業教育を盛んにして、以て国家の富源を開拓すべく当路に進言せざるべからずと期したり。故にその米国を去るに臨み、これを米人に計り、ホウヰツニーを聘するの予約をなせり。帰来、森氏は自家の意見を以て政府を動かさんと試みたるも、容れられず。而して米人は約を履んで来れり。森氏は米国に於て我国を代表したる公人なり。自己の信用と帝国の面目とにかけてもその約を破る能はず。森氏は自己の懐抱する商業教育を実現すべく、決然として遂に商法講習所を開くに至りたる也。されど事いまだ緒に属したるのみなるに、その年十一月、森氏は清国公使として赴任することゝなれり。商法講習所は漸く呱呱の声をあげたるばかりなるに、その生みの親たる森氏は遠く任に清国に赴かんとす。愛惜の念なき能はず。森氏即ちこれを東京府知事大久保一翁・権知事楠本正隆に謀りその管理を東京会議所に委嘱したり。当時、東京会議所会長《(マヽ)》は渋沢栄一氏なりしを以て、氏はこの交渉に参与したり。渋沢翁が商業教育に関係をもちしは、これよりの事なりとす。
○下略


如水会々報 第一二四号・第九〇―九一頁 昭和九年三月 ○座談会 青淵先生を偲ぶ夕 青淵先生と商業教育 成瀬隆蔵氏(DK260081k-0024)
第26巻 p.516-518 ページ画像

如水会々報  第一二四号・第九〇―九一頁 昭和九年三月
 ○座談会 青淵先生を偲ぶ夕
    青淵先生と商業教育
 - 第26巻 p.517 -ページ画像 
成瀬隆蔵氏
○上略 商業教育の起りは森有礼氏(子爵)が米国駐箚特命全権公使であられた時に、富田鉄之助も亦米国に居られまして、ダブリユ―・シー・ウイットネーのビジネススクールに臨まれ之を熟察して、是は日本にも商業教育を施さなければならぬと云ふことを感ぜられて、森氏に其の意見を述べられた。森氏も大いに賛成された。それは明治七年のことでございます。そこでどうかして日本でも其のウイットネーを招聘したいものだと云ふ説があつたと見えまして、其の当時の新聞に、日本へ米国の商業の先生を雇つて商業学校を起すと云ふことが出て居りました。当時私は是は面白い、商業学校が出来たら俺は第一番に入つて商業の定石を一つ覚えやう、と斯様に思つて居りました。ところが一年許りの間は音も沙汰もなく、其の内に森有礼氏が帰朝されて、細かいことは分りませんけれども、青淵先生に意見を述べられたものと見えまして、そこで青淵先生も同意をされて、然らば之を起さう、併し其の当時の形勢では、中々商業学校を起すなどゝ云ふことは、思ひもよらぬ時勢で、とても官立・公立の学校は起し得ないから、私塾として起さう、併し経費が無ければならない。何しろ彼を呼んで彼の生活に当てるだけの報酬も出さなければならぬし、学校を維持すると云ふことは容易なことではないので、之を青淵先生に計られたと見えます。
 青淵先生は其の当時共有金の管理委員長であられました。管理委員には益田孝・福地源一郎などゝ云ふ人が居りました。其の共有金と云ふのは、御承知かも知れませんが一寸註解を加へますと、寛政時分に松平楽翁公が老中の筆頭をして居られ、諸政を改革し且万一の為めに備荒貯蓄米を各地に設け、江戸には七分金と云つて幾らの金でありますか、僅のことでございませうが、それを積立てゝ行く制度を設けたのでござゐます。其の金が御維新になりましても二・三百万円は未だ残つて居りましたと思はれます。それを共有金と称へて青淵先生が委員長をして管理して居られました。其の金から費用を出すと云ふことに御話が届いたと見えます。
