デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
4節 保健団体及ビ医療施設
6款 財団法人日本結核予防協会
■綱文

第31巻 p.100-108(DK310015k) ページ画像

大正2年2月11日(1913年)

是日日本結核予防協会設立セラレ、栄一之ガ副会頭トナル。大正十年五月ニ至リ当協会其ノ組織ヲ改メテ財団法人トナリ、栄一会頭ニ就任、歿年ニ及ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 大正二年(DK310015k-0001)
第31巻 p.100 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正二年      (渋沢子爵家所蔵)
二月十一日 晴 寒
○上略 午前十一時半内務省衛生局ニ抵リ、日本結核病予防協会ノ発会ニ出席ス、一場ノ挨拶ヲ為ス ○下略


竜門雑誌 第二九七号・第七三頁 大正二年二月 ○結核予防協会発会(DK310015k-0002)
第31巻 p.100 ページ画像

竜門雑誌  第二九七号・第七三頁 大正二年二月
○結核予防協会発会 日本結核予防協会は、去二月十一日の紀元節を卜して麹町区大手町一丁目の大日本私立衛生会々堂に於て発会式を挙げたり、午前十時開会、会の趣旨及び規則案を議したる後役員の選挙を行ひ、一旦休憩後午後一時再開、役員選挙の報告、同就任の挨拶等あり、青山博士等の祝辞朗読ありて散会したるが、会頭には伯爵芳川顕正氏、副会頭には青淵先生及男爵佐藤進氏、理事長には北里柴三郎氏、常務理事には小橋一太氏・金杉英五郎の両氏等就任し、尚ほ理事には細野順・遠山椿吉氏等十二氏、名誉会員には池田謙斎男・徳川家達公等二十氏、顧問には高木兼寛男等十一氏、評議員には入沢達吉氏石渡敏一氏等四十五氏当選就任したりと


青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第一七頁 昭和六年一二月(DK310015k-0003)
第31巻 p.100 ページ画像

青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調  竜門社編
                 竜門雑誌第五一九号別刷・第一七頁 昭和六年一二月
    大正年代
 年  月
 二  二 ―日本結核予防協会副会頭―大、一〇・五、―財団法人〃会頭―昭和六・一一。


本会事業概要 日本結核予防協会編 第六―七頁 昭和七年一〇月刊(DK310015k-0004)
第31巻 p.100-101 ページ画像

本会事業概要 日本結核予防協会編  第六―七頁 昭和七年一〇月刊
    一、本会の組織
      沿革
 明治三十七年四月政府が初めて肺結核予防に就て考慮を払ひ、公衆の集団生活に対する予防的注意を喚起し、病毒伝播の防止に関する行政的措置を講じてより、同四十一年ローベルト・コッホ博士来朝するや、故北里男を初め、朝野の医学者は結核予防会開設の必要を痛感し其の協議を重ねたが、同四十四年二月 畏くも明治大帝の聖旨に基く救療慈恵事業の行はるゝや、結核病予防の喫緊なることは一層明確と
 - 第31巻 p.101 -ページ画像 
なつた。斯くて本病予防の為めの民間の輿論喚起となり、権威ある専門的団体設立の必要強調せられ、朝野の為政家・学者・識者の唱導により、大正二年二月十一日紀元節の佳辰を卜し、本会は創立せらるゝに至つた。会頭には伯爵芳川顕正、副会頭に医学博士男爵佐藤進・男爵渋沢栄一の諸氏を推し、理事長として医学博士北里柴三郎氏就任され、汎く全国に亘り予防運動の烽火を挙げた。爾来、本会の基礎漸く鞏固と為り、北里男を理事長に、金杉・遠山・矢野・北島・栗本・細野・高木男等を幹部に推し、鋭意斯界の為に貢献する所があつた。其の後、会頭の更迭、役員の異動等を見たが、会務の進展は年と共に革まり、大正十年五月三日を以て組織を変更して財団法人となし、子爵渋沢栄一氏を会頭に、馬越恭平氏・井上準之助氏を副会頭に、男爵北里柴三郎氏を理事長に推した。爾後、年を閲すると共に幹部の代謝、大震災による経営の困難を経たが、金杉・矢野・北島・秦・佐藤(正)其他の諸氏は、直接会務の振興に努力する所ありて今日に至つた。此間、政府は常に本会を誘導せしのみならず、当局者亦、本会幹部として尽瘁せられ、所謂半官半民の団体として全国斯種団体の盟主たらしめられた。今や本会は、其の幹部に全国知名の政治家・医学者・実業家等を網羅し、名実共に全国民的協会の実を備へ、特に昭和六年十月神戸市に於て開催せられたる全国結核団体の協議に於ては、本会をして真に其の組織、活動の上に、官民協力、全国的統制機関としての実を発揮せしむるの議が提案され、其の決議に基き、同六年十一月二十日定款を改正し、公爵徳川圀順氏を会頭に、内務大臣山本達雄氏を名誉会頭に、前内務大臣安達謙蔵氏・同鈴木喜三郎氏を顧問に、馬越恭平氏を副会頭に、医学博士金杉英五郎氏を理事長に、池田成彬氏外十名を理事に推して会務を処理する事となつた。
      目的及事業
  本会ハ結核ノ予防撲滅ヲ期スルヲ以テ目的トス
  前条ノ目的ヲ達スル為、本会ニ於テ行フ事業ノ概目左ノ如シ
一、結核病ノ予防救治ニ関スル調査・研究・図書雑誌ノ編纂、及機械器具ノ製作ヲ為スコト
二、結核病予防救治ニ関スル実物・標本・模型・図書、其ノ他必要ノ物件ヲ公衆ニ展覧セシムルコト
三、結核病予防救治ニ関スル講演会、其ノ他思想普及ノ施設ヲ為スコト
四、結核予防団体ノ聯絡及後援ヲ為スコト
五、国際的結核予防団体ト協力スルコト
六、前各号ノ外結核予防ニ関スル施設ヲ為スコト


