デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

5章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
2款 東京経済学協会
■綱文

第27巻 p.267-280(DK270094k) ページ画像

明治20年12月17日(1887年)

是ヨリ先、田口卯吉、東京経済雑誌社同人及ビ大蔵省官吏・学者等ト相謀リ、経済事情ノ討論・演説・調査等ヲ目的トセル会ヲ設立シ、東京経済学協会ト称ス。栄一、当会ノ趣意ニ賛シ当会会員トナリ、是日九段坂上富士見軒ニ於テ開催セラレタル十二月例会ニ臨ミ、演説ヲナス。


■資料

中外物価新報 第一七一六号 明治二〇年一二月二〇日 経済学講習会(DK270094k-0001)
第27巻 p.267-268 ページ画像

中外物価新報  第一七一六号 明治二〇年一二月二〇日
    経済学講習会
同会にては去る十七日午後六時より例会を富士見軒に開きしが、会員の出席五十名計りにて、今回は渋沢栄一・益田孝・前島密等の諸氏にも臨会ありたり、当夕は別項に記せる如く、阪谷氏には銀貨問題に付松方大蔵大臣下問の意を述べ、渋沢栄一氏には二個の問題を発議されたり、其一は農業の事にして、則ち現今我邦の農業は商売・工業・運輸の進歩に後るゝこと数等にて、商売・工業等は不充分ながらも日に月に改進しつゝあるも、農業に至ては全く然らず、今も昔も依然たる同様の有様にある者の如し、故に若し此儘に打去る時は農商工の釣合愈々懸隔して国家経済上非常の不利に陥るの恐あれば、之が救済の策を講すること最も大切なりと云ふに在り、其二は則ち通貨問題にして近頃の銀貨下落は僥倖にも我が輸出を奨励したり、然れ共若し今後通貨増殖して物価騰貴し、且つ各種買入もの等の為め益す輸入を増加し遂に出入の平均を失ひ、其途端に愈々銀貨低落するが如き事あらんには、商工業寔に由々しき大事なる故、予め之を今日に講究せざるべからずと云ふに在り、又益田孝氏にも国運進捗の問題に付きて演説ありたり、其要旨は欧米今日の富強を致したるものは、種々の機関に依り且つ其精神・気力の然らしむるものなりと雖も、要するに学者と実業者と相密着して互に誘掖補導するに在り、現に本年英皇五十年祭の祝典を兼ね英国マンチエスターに開きたる博覧会には、夫々分科を定めて専門学士を委員に充て、各々其専攻したる所を以て実業者に説き、実業者は直に之を実際に応用する抔、互に相抱合して富強を勉むるが故に、其方法に順序あるのみならず、其根本甚だ鞏固なり、然るに我邦が此二十年間に為したる進歩は、各国歴史に於ても殆んど稀有の事例なれど、更に一歩を進めて、今後我が進歩の速力は今日迄に為したるが如き割合を以て進むものなるや、又右と同一の割合を以て進み得ざるも、海外各国と同様の比例にて進み得べきやと云へば、此等は甚た疑はざるを得ざるものあり、故に今日の要は、学者と実業者が互に相密着して富の進歩を図るに在り、即ち学者は将来に施行すべき事柄に付き充分に利害得失を調査し、以て毎に実業者を指導し、其方向を
 - 第27巻 p.268 -ページ画像 
誤らしめざるに在のみ、経済学講習会は実に此大任を負へるものなり云々との説なりしが、夫より種々談話の末、全く解散したるは午後十時頃なりき


東京経済雑誌 第一六巻第三九九号・第八六六―八六八頁 明治二〇年一二月二四日 ○経済学協会の十二月例会(DK270094k-0002)
第27巻 p.268-270 ページ画像

