デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.16

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
1款 渡米実業団
■綱文

第32巻 p.279-358(DK320012k) ページ画像

明治42年11月4日(1909年)

是日栄一等渡米実業団一行、ワシントンヲ発シ、ピッツバーグ、セント・ルイス、カンザス、サクラメントヲ経テ、十九日ロス・アンジェルスニ入リ、二十一日同地ヲ発シ、サン・ディエゴヲ経テ二十四日オークランドニ向フ。


■資料

竜門雑誌 第二七一号・第二九―三二頁明治四三年一二月 ○青淵先生米国紀行(続) 随行員増田明六(DK320012k-0001)
第32巻 p.279-282 ページ画像

竜門雑誌  第二七一号・第二九―三二頁明治四三年一二月
    ○青淵先生米国紀行(続)
                  随行員 増田明六
○上略
十一月四日 木曜日 (晴)
午前二時華府ユニオン停車場を発し、同三時ボルチモア停車場に着、朝食後青淵先生には一行と共に歓迎委員に迎られ、特別仕立の列車に搭し二十哩を隔てたるスパロー・ポイントに到り、メーリーランド製鋼会社の鉄道製作の状態、及浮船渠に於て船舶修繕の有様を見聞し、夫れよりボートに移乗して、牡蠣缶詰製造処を一見して、正午ホテルベルベエデアに於て、商業会議所の開催に係る午餐会に出席せらる、席上ボナパルト氏(ルーズベルト氏大統領の時司法大臣の職に在り、日本学童問題に関するの起訴状を草案したる人なり)の演説あり(其
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要旨に曰く、諸君は東洋の米国を以て目すべき日本国実業家の代表者なり、宜敷十分米国商工業の状態を知悉して、自国を利せられん事を望む、将来パナマ運河開鑿落成の上は、当市は日本と直接通商の途を開き、以て両国の通商を盛ならしむる事を期す、パナマ運河開鑿の暁同地を通過して先づ寄港すべき地はボルチモーア市にして、而して其船舶の国籍は蓋し日本ならん、伊藤公爵の薨去は啻に日本の為めに悲しむのみならず、世界の為めに痛惜に堪へざる処なり云々)次に青淵先生は起ちて大要下の如き演説を試む(当市に於て肥料会社の完全なる者あるは、蓋日本の農業と均しく、此地が肥料を必要とする故ならん、予は元来農夫の出身にして、今春迄日本の肥料会社に関係し居たるを以て、興味特に深きを覚ゆるなり、伊藤公爵の薨去に属するボナパート氏の弔辞は予の特に感動する処にして、予は同公爵と四十年来の親友なるが、同公爵は全く一身を日本の国家に捧げ、過般異域に在りて薨去せられたるも、其心事を察すれば或は本望なりしやとも思はるゝなり云々)次ぎに市長ジエー・ビー・マホール氏は、鉄道は諸君に愉快と幸福とを与ふる事は、諸君の短日月に米国各都市を巡廻する事に於て明かなり、而して当市は米国に於て始て鉄道の敷設せられたる地なり、又電話も始て当市と華盛頓間に架設せられたるなり、パナマ運河開鑿の上は、同地を通過したる船舶の第一に寄港せらるべき地は当市なり、同河の開鑿は三年の後に在り、其後に於ける日米両国の関係は、必ず密接ならざる可らず云々と演説し、会終て先生以下一同自動車にてジヨンス・ホプキン大学を訪ひ、市内各地を見物して、午後六時汽車に帰る、此日は伊藤公爵国葬の執行せらるゝを以て、一同車中に在りて謹慎し、遥に弔意を表したり
午後十一時三十分ピッツバーグ市に向て出発す
十一月五日 金 (曇)
午前八時五十分ピッツバーグ市に到着す、車内にて朝餐を終り、午前九時歓迎委員に迎られ、直に特別列車に乗して市内外の盛大なる工場を望看しつゝ、ホームステッドのカーネギー製鋼所構内に到りて下車す、同所は鋼鉄王カーネギー氏の創始する処にして、世界第一の製鋼所なり、総敷地二百廿八ヱーカー、構内鉄道延長五十二哩に達すと云ふ、鉄板製造所・軍艦用鉄板製造所・熔鉄所等を巡覧し、十二時半工場外なる職員集会所にて午餐の饗を受く、カーネギー氏は目下スコツトランドにありて不在中なれば、総監督コロネル・ハンター氏司会者となり、市長代理オブライアン氏及商業会議所会頭スミス氏等の歓迎の辞に対し、青淵先生は当市に於ける天気の快晴ならざるは、天候其ものゝ悪しきが故にあらず、工業の盛大なるが為にして吾々の大に羨望する処なり
商業会議所スミス会頭の御演説に、日本人は戦争に勝ちたるは大に賞讃すべき事なれども、尚日本人が特に戦後に於て秩序ある文明を計りたるを感服するとの事を述べられたるが、吾々は商業上及貿易上に於ても、今回米国の商工業の状態を視察して、之を吾邦商工業に実施するに当て、尚戦後に於ける秩序の如く整然たるものになさん事を欲するものなり云々と演述し、畢りて又別仕立の汽車に乗し、イースト・
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ピッツバーグに到り、ウエスチングハウス電機製造会社の工場を一覧して、シエンリー・ホテルに投宿す
午後七時青淵先生には中野・日比谷・佐竹等の諸氏と共に、ウエスチング・ハウス会社の晩餐に招かれ、九時ホテルの前方に在るカーネギー・インステチユートと称する、カーネギー氏の寄付に係る善美を尽したる壮麗なる建物の音楽室に於て催されたる大音楽会に臨席し、十一時帰宿せられたり
十一月六日 土 (曇)
午前九時青淵先生には、十数名と共に自動車に分乗して、市外十五哩許りなるピッツバーグ板硝子製造会社に到り工場を一覧す、此第一工場は硝子溶解壷を製造し、此壷土の原料(クレー)は三割六分をミゾリー地方より、九分を独逸より得、而して五割五分は古粘土なりと云ふ、此壷は十七日以上は使用に堪へざるを以て、常に三・四百箇の壷を予備せりとの事なり、次に第二工場、即板硝子製造工場を一覧す、第一工場にて製造したる壷にて溶解したる硝子を鉄板に流し、之を円形の鉄棒にて延す状は、恰も東京に於て道路の小石を押し付ける円長の石を廻転するに似たり、而して此平延したる板硝子を急に冷気に触るゝ時は破裂の恐ありとて、漸次に之を冷却する為め、外の一室に送致して三・四日間仕舞置き、然る後取り出すなりと云ふ、次ぎに第三工場即硝子磨き工場を一覧す、赤色の磨粉即硫化鉄を硝子面に振り掛け、器械に依り之を磨き透明なるものとなす、次ぎに第四工場磨粉製造工場を見、最後に板硝子陳列室を見、畢りて正午米国第一の純良蔬菜缶詰会社と称せられるゝハインヅ会社に赴き、他方面の巡覧に向ひたる一行と相会し、案内者に連れられて各製造工場を一覧し、其食堂に於て午餐を受く、社長ハインヅ氏起ちて、一行歓迎の辞を述べ、且七年前日本に遊び、東京・大阪・神戸・京都・名古屋の各地に到りて懇切なる歓迎を受けたる事、五十年前漸く開国したる日本は、今や世界一等国の班に入れるが、親敷諸君に会する到りて、真に一等国の臣民たるに愧ぢさる国民なる事を知る云々と述べ、次ぎに商業会議所会頭スミス氏は起ちて、此食卓の内には日本に派遣したる二人の社員あり、当社と日本とは将来益親密ならざるべからず、近頃事を好む新聞紙ありて、日米間何等かの紛擾ある如く記載せるを見る、是等は全く虚構の浮説なる事を信ず、若し黄色人種の憂ありとすれば、コハ戦争に於ける憂にあらずして、平和の競争に於ける黄禍なり云々と述べ、次ぎに青淵先生は起ちて、一行の当工場を参看したる上、玆に鄭重なる歓迎の宴を開かれたるを深謝す、本社々長は七年前に日本に漫遊せられたる由なるが、確に日本に精通せられたる紳士なりと信ず、本社は千八百六十八年に創立せられたる由なるが恰も日本が新らしく世界に顔を出したるも千八百六十八年なり、即ち本社と日本とは同年齢なりと雖ども、日本の進歩は当社に比すれば甚だ遅々たるを知る、而して又当社にて製造する缶詰の種類は五十七種なりとの事なるが、我等一行の人員が之と約同数なるは実に奇と云ふべきなり、当市の煙多きは黒き金剛石が地下に多ければなり、即煙は富の変形したるものなり此富の内に煙無き富を有する当社を見たるは、吾々の深く記憶すべき
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事なりとす
日本に於て一の喩あり、矢を造る目的は勉めて人を射殺せんとするに在り、反之兜を造るものは勉めて人を射殺せられざらんことを欲し、両者全く其目的を異にす、製鉄会社が盛に煙を吐出すに反し、当社が美麗なる婦人に依て如此美味なる製造品を得るは、恰も前述の矢と兜に於ける如し云々
右演説の後、社長は幻灯を以て同会社の世界に於て有する各種農場及製造場の盛大なる状態を示して、一行を款待したり、畢りて先生には午後五時ホテルに帰宿し、同所に於て商業会議所の催にかゝる正式接見会に臨み、茶菓の饗を受け夜十時半帰車せらる、十二時シンシンナタ市に向て発車す


竜門雑誌 第二七二号・第四五―五二頁明治四四年一月 青淵先生米国紀行(続) 随行員増田明六(DK320012k-0002)
第32巻 p.282-289 ページ画像

竜門雑誌  第二七二号・第四五―五二頁明治四四年一月
    青淵先生米国紀行(続)
                  随行員 増田明六
明治四十二年十一月七日 日曜日 (晴)
午前七時シンシンナタ市に到着、車中にて朝食の後、十時同市商業会議所議員其他有志歓迎者の出迎を受け、青淵先生以下一行直に自働車に分乗してホテル・シントンに投宿す
午前十一時団員総会を開き、青淵先生議長となり、左の決議及報告を為す
 決議事項
 一、米国巡回各地に於て歓迎に尽力したる米人に対し、桑港にて乗船の日感謝状発送の件、但其立案は団長に一任の事
 二、横浜上陸の日は東京に一ト先集合し、東京商業会議所に於て解団式を挙行し、玆に総理大臣、外務・農商務両大臣、米国大使等の出席を請ふ事
  留守六商業会議所に打電して、協力右の準備を為す事を依頼し、尚一行乗船の地洋丸は、横浜到着の時間を到着日の早朝とする様東洋汽船会社に依頼する事
 三、米国政府より一行の接伴掛を命せられたるハルピン領事グリーン氏は、同政府の命に依りセントルイス市に於て一行と分袂してハルピンに赴任せらるゝ筈に付き、同地に於て送別会を開き、且一行を代表して団長より感謝状(日英両文)を送呈する件
 四、デンバー市以後の地方に於ては、日本労働者の数多くして、苟もすれば一行を利用して労働者の為めに渡米したる如く言ひふらし、為之米国人の一行に対する感情を害する恐あり、斯くては折角是迄に得たる同情を失ふ事無きを保すべからざれば、団員は各自に注意し、特に左記の挙動に就て慎重たるべき事の申合を決議する事
  一不潔の場処に立至らざる事
  一素姓の明かならざる日本人を避くる事
  一アメゴロ・筆ゴロと称する無頼漢あり、注意する事
  一婦人の買物は可成為さゞる事
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 五、エール大学より創立二百年紀念章壱個、プロビデンス市ゴルハム会社より紀念章壱個及写真帳壱冊、ボストン市紡績会組合より紀念章壱個団長宛寄送ありたるが、之が処置の件
  右寄贈品は当然団長に於て収受せられん事を請ふ旨、一致を以て決議したり
 報告
 一、水野総領事同行帰朝の事
  帰朝後に於て、米国人に対する表謝及旅行中の整理に関しては、米国及米国人の事情に精通した人に依らずんば、他日恨を残す事無きも保すべからず、依て常議員は一致を以て此旅行中一行の先導と為りて尽されたる水野総領事の同行帰朝を請ふ旨、先きに華盛頓松井代理大使に依頼し、尚団長より外務大臣に電報を以て請願して其許可を得たる事
 二、米国側委員長ローマン氏の名を以て、我が
  天皇陛下に米国太平洋沿岸聯合商業会議所の金製紀念章捧呈方を団長に依頼ありたるに付、之を快諾したる事
 三、合衆国造幣局長より、日本実業団渡米紀念の為め我が
  天皇陛下に献呈せらるべき紀念金牌を、華盛頓滞在中国務卿の承諾を以て国務次官ウイルソン氏より伝献方を団長に依頼せられたるに付き、之を快諾したる事
 四、米国側委員一同の署名を以て、故伊藤公爵閣下に対する弔詞文を団長宛に送付ありたる事
 五、リーデング商業会議所より、同会議所議員の決議に為る同公爵に対する弔詞文を受領したる事
総会終了後、十二時青淵先生以下一同自動車に分乗して、郊外景勝の地を賞しつゝ午後一時カントリー・クラブに到り、商業会議所開催の午餐の饗を受く、会頭チヤレス・イーロース氏、市長ジヨン・ガルヴイン氏の歓迎の辞あり、青淵先生答辞を述べられ、畢りて二時三十分当市市有水道署を参看す、此水道はオハイヲ河の水を引用したるものにて、隧道・水管・土地・建築費等を合せ弐千弐百万円を費し、本年竣工したる由にて、市民は其規模の大なる、機械の整備せる、真に世界第一と称し居れり、三時再び自動車にて貯水池を一周して、河水汲上けの大喞筒及濾過地の装置等を巡見して、夕刻帰宿
七時三十分青淵先生には、同ホテル第九階の大広間に於て当市商業会議所及各種商業団体の代表者男女に依りて催されたるレセプシヨンに出席せられたり、余興に音楽独唱及当地名所の幻灯会あり、且立食の饗応ありて十一時散会帰宿
十一月八日 月曜日 (時々雨)
午前九時青淵先生には「ジヨン・グリーン・デシユラー」「チヤーレス・エス・ヘンリー」「ダブリユー・ビー・アンダーソン」「ダブリユー・イー・バブパツク」「アール・リーカート」「エム・ビー・プリート」の諸氏の来訪を受け、ホテルに於て朝鮮稷山金礦に関する種々の談話を為られたり
午前十一時青淵先生以下自動車を列ねて二・三の公園を巡覧して動物
 - 第32巻 p.284 -ページ画像 
園を見物す、東京の動物園に於ては見る事を得さる数多の動物を見たり、此動物園は一処に動物を集合せす、広き園内各処に地の利を得て散在しあるを以て、見物人は一面動物を見ると共に、樹間を静に逍遥運動の楽を得らるべし、音楽堂は園内の高地に在り、冬季奏楽を廃するも、夏季は毎夜奏楽し、為之見物人特に多しと云ふ
午後一時青淵先生には、当市商業会議所に於て催されたるレセプシヨンに臨まる、ミツチエル・ライアン将軍の歓迎辞(其大要は、過去十年間に於て長足の進歩を為したる日本実業家の代表者と、此市に相会したるを悦ふ、太平洋の水は日米両国間に分在するは、両国人をして自由に之を使用せしめむが為めなり、須らく両国の実業家は此水上に於て活溌なる貿易を為さゝるべからざるなり云々)に対し、青淵先生一行を代表して大要左の如き答辞を述べらる
 一行がシヤトル市上陸以来各地に於て熱誠なる歓迎を受けたるは、真に感謝する処なるに、新に玆に当市に於ては滞在の日子短少なるに拘らず、諸君は門戸を開放して一行を導き維日も足らざるが如く款待せられたるは、吾々の深く記憶に存する処なり、予は不幸足に豆を生じ、且身体も大に疲労を感じ居れども、此豆此疲労は此市諸君の款待の遺物なりと信するなり
 更に今朝動物園を参看して感じたる事あり、猪は能く勇猛突進する退て己れを守る事を知らず、熊は克く己を守るを知れど、攻勢を取る事に於ては他動物に劣る、牛馬は克く従順労役に堪ゆれども、攻守の態度を取る事を知らず、如此動物は凡て各特技を有するも、又之が反対の欠点を有す、天下のもの皆然り、然るに米国人は独り此特能を有するのみならず、此欠点を補ふて余りある事は、今日までの交際に於て明かにしたり、願はくは一日も早く帰朝して、米国人の懇篤なる誠意と欠点無き事を、普く我同胞に知らしめて挙国民と共に感謝せんと欲するなり云々
次に神田男爵の演説、及二・三米国人の演説あり、一時四十五分シントン・ホテルに於て商売人及製造家代表者の催にかゝる歓迎ランチヲンあり、青淵先生以下一同出席す
三時当市育児院児童より成る音楽隊を先頭にしたる同院少年士官に迎へられ、此士官の警衛の下に音楽隊を先頭して、青淵先生以下一行列を作りて市庁に於て催されたるレセプシヨンに出席す、畢りて同処に於て警察官の教練検閲を見、四時十五分消防隊の演習を見物して、同四十五分ホテルに帰る
午後七時四十五分一行の為めに特に出来したるイルミネーシヨンに、又八時十五分コロンビア劇場に案内を受けたれとも、先生には之を断はられたり、尚テキサス州に於て綿花販売に従事する藁谷英夫氏より晩餐の案内を受けられたれとも、是又断はられたり
両三日来青淵先生には双手の指先麻痺を覚えられ、甚た不愉快に感せられたるを以て、同行の医学士熊谷岱蔵氏の診断を受けられたるに、過労の結果なれは今晩より暫く夜間の歓迎を謝絶して静養せらるれば全快に至るべきも、若尚此以上過労せらるゝに於ては、世間に有勝なる余病を惹起さんとも計り難し、指先麻痺は特に注意を要すとの忠告
 - 第32巻 p.285 -ページ画像 
を受けられたるも、各地の歓迎は先生をして此忠告を実施するの余裕を与へさりき
日程に基き午後九時四十分列車に帰着す
十一月九日 火曜日 (晴)
午前六時インデアナポリス市に到着、車中にて朝食を終り、青淵先生以下一行同九時歓迎委員の出迎を受け直に自動車に移乗し、先づ州庁に到りて知事マーシヤル氏に面会し、夫れより一行は各工場・水道等視察に向はれたるも、青淵先生は前日来風邪の気味の上、彼の豆痛及指先麻痺また快癒に赴かれざるを以て、直に汽車に戻られ、正午市長の出迎に接してコロンビア・クラブに於ける午餐会に出席、一行を代表して演説を試み、終りて再び汽車に帰乗せられ、更に午後七時半クレイブール・ホテルに於ける晩餐会に出席して、合衆国上院議員ベベリツチ氏・知事マーシヤル氏・商業会議所会頭ジヨーン氏・検事ミラア氏等の演説に対して、一行を代表して答辞を述べられ、十一時半汽車に帰り、零時十分セントルイス市に向つて発車す
十一月十日 水曜日 (晴)
午前七時半セントルイス停車場に到着、九時十五分商人協会歓迎委員の出迎を受け、特別電車に乗じてサウザーン・ホテルに投す、十時半青淵先生以下自動車に分乗してナシヨナル・バンク・ヲブ・コンマースを視察し、又有名なるシモンス金物会社を訪ふ、帝国名誉領事スミス氏は同社の重役なれば、特に一行の歓迎に力を尽されたり、午後一時株式取引所に到り、前州知事フランシスの接見会に臨み、一時半ホテルに帰着す、午後二時よりホテルの第二階食堂に於て、シンシナタ市に於て決議せるハルピン領事グリーン氏の送別午餐会を開く、青淵先生以下一行及同行米国人の全員出席す、同氏は米国政府より特に一行の為めに派遣せられたる人にして、故厳父は日本に伝道師たる事四十年、母堂は現に東京麻布に居住せり、而して氏は日本長崎に於て生れ、後米国に学びて日本横浜領事館に在勤したる等を以て日本語を能くす、一行の氏に信頼したる処甚た多し、席上青淵先生は一行を代表して左の送別の辞を述べらる
 吾等は今ま親愛なるグリーン氏と訣別せざるを得ざるに際会せり、我が実業団が沙港に着以来、同君の厚き御深切を蒙りし事は今更申迄もなし、実は四・五日前に此の報を得たりしかば引続き一行と旅行を継続せられ度旨其筋へ陳情する処ありしも、公務の事とて如何ともする能はず、依て接待委員諸君と相談の結果、玆に送別の宴を催し、此席に於て去る七日シンシナタ市滞在中団員総会に於て決議したる感謝状を贈呈せんとす
とて、左の感謝状を朗読せられたり
  拝啓、陳ば我実業団は本月七日シンシナタ滞在中特に開催したる団員総会に於て、満場一致左記の如く決議致候、依て当団を代表して之を貴聞に達するは、拙生の本懐とする処に候 敬具
    決議
米国々務省特派委員たるロジヤー・ヱス・グリーン氏公務の都合に由り、日ならずして別れを我実業家に告げんとす、仍て我団は全員
 - 第32巻 p.286 -ページ画像 
一致左の事項を決議し、永く之を記録に留んとす
一吾人はグリーン氏が其沈着荘重なる態度を以て、当団及団員の為めに終始表呈せられたる好意と懇情とに対し、満腔の熱誠を以て之を謝す、且つグリーン氏が崇高なる人格は言ふ迄も無く、能く本邦の風習を知悉せると邦語の操縦に自在なることは、共に我団員の助言者・指導者たるに於て至大の便益を与へたり
一然るに今や氏は当団を辞して遠く任地に赴かんとす、当団は今後の旅程に於て、氏の懇篤周到なる斡旋を享け難きを深く遺憾とする処なり、然れども吾人はグリーン氏が吾団員一同に衷心より敬愛せられ、今後奉公報国の途に於て、栄達多幸ならん事を切望せられつゝ、爰に袂を分つに至れるは、吾人の聊か以て欣慰する処なり
一此決議はグリーン氏出発の日、渡米実業団々長渋沢男爵より之を同氏に送達すべきものとす
  明治四十二年十一月七日
        米国シンシナタ市シントン・ホテルニ於て
                     渡米実業団
尚小生個人として申添度は、過ぐる十週間の多忙なる旅行中、貴下の日夜鞠躬尽瘁せられたるは、深く感佩する処なり、殊に今回の如き記憶すべき事多き旅中に於て、貴下を新知己として懇親を結びたるは、実に拙生の欣喜措く克はざる処にして、今後此の友情の一層増進せん事を、衷心より悃望して已まざる処に候
  明治四十二年十一月十日
         米国セントルイス市に於て
           渡米実業団々長 男爵渋沢栄一
    ロジヤー・エス・グリーン君貴下
尚ほ青淵先生は語をつぎて曰く
 余は個人として玆に同君と別るゝを深く悲むものなり、されど翻て之を考ふる時は、同君の任地はハルピン市にして、同地方は欧米人を始め、我が日本人も大に注意する処なり、然るにグリーン氏は元来機敏にして而かも沈着の才幹ある人が米国の領事としてハルピンに赴任せらるゝは、一方に惜別の情堪へ難きと共に、又一方には同君の赴任を頗る喜ぶものなり、今日は即ち最も歓喜を以て訣別せんと欲す云々と述べ
日本文を正本とし、之に英訳を添へたる感謝状をグリーン氏に贈呈したり、次にローマン氏は立ちて送別の辞を述べ、グリーン氏の健康を祝し、又エリオツト氏は同行外国人を代表して送別の辞を朗読し、最後にグリーン氏起ちて答辞を述べたり
右畢りて一行は、米国最大と称せらるゝ麦酒醸造所アンホイザア・プツシユ会社の見物に赴きしも、青淵先生はホテルに在りて信書を認められたり
午後七時青淵先生は、一行と共に特別電車にてセントルイ・クラブに於るレセプシヨンに臨み、引続き歓迎晩餐会に列席す、商人協会会頭にして帝国名誉領事たるゼームス・イー・スミス氏司会者と為り、先
 - 第32巻 p.287 -ページ画像 
づ 天皇陛下の万歳を三唱す、水野領事は日本帝国を代表して米国大統領の万歳を三唱す、次に市長エフ・ダブリユー・クレイスマン氏起ちて、諸君の如き新進の文明国の実業家の来遊を歓迎す、諸君は此市に於て商業工業上に利益を得らるべし、而して此市も亦諸君より得る処の利益尠からず云々と述べ、次ぎに青淵先生は一行を代表して大要如左演説を為す
 当市の懇篤なる歓迎と、鄭重なる饗宴は、一行の感謝に堪へさる処なり
 古語に瓶水の凍るを見て天下の寒を知り、庭前の花を見て天下の春を知ると有るが、正午の商品取引処の模様を見、今又ホテルより此クラブ迄の途すがら市街の景況を見て、当市が合衆国中央部の大都市にして農工業に密接の関係を有し、将来大に発達すべき大都市たるを知ると共に、爰に多数の友人を得たるを喜ぶ
 近年日米両国の貿易は駸々として進歩したりと雖も、将来尚此が発達を計らんと欲せば、益々両国民と交際を親密にせざるべからず、国民間の交際の進むに従て貿易の進捗期す事を得べし、吾々の来遊したる理由亦爰に存するなり
 各地に於て受けたる歓迎は、只に一行の光栄に止まらず日本実業家の光栄なり、日本実業家の光栄に止まらず、日本国民の光栄なりとす、貴国の諸君が自国の広大なるよりして、比較的に他国に巡遊する事の少き哉を思ふ、貴市の如き大都会にをりながら日本を知らざる者あらば、吾人の大に遺憾とする処なり、相知より事物の生ずる物なりとの古語に依るも、諸君の是非日本に来遊せられん事を希望す云々
次ぎにクリブラント内閣の時、内務大臣たりし前の州知事にして、明治卅七年セントルイ万国博覧会の総裁として、我 天皇陛下より勲一等旭日大綬章を授与せられたるデー・アール・フランシス氏は、大要如左演説を試む
 当ルヰジアナ州は刃に衂らずして米国に買入れたる地なり、数年前玆に開催したる万国博覧会は、実に其百年の記念たりしなり、然るに日本は開国以来玆に二千五百六十九年、即紀元前六百六十年開国の日本は、爾来赫々たる光輝を放ちて、今に到るまで一度も国威を損じたる事なし、是れ吾人の尊敬する処なり、当市に於ける彼の博覧会の成功を以て終りしは、種々の原因存するあらんも、然かも日本が非常なる熱心を以て参加せられたるも、蓋し其一原因ならずんばあらず、当時不幸にして日露の国交破れ両国干戈を以て相見ゆるに際し、四億の民衆を有する露国は其建築を中止して其土地を返納し来れり、然るに人戸に於て僅かに十分の一を有する日本は、啻に当初の意気込を失はざるのみならず、露国の返納したる土地を全部引受けん事を申込みたり、其意気の盛なる、度量の大なる、真に吾人をして驚嘆せしめたり、博覧会が世界の一方に斯る戦争を控え乍ら彼の如き成功を収め得たるは、蓋し日本の如此意気を有せしに依る処多しと云ふも過言にはあらざるべし、予の玆に佩用する此勲章は日本の 天皇陛下より賜はりたるものなり、今夕の如き席上に於
 - 第32巻 p.288 -ページ画像 
て之を佩用するは其当を得たるものと云ふべし
 米国人は愛国心に富む国民なる事は、予の云ふ迄も無き事ながら、日本は夫れ以上愛国心の強き国民なり、戦争の門出に其母は子に生きて帰る勿れと命ずる由、蓋し日本の強国なる所以ならん
 当市は米国商工業の中心なり、今やレールと水とに依りて当市と日本を連繋せらるれども、尚一歩進みて当市にて積込みたる貨物列車は、其儘横浜に送られて開扉せらるゝに到る事を期せざるべからず云々
次に神田男爵の英語演説あり、次に製造家組合会頭エツチ・ダブリユー・ペタァース氏大要如左演説を為す
 日米両国の文明は真に世界の模範たり
 日本の強国なる事は予の今更言ふまでも無き事なれども、其強国たる所以の一例を挙ぐれば、日露戦争の際東郷大将が、旅順攻撃の際到底陥落すべからざることを 陛下に電報したるに 陛下は予は出来ざることを為し遂ぐる事を希望する旨訓電せられたりと云ふ、上陛下にして已に如斯御志想で在らせらるゝ以上、下国民たるもの大に振はざるものあらん哉云々
次に大谷嘉兵衛氏は起ちて、明治卅七年此地に於ける大博覧会の際、予は日本出品協会々長の位置にありて、大阪の土居、京都の西村両氏と共に、此地に来り、フランシス氏・スミス氏等の多大なる同情を受けたり、此席に於て厚く之を謝する旨を述べ、次に日本勲章佩用者前市長ローラウエルス氏起ちて、予の日本 皇帝陛下より勲章を授けられたるは、予の功労の結果にあらずして、単に博覧会当時当市長の職に在りしが為めなりと、謙遜の演説を試みられたり
右畢りて十二時一同特別電車に乗じてホテルに帰る
十一月十一日 木曜日 (晴)
九時四十五分青淵先生以下一行自動車に出迎はれて、先づエリー・エント・ウオルカー呉服店を見物す、此会社は絹及木綿織物の卸売を為すものなるが、販売処を一巡して(販売処には一卓子毎に各種の見本品を置き、之に天井より一ヤール幾干、一打幾干と記されたる代価付の紙片を下げたり)荷作場に到り、蒸気機械を以て織物を圧搾して荷造する様を見、夫れより木箱製造場・荷物積出場とを参観し、最後に事務所に到り、如此大規模の商店が極めて少数の店員に依りて秩序克く遅滞なく取扱はれ居るに驚嘆したり
次に青淵先生には、フランシス氏の茶菓の饗に招かれ、畢りて同氏と自動車にて博覧会の遺跡を見て、レウイス氏出版会社に到り、同氏の午餐会に出席せらる、席上フランシス氏はレウイス氏を紹介し、同氏は起ちて歓迎の言を述べ、且簡単に自ら経歴を述べ、次ぎに青淵先生は同氏の歓迎を謝し、且同氏の成功を祝す、会畢りて後一同印刷部に到る、青淵先生にはレウイス氏の依頼に依り紀念の為め機械の一隅に在る釦を押されたるに、今迄休止せる数百の車輛は戞然として一時に廻転を始め、見る間に本日同氏が一行を招待したる午餐会の写真及記事の印刷せられたる特別号は、立ろに出来して一行の手に交付せられたり、此機械は一分間に八千枚を印刷する事を得ると云ふ、夫れより
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先生以下一行はセントルイ・カントリー・クラブに到りて打球を一覧し、畢りて花卉共進会を見物し、一先づホテルに帰り、午後七時半名誉領事スミス氏の案内にてオリンピツク劇場見物を為し、十一時半列車に帰り、カンサス市に向ふ


