デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.16

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
4款 第四回米国行
■綱文

第33巻 p.318-369(DK330015k) ページ画像

大正11年2月12日(1922年)

是日、内閣総理大臣子爵高橋是清主催ノ栄一帰朝歓迎会、其官邸ニ開カレ、内閣総理大臣ノ挨拶ニ対シテ栄一謝辞ヲ述ブ。次イデ二十四日東京銀行倶楽部主催、二十七日東京商業会議所並ニ日本工業倶楽部聯合主催、三月十日国際聯盟協会主催、十三日日本日曜学校協会主催、十六日男爵三井八郎右衛門主催、十七日帰一協会主催、二十日日本女子大学校主催、四月八日社会事業協会主催、十六日竜門社主催、十八日日本倶楽部主催、五月十一日日米協会主催ノ各歓迎会催サル。


■資料

集会日時通知表 大正一一年(DK330015k-0001)
第33巻 p.318-319 ページ画像

集会日時通知表 大正一一年 (渋沢子爵家所蔵)
二月十二日 日 正午 高橋首相ヨリ御案内(首相官邸)
   ○中略。
二月廿四日 金 午後六半時 銀行クラブ催 フロツクコート
               総長御帰朝歓迎会(同クラブ)
   ○中略。
二月廿七日 月 午後五半時 日本工業クラブ東京商業会議所催
               総長御帰朝歓迎会(日本工業倶楽部)
   ○中略。
三月十三日 月 午後三時  渋沢子爵歓迎日曜学校茶話会(帝国ホテル)
 - 第33巻 p.319 -ページ画像 
   ○中略。
三月十六日 木 午後六時  三井男ヨリ御案内(インビ服)
              (三田綱町三井別邸)
三月十七日 金 午後五半時 帰一協会催歓迎会(如水会館)
   ○中略。
四月八日 土 午後六時   社会事業協会歓迎会(丸の内中央亭)
   ○中略。
四月十六日 日 午前十時  竜門社春季総集会兼青淵先生帰朝歓迎会(曖依村荘)
   ○中略。
四月十八日 火 正午    日本クラブ催
               御帰朝歓迎会(日本クラブ)


中外商業新報 第一二九〇四号大正一一年二月一三日 渋沢子爵一行歓迎会 高橋首相主催(DK330015k-0002)
第33巻 p.319-320 ページ画像

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竜門雑誌 第四〇六号・第五六頁大正一一年三月 ○青淵先生帰朝歓迎会(DK330015k-0003)
第33巻 p.320 ページ画像

竜門雑誌 第四〇六号・第五六頁大正一一年三月
○青淵先生帰朝歓迎会 東京銀行倶楽部に於ては、二月二十四日午後六時半より、青淵先生及添田・頭本三氏の帰朝歓迎会を催したり、当日は志村源太郎氏の挨拶に次ぎ、添田博士の華盛頓会議に関する感想談あり、一同晩餐を共にし、終つて青淵先生より大要左の如き演説あり、最後に頭本氏の布哇に関する談話ありて、午後九時散会せりと云ふ。
 華盛頓会議の成果に就ては世間兎角の非難あれど、余は大体に於て満足なる結果を贏ち得たるものと信ずる、該会議が日米間に於ける感情の融和に対して至大の効果を齎したことは否み難い事である、只遺憾な点は、華盛頓会議が日米間年来の懸案たる加州及布哇に於ける日本人移民問題に触れず、之を徹底的に解決し得なかつた一事であつて、此根本問題の解決されない限り、日米間の真の融和は期待し難いのである、幣原モーリス協約の如きも、此の加州布哇に於ける日本移民問題を根本的に解決し得るものではない、余等今回の渡米も、其目的は要するに此等の難問題に就いて米国人の諒解を得日米親善に対して一臂の力を致さんとするにあつたが、不幸にして何等の効果をも齎し得なかつたことを恥づる、終に今回渡米して特に感じたことは、戦後一般米人の精神が非常に集中し、非常に緊張して居ることであつて、之を次第に能率の減退を来しつゝある我国の有様と対比して、差異の大なるを痛感した云々


竜門雑誌 第五四七号・第一―八頁昭和九年四月 華盛頓会議と日米問題 =青淵先生御演説筆記録の中より=(DK330015k-0004)
第33巻 p.320-325 ページ画像

竜門雑誌 第五四七号・第一―八頁昭和九年四月
    華盛頓会議と日米問題
      =青淵先生御演説筆記録の中より=


図表を画像で表示--

   今日、日米関係が外交上、経済上色々複雑微妙の間柄になつて居る際、我が青淵先生が一九二一年十一月開催の華盛頓会議を機として、老躯を厭はず渡米された当時の事情を回顧することは、啻に我々竜門社員の感激措く能はざる所なるのみならず、日本の国民外交の先達として、先生がこの問題に尽瘁せられた不朽の貢献に対しては、普ねく国民一般の感謝に値するところであらうと思ふ。   例によつて、ここに掲げる一篇は、青淵先生伝記編纂室の所蔵に係り、大正十一年(一九二二年)二月二十四日、東京銀行倶楽部主催の下に、先生一行の帰朝を歓迎せられた席上 以下p.321 ページ画像 での御演説筆記である。   加州の移民問題及布哇の労働者問題等につき、先生が年来如何に心血を灑がれたかゞ、覗はれるのみではなく、日米両国に対する忌憚なき御所信が、如何にも若々しく堂々と表現されて居る。読者諸君と共に、この貴き御高説を三思三唱したいものである。(雑誌委員) 



 委員長並に満場の諸君、今日は当銀行倶楽部に於て、私共亜米利加から帰りました者を御祝ひ下さる為に、爰に盛宴を御開き下すつて歓迎して戴くことは、三人共に==編者註、先生の外に添田寿一及頭本元貞両氏==実に感謝の辞がない位でございます。殊に志村委員長よりして特に私に対して、少し過分の讚辞を下さいましたことは恐縮の至りで、敢へて当らずと申上げる外はございませぬ。さりながら年を取つて居るには相違ない。それだけは確に老人でございます。其老人が亜米利加へ往つて参つたことも嘘ではないのでございますから、マア兎に角能く往つて来たと云ふことだけは、御同情戴けると思ひまするで、先づ私はそれだけの程度に、今の御讚辞を止めて置きたいのでございます。
 亜米利加の有様に就きましては、殊に華盛頓会議に就きましては、前席に添田博士より詳しくお話を申上げたと思ひます。又私は寧ろ蔭に引込んで多少外からチヨイチヨイ申上げたことはありますけれども、余り力強いお足しにはならぬので、立役者としては、添田博士に華盛頓で働いて戴いたのでありますから、夫子自らと言ふことが適当であつて、私が却てそれに蛇足を添へる必要はございませぬ。又実は言葉が通ぜぬ私ですから、各地巡回もし御馳走も食べた、それは人並にはやりましたけれども、言語応待は実は私は小さい声で喋舌れば、隣の頭本君が所謂瓦を珠にして、向ふに通じて呉れるのですから、是も実は私よりも頭本君に御礼を言つて下さる方が宜いのです。斯の如く申すと、渋沢は何の為に往つたのか、止せば宜いのにと仰つしやるかも知れませぬが、それは老人の徳と云はうか、年の功と云はうか、所謂持て方だけは私が一番でしたと、斯う申して宜しいのであります。
 華盛頓会議の模様は、或は外交が甚だ下手であつたとか、或は全権が其当を得ぬとか、此点が宜しくないとか、色々な御小言を言ふお向きもあるやうでございます。私共も或点からさう云ふお小言を言ひたいと云ふならば言ふべき廉も必ずしもないではなからうと思ひます。
併しながら又一方から考へて見れば、凡そ国の制度、国民の有様、是迄の行掛りと云ふものを、皆能く考へなければ、彼是満足不満足――是非の評論は出来ぬものである。唯其等の事柄を全く懸離れて、単独に善い悪いを論ずると云ふことは、若し世界と懸離れた人間であつたら出来るか知らぬが、世界の仲間に這入つて居る以上は、さう云ふ論法では世の中は通られぬ訳になりますから、どうしても矢張我が日本の程度を考へ、従来の関係に於て、是非を論ずる方が適当であらうと思ふのであります。此見地から申したならば、或は良い事ばかりは申されぬかも知れませぬけれども、華盛頓会議と云ふものは私共は先づ
 - 第33巻 p.322 -ページ画像 
之を以て満足するより外はなからうと斯う申上げたいのであります。是等は決して諸君に私が講釈がましく申上げるのではありませぬけれども、兎に角色々な批評がある次第でございますから、自分が思ふ所だけを、爰に一言極く簡単に申上げて置きたいのでございます。
      眼目は日米問題の根本的解決
 元来私が今度参りました用向は、寧ろ華盛頓会議よりも、実は加州の我が移民、又布哇の労働者、是等の始末がなかなかに、今日でも未だ安穏と私は心得ぬのでございます。此事柄に就ては、尚ほ追々に面倒が生じはせぬかと惧れるのは、決して私の杞憂ばかりではなからうと思ふのでございます。元来私共が日米関係委員会等を唱へて、数年来経営致して居りますのも、此原因を糺しますると、幾んど明治四十年頃に加州移民の面倒の生じたときに、どうしても此国民的外交がなければ、亜米利加との関係はどうも折合等がむづかしいと思ふから、其処に少し力を入れて欲しいと云ふ政治家側からの御誘導を得て、此に私共微力を添へ掛けたのが、今日に及んだのであつて、決して私共唯単に嗜き好んでやつたことでもなし、又左様に当時の有様に付いての知識があつたと云ふことでもございませぬけれども、必ず此両国間に紛議を起すことは困ると云ふ憂慮からして、今のやうな誘を受けましたから、丁度其頃の事実を申すと、商業会議所と云ふものが其の位置に立つて、其商業会議所は私が永く関係して居つた縁故から遂に私共其一員に立つと云ふやうな関係であつたのであります。お話申上げますると、其沿革に於ては、右に或は左に、種々に進みもしたが又退きもした、一張一弛変化は常ならぬやうでありましたが、一昨年吾々は厳しい土地法の出ると云ふことを予想したものだから、之を防がうと云ふ考で頻に力を尽して見ました。此場処==編者註、東京銀行倶楽部のこと==を拝借して、桑港から来た人々、又紐育から来た人々と協議会を開いて、種々なる論議をしたのも其為であつた。併しながら是等が全然無効とは申されぬか知らぬが、決して十分なる結果を見得られませぬで、遂に「イニシエチーヴ・レフエレンダム」が一昨年通過してしまつた。此上如何にしたものかと云ふ心配中に、丁度亜米利加の大統領の更迭と云ふやうなことになり、更に其事に就て、其土地制度の厳しい困難を移民に与へると云ふことも、十分に考察して見たし、又一方には東部の方の人々の来て呉れたことに対して、尚ほ引続いて両国間の調和を図らうと、旁々考へて居る際に、丁度華盛頓会議の発表があつたものですから、玆に日米関係委員会に於て評議致しまして、即ち添田・頭本・私共の出張と云ふことに相成つたのでございます。故に華盛頓会議の所謂『蔭働き』として、多少椽の下の力持が出来はしないか、併しながらヨリ以上に、今の加州移民の事は、どうぞ完全なる善後策を講じたいと云ふのが、吾々の目的であつたのでございます。
 華盛頓会議の事は前に申上げます通りで、もう冗長を要しませぬけれども、併し此華盛頓会議では、加州問題は到頭問題になりませなんだ。是に於て私共はどうしても、此加州と布哇に対しては、十分なる考慮を尽して帰りました上に、其筋にも亦或る場合には社会にも、斯
 - 第33巻 p.323 -ページ画像 
くしたら宜からうと云ふ案を、敢て新聞の通りではございませぬけれども、必ず其秘密ばかりではなしに考究致したものを以て、是非此場合に其事だけを尽して見たいと思ふのでございます。斯う申上げると何か渋沢が大層良い玉手箱でも持つて帰つたかと思召されるかも知れませぬけれどもそれ程の事もございませぬ。極く打明けて申しますと一昨年の暮から昨年の春に掛けて、新聞に伝へられて居る幣原モーリスの協約は、あれを以て安穏に加州問題を解決することは出来まいと私は思ふのでございます。故に此点に就ては吾々十分に一つ考究しまして、それを我が政府が採用するか、又亜米利加政府が亜米利加側の意嚮に対して同意するか、是は私共の敢へて知らぬ所でございますけれども、併しどうしても、是はただ大使同志の、悪く申せばお座敷会議だけでは纏るまいと思ふのでございます。十分に立入つて、外国人二重国籍或は教育問題、或は結婚問題或は同化問題と云ふやうな事が十分に行届かなければ、此結果を十分に着けることは出来まいと思ふのでございます。蓋し此事は今委員長の仰つしやつたやうに、東西の文化が玆に亜米利加と日本とで融和するか衝突するか、其関係が甚だ大切である。是等に就て渋沢力を尽せと仰つしやつたが、果して私一人が其事に任ずる訳ではありませぬが、幸にも加州の人々などが程良う同化して、亜米利加人が喜ぶやうになり、又日本人も安心して居るやうになつたならば、東西文明の或る一部分が、融和し得るに至るかも知れませぬと思ふのでございます。今日はまだ其場合に進んで居ないと申上げねばならぬのでございます。故に華盛頓会議に於ては先づ都合好く相済みましたけれども、以前からあつた此事だけは、まだ大いに吾々が力を尽さねばならぬと云ふ問題が、差引一つ残つて居ると云ふことを、私は諸君に申上げて置きたいと思ふのでございます。
 而して其事は私共及ばずながら、更に一歩進んで充分なる案を提出して、我が政府、又一万には亜米利加の同志に慫慂し、亜米利加政府にも勧めて、玆に其根本解決を着けたいと思ふのでございます。果して是が吾々の今玆に希望するが如く成功するか、或は大いに違却致して、何等効果を奏することが出来ないか、爰に予め申上げ得られませぬが、幸に昨年来の華盛頓会議が先づ都合好く行きまして、丁度今委員長が添田君の御言葉に依つて御諒解下すつた通り、先づ近頃にない程、亜米利加が日本に対する感情を融和せしめたと云ふことは、現在に於ては先づ其通りである。併し今申上げた事が完全に進んだら、玆に根本から纏つたと云ふことを申上げ得られるかと思ふのでございます。是は私共が今日未だ任務を卸し得られぬ一の考を持つて居りますこと故に、此種饗応に与つたに対して、斯様な考を持つて居りますと云ふことを、陳情致して置くのでございます。
      顧みて我国の前途を憂ふ
 更に私は爰に変つた方面から一言申上げて見たい、それは四度の亜米利加旅行に於て、吾々――と云ふよりは私で、他の両君は所謂亜米利加通であるけれども、私は亜米利加不通の方であるから――吾々否私の眼に映じた所では、大分一度々々に様子が変つて来るやうに思はれたといふことであります。其変つて来る中に私の特に感じたのは、
 - 第33巻 p.324 -ページ画像 
どうも或は私の眼のせいか、若くは心に思ふ事が左様に眼に感ずるのか、其辺は能く分りませぬけれども、どうも亜米利加人の推しなべてが、日本人の総べてよりは真面目で、物事に所謂精神が集中されて居ると云ふ点は、彼等に一歩譲らざるを得ぬやうに、思ふのでございます。此間も人々が、亜米利加の模様がどうかと云ふことから申してもマア第一に道路が洵に違ふ。日本の道路と亜米利加の道路は、良さ悪さが殆ど比較にならぬのであります。
 然るに其等の事は我慢をするとしても、此道路の上を歩く凡ての動物――動物と云ふ言葉は穏当でないけれども――是が道路の違ふ程違ひはせぬかと云ふ虞ありとすれば、甚だ心苦しいことではありはせぬか、是は少し過激な言葉であるかも知れぬけれども、まあ平たく言へば、何んだか見付物でもありはしないかと云ふやうな考を持つて歩く人が日本には多いが、亜米利加はさうでなく、真面目な顔をして、我が為すべき本務に精神が集中されて居るやうな感じがします。是が果して私の眼のせいか、或は事実であるか、若し事実であるとすれば、由々しき大事と思ひますが、此点に付てはどうぞお互に注意せねばならぬではありますまいか。此点に就ては若し極端に言つたならば、教育と云ふものに多少の考を及ぼさねばならぬ事がないとも申せぬやうに思はれます。甚だ悲観な事を申し過ぎるかも知れませぬけれども、私は或る御仁に向つて御答をしたことでございます。既に本月の十四日に松方侯爵が、余り久しく会はぬから是非亜米利加の話を聴きたい鎌倉迄来て呉れぬかと云ふ御伝言でありました。而もそれが添田博士の御伝言ですから、欣んで御伺ひをしたのです。暫くお目に懸りませぬから、先づ久闊の辞を御呈し申し、それから亜米利加の旅行談を、今申上げた程ではございませぬけれども、概要を申上げました。其申上げました末に侯爵の曰く、亜米利加の事柄に付ては詳しい説明で、殆ど十分に判つた様だ、而して最終の移民に対する関係が、幸にお前方の丹精に依て根本の解決が付いたならば、玆に初めて安心し得られるやうに思ふので、兎に角丹精の程は深く謝す、洵に喜ばしい、見た所が大分若くなつたやうに見える、大いに心丈夫である。自分は年を取つたと云ふ様な話から、扠て第二に日本の現在を、お前はどう観るかと云ふ、斯ういふお問でございましたから、数年お目に懸らないで殊に海外旅行をして帰り匆々、亜米利加の事情を申上げる積りで来たのに、日本をどう観るかと仰つしやられると御答に困りますが、私はどうも日本は悲観に見えます。お尋ならば申上げますが、此儘ではいけないと思ひます。元来凡ての方面に於て、所謂能率が甚だ悪くなつたと言ひたいと思ひます。驕奢が進んで働が減じたと、斯う言はなければならぬ様に思ひます。之を大いに改良を図らぬと、御国の為にならぬやうに私は考へますが、あなた方の御目にはどう映じますかと、寔に遠慮のない事を申上げて、些と言ひ過ぎた。御老人に対して失礼な言葉であつたかも知れませぬが、私も老人だから敢へて失礼でもなからうと思つて申上げましたら、侯爵は笑つて、近日帰るから帰つた上で、もう一遍話さうと言はれた。蓋し肯はれたやうに思ふが、此杞憂は万更私一人の杞憂に止らぬやうに思ひます。是が老人ばかりの懸
 - 第33巻 p.325 -ページ画像 
念であれば、此席では何を馬鹿な事を言ふかと仰つしやるかも知れませぬが、併し松方侯爵ばかりが私と同論で、此お席の方々が否とばかり仰つしやらぬとすると、余程考へなければならぬ事と思ひます。
 それから寔に詰らぬ事を申上げるやうでありますけれども、今日などは御馳走を頂戴して、彼是申すのは悪いが、亜米利加でも度々御馳走になりましたが、以前とは余程様子が変つて――大分富が進んだやうでありますが――御馳走は大変粗末になつた。亜米利加を無暗に学べと云ふ訳ではありませぬけれども、是等から考へて見ると、お互に余り長く色々な御馳走を食べると云ふことは、誉れでもなからうと考へるのでございます。それから又或点から困つたことには、紐育では自動車程厄介なものはない、急ぐならば自動車を降りて歩けと云ふ有様になつて居る。物の権衡を得ると云ふことは、甚だ必要な事で、権衡を失ふと斯くなるものか、凡ての事柄に差響くものであると云ふことを、今度亜米利加に往つて見て感じたのであります。丁度私は千九百二年に参り、千九百九年に参り、千九百十五年に参り、千九百二十二年と四度参りましたが、初には自動車程珍しいものはなかつた。其次には自動車程便利なものはなかつた。其次には少し自動車が、或る場所では鬱陶しい。今度は自動車位迷惑なものはない。殆ど紐育では自動車では歩けぬと云ふ位の有様でありました。故にどうしても物の進みと云ふことに付いては、丁度他の比例が甚だ必要であると云ふことを思はざるを得ぬやうであります。
 併し一体に、優れた人も中等の人も下級の人も――学生なども、実に真面目に、脇目もせずに仕事をする工合は、真に羨しいと思ふ位で所謂精神を能く集中して居る所は、吾々の大いに学ばざるを得ぬ事ではないかと思ふのでございます。又至つて或る事柄に鄭重なることの不似合に、普通の生活には、頗る簡易な方法を講じて居られるやうに思ひます。細かい事は迚も及びませぬから、ホンの目に触れただけのお話でございまして、是等の事は敢へて諸君を益する程の事ではありませぬけれども、目に触れた事を其儘に申上げて、一の御参考に供するのでございます。重ねて申上げますが、初め申述べました加州問題と布哇の事柄だけは、どうか此場合に根本の解決を致したいと、深く祈念致して居るのでございます。此事は又追々に方法を講じた上に、斯く相成つたと云ふことを申上げる機会も生ずるだらうと思ひます。特に今夕斯様な盛宴を御張り下すつて、吾々を歓迎して下すつたことは、一同に代つて私より厚く御礼を申上けます。


