デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

2章 労資協調及ビ融和事業
1節 労資協調
1款 友愛会
■綱文

第31巻 p.450-456(DK310071k) ページ画像

大正8年9月22日(1919年)

第一回国際労働会議労働側代表委員選定ニ関シ事態紛糾スルヤ、是日栄一、当会会長鈴木文治ヲ招キテ代表委員選定協議員会ノ経過ヲ聴取シ、当会側ノ主張ヲ認メ、之ヲ支持ス。


■資料

集会日時通知表 大正八年(DK310071k-0001)
第31巻 p.450 ページ画像

集会日時通知表  大正八年        (渋沢子爵家所蔵)
九月廿二日(月) 午後三―四時 鈴木文治氏来約(兜町)
 - 第31巻 p.451 -ページ画像 


東京朝日新聞 第一一九四五号 大正八年九月二三日 労働代表問題の紛糾は政府の責任(DK310071k-0002)
第31巻 p.451 ページ画像

東京朝日新聞  第一一九四五号 大正八年九月二三日
  労働代表問題の紛糾は政府の責任
    ◇渋沢男の批難……
      最初の相談を斥けられて今更
      私が調停などは思ひも寄らぬ
           =鈴木氏の言分は皆正当
渋沢栄一男は労働代表問題の益紛糾を重ねる憂ふべき形勢を観取し、昨日午後三時半該問題渦中の友愛会長鈴木文治氏を日本橋兜町の渋沢事務所ニ招き、約二時間に亘りて懇談したり、右に付き世間は早くも男が同問題解決の為に起てりと認め居れるが、会見終りて鈴木氏と共に記者に面会せる男は、次の如く語り、断乎として当局の処置を批難し、鈴木氏の主張に対しては『寔に動かすべからざる道理なり』と明言せり、男は曰く『今回労働代表選出協議会の紛糾に関して、自分は新聞を通じて其容易ならぬ形勢を知り、自分の婆心から万一にも折合の付く途があるならと考へ、日頃懇意の鈴木君をお招きし事情を審かにすると共に、其の意見を聴取したのであるが、十八日の投票決定に至れる経過や、協議員会組織の方法は、共に適当なる方法とは認められず、結局斯くの如くして選出された者は真に労働者代表とは云へないから、従つて国際労働規約に反するといふのが鈴木氏の御意見であつた、一体此度の労働代表選定に関しても、自分は予め床次内相に会見し、我々の組織せんとする協調会は徳川公・清浦子・大岡氏及自分の四人が力を入れつゝあるので、会の性質上我々にも一応の相談を下さらぬか……と売つて出たのだ、然るに内相は「山本農相迄其意味を通じて置かう」と答へたのみで、其後一度の御挨拶もない、御相談の無いものに私共が無理に押かける権能もないのだから、単に御相談でも下さるなら好い思案を建言して上げ度いものだと考へるばかりだつた、其内に此問題は非常な難局に陥つて了つたが、二十日添田地方局長と協調会の用向きで会見したので、一寸御注意は申上げて置いた、そして今日鈴木氏と会見する事になつたので、世間或は私が何か両者の間に立ち協調でもする事の様に想像されるだらうが、私の現在の立場は前述の如く、我から当局へ売つて出てさへ買つて下さらぬ実情にあるのだから、私が差出で調停する抔は思ひも寄らない、今日鈴木君のお談を承つて見ると、同君として現在の進路を取つて飽迄当局に対抗される事は已むを得ない尤もな行動と思ふ、今日となつては実に困つたもので、当局が方法を誤つたといふ鈴木君のお説は、動かすべからざる理窟といふより外はない、自分は鈴木氏を最適任者と認めてゐた』云々


中央新聞 第一二四八〇号 大正八年九月二三日 渋沢老男爵が怠業にお叱言 鈴木文治氏と会見して(DK310071k-0003)
第31巻 p.451-452 ページ画像

