デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
2款 中国行
■綱文

第32巻 p.549-558(DK320026k) ページ画像

大正3年5月25日(1914年)

是日栄一、北京ヲ発シテ南口ニ赴キ、明ノ十三陵ニ詣デ、二十六日八達嶺ニ到リ、万里長城ヲ一覧シ北京ニ帰ル。二十七日天津ニ到ル。コノ夕発熱臥床ス。二十八日病気ハ軽快セルモ予定ヲ変更、孔子廟参拝ヲ中止シ直ニ帰朝スルニ決ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正三年(DK320026k-0001)
第32巻 p.549-551 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正三年   (渋沢子爵家所蔵)
五月二十五日 晴 暑気昨日ト同シ
午前六時起床、入浴シテ旅装ヲ理ス、蓋シ北京ヨリ張家口行ノ汽車ニテ南口ニ抵リ十三陵ノ古蹟、及八達嶺ニ於テ万里ノ長城ヲ一覧ノ為メ午前八時発ノ汽車ニテ北京停車場ヲ発ス、十一時南口ニ抵リテ下車シ南口ホテルニ於テ午飧ス、食後竹輿ニテ十三陵ニ抵ル、麦圃ノ里道頗ル狭隘ニシテ険悪ナリ、南口ヲ発シテヨリ三時間余ニシテ漸ク十三陵ノ第一牌楼ニ達ス、夫ヨリ旧公道ヲ経テ行クコト数十町、路傍ニ石馬石人等多ク並立ス、頗ル古色アリ、且巨大ノモノナリ、行々遂ニ成祖文皇帝ノ大廟ニ抵ル、柱石其他規模実ニ広大ナリ、此辺田園ニハ果樹多キモ、大廟及石人其他皆荒廃ニ委ス、惜ムヘキノ至リナリ、一覧畢リテ帰路ニ就ク、午後七時過南口ニ帰着シ南口ホテルニ一泊ス、寒駅ノ一夜又以テ旅興トスルニ足レリ
五月二十六日 払暁小雨後晴、夕方雷雨来、風塵殊ニ多シ
午前四時半起床、此日ハ八達嶺ニ抵リ有名ナル万里長城ヲ一覧スル筈ナレハ、匆々ニ朝飧ヲ食シ、五時五十分南口発ノ汽車ニテ八時頃青竜車站ニ抵リ、車ヲ下リ竹輿ニテ山上ニ抵ル、北門鎖鑰ノ四字ヲ彫刻セル城門ニ於テ竹輿ヲ離レ、嶺上ヲ徒歩ス、此処ニテ長城ノ概況ヲ一望ス、想フニ此長城ハ秦代ノモノニハアラスシテ、明時代ニ於テ増修セシモノナラン歟、午前十一時頃汽車青竜車站ヲ発シ、一時頃南口ニ抵リ車中ニテ午飧ス、午後二時過北京ニ帰ル、帰着早々鄭氏同行、自働車ニテ各官憲ヲ訪問ス、蓋シ留別ノ為メナリ、公使館ニ山座公使ヲ訪ヘ、頃日来ノ周旋ヲ謝シ、公務ヲ談話ス、此日支那政府ヨリ勲章贈附
 - 第32巻 p.550 -ページ画像 
ノ事アリシモ、一時ヲ秘スヘキ由ニテ公然謝詞ヲ述ヘス、夜ニ入リ尾崎・森恪二氏来リ、中日実業会社将来ノ経営ニ付種々ノ協議ヲ為ス、懇々要旨ヲ二氏ニ陳述ス、又各新聞社員ト会シテ、支那ニ対スル本邦新聞紙ノ態度ニ関シ詳細ノ意見ヲ述フ、留別ノ為メ各方面ノ諸氏ト会食シ、一同ニ向テ滞留中ノ懇切ナル待遇ヲ謝ス
五月二十七日 時 朝来風ナクシテ暑気殊ニ強シ
午前六時起床、入浴シテ茶ヲ喫シ、直ニ旅装ヲ整理ス、午前七時過朝飧ヲ食シ、八時旅宿ニ接近セル天津行停車場ニ抵ル、送別ノ為メ来会スル者極テ多シ、山座公使及公使館員、支那官憲ニテハ各部ノ総長・次官自身又ハ代理ニテ、来リテ行ヲ送ル、八時三十分発車、一行ニ尾崎・森二氏モ同行ス、特別列車ヲ以テ一同会談自由ヲ得ル、十一時半天津ニ抵ル、天津前ノ停車場ニ駐屯軍司令官来リ迎フ、天津停車場ニハ総領事ヲ始メ領事館員及各商店ノ主任並支那官憲ノ人士、商務総会ノ人々等多数来リ迎フ、副領事ノ案内ニテアストル旅館ニ投宿ス、休息後総領事館ニ抵リ、一同午飧ノ饗応ヲ受ク、洋食ノ調理甚タ佳ナリ食後窪田総領事ノ案内ニテ朱都督ヲ其衙門ニ往訪ス、種々ノ談話ヲ交換シ、更ニ警察署長ヲ訪問ス、帰途自働車中ニテ気分悪シク、旅宿ニ帰リテ休憩ス、此日炎熱強ク且風塵多クシテ気息奄々タリ、暫時ニシテ都督ノ来訪アリ、強テ之ニ面会シ、其帰去スルヤ直ニ衣服ヲ更メテ褥中ニ臥ス、堀井医師ノ診察ヲ受ケ静養ニ勉ム、此夕居留民ノ歓迎会ハ故ヲ以テ欠席ス
