デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

5章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
3款 国家学会
■綱文

第27巻 p.332-343(DK270101k) ページ画像

明治36年3月21日(1903年)

是日栄一、東京帝国大学構内ニ於テ開催セラレタル当学会ニ出席シ、欧米漫遊中ニ於ケル所感ニ関スル演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第一七八号・第四六頁 明治三六年三月 国家学会に於ける青淵先生の演説(DK270101k-0001)
第27巻 p.332 ページ画像

竜門雑誌  第一七八号・第四六頁 明治三六年三月
○国家学会に於ける青淵先生の演説 同先生には本月廿一日午後二時東京帝国大学構内に開会の国家学会に出席、欧米漫遊中の所感に就て演説せられたり


渋沢栄一 日記 明治三六年(DK270101k-0002)
第27巻 p.332 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三六年     (渋沢子爵家所蔵)
三月廿一日 晴
○上略 午後二時国家学会ニ抵リ、一場ノ演説ヲ為シ ○下略


竜門雑誌 第一八三号・第一―九頁 明治三六年八月 ○欧米視察談(DK270101k-0003)
第27巻 p.332-338 ページ画像

竜門雑誌  第一八三号・第一―九頁 明治三六年八月
    ○欧米視察談
 本編は青淵先生が本年三月廿一日国家学会に於て講演せられたるものゝ速記なり
唯今御紹介を戴きまして、玆に諸君と御目に懸るのは、私の最も喜び且光栄と致す所でございます、此国家学会は年久しう御継続になつて居つて、年一年に御盛んになる趣は予て承知いたして居ります、況んや其成立は、多く本学校に関係ある最も学者の淵叢と申すべき御方々が、重もなる会員であるやうに承知仕りまするから、従て従来此壇に登つて種々なる御説は、総て金玉として世の中に伝つて居るであらうと存じますのであります、私も多分会員の名を涜して居ると、自分さへ思ふ位ですから余程怪しいですが、左様に私自ら其会員たることを厚く信じて申上げ得られぬ位、此会には甚だ御疎遠になつて居ります且時々参上いたして何か自分の持前に付いて愚説を申述へるやうにと云ふ御誘ひは、頂戴いたしましたことがあつたやうですけれども、生憎といつも折悪く、為めに罷出まする機会を得ませぬので、甚だ残念に存じて居りました、幸ひ今日は差繰りが付きまして、玆に参上いたしました訳でございます、斯様に申すと大層勿体が附くやうになりまして、大に諸君を益する御話でも出来るかの如く見えますけれども、一向左様な抱負も無ければ、貯蓄した材料も乏しいのであります、此に標題を掲けましたのは「欧米視察談」と申すと、視たり察したりしたことを談ずる、欧米の何か経済の真相でも穿つて来て玆に申述べる是から蜃気楼でも現出して俄に富がボーツと噴出す如く思召すか知りませぬが、決してどうも左様の新案は出ぬのです、御聴きなすつたら御想像とは大層反対して、や、あんなことなら聴かぬが宜かつたと思召だらうと甚だ恐懼いたします
昨年五月日本を出掛けまして、丁度半歳ばかり経過いたしまして戻つ
 - 第27巻 p.333 -ページ画像 
て参りましてございます、勿論此旅行は何処から何の命令を受けたとか、或は如何なる考へがあつたとか申すやうな拘束も受けませず、内に含む所の事情も無かつたのであります、真に老後の慰み旅行に過ぎませぬのでございます、而して私が欧羅巴に参りましたのは昨年で前後二度になります、大層昔に一度、又近頃一度、其間大に懸隔して居ります、其懸隔は是からして追々経過談を比較して申上げたら、敢て視察として利益は無くても、時代の変化して居ると云ふことに付ては或は趣味あることになるかも知れぬと思ひますのでございます
