デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 東京市養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第30巻 p.220-234(DK300020k) ページ画像

大正13年3月21日(1924年)

是ヨリ先、当院大塚本院ヲ府下北豊島郡板橋町ニ移転スルニ決シ、大正四年十月、東京市養育院移転助成会設立セラレ、栄一、会長トシテ種々尽力ス。大正七年五月十五日、皇后陛下ヨリ移転拡張ノ補助トシテ金一万円ノ下賜アリ、栄一、宮内省ニ出頭シ拝受ス。ソノ後板橋本院ノ新築ハ大正十一年七月起工シ、是日新講堂ニ於テ落成移転披露会挙行セラル。栄一、当院院長トシテ出席シ式辞ヲ述ブ。


■資料

中外商業新報 第一〇二四七号 大正三年一〇月三一日 ○市養育院新築(DK300020k-0001)
第30巻 p.220 ページ画像

中外商業新報  第一〇二四七号 大正三年一〇月三一日
○市養育院新築 小石川なる東京養育院は用舎漸く狭隘を告げ、尚空気の清澄を必要とする為、板橋分院の隣接地に移転新築すべく、用地買収案三十日の市参事会にて委員付托


渋沢栄一 日記 大正四年(DK300020k-0002)
第30巻 p.220-221 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年      (渋沢子爵家所蔵)
二月十六日 晴
○上略 四時東京市役所ニ抵リ、高橋助役ニ面会シテ ○中略 養育院ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
二月廿五日 晴
○上略 安達憲忠氏来リ、養育院経費予算ノ事ヲ談ス ○下略
二月廿六日 朝来雪降ル
○上略 十一時事務所ニ抵リ ○中略 午後四時山口市会副議長来リ、安達憲忠氏ト共ニ養育院予算ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
三月十七日 晴
○上略 三時東京市役所ニ抵リ、高橋助役ニ面会シテ ○中略 養育院ノ事等ヲ談ス ○下略
   ○中略。
六月一日 雨故寒冷ヲ覚フ
○上略 安達憲忠ノ来訪アリ、養育院ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
六月十三日 曇
○上略 午前九時過巣鴨養育院ニ抵リ ○中略 畢テ本院ニ抵リ、東京市長・助役・常設委員等ト板橋移転ノ事ニ関シテ種々ノ協議ヲ為ス ○下略
   ○中略。
八月十三日 半晴 暑気強シ
 - 第30巻 p.221 -ページ画像 
○上略 九時過巣鴨養育院分院ニ抵リ安達幹事・小沢副幹事ト院務ヲ談ス更ニ本院ニ抵リ、移転ニ関スル準備及寄附金募集ノ手続等ヲ協議ス、桜井井之頭分院副幹事モ来会ス、養育院ニテ午飧○下略
   ○中略。
十月十三日 曇
○上略 午前十時巣鴨養育院分院ニ抵リテ ○中略 更ニ本院ニ於テ常設委員会ヲ開キ、移転助成会ノ事ヲ議ス ○下略
   ○中略。
十月廿一日
○上略 午前十一時築地精養軒ニ抵リ、養育院ノ移転助成会ノ事ニ付、各新聞記者ニ其趣旨ヲ演説シテ賛成ヲ求ム ○下略
十月廿二日
○上略 十二時築地精養軒ニ抵リ、養育院移転ニ付寄附金ノ事ヲ市吏員常設委員及各区長ニ依頼ス ○下略


