デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.14

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

3部 身辺

9章 雑資料
1節 遭難
■綱文

第29巻 p.625-632(DK290200k) ページ画像

明治25年12月11日(1892年)

是日栄一、伊達宗城ノ病ヲ見舞ハントシテ馬車ニテ外出ノ途上、暴漢ノ襲撃ヲ受ケタルモ、馬ノ傷付キタルノミニテ、事ナキヲ得タリ。


■資料

渋沢栄一書翰 吉岡新五郎宛 (明治二五年)一二月二八日(DK290200k-0001)
第29巻 p.625 ページ画像

渋沢栄一書翰  吉岡新五郎宛 (明治二五年)一二月二八日
                    (吉岡鉱太郎氏所蔵)
○上略
拙生も本月十一日不慮之事ニて、暴徒ニ途中要撃せられ車馬《(マヽ)》と力とハ大ニ怪我せしも、身体ニハ何たる負傷も無之候、右者当時諸方之新聞ニも掲載有之候ニ付、別ニ詳細ハ不申上候、右に付爾後警衛之人を召連れ都合ニ御坐候
○中略
  十二月廿八日
                      渋沢栄一
    吉岡新五郎殿
○下略


竜門雑誌 第五五号・第五一―五四頁 明治二五年一二月 青淵先生兇徒要撃の危難を免る(DK290200k-0002)
第29巻 p.625-626 ページ画像

竜門雑誌  第五五号・第五一―五四頁 明治二五年一二月
     青淵先生兇徒要撃の危難を免る
青淵先生は、去る十一日午後二時二十分過頃、浅草今戸なる伊達宗城侯の病気を見舞はんとして、兜町の邸宅より一頭曳の箱馬車に乗り、今や将に兜橋を通過せんとするに当り、橋頭の左右両側(一方は東京郵便電信仮局、一方は今津屋)に、頭に饅頭笠を戴き、身に盲目縞の股引半天を着け、或は縞毛布等を被りて車夫に扮装したる兇徒等佇立して窃に馬車の来るを今や遅しと待受けつゝありしものゝ如し、果して此等の兇徒は毛布の下に隠し持たる白刃を閃かして、先づ其一人は馬の前脚に二刀斬付け、又一人は馭者を目掛けて一刀斬付たれ共、狙ひ外れて斬ることを得ず、他の一人は馬車の左側より、一刀は幌の上より一刀は窓の曳手に掛けてズルリト斬下げたれど、刃の先は馬車の中に突通ることを得ずして、唯だ二刀斬掛けたるのみ、尚他の一人は右側より一刀は幌の上より、一刀は窓の硝子を突き破り、又一刀は二寸ばかり離れて同じく斬掛けたり、此一刀は即ち先生が新聞紙を読み居たる眼前に閃き渉りて、危害将に身に及ばんとしたるにぞ、先生ハ身を後に控へて之を避けぬ、然るに兼て数日前より怪しき風体の者ども同邸宅の近傍を徘徊し、頻りに先生の身辺を付け狙ふ容子あるより早くも其筋の探知する処となりて、所轄阪本町警察署よりは特に密行巡査を其近傍に配置し、昼夜警戒怠る処なかりし、既に同日も巡査宮里仲太郎氏同邸の前を密行せる折柄、先生が馬車にて外出するに遇ひ