東京経済雑誌  第一六巻第三九九号・第八六六―八六八頁 明治二〇年一二月二四日
    ○経済学協会の十二月例会
経済学協会は去十七日夕富士見軒に於て例会を開きたり、来賓には渋沢栄一・前島密・益田孝の三氏ありて、且本年納会の事にしあれば会員の出席も甚た多かりき、会食の際会員岩崎小二郎氏は、学者と実業家と相共和して日本経済の為めに互に尽力せんことは余の宿望にして曾て本会創立の当初に此趣意を演述して、将来必す玆に至らんことを期望したるに、今夕は稍々此宿望を達せんとする乎の摸様あるを見て頗る欣喜に堪へず、即ち渋沢・前島・益田三君の賁臨を辱ふし、玆に学者・実業家相調和するの端を開きたるが如し、故に将来益々親密を厚うし、相共に国家経済の為めに謀るあらんこと切に望む所なりとの旨を述へ、会員に代りて三氏の臨会を謝し、次きに会員阪谷芳郎氏は本会の為めに甚た栄誉ある報道を致す可し、即ち大蔵大臣より銀貨下落疑問に関して、本会に下問を伝ふ可き旨の委嘱を受けたれば、其下問の趣意を陳述す可しとて
 頃日大蔵大臣と談話せし際、大臣偶々本会の事を尋ねられしを以て余は之に答て我経済学協会の組織を述へ、本会は原と主義もなく党派もなく、唯経済学に熱心なる者は何人を問はず相会して経済上の事を講究する者なれば、会員中には学者もあり、実業家もあり、官吏も新聞者記者も代言人も、自由党も帝政党も悉く相混和して隔意なく談論し、而して各会員は互に本会に因て得し所を其職業上に利用し、甚だ有益愉快の会なる旨を述へしに、大臣も大に之を賞讚せられ、且申さるゝ様、なれば余も其会に向て望み度き事あり、抑々現今我国の経済上銀貨下落の疑問より大なるはなく、折角に銀紙平均したりとは云へ、若し益々銀貨の下落するあれば、政府の徴する租税ハ名額ハ同しきも其実価ハ大に減少し、且外国に対する仕払上莫大の損失あるを免れず、而して斯かる政府理財上の損失は姑く之を二段に置くも、之が為めに全国農商工の蒙むる影響は甚た大なるざるを得ず、故に幸ひに今ま足下の申す如き会あれば、其会に於て右の疑問を調査致し呉るゝ事ハ出来ましきや、且本省に於ても此問題に関してハ疾くより調査し居れば、其材料の公けにして不可なき分は下附す可しとありしゆゑ、余ハ更に之に答へて、大臣の今まの下問に対し、本会員が如何に答ふるかハ固より知る可からずと雖も兎に角に余に於てハ、本会の為めに甚た栄誉あることと信するに付き、次会に於て之を衆員に謀る可しと述へ置きたり、因て今ま右談話の次第を述べ、大蔵大臣下問の趣意を諸君に報道す
と述べたり、其より会食後渋沢栄一氏の演説ありしが、其要旨は
 余は素より学者にもあらず、弁士にもあらざれば、斯かる場所にて演説するは甚た迷惑なれども、幸に本会は経済学者の集会せらるゝ所なれば、平生僕の疑ひ居る所を陳述して諸君の高説を仰く可し
 - 第27巻 p.269 -ページ画像 
 其疑ひ居る件々ハ甚だ多き事ながら、先づ試みに其一を挙くれば、我国農業の有様是れなり、維新以来我国の商工ハ、駸々として十分に進歩したりとハ申し難きやも知れすと雖も、要するに之を農業に比すれば遥に進歩し、而して農業も全く進歩せざるにはあらざる可けれども、要するに之を商工に比すれば遥かに後れ、他の事業と農業との懸隔は実に甚しきにはあらざる乎、拙者の従事し居る銀行事業に就きて一例を挙くれは、維新前ハ大坂に送金するに百円に付五六十銭の入費を要したるに、今日は高きも五銭若くは三銭位にて足れり、而して斯く入費の減少したるハ、以て其機関の進歩したるを証す可く、其他運輸なり通信なり、何れも大に面目を改めたり、工業の如きも今日に於て最も尽力せざる可からさるハ勿論なれども、是れ亦多少進歩せし事なるに、独り農業に至てハ殆と維新前の有様と異ならざるが如きハ抑々何の故ぞや、斯く農業と他の事業との進歩懸隔する時ハ、為めに非常の大弊害を生するに至らざる乎、是れ余の常に疑ひ居る点なり、故に之が原因如何、之が救済法如何に関して諸君の講究を煩はすを得は、実に幸の至りなり
 且序てなから今ま一の疑ひ居る点を申上く可し、近日友人某と会し談偶々我経済上の事に及ひし節、某の申すには近時銀貨の頻りに海外に輸出するは抑々何故ぞ、憶ふに今日銀貨平均したりと雖も、昨十九年一月紙幣兌換を創始するに当りては、少しく無理なる事情ありしにはあらざる乎、当時尚ほ銀紙の間に十幾銭の差、彼れ是れ二十銭近くの差ありしを、強ゐて抑へ付けし如き事情あるにはあらざる乎、且日本銀行兌換券の増発せられしと銀紙平均せしが為めに、是れまで隠れ居し正貨の世に出てし等の為めに、我通貨の増加せし如き趣あるにはあらざる乎、即ち度に於てハ固より大小の差ありと雖も、明治十二・三年紙幣増発の時と略ほ類したる傾向あるにてもあらざる乎と杞憂せしに因り、拙者ハ之に答へて、明治十九年紙幣兌換を創始せられしハ機運の既に熟せしにて、決して無理なることありしにはあるまじ、且内国の通貨増加するとも、大蔵省にても日本銀行にても固より十分の用意ある可ければ、決して憂ふる程の事ハあるまじ、唯拙者の考へにては更に大に憂ふ可き事なきにはあらざる乎と、私かに疑ひ居る事あり、其は只今も大蔵大臣より下問ありし如く、金銀相場の動揺是なり、我国兌換創始以来は、丁度銀貨益々下落せしが故に輸出を促し輸入を制し、輸出入の権衡甚しき差なきのみならず、反て輸出、輸入に超過するを得たりしも、万一此銀にして騰貴するあらば如何ぞや、内にハ漸くに振起せんとするの有様なる商工業も、銀貨騰貴し物価下落せば忽ちに其頭を抑へられ外にハ近年来増加したる輸出も為替相場騰貴して其勢を挫かるゝあらバ、其時こそハ所謂るパニツクとか称する者を起し、非常の攪擾を起すことあらざる可き乎、故に大蔵大臣の下問の如く今日の銀相場の原因及び其将来の成行如何を調査するハ、最も緊要なる点として、本会に於て之を調査あらんことを望むなり
終りに渋沢氏ハ本会の甚た日本の為めに有益なるを述べ、且学者と実業家と相調和するの必要なるを説き、及ばずながら拙者も今回より会
 - 第27巻 p.270 -ページ画像 
員に列して益々本会の拡張に尽力せんことを述べられたり、次ぎに益田孝氏の演説ありて、其要旨ハ
 段々諸君の演説ありしか如く、学者と実業家と相和合するハ実に我国の急務にして、此事に関してハ曾て渋沢君とも協議せし事ありしが、如何せん学者は実業家を以て取るに足らずと為し、又実業家が学者を以て空論家と為し、互に相疎んずるハ最も痛歎す可し、是れ蓋し其責ハ双方に於て免れざる所ならん、然るに本会の如きあるハ甚た幸の事にして、今後益々其規摸を拡張し、普ねく学者・実際家を網羅し、互に相益するは最も願はしき事也、現に海外に遊びて其事情を目撃するに頗る感す可き者あり、英国にはブリツチシ・アツソシエーシヨンと称する学士会ありて、互に其の専門とする所に従ひ部門を分ち調査講究に従事する事なるが、丁度余の滞在中マンチエスターに於て其会合ありしを以て、余も臨席して其景況を視察したるが、各々其専攻する問題を演する事なれば、長くて綿密で随分聴き飽くの思ひなきにあらざれども、而かも最も余の感したるハ、学者が勉めて空に走るを避けて成る可く実業家に裨補あらんことに熱心し、又実業家も之を疎んせずして勉めて其指導に従はんことを求め、学術と実際とが相調和せしこと是なり、是れ余の最も欣羨せし所にして、我国に於ても何卒斯くあり度き事と思ふなり、且我国維新以来の進歩ハ、世界無比なりとして西洋人も舌を捲く所なるが此際に於て斯く我進歩を驚歎する西洋諸国の進歩は果して如何なりしか、又将来我国の進歩は、西洋諸国に比して果して如何ある可き乎、是実に一大問題なり、固より西洋諸国は是れまで進みに進み慣れしことなれば、其惰力よりして其進歩の勢ハ極めて迅速ならざるを得す、之に反して、我国ハ是れまで止まり居し車を新たに運転せしむる者なれば、此相違は能く斟酌せねばならぬ事なり、然れども我国の進歩が、何時までも西洋諸国の進歩に及ふ能はすとありてハ竟に如何とも致し難し、仮令ひ西洋諸国には及はずとするも、責めては近隣諸国と同様に進歩せざる可からず、然るに濠洲なり、印度なり、香港なり、一たひ英人の有となりし国は、其商況を見るも、其消費する石炭等より考ふるも、駸々として長足の進歩を為し、迚も我国の及ふ可きにあらざるが如し、然れども及はずとて之を今日のまゝに放棄せは、終に我国を如何せんや、故に此等の点は、本会会員の最も講究あらんことを願ふ所にして、要するに学者・実業家の互に相容れて、我国将来の進歩を謀るは、最も緊要なる所なりと信す
其れよりして大蔵大臣及ひ渋沢氏より諮問ありし問題を調査する方法に関して、会員中種々の議論ありしが、到底会員の意見ある者は次会に於て之を演述し、其上に於て更に調査委員を撰挙することに決し、十一時頃散会したり



