デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

5章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 新聞・雑誌・出版
2款 東京経済雑誌
■綱文

第27巻 p.504-508(DK270137k) ページ画像

明治12年1月29日(1879年)

是日、田口卯吉「東京経済雑誌」第一号ヲ発刊ス。栄一、大蔵省銀行課長岩崎小二郎ト共ニ之ガ創刊ニ周旋尽力スル所多シ。


■資料

青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第七〇一―七〇二頁 明治三三年六月再版刊(DK270137k-0001)
第27巻 p.504 ページ画像

青淵先生六十年史 竜門社編  第二巻・第七〇一―七〇二頁 明治三三年六月再版刊
 ○第五十八章 公益及公共事業
    第二十一節 新聞及雑誌
○上略
明治十一年一月ヲ以テ呱々ノ声ヲ発シ爾来成長シテ雄ヲ経済ノ文壇ニ振ヘル東京経済雑誌ハ、実ニ青淵先生ト当時大蔵省銀行課長タリシ岩崎小二郎ノ懇切ナル指導斡旋ニ成リシナリ、田口卯吉其雑誌初刊ノ緒言ニ記シテ曰ク
 余輩甞テ、英国ノ銀行学士シヤンド氏ト交親ス、一日「エコノミスト」新聞ノ其卓上ニアルヲ観、氏ニ語リテ曰ク、日本亦タ斯ノ如キ新聞ナカルヘカラスト、氏笑テ曰ク、余恐ラクハ日本ノ富未タ之レヲ発スル能ハサルナリト、嗚呼氏ノ此語ヤ固ヨリ座間ノ一笑語ニ出ツルト雖モ、其余ニ於ケルヤ宛モ鉄針ノ胸竅ヲ刺スカ如キヲ覚エタリ、乃チ氏ニ約スルニ余必ラス此種ノ雑誌ヲ日本ニ興シテ氏ニ示スヘキヲ以テセリ(中略)昨臘ノ末銀行課長岩崎小二郎君・第一国立銀行頭取渋沢栄一君等、余カ為メニ銀行雑誌ト理財新報(編者曰ク一ハ大蔵省ノ刊行、一ハ択善会ノ刊行)トヲ合併シテ一大雑誌トナシ、更ニ其探究ヲ精密ニシテ、刊行センコトヲ勧誘セラレタリ(中略)私カニ以為ラク、宿志ヲ遂ケ経済雑誌ヲ創立シテ以テシヤンド氏ニ示スノ好機ハ実ニ斯ニアリト、即チ二君ニ約スルニ此任ニ当ルヲ以テセリ、是ニ於テ乎渋沢君ハ余ヲ択善会ニ伴ヒ、彼ノ二誌ヲ合併シ更ラニ事実ヲ詳究スルノ必要ナルヲ同会ニ詢リ、其同意ヲ得、二誌合併ノ議ニ決シ、本月某日ヲ以テ其約款ヲ交換シ、本日ヲ以テ東京経済雑誌第一号ヲ我大東日本帝国ノ首府ニ発行スルヲ得タリ、蓋シ岩崎・渋沢二君及ヒ択善会ノ光助アルニアラスンハ、決シテ斯ノ如キ大業ヲ興ス能ハサルナリ(以下略)
我カ国ニ於ケル経済的雑誌ノ祖タル東京経済雑誌ハ、青淵先生ノ助力指導ニヨリテ生レタルナリ