五月二十八日 風強ク炎熱焃カ如シ、終日濛々トシテ咫尺ヲ弁セス
昨夜ヨリ熱気アリ、且疲労甚タシ、朝来起床セシモ洗面後直ニ臥牀静養ス、朝飧後馬越・尾高・明石氏等来リテ、向後ノ行程ヲ変更シ、曲阜行ヲ中止シ、此地ヨリ直ニ大連ニ渡航シ、更ニ日清汽船ノ郵船ヲ以テ門司ニ向フニ《(マヽ)》帰途ニ就ク事ヲ発議ス、唯此行ノ曲阜参拝ヲ以テ一ノ主眼トセシヲ変スルハ忍ヒ難キノ想アリト云トモ、万一済南又ハ曲阜行ノ途中不便ノ地ニ於テ病痾更ニ重キヲ加フトキハ、一同ノ困難名状スヘカラサルモノアリ、依テ諸氏ノ忠言ニ従ヒ、旅程ノ変更ニ同意シ直ニ其実行ニ尽力スル事ト定ム、是ニ於テ故郷ハ勿論、支那・本邦トモ各方面ニ対シテ詳細ノ電報ヲ発シ、明二十九日ハ当天津ニ於テ休息シ、明後三十日朝開帆ノ独乙郵船ヲ以テ大連ニ赴キ、更ニ日清汽船会社ノ嘉宜丸ニテ門司ニ向ヒ帰国ノ途ニ就ク事ト定ム、而シテ此変更ニ付内外諸方ヘノ通信等ニ関シ、一同分担シテ之ヲ処理スルモノトス
此日ハ支那当地ノ都督ヨリ午飧会、商務総会ヨリ晩飧会ノ案内アリシモ病中ヲ以テ之ヲ謝絶ス、終日当地共立病院ヨリ看護帰来リテ療養ニ尽力ス、夕方ヨリ熱気大ニ減退スレトモ腹部ニ故障アリテ快然タラス
五月二十九日 朝来冷気且風少シク減シテ、又昨日ノ暴風酷暑ニ似ス気候ノ変化殊ニ甚シ
午前六時一旦起床、洗面セシモ疲労多クシテ褥中ニ静養ス、当地ニ於テ入手セル故郷ノ書信ヲ一読シ、其送リ来レル書冊ヲ読ム、曾テ予定セル曲阜ナル聖廟参拝ノ事ハ病ノ為メ果ス能ハサルニ付、明日開帆ノ独乙郵船ニテ先ツ大連ニ渡航シ、更ニ日清汽船ノ嘉宜丸ニ搭シテ直ニ門司ニ航スル事ト定メ、曲阜行中止ニ付テハ北京官憲ノ諸向及曲阜ナ
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ル衍聖公等ヘ詳細ノ電報ヲ為シ、一方大連ナル本邦各方面ヘモ其旨ヲ通知スル等、電信郵便等ニテ明石・増田等特ニ奔走セリ、又昨日当地都督及商務総会ノ歓迎会ヲ断リタル挨拶、其他種々ノ答礼又ハ照会ノ為メ各員一同必死尽力セリ、午前ヨリ熱度ハ大ニ減スレトモ、腹部ニ故障アリテ褥ヲ離ルヽ能ハス、臥牀中馬越氏其他ト種々ノ協議ヲ為ス且昨夜北京ニ於テ山座公使俄然逝去ノ報アリ、一同驚愕ヲ極ム、夕方朱都督ヨリ贈物アリ、依テ謝状ヲ発ス
(欄外記事)
 曲阜行ニ付テハ上海白岩氏ト口約アルニ付電報シテ中止ヲ通知ス
 尾崎氏来リテ中日会社ノ事ヲ協議ス
  ○大正三年ノ日記ニハ巻末ニ旅行中ノ漢詩ヲ記ス。左ハソノ中ノ一首ナリ。
  天津客舎書感
古廟何時能躋攀 客窓無物慰衰顔 病躯難浴洙川水 只自照相望泰山


竜門雑誌 第三一四号・第四五―四六頁 大正三年七月 ○青淵先生支那旅行梗概 増田明六(DK320026k-0002)
第32巻 p.551-552 ページ画像

竜門雑誌  第三一四号・第四五―四六頁 大正三年七月
    ○青淵先生支那旅行梗概
                     増田明六
○上略
  五月二十五日 月曜日 晴
 午前八時五十五分西直門停車場発の列車にて、青淵先生以下一同南口に向ふ、外交部の呂氏並に京張鉄路局員饒時溥氏同行、十時半南口着、南口ホテルに入り午食後、轎子にて明の十三陵に向ひ、長陵に詣で、夕南口ホテルに回り一泊、此日風あり、黄塵濛々として目を開くべからず、外気に触るゝ処悉く塵を以て蔽はれたり。