竜門雑誌 第二七三号・第二九―四四頁明治四四年二月 ○青淵先生米国紀行(続) 随行員増田明六(DK320012k-0003)
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竜門雑誌  第二七三号・第二九―四四頁明治四四年二月
    ○青淵先生米国紀行(続)
                  随行員 増田明六
十一月十二日 金曜 (雨)
午前七時半カンサス市に到着、此日は生憎雨天にて、昨日とは打て変り一入の寒さを覚ゆ、車中朝食を済まし、九時半商業倶楽部の歓迎委員に迎へられ、青淵先生以下一同自動車に分乗し、同部のレセプシヨンに臨み終りてウエスト・ポートの高等学校に到り、校長の先導にて講堂に入るや、已に玆に集合せる男女生徒千余名は起立して歓迎の歌を合唱し、次ぎて校長の歓迎の辞あり、神田男爵英語にて答辞を陳べ夫より校内の食堂に導かれ、女生徒の手に成れる茶菓の饗を受け、又木工実習室を参観したる後、イヴアンストン倶楽部に到りて立食の饗を受け、夫より一行は自働車を列ねて、市内の重なる街路を巡覧し、市中銀行及製造業を巡視せられたるが、青淵先生には同倶楽部より直に列車に戻り休憩せられたるが、更に午後七時ボルチモーア・ホテルに於て開かれたる正式晩餐会に出席せらる、席上商業会議所会頭ダブリユー・チー・ブランド氏、市長クリツデン氏、上院議員ワルナー氏及セントルイ市より一行と同乗し来れる前州知事フランシス氏の演説あり、之に対し青淵先生及神田男爵の演説ありて、十一時宴を撤して一行列車に帰る
左にブランド氏の演説、及同氏の青淵先生及神田男爵紹介演説を採録す
      ダヴルユー・チー・ブランド歓迎辞
渋沢男爵閣下並に歴々の日本賓客諸氏、及我淑女並に紳士諸君、吾人は太平洋沿岸の我同胞には諸事負ふ所尠しとせず、就中今般日本国民代表者諸氏を招待し、我太平洋沿岸諸州の巡覧に次て、遍く当国各地の視察を乞ふに至りたる太平洋沿岸聯合商業会議所今回の挙の如きは吾人の最も多とする処なり
カンサス・シチー商業会議所及カンサス・シチーは、幸に諸氏御立寄の栄を辱ふするを得たり、吾人は諸氏が該招待並に当商業会議所の招待を快諾され、此処に我賓客として来臨ありしを謝す
斯くも著名の人々、広く日本の実業代表者にして本国の運命を左右せらるゝ諸氏を、此国に送られたる日本国の厚意に対し厚く謝意を表す吾人は日東桜花の帝国より来られし此諸氏を迎ふるに、豈一片の空辞のみにて可ならんや
近世の日本及米国の歴史は因縁浅からず、希くは親交年と共に深からむことを、久里浜のペルリ紀念碑廃滅の折あらむも、当国の交誼は綿綿として永く絶えざれよ、諸氏当国への御渡航は利福に貢献する処あるを疑はず
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諸氏遍く巡視の途上、諸処にて心尽の歓迎を受けられたるべし、されど当市民並に当商業会議所の心尽の切なるに及ばざるべしと思考す
諸氏の現在在ます所は、当国の中心点に近く、ミゾリー、カンサス二州の界、大ミゾリー川の岸頭にあり、ミゾリー川たるや当国最長の川にして、延長二千九百哩、其貫流する処豊饒宇内に冠たり、世『世界のパン籠』といふ、蓋し過言にあらず、吾人は今正にメキシコ湾に至る水運計画の最中にあり、メキシコ湾・カリビアン海・パナマ運河・太平洋を経て、低廉に両国間に輸出入をなすの日の到来せむことを嘱望す、此の計画にして成らば、日本国と米国とを接近せしめ、延ては両国の友誼を強固にし、相互交情の永遠不変を来たすに益あるべし
米国は常に同情を以て貴国々運の隆盛を希望す、往時大統領アダムス氏「日本国も亦世界民族の伍に列せむことをすゝむ」と云ひ、千八百五十三年七月―貴国及米国の史上記憶すべき日―ペルリ提督の浦賀訪問、尋で翌四年浦賀条約の締結を見しより此方、米国が貴国に寄する温情は毫も弛退せる事なし
独り米国のみならず、貴国も亦た其開化・進歩・発展により、未知の一国より挺出して宇内強国の伍に列するに至る迄、我好情を記し、常に我に対しよく友情を表彰されたり
貴国が国家の存亡を賭し、人口最多の二国と奮闘せし時に当り、我国民は多大の同情を以てその始終を目撃したるが、是等の大戦争の平和の終局に資する為め、我国の大統領クリーヴランド、ローズヴエルト二氏を通じて微力を致せしは、吾人の光栄とする処なり、諸氏の折角の来遊に際し、不計伊藤公の薨去の報に接せられたるは、吾人の諸氏と共に悲む処なり、伊藤公は日本の嚮導者にして、又米の親友なりき公永へばその余慶に浴するもの独り貴国人のみならむや
終に臨み余は信ず、純良なる日本人及米国人は、相共に嘗てペルリ条約に生れて、五十年来替らざりし両国の交情の永遠不変を切望する事を、希くは「君が代」と「ヘール・コロムビア」の常に合唱せらるゝこと、過般我艦隊の貴国訪問の節に於けるが如くあらむことを、希くは旭日旗と星条旗とは永へに戦場に相見ゆるの機なく、常に平和に相交叉するのみなれ、吾人の諸氏を迎ふるの意此処に在り、希くは諒せよ
      ダブリユー・テイー・ブランド氏の
      渋沢・神田両男爵紹介の辞
(渋沢男爵)
今日吾々が日本国民の輿望を負へる一偉人と此処に相見ることを得たるは、吾々の多幸とするところにて、又実に光栄とするところなり
君の類稀なる成功は、全く君の不屈不撓、向上益々倦まざる努力・精力、並に其超凡の才幹に因るに非されは克はさるなり
一農家に生れたる君は、歳僅に十四にして商業に従事し、其成功已に見るべきものあり、後市都に移るや寝食を忘れて国事に奔走し、屡々生死の境を出入せられたり
軈て君は明治政府に入り、大蔵省書記官として国家の財政に関与し、大に其の手腕を揮ひたり、其仕官中に於ける功績の主なるものは、国庫の歳入を増加せしめたること、税率の改良、紙幣兌換の制を改善せ
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ること、銀行の創設、総予算編制等なり
かくの如く君は、政界の人として又大蔵官吏として着々成功せられしが、国富の本源は商業の発達にあることを早くも観破し、野に下りて幾多の会社・製造所を組織設立せられたり、実に日本の会社は、悉く君が指導の下に組織せられたりと言ふも可なりとは、日本人の一般に唱ふる処なり、故に君は事実に於て日本現今実業界の覇権を掌握せらるゝなり、而して日本に於て銀行に株式組織の制を創めたるも実に君なりとす
君は堂々たる政事家であると同時に、実業界の雄将たり、否実に覇王なり、而して日本に於ける幾百年伝来の実業を卑む弊風を排し、商工業に従事するも政界の人たるも、将た政府にありて立法官たるも行政官たるも、等しく貴むべくして変る処なきこと、即人間権利平等の思想を、其国人間に不知不識の間に鼓吹して、日本の富を増殖したるは蓋し君の一大功績に帰せざる可からず
英雄は仁愛なり、君の一面は又大慈善家なり、君は常に諸般の慈善事業・社会公共の事業の為には投金を惜まず、又其貴重なる時を割くことを毫も惜まれざるなり
君が幾多の経営事業、其光輝ある経歴、並に其稀世の成功は、君の人物を語りて余あり、今更玆に吾人の喋々を要せざるなり、現に君は此済々たる多士より成る日本実業団々長たるにあらずや
今玆に予が日本のジエー・ピアモント・モルガン、否男爵渋沢栄一閣下を諸君に紹介するは実に大なる名誉とするところなり
(神田男爵)
今日此商業全盛黄金万能の時に当り、吾々は完備せる教育機関に因て得らるべき立派なる向上発展が、吾人にいかばかり必要なるかを稍々もすれば忘れんとするの傾向あり
玆に天与の材幹技能衆を抜づるものあり、此人もし富を求めんか、必ず得らるべく、業を起さんか又必ず遂げらるべし、然るに此人が一度其一生の事業として身を教育界に投じ、而もそれが全然清廉潔白なる綺麗な動機から出でたるものとすれば、其人たるや実に愛国者たる資格を立派に具備せるものと言はざるを得す、吾人は此席に於て如此人を得たるを喜ぶ
神田男爵は年十七にして海を超えて此国に来り、翌年マツサチユーセツト州なるアムハースト中学に入り、刻苦三年業を了へて直に同大学に進み、精励四ケ年優等の成績を以て卒業、ビー・エーの学位を得、又其後エム・エーの学位を同大学より得られたり
君は又在学当時教育学を研究せられしが、此国に於て業を卒へるや、独逸に渡り英国に赴き、又其他欧洲各国を遊歴し、専心外国語学の研究に従事せられ、今日日本に於て外国語学の大家として、又教育家として肩を比ぶる者は一人も見出す事能はず、吾々英語を用ゆる国人は特に日本に君あるを誇として可ならすや
君が独創にかゝる新式英語教授法は、実に理想的にして、其斯界に貢献せることの大なる日本国人一般の称揚措からざるところなり、君が従来教鞭を執られたる学校は、東京高等商業学校・外国語学校・東京
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帝国大学文科大学・学習院等なりとす
此教育界の偉人の事蹟は、必ずや日本歴史の数頁を飾ることゝ信ずるなり
今玆に男爵神田乃武閣下を諸君に御紹介するに当り、予は非常なる歓喜の念が胸に満つるを覚ゆるなり
左の略歴は、当地商業会議所より特に一行に配布したるに付き、玆に掲く
 チー・チー・クリツテンデン氏(キヤンザス・シチー市長)
 氏推されて市長の職に就きしより、一意専心市の為めに尽す、市今日の繁栄勃興を致すもの、氏に負ふ所少なしとせず、其能弁を振て市局を論ずるや、熱烈而も厳正、優に市の元首たるに恥ぢず
 ウィリアム・ワルナー閣下(合衆国上院議員)
 当市々民の錚々たるもの、其職に従事するや、厳正苟も撓まず、常に公益を考慮し、重任を負ふて屈せず、キヤンザス・シチー市長、合衆国巡回地方裁判所検事、合衆国下院議員、合衆国地方裁判所検事に歴任し、現にミゾリー州選出上院議員の顕職に在り
 ダヴヰツド・アール・フランシス閣下(前内務卿)
 幾多の要職に歴任し、毎に熱誠、市・州及全国民の為めに貢献する所少なからず、曾てセントルイスに市長、尋でミゾリー州に知事たり。セントルイス万国博覧会開催に当りては、推されて其会長となり、大統領クリーブランド氏の内閣に入りては、内務卿とし其の名声を高む、氏今や当市商業会議所名誉会員、今回セント・ルイス市及キヤシザス・シチー市より推され、特に外客接伴の衝に当る
当市に於ては夕刻より発車まで警察官十数名一行の列車を警護し、且一行の単独行動を為すものには特に尾行警衛を為したり、西部に来るに従つて、此の必要を認めらるゝは慨はしき事共なり
十一月十三日 土曜 (雨)
午前七時五十分オマハ市に到着す、前日来降り続ける降雨は今尚歇まず、寒気は日増し適切に感ぜられたり、午前九時青淵先生以下一同下車、停車場に於てネブラスカ州知事シヤレンバーカー氏・市長ドールマン氏等のレセプシヨンあり、十時半特に廻はされたるマツキーン式モーター車に乗り、ユニオン・パシフイツク鉄道の諸設備、マツキーン・モーター車輛製造会社、及同社の空中電気に依りて運転せんと試験中なる無線電気鉄道の設備等を見物す、同社にて製造する車輛はマツキーン氏発明の鋼鉄製自働車にして、一輛の長さ七十尺にして、七十人の坐席と荷物・郵便等の室を有せり、速力は一時間に五十哩乃至七十哩を疾走すと云ふ、此一輛の価三万八千円乃至四万円なり、而して運転に要する費用は一哩十二銭乃至十五銭、又修繕費は一哩三銭にて充分なりと云ふ
右の見物終りて水道会社に到り、ミゾリー河の水を吸収して之を清浄にし、同市に分配するの装置を一見し、玆にて略式午餐の饗応を受けたるが、此に供せられたる材料は凡て此市にて産出するものにて、皆其製造の会社より特に寄附せられたるものなりと云ふ、午後此処を辞して停車場への帰路、途中に於て塵埃吸収機械の試用を見物し、尚ス
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トツクヤードの工場と設備を車中より望見して、三時ユニオン停車場に到着す、三時半自働車に分乗して市内の商店櫛比の地を巡見し、後レニンジヤー氏の美術館を見物し、次にジヨスリン氏の私邸を訪ひ、花壇客室の美麗なる装室を見、運動室に入りて種々の遊戯を試み、後音楽を聴聞し、茶菓の饗を受け、午後五時列車に帰着す
午後六時半停車場前より特別仕立の電車に乗し、商業倶楽部に到り、先づ正式レセプシヨンあり、後正式晩餐会を開かれたり、出席者の内には有名なる大政治家ブライアン氏夫妻あり(ブライアン氏夫妻は此日南米旅行の筈なりしも、特に其出発時刻を延ばして一行を歓迎し、且同夫人は我が一行婦人の為めに諸処案内の労を執られたり)席上ドールマン氏・ホラー氏の演説(別項載録)に次ぎて、ブライアン氏の演説(別項載録)あり、之に対して青淵先生一行を代表して答辞を陳べられ、十二時解散して特別列車に帰着す
            ネブラスカ州オマハ市長
               ゼームス・シー・ドールマン氏
 司会者並に名誉ある日本淑女紳士諸君。
  諸君が今回吾がオマハ市に御来遊になりましたるに付きまして、此に諸君を特賓として歓待致す事を得まするは、実に吾々市民の誇りとする所で御座います。諸君は世界の一大強国として、東西均しく瞻仰するところの大民族を代表せられて我国に来られ、既に諸地方を御巡覧に相成りましたが、今御覧になりまする我オマハ市は、世界の尤も富饒なる大平原の中枢に位し、諸種の企業は申すに及はず、善美なる寺院・病院等兼ね備はり、将来世界の大都府たる可き地で御座いまする。今此地に於きまして其の市民を代表し、尤も熱心に諸君を歓迎致しまして、今回御光来の栄に酬い、尚ほ幾久しく渝らさる友情を紀念いたしたいと存します。
                 フランク・エル・ホラー氏
 司会者・渋沢男爵、並に名誉ある日本淑女紳士諸君。
  此に日本国の名誉ある実業家諸君か我米国に御来遊に相成りましたるは、実に諸君に於て世界各国民が今や正に一新時期に到著したる事を御確認になりましたるの致すところと存じます。惟ふに日本帝国の実業諸団体を代表せらるゝ諸君が、此の科学時代、産業時代の発端に当り、日米両国実業家の親睦を図り、両国の間に於ける通商貿易の発達を助けんとせられまするは、是れ洵に諸君が世界平和の為め尤も有力なる使節として、高大なる任務を帯ひらるゝものでありまして、真に世界の一大盛挙であると信じます。諸君は賢明なる
 日本皇帝の臣下として、夫の智識を世界に求め、大に皇基を振起す可しと宣はせられたる御趣旨を、尤も忠実に御履行相成る次第でありまして、此に二大国家の実業家が一堂に会して友誼を温めまするの挙は、貴国民としては元首の大御心に応へらるゝ所以の尤も善美なる御企であろうと存じます。
  今日は世界的通商の時代であります。光輝ある二十世紀は吾々実業家が充分の活動を為す可き天地であります。されば実業家たるも
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のゝ社会に対する責任は、平和的の活動によりまして社会の衣食住を充すにあると存します。乃ち今日の世界は此の通商的活動の妨けとなる可き一切の行為を許さず、須らく各個の利害を保証して、以て実業家の勢力を高め、其の勢力に依りて世界終局の平和を致す可きである事を信じます。
  吾か米国と日本との関係は、上天の恩恵によりまして、夙に五十五年の昔、貴国開港の時に始まり、爾来連綿として今日に至りました。故に、吾々は諸君の尤も古き友人であります。而して吾国は、世界何れの国民よりも多くの物産を貴国より買ひつゝあるのであります。而るに貴国が昨年中に欧洲より輸入せられましたる総額は、実に四億八千九百万弗なるに、我国より輸入せられましたる総額は、僅かに四千百余万弗に過きません。
  此に私は諸君の賢慮を煩はさんとする一事があります。其は外の事てはありません。我米国産の貨物は、今日欧洲の貨物と競争して着々として優勢を示して居るのであります。而るに、諸君は世界周囲の三分の二に当りまする航路を遠しとせず、遥々欧洲より許多の貨物を輸入せられまするに、僅かに太平洋一帯の水を隔たる吾が米国よりの輸入が却て少額に過きる一事であります。惟ふに、日米両国間の航路には洋流並に順風の便かあり、距離は尤も近く、航路は尤も安全で、且つ運輸尤も廉価であつて見ますれは、天は我北米合衆国を貴国の為めに、尤善の輸入地且つ輸出地と予言したかの如く見るものであります。
  今日は幸に諸君の御来遊を受けまして、此に相共に歓談して、相互商業関係の御観察を願ひ、一方に於ては貴国の実業界に対し米国民一般の注意を喚起する上に於て此上もなき都合を得ました。私か申上る迄はありませんか、貴国の貨物を米国に運ふところの大艦巨舶が、積荷なしに帰航しつゝあるが如きは、実に一国経済上の大損耗であります。此の関係を改変して相互の輸出入を均勢ならしむるは御互に望ましき事ではありませんか。故に私共は充分貴国と親睦して、貴国の習慣を稽へ、需要を知り、是に就きて充分の智識を得ねばならぬと確信致して居ります。幸に貴国の諸学校には英語を必修の一科とせられて居りますから、我々は相互貿易の上に好都合の次第であります。して之れより貴国に対して我貨物の輸出を増加する上に非常の便利を得る事と存します。
  諸君は既に米国諸地方の製造工場等を御覧になりまして、我か洪大なる産業界の有様に就て、充分の御観察があつた事と存します。特に我が農業界の現状並に洪大なる未開の富源に就ては、吾々米国人以上の御感興かあつた事と存します。更らに進んで諸君は将来両国間の輸出入を増加して、貴国経済界の利益を図るの御胸算を立てられたる事と信じますから、這回の御巡察の結果として、今後我国に対し続々用を命せらるゝに至る可きを御待ち申して居ります。
  惟ふに貴国民を、世界各国民中尤も洽ねく地を耕し、最も善く地面の経済を心得居る国民と存します。其の大ならさる田圃を以て能く米国人口の半に当る国民を支持し居らるゝ諸君の眼には、我米国
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の粗雑なる開墾法は嘸かし御注意を喚起したる事でありましよう。どうか此点に就て吾々に教訓を与へられ、其れによりて、吾が農産を饒多ならしめ、以て貴国民の需要に充つる事を得ますれは洵に仕合せと存します。且又出来得るならば、貴国人は吾米国の為めに仲買人となり、貴国の市場、而已ならす、進んで諸君の同人種たり、旧友たる亜細亜大陸幾億万人衆の為に、吾か貨物を頒布せらるゝに至らん事を希望致します。
  吾々米国実業家は、今後休暇を取ります時には欧洲に行かずして貴国を訪ひ、貴国人に親しみ貴国人の需要を熟知致すでありませう又た我国の青年は、世界実業界の問題を研究し解皮するは、至要至必の修養であるといふ事に留意せねはならぬと考へます。抑も、吾かアングロサクソン民族通商の発達、並に智識の進歩の基く所を考へまするに、西欧羅巴に於ける我等の祖先か、十字軍以来東洋人より学ぶ所に負ふところが多かつたと考へます。今や吾々は再び東洋諸国と通商致す事によりまして、通商上・工芸上並に学問上の一新紀元を開く可き運命に居りまするから、諸君か吾国に御来遊に相成りたると、又吾国有志の貴国漫遊とが将来此希望を実現する事の基と相成るでありませう。
  されは、今回諸君御遠来の盛事は将来に於ける東西通商的伝導事業の元始と相成るのでありませう。冀くば、此の挙が先駆となりまして、将来続々同様の往復交遊を重ね、依つて以て互に誼を厚うし大日本帝国と北米合衆国との間に永久不変の友愛と平和を維持致し度いと存します。
世界有数の大政事家たるブライアン氏は起立したり、一同起立拍手を以て迎ふ、無髯髭の半禿頭の四十二歳の氏は、悠々迫らさる態度を以て語り出てたり
              ウヰリアム・ゼー・ブライアン氏
 司会者並に賓客諸君。
  今夕、此に席末に列しまするは私の大に幸とするところで御座います。今より四年前私か家族と共に貴国に漫遊いたしましたる時、貴国民より受けましたる真実なる款待を想い、私か今夕此の席に於て諸君に見えまするは、実に喜悦に堪えさる所で御座います。
  私は数年前日本の一学生と相知り、極めて親密なる友誼を結ひました。其の青年は私の家に居りまして、私と同居する事五年以上に及ひましたが、実に品行方正にして且つ学問に熱心なる方で御座いまして、他日、日本の為めに有用の材たらんとするの大熱心を有して居られました。私は非常にその性格と志望とに敬服いたしました而已ならず、其の人と為りを見て大に日本国民の敬慕す可きを感しました。その人は山下弥太郎と申す方でありますが、日本に帰られて後は弥太郎ブライアン山下と称して居られます。私は今此処に此の因縁を申述べまして、山下君に対し相渝らさる敬意を表したいと存します。
  其の後私は日本に参りまして、この山下君以外に多くの知己を得ました。就中、近頃不幸にも毒手に斃れられまして世界各国の均し
 - 第32巻 p.296 -ページ画像 
く哀悼いたして居りまする夫の伊藤公爵は、世界の大勢力に通暁せらるゝ大政治家として、敬服す可き人物であると深く感銘いたしました。公爵は日本の将来は世界文明諸国と密接の関係ある事を念はれ、正義は個人の為にも亦た国際間にも交際の大道であるから、此の正義によりて国際の局に処せむとの意見を有して居られました。
  又、私は幸に伊藤公爵の政敵たる大隈伯爵とも会見いたしましたか、私は此の両大政治家の意見を承りまして、日本に於ても将た米国に於ても、政党異同の由りて成るところは、之を政治家の大精神のあるところに比すれは実に些事に過きない、日本帝国に於ても、我米国に於ても、政治家の一大精神とするところは実に愛国の一念である、国利民福と云ふ一大主義の前には、党派の異同は真にいふに足らさるものである事を感しました。私は今此に臨まれましたる如き御方御方が、吾米国に来遊になりました事を喜ふもので御座います。凡そ個人の間に於きましても亦た国民の間に於きましても、齟齬確執の由て起るところは、単に相互の誤解に基くものでありますから、斯く日米両国民の交誼を温めまするは、即ち既に親密なる関係をして一層親密ならしむる所以であらうと考へます。抑も国境には貨物の輸出入に対する税関はありますが、思想の輸出入に対しましては何等の制裁機関もありませぬ。併るに思想輸出入の必要なるは、貨物の必要の比ではありませぬ。左れは吾々は此の貴重なる思想をば、何れの国民よりも自由に輸入し得るのでありますから、今回賢明なる紳士諸君が米国より貴国に持ち帰られ、貴国の福利に資するところ蓋し少からざる事と存じます。
  冀くば諸君が今回の御巡遊になりまして、日本国家の為に多くの貢献あらむ事を祈て已みませぬ。我が米国の今日に有しまする総ての事物は、勿論悉く祖先の智識と経験とを相続致しましたものに過ぎませぬから、之を諸君の御参考に供するは、実に吾々の義務であろうと考へます。日本に於て吾等を知遇せられたる第一の団体は、夫の米国に於て大学教育を受けられたる御方々の会でありまして、之を米友協会と称せられて居ります。私は日本国民と米国民との親睦が、斯くも両国交友の結縁となりたる事を感謝いたしたのであります。私は此の深遠なる厚誼の存在を喜び、将来何物も此の関係を阻害する事を得ぬと信して居ります。抑も世界各国は自国民の福利を保護す可き義務ある今日、敢て他国民の不興を買ひ、延て他国民をして自国民の権利に危害を及ほさしむる如き愚を為さざる事を信して疑ひませぬ。現世界の趨勢は、国際の関係主として相互の善意に基かんとし、夫の平和の仲裁を以て戦争に代へむとせるが如き、実に我世界は漸く平和の世界たらんとして居ります。私にとりまして、特に喜ばしきは、吾米国か此の平和運動の主導者たる事であります。思ふに我国は世界に率先し一大協約の提議者となり、各国相協議して、総ての国際的紛争は必す先つ仲裁会議に対す可き事を約し、仲裁会議は事件の真相を調査し、議を定めて双方の対手国に交付す可き機関を設け、仍て以て戦争を防止せんとする時期は既に到来したりと信せらるゝので御座います。若し此事が実現せられます
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れは、仲裁会議に従ふと否とは、仮令双方国民随意とするも、実際には之によりて、戦争の禍を絶す事を得ると想像せらるゝのであります。更らに喜ぶ可きは、人生哲学の進歩が近年特に顕著と相成りまして、之によりて、戦争の禍を除く可き傾向であります。隣人の災禍を祈る事能はさる個人は、国民としても隣国の災禍を祈る道理はありますまい。各国人は社会の進歩発達によりて自ら益するか如く、国民としても亦世界各国の進歩発達を祈り、爰によりて自ら幸福ならん事を計るべきでありませう、惟ふに今日の社会に於ては、個人も国家も相互の関係が極めて密接でありますから、他人の損害によりて自ら益し、もしくは他国の衰頽に乗して自ら強ふする如き事は、決して策の得たるものではない、必ずや、一切のものゝ権利を保護し、各員の福利を発達せしむる事に依りて自己に利益を得、幸福を享くる事を得るといふ事か、世界一般人類に信せらるゝでありませう。
ブライアン氏に次ぎて、青淵先生は一行を代表して左の演説をせられたり
  本日玆に名声赫々たるホーラー氏、及東洋の児童と雖も尚其氏名を知悉する世界の大政事家ブライアン氏、其他の諸賢と相会したるは、予の光栄とする処なり
  ホーラー氏は、四十九年前米国に来りし日本使節を瞥見せられたりとの事なるが、予は又コンマンドル・ペリー氏が日本横浜に来りし当時の日本に就て語らんと欲す、当時日本の政治家は米国が日本を征伐に来りしものと誤解し、予も漸く十四・五歳の少年なりしが窃に扼腕したる次第なり、其後始めて其誤解にして、同氏の来航は日本開発の為めなる事を悟り、翻然として爾来米日両国の親睦駸々として増加したり
  日本は四十九年前より米国に負ふ処甚大なるが、尚一層両国貿易の発達を計らん為め、昨年五・六の商業会議所が主となりて、貴国太平洋沿岸の実業家を招待したるが、其返報として本年は吾々一行が其招に応して当国に来遊したる次第なり
  ダールマン氏が、日本は東洋における米国、又米国は西洋に於ける日本なりと言はれたるは、実に吾々一行の意志にして、此一言は吾々が日本に持帰るべき土産の第一のものなりとす
  予は米国人は自国の富多く、物資又饒多なれは外国に向て輸出に専心従事する能はざるやを疑ふものなるが、ホーラー氏の東洋に於ける米国品の販路は、日本人に依りて拡張すべし、尚休暇を得たるときは日本に漫遊すべしとの所論は、吾々の全然同意する処にして必ず如此ならん事を切望するものなり
ブライアン氏の演説に対しては、伊藤公・大隈伯の事、仲裁々判の事に付き意見を述べられ、更らに戦争の禍害を除かんとする唯一の道は道徳に在りと演説せられたり
 (一行の人々がシカゴ・紐育等に於て買入れたる種々の物品は、運賃を免かれん為めにはあらざるべけれど、特別列車中の貨物車に積んで山を為し、為之同車中に保管せるトランク・行李の出し入れに
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非常の不便を感じたりしが、オマハ市に於て是等新規買入に属する物品は、総て桑港へ向け発送する事と為りたり)
十一月十四日 日曜 (雪)
午前三時半オマハ市を発しデンバー市に向ふ、追々ロツキー山の中腹に近きたればにや寒気甚し、而して前日来引続きたる降雨は前夜雪と変じ、デンバー市に到着する頃は積雪数寸に迨び、一望銀世界となれり、七時半同市停車場に着す、永井桑港領事・桑港日本人会書記長久万氏等来り会す、市長スピール氏・商業会議所会頭バートレツト氏等を始め、日本人数百名プラツトホームに並列して一行を迎ふ、依て青淵先生を先頭に一行下車するや、直に略式接見会あり、後出迎の特別列車にてホテル・ブラウ・パレースに投宿す
此日は日曜なりしかば、市の歓迎は無かりしも、午後九時より日本人会主催の演説会あり、青淵先生は中野武営及巌谷小波氏と共に、希望に応じて出席演説せられたり
演説会は司会者大久保武亮氏開会の辞を述べたるに始まれり、永井松三氏(桑港領事)・ベンネツト氏(名誉領事)の演説に次きて、コロラド州日本人実業同志会々長外岡直一氏は、日本人の此地に入りしは七年前コロラド製糖会社の要求に依りて、卅六人来りしを始めとして、今や当州に二千九百人の同胞の在住を見るに至れり、而して同胞の成績は頗る良好にて、白人の信用を博し居れり、嘗て某白人は林檎園の栽培に就て日本人と白人との成績を試験したる事あり、其結果は日本人の栽培したる方、白人より二週間早く完全に其業を終り大に賞讃を得たる事あり、如此邦人の此地に於ける声価の良好なるに加へて、米国南部の大都市たる此地に領事館を設置し、益々在留邦人の便宜を謀られん事は、吾人の切に希望する処なりしが、昨年石井通商局長此地巡視の際、此我々の希望を容れて之が設置を約束せられたるも、未だ其運に至らずして漸く名誉領事を置くに過ぎざるは、甚だ遺憾に感ずる処なり云々と演説し、水野幸吉氏(紐育総領事)の演説あり、之に次きて青淵先生起ちて、先づ一行来遊の理由、日本の今日あるはコンモンドル・ペリー氏の厚意に拠る事、一行がシヤトル市上陸以来、到る処に於て盛大なる歓迎を受けたる事を述べ、尚一行は普く米国商工業の状態を知悉して、之を本邦の同胞に告げ以て両国貿易発達の資に供するは、即ち吾人の任務なりと信ず、日本の実業発達は国難の結果にして、実業家の金箔は全く政治と軍事より附せられたるものなり、若し実業家にして品性を正しくせざれば此金箔を滅失する事となるべしと説き、次ぎに日本内地の経済状態に付きては、三十九年頃諸事業勃興したるが、四十年に到りて一頓挫を生し、本年に入りて漸次恢復し、国外に於ける公債の如きも今や好況を呈しつゝあれば、諸君の安心を請ふと国内の情況を述べられ、更に諸君は海外に在りて困苦に打勝ちつゝあるならんが、凡て事の成就は智識に在り、豈只智識のみに依るべからず、勉強心なかるべからず、耐忍力なかるべからず、諸君は須らく働きつゝ学ぶべし、而して古人の金言「言忠信行篤敬ナレバ蛮貊ノ国ト雖トモ行ハレン、言忠信ナラス行篤敬ナラサレバ、閭里ト雖トモ行ハレス」を教として勉めらるゝに於ては、必ず成功は期すべ
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きなり云々、次ぎに中野武営氏の演説、巌谷小波氏の依頼心と云ふ題にて御伽話ありたり、聴衆八百余名に達し頗る盛況なり、午後十一時四十分ホテルに帰る
此日先生には伴新三郎氏・当地支店支配人柏野無事三氏の為めに『言忠信行篤敬』名誉領事ドクトル・アルベルト・ヱル・ベンネツト氏の為めに『業精于勤』及コロラド発展史、デンバー新聞社の為めに揮毫を試みられたり
先にピツツバーグよりテキサス方面へ向へる南博士及多木夫妻一行、今日此地にて本団に合す
十一月十五日 月曜 (雪)
午前八時半青淵先生にはレセプシヨン委員の来訪を受け、同九時一同と共に相伴ふてコロラド州庁を訪ひ、州知事シヤーフロース氏・州副知事フイツズガラード・リウテナント氏等と接見会あり、次に市役所に到り市長スピール氏等と接見し、終りて消防署を訪ふて消防機械の敏活なる運用を見、夫れより公共浴場(市の費用を以て維持し、無料にて希望者に入浴せしむるものなり)の設備を一覧して、高等工手学校に到り男女学生が実地練習の様を見、且同校女学生の手に成れる茶菓の饗を受け、後講堂に於て演説会開かれ、校長の挨拶に次ぎ神田男爵一場の演説を為す、玆を辞し午後一時運輸倶楽部に於て午餐を饗せらる、食後一行は各自研究の方面に向て視察を為す筈なりしを以て、青淵先生は別れてホテルに帰着し、小憩の後不良少女・孤女・棄女等を収容せる小女感化院、及基督青年会を一覧して六時ホテルに帰着せらる
午後七時半ホテル内に晩餐会あり、州知事シヤーフロース氏・市長スピール氏・チヤンバーレン氏・ルート氏・スキンナー氏の演説に次ぎて、一行を代表せる青淵先生の演説あり、後コロラド州の風景幻灯写真あり、十二時解散、列車に帰着す
此日青淵先生令夫人には、例の如く市の婦人団体より歓迎を受け、正午ホテルに於て此等歓迎員を始め市の有力なる婦人及婦人記者等と午餐を共にせられたるが、席上同婦人等の懇請黙し難く、遂に一場の感想演説を試みられ(水野総領事令夫人之を英訳す)拍手喝采を受けられしと云ふ
加州農業地を視察せんとする中野・南・渡瀬の三氏は、永井領事の案内にて一行と分離して本日南加州に赴き、又多木氏夫妻は本日桑港に直行したり
十一月十六日 火曜 (晴)
コロラド、ユタ両州に跨り敷設せられたる鉄道に依りて加州方面に向ふべく、午前三時デンバー市を発車したり、昨夜帰車遅く、且本日は終日進行して途中停車する事もなく、又歓迎委員に踏み込まるゝ憂も無ければと、気を弛して漸く午前七時半起床して観覧車に出づれば、前夜の降雪今は全く止み、海碧の如き空は一点の陰翳を止めす、地は満目銀世界となり、山河の景勝、樹木の風景、名状すべからず、午前八時果物・石灰岩山にて其名を知らるゝキヤノン・シチー(海抜五三四四呎)を過ぎ、断崖弐千百呎の高処に架せる空中釣橋を望み、ロー
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ヤル・ゴージ(同五、四九四呎)を経(此辺はロツキー山脈中最も天然の奇勝に富み、奇巌天を摩し、怪石山上に蟠屈し、其壮絶の景実に賞すべき言辞を知らず)て、ロツキー山脈の頂上テンネツシー・パツス(同一〇、二四〇呎)に着す、玆に半哩程のトンネルあり、此即ち分水嶺にして氷雪を東西に分流す、玆より漸次降り坂となり、キヤノン河に沿ふて下れは山水の風光又一層の景を添へ、マインタアン(同七、八二五呎)ニユーカツスル(同五五六二呎)等を過ぎ、午後五時シヨース・ホーンに達し、セントラル・コロラド水力電気会社を車中より望観し(此会社の水力電気はグランド・リバーの水を二哩間トンネルにて一分時二千立方呎の水を引き、八十呎の高地より落下して一万八千馬力の電気を得、之を二百哩以上を隔つるデンバー市に送り、尚同市より各地に送電すと云ふ)同廿分グレンウード・スプリングスに到り、三分停車して温泉湧出の様を見たり、グレンウード温泉(塩原温泉に酷似し、其グランド・リバーは箒川に均しく、其温泉の両岸の地に湧出するの状、家屋の諸所に散在するの様頗る相似たりものもあり、只其規模に於て大小あるのみなり)終れば薄暮車窓を包み、夕食後は観覧車
此日午後二時より、米国側委員博士グード氏のソルト・レーキ及モルモン宗に関する講話あり(之が梗概を叙すれば、ソルト・レーキは今より廿五万年前は同地方一面の大海なりしが、其海水は漸次北方に流出して、遂にソルト・レーキたけの面積を有する者となりたるなり、其証拠には其附近山岳の地層は凡て海岸の層を為し、岩石の如きは海水に依りて洗はれたる状を其儘に存し、而して湖岸の砂石は海岸の砂石と同一のものなるに明かなり、潮水の塩分は廿五パーセント(一升に付き二合五勺)なり、是蓋し純粋の水分は幾時となく蒸発して、比重多き塩分丈け残留したるものなり云々(如此一升に付き二合五勺と云ふ如き塩分を有するとすれば、潮岸一帯製塩事業盛大ならんとし、或は誰にても均しく起る処なれども、米国に在りては到る処に於て地中より十分純良なる食塩を得るを以て、塩分多ければとて、此地に於て製造し多額の運賃を支払ふては得失相償はざれば、今は只数個の製塩会社の在るのみなり)尚モルモン宗に付きては、同宗祖ブリグハムヤング氏が旧教の経典中よりモルモン経案出したる当時の状態より、同宗拡張の為めに蝟集する迫害を排除しつゝ、あらゆる艱難辛苦を嘗めたる状態を講話して、同宗の一夫多妻主義は、其後合衆国の法律を以て一夫多妻を厳禁したれば、現今に於ては此宗旨を奉ずるものも、多妻を有するもの無し云々と結びたり)
十一月十七日 水曜 (晴)
午前六時頃カスチラを過ぐ、此辺の山腹にはグード氏の講話せられたる太古の海岸たりし証跡見ゆる筈なりしも、日出前の事とて之を見る能はざりし、前八時ソルト・レーキ・シチー市に到着す、州知事スラノー氏・元老院議官スムート氏・市長フランスフヲード氏、其他官民有志の出迎を受け、青淵先生以下一同自働車に分乗し、会堂市街を通じてモルモン宗教タバナクルに到る、一同の着席するや寺院管長の歓迎の辞あり、次ぎにジヨン・マクレラン氏のビルグリム合奏其他三、
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四曲のオルガン弾奏あり、又インサイン氏の君が代の独吟ありて後、一同寺院を辞し、市街巡覧に向ふ、去るに臨み二世スミス氏は青淵先生にモルモン宗経一巻を寄贈せられたり
 因にダバナクルは、ソルト・レーキ市に於ける最も著名なる建物にして、座席八千を有し、円天井には一本の釘も無く、又一の支柱なし、千八百四十七年モルモン宗の人々が他宗教上の迫害を受けて逃れ来り、地を此処に相して直に此を建築したりと云ふ、其建築の精巧なる、仮令ピン一本を落すも其響四隅に達するにて推知するを得べし、而して此大ヲルガンは千八百五十年ジヨセフ・スミス氏(本年七十一歳)の命に依り、部下の技術者設計したるものにて、実に世界第一の最大楽器にして、其音響は克く数哩に達すと云ふ
此日は天気快晴なるも厳寒凛烈肌に砭し、四肢又感触を失ふが如し、之に加ふるに自動車疾走の為に風を起し、濛々たる塵埃は鼻口耳目に侵入して甚だ苦痛を感じたりしが、青淵先生には此市民の厚意に酬ゆる為め甚だ愉快相に此苦痛に堪へられ、柳其他の樹木を以て人道を区別せる車道を疾走して、先モルモン宗の開祖ブリガム・ヤング氏の銅像を始めとして、重なる市街を巡覧し、又軍隊の営処を見て午前十時列車に戻る
十時半発車、途中ソルト・レーキ(長百哩、巾六十哩)を過ぎ、湖上の風光を賞する間も無く、太古は湖底なりしと云ふ広漠たる不毛の原野に出で、二重硝子の車窓を密閉するも何処よりか砂塵侵入して車室に堆積す、午後一時五分ヲグデン市に到着、十分間停車す、青淵先生は在留邦人総代市村三郎氏其他の来訪を受けられたる後、観覧車に出てゝプラツトホームに来集せる邦人に対し、熱誠なる訓戒の演説を試みられたり、一時十五分発車して、再度眼界無き広漠たる不毛の原野に出でて、砂塵をあびつゝ進行し、午後四時同行外国人側委員エリオツト氏の、大統領選挙に関し党派及選挙人運動に関する趣味ある講話あり、夜は青淵先生を中心として種々の雑談ありたるが、就中先生の太平洋沿岸諸港に関する談話は、生等の参考として聴取すべき事なるを以て、其一節を玆に録す、先生曰はく、米国太平洋沿岸の諸港は、互に協力一致東洋地方の富源を開拓して、特に日本・支那を富ます時は、桑港・シヤトルの如きは大西洋沿岸の紐育等の繁盛に劣らさる結果を得る事難からざるなり、然るに是等諸港は互に鷸蚌の争を為し、其上日本人排斥等を為すは、誠に先見の明なき処置と云はざるべからず云々
青淵先生は午後十一時就床せらる