竜門雑誌 第四〇六号・第五六―五七頁大正一一年三月 ○青淵先生帰朝歓迎会(DK330015k-0005)
第33巻 p.325-326 ページ画像

竜門雑誌 第四〇六号・第五六―五七頁大正一一年三月
○青淵先生帰朝歓迎会 東京商業会議所及日本工業倶楽部聯合主催の徳川公爵並青淵先生其他帰朝諸氏の歓迎会は、二月二十七日午後五時半より日本工業倶楽部楼上に於て開催せられたるが、当日青淵先生は病気の為め欠席せられ、徳川公・神田男・添田博士・頭本元貞・増田明六・小畑久五郎其他の諸氏主賓として、又内田外相・山本農相・鶴見商務局長・宇佐美知事等陪賓として出席し、主人側としては東京商業会議所特別議員及各議員等六十余名、工業倶楽部会員二百余名来会
 - 第33巻 p.326 -ページ画像 
の上、講談・長唄・舞踊等の余興に次ぎ、盛大なる食堂を開きてデザート・コースに入るや、藤山東商会頭より華府会議に於ける徳川公の功績並日米親善に関する青淵先生の尽瘁に対し、懇切なる謝辞を述べて挨拶に代へ、之に対し徳川公の答辞並添田博士の謝辞あり、最後に大倉男爵の発声にて主賓の為めに万歳を三唱し、同九時散会せる由。


東京商業会議所報 第五巻・第三号大正一一年三月 録事 徳川公爵・渋沢子爵御帰朝祝賀会(DK330015k-0006)
第33巻 p.326 ページ画像

東京商業会議所報 第五巻・第三号大正一一年三月
    録事
  ○徳川公爵・渋沢子爵御帰朝祝賀会
大正十一年二月二十七日午後五時三十分、日本工業倶楽部に於て東京商業会議所・日本工業倶楽部聯合の主催に依り、徳川公爵・渋沢子爵御帰朝祝賀の為め晩餐会を開催したり、出席者は正賓公爵徳川家達閣下(渋沢子爵は御病気の為め欠席)の外、随員総領事高尾享氏・法学博士添田寿一氏・渋沢家理事増田明六氏・同通訳小畑久五郎氏、陪賓内田外務大臣・山本農商務大臣・鶴見同商務局長・宇佐見東京府知事、主催側藤山東京商業会議所会頭、大倉・阪谷・森村・近藤・赤松の各男爵、松方巌・浅野・和田・伊東・内田・池田謙三・有賀・福井・藤瀬・服部金・末延・木村久寿弥太・杉原・山科の主なる実業家諸氏、其他、塩沢・松岡・河津・井上の各法学博士、高松・渡辺・今泉・今岡の各工学博士新聞通信社員・東京商業会議所議員特別議員・日本工業倶楽部会員等を併せ総員二百五十余名にして、午後六時より講談・長唄・舞踊等の余興を開始し、午後七時食堂を開き一同食卓に着き、「デザート・コース」に入り藤山東京商業会議所会頭、主催側を代表して歓迎辞を述べ、大倉男爵は主賓・随員・陪賓に対し健康を祝し万歳を三唱して乾杯を為し、徳川公爵は謝辞を述べ、杯を挙げて主催側に対し健康を祝せられ、渋沢子爵に代り添田法学博士の挨拶辞あり、主客一同歓を竭し午後九時閉会したり。


(日本工業倶楽部)会報 第六号大正一一年九月 晩餐会並午餐会(DK330015k-0007)
第33巻 p.326-327 ページ画像

(日本工業倶楽部)会報 第六号大正一一年九月
    ○晩餐会並午餐会
○大正十一年二月廿七日東京商業会議所・日本工業倶楽部聯合徳川公爵渋沢子爵帰朝歓迎晩餐会を開催し、藤山会頭の歓迎の辞に次で、大倉男爵の演説、次に来賓徳川公爵の謝辞、添田博士の演説あり。午後九時散会す其出席員並に速記録左の如し。
  ○来賓
     公爵 徳川家達殿      子爵 渋沢栄一殿
        林毅陸殿       男爵 神田乃武殿
        高尾享殿     法学博士 添田寿一殿
        頭本元貞殿         増田明六殿
        小畑久五郎殿 外務大臣伯爵 内田康哉殿
農商務大臣男爵 山本達雄殿    商務局長 鶴見左右吉殿
  東京府知事 宇佐美勝夫殿
  △東京商業会議所側(いろは順)
       井上準之助君○以下八十三名人名略ス
 - 第33巻 p.327 -ページ画像 
  △日本工業倶楽部側(いろは順)
       井上憲一君○以下百七十九名人名略ス
  ○藤山会頭の挨拶
   ○是日栄一欠席ノコトハ藤山会頭ノ挨拶中ニ見ユ。


竜門雑誌 第四〇七号・第六二頁大正一一年四月 ○国際聯盟協会歓迎会(DK330015k-0008)
第33巻 p.327 ページ画像

竜門雑誌 第四〇七号・第六二頁大正一一年四月
○国際聯盟協会歓迎会 国際聯盟協会にては、過般帰朝せる同会総裁徳川公爵・会長青淵先生・副会長添田博士及び理事頭本元貞、其他同会の関係諸氏を招待し、三月十日午後六時華族会館に於て、盛大なる歓迎会を催す所ありし由なるが、当日は青淵先生病気引籠の為め出席せられざりしと云ふ。


竜門雑誌 第四〇七号・第六二頁大正一一年四月 青淵先生帰朝歓迎茶話会(DK330015k-0009)
第33巻 p.327 ページ画像

竜門雑誌 第四〇七号・第六二頁大正一一年四月
○青淵先生帰朝歓迎茶話会 日本日曜学校協会にては、三月十三日午後三時より帝国ホテルに於て青淵先生の帰朝歓迎茶話会を催す所ありしが、当日は長尾半平・井深梶之助・コールマン氏等、同協会関係の名士七十余名参会の上、先生の渡米感想談等ありて極めて盛会なりしと云ふ。


竜門雑誌 第四〇七号・第六一頁大正一一年四月 ○帰一協会帰朝歓迎会(DK330015k-0010)
第33巻 p.327 ページ画像

竜門雑誌 第四〇七号・第六一頁大正一一年四月
○帰一協会帰朝歓迎会 帰一協会にては、三月十七日午後五時半より如水会館に於て、青淵先生の帰朝歓迎会を開催し、先生にも出席の上一場の外遊所感を述べられたりと云ふ。


(帰一協会)協会記事 四(DK330015k-0011)
第33巻 p.327-328 ページ画像

(帰一協会)協会記事 四 (竹園賢了氏所蔵)
大正二年三月一七日 於一ツ橋如水会館 帰一協会主催同会三月例会兼渋沢子爵一行歓迎会
    日米関係其他について(要旨)
                    (子爵渋沢栄一)
此度の米国行きは、全く老人の冷水と申すべきものであつたが、ともかくも途中無事で、昨年の十月十三日から本年一月卅日迄、百余日に及んで帰国したわけである、今度行つたのは、日米の国交について心配する所があつた為である、日米関係については、明治三十七・八年頃から心配し始め、小村侯などからも励されたりして、其の後今日迄先方の商業会議所員と往来したり親交をつゞける様にして来た次第である、米国民は突飛な所のある国民故、当方で好意を以て対しても、数回排斥などをやつた、之には日本の悪い所もあるから仕方もないので、其の都度其の寛和する様に幾分努力して来たつもりである、斯くて日米関係委員会なるものも設ける様になつたのである、日米戦争説などを唱へるものが米国にすらあつて、私も心配したが、其等の影さへ無くなつて安心した様な次第である、尚加州問題・布哇問題などについて、米国が如何なる態度を取るかは目下予知し得ざる所である、最後に私の眼からは、日本の各般の事が不真面目と見えます、過日松方公にあつた時にもそう申しました、此の不真面目と云ふ事の源因は
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何であるか、之は一言には申上げられない事であるが、本協会としてもよく之について討究していたゞき度いと思ふ。


家庭週報 第六五七号大正一一年三月三一日 △渋沢子爵歓迎会(DK330015k-0012)
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家庭週報 第六五七号大正一一年三月三一日
    △渋沢子爵歓迎会
 母校日本女子大学校に於ては、既報の通り去る三月二十一日午後一時より講堂に於て、渋沢子爵の歓迎会を開催いたしました。
 まづ聖歌拝唱の後、麻生校長の歓迎の辞、次いで生徒総代、並に桜楓会総代の歓迎の辞がありました、それより松本亦太郎博士は評議員並教授側を代表して歓迎の意を表され、最後に渋沢子爵の御話がありました。当日のお話はすべて本紙別項に掲げました。
   ○右ニ歓迎会開催日ヲ二十一日トセルハ、二十日ナリ。竜門雑誌第四〇八号(大正十一年五月)ニハ麻生以下ノ歓迎辞ヲ収録セルモ、麻生ノ歓迎辞冒頭ニ「本日(三月廿日)は玆に」云々トアリ。
   ○歓迎辞ハ略ス。


竜門雑誌 第四〇八号・第一七―二二頁大正一一年五月 ○日本女子大学主催帰朝歓迎会に於て 青淵先生(DK330015k-0013)
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竜門雑誌 第四〇八号・第一七―二二頁大正一一年五月
   ○日本女子大学主催帰朝歓迎会に於て
                      青淵先生
  本編は日本女子大学校に於ける青淵先生帰朝歓迎会席上に於ける青淵先生の答辞なりとす。(編者識)
△大丈夫と信じて 今日は、今回私が亜米利加の旅行を終つて帰りましたことをお歓び下さつて、心からの御歓迎を受けますことを別して有難く存じます。殊に皆様からの御丁寧な歓迎の辞に添へて、又、私の致しました事の些細なのに対してお褒めのお言葉まで頂きまして恥入る次第であります。何しろ八十を越えてアメリカ旅行といふ年寄の冷水でありますから、出すぎて怪我でもしてはと、まさかお笑ひもなからうけれど、御心配して下さつたことゝ存じます。自身も多少は懸念いたしました。それゆゑ一行の人々は、口では早桶の用意をして行くなどゝ申しては居りましたものゝ、心の底では『なに、大丈夫だ』と思ふ信念がございまして、とうとう止むに止まれぬ私の微衷から、年寄の身も顧みず出かけたわけでありました。私の亜米利加旅行は今回が四たび目で、最初は明治三十五年五月に、第二回は四十二年八月に、その次は大正四年十月に、今回は昨年の十月十三日に東京を立つて今年一月三十日に東京へ帰るまで、恰度百十日間の旅でありましたが、その間約四十五日は船及び汽車の上で、正味六十五日間彼の地で働いたわけでありますが、その間直接目的として参りました移民問題を始めとし、華府会議について有力な人々と意見を交換し、晩餐会・午餐会に招かれた席上でしたものも加へると約九十回の演説を致しました。大抵毎日一回以上、日に依ると一日に五回も演説したことがありましたが、左様な旅行が何の効があつたかと申しますと、別にどうもお賞めいたゞくほどの事もないのでございます。
△私の生ひ立つ頃 最前は麻生校長から歓迎のお言葉を頂戴し且私についての懇ろな御紹介をいたゞきましたが、そのお言葉の通り私は物
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心ついた最初に先づ亜米利加といふ国の名を知りました。さうしてその当時の日本の国状を想ふて、これはうつかりしては居られぬといふ感じを持ちました。勿論、立派な家に生れたわけでもないから立派な学問も出来なかつたのでありますが、全くの百姓仕事ばかりして居るといふほどの家でもなかつたので、私は当時の普通の学問をさせられたのであります。その頃の普通の学問といふと、いきなり四書五経を読まされるのでありまして、所謂修身斉家の道を学ぶのであります。私はこの書を十四歳の時に学びました。恰度其頃コンモンドル・ペルリが来朝して、その人の言ふ所を聞いて見ますと、これはどうも日本はうつかりしては居られない、といふ気持ちになります。日本の外は支那三国ばかりではない。亜米利加といふ国、そして五大洲といふほどに世界の広さはある。さうしてその国々が、日本よりも遥かに進んで居るといふやうなことを聞くと、どうもじつとして居られない気がするのであります。そこへ、天保十二年の頃であつたと思ひます、隣国の支那では、彼の阿片の持込み事件で、英国との間に葛藤を生じ、その為め両国の間に騒動がもちあがり、またその結果支那は遂に香港を英国に割譲することになるといふ、大変な騒ぎでありました。やがてこの阿片騒動を小説的に書いた書物が著はされて、非常にこの事件が伝播して、これがまた非常に当時の人心を刺戟したものであります。私などもこの書物を読んで、ますます感奮したのでありました。
 徳川幕府は、例の耶蘇教を厳禁し、絶対鎖国を称へて来たのでありますが、当時漸く国家といふことに気づいて来た私は、徳川幕府はなぜ鎖国主義を執るか、又耶蘇教が何故邪教といはれるのか、といふやうに、内には左様な疑問が起る、外国からはさまざまの刺戟が来る。私の十四歳から二十歳頃までは斯うした騒々しい世の中に育つたから自然とこれはじつとしては居られない。何か国家の為めに尽さねばならぬといふ気持を、百姓ながらに起したといふわけであります。又その時分の徳川幕府といふものは、大分乱脈になつて居る。京都の公卿方といへど、あまり優れた人がない様子で――尤も三条公などの一派はありましたが、私はその方面に入らなかつた――これは大変だ、じつとしては居られないといふ気持がだんだんに増長して、遂に私は百姓をやめて、浪人になつたのでありました。
△一橋公の御家来 私が浪人いたしましたのは廿四歳の頃迄でありましたが、その頃の私の考へは、当時幕末の甚だしい階級制度がこの国を危くするものであるから、どうしてもこれを打破して、即ち今の言葉でいはゞ、デモクラシーを行はねばならぬといふ所にありましたので、やがて討幕説を称へる一人でありました。併し何といつても百姓のかけ出しでは、さういふ考へを持つて居るといふことは自分が苦しむばかりで、結局どうすることも出来ないのみならず、これは言ふ迄もなく当時の危険思想であるから、罷り間違うと縲絏の厄を受けるのであります。
 これより前私は平岡円四郎といふ人と交つて居りましたが、この人が『渋沢をあゝして置いては将来が危ぶまれる。あれはどういふことにならうもしれぬ』といつて大層私の為に心配してくれまして、私に
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一つ橋公の御家来になるやうに説得するのでありました。それは啻に一人縲絏を免れるばかりでなく、君公に仕へてこの君公を世に出すことは、わが誠心を天下に行うて貰ふことであるといふのであります。成程斯う説得されて見ますと、如何にも左様だといふことになりまして、そこで討幕説の我を折つて、たうとう一橋公の御家来になつたのであります。そこで又この御縁故から、私は慶喜公の御弟君が欧羅巴御視察のお伴を仰せ付かつたのであります。これはその年仏蘭西に開かれました博覧会見物を兼ねての旅行で、しかも私にとつては最初の海外旅行でありました。そこで欧羅巴の事情を見ますと、日本といふ国はこの際どうしても先づ国際の経済の基礎を固めるといふことが、何よりも急務であると考へられるのでありました。されば私が思ふのに、自分が日本へ帰つたら、先づその方面に立つてお国の為に働きたいと考へたのであります。あの頃の欧洲人――独逸人や仏蘭西人――が日本に対する考へは、実に軽蔑したもので、どうも到る処で発奮せしめられたものでありますが、今日考へますと、実に世界の大勢の変遷にたゞ驚くの外ないのであります。
△明治維新の変遷 さてこの海外旅行から帰つて見ますと、日本は又僅かの間に大した変り方であります、私が海外へ出ましたのは慶応二年でありましたが、慶応三年にははや大政奉還となつて、将軍慶喜公は駿府に蟄居をして御座る、斯うなつて見ますると人情の然らしむるところで、私は尚更政治家といふものがいやになつて、再び官に仕へようなどといふ考へはない、ひたすら慶喜公の御伴をして駿府に参り其間に欧洲の旅行中、考へて来たことの計画を立てゝ居たのであります。ところが、それが半年ばかり経つと江戸から呼び出しがあつて、私を大蔵省のお役人にするといふことでありました。がさきにも申す通り、私の考へはお役人よりも実業といふ方にありましたので、折角私の考もあるし、殊に家来となつてみれば、御主人慶喜公がその状態であらるゝのに、私として政治方面のことにたづさはることは、どうも心から進まない、どうかこれは辞退したいといふのでありますが、当時の事情はいろいろと複雑で、とにかく一応は私が東京へ出て御用を受けて、然る後渋沢一個人として御辞退するならするといふことにしなければならぬといふわけで、ともかくも江戸表へ出て、玆に初めて建てられた明治政府の大蔵省に努めることになりました。
△実業界の四十余年 前述の次第で、私は一応明治政府初年の大蔵省のお役人になりましたが、自体私の考へは初からこのお役御免を願ひたいといふのでありましたから、時の大蔵大輔であつた大隈侯爵に御面会を願つて、私の心情を直談に及んだところ、却つて条理を立てゝ懇々と説かれたので、遂に私は侯爵の驥尾に附して、そのまゝお役を務めることになつたのであります。処が、明治四年の春には、故侯爵は太政官、参議になられて内閣に入られることになりましたので、自然お役の上では故侯爵と私とは、直接関係を離れるやうになりました処へ、明治六年に再び大蔵大輔の交迭で、其の時私もいよいよお役御免を蒙つて、最初の銀行会社を起すことに決して、爾後四十五年間実業界に努めることになつたのであります。さうして先年この実業界も
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退いて、只今は老後の微力を聊かたりとも精神界に尽さうといふのが私の只今の状態であります。
 考えて見ますると、私の若い頃は、幕府の制度が甚だしい階級的のものであつたから、従つて役人なり士となると大層意張つたもので、何も知識も経験もなくとも人の先に立つといふ有様で、これに対して欧羅巴はさうではなく、人の待遇に於ても、あちらは先づ知識経験のある人から立てるといふことを知つてからは、一層先づこの点から改めねばならぬことを切実に感じたのでありました、で私はたとひ身は百姓・町人であつても、お国の為に尽すといふ心に変りはないといふ意気で、前申しましたやうに、百姓から浪人、一橋家の御家来、明治政府のお役人、それから今日に至るまでの実業界に四十余年この心を以て、終始一貫して働いたつもりであります。
 さて斯様に私が初めて海外旅行をいたしましたのは卅歳に近い頃でこの時私の感じたことは、どうも日本も全くの鎖国はいかぬといふことに気づいたのでありました。それから、亜米利加といふ国を見て居ると、その日本に対する態度は、他の国々よりも一層厚意を与へられたのであります。左様な米国であるから、私の考へではこの国が土壌を争ふなどゝいふ事は毫末もあるまい。その上彼の国人は夙くより人道を重んずる風習を持つて居る、況や又政治的にも、社会的にも、経済的にも進んで居る国であるから、どうか彼の長所を容れて、将来永く円満に交際するやうにしたいと考へて居たのであります。
△今日の日米関係 処で今日の所謂日米関係の基は、古い話でありますが、明治卅七・八年の頃になつて加州に排日運動が起りました。これが明治四十年の移民協約となりました。此時に、小村さんから交渉があつて、商業会議所で相談してくれるやうに私にも御相談があつて――此時の会頭は中野武営氏でありましたが――その結果は、この協約に就いては政治とか外交といふことの外に、宜しく国民的に交渉を進めて行きたいといふので、つまり亜米利加に対する国民外交が必要であるといふことになりました。そこで、明治四十一年には亜米利加から、翌四十二年には日本から私等五十六人かの団体で、彼の地への大旅行を試みたのであります。これが移民問題に就て日米交渉の第二回目でありました。その後又大正二年になつて、彼の国の排日者が今度は土地法を企て、日本からの移民にとつては大層困る協約を求め、再び排日の気配を示しましたが、この時は桑港に博覧会があるのを機として渡米し、排日運動の緩和に努めたのでありました。その後又支那に対する事業経営関係から、日本が支那に対する態度に就いて批難する処があつて、彼の廿一ケ条の如きも、日本が都合のよいことをするのだといふやうな声もあつて、心あるものはこの関係の成り行きを一方ならず憂慮したのであります。
 斯うして、彼の二十一ケ条は、政治上では面白くない関係があるにせよ、我々実業界の者は、支那を我がものにしやうなどゝいふ無法な考へは持たぬといふことを声明しようといふのでありましたが、玆に又亜米利加では、ウイルソンの政治が今共和党の手に移つて、私共の計画もその機を見て居る形でありましたが、暫く時を俟つほどに、昨
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年の六月華府会議開催の企てがあつたので、この機を逃さず、玆に年と時と費用とに拘はらず、国民側を代表して渡米することに決意したのでありました。(未完)