  五月二十六日 火曜日 晴
 午前五時南口停車場発車、青竜橋に至り、同所より轎子にて八達嶺に赴き、万里長城見物の上、青竜橋に回り、十一時同所発の汽車にて北京に回る、車中にて午食を了し、午後一時二十分西直門着、青淵先生は直に帰宿、更衣の上各大官を歴訪告別さる、他一同は同所より市中見物に赴きたり、夜グランド・ホテルに於て正金実相寺支店長及町野両氏及在北京邦字新聞経営者一同を招きたる青淵先生の晩餐会あり随行員・同行者一同列席せり。
  五月二十七日 水曜日 晴
 午前八時、正陽門停車場発の列車にて、青淵先生以下一同天津に向ふ、尾崎敬義・森恪・藤井元弌の三氏同車、十一時四十五分天津車站着、日支両国官民の出迎停車場を圧せん許りなり、殊に天津都督朱氏は部下の軍隊と共に軍楽隊を派して先生を迎ふ、先生は窪田総領事の案内にて直に総領事館に到る、他一同は馬車を列ねてアストル・ハウスに入り、少憩後馬越氏等六名は総領事館に赴き、先生と共に午餐会に出席さる、食後先生は窪田総領事と共に都督府・警察庁等歴訪、午後四時始めてアストル・ハウスに入る、此日炎熱酷烈九十度に達し、一同之を苦む、先生は去六日上海上陸以来頗る強健にて、爾来毎日少時間睡眠の外休養せらるゝ遑も無かりしが、去二十四日明《(五)》の十三陵、二十五日万里長城見物《(六)》の際、軽微の気管支加答児に冒されしが、此日
 - 第32巻 p.552 -ページ画像 
の炎熱の為め夕刻急に発熱され、直ちに堀井氏の診察を受け就床療養せらる、夕日本人倶楽部に於て在留邦人の催に係る歓迎会あり、先生及増田・堀井氏の三名欠席、他は先方の請により出席、馬越氏先生に代りて挨拶を為す、夜随行員及同行者協議の上、先生病気に付明日以後一切の招待を謝絶することに決定し、総領事館を経て夫々通知せり此日より天津警察庁は、特に平服巡査四名を派して先生を護衛せしむ
  五月二十八日 木曜日 晴
 青淵先生夜来の発熱、今朝に至り稍下降し、経過良好なり、同仁医院より看護婦を雇入る、午前九時山座公使本日午前一時薨去の訃報到る、一同驚愕措く処を知らず、午前十時馬越氏以下一同鳩首熟議の上先生に帰朝を懇請する事を決し、即同氏及明石・尾高両氏より先生に切に請ふ処あり、遂に允諾を得、最近の汽船にて大連に向ふことに決定し、各関係方面へ其旨電報す、武之助氏は先生の命を受け、名代として都督府及警察庁を往訪す。
  五月二十九日 金曜日 晴
 青淵先生、容体引続き良好、体温稍常態に復せんとす、午前尾高氏は、先生の命に依り名代として駐屯軍司令部・総領事館其他へ挨拶に赴く。
○下略


禹域従観日記 初稿・下篇第一四〇―一四八丁(DK320026k-0003)
第32巻 p.552-556 ページ画像

禹域従観日記  初稿・下篇第一四〇―一四八丁
                     (渋沢子爵家所蔵)
廿五日○大正三年五月晴 朝八時下一行客舎を出て、西直門車站に抵り、京張鉄道に搭し、十一時南口車站に至り下車し、南口客館に入り、此行亦呂氏及ひ京張鉄路局員饒時溥氏同行して周旋の労を取る、又北京警察騎馬兵十数名護衛を為す、南口客館に於て午餐を了し、一行轎に乗り明十三陵一覧の途に上る、一轎に三夫を属し、一行総て八十名許、昔日大官の巡行の如し、左に童山の連なるを望ミ、右に平遠の田圃を一望す、風物荒涼たり、前に湖北を過ぎて河南に入り、其景象索寞たるの感ありしか、今や直隷の北部に至り、更に一等索寞を増すの感あり、蓋民家は概ね土泥を用て造り、瓦を覆ふものは甚稀なり、山あれとも渓流を見す、又森