デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
4款 第四回米国行
■綱文

第33巻 p.278-302(DK330013k) ページ画像

大正10年12月13日(1921年)

是日栄一、ニュー・オーリアンズニ到リ、十四日同地ヲ発シ、十六日ロス・アンジェルスニ着ス。

二十日同地ヨリサン・ディエゴニ赴キ、二十二日ロス・アンジェルスニ帰ル。二十三日同地ヲ発シ、二十四日サン・フランシスコニ着シ、二十七日シアトル、二十九日ポートランドヲ訪レ、更ニ翌十一年一月三日フレスノ、四日リヴィングストン、六日サクラメント、七日スタクトンヲ訪フ。


■資料

渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK330013k-0001)
第33巻 p.278-282 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正一〇年 (渋沢子爵家所蔵)
十二月十二日 曇 軽暖
午前七時半汽車中ニテ起床、洗面シテ朝飧ス、昨夜ヨリ鉄路南進シタルニヨリ気候漸ク温暖ヲ増シ、復膚ヲ刺スノ寒風ナシ、華盛頓ヨリニユーオレヤンスヲ経テ、加州ロスアンゼルスニ達スル線路ハ、今回始メテ経過スル生路ナレハ、沿道ノ村落・市街、又ハ山川田野ノ風光全ク目ニ新タナルヲ覚フ、車中ニテ午飧シ又晩飧シ、時ニ相会シテ談話シ、又東京ヨリ送リ来レル各種ノ新聞紙ヲ一覧シテ、終日安静ニ旅況ヲ慰ムルヲ得タリ、夜十一時過就寝
(欄外記事)
 車中ニテ加州移民発展史、及鈴木氏著ノ一世界人ヨリ見タル米国ノ正義人道ヲ一覧ス
十二月十三日 晴 軽暖
午前七時半汽車中ニテ起床、洗面シテ衣服ヲ整理シ、直ニ車中ノ食卓ニ於テ朝飧ス、午前九時四十分ニユーオレヤンス到着、直ニ下車シテ当市ノホテル、モントデオエーニ投宿ス、行李杯《(抔)》ヲ処理シテ後、自働車ニテ市街及公園又ハ墓地、海岸ノ遊息所等ヲ巡覧ス、公園ハ両所ニアリテ特種ノ設備ナシト云トモ、其規模宏大ナリ、殊ニ墓所ハ美麗ニシテ結構荘重、米国他地方ニ於テ未タ曾テ見サルナリ、市街ハ家屋粗野ニシテ大都ニ比スレハ倭小ナリ、但投宿セシ旅亭ハ之ヲ華府ノ旅宿ニ比スレハ大ニ優ル所アルヲ覚フ、蓋シ華府ノ旗亭ノ如何ヲ想像シ得ヘキナリ
午後一時帰宿、一行共ニ午飧シテ後、各室内ニ於テ書類ヲ整理セリ
昨日ヨリ気候暖温トナリテ、外出ニモ衣ヲ重ヌルヲ要セス、市街及公園ノ景色モ本邦十月初旬ノ候ニシテ、草木多ク熱帯地方ノモノナリ
夜本邦ニ送致スル書状ヲ裁ス
十二月十四日 晴 軽暖
午前七時起床、入浴シテ朝飧ス、此日正午ヨリ発車ノ筈ナレハ、朝来
 - 第33巻 p.279 -ページ画像 
昨夜ヨリ継続セル郷書ノ作成ニ勉ム、阪谷男ヘハ華盛頓会議ニ関シテ爾来同地又ハ紐育ニ於テ尽瘁セル次第ヲ詳報ス、又井上準之助氏・藤山雷太氏、又ハ紐育ナル堀越氏・熊崎氏等ニ一書ヲ以テ要務ヲ通告ス更ニ児孫連名ノ一書ヲ裁シテ送致ス、十二時過当市発ノ汽車ニテ羅府行ノ途ニ上リ、車中種々ノ事物ニ接ス、鉄道ミスシツピー河ニ抵リテ汽車巨船ニ搭シテ河上数哩ヲ経過スルカ如キハ、実ニ稀ニ見ルノ珍事タリ、沿道実ニ広漠ニシテ一望千里、眼界ナキハ邦土ノ宏大ヲ欽羨スルモ、車中瞥見スル所ハ多ク渺茫トシテ不毛ニ属セリ、此日各地停車セシ処数多ナルモ、其地名モ聞洩シタリ
十二月十五日 晴 軽暖
気候昨日ト同シク稍軽暑ノ想アリ、鉄路ニ沿フ樹木又ハ草花モ総テ熱帯ノモノ多シ、午前七時過起床、洗面シテ衣服ヲ理ス、朝飧ヨリ晩飧ニ至マテ車中ニ在テ之ヲ取ル、食後ハ或ハ読書シ、又ハ一行ト雑談シ時ニ或ハ将来ノ行動ニ関シテ其順序ヲ議スル等、閑中亦各種ノ要務ヲ処理セリ、只終日触目ノ地ハ大概茫漠トシテ不毛ニ属セリ、時ニ灌漑ノ工事ヲ施シテ、棉花ノ耕作ヲ試ミタルモノアルヲ瞥見セリ
(欄外記事)
 終日沿道不毛ノ地多ク、時ニ小邱アルモ全ク赭山ニシテ一ノ草木ヲ見ス
十二月十六日 晴 暖
午前七時過起床、洗面シテ朝飧ス、而シテ車中ノ行動大概昨日ト大差ナクシテ、午後ヨリ沿道ニ緑樹鬱然タル山岳ヲ遠見スルニ至リ、以テ鉄路ノ南加州ニ入リタルヲ覚フ、夜ニ入リテ車中二三ノ邦人来リテ余ノ安着ヲ祝シ、且ツ土産ヲ携帯シテ賀詞ヲ陳ルアリ、夜九時過汽車ロスアンゼルス市ニ着ス、大山領事ヲ始トシテ数多ノ邦人来リテ停車場ニ迎フ、各自祝意ヲ交換シテ当市ニ有名ナルアレキサンドリヤ・ホテルニ投宿ス、客舎ニ入リテ先ツ大山氏ニ会見シテ、当市ニ於ケル余ノ行動ニ付テ氏ノ計画シ置キタル次第ヲ詳知シ、且ツ余ノ今回ノ旅行ニ関スル概要ヲ告ケテ将来ヲ依頼シタリ
領事ニ次テ地方人士数多ノ会見ヲ求メ、種々ノ請求ヲナス者アルモ、多クハ再応ノ面接ニ譲リテ、到着ノ当夜ハ大体ノ意見ヲ交換スルニ過サリキ
十二月十七日 曇 軽暖
午前七時起床、入浴シテ朝飧ス、此地ノ客舎ハ華府又ハニユーオレヤンス市ニ比スレハ壮大ニシテ且美麗ナリ、設備モ亦頗ル整頓スルニ似タリ、朝来種々ノ来人アリテ悉ク記憶ニ存シ得ス、午後一時大山領事ヨリ招宴セラレ、余ノ客舎ニ於テ余ヲ内外人数多ノ紳士ニ紹介ノ為メ盛大ノ宴会アリ、食後主人トシテ領事先ツ立テ、余ヲ来客ニ紹介シテ丁寧ナル演説アリ、次テ市長又ハ大学総長等ノ演説アリ、最後ニ余モ一場ノ謝詞ヲ陳フ
十二月十八日 雨 軽暖
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ス○以下記事ナシ
十二月十九日 雨 軽暖
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ス、午前十時米人〔    〕《(原本脱字)》氏来話ス
 - 第33巻 p.280 -ページ画像 
