デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

5章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 新聞・雑誌・出版
3款 東京日日新聞
■綱文

第27巻 p.530-533(DK270140k) ページ画像

明治24年7月(1891年)

是月、井上馨ハ伊藤博文ト謀リ、日報社ノ組織ヲ革メテ東京日日新聞ヲ伊東巳代治ニ経営セシメントス。栄一、株主総代トシテソノ間ニ斡旋ス。


■資料

世外井上公伝 井上馨侯伝記編纂会編 第四巻・第六一―六三頁 昭和九年五月刊(DK270140k-0001)
第27巻 p.530-531 ページ画像

世外井上公伝 井上馨侯伝記編纂会編  第四巻・第六一―六三頁 昭和九年五月刊
 ○第八編 第一章 黒田内閣
    第四節 自治制研究会
○上略
〔註〕関直彦氏談。
 ○中略 井上伯爵・青木周蔵・野村靖・小松原英太郎、それから民間の人としては、渋沢栄一・原六郎、益田孝は勿論主人で、藤田伝三郎高梨哲四郎・有松英義、私も末席に列つて、自治会を自治党といふものに改称して拡張し、各地に遊説をして各地の主なる人を説いて組織させようと色々相談が進んだ。その時にそれには機関新聞が必要だといふ問題が起つた。それには新に新聞を起すよりも、こゝに来て居る関君の東京日日新聞を自治新聞と改称して機関新聞にしたら宜からうといふ発議があつた。誰がいつたか忘れましたが、丁度私が福地の後を継いで漸く一年位になつて、大部世間の評判が良くなり、読者も殖えて来たのですから、それを機関新聞にしたが宜からうといふことで、殆どまあ一座が「それが宜からう宜らう、関承知
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しないか。」といふことになつた。私は困つた。井上さんには洵に個人としては御厄介になつて居るから、成るべく井上さんのいふことは聞きたいけれども、私の事と公の事とは違ふ話で、私が日日新聞を相続した時に世聞に発表して、如何なる政党にも偏しない。不偏不党であるといふ旗幟を立てて来たのですから、こゝで以て之を自治新聞と改称して、自治党の機関にするといふことは、私としては洵に社会に対して約に背くことになる。それ故私の居る間は、どうも困難であるといふことをいうた。それでまあ一座白けた訳なんです。さうすると私の前に藤田伝三郎がやつて来て「君そんなことをいはないで、自治新聞にしたら宜らう。」とかういふのです。あなたは株主だけれども、さういふことを強要される権利もないといふので私は応じなかつた。その時に唯一人渋沢栄一さんが、「関のいふことは尤もです。それは私も約束があります。日日新聞を引受けさせる時に、私は株主総代として関にやれといふことをいうた時に、不偏不党でやりますから、一切掣肘を受けぬこと、又他の機関とならぬこと、それを御承知ならやります。損失額も三年間は我慢して呉れといふことをいひまして、宜しいからやれと私はいつたのです。こゝで以て看板を塗替へろといふことは、ちつと御無理でせう。」と渋沢さんがいはれたのです。そこで日日新聞が自治新聞となつて自治党の機関となる問題が消滅したのです。そんなら仕様がないから有松君の主幹して居る自治に関する雑誌があつた、それを一つ機関雑誌にしようぢやないか。それは勿論初めから自治の機関であるから、それが宜からうといふことになつて、機関新聞の問題は解決した。私は大変皆様に怒られたのです。けれども社会に向つて約束があるものですから、私が罷めれば構はぬが、罷めない以上はその約束を反故にする訳になる。井上さんの意志にも反いたらうと思ふのですけれども、これは洵に節義の上から已むを得ない訳であつたのです。御気毒だと今以て思つて居ります。さういふやうな計画で、それから盛んに集会をしたり相談をしたりしました。その主義に於ては、私は日日新聞といふものを除いては、主義に於ては賛成でしたから、常に他の集会にも臨んだのであります。


東日七十年史 相馬基編 第八二―八三頁 昭和一六年五月刊(DK270140k-0002)
第27巻 p.531-532 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

渋沢栄一書翰 井上馨宛 (明治二四年)七月二〇日(DK270140k-0003)
第27巻 p.532 ページ画像

渋沢栄一書翰 井上馨宛 (明治二四年)七月二〇日   (井上侯爵家所蔵)
奉啓、陳者日々新聞之事ニ付過日御内示之末、尚西村虎四郎ヘ御申聞之義も昨日承知仕候ニ付、重立候株主と早速内相談之集会も可相催と存候得共、昨日伊東巳代治氏拙宅ヘ来訪、申聞候処ニてハ右者未タ充分考案確定とも難申候ニ付、此際先ツ日報社現在之資産・負債及新聞発兌之模様、其外株主人名等迄詳知いたし、自分之見込相立其上ニて重立候人々と御相談可致と申事ニ候、就而ハ第一ニ伊東氏之考案相立候様取運ひ、其後株主相談会相催し可申ニ付、暫時之処此儘ニ御差置可被下候、右者西村ヘ御垂示之趣も有之候由ニ付、一応書中申上置候
                          匆々不一
  七月廿日
                      渋沢栄一
    井上伯 閣下


渋沢栄一書翰 田中光顕宛 (明治未詳年)三月一〇日(DK270140k-0004)
第27巻 p.532-533 ページ画像

渋沢栄一書翰 田中光顕宛 (明治未詳年)三月一〇日   (伊藤公爵家所蔵)
華翰拝読仕候、然者過日井上伯より御内話有之候日報社補助金之義ニ付、御垂示之趣拝承仕候、右者頃日来種々考案致居、将来之方法をも熟議中ニ御坐候間、右等見込相立候上ハ早々委細之事情も陳上可仕候ニ付、暫時之処是迄之姿ニ御据置被成下度候、詰り従前之如く御補助等不相願様ニ致し其成立を謀度と心配中ニ候得共、此際突然御廃しと御下命相成候ハ少々困却仕候次第ニ付、何卒今暫らく御猶予被下度候
 - 第27巻 p.533 -ページ画像 
右拝答如此御坐候 匆々不宣
  三月十日
                      渋沢栄一
    田中老台
          侍史