林を見す、地磽确にして植物稀疎たり、行く数里、遠く石門の田間に屹立するを望む、蓋明陵は京北昌平州の北十八里の天寿山に在り、山脈は西山より蜿蜒として来り、群峰連亘し、流泉環帯す、明代の陵寝は皆此に奠す、按するに明陵の昌平に在るものを十三区と為す、其一は永楽長陵、天寿の中峰筆架山下に在り、其二は洪煕献陵、西峰の下に在り、其三は宣徳景陵、東峰の下に在り、其四は正統裕陵、石門山の東に在り、其五は成化茂陵、聚宝山の東に在り、其六は弘治泰陵、史家山の東南にあり、其七は正徳康陵、金嶺山の東北に在り、其八は嘉靖永陵、十八道嶺に在り、其九は隆慶昭陵、大峪山の東北に在り、其十は万暦定陵、小峪山の東に在り、其十一は泰昌慶陵、天寿山西峰の右に在り、其十二は天啓徳陵、双鎖山檀子峪の西南に在り、其十三は崇貞思陵《(マヽ)》、錦屏山・昭陵の西に在り、清の順治十六年畿輔に巡幸して親しく諸陵前に詣り文を為り以て祭り、特に
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司香太監、及ひ守陵人戸有司を設け、時を以て脩葺し、一切規制今に至り猶存と云、一行は石門の下に至り、轎を下り休憩し、仰て之を視る、高さ三丈許、劃して五部、中央部最も高く左右較々低く、又其左右又低し、五部各屋を覆ふ、構造総て石を以てし、柱皆一条の石材を用ゆ、石質は花崗石より柔かに、大理石より硬なるか如し、柱檐皆彫刻を施す、壮大と謂ふを得へし、復た轎行す、一径の左右皆麦田にして径の両傍数十武、毎に石象・石駱駄・石馬、及ひ翁仲を安置す、石象の如き実物よりも大なるか如くにして、皆一石を以て成る、奇観といふへし、忽ち看る路の左傍小流の址に於て、石欄の彫刻を施したるもの一片斜めに露はるあり、想ふに是れ陵橋崩壊して溝に落ち、土砂之を塡めたるものならむ、行く数百歩楼門あり、次に碑殿あり、内に成祖文皇帝之墓と刻し、金を塡したる大理石丈余の碑あり、大亀の上に樹つ、此を過き中庭あり、松柏蓊鬱たり、甃を歩し祭殿に上る、高廠にして壮麗殿中の円柱八本あり、双拱して一尺を余す、高さ数丈、是皆四川省より伐出せし楠材なりと云、然るに補正至らす、瓦落ち彩色剥脱し、或は檐端を仰けは、一部の岌々乎として将に壊落せむとするに寒心するものあり、祭殿の後ち山麓に拠つて墓祠あり、覧畢り帰途に就く、先是風起り塵埃騰り、近山忽ち隠れ、四望濛々たり、是れ北支那の常態なりと云、薄暮南口客舎に帰り、皆塵衣を振ひ浴を取らむと欲するも、僻邑の逆旅十分其用を足すを得す、明日は万里長城登覧、晩餐の後早く寝に就く、玆に鴻雪因縁啚記を抄訳して地理及ひ明陵の情態を補加すへし
余既に湯沐の恩を承け、将に行かむとす、客曰く居庸・明陵、此を去る遠からず、盍そ往て観さる乎、随つて道を昌平州に取り、遥かに居庸関を望む、双巌畳翠一径、空に盤し、上に麗譙あり、雲際に掩映す名を詢ふ溝々崖、明に峋々と改む、今俗、関と称す、溝中長さ四十五里、磈石礧砢礓礫縦横す、前足の履む所輙ち後趾を滾阻す、故を以て安車、此に至るには須らく載を卸し、輻を脱し、駄負して而して行く独り所謂行々車なるものあり、短轅に牛を駕し、厚輪に重を載す、土人一を以て十を御し、永く傾覆なし、按するに此関は出口の要駅と為す、口外は辺城にして沙磧、道阻し且つ長し、余養痾を以て庫倫の役を免るゝを得て、特恩に感戴し、実に肌髄に深し、山に循ひ東折して名を問ふ、天寿といふ、前明の十三陵焉に在り、国朝順治九年有司に勅諭して樵採を禁し、守護を厳にす、十六年明の崇禎帝の為めに思陵を修建し、大学士金之俊に命し、文を撰はしむ、雍正間に明裔「朱之漣」を封して侯