渋沢栄一 日記 大正一二年(DK310015k-0005)
第31巻 p.101 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一二年     (渋沢子爵家所蔵)
二月二十六日 曇 寒
○上略 五時結核予防協会ニ抵リ、評議員会ニ出席ス、議事畢リテ本多・金杉博士等ト談話ス ○下略


人生の幸福 第二三巻・第五頁 大正一三年一月 国民の覚悟(DK310015k-0006)
第31巻 p.101-102 ページ画像

人生の幸福  第二三巻・第五頁 大正一三年一月
 - 第31巻 p.102 -ページ画像 
    国民の覚悟
          日本結核予防協会々頭
          震災善後会副会長   子爵 渋沢栄一
          帝都復興審議会委員
 人は身衰へたるの故を以て、種々の職務は、之を辞することを得るも、国民たるの務めは終生之を辞することが出来ない。即ち斃れて而して後已むのである。予は常に此の事を思ひ、外形の活動は出来なくとも精神的の方面に於ては、不断の努力を怠らなかつた。然るに、今回の如き大事変に際会しては外形的の方面に於ても亦大いに若がへつて働かねばならぬと考へた。それで事変の翌日以来、殆ど昼夜兼行で立ちはたらいて居る次第である。
 先づ震災と同時に、直ちに念頭に浮んだことは、糧食の充足、乱民の警戒、此の二点である。此の事に就ては、二日の朝、時の内閣及び赤池警視総監にも進言して置いた。次いで予は、自分の居住地である滝野川町の為めに、差しあたり米を埼玉県より搬入することにし、キリスト教徒及び町役場吏員などを督励して、救護に努め、続いて市内外全般に及ぼすの考慮を廻らした。然るに、間もなく、戒厳令の発布を見、更に進んで新内閣の種々機敏なる活動によつて、漸次に手が行届いて来た。四日、後藤内相よりの急使によつて救護事務局の大方針を聴き、予も亦愚見を述べて、協議するところがあつた。その結果、実業家及び両院議員相協同して、大震災善後会なるものを組織したのである。此の事に就ては、新聞紙に趣意書も委しく記してある通りである。 要するに、此の際、政治・経済・衛生各々相俟ちて、災害に関する応急救護特に結核予防等に就き注意を払はねばならぬ。更に東京経済の回復を最も適当に図らなければならぬ。市区改正に就ても、新聞紙上に種々意見が出て居る。或はパリスの形式に傚うて其の巷衢を整へるが可いとか、巧妙なる計画案もあるやうであるが、予は決してこれが悪いとは云はぬけれども、理論と実行とは、往々一致しないことがあるものであるから、宜しく緩急を慮かつて、遺算なきやう万全を期すべきである。然し斯くの如き大変に際し、大事を決行するにあたつては、非常なる勇気を要するので、敢て之を是非する訳ではない。
 終りに、国民各自は、互に相戒めて、帝都復興の大業に参加し、世界に恥しからぬやうにありたい。予も亦、一国民として、及ばずながら、その務めに服する覚悟である。
   ○右「人生の幸福」ハ日本結核予防協会ノ発行ニカヽル機関誌ナリ。