中央新聞  第一二四八〇号 大正八年九月二三日
    ○渋沢老男爵が怠業にお叱言
      鈴木文治氏と会見して
労働代表委員の決定に苦しんで居る折柄、渋沢栄一男は廿二日友愛会会長鈴木文治氏を招いて、日本橋兜町の渋沢事務所に会見の一幕が開
 - 第31巻 p.452 -ページ画像 
かれた、会談は三時半から二時間ばかりで済んだが、世間では此会見を以て労働使節の候補者たる本多・高野両博士が政府の彼の如に根気能く奮起を求めてゐるにも拘らず、之れを肯ぜない一面には、友愛会等が盛んに資格問題などを喧しく唱へて居るを快しとせぬ風にも読めるので、扨は渋沢男が鈴木友愛会々長とは懇意でもあり、労資協調会の発起人でもある立場から、友愛会の意中を聞いた上、事に依つたら一肌脱いで折合を附けて見るのではなからうかと、大分世の注目する処となつて居たのであつた、乃で両氏も時節柄世間に誤解されては困ると見え、詰め掛けて居た記者団に対ひ、渋沢男と鈴木氏が現はれて当日の会見の顛末を報告する処があつた、先づ渋沢男曰く
 『△今日会見したのは、昨今世間で労働使節の問題で騒々しく新聞では友愛会が何うの斯うのとあるが、其間の消息が能く判らないので、直に鈴木氏に会つて経過と其心事を聞いたまでに過ぎぬ。夫れに依ると協議員会に於ける代表候補選定方法が、純労働者に於て選出された性質のものでないから飽まで異議を唱へるのだと云つて居るが、之れは至極尤もな話ではあるが、政府としては彼れで
 △最善を尽し たことで今更行懸り上何うすることも出来ぬであらうが、純労働者から理解のある適当な人を出したなら好かつたのであらうと思ふ、併し今になつては是非もない、自分は元来此委員の選出方法とか人選等に就て一応相談でも受ければ何か献策もしようと思つて居たが、協調会は事実未だ成立して居ない関係からでもあらう
 △何等の相談 も受けて居ない、そは兎に角友愛会長としては飽くまで温健に過激に亘らぬ様と、即ち老婆心から且つ懇意な間柄上一片の忠告をしたのである、今回の紛紏は今少し選挙方法を考へて欲しかつたのである、真の労働者をして代表者に立てるは無理とは云はぬのである、夫れにしても彼の川崎造船所の職工が怠業を起し給金を取り乍ら示威運動を起して居るが、彼れは昔小僧が主人に叱られた場合に起す
 △不貞寝と少 しも異ならぬ、斯かる卑屈極まる行ひは日本男子の恥である、若し此中に友愛会員でも混つて居たら忠告して欲しいと促したら、鈴木氏は之れは職工が同盟罷工などを起すと治安第十七条を適用されるを恐れての結果ですとの弁解であつたが、何も正当な理由があれば、男らしく遣れば能くはないかと云つたまでゝあつたのだ』


日本労働年鑑 大正九年版 大原社会問題研究所編 第七〇〇頁 大正九年五月刊 国際労働会議労働側代表員選定協議員会及代表委員決定事情(DK310071k-0004)
第31巻 p.452-453 ページ画像

日本労働年鑑 大正九年版 大原社会問題研究所編
                       第七〇〇頁 大正九年五月刊
    国際労働会議労働側代表員選定協議員会及代表委員決定事情
○上略
政府では輿論の紛糾に幾分心を痛めたらしく見える所へ、本多氏の辞退と聞き、驚いて早速第一補欠たる高野氏に交渉を開始した。然るに高野氏は元来組合主義論者である、且又友愛会の評議員である。それ
 - 第31巻 p.453 -ページ画像 
故友愛会並に他の労働団体との間に、相当の了解が成り立たゝぬ限りは、仮令協議員会で選定されても之を受諾するやうに考へる訳には行かぬ、と答へた。恰も此時第二補欠たる桝本氏は『政府が組合の公認と治安警察法第十七条の修正を為すに非ずんば』代表委員たる事を交渉されても辞退するの外はないと云ふ様な意見を新聞に発表し、又労資協調会の渋沢男は、友愛会の鈴木氏から協議員会に関する報告を得て、大に憤慨の語調を以て政府の態度を非難し、其間に兎角の風説八方から起り、其為政府の責任を問はんとする声さへ起る様になつた。
○下略