と為し、世襲して祀を承けしむ、乾隆五十年詔して明陵を修め、帑百万を発し、優礼朝に勝さり、亘古未た有らす、以て明天啓の金陵竜脈を斲断するに視ふれは、其相去る奚そ啻天壌のみならむや、是を以て明陵、今に至り仍完整を得る、而して長陵最も鉅なり第一重を五鳳楼石坊と為す、次は黄琉璃門、三次は神道碑亭一、後ろに華表六、石獅・石麟・石駝・石象・石犀・石馬二十有四、翁仲十有二、櫺星門三を設く、内に渓河四道あり、各石橋を駕す、橋尽き坡に上り、再転して始めて陵門に至る、繞垣明楼規制式の如し、〓恩門殿尤も宏麗と為す、宝城樹碑高さ四丈厚さ二尺五寸、髹るに朱漆を以て
 - 第32巻 p.554 -ページ画像 
す、色渥丹の如し、人多く疑ひ昌化石と為す、交竜蟠首に題して「大明成祖文皇帝之陵と曰ふ」視畢て返り、回顧すれは関山紫を凝らし、陵樹青を浮へ、煙靄空濛として、翠色尤も挹るへきを覚ふ、湯泉に抵る比に日又暮れたり
廿六日晴 午前五時一行南口客舎を発し、歩して前頭の南口車站に至り、汽車に搭す、轎及ひ轎夫驢等皆搭載す、居庸関を経て八達嶺の下にある青竜橋車站に或は轎に乗し、或は驢に騎りて、嶺上に至り、万里長城に登り望見し、降て城門を見る、門に額して「北門鎖鑰」と刻す、聞く所に拠れは、従前此地は蒙古と中国との交通要路にして、往来頻繁なりしか、近時汽車の張家口に達する以来、此要路全く廃道に属すると云、然れとも猶稀に往来ありと云、現に数口の駱駝路傍に休ふを見たり、青竜橋に返り、十一時二十分一行乗車し、車中に於て午食を了し、午後一時二十分西直門車站に至り、下車して六国飯店に帰り、男爵は直ちに衣服を更めて、告別の為め支那諸官紳を歴訪し、他は適意に城内の観光を為す、今夕男爵は客館に於て晩餐の宴を開き、正金銀行の数氏、及ひ本邦新聞記者通信員等数名饗応せられ、一行亦参席せり
居庸関は京北昌平州の西北(昌平州は京師を距る九十里、本路豊台車站より京張路に転して達すへし)延慶州の東南に在り、両山夾峙して下に巨㵎あり、懸崖峭壁向より天険と称す、故に唐の「高達天」関に入るの詩に「絶坂水連下、群峰雲共高」の句あり、明の初大将軍徐達が石を累ね城を為り、以て京師の門戸を壮にす、淮南子に曰く、天下九塞あり、居庸其一なりと、又京師八景の一と為し、居庸畳翠と曰ふ按するに昌平州の西北二十四里居庸関と為す、南口に城あり、南北二門南口よりして上る、両山の間に一水流を為し、道は其上に出つ、十五里関城と為す、水に跨り之を築く、亦南北二門あり、又水門あり、又八里上関と為す、小城あり、約七里弾琴峡と曰ふ、水、水罅を流れ声弾琴の如し、又七里、青竜橋と為す、東に小堡あり、又三里即ち八達嶺なり、又南口の東六里に竜虎台二あり、広二里袤三里、積粟山と相峙つ、竜蟠虎踞の状の如し、元の時上都に往来する毎に此に駐る、明の太宗北征屡々焉に駐蹕す、曾棨の詩に云「重関深鎖白雲水、天際諸峰黛色流、北枕竜沙通絶漠、南臨鳳闕壮神州、煙生睥睨千巌暁、露湿芙蓉万壑秋、王気自応成五彩、竜文長傍日光浮」八達嶺は宣化府延慶州の南三十里に在り、居庸上関を距る十七里、往来の要衝と為す、元人此を以て居庸北口と為す、上に城あり、兵を設け戍守す、山水記に曰く、八達嶺下関居庸より建瓴の如く闚井の如し、故に昔人謂ふ、居庸の険は関城にあらすして此嶺にあるなりと、京漢旅行指南に云ふ所なり
廿七日晴 今日北京を離れて天津に赴くへきを以て、早晨一行客舎を出て、先つ前頭の城壁に上り、内外を眺望す、壁上の広さ五六人並行するを得へし、洋人は此を散歩に適宜の処と為して、朝夕来るものありと云、乃ち北望すれは宮殿楼閣巍然中区に聳へ、金瓦即黄色磁質朝暾に輝き、景山其後に峙ち、覚へす壮麗と呼ふ、禁城の左右は市街縦横、屋宇櫛比、而し第樹路柳其間に錯雑す、南望は則内外城壁の中部にし