竜門雑誌 第四〇九号・第三四―三七頁大正一一年六月 ○日本女子大学校主催帰朝歓迎会に於て 青淵先生(DK330015k-0014)
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竜門雑誌 第四〇九号・第三四―三七頁大正一一年六月
   ○日本女子大学校主催帰朝歓迎会に於て
                      青淵先生
△官民歩調を合せて 前述のわけで、私はあくまでも日米の親善関係を保持しなければならぬと信ずるものでありますから、そこで此の際たとひ政治上直接のことでなくとも、草を結んで戦つたといふ支那の昔話にもあるやうに、この事についての縁の下の力持ちともならうといふ覚悟で、今回の渡米はいたしたわけでありまして、必ずしも私の物好き旅行として行つたわけではないのでございます。
 さてこの旅行で、華盛頓会議や移民問題に就て、私は及ばずながら微力を尽したつもりでありますが、御承知でもありませうが、山東省問題は国際会議で極まることになり、又移民問題はとうとう華府会議では解決されなかつたのでありますが、それといふのも、畢竟政治家の堅苦しい法律で理窟の上からだけでは、これは解決をつけることは出来ないものであります。これはどうしても、双方からよく事情の解つた冷静な頭を以て、公平に協議することの出来るものが集つて、例へば移民の二重国籍についてはどうする、教育問題はどういふ程度にする、又密航は斯うして防ぐといふやうに、凡ての問題を事実に亘つて吟味し、人情づくですれば始めて双方の人々が安心出来るやうになる。さすれば、亜米利加人も排日を止めるのであります。それには今迄のやうに政府は政府で堅苦しい取極めをやり、私共は又民間のものだけでやるといふのでなく、政府と民間のものとが歩調を合はせて、政府は実際方面の人を委員に任命し、各方面の意見を聞いて、官民一致で解決に当らなければならぬといふ意見が出たのであります。
 そこでこの事については、既に亜米利加側の日米関係委員の間では賛成がありまして、日本側がさういふ事に極まれば、米国政府に委員任命を申出るやうにするといふ事にまで相談を極めて帰つたのであります。
△日米関係委員 玆に、日米関係委員の成立について一寸お話し致しますが、これは大正四年の桑港博覧会に私が亜米利加へ参りました際アレキサンダーを初め、リンチ、モーア、セスノン、ヘール等といふ人に会つて、加州の日米関係につれて色々話しました。すると向ふから此等の人々が相談して、この加州問題を解決する為常置的の機関として、日米関係委員を起したいといふ話がありまして、それは私の方でも望んで居ることであつて、至極良いことであるから是非さうして貰いたい、日本へ帰つたら日本でもさういふ団体を是非拵へるやうにすると約束しました。斯うしてその年桑港では廿二名、日本では卅二名から成る日米関係委員が出来たのであります。
 この時は亜米利加西部の方でありましたが、亜米利加の東部、シカゴ、ボストン、フイラデルフイヤ等の実業家で、支那に向つて投資し
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て居るものが多いので、従つて支那問題と関聯して、日本に対する感じが面白く行かないところがあります。この事については、向ふでもヴアンダーリツプ氏など非常に心配してくれて、今日では西ではアレキサンダー、東ではこのヴアンダーリツプなどが主なる首唱者となつて、この日米関係についていろいろと心配して居ります、そこで今度の渡米に際して相談の結果、紐育にもこの委員を立てゝ来ました。斯ういふ状況であつて、彼の国でも有志の人々は、如何にこの日米の関係について円満なる解決を希望して居るかを知ることが出来るのでありまして、我々は大いに意を強うするところであります。
△華盛頓会議の結果 さて、今度の華盛頓会議は、見ようではいろいろ批難する点もありませうが、軍縮問題にしろ、山東問題にしろ、対支廿一ケ条にしても大体結果は当時の世界として、又日本として平和を維持するにはあのやうなところで満足して良からうと思ひます。
 斯うして華盛頓会議も大体骨組となるやうな主な問題は一通片付きましたので、私は再び私の旅行の主な目的で、移民問題に就いて色々調査し、向うの人々と交渉を重ねつゝ、丁度十二月十一日から翌月の十日頃まであちこち奔走しつゝ、日米協会のことについて種々相談いたしました。これ等のことは曩に申したやうに、官民一致してやることで、これから後の働きに属するものでありますが、幸にこれが着手出来るやうなことになれば、移民問題もやゝ解決がつくことになるであらうと思ふのであります。
 ところで私は、往きの時は華府会議へ急いで、北を殆ど直行しましたから、帰りは南部の各地を廻つて西に出ました、この間桑港を中心にして各地を廻り、到る処演説もし、向ふの人からも話を聞きまして更に帰りは布哇に立寄つて、矢張日米間の関係について調べるところがあつて、そこで全権御一行の船を待合せて、一月卅日に帰朝いたしました。
 蓋し今回の華府会議では、日本に対する亜米利加人の疑問が全く解けたとはいはれないかも知れませぬが、それ以前よりは、先づ平たくいへば我々日本人に対する信用が厚くなつたと思はれます。これは大辺に喜ばねばならぬことであります。
 尚今後の方針は、いふ迄もなく彼我の根本的理解を計る為に為さなければなりませぬが、亜米利加に於ても非常に考へられて居ることでありまして、彼のヘボン講座が大学に設けらるゝなども、亜米利加を日本に紹介する上に、さうしてこの国の理解を得る上に、多大の力となることは喜ばしい事であります。斯うして亜米利加を日本に紹介し又亜米利加は日本を知ることに非常に努力して居るのであります、されば一面に又彼我の家庭と家庭の交際が必要でありまして、そして相互の理解が出来るといふやうになれば、非常なものだと思ひます。これには御婦人が又与つて力あるものであると存じますが、併し現在の日米関係は非常に難問題でありまして、決して安心は出来ないのであります。その何れの場合にあつても、私共の執らねばならぬ態度は、これを戦ひによつて解決することではなくて、常に平和と正義に依つてなされなければならぬと信ずるのであります。
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 以上聊か私の亜米利加に対する考へを述べて、今日の懇なる歓迎会の御礼の辞といたします。(了)