東京市養育院月報 第一七六号・第二二―二六頁 大正四年一〇月 ○助成会の創設(DK300020k-0003)
第30巻 p.221-224 ページ画像

東京市養育院月報  第一七六号・第二二―二六頁 大正四年一〇月
○助成会の創設 今回本院拡張の必要上より助成会なるもの創設せられたり、蓋し先是院の漸次に膨脹するや、勢ひ副産物として産出するものは下層細民と近県各地方より出京せる敗残者となり、而して彼等の多くが窮民となり或は行旅病人となりて本院に収容せるゝの数年一年を逐ふて倍加し、巣鴨・板橋・安房の三分院、井の頭感化部の収容力もこれに応ずる能はず、本院壱万四千余坪の敷地も必要に迫られたる毎に漸次増築して、今や多くの空地を剰さず、加之市の発展と共に商家の囲繞する所となり、事業経営上故障尠なからざるより、昨大正三年十二月板橋分院隣地弐万五千六百七十余坪を買収し、本院移転敷地となしたるが、これに要する新築費約三十七万円、而してこの費用を充実せんが為めには、現在本院の敷地一部を売却して之を支弁するも、猶約廿余万円は遍くこれを江湖慈仁の士に訴ふることとなし、十月十三日本院常設委員会席上に於て助成会設立の議決定し、次で市参事会員の賛助を得て、同月二十一日市内各新聞記者、翌二十二日発起人・各区長の相談会を築地精養軒に開催し、別項記載の同会旨意書を発表するに至れり
 因に明治二十九年本院か本所区長岡町より現在地に移転せし当時の収容数は、実に五百十九人に過ぎざりしものが、現在に於ては二千六百人以上を算するに至れり、即ち二十年間に於ける本院は五倍の収容力を高めたる次第にして、今後市救済事業上に根本的解決を下さんには、移転拡張の必要なる元より言を俟たざる所なり
    東京市養育院救済拡張費義捐募集旨意書
均しく我か同胞なり、而して錦衣玉食大厦高楼に起臥するものあり、凍へて衣なく、餒へて食なく路傍破屋に呻吟するものあり、誰か惻隠慈愛の心なからむや、惻隠慈愛の心あつて救を窮者に及ほさゝるものは何ぞや、他なし、眼に其実況を見ず、耳に其嘆声を聞かざるが故なり、若し一たび之を聴き之を見るに及むでは、其感動禁ぜむと欲するも禁ぜざるべし
 - 第30巻 p.222 -ページ画像 
我か東京市養育院は、今を距ること四十四年前本郷旧加州邸内に仮設せしを起原と為し、後上野護国院内に遷り、明治十二年神田和泉町旧藤堂邸内に遷り、同十七年本所長岡町に遷り、同二十二年市制施行の際より市の経営に帰し、同二十九年現在の地に転じ、爾来二十年以て今日に至れり
蓋本院の本務は無告の窮民、即ち鰥寡孤独を収養して其生命を保全せしむるに在り、而して其児童は殊に発育の善良を計り、巣鴨分院を設けて此に収養し、其羸弱児は海気療法の為め安房分院を設けて之に移し、其夭折を減ずるの効著るしき者あり、其外板橋分院を設けて本院の長病者を此に分離し、又本務の傍ら市内浮浪児の悪化を予防せむが為め収養所を新設し、後之を井之頭に移し、感化部として管理せり、此の如くにして其成績年と共に進み、本市救済事業の功用漸次見るべきものあるに至りたるは、実に大方慈善家の賜なりと為す
翻て本市発展の形勢を観れば戸口四方に膨脹し、昨年の田園は今年の店舗に変じ、本院収養者の数亦随て増加し現に二千六百有余人を算するに至り、尚漸次増加の傾向あるは数の免れざる所にして、今や現在の建物を以て其需用に応ずべからず、且本院敷地の如きは四囲已に人家に圧迫せられ復た増築の計を施すべからすと雖も、此増築の計劃は勢猶予すへからざる急務に属す、是を以て当局者相議り本院移転の案を決定し、乃ち板橋町に敷地二万七千坪を購買し、以て大に収養力を拡張し、本市の発展・戸口の膨脹に随つて収養者の増加に応ずるの施設に従事せむと欲す、而して之に要する費用を約三拾七万円と為す
抑も本院の費途は 皇室恩賜の年額金と慈善寄附金の利子を以て之に充て、別に行路病者・棄児・遺児等に係る費用は府市の費用を以て補充せり、故に本案約三十七万円支出の財源は本院現在の敷地幾分を売却して之に供すべきも、其大部分は慈善家の捐資を集合して其成効を期せざるべからず
回顧すれば本院創立の資は、寛政年間松平定信卿幕府の閣老たる時、江戸市民に所謂七分金を蓄積せしめ数年を経て数十万円と為し、維新後東京府民の共有金と為したるものより支弁したる所なり、其後此共有金は東京府の管理に帰し、本院の費用は府会の議決に依ることゝなり、府会に於ては一時本院廃止の議ありて玆に組織を一変し、単に慈善家の義捐を勧募して本院の継続と共に、更に収養の範囲を拡張すべき計劃を立て、一般の同情益厚きを加へ、資金年に積み、事業随て挙り、下情上達して、辱くも九重の深きに聞え、寒夜御衣を脱せらるゝの御仁愛を以て年額金御下賜の恩典に浴し、爾来此御下賜金額と慈善家の義捐金とを以て基本金を増殖し、其利子を以て多数の窮民を収養しつゝあり、夫れ本院移転の挙は万已むべからざるの情勢に迫れり、若し之を中止せむか、直に収養上に頓挫を来し、延て他日に於て座視すべからざるの惨状を生ずべきは、従前の計数閲歴を以て推知するに難からず
願くは同情慈悲の諸君、此に陳述する所に依て其実況を賢察し、相一致して天地生々の心に順ひ、上は一視同仁の聖恩に副ひ、下は凍餒号泣の声を全都に絶ち、慈善の精神を空しく浩嘆に付せざらむ事を、謹
 - 第30巻 p.223 -ページ画像 
で告ぐ
  大正四年十月              奥田義人
                      中野武営
                      山口憲
                      渋沢栄一
                      伊藤定七
                      藤原俊雄
                      三井八郎次郎
                      大倉喜八郎
                      原亮三郎
                      高橋要治郎
                      宮川鉄次郎
                      坪谷善四郎
                      野々山幸吉
                      辰沢延次郎
                      斯波厚
                      星野錫
                      松崎権四郎
                      楳川忠兵衛
                      安藤兼吉
                      江間俊一
                      原田種徳
                      溝淵正気
                      根岸治右衛門
    東京市養育院移転助成会
第一条 本会は東京市養育院移転助成会と称す
第二条 本会は東京市養育院移転新築費を寄贈するを目的とす
第三条 本会の事務所は東京市養育院に置く
第四条 本会の目的に同意する篤志家は何人にても会員たるを得
第五条 本会は三箇年を以て完結す、但場合に依り延長することあるへし
第六条 会員は左の三種に依り寄附金を為すものとす
 一時に納付する者
 三ケ年間毎月納付する者
 三ケ年間毎年一回又は数回に納付する者
第七条 本会に会長・委員・会計監督・事務長、及事務員を置く
第八条 本会の成績は毎年一回会員に報告するものとす
                     発起人
                      奥田義人
                      中野武営
                      山口憲
                      渋沢栄一
                      伊藤定七
                      藤原俊雄
 - 第30巻 p.224 -ページ画像 
                      三井八郎次郎
                      大倉喜八郎
                      原亮三郎
                      高橋要次郎
                      宮川鉄次郎
                      坪谷善四郎
                      野々山幸吉
                      辰沢延次郎
                      斯波厚
                      星野錫
                      松崎権四郎
                      楳川忠兵衛
                      安藤兼吉
                      江間俊一
                      原田種徳
                      溝淵正気
                      根岸治右衛門