抑々初めて私が欧羅巴へ参りましたのは、此処に御座る方々などは皆産れぬ所では無い、まだ其御父さんさへ、子供であつたらうと思ひます、爾も明治よりもまだ以前で――丁度御一新の前年に日本を発したのであります、私が丁度二十七ばかりの年でございますから、以て其年代の経過したと云ふことは御分りになる、其頃はまだ海外の事情は実に分りませぬからして、此旅行は所謂国粋保存、日本の着物を着て髪を結ひ、日本の刀を差して……併し日本の陣笠では如何にしても具合が悪いだろうと云ふので、それだけは折衷して変な薬研形の一の笠を拵へて被つて参つたのは、今考へると恰も鳥羽絵の様である、旅行中にも色々面白い話がありまして、第一は柴棍でもつて、私が昼日中燕尾服を着て縞のヅボンを穿いて船の上に現はれ出て外国人に大層笑はれました、只笑はれたばかりでハ無い、眼の球の抜ける程叱られました、始めて燕尾服と云ふ物は左様な服制のものかと云ふことを承知したと云ふやうな奇談もあります、又それと今一つ可笑しいのは、仏蘭西へ参つてナポレオンに謁見の時、アイスクリームを紙に包んで持つて帰つたら、袂の中で、皆融けてしまつたなどゝ云ふことがあります、左様な世の中に私は欧洲を旅行いたしましたのであります、其時に経過しましたのは第一に仏蘭西、それから英吉利・瑞西・和蘭・白耳義、続いて伊太利、是だけの国々を経過いたしました、併し是等の国々を経過したのは、其時分の将軍の親弟たる徳川民部大輔が、国の大使として参られた、其使節の随行者として、唯通常の礼式訪問に過ぎませぬからして、総て其国状若くは今日私の本領とする商売・工芸抔の視察をすると云ふことは、其時には世の中も論じませぬし、又私共の胸にも頓と浮ばぬ位の有様でごさいました、唯日本を発しましてから日本に帰る迄に、軈て二年の星霜を経まして、其間私が海外に居つて如何なる観念を起したかと申しますと、其頃日本の有様は商売人と云ふ者は、殆ど人間の中に歯されぬやうであつて、農民と云ふ者は尊ぶべき者だと云ふ詞はあつたけれども、都会の人々若くは政治を執る武士などから見ますると、悪く申せばそれこそ蛆虫の如くに観察されて居つた、之に引換へて欧羅巴へ行つて見ると、百姓の境涯は能く分りませぬけれども、商売人と云ふ者に付ては、我々が日本に在つた時の想像とは大層様子が変つて居る、それは学識とか道理とか云ふもので変はると云ふ程、自分等には明瞭に分らぬが、唯目前見た所が、普通の交際場裡に於て大層日本と有様が違ふ、其頃日本の状態は、立派な商人でごさいましても、時の政治を執る或は幕府の役人とか、若くは諸藩の郡奉行とか留守居とか云ふ様なる人に対しては、殆ど同席
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はされませぬ、事に依ると二た間以上隔てゝ対席する、上に立つ人は黙礼も僅かにする位のものであるのに、今の商売人は平身低頭して総て其指図に従つて、自己の意見は妄りに申せぬと云ふやうな風である例へばちよつと食事を其処で食べるにしても、ずつと上向いて物を食べるなどゝ云ふことは出来ませぬ、況んや議論をするとか意見を上下することは、為すべからざるものゝやうな風習であつたのです、欧羅巴にては一向さう云ふ有様がない、私が仏国で懇意にいたしました、今度参つても其人に遇ふて昔話をして、三十五年以前の感情を惹起しました、ヒレツトと云ふ人は、ナポレオン三世から徳川民部大輔に附けられて、始終同居して民部大輔の旅館、其他の事を世話をして呉れました、又其時分日本の名誉領事を任ぜられて居りました人でフロリヘラルトと云ふ銀行者、及仏国の郵船会社の人クレイと云ふ人、是は其会社の取締役とも云ふべき人でありましたらう、夫等の人達がヒレツトなどゝ交際をします有様を見ると、一方は私共のやうな商人である、一方は武官で殊に――国帝の命に依つて民部大輔の守役の位地であるから、其人の権力は盛んなものである、然るに其商人と守役との待遇が我々の想像とは反対で、其長官が常に商人の意嚮を聞いて、御尤も、さうしませうと云ふ風にして万事を取扱つたのは最も私が奇異の想ひを為したのでございます、日本とは大層様子が違ふ、我々が昔百姓の時分若くは商人であつた時分――「其頃は武士の端でごさいましたけれども」中々斯の如き体裁に交際は出来ぬのである、外国は斯様に様子が違ふかと云ふことを観念致しました、又もう一つ観念の違ひましたのは、民部大輔が白耳義国へ参りました時に、私も随行しました、其時国王はまだ余程御若い時分で、丁度謁見を致しました時に此国王が民部大輔に白耳義に於ける遊覧の順序を問ふて、リーエーヂの鉄工所を一覧したと答へると、其談話の序に自国の鉄工所の盛なる自慢をして、且此工場の鉄を成るたけ日本に輸入する事を勧告して言ふには、凡そ国としては多く鉄を使はなければ強国とハ言はれぬ、自国で鉄が出来れば尚ほ幸であるが、縦し自国で出来ぬでも沢山鉄を他国より買ひ得る国でなければいかぬ、白耳義では鉄が出来て他国へ輸出するが、日本には鉄が産出するか、もし産出せぬ時は此鉄を買へるやうにならなければいかぬ、と云ふことであつた、初めて国王に謁見の節、其国王が爾も十三・四の子供に鉄の売買の引札話をするのは余程驚いた、私は欧羅巴は野蛮の国だ、禽獣の国だ――と云ふ観念を起