竜門雑誌 第四〇八号・第四九―五六頁大正一一年五月 春季総集会並青淵先生帰朝歓迎会(DK330015k-0015)
第33巻 p.334-340 ページ画像

竜門雑誌 第四〇八号・第四九―五六頁大正一一年五月
    春季総集会並青淵先生帰朝歓迎会
 本社に於ては四月十六日を卜し、曖依村荘に於て青淵先生帰朝歓迎会を兼ねて、第六十七回春季総集会を開きたり。時恰も郊外散策の好季節、三々伍々筇を曳きつゝ来会せる会員諸君三百有余名、定刻午前十時、振鈴を相図に会場は開かれ、幹事石井健吾君登壇、大正十年度社務及会計報告を為したり。即ち左の如し。
       大正十年度社務報告○略ス
 右の報告終るや評議員会長阪谷男爵登壇、歓迎会開会の辞を述べられて曰く
  閣下並に諸君、今日は我竜門社の恩人たる青淵先生の米国より帰られましたことに付きまして、玆に歓迎会を開き、斯く多数の御来会を得ましたことを感謝致すのであります。且つ天気も仕合せに非常な好都合でございまして、是は特に幹事諸君の尽力よりも、所謂天祐であつて、天も亦此歓迎会に賛成を表せられたと申さなければならぬ。昨年先生を送りました時分には、洵に重大なる御任務で、どうしても先生を煩はすの外ないと云ふ決心より御送り申しましたのでありますけれども、御高齢のことゝ云ひ、内心は甚だ御同様心配を致して居つた訳でありますが、想像以上に御健勝であらせられて、却て随行した若い人の中には病人があつたと云ふやうなことで随行した所のお医者さんも、若い人の為に薬を盛つたけれども、先生の為には薬を盛るの必要がなかつたと、云ふやうな次第でありまして、又お帰り後も至つて御壮健であると云ふことは、吾々竜門社員として御慶びを表する次第であります。
  昨年先生の御旅行は、実は重大なる事でありました。日米関係が支那問題、又移民問題に就て、段々険悪になつて来て、識者の憂へて居る所でありましたが、之に加へて欧洲大戦の結果と致して、非常に又世界の形勢が一変して参り、日本に対する地位を或は妬み、或は羨み、色々なる事情から日本が又世界平和の事に就て、重大なる関係を持つ地位に立つて、甚だ此日本の立場が所謂孤立困難に陥らんとしたと云ふやうな状況であつた。固より列国の識者の間には此欧洲大戦争の後に於て、再び又戦乱を繰返すと云ふことは得策でない、又人道上宜しくないと云ふことは一致して居る所でありますけれども、世界の形勢と云ふものは、どうしても其識者の力のみに待つ訳に行かない。時として一般公衆の感情に支配せらるゝと云ふことを免れぬのであります。最初に世界の識者の企てた所謂国際聯盟に依つて、従来の平和を維持しやうと云ふ計画が、米国上院の不同意の為に蹉跌致しまして、是に於て甚だ有識者は憂へて居りました。所が幸に又華府会議を開くと云ふことになりまして、此華府会議に於て識者が集つて、将来の平和の基礎を定めやう、兎に角大体の方針が定らぬと、何分此世界平和の順序を立てる訳に行かない、
 - 第33巻 p.335 -ページ画像 
殊に日英同盟の関係と云ふものが一種の問題となつて、甚だ世界の識者を悩した訳でありましたが、華府会議の結果として、日英同盟と云ふことも、更に之を拡張して四国の協約になり、又極東問題に就ても諒解が徹底致し、軍備縮少も約束が略々出来上つた。斯う云ふことになりましたから、更に世界の識者は此後を善くする為に、今ゼノアに於て列国会議を開くに至つた。是は欧洲の事情が独逸・露西亜、執れも未だ安定致して居らぬに依つて、是等の問題に就て就中独逸の償金支払の問題が、経済界の不安を来しましたから、是等の事に就て大体の方針を一致せしめやうと云ふ重大の会議に移つて居ります。是は即ちヴエルサイユの会議からして華府会議に転じ華府会議よりして、更に欧洲一般の安定に関するゼノア会議に移つて居る、ゼノア会議の前途は今日の所甚だ気遣はしい、殊に仏蘭西の政治上の事情が少しく面倒になつて居ります。併し既にヴエルサイユの会議で一つの大なる箍を掛け、更に華府会議で以て第二の大なる箍を掛けました、謂はゞ欧羅巴の此度のゼノア会議には二つの箍が既に掛つてある、此上にもう一つ掛け様と云ふのでありますから、是は兎に角さう重要のものではない。一番重要であつたのは華府会議の真中の箍であつて、若し此箍が巧く掛からぬと、日米の間干戈相見ゆると云ふことが無いとも限らない。是は事の行掛りでありますから、どうも唯識者の議論のみが常に行はれると云ふ訳には行かない。殊に問題が移民問題に引ッ懸つて居りまして此移民と云う問題は甚だ面倒い問題である。而して人気を悪くする。如何となれば自分の同胞が侮辱を蒙むると云ふ問題でありますから、さうなると是が非でも干戈に訴へる、昔より人種問題位面倒の事はない。現在でも世界の平和を乱して居るのは、人種と人種の争が主に原因を為して居る。愛蘭の事と云ひ、印度の事と云ひ、埃及の事と云ひ又日本でも朝鮮の問題、台湾の問題の如き、甚だ小ながら面倒い。さう云ふ訳でありますから、此華府会議に於て独り政治家の代表ばかりでなく、能く国民を代表し得る、又世界の人が其人の公平無私なることを認識して居つて、直接に向ふの公衆なり、又有力者に向つて話すより外に緩和の手段がない、是に於て青淵先生を煩はすの外には途がない、他に代る人がなかつた。御年齢と云ひ、御経歴と云ひ、御位地と云ひ、又平素懐抱して居られる議論と云ひ、又能く内外に――殊に亜米利加に知られて居られる事と云ひ、他に代る人がない。故に御高齢にも拘らず、御苦労を願つたと云ふやうな訳でありますが、果して其人選が洵に適中致しまして、到る所非常なる歓迎、平素排日思想を持つて居る人も、先生の前には何も悪意を持たない。又厭悪の念を持たない。洵に年取つた老人が深切に、真に心から平和を希望して、遠路来て呉れた、気の毒の事だ、実に吾々も其通り平和を望まなければならぬと云ふ念を以て迎へられた。極端なる排日論者まで、先生に向つて歓迎の辞を述べられたと云ふ訳でありまして、洵に吾々の期待した任務が完全に遂行せられた次第であります。此華府会議の政治上の方面に就て、先生が間接直接に好影響を此会議の結果に及ぼされたと云ふことは、是は勿論の事で
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ありますが、併ながら是は先生の表向の任務ではない。詰り両国の国民の事情を疏通して好き空気を造ると云ふのが先生の任務でありまして、問題其ものに直接触れて、所謂樽爼折衝と云ふやうな事に先生が加はられるのではない、謂はゞ唯好き空気を造り、事情の疏通を図り、和気靄々の裡に互に公平なる相談の成立するやうにと云ふことに尽力されたに止まる訳であります。併ながら先生の最も重きを置かれたのは移民の問題であります。此移民の問題は多年の懸案で、今日如何ともすることが出来ない問題になつて居るので、是は日本人も能く了解し、米国人も能く了解して、極て正しき所に解決しなければならぬ。西洋の言葉に如何なる問題でも、正しく解決の着く迄は解決されないと云ふ諺があるが如く、正しき解決の着く迄は解決の著くものではない。即ちライトリー・セツトルド、正しき解決の道を開く為に先生は此努力を尽された。即ち加州沿岸を寒中を厭はず北の方まで行かれたり、又布哇にも数日滞在されて、即ち日本の在留民に向つて善き道を説き、又亜米利加側の人に対しても道を説いて、此問題を正しく解決する、ライトリー・セツトルドの道を講ぜられた訳であります。是は亜米利加・日本、双方の国民が手を焼いて居る問題で、今日まで矢張両国の間に始終面倒を醸す原因を為して居る、一つの病源となつて居る、此病源を除くと云ふことは、もう殆ど政治家では力が尽きたと云ふ位の問題である。即ち此度の御旅行に依つて其道を開き、遂に両国間に好き了解を見出すと云ふことに努力せられた、此御任務は非常に大なるものであらうと思ふ。若も先生の此任務がそれぞれ効果を現しまして、移民問題も相当な解決を見るに至りましたならば、即ち将来、永遠に両国間の親交を害する禍源となるべきものが玆に解除されたと云ふことになる。即ち先生の此度の御旅行が如何に重大であつたかと云ふことは、是に於て益々明白になつた次第であります。殆ど之を大きく申せば、世界の平和の為に三つの箍を掛けるに就て、其真中の箍を締めるのに非常な関係があつた。桶屋が金槌を以て之を固める、其金槌の一つ二つは先生が叩かれたのであると言ひ得られるのであります。将来の世界平和史上に如何に此事が関係があつたらうかと云ふことを、吾々が玆に竜門社員として記憶して当然であらう。又吾々竜門社員と致しましては、我社より斯の如き人が現れて、吾々を多年指導せられたのみならず、世界歴史の上に一つの恩恵を留められたと云ふことは、心の底より喜ぶ次第であります。只今此席へお出になりました外国のお方は、お一人はミスター・パーマー、お一人はミセス・パーマーと云うて、丁度加州からお出になつた有名の実業家で居らつしやる。矢張此移民問題に就て、青淵先生が加州に居られました際に、極て青淵先生の一行を懇切に待遇せられたのであります。今日青淵先生のお客として此王子のお屋敷へお出になつたのに、丁度此会が始つて居りましたので、殊に只今私が青淵先生の歓迎の辞を述べまする際に御臨席になつたと云ふことは、洵に偶然の事でありますけれども、吾々は亜米利加側に斯の如き好紳士好婦人があつて、共に倶に此平和の鍵を堅く握つて戴くと云ふことに就
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て、多大の感謝の念を共に表したいと思ひます。洵に青淵先生に対して世界平和の為に歓迎の辞を述る、其将に辞の終らんとする所に偶然此御夫婦の御出になりましたと云ふことは、是れ亦天の引合せと申すの外はない、是に於て愈々両国の親密は堅くなり、又世界の平和は堅くなつたと、斯う断言して憚らぬのであります。之を以て歓迎の辞と致します。(拍手)
 玆に於て青淵先生登壇、謝辞を兼ねて渡米の顛末及所感(追て本誌掲載)を述べられて式を終り、最後に阪谷男爵より折柄曖依村荘に来訪せられたるパーマー氏及夫人を紹介せられたり、即左の如し
      紹介の辞
  只今丁度偶然にお出になりましたミストル・パーマー、ミセス・パーマー両君を私より御紹介致します。此御方は加州に青淵先生並に御一行の滞在中非常に深切に待遇して下すつたことであります。今日丁度青淵先生の午餐のお客として御出になりました。我竜門社と致しまして、青淵先生に対する御好意に対し感謝の意を表する為に、玆に諸君に対して万歳を表せられんことを希望致します。
  ミストル・パーマー、ミセス・パーマー万歳
    (会衆唱和)
      ミストル・パーマー氏挨拶
  亜米利加に渋沢子爵並に一行がお出下さいまして、亜米利加の人は、洵に大なる尊敬と歓喜を以て、之を迎へたのであります、今日又、此席に出まして、渋沢子爵並に御友人の方々に御目に掛りましたことを光栄と致し、並に只今の御好意に対して、深く感謝致します。(拍手)
 右終るや是れにて本会を閉会し、引続き園遊会に移れり。例に依り生麦酒・燗酒・天麩羅・煮込・寿司・蕎麦・甘酒・団子の模擬店を開き、余興場に於ては太神楽・奇術の余興あり、各自十二分の歓を尽して帰途に就きたるは午後四時前後なりき。当日の来賓及来会社員は即ち左の如し
   △来賓
 青淵先生
   △特別会員
 伊東祐忠君     五十嵐与七君    今井又治郎君
 石井健吾君     池田嘉吉君     飯塚八平君
 速水柳平君     長谷見次君     林愛作君
 長谷川太郎吉君   服部捨太郎君    長谷川粂蔵君
 林武平君      原胤昭君      西野恵之助君
 西谷常太郎君    西田音吉君     堀井卯之助君
 堀内明三郎君    富沢充君      土肥脩策君
 土岐僙君      戸村理順君     豊田春雄君
 利倉久吉君     尾高幸五郎君    織田雄次君
 大野富雄君     大原春次郎君    尾高豊作君
 大山昇平君     大西卯雄君     大橋悌君
 渡辺嘉一君     渡辺得男君     和田義正君
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 神谷十松君     金谷藤次郎君    川田鉄弥君
 神田鐳蔵君     片岡隆起君     鹿島精一君
 川島良太郎君    横山徳次郎君    滝沢吉三郎君
 田中徳義君     高橋波太郎君    竹田政智君
 高根義人君     竹内実君      田中楳吉君
 田中太郎君     竹村利三郎君    高橋金四郎君
 高松録太郎君    塘茂太郎君     坪谷善四郎君
 中村高寿君     中田忠兵衛君    成瀬隆蔵君
 永野護君      永田甚之助君    野口半之助君
 野中真君      久住清次郎君    倉沢賢治郎君
 倉田亀吉君     山田譲三君     安田久之助君
 簗田𨥆次郎君    矢野由次郎君    八十島樹次郎君
 山口荘吉君     山田敏行君     山下亀三郎君
 松村守一君     松本常三郎君    増田明六君
 松平隼太郎君    松谷謐三郎君    藤巻太一君
 古田錞治郎君    古橋久三君     藤森忠一郎君
 河野正次郎君    河野通君      小池国三君
 小畔亀太郎君    小西喜兵衛君    小林武之助君
 江藤甚三郎君    江藤厚作君     手塚猛昌君
 甘泉豊郎君     有田秀造君     阿部吾市君
 明吉富士男君    明石照男君     浅井佐一郎君
 浅野泰治郎君    安達憲忠君     佐藤正美君
 阪谷男爵      佐々木勇之助君   桜田助作君
 佐々木清麿君    木村雄次君     弓場重栄君
 三好海三郎君    守随真吾君     柴田愛蔵君
 清水一雄君     清水釘吉君     白石甚兵衛君
 渋沢義一君     渋沢武之助君    渋沢正雄君
 渋沢秀雄君     渋沢敬三君     白石元治郎君
 白石精一郎君    白石喜太郎君    弘岡幸作君
 肥田英一君     諸井恒平君     諸井四郎君
 関直之君      関根要八君     杉田富君
 鈴木紋次郎君    鈴木善助君     鈴木金平君
   △通常会員
 伊藤英夫君     石田豊太郎君    伊沢鉦太郎君
 入江銀吉君     石井与四郎君    井上成一君
 家城広助君     家田政蔵君     井田善之助君
 磯村十郎君     飯島甲太郎君    井出轍夫君
 飯沼儀一君     石川二郎君     伊藤保雄君
 蓮沼門三君     浜口嘉一君     早川素彦君
 橋本修君      伴五百彦君     秦乕四郎君
 西潟義雄君     西正名君      西村暁君
 西尾右三郎君    堀口新一郎君    東郷郁之助君
 友野茂三郎君    奥川蔵太郎君    太田資順君
 大野五三郎君    大井幾太郎君    小田島時之助君
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 大塚四郎君     岡崎寿市君     大石良淳君
 落合太一郎君    岡原重蔵君     織田槙太郎君
 岡崎惣吉君     大平宗蔵君     大木為次郎君
 小川銀次郎君    小倉槌之助君    岡田熊吉君
 渡辺喜雄君     鷲尾貞蔵君     渡辺轍君
 川口寛三君     上倉勘太郎君    金沢弘君
 加藤伊蔵君     笠間広蔵君     金子四郎君
 河見竹之助君    神谷祐一郎君    神谷善太郎君
 金沢通誠君     吉岡慎一郎君    吉岡鉱太郎君
 吉岡義二君     高橋森蔵君     田淵団蔵君
 玉江素義君     玉木真君      滝本真一郎君
 田村叙卿君     田子皖庸君     田島昌次君
 高橋光太郎君    高橋毅一君     曾志崎誠二君
 辻友親君      鶴岡伊作君     根岸綱吉君
 中山輔次郎君    内藤太兵衛君    中村松太郎君
 中野時之君     中西虎之助君    長宮三吾君
 村山革太郎君    村松秀太郎君    浦田治雄君
 上原久二郎君    宇野芳三君     梅津信夫君
 内海盛重君     野治忠直君     野口米次郎君
 野村喜一君     野村鍈太郎君    野島秀吉君
 野治義男君     黒沢源七君     熊沢秀太郎君
 久保田録太郎君   紅林英一君     九里真一君
 山本鶴松君     八木安五郎君    八木仙吉君
 山口乕之助君    山村米次郎君    大和金太郎君
 安田武彦君     山本宣紀君     山田太熊君
 山下大吉君     安井千吉君     松園忠雄君
 松本幾次郎君    万代重昌君     馬淵友直君
 松井猛三君     松沢広夫君     松村修一郎君
 藤井政蔵君     藤木男梢君     古田元清君
 福島元朗君     福島三郎四郎君   藤里稲田君
 福田盛作君     近藤竹太郎君    小林茂一郎君
 河野間瀬次君    小島順三郎君    後久泰次郎君
 小林徳太郎君    小林梅太郎君    近藤良顕君
 小見波隆朔君    小山平造君     江原全秀君
 江口百太郎君    出口和夫君     安孫子貞治郎君
 粟飯原蔵君     粟生寿一郎君    阿部久三郎君
 浅木兵一君     明楽辰吉君     佐藤林蔵君
 座田重孝君     斎藤亀之丞君    桜井竹蔵君
 猿渡栄治君     佐藤金三君     桜井武夫君
 斎藤又吉君     三枝一郎君     三瓶覚君
 佐野金太郎君    木村金太郎君    北脇友吉君
 木下憲君      湯浅孝一君     水野豊次郎君
 宮谷直方君     御崎教一君     峰岸盛太郎君
 三輪清蔵君     蓑田一耕君     湊屋梅吉君
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 東海林吉次君    重野治右衛門君   塩川薫君
 渋沢智雄君     島田延太郎君    清水百太郎君
 柴田亀太郎君    塩川政巳君     清水鑙君
 清水景吉君     平賀義典君     平塚貞治君
 森戸伝之丞君    門馬政人君     瀬川太平次君
 関口児玉之輔君   瀬川光一君     杉田丑太郎君
 鈴木房明君     鈴木勝君      鈴木富次郎君
 鈴木正寿君     菅野肇君      鈴木豊吉君
   其他
 穂積男爵令夫人を始め三十余名
 尚ほ当日同会に対し、左記諸君より寄附金を辱せり、玆に謹んで御芳志を謝す
   金参拾円也            佐々木勇之助殿
   金参拾円也            東京印刷会社殿
   金弐拾円也            穂積男爵殿
   金弐拾円也            阪谷男爵殿
   金弐拾円也            神田鐳蔵殿
   金拾五円也            白石元治郎殿
   金拾円也             浅野総一郎殿
   金七円也             小池国三殿
   金五円也             星野錫殿
   金五円也             八巻知道殿
      以上


青淵先生演説速記集 雨夜譚会編 【大正一一年四月一六日 於飛鳥山邸 竜門社第六十七回春季 総集会(兼青淵先生帰朝歓迎会) (渡米の理由、その実情及感想)】(DK330015k-0016)
第33巻 p.340-350 ページ画像