〔参考〕東京経済雑誌 第一五巻第三五六号・第二四三―二四五頁 明治二〇年二月二六日 ○経済学協会(DK270094k-0003)
第27巻 p.270-272 ページ画像

東京経済雑誌 第一五巻第三五六号・第二四三―二四五頁 明治二〇年二月二六日
    ○経済学協会
東京経済学講習会は此度経済学協会と改称し、益々朝野の名士を集合
 - 第27巻 p.271 -ページ画像 
するの目的にて其規則をも改正せるが、去る十九日ハ改称後の第一会を富士見町富士見軒に開きしに、諸名士の新に入会ありし者甚た多く商業学校の教師なる白耳義国商業学博士マリシヤル氏にも来会せられ頗る盛会なりき、会食の際乗竹孝太郎氏の席上演説あり、次きに宇川盛三郎氏仏語を以てマリシヤル氏の来会を謝するの演説を為され、マリシヤル氏英語を以て之に答へられ、又田口卯吉氏ハ東京経済学講習会を送り経済学協会を迎ふと題する文を朗読したり、会食了り文学士阪谷芳郎氏の発議にて東京府家屋改良の議に関し討論あり、其他規則の相談等ありて十時頃散会せり、玆に田口氏の朗読せる文を掲げて読者の一覧に供すと云ふ
      東京経済学講習会を送り、経済学協会を迎ふ
 嗚呼我友愛なる東京経済学講習会よ 爾は今将に一変して経済学協会とならんとせり、是れ爾の年歯既に長し、汝の学識已に達し、従前の如き書生然たる名称の其性質に適せざることを証するものなり余は会員諸君が自ら其学識に高慢にして爾の如き書生然たる名称を嫌ひたるにあらざるを知るなり、世間か既に此書生然たる名称を以て会員諸君に冠するを許さゝるに至りしことを信ずるなり、余記す爾の初名は鷇音会と云ひしことを、鷇音とはヒヨツコの声なり、ヒヨツコ変して書生となり、書生変して偉丈夫となり、名称を変して経済学協会と称す、其の進歩亦た滑かならずや、然り而して今ま爾を送るに当りて熟々爾の一生を通考するに、甚た源三位頼政に類することを思惟せずんハあらざるなり、余之を聞く、頼政の官に居るや久しく四位に居りて進ます、是に於て歌を詠して歎して曰く「登るべき道しなければ木の下に椎子《しい》を拾ひて世をわたるかな」と、爾の世にあるや、種々の会勃興せり、而して其会長には親王・皇族あり、其会員には勅奏任官・華族ありて、金紫粲然栄華を極めたり、猶ほ平氏の盛なりし時の如くなりき、然るに爾は此時会長を置かす幹事には襤褸を纏ひたる故石川暎作君を以てし、会員の中に最も富貴無双と称せらるゝは岩崎小二郎君一人に止まりたり、余は記す、爾の一生の間に招待したる人は一人にして爾かも一度に止まりしことを、其人は誰ぞや、貧困と不遇とを以て有名にして、且つ自由貿易に熱心なりし故尺振八先生なり、余は記す、汝の会費は毎月廿銭にして此等の宴費は凡て共有資金の補助を仰きたりしことを、是れ豈椎子を拾いて世を渉りたるに同しからずや、然り而して頼政は鵺を射たる功あり、平家の子弟錦繍を重ぬと雖も斯の如き功あるもの一人もなし、爾も亦た鵺を射たりや、爾の鵺は則ちアダム・スミス氏富国論・スペンセル氏社会学之原理・ベーチホツト氏金融事情・ギルベルト氏古代商業史・ケーヤンス氏経済要義・マクレヲツト氏銀行論是也、然り而して泰西政事類典・大日本人名辞書の如き爾の名称を藉らずと雖も実は爾の力なり、何となれは之を大成したるは爾の会員諸君の力多けれはなり、爾と同時にありし会には此の如き功あるものなかるべし、是れ豈に爾の鵺にあらずや、然れとも頼政は彼の歌に因りて三位に登り、鵺を射て美人を得たり、汝の三位は如何ぞや、汝の菖蒲は何処ぞや、未だ来らざるに非ずや、然らハ則
 - 第27巻 p.272 -ページ画像 
ち、汝の運命は頼政よりも拙なかりしか、頼政は終に臨み歌を詠して曰く「埋れ木の花咲くこともなかりしに身のなる果は憫れなりけり」と、嗚呼爾も亦た終生埋れ木にして、花咲くことのなかりしものなり、然りと雖も頼政の死ハ、実に源氏をして関東に興隆せしむるの実を結へり、今爾の死も亦た東京経済学協会興立の端を開くものなり、今や会員も大に増加し、岩崎小二郎君も、独り富貴に誇るを得ず、今や会員は皆な洋服を着したる立派な紳士なり、今や会員には源の頼朝兄弟・大江の広元・武蔵坊弁慶・常陸坊海存・熊谷次郎直実・秩父の庄司重忠等の如き熱心家あるのみならす、弁には蘇張、デモセンスを驚かし、文には韓退之、マコーレーを泣かしむるものもあるなり、然らは則ち汝の運は頼政より拙しとするも、汝の結べる実は頼政より大なり、余何ぞ汝を送り経済学協会を迎ふるに当りて祝意を表せざるを得んや
  又同会の規則ハ左の如し
      経済学協会規則
 第一条 本会ハ経済学協会ト称ス
 第二条 本会ハ学理上及ヒ実際上ニ於テ経済学ノ進歩ヲ謀ルヲ目的トス
 第三条 何人タルヲ問ハズ、本会々員ノ紹介ヲ経ル者ハ会員タルヲ得
 第四条 幹事二名ヲ置キ、本会ノ諸務ヲ経理セシム
 第五条 会員ハ通常毎月第三土曜日ヲ以テ相会スル者トス
     但シ会場及ヒ会費ハ其都度幹事ヨリ通知ス可シ