万朝報 大正一五年四月二七日 けふ全国的に結核予防デー 娘子軍四百名も繰り出し……百ケ所で講演会(DK310015k-0007)
第31巻 p.102-103 ページ画像

万朝報  大正一五年四月二七日
    けふ全国的に結核予防デー
      娘子軍四百名も繰り出し……百ケ所で講演会
今廿七日を期して全国的にやる結核予防デーは、既に各府県警察部その他の手によつて準備を整へたが、東京市では特に渋沢子爵の主宰する日本結核予防協会が中心となり、各区衛生団体・東京府市・警視庁衛生部等が参加して、大々的に予防宣伝を開始する手配になつて居り先づ市内の要所々々五十箇所には、看護婦・女学生からなる娘子軍四百名が出動して鈴蘭の造花を販売し、又通俗講演会が百ケ所に開会さ
 - 第31巻 p.103 -ページ画像 
れる一方、ラヂオで内務省衛生局の高野博士が『家庭と結核』と題する講演放送を行ひ、夜は北島博士が『結核は癒ります』といふ講演放送に引続いて、少年少女の『結核征伐の歌』が放送される、この外市内には夢二画伯の考案による予防ポスター数万枚が貼り出され、全市の小学児童に対しては授業表の裏面に予防の絵画を印刷したカード四十万枚を配付する筈である
 市の田村衛生課長は『今日は第二回の予防デーであるが、本年は交通取締規則が非常に厳重となつた為め、前回のやうに飛行機や自動車でビラを撒布出来ないので、非常に残念ではあるが、何分この種の催しは全国的の性質を帯びてゐるものであるから、東京市としても充分努力してこれが徹底的効果を期待してゐるわけである』