青淵先生演説速記集 雨夜譚会編 (渋沢子爵家所蔵)
  大正一一年四月一六日 於飛鳥山邸 竜門社第六十七回春季
             総集会(兼青淵先生帰朝歓迎会)
    (渡米の理由、その実情及感想)
今日の竜門社の総会に、私の昨年から本年に掛けての亜米利加旅行を無事に仕舞うて帰つたことを皆様が御喜び下すつて、其歓迎を兼ねられたことは、私に於て最も感謝を致す所であります。亜米利加旅行はほんの自己の従来の関係から、心配の余り実地の模様を一覧したいと云ふ、蓋し自由旅行、心配の余りの視察に過ぎなかつたやうに自身は思ふのでありますが、今歓迎の言葉として阪谷委員長から、丁寧に世界の大勢若くは日米の従来の関係に論及されて、此場合両国民の意思の調和を図る為には、相当の方法を必要とする、即ち物を堅固にするには大きな締りをせねばならぬ、其締りの一部を助けたやうに思はれると云ふことは、若し左様に論じましたならば、多少其関係を持つたと言ひ得るかも知れませぬが、私には余り過当の賞讚で、寧ろそれ程の効果は自身の働きからはなかつたと、斯う辞退致すより外はないのでございます。是等の広い観察はありと言ひ、なしと言ふ、別に御討論の必要もありませぬで、謙遜して申せば左様考へる、或は之を賞讚して言うたら、多少それ等の効果ありとも言ひ得るでありませうが、どうぞ竜門社諸君が何だか我仏尊しと云ふ風に、余り無い事にまで力
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添へをして戴くことは好みませぬけれども、併し日米の関係、若くば社会の有様が、随分憂慮すべき場合であつたと云ふことに就ては、阪谷男爵の今述べられた通りと思ふのでございます。私は政治家でありませぬから、世界の大勢に、又或は此欧羅巴大戦乱の終り、仏蘭西に於ける講和会議の有様、国際聯盟の成立、其又行走つた有様等に付ては、概括的には心得て居りますけれども、小溝の経緯は私等は余り説明する程の知識を持つて居りませぬ。さりながら国際聯盟に亜米利加の賛同が欠けたと云ふことは、実に竜を画いて眼睛がないと云ふやうな有様で、何やらん世界の平和に、大いなる物足らぬ有様を見たことは、仮令此政治界に観念の薄い吾々、諸君も大抵同じ流亜に在らせられることゝ思ひますが、同じく左様な感じを持たれたであらうと思ひます。而して亜米利加と日本との関係が如何に成行いたかと云ふことは、竜門社員の皆様は、常に其事に御関係がないからして、其詳細の顛末に就ては、私共始終其所に関与して居る者程、御承知がなからうと思ひますけれども、実は昨年の華盛頓会議に立到るまでの有様は、随分雲行険悪とまで言はねばならぬやうでありました。凡そ物事は真に已むを得ぬと云ふことからして、以て、大事に及ぶこともありますし、又偶然の行掛りから、所謂張合、意気地が一つ重なり二つ重なり遂に退引ならぬと云ふやうにまで国情が進む場合も少くないのであります。欧羅巴戦乱の如きは、英吉利とか独逸とか云ふ間柄が、もう少し原因が深かつたやうであります。日米の間の有様は左様な深い思入りはないに致せ、併し、加州移民問題等は、蓋し一朝一夕でないのです。ずつと以前を言ふと二十年も前からですが、事に現はれて出た面倒は明治三十九年・四十年頃からであつて、加州に於て或は之を追還したいと云ひ、或は職業に差別をしたいと云ひ、或は学童を隔離したいと云ひ、種々なる方面に現はれ出た。其点から云ふと亜米利加の人人が無理ばかり加へるやうに勿論吾々は言ひたい、さりながら又反対に、亜米利加側から云ふと、日本人の困ると云ふ事情を羅列して、斯う云ふ事がある、斯う云ふ事がある、我が習慣に合はぬ、我が国情に背いて居る、斯かる暴戻な事をする、斯かる非文明な事をすると云ふことを、随分唱へられる数々があるのです。甚だしきは或地方には、是等は向ふの暴戻な仕方でありますが、即ち、ターロックと云ふ処では、大勢が寄つて集つて、移民を狩つて他方へ移させる、所謂追出す行動までやつたなどゝ云ふことがある。随分さう云ふ有様から、更に進んで甚しきは、一地方に例へば小格闘でも起つたとしますれば、此行走りは或は瑣細な事が遂に大いなる災害に押移ると云ふことは、仮令取越苦労をせぬ人でも、同じく深い感じを持たねばならぬのであります。移民問題の懸念を論じますと、まだ中々さう云ふ廉々は多うございますが、而して是は多く亜米利加全体の、殊に東部にある有力な経済家、若くは政治家の言ふ所では、どうも亜米利加の国体が地方地方の制度が特に許されてあつて、所謂持寄身代であるから、一地方の仕向けと云ふものを、中央政府から細かい所まで徹底的に干渉することは出来ぬ、仍て中央政府では思はぬことが、地方には左様な外国から見ると暴戻の如くに感ずる有様があると、斯う説明をされますけれ
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ども、併し兎角に左様な事が現はれる。又一方支那関係から、今述べます東部の方、紐育とか市俄古とか、或はボストン、費府方面の人々に対しては、是は多く事業関係の深い、而して他方に手を延ばすと云ふことに始終力を尽されて居る人々で、是等の人々は支那に対する関係に於て、日本にまだ慊らぬ事が数多いのであります。まあ第一に満蒙除外と云ふことも、何だか支那に日本が一部分の優先権を持つたやうに感ずる。大正四年の二十一箇条に依つて、山東関係の協約も、日支の間の申合せが、それも、支那が喜んでしたことならば宜しいけれども、所謂手を捻つてやらしたやうな形のある為に、世間の騒々しい時機を見計つて、隣の弱い者虐めをしたと云ふやうな悪口は、独り新聞社の悪口ばかりではない、相当の政治家も、又実業界の人々も、ひどく忌嫌つて居る。殊に亜米利加は成べく協同一致公平にして差別を好まぬ――加州では少し差別を好んでござるけれども、大体の気風がさうである。其所へ持つて行つて、支那に対する貿易・商業・工業に就て、日本が優越権を持つて居ると云ふやうな事柄は、頗る忌嫌つて居る。此忌嫌つて居る有様が、自ら或場合には因が果となり、果が因となつて、東部のさう云ふ感情が強くなつて伝ると、加州の排日主義者は時こそ来れ奇貨居くべしと、強い方法を講じて来る、尚ほ其外にも多少ありませうけれども、主として加州移民と極東に対する経済発展に於て、日米の間の不調和、之が是までの最も主なる懸念であつたのであります。で私等の亜米利加事情を知り、日米関係に幾らか微力を致し始めたのは、明治四十一年、丁度千九百八年頃から取掛つて、爾来多少の関係も致し来りましたが、実は一昨年桑港からアレキサンダー君一行、又紐育からヴァンダーリップ君一行、此御方々に来て貰うて、吾々と相談したことは、今御話する二つの事をどうか民間の有志の人々の間に十分討議して、此方の悪い事は直し、先方の考違をも改めて貰うて、調停の途が付くやうにしたいと、共に丁度十日間許り三月と四月に殆ど腹蔵なき談話をしまして、稍々協定し得たやうに思うたのです。但し是は小部分の人々の申合せでありますから、果してそれが国論になり得るか否やと云ふことは分りませぬけれども、御互に我国の為め、又世界の為め、公平に図つて真理此所に在り、斯う云ふことにして、加州の事に就ては特に一つの国際の委員を造つて、さうして之が聯合して細大の事を十分吟味詰をして、協定するやうにしたら宜からう、東部の事に就ては、吾々政府に対して論ずべきことは十分に論じて直させるやうにしやう、又向ふの亜米利加側の考の違つたことは、是等の諸君が十分理解弁明をしてくれやう。斯の如く話を進め得る積りで別れたのであります。けれども其希望が順好く運ばぬと云ふのは、丁度折柄に直にデモクラット大統領が代つて、次の候補選挙と云ふことに相成りまして、亜米利加全般の気分がレパブリカンに移り変ることに相成つて、即ち一昨年十一月、其投票は予想の通りに決定した。さうすると是等の移り変りが出来ぬと、今申した事柄等も、唯民間の仕事ばかりではいかぬ、政治上の考も相通じ合つて運びをせねばならぬことでありますから、昨年の春頃まで、勢ひさう云ふことを進歩させる時期に立至らぬで居つたのであります。現在の大統
 - 第33巻 p.343 -ページ画像 
領ハーデイング君が立ち、国務卿其他の人々が揃うて、色々それ等の運びが付くであらうと云ふことを思ひつゝある間に、丁度今阪谷君の丁寧に御話のあつた、華盛頓会議と云ふものが発表されたのであります。是は敢て日米関係ばかりではないでせう、所謂世界の大体に関聯したことでありませうが、第一には此軍備を縮小したいと云ふ、其他太平洋問題、或は極東問題と云ふのは、即ち支那と日本との関係でございませう、此報道を承つたときに、吾々前に申した、長い間日支、日米の関係を持つた人々は、此後どうなるだらうかと云ふことの想像が、或は強く或は柔かに考へられて、私共極く同志の仲間だけでも種種なる評論があつたのです。今日から論ずると皆が一に帰しましたけれども、或は曰く、どうも支那と亜米利加は――亜米利加は兎角支那の讒誣を信じて、日本に対して悪感を持つて居る、加州移民の処置と雖も、敢てそれが支那との関係はないだらうけれども、どうも無理ばかり仕向けて来る。此支那に対する関係は、日本が所謂先入主となり得べき性質のあるにも拘らず、後から来て先に居た奴を掻除けると云ふやうな行動があるのは、甚だ亜米利加は其意を得ぬ。玆に斯様な問題を起して、軍備縮小とか或は太平洋問題、殊に極東問題に就ては、支那の意嚮と云ふものに聞いて、日本に対して成べく都合の悪いやうな仕向を、英吉利其他の国々を誘うて仕向けるであらう。是はどうも日本の危機一髪、甚だ容易ならぬ時期に到つた、斯う云ふ観察を持つた人も、決して無謀な考ではなかつたかも知れぬのです、日米関係委員の吾々、即ち阪谷君や私共は、さう云ふやうな邪推を以て、申さば小人の心を以て大人の腹を忖度することは宜しくない、殊に軍備縮小と云ふことは、殆ど世界を通じての輿論と云うて宜い、有力な国から斯う云ふ標榜が出ることを待つて居つた。否吾々は日本から其唱道をしたいとまで考へて居つた。有力なる政治家あたりが早く考付いて、我から先へ発表して貰ひたい位に思うて居つたのを、人から言はれたから善い事が悪い事になると云ふやうな、そんな小人の行動は面白くない。斯の如く軍備を進めて行つたならば、必ず第二の戦争が始まることは、実に見え透くやうに明である。欧羅巴の覆轍は其所にある。況や今日軍備縮小を提案したと云ふ亜米利加・英吉利の相談は洵に尤である。然らばそれに賛同して、努て其宜しきを制するは、日本の最も策の得たるものと言はなければならぬ。又太平洋問題・極東問題も始終懸案になつて居るのだから、玆に其問題を掲げることは至極尤である。公平無私に胸襟を開合つてやるに何の差支があらうか。今申すやうな反対者に頻りに私共対抗して議論したのであります。而して其場合打明けて御話をすると、政府の意見が何れに在るか、吾々日米関係委員会では分らなかつたけれども、願くば政府をして所謂襟度を開明して、吾々の如き考を以て、極く直情径行に此会議に出て奮発するやうにしたいものだ、又善いと思ふ事は自ら先んじて極めるやうにしたいものだ、斯う日米関係委員会の多数は思ひました為に、遂に其総代の意味で金子さんと屡々時の首相に向つて、今のやうな意見を開陳したことも、一再にして止らぬのであります。そこで遂に使節も行くであらうし、表向の評議も開けるであらうけれども、若し誤つてみす
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みす話が滞つて、既に仏蘭西の平和会議に、日本の全権も事に依つたら引上げて帰らなければならぬと云ふやうな事態の起つたやうな評判も聞きました。現に伊太利はヒユーメの事に就て、所謂新聞の言葉で言ふと、旗を巻いて引上げたと云ふやうなことがある。若し我使節もさう云ふことにでも立至つたならば、勢い此行掛りの軍備が益々増さざるを得ぬ訳になる。縮小どころではない、増大になつて来る。其増大の結果は、余儀なく向ふでも太平洋艦隊を頻に桑港の方面に向けることになるだらうし、布哇の防備も整へることになるであらう、向ふが一つやれば此方は二つやる、第一国力を費消するのみならず、人気が益々険悪になる。元来威を争ひ覇を競ふ独逸・英吉利の如き国柄ですら、左様な有様に立至ると云ふことは、畢竟其当路の人の心得違から起つたのであります。況や日本と亜米利加は、少しもそんな関係はない。殊に其国交の昔を顧みると、六十年前亜米利加は吾々を殊に鎖国して居つたものを、世界の仲間入をさせて呉れた国である、のみならず正義人道を重んずる国風で、洵に活快に日本に対して待遇して呉れた国である。唯不幸にして二十年前頃から段々移民の一端に対して其移民に地方的観念から多少の不都合を惹起したのが、此所に幾らかの悪感を生ぜしめたと云ふのは、極く小部分で、謂はゞ指の先に腫物が出来た位である、之を左様な大事に至らしめると云ふことは、抑々政治家の愚と云ふか、国民の鈍と云ふか、余りと云へは情ないことゝ私共は深く思つて居つたのであります。決して今の華盛頓会議に我が使節が過をする、物足らぬと云ふ考を持つて居るものではない。吾々は使節其人に不足を感じた訳ではございませぬけれども、唯表向ばかりではいかぬ所もないとは云へぬ、幾らか内に補ふ途も或は必要ではなからうか、既に長い間苦んだ吾々で見れば、誰か一人行くが宜からうと云ふことを、日米関係委員会の間に想起して、是に於て私が微力ながら、殊に英語も通ぜず、亜米利加の事情も欧羅巴の有様も甚だ存ぜぬ身ではございますが、左様に思うて見ると、どうしても仮令十分役に立たぬでも、自己が出て其局に当つて、亜米利加の同志の方々などにも段々御話をして見たならば、仮令此局外関係で、表面の効果は奏し得られぬでも、幾らか微衷を致す場合があらうかと云ふことに相成つたのであります。華盛頓会議にホンの余計な蛇足を添へた有様しか今は残りませぬけれども、併し自身が出張しやうと覚悟を定めた所以は、さう云ふやうな沿革であつた。故に大きく考へると、遂に将来帝国の御為にどうなるか、どう云ふ変化を惹起すかと云ふことが、何分黙視するに忍びぬと云ふやうな感じがあつて罷出た、所謂衷情の発露したと云ふことだけは、左様に御了解を願ひたいと思ふのであります。自身から考へると左様に未だ老衰した積りはないからして、今の一寸の旅をするからと云うて、左様に案して下さらぬでも宜いのであるが、又或る意味から考へますると、兎に角八十以上の身ですから、家人などから見ると、余計な事をすると、必ず案じて呉れたらうと思ひますが、それと同時に竜門社の皆様方も、所謂親類付合の間柄であるから、或点から云ふと、余計な事をすると思つても下さつたであらうが、幸に百十日の行程が、一度も病うたこともなく旅行を終つて帰
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りました。旅行中の事を精しくお話しますと、事長くなりますけれども、私は表面に立たぬのでありますから、寧ろ華盛頓のお話は、丁度此処に御同席の添田君と頭本君がお当り下すつて、共にお働き下さるやうになりましたから、私は寧ろ紐育の方の心配を余計しまして、華盛頓の方の働きは添田君・頭本君が専ら努めて下さいました。併し或る場合には一寸来て話したら宜からうと云ふので、或は直接に深切にお話するが宜からうと云ふやうな事柄に就ては、自身出て添田・頭本両君と一緒に色々お話をした事も数回ございましたけれども、先づ大体が彼此れと多少紆余曲折の有様はありましたが、さう云ふやうな相済んだ事は、此処に喋々申上げぬでも、皆様、御承知の通りであります。山東問題の解決などは、日本から見ますと云ふと、大正三年から金と人とを以て、大なる力を添へてあれだけの事をしてやつたに拘らず、何だか是までのお礼を言はれずに、之を返却するに立至つたことは、物足らぬやうな感も生ぜぬではありませぬけれども、併しあの還付の方法が、決して不満と云ふことはなからう。固より返すを主義として取つた青島でありますから。故に軍備縮小問題と云ひ、四国協約の問題と云ひ、又太平洋関係の問題と云ひ、別に彼此れと御説明申す程の事はございませぬで、先づ其等の事に就ては都合好く物が結了したと申して宜いでありませう。殊に亜米利加全般に対する気運が、日本が特に我儘を考へて、孤立的に自己を主張すると云ふ疑惑が始終あつたのです。今度の華盛頓会議で、使節の行動も言論も洵に公明正大であつた為めでもありませうが、其疑惑を殆ど取去つたことは、洵に御同慶の至りであります。能く其辺は亜米利加をして十分に了解せしめられたやうに私は思ひます。是は軍国主義であるとか、或は孤立を一向頓著せぬで、自分だけ都合の好い事を考へる国民であると云ふやうな疑は、大に取去られたやうに思ひます。真に慶賀の至りである。唯加州の移民、若くは布哇の移民に対する問題が、是は華盛頓会議には上りませぬから、其取残された後の始末をせんならぬ。そこで私は十二月の十一日に華盛頓を発して、此加州・布哇の実際を能く調査しやうと云ふことを特に注意しまして、殊に此布哇の方は、頭本君が幸に其前に会議があつて出張された縁故もあつて、知人も多し、私も一寸でも彼処に滞留して実況を知りたいと思ふけれども、長い間の滞留は困難であるから、縁故深い君にお願したいと云うて、二人の間に打合せて、頭本君に先へ布哇へ廻つてお貰ひ申して、さうして今申す十二月十一日に華盛頓を経て、十六日ロスアンゼルスに参つて、十八日であつたと思ふ、頭本君に先へ布哇の方へ参つて貰つたのは――それからして私は南の方を仕舞うて、十二月二十四日に桑港に来て、更に北部の方のシヤトル、ポートランド、是等の地方には移民もあり知人も相当あつて、御互に情意を通じた場所である。予て通知もして置いたので、丁度押詰に此両所へ廻つて、二十七日に著して、七八両日シヤトルに居つて、それからポートランドに行き、ポートランドの用を終つて、三十日汽車に乗つて大晦日の晩に桑港に帰つて来て、それから元日を息んで、二日から協議会などを開いて、更に三日にはボストン、イヒンストン、先刻お話したターロツクまで参りまして、此処で
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も大層歓迎を受けました。それに就て添田君が先づ演説をして、此土地は怖い所と思うて来たが、吾々が来ても別に追出されもせぬで、大に喜ばしいと、少し諧謔的の御演説などがありましたから、私はもう真に怖い所と思うた、日本ではターロックへ行つて能く生きて帰つて来たと思ふだらうけれども、諸君が斯の如く懇切にして下さるターロックであるから、悪い者が一人二人居つて排斥をされても、斯く多数の御方は、皆日本に好感を持つてござると云ふことを、国へ帰つたら大きな声で披露しますから、諸君は御安心下さいと言ひましたら、皆笑つて手を拍いたと云ふやうな事があります。それから更に、六日にサクラメントへ行きまして、ロータリーだとかフローリンだとかスタックだとか云ふやうな箇所を廻つて、地方の移民状況を、敢て根本とまでは言へませぬけれども、稍々内容に立入つて、調査したのであります。蓋し斯の如く調査したと云ふことは、玆に一寸政治上の事に就て言葉を挟むやうでございますけれども、丁度一昨年十一月頃から向ふの大使となつて行つてござる幣原君、又此方の大使を勤めてお出るモリス、此二人の間に蓋し政府の命があつたでせうが、両大使が打寄つて、此加州に対する解決案を作ると云ふ評議をして居つた。其内容は知りませぬが、何か一つの具体案が出来て居るやうです。併し其具体案を私は敬服せぬのである。と云ふと幣原さんなどに対して、何だか反対意見でも言ふ如く聞えるけれども、是は嘗て私が、大正四年に費府のジョン・ワナメーカーと云ふ人に会見しましたときに、お前は商売人であつて、一向政治界に顔を出して居ない人ではないか、それに日米関係委員会と云ふものを拵へて、亜米利加の事情を探るとか何とか云うて度々来るのは、一体何の用向があつて来るのか、殆ど訳が分らぬと云ふが如き質問がありました。蓋し極く親しい情愛から事情を能く知りたいと云ふ意味であつたらうと思ふ。私答へて曰ふに、勿論国交は、表面の交際は其職に在る、所謂外交官がすべきであるけれども、外交官のみの国交が果して健全なるものと思へぬではないか、外交官は所謂樽爼折衝で、其国民同志の情意が、完全に徹底しなければ、本当の国交ではないと思ふ。それで亜米利加と真正なる国交を結びたいと思ふから、私は国民国交として、始終亜米利加のお方と、即ち貴方がたと交るのも、心の底にはそれを意味して居るのである。蓋し此外交官の国交と云ふものは、丁度此処にある壁張みたやうなもので、糊で附けたやうなものである。本当に実質で交り、堅い取極めをしたとはどうしても言へない。如何に力ある人がやつたにせよ、唯表面の体裁である。故に暴風があるとか地震があるとかすれば、必ず破れてしまふ。是は外交官の国交の免れぬ所である。之に反して国民の本当の情意を通じた国交であれば、堅いセメント若くは漆で固めたやうなもので、仮令木地は破れても其接目は破れぬ、之が本当の国交である。故に私はどうぞ其漆たりセメントたる国交を得たいと思ふと答へたら、成程さう聴いて見れば尤だ、私も其漆の仲間入をしやうと云うて握手したことがありますが、丁度今お話しました幣原・モリスの協約が、敢て紙張りだと云うて誹る意味ではないけれども、蓋し本当の漆膠で堅めることは六ケ敷いと思ふ。故に、玆にどうしても今の加
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州・布哇、是等の移民問題の内容に能く立入つて、此点は斯うである此点は斯うである。向ふの悪い所は反省を求め、此方の悪い所は自ら直す、両方打明けて能く協議を尽すと云ふことが、今日最も必要と思ふ。華盛頓会議がそれが出来ませなんだから、どうぞ今日の場合此亜米利加政府に勧めて――吾々が勝手にする訳には行きませぬ、又誰が出てそれをやるにしても、矢張其政治を取扱ふ外交官の働きが、其良い漆を造り成すやうにせねばならぬのでありますから、表面の紙張に安んぜすに、本当の漆張りの世話を以て、此加州・布哇の移民問題を固めるやうにして貰ひたいと、是は又未来に属することを心配しつゝあるのでございます。亜米利加の旅行に対して、竜門社の諸君から厚い歓迎を頂戴したことは、洵に身に取つて此上もない喜びでございますから、亜米利加旅行が如何なる心を以て、どう云ふ有様で、其結果はどうなるであらうと云ふことを今申上げましたが、之が残らず其意味を尽したとは申しませぬけれども、概況を玆に陳上致したのでございます。
更に一言申上げたいと思ふのは、亜米利加旅行に就て、蓋し人は物に触れると感想を生ずるのは、人類の常である。干戈を見れば戦はんことを思ひ、家屋を見れば安んぜんことを思ひ、音楽を見れば楽みを生ずる。始終物に触れると思を起すのが、所謂人類の常である。殊に変つた物を見ると、其変つた有様から比較して、己れはどうであるとか我国内はどうであるとか云ふ感想を惹起す、是は誰しも皆同じと申して宜からうと思ふ。私も今度の亜米利加旅行で、従来内に多少の懸念の心を持つて他の国民の状態を見て、自ら感想の浮んだ事を一言申上げて、果して私の感想が尤だとするならば、此竜門社諸君は、どうぞ其弊ある有様を取除いて、過を改むると云ふか、善に遷ると云ふか、諸君が悪い訳ではないが、我国の現状が若し左様でありとすれば――私の懸念果して事実であるとするならば、是は少くとも我竜門社員だけでも、之を改良したいものだと私は希望するのであります。五十年の歳月は決して短いとは言はぬ、維新以後の政治は洵に順当に進んで参り、況や明治大帝の如き聖主が御立ちなすつて、之を又同時に賢宰相が相列んで御輔佐申上げて、国運を此処まで進めて来たと云ふことは、諸君と共に国民一同喜ばねばならぬのです。故に私は先達て或る高貴の御席へ出て、亜米利加旅行談を申せと云ふことのありました際に、現在の亜米利加旅行談より、五十六年前の欧羅巴行から申上げて之を比較してお耳に入れたならば、多少の興味があらうと思ひますと云うて、徳川民部大夫の御伴をして仏蘭西に参つた当時の私の弥次喜多滑稽談、若くは向ふから人間に似たやうな者だと云ふ観察を受けて甚だ慷慨悲憤した事、日本と云ふ国は何処に在るか、世界の地図の何処に在るか、支那の属国ではないか知らんと言はれて、実に口惜しく思うて、心に憤つた事まで想起して、五十年の歳月短くはないけれども、今日亜米利加に参りまして、私微力の者ではあるが、亜米利加の有力なる人々が珍重して付合つて呉れます。先づ主としては新大統領ハーディング、又前大統領タフト。タフトなどゝ云ふ人は特に私を友人の如く付合つて呉れる。其他ヒューズとかルートとか、或は議会に
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出る顔触の人々でも、丁寧なる待遇をして、真に友達として付合つて呉れる。経済界に名有る紐育ではジヤッヂ・ゲリー、ミスター・ヴァンダーリップ、ストロング、ヘボン、フランク、ミッチャルと云ふやうな人々が、代る代る懇切に待遇をして呉れる。此方も尊敬する人で対等の交際をして、決して何処の馬の骨かと云ふやうな有様では今日は付合はれぬ。五十年の歳月は決して短くはないけれども、日本の国運が斯くまでになつたか、己れ自身の待遇を受けるのが、即ち国家が此待遇を受けるのだと思ふと、真に心嬉しうございまして、内心に暗涙を催したのでありますが、併し之が今日国運が順に進んで居るから左様であると云ふことを思はなければならぬ。試に其当時を顧みますると、三世ナポレオンは千八百六十七年に実に雄大なる有様を以て博覧会を催して大演説をした、私は之を聴いて、嗚呼人間も斯うなつたら嬉しいものであらうと思つたが、其後三年経つと虜になつた。又其虜にした独逸はどうかと云ふと、是は三年ではない、もつと長かつたけれども、矢張等しく虜になつた。実に此世の中と云ふものは有為転変と云ふことは適当の言葉でないか知らぬが、僅に八十年の寿命を保つただけても、此世界の変化と云ふものは如何に変るか、丁度杜牧之の阿房宮の賦に、嗚呼六国を滅す者は六国なり、秦に非ざるなり――六国と云ふのは斉・楚・燕・趙・韓・魏を云ふので、秦を加へて七国であつたが、遂に秦が六国を滅して之を統一した。其六国を滅した者は六国であつて秦ではない。其後、漢の高祖が出て来て秦を滅した。秦を族する者は秦なり、天下に非ざるなり。若し秦が其国民を撫育して、道理を以て立つたならば、一世から万世まで倒れる気遣はなかつた。其倒れたのは自分の罪である。是は後人の戒めとすべき事である若し後人が後人を戒めんければ、復た後の後人をして其悲を与へるやうになる。斯う云ふ文章で結末をして居る。杜牧之の阿房宮の賦と云ふのは中々面白い文章であるが、末尾にさう云ふ格言を以て戒めを加へて居る。丁度さう云ふやうなもので、五十年の歳月、今申す通り実に雄大な勢を以て博覧会を催して誇つたナポレオンは、僅かな間に虜になつた。其ナポレオンを虜にした人は、其人ではないが、其息子さんの独逸のカイゼルも、亦暫くの間に右のやうに相成つたと云ふことを考へて見ると、矢張六国を滅す者は六国なり、仏蘭西を滅す者は仏蘭西なり、独逸を滅す者は独逸なり、斯く考へると、吾々決して安穏に何時もお正月の雑煮を食べられるとばかり思つては居られぬ。どうしても自ら戒める観念がないと、明日は我身と云ふことが無いとも申されぬ。而して現在の有様を見ると、どうしても功利と云ふ方には大分進んで来たけれども、所謂精神と云ふ方に対しては、或は恐る多少退却をして居りはせぬか、此御席にはさう云ふお話をする必要はないけれども、第一にどうも真正なる奉仕観念が乏しい。それから謝恩の観念が減じて居る。犠牲的の心が殆どない。一般に若い人の有様を見ると、唯権利だけは主張するけれども、義務の観念と云ふものは殆ど無いやうである。殊に孝弟忠信の観念が欠如ぐらゐではない、殆ど絶滅と言ひたい。孝弟忠信が絶滅したならば、決して其国家が安穏に維持されるものではない、父母に孝、長上に弟、君に忠、朋友に信、此
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孝弟忠信が欠ける国民が長持の出来るものではないと思ひます。どうも今日の所では私は此孝弟忠信に欠ける所が多いと思ひます。それから押並べて人が不真面目である。此処にお集りの皆様をさうは言はぬが、御覧なさい、第一に政治家が真に不真面目極まる。不真面目の標本は日比谷で毎日々々繰返して居る、一年に三月位は繰返して居る。是と同時に押並べて学生も不真面目、労働者も不真面目である。道路の能く直らぬのも、仕事の能く出来ぬのも、大抵此不真面目が原因をするのではなからうかと思ふのであります。帰する所私の考には、どうも孝弟忠信に欠ける所があるから、奉仕観念が乏しくなる。謝恩の念が無くなる。犠牲的感情が緩んでしまふ。斯の如き有様で行くと、益々自己だけの当面の都合を図る、之が不真面目を現出する根本ではないかと斯う思ひます。果して社会全体に左様な虞がありとするならば、少くも吾々此精神を以て主義として居る竜門社の諸君の如きは、力を尽して此悪弊を矯め直すことを努めねばならぬやうに考へるのであります、始終内地に居つてアヽ困つたものだと云ふ観念のあるに連れて、亜米利加旅行をして其国の人々に対して見ますると、此比較の観念が一層強くなつて来て、政治家はさう私も親しくしませぬから、其心事に立入つて自身看ることが出来ませぬが、実業界の人々には、或はジャッヂ・ゲリーに、若くはヴァンダーリップに、或はジョン・ワナメーカーに、或はイーストマンに、其他種々の人に会つて色々心事を話し合つて見ても、勿論亜米利加人は利害関係は寔に鋭い、又極て明瞭でありますが、一方社会奉仕と云ひますか、一般に対する公共的観念の強いことは、日本人より大に勝つて居ると私は言ひたい位に思ふ。其他学生若くは労働者の有様は、尽く接触して其事情を知つたではないけれども、概見した所で、我其種類の人々よりも真に忠実に其仕事に精神が集注されて居る如くに見受けられる、蓋し是は真面目と云ふ方が強いからであらうと思ふのであります。之を極端に言うたら、教育と云ふものにも多少関係しはせぬか。丁度一昨日でしたか松方さんにお目に掛つて、其前二月十四日にお目に懸つて色々お話をした末に、亜米利加の顛末を申したら、日本はどう思ふかと云ふお問でありましたから、今のやうには申しませぬけれども、多少の懸念説を申しました。尚ほ其中に又話しませうと言うて別れた、一昨日会ひたいと言はつしやるので又出で話しましたが、年寄の考は間違つて居ると若い人は笑つて居るか知らぬが、松方侯爵も矢張私と同じやうなる憂慮をされて居らつしやる。もう少し貴方も社会へ出て其事を仰しやつたらどうです、内にばかり居らしつては、薩張り外へ聞えませぬ。それはさうだが、縛られて居るから、もう少し裸になつたら。何時裸になるですか。今直に裸になることをお答することは出来ぬが、実に心配に思うと云ふお話でありました。年寄の思案と若い人は言ふか知らぬが、私の概見ではあるが、亜米利加で見及んだ所では、立つ前に多少一般に対して憂慮した感想が、彼地に行つて面の当り事に処して益々其観念を強くした。して見ると、どうしても此事は諸君に一言お話をして置いて、果して然るか、又其解釈に違ふ所があつたら教も受けたし、若し然りとするならば、之を矯正する観念を、少くも我竜門
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社員だけは一つ講じて貰ひたいと、斯う思ふのであります。之を以てお答と致します。(拍手)