竜門雑誌 第二七四号・第六四―六八頁 明治四四年三月 ○青淵先生米国紀行 随行員増田明六(DK320012k-0004)
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竜門雑誌  第二七四号・第六四―六八頁 明治四四年三月
    ○青淵先生米国紀行
                  随行員 増田明六
十一月十八日
午前七時目覚むれば、一行は既にネバタ州の西部広漠たる平野の裡に在りて、将に加州の地に入らんとす
○中略
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午前十一時サクラメント到着、数分間停車す、青淵先生は停車場に出迎はれたる邦人の集団に対し、一場の訓戒演説を試みられたり、此辺一帯の地はサクラメント河の平原にして、真に沃野千里、尤も果樹の栽培に適すと云ふ
○中略
正午サンノゼに着、数分間停車、安田勝吉・国本栄喜・木村俊雄の三氏同地在留邦人総代として来る、先生は昼食を廃して会談せらる、午後四時デルモントに着す、直に自動車又は馬車に分乗して、所謂十七哩ドライブと称する太平洋沿岸景勝の地を巡覧して五時ホテル・デルモントに入る、随意入浴を為し、又晩餐を喫して、前日来車中に蟄息沮喪したる勇気を恢復し、九時半列車に戻り即時発車す、此デルモントは我大磯の如く夏時避暑客の遊覧地に宛てられたるものにて、同ホテルは清洒たる木材建築にして、煉瓦又は石造の如き厚苦しき建物に非らず、日米新聞記者安井涙泉氏、先生を此のホテルに訪問して視察談を聴取して帰る
十一月十九日 金曜日 (晴)
午前七時三十分サンタ・バルバラに着、一時間停車、当地は石油の産地として著名なり、一行出でゝ之を視察す、午前十一時五十分ロスアンゲルス市に着、歓迎委員及当市日本人会会員有志者の出迎を受け、停車場に於て略式接見会に臨み、終りて一行は直に他の列車に転乗してサン・ピデロ港(当港はロスアンゲルス市と相俟つて将来有望の港湾たり、目下港内浚渫工事中なるも、其竣工の後は桑港を凌駕せんとする意気込なり)に到り、防波堤其の他港内設備を参看したるが、青淵先生には十八日サクラメントに於て犯されたる風邪の為め、気管支を痛められ、咳嗽頻りに起り、気分悪しければとて、停車場のレセプシヨンを終り、直に一行と分れてホテル・アレキサンドリアに投宿せらる、同行の熊谷医学士の診断に依れは、先生は風邪に犯され、且気管支加答児の兆候あれば、数日間は宴会等の出席を見合はせ加養せられたしとの注意あり、依て同氏の処方箋に依りて米国調剤師より水薬及含嗽薬を得て服用平臥せられ、夜亦安眠せられたり
 此日東京渋沢篤二氏より堀越氏及小生宛の信書到達す、伊藤公爵十月二十六日ハルピン停車場にて韓国兇徒の為めに凶変に遇はれたるは、為邦家真に哀悼の至に堪へざるが、尚聞く処に依れば是等韓人の悪漢は秘密結社を組織し、韓国に仇なす何れの国人も謀殺せんとの計画を為せりとのことなり、米国に於ては桑港辺に此結社の無頼漢多数散在せる由なれば、若しや先生を誤解するもの無きも保すべからざれば、十分注意せよとの文意なりし、先是デンバーに於ける米国某新聞紙は、先生の韓国に於ける勢力は故伊藤公爵に次す、先生は同公爵の後継者なりなどと吹聴し、又は加州某地に於て新規に開店したる一日本商店が、米国労働者の為めに爆烈弾を以て粉砕せられたりとの記事あり、そゞろに往年スチーブンス氏が桑港停車場に於て無頼の韓人の毒手に罹りたる事抔回想して、堀越氏と共に始終先生の身辺保護に付ての注意は怠らざりしが、今や此信書に接し一層責任の重且大なるを感じ、同氏と協議の上、来二十六日オーク
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ランドに到着の日より特に警官三・四名を聘傭し、先生外出の際は必ず同行せしむる事は勿論、堀越氏及小生も共に側を離れざる事とし、尚先生に篤二氏の来示を陳上し、且如上の方法を取りて先生の身辺を保護するに付ては、先生に於ても充分注意を払はれ度旨申入れたるに、先生には「天徳を予に生す、桓魋其れ、予を何ん」との孔夫子の言を引かれ、且東京出発の際既に一死以て国に報ぜん覚悟なれば、無用の行動を取る勿れと反対に戒告を受けたるも、さればとて其儘に為し置くは憂慮に堪へざる次第なりければ、同氏と再協議の上先生には秘密に、桑港商業会議所より派出せられたるストールマン氏に事情を話して、オークランド到着の時より三名の平服警官を聘傭する事に為したり
十一月二十日 土曜日 (晴)
青淵先生の容体未た良好ならず、体温は殆ど平熱なるも、咳嗽頻りに出て且少しく頭痛を感ぜらるゝ由なり、朝熊谷医学士の来診あり、前日に比し別に悪兆を認めざるも、今日にして全治し置かざれば後患を遺す基となれば、本日は外出は勿論、食堂に出づる事も見合はせ、食事の如きも室内に於て採られたしとの事なりしが、先生には朝昼とも食堂に出でゝ食事を取られたるが、夕刻に到り体温少しく進み、熊谷氏の発汗剤を服用して午後十一時臥床せられたり
此日一行は歓迎委員の案内にてホテル前より特別電車に乗じ、市外パサデナの勝区を過ぎて、マウント・ローに向ふ、同地は海抜五千呎の高地に在り、ケーブルカーに依りて急坂を登り、崖頭を廻りて景勝の地を賞するの便あり、山腹のアルパイン・タベルンと称する小ホテルに小憩し、正午商業会議所の接見会に臨み、夫よりカリフオルニア倶楽部の午餐会に臨み、終りて電車にてホリウードの石油田を巡覧し、夕刻ホテルに於て晩餐会あり、席上商業会議所会頭ブース氏の歓迎演説、及中野武営氏の団長代理演説ありて、午後十一時解散せり
十一月二十一日 日曜日 (晴)
青淵先生の容体前日と同様にして、体温平常の如くならず、及気管支も幾分疼痛を感ぜられ、咳嗽未止、午後吸入を試みられたるに幾分快く感ぜられたり、此日午前熊谷氏先生を診断して、桑港に於て健全なる行動を取られんとならば、是非此地に於て一行と分れ直路桑港に到りて静養せられん事を請ふ旨の懇談ありしが、先生には承諾を与へられす、遂に病を押して一行と共に午後九時列車に乗込まれたり
此日一行は、中野武営氏を先頭に午前中はパサデナの農園地方を巡覧し、午後は市内公園・住宅区域を巡覧して青年会館及婦人青年会館に到り、会長レッツ氏以下会員の催にかゝる伊藤公爵追悼会に臨まれ、夜は在留日本人会の招待に応じて日本人倶楽部の晩餐会に列し、解散後エルクス館の日本人演説会に列席せられたり
十一月二十二日 月曜日 (晴)
午前七時サンデヤゴに到着す、青淵先生にはまだ病気快癒に赴かれざるを以て、特に列車に滞在し、午後一時コロナド・ホテルに於て開れたる商業会議所主催の午餐会に出席せらる、同ホテル支配人ウイリアム・クレートン氏司会者となり、歓迎の辞を述ぶ、次に市長コナルド
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氏の演説に次ぎて、青淵先生は病を押し、立て一行を代表して答辞を述べ、次に商業会議所会頭ジー・エー・ダビドソン氏及マキンレー内閣の大蔵大臣たりしエル・ジエー・ゲージ氏の演説、最後に永井桑港領事の謝辞ありて夕刻列車に帰着し、六時リバサイドに向て発車す
此日一行は午前九時出迎の自働車に分乗して、市内を巡覧しつゝポイント・ロマに到り風光を賞し、夫より神智教附属学校ラジヤ・ヨガ学院を訪ひ、校長ティンダレー夫人の案内にて校内の設備を看覧し、尚スポールデイング氏邸に到りて茶菓の饗を受け、午後一時コロラド・ホテルに着す
○下略
  ○十一月二十三日ヨリ以降増田ノ紀行記事ナシ。


渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第三三四―三三九頁明治四三年一〇月刊(DK320012k-0005)
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渡米実業団誌  同団残務整理委員編 第三三四―三三九頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
    第十六節 ボルティモア市
十一月四日 (木) 晴
 午前二時華府「ユニオン」停車場を発し、同三時ボルティモア・ユニオン停車場に着、同八時半歓迎委員来る。別仕立の列車に乗組み市外二十哩を隔てたるスパロー・ポイントに至り「メリーランド」製鉄所及び牡蠣缶詰所を参観し、帰路汽船にて港内の諸設備、及び造船所等を見物す。午後一時半ホテル・ベルベェデアにて午餐会あり。席上前司法大臣ボナパルト氏、特に伊藤公の為めに追悼の辞を述べ、又将来パナマ運河落成の上は当市と日本との間に、直接通商の開かるべきことを演説し、市長以下の演説者は、何れも他日の希望を述べて款待特に懇切を極む。午後ジヨンス・ホプキン大学を訪ひ、市内各地を見物して、夕刻列車に帰る。本日は伊藤公国葬当日に当るを以て、一同静粛を旨とし、遥に弔意を表す。十一時三十分発車ピッツバーグに向ふ。
    第十七節 ボルティモア市概況 ○後掲ニツキ略ス
    第十八節 ピッツバーグ市
十一月五日 (金) 曇
 午前八時五十分ピッツバーグ市に着、午前九時歓迎委員の案内にて特別列車に転乗し、オハイオ河を横ぎりて市の外廓を一周し、車窓より各工場の壮観を見つゝ、ホームステツドに向ふ。ホームステッド製鋼所は、彼の鋼鉄王カーネギー氏の創始する処、総敷地二百二十八ヱーカー、構内に布設しせる線路総延長五十二哩の長きに達すと云ふ。鉄板製造所・溶鉄所・軍艦用鉄板製造工場等を巡覧し、十二時半工場外なる同会社職員集会所に赴き、午餐を饗せらる。但し場主カーネギー氏は、目下スコットランドにありて不在中なれば、同会社総監督コロネル・ハンター氏座長となり、市長代理オブライアン・商業会議所会頭スミス氏等の歓迎の辞あり。午餐後大部分はウェスチング・ハウス電気工場に向ふ。同会社は主に高田商会と取引し、三井組のゼネラル・エレクトリック会社に於けると均しく、本邦電機界に活動すと云ふ、又一部は硝子工場を参観し、午後五時
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シェンレー・ホテルに投ず。当夜一行中、渋沢・中野・日比谷・根津・大谷・原(竜)・西村・土居・高辻・佐竹・上遠野・水野・頭本の十三氏は、ウェスチング・ハウス会社の晩餐会に招かれ、終りて一同と共に、カーネギー館に於ける大音楽会に赴く、市有志者の招待なり。
 婦人の部 八時五十分婦人の出迎を受け、九時十五分ホテル・シェンレーに入る。午前十時マーガレット女学校、及びシェンレー公園を見、十二時半ホテルにて午餐を饗せらる。午後三時バブロッチ夫人私邸にて茶菓の饗応あり、午後八時よりカーネギー館の音楽会に臨む。
十一月六日 (土) 曇
 午前九時頃より団長以下十数名は、市外十二哩を隔てたるオハイオ河畔に、ピッツバーグ板硝子製造所を参観す。残余は九時四十五分ホテルの近傍に行はるゝ消防演習を見物し、それより各公園及住宅区域を見物し、正午十二時半ハインツ会社に赴き、こゝに団長以下の一隊と会し、午餐を饗せられ、終りて同会社の各工場を巡覧す。
 同会社は米国第一の純良蔬菜缶詰会社なり。食後幻灯を以て、世界各国に渉れる同事業の説明ありしに、其広大に驚嘆する者少からざりき。午後八時ホテルに於ける正式接見会に臨む。茶菓の饗応あり夜十二時シンシンナターに向つて発す。
 婦人の部 午前十時婦人歓迎委員の案内にて、フィリップス音楽学校を訪ひ、後田園倶楽部に向ふ。午後一時半同所にて午餐を饗せられ、後ホテルに帰る、午後八時より男子と共にホテルにて正式接見会に列す。
 日比谷・飯利両氏は、棉作地視察の為め、今夕本団を離れ、ニューオルレアン地方に赴き、南博士・多木氏夫妻、亦た農事視察の為めテキサス方面に向ふ。


渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第三五二―三八八頁明治四三年一〇月刊(DK320012k-0006)
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渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第三五二―三八八頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第七章 回覧日誌 中部の二
    第一節 シンシンナター市
十一月七日 (日) 晴
 午前七時シンシンナターに着。十時同市商業会議所員、其他の出迎を受け、直に自働車に分乗して、ホテル・シントンに入り、総会を開く。出席者渋沢男・神田男・中野・大谷・西村・土居・上遠野・左右田・石橋・巌谷・水野・佐竹・加藤の諸氏、団長より、既訪の各地商業会議所、及び接伴委員等に対する表謝、及団務整理の為め常議員一同は、水野総領事の同行帰朝を必要と認め、松井代理大使にも相談の上、団長より母国外務省に電稟する所ありしに、昨日許可の旨返電あり。即ち水野総領事は、一時賜暇帰朝の事に決したる旨を報告し、尚ほ接伴委員中の、ハルピン領事グリーン氏は、米国政府の命令により、聖路易に於て一行に分れ帰任するに依り、同地に於て感謝状を送り、又送別の宴を張る事、日本帰着後の解団式は即日東京に於て開く事等を決議す。十二時、一行は自働車にて、田
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園倶楽部に於ける商業会議所主催の接見会に臨み、午餐の饗応を受く。席上商業会議所会頭チャーレス・イーロース氏の挨拶に次ぎ、市長ジョン・カルヴィン氏の歓迎辞あり。当市は大統領タフト氏出身の地なりとて、市民特に歓迎に熱中せるの観あり。午後一同は十数哩を隔てたる水道濾過池を見る。規模頗る宏大にして、真に米国一と誇るに足る。其費用約一千万弗に及べりと云ふ。夜七時半よりホテル九階に接見会を開かれ、余興として音楽・独唱、及び当市の風景幻灯等あり、後ち立食の饗応あり、十一時散会す。
 先に華盛頓府にて一行と別れ、専門事項研究中なりし藤江氏は、本日当市に来りて本団に合す。
 婦人の部 夜シミッグラップ夫人方に晩餐を饗せらる。
十一月八日 (月) 時々雨
 午前十時自働車にてホテルを発し、二・三の公園を過ぎ、動物園を見物し、エデン公園を過ぎ、午後一時商業会議所の接見会に臨む。ライアン将軍の歓迎の辞あり、団長及神田男之に答ふ。午後一時四十五分ホテルの食堂にて略式午餐会あり。三時頃当市育児院児童の音楽隊に送られつゝ市役所に赴き、此処に又接見会あり。終りて警察及び消防隊の実地演習を見物し、直に帰館す、此地には「ロックウード」と称する有名なる陶器製造所ありて、邦人白山谷喜三郎氏永らく之が技師たり、一行中参観に向ふ者多し。午後七時四十五分一同歓迎員の案内にて、コロンビヤ座に観劇し、後列車に帰る。
    第二節 シンシンナター市概況 ○後掲ニツキ略ス
    第三節 インディヤナポリス市
十一月九日 (火) 晴
 午前六時インディヤナポリスに着、九時歓迎委員の出迎あり、直ちに自働車に分乗し、先づ州庁に知事マーシャル氏を訪ひ、夫より各工場・水道等視察の上、コロンビヤ倶楽部の午餐会に臨み、午後更に各工場を見物す。夜は七時半より「クレイプール・ホテル」に於て晩餐会あり。席上合衆国上院議員ベベリッヂ氏・知事マーシャル氏・商業会議所会頭ジョーン氏・検事ミラア氏等の歓迎演説・渋沢男・神田男の答辞あり、十一時半散会。直ちに列車に帰り、零時十分セント・ルイに向て発す。
 婦人の部 午前十時婦人歓迎委員の出迎あり、自働車にて少時市内を見物し、零時半カレー夫人私邸の午餐会に臨み、午後五時リード夫人私邸にて、音楽及茶菓の饗応を受け、同八時、アトキン夫人宅に晩餐を饗せらる。
    第四節 インディヤナポリス市概況 ○後掲ニツキ略ス
    第五節 聖路易市
十一月十日 (水) 晴
 午前七時半聖路易停車場に着。午前九時十五分商人協会歓迎委員の出迎あり、直ちに特別電車にてサウザーン・ホテルに入る。同十一時自働車に分乗し国立通商銀行を訪ひ、頭取其他の案内にて、行内各部を巡視し、約二十分の後出で、有名なるシモンス金物会社を訪ふ。帝国名誉領事スミス氏重役たり。入口正面に生花にて同会社の
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商標を造り『ウエルカム』の文字を表はす。事務所・荷造所・陳列室等巡覧中、支配人号鈴を鳴らして、臨時非常演習を執行せしに、僅かに一・二分にして各員予定の部署に就けり。其迅速なる驚く可し。又各地行商の出張員の勤怠を一目にして瞭然たらしむる地図等執務上感嘆に値するもの多し。帰途午後一時、株式取引所に前知事フランシス氏・市長、其他との接見会に臨む。
 一時半一同ホテルに帰着す。午後二時よりホテルの第二階食堂にてグリーン氏の送別午餐会を開く。同氏は米国政府より特に我が団の為に接伴委員として遣されたる人にして、現にハルピン領事の職に在り、父は日本に伝道師たること四十年、氏亦た日本に生れ従つて日本語を能くす、而も親切にして、我が団が沙市上陸以来七十有五日間、懇切を極めたる氏の接伴は、一同の深く感謝する所なり。席上渋沢男は団員を代表して左の序辞を述べ感謝の決議を朗読せり。
  ○感謝文及ビ決議前掲ニツキ略ス。
 尚ほ団長は語をついで曰く
  ○前掲ニツキ略ス。
 次にローマン氏は立て送別の辞を述べ、グリーン氏の健康を祝す。
 次にエリオット氏は起つて、接伴員一同を代表し、送別の辞を朗読す。最後にグリーン氏は徐に口を開いて『何等功績なきにも拘らず過大なる賛辞を腸はりしを謝す、尚今後諸君が益々健康にして、且つ愉快なる旅行を続けられんことを熱望す、云々』と述べ、次にムーア氏の音頭にて同氏の為めに例の「ラララ」を三唱せり。因に云ふ、右の感謝送別の辞は、日本文を正文とし、之に英語を附して同君に贈りたり。尚ほ従来グリーン氏の扱はれし事項は、今後エリオツト氏に於て引き継ぐ事と成りたり。
 午後三時マク・カラック氏より廻されたる特別電車にてホテルを発し、米国最大と称せらるゝ麦酒醸造所「アンホイザア・ブッシユ」会社を見物す。午後五時一同ホテルに帰着、午後七時特別電車にてセント・ルヰ倶楽部に向ふ。先づ一室に接見会あり、後食室にて晩餐会を開かる。商人協会会頭にして帝国名誉領事なるスミス氏司会者となり、先づ 陛下の万歳を唱へ、水野総領事は日本帝国を代表して、米国大統領の健康を祝す。次に市長クライスマン氏歓迎の辞を述べ、団長之に答ふ。次に前知事にしてクリーブランド内閣の大臣たり、又セント・ルヰ博覧会総裁たり、現に当市及びカンサス市の商人協会員たるフランシス氏は、歓迎の辞を述べたる後、曰く
  ○演説前掲ニツキ略ス。
 次に神田男・製造組合会頭ペータアス氏等の簡単なる演説あり、最後に番外として、大谷氏起て、三十七年の博覧会に、日本出品協会を組織し、西村氏をして渡米せしめし際、フランシス氏を始め、スミス氏等の多大なる同情と懇切とに依つて、大なる成功を奏せり、後れ馳ながら、玆に深く謝意を表する旨を述べ、更にフランシス氏の紹介にて、日本勲章佩用者、前市長ロルラウェルス氏も一場の演説を為し、十二時に至りて散会す。
 今夜十一時二十八分グリーン氏は、ペンシルバニヤ停車場より赴任
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の途に着く、中野・加藤両氏は一行を代表して之を見送る。
 婦人の部 午前九時十五分婦人歓迎委員の出迎あり、午前中は旅館に休憩し、正午スミス夫人に午餐を饗せられ、午後某教会に結婚式の披露会に臨む。
十一月十一日 (木) 晴
 午前九時半、出迎の自働車に分乗し、エリツ及オーカー呉服会社及米国第二位に在りと称せらるゝ、ハミルトン・ブラウン製靴会社の工場を見物し、次に市育児院の副業なる花卉園を見る。夫れより市内の住宅区域・公園・大学町等を通過して、ルウィス出版会社に至り、午餐の饗応を受く。
 又神田男以下教育家の一部は、市学務委員の案内にて中学・小学・図書館等を歴訪す。
 午後は田園倶楽部に至り、其の後庭にてポーロ競技・騎馬打球を見物す。午後七時半名誉領事スミス氏の招待にて、オリンピック座観劇、同夜十一時過ぎ一同列車に帰り、カンサス市に向つて発す。
    第六節 聖路易市概況○後掲ニツキ略ス
    第七節 カンサス市
十一月十二日 (金) 雨
 午前七時半カンサス市に着し、同九時半商業倶楽部の歓迎委員に迎へられ、直に自動車に分乗し、商業倶楽部の接見会に臨む。終りて又自動車に分乗し、ウェストポート中学校に至る。一行の同講堂に入るや男女生徒千余名の合唱あり、次いで校長アンダーウード氏及ミル氏の歓迎の辞あり。神田男爵之れに答ふ。構内の食堂・木工実習室及体操場等を参観したる後ち、ステーブン公園に至り、イワンストン・ゴルフ倶楽部にて立食の饗応を受く。午後は市内の重なる街路を巡覧し、商業銀行及「キングマン・モーア」農具製造所等を巡視して、五時半頃列車に帰る。午後六時半再び一同自動車に分乗して、ボルチモーア・ホテルに至り、晩餐会に招かる。席上商業会議所会頭ブランド氏を始め、市長ティー・ティー・クリッデン氏、合衆国上院議員ウィリアム・ワルナー氏、及フランシス氏等の歓迎演説あり、例により渋沢・神田両男之に答ふ。
 婦人の部
  午前十時婦人歓迎委員の出迎あり、自動車にて先づ市中を見物し後田園倶楽部に赴き、玆にて午餐を饗せらる。了りて特別列車に帰り、午後七時ボルチモーア・ホテルの晩餐会に出席、男子側と共に列車に帰る。
    第八節 カンサス市の概況○後掲ニツキ略ス
    第九節 オマハ市
十一月十三日 (土) 雨
 午前七時五十分オマハに着、ネブラスカ州知事シャレンバーカー氏同市々長ドールマン氏等の略式接見会あり。午前十時半頃一同は特に廻はされたる「マッキーン式モートル」車に乗り、ユニオン・パシフィツク鉄道の諸設備、「マッキーン・モーター」車輛設備及無線電信の設備等を見物し、正午頃フローレンスに向ふ。玆にオマハ水
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道会社の水揚げ場を見物し、同所にて略式の午餐を饗せらる。午後三時半頃ユニオン停車場に帰り、再び自働車に分乗して、市内の問屋町・住宅区域・大道路公園を過ぎて後、レニンジャー氏の美術館を見物し、次でショス・ライン氏の私邸を訪ひ、音楽を聴き、茶菓の饗応に預り、午後五時一同特別列車に帰る。
 午後六時特別電車にて商業倶楽部に到る。正式接見会の後ち晩餐会あり。此日大政治家ブライアン氏夫妻は、南米旅行出発の当日なりしも、特に我が一行歓迎の為め態々当市まで出張され、午後は同夫人など特に我が婦人連の為めに案内の労を執られたり。蓋しブライアン氏夫妻前年本邦にて受けたる好意に酬ゆる為めなり。晩餐会席上ドールマン氏・ホラー氏等の演説あり、特に邦語訳文を予め配付されたり。ブライアン氏演説左の如し。
    ウイリアム・ゼー・ブライアン氏演説
  ○前掲ニツキ略ス。
宴後一同電車にて列車に帰る。
 予ねてセント・ルヰ滞在中に注意せし次第により、今朝九時より一切の荷物を、一貨車に纏め、桑港へ向け発送の手続きを為す。
 婦人の部 ディティ夫人宅に午餐の招待を受け、午後二時ミラールド夫人方及びシヨスリン氏夫妻主催の接見会等に臨み、夜はカウニッツ夫人方晩餐会に招かる。


渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第三九二―四二五頁明治四三年一〇月刊(DK320012k-0007)
第32巻 p.309-315 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第三九二―四二五頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第八章 回覧日誌 西部の二
    第一節 デンバァ市
十一月十四日 (日) 雪
 午前三時半オマハを発しデンバァに向ふ、追々高原に入るが為に、漸次寒冷を覚え、夜半より降雪烈しく、払暁に迨んでは見渡す限り一望皚々たり。午後七時半デンバァに着、永井桑港領事・桑港日本人会書記長久万氏等来り会す。停車場には市長スピール氏・商業会議所会頭バートレット氏を始め、日米歓迎員等数百名の出迎あり、略式接見の後、直に出迎の特別電車にて「ホテル・ブラウン・バレース」に入る。
 午後九時より同地日本人会主催の演説会あり、司会者大久保武亮氏先づ開会の辞を述べ、外園直一氏は在格州日本人状態を説明し、次に永井領事、及今回新たに任命されたる名誉領事ベンネット氏等の演説あり、終りて渋沢男、中野・巌谷氏等の講演ありたり。聴衆八百余名。
 先にピッツバーグよりテキサス方面に向へる南博士、及び多木氏一行は、今日此地にて本団に合す。
十一月十五日 (月) 雪
 午前九時一同自働車に分乗して、先づコロラド州庁を訪ひ、シャーフロース知事・フイックガラード副知事と接見会あり。次に市役所を訪ひ、市長以下市吏員と接見し、次に市の消防署・公開遊泳所等を巡覧し、市公園の博物館及び病院等を参観す。正午は運輸倶楽部
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にて午餐を饗せられる。食後特に希望せる人々は、瓦斯及電気会社を訪ふ。夫れよりデンバァ・アウーディトリアムを訪ふ。同館は工費六千万弗を要し、優に一万三千人を容るゝに足る大会堂なり。次に同市街鉄発電所に立寄り、後ち湖畔及バークレイ公園等を過ぎて基督教青年会館を訪ひ、夕景帰館す。尚ほ団長以下有志の者は、貧児感化院に至り、渋沢男・神田男等の感話あり。
 午後七時半よりホテル内に晩餐会あり、知事シャフロース氏・市長スピール氏を始め、チャンバーレン、ルート、スキンナァ氏等の歓迎演説、及び渋沢・神田両男の答辞あり、後コロラド州の風景幻灯写真など見物し、十一時半頃一同列車に帰る。
 婦人の部 午前中は休憩、午前十一時四十分、知事・市長の夫人及其他の婦人ホテルに来訪、市の有力なる婦人及婦人記者等とホテルにて午餐を共にし、午後二時婦人倶楽部にて接見会あり、終りて湖畔を回遊しホテルに帰る。午後六時半再び出迎に伴はれて、ヒル氏夫人方にて晩餐を饗せられ、終りて列車に帰る。
 加州農業地を視察せんとする我分遣隊は、今夕九時当市を発し、南加州に赴く。隊員は中野・南・渡瀬・加藤の四氏にて、永井領事之を案内せり。
 多木氏夫妻は秋山随員を従へ、今夕九時桑港に向け直行、東洋汽船会社々客掛島田氏は、此処に一行を迎へ、サクラメント迄同行して帰航船の事に就き打合せを為す。
    第二節 デンバァ市概況○後掲ニツキ略ス
    第三節 ロッキー及ソルト・レーキ市
十一月十六日 (火) 晴
 午前二時デンバァを発してロッキー山脈に入り、払暁已に海抜四千七百呎の地に在り。夫れより漸次ポートランド(五、〇五一呎)フロレンス(五、一九九呎)を過ぎ、午前八時カノン・シティー(五、三四四呎)より進んでローヤル・ゴージ(五、四九四呎)探勝に向ふ。此辺はロッキー山脈中最も奇勝に富む所にして、釣橋の空に架れるあり、奇巌の天を摩するあり、殊に雪後の快晴に乗じて、此の絶景を賞す、相顧みて快哉を叫ばざる無し。斯くて午後一時五十分テンネッシイ・パス(一〇、二四〇呎)に着す。是れ我が列車が過ぐる該山脈中の最高地なりとす。夫れより又漸次降りてマインタアン(七、八二五呎)ニューカッスル(五、五六二呎)ランド・バレイ(五、一〇四呎)等を過ぎ、薄暮に近づくも尚ほ車窓の観望飽く事を知らず、夜に入りては観覧車内グード教授の、ソールト・レーキ市及モルモン宗に関する講話あり。氏は又米国協会の寄贈に係る米国全図を各員に一葉づゝ配布せり。
十一月十七日 (水) 晴
 午前六時五分、カスチラを過ぐ、此辺の山腹には、太古の海岸なりし痕跡見ゆる由なれども、天尚ほ暗くして其実景を見る能はず、午前八時ソルト・レーキ市に着、知事ジョセフ・エフ・スミス氏、其他官民の出迎を受け、直に自働車に分乗し、モルモン教会々堂に至る。正面に巨大なるパイプ・オルガンあり、一同の着席するや、先
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づ寺院管長の歓迎の辞あり、マグレラン氏のオルガン弾奏に次で、邦語君が代の独唱ありて後ち、一同寺院を辞し、市中を巡覧すること約一時間、十時再び列車に帰る。
 午後四時頃より、観覧車にてエリオット氏の大統領選挙に関する講話あり、夫れより、オグデンに向ふ。途中有名なるソルト・レーキ(塩水湖)を過ぐ、湖水は塩分強きが故に、魚類の棲息に堪へず、又た船舶の往来せることも見ず。湖上を過ぐれば、更に広漠たる不毛の広原に出づ、此辺太古は湖底なりしと云ふ。午後一時五分オグデンに着、暫時停車。在留日本人の来訪するもの多し。
十一月十八日 (木) 晴
 午前十一時サクラメント停車場に着、当市は加州政庁の在る処なれども、僅に数分間停車して、来訪の同胞に接見し、直ちに出発す。正午より午後にかけて我特別列車は、ロッキー山脈と沿海山脈との中間を馳す、此両山脈間にサクラメント・ヴァレー及サンノゼ・ヴァレーの二平原あり、真に一眸千里の沃野にして、特に葡萄の栽培に適す。而して此二平原の十分の八は、同胞の手に依りて耕作収穫されつゝあり。中には自ら土地を所有するも在り。土地を数年間租借せるもありて、其間に有する同胞の潜勢力は、真に動すべからざるものありと云ふ。
 午後五時頃デルモント着、一同自働車又は馬車にて沿岸の絶景を探り、後デルモント・ホテルに入り、随意浴を採り、晩餐を喫す。同九時半再び列車に搭じ羅府に向つて発す。夫れより森林を過ぎ、海岸に出づるや、白砂緑樹と相映じ、古木奇岩と相俟つて、風景頗る佳なり。殊に此沿岸は遥かに祖国と聯れる、所謂太平洋なるが故に感慨殊に深きものあり、先にデンバァにて別れたる中野・南・渡瀬氏等は、今日デルモントにて又一行と会す。
    第四節 ソルト・レーキ市概況○後掲ニツキ略ス
    第五節 ロスアンゲレス市
十一月十九日 (金) 晴
 午前七時三十分頃サンタ・バルバラに着、一時間停車す。当地は石油原油産地として有名なる処なるが、海岸の風光又殊に美はしく、夏期は避暑客を以て満たさるゝと云ふ。漸次南方に向へるが為め、気候頗る温暖を覚え、満目の花木、我が晩春初夏の観あり。
 正午ロスアンゲルス停車場に着。歓迎委員及羅府日本人会員有志者の出迎あり、停車場裡に略式接見を為し、同卅分、一同は他の列車に搭じ、直にサン・ピデロ港に向ひ、小蒸汽船に便乗して、防波堤及其他港内の設備を見物す。サン・ピデロ港は、ロスアンゲレスと相俟つて繁栄をなすもの、浚渫の後は桑港を凌駕するの港湾たらんとす。午後四時半再びロスアンゲレスに帰り、ホテル・アレキサンドリヤに入る。
 此日渋沢男・紫藤二氏は、微恙ありて港湾廻覧に参加せず、停車場より直にホテルに入る。
十一月二十日 (土) 晴
 午前八時二十分歓迎委員の案内にて、一同特別電車に乗り、市外パ
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サデナの勝区を過ぎて、マウント・ローに向ふ。同所は海抜五千呎の高地なるが、特種の登山電車を設けたれば、急坂を登り崖頭を廻りて、容易に絶勝を探ぐるの便あり。一望千里、実に今回旅行中の快事たり。山腹に「アルパイン・タベルン」と称する小旅館あり、一行は此処に小憩し、再び電車にて帰る。正午十二時商業会議所に立寄り、一般公衆に対する接見会に列し、商品陳列場を参観し、更にカリホルニア倶楽部に赴き、午餐の饗応を受く。午後二時同倶楽部を辞し、電車にてホリーウードを過ぎ、石油田を巡覧し、午後五時半ホテルに帰着、午後七時半よりホテル内に於て盛大なる晩餐会あり。席上商業会議所会頭ブース氏の歓迎演説あり、渋沢団長は不例の為め、今夕の招宴に列せず、中野氏代つて代表的答辞を述ぶ。
 尚今夕の宴席には余興として伊太利人の唱歌及舞踏などありたり。
十一月二十一日 (日) 晴
 午前中特に定められたる順序なきも、パサデナ農園地方巡回希望の者は午前九時半自働車にてホテルを発し、午前中之を見物す。午後二時一同は出迎の自働車に分乗し、市内公園・住宅区域を巡覧し、三時半より青年会館及婦人青年会館を訪ふ。会長レッツ氏以下会員の主催により、伊藤公哀悼会を開く、神田男の演説あり。午後六時日本人会の招待に応じ、一同日本人倶楽部に赴き同胞開催の晩餐会に列す。午後八時解散後、「エルクス」館に演説会を開く。弁士中野・西村・大谷・上遠野及巌谷の諸氏、同胞の聴衆約二千人。此夜乗車羅府を辞す。紫藤章氏病を以て此地に留まる。高辻・南・渡瀬・神野の四氏は、接伴員オスボーン氏の紹介を以て、此地よりインペリアル・ヴァレーなる農業地の実地調査に向ふ。
    第六節 ロスアンゲレス市概況○後掲ニツキ略ス
    第七節 インペリアル・ヴァレー視察記○後掲ニツキ略ス
    第八節 サンデアゴ市
十一月二十二日 (月) 晴
 午前七時サンデアゴ市に着、九時四十分一同出迎の自働車に分乗して市内を巡覧し、疾走拾数哩、ポイント・ロマに向ふ。同地はサンデアゴの北方に突出せる岬角にして、左方はサンデアゴ湾、右方は太平洋に臨めり。其岬端に無線電信所あり。即ち其傍に下車して四方の風景を賞す。眼下の海峡を隔てゝコロナド町あり、人口千五百有余、サンデアゴ市の南方拾数哩の地より、一条の長堤を以て連続す、恰も我が天の橋立の如し。十一時頃神智教附属学校ラジヤ・ヨガ学院を訪ふ。神智教は普通基督教と大いに其教旨を異にし、真の信仰は他の説教、若くは聖書などより得らるゝものに非ず、己の心の光明より発するものなりと云ふに在り。現今ティングレー夫人、鋭意熱誠以て本山を主管し、小中大学を其構内に設け、四海同仁を以て本旨とし、子女の教育を事とせり。有名なる運動器具商スポルディング氏の如きも、同宗の熱心なる帰依者にして、現に構内に清洒を極めたる一屋を作りて居住し居れり。一行は先づ同校大会堂に於て、校長ティングレー夫人其他職員諸氏に接見し、それより中央なる円形の会堂に入る。君が代の奏楽の後テツヲ・ステヘンソンな
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る日本少年、邦語にて歓迎の辞を朗読す。同人は横須賀造船所技師ステブンソン氏の養子にして、四十一年秋頃単独渡米して同校に入りし者なりと云ふ。それより少女生徒の舞曲数番の後、幼年生の算術・地理・綴字等の学術試問あり。席上神田男は一行を代表して謝辞を述べしに、校長ティングレー夫人は最後に立て、自分は七年前日本に遊びし事、其際日本の文明の大に進歩し居れるに驚くと共に日本人には一種卓越せる精神あるを見出せし事、其の精神は即ち四海同胞、一視同仁の精神に帰著する事等を熱心に述べたり。同院を辞し、直ちに隣家なるスポルディング氏の住宅に於て茶菓の饗応を受け、それより同校構内の寄宿舎及び校長の住宅等を訪ひ、正午頃漸く辞して同所を去り、更らに市街を縦断してコロナドに渡り、行くこと一哩余、コロナド・ホテルに入り、先づ一同紀念撮影の後、大広間に於て商業会議所主催の下に午餐を饗せらる。同ホテルの支配人なるクレートン氏司会者となり歓迎の辞を述ぶ(同氏は昨年太平洋沿岸商業会議所員と共に来日せし一人なり。次に市長コナルド氏は曰く『我が市は太平洋沿岸中極南の良港にして、洋を隔てゝ日本と最も近く隣れる地なり、此故に当市の繁盛に赴くは、即ち両国の福利を増加するものなり』云々、次に中野氏は団長に代りて謝辞を述べ、且つ千九百十五年に当地に開かるべき、パナマ開通紀念博覧会には、是非参加せんことを、今より予め約し得べき旨を述べて大に喝采を博したり。商業会議所会頭ダビトソン氏は、歓迎文を朗読し、次にマッキンレー内閣の大蔵大臣たりしゲージ氏は、老躯を提げて、立て快活なる歓迎演説を為し、最後に永井領事は曩に我が練習艦隊寄港当時の好意に対し、謝辞を述ぶ。かくて夜に入り列車に帰る。
 午餐会上朗読されたるサンデアゴ商業会議所正式決議文左の如し。
      日本実業団歓迎の辞
  カリフォルニア州サンデアゴ商業会議所は、合衆国の西南端なる此港に、諸君来訪の光栄を謝し、諸君の滞在の愉快ならんことを希望す。
  大日本帝国と北米合衆国との間に存立する交誼の関係は、最も満足すべき状態にあり。此両国民の間に存立する友誼と厚意が、更に一層鞏固ならんことは吾人の熱心なる希望なり。
  吾人は又、両国間の貿易関係は更に増進し得べきこと、又増進せざる可らざることを信じ、之れが為めに必要なる手段を講ぜざるべからずと信ず。
  吾人は諸君の健康・幸福・繁栄及び帰航一路の平安を祈る。
         サンデアゴ商業会議所会頭
            シー・ダブリユー・デビトソン(手署)
         書記     ヂヨン・エス・ミルス(手署)
 又、ポイント・ロマなるラジヤ・ヨガ学団に於ける歓迎文は左の如し。
  日本実業団諸君、四海同胞及神智教会の師長カザリン・ティングレー及ロマ・アイランドの学生・父母・教員・生徒は、日本の著
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名なる紳士淑女を、我麗はしきホームに歓迎す。
  此地は四海同胞及神智教の国際的本部にして、世界殆んど総ての国より、代表者此処に参集し、相協力して、人道の進歩、平和及世界各国及人民の和親の為めに尽さんとす。
  神智教の開祖ヘレナ・ピー・フラバッキー曰く
   「神智教は人種的及国民的の反感及障壁を撤去し、四海同胞の主義を実現すべき道を開かんとす。此教に因り、将又此教が、近世人の頭脳に会得せしむるに努めたる手続に因り、西洋は東洋の真価を理解し、之れを賞美するに至るべし」と
  開祖第二世、即ちフラバッキー夫人の後見たりし、ウヰリアム・キユー・ジャッジ曰へり
   「此神智教の大主義は、全人類をして効力ある一致をなさしむることに存す。此教や種族の為めに尽すべきものにして、自己の為めに尽すべきものにあらず、又東西両洋に渉る人類合同に最も効果ある教旨を鼓吹し、人と人との関係を改良し、援いて終には真の四海同胞を実現するの、公明なる成算を有するものなり」と
  現教主カザリン・ティングレーは曰く
   「吾人をして宗派の別及び独断(ドグマ)を棄てゝ、広く兄弟として一致せしめよ、他人の状況を改善すべく努め、相互に人道公益の為めに努力せよ、古き時代は今を去りつゝあり。我等は今新時代の無限なる将来と相面して立つ」と
   一九〇九年十一月二十二日
    第九節 サンデアゴ市概況○後掲ニツキ略ス
    第十節 リバァサイド、及レッドランド、グランド・キヤニオン
十一月二十三日 (火) 晴
 昨夜半列車は再び北方に回進して、リバーサイド市に着す。午前八時停車場に於て出迎の日本人との接見あり。同地日本人会長菱田峰次郎氏の歓迎の辞に対して、中野委員長答ふる処あり。午前八時四十五分商業会議所より廻されたる、二台の特別電車に分乗し、数町にしてグレン・ウート・ホテル前に少時停車す。同ホテル支配人ミラー氏は、現に商業会議所会頭なる由にて、已に歓迎の設備ありしも、時間の都合に依り立寄らざりしは遺憾なりし。夫より市外に出で柑橘園を左右に眺めつゝ、行くこと数哩にして「シヤーマン・インスチツート」と称する土人学校に至り、大講堂に入りて、土人男女生徒数百名の唱歌を聞き、後、建物階段前にて紀念撮影を為す。同校は米国政府の経営に係り、専ら土人(即阿米利加印度人)の教育に従事する者にして、現今男女生徒五百余名ありと云ふ。十時二十分列車に帰り、同十分レッドランドに向つて発す。
 午前十一時四十分レッドランドに着、直ちに数台の馬車に分乗し、先づ市内巡覧の後スマイレー氏の私園に向ふ。同氏は紐育州に「モホンク」湖を開拓したる博愛主義の人にして、頗る公共心に富み、冬期中此市に来住する縁故を以て、当市の為に図書館・青年会館・
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公園等を寄附せし事あり。其私園は周囲約七哩に達する丘陵にして現に公衆に開放せられ居れり。元来禿山なりしを、植木採集に熱心なる氏は、三十五哩の遠方より水道を引き、まづ土壌を潤し、それより各種の植木を培養せしに、何れも見事に繁殖して、遂に現今の如き美観を呈するに至れり。午後一時カサロマ・ホテルに入り、同市商業会議所の饗応にて午餐を認め、後直ちに列車に帰り、二時発車グランド・キヤニオンに向ふ。
十一月二十四日 (水) 晴
 レッドランド市を出て後、一・二時間は沿道柑橘樹其他の樹木鬱蒼たりしが、やがて高原に入るや、殆んど丈余の樹木を見ることなく朝来諸所に降霜を見る。午前九時頃グランド・キャニオン行鉄道の分岐点ウイリヤムスに着す。此所にサンタフェーという旅館あり。恰も館内に労働せる同胞四名より、ホテル及風景絵葉書六十組を寄贈さる。正午頃、グランド・キャニオン停車場に着、車内に昼食の後、正面なるホテル・エルトバールに入る。同ホテルの側面は、即ち天下の奇景グランド・キャニオンなり。一同巌頭に立ちて之を眺む。恰も死せる噴火孔の如き巨渓にして、其巾十八哩、周囲は二百十七哩、深さは四千呎より六千呎に達すと云ふ。斯く驚くべき凹処の出来たるは、原因詳ならずと雖も、按ずるに其昔大洪水のありて土砂若くは破壊し易き岩石を洗ひ去りたる結果ならんか、現に渓底に小流ありて、今尚ほ土砂を流しつゝあり。一同は四頭曳の馬車に乗り、或は馬背に跨りて、山上に定められたる展望所を東西に渉猟し、午後四時半頃ホテルに帰り、午後六時より一同晩餐を共にす。
 午後八時ホテル前の「ホッピー・ハウス」なる土人の家屋にて、土人の舞踏あり、一同之を見物す。午後九時一同列車に帰り、同九時半オークランドに向つて発す。先にニュー・オルレアン地方に向へる日比谷・飯利二氏は、此地に帰来して本団と会す。
十一月二十五日 (木) 雨
 午前一時頃バースト駅に着、同地在留の同胞より、絵葉書九拾余枚を寄贈せらる。午後四時ベーカースフィルドに着、雨中を冒して数十名の日本人歓迎に来り、同地日本人会長、仏耶両教会教師等総代となりて、渋沢男に面会し、歓迎の辞並に答辞あり、十数分にて此地を発す。当地は加州油田の中心なり。午後三時より、観覧車に於て桑港領事永井松三氏の「加州と日本人排斥」と題する講演あり。(大要後に採録す)


渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第五五六―五五七頁明治四三年一〇月刊(DK320012k-0008)
第32巻 p.315-316 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第五五六―五五七頁明治四三年一〇月刊
 ○第三編 報告
    第三章 感謝の決議
○上略
      第五 プルマン使用人に対する分
千九百九年十一月二十四日汽車進行中
 日本渡米実業団特別列車食堂車「アメリカ」号車掌イー・エツチ・ブラウン殿、日本渡米実業団特別列車プルマン宮殿、客車事掌エフ・
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エス・リスゴー殿(各通)
 拝啓、日本渡米実業団員は、合衆国三個月間の旅行中に、吾人の健康愉快の為めに、貴下が配慮の周到なることを認識す。旅行中各地のホテルより日本列車に帰る度に、吾人は常に「我が輪上の家」に帰来するを喜びたり。今此愉快なる住居を去るに当りては、母国に於ける我等の家庭にあらざれば、今将さに失はんとする愉快を補ふに足らざるべく候 敬具。
                   男爵 渋沢栄一
○下略


東京経済雑誌 第六〇巻第一五一七号・第九六四―九六五頁明治四二年一一月二〇日 ○渡米実業団消息(DK320012k-0009)
第32巻 p.316 ページ画像

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渋沢栄一書翰 佐々木勇之助宛 (明治四二年)十一月九日(DK320012k-0010)
第32巻 p.316-318 ページ画像

渋沢栄一書翰  佐々木勇之助宛 (明治四二年)十一月九日(佐々木勇之助氏所蔵)
          (後筆)
          「十二月二日入手 佐竹源三氏持参」
 - 第32巻 p.317 -ページ画像 
拝啓、爾来益御清適御坐可被成奉賀候、貴方再三之尊書ハ其時々落手披見仕候も、日々各地巡回之日程繁忙を極候為め、殆ント寸暇無之、終々来書ニ対し相当之拝答も出来兼、偶々執筆之場合ハ、所謂思出之儘随筆的之拙書差出申候、御海容可被下候、実業団之旅行も最早四分三ハ相済、余す処ハ五十九箇所中十九箇処と相成申候、詰り本月三十日ニハ是非とも桑港ニて地洋丸ニ乗組候筈ニ付、十二月中旬ハ東京ニて拝眉と相楽罷在候
本店及各支店とも、営業上相替候義ハ無之候哉、先般伊藤公之凶変ニ付而ハ、韓国支店之営業ニ何か影響無之哉と、懸念仕候、併政事上別段変化せし新聞も無之ニ付、経済界も同様と安心仕候、小池氏へ之来電を申伝候処ニてハ、公債ハ引続き直段宜敷由、然時ハ金利ハ矢張低下ニて預金等ニも異状無之と存候
東洋汽船会社之義ニ付而ハ、過日も申上候如く、浅野・白石・大川等より何等之消息も無之候、只先頃紐克ニて正金支店長ハ、シフ之取引ハ期限之如く皆済と被申候ニ付、聊安心仕候まてニ御座候、月末桑港ニ於て暫時ニても同支店之現状承合、何か心附候義ハ、帰京後申上候様可仕候
此度之旅行ハ実業団之代表者と申位地ニ付、何等自己之用向ニハ立入不申候、右ニ付銀行事務抔も各地ニて諸銀行一覧いたし候も、只見聞ニ止め、他之引合等一切相試不申候、是ハ位地ニ於て不得已次第、御諒恕可被下候
偖一事申上候義者、此度米国政府より一行へ附添として、シヤトル着之頃より同伴せしグリインと申人、米国政府之都合ニよりてハルピン領事と相成、明後日頃ニハ一行を離れ、晩香埠より之汽船ニて日本ニ着、一・二泊東京ニ滞在之後赴任之由ニ候、依而東京ニ於て、外務省之人と民間実業家との申合ニいたし候歟、又ハ民間のみとする歟、一送別会相開き、同氏之出立を御見立被下候ハヽ、当地之一行も面目相立候義ニ候、右ハ篤二ヘハ、書通不仕候得共、外務省之石井氏へ詳細ニ申通候、何卒御聞合被下、又商業会議所ニてハ大橋氏へ宛中野氏より申通候筈ニ付、是又御打合被下、至急ニ其御手配有之度候、但一夕之宴会ニ過きさる事ニ付、格別経費之問題も有之間敷と存候、右ニ付而ハ佐竹氏之令息此便ニて帰京之由ニ付、委細申談置候、御聞取之上何卒臨機之御取斗可被下候、右当用可得貴意如此御座候 不宣
  十一月九日
               インヂヤナホリス市ニ於て
                      渋沢栄一
    佐々木勇之助様
          梧下
尚々本文ニ付而ハ、石井次官と大橋氏ニ御打合之上、他之同業者等へも御相談被下候様願上候也
佐々木勇之助様 親展 渋沢栄一
 - 第32巻 p.318 -ページ画像 
十一月九日認 インヂヤナホリスニ於て


渋沢栄一書翰 佐々木勇之助宛(明治四二年)一一月一九日(DK320012k-0011)
第32巻 p.318 ページ画像

渋沢栄一書翰 佐々木勇之助宛(明治四二年)一一月一九日(佐々木勇之助氏所蔵)
                   (ゴム印)
                    「十二月拾壱日」
其後御清適奉賀候、老生無事今日ハ旅程加州ニ入りて当ロスアンゼルスニ到着仕候、此地ニて両日を送り、更ニ南下してサンヂヱゴニ掛り再ひ北向桑港ニ掛り、本月三十日ニハ必す地洋丸ニ乗組候筈ニ御座候
故ニ、当方より之出状ハ今回ニ止りハ《(マヽ)》、来月中旬ニハ帰朝之上拝眉万話之積ニ候、各地歴遊之状況ハ中々書中ニも相尽し兼候ニ付、帰京緩緩可申上候、随分色々と快然たりし事、困難と感せし事、面白き事、面倒なりし事等枚挙ニ遑無之候間、他日西窓夜雨ニ燭を剔りて、更を重ね候義も有之可申候
先日一書を以て佐竹氏ニ托し候分ハ、御落手之事と存候、右書中申上候一行東京帰着之際取扱方ニ付而ハ、定而大橋君又ハ篤二抔ニも御打合被下、恰好之御手配被下度候、実ハ大橋君へ老生より一書進呈とも相考候得共、既ニ中野君より申上候義ニ付相略申候、賢台より可然御伝声可被下候
帰朝之便船ハ地洋丸と相定め、既に桑港より一名之社員デンバー市迄罷越、夫々手筈相付申候、右ニ付而も東洋汽船会社之近況承合候処ニてハ、桑港ヘハ何等之訓令も無之由、又出立後浅野・白石・大川等よりも音信不通○中略過日も紐克より申上候如く、米国より之債務完済ニ付而も、多分当方之助力ニて相済候事と存候、且老生出立之際桑港よりヱブリー氏も出京之由ニ付、其相談之模様及会社爾来之状況等ハ一寸なりとも申越候筈之処、寸筆隻紙たも無之ハ、全く会社ニ不忠実と論断候外無之、帰国之上篤と御相談可申上ニ付、御含置可被下候
其後金融ハ如何ニ候哉、先便ニも申上候韓国之近状別ニ心配之義ハ無之哉、兎ニ角来月中旬ニハ拝眉相伺候も、懸念之余一応申上候、右匆匆可得貴意如此座候 拝具
  十一月十九日         ロスアンゼルスニ於て
                      渋沢栄一
    佐々木勇之助様
          梧下
尚々日下君より之来示拝見仕候、別ニ御返事差出不申候、宜御伝声可被下候、他之諸君へも御申添頼上候也
佐々木勇之助様 渋沢栄一
十一月十九日 ロスアンゼル市 アレキサンドリア・ホテルに於て

 - 第32巻 p.319 -ページ画像 

渋沢栄一書翰 穂積陳重宛(明治四二年)一一月一九日(DK320012k-0012)
第32巻 p.319 ページ画像

渋沢栄一書翰  穂積陳重宛(明治四二年)一一月一九日  (穂積男爵家所蔵)
爾来毎々之信書被下、其時々落手拝読いたし候も、日々多忙真ニ寸暇を得す、乍思御疎情ニ打過申候
米国各地巡回之概況ハ、一・二回篤二まて申通候ニ付定而申上候事と存候、尤も貴方新聞紙にも時々記載之事と存候ニ付、御承知可被下候
○中略
実業団之行程も、最早九分通り相済ミ、当ロスアンゼルス市ハ明日ニて打上ケ、従是サンヂヤゴニ罷越し、更ニ北向して廿六日ニハ桑港着三十日ニハ無相違地洋丸乗組之都合ニ御坐候、到処之饗応と演説と、工場其他之見物ニハ、随分困難と申位ニ候、幸ニシヤトル市より今日まて四十五・六ケ処、一回も欠席なく勤続せしハ、自分なから驚入候位ニ御坐候、果して両国将来之交誼ニ親善を増し候哉否難測候得共、各地之商工業、又ハ政事界之人々にも相応之良観念を与候事ハ自信罷在候、右等を以て老生最後之務と覚悟致候事ニ候、御諒察可被下候、右来示之御答まて匆々如此御坐候 不宣
  十一月十九日ロスアンゼルスニ於て   渋沢栄一
    穂積陳重様
○下略
穂積陳重様 ロスアンゼル市 アレキサンドリア・ホテル 渋沢栄一
十一月十九日


竜門雑誌 第二五八号・第四六―四七頁明治四二年一一月 △遥に弔意を表す(バルチモア十一月四日発電五日午後着)(DK320012k-0013)
第32巻 p.319-320 ページ画像

竜門雑誌  第二五八号・第四六―四七頁明治四二年一一月
△遥に弔意を表す(バルチモア十一月四日発電五日午後着)
 今朝スパロー・ポイントに在る大規模の製鉄所、及びオイスター・カンネリーを見物す、午餐会には前司法卿ポナパート氏・市長などの演説あり、何れもパナマ地峡落成の上はバルチモア・日本間には直接の航海通商を開かるべき事を希望し、懇切なる友誼を表せり、且つ伊藤公爵の薨去に対して何れも深厚なる弔意を表す、一同は今夕各所に於ける招待を謝絶し、静粛に旅舎に在りて、遥に伊藤公の葬送に対して弔意を表せり
△カーネギー製鋼所参観(ピツツバーク十一月六日発電)
 昨朝(五日)九時到着、直ちに特別仕立の汽車にてホームスチートに有名なるカーネギー製鋼所を観覧し、同所にて午餐を饗せらる、午後はウエスチンホース電機工場を参観し、夜は渋沢団長・各会頭水野総領事其他重なる者数十名同会社の晩餐会に招かれ、其後一同と共にカーネギー・ホールに音楽会に招かる、尚ほ本日(六日)は合衆国硝子製造所・ヘイツ缶詰工場等を参観し、午餐を饗せられ、夜はレセプシヨンに臨み、直ちにシンシンナチーに向ふ筈なり
 - 第32巻 p.320 -ページ画像 
△シンシンナチーの歓迎(シンシンナチー十一月七日発電)
 今朝(七日)シンシンナチーに到着、熱心なる歓迎あり、ワシントン以来各地とも数名の巡査を護衛として一行に附せしむるなど頗る歓待を極む、午前は旅館に休憩、カンツリー倶楽部にて盛大なる午餐会あり、市長ヒーキン氏歓迎の辞を述べ、渋沢団長の答辞あり、夫より一行は目下略落成に近き水道の設備を縦覧したるが、同水道は真に米国第一の名に恥ず、夜は旅館内にレセプシヨンあり、特に市中風景の幻灯を観覧す、終りて立食の饗応あり、猶今朝休憩中総会を開き、帰朝の当日東京商業会議所に於て渡米実業団の解団式を行ひ、後分散する事に決し、尚水野領事も主務省の許可ありたれば実業団と共に帰朝すべし
△特に熱誠なる歓迎(インデイヤナポリス十一月九日発電)
 我実業家は八日ルークウード陶器製造所を始め、各種工場・公立大学及び動物園等を参観し、夫れより商業会議所の歓迎式に臨み、席上、陸軍大佐ヴアイエン氏の歓迎の辞、渋沢団長・神田男爵の答辞あり、旅館にて午餐の饗応を受けたる後、私立育児院の少年音楽隊を先頭として、少年隊に護衛されつゝ市役所に赴き、ガルヴインの市長のレセプシヨンに臨み、警察署・消防隊の演習を参観し、夜はコロンビア劇場を見物し、其夜直ちに出発当地に来れり、シンシンナチーは現大統領タフト氏の郷里にして、特に一行の歓迎に熱心なりしことを認めたり
△セントルイ市の歓迎(セントルイ十一月十一日発電)
 十日聖路易に着、コンマース・ナシヨナル銀行及び有名なるシムモンス金物商会を参観、取引所にて接見会あり、午後は米国第一のブリウイング会社醸造所を見物し、夜は聖路易倶楽部に盛大なる晩餐会あり、席上帝国名誉領事にて商業組合会頭なるスミス氏を始め、前知事にして前の博覧会会頭にして前市長なるウヱルスの二氏は、何れも我旭日章を有せるが、頗る好意的演説をなし、特に前二氏の好意に対しては一行の深く感謝せる所なり、次に市長タレイスマン氏・製造業組合会頭ビータース氏等の演説あり、渋沢団長・神田男の答辞例の如く、十一日は織物・靴等の大工場を始め、花園印刷所等を観、印刷会社長レウイス氏の午餐会に招かれ、夫より大学・公園等を巡覧し、夜は当市第一の劇場オリピツク座を観覧、夜半直ちにカンサス・シチーに向へり(十一月十五日締切)


竜門雑誌 第二五九号・第四〇―四九頁明治四二年一二月 米国に於ける青淵先生の消息(承前)(DK320012k-0014)
第32巻 p.320-322 ページ画像

竜門雑誌  第二五九号・第四〇―四九頁明治四二年一二月
    米国に於ける 青淵先生の消息(承前)
△カンサス市の歓迎(オマハ十一月十三日発電)
 十二日カンサス市に到着、直ちに商業倶楽部に於てレセプシヨンあり、次に高等学校にて歓迎式あり、終つてエヴアンストン倶楽部にて午餐を済まし、織物卸売商会・国立銀行・農具製造所等を巡覧し夜はバルチモアー・ホテルに晩餐会あり、商業会議所会頭ブランド市長クリデンダン両氏の歓迎辞あり、之れに対し、渋沢団長・神田男の答辞あり、フランシス氏は博覧会の例を引いて友情ある演説あ
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り、同夜オマハに向ふ、本日(十三日)商業倶楽部にて、晩餐会あり、有名なる大政治家ブライアン氏も出席し、一場の演説を試みる筈なり
△ブライアン氏の演説(デンバー十一月十四日発電)
 我実業団一行十三日朝ヲマハに着、知事シヤルレンバーガー・市長デイスルマン氏等の歓迎を受け、直にマツキン新式大電車に乗換へユニオン・パシフイツク鉄道電車工場等を見物し、水道工事のポムピング・ステーシヨンにて午餐を喫し、市内及美術品陳列所等を観覧す、夜に入ては商業倶楽部に晩餐会あり、尚有名なるブライアン氏夫妻は、曩に日本来遊中非常の歓迎を受けたるを多として、リンコルン市より特に接待の為め当市に来り、夫人は婦人側の歓迎を斡旋し、ブライアン氏は商業倶楽部の晩餐会席上、世界的友誼と題して大要左の如き演説を為せり、尚当夜は上院議員メンダー将軍・前上院議員ハルレン両氏の驩迎辞、渋沢団長の答辞ありたり
  余は近頃毒手に殪れ世界各国均く哀悼せる伊藤公爵を善く知れり又政敵たる大隈伯とも会見せるが、以上両大政治家の意見を聞いて、国利民福の大主義の前には党派の異同の竟に謂ふに足らざるを感じたり、凡そ確執の起るは畢竟双方の誤解に基くものなり、斯く日本国民の交誼を温むるは、既に親密なる関係を更らに親密ならしむる所以なりと信ず
  抑も貨物の輸出入に対しては、繁苛なる税関あれど、思想の輸出入には何等の制裁あることなし、今回賢明なる紳士諸君が米国より輸入せらるゝ所は、必ず貴国の福利に資する所、尠からざるべし、希くば今回の巡遊をして日本国家に齎らす所多からしめよ
  抑も世界各国は自国民の福利を保護すべき義務あり、現世界の趨勢は主として経済的見地に基き、世界の列国は漸く平和の世界たらんとす、故に我国は世界に率先して一大協約の提議者となり、国際紛議に先ちて仲裁会議を開くの得策たるを主張するも、決して空論にあらざるべし、更に喜ぶべきは人世哲学の進歩が近年特に顕著となり、此に由て戦争を未然に防ぐの傾向ある事なり、各個人が社会の進歩に由て自から益する如く、国民亦各国の発達に由て幸福を得るを期すべし、他人を損害して自個を利益し、若くは他国の衰頽に乗じて自国を強うするが如きは、決して策の得たるものにあらず、是れ蓋し、世界人類の均しく信ずべき真理ならずや
△デムバー市の歓迎(デムバー十一月十五日発電)
 十四日は五千尺の高原を過ぎて初雪を観、其夜デムバーに着し、日本人会の演説会に臨む、十五日は州庁に於て知事シヤフロス氏のレセプシヨンあり、後市役所、消防所、マニユアル・ツレーニング・コスト学校等を訪ひ、運輸倶楽部に於て午餐の饗応を享け、夫れより瓦斯・電気等の工場、貧児養育院・基督教青年会等を訪ひ、夜はブラウン・パレース旅館に於て晩餐会あり、席上知事・町長・スピーア氏等の歓迎の辞、団長及神田男の答辞あり、同夜直にソルト・レーキに向ふ、明朝はロツキー山を越ゆる筈、尚ほ今夜中野・加藤
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南・渡瀬・野田・本田の諸氏、分遣隊としてカルフオルニアに向へり、ロスアンゼルスにて再会の予定なり
△モルモン宗の歓迎(ローサンゼルス十一月十九日発電)
 十六日は終日列車内にてロツキー山脈中の絶景を賞し、愉快なる旅行を続けつゝ、十七日午前無事ソルト・レーキに着、彼の有名なるモルモン宗本山の歓迎を受け寺院管長スミス氏に会見す、夫れより市内及兵営等を観覧し、直ちに出発し、其途上サクラメント、サンジヨース等に立寄る予定なりしも、之れを省略して十八日午後四時デルモントに着、同地海岸の風光絶佳なる個所を撰びて、セブンチーン・マイルス・ドライブ試み、夜に入りてはデルモント・ホテルに立寄り、夫れよりローサンゼルスに向ひ、十九日午後同地着、直ちにサン・ペドロ港に赴き、汽船にて同港防波堤を巡覧、夕刻ローサンゼルスに帰り、アレキサンドリア旅館に入る、夜間は一同休憩せり
△伊藤公追悼会(ローサンゼルス十一月廿一日発電)
 渡米実業団一行は、廿日早朝より電車にて市外ローブ山に登り、五千尺の高地に絶景を賞し、下山後直ちに商業会議所のレセプシヨンに臨み、夫れよりカリフオルニア倶楽部にて午餐を饗せらる、午後はオイルフヰールド癈兵院を訪問し、夜はアレキサンドリア旅館に盛大なる晩餐会あり、席上商業会議所会頭ブース氏の歓迎演説、神田男爵の答辞演説等ありて、頗る歓待を極む、渋沢団長は少しく不快の為め欠席す、今日は日曜日に付随意に市内を見物し、午後基督教青年会の歓迎会に臨む、伊藤公の追悼会あり、夜に入りては日本人会に臨みて、中野・西村・大谷・上遠野・渡瀬等諸氏の演説ありたり


Kansas City Star Vol. 29, No. 350. Thur., Sept. 2, 1909 WHEN JAP EMISSARIES COME Elaborate Entertainment Planned for Forty-Six Commissioners in November(DK320012k-0015)
第32巻 p.322-323 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

Kansas City Star Vol. 30, No. 51. Sunday, Nov. 7, 1909 JAP NOTABLES HERE FRIDAY(DK320012k-0016)
第32巻 p.323-324 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

Kansas City Times Sat., Nov. 13, 1909 LITTLE FORM FOR JAPANESE(DK320012k-0017)
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Kansas City Times  Sat., Nov. 13, 1909.
      LITTLE FORM FOR JAPANESE

       A DINNER AT THE BALTIMORE
        BROUGHT OUT CORDIALITY
    The Guests From the Land of the Rising
     Sun Were Not Lacking in American
      Ways and Chatted Readily
       With New Friends

  An evening of international cordiality was celebrated at the dinner given to thirty Japanese, including the members of the honorary commercial commissioners of Japan, by the commercial club in the Italian Room of the Hotel Baltimore last night. The arrangements were such as to give the members of the club and the American visitors an excellent opportunity to become acquainted with the keen little people from the Land of the Rising Sun. The three Japanese women of the party were entertained at dinner in another room by wives of the members of the club and afterward sat in the balcony of the banquet hall listening to the speeches.
    NOBODY WAITED FOR INTRODUCTIONS
  Cordiality was introduced over the caviare and cocktails in the anteroom of the dining hall. Nobody waited for introductions; these were effected by a simple handshake and an exchange of cards.
  "Let me introduce you to an American drink" was frequently the best interchange.
  "We have all kinds of American drinks in Japan," was the usual reply, after a discreet interval of politeness.
  The Japanese guests had nothing to learn in social customs. A carefully planned seating diagram was distributed before going into the dining room. Then W. T. Bland, president of the commercial club and toastmaster for the occasion, took Baron Eiichi Shibusawa by the arm and led the way to table. Every American was asked to take in one Japanese and find his place for him. But it happened more often the other way. The visitors had studied the diagram, figured out not only where their seats were but who was sitting next to them, without any helpful effort on the part of their guests.
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  Japanese and American flags, roses pink and chrysanthemums white and yellow were the decorations of the rooms. Guests and visitors wore the special badge of the occasion and some of the Japanese wore a number of other medals. Baron Shibusawa displayed the second class Order of the Rising sun: He was outshown―outshone rather―by D. R. Francis, Commercial Commissioner of St. Louis and Kansas City, who wore the first class Order of the Rising Sun, a broad white ribbon with red borders, across his shirt front.
        A SPECIAL YELL GIVEN
  The solemn strains of Kimigayo, the Japanese national anthem, were played by the band after Mr. Bland proposed the health of His Imperial Highness, the Emperor of Japan. It sounded like the dignified harmonies of some cathedral chant which made still more noticeable the national contrast of the special yell given immediately afterwards by the hosts of the everning:
    Rah! Rah! Rah!
    A-me-ri-ca!
    Nippon! Nippon!
    Banzai! Rah!
  The Japanese smiled with pleasure as this was repeated, substituting "Kansas City" for the second "Nippon".
  Following the toast Mr. Bland made a speech of welcome to the visitors which was repeated in Japanese by Consul General Mizuno. The speeches were also printed in Japanese and copies placed at each seat at the table.
  After a short address by Mayor Crittenden, Mr. Bland, raising his glass towards the balcony, where the women's party was sitting, proposed, "The Ladies of Japan and America." This was greeted with cheers, after which Baron Shibusawa made an address. His speech was translated by Motosada Zumoto, editor and owner of the Japan Times.
       TALKED THROUGH AN INTERPRETER
  "It is a matter of deep regret," the baron said, "that having been brought up under an old Oriental system of education I cannot talk to you without interpretation. I am greatly impressed by the friendliness of our reception to this beautiful city. Not less am I struck by the signs of energy and enterprise I have seen here."
  Same facts in this regard which Baron Shibusawa, probably out of politeness, omitted to state were supplied by Mr. Francis. He pointed out in the course of an interesting speech that Japan, with considerably less cultivable area of land, provides nourish
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ment for 50 million persons while Missouri supports 3 million. Baron Naibu Kanda also made an eloquent address in English. He complimented the club on permitting him to speak two hours before midnight instead of two hours after, as had been his fate in other cities.
  The Japanese party left for Omaha in their special train over the Burlington shortly before midnight.