 そこで愈々招聘すると云ふので、ウイットネーの到着したのは明治八年の夏頃でもありましたか、教師が着いたので、森氏は自分の住宅即ち木挽町十丁目の邸宅を教師館に提供して、さうして報酬等は只今申した共有金から出したのであります。森氏は今の永田町小学校の所に別に建築をされて其処に移られ、ウイットネーを自分の元の住宅に住はせて、其の一室を教場に当てゝ、縁故のある人を広告も何も出さずに集めて教へ始めたのでございます。其処へ通ひましたのは、古い御方は御承知でありませうが、森島修太郎・内村恒之、或は鉄道に居りました図師民嘉などゝ云ふ人々で、都合十五・六人の者が其処へ通つて学んで居たのでございます。
 然るところ段々人も殖えて来るので一室では間に合はなくなつて、別に教師館を建てることになり、今迄の建物の北東の方へ新たに教師館を造つて、其の建物の出来る間尾張町の鯛味噌屋の二階に商法講習所と云ふ看板を掲げて、初めて生徒を広く集めることになりました。
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其の看板を私は通り掛かりに見て、是があつたのか、知らなかつた、是は是非入らうと云ふので、慶応義塾と当分二股掛けて其処へ通つたのでありましたが、其の内に教師館が出来上りましたので、教師は其の新館の方に移り、今迄の教師館を校舎にしたのでございます。
 其の運びに就ても青淵先生が主として御尽力になつたのであらうと思ひますが、此の商法講習所を東京府立にすると云ふことになつて、到頭(府立)東京商法講習所と云ふことになりました。それと同時に森氏は支那の公使になられた為めに私立の講習所の持主なり或は所長と云ふことであり得ないことになつたので、誰か然るべき者を得たいものだと云ふことになつた。そこで矢野二郎氏が亜米利加から帰つて来て、此の矢野氏は駐米書記官で在つて、森氏が帰られると一時代理公使などをやつて居られたので森氏も能く知つて居られるし、青淵先生・益田孝氏などゝ云ふ人達も皆な御承知であつたので、あれが未だ浪人で居る、あれならば宜からう、あれを所長にしやうと云ふことになつて、矢野氏が所長になられたのが明治八年の秋でございます。
○下略
   ○コノ談話ノ後半ハ本款明治十二年四月ノ条ニ掲グ。


続福沢全集 慶応義塾編 第七巻・第四一七―四一九頁 昭和九年刊(DK260081k-0025)
第26巻 p.518-519 ページ画像

続福沢全集 慶応義塾編  第七巻・第四一七―四一九頁 昭和九年刊
    商法講習所設立趣意書
 人間の事務は内外公私の別あるより、其有様を比較せざれば軽重を断ずべからず、昔鎖国の世に在ては、商人たる者能く国内の商法を取扱ひ、能く国内の景気を察して其機を失ふことあらざれば、乃ち大に家を興して一大商賈の名誉を全うし、一身の生計も立ち世間の便利をも達して、内外公私の分を尽したるものと云ふべし、此時代には日本の商人唯国内に於て相互に其身の有様を比較し、此は彼よりも富みて巧なり、彼は此より貧にして拙なりとて、其栄辱唯一国の内に止まることなりしかども、今や外国と貿易の取引始まるに及んでは、事物の景況頓に面目を改め復た旧時の有様に安んずべからず、彼の富と謂ひ巧と謂ひしものは内の富たり、内の巧なり、古に公と思ひしものも今は唯一国内の私のみ、今日に至ては全く日本国の富と諸国人の才力とを一に合し、其全体の強弱大小を以て西洋各国のものに比較せざるべからず、目今にても或は諸開港場に於て外国人と商売を取組み、一時に勝利を得て数万の富を致すものもあらんと雖も、其実は外国人と戦て勝ちたるにあらず、他の日本商人が拙劣なるが為に意外の僥倖を得たりと曰ふに過ぎざるのみ、外国と戦ひたるにあらず、内国の同士打ちなり、故に外国を相手に取て商法の鋒を争はんとするには、内外全体の勝敗を一年に平均し、又十年に計算して始めて双方の巧拙貧富を知るべきなり、之を今の商人の公務と云ふ