しましたが、再び考へて見ると云ふと、禽獣と思ふた方が寧ろ禽獣で国と云ふものは物質的の進歩が其繁栄を為すのであるから、鉄などと云ふものが盛でなければ船も出来ないし、大砲も出来ない、どうも鉄は甚だ必要に違ひない、さうして見ると初めて遇つたからと言つて、自国の鉄を成るたけ他国に販売の途を開くと云ふことは、国王としてそこに注意されるのは結構なことで左もありたい、日本では金銭のことを云ふと、直様何か斯う卑劣の様に思ふのは、抑々是は慣習から来た誤りですが、其時はちつとも分らなかつた、まだ一つ成程と感じましたのは、御一新の始に当り徳川家は亡滅の有様であつたが、当時私共の考には民部大輔はまだ子供であるから、斯る国の騒動の中へ帰つ
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た所が仕方がない、折角欧羅巴へ来たことであるから、せめて二十歳頃迄も留学して、何か学術を修めて帰つたが宜からう、さうしやうと思ふには幾らか資金を残して、さうして細々にも留学として継続するやうな方法を講じたい、殊に其時分は旅館と云て家なども所持して居る、同時に道具などもあるから之を売出したら相応の金額は得らるゝ今迄は大富限が巴里遊覧のやうな姿に暮したなれ共、向後は大に倹約して、所謂財政整理と云ふ如き方法に依て大に節減を行ひたいと云ふことになつた、さうすると節減ばかりではいけない、利殖をしたい、利殖するにはどうした者かと段々話して見ると、鉄道会社から発行する公債証書のやうな物がある、之を買つて置けば売りたい時には何時でも売れると云ふことで、其利息の割合も五分以上になると聞いた、私も利息のことは知つて居りました、日本では一割二分、甚きは五両一分などと云ふことを聞て居つたから、年に五分以上の利息と云ふては安いからもどかしく思つた、併し売れば直きに金になると云ふのは結構だ、まあそれを買つたが宜からうと云ふことになつて、世話をして呉る人があつて、ブ―ルスへ参つて数万フランク其公債証書を買ふた、それから其後愈々帰へることになつてそれを売つたら、果して言つた通り、直ぐに売れて、而して其間五分以上の利率に廻つたので、成程是は便利なものだ、斯う云ふ趣向で行つたら随分財政経済を維持するに於て頗る妙だ、日本の人には出来ぬことか知らん、是が出来れば大に結構だと、是も一つ大に感じたのでごさいます、三十五年以前の視察談は先つ其位のものです、是は欧米視察談として喋々御話する価値はないが、併ながら此事柄が甚だ見易いやうで、烏んぞ知らん、国家の財政上・経済上に心を用ゐる端緒になり得ると云ふことを、能く諸君に御理解して戴きたいのでございます、是が私の昔日の経過談の一・二であつて、既に幾回か人の前で申したこともありますから、甚だ陳腐のことでございますが、此度参りましたことを御話するに付いて既往の経過を簡単に申述べましたのでごさいます
今度の旅行は先つ亜米利加へ参りまして、凡そ一ケ月ばかり彼方此方を見物いたしました、続いて英吉利へ参つて、倫敦に殆んど二十日余り居りました、それから英吉利の内地で十日ばかりの時日を費して、再び倫敦に帰つて半月ばかり滞在いたしました、八月の月末に倫敦を発しまして白耳義に渡つて、白耳義から独逸に参り、それから再び倫敦へ帰つて両三日経て、さうして倫敦を発して仏蘭西・伊太利へ回つて、終に印度海を帰つて参つた、丁度時日を費しますること五ケ月半ばかりでございます、左様に短い時間に、且つ言語も通じませねば、書物を読む事も出来ぬ私が、二・三通訳の人等が手伝をして呉れたので、昔日燕尾服を船の中で着て叱られた時とは多少様子は違ひますが中々今日此の盛んになつた欧米を視察いたすなどゝ云ふことの出来得る筈はございませぬけれども、既に多少の時日を以て、或は紐育若くは倫敦・伯林・巴里等の商業者に面会を致し、又工場も見ましたに付いて、且つ自分の最も心を用ゐて居る商工業の区域に付いて、彼国の有様を見てどう云ふ観念を起したか、どう云ふ視察をしたかと云ふことは、玆に概略を申上げ得られやうと思ふのであります
