デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
2節 女子教育
3款 其他 3. 日本女子商業学校
■綱文

第26巻 p.925-929(DK260174k) ページ画像

明治40年10月17日(1907年)

是日当校創立四週年記念式挙行セラルルニ当リ、栄一、当校学監嘉悦孝子ノ請ニ応ジ、会場タル東京高等商業学校講堂ニ臨ミ、生徒ニ対シテ一場ノ訓話ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK260174k-0001)
第26巻 p.925 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四〇年     (渋沢子爵家所蔵)
十月十七日 晴 冷             起床七時 就蓐十二時三十分
○上略 午前十時高等商業学校ニ抵リ、女子商業学校四週年紀念会に対スル一場ノ演説ヲ為ス、嘉悦幸子《(嘉悦孝子)》ノ依頼ニヨル ○下略


竜門雑誌 第二三五号・第一―六頁 明治四〇年一二月 ○日本女子商業学校創立四週年紀念会に於ける演説(青淵先生)(DK260174k-0002)
第26巻 p.925-929 ページ画像

竜門雑誌  第二三五号・第一―六頁 明治四〇年一二月
    ○日本女子商業学校創立四週年紀念会に於ける演説
                      (青淵先生)
 左の一篇は先生が本年十一月十七日日本女子商業学校創立四週年紀念会《(十月)》に於て為されたる演説の筆記なり
今日は当商業学校の四週年の紀念日に当りまして、私に此処に罷出まして一場の御話を申すやうにと学監の嘉悦さんから過日委託を承けました為めに参上いたした次第でございます。併し申訳のやうでございますけれども、私は一向教育の事柄に縁の遠い事務しか致して居りませぬのですから、女子教育などに就ては最も関係が少いのでございまするから、斯る席に出て皆様の御利益になることを申せぬのみならず面白いといふ御話も尚且出来まいと思ひます。去りながら殊に此商業と云ふ名を付してある学校であると云ふことでございますし、嘉悦学監から再三の御委託を蒙りまして、私は商売人の一人で居りますから男女其性を異にするとも、商業と云ふものに対しては成るべく味方多かれと思うて居りますので、今までは多く商人は男とばかり思うて居つたのに、此末は女の商人が日本に輩出したならば、例へば五千万の人員の中に商人が千万人あると思つたならば、又二千万人に殖えると云ふ計算が或は出来るやうになりますから、此位嬉しい事はない、故に商売人としては罷出でざるを得ませぬので、此処に参上した次第でございます。
女性の日本の古い歴史が如何であつたかといふことは、学者でない私には迚も研究し能ふことではありませぬ、併し普通の歴史や何かでチラチラ見ます所では、ずつと昔は大層勇壮活溌に、総て働きかけに仕事をなされたかのやうに見える。現に神功皇后など云ふお方はお女子であるけれども、三韓を征伐する為めに、彼の国にお出掛けなすつたそうでございまする。今の御婦人のやうに、内にばつかり引込んで、人に合ふのも恥しいといふことで……斯るお方を見ても、昔の婦人は中々勇壮であつたといふことを証拠立てられる。光明皇后の如きは、御自身で人の垢まで洗つてやつたといふことなどは、臨時の行である
 - 第26巻 p.926 -ページ画像 
けれども、併し決して消極でなく、積極の位置のお働きをなすつたやうに拝聴される。其他例へば、此歴史を見ると紫式部・清少納言などいふ人は……私は学問に乏しうございまするが、委しい事はよく分りませぬが、併し是等の人々は文才に長けて居るのみならず、政事にも長じて居たやうに見える。自分で進んで国家の事を実行して、殊に依つたら、朝政にも多少与つたかも知れぬと見える。して見るとずつと昔の御婦人は、今よりはもう少し、或は「ハイカラ」であつたかも知れぬ。
どう云ふ訳で、此の婦人が成るべく内にのみ引込み、成るべく消極にしなければならぬといふことになつたか、其原因は、私に考出すことは出来ませぬ。同時に我々商売人が、なぜ社会に久しい間卑屈の位置に置かれたといふことも、余程研究しなければならぬ問題でありますからして、私は斯う云ふ商売人の位置と御婦人の位置とは、性質も異なり境遇も別であるけれども、世の中からヒドク卑屈な位置に押下げられて久しく居たと云ふことに於ては、殆ど同様な有様にあるので、最も御婦人方には、商売人として同情を表すると同時に……商売人が御婦人方に同情を表して、相共に此聖世に遇ふたに就て発達を図らなければなるまいと思ふのであります。