鼎軒田口先生伝 塩島仁吉編 第六―八頁 明治四五年五月刊(DK270137k-0002)
第27巻 p.504-506 ページ画像

鼎軒田口先生伝 塩島仁吉編  第六―八頁 明治四五年五月刊
    第三章 東京経済雑誌の発行
○上略
鼎軒先生の大蔵省に奉職するや、公務の余暇を利用して自由交易日本経済論を著し、又日本開化小史の著述に従事し、尚時々郵便報知新聞(今の報知新聞)・東京日々新聞等に投書して時事問題を評論せり、其
 - 第27巻 p.505 -ページ画像 
の投書は固より匿名を以てせるものなれども、大に世人の注意を喚起し、当時高名なる記者・学者中往々之に批評を加へたるものあり、而して先生は終に大蔵省銀行課長岩崎小二郎・第一国立銀行頭取渋沢栄一君等の周旋尽力を得て、経済雑誌社を創立し、東京経済雑誌を発行するに至れり、実に明治十二年一月なり、先生は雑誌発行の由来、其の趣旨及び抱負を第一号に記して曰く、
 当今雑誌・新聞の類世に行はるゝもの其の数千百に下らずと雖、我が邦経済上の事実を掲載するものに至りては、極めて稀なり、蓋し其の事の至難なるが為め歟、然り而して余輩後生漫然其の任に当らんとす、素より僣越の罪なきにあらず、然るに敢て之を辞せざるものは抑々又説あり、余輩嘗て英国の銀行学士シヤンド氏と交親す、一日「エコノミスト」新聞の其の卓上に在るを見、氏に語りて曰く日本亦斯の如き新聞なかるべからずと、氏笑ひて曰く、余恐くは日本の富未だ之を発行する能はざるなりと、嗚呼氏の此の談や固より座間の小笑話に出づると雖、其の余に於けるや恰も鉄針の胸竅を刺すが如きを覚へたり、乃ち氏に約するに余必ず此の一種の雑誌を日本に起して氏に示すべきを以てせり、当時余公務に鞅掌し、且日本経済論の著作に従事せしを以て、未だ思想を雑誌の編輯に委する能はざりき、然るに昨臘の末、銀行課長岩崎小二郎君・第一国立銀行頭取渋沢栄一君等余が為に銀行雑誌と理財新報とを合併して、一大雑誌と為し、更に其の探究を精密にして刊行せんことを協議せられたり、余時に又日本開化小史の著述に従事し其の業未だ竣らざるを以て中途にして之を遅延するは遺憾なきにあらずと雖、私に思ふ、宿意を遂げ、経済雑誌を発行して、以てシヤンド氏に示すの好機は実に此の時に在りと、乃ち二君に約するに、此の任に当るを以てせり、是に於てか渋沢君は余を択善会に伴ひ、彼の二誌を合併し、更に事実を詳究するの必要なるを諸会員に演説せり、其の説明の懇到にして用意の親切なる、遂に全会の同意を得、二誌合併の議に決し本月末日を以て其の約款を交換し、終に本日を以て東京経済雑誌第一号を我が大東日本帝国の首府に発行するを得たり、蓋し岩崎・渋沢二君及ひ択善会の光助あるにあらずんば、決して斯の如き大業を興す能はざるなり、余の菲才を顧みずして、敢て此の大任に当るものは実に斯の如きの理由あればなり、然りと雖既に是れ雑誌たり、其の任として一国の利害を論究せざるべからず、決して一人一社の為に其の論鋒を抂ぐる能はざる也、左れば諸会社・諸銀行の制度及び行為にして苟も一国の損害を醸出すべきものあれば、仮令一会社一銀行の為に不利なるにもせよ、些毫の仮借ある能はず、今や我が社既に成る、是より後愈々益々隆盛に進み、此の雑誌をして東洋に雄飛せしめ、夫の洋人をして傲慢の気を阻喪せしむるも、又彼をして我が邦の貧を冷笑せしむるに至るも、全く江湖諸君の着意如何に在り、諸君よ苟も国を愛するの心ありて、日本の富能く経済雑誌を興すに適することを海外に示さんと欲せば、幸に愛顧する所あれ
経済雑誌社が択善会より受けたる補助は、公然約款を交換して之に基けるものなり、其の約款に拠れば、毎月百円宛択善会より支出し、経
 - 第27巻 p.506 -ページ画像 
済雑誌社は之に酬ふる為には東京経済雑誌に「択善会録事」と云へる一欄を設けて同会の記事を掲載し、又別に「銀行の景況」と云へる一欄を設け、雑誌として当然掲載すべき銀行一般の景況のみならず、今日新聞紙・雑誌に掲載する銀行の広告をも此欄内に掲載せり、右契約の第一期は明治十二年一ケ年なりしが、同年十二月の択善会月次会に於て契約の継続を議したるに、其の契約の事件は独り択善会の便宜なるのみならず、全国理財の途に裨益する所少なからざればとて、異議なく一ケ年継続を議決せり、然るに鼎軒先生は不換紙幣下落救済の方法に関して、時の政府と意見を異にし、東京経済雑誌を以て堂々として大隈大蔵卿(重信)の政策を攻撃せしかば、之が動機となり択善会同盟の銀行中往々経済雑誌社の補助を非難する者あり、終には公然同会の月次会に於て、之を主張したるものありしかば、鼎軒先生は既に異論ある以上は、一日も択善会の補助を受くるを好まずとて、渋沢青淵先生(栄一)の種々慰諭したるをも聴かず、契約の中途にして之を辞せり、而して尋で択善会も解散せり、鼎軒先生は明治十四年一月の初刊に於て、東京経済雑誌の独立を得たるを記して曰く、
 (上略)其の後択善会同盟の銀行、亦此の雑誌を創立するの企ありて、終に余輩を補助するに決せられたり、余輩の喜び左こそと推量し給へかし、是に於て直に経済雑誌社を創立す、実に明治十二年一月の事なりき、抑々倫敦「エコノミスト」週報は、其の紙幅と言ひ其の長さと云ひ、我か雑誌に二倍する程のものなれども、其処は詔陽魚《ゴマメ》の歯切にて、我は紙数を二倍にして拮抗せんと企てたり、其だに初より週報とは致し難ければ、明治十二年七月までは毎月一号を発し、十三年五月までは毎月二号を発し、其の以後毎月三号を発して今日まで引続けり、蓋し倫敦「エコノミスト」週報の如きは、固より銀行同盟の補助に依りて成立せるものにあらざれば、我も速に独立の旗幟を掲げて、日本社会の富に養はれんことを希望したりしに、幸(でもない)昨年七月択善会解散の事ありて、其の以後は全く独立の姿となりけり、聞ならく、昔時前九年の戦に、源頼義の衣川関を破り、進みて鳥海柵を抜くや、清平武則頼義に語りて曰く、今将軍を見るに頭髪半ば黒し、若し貞任を獲給はゞ全く黒からんと今や我が社の運命亦江湖の愛顧に依りて、半黒の時代にまでは進みけり、若し毎週発兌の宿志を全うするに至らば、是ぞ余輩の頭髪全黒の時なりける、其時までは今より幾日を重ねべきか、遠きも一年には越えざらめ、待てば一日千秋の思あれども、惜めば光陰は矢の如し、何ぞ新春の初より楚囚の嘆を為さんや云々、
斯くて鼎軒先生の頭髪全黒の時は、明治十四年七月を以て至り、同月より毎週発行と為し、以て今日に至れり ○下略