〔参考〕最近の社会運動 協調会編 第一四〇二―一四〇四頁 昭和四年一二月刊(DK310071k-0005)
第31巻 p.453-455 ページ画像

最近の社会運動 協調会編  第一四〇二―一四〇四頁 昭和四年一二月刊
 ○第十六章 第五節 第一項 第一回国際労働会議
    第二、我国に於ける代表委員選定
○上略
二、労働者側代表委員の選定協議
 (イ)代表選定方法 私設の工場・鉱山及鉄道に関しては地方長官に於て、官設の工場・鉱山及鉄道に関しては各所属長官に於て、夫々其管内に於ける労働者と隔意なき了解を得るに適当なる方法に依り委員若干名を出さしめ、之を府県庁其他適宜の場所に集め、東京・大阪・兵庫・愛知・長野、及福岡は各三名、北海道及神奈川は各二名、其他の三十九府県は各一名、鉄道院所属三名、海軍省所属、内閣・大蔵省陸軍省及農商務省所属各一名、友愛会・信友会・日本労働組合・日本労働聯合会・大阪鉄工組合等の労働団体より各一名宛の協議員を出さしめ、此等協議員を農商務省に召集し、労働者側代表委員選定の協議会を開催することゝした。
○中略
 (ロ)労働者側代表委員選定協議委員会
 (第一日) 九月十五日 ○大正八年開会、先づ友愛会の鈴木文治氏は協議会其のものを否認して退場し、次で「本会合に資本家側と観らるゝ人が存在する云々」の議論諸方より出で、信友会の水沼辰夫氏及び兵庫県の須々木純一氏は「斯かる資本家臭味を帯びたる会合に列席するは不本意である」との理由で退場し、謂はゆる筋肉労働者側と称する人人は甚だ喧噪を極め、結局当日は何等纏つた議もなく、(第二日) 九月十六日、詮衡委員を設けて、一定数の候補者を選出し、是等の人の意見を聴いた上で、一般投票に依て最後の一人を決定すると云ふ議が大多数の意向であつた。然るに相次で種々なる動議が提出されるので座長犬塚(勝太郎)次官の発議により、此等動議は文書にして提出し夫れを印刷にして配布し、これに就てよく熟考したる上、明日午後二時から議事を進めることゝなつた。散会後有志は各自の考案を座長に提出した。
 (第三日) 九月十七日大阪鉄工組合の堂前孫三郎氏は「労働代表は必然筋肉労働者たらざるべからず」との決議案を提出し、少数否決となつたので、此の案に賛成せる大島義晴氏(東京)其他四氏は堂前氏と共に退場した。次で代表委員選定に就き詮衡委員を選ぶ事に決し、
 - 第31巻 p.454 -ページ画像 
主なる協議員を一堂に会して詮衡委員選定法に就て協議し、前日有志選出の七案に就て協議し、此等諸案を折衷した新提案を作つて協議員に提出し、大多数で可決せられ、次で高橋綱吉氏(東京)より二十名の詮衡委員を推薦し、多数可決となつた。
 (第四日) 九月十八日午前九時から詮衡委員会が開かれ、左記九氏が代表委員候補者として挙げられた。