竜門雑誌 第四〇八号・第六〇頁大正一一年五月 ○日本倶楽部主催青淵先生歓迎会(DK330015k-0017)
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竜門雑誌 第四〇八号・第六〇頁大正一一年五月
○日本倶楽部主催青淵先生歓迎会 日本倶楽部にては、四月十八日正午同倶楽部に於て青淵先生の帰朝歓迎会を催す所ありたるが、当日は青淵先生にも出席の上一場の所感を述べられたる由なり。


竜門雑誌 第四〇九号・第六九―七〇頁大正一一年六月 ○日米協会主催歓迎会(DK330015k-0018)
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竜門雑誌 第四〇九号・第六九―七〇頁大正一一年六月
○日米協会主催歓迎会 日米協会にては、五月十一日午後七時より銀行倶楽部に於て、加藤・徳川・幣原・埴原四全権、並に青淵先生及び団琢磨氏を団長とせる英米訪問実業団一行歓迎の為め晩餐会を開き、内田外相・野田逓相以下正賓三十三名の外、島村・瓜生両海軍大将、井上日銀総裁・阪谷男・小村侯、長崎・吉田両宮中顧問官、スタンダード石油会社極東総支配人エンズウオース氏・ゼネラル電気会社極東総支配人ゲアリー氏、其他日米協会員百五十余名出席し、席上米国大使ウオーレン氏は日本天皇陛下の万歳を祝し、内田外相は米国大統領の健康を賀し、次で金子会長の来賓紹介あり、終つて加藤全権及び幣原大使の演説あり、青淵先生・団琢磨氏等亦夫々在米中の感想を叙べて答辞に代へ、最後に米国大使の演説並に米国大統領の祝文を朗読したるが、こは日米協会創立当時、ウイルソン大統領の祝電ありたる以来第二回のメツセージの由にて、会衆一同に非常の感銘を与へたりと云ふ。即ち左の如し。
 予は華府会議参列の日本全権に対する歓迎会に賛意を表し、且つ日本全権が華府会議に於て採れる態度及び其事務に対し多大の感謝を表す
因に当夜青淵先生の演説は、大要左の如くなりしと。
 昨年七月十六日、当所に於て日米関係委員会を開きまして、日米親善に関する協議を致しました、当時の日米の国際関係は稍不安の状態を呈し、恰も晴天に一抹の暗雲が漂つて居たやうな心持が致しましたが、今日にては暗雲一掃、晴天に白日を望むの感が致します、之れは華府会議に於ける米国官民の一致の打解けたる態度と、我全権諸公の熱心なる努力の結果に外ならないのであると確信します、私共は将来日米関係をして、益々親善に導く事に尽力致し度いと思ひます


中外商業新報 第一二九九二号大正一一年五月一二日 日米協会の盛宴に国際融合の一夜 大統領の手簡を朗読して(DK330015k-0019)
第33巻 p.350-354 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕竜門雑誌 第四〇九号・第四三―四七頁大正一一年六月 側面より見たる青淵先生の米国旅行(一) 増田明六(DK330015k-0020)
第33巻 p.354-357 ページ画像

竜門雑誌 第四〇九号・第四三―四七頁大正一一年六月
    側面より見たる青淵先生の米国旅行(一)
                       増田明六
  本篇は第一銀行々員の組織せる読書会の四月会合の席上増田氏の談話せられたるものなり(編者識)
 私の後では小畑さんが控へて居られますから、私の未熟なる而して不弁舌なる談話は小畑さんの能弁を以てする有益の御話でどうぞお埋合せ下さるやうに願ひます。
 私共の如きが世界的偉人たる渋沢子爵の米国御旅行に就て御話申上げるは当を失したる行為かと存じまするが、子爵の米国御旅行四回の内三回は私は随行致しましたのですから、子爵が如何なる御目的で旅行をせられましたか、又どういふ御行動を取られたかは比較的私が能く存じて居りますから、僭越を省みず御話するに至つた次第でござい
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ます。
 さて子爵の米国御旅行の第一回は明治三十五年で、六十三歳の御年の時でございました、日本全国の商業会議所の決議に依りまして、之を代表して旅行せられたのであります、第二回は明治四十二年で、七十歳のお年の時でございました、日本では七十歳は古来稀なりと称して、中々海外旅行を企てる所の話ではなくて、モウ御隠居様として余生を送られるといふのが常でありまするが、子爵は七十歳の御高齢を以ちまして、決して遊覧の旅行では無く、本邦の六大商業会議所の代表者及其他を合せ四十七人の渡米実業団を組織し之を引率して、それの団長として責任多き旅行をせられたのであります、而して第三回は大正四年で、子爵の七十六歳のお年の時でございました、七十歳の御旅行が既に世人を驚かしたのに、七十六歳の御年で以て桑港に開設せられたる巴奈馬運河開通記念世界博覧会の参観を兼ねまして、さうして米国の各地にある親友を訪問して、情意の結合を図らうといふ目的で赴かれたのであります、而して御四回目は、即ち大正十年の御旅行で、子爵が八十二歳のお年の時でございました、子爵は或はこれが海外に於ける最終の旅行であるかも知れぬとまで非常なる御決心で行かれた大旅行でございました、その目的は前三回と略々同じでございまするが、即ち日米親善といふ大きな問題の下に、桑港にありまする日米関係委員会、これは子爵が大正四年旅行せられし際、桑港を中心として其地方の実業家及大学教授等が寄つて組織した、日米間の諸問題を研究して両国の親善に資せんとする会でありました、此会と昨年の夏紐育で子爵の勧誘に依つて組織されたと云つても差支のない日米関係委員会とを歴訪して、種々協議を遂げ、以て大正五年に子爵の主唱に依りて東京に組織せられ、現に子爵が其主宰者の地位にあらるゝ日米関係委員会と将来互に提携して両国の親交を図り、又各市に於ける親友と会見して意見を交換し、而して十一月十一日より開設せらるゝ華府会議に対しても日本国民の一人として何等か貢献したいと云ふ色色の目的を以て出掛けられたのであります、要するに過去幾回かの御旅行は総て日米親交を増進したいと云ふ御希望より出たのでありまするが、前申上げました通りに、子爵には非常な御高齢に在らせるゝ上に、航海が非常に御厭いでいらつしやいますから、御親類や友人等は子爵は天下の国宝である、米国旅行も国家の為めではあるが、斯る旅行をなされ万一御病気にでもなるとそれこそ取返しが付かないからと云うて、非常にお留め致しましたけれども、子爵は日本帝国の為であらば命を棄てゝも惜しくないと、親族或は友人の切なる勧告を謝絶せられて、毎回共非常の御覚悟を以て御旅行せられました次第であります、子爵と米国との関係に就きましては、段々子爵にお話を承り、又御講演などをお聴致しますと、もうズツと昔から、詰り子爵が埼玉県の一隅の御百姓のお子さんに生れてまだ鍬を肩にして居られる時分から、亜米利加といふものは心中に描かれたのでございまするが、それから今日までの米国関係をお話すれば出来ぬこともない、材料もございますけれども、非常に長くなりますから、第二回目の御旅行、即ち明治四十二年の渡米実業団を率ゐて行かれた当時の事より、毎回の御
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旅行に付き大略を申上げることに致します。
 扠四十二年のこの旅行の起りといふのは、その前年の四十一年に日本の五大商業会議所が、米国太平洋沿岸の六大商業会議所の代表者を日本に案内致しましたが、其理由は当時日米の国交が段々危殆に傾いて来る形勢が見えましたので、之れは政府の力にばかり頼つて居ては到底両国の親善を図る訳には行かぬ、国民も亦国民同志で両国の国交を繋がなければならぬといふ所から、太平洋沿岸の商業会議所の連中を案内したのでありまするが、果せる哉、その結果は非常に良い、向ふの者が四十人ばかり日本に参りまして、日本人の真情風俗などを充分に視察して帰りましたので、それが為めに其当時の日米の国交の状況といふものは著しく改まつて来るやうな曙光を認めましたが、その翌年の四十二年には米国太平洋沿岸の聯合商業会議所から答礼の意味を以て、日本の商業会議所議員を招待して来ました、併しその招待には渋沢子爵を団長としたる日本の実業団を組織してといふ条件が附いて参りました、それはその前年向ふの連中が来ました時、子爵に会つていろいろ御意見を承りましたので、国民に依つて日米の国交を繋ぐにはどうしても子爵のお力に頼らなければならぬといふことを亜米利加人が感知した結果でございます、でさういふ事で勧誘が参りましたけれども、子爵は始め甚だ躊躇されました、と申しまするのは、之れは大任である、自分は老年でもあり又英語も不熟練であるから、果して責任が尽さるゝだらうか、寧ろ若手の而して英語に熟達する人に依頼するが当然であると考へられたのであります、所が東京の実業家が打寄りまして種々協議をして、どうしても子爵に起つて戴かなければならぬといふので、其当時の日本銀行総裁高橋子爵・東京府知事千家尊福男・東京商業会議所会頭中野武営氏の三人が総代と致しまして、是非子爵に団長として起つていたゞきたい、幸に承諾せらるゝならば中野会議所会頭も団員に加はりましよう、と切なる勧告がありました折柄日米国交の状況といふものは、明治三十八年頃に学童問題が起りまして、続いて紳士協約が締結せられ、在留の日本移民に対しては段段不利な状態が現出されまするやうな次第でありまして、若し此儘にして行きましたならば、在留移住民は今後どんな惨酷なる取扱を受くるかも知れぬといふ心配が子爵の念頭に起りましたので、これは自分の健康を顧みて居る時機ではない、老年だからと云つて逡巡する時機ではない、進んで起たなければならぬと御三人の勧告を快諾せられましたが、子爵は一死以て国に殉ずるといふ覚悟を以て引受けられたのでございます、この旅行は丁度四ケ月に亘つて、汽車は毎日夜行ばかりを利用致しまして、昼間の時間を惜み、合計六十有余の米国の都会を巡回致されましたが、随行の任に在りし私は比較的若年で壮健でありましたが、到底もうこれ以上随行の任務は尽されないと度々感じた位忙しい旅行でありました、併し子爵は七十歳の御高齢でありながら日米親善といふことに一身を貢献せられて居られますから、其の健康の如何は全く度外視されて、疲労の如き一向に感ぜられないといふやうな御元気を以て、演説も百数十回試みられて、この大旅行を遂行せられました、此団員は四十七人程でございましたが、この位の人数の
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者が旅行すると、途中で仲間割れがしたり、種々障碍が起るものでありまするが、此一行はもう皆各自が日本の国民を代表して居るといふ考を以て事物に接触せられたといふ次第で、実に一糸乱れず整然と致して居りました、其後組織せられた海外旅行の各種団体の状態を見ましても、能くあゝ平和に円満に如此大旅行が行はれたかと不思議に思はるゝ位であります、畢竟するに、これは唯各自が日本国民を代表して居るといふ観念を有するのみならず、子爵といふ人格者を戴いた為めであります、若しもこれが各個の行動を執り、各個の意見を勝手に陳べたならば、外国の事情にも馴れて居ない田舎式の連中が多いのでありますから、それは醜態百出、親善どころの談で無く、却て排日の種を蒔きに行つた様の事となつたのでありましよう、それが斯の如く成功して、如斯米国人の賞讚を得て帰つたといふことは、子爵の如何にも熱心で、如何にも誠実に米人に接せらるゝを親敷見て、子爵が斯くの如くするのであるから吾々も何処迄もやらなければならぬと、斯ういふ風な覚悟を皆一同の者が抱いたから、斯様なる好成績を収めて帰ることが出来たのだと私は深く感じ居るのでございます。



