デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
3節 其他ノ教育
8款 早稲田大学
■綱文

第27巻 p.93-99(DK270029k) ページ画像

明治40年10月20日(1907年)

是日、当大学総長伯爵大隈重信ノ銅像除幕式並ニ創立二十五周年記念祝典催サレ、栄一之ニ出席シ祝辞ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK270029k-0001)
第27巻 p.93 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四〇年     (渋沢子爵家所蔵)
十月二十日 曇 冷             起床七時 就蓐十一時三十分
○上略 午後一時早稲田大学二十五年紀念祝典ニ出席ス、来会者各国大使公使・元老・大臣・実業者・新聞記者・学生等無慮二万人ト称ス、頗ル大会ナリ、大隈伯銅像ノ石壇上ニ於テ一場ノ祝詞演説ヲ為ス、種々ノ演説又ハ祝文朗読アリ、三時式畢テ伯爵邸ニ園遊会ヲ開ク、午後四時半王子ニ帰宿ス ○下略


早稲田学報 第一五三号 明治四〇年一一月 創立廿五年祝典(DK270029k-0002)
第27巻 p.93-95 ページ画像

早稲田学報  第一五三号 明治四〇年一一月
    創立廿五年祝典
△光栄ある祝典 大隈伯銅像除幕式に集ひし紳士・淑女及ひ学生の散せしも一時、此思出多き式場に於て午後一時二十分より早稲田大学廿五年祝典の式は挙けられたり、零時三十分鏘々たる第一号鐘を合図に早稲田大学の健児八千有余の大集団は大学部・専門部・高等師範部・高等予科・清国留学生部・実業及中学と区分せる予定の席に入場し、午後一時十分二号鐘にて校友・来賓の徐々入場するや、二万余の椅子は悉く是等朝野の紳士・淑女を以て埋められ、さしも広濶なる八千余坪の場内全く立錐の地を余さゞるに至れり
   ○学長高田早苗・総長伯爵大隈重信演説略ス。
次に来賓男爵渋沢栄一氏登壇、簡にして誠意籠れる左の演説あり
    創立二十五年祝典
閣下・淑女・紳士、斯る最も紀念とすべき盛典に参上致す光栄を担ひまして、此席に罷出ますのは頗る愉快に感じまする、愉快に感ずると
 - 第27巻 p.94 -ページ画像 
同時に又大に迷惑に感じまする、私は学問に縁の遠いものでございますから、斯様な御席に参上して意見を申述べることがございませぬ、材料も知識も共にないかも知らんでございます、去りながら爾来此学校の脳髄とも申すべき創立者、殊に現在総長に居らつしやる大隈伯爵には余程久しい御懇遇を受けて居りまする、又学長たる高田君とは同郷の好みを有つて居りまして、是以て極く久しい友人でございます、斯る御目出度い席に方面こそ異なれ、罷出て一言の祝辞を述べよと云ふ御指図に依りまして、未熟の者が此壇上に登ります次第でございますから、言語の不束な程は呉れ々々も御容赦の程を願ひます。
左様な身柄故に、御目出度い席でも所謂賀頌のことを為すことは出来ませぬ、殊に学問に対する意見、教育に対する思想などを申上げることも甚だ困難でございます、唯殆ど此学校の脳髄たる総長大隈伯爵とは、私四十年の厚誼を辱うして居りまする、而して明治十五年に此学校の始る頃合からしても、勿論今日迄殆ど公けに私に、或は慈善とか若くは他の学校とか、又社交上・政治・経済等の大きな所は勿論でございます、始終其指揮誘導を受けて奔走経営する身柄でございますから、此学校に対する感想も二十五年の間に例へ方面違ひの私と雖も多少持たぬことはなかつたと申上げるでございます、故に学説とせず唯外見の感想を一言申上げて祝辞に代へやうと考へます。