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亜米利加 の有様は、実に近頃非常に進歩して行くことは、もう諸君が業に已に御聞及びの通りでございまして、真に唯驚くと申す外なからうと思はれます、殊に彼の国の勉強は総ての事を努めて大仕懸にして、人を節して生産を増す、さうして製造価格を廉くして、自国への販路のみならず、他に向つて最も区域を拡めて行くと云ふことが、何種類の工業に拘らず、同一轍に努めて居られるやうでございます、元来人は勇敢で、或点から見る時は或は突飛と申す位に考が極迅速であります、それで機械を用ゐることに付いて、新陳代謝などと云ふことは誠に惜気なく事を決して行く、例へば一の機械が古くなつたとか、少し蒸汽が悪くなつたと思ふと、さう云ふ種類をばずんずん売却して新しい物と引換ると云ふことは、殆んど欧羅巴でも日本でも、あゝ云ふことは見得られぬ位に取扱つて居られるのでございます、家屋の如きも紐育辺りで新しいものを壊はす、何等の理由かと申すと、どうしても此儘では不便だとか利益にならぬとか言つて、立派な家を壊して居るのを往々見受けるのを以ても、決して今申したことが嘘で無いと云ふ、事実を証明するに足るだらうと思ふ、殊に夫等の事業の中で、先づ最も近頃進歩して行くのは水力電気のやうに見えます、ナイヤガラへ参つて水力電気の既に成立つて居る工場を見ましても、亦之を増す計画をして居る有様を見ましても、実に羨しいやうに豊富である、豊富であつて其水力の取方が頗る安全である、日本では水の取入口に付いて洪水の害を受けるとか、或は田用水の苦情を聞くとか云ふ種々なる面倒があるが、ナイヤガラの方は、決して田地に付いて引水に関する苦情を受けるなどと云ふことは無い、取入口は下を掘つて水を引くやうにしてありますから、工事は大変であるが、一且拵へたらそれこそ百年でも千年でも修繕の心配は無いと云ふ位、完全の水利が出来るのであります、現に今やつて居るのが十万五千馬力、其上に更に二十万馬力を経営して居る趣であります、而してそれを近所の工場へ引き、電気を送つて事業をやつて居る、此電気に依つてすべき事業は色色ございませう、只今此で斯様なこと、斯う云ふことゝ陳述する事は出来ぬけれども、今数年を経ましたならば、ナイヤガラの水力電気に依つて、工場はまだまだ余程盛大なる物が出来るであらうと想像されます、其他鋼鉄に付いても、近頃亜米利加が盛んになつたと云ふことは、私は専門家でないから詳しいことは申上げ得られませぬが、唯彼のカーネギーの工場を見ましただけでも、如何に素人でも其規模の壮大なる、設備の完全なる、人を少なく使ふて仕事が沢山出来ると云ふ有様は、一見して驚嘆する位でございます、其壮大なる仕事に付いて取扱つて居る事務員はどれ位かと云ふと実に少ない、誠に簡易の有様でやつて居ります、私も多く工場の支配もして居りますから、如何にしたらあの様に出来るかと其時も思ひ、今も猶ほ思つて居りますけれども、偖て日本に帰つて見ると矢張昔の渋沢、又昔の日本人で、其時思ふたことは決して忘れはしませぬが、之を施すに甚だ苦んで居る、亜米利加が左様に工業に付て突飛に事物を拡張して行くから、或は金融とか若くは保険とか云ふ実着なる事業は如何なる有様であるかと云ふと、紐育若くは市俄古辺りの銀行又は保険会社等の有力なる者の数
 - 第27巻 p.337 -ページ画像 
個を一覧し、其実務の取扱方を聞きもし、又其人にも遇ひましたが、実に沈着したもので、又整頓したものであります、さうして其取引高の多いことに驚きます、私も日本に於て銀行に関係して居るが、亜米利加の銀行の取引を見ますと、恥入つて何とも申せぬ位であります、現に紐育のシチーナシヨナルバンクのスチルマンと云ふ人とは至つて懇意にしまして、或る夜晩餐に招かれて其家に至り、主人が其銀行の毎日の表を取つて自分等に一覧させまして、今日の取引は斯くなつてをると云つて其手続を話したのです、是は銀行者として自分等も日々行ふて居りますから其手続には驚きはせぬです、手続は驚かぬが表の金高には驚く、我々の取引として十万円差引尻のある得意先は中々大取引である、然るに亜米利加に於ては或一人の取引で三百八十五万弗の差引尻がある、殆ど千万円近い金高です、其人は実に千万はさて置き何億万の財産もありませうけれども銀行の当座取引の差引尻に千万円近いものを残して置くのは、蓋し金銭の仕掛けの大きいことは其一事で察し得られる、又トラストコンパニー、若くは保険事業は殊に亜米利加が進歩して居ります、先づ重なる者は紐育では紐育保険会社・相互保険会社・エクイテーブル保険会社、是等は紐育でも有名なる所のものでありまして、就中相互保険会社は現在準備金の有高が大抵五億以上で、其保険してある金額は何でも二十四億以上と云ふことであります、其他の会社も大抵伯仲の間のやうに見えます、又彼のトラストコンパニー、是が銀行と保険事業と、殆ど似たやうな有様の業体です、其数字の詳細は覚えませぬが、同国に於けるトラストコンパニーの歴史を私が訳させて見たことでありますが、殆ど銀行の預り金の高に似て居るです、例令ば紐育の各銀行は十億なら、同市の各トラストコンパニーは八億位あると云ふ割合と覚へて居ります、トラストコンパニーと云ふものも矢張一種の儲蓄、其他の預金を以て一般の金を吸収しまして、それを又他の商工業に仕向けると云ふ機関に相成つて居るやうです、故に前申す通り、農業にも工業にも金融にも運輸にも、総て物質的の進歩を為すことに付いては、殆ど併び進んで共に馳せて居る国柄と申して宜いやうに思ひます、殊に彼の国の人は種類の違ふ者が大勢ある、独逸人もあれば仏蘭西人もあり、英吉利人もあると云ふ有様ですから、頭脳が各種であるからして、是が種々の方面に固着して能く親和せずに居りはせぬかと思はれます所が、打つて変つて左様に流儀の違ふ人々が大勢集つて、さうして是が所謂打つて一団となり、亜米利加と云ふものを成して充分働いて居るに至つては、実に敬服の外ございませぬ、我々此日本の他の方面は私は知りませぬが、事業界の有様を見ますと、実に詰らぬことに誰彼の流儀、又誰彼の勢力と申すやうな姿であつて、ちよつとした事も一致することはむづかしく、事に依ると同一の事を相争つて軌り合ひ、物の纏りの附くと云ふことは甚だ乏しいと云ふのは屡々見る所である、而して其原因を見ると、皆同じ日本人で先祖でも違ふかと云ふに、決して亜米利加人の如き種類違ひの相集つたやうなことが無いのは分り切つて居る、故に親和しさうなものであるが、其親和力と云ふものが乏しくて、今申す通り兎角小区分に固着して、いつ迄経つても一の団子にならないと云ふ
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有様である
英吉利 に参つて見ますと、大に亜米利加とは違ひます、第一に古風のことを重んじて居る、商工業などに就いて見ますと、或は斯うありたいと思ふ事も無きにしもあらずであります、又一層事物が切実であつて信用を重んずるとか、言責を踈略にせぬとか云ふ方に至つたならば大に亜米利加などより優るやうに思ひます、併し工業に付いて或は進歩の鈍い嫌ひ無きにしてもあらず、現に電気などに於ては、私は電気の工学は知りませぬけれども、段々聞く所に拠れば、亜米利加・独逸の両国に比較しては、英吉利の電気事業は三舎どころでは無い、もう少し多く避けるであらうと云ふ説を聞きますけれども、鉄工所とか若くは又紡績とか、或はセメントとか、総てさう云ふ工業に至つては長い間の富の力を以て、殆ど世界の中心たる有様は、依然としてそれだけの力を備へ、それだけの技術を持つて居ると私は思ふです、さうして又其人と為りは実に真摯硬直で其内には悪い人も嘘を吐く人も無いとは言はれぬでせう、併し概して論ずると一体人間が実直である、世辞は少ないが実直であつて且手強いと私は思ひます、従つて其事業も決して他国に譲らない、或は近来は商工業の中心が他所へ動くだらうと云ふ説を唱へることを耳にしますが、私はそれは大早計の観察で中々まだ英吉利が商業の中心を他に移す抔とは言ひ得られぬと思ひます、現にトランスバールとの戦争で費した金額は容易ならぬものであります、併し私が昨年二三の商人に就いて聞きましたが、強い影響は先づ船だけで、其他の物には関係を致さぬと、信用ある立派な人が申して居りました、例へば数十年来東洋に力を尽して居ります彼の横浜の英吉利一番の主人などに其話を聞きましても、左様に申して居ります、是れ決して私の空想で無いと云ふことを証明し得られると思ふのであります、是は全体の実力が強いのである、我邦が三億の償金を取
つて喜んで使つた揚句に、三年も五年も経済界が恢復しませぬと云ふことはどなたでも御存じである、唯渋沢が一人で言ふのでは無い、之れに反して英吉利はさう云ふ有様で無いと云ふことは、蓋し大体の力の強いのであつて、日本などと日を同じうして論じ兼ねるものと思はれます(未完)


竜門雑誌 第一八四号・第一―七頁 明治三六年九月 ○欧米視察談(承前)(DK270101k-0004)
第27巻 p.338-343 ページ画像

竜門雑誌  第一八四号・第一―七頁 明治三六年九月
    ○欧米視察談(承前)
 本編は青淵先生が本年三月廿一日国家学会に於て講演せられたるものゝ速記なり
独逸 に参りましても、二三の商人にも面会し、若くは工業も見ましたけれども、滞留の時日が少なかつた為に電気工場を一覧し、銀行を二三訪問したに過きませぬから、独逸の事情斯く斯くと申上げる程の視察談は出来得ませぬ、併し大体から聞き、且見ました所でも、如何にも学問的に物を進めて行くと云ふことは、亜米利加・英吉利とは一風変つて居る、ちよつと市街の鉄道の仕組などに付いても、又其他の鉄道にしても余程行き届いて居る、市街の家屋又は庭園の仕組なども左様に思はれます、此会員の御方は殊に独逸のことは熟知されて居る