〔参考〕東京経済雑誌 第一五巻第三七三号・第八二七頁 明治二〇年六月二五日 ○経済学協会の六月例会(DK270094k-0004)
第27巻 p.272-273 ページ画像

東京経済雑誌  第一五巻第三七三号・第八二七頁 明治二〇年六月二五日
    ○経済学協会の六月例会
同会にては去る十八日(第三土曜)午後六時より富士見軒に於て例会を開かれたるが、当日の来会者は殆んど三十名にして、会食将に終らんとせし時来賓田尻稲次郎君起て、先づ本日此席に招待を受け辱き旨を謝し、且当会に向て聊か冀望する所を演述すべしとて、同君は兼て経済学協会の成立ちに付き聞き及ばれし所より説き起し、元来当会は最初経済学講習会と称し、専ら経済学を講究せられし場所なりしが、追々諸君の学識進むに従ひ、講習会と云ふは何やら書生の集り所めきたる様なりとて、先頃より今の会名に改められたる由なれば、今之を人に譬へて見れは少年が漸く成人して元服したるが如し、されば今の諸君は昔の少年にあらすして大人たるが故に、又た大人たるの挙動を世間に向て示さゞるべからず、而して之を示すの手段に至りては固より諸君の考案も数多之れあるべけれども、先づ差当り余の考ふる所を以てすれば、彼の欧米諸国に行はるゝ諸学術協会に傚ひ時事に適切なる経済上の問題数種を選び、会員中各其担任の部を設けて之れが取調べをなし、春秋二期の集会に之を提出して各員互に之を査察し、其佳なるものを取りて印刷に付し世に公にせば、其利益必す尠なからすして、諸君が本会を設けられたる目的を達するの一手段ともなるべしと信ずるが故に、愈々此事の行はるゝに至らは、小生に於ても幾分か助
 - 第27巻 p.273 -ページ画像 
力すべし云々と演説せられたり、依て田口卯吉氏答辞をなし、且今田尻君の述べられたる所は本会に取り金玉啻ならさるの賜ものにして、兼て余輩の冀望せし所なれば、満場諸君に於ても賛成ありて速に此事の実行せられんことを冀望する旨を述べしに、一同々意にて次会に於て其手続を議する事になし ○下略



〔参考〕東京経済雑誌 第一六巻第三七七号・第一〇七頁 明治二〇年七月二三日 ○経済学協会の七月例会(DK270094k-0005)
第27巻 p.273 ページ画像

東京経済雑誌  第一六巻第三七七号・第一〇七頁 明治二〇年七月二三日
    ○経済学協会の七月例会
同会は去十六日夕(第三土曜日)富士見軒に於て開き、例の如く会食の前後に種々経済上の事に関する談話あり、且前会田尻稲次郎氏より発議ありたる、委員を設けて経済上重要の疑問を調査せしむるの件を議せしに、満場異論なく之を可決し、春秋二回に我国に最も適切なる問題を択み、委員を設けて之を調査せしめ、可なる者は之を刊行して世に頒つこととなれり、又此外各会員に於ても随意に其緊要と信する問題を調査して、意見を演説し、可なる者は同会に於て刊行す可し、就てハ来春までに調査す可き者として田尻氏・田口氏等より数箇の問題を出されしが、尚ほ各会員にも其緊要を信する問題を出たし、其取捨は次会に於て衆議を以て決することとなれり、又同会は暑中に際し追々会員の避暑・帰省等の為めに地方に散する者少なからざれば、八月ハ休会となし九月より例の如く毎月第三土曜日を以て開会すと云ふ



〔参考〕中外物価新報 第一七一六号 明治二〇年一二月二〇日 大蔵大臣、銀貨問題を下問す(DK270094k-0006)
第27巻 p.273 ページ画像

中外物価新報  第一七一六号 明治二〇年一二月二〇日
    大蔵大臣、銀貨問題を下問す
近来民間に於ても銀貨濫出の議論漸く喧しきに連れて、世人が此の問題に注目する事も一層深きを加へたるが、今後世界に於ける金銀の釣合は如何に成行くべきや、又銀貨の将来は如何と云ふの問題は、各国共に等閑視すべからざる重要事件にて、殊に銀貨の一高一低は直接に我邦の理財上に大関係を及すものなれば、其筋に於ては特に委員を設けて此の調査に着手されたるやに聞きしが、今度又松方大蔵大臣には此の銀貨問題を経済学講習会へも下問したしとて、其会員たる主計官阪谷芳郎氏をして其旨を同会へ伝へたり、右に付き同会にては来年一月第三土曜の通常会日を期して随意に其所見を演べしめ、其上にて更に調査委員をも設くる手筈なりと云ふ



〔参考〕竜門雑誌 改号前第九号・第一五―一七頁 明治二〇年一二月 ○渋沢君経済学者を招待す(DK270094k-0007)
第27巻 p.273-276 ページ画像