 今の日本の商法を以て外国に敵すべからざるの箇条は、枚挙に遑あらずと雖も、爰に其一を示さむ、田舎に小店あり、万屋と云ふ、呉服太物あり、下駄・傘の売物あり、婚礼の諸道具、葬式の品物、皆此店に於て調はざるものなし、店先は煩はしく繁昌して、主人も聊か得意の色なきに非ざれども、此万屋の帳場に至て其内情を問ふに、品の仕
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入は一切都会の問屋を仰ぎ、問屋の命ずる元価を以て元に定め、僅に一割か二割の口銭を取るのみにて、其呉服は何れの地に生ずるもの歟其下駄は何人の手に成るもの歟、誰の手より誰の手に移り、問屋は何の用を為して幾何の利益あるもの歟、問屋の帳合は何様なる歟、其主人・番頭は如何の働きあるもの歟、之を知らんとするの意もなく、唯問屋より授くる所の口銭を戴くのみ、仕入・買出の事情斯の如し、又此万屋より積出して問屋へ送る産物の捌方も同様の取扱を蒙り、仕切は問屋の勝手次第、都会の問屋が田舎の商人を生捕るとは此事なり、大都会に住居する商人の眼を以て此万屋の主人を見れば、亦愍笑すべきに非ずや、然るに今此都会の大商人たるもの、外国人に対しては却て万屋にも恥づべき所業を為すは何ぞや、万屋の主人其有様は愍むべしと雖も、時としては都会にも出掛て兎に角に問屋と直談にて事を掛合ひ、文通も自在なり、差引の勘定も慥なり、恥るに足らざるなり、然るに今の日本の商人は外国の品物を買ふに其来る処を知らず、自国の物を売るに其行く処を知らず、横浜・神戸に在留する外国人を仰で其取次を頼むに非ずや、開港場の外国人は問屋に非ず、正銘の仲買なり、此仲買共を開港場より打払ふに非ざれば、日本の商売は迚も盛大の見込あるべからず、其理甚だ明なりと雖も、方今の景況にては却て此仲買の為に窘められ、既に主客を異にする程の勢にて、ロンドン・パリスの問屋へ直談などの話は前途尚遥かなり、況んや今の学問の有様にては外国人と交通も不自由なり、其帳合の法も解し難きもの多きをや、百方より之を観て、商売の事に就ては我国に勝利の見込み甚だ少なしと云はざるを得ず、田舎の万屋に及ばざること遠し
 日本の文明未だ進まずして、何事も手後れと為りたる世の事なれば独り商法の拙なるを咎むるの理なし、何事も俄に上達すべきに非ず、唯怠らずして勉強すべきのみ、維新以来百事皆進歩改正を勉め、文学を講ずる者あり、芸術を学ぶものあり、兵制をも改革し、工業をも興し、頗る見るべきもの多しと雖も、今日に至るまで全日本国中に一所の商学校なきは何ぞや、国の一大闕典と云ふべし、凡そ西洋各国、商人あれば必ず亦商学校あり、尚ほ我武家の世に武士あれば必ず亦剣術の道場あるが如し、剣を以て戦ふの時代には剣術を学ばざれば戦場に向ふべからず、商売を以て戦ふの時代には商法を研究せざれば外国人に敵対すべからず、苟も商人として内外の別を知り、全国の商戦に眼を著くるものは、勉むる所なかるべからず、米国の商法学士ホウヰツニー氏積年日本に来りて商法を教へんとするの志あり、森有礼・富田鉄之助両氏の知る人なり、東京其他の富商・大賈、各其分を尽して資金を出すの志あらば、両氏も亦周旋して其志を助け成すべし