 - 第32巻 p.555 -ページ画像 
て近く市街を瞰下し、遠く負廓の園荘を眺め、殊に其左に天壇を望み其右に先農壇を見る、北方と其観を異にし、双幅の図を見るか如し、観畢り城壁を降り、正陽門車站に至る、山座公使を首として諸官紳商数十名送別す、尾崎・森・藤井氏同行す、八時三十分発軔の特別列車に搭し、十一時三十分天津に到る、彼我官民の歓迎尤も盛なり、天津都督朱氏は軍隊及ひ軍楽隊を派して厚く礼意を表せり、男爵は窪田総領事に導かれて直ちに領事館に至り、他は皆「アストル・ハウス」に投す、馬越氏等六名は領事館に赴き、男爵と共に午餐の饗を享く、畢つて男爵は窪田総領事と共に都督府・警察庁等を訪問して、客館に入る、頃日暑気已に甚たしく、是日九十度に達し、人皆黄塵と暑熱とに苦しむ、男爵は本邦出発以来強健衆を凌くの概ありしが、十三陵帰途の風塵と八達嶺の冷気に侵され、気管支の微恙に罹り休養に就かれ、今夕日本人倶楽部の招宴に欠席せられ、馬越氏代臨して之を告け、且つ静養の為め接客を謝す、天津警察庁より特に注意して平服巡査四名を派し、男爵の護衛に充つ、京津間の光景は一路平衍にして、変化なきも、田圃樹林相間はり村落処々に点在し、本邦の光景に相似たり
(欄外記事)
 [我居留民数ハ三、三二五人也
廿八日晴 男爵静養客舎にあり、一切招宴を辞す、但経過良好、同仁病院より看護婦一名を雇ふ、午前九時山座公使昨夜俄に薨去の訃到り一同驚愕す
廿九日晴 男爵違和回復に赴く、然れとも気候不良なるを以て、曲阜拝廟の行を止め、明日出発帰路に就くへき準備を為す、男爵詩あり曰く「老脚何時能躋攀、客窓無物慰衰顔、違和難浴洙川水、照帖閑披望泰山」其素望を中止するの憾は、余殊に深く之を推知し、亦随て済南の天を望ミて帰哉の歎を発せむとす、男爵此回の支那旅行は記首に於て表示する如く、第一探勝、第二聖廟拝礼、第三中日実業会社成立の謝意を表するに在りて、第一・第三は已に其目的を達し、今や第二の行に就かむとするに当り、違和静養に就き、幸にして軽症已に癒ゆといへとも、気候険にして、早く溽暑を催ふし、風塵日に起り、所謂黄塵万丈にして日色為めに黯淡たり、且曲阜は気候更に悪しく、客舎亦設備を欠き、寝具食料に至るまて携帯するを要し、其不便なるのミならす、違和善後の衛生に害あるを以て、男爵は限りなき遺憾を抱き、他日の再挙を期して、明日此を去りて帰東すへき事に決定せり、先是支那政府は当路有司に命し、天津より済南に至る汽車特別の便を計り又曲阜の衍聖公に打電して、拝廟に関する便宜法を取り、特別の待遇に注意せしめ、照料至らさる所なしといふを得へし、彼我官商此報を聞くや、共に其曲阜行の中止を遺憾とし、殊に天津都督朱家宝は贐儀として孔林聖廟及泰山諸勝景の照帖及花瓶刺繍双額を贈らる、是に於て男爵は、其帖を展き、真境当前の感に堪へす、一詩自ら成る曰く、○「曰く」ニ続キテ前掲ノ詩ヲ記シテ塗抹シアリ
孔廟の事に関しては、曲阜県誌其外載籍に乏しからすといへとも、鴻雪因縁啚記中の孔林展謁、闕里観礼、の二章簡にして要を得るを以て左に訳出して其想像の資に供すへし、孔林展謁に曰く闕里観礼に曰く
