デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

5章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 新聞・雑誌・出版
4款 東洋経済新報社
■綱文

第27巻 p.534-535(DK270141k) ページ画像

明治28年11月15日(1895年)

是日町田忠治ニヨリ「東洋経済新報」創刊サル。栄一援助スル所アリ。


■資料

東洋経済新報 第二〇〇〇号・第二八頁 昭和一六年一二月六日 創刊者の心境(本誌創刊者町田忠治)(DK270141k-0001)
第27巻 p.534-535 ページ画像

東洋経済新報  第二〇〇〇号・第二八頁 昭和一六年一二月六日
    創刊者の心境 (本誌創刊者 町田忠治)
 私が東洋経済新報を考へ起しましたのは、明治二十六年でありました。ぶらりと西洋に遊びに参りまして、二十七年、日清戦争の最中に帰つて来たのであります。一通り西洋を見、日清戦後の日本の事情を見まして、日本の経済界は此の際一つの躍進をしなければならない時代ではあるまいか、と感じまして、東洋経済新報を創めたのであります。
 まづ私共の先輩に諮りましたが皆反対でありました。渋沢老を初めとし、主なる先輩は何れも、経済雑誌を作つても、なかなか続くものではない、として私の企てを思ひ止まるやうに反対されたのであります。私は必ずやつてみせる、と云ふ考へを起しまして、先輩の止めるのも肯かず、此の雑誌を創めました。牛込の小さい長屋の私宅で始めたのであります。
 之を始める半年ばかり前は、将来此の雑誌を発行し継続して行くにはどう云ふやり方をしたらよからうか、と云ふことに相当苦心しました。半年ばかりの間、雑誌を作り、読者を如何にして拵へるか、と云ふことに亦相当苦心したのでした。渋沢さんなどは自分の関係者に三百部を講読させると云ふ風に骨を折られ、其の他の先輩も奔走して呉れましたので、今から見ますと、部数は極めて少なかつたのでありますが、石橋君も当時の帳簿を御覧になると判ると思ひますが、幸ひ第一号以来一度も赤字を出さなかつた。是は珍しいことだと思ひます。当時感想めいた経済雑誌を発行して、第一号以来赤字を出さなかつたと云ふことは、私、心ひそかに誇りとしてをるのであります。
 私は経済学などは深く勉強した訳ではなく、たゞ斯様な雑誌が必要である。又力を尽せば成立つとすれば、私の仕事は終れりとして二十八年から二十九年の終りに当時の経済学者の和田垣謙三・天野為之助氏等二十何人の方々に、東洋経済新報は私が主宰して収支は相償ふから、是から先は自分の力では至らないから誰か東洋経済新報を引受けて呉れないかと云ふことを提議しましたところ、当時之を引受けて下さる人が無かつたのであります。その後やつとのことで天野博士が引受けてくれましたが、爾来、今日に至るまで、同人諸君の国を思ふ至誠の心と、烈々たる気魄とによつて、乏しきを憂へず、聊かなりともお役に立つことが出来てきた次第であります。
 創刊以来四十六年の今日まで、日本経済の水先案内としての任務を聊かながら果して来たことは認められませうが、二千号に達したのを
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機会として、今度は社名の表示する通り、東洋全体の経済に関する水先案内たる実をあげるやう、新に発足される事を、名づけ親として衷心より希望し、またそれを確信致します。
   ○「索引政治経済大年表」(昭和十八年九月)ニ拠レバ、当社ハ明治二十八年十一月十五日ニ創立サレ、旬刊「東洋経済新報」ヲ刊行セリ。