既往及将来 日本結核予防協会編 刊(DK310015k-0008)
第31巻 p.103-106 ページ画像

既往及将来 日本結核予防協会編  刊
○上略
  事業の概要
 本会創立(大正二年二月)以来の重なる事業左の如し。
    一 結核知識の普及
 結核病予防撲滅の方策は一にして足らずと雖も、その基礎を為すものは民衆が本病に関し正当なる知識を有するに在り。即ち本会は創立以来専ら此の方面に力を尽す所ありたり。
 一 人生の幸福 本会の機関雑誌にして兼て全国に於ける結核予防団体(其数四十七あり)の機関たり。年四回発行す。
 二 小冊子 「人生の禍根」「幸の為に」「悪魔の生涯」「人類の敵」其他数種を随時刊行し、無料或は実費を以て、個人及団体に配布す。その総数二十余万部なり。
 三 宣伝ビラ 「結核予防善悪鑑」「本会制定の格言」唱歌・俚謡、予防治療及び消毒の注意書等の宣伝ビラを常時配布しつゝあるが、その総数二百万枚に達す。
 四 講演 地方団体・学校・工場その他の依頼に依り、講師を派し、又は本会主催にて講演会を開く。その回数年三十回を下ることなし。
    二 結核予防法制定の促進
 結核予防撲滅の基礎は国民の自覚に在りと雖も、その蔓延の汎き、その惨禍の甚しき、国家の公力に俟つに非ざれば為し難き幾多の事象あるや論なし。即ち本会を主盟とする全国結核予防聯合会に於て、数年間の調査研究を為し、草案を具して当局に建議すること数回に及びたるが、遂ひに大正八年三月法律第二十六号を以て現行結核予防法の発布を見るに至り、本会の希望を玆に達し、結核予防運動に一時機を劃したり。
    三 行政当局に対し意見開陳
 結核予防法発布の促進に努めたるの外、結核病の予防撲滅に関し、各般の方策を常に内務当局に献策し、又た結核予防上特殊の事情を有する
 イ 労働衛生
 - 第31巻 p.104 -ページ画像 
 ロ 学校衛生
 ハ 軍事衛生
 ニ 交通衛生
 等に関し、主務大臣に対し屡々意見を開陳して施設改善を促し、他面地方公共団体の自治的施設に関し地方長官・市長等に建議勧誘せしこと一再ならず。
 内務大臣の諮問 尚ほ内務大臣は大正十三年以来、毎年一回結核予防上各般の事項に関し、本会を主盟とする全国結核予防聯合会に諮問を為すに至れり。
    四 地方団体設立勧誘及助長
 各府県に結核予防会の設置を勧誘し、これを指導してその事業の便益を計りたるは亦た本会の重要なる事業の一なりとす。即ち大正二年本会の組織なるや風を望んで起つもの当時二十余あり、爾来絶へずその数を増加す。本会は成立の助成、講師の派遣、資料の貸与等をなし大正三年には此等団体の関係者を糾合し、全国結核予防聯合会の名の下に斯道発展の協議を遂げ、以後毎年一回、順次各地に之を開催し、今や有力なる予防運動の機関となれり。更に近年に於ては結核予防国際聯盟に加入の為め、右機関を日本中央結核予防会と改称し本会此の事務を管掌す。加盟団体四十七の多きを数ふるに至れり。
 国際的交通 大正十四年結核予防国際聯盟の勧誘に応じ全国予防団体の名を以て加入し、昨秋北米華府に開かれたる同聯盟第六回総会には本会評議員高野六郎君を派遣せり。
    五 図書模型其他の設備
 本会の設備は大正十二年の震災に依り尽く灰燼に帰したるが、その後資を得るに従ひ着々整備に努めつゝあり。
 一 図書 結核病に関する専門及通俗の図書・雑誌。一般衛生に関する図書・雑誌。社会事業に関する図書・雑誌。計二百余種。
 二 展覧会の材料 結核療養所・林間学校の模型。説明用図解。各種統計表。百余種。
 三 活動写真 機械一台、ヒルム十余種。
 四 蓄音器 一台。
    六 結核予防デー挙行
 大正十四年以来本会の主唱に依り、各府県に於ける予防会夫々主体となり、関係団体、官民助力の下に毎年四月二十七日を期し、一斉に結核予防デーの催を為し、結核思想の鼓吹に努めつゝあり。東京に於ける本会主催の結核予防デーに行へる事項は左の如し。
 一 講演 ラヂオ。学校、工場、一般民衆を対象とする講演会開催。
 二 ポスター 市内外の電車内、各種掲示板。工場に対する特殊のもの。
 三 宣伝ビラ 市内外小学児童全部。街頭に於て行人に手交。
 四 乗換券利用 東京市電乗換券の裏面を利用し広告を為す。
 五 造花販売 街頭に於て鈴蘭の造花を販売す。
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 六 児童唱歌隊 「結核征伐の歌」「結核予防数へ歌」等。
 七 飛行機 自働車等に依り宣伝ビラの配布。
 八 咯痰検査 咯痰の無料検査、結核患者調査。
 因に此事業に対し助力又は金品を寄附せられたるは左の各所なり。内務省衛生局・社会局・警視庁・東京府・東京市・逓信省簡易保険局・鉄道省・日本赤十字社・恩賜財団済生会・東京府医師会、其他
    七 結核に関する調査
 結核の流行病学的、及社会政策的調査は本会の常に怠らざる所なるが、殊に本年の結核予防デーに於ては全国の各予防会に移牒し、結核患者の受療方法を調査せる所、既に東京府下に於ては僅々四千余の患者のみが医師に就き治療を受けつゝあることを瞭かにせり。
  将来の企劃
 本会企劃中の事業にして、結核蔓延の現況に鑑みて急施を要すと認めらるゝものを挙ぐれば左の如し。
 一 健康相談所(早期診断所) 自己の健康に不安を抱くも医師の門を訪ふ資のなき階級の為め健康相談所を設け、レントゲン其他の設備を充分に整へ、早期に疾病を発見し、療養上の指導を与へむとす。
 二 林間学校(海浜学校) 結核性体質の小学児童を林間或は海浜に移し、学業の傍ら栄養・運動等に特殊の注意を払ひ、速かに健康を恢復せしむることは、後年発病を待つて加療するに優ること言を俟たず。
 三 栄養品の給与 牛乳その他の栄養食料を貧困なる患者或は結核の疑ある虚弱者に給与する機関の設置。
 四 巡回看護婦 結核患者は下層階級に多し。是等患者を発見し受療の方法、療養及消毒の注意を与ふる為め、結核の知識を有する看護婦を養成し、これを(一)の健康相談所に附属せしめむとす。
 五 特殊業態に対する施設 繊維、印刷工業その他特に結核の発生多き職業に対しては予防、治療の方策を別に講ずるの要あり。
 其他結核療養所の増設、公共の用に供する消毒所、乳幼児を結核家族より隔離して哺育する機関、の設置等一にして足らざるなり。
○中略
    本会役員
  会頭   子爵 渋沢栄一
  副会頭     馬越恭平
  理事長  男爵 北里柴三郎
  評議員
      池田成彬     池田竜一     今村繁三
      今井伍介     入沢達吉     石川徳右衛門
      猪飼九兵衛    飯田延太郎    生田武夫
      井上準之助    林止       林曄
      秦佐八郎     服部金太郎    曄道文芸
      橋本万右衛門   西脇済三郎    細野順
 - 第31巻 p.106 -ページ画像 
      本多忠夫     堀貞       遠山椿吉
      富田助      戸田正三     大谷彬亮
      大橋新太郎    太田清蔵     大谷嘉兵衛
      大越又雄     緒方知三郎    岡本次三郎
      小原達明     小口今朝吉    渡辺義政
      金杉英五郎    川崎肇      川村貞四郎
      加藤義夫     亀岡慶治     門野幾之進
      軽部修伯     河合良成     横手千代之助
   男爵 高水喜寛     高田耕安     高野六郎
      田沢鐐二     田村瑞穂     田中義一
      田中武助     竹内松次郎    土屋清三郎
      中浜東一郎    中原徳太郎    中山寿彦
   伯爵 中川久任     長与又郎     長岡隆一郎
      潮恵之輔     内野仙一     野依辰治
      栗本庸勝     草間滋      窪田静太郎
      矢野恒太     八木逸郎     山田準次郎
      山谷徳治郎    矢崎芳夫  伯爵 柳原義光
      安田善五郎    馬越恭平     前田多門
      松本忠雄     松山陽太郎 男爵 前田利功
      松方正雄     松方五郎     古見嘉一
      藤村義苗     藤井善助  男爵 藤田平太郎
      藤田譲      小橋一太     古瀬安俊
      鯉沼茆吾     国府精一     遠藤繁清
      寺田正中     朝吹常吉     佐伯矩
      佐々木秀一    佐々木隆興    佐藤秀三
   子爵 酒井忠亮  男爵 北里柴三郎    北島多一
      北豊吉      木村雄次     湯沢三千男
      宮島幹之助    宮本仲      志村源太郎
      下郷伝平     下郷寅太郎    下条久馬一
      篠原昌治     弘世助太郎    広岡恵三
   男爵 森村開作     守屋栄夫


