デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
4節 保健団体及ビ医療施設
2款 社団法人同愛社
■綱文

第31巻 p.57-59(DK310008k) ページ画像

明治45年4月27日(1912年)

是日栄一、上野精養軒ニ開カレタル当社社長高松凌雲ノ寿宴ニ出席シ、祝辞ヲ述ブ。


■資料

日本救療事業史料同愛社五十年史 同愛社編 第三六八頁 昭和三年一一月再版刊(DK310008k-0001)
第31巻 p.57-58 ページ画像

日本救療事業史料同愛社五十年史 同愛社編  第三六八頁 昭和三年一一月再版刊
 ○第二編 第二章 第二期 維持期
    明治四十五年
○上略
四月二十七日 高松翁寿筵ヲ上野精養軒ニ開ク、出席者弐百九十余名也、喜劇及講談ノ余興アリ、午後五時祝賀式開会、開会ノ辞田代博士賀表朗読鳥居春洋、会務報告緑川興功、渋沢男爵ノ祝辞、尚ホ石黒男
 - 第31巻 p.58 -ページ画像 
爵ノ祝辞アリ、高松翁ノ謝辞アリテ式ヲ了セリ、直チニ食堂開始、席上足立寛氏及本多晋氏ノ演説アリ、午後八時頃散会ス。
○下略


東京朝日新聞 第九二四五号 明治四五年四月二八日 窮民施療の祖 高松凌雲氏の寿筵(DK310008k-0002)
第31巻 p.58 ページ画像

東京朝日新聞  第九二四五号 明治四五年四月二八日
    ○窮民施療の祖
      ▽高松凌雲氏の寿筵
 下谷桜木町一高松凌雲氏は、本年七十七の賀齢に達したる為、岡玄郷・渋沢栄一其他の諸氏発起にて、本日午後二時より精養軒に於て寿筵を催す筈なり
氏は有名なる彰義隊の主将古屋作左衛門の実弟にて、安政六年廿四歳にて初めて筑後より江戸に出で、幕府の医官石川桜所に学び、次で大阪の緒方洪庵の塾に入り、慶応元年桜所の推挙にて一橋公の侍医となり後幕府の奥詰医師に任ぜらる、明治三年《(慶応)》には清水公使《(清水公子)》に随つて仏国に赴き、欧洲各国を歴遊して帰り、榎本武揚子の函館に脱走するや、翁も其中にありて幕府軍軍医長として活動し、軍平ぎて東京に帰るや一切官を辞して受けず、平民的一開業医として、今日に至る迄医界の為めに尽力し、東京医会を創立し、浅草区医会長として大に奔走せり夫れ以外更に翁の逸事として伝ふべきは、明治十二年頃他に率先して貧民の施療を開始したる一事にて、翁其当時の模様に付き語りて曰く「明治の初に当りて兵乱の後を受けて窮民全市に満ちて殆ど救ふの途なく、明治五・六年の頃東京府は貧民患者救済の目的にて年々二万円の金を投じて東京府病院を設立したるも、有名無実にて一人の患者をも収容せず、徒に書生の養成所たるの感あり、又大小集会と称して開業医の会を組織せるも、常に開業医を圧迫するより、其都度激論し、時の病院長にて過日物故せる長谷川泰氏等と議論を上下したる事もありしが、明治十二年遂に官に対抗して同志十四名と共に同愛社を組織したるものにて、今の慈恵病院・赤十字社の如きは遥に其後に起れるものなり、されども常に政府と接触せざりし為、盛大を来すを得ざりしも、創立後昨年末に至る迄に約九十万一千人の延人員に施療し、陛下より御手許金下賜さへ蒙りたるは、実に光栄の至りに堪へず云々」尚本日の寿筵に際し発起者賛成者より記念として、香川勝広作朧銀の花瓶・荒木寛畝筆三幅対の画を贈る筈なりと云ふ



〔参考〕日本救療事業史料同愛社五十年史 同愛社編 第三一三―四三三頁 昭和三年一一月再版刊(DK310008k-0003)
第31巻 p.58-59 ページ画像

日本救療事業史料同愛社五十年史 同愛社編  第三一三―四三三頁 昭和三年一一月再版刊
 ○第二編 第二章 第二期 維持期
    明治四十二年
○上略
五月七日 評議員会ヲ開ク ○中略
当日高松・岩崎・天野ノ三理事互選ノ結果高松理事社長ニ推薦セラル
○中略
    大正五年
○中略
十月十二日 社長高松凌雲氏ハ、養生其効ナク午前七時三十分逝去セ
 - 第31巻 p.59 -ページ画像 
ラル ○下略



〔参考〕渋沢栄一 日記 大正一四年(DK310008k-0004)
第31巻 p.59 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一四年     (渋沢子爵家所蔵)
二月二十二日 大雪 寒
○上略 午前十時過後藤文夫氏来リ、同愛社ニ対スル富豪数家ノ寄附金ノ事ヲ協議ス、詰リ後藤氏ヨリ三井・岩崎二家ノ人ト内話スヘキ事ヲ打合ハス ○下略