竜門雑誌  改号前第九号・第一五―一七頁 明治二〇年一二月
    ○渋沢君経済学者を招待す
渋沢栄一君は楓紅の節を幸とし、去月二十三日午前十一時より和田垣天野・阪谷・土子・添田・浜田・犬養・森下・中橋・嵯峨根の諸氏、所謂る府下の経済学者なるもの二十余名を王子別荘に招きて園遊会を催ふされたり、此日は穂積陳重氏・第一銀行の佐々木勇之助・経済雑誌社の田口卯吉氏も来会ありたり、恰も一天雲なきの快晴にして、紅黄相映するの景色ハ、府下の塵境を距る千里の心地あらしめたり、園中には辻店を設けて煮込の饗応ありたるは一風流なりき、其れより小さんの落語ありて、来客一同抱腹解頤せしめたり、了りて西洋園の六
 - 第27巻 p.274 -ページ画像 
角堂に於て立食の饗応あり、来客の頰は楓よりも尚ほ紅にして談笑の声始終絶へす、其れより滝の川の紅葉へ案内し、帰途製紙会社を一覧して帰れり、日は漸く西山に入らんとし、夕陽の景云ふ可からす、既にして広間に燭を照し、一同座に就くや、渋沢君は左の如く演述ありたり
 今日来会ヲ煩ハセシ諸君中、予ネテ交誼ヲ辱フセシ諸君少ナカラサレトモ、又始メテ拝眉ヲ得タル諸君モ多シ、斯ク遠路ノ光来ヲ請ヒシハ別ニ是レト申ス理由アルニハ非ラサレトモ、平生拙者ハ実業ニ奔走シ、而シテ諸君ハ専ラ学理ノ講究ニ従事セラルヽ方々ナレハ、実業上ノ御話モ致シ、学理上ノ御話モ伺ヒ、御友誼ヲ結ヒ置キ度シトノ所存ナリ、就テハ数日前偶々此別荘ニ於テ数名会シタル節、某貴顕ハ問ヲ起シテ申サルヽ様、方今通信・運輸・融通等学理ノ誘導ニ基ク者ハ駸々トシテ進歩スルノ有様ナルニ、実際商業社会ノ有様ハ果シテ之ニ応シテ善方ナルヤ、抑モ又悪シキ方ナルヤト、拙者之レニ答エテ申スニハ、元来不景気既ニ去リタルヤ、景気恢復ノ兆アルヤハ頗ル困難ナル御問ニシテ、或ハ好景気ナル者アリ、或ハ不気配ナル者アリテ、一般ニ何レトハ断シ難カル可シ、併シ概シテ之ヲ云ハヽ少シハ好景気ニ向ヒシ方ト申ス可キカ、然レトモ斯ク申スノミニテハ漠々タル空談ニ過サル事ナルカ、近クハ此王子ノ製紙場ノ如キ、明治七八年ノ頃ニ漸ク竣工シタルカ、何分ニモ創業ノ事ナレハ、職工ハ熟練セス、万事不整頓ニシテ損失ヲ免レス、然ルニ此際恰カモ政府ニテハ地券下付ノ議ニ決シタルカ、まさかに従来ノ奉書紙ヲ用ユ可キニアラサレハトテ、其用紙製造ノ命ヲ受ケタリ、是レ云ハヽ一ノぱてんとヲ得タル姿ニテ、之カ為メ不熟練・不整頓ナルニモ拘ラス、漸クニ工場ノ経済ヲ維持スルヲ得タリ、然レトモ、此仕事モ九年ヨリ十一年頃マテニテ悉皆了リタルカ、扨テ此ぱてんと了リテハ、我和製紙ハ又廉価ナル舶来紙ト競争スル能ハス、当時工場支配人ノ申スニモ、此有様ニテ続テ製造ヲナサハ、月々約ソ三千五百円、一年ニハ莫大ノ損失アルヲ免カレス、製造スレハ必ス此損失アリ、製造ヲ停止セハ此損失ヲ免カルヽ丈ケノ利益アリ、如何ニ致ス可キヤト申セシニ因リ、拙者答フルニハ、是レ致方ナシ、仮令ヒ損失スルモ先ツ数年ハ試験シ、其上ニテ弥々立行カサレハ其時ニ至ツテ製造ヲ廃止ス可キノミト答ヘ、損失ヲ冒カシテ製造ヲ行フ事ニ決シタリ、然ルニ偶々紙幣増発、為メニ洋紙大ニ騰貴シ、従来一ポンド八銭ナリシ者カ遂ニハ十四銭ニマテ至シリカ故ニ、工場ノ経済モ之カ為ニ立行ク事ヲ得タリ、然レトモ増発アレハ又償還ナキ能ハスシテ、反動ノ激変ヲ免カレス、故ニ十五六年物価ノ益々下落スルニ当テハ再ヒ困難ニ遭遇セシカ、此損失ヲ補フニハ唯仕事ノ出来高ヲ増シテ、所謂数デコナスノ外ナシ、故ニ一方ニ於テハ相場益々下落スルニ従ヒ、一方ニ於テハ益々仕事ノ分量ヲ増シテ之ヲ補ヒ、すたちすちつくニ取リテ見ルト、余程面白キ結果ヲ呈シ、仕事益々増加スルニモ拘ハラス、相場亦益々下落スルカ為メニ、利益ハ常ニ同シト云フノ有様トナレリ、然レトモ洋紙ノ需要ハ早晩増加セサル可カラスト思ヒシ程ニハ増加セスシテ、数年間ハ右申ス如キ姿ナリ
 - 第27巻 p.275 -ページ画像 
シカ、漸ク昨冬ニ至リテ増加ノ兆ヲ現ハシ、今春ニ至テハ俄然増加シテ払底ヲ極メタリ、而シテ日々ノ製造高ハ初メハ三千五百ポンド乃至四千ポンドナリシカ、熟練ノ加ハヽルニ従ヒ漸々増加シ、遂ニ今日ニテハ一万ポンドニ達シ、最早ヤ洋人ヲ使フモ此上ニハ出テマシト思フマテニ至レリ、而シテ斯ク洋紙ノ需要増加セシハ別ニ特著ノ原因アルカト申スニ、決シテ左ルニテハナク、つまり一般ニ洋紙ノ用方増加セシニ外ナラス、是レ固ヨリ一班ノ景況タルニ過キスト雖トモ又タ以テ商況ノ稍々好気配ニ向フノ一端ヲ徴ス可キカ、云々ヲ以テ貴顕ノ問ニ答ヒシニ、貴顕申サルニハ、足下ノ答ハ余ノ問フ所ト齟齬セリ、余ノ聞カントスル所ハ、通信・運輸・融通ノ機関等ノ益々進歩スルニ従ヒ、実業物産ノ之ニ応シテ進歩スルヤ否ヤ、若シモ実業物産ノ之ニ応シテ進マサルアレハ、遂ニハ夫ノくらいしすトカ、ぱにつくトカ申ス大凶害ヲ起スナキヤト云フノ点ニアリ云々ト、因ツテ拙者又答ヒテ申スニハ、其儀ナレハ成ル程丸テ別問題ナリ、此点ニ就キテモ拙者夙ニ疑ヒ居ル事アリ、神戸・大津間ノ鉄道ノ景況ヲ聞クニ、創業以来十四年マテハ荷物・乗客益々増加シ来リシカ、此年カ頂点ニテ、其後ハ頻年益々減少シ、本年ニ至テハ未タ完キ統計ヲ得サレトモ、最低点ヨリハ幾分カ恢復セリトノ事ナリ、然ルニ之ニ反シテ東北ノ鉄道ハ固ヨリ線路延長シタルニ相違ナシト雖モ、其延長セシニ比スレハ、荷物乗客ハ一層増加シタルカ如シ、然レトモ鉄道架設ノ初メコソ斯ク増加スルモ、此増加ハ永続ス可キヤ否ヤ、或ハ神戸・大津間ノ鉄道ト同一ノ運命ニ帰スルノ日ナキヤ否ヤ、是レ拙者ノ疑ヲ懐ク所ナリ、之ニ就テモ兎ニモ角ニモ今日ニ勉メサル可カラサルハ、農業ノ改良ニアリ、然レトモ徒ラニ改良ト称シ機械ト称スルモ、之ニ因テ利益ヲ得ル明証ヲ示サヽレハ、天下何人モ之ニ就ク者ナシ、左レハ曾テ北海道庁長官ヨリ同道開拓ノ事ニ関シ種々協議アリシ節、拙者ノ更ニ望ム所ハ一ノ農業会社ヲ起シ北海道ノ最モ便利ナル土地ニ大耕法、即チ機械耕作法ヲ施シ、果シテ利益アルノ明証挙レハ之ヲ内地ノ牧草地ニ及ホシ、漸次全国ノ農業ヲ改良セン事ヲ望ム旨ヲ述ヘ、諸紳商トモ此事謀リシニ、試験ノ為メニヤル可シト云フ者モアリタレトモ、空論ナリトテ大不同意ナル者アリテ、未タ実行ノ場合ニ至ラス、云々ヲ以テ答タリ、貴顕ト此話ヲ為セシ時ニハ、予ネテ一日経済学者諸君ト相会セントノ心組アリシヲ以テ、此問題ハ諸君ニ提出シテ其御意見ヲ尋ネテ見ハヤト申セシニ、貴顕モソハ面白カラント、大ニ賛成アリシ故、今日諸君ノ来臨ヲ辱フセシヲ幸トシ、偶然ニ起リタル右ノ問題ヲ述ヘテ諸君ノ熟慮ヲ仰カント欲ス、拙者曾テ官ヲ辞スル時、人ニ明言シテ曰ク此渋沢栄一ハ必ス日本商人タル者ノ模範ヲ造ラント、及ハスナカラ今日ニ期スル所モ亦斯ノ如シ、拙者ハ固ヨリ学識アルニ非ラス、商機ニ熟セルニ非ラスト雖トモ、銀行ナレハ又当リ得サルニ非ラスト信シ、先ツ銀行ヲ起シ爾来事業ノ新ニ起ル者ハ、其大小ヲ問ハス直接・間接ニ殆ト与カラサルハナク、余若クハ半ハ直接ニ管理ス可キ事業ノミニテモ十ヲ以テ数フ可シ、是レ辞官ノ時ノ初念ヲ貫カントノ精神ニ出テ、如何ニモシテ日本ノ事業ヲ進奨セント欲スレハナリ
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然レトモ拙者ハ何事業ヲ問ハス独リスルヲ好マス、又敢テ秘スルヲモ欲セサレハ、一トシテ人ト共ニセサルナシ、此事ノ巧拙ハ議論モアランカ、兎ニ角ニ拙者ノ流儀ハ斯クノ如クニテ今日マテ来レリ、斯ク一身ヲ帰シテ実業上ニ奔走スルカ為メ、多少実験上悟リシ所ナキニアラスト雖トモ、凡ソ事物一面ノミヨリ観レハ必ス僻見謬説ニ陥ラサルヲ得ス、故ニ拙者等ノ実験ト、諸君ノ学理上ノ講究トヲ相合シテ、日本ノ富栄ヲ謀ラン事是レ拙者平生ノ願ナリ、因テ突然ナカラ右某貴顕ト物語リシ次第ヲ述ヘテ、諸君ノ高諭ヲ仰カント欲ス云々
渋沢君の此演述に就きては批評紛出し、俄かに一箇の討論場を現出したりしが、喋々の議論も遂にしやれ哲学を以て有名なる某来客の最と面白き滑稽話の為めに圧倒せられ、更に晩餐の饗応ありて、一同退散せしは八時頃なりき
   ○右掲資料ハ経済学協会ニ直接関係ナキモ、全ク無関係ニモアラザルモノノ如シ。ココニ参考トシテ収ム。