有体に申上げますと、明治十五年早稲田専門学校の開かれた頃合の私などの考は、眼の近かつた為に、決して斯の如く大規模に、又盛大に拡張するものとは想像しなかつたので、詰り大政治家の、大英雄の、孟子の所謂「得天下英才而教育、之三楽也」と云ふ、例の「君子有三楽、而王天下」云々と云ふ其中の一に今のやうなことが書いてあります、伯の御高意は蓋し其辺にあるだらうなどと云ふ皮想の考を私共は致して居りましたのでございます、又世間から評論する所を間々聞きますると、或はそれ以外の想察を以て、伯の高徳を多少傷けることがあつたかも知らんとまで申したいのでございます、然るに此学校の其以後の発達と云ふのは、如何にも吾々其時の想像以外にありまして、既に三十五年大学と改称され、其大学と改称された以後の発展の有様を唯今学長から伺ひましても、五年にして十倍の数字を挙るに至つたと云ふことは、世運の学問に希望の厚くなつたと云ふことは勿論でございませうけれども、即ち総長たる、脳髄たる伯爵の厚い御力の入れ方、及之を御助けなさる所の教職員諸君の容易ならざる尽力が、此大成功を見るに至つたと吾々厚く感謝をなさなければならぬのでございます、殊に私は此学校に向つて別して謝意を表したいと思ふのは、唯今学長から御述べのございました通り、務めて学事と実際を密着させたいが為め、此学校を大学と改められた後の有様を拝見しましても、大学部に商科を加へたなどと云ふことは、未だ帝国大学に見能はぬことが早稲田大学に見能ふたのは、吾々商人の方から云ふと、最も謝意を表さなければならぬことであります。而して唯今の数字を御述べになりましたことから観察致しますると、費す所の費用と学問の普く及ぶ所の公益とが、或は政府の経営される、其他種々なる学校に較べて見ましても、大に優る所あつて損する所がない、丁度善い品物を安い
 - 第27巻 p.95 -ページ画像 
価で買得ると云ふことでございますならば、吾々経済界に居る者は、最も双手を挙げて此学校に賛成する所で、独り商業に従事する者許りでない、国民として共に同情を表さなければならぬ学校であると思ふのでございます、凡そ国光を発揮し国威を宣揚するの原動力は種々なるものがございませう、政治の力勿論必要である、軍人の働き最も肝要である、或は法律に、或は外交に、或は資本に、皆総て国威を宣揚し国光を発揮する要具に相違ない、併し是等の諸種の品物の勢力を十分に扶殖せしむる原動力は何であるかと申したならば、之れ教育の力と言はねばならぬのでございませう。
果して然らば此教育の効能が国家に取つて如何に肝腎であるかと云ふことは私の喋々を待つ迄もございませぬが、此事を申上げるに就いて私は四十年の昔を思ひ起さゞるを得ませぬので、それは変つた御話でございますが、伯爵の御面前に於て古い記臆を玆に呼起すのは失礼になるか知りませぬけれども、私は元と静岡の藩士の一人であつたので明治二年十一月朝廷に召されまして、大蔵省の役人になりました、当時伯爵は大蔵省大輔として大蔵省の事務を執つて御居でなすつた、所が私は静岡には多少の事務を経営して居つたに付いて、どうも大蔵省へ入つて