〔参考〕新聞集成明治編年史 同史編纂会編 第四巻・第一七頁 昭和一〇年六月刊(DK270137k-0003)
第27巻 p.506-507 ページ画像

新聞集成明治編年史 同史編纂会編  第四巻・第一七頁 昭和一〇年六月刊
    大蔵省の銀行雑誌
      ―廃刊さる―
〔一・二九 ○明治一二年郵便報知〕 大蔵省銀行課にて是まで発行されし銀行雑誌は都合により今度停刊し、該紙に掲載すべき事項は更に東京経済
 - 第27巻 p.507 -ページ画像 
雑誌に登録すといふ。



〔参考〕新聞集成明治編年史 同史編纂会編 第四巻・第四三頁 昭和一〇年六月刊(DK270137k-0004)
第27巻 p.507 ページ画像

新聞集成明治編年史 同史編纂会編  第四巻・第四三頁 昭和一〇年六月刊
    大蔵省の経済教育
      東京経済雑誌と合併す
〔四・二 ○明治一二年東京曙〕 大蔵省翻訳課に於て発行されたる経済叢書は以来御都合により発行を停止され、東京経済雑誌と合併になりたりと ○下略



〔参考〕渋沢栄一 日記 明治三二年(DK270137k-0005)
第27巻 p.507 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三二年     (渋沢子爵家所蔵)
十月五日 曇
○上略 田口卯吉氏銀行ニ来ル、経済雑誌社ノ事ヲ依頼セラル ○下略



〔参考〕東京経済雑誌 第四〇巻第一〇〇〇号・第八〇三―八〇四頁 明治三二年一〇月一四日 ○一千号(DK270137k-0006)
第27巻 p.507-508 ページ画像