 - 第29巻 p.626 -ページ画像 
しかば、同巡査は之に尾して兜橋を渡らんとする折しもあれ、此兇変あるを見て急ぎ其場に駈付け、兼て携へ居たるステツキを以て、馬車に斬付けたる兇徒の背部よりしたゝかに殴打しければ、為めに兇徒も辟易するの色あり、又其場に居合せたる車夫等も共に力を合せて其抜刀を奪取り、馬丁は今津屋の店頭より棒切れを持来りて、一人の兇徒が振かざしたる白刃を打落し、互に組んづ組れつする其機に乗じ、機転利きたる馭者は前脚に重傷を負ひ鼻頭を地に付けて躓き居ける馬に一鞭を加へ、この太い奴、馬鹿馬鹿と大音声に罵りつゝ、西河岸指して急がせぬ、此兇変の報阪本町警察署及兜町巡査派出所等に達するや警部・巡査等直に出張、兇徒を捕縛せんとしたるも、既に他の兇徒は混雑にまぎれて何れにか跡をくらまし、宮里巡査及車夫等の手にて取押へたる兇徒二名は直に縛に就き、同警察署へと引致されたり、凭くて西河岸に駈けたる馬車は、西河岸橋に至りて漸く其馬首を北にし、辛ふして駿河町なる三越呉服店まで駈抜けゝり、こゝに先生は暫時休息、無事に兜町の邸宅に帰ることを得、更に異状之なかりし、尤も先生は右手の甲に微傷を負はれしも、こは思ふに刀創には非ずして、窓の硝子の破砕したる一片が飛散して、斯くは微傷を負はれしものならん歟
此等の兇徒が何故に斯る兇暴を企つるに至りしものなるか、今方さに審問中にして、未だ之を聞くに由なし、兇徒の捕縛されたるは左の両人にして、連累者は昨今頻りに其捜索中なりと聞けり
       芝区南佐久間町一丁目三番地郷風館米田吉三郎方
                石川県士族 千本喜十郎
                         二十九年
       下谷区仲徒町四丁目四十三番地青年義団本部寄留
                福井県士族 板倉達一
                         二十九年
     ○渋沢邸の混雑(見舞人の車馬織るが如し)
先生遭難の報に接するや、朝野の貴顕紳士は車馬を駆りて同邸を訪問し、門の内外非常に雑沓を極む、先生は取敢へず右手に繃帯を施したるまゝ来客に接して、其遭難の状況を述べ、訪問の厚情を謝せり、当日より翌日に掛けて同邸に見舞ひし人数は殆んと算ふべからずして、各地方よりも電信又は書状を以て慰問せられたり、慰問者の重なる人人は左の如し
 伊藤・井上・渡辺・河野・後藤・山県等の各大臣、及林友幸・徳川昭武・若尾逸平・前島密・角田真平・辻新次・岩崎弥之助・岩崎久弥・三井八郎右衛門・三井八郎次郎・三井元之助・三井高保・三井養之助・川田小一郎・益田孝・木村正幹・大倉喜八郎・中上川彦次郎・遠武秀行・川上操六・河津祐之・荘田平五郎・西村虎四郎・米倉一平・小野義真・銀林綱男・矢野二郎・島田三郎・得能通昌・前田清照・茂木惣兵衛・塚原周造・湯池定基・長岡護美・阿部泰造・園田実徳・豊川良平・渡辺洪基・吉川泰次郎・原六郎・小室信夫・外山修造・松田源五郎・渡辺甚吉・深川亮蔵・東条頼介