〔参考〕竜門雑誌 第四一〇号・第三七―四〇頁大正一一年七月 側面より見たる青淵先生の米国旅行(二) 増田明六(DK330015k-0021)
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竜門雑誌 第四一〇号・第三七―四〇頁大正一一年七月
    側面より見たる青淵先生の米国旅行(二)
                      増田明六
 此旅行は各国各地の有識者に非常に好感を与へましたが、太平洋沿岸の加州に於ける日本人排斥問題の気勢は、依然として減じなかつたのでございます、これは誠に遺憾なる次第でございまするが、実は此の排日問題が政争の道具に使はるゝのでありますから、中々終息せぬのであります、と申しまするのは在留日本人は総て投票権がありませぬから、野心政治家に取りては一番攻め易い、投票権を持つて居る者を攻めると、自分の投票を得ることが出来ませぬけれども、投票権を持たない者は幾ら攻めても痛痒を感じませんから、攻道具としてこの位い都合の好いものはないのであります、故に彼等は手を替へ品を替へて、日本人の有するあらゆる利権を取上げる方法を講じて、以て投票権を有する亜米利加人の歓心を得るに努むるのであります、彼等は常に曰く、日本人は無一物で来て低級の生活を為し、我々の都市で教育を受けて、今や斯の如き勢力を持つて居るのは怪しからぬ人間である、だからアノ日本人の得て居る利益を取り上げてお前方に遣つたならば、夫れだけ多く利益を得る事となり、お前方は非常に都合の好くなる訳ではないか、故に我々は力を極めて日本人を放逐する策を講ずるのである、代りには俺に投票しろ、斯ういふ風なことを以て一般の米国民を煽動をし、一面には日本人に圧迫を加へて来ました、更に日露戦争が済みまして後、日本人は強い国民である、あゝいふ国民を亜米利加に此儘にして置いては、亜米利加人はどんな目に遭ふかも知れない、といふやうな一種の恐怖心が加はるやうになりまして、益々排日の熱度が烈しくなつて来たといふやうな次第で、大正二年になりまして所謂加州排日土地法といふものが制定せられまして、日本人はそれ以来亜米利加に於て土地を所有することが出来なくなつた計りで無
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く、借地権も三年以上継続して有することは出来ないといふやうな法律が制定せられました、さうしますと、農業にしても果実栽培にしても、三年しか借地が出来ないと云ふことになりますと、手を入れ肥料を施し漸く収穫の多くなる時分になると返地せなければならぬ、特に果実の如きは収穫しやうといふやうな時代になりますと、その土地を取上げられてしまふといふやうな状態になりますから、在加州日本人の農民は生活の安定を得る事が出来なくなる、人間が生活の安定を得る事が出来無くなつた暁は如何為り行くだらうか、とは子爵の非常に心配せられた点であつて、どうか此の法案を通過させないやうにする工夫はないかと種々苦心されまして、この時も或は自身に出張しやうかとまで心の中に描かれたのでありましたけれども、色々内地に於ても用事があられました為めに、添田寿一博士及神谷忠雄の両氏を亜米利加へ派遣して、これが緩和に努めさせたけれども、遺憾ながらこの法案は到頭通過致しました。
 そういふ風な情勢に推進んで参りました所が、丁度大正四年になりまして、先刻申上げました子爵をして渡航せしむるに至た処の世界大博覧会が桑港に開催せられましたので、折柄欧羅巴の大戦争も段々進んで来て居つた次第でございますから、欧羅巴の方からは殆ど博覧会に出品する余裕がないやうな状況でありましたから、亜米利加では東洋諸国から大いに出品させやうとして、日本にも勧誘が来たのであります、所が大正二年に日本人を殆ど加州から駆逐せんばかりの無理なる法律を制定致しましたのでありますから、これは一ツ出品を断つて敵を撃つてやらうといふ位まで、国民の多くは考へて居つたのでありましたが、子爵は之に反して、この時こそ日本人の真意を亜米利加国民に向つて現はす好機会である、この機会を失してはならぬといふので、東京の商業会議所を初め各地の商業会議所へ子爵から協議をしまして、是非此の大博覧会を助けて成功せしめなければならない、これが日米の今まで不良であつた国交を融和せしむる良策であると熱心に説かれました、故に政府及各地商業会議所なども子爵の御意見を尤もと致しまして、進んで日本各方面より出品致しました、之に依りて日本人の真意が亜米利加人に大いに了解されて、加州に於ける排日の気勢は緩みましたが、今迄無かつた紐育を中心として、東部地方に於て排日問題が湧起して来ました、その理由は、亜米利加が欧羅巴戦争に依つて非常に躍進して富を得たといふのでございまして、詰り金の遣り場に窮して、さうして極東に於て大いに仕事をやらうといふ風に傾いて居る、さうして支那の方へ行つて投資しやうと思うて調査して見ると、支那に於ける日本人の事業の根柢が深いのと、支那人が日本人を誹謗して居るのを誤信して、之を見聞のまゝ其是非曲直の調査もせずに米国に通知した、米国の新聞は直に之を登載したものですから、一般に日本人を排斥する様な形勢が東部の方に棚引いて来たのであります、子爵の御心配は容易ならぬものであつて、これを此儘放任して居つたらどんな事に成行くか分らない、加州方面は博覧会の事業を助けたりして漸く融和する形勢にまで漕付けたのであるが、今度は却つて今までなかつた東部に於て、日本反対運動が起つたといふのであり
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ますから、これは何とかしなければならぬといふので、大正四年意を決して第三回目の旅行をせられたのでありまするが、行つて見ますと桑港の方では果して日米人間の意志が大変融和して居りまして、その結果として亜米利加の労働組合には、加入することの出来なかつた日本人が、其労働組合に加入をすることが出来るというやうな特権、特権と云つては訝しうございますけれども、さういふ風に日本労働者が亜米利加の労働者と同資格に認められて来ましたし、又是迄中々行はれなかつた日米人合同の宴会が屡々催ふされまして、一堂に相会して歓談をするといふやうな実に有難い情勢が現はれて来て居りました、乍併東部に行つて見ると、排日熱は中々盛んである、それで子爵は彼の地の有力なる実業家・宗教家・学者等各方面の人々に会見せられ、日本の状態を説明して了解を求められたのでありますが、特に支那に於ける事業には日米協同の利益を主張せられました。今日亜米利加で支那事業に対し、日米提携説を唱ふる有力なる人がありますが、夫れは子爵の意見が因を為したのであります。
 其後加州に於ける排日問題は、斯様にして一時小康を得ましたけれども、矢張り政治家の道具に使はれますので、依然として屏息致しませんのみならず、加州のターロツク地方では、日本人を無理に自働車に満載して放逐すると云ふ様な乱暴の行ひがありましたので、どうも此儘に過して置いては、此先日米の間柄がどんな状態になるか殆ど分らない、誠に忌はしいやうな事柄が起らぬとも限らぬと心配の余り、大正九年一月桑港商業会議所会頭アレキサンダー氏に書を寄せて、どうかお互に日米問題に付き此際十分なる協議を遂げて、何とかこれが緩和の途を講じたいものである、就ては御地の商業会議所の方々が一つ談じ合つて、日本に来て呉れないかと赤誠を披瀝されました、その結果としてアレキサンダー氏は、桑港商業会議所会員及其他同志のもの八・九人と共に、大正九年三月日本へ参りました、それからその年の四月には、更に東部の方のヴアンダーリツプさんに堀越善重郎氏を特に使者に立て、日米親善の必要なることを告げられ、どうか日本に来て日本の国情を察して貰ひたい、さうして自分等と胸襟を開いて意見を交換せられたいと協議をしました所が、これ又喜んで日本へ十四五人の同志の人を連れまして参りました、このヴアンダーリツプ氏一行の人は、今度行つて見ますと、孰れも紐育、及東部都会に於て実力を有し、又信望を荷ふ真に一粒撰りの有力者であつて、あゝいふ人が能く来たものだと、今日から考へると熟々子爵の御誠意に感動した次第であります。



〔参考〕竜門雑誌 第四一一号・第三〇―三九頁大正一一年八月 側面より見たる青淵先生の米国旅行(三) 増田明六(DK330015k-0022)
第33巻 p.359-366 ページ画像

竜門雑誌 第四一一号・第三〇―三九頁大正一一年八月
    側面より見たる青淵先生の米国旅行(三)
                      増田明六
 斯くの如くして、大正九年の三月及四月は斯様な米国東西の有力者に日本に来て貰つて、胸襟を開いて協議を致し、双方一致の意見を以て、日米親善に関する重要の策を両国政府に互に建議する事を決しました処が、亜米利加の方では、其後間もなく政府が更迭した為に、其
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協議の結果が未だ実現するに至つて居りませぬ、所が又玆に困つた出来事が加州に於て起りました、といふのは加州人はどうしても日本人を追出してしまはなければならぬといふので、大正九年の十一月の国会議員の総選挙に際し、国民投票に依つて排日土地法案を通過させやうといふ様な事になつたのでございまするが、これは皆さんも御承知でございませうが、加州の国民全部が投票して、これが可否を決するやり方なのであります、これに依つて決せられたものは、中央政府は勿論誰が何と言ふことは出来ない、愈々亜米利加の野心政治家はさういふ方法を執るに至りました、そこでこの時も子爵は非常に心配致しまして、どうかこれを緩和したいといふので、京都同志社大学の前総長たりし原田助博士――博士は亜米利加に於て学問せられましたので亜米利加には大分友人が多いので――この人を派遣して、さうして日本に好感を持つて居る亜米利加人を始め、或は博士が宗教家で居られますから米国各地の宗教団の力に頼りて、之を阻止し様と十分努めさせたのでございましたが、乍遺憾其通過を阻止するに至りませんでした、此一般投票に依りて決せられた法津は、日本人の有する所有権を全然奪取りました、併し今まで持つて居る土地所有権はその儘持続することが出来るのでありますが、その持つて居る人が、死んでしまふと、その人の子たる日本人には相続せしめることが出来ない、例へば私が土地を持つて居るとしますと、今持つて居るものだけは持続出来るけれども、私が死ねば私の子にそれを相続させることは出来ない、併し亜米利加で生れた子供、それは亜米利加の法津で公然亜米利加人となつて居りますから、その亜米利加で生れた子供ならばそれは相続することが出来るので、日本で生れた子供を連れて行つてもそれには相続させることは出来ないのであります。併しながら亜米利加で生れた子供であつても、これが丁年未満の者であると、後見人を要するのでありますが、日本人たる親は後見をすることが出来なくなつたのであります、即ち後見権を剥奪されてしまつた、処が日本の人で以て亜米利加で子供を持つた人が沢山ございます、けれども其年齢は大きくて十五・六歳位の者でございますから、どうしても後見人がなければならぬ、然るに後見権を剥奪されてしまいましたから、日本人としては仮令亜米利加で生れた子供で、親から譲られた土地を相続することが出来ても、其親がこれを後見することが出来ない、斯ういふどうも惨めな取扱を受けるやうになつてしまつた、其上日本人は土地を所有する土地会社の出資者になることは出来ない、それから借地権の方はどうかと申しますと、今までは三年の間の借地権がありましたけれども、この法律では全然日本人は借地を為すことを得ずといふことに決めてしまつた、即ち日本人は亜米利加に於て農業を営むことが出来ない、それは唯個人ばかりでなく、会社の名義の下に於ても同様であります、それのみならず土地に対する抵当権を設定するといふことを全然日本人は取られてしまつた、土地を抵当として亜米利加人に金を借す、さうすると抵当権を構成してその抵当権が行使される、その土地は金を貸した人の手に入るものであるけれども、日本人はそれをすることが出来ない、斯ういふ風になつて来まして、全然日本人は亜米利
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加に居つても何も意義をなさない一種の国民として扱はれるやうな状態になつてしまつた、其失望落胆名状すべからざる状態であります、加ふるに其年は相当の収穫を得ましたけれども、農産物が非常に下落をして来ました為めに、加州に於ける日本農民の困憊は実に極度に達して、永年資を投じ粒々辛苦して築き上げた土地を捨てゝ帰国するより外無いが、之は到底日本人には耐い難い、此調子を以て進んだら結局如何なるだらうか、或は戦争となるかも知れないが、万一戦争になつたら何うだうか、無責任な人は日米戦争とかいふやうなことを容易く口にして居りますが、一朝戦争になつたら日本の状態はどうなるだらうかといふことは申迄も無き事で、子爵の御心配になつたのも必竟此点と考へられまするので、是れは安閑として看過する訳には行かない、どうしても微力ながら彼地に行つて、有力者と意見の交換をして輿論を喚起し、以て在留日本人の安定を得る方法を講じなければならぬといふ考を持たれて居りましたけれども、御身辺に蝟集せる種々緊要の御用がありましたり、又御自身の御老体なども省みられましたので実は躊躇されたのでありますが、その後華盛頓会議が開かれるといふやうな事になりましたので、此華盛頓会議はどういふ事を協議するだらうか不明であつたけれども、凡そ軍備縮少問題・山東問題等に続いて移民問題等が議題に上されはしないだらうかといふことは心の中でも幾分か楽しみにされたので、この機会には多年日米両国間に蟠る諸問題を根本的に艾除しなければならぬと堅い決心を以て、到頭八十二歳の高齢を以て、第四回の旅行を遂げられました次第であります。
 以上に陳べました事が、子爵が今まで何が故に四回も亜米利加に渡航されたかといふ簡単なる理由でありますが、更に子爵の米国に於ける御行動に付て申上ぐる事に致しますが、この四回の御旅行は、何れも殆ど同一の目的で行かれましたので、稍々同じやうな御行動でありますから、昨年、即ち今から申せば最後の御旅行に就いて申上げることに致します。
 昨年の十月十三日横浜を立たれましたのでありますが、船のお嫌ひな子爵は横浜を解纜せられた其晩からお酔ひで、二・三日は大に辛苦せられ、其間屡々食事を廃されました、併しながら食事は喫られませぬでしたが、読書は少しもお止めにならなかつた、之は子爵のお偉い所であります、船に酔つて殆ど食堂には出られない、人間に必要なる食事を廃されましたけれども本を読むことは少しも廃されなかつた、吾々は酔へば鉢巻をして寝て居るやうな有様ですけれども、子爵は酔はれて居てもちやんと卓に向つて始終読書を廃されなかつたのであります、尤もこれは船に乗つて居る場合であらうと、日本を旅行する汽車内に於ても自動車の中に於かれても、始終同様な御態度で居られます、それから二十二日にホノルヽに到着致しました、子爵のやうな人が旅行されますと、就れの地に着きましても第一に見舞はれますのは新聞及雑誌の記者で、船がホノルヽ港に入りますと、小蒸汽船を走らして一番先に子爵を包囲したのは同地に於ける日米両国の新聞記者で続いて商業会議所の知人とか、或は其他の亜米利加人の御友達、或は向ふに在留して居る日本人が沢山出迎に参りました、而して新聞記者
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には予てから襲はれるものと覚悟して、船の中でスツカリ英文と和文の今度の旅行の宣言書を作つて持つて行きましたから、それを夫々渡しましたけれども、彼等は中々そんな事では満足致しません、やはり子爵を捉へて、さうして目的は分つたけれども、之は表面の目的でまだ何かあるのだらう、華盛頓会議に付ての感想はどうだとか、根掘葉掘子爵を虐めるといふやうな次第で、誠に御気の毒に存じましたけれども、子爵はさういふ連中に対しても、誠に快よく面会してドンドン話をせられましたので、彼等は非常に悦びました、新聞記者の包囲も漸く解けて、それから陸地に上られました、陸地に上ると先づ以て亜米利加人が子爵を案内して参りましたのは、ホノルヽにあります国際基督教青年会館であります。この国際基督教青年会館は建築に就て子爵の尽力が非常に加はつて居るので、単に精神上ばかりではございませぬ、物質上の援助も非常に加はつて居りますから、先づ此処に子爵を御案内したといふやうな次第であります、続いてその会館を一覧した後、歓迎の晩餐会に案内を受けられました、この晩餐会には布哇県の知事を初めとして商業会議所会頭、布哇駐屯軍隊の司令官、及主なる実業家といふやうな、同地に於ける各方面の代表的人物が七十名許り出席しました、此処でさういふ人々と歓談をして、さうして演説もせられまして、其夜十二時、船に帰つて宿泊したのでございます、此際ちよつと附加へて申上げまするのは、子爵がホノルヽに上陸を致しますと、子爵の通過する道筋に兵隊がズツト立つて警戒して居る、実に奇異の感じを致しました、尤も其前船が着くと新聞記者より先に探偵長(此探偵長は此前の旅行で知つて居る人)が乗船して、子爵の身辺に附いて居る、それから上陸すると兵隊がズツと立つて居る、自動車に乗るとやはり探偵長も一緒になつて、子爵の自動車に乗つて行くさうして自動車の前後にはオートバイに乗つた兵隊が附いて行くといふ風でございました、これは不逞鮮人が俳徊して居るといふのに対して、布哇の県知事が特に厚意を以て子爵を護衛して呉れたといふことが後で分りましたのでございます、斯くの如く子爵が亜米利加に対して非常の厚意を尽されて居りまするが、又亜米利加人も子爵に対して好感を持して居る事は、この一例を以て案ずることが出来るかと思ふのでちよつと玆に附加へました。
 斯くして其晩は船に一泊されたのですが、船は二十二日に碇泊して二十三日の朝立つのですから、本当ならば市内のホテルにでも泊る方が宜いのでありますけれども、万一の事があつてはならぬとの官庁の注意で、特に船へ帰つて泊つたのであります、二十三日の朝ホノルヽを辞して二十九日桑港々外に到着致しました、さうするともう予て待構へて居りました商業会議所の会頭を初め、多数の子爵の友人及新聞記者連がランチで以て押掛けて来る、例に依つて先づ新聞記者との応答等がありまして、後に船中で――これは鄭重なる人を遇する一例でございますから申上げますが――歓迎式が行はれました、即ち商業会議所会頭が同会議所を代表して子爵に対し歓迎文を読む、それに対して子爵が答辞を述べられ、それから手を携へて上陸せられたのであります、それからその晩は子爵の為めに商業会議所主催の歓迎晩餐会が
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開かれました、子爵は疲労を慰する遑も無く出席して大演説を行はれました、上陸しまして第一日の此の子爵の御演説は、翌日の同地に於ける各種新聞に現はれましたのは勿論ですが、尚市俄古、更に東海岸の紐育の方までも電信に依つて伝へられて居るやうな次第でございます、それから翌日朝になると、第一に新聞記者が訪問して来る、それから友人が訪問して来る、之等の人々と談話して居るうちに正午になる、正午になると歓迎午餐が待構へて居つて、子爵を自動車に乗せて連れて行つてしまふ、そこで又演説をさせられる、其演説が済んで漸く一服と思ふと、今度はチーパーテイーが手招きをして居るといふ様な状態、又自動車でそこへ行かれる、漸くそれで演説が済んで先づ一休みと思ふと、又其晩の晩餐会が待構へて子爵を連れて行く、さうして晩餐会へ行つて又演説をしなければならぬ、斯くの如くやるのでございますから、日に三遍位の演説は通例なのでございます、而して皆其人が日本でもさうでございますけれども、大概同じ様な顔触でございますから、演説せらるゝ子爵の御苦心は容易ならぬ様に思はれます昼もお茶の時も晩も同じやうな演説をしては、薩張り値打がないといふのでございますが、子爵は偉いものでありまして、三遍ともチヤンと意味ある、さうして異つた演説をされるのでございます。
 斯くして二日間を桑港に送つて、十一月三日子爵は汽車中の人となりました、前日子爵の上陸と演説との報導が各地に伝播して居りますから、停車場毎に歓迎人が必ず出て居るというても宜い位いでございます、殊に日本人は子爵をもう殆ど神様のやうな風に思つて居りますからして、もう十里・二十里の遠方の人が、而も深夜にも拘らず停車場へ来て迎へられる、実に有難い、感心するやうな事が度々ございましたが、子爵はさういふ人々に対しまして、鄭寧に引見して礼を陳べ且訓諭せらるゝのであります、或時などは夜十一時過ぎて十二時頃に或る停車場へ着く、此処にも日本人が来て居るかも知れぬ、さうすると寝てしまつてはその人々に対して甚だお気の毒であると申されて、寝ずに居られましたが、生憎と誰も遅いので出迎に参りませんでした其位に注意されます、さうして日本人が出迎へて居りますと、停車する時間は至つて短かいのですが必ず訓戒を与へられる、亜米利加人に対して信用を得るやうに努めよ、事物に対して誠心誠意を以てせよ、誠心誠意の行に対して反抗するといふのは、それは其人が悪いのでさういふ人は決して其まゝ永く栄えるものでない、諸君はどんな迫害を受けやうが、どんな困難を受けやうが、ただ誠心誠意でやらなければいけないと、大きな声を出して車窓の下に集つて居られる人々に挨拶をされるといふ風にして汽車旅行をつゞけまして、十一月の三日に市俄古に到着を致されました、市俄古に於てもやはり桑港に於けると同じやうなふうに、彼処の亜米利加人の友人や日本人の出迎を受けられホテルへ行く途すがら出迎人中のナシヨナル・バンクの総裁ミッチエル氏並に桑島領事と自動車に同乗して、今回の渡米目的に就て諄々と説かれたのでございます。
 御話が後れましたが、子爵の一行は子爵と添田寿一博士と頭本元貞君と堀越善重郎君との四人でございました、小畑君・穂阪君及私は子
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爵の単なる随行員であつたのでございます、此一行中の添田博士は市俄古より華盛頓に急行して、華盛頓会議の開会せらるゝ前の景況を調べて子爵に報告する任務を取る事になりまして、此日子爵に分れて同地へ急行せられました、三日の夜を市俄古に送りまして、四日になると午前十一時頃原首相の兇変を伺ひました、夫れは米国通信社に無線電信が届いたのであります、子爵外一同愕然と致しまして、直に阪谷男爵を経て弔電を発し、正午市俄古を辞して紐育に向ひ、五日朝同地に到着致されました、不変多数の出迎を受けられて、ホテル・プラザに投宿せられました、其翌六日は日曜日でありましたが、子爵は御疲労を慰せらるゝ事もせず、早朝より市中の教会に出掛けられ、米人の説教をお聴きになり、又其司会者の希望に拠りて演説を試みられました、子爵は宗教家ではありませぬが、平常夫等の人々の事業を援助せられて居りますから、非常の好感を以て斯く歓迎せらるゝ次第であります、此間にも華盛頓に先発した添田博士からは、会議の状況を偵察したる電報が不絶参りましたが、其議題は如何のものであるか更に分らない、山東問題も出るだらうし、軍備縮小問題等も出るだらうが、孰れにしても其問題が日本に対して都合の好いものであれば安心なれど、若し都合の悪い様な議題であると云ふと、どうしても日米の国交に影響を来すことになりはしないだらうかという事は子爵の大に心配せられたのでございますが、之より先新聞紙などでは、此度の華盛頓会議は英米が一緒になつて、日本を窮地に陥れやうといふやうな一種の計略では無からうか、さうして若し華盛頓会議が都合好く運ばなかつたならば、これは日本が頑張つて居る為にこの会議が成立しなかつたと、其責任を日本に負はしめて、日本を世界の怨府にしやうといふやうな風な計画であると迄臆測して居りました位で、子爵と致しましては、仮令それは新聞紙の臆測の如くで無いにしましても、若し此会議が都合好く運ばないやうな場合があつたならば、欧洲大戦以来世界から敬遠されて居る情勢であるから、結果はさう云ふ風な手にならぬとも限らないと非常に心配をされまして、六日の日曜の御勤めとその晩行はれた晩餐会を終つてから、十一時に汽車に乗つて華盛頓へ急行され、七日の朝華盛頓へ到着をして、ホテルへ着くや否や、直に日本の全権大使を訪問されました、けれども実は全権の方にもどういふ問題が提出されるかといふことは更に分らないので、若し斯う云ふ問題が提議されたならば斯う云ふ風にやつて戴きたい、といふ意見を全権に忌憚なく申述べられたといふことでございます、私はお供をいたしませなんだから、どう云ふことを仰しやつたかといふことは詳しく知りませぬけれども、どこまでも日米親善といふことを根柢に置いた御意見であつたそうでございます。
 子爵は其日は斯くの如くして暮らし、翌八日に大統領に謁見されました、子爵は渡米の度毎に大統領には謁見されて居りますので、明治三十五年にはルーズベルト氏に、四十二年に渡米されました時にはタフト大統領に、又大正四年の御旅行の時にはウヰルソン大統領に謁見されました、而して今度はハーデイング大統領に謁見せられたのでありますが、大統領はもう子爵の顔を見ますると之れが初対面であるに
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も拘らず、殆ど旧知の如く応対したと云ふことでございます、といふのはハーデイング氏がまだ大統領になる以前から、既に渋沢子爵といふものを知つて下さつて居るからでありますので、斯くの如く渋沢子爵といふ名前は亜米利加人間に実に能く知られて居るのであります、さうして華盛頓に於きましては、斯くの如くして日本全権には忌憚なく意見を申し述べ、又大統領にも謁見をされましたが、尚出来得るだけ多くの人に面会をせられんとして、丁度折柄議会も開会中でございますので、議員特に太平洋沿岸から選出せられた議員を歴訪して、日米親善の必要なることを説かれて、九日に紐育へ再び帰つて参りました、紐育には丁度十一月五日から十二月三日まで滞在されましたのでありますが、只今申上げましたその間二日間は華盛頓に日を送り、それから又二日間をロチエスター、尚ほもう二日間をピツツバークに送りまして、而して十二月三日お暇しましたのでございますが、紐育滞在中に於きまして、殆ど有りと有らゆる政治家・学者・宗教家・事業家・新聞記者・雑誌記者に面会し意見を交換せられました、子爵が如斯熱心に多方面の人々と相会して日米親善を説かれますのは、詰り東洋の平和は日米が親善でなければどうしても行けない、若し日米が不和であつたら到底東洋の平和を維持することは出来ない、否、東洋の平和でなく将来に於ては世界平和は東洋に於ては日本がその中心にならなければならぬ、西洋は亜米利加が其中心にならなければならぬといふことが子爵の堅い御意見でありますので、どうしてもこの両国が提携をして先に立つて行かなければ、世界の平和は期し難いと云ふ御主張であります、でございますから総ての会合に於きましても、又個人の対談の場合でありましても、常に此意見を以てシンミリと、実に至誠を籠めたお話をされましたのであります、子爵は決して政治家の為す如き人気取場当り的一時的の演説は致しません、自身の云はれた事は自身に於て実行できる事を申さるゝのであります。
 子爵の紐育滞在中に子爵が東京出発前種々尽力の上成立せしめられた訪英実業団が到着を致しました、所が其団長たる団琢磨氏は嘗て米国に学ばれたので、亜米利加人中には知人多く著名ではありますけれど、子爵が亜米利加人に知られて居る如く知られて居りませぬので、亜米利加人の方では子爵の一行と団さんの一行とが紐育へ同時に落着いたのでありますから、成るべくこれを同時に歓迎致したいと企てたのでございます、けれどもこれを子爵は避けられました、丁度訪英団が紐育に到着すると子爵はビツツバークへ参り、続いてロチヱスターへ参りまして訪英団の紐育滞在中一緒になるを可成避けられたのであります、それは何故かと申しますと、若し訪英団と子爵の一行とが一緒になつて歓迎を受ける様になると、子爵の方が主になつてしまつて団さん一行の歓迎が従たるものになりはしないだらうか、さうすると甚だ訪英団諸君に対してお気の毒の事である、況んや其団体は子爵の尽力に依つて組織せられたものなるに於てをや、此の子爵の謙譲の御行為は御互に深く記憶すべき事だらうと思ひます。
 子爵の米国人に日本人の厚意を示さんとする御行動は、有らゆる方法に因りて顕はれて居りますが、紐育で絹業協会の会長のステリー氏
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に面会されました、紐育は御承知の通り日本の生糸界の大得意様でありまするが、主として日本の生糸を輸入致して居ります絹業協会会長ステリー氏に会談されまして、種々日本の生糸に関する談話を致しましたが、同氏は目下生糸が他の商品に比し著るしく高価なるは横浜の帝蚕会社が其所蔵品を売出さゞるにあるを以て、此際子爵に之を売出す事を勧告せられたいとの意見を出しました、子爵は之を道理ある希望と賛成して遥に電報を同社に寄せて勧告致しました、帝蚕も子爵の勧告に同意して之を売出しまして相当の利益を収められましたが、此子爵の御行為は絹業協会員に将来の日本生糸取引に関して非常の好感を与へた次第であります。