  明治七年十一月一日森・富田両君の需に応じて
                    福沢諭吉 記す


実業教育五十年史 文部省実業学務局編 第一一四―一一七頁 昭和九年一〇月刊(DK260081k-0026)
第26巻 p.519-523 ページ画像

実業教育五十年史 文部省実業学務局編  第一一四―一一七頁 昭和九年一〇月刊
 ○第一期 第三章 第三節 商業教育機関
    一、高等専門商業教育
○上略
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          明治八年八月(私立)
          同九年五月(東京府立)
  二、商法講習所 同十七年三月農商務省所管東京商業学校
          同十八年五月文部省移管、同九月東京高等商業学校
 明治八年八月、森有礼は、京橋区尾張町の一煉瓦家屋―鯛味噌屋―の二階を借りて、此処で卑近な商業教育を講ずる事とし、名付けて商法講習所と呼んだ。当時の通語に従つたものである。是実に我国商業学校の濫觴であつた。惟ふに明治の初め、大小高下各種の学校が皆政府の施設にかゝつて居つた中に、独り商業教育が民間に発達し、翻つて当路を啓発するに至つた事は特筆に価する事実である。
 商法講習所は渡来せる米人ウイツトニーをして事に当らしめ、専ら洋式教育を授けた。当初の教授課目は次の如し。
  本科ブライヤント ストラトン氏帳合法(本式・略式) ウヰランド氏経済書 商法律書 ブライヤント ストラント氏商用算術 スペンセリヤン流習字
  予科(制度上規定セラレタルモ実施サレズ)クツケンホス英文典 ブヱータル算術 ケイヘル商法通信 作文 語学 綴字
 即ち授業は悉く英語を以て行はれたのである。当時既に芝三田に福沢諭吉の慶応義塾あり、授業の一部に経済学を置いたが、教師自らがウヰランド経済書所載のビル、チエック等の言葉を解し得ざる有様であつた所へ、専門家の教師を擁して商法講習所の出来た事であるから商業に依つて身を立てようとの真摯な目的を有する者は、義塾を去つて同所に入学する有様であつた。されど、一般世人は未だ商の真意を解せず、才を負ふて学を修めんとする者の多くが世の風潮に魅せられ治国平天下を夢みて大学予備門に蝟集し、次で政界に飛躍せんと志すの状態であつた。されば明治八年八月開所当初の生徒は二十二・三人を数ふるに過ぎず。然も其内には親戚故旧の勧説によつて志を枉げて入学したものもあり、堅固なる意志を以て学業を完うせる者は僅々十名を出でざる状態であつた。
 八月開始して未だ其緒に着かざるに、創立者森有礼清国駐箚全権公使に任ぜられ、為めに閉鎖の止むなきに至らんとした。有礼深く之を惜み、代つて之が管理に当るべき人を求め、東京府知事大久保一翁・権知事楠木正隆に謀る所あつて東京会議所(東京商業会議所の前身)に委任する事になつた。此間会議所頭取渋沢栄一・副頭取西村勝三・議員益田孝等斡旋大いに努むる所あつた。而して之が維持費は市民の共有財産なる七分金を以て支弁することゝなつた。
  註 七分金とは其昔寛政年間にかの松平定信が江戸市中の町法に改正を施し、節約を命じて蓄積して得た金額の二分を町費を支出した地主に割戻し、一分を町費の予備に充てた残余七分の金を町会所に納れしめて積立の基とせる救荒の用に共する資金で、爾来年を追ふて増殖し、維新当時は其額百数十万円に上り、東京会議所之が管理に当つたものである。