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から、そんなことは言はぬでも己れが知つて居ると言はれるでせうが併し大体商工業に対しても左様な次第で、総て学問的に物が進んで行くと云ふことは、一見して察し得られるやうにございます
仏蘭西 は殊に時日も短かうごさいました、併し彼方此方商業に付て訪問した人もありましたが、彼の巴里の街は煙を嫌ふて、工場などはございませぬから、工場の一覧は出来得ませぬ、只市街の有様の昔日と大に変つた一二を申しますと例の「チユイロリーノ」宮殿は今は焼けて仕舞ふて公園に変つて居る、私が先年遊んだ時分普請中であつた「グランドオペラ」は其の後数年経つて落成しまして、爾来盛んに興行して居る、丁度私は其興行の時期に出会はして、立派な芝居を見て来ました、実に此仏蘭西の音楽、若くはセーブルの陶器とか、或はゴプランの織物抔総て美術を極める主義からして、ナポレヲン時代から政府で大層力を入れて之を補助し奨励したものださうです、今の政府も矢張其主義に依つて居るので相変らず盛んのやうです「ゴプラン」と「セーブル」へは参りませぬが「グランドオペラ」だけは一覧したのであります、又巴里の街に付いては今私共が苦情を言つても詰らぬことですが「エツヘル」塔の如きは巴里としては甚だ面白くない、亜米利加的の物ではないか、巴里の面汚しと私は感じます、それからもう一つ、巴里に対する批評をしますと、例の露西亜帝が起工式をなすつた橋です、此の橋セーヌ川の上に架つて居る橋としては甚だ高尚で無い、是れも亜米利加向であつて、巴里の美観と云ふことは出来ない巴里市街とは少しく不権衡の物と言はなければなりませぬ、併し巴里の街は昔日と見較べまして市街鉄道も完成し、街灯も白熱瓦斯になり各商店は電気灯で色々の飾があるから、夫れ等の有様は旧時と大層変つて居るやうでありますが、但し家屋の構造・商店の有様などに於ては、三十年前と格別変つた処は見へませぬのでございます、併し彼の国は総て物を節約して旅客を歓迎し、客に成るたけ金を使はせるやうに務め、且つ貯蓄と云ふ事に付ては昔から余程長けて居る国ださうです、従つて今でも其の富力の盛んなことは容易なものでありませぬ、現に其の一端を申しますれば「クレジー・リヨネー」銀行の盛大なることは、実に独逸・亜米利加・英吉利を凌駕すると言つて宜い位であります、総て華客に向つて種々なる点を注意して、華客に便を与へる事が実に行届いて居る、其上極めて多数の華客を持つて居りまして、支店も仏国中に三百ばかりあるさうです、現在の総裁ジエルマンと云ふ人が殆ど数十年間行務を支配し、其尽力で段々拡張して参つた趣です、其人に面会して、銀行の営業に付いて大体の説を聞きましたが、別に変つた事は申しては居りませぬのです、唯此銀行には調査局と云ふものがある、此調査局は何をするかと云ふと、世界中の重もなる国国で、殊に仏蘭西に関係の強い国の財政・経済の真相を丁寧に調べる様です、先づ政府の財政から一般の経済、或は銀行・会社の有様とか其会社が社債を出して居るとか、余程綿密なる調査法が立つて居つて殊に英吉利・亜米利加、独乙抔に対して特に一人の専務者があつて、或は倫敦・紐育又は伯林と云ふやうに区別をして局が出来て居る、東洋に付ても日本或は支那と云ふ具合に、一の係を設けて調べて居りま
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す、日本の事なども丁寧に調べられて居ります、私が驚きましたのはもう日本の財政上のことが能く分つて居る、例へば明治二十八年前歳出入が幾らで、其以後は幾らになつたから、何倍の割合に進んで居る会社の株式がどれ程あつて社債がどれだけになつて居ると云ふことまで、ちやんちやんと調べて置くやうです、それは何にすると聞きましたら、多くの華客が、或は株を買ひたいとか公債を買ふにはどう云ふものにしたが宜いとか問ふ人が頗る多いから、此調査をさせてあると言ふて居りました、余程華客も多く、取引も広し、又其取引は海外に向つて営業する人達も多くあるに依つて、左様な調査も必要になるであらうと思ひます、家屋はずつと高い、殆ど七階ばかりで有つて、最上の側に其調査局がずつと各部に仕切られて組織されてありました、又地下の室内に於ては、総て華客の大切なる物を預ると云ふ場所があります、それが二種類に分れて、預り人に向つて其物の数量を明示して預ける預け方と、之を明示せず函の儘に預けるとは、其場所を更えて管理するやうになつて居ります、例へば地下の三階は其物の数量を明示する場処で、其四階は之を明示せぬ場処と云ふ風にして、種類に依つて受付場所が幾つも分れて居ります、婦人が来る所と男の来る所とも別々になつて居つて、其整頓して居るには実に驚くに堪えたるものです、それで日本の公債証書などもあつて、出して見せました、左様に総て行届いて居る銀行は、先づ今の「クレジー・リヲネ」に於て初て見ました
