デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
1款 渡米実業団
■綱文

第32巻 p.358-374(DK320013k) ページ画像

明治42年11月26日(1909年)

是日栄一等渡米実業団一行、サン・フランシスコニ着ス。同日及ビ二十九日、栄一及ビ日本六商業
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会議所代表者等、アメリカ合衆国太平洋沿岸各商業会議所代表者ト相会シ、両者協力シテ貿易ノ増進拡張ヲ図ランコトヲ決議ス。


■資料

竜門雑誌 第二五九号・第四一―四二頁 明治四二年一二月 △桑港に着す(桑港十一月二十六日発電)(DK320013k-0001)
第32巻 p.359-360 ページ画像

竜門雑誌  第二五九号・第四一―四二頁 明治四二年一二月
△桑港に着す(桑港十一月二十六日発電)
 我実業家一行は二十二日サンデイヤゴに着し、太平洋海岸の勝地及びラジヤヨガ学校(電文不明)を訪ひ、コロネード旅館にて盛なる午餐の饗応を受け、二十三日にはリバーサイド土人教育所を参観し其よりレツドランドの広大なる蜜柑畑を通過し、到る処日本人労働者より歓迎を受けたり、二十四日はアリゾナ州にてグランド・カニヨンの奇観を賞して一日の休養を為し、二十五日は、終日汽車にあり、二十六日午前九時オークランドに入れり、斯くて一行は三ケ月間寝食せしプルマン式の特別列車に別れを告げたるが、此の長日月間何等の故障もなく旅程を全うせしは、殊に一行の謝する所なり、オークランドにては市内見物の上、カリフオルニヤ大学を参観し、其れよりカンツリー倶楽部にて午餐会あり、席上会頭下院議員ノーランド氏等の歓迎辞、渋沢団長及び神田男の答辞あり、終りて桑港に向ふ、此処にて知事・市長等のレセプシヨンを受けて、フエアモント旅館に入れり
△凱旋門開門式(桑港十一月廿八日発電)
 実業団は二十七日市内及金門公園を巡覧し、クリフハウスに小憩して、コルマよりバーリンゲームに至り、カンツリー倶楽部に於て有志の招待にて午餐の饗応あり、神術家として有名なるボウイー氏の家に日露戦争紀念として建設したる凱旋門開門式を挙げられ、渋沢男其式を執行はれたり、次にデイーブル氏の招待を受けて後桑港に帰り直に旅館に入る、夜は団員の一部はボヘミア倶楽部に列席し、同会員の競技を見物し、学校にて日本協会の接見会に続いて、巌谷一六・久保田米仙二氏の遺墨展覧会あり、巌谷小波氏は特に演説をなせり、既に欧洲に向ひたる岩本・松村二氏を除くの外、一行悉く桑港に会合せり
△最終の歓迎夜宴(桑港十一月三十日発電)
 廿八日午前はフエヤモント・ホテル内に茶話会を開き、午後はハギワラ公園を巡覧し、夜に入りて当地在留の日本人会主催の歓迎会に臨み、純日本料理の饗応を受け、宴後在留民の希望にて中野武営・大谷嘉兵衛・上遠野富之助・巌谷季雄氏等の演説ありたり、廿九日午前は各自専門に関する会社工場等を参観視察し、午後はマーチヤント・ヱキスチエンジに公式歓迎を受け、夜間はセント・フランシス・ホテルに盛大なる晩餐会を催ふされたり、其席上ギルレツテ知事、テーラー・スバイス議長、太平洋汽船会社のスチウエリン氏等交々起つて熱誠なる歓迎演説を試みられしに対し、渋沢・神田両男爵叮嚀なる挨拶ありたり、一行に随伴せる水野ニユーヨーク総領事は日本語に、頭本元貞氏は英語に各々通訳の労を執る事、当夜を以て実に百回余に及べり、斯て米国に於ける最終の晩餐会は、極めて
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愉快に又有益に相互の歓を尽して、深更に至り散会したるが、当夜の主人側たるギルレツテ知事は、曩に排日問題の起りし当時前大統領ローズベルト氏の旨を受けて熱心之に反対せる人なり、以て当夜の会合が如何に真実の度を進めしかを知るに足るべし
△地洋丸の告別宴(桑港十一月三十日発電)
 一行は本日(卅日)午後一時東洋汽船会社の地洋丸にて帰朝の途に就く、九月シヤトル上陸以来三ケ月間、一行男女共一人の病者を出さず、一行強健にして此使命を全する事を得たるは、上 陛下の御稜威と下国民の後援に依る所と深く感謝す、一行は地洋丸にて朝餐会を催し、三ケ月間寝食を共にしたる米国側の歓迎委員と当地の重なる日米人都合五十名を招き、渋沢団長より一場の告別演説をなし知事代理・歓迎委員長等の答辞あり、甚大盛会なりき、地洋丸出帆の際は音楽隊の奏楽あり、見送の日米人は埠頭に充満し、万歳の声盛んに起る、尚ニユーヨーク以来宿題となれる日米両国商業会議所間の連絡を通じて相互通商の便宜を計かる件は、桑港着以来数回の協議を経て、二十九日夜左の決議をなすに至れり、即ち
  第一、双方の聯合商業会議所は協同して日米貿易の増進を計る事
  第二、右の目的を達せん為、特に双方に於て各自常設委員又は役員を置きて相互の連絡を執る事


渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第四二八―四三五頁明治四三年一〇月刊(DK320013k-0002)
第32巻 p.360-362 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第四二八―四三五頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第八章 回覧日誌 西部の二
    第十二節 桑港附オークランド
十一月二十六日 (金) 晴
 午前六時オークランドに着、先きに一行と別れたる松方・田村の諸氏、及多木氏夫妻等此所にて一行に会す。一行が三ケ月来寝食せる特別列車、所謂「輪上の家」は、此に辞し去らざるを得ず、馴染深き車内のボーイ等使用人の中には、別を惜んで涙を浮ぶる者さへあり。一行も亦日頃の労に酬ふる為め、金員・紀念品など与へて、篤く之を犒へり。
 九時半自働車に分乗して市内を見物し、アラメダよりバアークレーに至り、カリフオルニア大学を訪ふ、構内希臘式劇場にて略式歓迎式あり、桑港の歓迎委員にして、親日家の頭領とも称すべきドールマン氏、同大学校長フレーヤー氏の歓迎の辞あり、神田男、之に答ふ。大学中採鉱科教室等を見物し、午後一時半田園倶楽部に着、少憩の後ち、大食堂にて午餐を饗せらる。席上オークランド商業会議所会頭クレイ氏、下院議員ノーランド氏等に次で、ドールマン氏亦熱心に歓迎の演説を為し、最後に渋沢団長一応の答辞を述べたる後ち、吾等は一日も早く帰朝せんことを欲すれども、是れ故国を慕ふの意切なるが為めよりも、寧ろ米国各地に於ける厚意を、一日も早く母国の人々に告らせたきが故なり、(中略)我団は日米関係の将来に就いても、大いに企劃する所あらんとす。大富源を有し、且つ親交ある米国との将来は、殊に希望あり、且効果あらんを信ず、即ち各地にて受けたる懇情の、唯一場の夢とならずして、将来も事実上
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に大いに懇親の実を挙げられんことを切望す。云々と述べ喝采を博したり。蓋し団長は、先にロスアンゲレスにて休養以来、始めて此種の会に臨めるなり。
 終りて一同は、自働車・電車等にて、ケイ・ルート・インに到り、玆に桑港商業会議所の歓迎委員と接見し、其案内にて特別電車に分乗し、渡船場に赴く、艀船は桑港マーケット街の下手なる発着所に着、同所階上にて奏楽の中に接見会あり、玆に州知事ゼームス・ギレット氏、市長テイロル氏、商業会議所会頭マクナブ氏等の歓迎の辞あり、渋沢男之に答ふ。夫れより一同は自働車に分乗して、丘腹なるフェーヤモント・ホテルに入る。今夕は正金銀行及東洋汽船会社共に好意を以て、支店員をホテル内の我団事務所に派遣し、両替及切符其他の手続を便宜にす。
十一月二十七日 (土) 晴
 午前九時出迎の自働車に分乗し、住宅区域十数哩を見物し、夫れより金門公園の勝景を見、後ちクリッフ・ハウスにて少憩、正午コルマに着、零時十分コルマを発して、バーリンゲームに着、夫れより自働車・馬車に分乗して、同地の田園倶楽部に至り、弁護士スコット氏並に有志の招待にて午餐の饗応を受く。
 午後三時一同はヘンリー・ピー・ブイ氏の私邸に至り、同氏が日露戦捷紀念として、特に建設したる凱旋門の開扉式に臨む。ブイ氏の流暢なる日本語の挨拶に次いで、渋沢男祝辞を述べ、尚ほ手づから綱を引いて門扉を開く。式後、同邸園内にて茶菓を饗せらる。午後四時頃転じてサブラ氏の招待に応じ、同邸内の純日本式庭園を参観し、五時頃特別列車に分乗して帰宿す。今夕ボヘミアン倶楽部にて同会員の芸競べあり、拾数名の団員之に出席せり。尚九時より当館の隣なる桑港美術学校にて、日米協会の接見会あり、多数出席す。
 同会には故巌谷一六居士及故久保田米仙氏の遺墨展覧あり、皆ブイ氏の所持に属す。蓋し氏は有名なる日本通にして、只に邦語を能くするのみならず、書を一六居士に、画を米仙画伯に学びて、共に自在の域に在り。接見会の後、ブイ氏の紹介にて、巌谷氏日本文学に関する一場の講話(高石氏通訳)を為す。
十一月二十八日 (日) 晴
 午前九時より正午迄ホテル内レッドルームにて、在米日本人会主催の茶話会あり、在留民の主なるもの約五十名出席し、団員と共に沿岸の事情、通商貿易の関係等を懇談す。
 午後二時半、一同は自働車にて金門公園内の日本茶亭に至り、茶菓の饗応を受け、午後三時半より青年会館の歓迎会に出席す。午後六時より小川亭に於て日本倶楽部主催の晩餐会あり、席上永井領事の挨拶、黒沢氏の歓迎辞、左右田氏の演説、堂本・塚本・石橋氏等の演説あり、次で渋沢男は、我団の成立より、シヤートル上陸後今日迄の大要及内情等を詳論せり。
 同夜八時より「ノベルチー」座に於て、在米日本人主催の演説会あり。会長牛島謹爾氏の開会の辞に次で、中野・上遠野・西村・巌谷の諸氏演説す。
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 婦人の部 今夕婦人連は、正金銀行支店長穂積太郎氏宅の晩餐会に招かる。
 各地より来電数十通を受く、其二三を採録すれば
    田中領事よりの来電(渋沢男宛)
  閣下及御一同の長途御旅行の成功を祝し、併せて海路の平安を祈る。
    沼野領事よりの来電
  米国巡遊の御旅程を全うし、御帰朝に際し、邦家の為め渋沢男爵及団員・随員諸賢の健康を祝す。
    紐育三井物産会社支店より来電(渋沢男宛)
  御一行数ケ月に亘る御旅程の後無事御乗船を祝し、国家の為め今後御一同御無事の御航海、御帰朝を祈る。
    高峰博士より(渋沢団長宛)
  実業団一行の渡米御成功を祝し、併せて御航海の御無事を祈る。
十一月二十九日 (月) 晴
 午前九時より各員は左記の各処を視察す
  株式市場及銀行(小池・飯田・町田)
  教育、州立大学附属手工学校(熊谷・神田男)
  絹物及デパートメント・ストア(堀越・伊藤・久保田)
  造船業(松方)
  水道(原博士) 医学(熊谷)
  陶磁器(藤江) 建築(原林・田辺)
 其他の諸氏は荷物整理・買物・訪問等に忙殺せらる。
 午後二時十五分、団員一同は桑港商業会議所を訪問し、同二時三十分より四時迄「マアチャント・エキスチェンジ」(取引所)の階下広間にて歓迎式を行はる。午後六時四十五分、一同はセント・フランシス・ホテルに向ふ、同ホテル内「コロニアル・ボール・ルーム」に於て正式晩餐会あり。席上商業会議所会頭マクナブ氏、渋沢男、知事ギレット氏、市長テール氏、及ローマン氏、シユウエリン氏等の演説あり、夜半散会、一同フェヤーモント・ホテルに帰る。
 我団は明日を以て解纜帰朝の途に就くを以て、渋沢団長は桂総理大臣・小村外務大臣に宛て左の電報を発せり。
  四十二年十二月一日
   桂総理大臣宛 (各通)        渋沢栄一
   小村外務大臣宛
 我実業団は、本日桑港より乗船帰朝の途に上らんとす
 陛下の 御聖徳と国威の余光とに依り、到る処予想以上の歓待を受け、寧ろ平生に優るの健康を以て、三ケ月の米国内地旅行を終へたるは、一同の幸とする処、若し夫れ意志の疏通に裨益し、国民的外交に一歩を進め得たりと云ふべくむば更に望外の幸なり。
 団員を代表して謹而報告す。


渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第五六〇―五七五頁明治四三年一〇月刊(DK320013k-0003)
第32巻 p.362-368 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第五六〇―五七五頁明治四三年一〇月刊
 ○第三編 報告
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    第四章 日米聯合商会議所協同に関する件
今回の米国訪問は、大体に於て良好なる進行をなし、到る所予期以上の款待を受け、其結果今後日米両国間の親交及貿易に裨益する所あるべきは、之を疑ふの余地なしと雖も、宴会に次ぐに宴会を以てし、演説に酬ゆるに演説を以てし、歓呼の中に相別るゝのみにては、未だ以て我実業団の任務を完全に遂行したるものと云ふべからず。能ふべくんば何等かの形式に於て、具体的に此効果を永遠に有すべき手段を講ずること、甚だ望ましき処にして、又た最も緊急の務なりと思はれたり。此に於て九十日の大陸旅行将に結了せんとするに際し、渋沢男爵は、昨年米国太平洋沿岸聯合商業会議所代表者の本邦来訪に際し、其委員長として、常に代表的の地位を占め、尚帰米後も日米親交の為めに熱心尽力しつゝある、ドールマン氏に対し、前述の趣意を内談する所あり、ドールマン氏亦其意を諒し、之をローマン氏其他に諮りたる結果、左に載録する記事の如く、太平洋両岸聯合商業会議所の協同に付き、一の決議を見るに至れり。蓋し此提案たるや、渋沢男爵が日米貿易の増進、両国交情の良好を希望する熱心より提議したるものなれとも、事の玆に至りたるは、固より我実業団渡米の結果にして、此決議を将来に有効ならしむる方法手段を講するの責任は、全然移つて両国の商業会議所に存すと雖も、我実業団の記事を了るに当つて、此決議を載録するは、極めて必要なることゝ思惟す。
  左の記事はローマン氏英文にて調製したるを原本とす
      第一委員総会記事
明治四十二年十一月二十六日、米国桑港フェアモント・ホテルにて開会、出席者左の如し。
    日本側
     男爵 渋沢栄一   (団長)
        中野武営   (東京商業会議所会頭)
        土居通夫   (大阪商業会議所会頭)
        西村治兵衛  (京都商業会所議会頭)
        大谷嘉兵衛  (横浜商業会議所会頭)
        松方幸次郎  (神戸商業会議所会頭)
        上遠野富之助 (名古屋商業会議所副会頭)
    総領事 水野幸吉   (紐育駐在)
     領事 永井松三   (桑港駐在)
        頭本元貞
    米国側
     ゼ・デー・ローマン (米国太平洋沿岸聯合商業会議所会頭シヤトル商業会議所会頭)
     エフ・ダブリュー・ドールマン (桑港商業会議所)
     シー・エッチ・ハイド (タコマ商業会議所)
     オー・エム・クラーク (ポートランド商業会議所)
     シー・エッチ・ムーア (スポーケン商業会議所)
     ロバート・ダラー (桑港商業会議所)
     アール・ビー・ヘール (同上)
     キャプテン・バーンソン (同上)
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     ストールマン (桑港商業会議所)
     ダビットソン (サンディアゴ商業会議所)
ドールマン氏の提議に依り、ローマン氏座長席に着く、頭本氏書記の事務を掌る。
座長開会を宣言す。
ドールマン氏曰く、数日前渋沢男爵より、日米両国商業会議所間に、一時的ならざる協同の或方案を講究することの望ましきに依り、其為めに桑港に於て、一の相談会を開きたき希望を申出でられたる処、自分は之を至極良き思付と思慮したり。自分が先年日本滞在中視察したる処に依れば、日本人は米国より相当の利益を以て、日本へ売込み得べき物品を、欧洲より購入しつゝあるの事実あり。若し斯かる事態を来たすべき原因が、日米両国間の貿易の上に存在するに於ては、其障礙を除くことは目下の急務なりと思慮す。日本国民は米国に対し、良好なる友情を有するに依り、米国商人は日本に於て多大の便宜を有することは疑ひなきも、米国人自ら日本に於ける市場を開拓することに付き、甚だ活動し居らざることは、顧みて極めて遺憾とする所なり。
故に此点及類似の問題に付き、出席の日本紳士より、何等の意見を発表さるゝことを歓迎すと。
渋沢男爵は、自己の希望が斯く欣然として日米紳士の間に容れられたるに付き満足の意を表し、且つ斯く両国実業者間訪問の交換及好意の表彰が、満足に行はれたる以上、何等具体的実務的の形式に於て、相互間に存在する友情を表彰するべき効果を生ぜざるは、実に遺憾のことにして、此会合が何等永久に或る形式によりて利益ある結果を来たさんことを切望する旨を述べ、尚本問題に関して後に愚見を詳陳する所あるべきも、先づ列席の各員より、虚心担懐に意見のある所を吐露せられんことを希望する旨を述べたり。玆に於てムーア氏は、日米実業家協同の希望は、具体的に言へば過般米国製農具を日本に売拡むることに関し、ハッカム氏と渡瀬寅次郎氏との間に相談しつゝありたる如き、実際的の形式に出でんことを望む旨を述べ、兎に角、米国農具製造家は、日本へ専門技師を派出し、日本に於ける購買力及市場の現状を調査するべき価値ある旨を述べたり。