       FEMININITY IN UNDERTONES

      A Chatty Dinner for Twenty-One Most
       Un-American in Its Lack of Clatter
  Ever hear a company of twenty-one women around one table and engaged in lively conversation? Yes, the wheat pit in a panic; that't《(s)》 it. Well, then, try to imagine twenty-one women at dinner and hardly one of them speaking above the lowest and sweetest of undertones, or laughing louder than the most enchanting and musical of gurgles. That occurred at the dinner at the Baltimore Hotel last night for the Japanese women accompanying the honorary commercial commission of their country. It was a chatty affair, but almost noiseless. At the dinner were three Japanese women and eighteen from Kansas City. If there had been twenty-one of them Japanese instead of three, their combined chatter would not have drowned out the flutter of a cherry blossom falling to the ground.
  For more than three months, since landing on American soil, the members of the commission and the five women who accompany them, the wives of four men of the commission and the companion of one of the titled ladies, have been dined until they can no longer care for pink and white ice cream. Yesterday they were entertained at a luncheon and a tea and had just time to change their kimonos to get back for the dinner at the Baltimore.
  Naturally, the first course of the dinner was grape fruit. "How many times have you been served grape fruit as a first course in America?" Somebody asked Madame Horikoshi. "I think every day," she replied simply, "at least when we were being entertained by your distinguished citizens."
  In polite society in Japan a point blank question is unknown. It was a Chinese envoy, not a Japanese, you remember, who asked every American woman he met, first, "How old are you?" and then "How many children have you?" The Japanese ask no questions. And yet the conversation of these adorable little creatures with American women they meet is limited almost
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 exclusively to questions and replies on the part of the strangers, and replies on their own. When their hostesses want to make the visitors feel at home they show interest by asking questions. Last night the visitors answered, smiling always, without the tremor of an eyelash.
  There they sat at the dinner, as picturesque as if they had just stepped off a painted fan, ladies of the decoration indeed. They tasted daintily everything that was set before them and smiled with a smile that seemed to say it was good.
  After four month's continual feasting, one would perhaps get used to anything.
  Mme, Midzuno, the wife of the consul general, who has lived a year in New York and adopted European dress upon her arrival here, returned to her kimono last night, in compliment to her hostesses, and recognizing her interest in her native costume. At the Country Club luncheon she wore a New York gown, cloak, hat and furs, but last night she was in a kimono of wistaria silk crepe, with a border in harmonious shades. She doesn't know what size her shoes are, but they look about member ones; last night she wore the straw sori《(zori)》 and tabi like her sisters of Japan. Her obi was handsomely embroidered and fastened to her back with a yellow brocaded sash. She wore the commercial club badge and on the third finger of her left hand was her wedding ring.
  "Is it your wedding ring?" she was asked. She laughed and blushed through her clear olive skin. "I am afraid it is an American custom I have pick up in your countree," she replied with engaging candor. "Wiz us, we wear no wedding ring. Yaz," she added with a little deprecatory gesture. "It is my wedding in America."
  Baroness Kanda and Mme Horikoshi were also in dinner dress; at least they had changed their kimonos since the afternoon. The Baroness wore a gray crepe, embroidered in yellow butterflies and with a conventional design in threads of gold.A pearl and diamond pin fastened the sash which held her gorgeous obi. Mme. Horikoshi was in a bright blue kimono embroidered in pink chrysanthemums. The wide sleeves of their kimonos were lined with contrasting colors, and they all wore the white brocaded silk eri―folded neckcloths inside their kimonos, the white edge just showing at their throats. When toasts were proposed the Japanese women raised their goblets to their lips, hardly tasting. Toasts were drunk to the Empress of Japan and to the women of Japan, the Kansas City women proposing them. Not to be outdone in politeness―the Japa
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nese can't be outdone in politeness―the Baroness Kanda, the ranking lady of her party in the absence of Baroness Shibusawa, who was ill yesterday and unable to leave her car, proposed a toast to the President of the United States.
  From time to time a delegation of men from the commercial club dinner in the banquet room adjoining interrupted the gossip of the women's dinner by bringing the distinguished members of the commission in to speak to them. Baron Shibusawa, Baron Kanda and interpreters came first. Baron Shibusawa, who speaks little English, addressed the party first in his own tongue. What he really said may never be known, but what Baron Kanda, a college professor of Tokio, whose Enghish is flawless and who interpreted for him, adding a few compliments on his own account, announced that he had said was as urbane, as polished and as courtly as could be imagined.
  Other members of the commission and Governor Francis of St. Louis addressed the party. Across his manly bosom Governor Francis wore the decoration, scarlet and white, presented to him by the Emperor of Japan in recognition of his services as president of the Louisiana Purchase Exposition.
  "Isn't it a relief to get back into your charming native costume after our impossible style of dress?" was one of the questions asked Mme. Midzuno.
  "Oh, no," she replied promptly. "I like mooch better your American dress. It is so much freer and more comfortable." And she said it so earnestly, so sincerely. Just an instance of the perfect Japanese politeness.
  "How many children have you?" Baroness kanda was asked. "Oh,I have many," she answered. "I var' large family."
  Then seeing that it was useless to attempt to elude the query gracefully she replied: "I have eight, madam. Four sons and four daughters."
  When the dinner had finished the women went up to the balcony of the main banquet room to listen to the speeches of the commercial club dinner at which their husbands were being entertained. Copies of the speeches in Japanese were furnished the three guests of honor. When the orchestra played "America" the Japanese members in the banquet room and the ladies of their party in the balcony above stood with their hosts and hostesses and actually joined in the singing.
  And when they left their American hostesses they really seemed reluctant. "Charming evening," said Mme. Midzuno, and she smiled in a way that can't be forgotten.
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  The American hostesses were:
  Mrs. E. M. Clendening, Mrs. W. T. Bland, Mrs. Fred Fleming, Mrs. J. C. Swift, Mrs. Frank Moss, Mrs, Leon Smith, Mrs. Henry Allen, Mrs. John Townley, Mrs. William Moses, Mrs. D. M. F. Weeks, Mrs. W. B. Hill, Mrs. Thornton Cook《(Cooke)》, Mrs. Jay H. Neff, Mrs. F. D. Crabbs, Mrs. F. P. Neal, Mrs. H. B. Topping Mrs. John Ransom.

     P.O.P. GIFTS TO THE VISITORS

      Each of the Women in the Party
         Received a Souvenir
  The Priests of Pallas sent one of their souvenirs of this year to each of the five women in the Japanese party. The souvenir is a handsome cloth brush.


Commercial Club pp.4-8. Dec. 9, 1909 ENTERTAINMENT OF THE HONORARY COMMERCIAL COMMISSIONERS OF JAPAN(DK320012k-0018)
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Commercial Club  pp.4-8. Dec. 9, 1909.
    ENTERTAINMENT OF THE HONORARY
      COMMERCIAL COMMISSIONERS
          OF JAPAN
  The Commercial Club has, during past years, entertained many distinguished and interesting personages, and these guests have gone away with a most generous feelling of pride and delight in the greetings and hospitality extended to them. When it was announced that the Honorary Commercial Commissioners of Japan were coming to visit us the General Secretary and his associates anticipated a genuine treat in entertaining the little brown men of the Orient. However, it was with some trepidation that they prepared the plans in face of the fact that so few of the Commissioners could speak English. However, it didn't take the entertainers long to find out that a lack of knowledge of the English language was of very little bother to the Japanese, for they were adept in understanding "signs", especially certain "signs", and they could go to their entertainers, one, two, three, when the "high sign"was made.
  The story of the visit of these wide-awake Commissioners embrace many interesting events as well as instructive features for our own people. They never let an opportunity pass to find out the "how" and the "why" of everything shown and every place visited. There were in the party quite a number of expert sketch artists and architects, and every place visited these artists would seemingly divide this work among themselves, each taking a part, and in this way they would secure the whole plan.
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  The most striking feature about them was their extreme politeness and delicacy of thankfulness for every courtesy extended. They were also fearful of intruding, and would have to be asked before advancing.
  Friday morning the fifty-eight commissioners arrived in Kansas City on a special train of nine cars, which were parked at the foot of Twelfth Street. The Commissioners remained on their train except while they were being entertained. Ex-Governor David R. Francis of St. Louis, accompanied the Commissioners to Kansas City as the special escort and commissioner representing the Kansas City commercial Club, and materially assisted in the functions of the day.
  Baron Shibusawa, head of the party of Japanese, while standing on the rear platform of the observation car of the special train, near the depot, and waiting for the entertainment committee said, "We have brought a message to the people of America. Before our people left Japan all of the principal commercial bodies held special meetings and adopted resolutions embodying the spirit of lasting friendship in Japan for the United States. We have found that feeling is fully reciprocated here. We have been overwhelmed with kindness and hospitality." Waving his hand toward the string of motor cars and the party that was waiting to do him and his party honor, he further said: "There―there, you see it: we have been in America since September 1st, and have been travelling over all your vast country, from the Pacific to the Atlantic, and half way back again, and everywhere we have been honored as we are being honored in Kansas City to-day. We are charmed by the cordiality of your greeting. We expected, of course, to receive a cordial greeting in your country, but the welcome extended has been greater than we looked for. The chief object of our visit is to study the industrial and business institutions of this country, with a view of seeing what articles can be exchanged profitably between the two countries; but in addition to that, we desire so far as it lies in our power, to cultivate an even closer bond of friendship than that which now exists between the United States and Japan."
  The Commissioners were then taken in charge by the reception committee and escorted to the Commercial Club, where an informal reception was extended to the Commissioners and which was participated in by the business men of Kansas City, and which was one of the largest of the kind ever held. In the club rooms the Japanese formed in line with W. T. Bland, the club president at their head, by his side stood Baron
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 shibusawa, Baron Shibusawa does not speak English. M. Zumoto, owner of the Japan Times, Tokio, stood at his side and interpreted for him. Next to Mr. Zumoto was Baron Kanda.
  The Commercial Club rooms presented Oriental gorgeousness and Oriental splendor in the mingling and co-mingling of the national colors of the United States and Japan and a beautiful and magnificent flower display.
  After the close of the reception at The Commercial Club rooms the party re-entered automobiles and were taken to the Westport high school at 11:30 o'clock. As the Japanese and escorts entered the assembly hall the pupils arose and remained standing until the visitors reached the stage; then the children sang America. Professor S. A. Underwood, principal of the school, introduced C. D. Mill, who in turn introduced Baron Kanda. The Baron delivered an adress, speaking of education in Japan. One striking thing he said was that every child above six years of age was compelled to learn to speak and read English, saying that they recognized that the English language was the universal language and that they desired their people to be so equipped as to sustain themselves wherever they may be placed. In conclusion he told the children that the world was growing smaller as civilization advanced, and that he expected to meet some of them in Japan in the very near future. The Commissioners then inspected the industrial work of the school, and several gymnasium classes gave exhibitions which were highly enjoyable to the visitors.
  The party left the school for the Evanston Golf Club at 12:30 o'clock. When leaving the building, Baron Kanda, who himself is an educator and president of the Peer's College of Japan, told professor Underwood that the Westport high school far surpassed anything he had so far seen.
  Upon arrival at the Evanston Golf Club a buffet luncheon was served and the "high sign" indulged in to the amusement of quite a number of the entertainers. An automobile ride was then taken over the boulevards and through the cliff drive. On the way to the depot the Commissioners were taken to the Burnham-Munger Mfg. plant on West Eighth Street, where quite a time was spent in investigating not only the system of the work, but the machinery used in the plant. It was interesting indeed to watch the artists in the party make sketches of the different rooms and the processes of manufacturing goods. The Japanese seemed to be especially impressed with the Fitz overalls, and also certain lines of shirts manu
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factured by this company. On leaving each one of them was presented with a miniature Fitz suit. Afterward they went to the Kingman-moore Implement Supply House, where the Commissioners were entertained by the members of the Western Retail Implement & Hardware Dealers' Association, where they were shown different kinds of agricultural implements in actual operation. Then they returned to their train for preparation for the banquet at the Baltimore Hotel. An hour before the banquet at the Baltimore Hotel was called, the Commissioners had been re-escorted from their train to the reception hall, where a general co-mingling of the Commissioners and their entertainers took place and a cordiality of international amity was celebrated, and again the Japanese distinguished themselves in all the niceties of social intercourse. It was not necessary to wait for an introduction, because the Japanese were as ready to entertain as to be entertained.
  A diagram of the banquet hall had been prepared and every American was asked to take in one Japanese and find his place for him, but in the interim before entering the dining hall the visitors had studied the diagram out themselves and did not only know their own seats, but knew the names of the entertainers on each side of them. So, of course, everything so far as the seating was concerned, was done up in strict style. The Japanese and American flags, roses pink, and chrysanthemums white and yellow, were the decorations of the rooms. The guests and visitors were provided with special badges and some of the Japanese wore a number of other medals. Baron Shibusawa wore the second class decoration of the "Order of the Rising Sun." D. R. Francis, Commercial Commissioner of St. Louis and Kansas City, wore the first class decoration of the "Order of the Rising sun," a broad white ribbon with red borders. across his shirt front.
  The solemn strains of Kimigayo, the Japanese National Anthem, were played by the band, after which Mr. Bland proposed the health of His Imperial Highness, the Emperor of Japan. This anthem was sung three times by the entire company of Japanese. It sounded like the dignified harmony of some cathedral chant, which made still more noticeable the national contrast of the special yell given immediately afterward by the hosts of the evening.
    Rah―Rah―Rah,
    A―me―ri―ca!
    Nippon! Nippon!
    Banzai, Rah!
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  The Japanese smiled with pleasure as this was repeated substituting Kansas City for the second word "Nippon." Following the toast Judge Bland made a speech of welcome to the visitors, which was repeated in Japanese by Consul General Mizuno. After a short address by Mayor Crittenden, Judge Bland, raising his glass towards the balcony, where the ladies of the party were seated, and proposed "the ladies of Japan and America." This was greeted with applause, after which Baron Shibusawa made an address. His speech was translated by Mr. Zumoto, editor and owner of the Japan Times. After the close of the translation of Baron Shibusawa's speech, Baron Kanda also made a splendid address in English. He was especially complimentary and told the club that he was delighted to be the permitted to speak two hours before midnight instead of two hours after, as had been his fate in other cities.
  Honorable David R. Francis, of St. Louis and Kansas City, was presented to the assembly, and made one of his characteristic and interesting speeches. The reception extended to Mr. Francis by the Kansas Citians present was extremely flattering, and much delighted in by himself. He said that Kansas City was the biggest city of its size in the world and that if he was selecting a new home he would come to Kansas City. He hoped to see the mother city and Kansas City hereafter working in closest co-operation. Some facts which Baron Shibusawa probably left out through politeness, were supplied by Mr. Francis. He said that Japan, with less cultivatable area of land than there was in Missouri, provided nourishment for fifty millions of people, while Missouri supported three millions.
  The festivities of the evening were brought to a close at eleven o'clock and the last Japanese Commissioner was placed in his carriage and sent to his train, and before midnight the Burlington pulled out for Omaha.

  ENTERTAINMENT OF WIVES OF HONORARY
    COMMERCIAL COMMISSIONERS
        OF JAPAN
  Several of the Honorary Commercial Commissioners of Japan who visited Kansas City November 12th, were accompanied by their wives. The ladies of the party were:
  Baroness Shibusawa,
  Baroness Kanda,
  Madame Horikoshi,
  Madame Mizuno,and
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  Miss Takanashi.
  In the entertainment provided for our distinguished guests, the ladies of the party were not overlooked. When they arrived in Kansas City they were met by the wives of the members of the Entertainment Committee of The Commercial Club, who took them for a short ride over the boulevard system, concluding the drive at the Country Club, where a luncheon was served.
  Mr. and Mrs. E. M. Clendening acted as host and hostess for the Club. Although the Japanese ladies spoke English, they realized that it was somewhat imperfect and in order that they might feel perfectly at home, Mr. Kiichi Harada, a grain merchant in the Board of Trade building, kindly volunteered his services to Mr. Clendening to act in the capacity of private secretary so that those assisting in the entertainment of the ladies were as follows:
  Mrs. E. J. Roe,
  Mrs. C. J. Carter,
  Mrs. C. J. Schmelzer,
  Mrs. Walton H. Holmes,
  Mrs. Charles D. Mill,
  Mrs. Eugene Rust,
  Mrs. Dougherty,
  Mrs. B. T. Whipple,
  Mrs. E. M. Clendening.
  The luncheon was served in the main dining room of the Country Club, the tables being decorated with Maryland beauty roses and a decorative scheme which was much admired had been arranged for the windows of the dining room toward the south, this decoration consisting of natural vines with wisteria attached, so that the luncheon party had as a canopy the wisteria, which is one of the famous flowers of Japan.
  The absence of Baroness Shibusawa, who was ill, was much regretted, and her illness prevented Miss Takanashi from taking part in the Kansas City entertainment. The Japanese ladies with the committee were invited by Mrs. W. R. Nelson to take tea at her home. Mrs. Nelson invited many of her neighbors to meet the Japanese ladies and the reception at the Nelson home was a delightful compliment to the visiting ladies.
  At night, while the men of the party were being entertained by The Commercial Club directors, the members of the Entertainment Committee and the former presidents, in the main banquet room of the Baltimore Hotel, the wives of the officers and directors acted as hostesses for the Japanese ladies at a dinner which was served in the Japanese room of the
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Baltimore Hotel. At the conclusion of the dinner, the ladies repaired to the balcony of the banquet room, where they heard the speeches that were delivered during the evening.
  The wives of the officers and directors who participated in this dinner were:
  Mrs. W. T. Bland,
  Mrs. E. M. Clendening,
  Mrs. F. D. Crabbs,
  Mrs. J. H. Neff,
  Mrs. F. P. Neal,
  Mrs. Henry H. Allen,
  Mrs. Thornton Cooke,
  Mrs. F. W. Fleming,
  Mrs. W. B. Hill,
  Mrs. W. A. Moses,
  Mrs. F. J. Moss,
  Mrs. J. R. Ranson,
  Mrs. Leon Smith,
  Mrs. J. C. Swift,
  Mrs. H. B. Topping,
  Mrs. J. M. Townley,
  Mrs. D. M. F. Weeks.
  N. Takatsuji, director of the Kanegafuchi Spinning Co., Ltd., Japan, left with the Industrial Commissioner, a magnificently illustrated book, showing what their company represented, and also the many plans for the benefit of their employees, etc. This company owns and operates seventeen cotton mills, located in different portions of Japan, with 301,360 spindles and 700 looms; also two silk mills with 15,300 spindles. Their annual production of yarn amounts to 180,000 bales of 400 pounds each. This company exported 30 per cent of the total export of cotton yarn from Japan during the last seven years. They have a capital subscribed of yen 14,000,000, capital paid up, yen 7,850,000, reserved fund, yen 5,162,000, funds for special purposes, yen 658,000, balance carried forward for one-half year, yen 748,000. A seperate booklet illustrates and explains the manner of taking care of their operatives. We give herewith a synopsis of the contents of the book, which will give some idea of the scope and details, of the work:
Educational Work:―
  Operatives' School.
  School for Female Operatives.
  Kindergarten.
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  Publication of Periodicals.
  Lectures and Recitations.
  Female Etiquette.
Arrangements for the Sick, the Injured and the Deceased:―
  Relief by the "Kyosai Kumiai" (Mutual Relief League.)
  Relief by the Company.
Arrangements in Connection With Food, Clothing and Dwellings:―
  Dormitories for the Female Operatives.
  Dormitories for the Male Operatives.
  Tenements.
  Cooking Quarters.
  Delivery Offices of Rice and Sundries.
  Co-operative Society.
Sanitary Arrangements:―
  Infirmaries.
  Contagious Disease Hospital and Bacteriological Laboratory,
  Arrangements for Giving Patients the Benefit of a Change of Air
  Laundries.
  Sanitoria.
Arrangements for the Recreation and Comfort of the Operatives:―
  Recreation Halls.
  Holiday Gatherings.
  Committee of Welfare.
Support for the Children of the Operatives:―
  Pecuniary Assitance for Bringing up the Operatives' Infants.
  Nurseries.
Annuity System.
Savings and Remittance to Families.
Communication of the Company with the Operatives' Families.
Box for Suggestions.
  Each one of these seperate divisions is thoroughly illustrated, so that the eye can see as well as the ear can hear, what is done.
  The Industrial Commissioner would be pleased to exhibit this book to any manufacturer or employer of labor in Kansas City. It is worthy of the inspection of anyone.
  One of the most striking and important developments of the auto trip of the Commissioners over the city and visits to some of our industries and other places of interest was the lack of knowledge on the part of many Kansas Cityans of their own
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city as well as what lines of goods and wares are manufactured in Kansas City. This should not be, and the Commercial Club hopes to enter upon a campaign of education as to "things made at home."



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第三三五―三三七頁明治四三年一〇月刊(DK320012k-0019)
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渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第三三五―三三七頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
    第十七節 ボルティモア市概況
人口は六十五万人にして、其面積三十一平方哩、公園の総面積二千エーカーを超え、各種学校の総数二百四十四、教会堂四百五十、銀行五十八、住宅九万五千余。
鋼鉄レール製造業は、当市の著名なる工業の一にして、現に一行の訪問したる製鉄所の如きは、亜非利加・亜細亜・南米各地及び倫敦市の鉄道に対して、レールを供給せり。
当市又帆布の製造に富み、殆んど今日世界到る処の船舶に用ひられざるはなし、缶詰業も亦一の異彩を放てり。
ボルティモア市の工業の種類は、約二千の多きに亘り、之れに投ぜる資本約二億五千万弗、麦藁帽子の製造は他の市に優り、人造肥料の産出に於ても、米国第一なりと号し、貨物及野菜類の保存貯蔵に秀づと云ふ。
港湾は、米国大西洋沿岸の優秀なるものゝ一に数へらる。
造船業も亦一の誇るべき事業にして、近頃稍振はざるの観ありと雖も未だ之を以て将来を悲観すべきにあらず。
南部諸州より産出する穀物類は、此市を通過するもの最も多し。外国に輸出さるゝ雑穀・家畜・食料品等は、東部の他の諸港よりも、当市を通過するもの多しと云ふ。
卸売店の一年の売上高は、約三億万弗。
「ジョンス・ホプキンス」大学は、最も有名なる米国大学の一にして本邦人の卒業せるもの少からず、殊に該大学所属の病院の如きは、米国に於て最も進歩したるものゝ一に数へらる。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第三三九―三五一頁明治四三年一〇月刊(DK320012k-0020)
第32巻 p.337-341 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第三三九―三五一頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
    第十九節 ピッツバーグ市概況
当市は鉱山及鋼鉄業に於て、米国第一の地位を占む。著名なる事業を挙ぐれば、鉄・鋼鉄・阿鉛板、鋼鉄製客車及貨車、鉄及鋼鉄製のパイプ、錻力、石炭及コークス、電気機械・耐火煉瓦・窓硝子・板硝子・水飲コツプ・漬物・食卓用器具・コルク・錫等なり。
製造場の総数三百六十、使用人の総数三十三万六千人。産出額六億千八百四十六万六千八百七十一弗。工業の投資額七億一千二十五万三千二百三十二弗。労働者に仕払ふ賃銀一億五千万弗。
一九〇七年に於けるピッツバーグ市の貨物輸送高
 鉄道に依るもの 一億四千六百七十九万八千三百五十一噸、
 港湾に依るもの 一千四百三十九万五千八百十六噸、
 - 第32巻 p.338 -ページ画像 
 総計 一億六千百十九万四千百六十九噸。
  (但しピッツバーグ市を通過して他に再び輸送さるゝものは此中に含まず)
 以上の総噸数は、所謂「ピッツバーグ地方」、即ちピッツバーグを中心として四十哩の円径を以つて画きたる圏内に含まれたる地方の計数なり。
水運の便に依りて輸送される貨物の総容量に就ては、ピッツバーグは今日世界の「レコード」を有すと称す。即ち一千九百七年六月二十四日に、ピッツバーグより水運の便を以つて輸出されたる貨物、総額三十九万九千三百五十噸に上りたることあり。今日迄世界何れの都市と雖も、此額を超へたるものなし。世界の石炭の産出額は、十二億二千二百十六万五千二百四十八噸、内合衆国の産出する所四億八千三十六万三千四百二十四噸、内又ピッツバーグの産出する所八千三百三十一万八千五百十三噸にして、此地方のみの産出は、尚ほ墺太利・匈牙利・仏蘭西・露西亜・白耳義・日本等に勝ること遠し。之れを表に示さば左の如し。
      石炭産出高比較表
                        噸
 全世界……………………一、二二三、一六五、二四八《(マヽ)》
 北米合衆国……………………四八〇、三六三、四二四
 英吉利…………………………二九九、九七〇、六七七
 独逸……………………………二二六、七七三、六〇五
 ゴシク・ピッツバーグ地方  八三、三一八、五一三
 墺太利・匈牙利…………………五三、一〇九、七五〇
 仏蘭西……………………………四〇、七〇八、二一五
 露西亜……………………………二八、六八五、五三二
 白耳義……………………………二六、二六一、七四五
 日本………………………………一五、三六一、六〇〇
 其他諸国…………………………五一、九三〇、七〇〇
鉄及鋼鉄業に於て、世界の産出高は五千二百二十一万八千九百三十噸内合衆国二千三百三十六万二千五百九十四噸を産す。内ピッツバーグに産するもの七百四十四万六千九百六十噸、此一事を以つて英・仏・露・白・墺・匈等の諸国に優ること遠きを見るべし。
      鉄及鋼鉄産出高比較表(千九百七年調)
                        噸
 全世界……………………………五二、二一七、九三〇《(マヽ)》
 北米合衆国………………………二三、三六二、五九四
 独逸………………………………一一、八七二、九八三
 ゴシク・ピッツバーグ地方   七、四四六、九六〇
 英吉利………………………………六、六三五、〇〇〇
 仏蘭西………………………………二、七八一、五二〇
 露西亜………………………………二、七七八、四一四
 白耳義………………………………一、四九七、五六三
 墺太利・匈牙利……………………一、四七七、一九七
 其他諸国……………………………一、八一二、六五九
一千九百七年合衆国に於けるレールの総産出額は、三百六十三万三千
 - 第32巻 p.339 -ページ画像 
六百五十四噸、内ピッツバーグは七十七万三百三十三噸を産し、仏蘭西・白耳義・露西亜等の諸国に優る。此比較を表に示さば左の如し。
      軌道製出高比較表(千九百七年調)
                        噸
 北米合衆国…………………   三、六二三、六五四
 独逸…………………………   一、三九〇、七一一
 英吉利……………………………   八三二、五七六
 ゴシク・ピッツバーグ地方……   七七〇、三三三
 仏蘭西……………………………   三三九、〇六八
 白耳義……………………………   三〇九、七八五
 露西亜……………………………   三〇六、八七八
銑鉄に就て云へば、一千九百九年《(七カ)》に於ける全世界の産出額は五千九百六十四万三千三十二噸、内合衆国産出額二千五百七十八万千三百六十一噸にして、内ピッツバーグ産出額六百十四万千四百八十七噸なり。
之れを仏蘭西・露西亜・墺太利・匈牙利・白耳義に比するも、遥に勝さる処あるを見る。表に示さば左の如し。
      銑鉄産出額比較表(千九百七年調)
                         噸
 全世界…………………     五九、六四三、〇三二
 北米合衆国………………    二五、七八一、三六一
 独逸………………………    一二、六七一、六八五
 英吉利……………………    一〇、一一四、二八一
 ピッツバーグ地方…………    六、一四一、四八七
 仏蘭西………………………    三、五三三、四九六
 露西亜………………………    二、七七六、〇二八
 墺太利・匈牙利……………    一、八四三、〇八〇
 白耳義………………………    一、三八四、七四四
 其他諸国……………………    一、五三八、三五七
一千九百七年に於けるピッツバーグ地方の炉の数は
  吹気炉総数五十三個所    其産出額七百万噸
  開放炉総数百九十個所 其産出額五百六十二万噸
  ベスマー炉十四     其産出額三百五十万噸
コークスの産出額
 合衆国九万九千六百八十塊 其噸数四千七十七万九千五百六十四噸
 ペンシルバニア州四万九千百三十塊 其噸数二千六百五十一万三千二百十四噸
 ピッツバーグ三万三千三十六塊 其噸数千六百六十一万七千四百十噸
硝子の産出額
 合衆国産出総額 二十二万八千二百二十七噸 ピッツバーグ地方
 六万三千四百五十六噸
 板硝子
 合衆国産出総価格 千二百六十六万六千弗 ピッツバーグ地方 六百六十六万六千弗
 窓硝子
 合衆国産出総額 一千三百万弗 ピッツバーグ地方 五百万弗
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 ランプ及点灯用硝子
 合衆国産出総価格 四百八十万弗 ピッツバーグ地方 三百万弗
 色硝子
 ピッツバーグ産出額 三百五十万弗
電気製造業電気機械及其附属品
 合衆国産出総価格 二億五千万弗 内ピッツバーグ市 五千万弗
 ブレーキ
 合衆国製産額 一千五百万弗 ピッツバーグ 一千二百万弗
 信号其他の機械
 合衆国製産額 七百万弗 ピッツバーグ 五百万弗
ピッツバーグは世界に於ける車輛製造業の最大中心なり。使用人の総数一万四千八百三十六人、之れに要する鋼鉄の総数七十五万五千九百十七噸。一年の産出六万四千三百六十七輛、一年間に産出し得べき極量七万輛、一日に産出し得べき極量二百二十一輛。
 鉄及鋼鉄のパイプ
 合衆国産出額 二百七十二万噸 内ピッツバーグ 百二十七万五千噸
 錻力
 合衆国産出額 百八万四千七百噸 内ピッツバーグ 二十八万千百五十七噸
 錫板
 合衆国製産額 四十九万八千三百二十五噸 内ピッツバーグ 十七万九千百三十五噸
 一年間に使用するコークスの分量五千噸、仕上け二千五百噸 価格二百五十万弗
 漬物及缶詰業
  資本七百九十万弗 産出品の総価格、一年 七百七十五万弗
教育の設備
 大学一校、科目百六十七、学生千二百四十三人。
 高等専門学校二校、其教師五十三人、学生五百人。
 神学校三校、教師十八名、学生百五十三人。
 中学校四校、教師千九人、生徒三千百七十八人。
 小学校百二十一校、教師千五百六十八人、生徒六万二千百十七人。
 其他私立学校及実業学校、商業学校等合せて二十五校。
尚ほカーネギー工業学校あり。最も進歩したる工業学校なりと称せられ、アンドリー・カーネギー氏の寄附に係る。尤もピッツバーグ市も之れに要する地所三十二エーカーを寄附したり。此学校に収容すべき生徒の総数は、四千人の予定にして、大別して四科となす。応用科学徒弟及行商部・女子工学部・図案科等なり。現在に於ける学生の総数二千百人。
ピッツバーグ市の宗教及慈善事業の状態左の如し。
 寺院五百二十四、慈善事業聯合団一個、之れに加名せる団体の総数九十一、慈善事業に関する会若くは団体の数二百七十五に達す。其内児童の為めのみに力を尽すもの五十四、成年の男女を教育する為
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めにするもの四十、貧民救助の団体二十五。
 病院は二十二にして、寝台の総数三千、無料救護所十五。
 ミッション(社会感化部)十六、養育院十五、看護部団体九。
 新鮮なる空気を呼吸せしむるを目的とする団体十。
 肺病患者に関するもの八。
千九百八年に慈善事業に投じたる総額は、百七十七万六千百十四弗にして、現に慈善事業に属する不動産の総価格は、二千二百万弗と評価せらる。
図書館(無料公開総てカーネギー氏の寄附に係る)九
 蔵書 三十五万七千八十三冊 千九百八年に於ける閲覧書の数 百十四万三千二百四十七部。
其他ピッツバーグ大学の図書館は、蔵書八千五百部、神学校の図書館は三万四千部。
アレガニーの法律図書館は、米国に於て有数のものにして、其貯蔵の法律書二万五千部。
千九百七年に於けるピッツバーグ地方の銀行及びトラストコンパニー総数二百九十、資本八千五十一万三千六十七弗、積立金九千八百十八万四千八百七十七弗、未配当利益千九百六十一万三千八百六十六弗、貸付金三億三千八百二十四万六千七百二弗、保証金一億六千七百六十四万三千六百七十四弗、預金総額三億三千五百六十万七千六百九弗、総財源六億七千九百四万九千六百三十七弗、一年間の配当額八百四十万五千百一弗。
手形交換所交換高二十七億四千三百五十七万四百八十三弗
通過する旅客列車の数一日百六十、発着する旅客列車の数一日六百七十五。
郵便局に関する統計は、市内一等局十六、分局七十九、千九百九年六月三十日に終る過去一年間の郵便取扱高三億一千四百八十九万六千九百十七個、一年間の郵便局の収入二百三十七万二百二十八弗八十二仙使用人の数千二百二十七人。
ピッツバーグの土地の課税価額は、七億一千万弗に上れり。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第三五四―三六〇頁明治四三年一〇月刊(DK320012k-0021)
第32巻 p.341-343 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第三五四―三六〇頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第七章 回覧日誌 中部の二
    第二節 シンシンナター市概況
此市は千七百八十八年の創設に係り、爾来今日迄徐々乍ら確実に発達を遂げ来れり。
商業区域を廻らすに丘陵を以てし、其丘陵上には、住宅区域を設置せり。此点に於て、殆ど理想的の米国都市と云ふべし。
此市には由来大景気の時期(ブーム)なく、従つて恐慌若くは不景気等の悲運に会したることなし。
人口は市役所を中心として、十哩四方の間に五十五万を有し、尚此市に通勤する者にして、住宅を近在に有するもの(ケンタッキー河畔に住するもの)極めて多く、若し之を加算するときは、非常に多数に上るべし。
 - 第32巻 p.342 -ページ画像 
此市は米国中他の都市に比類なき市有蒸汽鉄道を有す、其価格五千万弗。
シンシンナター市の最も顕著なる工業は、酸類・書架・家外の楽器・馬具類・洗濯器械・事務所用諸道具・骨牌・印刷インキ・石鹸・小車・木製諸器械等にして、尚堅木の市場として、ウィスキー醸造の中心として、又石版印刷業の中心として有名なり。
当市には市有の大学あり。是れ米国にて極めて稀なるものに属す。蓋し、此市はアレガニー山脈以西に於て、最も古き都市にして、西部の都市の奮闘的なる点と、東部の都市の文芸美術に秀たる点とを併せ有す。オハヨー河畔に拠り、湖水地方と墨西哥湾との中央に位し、米国の消費地方を距ること遠からず、而かも燃料及原料品を得るに甚だ便利なり。是等の便利と河水及鉄道に依る運搬の便利とは、相俟つて此市をして製造の中心たらしめたり。シンシンナター市の最も著名なる一工業は、陶磁器事業にして「ロック・ウード」陶器会社は斯業に於て米国中他に比肩するものなし。其製品は工芸の範囲より、進んで美術の部に渉り、以て該地方の誇りとなす所なり。
幼稚園より高等学校に至る教育制度頗る能く整頓し、市民の誇りとせる市有大学も、甚だ盛大なるものにして、文芸・美術・工学・医学・法律・教育学の各分科大学、及大学院を有す。尚其他に三個の神学校五個の医科高等学校、二個の歯科学校、薬学校一、音楽学校二、演芸学校、記者学校等あり。
寺院の総数は二百五十、但し近在にあるものを加算すれば、頗る多数に上るべし。
一方に於て工芸実業に熱心なると同時に、他方には娯楽の機関に乏しからず。人口五十五万に過ぎずと雖も、尚、美麗なる演芸場十個を有す。動物園は当市民の最も誇りとする処にして、啻に其収容せる動物の種類の多きのみならず、近年繁殖及飼養の術に於て顕著なる発達をなし、動物園向き動物供給地として米国に冠たり。
公園は又市民の頗る誇る処にして、各種の公園を聯絡するに、一のシステムを以てし、商業区域を廻らすに、公園の輪を以てし、住宅区域を該公園圏に沿うて置くの案は、十数年の内に完成せんとす。
試みに地価の高低を見るに、目下最も高価なる土地は、間口一呎奥行百呎につき八千弗。(我一万六千円)最も廉価なる所(天然の儘何等加工せざる地方)は同上五弗(我十円)普通市外の工業向き地方は、間口毎一呎五百弗(我一千円)を通例とす。
今工務局の取調に依り、逐年の家屋建築価格表を示せば左の如し。
 千九百年     二百十四万五千三十五弗
 千九百一年   二百五十万五千四百五十弗
 千九百二年 四百六十六万九千五百八十五弗
 千九百三年  四百五十万二千二百五十五弗
 千九百四年  六百三十二万五千三百三十弗
 千九百五年   九百七十万九千四百五十弗
次に千九百六年は之を前年に比して、価格に於ては稍々減じたるも、新築の数に於て、二百五十五を増加したり。同年中建築したる新家屋
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の中、千二百十一は工場にして、七十五万九千九百七十五弗。四十五軒は長屋建にして、其価格八十七万千百弗。其他小学校五校、其価格五十五万二千八百弗。同年中課税を受くべき市内の建築物の総価格は二億三千七百五十三万八千六百六十弗。
此市米国の中央にあり、北に偏せず南に偏せざるを以つて、寒暑適和を得、気候温暖なる上に、石炭は極めて廉価にして、近隣六州の石炭は容易に其の炭坑より此市に輸送し、同市に於て消費され、又は北西南の三方に散布さる。「ペンシルベニア」「西バージニア」州の炭坑より来るものは、オハヨー川を下つて輸送せらるゝを以つて、炭価はシンシンナターの工場内渡にて、目下の処一噸一弗六十仙乃至一弗九十仙に過ぎず。之に加ふるに、天然瓦斯の供給極めて豊富にして、市内及近郊に対しては、一千立方呎僅かに三十仙に値するのみ。南部に産材地を控へるを以つて、此市は国内に於て堅木の最大市場たると同時に、鉄坑に近きを以つて、銑鉄に於ては最も廉価なる市場たり。米国内に産出する鉄総額の五分の一は、シンシンナターの商社の取扱ふ処なり。
シンシンナターを距る遠からざる範囲内に、棉花の産地多く、其市場に集まるもの若くは通過するもの、七億万弗に上ぼる。
毛織物及製革業に於ても、亦甚だ進歩したものあり、殊に後者の関係より馬具類に於ては、殆んど米国第一の名を有せり。製紙業に於ても亦他に劣らざるの便利を有し、従て石版印刷業に於て著名なり。
鉄道の交通利便を云へば、シンシンナターを通過する鉄道線路は、二十五線に達し、内六個は東部諸州に向ふ幹線なり。
「シンシンナター・サウザアン」と号する一鉄道線は、市の有する処にして、始め此市の発達が、南方に対する鉄道利便の欠乏に依つて、大に妨げらるゝを認むるや、市民は奮起して巨額の出資を議決し、此市有の鉄道を敷くに至りたるものなり。其完成は千八百八十年にして今日に於ては該鉄道は市の財源中最も有力なるものとす。若し之を売却するときは、市は負債の全部を償還し、尚ほ数百万弗の剰余金を、市の金庫に納むることを得べし。該市有鉄道は六十五年間一定の借用料を市の金庫に払込み、其後に至れば市は全然無出資の財源として数ふることを得べし。市街鉄道の総延長二百九哩、ホテルの総数三十四にして、其室数二千と号す。
シンシンナター市はオハヨー川の水利を有するを以て、「ミスシッピー」地方の何れの河川にも通ずるを得べし。故に一朝パナマ運河の完成するに及んでは、シンシンナターは世界の総ての海港と、直接の交通をなすことを得べし。市内の国立銀行十一、州立貯蓄銀行及「トラスト・コンパニー」総計二十五、其資本の総計一千五百二十二万五千弗、積立金一千四百二十五万二千弗、預金総計一億一千五百五十七万四千弗。手形交換所の交換高は一年十二億五千万弗、郵便局の一年の総収入は二百万弗に達す。
此地に於て特に注目すべき現象は、鉄骨コンクリート建物の増加にして、近来各種の工場及倉庫等、之を用ふもの益々増加し、結局保険料の率を大に引下ぐるに至れり。