東京市養育院月報 第一七八号・第一七―一八頁 大正四年一二月 ○助成会打合(DK300020k-0004)
第30巻 p.224 ページ画像

東京市養育院月報  第一七八号・第一七―一八頁 大正四年一二月
○助成会打合 十二月十三日東京商業会議所に於て助成会打合会を開催せり、当日参会せられしは中野武営氏を首として、山口憲・伊藤定吉・坪谷善四郎・野々山幸吉・辰沢延次郎・原田種徳・渡辺勘十郎の諸氏、並に橋本・新居・古橋・平林・佐藤・古本・須崎・戸野・山崎岡田・植木の各区長諸氏等にて、接待員として藤田副収入役、大橋主事、江間・近藤の両事務員並に本院幹事安達憲忠・同事務員万代重昌氏にして、左の事項を協定せり
 一 岩崎家外三十余名の富豪家に対しては、渋沢男爵並に同会委員より直接義捐金を懇請する事
 二 其他に於ける博愛仁慈の士に対しては、各区長委員となり、而して区役所内に一名の専任者を置き義捐金を募集する事
 三 区長より選任されたる諸氏は某所に会合し、募集の方法を協議すること
   ○栄一渡米中。


養育院六十年史 東京市養育院編 第六五五―六五六頁 昭和八年三月刊(DK300020k-0005)
第30巻 p.224-225 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第六五五―六五六頁 昭和八年三月刊
 ○第八章 養育院の経済 第四節 市営時代
    (ハ) 移転助成会
 又養育院板橋移転拡張の事業を助成する目的を以て、渋沢院長・男爵奥田義人・中野武営その他数氏の発起により大正四年(一九一五)十月養育院移転助成会設立せられ、渋沢院長会長に推されて寄附金募集に尽した。この挙畏くも 皇后陛下の上聞に達し、特別の思召に依り宮内省より金壱万円御下賜の御沙汰を拝したるを始めとし、有栖川伏見・閑院・東伏見・華頂・山階・久邇・梨本・朝香・東久邇・北白川・竹田の十二宮家より合計金弐千円の御下賜を辱けなうし、これと
 - 第30巻 p.225 -ページ画像 
同時に江湖の有志亦孰れも熱烈なる翼賛を与へられ、大正十四年(一九二五)九月に至る満十年間の収支計算は左の通りであつた。
      収入
一金参拾壱万壱千八百弐拾八円四拾壱銭五厘
                   御下賜金、寄附金預金利子
      支出
一金弐拾四万壱千四百七拾参円五銭   養育院へ寄附
一金参万九千八百九拾弐円八拾四銭五厘 事務費
合計金弐拾八万壱千参百六拾五円八拾九銭五厘
収支差引残金参万四百六拾弐円五拾弐銭 養育院事業資源として寄附
○下略


東京市養育院移転助成会報告書(DK300020k-0006)
第30巻 p.225 ページ画像

東京市養育院移転助成会報告書
東京市養育院移転拡張の事業を助成する為め大正四年十月設立したる本会は、今や所期の目的を達したる為め、大正十四年九月三十日を以て解散し、玆に創立以来の事業並に収支計算の報告書を作成して寄附者各位の一覧に供すると同時に、特に本会の為めに寄せられたる深厚なる好意に対して感謝の誠意を表す
  大正十四年九月
       東京市養育院移転助成会長 子爵 渋沢栄一
○下略


渋沢栄一 日記 大正六年(DK300020k-0007)
第30巻 p.225 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正六年      (渋沢子爵家所蔵)
二月三日 晴 寒
○上略 十二時養育院ニ抵リ、各区ヨリ寄附金募集ニ付掛員来会シテ事務取扱方ヲ協議ス、来会者ニ向テ一場ノ挨拶ヲ為ス ○下略


渋沢栄一 日記 大正七年(DK300020k-0008)
第30巻 p.225 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正七年      (渋沢子爵家所蔵)
一月十三日 晴 寒
○上略 午前十時巣鴨養育院分院ニ抵リ ○中略 本院ニ抵リ板橋移転ニ関スル手続及其移転費支弁方法、其他新設ニ関スル療養所・実習所等ノ事ヲ協議ス ○下略
   ○中略。
二月十三日 晴 寒
○上略 四時半上野精養軒ニ抵リ、養育院助成会ヲ開催ス、東京市助役及常設委員・各区長来会ス、食前本院移転ニ付テノ目的、其他新設ノ事業ニ付意見ヲ縷述ス、食事畢リテ散会ス ○下略


中外商業新報 第一一五三九号 大正七年五月一六日 一万円下賜 養育院御補助の思召(DK300020k-0009)
第30巻 p.225-226 ページ画像

中外商業新報  第一一五三九号 大正七年五月一六日
    一万円下賜
      養育院御補助の思召
皇后陛下には東京市養育院が今般新築移転するの趣聴召され、十五日特別の御思召を以て御補助として同院助成会へ金一万円下賜の御沙汰あり、院長渋沢栄一男は午前十時三十分皇后宮職に出頭、大森大夫よ
 - 第30巻 p.226 -ページ画像 
り拝受し、御礼執奏を乞ひて退出せり


竜門雑誌 第三六一号・第六八頁 大正七年六月 ○東京市養育院の光栄(DK300020k-0010)
第30巻 p.226 ページ画像

竜門雑誌  第三六一号・第六八頁 大正七年六月
    ○東京市養育院の光栄
 皇后陛下には今般東京市養育院新築移転の趣き聞召され、特に御補助の思召を以て金壱万円御下賜の旨優渥なる御沙汰あり、右に就き院長青淵先生には五月十五日宮内省に出頭、恭しく御下賜金を拝受して退出せられたり
 因に東京市養育院は大正七年より同九年迄に現在地小石川大塚辻町より府下板橋へ移転に決し、目下移転中なるが、既に本部と女室の一部は落成し、健康体の老婆のみを収容しつゝある由。高橋東京市助役は語つて曰く
 板橋の敷地は二万坪で、現在のに比べると七千坪広くなりますが、此移転費用は総べて寄附金に仰ぎますので、既に十九万二千円の寄附金がありましたが、物価騰貴の為め当初の予算三十七万円では到底出来上り相もありません、尠なくとも五十万円はかゝらうと思ひますから、一般に寄附をして戴くことになつて居りました処へ、畏くも国母陛下から御下賜金がありましたので、陛下御思召を体して一般の寄附が愈々多くなるであらうと存じます云々


