デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
3節 感化事業
2款 東京府立感化院修斉学園
■綱文

第30巻 p.817-818(DK300101k) ページ画像

明治44年10月12日(1911年)

是日、東京府立感化院修斉学園ハソノ開園式ヲ小笠原父島扇村同園講堂ニ挙行ス。栄一中央慈善協会会長トシテ祝辞ヲ送ル。


■資料

慈善 第三編第二号・第九四―九五頁 明治四四年一〇月 東京府立感化院修斉学園 開園式(DK300101k-0001)
第30巻 p.817 ページ画像

慈善  第三編第二号・第九四―九五頁 明治四四年一〇月
    ○東京府立感化院修斉学園
     開園式
 天候の為め一旦延期せられし東京府立修斉学園の開園式は、去る十月十二日愈小笠原父島扇村なる同園の講堂に於て挙行せられたり、当日は東京より阿部府知事・湯浅内務省参事官・今野府参事会員等の一行態々出張臨席せられ、午前十一時先づ院児の君ケ代三唱を以て式を開き、阿利園長の工事報告、阿部府知事の告辞、原内相(代)・今野府参事会員・杉原議長(代)・渋沢男爵(代)、及各村総代等の祝辞あり、次に阿利園長答辞を述べ、園歌を唱へて式を了り、来賓には正午立食の饗応、院児には折詰の御馳走あり。午後は院児の陸上運動会・相撲等、各種の余興日没近くまで賑ひ、主客共に歓を尽し、聖代の余沢を感謝して散会せり。来会者は前記一行の外、島内有志一百余名、殆ど官民有力者の凡てを網羅し、本島空前の盛会なりき。因みに当日に於ける渋沢男爵の祝辞は左の如し
 矯化遷善の業たる、四周の境遇と最も至大の関係を有す、欧米の友邦か其感化院を設立する概ね熱閙雑躁の都市を避けて、僻遠の地を相するもの、是れ実に勉めて天然に接触せしめ、渾然融和の気を養はしめ、依て以て性僻の矯正を期せんとするに在り。我東京府か修斉学園を南洋の一島小笠原島に設置し、感化教養の事業を経始せんとするもの、念ふに亦此意に外ならさるべし。地既に其所を得、幸ひに職員諸氏の熱心なる薫陶に依り、在院の子弟他日能く独立自営の良民たるを得んか、其慶や独り院生にのみ止まらざるべし、開園式に際し遥かに一言を寄せて之を祝辞となす。
  明治四十四年十月十二日
           中央慈善協会々長 男爵 渋沢栄一



〔参考〕日本社会事業名鑑 中央慈善協会編 第二輯・第九四―九五頁 大正九年五月刊(DK300101k-0002)
第30巻 p.817-818 ページ画像

日本社会事業名鑑 中央慈善協会編  第二輯・第九四―九五頁 大正九年五月刊
    東京府立小笠原修斉学園     小笠原島父島扇村洲崎(園長 野崎宏)
 事業 感化教育
 組織 府立、職員として園長以下教師二名・書記一名を置く。
 沿革 明治四十四年四月、感化法に拠りて東京府之を設立す。是より先明治四十二年七月、府知事阿部浩実地踏査の上之が設立を決議し翌四十三年六月園舎建築の工を起して同年十一月竣成し、超えて四十四年六月始めて生徒を収容せり。
 - 第30巻 p.818 -ページ画像 
 現況 大正七年十二月末日現在収容生徒三九名、外に委託生一〇一名、家族制度に依りて家長及助手之を訓育し、午前は学科、午後は農業を授く。又委託生に対しては離島は春秋二回、本島は随時之を訪問して状況を査察するの外、毎月一回来園せしめて訓話を為し、尚ほ収容児には時々家庭に音信せしめ、園よりも其の健康状態・成績等を通報し、又改悛退院後も注意指導を加へつゝあり、現在敷地三千六十坪耕作地四千三百四坪、其他三万四百五十六坪、建物五百三十八坪(院生宿舎四棟・講堂及教室一棟・職員住宅三棟・其他八棟)大正七年度の経費金一二、九二五円なり。
 経費(会計年度自四月一日至三月末日)

図表を画像で表示経費

       大正七年度  累計           円 生徒諸費  五、一六三  不詳               男 事務費   六、七〇二           大正七年度中収容 四七 修繕費   一、〇六〇      救護人員 累計       不詳 合計   一二、九二五           大正七年度末現在 三九(外委託生 一〇一) 





〔参考〕東京市養育院月報 第一一一号・第一三頁 明治四三年五月 ○小笠原島の府立感化院(DK300101k-0003)
第30巻 p.818 ページ画像

東京市養育院月報  第一一一号・第一三頁 明治四三年五月
○小笠原島の府立感化院 東京府にては感化法の規定に依り去る明治三十九年四月一日より、東京市養育院感化部井の頭学校を先づ第一に代用感化院に指定し、次で四十二年中には更に家庭学校・東京感化院をも代用することゝなり、現に以上三箇所に収容する不良少年約百七十名に上り、毎年約八千円宛の補助をなしつゝあるが、今回時勢の必要に迫られ、更に府立感化院を経営せんとするに決せり、経営の開始は明年よりとし、地は小笠原島と決定し、目下敷地選定中にて、建築費の予算額は二万四千円にして、事業開始後に於ける毎年度の総経費は七・八千円に上るべしと、今其収容人員の予定数を聞くに、四十三年度末に於ては在院者数百八十五名なるべく、以後逐年累加して、始めより十年以後即ち明治五十三年末に於ては、総数五百人に達すべき見込の由、但し院長其他の人選に至りては尚未定なりといふ。



〔参考〕東京市養育院月報 第一二五号・第一七頁 明治四四年七月 ○感化生の転院(DK300101k-0004)
第30巻 p.818 ページ画像

東京市養育院月報  第一二五号・第一七頁 明治四四年七月
○感化生の転院 予て計画中なりし東京府立小笠原修斉学園(府立感化院)開園に就き、其筋より井の頭学校生徒中より二十五名転院せしむべき旨通牒に接したるに依り、七月七日郵船会社の便船にて、左記二十五名を小笠原島へ送致したり。
  関新吉(十五年) ○外二十四名氏名略。