デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
2款 中国行
■綱文

第32巻 p.549-558(DK320026k) ページ画像

大正3年5月25日(1914年)

是日栄一、北京ヲ発シテ南口ニ赴キ、明ノ十三陵ニ詣デ、二十六日八達嶺ニ到リ、万里長城ヲ一覧シ北京ニ帰ル。二十七日天津ニ到ル。コノ夕発熱臥床ス。二十八日病気ハ軽快セルモ予定ヲ変更、孔子廟参拝ヲ中止シ直ニ帰朝スルニ決ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正三年(DK320026k-0001)
第32巻 p.549-551 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正三年   (渋沢子爵家所蔵)
五月二十五日 晴 暑気昨日ト同シ
午前六時起床、入浴シテ旅装ヲ理ス、蓋シ北京ヨリ張家口行ノ汽車ニテ南口ニ抵リ十三陵ノ古蹟、及八達嶺ニ於テ万里ノ長城ヲ一覧ノ為メ午前八時発ノ汽車ニテ北京停車場ヲ発ス、十一時南口ニ抵リテ下車シ南口ホテルニ於テ午飧ス、食後竹輿ニテ十三陵ニ抵ル、麦圃ノ里道頗ル狭隘ニシテ険悪ナリ、南口ヲ発シテヨリ三時間余ニシテ漸ク十三陵ノ第一牌楼ニ達ス、夫ヨリ旧公道ヲ経テ行クコト数十町、路傍ニ石馬石人等多ク並立ス、頗ル古色アリ、且巨大ノモノナリ、行々遂ニ成祖文皇帝ノ大廟ニ抵ル、柱石其他規模実ニ広大ナリ、此辺田園ニハ果樹多キモ、大廟及石人其他皆荒廃ニ委ス、惜ムヘキノ至リナリ、一覧畢リテ帰路ニ就ク、午後七時過南口ニ帰着シ南口ホテルニ一泊ス、寒駅ノ一夜又以テ旅興トスルニ足レリ
五月二十六日 払暁小雨後晴、夕方雷雨来、風塵殊ニ多シ
午前四時半起床、此日ハ八達嶺ニ抵リ有名ナル万里長城ヲ一覧スル筈ナレハ、匆々ニ朝飧ヲ食シ、五時五十分南口発ノ汽車ニテ八時頃青竜車站ニ抵リ、車ヲ下リ竹輿ニテ山上ニ抵ル、北門鎖鑰ノ四字ヲ彫刻セル城門ニ於テ竹輿ヲ離レ、嶺上ヲ徒歩ス、此処ニテ長城ノ概況ヲ一望ス、想フニ此長城ハ秦代ノモノニハアラスシテ、明時代ニ於テ増修セシモノナラン歟、午前十一時頃汽車青竜車站ヲ発シ、一時頃南口ニ抵リ車中ニテ午飧ス、午後二時過北京ニ帰ル、帰着早々鄭氏同行、自働車ニテ各官憲ヲ訪問ス、蓋シ留別ノ為メナリ、公使館ニ山座公使ヲ訪ヘ、頃日来ノ周旋ヲ謝シ、公務ヲ談話ス、此日支那政府ヨリ勲章贈附
 - 第32巻 p.550 -ページ画像 
ノ事アリシモ、一時ヲ秘スヘキ由ニテ公然謝詞ヲ述ヘス、夜ニ入リ尾崎・森恪二氏来リ、中日実業会社将来ノ経営ニ付種々ノ協議ヲ為ス、懇々要旨ヲ二氏ニ陳述ス、又各新聞社員ト会シテ、支那ニ対スル本邦新聞紙ノ態度ニ関シ詳細ノ意見ヲ述フ、留別ノ為メ各方面ノ諸氏ト会食シ、一同ニ向テ滞留中ノ懇切ナル待遇ヲ謝ス
五月二十七日 時 朝来風ナクシテ暑気殊ニ強シ