 本多精一・高野岩三郎・桝本卯平・宇野利右衛門・永井米蔵・高橋綱吉・新井京太・五木田慶三郎・北村丈吉
 此の九氏について出席員六十五名で投票した結果、三十六票本多精一氏、十一票新井京太氏と決定した。次で補欠正使の投票に移り、第一補欠は三十一票高野岩三郎氏、十六票桝本卯平氏、第二補欠は、二十五票桝本卯平氏、十八票永井米蔵氏と決定した。
 随行の顧問に関しては、政府と代表委員との協議に一任する事に決し、又被選挙者に対する交渉は政府に一任する事となつた。
 (ハ)代表委員決定に到るまでの経過 政府は代表正使に選定せられた本多精一氏に交渉を開始した。此の間筋肉労働者側、友愛会等の反対運動あり、其他諸方面からの反対があり、二十日に到り本多氏はこれを辞退した。仍て政府は第一補欠の高野氏に交渉を開始した。然るに高野氏は、元来組合主義論者であり、又友愛会の評議員である関係上、友愛会並に他の労働団体との間に、相当の了解が成り立たぬ限りは、仮令協議員会で選定されても受諾する訳にはゆかぬと答へた。そこで政府は百方手を尽し、一方高野氏の友人矢作栄蔵氏・吉野作造氏及北沢新次郎氏等をして、極力労働団体と労働代表との間の了解を得るに努めしめ、又高野氏自身に其起立を促がした。それ故高野氏は此間の交渉略順当に進むものと思ひ、二十三日農商務省に到り受諾の旨を回答した。然るに高野氏の受諾回答をなした前後に於て一方友愛会では「協議員会其のものを認めず、従つて其れから選出せられた代表委員其ものを認めない」と決議をした。而して高野氏は平生の持論よりしても友愛会の反対を無視するを得ないので、代表委員受諾後自ら進んで友愛会に交渉を試みたが、決議を翻さしむることが出来なかつた。依て受諾取消の旨を農商務省に申出でた。そこで矢作・吉野諸氏は慎重事を決せんと議して、高野氏辞退の公表を差控へしむると共に再度友愛会等と妥協点を見出すに尽力したが、友愛会はこれに応じない。他方政府では英国の国際労働会議準備委員会に照会して、此度政府の送るべき労働代表委員資格承認の保証を得たので、労働団体との妥協必ずしも必要ならずとの意見遂に勝を制した。
 斯様にして労働団体と政府との間に何人が仲介者になるとも遂に妥協の方法なきに至り、矢作・吉野諸氏も最早高野氏の辞意を翻し得ざる始末となつた。二十九日高野氏は当局に向つて辞意再考の余地なき旨を告げ、次で各新聞記者に辞退顛末経過を発表した。玆に於て政府は全力を尽して桝本氏に交渉した。桝本氏は治安警察法第十七条の撤廃と、労働組合の公認案とを来るべき議会に提出すると云ふ声明を農相に迫つたのであるが、農相は労働組合公認には反対せぬが、第十七条問題は早速同意し難い、然し事実上該条の適用を限定せしむるやう
 - 第31巻 p.455 -ページ画像 
努力すると云ふ意向を示したらしいので、桝本氏は十月一日代表委員を承諾し、労働団体側の大反対の中を十月十日出発した。