竜門雑誌 第四六六号・第一〇一頁 昭和二年七月 青淵先生動静大要(DK310015k-0009)
第31巻 p.106 ページ画像

竜門雑誌  第四六六号・第一〇一頁 昭和二年七月
    青淵先生動静大要
      六月中
○中略
十八日 ○中略 日本結核予防協会主催生命保険会社々長招待会(生命保険協会)


青淵先生関係事業調 雨夜譚会編 昭和三年七月二日(DK310015k-0010)
第31巻 p.106-107 ページ画像

青淵先生関係事業調 雨夜譚会編  昭和三年七月二日
                    (渋沢子爵家所蔵)
    日本結核予防協会
一、創立       大正二年二月
一、所在地      東京市麹町区大手町一丁目
 - 第31巻 p.107 -ページ画像 
一、目的       結核予防、撲滅の為め、民衆に本病に関し正当なる智識を普及する事
一、発起人      北里柴三郎 金杉英五郎 高木兼寛 入沢達吉 芳川顕正 青淵先生等
一、青淵先生との関係 発起人
           創立後は副会頭に推され、会頭芳川顕正伯歿後、会頭に挙げらる
一、事業概要     日本結核予防協会発行の『既往及将来』参照
一、沿革       同協会は大震災の厄に遭ひ書類全部焼失したる上、書□担当者不都合《(欠字)》の行為ありて、辞職したるを以て沿革判明ならず。『既往及将来』参照
    青淵先生と協会(評議員 栗木庸勝氏談)
渋沢子爵は創立から協会に御関係下されたが、直接協会の事業に御尽力下さつた事と云へば、毎年の評議会には止むを得ない場合の外、必ず議長として御出席の上事務を御処理になる。尚ほ大正十五年五月協会の資金不足の為め、生命保険業者を勧誘なされた。其結果生命保険協会から年壱万五千円を寄附する事になつて居る。最近子爵は屡々会頭御辞退を申出られるが、何分寄附金醵集等の関係から子爵の御尽力に俟たねば他の者では駄目である。