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〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第三六二―三六五頁明治四三年一〇月刊(DK320012k-0022)
第32巻 p.344-345 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第三六二―三六五頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第七章 回覧日誌 中部の二
    第四節 インディヤナポリス市概況
インディヤナ州の首府にして白河の西岸に在り、全州の地理的中心たり。シカゴの東南百八十三哩、セント・ルイの東北二百四十二哩、シンシンナターの西北百十哩、ルイスビルの北百十哩、クリーブランドの西南二百八十三哩の間に介在し、実に四通八達の要区にして米国東西両部往復の要路に当る。インディヤナポリスにて投函したる郵便物は、三十六時間にして東大西洋岸及び西デンバー市に達し得べし。
市制施行区域内に住する人口は二十四万六千人にして、此市を中心として、二時間の行程の範囲内に百五十万の人口あり。此市過去五年間の発達は非常にして、其増加率は尚ほ継続すべき理由ありと称す。
近郊との交通機関として、電気鉄道二十五線、蒸汽鉄道十八線あり。
此等の鉄道は市外に住する百五十万の人をして、二時間以内に此市に往復するを得せしむ。
此市に発着する旅客列車の数日々三百七十六。合衆国の総人口を八千万とすれば、其四分の一即ち二千万人は、インディアナポリスを距る三百哩以内に住するを以て八時間以内に此市に到着するを得べし。
市街電気鉄道の総延長は百七十五哩にして、面積三十平方哩、賃率は四仙均一制にして、乗換には一仙を増徴す。
当地方に於ける蒸気鉄道の運賃は、一哩二仙にして、近郊電車鉄道の運賃は、一哩一仙半の割合なり。
市外循環鉄道ありて、一日に取扱ふ貨物車の総数四千輛に達し、之れに由て市外の工場に於て製造する産出品を交通の中心に運び来たる。
各種の製造場の数二千三百五十、蒸汽及電気鉄道四十三線、ホテルの数六十。
上水は白河《ホワイトリバー》より取る濾過式にして、家屋用及び厨房用として最も進歩せるものなりと称す。下水は家屋用及び市外排水用として、大鉄管百八十哩に達す。
瓦斯会社二ありて互に競争しつゝあり。一を「インディヤナポリス」瓦斯会社と云ひ一を市民瓦斯会社と云ふ。競争の結果一千立方呎の瓦斯は六十仙の廉価にて供給せらる。電灯及電力に就ても三会社の競争盛んなり。即ち一キロワツト四仙乃至七仙にて供給す。電話は一ケ月の使用料一弗五十仙乃至四弗五十仙にして、二個の電話会社あり。
インディヤナ州の炭田は、米国に於ける広大なるものにして、インディヤナポリスを去ること僅かに五十哩以内の所にあり。故に製造家は石炭を工場渡し一噸一弗十仙と云ふ、無比の廉価にて購入するを得べし。
附近の原野は玉蜀黍の産額に於て世界に冠たり。其他の雑穀及び貨物又頗る多し。此の市は建築用の石材(ベットホード石)に著名なり。
商業団体は貿易協会・商業倶楽部・製造家組合・商人組合・資本家組合等なり。
当市現在の課税率は一人平均僅かに八十八仙にして、州税・郡税・其
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他の雑税を総計するも、尚ほ一人年額二弗十三仙を超えず。
課税の目的を以てする財産の評価は、普通何れの市に於ても、実価の六割乃至六割五分を常とする所、今此市の財産評価額は千九百六年同七年に於て、一億六千二百六十一万五千二百五弗、人頭税を払ふ市民は四万四千六百八十人なり。
小学校は六十五にして在学生徒四万六千人、其他高等学校及主計学校等あり。寺院の数百七十五。
新築議事堂の工費二百万弗、米国中此種の建築中著名なるものゝ一なり。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第三七三―三七八頁明治四三年一〇月刊(DK320012k-0023)
第32巻 p.345-347 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第三七三―三七八頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第七章 回覧日誌 中部の二
    第六節 聖路易市概況
聖路易は米国中第四の大都会にして、ミゾリー州第一の都市なり、海抜四百乃至五百呎の間にありて、ミスシッピー河の西岸に位し、北は聖ポール、西北はカンサス市、オマハ、南はメンフィス、ニューオルレアンス等に至る、水運の便あり。
又重要なる鉄道の終点として、二十六個の幹線集中す。此地は元千七百五十四年、仏人に依つて開拓せられ、始は毛皮貿易の都市たり。爾来幾多の変遷を経て、千八百四年中「ルヰジヤナ」領と聞えたる広漠たる地方と共に合衆国の領土に帰せり。当時此市の人口僅に一千人なりしと伝へらる。爾来英語国民の来集するもの急に多きを加へ、間もなく仏蘭西人の数を凌駕して、千八百九年市制を布くに至りたれども同三十一年に至ても、人口は尚六千に過ぎざりき、千八百九十六年の五月廿七日には非常なる旋風あり、又千九百三年にはミスシッピーの河流増水して三十八呎に上り、堤防大破する程の災厄に遭遇したるも同四年の「ルヰジアナ」買収紀念博覧会は、市の景気を恢復し、現に人口七十五万と称するに至れり。故に此市の歴史は市俄古よりも古く四十年前迄は市俄古以上の大都会なりしが、市俄古の発達は非常なる速度を以て、遂に聖路易を凌駕せるなり。
千九百八年に於ける聖路易の商業取引高(商業会議所の報告による)
 反物類   六千五百万弗  木材   四千七百万弗
 煙草    五千四百万弗  金物類  七千七百万弗
 家具類 二千二百七十万弗  麦酒 二千三百三十万弗
                 (其量三百十九万バーレル)
 薬品類    千九百万弗  鋳物  千八百五十万弗
 製品     千八百万弗  車輛    千六百万弗
 鉄道郵便   千五百万弗  塗料    千二百万弗
 衣服類   千百五十万弗  生皮   千百五十万弗
 電気機械及用品  千万弗
此等を主要なるものとし、其他鉄道・車輛・電車・家具類・石鹸・硝子・暖炉・膠・洋菓子等各種の方面に渉つて盛んなる製造工業あり。
穀物及家畜の集散地として此市は又重要なる位地を占め、附近の各地より輸送する穀物類、合計七千万ブッセルに達す。米国中シカゴ・ミ
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ネアポリスに次いで第三の集散地たり。小麦の入市高千九百万ブッセル、玉蜀黍二千二百万ブッセル、燕麦二千五百万ブッセル、大麦三百万ブッセル等を主要なるものとし、又麦粉の入市高は、二百七十六万バーレルにして、此地に於ける製粉高は、九十六万バーレルに達す。
家畜の集散地としては、米国中第五位に位す。即ち入市の家畜類の中豚は三百二十万頭、牛百三十万頭、羊三百七十二万頭、之れに馬・驢馬合計十二万頭を加ふるときは、其家畜類の入市総価額二億五千万弗の巨額に達す。斯くて入市の家畜中、牛の三分の二、豚の四分の三、羊の五分の四は、当市に於て屠殺せらる、故に当市の製肉・缶詰・包蔵等の業も相当に繁昌せり。
此市の工業製産高千九百八年には(聖路易商人組合報告に拠る)二億七千四百万弗に達す。其内製靴業第一にして、製靴会社の数二十二、其製品二千三百四十五万足、其価額約四千万弗に達す。此製靴業の盛んなるは、米国第一たり。電車製造・麦酒醸造等之れに次ぐ。
電車製造業八、製造額二千三百万弗、製肉包蔵業は市俄古に比して尚ほ小なりと雖も、其数二十六、製品の価額二千二百七十万弗に達す、麦酒醸造業はミルヲーキーに次ぎ、醸造場二十七、其醸造高九千九百万ガロン、其価額約二千万弗に達すと云ふ。
煙草製造業及製薬業も、亦主要なるものにして、前者は其製造場の数六、製造高二千万弗に達し、後者は製造場八十八個所、製薬高九千七百八十万弗に及ぶ。写真用の乾板製造も一種の発達を為し、米国製の乾板八割五分乃至九割は此市の製造に係ると云ふ。
其他器械及鋳物業は一千四百万弗、一般車輛七百万弗、煉瓦粘土の製品五百万弗、皮細工製革は百八十万弗、馬具百五十万弗、鞄類百五十万弗、電気用器具二百三十万弗、硝子の製造品百六十万弗、樽百九十万弗、木箱二百四十万弗、紙箱百万弗、針金類二百九十万弗を主要なるものとし、其他石鹸・蝋燭・膠等の製造、及鉄道用品鉛管・水道用品製造所も亦主要なるものとす。
此市はミルヲーキーの河畔に在りと雖も、海港を距ること遠きを以て直接外国貿易場としては、他の市に比し遥かに下位に在り。其輸入額は千九百八年に於て、僅かに六百八十万弗、而も其輸出高は僅々四千四百万弗に過ず。蓋し此市の製造品は、外国へ輸出されるもの多しと雖も、其多くは先づ一応開港地の市場に輸送され、商機を待つて其地より外国へ輸送さるゝを以て、聖路易より直接に外国に輸出さるゝものは、僅少に過ぎざるなり。
日本より直接に此市に輸入するものは、総計十二万四千弗に過ぎず、茶・花筵を以て主とす、但し右は直接輸入品の額にして、当市に於て需用さるゝ日本商品の大部分は一応他の土地に輸入され、更に内地貿易品として此市に入るを以て、税関報告等に現はれざる次第なり。
聖路易に於ける貨物の集散高一ケ年(千九百八年)入二千二百八十万噸、出千五百七十万噸、合計三千九百六十万噸《(マヽ)》にして、ミスシッピーの水運大なりと雖も、而も其九割九分迄は鉄の輸送に係る。
銀行及信託会社の総数四十八、資本金三千七百八十万弗
一年間に於ける手形交換高三十億弗
 - 第32巻 p.347 -ページ画像 
帝国名誉領事の駐剳する外、写真店一、洋食店二あり、在留本邦人二十余名。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第三八〇―三八二頁明治四三年一〇月刊(DK320012k-0024)
第32巻 p.347 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第三八〇―三八二頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第七章 回覧日誌 中部の二
    第八節 カンサス市の概況
所謂「カンサス」市は、ミゾリー州に在るものと、カンサス州に在るものと二あり。カンサス川を隔てゝ相対す。今玆に述べんとするはミゾリー州に属するものなり。
海抜七千八百呎、ミゾリー川の南岸に在りて、千九百年に於ける人口は十六万三千七百五十二人、千九百八年には二十万人に達し、実に米国都市中第二十三位に当り、ミゾリー州に於ては第二の都市たり。
史を按するに、此市は千八百六十五年に人口僅に三千五百に過ぎざりしも、今日は非常なる発達をなして、商工業に於ても亦非常なる重要の土地となれり。千九百年に於ける当地製造業産出総額は、三千六百五十二万七千三百九十二弗なり。
此市も亦附近諸州に産出する農産物の集散地にして、殊にカンサス州の大農場に産出する小麦・玉蜀黍の市場として然り。又家畜の集散地としては、米国中、シカゴに次ぐの地位を占め、千九百八年の集散高(米国商業労働省の統計に拠る)は三億頭に達す。

小麦  入市三千八百万ブッセル  出市二千六百万ブッセル
玉蜀黍 入市八百二十万ブッセル  出市六百七十万ブッセル
燕麦  入市五百六十万ブッセル  出市四百五万ブッセル
牛   入市二百十五万頭     出市九十七万頭
豚   入市三百七十一万頭    出市二十八万頭
羊   入市百六十四万頭     出市五十四万頭

此牛・豚・羊に於ける出入市の差は、当市の屠殺場に於て処分する処にして、其盛大なること、ストックヤードの繁栄はシカゴに次ぐと言ふも過称に非ず。此地は鉄道の終点として主要の地たり。食料品・製肉・包蔵等は当地の重もなる工業なり。在留本邦人雑貨店三、人口四十名内外。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第三八八―三九一頁明治四三年一〇月刊(DK320012k-0025)
第32巻 p.347-348 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第三八八―三九一頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第七章 回覧日誌 中部の二
    第十節 オマハ市概況
オマハ市は人口十三万にして、米国中第三十位、ネブラスカ州中第一位の都市なり。世界中最大の乳酪製造地にして、市内に在る牛酪製造所の産出総額一ケ年一千五百万磅に達し、玉蜀黍の市場としては、米国に於て第二位に位し、農産物の田畝より消費者に達する最初の集散地としては、米国中第四位若くは第五位を占め、家畜の集散地としては、国内オマハの右に出るものなし。
当市をして製造業の隆盛を得しめたる主なる原因は、之を電力の廉価なるに帰すべし。蓋しオマハ市に於ける電力は、之れをナイヤガラ瀑布の水力を利用し、極めて容易に供給を受くる地方に比しても尚ほ廉
 - 第32巻 p.348 -ページ画像 
価なりとす。今日に於ては、オマハは米国中最も廉価に水力電気を供給することを誇ると雖も、而かもオマハの水力電気は尚ほ発達の第一歩にありて、今後の造詣する所未だ測るべからざるものあり。
オマハ市に集まる鉄道は二十九線にして、オマハ市と直接接続する線路の延長二万千七百哩に達す。日々停車場に出入する列車の数は百五十を下らず。
元来ネブラスカ州は、米国に於ける農産物の十五分の一を供給する所にして、雑穀・家畜・果物・枯草・養鶏等並に農産精製品を加算するときは、ネブラスカ全州の農業上の産出額は一ケ年五億万弗と云ふを得べし。而して八十年前に此州の土地の総評価々額僅かに四百万弗に過ぎざりしことを思へば、其進歩の速なる実に驚くべきものあり。
顧みて教育の設備を見るに、小学児童二万二千人、教員六百人、建物四十個あり。クレートン大学には美術・医学・歯科・法科の各分科大学を有す。又「プロテスタント」基督教大学は、美術及医学部を包含す。其他女学校あり、盲唖学院あり、実業学校は五校あり。
此市は建築頗る盛んにして、一ケ年に住宅の新築せらるゝもの約一千にして、千九百九年十月までの建築価額は、五百万弗に達せり。
千九百八年当市の工場産出額は、総計……一億八千八百万弗
屠獣及缶詰業産出額、同……………………一億二千五百万弗
鉱物精製高、同……………………………………四千六百万弗
家畜の当市に入りたるもの、同………………………六百万頭
雑穀の当市に入りたるもの、同…………四千四百万ブッセル
左に主要なる統計を示す
  種別       千八百九十八年  千九百八年
 卸売業・製造業売上 二億七百万弗   三億九百万弗
 銀行預金      二千三百万弗   五千五百万弗
若し之れに貯蓄銀行及トラスト・コムパニイの預金高を合するときは七千五百万弗に達す。而して我が一行が当市を通過したる十一月迄に於ける統計に徴すれば、千九百九年は更に前年より増加したる実蹟を認む。

 市内電話箇数   千九百九十五個    二万五千八百九十五個
       (一八九八年年初五ケ月間)(一九〇九年年初五ケ月間)
 市街鉄道乗客   五百七十五万人    千五百十万人
 銀行交換高    二億七千五百万弗   六億二百万弗
 瓦斯消費高    二十七万五千弗    六十六万五千弗
 預金局収入    二十八万五千弗    八十四万六千弗
 電気(ワット時間)  二百五十万ワツト 千六百五十万ワツト