松方幸次郎氏は、米国製造家が日本に於て取引をなすに付て、極めて無頓着なることに関し、列席者の注意を請はんとする旨を述べ、自分は機械類を手広く購入する造船所長として、常に欧米各地に註文を発する所、独逸又は英国に註文したる場合に於ては、製造家は機械の引渡しと共に、専門技師を日本に派出し、其運転其他に付き、十分なる注意助力を与ふるを常とするに反し、米国の製造家は、毫も斯かる手段を採らず、単に機械の送付を以て任務終れりとするを常とす。斯かる事態は、要するに米国の国内に於ける需用過多及市場の豊饒なるに起因するものなりと思はるれども、米国は日本に取りては、最近の西洋国なれば、米国実業家にして、日本貿易に対し現在以上の注意を払はざるが如きは、甚だ悲むべき現象と信ずる旨を述べ、尚米国州際通商委員会の決定が、日米両国間の運賃を高率ならしめ、以て貿易の増進を妨げるの結果を生ずることに論及し、終りに日米両国貿易増進の
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為めに、一の国際団体を組織するの議を提出せり。
玆に於て渋沢男爵は、日米両国間に、国際通信の方法を開設せられんことを希望する旨を詳陳し、且つ両国政府に対し、商工事務官設置及任命を建議することの必要又有益なるべき旨を附言せり。尚ローマン氏の発意に依り、シヤトルにて目下調製中なる貿易品に関する精密なる価格表の如きものは、極めて有益なりと信するに依り、斯かるものを双方に於て調製し、之を交換することは多大の利益あるべしと思はるゝを以て、更に此趣意を拡張して、太平洋の両岸にある日米聯合商業会議所の提携、若くは協同を以て、両国通商増進に資するため報告を交換し、其他必要の場合に於ては、一致の運動を取る如きは、現下の状況に徴し、必要なる考案ならずやと提議せり。
上遠野富之助氏及西村治兵衛氏は、太平洋両岸商業会議所協同事務所様のものを設置するの議を賛成する旨を述べたり。
ダラー氏は、日米両国間の貿易は、常に輸出入の均衡を保つ能はず、其結果米国より、常に金貨を日本に輸送せざるべからざるに至るの現象を悲む旨を述べ、尚松方氏の述べたる如く、州際通商委員会の運賃に関する行動に付き、遺憾の意を表し、該委員会は、外国貿易を阻害するものなりと評するも、敢て過酷ならざるべしと信ずる旨を述べ、更に進んで日本聯合商業会議所と、米国太平洋聯合商業会議所との間に、直接通信の永久的機関を設置するの案は、極めて妙なるべしと考ふるも、唯た此際に於て、米国の政治家若くは商工業家が、日本に其代理者を派出し、実地に付て商工業の状態を視察することは、更に必要なるべしと思慮する旨を述べたり。
大谷嘉兵衛氏は、渋沢男爵の提案に賛成する旨を述へたり。
次に渋沢男爵は曰く、「自分が日本聯合商業会議所と、米国太平洋聯合商業会議所との間に、直接通信の方法を設立せんことを建議したるに付一言注意を請ひたきは、予の此提議は、敢て日本の各開港場に在住して業務に従事せる外国商人の業務を妨害せんとする趣意にあらず。斯る誤解なからんことを希望に堪へず、予の意思は全く之に反す。予の見る所に依れば、日米両国聯合商業会議所間の協同の結果として、両国の貿易を増進し、延て是等商人若くは外国商館の事業は益々発展増加こそすれ、決して減少することなかるべしと信ずるなり」と。
キャプテン・バーンソン氏は、松方氏の州際通商委員会に関する所言を、全然賛成する旨を述べ、該委員会の為めに、米国輸出業者は、英国若くは独逸の競争者と、日本の市場に於て対等の地位に立ちて角馳すること、殆ど不能なるに至れりと述べ、米国商人が日本の市場を、実地に就て研究するの必要を極言し、氏が曾て日本に在りたる際、花筵業の実状を研究し、外国仲買商人の反対中傷ありしに拘らず、自ら日本当業者と直接に取引を開きたる経験に依り、極めて満足良好なる結果を得たることを述べたり。
座長ローマン氏は、州際通商委員会の決定の結果として、斯かる不都合なる事実あるに於ては、合衆国国会に建議若くは請願をなす為めに委員を指名すること或は必要なるべしと述べたり。
時に土居通夫氏は、此機会を利用して、外国に於ける大阪製品に対す
 - 第32巻 p.366 -ページ画像 
る粗製濫造の非難に関し一言する所あり。大阪製品の粗製濫造に陥りたる実際の原因は、主として註文者の希望が斯かる粗製品を要するが為めにして、製造家は不本意ながら其註文に相当する物品を産出する次第なれば、必しも大阪の製造家のみを非難すべきに非ざる旨を述べたり。
モーア氏、キャプテン・バーンソン氏、ドールマン氏等、尚続ひて発言を求め、渋沢男爵の提議、即ち日米両国間の貿易を増進する為めに協同の行動を取る目的を以て、日本聯合商業会議所と米国太平洋聯合商業会議所との間に、直接通信の永久的機関を設置するの議を賛成する旨を述べたり。