 - 第29巻 p.627 -ページ画像 

実験論語処世談 渋沢栄一著 第四五八―四六一頁 大正一一年一二月刊(DK290200k-0003)
第29巻 p.627-628 ページ画像

実験論語処世談 渋沢栄一著  第四五八―四六一頁 大正一一年一二月刊
 ○謙譲の徳と不動の信念
    ◎二名の暴漢に襲はる
○上略
 既う今(大正六年)より二十五年も前のことで、明治二十五年の十一月頃だつたやうに記憶するが、伊達宗城伯が病気であらせられたので御見舞に出かけやうと思ひ、午後三時頃、まだ自働車の無い時代だつたから自用の二頭立馬車を駆つて兜町の事務所を出で、直ぐ前の兜橋を渡り江戸橋の通りと四日市町の通りとの交叉点の処へ来懸ると、突然物陰から二人の暴漢が抜刀で現れ、馬車馬の足を払つた事がある私は何だか馬車が一寸佇止つたやうに思つたのみで、刺客に襲はれたなぞとも心付かなかつた中に、馭者が馬に鞭を当てゝ極力走らしたものだから、一頭は毫も傷を受けず、傷つけられた一頭も亦能く一緒に走つたので、難無く其場を脱し、一まづ駿河町の三越呉服店――当時まだ越後屋と称して居つた店舗に這入り、休息する事にしたのだ。
 是より先き数日来馬車の馭者が、何うも近来は変だ、何者か私(渋沢)の身辺を狙つてる者があるらしいと私に注意し、又警視庁からも何うも私の身辺が近来危険のやうに思はれるから、護衛巡査を附けるやうにしたら宜からうと注意してくれたので、当時既に平服の護衛巡査が随き、人力車で馬車の後から護衛してくれて居つた事とて、暴漢が現れて抜刀で馬車馬の足を払ふや否や、馬車を先きに進つて置いて巡査は直ぐ人力車より降り、その場で暴漢二名を捕縛してしまつたのである。
    ◎原因は水道鉄管事件
 私は当時越後屋と称した駿河町の三越呉服店で、馬車から降りたが途中に起つた椿事に就ては何事も談らず、たゞ伊達伯の病気見舞に出かける処だが、一寸仔細あつて休息さしてもらひたい、とだけ申し述べて店内に入り休憩したのだが、越後屋でも唐突の事なので、何事が起つたのかと驚いて居る中、何処からとも無く途中の椿事が伝はつて続々見舞の人が越後屋に押し寄せて来たので、同店でも始めて其れと知つたほどである。さてその日は伊達伯への見舞も見合せ、愈々帰らうといふ段になると、帰途も危険だから是非護衛しやうといふものもあつたが、刺客にして真に私を斬り殺さうといふ意ならば、直に私へ斬つて懸るべき筈のもので、馬の足を払ふ如き廻りクドイ手段を取らう筈なく、又同勢二人抜身を手にして居りながら、何の抵抗もせずムザムザ一人の護衛巡査ぐらゐに捕縛されてしまふわけも無く、察するに壮士が若干かの金銭を与へられて、渋沢は怪しからん奴だから斬つてしまへとか何んとか煽動され、貰つた金銭の手前放置つてもおけず馬車馬の足を払つたに過ぎぬのだから、帰途に又危険なぞのあるべき筈は無いと、いろいろ親切に言ふてくれた人々の好意を強ひて謝し、護衛なぞ附けずに帰宅したのだが、果して私の考へた通り何事も無く無事で宅まで帰つたのである。然しこの時に私が斯く敢然たる態度に出で、毫も恐るゝ処の無かつたのは、自ら省みても些か疚しい所が無かつたからである。
 - 第29巻 p.628 -ページ画像 
 世の中には偶然な出来事といふものがあつて、屋根から突然落ちて来た瓦に当つて死ぬ者なぞもある。藤田東湖先生の如きは、地震の際落ちて来た梁に当つて死んでるでは無いか。如何に生きやうとしても無い生命は結局無いものである。それが天命といふものだ。如何に殺さうと思つても、生きるべき筈の者ならば、さう容易く殺されるものでは無い。「匡人其れ予を如何にせん――桓魋其れ予を如何にせん」である。私には斯の信念があつたから、斯んな騒ぎがあつても、毫も恐るゝ所が無かつたのである。
 この二人の暴漢は、共に当時の所謂壮士で、石川県人千木喜十郎・板倉達吉の両人であつたが、当時喧しかつた東京市水道鉄管事件に関し、私が外国製の使用を主張せるに対し、内国で之を製造し納入しやうと企てた者があつて、其後聞知せる処に拠れば、この一派の人々は恰も私が外国商人よりコムミツシヨンでも取つて、外国製の使用を主張するかの如く言ひ触らし、渋沢は売国奴であるからヤツツケロといふやうな過激の言を以て、千木・板倉の二人を煽動し、三十円宛を与へたとかで、その金銭の手前、二人は那的人嚇かしをしたものなさうである。
    ◎東京市水道との開係
 今の東京市水道は明治二十二年から計画されて、同二十五年より工事に着手し、六ケ年の星霜を費し、経費九百三十余万円で、明治三十一年漸く完成したものであるが、私と東京市水道とは浅からぬ関係がある。私は東京市の公衆衛生を保護するには、如何しても水道の設備を完成せねばならぬ事を思ひ、当時私は猶ほ東京市々参事会員でありもしたものだから、特に水道調査会を組織し、之が為め多少の私費をも投じて調査研究し、若し市に自営の意志が無ければ、会社を組織して水道経営をやらうとの意志が私にあつたほど故、鉄管問題の起つた際も、当時に於ける日本の工業状態では、到底鉄管を内国で製造し得らるゝ見込無く、強ひて内国製を使用しやうとすれば、何時水道が完成するものやら判らず、その完成を急がうとならば、鉄道でも何んでも、初めの中は外国製の材料のみならず、外国人の技師をさへ招聘しこれによつて啓発せられ、以て今日の発達を見るに至つたこと故、水道鉄管の如きも、まづ最初は外国製を用ひ、之によつて漸次本邦の斯の方面に関する知識を開発するやうにしたら可からうと、私は主張したのである。
 私が若し外国人よりコムミツシヨンでも取る目的で、斯な意見を主張したものならば、確に私は売国奴であるに相違無いが、毫も爾んな事は無く、水道を一刻も早く完成させたいといふ無私の精神から之を主張したのだから、私としては些かたりとて疚しい所のあらう筈が無い。然し若し愈々私の意見が通る事になれば、内国製を納入しやうと目論んでゐたものは、之が為め儲からぬ事になる。その為め壮士を使嗾して私を嚇かしたものらしかつたのだ。
○下略