〔参考〕東京経済雑誌 第一九巻第四五三号・第四七―五〇頁 明治二二年一月一九日 ○東京経済学協会の沿革と予輩の希望 宇都宮経済講話会に於て(一月十二日) 伴直之助 演説(DK270094k-0008)
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東京経済雑誌  第一九巻第四五三号・第四七―五〇頁 明治二二年一月一九日
    ○東京経済学協会の沿革と予輩の希望
            宇都宮経済講話会に於て(一月十二日)
                      伴直之助 演説
我か敬愛する宇都宮経済講話会員諸君、私は今日諸君の前に、唯々泣き事を云ふ外に、殆んと考はありません、其の訳は兼てより今春はドーカ、繰合はして罷出度、心組でありましたが、真逆此十二日とは思ひませんでした、其れ故十一・十二両日は、既に他約を結びました、何ぞ計らん、幹事中村君よりは、此十二日に是非来いとの仰せ、若かも病気の外は、一切取上けぬとの厳談で、又た木村君からは、小山にて待ち合はすると云ふ御手紙か付き、実以て閉口、それに十一日は小田原に、大切な用向かありて、之も外づす訳に参らず、東京には夫々の用がありますれば、苦しき中を切り抜けて、やうやうと、昨朝未明に小田原へ参り、まだ宅へも戻らずに、当地へ罷り越しました、是より外に申上べき事は御座いません、とは云ふものゝ、諸君の愛情に絆されて、此会に関係した事を、少々陳べましよう
私かに考ふるに、当会は東京なる経済学協会の殖民地で御座りますれば、同会の沿革と私共の希望とを述べて、諸君の御参考に供し度と存じます、顧みれば明治十二年一月、東京経済雑誌が日本に生れました当時ハ僅かに毎月一回の発兌でありましたが、日本の社会に於て、経済界に旗幟を樹てたる雑誌は、是れが初めてでありましたれば、自から経済論の中心となり、世の経済学に志あるものが、時々玆に御来訪ありて、其中には立派に学問の出来る御方もありましたれば、一番討論演説会を起してはドーダ、と云ふ話しが始まり、よからう、賛成、と云ふ訳で早速に此議か纏まり、日曜などに十数名が経済雑誌社、即ち田口君の宅に集りて、演説の真似事を致した所が、其演説はヒヨツコの声の様だとの評で、田口君は之れに鵠音会と云ふ名を付け、鵠音の名を以て其の年の暮、神楽坂に公けの演説会を開らき、初めて斯の
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如き会の成立ち居ることと、其の希望とを公衆に示しました、明けて明治十三年の五月、同会と大蔵省の官員諸士が、兼て設けたる倶楽部と合併して、玆に経済談会と云ふ名を帯び、少しく半元服を致し、其の後ち段々立派な会員も入りしかば、会名を東京経済学講習会と改め且つ日本に経済思想を伝播せんには、一の学術雑誌を発兌するのが、必要であると認め、先づ欧米大家の書を翻訳出板することに決し、会員各々受持を定めてバジオツトの金融事情、ギルバートの古代商業史ケーンスの経済要義、スペンセルの社会学之原理、アダム・スミスの富国論及びマクレオツドの銀行論、等の書を翻訳出板して、意外に好果を得ました、且つ此翻訳の業の外に、討論会・講義会等も開き、又た時々会食を催うして、智識を交換し、懇誼を厚うすることは、矢張り従前の如く致し続き、以来此の有様にて、明治十八・九年まで年月を拾て参りました
元来翻訳の業は極めて面白からぬもので、殊に右に述べました書物は多くは浩瀚大冊のものでしたから余程間抜な人間でなければ、敢て之に当ろうとは思ひませんでしやう、左れば時事新報記者は曾つて其紙上に於て、「よくもよくも斯様な書物を根気よく、訳されたものだ」と申されました、私は至極尤千万の評と存します、夫れでも仕遂げた所か殊勝だと云ふ事ですから、訳者自身は満足して可かろうと思ひます
斯くて明治十九年、旧会員の欧米より帰朝致したもの数名ありて、其人々の話しと、新聞雑誌によりて見るに、英には英国学術研究会あり仏には経済学協会あり、米には米国経済学協会あり、英国学術研究会にては諸科学術の先生等が相ひ寄りて、各々其の専門の学術を研究し年々総会に於て其の研究の結果を報告したり、又は実際家の尋問に答へて、頗ぶる世の益を為すと云ふ事、仏国経済学協会にては此程に規則立たす、会則と云ふ程のものも簡単にて、会員には経済学者は勿論法律家・国会議員・行政官もあれば、銀行者・商人もあり、毎会々食を為し、討論講談、皆な時の必要に応じて、之を催うし、時としては外国有名の学者等を招待して、其講話を聴聞することあり、斯く簡単なる会なれども、彼の仏国の財政に大功を樹てゝ、芳名を欧米に轟かしましたる、経済学者レヲン・セー氏会頭となりて之を統べ、経済及び理財に関しては、或は国会の意見を支配し、内閣の議を左右するの権力を有すとの事、又た米国の経済学協会の目的は、経済上の講究を奨励し、経済上の論文を刊行し、経済上の講究に言論の自由を完からしめ、報告局を設けて会員の講究を助くとの四項目にして、実際上に於ては或は資本家と職工の軋轢を矯めたり、或ハ貨幣上の問題を議したり、科学上より実際に入り、議論を立法上・政略上にも及ぼし、又講究の項を勤労部・運輸部・貿易部・財政部・地方政府部・経済理論部・統計部に分ちて夫々専門の常置委員を置き、有名なる貨幣論の著者にして、米国の財政改革上に勲功あるサムナア氏之が統領たり、且つ此会ハ党派の異同を問はざること猶ほ英仏の協会の如しと云ふ
サテ東京経済学講習会は此等の事実を見聞して、自からの組織を顧るに、従来の仕来りか英仏米の諸協会に似寄りたるを喜びました、但し英の如く壮大でハなく、仏米の様に勢力はありませんが、大体は善く