此時ムーア氏及キャプテン・バーンソン氏等は、商工事務官の任命を政府に請ふの一案は、日本は兎も角、米国に於ては其要を認めざる旨を切言し、之を撤回せられんことを述べたり。
松方氏も亦、聯合の通信機関を設くるの議に賛成するも、商工事務官の任命に関し、米国国会又は日本議会に建議若くは請願をなすことには、賛成する能はざる旨を述べたり。
玆に於て、座長は此会合に於て論議したる所を綜合したる一の決議書を起草する為めに、特別委員四名を出すの議を提出し、満場一致可決したり。
ドールマン氏続いて、右特別委員は、米国側より二名、日本側より二名、計四名たるべきこと、而して米国側の二名はローマン氏之を指名すべく、日本側の二名は渋沢男爵之を指名すべきことを提議せり。
右の提議は可決され、渋沢男爵は松方幸次郎・頭本元貞の両氏を、ローマン氏はモーア、キャプテン、バーンソンの両氏を指名したり。
      特別委員会記事
特別委員会は、明治四十二年十一月二十八日、フェーアモント・ホテルに於いて開会、出席者キャプテン・バーンソン、ムーア、松方幸次郎、頭本元貞氏「外に特に有益なる助力をなしたるヘール氏列席。」キャプンテン・バーンソン氏座長席に就き、評議の末、左の決議案を次回の委員に提出すべきことを可決せり。
      決議案
玆に代表者の会合せる日本聯合商業会議所及び米国太平洋沿岸聯合商業会議所は、訪問及び歓待を交換し、又斯る友誼の交換より、何等現実且つ有利なる結果を収むるの要を認め、左の通り決議す。
此の会合は、各自所属の聯合会議所に対し、左の二項を提議勧奨する事。
 (一)両聯合商業会議所は、両国間の貿易を増進拡張する為に協力する事。
 (二)両聯合商業会議所は、各自委員(団体)を設定し、又は吏員を任命すべく、該委員又は吏員は、他の一方の委員又は吏員と聯絡協力し、以て左の任務を尽すべし。
   両国の物産・製造品及需要に関する報告を蒐集配布する事、
   通商上現存する障礙を調査報告し、之を除去することを努むる事、
 - 第32巻 p.367 -ページ画像 
   両国間の商業を発達増進する手段・方策を案出する事、
   若し有利なりと認むれば、前現事項を商量措置する為に、日米国際商業会議所の設置を以て究竟の目的とすべし。
 (三)本特別委員会は、両国間の貿易を増進奨励する為に、商工事務官の設置を日米両国政府に建議することは、現下の事情に於て時機を得たるものにあらずと信ず。
尚特別委員会は、前述第三項の商工事務官に関する一節を削除すべきことを、委員総会に勧告することに決議したり。
      第二委員総会記事
明治四十二年十一月二十九日、フェーアモント・ホテルに於て第二委員総会開会、出席者左の如し。
    米国側
         座長 ローマン
            ドールマン
            ブース(ロス・アンゲレス)
            ダビットソン
            モーア
            オスボーン(ロス・アンゲレス)
            クラーク
            キャプテン・バーンソン
    日本側
         男爵 渋沢栄一
            中野武営
            松方幸次郎
            土居通夫
            西村治兵衛
            上遠野富之助
        総領事 水野幸吉
         書記 頭本元貞
特別委員の報告あり、引続いて前現商工事務官任命に関する第三節削除の議を提出し、満場一致を以て左の決議を通過したり。
      決議案
玆に代表者の会合せる日本聯合商業会議所、及ひ米国太平洋沿岸諸州商業会議所は、訪問及び歓待を交換し、又斯る友誼の交換より、何等現実且つ有利なる結果を収むるの要を認め、左の通り決議す。
此の会合は、各自所属の聯合会議所に対し、左の二項を提議勧奨する事。
 (一)両聯合商業会議所は、両国間の貿易を増進拡張する為に協力する事。
 (二)両聯合商業会議所は、各自委員(団体)を設定し、又は吏員を任命すべく、該委員又は吏員は他の一方の委員又は吏員と聯絡協力し、以て左の任務を尽すべし。
   両国の物産・製造品及び需要に関する報告を、蒐集配付すること。
 - 第32巻 p.368 -ページ画像 
   通商上現存する障礙を調査報告し、之を除去することを努むる事。
   両国間の商業を発達増進する手段方策を案出する事。
   若し有利なりと認むれば、前現事項を商量措置する為めに、日米国際商業会議所の設置を以て、究竟の目的とすべし。
以上の決議に基き、米国太平洋沿岸聯合商業会議所の代表者は、各々帰郷の後、之を其所属商業会議所に提出し、其決議の結果を報告をすべく、我六商業会議所も、各代表者に於て帰国の上、之を所属商業会議所に提出して、其可否を問ふ筈にて、若し幸にして米国太平洋聯合商業会議所所属の各商業会議所に於て之を採用し、尚一面我六商業会議所に於ても之を可決したるときは、玆に日米聯合商業会議所が、協同の機関を設置するに至る順序にして、米国側よりは未だ其後の報告に接せずと雖、本邦の六商業会議所に於ては、先づ名古屋を始めとし漸次之を可決したる趣の報告に接せり。


渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第五四六―五四七頁明治四三年一〇月刊(DK320013k-0004)
第32巻 p.368 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第五四六―五四七頁明治四三年一〇月刊
 ○第三編 報告
   第二章 電信雑輯
○上略
      大統領への謝電
一行が桑港出発の前日、即ち十一月二十九日、渋沢団長は大統領に宛て左の電報を発したり。
 貴国沿岸を去るに当り、日本実業団に代り、閣下が親しく表されたる好意に対し、謹で感謝の意を表す。当共和国の元首たる閣下に対し、本団が随時随処、貴国の市民より受けたる好意と礼譲に対し熱心なる謝意を表し、切に閣下の栄福と貴国の繁栄を祈る。
  十一月二十九日      桑港にて
                日本実業団長
                  男爵 渋沢栄一
    華盛頓白堊殿にて
     大統領閣下
十一月二十九日より三十日に渉り、市俄古大学のモーア教授、華盛頓のウードフオード将軍、紐育の高峰博士、スプリングフィルドのバッカム氏、華盛頓国務省のミラー氏、聖路易のステブンソン氏、及其他各地より、続々無事帰国を祈る旨の電報に接したり。


渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第五四八―五五四頁明治四三年一〇月刊(DK320013k-0005)
第32巻 p.368-370 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第五四八―五五四頁明治四三年一〇月刊
 ○第三編 報告
    第三章 感謝の決議
九十日に亘り一万一千哩に及べる大旅行も、幸に何等の故障と不快なくして結了し、愈々明日を以て纜を解き、帰帆を金門湾頭の順風に孕まさんとするの時に際し、一行は終始行動を共にしたる米国委員諸氏に対し、感謝の決議を為し、其趣を当該諸士に通知したり。
左に其書状の訳文を採録す。
 - 第32巻 p.369 -ページ画像 
 第一 太平洋聯合商業会議所に宛てたるもの(原文英語)
太平洋聯合商業会議所会頭ゼー・デー・ローマン殿
 拝啓、陳者日本実業団員は、今将に米国を去らんとするに臨み、満場一致を以て、左の決議を通過致し候
   決議文
 我団は、太平洋聯合商業会議所の招待に応じ、米国に来り其賓客として国内を旅行したるに依り、
 我団は、各商業会議所より各別的に、又た集合的に、最も懇篤なる歓待と無上の優遇とを受けたるに依り、
 我団は到る処の都市に於て、所在の商業団体及び此大共和国の全部に渉る、民衆の各階級を通じて、最も深厚なる待遇及び好意を受けたるに依り、
 左の通り決議す。
 「我団は太平洋聯合商業会議所が、我が大旅行を愉快且つ有益ならしむる為めに、各別的集合的に尽されたる好意に対し、永久渝らざるの感謝と、日本国民の商業的代表者に対する是等商業会議所の殊遇に対する、日本国民の感謝とを玆に記録に留むる事。」
 「我団員が米国民衆の間に過したる間の、最も愉快且つ幸福なりし記憶と、我友邦の国民の福祉繁栄に対し、誠実なる祈願とを抱いて、此国を去ること。」
 「此決議は団長渋沢男爵より、太平洋聯合商業会議所会頭ゼー・デー・ローマン氏に伝ふべきこと。」
                     (以上)
右通告得貴意候 敬具
 千九百九年十一月二十九日
   カリフォルニア桑港フエーアモント・ホテルにて
        日本渡米実業団長 男爵 渋沢栄一(手署)
 第二 ローマン氏一人に宛てたるもの(原文英語)
太平洋聯合商業会議所会頭ゼー・デー・ローマン殿
 拝啓、陳者今回の長き且つ愉快なる旅行が、斯く満足なる成功に終らんとするは、御同慶の次第に候。事の玆に至りたるに就ては我一行は主として貴下に感謝すべき理由を有し候。仍て本日実業団が満場一致を以て通過せる左の決議を、貴下に通告するは、下名の最も愉快とする所に有之候。
   決議文
 「我団は、玆に太平洋聯合商業会議所会頭ゼー・デー・ローマン君が、団員一同に表されたる個人的の親切及び好意に対し、又日米両国間の友情を温めんが為めに、今回の旅行に関する一切の事務を遂行するに当り、終始勤勉・耐忍・犠牲献身的の精神を以てせられたる、其大貢献に対し、深厚なる感謝の意を記録し、尚ほ今回旅行の成功は主として氏の力に依るものなることを認む。」我団員は今やゼー・デー・ローマン氏と別るゝに際し、特に愛惜の情に堪へず。而かも過去三個月間氏と事を倶にしたるに対しては、最も愉快なる記憶と、且つ氏の今後の成功及び繁栄に対し、
 - 第32巻 p.370 -ページ画像 
衷心よりの祝福を抱いて此地を去ることを録す。
 以上の決議文は団長渋沢男爵よりローマン氏に伝達すべきこと。
                     (以上)
右御通知旁、玆に重ねて貴下に敬意を表し候 敬具
                男爵 渋沢栄一(手署)
 第三 随行米国委員諸氏に宛てたるもの(原文英語)
タコマ商業会議所代表者 シー・エッチ・ハイド殿
桑港商業会議所代表者 チャールス・ストールマン殿
ポートランド商業会議所代表者 オー・エム・クラーク殿
ロスアンゲレス商業会議所代表者 エッチ・ジー・オスボーン殿
スポケーン商業会議所代表者 シー・エッチ・ムーア殿
米国商務労働省代表者 ヂャクソン・エス・エリオット殿
同上教授 ジョン・パウエル・グード殿
ミルヲーキー、セント・ホール、ミネアポリス及
ヅュリュース代表者
    ウヰスコンシン大学教授シー・ダブリュー・ギルマン殿
シカゴ、デスモアンス、オマハ代表者(シカゴ商業会議所会員)
    ダブリュー・エッチ・マンス殿
紐育州西北部代表者(バッファロー商業会議所会員)
    エフ・ダブリュー・ローゼンバァガー殿
聖路易及カンサス市代表者
    前州知事エフ・アール・フランシス閣下
(以上各通)
拝啓陳者日本渡米実業団員は、今や米国を去らんとするに臨み、左の決議を通過致し候。之れを貴下に御通知するは、下名の愉快とする所に有之候。
   決議文
「日本渡米実業団は、米国紳士にして、合衆国諸官省、又は各地の商業会議所を代表し、我一行と旅行の全部又は一部を倶にせられたる各位が、終始我団員に対して、好意及優遇を与へられたるに関し衷心よりの認識と、深厚なる感謝とを玆に記録す。
斯る紳士諸君と、斯る事情の下に密接且つ愉快なる友誼を結び得たるは、団員の特権と思料する所なり。
以上の決議は、各別に右の米国紳士諸君に、団長渋沢男爵より通知すべきこと」
                     (以上)
下名は玆に前述の決議を貴下に通知するに当り、此機会を以て下名及他の団員に対する貴下の好意に向つて、下名の個人的認識を附記致し度候 敬具
          日本実業団長 男爵 渋沢栄一(手署)
○下略