郷隆三郎氏ノ紹介ニ係ル、会談ノ要旨ハ米人トノ同化ニ付テ種々ノ意見ヲ陳ヘラレタリ、在住ノ邦人数名来話ス、十一時半大山領事来リ、同伴シテ当市ノ一倶楽部ニ抵リテ、当市商業会議所ノ開催セル歓迎午飧会ニ出席シ、食後卓上ニ於テ一場ノ演説ヲ為シ、当市将来ノ商業発展ハ東洋トノ関係一層増進スヘケレハ、当市ノ人士ハ夙ク其準備ヲ為サヽルヘカラストノ趣旨ヲ以テ、在住邦人ニ対スル注意ヲ促シタリ、畢テ旅館ニ帰リテ小憩ス、午後三時郊外ノ私設大学ニ於テ開催セル接見会ニ出席シ、洋風音楽ノ余興アリ、多数ノ婦人来会ス、接見会後ニ茶菓ノ饗応アリ、其間賓主各一場ノ挨拶アリテ午後五時頃帰宿ス、暫時休憩後、乾氏ノ案内ニテ一倶楽部ニ抵リ、当地ノ日本協会ニ於テ開催セル歓迎会ニ出席ス、晩飧後司会者ヨリ熱心ナル歓迎演説アリ、余ハ謝詞トシテ婦人ニ対シ一場ノ意見ヲ陳シ、且余カ日米ノ親善ニ努力スル理由ヲ詳細ニ説明シ、而シテ我同邦《(胞)》ノ米国人ニ同化セサルノ説アルモ、余ハ之ヲ信セサルニ付、今日来会ノ淑女諸君ハ充分ニ研究セラレ、戸ヲ閉シテ人ヲ呼フノ愚ニ陥ラサル事ヲ希望スル旨ヲ切言ス
夜十一時帰宿、直ニ就寝ス
十二月二十日 雨 軽暖
午前七時起床、入浴シテ朝飧ス、食堂ニテ米山梅吉氏ニ邂逅ス、氏ハ明日桑港ニ抵リ、本月末出帆ノ汽船ニテ帰国ノ由ナレハ、口頭ニテ阪谷・金子・井上準之助及藤山雷太氏等ヘ、鄭寧ニ言ヲ伝ヘ、在米中ノ行動、殊ニ華盛頓会議ノ状況、又ハ紐育ニ於ケル米国人士会談ノ次第又ハ同地ニ設立スル米日関係委員会ノ現状ヲ通知シタリ
今日ハサンジーゴー市ニ抵リ、ライマン・ゲージ氏訪問ノ筈ニテ、数日前ヨリ書信又ハ電話ニテ往復シ置キタレバ、午前九時四十五分サシタヘー《(ン)》行汽車ニテ当市ヲ発ス、一行四人ニ郷隆三郎氏及近藤氏ヲ加ヘテ、車中種々ノ談話ヲ交換シ、午後一時頃〔    〕《(原本欠字)》○デルマルニ抵リテ道路ニ破壊アリテ汽車不通トナリ、終ニ車ヲ下リ同地ナル旅亭ニ於テ午飧ニ代ルニサンドイツチヲ以テシ、長時間休憩ノ後自働車ヲ呼ヒ迎ヘテ一同搭乗シ、午後六時過サンジーゴー市ニ達シ、有名ナルコルナード・ホテルニ投宿ス、夜飧後ゲージ氏ト電話シテ明日ノ会見ヲ約ス此日鉄路ニ故障アリテ下車シタル〔    〕《(原文欠字)》ノ地ハ海岸ニ在リテ眺望絶佳ノ地ナリ、而シテ休憩セシホテルハ風光明媚稀ニ見ル所ノ遊息客舎ナリ
此夜投宿セシホテルハ、海岸ニ建築セル一大旅亭ニシテ、設備モ完全ニシテ眺望モ絶佳ナリ、羅府又ハ各地ノ紳商等避暑ノ為来宿スル者多シト云フ
下車ノ際大連ニ在テ事業経営スル古沢氏夫妻ニ会見シ、サンジーゴー市ヘ同車シテ同ホテルニ止宿セリ
十二月二十一日 曇 軽暖
午前七時起床、入浴シテ直ニ朝飧ヲ食ス、此日午前ヨリ当地ヲ発シテ羅府ニ帰着ノ予定ナリシモ、連日ノ雨ニテ鉄路破損シ未タ修理シ得サル為メ帰途ノ定メ離キト、一ハ昨日ゲージ氏ト会見シ能ハスシテ、今朝余ノ旅舎ニ来訪ノ約アリシニヨリ、朝食後羅府ヘ発電等ノ要務ヲ弁シ、十時ゲージ氏来訪セラレタレハ、客室ニテ種々ノ談話ヲ為ス、蓋
 - 第33巻 p.281 -ページ画像 
シ氏ハ余ニ数日ノ滞留ヲ以テ其家ニモ招宴シ、且ツ地方人士ニ紹介ノ事ヲモ企望セラレシガ、前途ノ都合之ニ応シ難キヲ以テ鄭寧ニ之ヲ陳謝シ、更ニ昨年来別後ノ経過及ヒ余ノ今回ノ米国行ノ事情、又ハ米国着後紐育・華盛頓等ノ有様ヲモ詳細ニ陳述シ、氏ノ諒諾ヲ得、更ニ将来ノ注意ニ関シ委曲相互ノ意見ヲ交換シ十二時過辞去セラル、後郷・近藤二氏ノ誘引ニテ、自働車ニテ海岸又ハ公園等ヲ巡覧シ、近藤氏ノ家ニ抵リ、日本料理ノ午飧会ニ出席ス、食後又市中及公園ヲ巡覧シ、六時客舎ニ抵リ一行共ニ晩飧ヲ取リ、食後一同相会シテ雑話シ、且郷氏ヨリ羅府ノ状況ニ付テ詳細ノ説明アリ、夜九時半散会、夫ヨリ余ハ客室ニ於テ日記ヲ編成ス
(欄外記事)
 [今夕帰羅セサルニ付テハ、特ニ大山領事ニ電報セリ
   ○十二月二十二日ヨリ同二十八日マデノ日記ヲ欠ク。
十二月二十九日 半晴 寒
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、畢テ佐藤領事其他北米日本人会長等ノ訪問アリテ、当地移民ノ将来ニ付テ種々ノ意見ヲ交換ス、午前九時半ローマン氏来訪、其自働車ニ搭シテ停車場ニ抵リ、十時発ホートランド行ノ列車ニ搭乗ス、玆ニ於テ多数ノ邦人来リテ行ヲ送ルヲ謝シ、汽車中ノ人トナル、午後一時車中ニテ午飧シ、カナダ人夫妻ノ乗客ト会話ス、午後四時過ホートランド市到着ス、クラルク氏ヲ始メ当地在住ノ内外人多数来リ迎フ、直ニホルトランド・ホテルニ投宿シ来訪ノ邦人多数ニ会話ス、午後六時半当地商業会議所開催ノ晩飧会ニ出席ス、クラルク氏司会者ニテ米人・邦人来会スル者約四十人、食卓上主人ノ歓迎辞ニ対シテ一場ノ演説ヲ為シ、賓主情意ヲ披瀝シテ款談ス、畢テ邦人ノ催ス所ノ講演会ニ出席シテ、添田氏ト共ニ日米関係委員会設立ニ至リシ沿革及両国々交ノ変化等ニ付詳細ニ叙述ス、夜十一時帰宿ス
(欄外記事)
 [講演会ハ邦人ノ有スル会堂ニ開キテ、多数ノ聴衆アリタリ
十二月三十日 曇 寒
午前七時起床、入浴シテ、東方未タ明ナラス、電灯ヲ点シテ日記ヲ編成ス、朝飧後クラルク氏来リテ、一行ヲ誘引シテ、ホルトラント市ニ沿フコロンビヤ川ノ沿岸ニ設立スル製材工場ニ抵リ、其所有主ト共ニ場内ヲ案内シテ詳細ニ説明セラル、畢テ本市ノ商業会議所ニ抵リ、午飧会ニ出席シ、クラルク氏ノ紹介演説ニ次テ一場ノ演説ヲ為ス、後同地新聞記者ノ希望ニ応シテ、余カ今回米国旅行ノ理由ヲ説明ス、来会者多数握手ヲ乞フ者アリ、畢テ午後四時停車場ニ抵リ、桑港行ノ列車ニ搭ス
(欄外記事)
 [此夜汽車南馳シテ、翌朝ハ既ニ加州ニ入レルナリ
十二月三十一日 曇 軽寒
午前七時車中ニテ起床シ、洗面ノ後朝飧ス、沿道降雪多クシテ処々ノ山間又ハ樹上ニ積堆スルヲ見ル、汽車ノ走行迅速ニシテ眺望時々変化ヲ極ム、午飧・晩飧共ニ車中ニ於テ之ヲ取リ、午後八時過例ノヘリー
 - 第33巻 p.282 -ページ画像 
ニ達ス、乗合ノ船客頗ル多シ、蓋シ桑港ノ除夜会ニ赴ク為メナリト云フ、午後九時過ヘヤモント・ホテルニ抵ル、此夜除夜ノ宴アリテ、各室ニ舞踏ヲ催シテ頗ル盛況ヲ極ム、ホテルノ主任者ト共ニ各室ノ歌舞ヲ一覧ス、十時過就寝
(欄外記事)
 桑港ノ恒例トシテ、除夜ハ市街殊ニ雑沓シ、往来男女堵ノ如ク、小紙片ヲ以テ相打テ相戯ルヲ常トスル由ナリ