渋沢栄一 日記 大正八年(DK300020k-0011)
第30巻 p.226 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年      (渋沢子爵家所蔵)
一月十四日 半晴 寒
○上略 午前十時東京市役所ニ抵リ養育院予算委員会ニ出席ス、常設委員諸氏ト逐条ノ審議ヲ為ス、後板橋移転ノ事ニ付長谷川委員長ト協議シ庶務課及営繕掛長ニ調査ノ事ヲ委托ス ○下略
   ○中略。
二月十日 晴 寒
○上略 午後四時東京市役所ニ抵リ、養育院移転ノ事ニ付、高松豊吉氏其他ノ諸氏ト協議ス ○下略
   ○中略。
二月十三日 晴 寒
○上略 午前十時養育院ニ抵リ常設委員会ヲ開ク、東京府トノ交渉ニ関シ種々ノ協議ヲ為ス、又板橋移転ノ事ヲ議シテ委員ノ再調査ヲ請フ ○下略
   ○中略。
二月十八日 雨 寒
○上略 安達憲忠氏来リ、養育院ノ移転事務ヲ協議ス ○下略


渋沢栄一 日記 大正九年(DK300020k-0012)
第30巻 p.226 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正九年      (渋沢子爵家所蔵)
二月十三日 晴 厳寒
○上略 午前十時半養育院分院ニ抵リ ○中略 更ニ本院ニ抵リ、常設委員会ニ出席シテ板橋移転ノ手続ヲ協議ス ○下略


渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK300020k-0013)
第30巻 p.226-227 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一〇年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十九日 曇 寒
 - 第30巻 p.227 -ページ画像 
○上略 養育院ニ抵リ常設委員会ニ出席ス、本年度予算及板橋移転ニ関スル予算ヲ議決ス ○下略
   ○中略。
一月二十八日 雨 寒
○上略 十一時過東京役市役所《(衍)》ヲ訪ヒ、池田助役ト養育院ノ事ヲ談ス、暫時ニシテ後藤市長モ出勤セラレ、同ク養育院ノ事ヲ述フ ○中略 五時上野精養軒ニ抵リ、養育院ノ主催ニ係ル板橋町諸氏招宴ニ出席ス、花井氏又ハ町長其他ト本院移転ニ関シテ種々ノ談話ヲ為ス ○下略
   ○中略。
二月十日 晴 寒
○上略
午後四時過事務所ニ於テ庶務ヲ処理ス、垣見・田中二氏来リ、養育院ノ移転ニ関シ東京市予算委員トノ交渉ニ付談話アリ ○下略
   ○中略。
二月十二日 雨 寒
○上略 午飧後東京市役所ニ抵リ、養育院移転ノ件ニ付委員会ニ出席シテ質問ニ答フ ○下略


東京市会史 東京市会事務局編 第五巻・第三〇九―三一一頁 昭和一一年六月刊(DK300020k-0014)
第30巻 p.227-228 ページ画像

東京市会史 東京市会事務局編  第五巻・第三〇九―三一一頁 昭和一一年六月刊
 ○第参章 大正十年
    第五節 救育事業
▽養育院移転拡張費
  第十一号
      自大正十年度至大正十一年度東京市養育院費継続年期及支出方法
  一金百弐拾万六百拾弐円      養育院移転拡張費
       内訳
    金六拾弐万七千五百弐拾五円  大正十年度支出額
    金五拾七万参千八拾七円   大正十一年度支出額
  本市養育院ハ明治二十九年本所区長岡町ヨリ現在地ニ移転シテ以来、年々入院者ノ増加ヲ来タシタルカ為、逐次増築若クハ分院ノ新設ヲ行ヒ、以テ今日ニ至リタリト雖、今ヤ啻ニ建物ノ狭少ヲ見ルニ止マラス、腐朽ノ箇所大ニ増加シ、之レカ修理及増築ニハ巨額ノ費用ヲ要スルノ状態ニ在リ。加之本市発展ノ結果、市民住宅ノ供給愈其乏シキヲ告クルノ今日、養育院ノ如キ救済場舎ヲ強テ市街地ニ置クノ必要ナキヲ以テ、旁曩ニ本院敷地トシテ購入セル府下板橋町ノ予定地ニ移転ノ上、現在狭少ヲ感シツヽアル諸般ノ規模ヲ拡大シテ、収容力ノ増加ヲ図リ、併セテ市街地ノ利用ヲ増大セシムルモノトシ、二箇年継続事業トシテ本費ヲ計上セリ。
(予算表略ス)
本案ハ二月九日ノ第一読会ニ於テ、佐々木藤市郎君ノ動議ニ拠リ、議長指名十一名ノ委員ニ調査ヲ付託スル事ニ決シ、議長ハ委員ヲ左ノ如ク選定セリ。
 長谷川吉次  佐々木藤市郎  岩松兼経  天利庄次郎
 矢野鉉吉   鈴木弥吉    細野順   菊池武恒
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 山本茂三郎  小栗富五郎   原田吉兵衛
委員ハ細野順君ヲ委員長ニ、長谷川吉次・矢野鉉吉両君ヲ理事ニ推シ審査ノ末、二月二十七日ノ会議ニ於テ、細野委員長ヨリ、本案予算表ノ説明中、現在ノ大塚ノ地ニ二千坪ヲ残シ、且ツ大塚出張所建物造修費トシテ五万九千九円ヲ計上セリ。想フニ今回移転スベキ板橋ニモ、分院ノ在ル巣鴨ニモ、広闊ナル土地アルヲ以テ、殊更大塚ニ二千坪ノ土地ヲ残シ置ク必要ナク、且ツ予算表ノ説明ニハ、大塚出張所建物造修費ト記シタルノミニテ、建物ノ坪数其他ニ就イテハ一切不明ナリ。但シ本予算ハ明十一年度ニ於テ実行スルモノナルヲ以テ、之レガ実行ノ際、建物ノ坪数其他ヲ詳細ニ明記シ、更メテ市会ノ議決ヲ経ル事トシテ、金額ハ其マヽ之ヲ存置シ、大塚出張所建物造修ト云ヘル名目ヲ年長少年収容所造営費ト修正スル事ニ議決シタル旨報告アリ。異議ナク委員長ノ報告通可決セリ。
▽起債及償還方法ニ関スル件 左記議案モ二月九日ノ第一読会ニ於テ佐々木藤市郎君ノ動議ニ拠リ、前項記載ノ養育院移転拡張費予算調査委員ニ併託スル事ニ決シ、委員ハ審査ノ末、二月二十七日ノ会議ニ於テ、原案ヲ可決スル事ニ議決シタル旨報告、異議ナク委員会ノ報告通可決セリ。  第二十六号
      起債及償還方法ニ関スル件
  一 起債金額   百万円
  二 起債ノ目的  養育院移転拡張費ニ充ツル為
  三 借入金利率  年八分五厘以内トシ、一年ニ満タサルモノハ日割計算トス
  四 借入ノ方法  銀行其他ヨリ普通貸借又ハ割引ノ方法ヲ以テ借入ル
  五 借入時期   大正十年度ニ於テ四拾参万円以内、同十一年度ニ於テ五拾七万円以内、但シ総額ノ範囲内ニ於テ両年度間ノ各借入額ハ之ヲ変更スルコトヲ得ルモノトス
  六 償還期限   大正十二年度、但シ市財政ノ都合ニ依リ低利債ニ借替ヲ為スコトヲ得ルモノトス
  七 元利支払資源 元金ハ養育院移転跡地建物ノ売却代ヲ以テ之ヲ償還シ、利子ハ借入金預金利子及普通市費ヲ以テ之ヲ支払フ、其内訳別紙ノ如シ
   説明 第十一号議案ニ伴ヒ養育院移転拡張費ニ充ツヘキ市債ヲ起シ、及之カ償還ノ為本案ヲ提山《(出)》ス。
(別紙略ス)