午前六時起床、入浴シテ茶ヲ喫シ、直ニ旅装ヲ整理ス、午前七時過朝飧ヲ食シ、八時旅宿ニ接近セル天津行停車場ニ抵ル、送別ノ為メ来会スル者極テ多シ、山座公使及公使館員、支那官憲ニテハ各部ノ総長・次官自身又ハ代理ニテ、来リテ行ヲ送ル、八時三十分発車、一行ニ尾崎・森二氏モ同行ス、特別列車ヲ以テ一同会談自由ヲ得ル、十一時半天津ニ抵ル、天津前ノ停車場ニ駐屯軍司令官来リ迎フ、天津停車場ニハ総領事ヲ始メ領事館員及各商店ノ主任並支那官憲ノ人士、商務総会ノ人々等多数来リ迎フ、副領事ノ案内ニテアストル旅館ニ投宿ス、休息後総領事館ニ抵リ、一同午飧ノ饗応ヲ受ク、洋食ノ調理甚タ佳ナリ食後窪田総領事ノ案内ニテ朱都督ヲ其衙門ニ往訪ス、種々ノ談話ヲ交換シ、更ニ警察署長ヲ訪問ス、帰途自働車中ニテ気分悪シク、旅宿ニ帰リテ休憩ス、此日炎熱強ク且風塵多クシテ気息奄々タリ、暫時ニシテ都督ノ来訪アリ、強テ之ニ面会シ、其帰去スルヤ直ニ衣服ヲ更メテ褥中ニ臥ス、堀井医師ノ診察ヲ受ケ静養ニ勉ム、此夕居留民ノ歓迎会ハ故ヲ以テ欠席ス
五月二十八日 風強ク炎熱焃カ如シ、終日濛々トシテ咫尺ヲ弁セス
昨夜ヨリ熱気アリ、且疲労甚タシ、朝来起床セシモ洗面後直ニ臥牀静養ス、朝飧後馬越・尾高・明石氏等来リテ、向後ノ行程ヲ変更シ、曲阜行ヲ中止シ、此地ヨリ直ニ大連ニ渡航シ、更ニ日清汽船ノ郵船ヲ以テ門司ニ向フニ《(マヽ)》帰途ニ就ク事ヲ発議ス、唯此行ノ曲阜参拝ヲ以テ一ノ主眼トセシヲ変スルハ忍ヒ難キノ想アリト云トモ、万一済南又ハ曲阜行ノ途中不便ノ地ニ於テ病痾更ニ重キヲ加フトキハ、一同ノ困難名状スヘカラサルモノアリ、依テ諸氏ノ忠言ニ従ヒ、旅程ノ変更ニ同意シ直ニ其実行ニ尽力スル事ト定ム、是ニ於テ故郷ハ勿論、支那・本邦トモ各方面ニ対シテ詳細ノ電報ヲ発シ、明二十九日ハ当天津ニ於テ休息シ、明後三十日朝開帆ノ独乙郵船ヲ以テ大連ニ赴キ、更ニ日清汽船会社ノ嘉宜丸ニテ門司ニ向ヒ帰国ノ途ニ就ク事ト定ム、而シテ此変更ニ付内外諸方ヘノ通信等ニ関シ、一同分担シテ之ヲ処理スルモノトス
此日ハ支那当地ノ都督ヨリ午飧会、商務総会ヨリ晩飧会ノ案内アリシモ病中ヲ以テ之ヲ謝絶ス、終日当地共立病院ヨリ看護帰来リテ療養ニ尽力ス、夕方ヨリ熱気大ニ減退スレトモ腹部ニ故障アリテ快然タラス
五月二十九日 朝来冷気且風少シク減シテ、又昨日ノ暴風酷暑ニ似ス気候ノ変化殊ニ甚シ
午前六時一旦起床、洗面セシモ疲労多クシテ褥中ニ静養ス、当地ニ於テ入手セル故郷ノ書信ヲ一読シ、其送リ来レル書冊ヲ読ム、曾テ予定セル曲阜ナル聖廟参拝ノ事ハ病ノ為メ果ス能ハサルニ付、明日開帆ノ独乙郵船ニテ先ツ大連ニ渡航シ、更ニ日清汽船ノ嘉宜丸ニ搭シテ直ニ門司ニ航スル事ト定メ、曲阜行中止ニ付テハ北京官憲ノ諸向及曲阜ナ
 - 第32巻 p.551 -ページ画像 
ル衍聖公等ヘ詳細ノ電報ヲ為シ、一方大連ナル本邦各方面ヘモ其旨ヲ通知スル等、電信郵便等ニテ明石・増田等特ニ奔走セリ、又昨日当地都督及商務総会ノ歓迎会ヲ断リタル挨拶、其他種々ノ答礼又ハ照会ノ為メ各員一同必死尽力セリ、午前ヨリ熱度ハ大ニ減スレトモ、腹部ニ故障アリテ褥ヲ離ルヽ能ハス、臥牀中馬越氏其他ト種々ノ協議ヲ為ス且昨夜北京ニ於テ山座公使俄然逝去ノ報アリ、一同驚愕ヲ極ム、夕方朱都督ヨリ贈物アリ、依テ謝状ヲ発ス
(欄外記事)
 曲阜行ニ付テハ上海白岩氏ト口約アルニ付電報シテ中止ヲ通知ス
 尾崎氏来リテ中日会社ノ事ヲ協議ス
  ○大正三年ノ日記ニハ巻末ニ旅行中ノ漢詩ヲ記ス。左ハソノ中ノ一首ナリ。
  天津客舎書感
古廟何時能躋攀 客窓無物慰衰顔 病躯難浴洙川水 只自照相望泰山