渋沢栄一 日記 大正一一年(DK330013k-0002)
第33巻 p.282 ページ画像

渋沢栄一日記 大正一一年 (渋沢子爵家所蔵)
大正十一年一月一日 桑港客舎
午前七時起床、入浴シテ朝食ヲ畢リ、客中随行者ト共ニ新年ヲ賀ス、午前十時一行領事館ニ抵リ、遥拝式ニ列ス、総領事及来会者ト共ニ祝盃ヲ挙ケ新年ヲ賀ス、十一時頃帰寓シテ書類ヲ整理ス、午飧後種々来人アリ、牛島謹爾・滝本為吉氏等来話ス、午後六時再ヒ領事館ニ抵リ新年祝賀ノ筵ニ列ス、夜十時過帰宿ス
此日天気朗晴、気候軽寒
一月二日 半晴 軽寒
午前七時半起床、朝食畢リテ種々ノ来客ニ接ス、明日ハ桑港近傍各地方ヲ巡回ノ筈ナレハ、滝本氏ト其順序ヲ協議セシム
   ○以下一月十七日マデ日記ヲ欠ク。


竜門雑誌 第四〇七号・第三九―四四頁 大正一一年四月 ○渡米日誌 青淵先生(DK330013k-0003)
第33巻 p.282-286 ページ画像

竜門雑誌 第四〇七号・第三九―四四頁大正一一年四月
    ○渡米日誌
                       青淵先生
○上略
 十二月十二日(月) 車中。
 十二月十三日(火) 午前九時四十分ニユーオルレアンス着。
 モンテレオン・ホテルに投宿、市中一覧。
 十二月十四日(水) 午後零時十分ニユーオルレアンスを発車す。
 十二月十五日(木) 車中。
 十二月十六日(金) 午後九時三十分ロスアンゼルス着、大山領事其他多数邦人の出迎を受け、ホテル・アレキサンドリアに投宿す。
 十二月十七日(土) 朝来新聞記者其他来客に接見、正午ホテル・アレキサンドリアに於ける大山領事主催の午餐会に臨み、子爵は一場の演説を試みらる、夜は六時より南加中央日本人会及日本人商業会議所主催の晩餐会へ出席せられ、又一場の演説を試みられ、更に同夜日本人会主催の演説会に於て子爵及頭本氏の演説ありたり。
 十二月十八日(日) 午前南加大学邦人学生会館一覧、正午中央日本人会主催の午餐会及有志懇談会に出席して一場の演説ありたり。
 午後六時郷隆三郎氏の晩餐会へ臨まる、此夜頭本氏はホノルルに向て先発せり。
 十二月十九日(月) 正午カリフオルニア・クラブに於ける米人商業会議所主催の午餐会に出席し、会頭の挨拶に対して子爵の答辞あり。
 午後三時南加大学に於ける同大学及日本協会のレセプシヨンに出席
 - 第33巻 p.283 -ページ画像 
し、同六時より同協会主催の晩餐会に出席し、会長ベロース氏の挨拶に対し答辞を陳べられたり。
 十二月二十日(火) 午前九時四十五分ロスアンゼルスを発し、サンヂヱコに向ふ、数日来の強雨にて鉄道線路は破壊を生じ、途中デルマー駅にて下車するの余義なきに至り、同駅より自働車を雇ふて夕刻到着、コロナド・ホテルに投宿す。
 十二月二十一日(水) 午前同ホテルに於てライマン・ゲージ氏の来訪を受け会談す、正午近藤政治氏宅にて午餐の饗を受け、午後市中を巡覧す。
 此日午後ロサンゼルスに帰着するの予定なりしが、汽車不通の為め逗留せり。
 十二月二十二日(木) 午前九時サンチヱゴを発し、午後二時ロスアンゼルスに帰着、午後早川雪州氏活動写真製作所一覧、茶菓の饗を受く、夜ホテル・アレキサンドリアに於て重なる内外人数十名を招き、留別の宴を開かれたり。
 十二月二十三日(金) 午前大山領事を訪問し、正午ポモナ大学総長ブレイスデール氏の来訪を受け日米問題に付き意見を交換し、午餐を倶にしたる後著名なるハサデナを巡覧し、同六時出発桑港に向はる。
 此日添田博士華府より桑港に到着す。
 十二月二十四日(土) 午前八時四十分桑港着、アレキサンダー、リンチ、ガイ、添田博士、牛島氏等の出迎を受け、フエイアモント・ホテルに投宿す、内外新聞記者の来訪終日絶えず、夜牛島氏より晩餐の饗応を受く。
 十二月二十五日(日) 午後四時シアトルに向つて桑港を発す、途中積雪多し。
 十二月二十六日(月) 車中。
 十二月二十七日(火) 午前六時シアトル着、ローマン及バーク両氏を始め、佐藤領事代理及在留邦人の出迎を受け、ニユー・ワシントンホテルに投宿、正午サミユール・ヒル氏邸の午餐会に出席す、帰途ヘンレー氏の美術館を一覧す、夜はレイニーア・クラブに於ける同地商業会議所主催の晩餐会に臨む、同クラブ会長スチムソン氏歓迎辞を陳べ、次で会議所会頭代理として同貿易局長アンダーソン氏司会者となり、バーソンジヤー、グリフイス、パークス諸氏に次で子爵及添田氏の卓上演説ありたり。
 十二月二十八日(水) 午前マシユース氏等諸氏の来訪あり、同十時日本人代表者諸氏と懇談す、諸氏より訴訟費支弁、モリス・幣原案の不当、領事館昇格等に関する意見の開陳あり、正午レイニーア・クラブに於て佐藤領事代理主催の午餐会に臨み、市長其他の挨拶に対し、子爵及添田氏の答辞あり、右終りて在ワシントン大学邦人学生会館を一覧の上、午後四時ローマン氏邸に於ける茶会に出席す、夕刻一先帰宿、夜日本人実業倶楽部に於て、在同地日本人の各種団体聯合主催の晩餐会に臨み、各代表者の歓迎の辞に対し、子爵及添田氏の答辞あり夫より在留日本人の為めの講演会に出席し、子爵及添田氏の演説あり右終つて更に深更に至る迄有志諸氏と会談す。
 - 第33巻 p.284 -ページ画像 
 十二月二十九日(木) 早朝邦人代表者数氏来訪、会談、午前十時ローマン、バーク及邦人諸氏に送られてシアトル市を発し、午後四時ポートランド着、クラーク氏、吉田領事其他諸氏の出迎を受け、マルトマー・ホテルへ投宿す、夜クラーク氏主催の晩餐会に臨み、市長代理グラント、商業会議所会頭バンデユザー諸氏及其他の演説に次で、子爵・添田氏の答辞あり、終つて日本人会主催の演説会へ出席、子爵及添田氏の演説あり。
 十二月三十日(金) 午前同地日本人会の幹部と会談の後、クラーク氏の案内にてコロンビヤ河畔の製材所一覧、正午同地商業会議所主催の午餐会に出席、会頭バンデユザー氏司会の下に子爵及添田氏より謝辞を陳述す、右終り再度日本人代表者と会談、午後四時発車、クラーク氏其他に送られて桑港に向ふ。
 十二月三十一日(土) 午後九時半桑港に着す、桑港商業会議所より特に書記を派し、自働車を以て一行を迎ふ、伴はれてフエーアモントホテルに入る。
 大正十一年一月一日(日) 朝総領事官舎に於ける遥拝式に参列、正午国府精一氏より午餐の饗を受け、夜は矢田総領事に招かれ晩餐の饗応を受く。
 一月二日(月) 午前十時半ホテルに於てマクラツチー氏と会見し、日本人同化問題に付種々意見を交換す、正午同ホテルに於て岩永祐吉氏、マクラツチー、ベントレー、ムア、ヘイス、チル諸氏の為めに午餐会を催し、午後ジヨルダン博士と会談の後、在留日本人の主たる人人との懇談会に臨席し、引続き晩餐会に移り、主人たる牛島氏、其他諸氏の挨拶に対し子爵及添田氏の答辞ありたり。