東京市養育院月報 第二五七号・第一四頁 大正一一年七月 ○本院常設委員会(DK300020k-0015)
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東京市養育院月報  第二五七号・第一四頁 大正一一年七月
    ○本院常設委員会
 七月十七日午前十時本院楼上に於て常設委員会開催、小坂委員長、天利・大岩・安東三委員の出席あり、改選後の初会合なるを以て、渋沢院長より本院の沿革並に現況の説明あり、尚ほ本院事業に関する打
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合せの後、本院・巣鴨分院、板橋分院、及板橋本院移転地の実況を視察せられたり


東京市養育院月報 第二五八号・第一八頁 大正一一年八月 ○本院常設委員会(DK300020k-0016)
第30巻 p.229 ページ画像

東京市養育院月報  第二五八号・第一八頁 大正一一年八月
    ○本院常設委員会
 八月二十二日午後二時より本院楼上に於て常設委員会を開催し、大正十二年度歳入出予算案につき討議し、理事者提出の原案を一・二の希望付きにて可決せられたり、当日の出席者は小坂委員長、天利・大岩・安東の三委員にして、渋沢院長・田中幹事・小木経理課長・川口監護課長右会議に列席せり


東京市養育院月報 第二六〇号・第一六頁 大正一一年一〇月 ○常設委員会(DK300020k-0017)
第30巻 p.229 ページ画像

東京市養育院月報  第二六〇号・第一六頁 大正一一年一〇月
○常設委員会 十月九日午後三時より本院会議室に於て常設委員会を開会せり、当日の出席者は小坂委員長、大岩・安東の両委員にして、本院収容者中より虎疫患者発生に付、之が善後策を協議せられたり、尚当日渋沢院長・田中幹事・小木経理課長・川口監護課長、右会議に列席せり


東京市養育院月報 第二六〇号・第一七頁 大正一一年一〇月 ○常設委員の移転地新築工事視察(DK300020k-0018)
第30巻 p.229 ページ画像

東京市養育院月報  第二六〇号・第一七頁 大正一一年一〇月
○常設委員の移転地新築工事視察 十月十五日午前十時天利・大岩・安東の三委員は、府下板橋町なる本院板橋移転地新築工事の実況を視察せられたり、右に就き当日本院よりは渋沢院長・田中幹事・小木経理課長・川口監護課長・石崎庶務課長・若林事務員同地に出張せり


東京市養育院月報 第二六一号・第二一頁 大正一一年一一月 ○本院常設委員会(DK300020k-0019)
第30巻 p.229 ページ画像

東京市養育院月報  第二六一号・第二一頁 大正一一年一一月
○本院常設委員会 十一月二日・同十三日・同十六日午後二時三十分より本院会議室に於て常設委員会を開会せり、出席者は小坂常設委員長、天利・大岩・安東の三委員にして、大正十二年度本院歳入出予算案に就き協議せられたり、当日渋沢院長・田中幹事・小木経理課長・川口監護課長右会議に列席せり


東京市養育院月報 第二六二号・第三四頁 大正一一年一二月 ○小坂本院常設委員長の饗宴(DK300020k-0020)
第30巻 p.229 ページ画像

東京市養育院月報  第二六二号・第三四頁 大正一一年一二月
○小坂本院常設委員長の饗宴 小坂本院常設委員長は、十二月十五日午後五時より渋沢養育院長を主賓とし、市長・助役・局長・名誉職参事会員・養育院常設委員・養育院幹部職員等を日比谷大松閣に招待し一夕の饗宴を張られたり、席定まるや小坂氏は、自己の養育院常設委員長に選任せられたる感想と養育院事業に対する市理事者並に市参事会員の倍旧的後援を希望する旨の挨拶あり、之れに対し渋沢子爵は来賓を代表して、小坂氏の養育院事業に努力を惜まれざるは、正に百万の後援者を得たるが如く、院長としては洵に感激に堪へずと一場の謝辞を述べられ、酒間主客互に胸襟を開きて歓談に時を移し、散会せるは午後九時頃なりしと