 商法講習所の管理が東京会議所の手に帰すると共に木挽町十丁目に
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移転した。時恰も明治九年五月の事で、同年には府下の公事が府庁と会議所との間に岐るゝの嫌あるために、保管の資金を府庁に引継ぎ、会議所は其収支を議決する所となり、従て商法講習所は東京府立となつたのである。
 然るに当時商法講習所経営の委員に挙げられて居た渋沢栄一・益田孝・福地源一郎等は夫々各方面の事業に参与し寧日なく、一講習所の経営に専心する訳には行かなかつたので、他に人材を覓めて之が経営を一任せんとするに至つた。
 丁度その時久しく米国に在留し此程帰朝した矢野二郎(本名次郎兵衛)と云ふ有為の青年があつた。彼は炯眼時勢を視るの明あり、夙に洋学を修め、欧洲に遊び、横浜に翻訳所を設けて内外貿易に力を致したが、明治五年森有礼の知遇を得て米国公使館書記官を勤めた者である。講習所委員等は矢野の材幹に嘱目し、百方勧説した結果遂に其の承諾を得て、玆に矢野二郎を商法講習所長に迎ふるを得た。之明治九年六月の事である。
 彼は性豪宕不覊、所信に忠にして断々乎として実行する勇があつたと共に、一面情義に厚く、商法講習所長たるや子弟を見る事愛子の如く、講習所の発展を画策して東奔西走席の暖まる暇もなき底の努力を重ねた。「当時巣立ちした許りの商法講習所を引受けて切廻すには徒らに狐疑逡巡する様な人では駄目だ。矢野氏の如き熾烈なる情熱を以て然も熟慮よく己が所信を断行するの人にして始めて、今日の隆盛なる商業教育の礎を定むる事が出来たのである。」とは彼を識る程の人の斉しく説く所である。
 斯くて矢野は其任に就くや、教諭高木貞作・米人ホイツトニーと謀り、欧米商業学校の教科課程を参酌し、之を我国の実際に照して学則を定め、校規を整へ、更に実践科をも併置した。かくて吾国の商業教育はこゝに漸くその態を成すに到つたのである。
 十年二月東京会議所は既に解散し、其結果商法講習所支出予算の議決権も、自ら府会の手に移り、商法講習所の経費総額七千円は府税を以て支給せられ、その支出は府知事の手に委ねられてあつた。然るに明治十二年十一月地方税規則発布の結果、商法講習所予算も府会の決議を経ねばならなくなつた。然るに当時政治的変革の余焔未だ治らず諸般の制度も備はらず、加之商業教育の重要なることに就て一般社会の認識浅く、府会はその決議に際し商法講習所の経費を半減するの挙に出でた。即ち矢野所長は顧問渋沢栄一に事情を訴へ、其尽力により十二名の有志より従来の経費の半額の出資を求むる事としたが、醵金は容易に集らず、然も一方校規を整へ課程を進むるにつれて経費加る一方で、経営に一方ならぬ困難を生ずるに至つた。斯くて矢野所長は往年横浜に翻訳所を開設して蓄積し得た一切の私財を支出して、辛うじてその経営を続けて行つたのであつた。所長が既に斯の如き意気を以て講習所の経営に当つたので、教師・生徒等感激措くところを知らず、一団となつて援け、よく其初志貫徹に尽した。十年二月学を卒ると共に、同窓森島修太郎と相率ゐて矢野所長の幕下に参じ、教師となりて苦闘を共にした成瀬隆蔵氏は当時を追憶して