 一月三日(火) 午前九時桑港商業会議所副会頭リンチ氏の案内にて同会議所書記デグラフ氏及サザーン・パシヒイツク鉄道会社より派遣のレースローブ氏等一行の接待役として特に用意せられたる列車に乗じ、フレスノに向つて出発す、午後四時同地着、市長・商業会議所会頭・上院議員等其他日本人会幹部の出迎を受け、直にフレスノ・ホテルに投宿、小憩の後同地日本人の経営に属するインダストリアル・バンク一見の上、日本人会事務所に於ける在留日本人の懇談会に臨み、各地方在留邦人の代表者の希望を聴取したる後、子爵より一場の訓話を試み、夜はフレスノ・ホテルに於ける同地商業会議所主催の晩餐会に出席、市長ハリス氏等の挨拶に対し子爵及添田氏の答辞ありたり。
 一月四日(水) 午前八時一同自働車に分乗してフレスノを出発、十一時半リビングストンに到着、在留邦人と会談し、進で正午ターロツクに到り、同地商業会議所主催の午餐会に臨み、子爵及添田氏の演説あり、曾て当市の掲示したる「日本人入用なし」の立札に関する悪感一掃に言及する所ありたり、午後二時同所より汽車の人となり、同七時桑港に帰着す。
 一月五日(木) 朝矢田総領事来談、午前十一時市役所に於て催されたる多数の市民・市吏員の重なる人々を網羅せるレセプシヨンに赴き市長より丁重なる歓迎の辞あり。
 子爵及添田氏に発言を求めらるゝに依りて、両氏は交々謝意を表し
 - 第33巻 p.285 -ページ画像 
併せて希望を陳述せり。
 正午ユニオン・パシフイツク・クラブに於ける桑港日米関係委員会長アレキサンダー氏主催の午餐会に出席し、ア氏の歓迎の辞に対して子爵及添田氏の答辞あり、引続き協議会を開き、公文にて紳士協約の内容宣伝等に就き意見を交換し、ア氏より特別委員を指名して九日再開会の際に報告することに決す(精細は別に議事録あるを以て略す)
 此夜八時半フエイアモント・ホテルに於て、矢田総領事の子爵紹介の盛大なる夜会を催され、内外数百の人々、就中米国生れ邦人男女に引合されたり。
 一月六日(金) 桑港商業会議所会頭アレキサンダー及同副会頭リンチ氏の両氏一行に加はり、桜府桑港電車会社々長アーンステイン氏の先導にて特別車に乗じ、朝九時桑港発、正午サクラメントに着、スビルス氏始め多数の出迎あり。
 直に州政庁に赴きスチーブンス知事を訪問して、子爵より来意を告げ、添田氏よりは知事に嘱望する旨を述べたるに、知事は互に誠意を以てするならば日米案件の解決困難ならざるべき旨を語らる、正午在留日本人の催にかゝる午餐会に出席し、引続き懇談会に臨み、二重国籍、幣原・モリス案の不当、金融機関設置等に就き、来会諸氏の意見を聴取す、夜はサクラメント・ホテルに於ける同地商業会議所主催にかゝる晩餐会に臨み、司会者ビルス氏の指名により、マクラツチー、市長代理、其他の卓上演説に次ぎて子爵及添田氏の答辞あり、此夜大隈侯甍去の旨を耳にせるも軽信を慎むことゝせり。
 一月七日(土) 朝桑港よりジヨルダン博士来会す、一行自働車にてスタクトンに向ふ、途中フロリン及ローダイに於て在留邦人と会談す正午過スタクトン着、スタクトン・ホテルに投宿、直に牛島氏の案内にて石油発動艇に乗じ、同氏のマンデヒル農園に赴き、午餐の饗を受く、夜スタクトン・ホテルに於ける同地商業会議所主催の晩餐会に出席、会頭を始めニユーシラー、ジヨルダン博士、アレキサンダー諸氏の挨拶に対して子爵より謝辞を述べ、夫より在留同胞の講演会へ出席し、子爵並に添田氏の講演ありたり。
 一月八日(日) 午前七時十分スタクトン発車、同十時桑港着、午後三時在留同胞講演会に臨み、子爵及添田氏の講演あり、夜日本倶楽部に於ける日本人商業会議所の催にかゝる晩餐会及懇談会に出席す。
 一月九日(月) 朝シヤーレンブルグ氏来訪、労働問題就中布哇に於ける支那人労働者を以て補充するの非なるを力説せり、正午子爵はフエアモント・ホテルに於て日米の重なる人々七十余名を招待して留別の宴を開く、子爵より一場の挨拶あり、次で矢田総領事、ホルステツド中将、ラウエル、ゴルドン、ホウヰーラーの諸氏演説せり、又アレキサンダー氏は桑港商業会議所会頭として、子爵が日米親善の為め多年貢献せられたるを謝し、尚将来益々努力せられんことを希望する旨を陳べ、且同一の意味の文字を彫刻せる金製紀念品を子爵に贈呈せり子爵は深く其厚意を謝し、尚将来奮つて日米の為めに尽すべきことを答へらる、続いて別室にて日米関係委員協議会を開き、五日の議事を継続せり、詳細は別に議事録あるを以て之に譲る可きも、先づリビン
 - 第33巻 p.286 -ページ画像 
グストンの実況に就きアダムス氏よりの報告あり、次で日本移民増加防止、紳士協約公表、最高委員会設置等に関し特別委員長より報告あり、子爵は不明の点に就き質問ありたる後、事件重大なるを以て篤と熟覧審議の上ならでは即座に決定的意見を表示し難き旨を告げ、尚添田氏よりも此点に就き他日誤解なからしむる為め敷衍する所ありたり夜セスノン氏夫妻の懇請により、アレキサンダー、リンチ、ムア氏以下懇親の間柄なる人々を相客とせる同氏邸の晩餐会に臨みたり。○下略


東京日日新聞 第一六二六七号大正一一年一月一二日 渋沢子留別会(DK330013k-0004)
第33巻 p.286 ページ画像

東京日日新聞 第一六二六七号大正一一年一月一二日
    渋沢子留別会
〔桑港特電〕(九日発) 渋沢子は十日布哇に向け出発する筈で、九日留別の午餐会をフエアモント・ホテルで開催し添田氏が司会者となり鉄道監督官ウエスター・ローウエル、カリフオルニヤ大学総長フエーラー氏、商業会議所会頭アレキサンダー諸氏の演説があつた後、委員側からは渋沢子が両国の為努力されたる功績に対し感謝状を贈つた
〔桑港電報〕(十日発国際直電)渋沢子爵帰国の途に就くに先立ち、加州の重立つた実業家等に対し誓つて曰く
 予は日米間の難問題たる土地問題及移民問題に円満なる解決を齎らすを以て自己の天職となし「死ぬるまで」此職分を尽す積りであると
子爵は右の問題に関し、米国全土に亘りて会見して蒐集した材料を有つて帰国するのである、桑港商業会議所は渋沢子爵に対し黄金製の額面を贈呈した、之れには日米両国々旗を交叉し、其下に次の文言を銘記してある
 一、渋沢子爵の友たる商業会議所日本関係委員より子爵に贈る
 一、日米両国民間に於ける更に緊密なる友好、及び更に親厚なる関係の為めに倦む事なく、且公明の精神を以て熱心に尽されたる其の功を謝する為に
子爵の乗れる端艇が岸を離るゝ時、見送りの群衆は夥しき数であつた子爵は従来米国を訪問せる日本人の中最も米国人より愛せられた人として、到る処歓迎された