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孔林は曲阜城の北二里許にあり、樹木青茂、黛色天に参はる、相伝ふ林中の草木は、皆当時群弟子か各其国より徙植し、種類繁多にして、楷木蓍草を以て最著とす、且つ鳥巣なく荊棘なし、尤も霊異を徴す、原地十八頃なり、康煕二十三年聖祖臨奠し、詔して十一頃有奇を増拡す、雍正九年世宗、留保に命し、門堂殿庭を重脩し、益宏麗を増す、乾隆間屡々高宗の臨奠を経て、隆礼加はる有り、前古に邁越す、八月丁丑余謁廟の後遂に曲阜北門を出て、歩して万古長春坊に至り、林門に入り、観楼を過き、西行して洙水橋に抵り、墓門に循ふ、翁仲二あり、剣笏儼如たり、又華表角端に文豹水二あり、遂に享殿の下に粛拝し、東偏門より入り、敬て先師墓前に詣り、展謁す、稍々東に伯魚の墓に謁す、復た南に述聖子思子の墓に謁し、先行して子貢か墓に廬する所に至り、蓍草一茎を尋得し、東して楷亭に至り、子貢か手植の楷を観る、高さ四丈五尺、枯て而して朽ちす、又東に宋の真宗駐蹕の亭を過き、思堂に登り壁上の題名碑を閲し、旧径を尋ね出てゝ観楼に登り、嶧山一点を望む、東南に尼山・顔林、倶に指顧に在り、正北遥に泰山に対す、煙雲縹緲たり、其西は則浅沙曲水縈絡として碧を交ゆ、近きものを洙と為し泗と為し、遠きものを沂と為し汶と為し済と為す皆西南に流る、蓋山水皆逆勢を得る、実に中原の文運を啓く此を以て知る、「以此知向雖食巽環泗迎洙人葬聖人与実聖人之葬聖人也」今に至り、孔氏の子孫周瑜殿垣の外に累々たるもの尭舜といへとも亦此盛なきのミ
闕里観礼、闕里文廟は泰安を距る、僅に三日程なり、丙子八月朔丁丑秋祭期たり、往て礼を観むと欲し、幕客周簡亭と公府書記葉蓉圃と善邀するを以つて、与に倶に癸酉程を起し、乙亥曲阜客舎に抵る、沐浴更衣し翌日丙午廟《(子カ)》に入り、大成殿前に至り礼を行ふ、葉君来り相邀ふ殿に登り聖像を瞻仰し、詢て知る、東魏興和三年刺史李珽の塑なり、犠象・雲・雷、三罇を視る、詢て知る漢章帝二年親祀して留むるなりと、乃ち北扉を啓き、聖蹟殿を過き、啚画石刻及及行教小影を周覧す其像顔子従行す、伝て子貢の写にして晋の顧虎頭の重摹と為す、爰に殿前に回り、金の党懐英か篆する所の杏壇、宋の米芾か書する所の檜樹の賛を観て、遂に門左に至り、手植の檜を瞻て、大成門を出て恭しく列聖謁廟の御碑を読み、乃ち奎文閣に至れは、則甫めて祭器を陳へ楽懸を展き、舞列を整へ、而して習儀尚早し、遂に同文門を出入し、遍く漢魏宋金元明の各碑を閲し、復た閣下に回り、衍聖公か子弟及執事官を率ひ儀を習ふを観る、九献の礼隆むにして、八佾の楽を陳へ、古穆粛雍人をして神往せしむ、低回之を久ふし、観畢つて東して詩礼堂に登り、孔宅の遺井を臨ミ、西して金糸堂に登り、魯壁の遺址を問ひ、並に孔氏に蔵する所の歴代の衣冠を観る、此行真に大観なり、廟庭の規模崇閎壮麗なるに至つては、雍正七年翰林院掌院学士留保に勅命して督脩せしものに係る、留公字松裔(康煕辛丑進士)余か叔高祖たり、闕里文廟啚を著はして進呈し、載せて文穎に入る


竜門雑誌 第三三六号・第一一二―一一三頁 大正五年五月 渋沢男爵支那漫遊中の演説及談話の梗概(DK320026k-0004)
第32巻 p.556-558 ページ画像

竜門雑誌  第三三六号・第一一二―一一三頁 大正五年五月
    渋沢男爵支那漫遊中の演説及談話の梗概
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○上略
 明十三陵
  五月二十五日 月曜日
朝早く出立、京張鉄道によりて南口に行き、明の十三陵を訪ふ、規模宏壮、結構雄大、当時を偲ぶべきも、今や空しく荒廃に委して、悲愴の光景転た旅人の腸を絶つに至らしむ、此夜南口に宿る
 万里長城
  五月二十六日 火曜日