竜門雑誌 第三一四号・第四五―四六頁 大正三年七月 ○青淵先生支那旅行梗概 増田明六(DK320026k-0002)
第32巻 p.551-552 ページ画像

竜門雑誌  第三一四号・第四五―四六頁 大正三年七月
    ○青淵先生支那旅行梗概
                     増田明六
○上略
  五月二十五日 月曜日 晴
 午前八時五十五分西直門停車場発の列車にて、青淵先生以下一同南口に向ふ、外交部の呂氏並に京張鉄路局員饒時溥氏同行、十時半南口着、南口ホテルに入り午食後、轎子にて明の十三陵に向ひ、長陵に詣で、夕南口ホテルに回り一泊、此日風あり、黄塵濛々として目を開くべからず、外気に触るゝ処悉く塵を以て蔽はれたり。
  五月二十六日 火曜日 晴
 午前五時南口停車場発車、青竜橋に至り、同所より轎子にて八達嶺に赴き、万里長城見物の上、青竜橋に回り、十一時同所発の汽車にて北京に回る、車中にて午食を了し、午後一時二十分西直門着、青淵先生は直に帰宿、更衣の上各大官を歴訪告別さる、他一同は同所より市中見物に赴きたり、夜グランド・ホテルに於て正金実相寺支店長及町野両氏及在北京邦字新聞経営者一同を招きたる青淵先生の晩餐会あり随行員・同行者一同列席せり。
  五月二十七日 水曜日 晴
 午前八時、正陽門停車場発の列車にて、青淵先生以下一同天津に向ふ、尾崎敬義・森恪・藤井元弌の三氏同車、十一時四十五分天津車站着、日支両国官民の出迎停車場を圧せん許りなり、殊に天津都督朱氏は部下の軍隊と共に軍楽隊を派して先生を迎ふ、先生は窪田総領事の案内にて直に総領事館に到る、他一同は馬車を列ねてアストル・ハウスに入り、少憩後馬越氏等六名は総領事館に赴き、先生と共に午餐会に出席さる、食後先生は窪田総領事と共に都督府・警察庁等歴訪、午後四時始めてアストル・ハウスに入る、此日炎熱酷烈九十度に達し、一同之を苦む、先生は去六日上海上陸以来頗る強健にて、爾来毎日少時間睡眠の外休養せらるゝ遑も無かりしが、去二十四日明《(五)》の十三陵、二十五日万里長城見物《(六)》の際、軽微の気管支加答児に冒されしが、此日
 - 第32巻 p.552 -ページ画像 
の炎熱の為め夕刻急に発熱され、直ちに堀井氏の診察を受け就床療養せらる、夕日本人倶楽部に於て在留邦人の催に係る歓迎会あり、先生及増田・堀井氏の三名欠席、他は先方の請により出席、馬越氏先生に代りて挨拶を為す、夜随行員及同行者協議の上、先生病気に付明日以後一切の招待を謝絶することに決定し、総領事館を経て夫々通知せり此日より天津警察庁は、特に平服巡査四名を派して先生を護衛せしむ
  五月二十八日 木曜日 晴
 青淵先生夜来の発熱、今朝に至り稍下降し、経過良好なり、同仁医院より看護婦を雇入る、午前九時山座公使本日午前一時薨去の訃報到る、一同驚愕措く処を知らず、午前十時馬越氏以下一同鳩首熟議の上先生に帰朝を懇請する事を決し、即同氏及明石・尾高両氏より先生に切に請ふ処あり、遂に允諾を得、最近の汽船にて大連に向ふことに決定し、各関係方面へ其旨電報す、武之助氏は先生の命を受け、名代として都督府及警察庁を往訪す。
  五月二十九日 金曜日 晴
 青淵先生、容体引続き良好、体温稍常態に復せんとす、午前尾高氏は、先生の命に依り名代として駐屯軍司令部・総領事館其他へ挨拶に赴く。
○下略


