デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
4節 保健団体及ビ医療施設
6款 財団法人日本結核予防協会
■綱文

第31巻 p.100-108(DK310015k) ページ画像

大正2年2月11日(1913年)

是日日本結核予防協会設立セラレ、栄一之ガ副会頭トナル。大正十年五月ニ至リ当協会其ノ組織ヲ改メテ財団法人トナリ、栄一会頭ニ就任、歿年ニ及ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 大正二年(DK310015k-0001)
第31巻 p.100 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正二年      (渋沢子爵家所蔵)
二月十一日 晴 寒
○上略 午前十一時半内務省衛生局ニ抵リ、日本結核病予防協会ノ発会ニ出席ス、一場ノ挨拶ヲ為ス ○下略


竜門雑誌 第二九七号・第七三頁 大正二年二月 ○結核予防協会発会(DK310015k-0002)
第31巻 p.100 ページ画像

竜門雑誌  第二九七号・第七三頁 大正二年二月
○結核予防協会発会 日本結核予防協会は、去二月十一日の紀元節を卜して麹町区大手町一丁目の大日本私立衛生会々堂に於て発会式を挙げたり、午前十時開会、会の趣旨及び規則案を議したる後役員の選挙を行ひ、一旦休憩後午後一時再開、役員選挙の報告、同就任の挨拶等あり、青山博士等の祝辞朗読ありて散会したるが、会頭には伯爵芳川顕正氏、副会頭には青淵先生及男爵佐藤進氏、理事長には北里柴三郎氏、常務理事には小橋一太氏・金杉英五郎の両氏等就任し、尚ほ理事には細野順・遠山椿吉氏等十二氏、名誉会員には池田謙斎男・徳川家達公等二十氏、顧問には高木兼寛男等十一氏、評議員には入沢達吉氏石渡敏一氏等四十五氏当選就任したりと


青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第一七頁 昭和六年一二月(DK310015k-0003)
第31巻 p.100 ページ画像

青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調  竜門社編
                 竜門雑誌第五一九号別刷・第一七頁 昭和六年一二月
    大正年代
 年  月
 二  二 ―日本結核予防協会副会頭―大、一〇・五、―財団法人〃会頭―昭和六・一一。


本会事業概要 日本結核予防協会編 第六―七頁 昭和七年一〇月刊(DK310015k-0004)
第31巻 p.100-101 ページ画像

本会事業概要 日本結核予防協会編  第六―七頁 昭和七年一〇月刊
    一、本会の組織
      沿革
 明治三十七年四月政府が初めて肺結核予防に就て考慮を払ひ、公衆の集団生活に対する予防的注意を喚起し、病毒伝播の防止に関する行政的措置を講じてより、同四十一年ローベルト・コッホ博士来朝するや、故北里男を初め、朝野の医学者は結核予防会開設の必要を痛感し其の協議を重ねたが、同四十四年二月 畏くも明治大帝の聖旨に基く救療慈恵事業の行はるゝや、結核病予防の喫緊なることは一層明確と
 - 第31巻 p.101 -ページ画像 
なつた。斯くて本病予防の為めの民間の輿論喚起となり、権威ある専門的団体設立の必要強調せられ、朝野の為政家・学者・識者の唱導により、大正二年二月十一日紀元節の佳辰を卜し、本会は創立せらるゝに至つた。会頭には伯爵芳川顕正、副会頭に医学博士男爵佐藤進・男爵渋沢栄一の諸氏を推し、理事長として医学博士北里柴三郎氏就任され、汎く全国に亘り予防運動の烽火を挙げた。爾来、本会の基礎漸く鞏固と為り、北里男を理事長に、金杉・遠山・矢野・北島・栗本・細野・高木男等を幹部に推し、鋭意斯界の為に貢献する所があつた。其の後、会頭の更迭、役員の異動等を見たが、会務の進展は年と共に革まり、大正十年五月三日を以て組織を変更して財団法人となし、子爵渋沢栄一氏を会頭に、馬越恭平氏・井上準之助氏を副会頭に、男爵北里柴三郎氏を理事長に推した。爾後、年を閲すると共に幹部の代謝、大震災による経営の困難を経たが、金杉・矢野・北島・秦・佐藤(正)其他の諸氏は、直接会務の振興に努力する所ありて今日に至つた。此間、政府は常に本会を誘導せしのみならず、当局者亦、本会幹部として尽瘁せられ、所謂半官半民の団体として全国斯種団体の盟主たらしめられた。今や本会は、其の幹部に全国知名の政治家・医学者・実業家等を網羅し、名実共に全国民的協会の実を備へ、特に昭和六年十月神戸市に於て開催せられたる全国結核団体の協議に於ては、本会をして真に其の組織、活動の上に、官民協力、全国的統制機関としての実を発揮せしむるの議が提案され、其の決議に基き、同六年十一月二十日定款を改正し、公爵徳川圀順氏を会頭に、内務大臣山本達雄氏を名誉会頭に、前内務大臣安達謙蔵氏・同鈴木喜三郎氏を顧問に、馬越恭平氏を副会頭に、医学博士金杉英五郎氏を理事長に、池田成彬氏外十名を理事に推して会務を処理する事となつた。
      目的及事業
  本会ハ結核ノ予防撲滅ヲ期スルヲ以テ目的トス
  前条ノ目的ヲ達スル為、本会ニ於テ行フ事業ノ概目左ノ如シ
一、結核病ノ予防救治ニ関スル調査・研究・図書雑誌ノ編纂、及機械器具ノ製作ヲ為スコト
二、結核病予防救治ニ関スル実物・標本・模型・図書、其ノ他必要ノ物件ヲ公衆ニ展覧セシムルコト
三、結核病予防救治ニ関スル講演会、其ノ他思想普及ノ施設ヲ為スコト
四、結核予防団体ノ聯絡及後援ヲ為スコト
五、国際的結核予防団体ト協力スルコト
六、前各号ノ外結核予防ニ関スル施設ヲ為スコト