左様に押下げられ、卑屈になつたと云ふことは、商売人の側から申すと、どうしても武人が政を執り……政権が武家に移つたと云ふことに又大いに原因するかと私は想像する。併し王朝の時分の商売人は日本で如何なる境遇であつた、どのやうな働きを為したと云ふこと……殆ど商売上には東洋の風習として押しなべて軽んじて居たか、所謂歴史の徴すべきものはない、併し著しく押下げられたのは、寧ろ此武人が政権を執ると云ふことからして落ちたものでないかと思ふ。殊に封建の時代などになつて、別してそういふ弊害が激しくなつた、殆ど世の中は所謂斬り伏せ……此武士が他に向つて勝つと云ふことが、総て唯一の国を治める主義となつて居る。戦つて勝つには、兵糧がなくてはならぬ。運送費もなくてはならぬが、唯々其手段を達する一要具に供せられた。世が治まつて参つても、勿論重なる物産などは皆政治上に依つて支配された。米であるとか砂糖であるとか、蝋であるとか藍であるとかは、三百年此かたの幕府の政道によつて支配されて居る有様で、総て左様に重な商品は政治の力によつて運搬売買せられたから、商売人は殆ど其間に僅かに生活するやうな有様になつて、此商売人に対してヒドイ卑屈な軽蔑さるゝと云ふことが、益々強くなつたと言つて宜い。
女子の世の中に押下げられると云ふ有様は、商売の関係とは違ひまするけれども、武人の世に蔓ると云ふ方から、此の家計を掌ることを尊みますのです。殊に其性質が或は優美であるとか、柔順であるとか、又脆弱であるとか、云ふからして、戦争などの関係は御婦人は余り適当なものでない。中には巴御前のやうな人もあるけれども、これは異例である。故にどうしても今の商売人と婦人は、戦争時代には第二・第三の用しか足せぬ者であつたから、左様に野蛮な時代には軽蔑された。其軽蔑の習慣が染み渉つて、三百年の太平、徳川幕府に至りまし
 - 第26巻 p.927 -ページ画像 
たけれども、矢張其有様が充満して居つた。
而して此の教育を為すと云ふ方法に於ても、種々なる教育が婦人にありませうが、私はよく覚えて居て、貝原益軒の女大学……是は皆さん大抵お読になつたであろうが、極消極的な、学者の(聴取し難し)極浅薄なことを教込んで、女子と云ふものは唯々服従の義務あるのみと教へたのであります。又商売人はどう云ふ教育があつたか、是は貝原益軒が作つたのでありませぬけれども、商売に対する教育といふものは是であつて、頗る浅薄な卑近なものである。此処にお出でのお方は大層女の人が多いやうで、御存じないかも知れぬが、商売往来と云ふ本がある、色々な商売取引に就て其要を多少覚えることが出来る。或は算術の書物で「塵功記」と云ふものがあります。八算であるとか見一であるとか、詰り加減乗除を教へる算法の書です。これ位のもので商売人の教育は済んで居つた。ですから詰り世の進まぬ間は一般の生活が簡易である。簡易であるから或る部分に至つては智慧も分別も要らない、唯或る方面の社会に顔を出す。右の一要具に備はると云ふので足りて居る。故に例へば日本の其の時分の人々は何千万であつたか知らぬが、社会に働をなさうといふ人は十分の一しかない。他の者は附属物・附属機械と看られた、商売人は武人などの附属物従たるものになつて居る。故に斯様に軽蔑せられた。今日はそうでございませぬ西洋各国の進んだ国は決してさうでない。即ち男女室を為すは人の大倫と昔の支那の教にもある。昔の支那……極擅制政治の時は今私の前に述べたやうな有様であつたか、これは如何であつたか、私が此に証拠立てる訳に参りませんけれどもちよつと今申すやうに男女室をなすは人の大倫とあつて両性相寄つて一家を為し、これが集つて一国となつて行かなければならぬと云ふことが教へてございます、以上で婦人と云ふものは左様に軽蔑すべきものでないといふことは明かである。若し果して此の婦人が……第一商売人が今の世の中の附属物であるならば、これこそ一国の人々は幾人あつても、僅かの部分しか数へられないやうになる。国民の数は大変に減ずる訳である。之に反して総ての人が国家の為に働くといふことになれば、其国の富強を助ける上に於て、大変な十露盤に相違を惹起すといふ事を考へなければならぬのであります。故に今日の商売人は決して此国家に対して附属物でないと云ふ位置に進んで国家の富強を図るのは、政治家も必要であり、軍人も必要であり、学者も必要であり、法律家も必要であると同時に、商工業者・実業家も同じ程の重さで必要であると、我々自負して世の中に働いて居りまする。丁度御婦人方もどうぞ同じく其一階級を保つ為に一つのものだと、未来はお心得……未来でなく現在お心得あるやうに希望いたして已まぬのでございます。是に於て此学校で商業教育を与へらるゝと云ふことの、甚だ必要といふことが生ずるのでございます。