竜門雑誌 第五六号・第四六―四九頁 明治二六年一月 ○青淵先生遭難無事祝宴会ニ於ケル園田氏ノ祝詞(DK290200k-0004)
第29巻 p.628-630 ページ画像

竜門雑誌  第五六号・第四六―四九頁 明治二六年一月
 - 第29巻 p.629 -ページ画像 
○青淵先生遭難無事祝宴会ニ於ケル園田氏ノ祝詞 青淵先生ハ本月十一日暴漢ノ為メ要撃セラレタリシガ、幸ニ其難ヲ免カレタルヲ以ツテ銀行集会所同盟銀行相謀リ、日本銀行総裁始メ京浜及ビ現今在京ノ同業者無慮七十有余名ト共ニ、去ル廿四日 ○明治二五年一二月先生ヲ帝国ほてるニ招請シ、盛大ナル祝宴ヲ張リタリ、其際総代トシテ、横浜正金銀行頭取園田孝吉氏ノ演ベタル祝詞ハ左ノ如シ
今夕ノ賓客渋沢栄一君ガ曩日不慮ノ変ニ遭遇セラレシモ、幸ニ難ヲ免レテ身命ノ全キヲ得ラレタルハ、誠ニ欣喜ノ至ニ耐ヘザルナリ、我輩同志相謀リ、君ノ賁臨ヲ請フテ玆ニ共ニ祝盃ヲ挙ゲントス、是レ本会ヲ催フシタル所以ナリ
抑モ渋沢君ガ本邦経済上ニ大功偉績アルハ世ノ夙トニ知ル所、敢テ贅スルヲ要セザルナリ、就中銀行ノ事ニ至テハ蓋シ君ガ畢生ノ精神ヲ注ガルヽ所ニシテ、率先我同業者ヲ誘導シ、裨益ヲ与ヘラレタルモノ甚ダ大ナリトス、顧ミレバ君嘗テ大蔵ノ要職ニ居ラルヽノ日ヨリ、主トシテ心ヲ本邦商工業ノ振興ニ傾ケ、経綸セラルヽ所尠カラスシテ、国立銀行条例制定ノ如キ、第一国立銀行創立ノ如キ、皆君ノ力ニ依ラザルハナシ、既ニシテ君官ヲ辞シテ専ラ民業ニ従事セラルヽヤ、当時本邦ノ形勢ハ百事更革、旧慣既ニ破レテ新習未ダ成ラズ、我経済ノ組織随テ紛擾混乱ス、加フルニ巨家ノ破産相踵ギ、人心恟々トシテ商海ノ風浪殊トニ険悪ヲ極メタリ、故ニ此際若シ一歩ヲ過ツアレバ、我銀行事業ハ尚ホ幼稚ナルヲ以テ、忽チ挫折セラレテ再ビ廃絶ニ帰セシモ亦未ダ測ルベカラザリシナリ、然ルニ此難衝ニ当リ君拮据鞅掌、能ク千錯ヲ理シ万難ヲ排シテ、其監督スル所ノ第一国立銀行ヲ保護シ、其基礎信用ヲシテ年ニ愈々鞏固ナラシメ、終ニ今日ノ隆盛ヲ漸致シテ、以テ規範ヲ天下ニ示サレタルハ、実ニ我銀行史上ニ大書セザルベカラザル所ナリ
第一国立銀行ハ本邦国立銀行ノ嚆矢ナリ、君已ニ創立ノ初ヨリ之カ為メニ周旋セラレ、明治八年以来ハ現ニ其頭取ノ椅子ヲ占メテ、十有七年ノ久シキ一日ノ如シ、此間禄制ノ改革アリ、西南ノ変乱アリ、不換紙幣ノ増発アリ、日本銀行ノ創立アリ、紙幣兌換ノ実施アリ、公債ノ整理アリ、財政上・商業上著大ノ変動ヲ呈セシ事前後幾回ナルヲ知ラズ、而シテ斯カル大事ニ会シテハ、君常ニ国家ノ為メニ奔走シ、又タ能ク其事宜ニ処シテ籌劃多クハ当ヲ失ハス、且銀行同盟会ノ如キ、銀行集会所ノ如キ、手形交換所ノ如キ、凡ソ銀行営業上必須ノ機関ハ其設立君ノ唱道ニ出テザルハナク、今日我輩同業者ガ協同和衷シテ、一致ノ運動ヲ為スヲ得ルモノ、君ノ力与テ多キニ居ル事ハ、満堂諸君ノ共ニ認メラルヽ所ナラン、即チ君ノ本邦銀行事業ニ於ケル其功労頗ル大ニシテ、銀行社会ノ泰斗タル栄誉ヲ荷ハルヽモノ、決シテ偶然ニ非サルヲ見ルヘシ
以上ハ唯君カ銀行事業ニ於ケル功労ノ大略ヲ挙ケタルノミ、若シ夫レ他ノ商工業ニ対スル関係ニ至テハ、其範囲広ク其種類多ク、殆ト枚挙ニ勝ヘサルナリ、之ヲ要スルニ百般文明的事業ノ新ニ起ルモノ、君ノ之ニ与ラサルハ稀ナリト云フモ誣ヒサルヘシ、而シテ東京市政ニ、東京商工会ニ、其他公共又ハ慈善ノ業ニ任セラルヽモノ亦少シトセス、
 - 第29巻 p.630 -ページ画像 
是レ真ニ多々益々弁スルモノ、実業社会君ノ如キハ復タ得易カラサルナリ
然ルニ測ラザリキ、君一朝暴漢ノ為メニ要撃セラレ、其兇刃ヲ受ケラレントス、機一髪嗚呼亦危カリシナリ、幸ニ天君ヲ救フアリ、慶何事カ之ニ如カンヤ、是レ啻ニ渋沢君一家ノ為メニ之レヲ祝スベキノミナラズ、我同業者ノ為メ、又広ク実業社会ノ為メニ深ク之ヲ祝セサルベカラサルナリ、冀クハ君自愛セラレ、我商工業過去ノ進運ヲ助ケラレタルノ熱心ヲ倍シテ、将来益々尽サルヽアラン事ヲ、是レ国家ノ為メニ切ニ祈ル所ニシテ、君ノ宿志亦爰ニアルヲ疑ハザルナリ
今マ満堂ノ諸君ト共ニ佳賓渋沢君ノ健康ヲ祝セントスルニ臨ミ、胸中愉快限リナキナリ、因テ聊カ蕪言ヲ陳シテ祝詞ニ代ユト云フ