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似て居て、唯々小サイ、と云ふ丈けで、所謂る体を具へて微なるものでありましよう、ソコデ経済学講習会は愈々此主義を拡張し、猶ほ広く経済上の有志者を得んと思ひ、講習会と云ふ名は我々書生にハ、丁度適当なるも、学校らしくして、世の名士・大家の会員たるときに於て、聊か失礼ではあるまいか、と云ふ議論で、遂に今日の如く、経済学協会と改めたことです、斯くて会員も次第に増し、博識の学士や、経験ある実際家や、卓見家、名望家、財産ある者、智恵ある者、随分数多くなりました
折しも昨年の春の事にてありき、我か大蔵大臣松方伯は、近年頻りに銀価の下落するを憂ひられ、其の事の世界に関する大問題たるに拘らず、未だ其の原因が分らない、世界の大学者・実際家にも分らない、故に英国にてハ、特に之れが為めに調査委員を置く位でありました、且つ銀の下落は東洋其他銀貨国に取りては、一方ならぬ損害で、特に日本などハ、年々外国へ払ひ出す公債利子のみにても、三十万円の差かありて、其の損失ハ皆な我々共か負はねばならぬ事故、松方大臣か此の原因を究めんとせらるゝは、御職務上然るべきことゝ思はる、大臣は思はるゝ様、此原因の調査を特に官に於て、為すときは、費用も多く掛ることであれば、幸ひ之を経済学協会に委任することが宜からん」と、則ち是の旨を或る会員に話され、会員は之を衆員に問ふて、愈々下問を受くることに決し、時を移さず委員数名を選びて、先づ第一回の報告書を大臣へ奉呈致しました、是挙は独り経済学協会の光栄なるのみならず、民間に成立つ所の学術会一般にも、斉しく其の栄を分頒することか出来ると思ひます
此他尚ほ栄誉とすべきは、政府にて勢力ある方々や、民間屈指の人々が、多く来られて、腹蔵なく高説を吐き、又た好みて会員の意見を聞かるゝことです、故に会員は益々勉励致し、自会の価値を高めて、世に尽すあらんとの志望を愈々確く致しました
当宇都宮経済講話会の会員諸君よ、斯の如き会は日本に必要てはありません乎、我か国は種々の点に於て、卑位に在る中にも、経済上の有様は最も悲むべきものであります、試みに全国の事業を見まするに、一私人の力を以て経営せるものは、幾何ありますか、実際に就て考ふるに、よし独力を以て起るものあるにせよ、一方に他力を恃むものがありて、此輩は気の毒にも後れを取る有様です、且つ独個の者は勿論其の他力を借るものとて、規模は大きくない様です、大く仕たくも、することが出来ないです、而して其の原因の重なるものは、理論家と実際家と一致共力しない訳であります、昨年或企業熱心家が屡々私を訪ひて、色々企業上の事を話しました、此人は十才の時日本を去り、十有余年の間、千辛万苦を経て、二・三の学校を卒業し、米国人の信用を受けて、桑港の土地開墾会社に入社し、同社の用を帯びて日本に来りましたのが昨年で、其の人の想像には、日本は立派な国であり、随分金もあり、事業も起すべき国であると喜び勇みて、帰朝せしに、その昔し、子供心に見たる日本と、実地企業の目的を以て実際に這入た日本とは頗る相違し、遂に種々計画の末、当人は失望の余、此次きは米国より資本を以て来る積りで、去臘再び同国へ渡りました、分か
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るゝに望み、私も日本の企業上の有様を述べて、坐ろに感慨に堪えませんでした、少しく海外の事情に通せらるゝ人は、必らず日本の貧乏で、弱きことを知らねばなりません、或人は外人と同しく勲章を帯び金「モール」を附け、善く舞ひ善く踊らるゝので、我の品位は外人に劣らずと思召されん、なれど国と国との力競べに於て、我は如何なる地位に居るやと考へたならば、ドーデしよう、又た金「モール」や勲章は如何に光り、舞踏は如何に妙えなるも、実力は之れが為めに進まず、国権は之れによりて伸びないと云ふに考か至つたならば、忽ち酔も醒め興も消えて、中々に飛たり跳ねたりして、日を暮すことは出来まいと思はれます、此間友人が印度女学士ラマバイの為めに義捐せよと促しましたから、私は日本こそ誠とに印度である、彼か憐むべきものならば、我か国も亦た憐まるべき地位に在るではないかと答へました、ビーコンスフヰールドが如何に智謀胆力あればとて、若し英国の実力なくは、伯林の会議に於て、「我に和戦の備あり」との硬語を発することは決して出来ません、左れは横から見ても、縦から見ても、御同様は愈々経済の道を講せねばならんではありません乎、殊に、我々は近々国政に参与せねばならぬ人民であれば、政治上の熱度は日々に増す許り、其間に党派か分かれて、或は争か生し、嫉妬も起り、随分劇しき騒が出で来るも計られず、又た或は議院が党派の討論場となり互に揚げ足を取り合ふて、肝要なる国事を外にするか如き憂ひなしとも云へず、左れど若し之に列する議員が経済上の思想に富み、愛国の情念深きときは、仮令ひ党派分れて百万に達するも、終に此の如き醜体はありますまい、凡そ議院にして一国の経済を進めんとの情盛なるときは敵党の意見も容るゝ量あり、我党員の議論も斥くるの勇あり、殊に一国の公敵を引受くるときは、国を挙げて一致同体、党派心を棄てゝ眼中唯々一の日本国あるのみ、との見識を以て護国の大任を尽すに至ること、猶ほ英人が其国に対するか如く、而して平生に在りては大に党派より生する弊害を避くることを得ることを確く信じます、予輩は十有余年の間だ実に此の希望を有する者であります、故に現在の会員には保護政策家あり、自由貿易家あり、自由保護混合の人もあり改進党と自由党と、保守党と、中立党と各々胸襟を開きて討論し、仏法熱心家と、耶蘇教の牧師と、唯一教の教師と相倶に坐し、官吏として枢要の地位を占むる者、民間に在りて世務に鞅掌する者、手を握りて談じ、其の情交の親密・快活なるは、恰かも青天の如く、又た春の日の様であります、就ては当宇都宮経済講話会も、ドーカ党派上の考はソレトシテ、有志の人々か多く打ち寄りて、真に日本の経済を講するの会とならんことを希望致します