東京市養育院月報 第二六四号・第一四頁 大正一二年二月 ○本院常設委員会(DK300020k-0021)
第30巻 p.229-230 ページ画像

東京市養育院月報  第二六四号・第一四頁 大正一二年二月
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○本院常設委員会 二月十三日午後一時本院楼上会議室に於て常設委員会を開会せり、出席者は小坂委員長、天利・安東の両委員にして、板橋本院移転新築工事に関する件に就き協議せられたり、当日は渋沢院長・田中幹事・小木経理課長・川口監護課長右会議に列席せり


東京市養育院月報 第二六五号・第一一頁 大正一二年三月 ○常設委員の本院移転工事視察(DK300020k-0022)
第30巻 p.230 ページ画像

東京市養育院月報  第二六五号・第一一頁 大正一二年三月
○常設委員の本院移転工事視察 市外板橋町に客年七月十五日より起工せる本院移転工事は、工程意外に進捗し、今や竣工に近づきたるを以て、三月十三日午前十時より、小坂養育院常設委員長、天利・大岩両委員は現場に赴き、詳に其実況を視察せられたり、右に就き本院よりは、渋沢院長・田中幹事・小木経理課長・石崎庶務掛長同地に出張せり


東京市養育院月報 第二六五号・第一一頁 大正一二年三月 院長邸に於ける午餐会(DK300020k-0023)
第30巻 p.230 ページ画像

東京市養育院月報  第二六五号・第一一頁 大正一二年三月
○院長邸に於ける午餐会 渋沢院長は三月十三日養育院常設委員諸氏を飛鳥山同邸に招し午餐会を催され、席上本院移転後の諸問題に就き懇談ありたり、当日の参会者左の如し
  小坂梅吉氏  天利庄次郎氏  大岩豊吉氏
 尚ほ当日主人側としては渋沢院長の外、田中幹事・小木経理課長・川口監護課長・四谷会計掛長・石崎庶務掛長・早川収容掛長陪席せり


東京市養育院月報 第二七〇号・第一三頁 大正一三年一月 ○大塚本院の移転(DK300020k-0024)
第30巻 p.230 ページ画像

東京市養育院月報  第二七〇号・第一三頁 大正一三年一月
○大塚本院の移転 大正十二年九月一日正午の震害に依り、大破したる大塚本院建物は其儘使用危険なるを以て、爾来総収容者は之れを屋外天幕に移し避難せしめ、全職員徹宵にて之が救護に従事したるも、収容者の大部分は病者か然らずば病後恢復期にある者、又たは老衰者等なれば天幕生活は処遇上不便少なからざるのみならず、一面衛生的見地よりするも、到底長期間に亘り屋外生活を継続すること能はざる事情あり、之れが善処に一方ならず苦慮せしが、時偶々大正十一年七月起工せる本院の板橋移転新築工事が、汽缶・給水等二・三の附帯設備を残すの外略ぼ竣成の域に達し、然かも震害比較的軽微なりしを以て使用に差当り支障なきを認め、避難の為め移転の繰上げを決行することゝしたり、然るに帝都混乱の際に当り、輸送者の傭上げ非常に困難なりしが、漸く僅少の車馬を傭ひ入るゝを得たるを以て、九月八日先づ緊急必需品の輸送を開始し、翌九日収容者中患者並に幼児・老齢者等合計四百三十名は自動車又は荷馬車にて輸送し、其他の四百八十八名は已むなく隊伍を組み、掛員引率の下に徒歩せしめ、落伍者は後続の救護車に依り輸送し、平時に於ても最も難事と目せる収容者輸送を僅々一日にして完了するを得たり、之れ蓋し当時収容者及び吏員共に緊張せし結果に外ならず、斯くて引続き翌十日より物品の輸送に移り同月二十日を以て、明治二十九年三月本所長岡町より移転以来、春風秋雨約三十年間所在し由緒浅からざりし大塚を跡に、空気清澄にして土地広闊なる板橋新築場舎へ無事移転を完了せり

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東京市養育院月報 第二七〇号・第一四頁 大正一三年一月 ○本院常設委員会(DK300020k-0025)
第30巻 p.231 ページ画像

東京市養育院月報  第二七〇号・第一四頁 大正一三年一月
○本院常設委員会 大正十二年十月十三日午前十時より巣鴨分院に於て本院常設委員会を開会せり、出席者は小坂委員長、大岩・安東の両委員にして、本院震災被害善後策の件に就き協議する所ありたり、尚ほ当日理事者側より渋沢院長・田中幹事・小木経理課長・川口監護課長・碓居医務課長・石崎総務課庶務掛長列席せり
 同十一月四日午前十一時より、板橋本院楼上会議室に於て本院常設委員会を開会せり、出席者は小坂委員長、天利・大岩・安東の三委員にして、養育院大正十二年度歳入出追加予算並に同大正十三年度歳入出予算其他に就き協議し、午後二時半閉会、終つて院内を視察せられたり、尚ほ当日理事者側より渋沢院長・田中幹事・小木経理課長・川口監護課長・石崎総務課庶務掛長列席せり


東京市養育院月報 第二七二号・第一七頁 大正一三年三月 ○本院落成移転披露会(DK300020k-0026)
第30巻 p.231 ページ画像

東京市養育院月報  第二七二号・第一七頁 大正一三年三月
○本院落成移転披露会 客歳九月の大震災直後小石川区大塚辻町より避難的移転を決行したる本院は、爾来鋭意未完成工事の進捗に努めつつありしが、此程漸く之れが完成を告げたるを以て、三月二十一日午後二時より板橋本院講堂に於て、関係官公吏・市会議員・寄附者等九百余名を招待して落成移転披露会を挙げたり、当日出席せられたる来賓は約三百名に達し、定刻に到るや田中幹事司会者として開会の辞を述べ、次に加護谷東京市建築課長の工事報告あり、次に渋沢院長別項説苑欄掲載の式辞を述べ、終つて水野内務大臣・宇佐美東京府知事・永田東京市長の祝辞朗読又は演説(別項説苑欄掲載)あり、次に小坂本院常設委員長の謝辞ありて、田中幹事閉会辞を述べ、夫れより来賓を内庭に設らへたる天幕張り食堂に招じて立食の饗応をなし、食後院内各種施設の巡覧を乞ひ、極めて盛況裡に午後五時過ぎ散会したり
○下略