財務を取扱うよりは、寧ろ静岡に居つた方が自分の利益と考へましたので、一旦召されて出ましたが、伯の築地の尊邸、其時分築地の尊邸は梁山泊と人の称した所である、尤も私は梁山泊の一人ではなかつた、魯智深でも或は九紋竜史進でもなかつたのですが、罷出まして己れの意志に付て意見を申上げました時に、伯が私に示されたことがある、お前は幕府から出て来たと云ふから、何か少し生きた考を以て世の中に立たれるか知らぬと思ふたに、さう云ふ意見であれば誠に気の狭い話だ、此明治維新と云ふものは先づ数千年の後の国家を改めて建造すると云ふても宜いやうなものだ、彼の神官の唱へる祝詞と云ふものに、高天原に八百万の神々が集まつて神ばかりにはかつて、神造りに造ると云ことがあるが、貴様は知つて居るか、如何にも私は神主様から聞いて其位なことは知つて居つたから、さう云ふ言葉のあるのは存じて居ると御答をした所が、即ち今日我々が其時代だ、八百万の神を以て爰で日本を神造りに造り神ばかりに計る、今に即ちお前の言ふやうになるのだ、其有様から考へて見たならば静岡藩だ薩摩藩だ長州藩だ、そんな馬鹿らしい話はないではないか、と言ふことを仰しやつた、此愉快なる御言葉に因つて、私は意見を翻して朝廷に奉仕する考を固めましたが、其時自から思ふに、伯の識見の高遠なる、伯の意気の活溌なる、甚だ私は愉快に感じましたけれども、其実は少し奇矯に過ぎはせぬかと思つた、所が四十年後の今日になつて見ると、即ち此原動力たる教育に、斯の如く御力を入れて、さうして国家の富強を扶殖する基を造るとするならば、即ち八百万の神々を造り出す御人と思つて宜からう、既に二十五年の間に、五千の神を御造りになつたと見たならば、未来数十年には、或は八百万になるかも知らぬと思ふ、私は爰に此学校の極く遠い将来を祝福して、之を以て祝辞に代へます。

 - 第27巻 p.96 -ページ画像 

大隈侯八十五年史 同史編纂会編 第二巻・第五五六―五六〇頁 大正一五年一二月刊(DK270029k-0003)
第27巻 p.96-97 ページ画像

大隈侯八十五年史 同史編纂会編  第二巻・第五五六―五六〇頁 大正一五年一二月刊
 ○第八篇 第一章 早稲田大学総長としての新生活
    (四) 銅像除幕式及び二十五週年祝典
○上略
 かうして四十年十月二十日、愈々君の銅像除幕式とともに早稲田大学創立二十五年祝典が行はれた。その日は秋の空が碧瑠璃のやうに高く澄んで、早稲田の森に明るい金色の陽光が輝いた。牛込区内の人々は二十週年祝典の時に倍して、到る処町々を飾り、祝意を表した。早稲田大学の正門には大国旗が交叉されて、爽な朝風に翻り、来会者は早くから校庭につめかけた。
 当日朝、君は満面に笑みを湛へながら、夫人及び令嗣信常夫妻を伴なうて式場に臨んだ。数千の来会者は、君の姿を見ると狂せんばかりに喜んで、拍手をあびせた。その拍手は君が式壇にある席に着いてからもやまなかつた。やがて四辺が静蕭になると、君は夫人と列んで式壇左方の前列に、令嗣夫妻外家族は後列の席に着いた。令孫とよ子の当年四歳の可憐な風姿は、小菊の花のやうに匂ひやかに見えた。
 設の式壇は今後長く講壇にも用ゐるやう銅像の台をその儘に花崗石で築き上げ、その左右に二口の階段を設けた。そして石段の両側に棕梠竹の大盆栽を置き、君の銅像は紅白の幕で蔽はれてゐた。程経て委員長前島密が開式を告げると、市島謙吉は、銅像設計の次第を報告した。それから荘重な軍楽隊の吹奏が始まると、盛な拍手が起つた。