〔参考〕竜門雑誌 第四一二号・第三六―四〇頁大正一一年九月 側面より見たる青淵先生の米国旅行(四) 増田明六(DK330015k-0023)
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竜門雑誌 第四一二号・第三六―四〇頁大正一一年九月
    側面より見たる青淵先生の米国旅行(四)
                      増田明六
 紐育に於ける子爵の御行動に関する御話は此位に止めまして、次にロチエスターに於ける御行動を簡単に申陳べます、同地に参られたのは、世界に有名なるコダック写真機製造会社の持主たるイーストマン氏から招かれて、其お客になつて其邸へ泊られました、子爵はこの人との面会はこれが二回目でありますが、一日二夜始終一緒に居て談話されましたが、日本人の米国に対する真意は克く了解された事と思ひます。
 次ぎはピツツバークに於ける御行動です、是れは同地の有名なる缶詰会社の社長たるハインヅ氏の御招きに応じて、其御客となつて其邸に宿泊せられましたが、実の処子爵は此ハインヅ氏とは四十二年に面談された丈けで余り懇意ではありません、併し其父君たる故ハインヅ氏とは非常に親密に交際せられました間柄でありまして、現代ハインヅ氏は常に故親父より、子爵の人為《ひととなり》、及人格の高いことを聞いて居りまするので、どうか充分に御話をして見たいから是非泊りに来て呉れと子爵に書を寄せられたのであります、素よりお父さんとは非常に親交の間柄でありますから、喜んで泊りに参つた訳でありますが、心置き無く一日一夜を同氏始め同地有力者と歓談に送りました次第であります。
 それから費府にワナメーカーさんを訪ねられました、此の御方は御承知の通りデパートメント・ストーアの元祖と言はれて居る人で、同地又紐育に三越の五倍もあらうかと思ふやうな、大きなデパートメント・ストーアを経営して居られます、この人と子爵との関係は誠に面白いので、とても一朝一夕でお話が尽されない位面白い御話があります、其中の一を申上げますると、大正四年に旅行をされました時に、子爵は初めてこのワナメーカーさんに面会をされました、その時ワナメーカーさんは、日本人は可愛らしい国民であるが、併し感心に進歩して居る国民だといふ位の感じを以て、子爵に対されたのでありますが、其子爵と段々話をされて見ると、氏は斯ういふ公平な而して道徳の高き偉い人が日本に居るのかと云つて非常に驚かれまして、爾来殆ど肝胆相照して今日になり来つたといふ風の間柄でございます、その
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子爵がこの度同氏の客となつて訪ねたのでありますから、その歓は実に一方ならざるものでありました、其光景を簡単に申上げますと、子爵はワナメーカーさんのストーアの一室に同氏を訪ねますと、今年八十六歳の同氏は、子爵がドーアを開けて入るといふと、子爵を抱へまして――向ふの人は脊が高い、子爵は脊が低い、脊の高い人が脊の低い人を抱へて、抱いてしまつて涙を流して居る、さうして一言も発せられぬ、見て居る私共も目に涙を持ちましたのであります、それは東洋から遥々許し合つてる親友が久し振に訪ねて呉れた嬉し泣きに泣いたといふ次第でありまして、稍々暫くして漸く放して初めて挨拶するといふやうな情の籠りました一場の光景がそこに現はされました、其夜はワナメーカー氏の私邸で、同邸の最も親密なる間柄の人々のみの晩餐会が催されました後、他の人は皆退散しましたが、子爵と同氏とのみは互に手を取り合ふて深更迄語りました、其翌日は日曜日でありますので、相携へて同氏の主宰する日曜学校に至りました、其生徒千数百人の集りに於て、子爵に演説を請ひました後、其席に於て同氏は子爵に向ひ君は孔子教を奉じて居らるゝが、孔子教は東洋に限られて居る、我々の奉ずる基督教は全世界を通じて偉大なる功徳を人類に与へて居る、故に君も此席に於てどうか基督教徒になつて、俺と一緒に仕事をして呉れないか、お前が其心で基督教徒になつたならば、実にお前の功績といふものは偉大なるものが現はれるからして、私はお前の為めではないのだ、全世界の為めにお前に基督教徒になれといふことを口を極めて勧めたいのだと勧誘を試みた、子爵も殆どそれに対して御答に困つて居るやうでございました、さうして有らゆる方法を以て子爵を基督教徒に帰依させやうと思ひまして、或はバイブルの一節を読みましたり、或は勧誘の演説をせられました、併しワナメーカー氏の精神は、所謂自分の田に水を引かうといふのではなく、前申せし如く子爵の如き偉い人を此儘にして措いてはいかぬ、まだより以上働かせなければならぬ、といふ子爵に対する謂はゞ非常に親切なる心から出たのであります、斯の如き熱心なる勧誘に対しての子爵の御答は如何あらうかと、私共も非常に興味を以て拝聴した様な次第でございましたが、子爵はもう孔子教を以て一生を奉ずる積りであるから、此老年になつて基督教になるといふことは偽善である、要するに基督教の教義に於ても、孔子教の教義に於ても、私は精神は同一だと思ふからして、今更此処であなたの勧誘に従つて基督教に帰依する必要はないと思ふから、折角切なる御勧誘であるけれどもお断りする、と答へられました、それでワナメーカーさんも到頭子爵を基督教に引入れる事に成功せられなかつたのでありますが、ワナメーカー氏の如き有力なる人が斯くの如き情意を以て子爵を遇せられたといふことは、畢竟子爵の精神に感ぜられた結果かと思ふのであります、其翌日子爵がヒラデルフイヤを辞去せらるゝ時、ワナメーカーさんは特に自分の秘書役を遣しまして、子爵に記念の為め二年掛つて漸く出来上つたといふ実に見事な精巧なる懐中時計を寄贈せられました、実はもう一度遇つて自分から上げたいのだけれども、病気のため不得止使を以て上げるから悪しからず受取つて呉れ、と云つて寄贈せられたのであります。
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 ヒラデルフイヤは斯くの如く過しまして、十二月五日華盛頓へ参りました、華盛頓の方では大統領には前回参りました時に面会されましたから、今度参りました時には勿論日本の全権にもお目に懸りましたけれども、主として政府の各大臣に面会をされましてございますが、華盛頓に根拠を持つて居ります亜米利加の労働組合聯合会の総裁ゴンパース氏にも面談されました、子爵とこの総裁との間には面白い話がある、これは矢張り大正四年の出来事に溯つて申上げるのでありますが、その時の旅行にゴンパース氏に子爵から訪問したいといふことを或人の紹介で申込んだ、所が向ふでは渋沢の名前は予てから承知して居りましたから、どうも東洋の大金持の渋沢が来て会ひたいと言つて来た、併ながら資本家は我輩の敵である、斯くの如き東洋の大金持が来て何と云ふだらうか、これは一つ面白いから会つて見やう、どんなことを言ひ出すか、どんな態度を以て労働者に対して挨拶をするか、といふ一種の好奇心を以て子爵を迎へたといふことでございます、さうして子爵と或場所を期して面会を致しました所が、ゴンパース氏が初め懐いて居りましたのと丸で違ひまして、実にその労働者に対する子爵の態度といふものは実に恭謙である、さうして子爵の段々と話す意見は、たゞ資本家としてばかりでなく労働者に対して非常に同情のある意見を持つて居られたので、ゴンパース氏すつかり感心してしまひました、其際子爵は同じ労働組合同盟の加州にある領袖シヤーレンバーク氏にも面談されました、子爵には此ゴンパース氏を今回も訪ねまして、遠く太平洋沿岸に於ける日本の移住民の事に就て色々その人の意見を聴き、自分の意見も話されたやうな次第でございます。
 斯くして華盛頓の運動を終りまして十二月十一日に立つて同十七日ローサンゼルスへ参つて、玆処より太平洋沿岸に於ける行動に着手されました、前に米国に上陸の際、桑港に漸く二日滞在し、而もお客攻めで逃げ出したといふ有様でありましたが、此度は日本人の在留する重なる地方は悉く訪問して、其地に於ける代表的米人に会見し、特に排日主張者に会見を申込み、且日本人を慰問しやうといふので、先づローサンゼルスに参りましたのである、同地は加州の南部の一都会でありますが、日本人が随分居るのであります、それから其処に於て一週間を送り、それから桑港を通過して次に西北部のシヤトル、ポートランド地方に至り、その地方に於ける有力なる米人及邦人を訪問致して、再度桑港に至り、同地を中心としてフレスノ、サクラメント、スタクトン其他の日本人の集合居住せる地方を一々訪問して、桑港を一月十日に船に乗つて布哇に参りました、炎天の折柄にも拘らず、老体を提げられまして三日間を、或は日本人の従事して居る所のパイナツプル又は砂糖の耕地の視察に参りまして、それに従事して居る日本人に対し一場の訓示を与へ、或は日本人を使つて居る社長其他の幹部と会食をして意見を闘はしたり、或はホノルヽに於いて県知事を始め有力なる米人並に代表的邦人と会して、同地に於ける邦人労働者の排斥防止に尽力せられました、如此して此旅行は在船中の日数を除きましまして、在米の日数は七十八日間で、この間に宴会其他会合の数は九十一回、演説は八十一回せられました、斯の如き短かい日数で斯の如
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く働かれたのでございますから、日夜の御多忙は到底尋常一様の事ではありません、どういふ風にして日々を送られたかと申上げますと、毎日朝六時半には必ず起きられて、直ちに入浴せられる、さうして九時迄には必ず朝食を済まし応接室へ出でられ、入り代はり来る来訪者に面談して居る間に、予て招かれて居る午餐の時刻に差迫る、紐育の市内では自働車が実に緩い《のろ》のであります、といふのは余り数が多く、後の奴が先の奴を追抜く訳に行かない、先の奴が行かなければ後のは進めない状態でありますから、実は自働車は余り速くない、地下電車が一番速いのであります、でありますからちよつと十町位の距離の場所で午餐の会合があるというても、其処へ行くのにはどうしても一時間前に出掛けなければキチンとした時間に到着出来ないやうな不便があります、故に正午の午餐には十一時に出発しなければならぬ、さうして午餐会に臨む、臨めば必ず演説をやる、演説を漸く終つた頃になると所謂レセプシヨン、或はテイー・パーテイーに出席しなければならぬ、さうしてそれを終へて帰つて来ると、今度は晩餐会に出席しなければならぬ、晩餐会には必ず燕尾服に改めますから、一遍ホテルに帰られてから之に臨まれると、食後少くとも五六人位演説がある、子爵は最後に演説をせられるのでありますが、之等演説の時間は凡そ三時間位を要しますから、終つてホテルへ帰つて参ります時刻は十二時であります、さうして直ぐお寝みになるかといふと中々寝みませぬ、それからその日の日記を書く、これに三十分か一時間費される、さうすると寝る時間は大概一時前後になつてしまひます、或時は十二時から会議を開いたこともあります、これは時間がないから、拠所なく翌日の事に付てその晩の中に意見を一致して置かなければならぬといふので、十二時から会議を開いて二時になつたやうなこともある位であります。
 斯くの如く子爵は勉強せられまして、この旅行を了られたのでございますが、それと申すのも全く日本帝国を憂ふる一心から出でられましたので、我々国民は深く感銘しなければならぬ次第であります、子爵の此御旅行の効果は必ず近き将来に於て、種々の方法を以て、日米国交親善の上に顕はるゝ事と堅く信じて居るのでございます。
 どうも大変長話を致しまして、小畑さんにお話をして戴く時間を減じまして何とも申訳がございませぬ、御清聴を煩はした諸君に謝すると共に、小畑君に謹謝致します。(拍手喝采)