前に申すやうな有様ですから、是れまでの日本の婦人は、例へば此経済上、若くは家計上に携はることでも、費消経済といふ方にしか関係して居らない。生産経済といふものには殆ど関係しないといふ……物を造出すといふことはしない。家のお神さんは勝手のものを粗末にし
 - 第26巻 p.928 -ページ画像 
ないやうに、味噌を腐らさぬやうに、薪を粗末に焚かぬやうにと云ふ即ち費消経済である。偶々田舎の百姓のお神さんが田を植えたり、田の草を取つたり、近頃は女工……糸を績出すと云ふことは、生産経済でないかと言ふか知らぬが、是等は僅か職工として働くので、婦人其者の自ら活動をするのは殆ど費消経済になつて居る。此処に御居でなさる商業学校の生徒は、唯々単に費消経済に満足してござつてはいけないと思ふのであります。商売人が国家の富強を図るのに責任があると考へると同時に、御婦人方も、国家の富強に大に関係して居るものだ。国の貧しいとか、国の弱いとかいふことも、御婦人方も自然其一部分を分たなければならぬと、斯ういふ位に考へるのでございます。丁度前に申す通り、此の我々の位置、即ち商工業者の位置と御婦人の今日の有様が、大に異なつて居りますけれども、或る点に於て甚だ似寄りの所がございまして、私は自ら奮励すると同時に、此御婦人方が力めて御奮励あれかしと希望して止まぬのでございます。商業学校の学監のお話に、成るたけ此商業学校に従事する女子の方々に、世の中の事柄に就て前途を経営して行くにえらいものにし、而してむつかしい事を言はず怒らずして働く、是で以て沢山である、よい加減の金玉の論は、先生があつて悉く胸に修めて居る訳で、今は成るべく単純に成るべくだけ働くやうにすると、私が口癖に申して居ると云ふことを此程の御面会に於て伺ひました。寔に極意味のある言葉で、其事は浅薄のやうに聞えますが、其意味は深長であると私は敬服したのでございます。どうも人は奮励と云ふことは、どうしてもなければならぬ、己の徳を損じ、殊に損害を惹起すことは、力めて避ける様にせなければならぬ。所謂怒るなと云ふこと……怒つちやならぬといふことは寔に御尤である、又働く……至つて簡単な言葉ですが、人間は働かないでは、自分の才も自分の位置も必ず屈して仕舞ふ。寧ろ働くと云ふ事から、己の思想も非常に活き活きして行き、身体も極めて活溌になる極卑近な諺に「稼ぐに逐付く貧乏なし」といふことがございます。至つて賤しい言葉であるけれども、一生懸命に働いて居れば、貧乏といふ魔風はどつかへ去つて仕舞ふ。故に此方の働は甚だ結構ですから、学生諸君は学監の言葉を常に服膺して、其心にお守りなさるやうにしたい。
私は更らにもう一つ言葉を添へて申したいと思ふ。固より怒るな、働けといふことは必要であるが、尚もう一層「程を計る」と云ふことが必要で、身の程を計る、恐れるといふ念が強いと、或場合には慟哭する必ず悲むといふ情がある、或る場合に沈むといふ事は人情の免れない。唯々無闇に分を守れと云ふ古人の教は消極で、全く安んずると云ふことではなりませぬから、どうしても人間は身の程を考へて、其程に適うて、「コンモンセンス」の発達……常識の修養を斉へると云ふことになりますから、「程を計れ」といふことを附加へたいと思ひます、「程」といふ字は其人に適応するのですから、殆ど千差万別と言はなければならぬであらうと思ふ。
又もう一つ加へたらよかろうと思ふ。それは「久しきに耐へよ」と言ひたい。総て物事に奮励した場合でも暫の間でなければいけぬ。まけ
 - 第26巻 p.929 -ページ画像 
ぬ気になつて、其人が大層朝早く起きやうと思ふ。何かの動機があつて朝早く起きやうと、きつい考を起した場合があつても、久しくなると怠慢の心を生ずる。是は寔に人の弱点である、其場合を続かさぬでは決して佳境に入らぬのであります。故に人間は久しきに耐へるといふことは甚だ必要で、即ち支那文字で書けば耐忍恒久といふことになるので、此耐忍恒久でなければ、決して完全の位置に達するものではない。
故に「程を計れ」「久しきに耐へよ」と云ふ二つの言葉を添へて、今の心得にかけて願ひたい。学監の言葉で既に足りる。却つて蛇足ではありませうけれども、お目にかゝつた際に一言の言葉を添へて、諸君の未来に希望いたします。

渋沢栄一伝記資料 第二十六巻 終