 時に君の令孫とよ子は媬姆に助けられて壇に上つた。人々の視線は一斉にその方へ集つた。やがてとよ子は一方の綱を繊手で軽く引くと紅白の四方幕はすらりと落ちて一同が待ち望んだ君の銅像姿が、雲を排する東天の旭日のやうに現れた。台後にある常磐樹を背景に、大礼服を着て左手に礼帽を持ち、快濶に右足を少し前へ進めた君の姿が生きて躍り出すやうに見えた。次に高田早苗の祝辞があつた後、君は悠揚として壇に現れ、その銅像姿を喜ばし気に一顧して謝辞を述べた。
   ○謝辞略ス。
 君は以上の如く深い喜と感謝とを表して退去すると、一同も亦退散した。そして午後一時過、大学の祝典が、更に君の銅像の下で開かれた。やがて百雷一時に轟きわたるやうな拍手に迎へられて、君が高田学長の導きで着席すると、式が始つた。
 その際、君は早稲田の今昔について詳しくその思ひ出を語つた。最後に力をこめて、「学校の創立も、この二十五年間に於て、稍々その緒に就いたが、併し今日は未だ初め企てた目的の僅一部分を達したと云ふに過ぎぬ。この場合、高田早苗君等の計画により、第二期拡張即ち理工科建設が発表せらるゝに至つたのは、わが輩が衷心悦びに堪えぬ所である。更に第二・第三の発展を為して、完全なる理想の大学を作らなければならぬ。近き将来に於て、医科・工科・理科の各分科大学を設くるに至ることも、決して空想ではない。また必ずこれを実現させねばならぬ」と、当然実現すべき将来の希望を熱心に述べた。
 次に伊藤博文・首相西園寺公望・文相牧野伸顕・渋沢栄一・ドイツ大使ムンム等の祝辞、イギリス大使マクドナルド、フランス大使ゼラ
 - 第27巻 p.97 -ページ画像 
アル、アメリカ大使オブライエン等の演説があつた。伊藤は朝鮮から電報で祝辞を寄せ、五百円を学校に寄附し、将来、理工科・医科などの新設を見んことを切望した。かうして創立二十五週年記念祝典は、未来の新希望に輝きつゝその幕を閉ぢた。
○下略


東京経済雑誌 第五六巻第一四一一号・第七四三―七四四頁 明治四〇年一〇月二六日 早稲田大学創立廿五年祝典(DK270029k-0004)
第27巻 p.97-99 ページ画像

東京経済雑誌  第五六巻第一四一一号・第七四三―七四四頁 明治四〇年一〇月二六日
    早稲田大学創立廿五年祝典
早稲田大学の開校五年、東京専門学校の創立廿五年紀念祝典は、本月二十日午後一時より早稲田大学に於て挙行し、学長法学博士高田早苗君先づ式辞を述べ、次に総長大隈伯爵懸河の弁を振ひて、早稲田大学の過去・現状及び将来の計画に就て演説し、次に来賓渋沢男爵は祝詞を演説し、東京専門学校の歴史及び大隈伯との旧交に及び、次に牧野文相は祝辞を朗読し、次に川村首相秘書は西園寺侯爵の祝辞を代読し夫より仏・独・英の三大使交る交る祝詞を演説し、最後に高田学長は統監伊藤公爵の祝電を朗読披露し、是にて式を終り、来賓一同を大隈伯の邸に案内し立食を饗応せり、此の日祝典に列せし人員は無慮八千人と註せられたり、蓋し少なくとも五千人はありしなるべし、夜に入りては数千の学生提灯行列を為し、又翌廿一日より廿七日に亘りて庭球大会・演芸会開演、野球大会・音楽大会・水上運動会・弓術大会・撃剣及柔道大会の催あり、盛会を極めたり