Japan Advertiser Jan. 12, 1922 SHIBUSAWA IS GIVEN SOLID GOLD SCROLL(DK330013k-0005)
第33巻 p.286-287 ページ画像

Japan Advertiser Jan. 12, 1922.
        SHIBUSAWA IS GIVEN
        SOLID GOLD SCROLL
         ―――――
       San Francisco Makes Present
         Out of Respect for Aged
        Japanese, Sailing for Home
Kokusai Direct
  SAN FRANCISCO. January 10 ― Viscount Shibusawa has sailed for home after pledging to leading business and professional men of California that he will continue "until death" the self-imposed task for bringing about an amicable adjustment, satisfactory to the United States and Japan for
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 the vexatious land and immigration problems.
  He carries with him data gathered throughout the nation in conferences on the subject.
  The San Francisco Chamber of Commerce presented him with a scroll of solid gold on which is inscribed under the entwined flags of Japan and the United States "presented to Viscount Shibusawa by his friends of the Japanese Relations Committee of the Chamber of Commerce in grateful recognition of his untiring and unselfish devotion and zeal in the interests of closer friendship and friendlier relations between the peoples of the United Sates and Japan."
  There was a great demonstration as the boat sailed.
Everywhere Viscount Shibusawa was hailed as the best loved Japanese who ever visited America.


AN INTERPRETATION OF THE LIFE OF VISCOUNT SHIBUSAWA, by KYUGORO OBATA. pp.223-225. Nov., 1937(DK330013k-0006)
第33巻 p.287-288 ページ画像

AN INTERPRETATION OF THE LIFE OF VISCOUNT SHIBUSAWA, by KYUGORO OBATA pp.223-225.Nov., 1937.
       CHAPTER X
   INTERNATIONAL ACTIVITIES
  ……………
  On the day before he left San Francisco, the Japanese Relations Committee of the San Francisco Chamber of Commerce, headed by Mr. Wallace M. Alexander, gave a farewell luncheon to the Viscount. Table speeches were made, and Mr. Alexander presented to the Viscount on behalf of the Japanese Relations Committee of San Francisco Chamber of Commerce, a souvenir of a gold tablet on which a statement of appreciation was engraved. It reads:
             Presented to
         Viscount Eiichi Shibusawa
           by his friends
     the Japanese Relations Committee
             of the
      San Francisco Chamber of Commerce
      in grateful recognition of his unitiring
        and unselfish devotion and zeal
       in the interest of closer and more
      friendly relations between the peoples
              of
        Japan and the United States.
             January
              1922
  The next day the city papers mentioned both speeches. A lady who was staying at the Fairmont, occupying a suite of
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 rooms, telephoned the Viscount and requested him to send to her his secretary. The Viscount acquiesced and the secretary was sent to her. She told him how deeply she was impressed by reading the newspaper account of the speech the Viscount made the day before, especially the expression of "carrying with him his coffin." She told him that, though a woman, she would do her utmost in the same work, and that as a pledge, she would present to the Viscount a special keepsake which she desired to be fastened to his watch-chain. Struck by her zeal and eloquence, the secretary received the charm on behalf of the Viscount taking it for granted that he would accept such a high compliment. The Viscount received it in good humor and pursuant to her request he ever after wore it fastened to his watch-chain. As a return compliment, the Viscount presented to her a book containing a collection of the fifty-three scenic pictures along the Tokaido, the highway the ancient Daimyo used to travel between Kyoto and Yedo.
  The Viscount later found that the lady occupied an important post in the municipal government of San Francisco during the World War, and that she was a cousin of one of the San Francisco friends of the Viscount.


(ヴィー・エス・マクラチ)書翰控 渋沢栄一宛一九二一年一二月一三日(DK330013k-0007)
第33巻 p.288-289 ページ画像

(ヴィー・エス・マクラチ)書翰控 渋沢栄一宛一九二一年一二月一三日
                (ヴィー・エス・マクラチ氏所蔵)
               (COPY)
            Prince George Hotel, New York City,
                     December 13, 1921.
Viscount E. Shibusawa,
  Arlington Hotel,
  Washington, D. C.
My dear Viscount Shibusawa:
  Permit me to express my appreciation of the courtesy extended by you when in Washington, and the opportunity afforded me for a very frank discussion with you on the important problem in which we are both so much interested.
  I look forward with pleasure to the prospect of seeing you again in California, and shall be glad to be of any service to you in the way of information or otherwise, if you will give me the opportunity.
  We certainly have this feeling in common; that Japan and the United States cannot afford to disturb the friendly relations which have thus far marked their intercourse, and that loyal Japanese, like yourself, and loyal Americans, like myself, owe it to their respective countries, as well as to world progress, to
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do all that we can to secure such an adjustment of existing questions as may be at the same time just and fair to both countries.
          Very sincerely yours,
                  V. S. McClatchy


(滝本為三)書翰 ヴィー・エス・マクラチ宛一九二一年一二月三〇日(DK330013k-0008)
第33巻 p.289 ページ画像

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Japanese Immigration The California point of View pp.1-8 Jan., 1922(DK330013k-0009)
第33巻 p.289-296 ページ画像

Japanese Immigration The California point of View
                      pp. 1-8
                      Jan., 1922.
        Japanese Immigration
          ―――――
      The California Point of View
          ―――――
       AS PRESENTED FOR FRIENDLY
        CONSIDERATION OF JAPAN
          ―――――
    In Conference and Correspondence with
       VISCOUNT EI-ICHI SHIBUSAWA
          ―――――
       Sacramento, California
         January, 1922
          FOREWORD
          ――――
  Viscount Ei-ichi Shibusawa is, it is said, the most prominent and influential private citizen of Japan. Over eighty years of age, but still vigorous, he has devoted his activities for the
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 past twenty years since retirement from official position to his country's welfare, and more particularly to betterment of her relations with the outside world.
  To this end he has made four trips to Europe and the United States, his last visit to this country being during the Winter of 1921-22. Prior to coming he wrote to V. S. McClatchy, suggesting a meeting between the two for careful consideration of the so-called "California question," in the hope of better understanding between the two peoples in connection therewith.
  Lengthy conferences between the two were had in Washington in December, 1921; and in San Francisco in January, 1922; and following the latter there was prepared, at Viscount Shibusawa's suggestion, a memorandum of the points involved in the California point of view.
  The memorandum was sent in the form of a letter, dated January 3, 1922 (reproduced herewith). which the Viscount took with him to Japan when he left a few days later.
  The brief to which frequent reference is made therein, is the brief prepared in 1921 by V. S. McClatchy for consideration of the State Department at Washington, in connection with the Morris-Shidehara conferences, looking to revision of the "Gentlemen's Agreement". The brief was presented to Secretary of State Hughes by the entire California Congressional delegation, acting for the State, as embodying the State's point of view already unanimously endorsed by the California Legislature in its approval of the four principles of the Japanese Exclusion League of California.