中外商業新報 第一三六六三号 大正一三年三月二二日 立派に出来た市養育院板橋本院(DK300020k-0027)
第30巻 p.231 ページ画像

中外商業新報  第一三六六三号 大正一三年三月二二日
    立派に出来た市養育院板橋本院
経費百四十一万余円を投じて一昨年七月から建築にとりかゝつてゐた東京市養育院板橋本院は、震災後旧大塚本院を引払つて移転してゐたものゝ、工事はまだ完成してゐなかつたが、この程漸くしゆん成したので、廿一日午後二時から盛大に落成移転披露会を催した、集まるもの院長渋沢子を始め、水野内相代理井上次官、大倉・阪谷の両男、永田市長その他多数で、開会の辞に次で工事の報告があり、それから内相・府知事・市長等の祝辞朗読があつて、最後に食堂が開かれ、渋沢院長の万歳を三唱して散会したが、何しろ敷地は二万六千七百六十五坪もあり、建物は普通収容室・病室・事務室・医局・薬局・治療室・収容作業場・食堂・炊事場・浴室・講堂・倉庫・機関室・消毒所・看護婦室・寄宿舎等大小十棟、総建坪は五千二百五十六坪もある、そして各棟は大廊下によつて連絡され、大廊下には二ケ所づゝ鉄筋コンクリートの防火壁をだに設けてあるなど行届いたもので、設備の完備は驚くばかりです
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東京市養育院月報 第二七二号・第三―七頁 大正一三年三月 ○東京市養育院落成移転披露会式辞(大正十三年三月二十一日)(養育院長渋沢栄一)(DK300020k-0028)
第30巻 p.232-234 ページ画像