〔参考〕田口鼎軒略伝 塩島仁吉著 第六頁 昭和五年五月刊(DK270094k-0009)
第27巻 p.279-280 ページ画像

田口鼎軒略伝 塩島仁吉著  第六頁 昭和五年五月刊
    ○第四章 東京経済学協会の設立
鼎軒は明治十三年五月、東京経済雑誌社の同人及び社友諸氏と相謀り討論演説及び講義を以て、経済上の真理を講究せんとて、一会を設立し、之を経済談会と称して、毎月二回宛開会した、当時我が邦に於ては、演説の会討論の社は、頗る盛であつたが、経済専門の会は未だ一
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もなかつたのである、既にして会名を東京経済学講習会と改め、主として、学術上の問題を講究し、講義録の体裁にて、毎月若くは隔月に発行し、其の完成を俟つて合本と為し、之を東京経済雑誌社より発行した、其後毎月二回の開会を一回に改め、会員相会して晩餐を共にし談笑の間に智識を交換し親睦を図り、時に或は討論演説を為すこととし、斯くて明治二十年二月東京経済学協会と改称し、新に規約を定め以て益々其の規模を拡張せんことを決議した、会員には学者あり、官吏あり、実業家あり、新聞雑誌通信社員あり、毎月一回宛例会を開き名士を招聘して講演を依嘱し、会員智識の増進を謀り、鼎軒は毎回大抵出席して、演説を試みられた。