東京経済雑誌  第四〇巻第一〇〇〇号・第八〇三―八〇四頁 明治三二年一〇月一四日
    ○一千号
我東京経済雑誌は本日を以て一千号に達することを得たり、日々発兌の新聞に於ては、一千号とて敢て異とするには足らざることなれども雑誌界に於ては一千号以上に達したるものは団々珍聞を除きては実に之あることなし、我東京経済雑誌の如き一種専門の雑誌にして、此の如き高齢に達するを得たるは、偏に大方諸彦愛顧の致す所にして、社員一同の深く感謝する所なり、我東京経済雑誌は明治十二年一月を以て第一号を発兌せり
今日に至るまで実に二十年十ケ月を経過せり、其間印刷する所の紙数実に三万八千九百余頁、用ふる所の字数約七千七百八十余万字、費す所の毛筆実に四千五百本、其他、墨・インキ・鉛筆・ペン、等の微に至りて巧歴も算すべからず、我社自由貿易を主義とするが為めに、五洲に視て以て一家となし、用ふる所の紙は之を米に取り、印刷する所の器械は之を仏に取り、費す所の筆・ペンは之を支那及英に取り、其他一切取捨偏僻する所あるなく、只だ廉にして佳なるもの是れ買求めたりと雖も、侮るなかれ、我社微なりと雖も、其費積みて実に数十万円の多きを為せり、豈に隆盛ならずと謂はんや、然りと雖も、反りて世運の進歩偉大なるを顧み、余輩の依然旧故吾たることを思へば、私に慚愧なきを得ざるなり、明治十二年の頃に当りては、世に会社と云へるものは国立銀行・米穀取引所の類に過ぎざりき、然るに今や鉄道紡績・製紙・海運等を初めとして、種々の製産事業勃興し、其取引の巨額にして、且活溌なる驚くべきものあり、而して単に銀行の業務に就いて観察するも、実に数十倍の繁昌を為せり、然るに我東京経済雑誌は筆にこそ他の欠点を批評すれ、確に此進運に伴はざりき、是れ亦少く弁なきを得ざるなり
蓋し此二十年間に於て我邦経済界は此の如く進歩したりと雖も、我文学界は未だ紛糾を脱せざりしなり、抑も経済論を為すもの単に現今にのみ着目するを得ざるなり、然りと雖も、我邦租税の変遷果して如何我邦貨幣の沿革果して如何、我邦財政の消長果して如何、我邦政治家の人物政策果して何如、大凡そ此等の問題に接着すれば、吾人は先づ
 - 第27巻 p.508 -ページ画像 
書籍館に馳せ付けざるべからざるもの多かりしなり、此の如くにして焉ぞ能く論文を草するを得んや、去れば余輩は東京経済雑誌を編輯するの余暇を以て、傍ら泰西政事類典・大日本人名辞書・日本社会辞彙等の編纂に従事し、更に進みて群書類従・国史大系を縮刷し、一には以て後の学者をして大日本百科字典《(マヽ)》を編纂するの楷梯を造り、一には以て当今の論客をして、不完全なからも、敢て図書館に赴かずして古来の歴史を捜索するの便を得せしめんことを勉めたり、猶工匠の先づ其器を利するか如し、余輩の薄弱なる脳漿は半は之に費せり、是れ力を東京経済雑誌に専らにせずして久く大方諸彦の好意に背く所以なり余輩は豈に深く洞察を請はざるを得んや
熟々之を思ふに余輩は真に多幸の人なり、独立独行、二十年を経過し議論往々世に行はれ、以て一千号に達するを得たり、世間幾人か之を能くす、嗚呼是れ豈に偏に大方諸彦の賜にあらずや、故に玆に謹で謝辞を陳べ、益々愛顧を加へられんことを望む



〔参考〕東京経済雑誌 第四〇巻第一〇〇二号・第九五〇―九五一頁 明治三二年一〇月二八日 ○一千号祝宴(DK270137k-0007)
第27巻 p.508 ページ画像

東京経済雑誌  第四〇巻第一〇〇二号・第九五〇―九五一頁 明治三二年一〇月二八日
    ○一千号祝宴
去る十四日、恰も本誌の一千号に達したる当日、弊社は聊か内宴を柳橋亀清楼に張り、東京同盟銀行諸氏及び社友数氏を招きて祝意を表したり、当日高臨を賜はりし人々は(次第不同)渡辺洪基君・須藤時一郎君・肝付兼行君・島田三郎君・保田久成君・高田小次郎君・池田謙三君・菊池長四郎君・岩下敏之君・長尾三十郎君・高橋半兵衛君・佐佐木勇之助君・中村弥助君・堀江半兵衛君・桜田助作君・上原豊吉君山中譲三君・相川尚清君・乗竹孝太郎君等凡て五十余名にして、皆弊社創立以来種々の点に於て助力を恭くしたるの諸君なり、記して以て高臨を謝すと云ふ、尚渋沢栄一君・安田善四郎君・原六郎君の当日急用の為め俄に高臨を謝せられたるは、弊社の大に遺憾とする所なり