禹域従観日記 初稿・下篇第一四〇―一四八丁(DK320026k-0003)
第32巻 p.552-556 ページ画像

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竜門雑誌 第三三六号・第一一二―一一三頁 大正五年五月 渋沢男爵支那漫遊中の演説及談話の梗概(DK320026k-0004)
第32巻 p.556-558 ページ画像

竜門雑誌  第三三六号・第一一二―一一三頁 大正五年五月
    渋沢男爵支那漫遊中の演説及談話の梗概
 - 第32巻 p.557 -ページ画像 
○上略
 明十三陵
  五月二十五日 月曜日
朝早く出立、京張鉄道によりて南口に行き、明の十三陵を訪ふ、規模宏壮、結構雄大、当時を偲ぶべきも、今や空しく荒廃に委して、悲愴の光景転た旅人の腸を絶つに至らしむ、此夜南口に宿る
 万里長城
  五月二十六日 火曜日
早朝発して万里の長城を見る、蜓々たる城壁に登りて、西北の方遥に蒙古を一瞥す、午後二時北京に帰着、男爵は直ちに自働車を馳せて、支那官憲其他の人々を往訪して告別の辞を述べらる、夜は新聞記者数名、正金銀行員其他の数名と晩餐を共にして、頃日来の斡旋を謝す、席上男爵は邦字新聞紙の論調の軽躁なる可からざること、且つ袁総統に対して、漫りに罵詈讒謗を加ふることの啻に礼義を失するのみならず、延て国交を妨害することあるべきにより、常に注意ありたき旨を親切に忠告せられたり
 天津第一日
  五月二十七日 水曜日
午前九時北京を辞して正午天津に着す、一時総領事館の午餐に招待せられしが、別に演説はなかりき、宴終りて直ちに都督朱家宝忌引の故を以て陸参謀を訪問す、参謀の日支実業の聯絡を説きたるに対し、男爵は中日実業会社の件を述べて、日本への来遊を慫慂せらる、次に警察署長楊以徳氏を訪問す、氏が国家の隆盛は実業の発達に待たざる可からざること、自己は身官吏なるも、他方実業に関係する次第を陳述したりしが、男爵は猶袁総統の意の存する所亦実業の進歩にあることを話されたり、旅館に帰来程なく参謀等の答礼あり、男爵は頭痛を病むと言はれつゝ、押して面接せられしが、客の去りたる後、堪へ難しとて此夜の日本人倶楽部の歓迎会を謝絶して就床せられぬ、馬越氏以下出席、十時帰来、一同男爵の病に付て心痛すること限りなし
 天津滞留
  五月二十八日 木曜日
炎熱蒸すが如く、窯中に座すとはかゝることをか云ふらん、男爵の病左まで恐るべきことなしとの診察なれど、異郷のことゝて一同憂慮せざるを得ず、此日も総ての宴会を断りて、終日病床にあり、夜に入りて馬越・尾高の二氏と小生とは協議を凝らしたる末、この儘御帰朝ありて、聖廟の参拝は他日機を見て再遊実行せらるべき旨を忠告せしに男爵は床の上に起きて傾聴し、暫し瞑想せられしが『折角諸君の左程に心配せらるゝの厚情に応じ、断然意を決して旅行を中止し、海路馬関に向ふべし』と断言せられたり、此瞬時の胸中如何なりしか、如何に決断力に富まるゝ男爵とても、嘸かし残念なりとの念慮止むる能はざるものありしならん
 同上
  五月二十九日 金曜日
男爵の病頓に快方には向はれ、起床して羽織打かけて読書雑談など試
 - 第32巻 p.558 -ページ画像 
みられ、堀井医師の容貌の反つて病人の如しなど戯言せられぬ
○下略


時事新報 第一一〇四四号大正三年五月二九日 北京特電 ○渋沢男大成功(五月二十七日午前発)(DK320026k-0005)
第32巻 p.558 ページ画像

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