東京市養育院月報  第二七二号・第三―七頁 大正一三年三月
    ○東京市養育院落成移転披露会式辞(大正十三年三月二十一日)
                   (養育院長 渋沢栄一)
 来賓諸閣下、満場の諸君、朝から少し天気模様が如何かと思つて大に心配を致しましたら、天も養育院に幸ひしてか快晴に至らむとする模様でございます、私は玆に此移転の御披露を申上げるに当り、此上もない愉快を以て皆様に御礼を申上げたうございます
 御覧の通りに老齢に達して居りますので、余程長い計画であつた此新築移転と云ふことが、自分の存命中に出来上がるかドウかと云ふことを余程懸念致しました、此企ては実に十年の歳月を経ましたので、短いとは言へぬのでございますけれども、幸ひ生き存へて玆に自身が御披露を申上げ得らるゝことを、洵に天祐と心得深く感謝を致すのでございます
 東京市養育院の今日在るは既に五十年の歳月を経過して居ります、一昨年創立五十周年記念会を催ほしたる際「回顧五十年」と題する一冊子を公けに致しましたから、既に御一読下さつた御方もありませうが、今日に及んだ歴史はそれに尽して居る積りでございます、又た今日尊来の御方々にも「新築移転の養育院」と云ふ小冊子を差上げて居りますので、それを御覧を願ひますやうに致したいので、此際私は余り喋々と養育院の今日在るを縷述することは避けまして、唯板橋に移転したと云ふことに就いて其経緯を簡単に申上げて、御後援下されました皆様方に、斯う云ふ訳で此物が出来ましたと云ふことの御会得を乞ひたいと思ふのでございます
 此養育院は屡々移転した末に大塚に参りましたが、此大塚の本院が段々手狭になります為めに、更に移転を企てつゝある際、丁度此場所の側に一の病院を造りましてございます、之れ即ち養育院板橋分院で御座います、それは十年程前のことでございますが、此分院の設置に就ては当地方の或部分の御方々から大いに反対を受けまして、一時は養育院としては如何にしたものであらうかと少しく思案をした場合もあつたのでございます、然るに地方《(元カ)》の有志諸君が唯分院のみでは相成らぬ、若し本院をも移すならば或は之れを迎へるであらうと云ふ御話が生じまして、恰かも好し、大塚の本院を出来るならば移転したいと云ふ考へを生じて居つた場合でございましたから、然らばさう云ふことにしやうと云ふので段々話が進みまして、本日此処に御出席になつて居ります其頃の幹事安達憲忠君が地元の代表者と折衝して、土地買収の談判を進めたのであります、丁度其時の考へは大塚の地面を一坪売ると板橋では五坪買へると云ふやうな、甚だ算盤的の御話でございますが、将来の東京市の為めには一万五千坪の養育院ではどうしても狭い、少なくも数万坪の土地が必要である、果して然らば市内よりは寧ろ郡部に移つた方がよからうと云ふのが我々の考へる所であつて、板橋町の有志の方々も種々御配慮下さつて、遂に約二万七千坪の土地が手に入ることになり、本院基本金中より約十五万円を流用して之れを買入れました、偖て之れで敷地は手に入りましたけれども、愈々移
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転するには相当の建築もしなければならず随分巨額な費用を要しまするが、然かし之れが資源とすべきものはない、市経済から支弁して貰ふことも不可能である、ソコで大正四年の冬のことでありましたが、私が丁度亜米利加旅行を企てゝ居る際、移転助成会と云ふものを組織して、移転費用の募集に着手し、幸ひにして種々なる心配を致して、四・五年間に二十七万円ほどの寄附申込みを得ましたが、斯く一方に用意が調ふと同時に、一方に於ては又た諸色が甚だ高値になつて欧羅巴戦乱の後、物価が二倍若くは三倍に騰貴するやうになりましたから最初は三十万円位で移転が出来ると思つたのが、百万円以上の金額がなければ移転が出来ぬことに相成りましてございます、是に於て自分は大に困惑致したのであります、三十万円もあれば移転が出来る積りで寄附を募集し、偖て寄附が略ぼ出来た時になると、今度は百万円以上なければ移転が出来ない事情となり、然かも斯かる大金を追加募集すると云ふことは殆ど不可能のことであり、さればと申して移転を企てながら其儘沙汰止みにする訳には参りませず、大に困つたのでありますが、然かし窮すれば通ずで、丁度大正九年のことでありましたが当時就任早々の田中現幹事が、何にも御困りになることはない、借金をすれば、訳なく移転が出来るではありませんかと云ふ意見を主張して、其れには将来不用に帰すべき大塚本院の土地建物の全部若くは一部を後から売却して償還する覚悟ならば、百万円位の借金は容易に出来ると申しますので、私も之れを可なりと認め、幹事に該計画の立案を命じました、斯くて大正十年及十一年度に亘る二ケ年継続の移転拡張予算なるものを作り、幸ひに借入金も市の方から百万円だけ六分と云ふ低利の利子で融通を受け、遂に斯くは移転……私の宿昔の希望たりし移転拡張と云ふことが成就したのであります
 養育院が此板橋町に移転致しました顛末の概略は以上申上げたやうな訳で、或は一時は如何に成行くかと局に当る私等は種々心配致しましたが、此心配は寧ろ徒労になつて都合よく今日在るを見ましたのも前に開会の辞に幹事から申上げました通り、今日御集り下さいました方々……終始本院の事業に御同情を下さる皆様方の御蔭と、又た一方には市長閣下、市会議員各位、其他市関係の御方々の御力添へとが今日あるを致しました次第で、私は深く之れを喜び且つ感謝するのでございます
 五十年の歳月の経過に就きましては『回顧五十年』なる冊子中に述べて置きましたから、もう再び重複して申上げませぬけれども、養育院が明治五年に本郷の旧加州邸内に其端を開きましてより、今此板橋町に転じ来ります迄には、丁度場所の変化を五回致して居ります、藤田東湖と云ふ人の述懐の詩に『三決死矣而不死、二十五回渡刀水、五乞閑地不得閑、三十九年七処徙、邦家隆替非偶然、人生得失豈徒爾……』云々の句がありますが、我養育院の仕事は一の社会事業であつて今申した藤田東湖の所謂邦家の隆替に直接関係する訳でないから、一向相応しからぬ例証ではありますけれども、世の中の事物が年と共に変化して参る有様は、丁度藤田氏の考へと同じやうなる思ひを生ぜしむると思ふ、最初加州邸で乞食を集めて開いたのが養育院であつた、
 - 第30巻 p.234 -ページ画像 
それから続いて上野護国院に移りました、即ち第一転、其頃私は養育院に関係するやうに相成りましてございます、それは明治七年でございます、護国院は甚だ狭いと云ふところからして、更に転じたのが和泉橋の藤堂屋敷の跡でございます、即ち二転、然かし是は何時までも養育院として用ふべき場所でないと云ふところから、丁度其時には養育院廃止と云ふことが東京府会の問題となりまして、詰り申すと窮民救助は惰民の養成に相成る、斯くの如きことは止めたが宜からうと云ふ論が強いために、とうとう養育院に於ける其当時の収容者は、其儘に養つて置くけれども、新しく入院はさせぬと云ふことに相成りました、玆に於て今日此処に御出席になつて居る大倉男爵等と相談しまして、一の私設団体を作つて、此養育院を引受けることに致したのでございます、それは明治十八年と記憶して居ります、而して和泉橋に於ける養育院の敷地を府が始末するに際し、約四万円程を府から貰つたやうに記憶します、之れに依つて本所の長岡町……古来俗に夜鷹小笠原と云つた大名屋敷の跡に移転したのが第三転、然るに此処に移転しましたが何分狭くて不便であり、そこで大塚に移りましたのが即ち第四転で、而して今回大塚から此板橋に移つて来たのが第五転で御座います、初めは高々二百人若くは三百人に足らぬ収容人員が、今日は殆ど二千人を数へるやうに相成りました、斯く申上げますると養育院の院長たる私を始め職員一統は、日本に貧困者の増加するのを喜ぶものであるかのやうに誤解されるかも知れませんが、我々は決して左様な考へは持つて居ないのでございます、理想から云へば万民悉く其の処を得て養育院に入院するものなどは一人もないやうに相成り、本院の如き救済機関は一日も早く潰れて仕舞ふのがよろしいのでありますが然かし世の中が進歩しますと共に塵埃が溜ると同様に、貧乏人も殖えて来るのが社会の常でございます、日本以外の開明国の有様を見ても皆然りであります、果して然らば之れに応ずるの設備が無ければならぬと思ひます、即ち本院の如きもそれに応ずるの設備でありまして、其設備は世の進歩と共に歩一歩改善せらるべきものであります、兎に角過去五十余年間本院が都市救済機関として相当の働きを尽し、且つ時代の変遷と要求とに伴つて、漸次其規模を拡大し得たと云ふことは寔に我東京市の為めに喜ぶべきことであつて、爰までに立至りましたことは、主として天下同情家の御後援に因るものでありまして、此点に就き私は深く御礼を申述べるのであります、又た私自身としては過去五十年間引続き本院の主宰者として、微力ながら此事業の為めに尽すことが出来ましたのは、自身の大なる喜びであると同時に、諸君に於かれましても多分御喜び下さることであらうと信じます
 今日玆に落成移転の式を挙げますに際し、一言如上の事を申上げることを得ましたのは、私の無上の光栄であり、又た無上の喜悦でございます、玆に尊来を辱けなうしましたる閣下並に諸君に此事を申上げて式辞と致します