早朝発して万里の長城を見る、蜓々たる城壁に登りて、西北の方遥に蒙古を一瞥す、午後二時北京に帰着、男爵は直ちに自働車を馳せて、支那官憲其他の人々を往訪して告別の辞を述べらる、夜は新聞記者数名、正金銀行員其他の数名と晩餐を共にして、頃日来の斡旋を謝す、席上男爵は邦字新聞紙の論調の軽躁なる可からざること、且つ袁総統に対して、漫りに罵詈讒謗を加ふることの啻に礼義を失するのみならず、延て国交を妨害することあるべきにより、常に注意ありたき旨を親切に忠告せられたり
 天津第一日
  五月二十七日 水曜日
午前九時北京を辞して正午天津に着す、一時総領事館の午餐に招待せられしが、別に演説はなかりき、宴終りて直ちに都督朱家宝忌引の故を以て陸参謀を訪問す、参謀の日支実業の聯絡を説きたるに対し、男爵は中日実業会社の件を述べて、日本への来遊を慫慂せらる、次に警察署長楊以徳氏を訪問す、氏が国家の隆盛は実業の発達に待たざる可からざること、自己は身官吏なるも、他方実業に関係する次第を陳述したりしが、男爵は猶袁総統の意の存する所亦実業の進歩にあることを話されたり、旅館に帰来程なく参謀等の答礼あり、男爵は頭痛を病むと言はれつゝ、押して面接せられしが、客の去りたる後、堪へ難しとて此夜の日本人倶楽部の歓迎会を謝絶して就床せられぬ、馬越氏以下出席、十時帰来、一同男爵の病に付て心痛すること限りなし
 天津滞留
  五月二十八日 木曜日
炎熱蒸すが如く、窯中に座すとはかゝることをか云ふらん、男爵の病左まで恐るべきことなしとの診察なれど、異郷のことゝて一同憂慮せざるを得ず、此日も総ての宴会を断りて、終日病床にあり、夜に入りて馬越・尾高の二氏と小生とは協議を凝らしたる末、この儘御帰朝ありて、聖廟の参拝は他日機を見て再遊実行せらるべき旨を忠告せしに男爵は床の上に起きて傾聴し、暫し瞑想せられしが『折角諸君の左程に心配せらるゝの厚情に応じ、断然意を決して旅行を中止し、海路馬関に向ふべし』と断言せられたり、此瞬時の胸中如何なりしか、如何に決断力に富まるゝ男爵とても、嘸かし残念なりとの念慮止むる能はざるものありしならん
 同上
  五月二十九日 金曜日
男爵の病頓に快方には向はれ、起床して羽織打かけて読書雑談など試
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みられ、堀井医師の容貌の反つて病人の如しなど戯言せられぬ
○下略


時事新報 第一一〇四四号大正三年五月二九日 北京特電 ○渋沢男大成功(五月二十七日午前発)(DK320026k-0005)
第32巻 p.558 ページ画像

時事新報 第一一〇四四号大正三年五月二九日
      北京特電
    ○渋沢男大成功(五月二十七日午前発)
中日実業公司に関し、渋沢男の余(時事新報通信員)に語れる所に拠れば、同公司は株式全部の引受を終り、先月廿五日其本店を北京に置き、楊士琦を該公司総弁に任じ、支那の法律に準拠す可き約束にて正式に成立を告げたるも、元来該公司が孫逸仙等の発起に係る関係上、種々の誤解を生じ、事業の進行に妨害ありしが、今回男来京の上袁総統初め各総長に面会し、日支実業関係は決して諸外国の関係と同じからず、政治を離れ双方の利益を図る純然たる商売関係に過ぎざることを説明せる結果、漸く幾多の誤解も氷解し、双方の意志十分に合致し各総長孰れも該公司の為め一臂の労を惜しまざる旨を明言せるのみならず、男より申出でたる事業も漸次着手されん機運に向ひ居れば、該公司も前途決して憂ふるに足らず、今後必ず実際方面の活動に移るならんとあり、尚ほ支那新聞紙の所報に拠れば、男の来京は日支実業関係の上に絶大の効果を現はし、北方実業家の誤解も解け、一般の気受良好なりと