早稲田大学の得業生は、去る明治十七年七月東京専門学校第一回の得業生を出せしより、本年七月第廿四回の得業生を出せしまで総数五千百二十二名にして、此の内大学部の得業生として学士号を称することを得る者九百八十七名あり、是等の得業生は学校卒業後各種の業務に従事し、貴衆両院議員・府県郡市会議員・官公吏・弁護士・教員・著述家・銀行会社員・新聞雑誌記者・外国政府顧問等となりて社会に立ち、別に海外の諸大学に留学する者亦少からず、而して早稲田大学は大学部・専門部・高等予科の三部門に分ち、大学部は更に政治経済学科・法学科・文学科・商科・師範科に分ち、専門部は更に政治経済科法律科に分ち、高等予科は更に第一・第二・第三・第四・第五に分ち外に清国留学生部を置き、其の課科は普通科・優級師範科・博物学科教育及歴史地理科に分てり、而して将来の計画としては理工科の如き医科の如き、将た農業・林業等に関する学科を増設すべしと云ふ
早稲田大学が僅に廿五年間に斯の如き長足の進歩を為して国家に貢献するを得たるは、固より時勢の然らしむる所なりと雖も、大隈伯の庇護と高田学長以下職員の奮励とによらざれば、決して斯の如き成功は見るべからざるなり、是に於て校友諸氏は財を醵出して総長大隈伯の銅像を大学中央の広場に建立し、以て伯の徳を称せり、其の頌文左の如し
 明治四十年十月、我早稲田大学創業二十五年、設筵挙賀、而総長大隈伯爵、亦齢躋七十、於是校友胥議捐貲、為建銅像、紀其徳也、銘曰、
  戯偉大学 維伯総長 聿育英才 廿五星霜 規摸既大
 - 第27巻 p.98 -ページ画像 
  教養既昌 如禾之培 如玉之蔵 収獲不爽 内実外光
  潤我邦国 覃照四方 昊天日眷 載錫百祥 吉人君子
  眉寿無疆 鋳銅建像 于彼高岡 匪曰金堅 匪曰形昂
  中心所敬 靡物無彰 朝夕瞻仰 汞矢弗忘
是より先き本月十六日、大隈総長は早稲田大学創立二十五年紀念録・創業録及び創業以来同大学に於て出版せる書籍三百余冊を宮内大臣を経て 聖覧に供へ奉り、尚一書を宮内大臣に贈りて大隈伯が早稲田大学を創立せし理由及び其の主義を開陳し、大臣より親しく之を 陛下に奏聞せられんことを請へり、是に於て田中宮内大臣は大隈伯より献上せる書籍類を御前へ差出し、且大隈伯か書面を以て陳述せられたる趣旨を委曲奏聞に及びたるに 陛下には大隈伯が終始一の如く教育に尽力の段御満足に思召さるゝ旨の御諚を宮内大臣を経て大隈伯へ伝達せられたり、大隈伯の宮内大臣に贈りたる書に曰く、早稲田大学が多少国家の教育に献替せし所あるを見るに至りたるは重信の心窃に報効の一端に達したるを悦ぶ所なりと、蓋し大隈伯が国家社会に貢献せる所は多端なりと雖、早稲田大学の成功は、其の著明なる者の一に居らずんばあらず、余輩は玆に謹みて早稲田大学創立廿五年紀念祝典を祝し、併せて総長大隈伯に向ひて敬意を表するものなり
   ○早稲田大学沿革概要(明治四十年マデ)
     明治十四年十月 大隈重信下野ノ後、既成ノ官立大学ガ、藩閥政府官僚ノ巣トナリ外国ノ糟粕ヲ嘗メテヰルコトニ反対シテ、学問ヲ独立セシメ、自由ノ精神ヲ涵養スル私学ヲ建テントシテ、小野梓ト共ニ事ヲ図リ、高田早苗・天野為之・山田一郎・砂川雄峻・岡山兼吉・山田喜之助・田原栄等ヲ糾合シ、学校設立ノ準備ヲ進メ、遂ニ
     明治十五年十月二十一日 東京専門学校ヲ早稲田ニ開校シ、政治経済学科・法律学科・英語学科・理学科ノ四学科ヲ設ケ国語ヲ以テ教授ス。但シ生徒研究ノ便ヲ考慮シテ英語ヲモ兼修セシム。校長ニ大隈英麿、幹事ニ秀島家良、講師ニ高田早苗・天野為之他五人、議員ニ(後ニ評議員ト改ム)小野梓・前島密他七人任ゼラル。開校当時入学生数ハ十余名ナリシモ、理学科ハ学生数余リニ僅少ナリシタメ、十七年廃止セラル。