〔参考〕本会事業概要 日本結核予防協会編 第一頁 昭和七年一〇月刊(DK310015k-0011)
第31巻 p.107-108 ページ画像

本会事業概要 日本結核予防協会編  第一頁 昭和七年一〇月刊
    日本結核予防協会設立ノ趣旨(大正二年二月本会設立ニ当リテ)
結核病ハ総テノ疾病中最モ汎ク蔓延シ、最モ多ク人生ヲ害毒スル伝染病ニシテ、日本国ニ於テ本病ノ為メニ死スルモノ年々八万余人、殊ニ十五歳乃至三十五歳ノ少壮者、全死亡ノ三分ノ一ハ実ニ結核病ニ因セリ、又或ル種ノ職業、例ヘバ各種印刷業者・紡績織物女工・被服洗濯業者・学校教員等ニ於テモ、全死亡ノ三分ノ一以上ハ結核病タリ、死亡者ノ数既ニ斯ノ如ク大ナリ、病者ノ数ノ多キ亦知ルベシ、病毒ノ散蔓愈々甚シク、病者ノ数益々増加スルガ故ニ、若シ之レニ対シテ何等予防ノ方法ヲ講ゼズンバ、結核病者ノ数、結核死亡者ノ数ハ愈々増多スベキノミ、我ガ日本ハ今ヤ実ニ此悲惨ノ裡ニ在リ、国家ノ経済、国民ノ元気、国運ノ発展上、断ジテ看過スルコト能ハズ
結核病ハ其ノ病原発見以来、伝染ノ径路其他闡明セラレ、其予防シ得ベキ伝染病タルヤ明瞭ナリ、殊ニ英独米等ノ諸国ニ於テ、之ヲ実証セリ、欧洲各国ニ於テモ数十年以前ニ於テハ結核死亡数ハ非常ニ多ク、人口一万ニ就キ五十人乃至百人ノ多数ヲ出セル都市ハ、敢テ稀有ナラザリシガ、爾来漸次其数ヲ減ズ、例ヘバ普国ニ於テハ最近三十年間ニ人口一万ニ就キ三十二・五人ヨリ十六・五人ニ逓減シ、英国ニ於テハ尚ホ一層逓減シテ十五人余トナレリ、此等諸国ニ於テハ、勿論一般死亡率モ逓減セリト雖モ、殊ニ結核ニ於テ其顕著ナルヲ見ル、是レ畢竟結核ニ関スル予防ノ方法ヲ画策シ、鋭意之ヲ実施セルガ為メニ外ナラズ結核ノ予防ニ関シテハ、国家モ亦其ノ公力ヲ使用スルノ必要アリト雖モ、其ノ病勢及蔓延ノ状況ハ、直チニ急性伝染病ニ対スルガ如ク処置スルヲ許サズ、必ズヤ国民ノ一致協力ヲ要ス、欧米各国ニ於ル予防法
 - 第31巻 p.108 -ページ画像 
ノ実況ヲ老察スルモ亦然リトス、即チ結核予防国民協会ノ設ケアリ、政府・王室ハ協会ヲ保護シ、協会ハ政府ヲ補ケ、著々其ノ効ヲ収ム、本邦ニ於テ結核予防会ハ起ルベクシテ起ラザルヤ久シク、徒ラニ結核病毒ノ蔓延ニ任セリ、然レドモ今日ノ実情ハ殖産興業上、将タ日本民族ノ発展上、最早寸時ヲ緩フスベキノ秋ニアラズ、乃チ玆ニ日本結核予防協会ヲ組織シ、日本全国民ノ協力ニヨリ此ノ国民病ノ防遏ニ従事セントス