以て過去十年間に於けるオマハ市の発達を推測することを得べし。
在留本邦人百七・八十名、外に南「オマハ」所在製肉会社に従事せる本邦人約百五十名あり。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第三九四―三九九頁明治四三年一〇月刊(DK320012k-0026)
第32巻 p.348-350 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第三九四―三九九頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第八章 回覧日誌 西部の二
    第二節 デンバァ市概況
デンバァ市はコロラド州の首府にして、且つ州最大の都市なり。千八
 - 第32巻 p.349 -ページ画像 
百五十八年の建設に係り、漸次旺盛に赴き、千八百八十年には、人口三万五千六百三十人、同九十年には十三万三千八百五十九人、千九百八年には十七万五千余人に達せり。
舟楫の便は唯僅にプラット河によるの外なしと雖も、蒸気鉄道・電気鉄道は四通八達して交通頗る便なり。此地の鉄道は既に千八百七十年ワイオミング州のシャイアン市と当市との間に、デンバァ・パシフイック鉄道布設せられたるを初めとし、爾後三十年間の今日に到りては「ユニオン・パシフイック」「サンタ・フェ」等の十五鉄道は、当市と各地とを聯絡せり。
コロラド州は農鉱業の発達頗る盛大にして、商工業は比較的盛大ならずと雖も、農鉱業に関聯する製造業は、稍々見るべきものあり。即ち製糖・壜詰・鉱山機械用品・陶器類・粘土製品・薬種等の製造にしてコロラド州内に散在する工場の総数、大小四千七百箇所あり。其最近一箇年の製産額二億四十三万弗なり。而して技師・職工等の使用人に支払ふ賃銀は、年額四千九百二十五万九百九十二弗にして、此等製造工場の多数は、首府デンバァ市及び其附近の小都市に散在するものなり。
     デンバァ市の製造工業(千九百八年)
 製造所数       一千九百十六箇所
 資本金   六千十四万七千九百五十九弗
 製造品価格        一億二千万弗
 使用人員        二万八千二百人
 給料支払高 百七十六万七千二百八十三弗
 使用人一人に対する純益    七百五弗
コロラド州は加州に次ぎて金鉱の発見せられたる処にして、金・銀・銅・鉛等の礦産に富み、之れが製産品の集散地は、即ち首府デンバァ市なりとす。今コロラド州に於ける礦産の重なるものを示せば、千九百八年に於て金の産額二千二百三十万三千八百六十五弗、銀の産額五百六十一万八百四十五弗、鉛三百七万九千九百八十八弗、銅二十五万八千九百六十二弗、亜鉛二百一万六千七百四十弗なり。
銀行の総数は十五にして、単に当市の金融機関たるのみならず、実にコロラド州の金融機関たり。此等銀行の資産は八千万弗、資本金三百九十三万弗、積立金三百八十九万弗、預金六千九百万弗なり。
当市諸銀行の手形交換高は左の如し
 千九百七年  四億一千一百四十九万三千九百四十二弗七十五仙
 千九〇八年     四億八百八十万三千八百四十九弗七十六仙
我同胞の始めて当地に移住せしは、今より約二十年以前にして、爾来徐々として増加し、千九百八年にはコロラド州に常住するもの三百五十人、農園・鉱山・鉄道、其他雑業に従事するもの多く、其最も多忙なる時期に於ては、臨時傭入労働者の数大に増加し、三千人内外に及ぶことあり。
  附記 テキサス地方視察記      (南博士報告)
十一月六日 テキサス州の米作状況視察の目的を以て、一行に分れ、ピッツバーグ市を発し、同七日聖路易市に着す。八日、セントルヰ
 - 第32巻 p.350 -ページ画像 
市を発し、ダーラス市を経て、九日テキサス州ヒューストン市に着す。十日及十一日の両日間は、当市商業会議所書記長及西原清東・竹田貞松・紀藤方策氏等の斡旋により、当市に於けるスタンダード精米所・掘抜き井用鉄管製造所・肥料製造所・綿花取引所等を視察し、当市附近のウェブスター、及其の他の地方に於ける米作地状況リーグシチー及フレンドウードに於ける、温州柑橘栽培状況、並にアルウヰンに於ける、該柑橘育苗園等を視察したり。
 ウェブスターはヒューストン市より、ガルウエストン市に到る中間に在る米作地にして、西原清東・大西虎・岩村薩摩・岡崎常吉・木下直吉氏等の経営に係る水田地あり。此等諸氏の水田経営が着々功を奏しつゝあるを見て、大に愉快に感じたり。而して目下テキサス州の各地方に於て、水田経営に従事する本邦人は十七名にして、其耕作段別は約九千英加に達すと云ふ。其他蔬菜栽培及柑橘栽培に従す事る本邦人も亦少からず。
 昨今此水田経営者が、其耕作上困難を訴ふる所の事柄は、開田してより年を経るに従ひ、雑草の繁茂と、赤米の増殖にあり。又彼等の最も苦痛を感ずるものは、本邦労働者の減少にあるが如し。尤も此等の事柄が、本邦水田経営者の事業上に、多大なる影響を及ぼし、其事業の衰退を来すが如きことなきは、彼等経営者の自信する所なり。
 予は当地方の視察に就て意外に感じたるは、温州柑橘成育の良好なる事是なり。而して両三年以来、当地に於ては、温州柑橘の植付盛にして、随所に大規模の柑橘園の開設せられたるを見受けたり。又新井三郎・伊村佐平氏等の如きも、アルウヰンに於て一大柑橘園の開設に着手中なり。
 此地方は其地勢・地質等より観察するときは、概して柑橘の適地とは認められざるも、河岸地の如き適地なきに非るを以て、栽植地の撰定に注意して之を栽培せば、将来有望なる事業たるべし。
 十一日夜ヒユーストン市を発し、十三日デンバァに着す。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第四〇二―四〇三頁明治四三年一〇月刊(DK320012k-0027)
第32巻 p.350-351 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第四〇二―四〇三頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第八章 回覧日誌 西部の二
   第四節 ソルト・レーキ市概況
ソルト・レーキ市は、有名なるモルモン宗徒(多妻宗)の本山にして千八百四十七年ブリガム・ヤングなるもの、米国の東方より逐はれ、多数の妻妾を携へ、百余人の従者を伴ひて此地に来りしより、始めて是等宗徒によりて建設せられたる処にして、当時此地に住するものはモルモン宗徒のみなりしが、其後漸次他宗派のものも此地に移住するに至れり。千九百年の人口五万三千五百に過ぎざりしも、現今十五万余に達せりと云ふ。而して此市は今やユタ州の首府となり、ユタ州庁の所在地となれり。
ソルト・レーキとは塩の湖と称する意なり、市に接近せる湖水にして其水は多量の塩分を含むが故に、若し誤つて入水したりとするも、決して沈溺するの憂なしと云ふ。
 - 第32巻 p.351 -ページ画像 
此地は諸種の鉱物に富み、就中金・銀・銅・亜鉛・鉄等を多く産し、鉱物製煉所の設備も完全せるものあり。其他宏大なる建築多数なるも最も巍然として人目を惹くものは、モルモン教徒の寺院にして、二万余人を容るゝに足る大伽藍あり、此寺院に於ては毎年二回の大集会を開催すと云ふ。其他ブリガム・ヤングの銅像建立せられつゝあり。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第四〇六―四〇九頁明治四三年一〇月刊(DK320012k-0028)
第32巻 p.351-352 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第四〇六―四〇九頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第八章 回覧日誌 西部の二
    第六節 ロスアンゲレス市概況
南部加州最大の都市にして、シェラマドレ山脈と、太平洋との間に介在し、海抜三百呎に位す。ロスアンゲレス河は市を南北に貫流し、合衆国南部の商業地として最も枢要の地なり。千七百八十一年の創立にして、十数年以前には一の小市街を為したるに過ぎざりしも、最近数年の発達頗る迅速にして、其人口千八百八十年には一万一千人に過ぎざりしもの、千九百年に及んで十万二千四百七十九人となり、千九百八年には更に増加して、三十一万人に達せり。此の急激なる進歩は、実に此の地の気候・風土の適順、及び交通の便至大なるに負ふ処尠からず。
陸上の交通は蒸気鉄道及び電気鉄道によりて連絡せられ、南部加州に於ける重要なる鉄道会社は、何れも幹線又は支線を発す、鉄道会社の重なるものは、南太平洋鉄道、「ユニオン・パシフヒック」「サンタ・フィー」鉄道「ソート・レーキ」鉄道等、実に十数線の鉄路によりて重要なる都市と連絡せらる。
水運は太平洋沿岸汽船会社の船舶により、当市と各港、並に桑港・サンディアゴ間を往来す、今や合衆国政府は三百万弗を支出して、当市を距る三十哩に在るサン・ピデロ築港を計画せり。此工事落成の上は東洋及南米に対する海外貿易に一新紀元を劃すべく、更にパナマ運河完成の暁に於ては、一層の大繁栄を来すべし。
其他電気鉄道・電線・電話の設備は遺憾なく施され、電話の如きは二会社之を供給し、六万八千の加入者ありて、恰も人口五人に対し、一個の電話を所有するの割合をなせり。
南部加州の特産たる果物・蔬菜・豆・葡萄酒・羊毛・蜂蜜・缶詰類・砂糖・阿列布・小麦・玉蜀黍・大麦・石油等の市場にして、南部加州の収穫(一年)一億七千百万弗に上り、其大半は当市を以て其集散地と為す。且つ当市は蜜柑・オレイブ油・豆類の輸出頗る盛んにして、殆ど世界に冠たり。工業は見るべきもの多からずと雖も、市内に電力電灯を供給せる会社三個所、瓦斯会社二箇所、電灯会社二箇所等あり各種工場の数は千七百個計あり、此等の工場に労働せるもの一万二千人、製造品の価額千九百六年には、五千万弗以上に達せり。
南部加州に於ける諸礦物中、石油の産額最も多く、其他金・硼砂・銀・粘土石膏・花崗石・セメント・石灰等を産す。
銀行の数は四十六個にして、其資本金総高は千二百四十二万二千八百七十三弗、預金総高は一億二百万弗、手形交換高千九百八年には六億三千六十二万百三十三弗にして、十年前に比すれば五億四千四百二十
 - 第32巻 p.352 -ページ画像 
七万八千五百十七弗の増加を示せり。
郵便局に於ける千九百六年の収入金額は、八十六万五百七十九弗にして、前年に比し一割八歩の増加なりと云ふ。
八十一個の公立小学校あり、生徒の数四万余人にして、千余人の教員を有し、俸給として毎年一百万弗を支出す。其他高等教育機関としては、南部加州大学・「オクシデンタル」大学等あり。
公園の設備も完全し、其数十六個所あり、面積合計三千七百二十エーカーにして、其他劇場の数十三、旅客は能く六万の人を収容するに足るの設備あり。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第四〇九―四一二頁明治四三年一〇月刊(DK320012k-0029)
第32巻 p.352-353 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第四〇九―四一二頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第八章 回覧日誌 西部の二
    第七節 インペリアル・ヴアレー視察記
                (高辻奈良造氏報告摘要)
カリフオルニア州ロスアンゲレス市に於ける「エンジニアース・エキスプロレーション・コンパニー」の社長イーストン氏の嚮導に依り、メキシコ国に於けるインペリアル・ヴァレー視察の途に上る。
一行は南農学博士・渡瀬農学士・神野金之助君及び余の四人にして之に我団同伴の羅府商業会議所代表者オスボーン氏を加へたり。即ち一行六人、ロスアンゲレス「サウザン・パシフィック」鉄道会社の停車場より、十一月二十一日午後八時過ぎの列車に同乗し、インペリアル・ヴァレーに向ふ、此夜は車中に睡り、翌二十二日早朝起床、扉を開けば既に目的地に在り、此地はメキシコ国ローワー・カリフオルニア州の北部、亜米利加合衆国との国境に近き所にして、「サウザン・パシフィック」鉄道会社の「インペリアル・ジャンクション」より分岐する線路中のテコローテー駅附近なり。一同下車野生の雑草、土壌其他農事関係の事柄を調査し、時間の都合により尚東行してコロラド州を視察することを止め、引返して再びカリフオルニア州に入り、アレキシコ市に下車し、同市方面を視察して、エルセントロー市に帰り、更に自働車に乗じて、附近の農園を視察し、又ホールトン郊外鉄道により、ホルトヴィルに至り、途上屡下車して、専ら棉花栽培の状況を取調べ、尚其附近のインペリアル其他の都市を歴訪し、遂にエルセントロー市に帰り、同夕の発車にて出発、翌朝リバーサイドに再び着し、我一行に合したり。
抑も、インペリアル・ヴァレーは、米国カリフオルニア州の東南隅インペリアル郡の中央より、南の方米墨の国境を越え、遠くローワー・カリフオルニア、墨国の内地に及びたる、一目渺茫其際限を見ざる平野にして、地味の肥沃、気候の適度、殆ど他に其比を見ず。温帯・半熱帯及熱帯植物の或種以外、如何なる種類の植物と雖も栽培に適せざることなしと云ふ。今インペリアル・ヴァレーの成立を考ふるに、往昔此地方はカリフオルニア湾の海底にして、現今カリフオルニア州とアリゾナ州の境を流るゝ、コロラド大河の搬出する沈澱土が、漸次其海底を埋立てたる為めに生じたる寄洲にして、現時と雖、同湾頭は此流出沈澱土の為め、一ケ年約五寸の速度を以て
 - 第32巻 p.353 -ページ画像 
南方に退縮すと云へり。其地勢は大体に於て水平に近く、東より西南より北に向つて一哩に付き約六呎の勾配を以て漸次下降し、其西北隅に於けるサルトン湖に至って共極に達す、同湖の水面は海面下二百七十尺の処にあり、故にインペリアル・ヴァレーの大体は、其メキシコ側に於て、先づ海水面と、同一の高さを保つものと見るべし、此地方は其西方に於てサン・ジャシントー山脈、コーンストレンヂ及ココパーパー山脈等の連続体に依り、太平洋より来る温暖にして湿潤なる空気を遮断するを以て、年中殆ど降雨なし。今雨量の統計を見るに、一ケ年中雨量僅に四吋内外にして、従つて或種の野草を除く外、如何なる種類の植物と雖、其発育に適せざる不毛の地として、長く顧みられざるの状況なりしを、今日より約九年以前の発起に係る、コロラド州の河水を分岐し是が灌漑用水に供したる一大工事竣工の結果、此不毛の地は俄然として世界無比の沃地となり争うて各種農産物を耕作するに至りたり。現況に於ては、其農産植物の種類は、先づ食卓用の蔬菜果実即ち瓜の類・葡萄・蜜柑・アスパラガス・苺等を耕作し、又牧草たるフルフワーの耕作と之を食用とする牛馬羊豚の飼養亦甚だ盛んにして、棉花の如きも亦一部其営業的の耕作を開始したり。今諸種の農事関係事項を調査するに、インペリアル・ヴァレーに於ては夏長くして、殆ど冬と称するものを見ず、時に十二月・一月頃に於て氷点以下に降ることあるも、是は唯少時間のみにして、年中耕作の手を弛むる時なしと云ふ。且つ其産額に於ても、各種の植物に対し、他に其例を見ざる多額に上り、且つ其産出の季節他に比して約一ケ月早きを以て、食卓用蔬菜としては利益甚だ多しと云ふ。唯現状に於ては、農作に要する労働者の欠乏せる為め、急速の発達を見るは甚だ容易ならずと雖も、適宜農夫の塩梅を得れば、此地方は世界有数の農業地として立つに至るは明なり。殊に棉作の如きに至つては甚だ有望にして、日米貿易上、吾人の大に留意するを要するものと信ず。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第四一八―四二一頁明治四三年一〇月刊(DK320012k-0030)
第32巻 p.353-354 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第四一八―四二一頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第八章 回覧日誌 西部の二
    第九節 サンデアゴ市概況
加州南端の都市にして、港湾は恰も新月形をなし、其延長約十二哩にして、幅半哩乃至二哩を有し、其面積約二十二平方哩なり。港内の水深平均三十六呎を保ち、能く全世界の海軍を碇繋せしむるに足ると称す。桑港以南に於ては、当港を除きて他に巨船の出入繋留に自由なしと謂ふも過言にあらず。而して其地理上の位置及気候風土の適順なると共に、パナマ地峡運河の開通、大陸横貫鉄道等の交通機関完成の上は、将来世界の大商業港となるの日あるべし。千九百一年には、人口僅に一万七千人に過ぎざりしも、今や五万人を算するに至れり。
当港は太平洋岸に於て、商業上最も重要なるのみならず、軍事上に於ても枢要の地にして、砲台の建設せらるゝあり。目下政府は二十五万弗を費して海軍貯炭所の建設中なり。
港湾の設備完全なるを以て、海運発達し、当港を基点として桑港、及
 - 第32巻 p.354 -ページ画像 
南米諸港・サン・ペドロ港等には、定期の沿岸航海を為し、又遠く濠州・布哇諸島其他の地に航海をなせり。斯くの如く海上運輸の便多きを以て、鉄道運賃は比較的低廉なり。
当市の発達に最も重要なる鉄道は、サンデアゴ市及アリゾナ鉄道の開通なりとす。即ち当地より米国に於ける著名の棉花産地たる南部地方の都市に至る距離は、桑港に比し五百哩近く、且つ東部及中部に至る距離は、約三百哩接近せるを以て、同鉄道開通の暁には、当市は実に一大貨物の集散地となるべし。
当市には十個の銀行業あり、即ち国立銀行三、貯蓄銀行二、信托会社二、及州立銀行三にして、過去四ケ年に於ける預金総額左の如し。
 千九百六年  四百十一万七千弗
 千九百七年  五百七十二万八千弗
 千九百八年  六百五十五万一千弗
 千九百九年  七百二万八千弗
千九百四年間に家屋建築の許可を受けし金高は、七十一万二十三弗にして、又同年に於ける郵便局の収入は四万六千弗なりしが、千九百八年には、八万九千七百七十六弗余に達せり。
製造工業は未だ盛ならずと雖も、製材・煉瓦・煙草・阿列布油等の製造は稍見るべきものあり。千九百八年に於ける材木取扱高は、六千八百十二万一千呎にして、又同年の阿列布油製造高は、一万二千四百五十瓦なり。斯る状態に在るが故に、当市の商工業は多く之等の生産品に関係を有せり。
千九百八年の輸出総額は六十四万二千二十九弗、其前年は八十万九千八百弗なりしなり。而して千九百八年度に於ける輸入税は、十一万一千六百四十六弗余なり。今輸出品の重なるものを挙ぐれば、葡萄酒・缶詰類・果実・乾果、其他穀類・蜂蜜等にして、輸入品の重なるものは絹布・綿布・装飾用硝子・陶器等なりとす。
桑港以南に在つて、巨船の碇泊に適するもの当港の外なきが故に、単に通過の目的を以て、当港に集散する貨物少からず。即ち桑港以南の地より来るものは、羊毛・土瀝青・燃料・木材等にして、又大西洋沿岸より来るものは、缶詰類及各種の製造品・錫・鉄・鋼・靴類、其他木綿・毛織物等にして、南部より来るものは、棉花・鉄・鋼、其他各種の製造品とす。
近時当市附近に於て桑樹の栽培を試験し、養蚕を試みて好成績なりしのみならず、其気候地味共に適するが故に、漸次養蚕業の発達を見るに至るべし。
児童教育に関しては、当市は其人口に比して、米国中何れの都市よりも比較的多額の費用を支出せり。而して千九百八年には小学教師の総員百三十五名にして、現在の教育費中、過去二ケ年に於て、五千万弗《(マヽ)》の寄附金を得たりと云ふ、以て如何に市民が教育に資金を吝まざるかを察するに足る。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第四二五―四二八頁明治四三年一〇月刊(DK320012k-0031)
第32巻 p.354-356 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第四二五―四二八頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第八章 回覧日誌 西部の二
 - 第32巻 p.355 -ページ画像 
    第十一節 リバァサイド及レッドランド概況
  (上)リバァサイド
加州南部の一小都市なれども、人口三万五千を有し、気候温暖にして柑樹の栽培に適し、北米合衆国中最も佳良の蜜柑を産す。大陸を横断せる三大鉄道は此地を通過す。公園五、ホテル大小四十有五、教会二十五、銀行六を有し、銀行の総資本金は七十万弗なり。酒舗・賭博場・遊廓等は市の厳禁する処なり。当地方は単に蜜柑の栽培に適するのみならず、他の果物・野菜類の栽培にも適し、世界第一の蜜柑産地と称する果園は、此の附近に在りて、三千万弗の資本は既に投ぜられ、七百哩のセメント水道を布設して、八千万ガロンの水を給用す。約八百の日本労働者、並に二百の白人労働者従業し、毎年二百万箱の蜜柑は六千台の鉄道貨車によりて、合衆国の他の都市及世界各地に輸送せらる。其価額は六百万弗に達し、其内二百万弗を鉄道会社の収得する処となり、二百万弗は労銀及雑費となり、残り二百万弗は園主又は作主の収得する処となる。日本人にして此附近に於ける果園の労働に従事するもの千余名に達せり。
  (下)レッドランド
レッドランドは南部加州の一小都市に過ぎざれども、人口一万を有し附近の地味柑橘の栽培に適し、且つ自然の風致に富む絶景少からず。
殊に公園の著名なるもの多く、南太平洋、「サンタ・フェ」及「ソルト・レーキ」の三大鉄道は何れも此地を通過せり。此地の商工業は見るべきものなしと雖、蜜柑の栽培頗る盛大を極め、殊に「ネーバル・オレンヂ」と称する蜜柑の一種は此附近の特産にして、毎年産出せる総額は二百万箱に達せり。
七個の公立小学校ありて、二千五百の就学童あり。建築費十万弗以上を費したる高等学校あり、レッドランド大学は千九百九年秋期に於て開校せられたり。
三個の国立銀行及び二個の貯蓄銀行あり、前者は総預金二百万弗を有す。
   附記 グランド・キャニオンの奇勝
米国は到る処奇勝尠からず、而してグランド・キャニオン(大峡谷)の如きも亦奇勝の一として有名なる所なり、グランド・キャニオンはアリゾナ州の北方海抜八千呎の高地に在りて、其渓谷の深さ三千呎乃至五千呎に達し、長さ二百十七呎を有し、コロラド河の源泉は此附近より発せり、コロラド河は最も広き処は三百呎に達し、水平線上二千四百呎の処に在りて、其壁岸は種々なる色彩を有し、頗る美観を呈す。
此地は千八百六十九年米国地質局々長パウエル少佐によりて発見せられ、世界に発表せられたるものなり、此グランド・キャニオンは多数の峡谷によりて成り、其内グランド・エンゼル・トレール谷には、三時間にて達するを得べく、渓谷の頂上エルトバール・ホテルよりは其距離七哩を有す。此渓谷に到るには、乗馬にて危険なく通行し得べき道路在り、其他グランド・ビュー・トライエル谷には、馬車にて到るを得べく、其距離殆ど十三哩なり。
一行の休憩せしエルトバール・ホテルの附近は、峡谷の北方より約十
 - 第32巻 p.356 -ページ画像 
三哩あり、此地の附近には太古のホッピー・インデヤンと称する土人ありて、土中に捿息せるものあり。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第四三五―四三六頁明治四三年一〇月刊(DK320012k-0032)
第32巻 p.356 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第四三五―四三六頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第八章 回覧日誌 西部の二
    第十二節 桑港附オークランド
○上略
  加州分遣隊視察記          渡瀬農学士稿
 加州の農業及園芸の状態を視察する為め、中野商業会議所会頭・南博士・加藤辰弥氏及余の四名は、加州分遣隊として、十一月十六日午後六時デンバーに於て本隊と分れ、加州に向け出発す、永井桑港領事代理は特に同行せられ、多木氏の一行又同一列車にて桑港へ先発せらる。十八日午後三時加州サクラメント市に着、嘗て桑港商業会議所会頭たりしベントレー氏、一昨年米国実業団長として本邦に来られしドールマン氏、同商務調査委員たりしヘール氏等、並に在留日本人会長吉田某及び多数の日本人の歓迎を受け、自働車にて該市の要所を巡覧し、更に同胞の農業に従事せるフロリン農村に赴き主なる同胞の農場を視察し、其栽培に係はる葡萄及草苺の贈与を受け、日没頃サクラメント市に帰り、予て同市商業倶楽部に於て準備せる晩餐の饗応を受け、会長及びドールマン氏の簡単なる歓迎の辞中野会頭の是等に対する答辞あり、食後同地を発して桑港に向ふ。
 オークランド渡船場附近に於て多数在留日本人の出迎を受け、同夜は直ちにフエヤーモント・ホテルに投宿す。翌十九日早朝ドールマン氏始め多数の桑港歓迎委員と共に、桑港を発してサンノゼ市に至り、商業会議所議員其他の歓迎を受け、懇切なる案内の下に、果物乾燥場、及び場主プラスヲン氏と共に其宏大なる種子採収を見、此処にて同胞の種子栽培業に従事せるを実見し、広大なる果実園を過ぎ、正午中野会頭及び加藤辰称の両氏はサンノゼ駅にて本隊に合し南博士及び余は尚ほ農園及び園芸に関する事項を調査し、夕刻デルモンテに於ける本隊と合す。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 附録・第一九―二四頁明治四三年一〇月刊(DK320012k-0033)
第32巻 p.356-358 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  附録・第一九―二四頁明治四三年一〇月刊
    加州に於ける排日問題
         (車中にて)領事 永井松三氏述
 桑港人士の日本に対する感情は常に変化あり、或る時は非常に好意あれども、又全く之れに反する場合もあり、悪く言へば定見なしと言はんか。彼の支那人は当加州に於ては偉大なる貢献をなせしものなり、何となれば、各種の事業、鉄道等に至るまで就工して其発展を助けしものは、実に支那人なり、而かも一旦排斥の悲運に逢ひたる支那人の現状は、実に憐むべきものなり。我が同胞も或は其轍に近からんか。嘗て珍田・陸奥の諸領事在任の折とても、屡排日的行為に際会し、陸奥氏の如きは米人との交際を頻りに力められしも、何分にも機未だ熟せざりし。是れ同胞の多くは労働者にして、従つて品位卑しと思はれ居たる為なり。日露戦役の後は、米国人も我日
 - 第32巻 p.357 -ページ画像 
本の偉大なるを認めたらんも、戦後日本人は非常なる勢を以て、労働の為めに加州に入り来れり。啻に本国よりのみならず、布哇等よりも多くの転航者を見たり。其転航者に至りては、殊に品性卑賤にして陋態甚しかりき。之れに加ふるに、彼の震災後日本人街の位置甚不可なりき。従来日本人区域は支那人街の中に在りて、同胞の醜態欠点も余り目に付かざりしが、震災後は焼残りたる家屋を求めて白人の商業区域内に雑居の有様となり、為めに頗る白人の注目を惹けり。且つ其街路は、上下両町交通の要衢たり。街鉄もあることゝて益一般人士の注目凝視を受くるに至れり。且つ米人より見れは、日本は戦勝の余勢を以て、種々権利の主張などもあらんなど、恐怖の気味もあり、彼此にて遂に彼の学童問題を惹起せしなり。
 桑港に現今五新聞あり。其内三新聞は左程にもあらねど『クロニクル』『エキザミナー』の二新聞は、下等労働者間に勢力を張らんが為め、頻りに排日熱を鼓吹し居れり。『クロニクル』の如きは、排日問題の先覚者は我社なりなどと唱へ居れり。是れ白人下等労働者社会の力をからん為めの一策なり。『エキザミナー』紙も亦、同様の方針を採り居れり。是等は排日の声を高からしめたるものなり。斯る機に乗じて、東部の或る人士は、其位置勢力を得んが為めに、遂に日米開戦論を主張するものあり。為めに不祥なる言論は、米国中に蔓延するに至れるなり。加州方面の排日論者は之に力を得て、増々事を針小棒大ならしむ。されど又、或る一部の所謂親日派の人士は、頻りに日本人の排斥すべからざるを主張し、学童問題の不条理なるを説けり。而かも加州の新聞は、徒らに学童問題を論ずるものにあらず、唯年長けたる日本人青年が、未熟の米国少女と伍して就学せるは、甚だ面白からざる現象なりと主張するものにして、東部に在る人士も此説を傾聴し、遂に日本の申出を曲解するに至り、従つて親日派の人も其立場を失ふに至りしなり。然るに大西洋艦隊の渡日より実業家の渡日、並に今回の日本実業団の渡米等に由り、遂に開戦説の如きは、殆ど全く其跡を絶つに至れり。而かも尚ほ労働者問題は依然として消滅せず、増々入国の難きを覚ゆるに至れり。
 次ぎに日本人が何故に米国人の或者より嫌はるゝやに就きては、東西文明の差違、結婚法、財産分配の方法、男女の関係等に付き、種種米国人の習慣と一致せざる点あり、例へば米国人は、日本の娼婦は恥かしきことを知れども、娼婦となること夫れ自身を、左程に賤業と心得ざるなどの誤解もあり。而して日本人は、米化する素質に乏しく、労働には忠実なれども、永住の覚悟なき為め、永遠の策を講ぜずと云ふも有力なる理由なり。猶労働者側より言へば、日本人は廉き賃銀に甘んずるを以て、白人の仕事を奪ふの虞ありと云ふを有力なる論拠とす。唯だ米国人の日本人を好む側に於ては、各種果樹園などの働きには、日本人に限る、且つ日本人は時に献心的に働く美質ありとて、其例を挙げて賞揚するものあるなり。
 而して日本人は、兎角支那人と雑居する傾あり、之れ支那人と同様に嫌忌さるゝ一因なり。支那人は博奕を好むこと甚しく、其過半数は之れによりて生活すと称するも、過言に非るなり。従つて此支那
 - 第32巻 p.358 -ページ画像 
人と雑居する日本人も、亦博奕を好む下等人種と見らるゝに至るは止むを得ざるなり、此雑居の不利なるは極めて明なれば、之れを廃止せしめんとて当局者は屡々方法手段を用ゐしも、其効未だ完からず。唯サクラメント其他二三小都市は、前任小池総領事、其他日本人会等の尽力によりて、大いに其面目を改め居れり。然れども之を全く離隔し難きは、又種々事情の在るなり。例へば米国警官の時として無能甚しきこと、又支那人と離れては住家の安全すら得難き等のことあり。支那人の集団する地方には必ず醜業婦の多きも、亦其一原因なり。而して尚ほ日本人排斥の熾なる一理由としては、日本人は無暗に日本なる文字を用ゐ、頻りに之を利用し広告せんとす、故に白人は斯くまで日本人が多数にして又勢力あるかを感知して、大に警戒するに至れり。
 然らば是等の多くの欠点を改良せば、果して太平洋岸に於ける排日論を絶滅し得るか。是れ甚だ疑問なり。資本家は日本人の酒色に関するなどのことは敢て問はず、唯日本人は、能く働くと云ふ点に於て、之を賞揚するのみにして、殆ど其品性人格に就て賞揚するにあらず。
 近頃多少排日問題の閑却されたる如く見ゆるは、近来新渡米者の甚だ稀れとなりたる事、及日本より各名士・軍人等の屡来航あるが為なり。然かも之れ一時の現象にして、事あらば復何時にても捲土重来すべきなり。殊に玆に注意すへきは、桑港に於ける多くの実業家は、常に一致の行動を取り得ず、常に相分離するの傾向あり。而して現今其上流社会は、日米親交に好感を維持し居れり。
 之れを要するに、桑港及附近の地方に於ては、現今尚排日の声なしと言ひ難きも、烈しき排日熱あるに非ず。
 一言附加したきは、近き二ケ月間内に数ケ所の商業会議所より排日の声起れる事にして、是れ大に注目に値ひす。デルモントの北方に林檎・梨等の産地あり、又モントレーは漁夫多く、此の二ケ所に日本人約二千余あり、主として此等の手をかりて今日の盛況を見るに至りしなり。然るに其商業会議所に排日問題起り、頻りに白人労働者を入れんとしつゝあり。其理由は過去十五年間に於て、日本人より得たる利益は多大なるに相違なきも、若し始めより白人労働者を使用したらんには、現状より以上の繁昌を来し居りたるならんと云ふに在り。尚ストリクトンのローダイ地方の葡萄畑は、殆ど全部日本人の手に成り居れり。同地商業会議所に於ても、日本人労働者を減ぜざるべからずとの説あり。又羅府は最も親日派の人多き都市として知られ居るにも拘らず、昨今同様の決議をなせりと聞く。此等は区々たる労働者の排日運動よりも、一層注意せざるべからざる点なり。在加州同胞の之に力を尽すは勿論、母国に在る為政家にも、亦一臂の援を藉らざるべからず。(下略)