英吉利・亜米利加・独逸・仏蘭西、自ら国として長所がごさいますから、縦令匆々の間に私が一見いたしましても、其の長所は自ら見別け得られる様であります、之を要するに今の列国の有様は、何処でも自国の物産を成るべくだけ廉く拵へて、それを他国へ売捌ひて、自国の富を増すと云ふ主義は同一と言ふて宜いやうに見えます、故に之を約めて言ふと、一国の金力を以て商工業の進歩を務め、其国の生存に甚だ必要の事柄も大に拡張して行くと云ふが、何処も彼処も一国の主義として力を注いで居ると云ふことは、蓋し一見して明かに分るやうでございます、而して之に従事する商工業者は、国に依つて多少差はございます、又国々各長所があつて、自ら多少の相違はあるけれども、帰する所は自己若くは国の利益を増すと云ふ事が眼目で経営されて居ると云ふことも、蓋し同一と申して宜からうと思ふのでございます、で殊に亜米利加などは、別して此の東洋に向つて力を用ゐて居る、と云ふは、既に前にも申すに通り自国の供給を成るべく多くして、又其価を廉くして居る、想ふに亜米利加が如何に豊富であつても、自国のみで以て満足して居らぬ、追々東洋に向つて力を及ぼすと云ふことは其向の実業者が心を尽して居る所のやうに見えます、又着々現はれて来る事実がある、独逸も其通りで、英吉利・亜米利加の間を縫ふて進んで行くのであります、特に著しく夫等に力を尽して居ると云ふことは、独乙のハンブルグの港の設備を見ても分ります、成程斯くまで資本を入れて、斯くまでに海外に向つて航運に力を尽すかと見えるやうに、其の設備も計画も出来て居ります
右様に他の国々の有様を見て、偖自分等が此商工業者として自国に於
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ける有様は如何と回想すると、成程三十四五年以前から見ると、大に商売人の頭も挙げ得るやうになつて、其昔私が旅行する時分には誰も知らぬ有様であつたが、今度旅行すると云ふ場合には多少何か効能ある事を見て来いと云ふて、商工業以外官途の人までが、或は送別会を催して種々なる待遇をすると云ふが如く、幾分か商売人の位置を進めた今日である、其商売人として彼の国々の有様を見ると、何と譬へて宜しうございませうか、真に心細いやうな感じもし、口惜しいやうな念慮も起る、此内心の懊悩は、此に奇麗な言葉で分り易い様に申し上ることは出来ぬのでございます、で詰る所、他の国々とを比較して見ますと、日本の今日はどうしても敵はぬ、此国の実況は商工業に対して、政治なり学問なり充分に其力を加へて、其進歩を助けると云ふ有様であるに、我国は言論に於ては其通りに相成つた様でありますけれども、事実が亜米利加・英吉利抔と同じやうにまで進んで居るか否やと云ふ疑がある、是は商工業者自身の働が悪いと、他の方面の人は言はれるでありませう、或はそれもさうである、左りながら商工業者から云ふと、他の協力が少ないから商工業の働が伸びないのであると言はざるを得ない、それも其昔政治を執る者は商工業者を殆ど蛆虫の如く待遇された、是も人為作用の然らしむるのである、然るに僅か三十余年の間に自分等が此席へ出て演説をするやうになつたのも均しく人為である、さうして見ると縦令商工業者に不充分の点があるにせよ、之れに協力せずして其伸ひさるを責めるは、我々はどうも敬服されませぬのであります、総して日本では政治と云ふものが、総ての基本であつて、一番の原動力と云ふことは争ふべからざる事実である、故に此の商工業に対する発達を謀り拡張を努めると云ふことも、此政治上から唯単に便利を与へると云ふのみでなく、精神に於て之を重んずることが、他国と同じやうにあつて欲しいと云ふ観念を起さゞるを得ぬのです、是れと同時に、どうしても我々自身の方面からも、又心を用ゐて勉めなければならぬのは、商売人の人格をも少しく高くしなければいかぬのです、物の一致せぬとか、種々なる背徳の聞があるとか、或は苦情・物議が起きて会社が混雑をするとか云ふことは、何処の国にも多少ございませうが、併し其あり具合が残念ながら我が日本の今日は、英吉利や亜米利加と同じやうだとは申し得られませぬ、即ち概べて自国の程度が大に低いと言はなければなりませぬ、故に物の一致も出来ず、人の力も伸びぬのである、此一致せぬので彼処に閊へ此処に妨げられ、始終其妨害の為め、伸び進むことを為し得ぬのでございます、一方に、他の力に頼つて此商工業を重んずることを望むと同時に、又自家の方面に於ては、前にも言ふ如く、努めて我々社会の人格を進むることを謀らねばならぬと思ふのでございます、果して此二つが充分に進んで参りましたならば、我々の一体の智恵若くは気力が、左様に欧米諸国と、迚も伍を為すことは出来ないと云ふ国柄で無いと私は厚く信じて居るのです、これは全く今までの行掛りの有様、政治上の保護が決して満足で無いのと、一方には商工者自身の人格が進んで居らぬ故に斯様な有様であるが、若し充分に改良し得たならば敢て欧米人に負けるとまで私は考へませぬから、是から先き愈々自分等も