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  当時教師はある生徒の為めに学を講ずる事五時間を出で、授業を終るや直ちに教材の調査翻訳に力め、更に矢野所長と膝を交へて学校の発展を画策し、家に帰りて床に就くは概ね深夜一時・二時にして、談半にして鶏鳴暁を告ぐる事も稀ではなかつた。而も給料と云へば、最初は一週二時間の授業と云ふ名目で僅々十五円、次で三時間担任二十五円となり、軈て五十円となつたが、事実は一週間三時間位の事ではなく、毎週三十時間を下つた事はなかつた。
と語つて居る。かく所長以下教師生徒の力を併せて苦心経営に当つた結果校風漸く振ひ、十二年三月には英語予備科を置く事となり、教師は日本人十名・外人二名、生徒は百二三十名を算するに至つた。(以下第二期参照)
 更に十四年四月には教則を改正し、全科卒業年限を五箇年とし、前三箇年は国語を以て内国商業に関する学科を教へ、後二箇年には英語を用ひて専ら外国貿易に関する課業を授くることとなつた。
   ○商法講習所ノ創設経緯ニ就イテハ前掲関係諸資料ニヨリテ略々明カナリ。然レ共其資料未ダ不充分ノタメ細部ニ至ルマデハ解明シ得ズ、且ツ其等資料間ニ相矛盾シ又ハ誤レル諸点アルヲ以テ、其等ヲ比較検討シテ得タル結果ニ基キ、左ニ講習所ノ創設経緯ノ要領ヲ記ス。
    (一)商業教育機関ヲ創設セントスル意嚮ハ森有礼子ガ駐米弁理公使タリシ時既ニ懐抱シ米人ホヰットニー氏招聘ノ儀モ其時既ニ決意セルコトヲ窺フベキ資料トシテハ「青淵先生公私履歴台帳」(明治八年八月ノ項)・「商法講習所書類」(明治十二年ノ部)・成瀬隆蔵氏談(「如水会々報」第一二四号第九〇頁)・「小山健三伝」(第二五七頁)等アリ、「青淵先生公私履歴台帳」ニハ「明治五・六年ノ交、故森有礼子米国ニ在テ我邦ニ商法講習所ノ設立ヲ企図シ東京会議所ニ向テ賛助ヲ求ム云々」、「商法講習所書類」ニハ「東京商法講習所ハ明治六年米利堅在留弁理公使森有礼氏之ガ教師ヲ聘シテ以テ商法ノ挙ヲ本邦ニ明カニセント欲スルニ起ル、云々」、「小山健三伝」ニハ「されば明治三年、少弁務使として米国在勤を仰付けらるるや、滞米四年の間に静に米国を洞察したり。而して米国の強大は其の富資の充実に基し、富資の充実は有為有識の士が競うて実業界に其の力を致すにあるを熟視し、我他日故郷に帰らば、商業教育を盛んにして以て国家の富源を開拓すべく、当路に進言せざるべからずと期したり。故にその米国を去るに臨み、これを米人に計り、ホウヰツニーを聘するの予約をなせり」トアリ、更ニ成瀬隆蔵氏談ニハ「商業教育の起りは森有礼氏(子爵)が米国駐箚特命全権公使であられた時に、富田鉄之助も亦米国に居られまして、ダブリユー・シー・ウイットネーのビジネススクールに臨まれ之を熟察して、是は日本にも商業教育を施さなければならぬと云ふことを感ぜられて森氏に其の意見を述べられた。森氏も大いに賛成された。それは明治七年のことでございます云々。」トアリテ森子ト富田氏トノ関係ハ判明セルモ、明治七年トアルハ記憶違ヒナラン、森子ノ帰朝セルハ明治六年七月ナレバナリ。(木村匡編「森先生伝」ニ拠ル)
    (二)森子帰朝後、直ニ講習所創設ニ付キ府知事大久保一翁等ト協議シ其結果六年十月三十一日ニ至リテ府庁ハ会議所ニ講習所開設ノ件ヲ説諭シ、木挽町八丁目十三番地ノ地所ノ下附ヲ会議所ハ府庁ニ申稟、許可セラレタリ。此点ニ関シテ資料ニ徴スルニ「会議所伺」(第四号)ニ挿入セラレタル「東京会議所沿革一覧」ニ「先ニ前ノ米国駐剳ノ我カ弁理公使森有礼君ガ帰朝ノ後ニ当リ、西洋商法ノ書籍ヲ講習スヘキ応ニ当今ノ必要ニ在ルヘキヲ以テ、府知事公ト商法講習所開設ノ事ヲ協議セシ事アリ、明治六年十月三十一日府庁ハ会議所ニ該校ヲ開設スヘキ事ヲ説諭シ、其地位ヲ指示ス、乃チ