        California to Japan
          ―――――
    The Message Carried Back by Viscount
      Shibusawa in January, 1922
          ―――――
            Janurary 3rd, 1922.
Viscount E. Shibusawa,
  Fairmont Hotel,
  San Francisco, Calif.
My Dear Sir:
  In furtherance of the understanding had in our interview January 2nd, I submit a statement in logical sequence of existing conditions and proposed remedies in connection with the various phases of the problem created by Japanese immigration into the United States.
  After consideration of the points herein made, you may
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desire to discuss the subject further. You may assume that I will make any appointment suitable to your convenience for such purpose. We are both striving so earnestly to reach an adjustment which will be fair to both nations and remove possible causes for misunderstanding that I am anixous to take advantage of your visit to find a common basis of principle and facts upon which such an adjustment can be predicated.
     FRIENDLY DESIRE OF BOTH NATIONS
  We can, perhaps, readily agree as to mutual disposition in the case to the following effect:
 1. That there is earnest desire on both sides to avoid or remove sources of friction that will inevitably, or even probably, lead to racial conflict and international misunderstanding.
 2. That there is mutual desire to avoid or remove such sources of friction without unnecessary hurt to the pride of either nation and without invasion of individual rights legally acquired.
 3. That there is no disposition on the part of either nation to force its emigration on the other nation, or on states or provinces thereof, against the expressed objection of such nation, or its states or provinces.
     HOW FRICTION MAY BE CREATED
  Going a step further, perhaps you will agree with me, as a number of leaders of Japanese thought have, that the racial conflict and international misunderstanding which we are striving to prevent may be easily caused by:
 (a) The development in either country of an alien, unassimilable element with such advantages in economic competition as will enable it to displace domestic labor and secure control of certain industries. (See Dr. Iyenaga's statement, Section 110 of my brief prepared for the Department of State.)
 (b) The rapid increase of such an element, either through immigration or through a birth rate many times greater than that of the home population.
     THE CONDITIONS IN CALIFORNIA
  Assuming agreement between us that the causes outlined in (a) and (b) above would produce results we desire to prevent, the question is, do any or all of these conditions apply to the Japanese in California and will those conditions be found in other states should Japanese immigration extend to them.
  You will perhaps agree that the facts are conclusive as to existence of all those conditions in California, with the possible exception of the element introduced by Japanese immigration being unassimilable. Should you make issue on that point the
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difference between us will be found to be one of terms rather than of facts. Let us clear up that point first.
     ASSIMILATION OR AMALGAMATION
  Whatever may be claimed as to future possibilities in this regard, it will be conceded that at present there is no general assimilation, and no attempt or indication of assimilation of any kind save in individual cases. Whether the fault be charged to whites, or to the Japanese, or to nature, the fact remains.
  This present condition is due to a difference in race, religion, ideals and customs so great that admittedly it will require a number of generations to assimilate the Japanese immigration if, indeed, it can ever be assimilated. California frankly declines to encourage an experiment so dangerous because failure would mean the end of the white race in California. Japan would not permit such an experiment in her own country.
  All the known facts, however, point to the impracticability of assimilation of the Japanese by the whites in California. Perfect assimilation or amalgamation would depend on intermarriage, which is out of the question; apparently repugnant to both nations; unwise from the biological standpoint and inducing loss of social standing for parents and children on both sides of the Pacific. (See Brief, Sections 126 to 134.)
  Japanese may not, can not and will not be assimilated into good American citizens, save with rare exceptions, for reasons set forth in my Brief, Sections 119 to 122. The general Subject of assimilaion will be found discussed at length in my article, "Japanese in the Melting Pot," in "Annals of American Academy of Political and Social Science," page 29, and in "Assimilation of Japanese" (copy herewith). Among Japanese authorities, Dr. Iyenaga and C. Kondo and J. Sacamori have pointed out practical difficulties in the way of assimilating Japanese. (See Sections 132, 133 and 228 of Brief.) Their pride of race and national consciousness forbid merging their identity in other races, which they are taught to regard as inferior.
  On the other points involved in my paragraphs (a) and (b) above, there will not be question as to their applicability to the Japanese in California.
        ECONOMIC COMPETITION
  The Japanese have undoubted advantage in economic competition with the whites, and displace them in industries and in localities when opportunity offers. That has been demonstrated not only in California, but in other states of the Union and in Hawaii. (The facts in connection therewith are
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fully treated in the Brief, Sections 160 to 192.)
        INCREASE BY IMMIGRATION
  There has been, and is, a steady influx of Japanese immigration, authorized and surreptitious, as shown by the great increase of Japanese popultion in California and Continental United States, after making due allowance for births. In Continental United States there has been an increase of Japanese population from immigration since 1906 of 62,000. Of this number 47,000 are in California. (See Section 245 of Brief.) It should be borne in mind that the United States census figures of Japanese population are entirely wrong. (See Sections 68 to 83 of Brief.)
     "PICTURE" AND "KANKODAN" BRIDES
  Japan is still sending over large numbers of women immigrants. She discontinued the sending of "picture brides", but has inaugurated the plan of "Kankodan, or excursion brides, with the result that there came into Seattle and San Francisco during the year ending September 1, 1921, 2197 new Japanese wives who had never been in this country before. The Japanese government now allows Japanese visiting Japan to get wives 90 days' stay instead of 30, as called for by law, without performance of conscription duties.
      JAPANESE BIRTH RATE
  There is an alarming increase of Japanese population in California due to a birth rate three times as great per thousand as that of the whites, and to the fact that practically all Japanese women are married and producing children, while many white women are not married, and those married have few or no children. Because of these conditions the Japanese in California are increasing by reproduction ten times as fast as the whites. The Registrar of Vital Statistics of the State Board of Health holds the opinion that "unless checked, the Japanese will, in time, equal the whites in number in California." (See Sections 141 to 159 of Brief.) This situation grows worse because Japan is now encouraging the shipment of Kankodan brides and new wives, as noted above. The intent is, from published statements in Japanese newspapers, to supply a wife as speedily as possible to each of the 45,000 or 50,000 wifeless Japanese in Continental United States, and, through their efforts, swell the Japanese population.
  It is claimed that to refuse the unmarried Japanese now here to bring in wives from Japan would be neither fair nor human. But if it be agreed that the rapid increase of Japanese population in California is likely to jeopardize the friendly relations between Japan and the United States, then it would be
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most unwise for us to do the one thing which would be most certain to produce that rapid increase. And the interest of the individual should be subordinated to the greater interests of the two nations.
        HAWAII AS OBJECT LESSON
  In Hawaii nearly half the total population is now Japanese and rapidly increasing, while "picture brides" (not forbidden for Hawaii) and new wives continue to flow in in great number.
  It is natural for California and other sections of the United States to view this situation with alarm. Japan would not permit similar conditions to exist in her empire, whereby any of her provinces would be overrun by an alien population, no matter how friendly she might be with the nation from which they came.
      FAILURE OF GENTLEMEN'S AGREEMENT
  Having thus glanced at existing conditions and the serious results which must flow therefrom, we look into the cause for these conditions. It is to be found in the operation of the Gentlemen's Agreement which was made for the definite, expressed purpose of "keeping Japanese labor, skilled and unskilled, out of Continental United States", and with the tacit understanding that it would serve, through Japan's voluntary act, in preventing the increase in this country of an alien Japanese population, as the Exclusion Act prevents similar results with regard to Chinese. (Sec. 236-242 of Brief.)
  The Gentlemen's Agreement has failed signally to accomplish its declared purpose. It has flooded California with Japanese labor, skilled and unskilled, and it has multiplied the Japanese population of that state and of the United States instead of preventing increase of that population. (Sections 244 to 253 of Brief.)
        OBVIOUS REMEDIES
  The suggested remedies for the serious situation outlined, as formally approved by the California Legislature by unanimous vote in April 1921 (see Brief, page 99) are in effect as follows:
 1. Cancellation of the Gentlemen's Agreement. It is not necessary to accuse Japan of violating the agreement or even of so carelessly performing her obligations under it that her nationals have been able to evade not only its intent but its plain provisions. It is sufficient to say that the agreement in operation has done, or permitted, the very things which it was supposed to prevent. That being so, Japan should have no hesitation in agreeing to its cancellation, since it does not carry out her declared intent and since it offers a steady, growing
 - 第33巻 p.295 -ページ画像 
menace to friendly relations between the two countries.
      RIGHT TO REGULATE IMMIGRATION
 2. Substitution in place of the Gentlemen's Agreement of treaty or laws based on the right of every nation to regulate its immigration as a domestic question without demand or suggestion from any other nation.
  The United States has committed the extraordinary blunder of giving temporarily to Japan the privilege of determining the number and character of immigration coming into this country from Japan. That is a privilege granted by us to no other nation. It is a privilege not granted by any other nation, including Japan, to a foreign nation. (Sections 237, 241, 242, 243 of Brief.)
  This country has a pride no less than Japan and the present situation is a source of humiliation to any American who understands it. Japan should bear that point in mind when speaking of her own pride.
        RECIPROCAL EXCLUSION
 3. Such treaty or laws should provide for absolute exclusion hereafter of all Japanese, male and female, who desire to enter this country as permanent residents. Provision should be made for temporary residence by diplomats, tourists, commercial men, etc. And that there may be no suggestion of discrimination, similar laws or treaty provisions should exclude Americans from Japan. This is in accord with the principle enunciated by Theodore Roosevelt. (See Brief, page 104).
    PROTECTION FOR ACQUIRED RIGHTS
 4. The personal and property rights of Japanese who have acquired residence legally in California should be carefully safeguarded, as declared in the Fourth Section of the Declaration of Principles approved by the California Legislature. The State of California and her people have given every proof of good faith in fair treatment of Japanese now in the State. (See Brief, Sections 14 to 21.)
  When your time permits, I hope you will carefully consider the points herein made, and make such frank criticism thereof as suggests itself to you, pointing out any mistake I may have made as to facts or any lack of logical reasoning in drawing deductions therefrom.
  Permit me to express my great admiration for your ability and for the work you have undertaken in bringing your country into closer and more friendly relations with the outside world. I feel that you credit me with an earnestness equal to your own and that, therefore, you will approve rather than condemn
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the frankness with which I present the California point of view to your attention. It has been an honor to dicsuss these questions with you, and it will be a greater honor if, through interchange of thought, I can, even in a small way, assist in bringing about a permanent friendly relation between our two countries.
                    Sincerely,
              (Signed) V. S. McCLATCHY.