〔参考〕日本労働運動発達史 赤松克麿著 社会問題叢書第三輯・第一〇二―一〇三頁 大正一四年三月刊(DK310071k-0006)
第31巻 p.455 ページ画像

日本労働運動発達史 赤松克麿著
             社会問題叢書第三輯・第一〇二―一〇三頁 大正一四年三月刊
○上略
 次に本年の鬱勃たる労働運動の気運に油を注いだものは、第一回国際労働総会のいきさつであつた。政府は労働代表を選定するに当り、国際労働規約の精神に反し、組合労働者を無視して、自己の干渉と教唆の下に、協議員会なる組織を通じて、其の意中の人物を選んだので労働組合より一斉の反対を受けた。九月二十日、東京神田青年会館に於て、友愛会・信友会聯合主催の下に全国労働者大会が開かれ、堀江帰一・安部磯雄・福田徳三の諸学者は之れに声援を与へ、盛況を極めた。協議員会選出の本多精一氏・高野岩三郎氏が之を辞すると、御鉢は桝本卯平氏に廻つた。桝本氏が受諾するや、各労働組合は之れに猛烈なる辞職勧告をなし、更に十月五日、友愛会・信友会・大日本鉱山労働同盟会・新人労働同盟の四組合の主催の下に、芝公園より明治座に至る大示威運動を敢行し、同夜明治座に於て政府糺弾、桝本反対を絶叫した殺気漲る大演説会を催した。更に十月五日《(十日)》、桝本代表一行が横浜を出発する時、各労働組合は弔旗や位牌を以て之を送り、横浜埠頭はさながら一個の葬場と化した。第一回国際労働総会のいきさつによつて惹き起された各労働組合の政府反対運動は、一般労働運動に自信と意気とを鼓舞するに少からぬ効果を与へた。しかして今まで協調主義を取るものと目せられた友愛会が、此の運動の主動的地位に立つたので、社会の異常なる注意を引いたのであつた。



〔参考〕集会日時通知表 大正八年(DK310071k-0007)
第31巻 p.455 ページ画像

集会日時通知表  大正八年        (渋沢子爵家所蔵)
拾月五日(日) 午後六時 労働会議代表送別会



〔参考〕渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK310071k-0008)
第31巻 p.455 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一〇年       (渋沢子爵家所蔵)
三月十八日 晴 寒
○上略 四時事務所ニ抵リ、鈴木文治氏来リ、友愛会ノ沿革ト同氏身上ノ事ヲ内話ス ○下略



〔参考〕集会日時通知表 大正一〇年(DK310071k-0009)
第31巻 p.455 ページ画像

集会日時通知表  大正一〇年       (渋沢子爵家所蔵)
 三月十八日(金) 午後四時     鈴木文治氏来約(兜町)
   ○中略。
 七月三十日(土) 正午       鈴木文治氏来約(兜町)
   ○中略。
 九月十五日(木) 午前八時     鈴木文治氏来約(飛鳥山邸)



〔参考〕集会日時通知表 大正一三年(DK310071k-0010)
第31巻 p.455-456 ページ画像

集会日時通知表  大正一三年       (渋沢子爵家所蔵)
十一月七日(金)  午後自参時至四時 鈴木文治氏ト御会見(事務所)
   ○中略。
 - 第31巻 p.456 -ページ画像 
十二月廿六日(金) 午前十一時    鈴木文治・添田寿一両氏来約(飛鳥山邸)



〔参考〕集会日時通知表 大正一五年(DK310071k-0011)
第31巻 p.456 ページ画像

集会日時通知表  大正一五年       (渋沢子爵家所蔵)
 五月七日(金)  午前       鈴木文治氏来約(飛鳥山邸)
   ○中略。
十一月廿六日(金) 午前九時     鈴木文治氏来約(飛鳥山邸)



〔参考〕集会日時通知表 昭和二年(DK310071k-0012)
第31巻 p.456 ページ画像

集会日時通知表  昭和二年        (渋沢子爵家所蔵)
 参月四日(金)  午前九時     鈴木文治氏暇乞ノ為メ来約(飛鳥山)
   ○中略。
 参月廿二日(火) 午前九時     鈴木文治氏来訪(飛鳥山)
   ○中略。
 九月一日(木)  午前九時     鈴木文治氏来約(飛鳥山邸)



〔参考〕集会日時通知表 昭和四年(DK310071k-0013)
第31巻 p.456 ページ画像

集会日時通知表  昭和四年        (渋沢子爵家所蔵)
十月十四日(月)  午前九時半    鈴木文治氏来約(飛鳥山邸)



〔参考〕集会日時通知表 昭和五年(DK310071k-0014)
第31巻 p.456 ページ画像

集会日時通知表  昭和五年        (渋沢子爵家所蔵)
十一月十日(月)  正午       鈴木文治氏帰朝歓迎会(銀行クラブ)
   ○中略。
十一月十二日(水) 午前十一時    鈴木文治氏ト御会見(事務所)