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之ヲ奉シ木挽町八丁目十三番地ヲ下与セラレン事ヲ申稟ス」トアリ、又九年四月府権知事楠本正隆宛栄一ノ伺書ニモ「…明治六年十月中森有礼殿弁理公使之節、帰朝之後、前知事大久保一翁殿ト御協議之上教師トシテ米人ホウヰツニー氏ヲ雇入、該校ヲ木挽町八丁目十三番地ヘ開設スヘキ旨ヲ以テ右地所御下渡相成…」トアリ。
    (三)講習所設立ノ件確定セルヲ以テ、爾後其ノ準備ヲ整ヘ居ル中、森有礼・富田鉄之助両氏ノ需ニ依リテ、七年十一月福沢諭吉氏「商法講習所設立趣意書」ヲ発表ス。此年十二月頃ヨリ会議所ハ設立地名義ヲ官有地第四種ニ組入レルベク努メタレドモ成功セズ、結局八年十月第三種組入レニ確定シ借地料ヲ上納スルコトニナレリ。「会議所伺」(第三号)ニ綴込マレタル参考資料ハ凡テ前掲セルガ、ソレヨリ窺ヒ得ル内容ヲ左ニ叙ス。
     明治七年十二月七日府庁ノ会議所宛布令アリタルガ恐ラク地所名義ニ関セシモノナラン、乃テ同月十七日会議所ハ講習所外五項ノ地面決定ノ上伺書ヲ府庁ニ提出セル所、講習所外三項ヲ第三種ニ組入ルヽ旨ノ指令ヲ得タリ、八年二月三日府知事、内務卿ニ伺書ヲ提出ス、伺書内容ハ恐ラク講習所等ノ設立地ヲ第四種ニ組入レラレタキ旨ノ請願ナリシト見エ、同年三月八日内務卿ハ伺書聞届ケ難ク、講習所等ノ設立地ハ第三種ニ組入レ、借地料ヲ上納サスベキ旨ノ指令ヲ府知事ニ与ヘタリ
     カクテ一応コノ問題ハ落着セル如ク見エタル所、同年八月ホヰットニー氏来朝シ愈々講習所開校モ近キニ在ルヲ以テ、九月二日更メテ会議所ハ府庁ニ講習所敷地等ヲ第四種ニ組入レラレタキ旨ノ再伺ヲナセリ、乃テ同月二十九日府知事モ亦内務卿ニ再伺書ヲ提出シ、会議所ト講習所ノ公益的性質ヲ考慮シテ、其地所ヲ第四種ニ組入レルコトヲ許可セラレタキ旨ヲ請ヒシニ、十月九日内務卿ハ其旨聞届ケ難シトノ指令ヲ府知事ニ与ヘタリ、玆ニ於テ十月十三日府知事ハ、右ノ如キ次第ナレバ講習所地所等ハ第三種ニ組入ルル他致方ナキ旨ノ達ヲ会議所ニ与ヘ、カクテ此件ハ落着セリ。
    (四)八年三月府庁ヘ提出セル会議所ノ伺書ニ、商法講習所教師給料年額トシテ既ニ金三千円計上サレタルヲ見ルニ、此時既ニ講習所開設ニ就キ、ホヰットニー氏ヲ会議所ガ雇傭シテ之ヲ森氏ニ貸与スルコトニ談合セルモノノ如シ、後実際ニ此形式ヲ取レルコトハ「会議所伺」(第四号)中ノ「東京会議所沿革一覧」ニ「同日又ホウヰツニー氏ヲ雇倩スヘキニ従ヒ、講習所ノ如キ其実起立人タル森有礼君ノ私立学校ニ係ハリ其当務ノ責任ハ有礼君ニ存スルヲ以テ、則会議所ト有礼君トノ間ニ条約ヲ修メ之ヲ府庁ニ上申ス」トアルニ徴シテモ、亦明治十八年七月十日東京商業学校卒業生徒仮卒業証書授与式ニ於ケル栄一ノ演説ノ一節ニ「…乃チ会議所ニ於テ同氏 ○ホヰツトニー氏ヲ雇ヒ之ヲ商法講習所ニ貸与シ、同所ノ教務ハ森君専ラ之ヲ管理セリ…」ト述ベラレタルニ徴シテモ明ラカナリ。
    (五)八年八月ホヰットニー氏来朝シ、九月十三日会議所ハ同氏雇傭金額ヲ府庁ニ上申シ、同日森有礼トノ間ニ講習所ニ関スル取決メヲモナシタル上、府庁ニ其旨上申セリ。同月二十四日会議所ハ右雇傭金額ノ外年額五百円ヲ五年間講習所ニ下附スルニ決定ス。又同日講習所ヲ臨時ニ尾張町二丁目二十三番地ニ於テ開校セリ、蓋シ木挽町校舎ノ建築未タ竣成セザリシタメナリ。此等ノ事ニ就イテハ「東京会議所沿革一覧」ニ詳述サレアリ、講習所ノ開校日ヲ一般ニ八年八月トナセルモ、九月二十四日ヲ以テスベキハ上述ニヨリ明ラカナリ。