渋沢栄一声明書 一九〇九年一一月二九日(DK320013k-0006)
第32巻 p.370-372 ページ画像

渋沢栄一声明書  一九〇九年一一月二九日
          (ジェームス・ディー・ローマン氏所蔵)
 - 第32巻 p.371 -ページ画像 
              (COPY)
    Visit of Honorary Commercial Commissioners of Japan
      to the United States of America
       Sept. 3, to Nov. 23, 1909.
    STATEMENT OF BARON SHIBUSAWA
                    Nov. 29. 1909.
  In the course of this memorable trip, we have visited fifty odd cities, great and small, everywhere inspecting industrial plants and financial establishments, educational institutions and charity organizations. We have met and talked with thousands of people, including the President, and many other men prominent in every walk of life.
  We have thus had a unique opportunity of getting an insight into not only America's industrial, commercial and educational progress, but also of the great personal factors shaping the destiny of this Republic. We know America better than when we came, and I trust many an American knows the Japanese better because of this visit.
  To mention a few of my impressions of America, I have been struck in the first place by the enormous extent and diversity of natural resources. America possesses in boundless abundance everything required to make it a great and prosperous nation.
  Secondly, I have been struck by the wide distribution of your industrial activities throughout the country. Every one of the fifty odd cities we have visited, not excluding the smallest, has some industries of a unique character to show.
  Thirdly, we were deeply impressed with the immense capacity and possibilities of America's domestic market. At every great factory we were told that not more than ten per cent of its output is exported. This explains why America pays so little attention to the cultivation of foreign markets, and why she is so hopelessly outdistanced by her European competitors in the import market of Japan.
  Fourthly, even more surprising than her industrial progress, is the progress made by her in education. And what is most remarkable is the intimate connection maintained between the class room and the world of practical affairs, the greatest pains being taken to make instructions as practical as possible.
  Fifthly, our profound admiration has been excited by what the Americans are doing in the cause of charity. The great charity institutions adorning every city are the evidence of America's civilization, even more than her great industrial plants. Rich as America is in material wealth, she is no less rich in the wealth that is stored in the heart of man.
 - 第32巻 p.372 -ページ画像 
  If candid criticism may be allowed to a friendly observer, I may mention that the way in which your timber is felled and worked and the way in which you till the soil, seem to me rather wasteful. You possess abundance, and you can, for the present, afford to be wasteful. But your resources are not inexhaustible and it will be wise for you to provide for the future while you still possess abundance.
  In conclusion, I wish to emphasize that we leave American shores with the most pleasant memories of our trip of three months. We leave with our hearts indelibly impressed by the hearty friendliness and warm hospitality everywhere shown us. Above all we leave with the happy consciousness that the warm feeling of friendship is thoroughly reciprocal between the two nations.
                   (Signed)
                Baron Shibusawa



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第四三六―四四二頁明治四三年一〇月刊(DK320013k-0007)
第32巻 p.372-374 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第四三六―四四二頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第八章 回覧日誌 西部の二
    第十三節 桑港概況
合衆国第九位の都市にして、其繁栄なること、太平洋沿岸諸州に其比を見ず。加州の西北部、一方太平洋に沿ひ、他方桑港湾に面する延長二十哩・巾六哩なる半島の北端に位す。千九百八年の震災によりて、市の大部分は殆ど破壊せられたりと雖も、爾来更に大規模の設計により、改良を加へて再建せられ、過去二年間に、一億三千万弗の建築費を要せりと云ふ。
合衆国人口統計局の調査によれば、千九百年には三十四万二千七百八十二人なりしも、千九百八年には四十八万人に増加し、尚ほ桑港市役所を中心として、十五哩以内の市外を算する時は、総計九十万人に及ぶと称せり。
港湾及鉄道輸送上の設備完全せるが故に、水陸交通の聯絡頗る便にして、沿岸航海には、太平洋沿岸汽船会社、「ポートランド・エンド・サンフランシスコ」汽船会社、「アラスカ」汽船会社等あり、遠洋航海は太平洋汽船会社・東洋汽船会社及「オセアニック」汽船会社の汽船によりて経営せらる。
陸上運輸は桑港渡船場を経て各鉄道と聯絡す。其重なるものは「サウザーン・パシフイック」「セントラル・パシフイック」「ユニオン・パシフィック」「オレゴン・ショートラィン」等、ハリマン系統の経営に係るものと「ウエスターン・パシフィック」「デンバー及びライヲ・グランド」等グールド系に属するもの及ゼームス・ヒル系に属する「バーリントン」線「サンタ・フェ・システム」に属する線に拠れり。
加州は合衆国中最も地味肥沃にして、農業は著しく発達し、又各種の礦物に富み、製造工業も亦太平洋沿岸に於ては、他に比肩すべき都市なしと雖も、之を大西洋沿岸に於ける諸市に比すれば、尚ほ遜色なき
 - 第32巻 p.373 -ページ画像 
を得ず。而して主なる製造工業の種類を挙ぐれば、昇降機製造会社、電気・瓦斯会社、装飾用鉄器製造工場・食料品製造会社・製材会社・精糖会社・印刷会社・醸造会社・製油会社等は著名なるものにして、近時液体燃料の応用以来、各種工業は著しき発達を為せり。
当港に於ける最近一年間の輸出入額は、一億三千万弗に上り、輸出品の重なるものは金・銀・葡萄酒・果実・羊毛・石油・木材等、輸入品にては石炭・木材・米・砂糖・茶・咖啡等の原料、又は羊製品及び銀・絹布・毛織物・陶器・諸器械等にして、我国との貿易は最も重要なる部分を占め、過去数年間の日本との貿易は左の如し。