渋沢栄一 日記 大正一二年(DK310015k-0005)
第31巻 p.101 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一二年     (渋沢子爵家所蔵)
二月二十六日 曇 寒
○上略 五時結核予防協会ニ抵リ、評議員会ニ出席ス、議事畢リテ本多・金杉博士等ト談話ス ○下略


人生の幸福 第二三巻・第五頁 大正一三年一月 国民の覚悟(DK310015k-0006)
第31巻 p.101-102 ページ画像

人生の幸福  第二三巻・第五頁 大正一三年一月
 - 第31巻 p.102 -ページ画像 
    国民の覚悟
          日本結核予防協会々頭
          震災善後会副会長   子爵 渋沢栄一
          帝都復興審議会委員
 人は身衰へたるの故を以て、種々の職務は、之を辞することを得るも、国民たるの務めは終生之を辞することが出来ない。即ち斃れて而して後已むのである。予は常に此の事を思ひ、外形の活動は出来なくとも精神的の方面に於ては、不断の努力を怠らなかつた。然るに、今回の如き大事変に際会しては外形的の方面に於ても亦大いに若がへつて働かねばならぬと考へた。それで事変の翌日以来、殆ど昼夜兼行で立ちはたらいて居る次第である。
 先づ震災と同時に、直ちに念頭に浮んだことは、糧食の充足、乱民の警戒、此の二点である。此の事に就ては、二日の朝、時の内閣及び赤池警視総監にも進言して置いた。次いで予は、自分の居住地である滝野川町の為めに、差しあたり米を埼玉県より搬入することにし、キリスト教徒及び町役場吏員などを督励して、救護に努め、続いて市内外全般に及ぼすの考慮を廻らした。然るに、間もなく、戒厳令の発布を見、更に進んで新内閣の種々機敏なる活動によつて、漸次に手が行届いて来た。四日、後藤内相よりの急使によつて救護事務局の大方針を聴き、予も亦愚見を述べて、協議するところがあつた。その結果、実業家及び両院議員相協同して、大震災善後会なるものを組織したのである。此の事に就ては、新聞紙に趣意書も委しく記してある通りである。 要するに、此の際、政治・経済・衛生各々相俟ちて、災害に関する応急救護特に結核予防等に就き注意を払はねばならぬ。更に東京経済の回復を最も適当に図らなければならぬ。市区改正に就ても、新聞紙上に種々意見が出て居る。或はパリスの形式に傚うて其の巷衢を整へるが可いとか、巧妙なる計画案もあるやうであるが、予は決してこれが悪いとは云はぬけれども、理論と実行とは、往々一致しないことがあるものであるから、宜しく緩急を慮かつて、遺算なきやう万全を期すべきである。然し斯くの如き大変に際し、大事を決行するにあたつては、非常なる勇気を要するので、敢て之を是非する訳ではない。
 終りに、国民各自は、互に相戒めて、帝都復興の大業に参加し、世界に恥しからぬやうにありたい。予も亦、一国民として、及ばずながら、その務めに服する覚悟である。
   ○右「人生の幸福」ハ日本結核予防協会ノ発行ニカヽル機関誌ナリ。


万朝報 大正一五年四月二七日 けふ全国的に結核予防デー 娘子軍四百名も繰り出し……百ケ所で講演会(DK310015k-0007)
第31巻 p.102-103 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

既往及将来 日本結核予防協会編 刊(DK310015k-0008)
第31巻 p.103-106 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

竜門雑誌 第四六六号・第一〇一頁 昭和二年七月 青淵先生動静大要(DK310015k-0009)
第31巻 p.106 ページ画像

竜門雑誌  第四六六号・第一〇一頁 昭和二年七月
    青淵先生動静大要
      六月中
○中略
十八日 ○中略 日本結核予防協会主催生命保険会社々長招待会(生命保険協会)