(小畑久五郎)書翰 ヴィー・エス・マクラチ宛一九二二年一月七日(DK330013k-0010)
第33巻 p.296 ページ画像

(小畑久五郎)書翰 ヴィー・エス・マクラチ宛一九二二年一月七日
              (ヴィー・エス・マクラチ氏所蔵)
             (COPY)
                 Sacramento, California
                   January 7, 1922.
Dear Mr. McClatchy:
  Complying to your request, I obtained an autograph of the Viscount, and left it in the office of the hotel. On the left "Presented to Mr. V.S. McClatchy" is written and on the right "Shibusawa Ei'Ichi." According to the Japanese style a given name comes next to the family name.
  I rejoice with you over the fact that you found one of the best interpreters of the Japanese life and ideal in Viscount Shibusawa.
  Trusting that your friendship with him may be one of a good fruitage in every way, I remain,
                Yours truly,
                 (Signed) K. Obata


(ヴィー・エス・マクラチ)書翰控 渋沢栄一宛一九二二年一月一〇日(DK330013k-0011)
第33巻 p.296-297 ページ画像

(ヴィー・エス・マクラチ)書翰控 渋沢栄一宛一九二二年一月一〇日
               (ヴィー・エス・マクラチ氏所蔵)
               (COPY)
                     January Ten, 1922.
Viscount Ei-ichi Shibusawa,
  2 Kabutocho Nihonbashi,
  Tokyo, Japan.
My dear Viscount:
  Through the courtesy of Mr. Kyugoro Obata, I have received your portrait with inscription thereon. Permit me to express my deep appreciation of the indication of your friendship and confidence thereby conveyed. The portrait hangs framed in my office as a living tribute to the determination shared by me with you that we shall do our utmost, each on his side of the water, to bring about such adjustment of existing problems as will insure permanent maintenance of friendly relations between our two countries.
 - 第33巻 p.297 -ページ画像 
  I shall remember with pleasure our brief intercourse and trust we may keep in touch with each other in fulfilment of our mutual purpose.
        Very sincerely yours,

            V. S. McClatchy.


(熊崎恭)書翰 渋沢栄一宛(大正一〇年)一二月一九日(DK330013k-0012)
第33巻 p.297-298 ページ画像

(熊崎恭)書翰 渋沢栄一宛(大正一〇年)一二月一九日
                      (渋沢子爵家所蔵)
          (栄一朱書)
          十二月廿四日於桑港落手
          (栄一鉛筆)
          十年十二月二十四日桑港ニ於テ一覧
          十一年一月九日堀越氏ニ托シテ返事済
拝啓、御旅中の御繁忙にも不拘御懇なる御来示に接し、恐縮千万に奉存候
御申越の当地日米委員会事業に就ては、早速ウイカシヤム氏に面会致度存候処、生憎同氏所労にて先週後半引籠に付、不得止本月曜同氏出勤を待て往訪致し候処、同氏は引続き多大の熱心を示し、先週中二十五名の有力人士に対し、同氏名儀にて必要の寄附を勧請する書面を発し、目下其返事のギユーリツク博士手許へ接到するを待受け居るとの事に有之、其旨閣下へ宜敷御伝声方希望せられ候、尚ギユーリツク博士は数日来シカゴに出張中に候へ共、多分本日帰来の筈に付、何れ近日面会可致、将来共連絡を保ち事業の助成に努めたく存居候
此程当地「トリビユーン」紙に面白からさる社説有之候処、「ウイカシヤム」氏は早速之に弁駁を加へたるに、生憎考証に多少の手落ありたる為、同新聞より更に反駁を受くるが如き事態となり、遺憾に候へ共「ウ」氏の趣旨は之か為論破せられたる次第には無之、同氏の公正なる見地は大に多とすべき所に存候、何等御参考迄右新聞記事写一束同封致置候間、御査閲被下度候
尚右は例の事業の手始めにして、「ギ」博士に於ては取計はれ「ウ」氏に於ては単に署名せられたるものかと存候処、本日「ウ」に直接に尋ねたる処に依れば、右は同氏に於て「トリビウン」社説を見らるや、直ちに自宅より発信せられたるものゝ由に候
紐育御滞在中は何等御構も不得致候処、却て種々御厚情を蒙り候のみならす、御心入の珍品御恵投に預り、御高誼の段々感荷の至に不堪奉存候
閣下八十二歳の御高齢にも不拘、遥に海山万里を超江て御渡来、壮者をも凌く御活動に乍今更一同の深く感銘する所に有之、小生等若輩も大に奮発将来共微力の限りを尽し度存居候
不取敢右貴酬迄申上度、遥に御航海の平安快適ならむ事を祈念仕候、尚乍恐縮添田様・頭本様其他御一行皆々様へ宜敷御伝声之程願上候
                           匆々敬具
  十二月十九日
                    熊崎恭
    渋沢子爵閣下
 - 第33巻 p.298 -ページ画像 
   ○書中ニ云ヘル「トリビユーン」紙切抜ハ渋沢家所蔵書類中ニ無シ。
   ○熊崎恭ハニユーヨーク駐在総領事。


竜門雑誌 第四一三号・第三八―四〇頁大正一一年一〇月 渋沢子爵とは如何なる人ぞや フレツト・ロツクレー(DK330013k-0013)
第33巻 p.298-300 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
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〔参考〕竜門雑誌 第四八〇号・第一三―一五頁昭和三年九月 華府会議と渋沢子爵 添田寿一(DK330013k-0014)
第33巻 p.300-301 ページ画像