  年次     輸入額          輸出額         合計
                 弗           弗           弗
 一九〇四年  一六、七七〇、一九〇  一〇、四七五、五七四  七七、三四五、七六四
 一九〇五年  一七、五二九、二〇七  一八、五四八、九七四  三六、〇七八、一八一
 一九〇六年  一九、七四九、九六三   八、七四九、六〇八  二八、四九九、五七一
 一九〇七年  二〇、九五六、九八七   八、七三〇、三一〇  二九、七〇七、二九七
 一九〇八年  二〇、九二〇、九二二   六、四七〇、三九七  二七、三九一、三一九
 (千九百四・五両年の輸出増加は、日露戦争に基因せるものとす)

千九百八年十二月加州銀行監督官の調査によれば、金融界の状況左の如し。


 
銀行種別  個数    払込資本高         積立金            預金総高            前年度比較
                       仙             仙              仙              仙
 商業銀行 三十八 一八五、五三一、五六三、八五 一五、六六八、八三六、八七  六三、六四五、二五〇、四四  六、五七九、四七四、七六減
 貯蓄銀行  十三   五、五三〇、〇〇〇、〇〇  七、四三八、五六七、七九 一三四、四五四、五八四、四〇 一二、六四七、〇九〇、〇九減
 国立銀行  十一  一六、五五〇、〇〇〇、〇〇  八、三一一、七〇〇、〇〇  四二、二六七、〇四三、七〇 一〇、七五四、四九五、七二減



      手形交換高

  年次       金額
                      仙
 一九〇五年 一、八三四、五四九、七八八、五一
 一九〇六年 一、九九八、四〇〇、七七九、四六
 一九〇七年 二、一三三、八八三、六二五、八〇
 一九〇八年 一、七五七、一四一、八五〇、〇八

   附(一)オークランド市
当市は桑港と湾を隔てゝ相対立し、富豪の邸宅多く、桑港との間には常に連絡船往復す。千九百四年には人口八万三千に過ぎざりしも、現今に於ては二十万余に達せり。
南太平洋鉄道は終点も漸次当市に置き、サンタ・フェー鉄道も其線路の南端を当市に発す。西太平洋鉄道の終点も漸次当市に設置せらるべく、目下其工事を急ぎつゝあり。如斯当市は南太平洋・中央太平洋・サンタ・フェー及西太平洋の四大横貫鉄道会社各線の最終点となり、加之当市と桑港間は定期の通船によりて交通を便せり。
当市は桑港に営業せる商工業者の住宅地と云ふ可き地なれども、前述の如く交通の便あるを以て、各種商工業も漸次隆盛に赴きつゝあり。就中造船業は見るべきものあり。各種製造工場の多くは、桑港湾の東岸に集まり、加州中第二の工業地なり。
港内は船舶の碇泊に適するを以て、大船巨舶常に蝟集し、千九百八年に於ける出入船舶の総数三千八百二十四隻、其総噸数九十四万五千四百二十三噸なり。
 - 第32巻 p.374 -ページ画像 
   附記 サクラメント市
加州の首府にして加州政庁の所在地なり。金門湾を去る約九十哩、サクラメント河畔に在り。同河は加州中最大なるものにして、船舶の航行自由なり。気候温暖にして常に夏の如く、米国測候所の統計に依れば、一年の平均温度摂氏六十度にして、毎年降雨の量平均二十吋なりと云ふ。人口五万五千を有し、市内に大小の公園十三あり、又教育は極めて普及し、公立小学校十四ありて、教員百五十九名あり、最近に竣工したる高等学校は、其構造善美を尽し、二十五万弗の建築費を費せり。加州政庁は其規模の宏大なる州内第一にして、一千八百七十四年の建設に係り、一千四百五十万弗を投じたるものなり。
附近に豊饒なる田野を有するを以て、野菜果実の収穫多く、従つて是等の集散地たり。工業は別に見るべきものなし。銀行八行あり、其預金総高一千八百万弗なり。
  (三)サンノゼ市
桑港の南方四十哩を距る所に在り。海抜八十七呎、人口五万八千八百余にして、市の面積二十平方哩なり。気候温暖にして、半熱帯植物繁茂し、設備完全なる公園数多あり。公私学校完備し、郊外スタンフオード大学及びサンタ・クララ大学あり。
又ノートルダム大学は、市の中心にあり。市立図書館は一万五千冊の図書を有す、当市は元加州の首府にして、政庁の所在地たりしなり。
商工業は発達せずと雖も、果樹の栽培に適し、市内に羊毛・製革・農具の製造等見るべきものあり。南太平洋鉄道会社は此地に貨車製造所を有し、毎月二万三千弗の労銀を仕払ふ。其他煉瓦製造会社二、醸造会社三、果実缶詰業者十三、乾燥果実製造所二十三あり。当市を距る二十八哩、海抜四千二百九呎の高地ハミルトン山頂に、世界第二と称する屈折望遠鏡を設置せるリック天文台あり、ゼームス・クラーク氏が、七十五万弗を費して建設したるものなり。