     明治二十三年九月 新ニ文学科ヲ設ケ、二十四年九月ニハ教務ヲ改メテ政・法・文ノ三学部ニ分チ、各部トモ教務・会計ヲ独立セシメ、担任講師中ヨリ専任教師ヲ置クコトニス。
     明治二十六年八月 二学年制研究科設置ヲ公表ス。同年十二月指定法律学校トナリ、更ニ二十八年十一月文学科ニ研究科ヲ開設ス。
     明治二十八年十二月 年来ノ懸案タル尋常中学校設立ノ件決定セラレ、愈々翌二十九年一月早稲田中学ヲ創立スルニ至ル。
     明治二十九年九月 大隈重信、松方内閣ノ外務大臣ニ就任シ、翌三十年四月十四日東京専門学校ノ臨時評議員会ガ霞ケ関ノ大隈外相官邸ニ開カレ東京専門学校ノ早稲田大学ヘノ改造案提議サル。開校以来ノ理想ヲ実現セシムル運動愈々表面化シ、之ヨリ諸準備活動盛トナル。
     明治三十年八月 早稲田中学校ノ校舎竣成、十月九日新築落成式挙行セラル。生徒数ハ、五百余名ニ達シ、校長ニ大隈英麿、教頭ニ坪内雄蔵任ゼラル。
     明治三十一年十月 本校ヲ社団法人トナシ、東京府庁ニ認可願ヲ提出シ十二月認可通知ニ接ス。社員ハ大隈英麿(後ニ辞退)・鳩山和夫・高田早苗天野為之・坪内雄蔵・市島謙吉ノ六人、後ニ大隈信常・田原栄加ハル。
     明治三十三年六月 大学部設置ノ議ヲ決シ、将来大学部・専門部ヲ併置
 - 第27巻 p.99 -ページ画像 
スルコトトシ、専門部ハ中学校ト直接聯絡セシメ、大学部ハ中学校卒業程度ノ者ヲ高等予科一ケ年半ノ課程ヲ経テ入学セシメルコトトシ、学則ノ認可ヲ文部省ニ出願ス。
     明治三十四年一月 大学部設置願書ヲ東京府庁ニ提出ス。同月社員会ヲ開イテ大学部ノ組織及ビ基金募集ノ件ヲ議シ、更ニ校友大会ヲ開キ、高田学監カラ新施設新計画ヲ報告ス。
     明治三十四年四月 新学則ニ依ル高等予科授業開始ス。ツイデ早稲田実業学校開校式ヲ挙グ。
     明治三十五年九月 文部省告示第一四九号ヲ以テ、東京専門学校ヲ早稲田大学ト改称スルノ件認可セラル。
     明治三十五年十月十九日 創立二十年ノ紀念会ヲ兼ネ組織変更後ノ大学開校式ヲ挙行ス。新学制ハ大学ノ部門ヲ大学部・専門部・高等予科・研究科ニ四大別シ、更ニ大学部ハ政治経済学科・法学科・文学科ニ区分セラレ専門部ハ政治経済科・法律科・行政科・国語漢文科・地理歴史科・法制経済及英語科ノ六科ニ区分セラル。
     明治三十六年四月 商科大学新設認可ヲ受ケ、同時ニソノ高等予科ヲ開設ス。翌三十七年九月商科大学始業式ヲ挙行ス。
     明治三十八年九月 普通科・優級師範科ヨリ成ル、清国留学生部ヲ開始ス。
     明治四十年一月 校友会開催セラレ、ソノ席上二十五周年祝賀式開催ノ件及ビ大隈銅像建設ノ件決セラル。
     明治四十年四月 維持会席上ニ於テ在来ノ社団法人ヲ財団法人トナスコト、総長・学長ヲ置キ校長ヲ廃スルコト、維持員数ノ増加、其他ノ校規改正決定セラル。
     明治四十年十月二十日 銅像除幕式及ビ創立二十五年記念式典挙行セラレ、理工科及医科ノ新設ヲ目的トセル第二次拡張計画発表セラル。(早稲田大学出版部編纂「半世紀の早稲田」(昭和七年)・早稲田大学編輯部編纂「創立三十年記念早稲田大学創業録」(大正二年)ニ拠ル)