竜門雑誌 第四八〇号・第一三―一五頁昭和三年九月
    華府会議と渋沢子爵
                      添田寿一
○上略
 十二月十二日には子爵御一行はアトランタを、十三日にニユーヲレアンスを、十五日にはエルパソを通過し、十六日にはロスアンゼルスに到着された。此の間山東問題を始め支那関係の事項は、着々進行を続けて居つた。
      六
 十二月十八日には予め子爵との打合に依り、二十二日頃サンフラシンスコにて落合ふ必要上、私も止むなく華盛頓を発して西行した。途中新聞紙上石井ランシング協約破棄の記事を一見しては、意外の感に打たれざるを得なかつたのである。
 十二月二十二日桑港に到着、二十四日ロスアンゼルスより子爵の来桑を迎へた。御着後直に我が総領事館に赴かれ、夜に入りて牛島謹爾氏の晩餐会に出席せられた。翌二十五日は寒気凛烈の際なれば子爵の北行如何やと案じ申上げたれども、断乎としてシヤトルに向はれた。
 十二月二十七日シヤトルに着、ローマン氏、バーク氏等の旧友に面会せられ、商業会議所の晩餐会に臨み演説せられた。二十八日にはマシユース氏及び有力なる在留日本人諸氏の来訪を受けられ、ワシントン大学をも見物せられ、正午は領事の午餐会、夜は日本人有志晩餐会に臨まれ、更に在留日本人主催の演説会に於て演説せられた。
 十二月二十九日朝シヤトル出発、午後ポートランド着、クラーク氏の晩餐会後、日本人会主催の演説会に於て渡米の理由を述べられた。三十日ポートランド発、翌三十一日桑港着。
 大正十一年一月元旦総領事館に赴かれ 陛下の万歳を祝し申上げられた。此の日子爵の作られた詩は左の如くである。
      壬戌元旦在桑港客舎書感
    不嫌無酒答佳辰  客裏韶光亦覚新
    米寿算来猶欠五  金門迎得太平春
 一月二日ジヨルダン博士、マクラツチー氏と、日米親善・移民問題に就き意見の交換があつた。夜は日本人代表者の晩餐会に赴かれた。一月三日フレスノーに赴かれ、日本人経営の銀行を見分の後、日本人会に於て永住の決心、金融機関等に就き意見を述べられ、夜は市長以下主なる米人の晩餐会に出席せられた。一月四日フレスノー発、タルロツク町の午餐会に臨まれ、夜桑港着。一月五日朝市長のレセプシヨンに赴かれ、アレキサンダー氏の午餐会に臨み演説せられ、引続き日
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本米国双方の日米関係委員聯合会に出席せられた。其節紳士協約、日米間の各問題等研究の為め特別委員を選挙し、再び九日会合までに調査することに決定した。此の日支那関税増率の件、在留外兵撤退の件可決の旨新聞の報道あり。夜は矢田総領事の夜会に出席、有力なる人人と交歓せられた。
 一月六日には桑港発サクラメントに赴かれ、加州知事に面会の上、日米国交に就き懇談あり、日本人会に臨まれ、種々忠告せらるゝ所あり。夜は商業会議所の晩餐会に於て演説せられた。此の日大隈侯薨去の報に接し弔意を表された。一月七日ジヨーダン博士、アレキサンダー、リンチ諸氏同行にてサクラメント発、フロリン、ローダイを経てスタクトンへ赴かれ、スタクトンにて牛島謹爾氏経営の農園を見物され、尚ほ公会堂にて演説あり、在留同胞の心得方に就き懇切に諭告せられた。此の日新聞に、山東問題に関し、支那よりヒユーズ、バルフヲアー両氏に斡旋方を申出でたる旨の記事あり。一月八日スタラント発、桑港に帰られ、在留同胞の演説会に臨席、同胞の心得方を懇示せられ、夜は日本人商業会議所に赴かれた。一月九日労働団体の牛耳を執るシヤーレンブルグと会見種々意見の交換あり、子爵は盛大なる午餐会を催され、日米の有力者多数を招かれ、桑港会議所よりは子爵に記念牌の進呈があつた。予定に従ひ日米関係委員会に臨まれ、特別委員の報告ありし後、子爵より種々意見を述べられ、夜に入りてセスノン氏の晩餐会に臨まれた。
○下略



〔参考〕竜門雑誌 第五三〇号・第六一―六二頁昭和七年一一月 米国に於ける渋沢翁 穂積重遠(DK330013k-0015)
第33巻 p.301-302 ページ画像

竜門雑誌 第五三〇号・第六一―六二頁昭和七年一一月
    米国に於ける渋沢翁
                      穂積重遠
○上略
 これは私が一緒に参つた時ではないが、最後に八十二歳でワシントン会議の時アメリカに行つた、その時ワシントン其他の地方を廻つて愈々アメリカを引揚げる時、最後にサンフランシスコに於てアメリカ人の催した送別会があつた。その時例に依つてアメリカ人側から送別の辞があつた後、渋沢翁は立つて斯う云ふことを言つたさうである。『自分はこれで四回アメリカに来て僅かばかり日米親善の為に骨を折つた。併し自分はこれが最後とは思つて居ない。若し又必要があれば自分は柩を船に載せて再び渡つて参ります』と云つて演説したさうである。それが翌朝サンフランシスコの新聞に出て、或る貴婦人が之を読んで非常に感激して『実に偉大なる老人である。自分もこれから及ばずながら日米親善の為に努力しなければならぬと云ふことを痛切に感ずる、是非渋沢さんに会ひたい』と云つてホテルに来て『貴方の昨日の演説に感激した印しに之を上げますから附けて呉れ』と云つて、鎖に附いて居た飾りを取つて渡した。渋沢翁は喜んでそれを受けて、自分の時計の鎖に一生下げて居たやうである。私は思ふ。もし今日渋沢翁が生きて居られたならば、――私共親類の者としては百迄生きさしたいと思ひ、又百迄生き得ると信じて居たが、不幸にして昨年亡く
 - 第33巻 p.302 -ページ画像 
なつたが、――もし今日生存して居たら、九十三歳の老躯を提げ、柩を船に乗せてアメリカに渡り、今度大統領となるべきルーズヴエルト氏に会つて、初めからの日米関係を語つて『日米相親しむことが世界平和の根本である』ことを説きに行くと云ひ出し、我々親族の諫止を振り切つて渡米したことであらうと思ふのであります。
 渋沢翁逝いて一年、翁がもつと生きて居て呉れればよかつたと思ふこれは私事でなく、此今日の日本の時局に当つて、翁が生きて居たならばと云ふことを思ふのであります。これは身近い私が申しては或は言ひ過ぎであるかも知れないが、一生世界平和の為に、日本国家の為に尽した人であるから、其位の事は云はせて頂いても差支へないと思ふ。誠に今日翁が生きて居ないことは遺憾なことである。併し過ぎ去つたことは致し方もない。私共は迚も一人では翁の真似は出来ないがどうか私共は一同協力して、翁が折角こゝ迄やつて来た各方面の仕事殊に最後に於て最も力を入れて居た日支親善・日米親善、延ては世界の平和、而して更に日本国が世界平和の支持者であると云ふ処に迄持つて行きたいと云ふことを痛切に感じるのであります。今日のこの意義深い会合に列して、翁が若し今日在つてこの席に出ることが出来たならば嘸かし喜んだであらうと云ふ矛盾した感慨さへ起さざるを得ません。聊か玆に翁の想出を述べ、併せて皆様に対し翁の身内の一人として厚く御礼を申述べる次第であります。
 (記者註)右は十一月十一日、青淵先生一周忌の当日国際聯盟協会と東京市との聯合主催で、日本工業倶楽部にて「平和記念日と渋沢翁追憶の夕べ」が催された時の講演速記であります、従つて文責は記者にあります。



〔参考〕(三浦たまき)書翰 渋沢栄一宛(大正一〇年)一二月二〇日(DK330013k-0016)
第33巻 p.302 ページ画像

(三浦たまき)書翰 渋沢栄一宛(大正一〇年)一二月二〇日
                     (渋沢子爵家所蔵)
               (別筆)
               十一年一月一日於桑港落手
ますます御けしきうるはしく渡らせられ、御めで度存じ上候、さて此度私事南米より当地に参り候処、丁度折あしく御前様の御たち遊はしたるあとにて、おめもじの栄をうしなひ、いといといと残念に存候、私事近きうちに日本に一寸帰り度く、つきては音楽会を東京にて致し度く、帝劇の御かた様に御相談中にて候、もしさやう相成り候はゞ、何卒何かにつけて御言葉そへをいたゞき度、ひとへにねがひ上候
御道中御無事をいのり上候 かしこ
  十二月廿日                三浦たまき
    渋沢男爵
        御前に参らす