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努め、又若い人々には、飽まで勉励して貰いたいと云ふ考でございます
終りに臨んで更に一言申上げて置きたいことは、私が前にも申す通り前後の欧米旅行に付いて比較して考へて見ると、余程可笑しい観念を惹起したと云ふことを玆に申添へて置きます、其昔旅行をしました時には殆んど二十四五の血気壮んな時で、一向学問も無く、単に攘夷党の一人であつて、所謂燕趙悲歌の士……でありました、それが不図一橋の家来になつて、数年にしてまだまだ攘夷の夢は決して醒め切らぬ間に海外行を命ぜられまして旅行に出たのですから、どうも其頃は、兎角に欧米諸国を目して夷狄禽獣と云ふことを大きな声で言ふた、既に旅行する頃は言外に発せぬでも、心にはまだ夷狄と云ふ考を持つて居た故に、此海外行に於て眼に触れ耳に触れることに付いて、必ず憤激扼腕のことが多からう、終には怒髪衝冠と云ふ位にまで成り行きはせぬかと自ら思ひつゝ旅行をした、然るに此旅行の間に段々と軟化しました、上海へ行くと少し軟かになり、それから向ふへ行けば行く程恐入つて、もう巴里辺りへ行くと迚もと云ふ観念が起りました、もう是からは仕方が無い、己れ達が一生懸命学ぶ外ない、夷狄禽獣と思つた了簡は失せて、迚も我々は勝てぬ、之を師として学ふ外はないと、斯う云ふ風に軟化したです、又た……其初めは医学は盛んであらう、砲術も巧みであらうが、他の事は一向敬服せぬ、所謂仁義道徳などゝ云ふ物は取るに足らぬと思つて居たが、彼地へ行つて見ると、人の交道と云ひ人の守るべき主義と云ひ、総ての事が余程行届いて居つて、又発達し居る様子でした、自国の方は人民に階級があつて、百姓・町人は一生涯頭が挙らぬと云ふ制度である、是に引換へて西洋はそんな階級は無い、それだけでも大層敬服した、故に特り砲術若くは医学と云ふもののみならず、敬服する箇条が多くなつて、前にも申した鉄の製造に敬服し、船の構造に敬服し公債証書に敬服しなければならぬと云ふやうに、段々段々軟化して、昔の強い骨は一つも無くなつた、年はどうだと云ふと三十前後の血気盛りで、それこそ一本の刀で黒船をも斬り巻くる了簡で居つたのが、左様に軟化したのです、是に引換へて今度は私も六十三才の老境の旅行でございます、而して其時分の、唯一人で大勢の世話をして殆ど小使兼書記役と云ふやうな有様であつたのに比すると、今度は反対に通弁もあれば書記もあり、会計の世話をする人もあると云ふやうな旅行ですから、充分軟かになつた人間であるのです、所が、今度の旅行には日に増し其憤慨の念が強くなつてもう殆んど亜米利加からして英吉利其他を回つて、見れば見る程其度を増して見るのも嫌やになるやうに慷慨悲憤で到頭帰つた、昔日とまるで反対であつた、是は余程可笑しい話でございます、敢て私はさう自分の智恵が増した訳では無い、唯年を取つたゞけで同じ様であります、全く境涯が違ふと云ふだけである、決して智識が違ふと云ふのでは無い、私の性質は昔日は寧ろ血気に逸る方であるのに左様に恐怖心を起さしめ、又今日は幾らか老成して綿密に行届く性質になつたと思ふのに、反対に殆ど西洋人の面を見るのも嫌やになるやうに憤慨心を惹起をしたと云ふことは、蓋し全く時勢と境遇とに由るものと思はれ
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ますのであります、但し此憤慨心は只目前に起る憤慨ではなくて、全体に関する憤慨である、故に此憤慨は私は今も猶消磨せぬやうにしたい、独り己れが消磨せぬやうにしたいのみならず、此満堂の諸君にも私と同じやうに憤慨心を起して、同じ様な熱情に依つて将来日本の事物の進歩拡張を謀つて戴きたいと思ふのでございます、誠に諸君を裨益するやうな御話も出来ませぬ、唯視察の一端を申述べたに過ぎませぬ、是で御免を蒙ります(拍手)完
   ○本資料第二十五巻所収「欧米行」明治三十五年十一月八日ノ条参照。