青淵先生関係事業調 雨夜譚会編 昭和三年七月二日(DK310015k-0010)
第31巻 p.106-107 ページ画像

青淵先生関係事業調 雨夜譚会編  昭和三年七月二日
                    (渋沢子爵家所蔵)
    日本結核予防協会
一、創立       大正二年二月
一、所在地      東京市麹町区大手町一丁目
 - 第31巻 p.107 -ページ画像 
一、目的       結核予防、撲滅の為め、民衆に本病に関し正当なる智識を普及する事
一、発起人      北里柴三郎 金杉英五郎 高木兼寛 入沢達吉 芳川顕正 青淵先生等
一、青淵先生との関係 発起人
           創立後は副会頭に推され、会頭芳川顕正伯歿後、会頭に挙げらる
一、事業概要     日本結核予防協会発行の『既往及将来』参照
一、沿革       同協会は大震災の厄に遭ひ書類全部焼失したる上、書□担当者不都合《(欠字)》の行為ありて、辞職したるを以て沿革判明ならず。『既往及将来』参照
    青淵先生と協会(評議員 栗木庸勝氏談)
渋沢子爵は創立から協会に御関係下されたが、直接協会の事業に御尽力下さつた事と云へば、毎年の評議会には止むを得ない場合の外、必ず議長として御出席の上事務を御処理になる。尚ほ大正十五年五月協会の資金不足の為め、生命保険業者を勧誘なされた。其結果生命保険協会から年壱万五千円を寄附する事になつて居る。最近子爵は屡々会頭御辞退を申出られるが、何分寄附金醵集等の関係から子爵の御尽力に俟たねば他の者では駄目である。



〔参考〕本会事業概要 日本結核予防協会編 第一頁 昭和七年一〇月刊(DK310015k-0011)
第31巻 p.107-108 ページ画像

本会事業概要 日本結核予防協会編  第一頁 昭和七年一〇月刊
    日本結核予防協会設立ノ趣旨(大正二年二月本会設立ニ当リテ)
結核病ハ総テノ疾病中最モ汎ク蔓延シ、最モ多ク人生ヲ害毒スル伝染病ニシテ、日本国ニ於テ本病ノ為メニ死スルモノ年々八万余人、殊ニ十五歳乃至三十五歳ノ少壮者、全死亡ノ三分ノ一ハ実ニ結核病ニ因セリ、又或ル種ノ職業、例ヘバ各種印刷業者・紡績織物女工・被服洗濯業者・学校教員等ニ於テモ、全死亡ノ三分ノ一以上ハ結核病タリ、死亡者ノ数既ニ斯ノ如ク大ナリ、病者ノ数ノ多キ亦知ルベシ、病毒ノ散蔓愈々甚シク、病者ノ数益々増加スルガ故ニ、若シ之レニ対シテ何等予防ノ方法ヲ講ゼズンバ、結核病者ノ数、結核死亡者ノ数ハ愈々増多スベキノミ、我ガ日本ハ今ヤ実ニ此悲惨ノ裡ニ在リ、国家ノ経済、国民ノ元気、国運ノ発展上、断ジテ看過スルコト能ハズ
結核病ハ其ノ病原発見以来、伝染ノ径路其他闡明セラレ、其予防シ得ベキ伝染病タルヤ明瞭ナリ、殊ニ英独米等ノ諸国ニ於テ、之ヲ実証セリ、欧洲各国ニ於テモ数十年以前ニ於テハ結核死亡数ハ非常ニ多ク、人口一万ニ就キ五十人乃至百人ノ多数ヲ出セル都市ハ、敢テ稀有ナラザリシガ、爾来漸次其数ヲ減ズ、例ヘバ普国ニ於テハ最近三十年間ニ人口一万ニ就キ三十二・五人ヨリ十六・五人ニ逓減シ、英国ニ於テハ尚ホ一層逓減シテ十五人余トナレリ、此等諸国ニ於テハ、勿論一般死亡率モ逓減セリト雖モ、殊ニ結核ニ於テ其顕著ナルヲ見ル、是レ畢竟結核ニ関スル予防ノ方法ヲ画策シ、鋭意之ヲ実施セルガ為メニ外ナラズ結核ノ予防ニ関シテハ、国家モ亦其ノ公力ヲ使用スルノ必要アリト雖モ、其ノ病勢及蔓延ノ状況ハ、直チニ急性伝染病ニ対スルガ如ク処置スルヲ許サズ、必ズヤ国民ノ一致協力ヲ要ス、欧米各国ニ於ル予防法
 - 第31巻 p.108 -ページ画像 
ノ実況ヲ老察スルモ亦然リトス、即チ結核予防国民協会ノ設ケアリ、政府・王室ハ協会ヲ保護シ、協会ハ政府ヲ補ケ、著々其ノ効ヲ収ム、本邦ニ於テ結核予防会ハ起ルベクシテ起ラザルヤ久シク、徒ラニ結核病毒ノ蔓延ニ任セリ、然レドモ今日ノ実情ハ殖産興業上、将タ日本民族ノ発展上、最早寸時ヲ緩フスベキノ秋ニアラズ、乃チ玆ニ日本結核予防協会ヲ組織シ、日本全国民ノ協力ニヨリ此ノ国民病ノ防遏ニ従事セントス