竜門雑誌 第五七号・第三八頁 明治二六年二月 青淵先生を招待す(DK290200k-0005)
第29巻 p.630 ページ画像

竜門雑誌  第五七号・第三八頁 明治二六年二月
○青淵先生を招待す 第一国立銀行の西園寺・三井・須藤・佐々木・熊谷・長谷川・大沢・大井・斎藤、王子製紙会社の谷・大川・田中、東京製紙分社の星野、東京瓦斯会社の谷瀬、東京人造肥料会社の和田東京海上保険会社の津田、銀行集会所の山中、東京商業会議所の萩原古河鎔銅所の福岡、清水方の原等の諸氏は、去月二十二日を卜し、午後三時より青淵先生を浜町の常盤やへ招請し、劇務の積鬱を慰むる為め宴会を催ほしたり、此会同は賓主ともに隔意なき間柄とて、極めて愉快を覚えたり、殊に円朝の落語数番、綾の助の義太夫其他歌舞等、更に興を助け、席上の周旋も手馴れし連中にて和気靄然たり、当日床の掛物は布袋の唐子遊ひ、置物は鶴を用ひ、朱地に万々歳の金字を置きたる祝杯を用ゐたるは、常盤やの心尽しにて、此会同を祝し、且旧臘の遭変免難を慶賀する意なりとかや


竜門雑誌 第五八号・第四〇頁 明治二六年三月 ○兇行者の裁判(DK290200k-0006)
第29巻 p.630 ページ画像

竜門雑誌  第五八号・第四〇頁 明治二六年三月
○兇行者の裁判 旧臘青淵先生を要撃せんとして直に取押へられたる兇行者板倉達一・千木喜十郎の両名は、東京地方裁判所に於て審理中の処、去る九日刑法第二百九十二条に照し其未遂なると酌量とによりて、各重懲役十年に処する旨宣告せられたり


(八十島親徳) 日録 明治四三年(DK290200k-0007)
第29巻 p.630 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四三年   (八十島親義氏所蔵)
三月十日 半晴
○上略 予ハ午前山王橋迄散歩地蔵境内ノ馬頭観世音ヲ撮影ス、コハ青淵先生ノ愛馬(去明治二十五年御遭難ノ節負傷後須永氏ノ手ニヨリテ養老、後斃死)ノ遺骨ヲ葬リ、岡部老人ノ好意ニテ碑ヲ立テシ処也 ○下略


竜門雑誌 第六二九号・第二五―二六頁 昭和一六年二月 青淵先生遭難の実況を想起して(森岡平右衛門)(DK290200k-0008)
第29巻 p.630-632 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。