デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
2節 米国加州日本移民排斥問題
3款 日米関係委員会
■綱文

第35巻 p.90-93(DK350020k) ページ画像

昭和3年9月13日(1928年)

是日、当委員会主催アメリカ合衆国駐箚特命全権大使出淵勝次送別晩餐会、丸ノ内東京銀行倶楽部ニ開カレ、栄一出席ス。ナホ開会ニ先立ツテ小委員会ヲ開ク。


■資料

日米関係委員会往復書類 (二)(DK350020k-0001)
第35巻 p.90 ページ画像

日米関係委員会往復書類 (二)      (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、益御清適賀上候、然ば新任米国駐箚大使出淵勝次氏不日赴任致され候に付、来九月十三日(木)午後六時丸之内永楽町東京銀行倶楽部に於て同氏の送別晩餐会相開き、席上日米問題に付御懇談相願度と存候間、何卒万障御差繰の上御来会被成下度、此段御案内申上候 敬具
  昭和三年八月三十日
                日米関係委員会
                 常務委員 渋沢栄一
                 同    藤山雷太
    一般会員・少数委員・陪賓宛殿
  尚々当日は御平服に願上候、御諾否折返し御回示被下度候

 - 第35巻 p.91 -ページ画像 

日米関係委員会集会記事摘要(DK350020k-0002)
第35巻 p.91-93 ページ画像

日米関係委員会集会記事摘要        (渋沢子爵家所蔵)
 昭和三年九月十三日午後六時、於東京銀行倶楽部、出淵駐米大使送別晩餐会
 出席者
  来賓 出淵大使・田中外務大臣・森政務次官・武富通商局長
  会員 鈴木島吉氏・服部金太郎氏・堀越善重郎氏・大谷嘉兵衛氏 団琢磨氏・添田寿一氏・頭本元貞氏・串田万蔵氏・山田三良氏・姉崎正治氏・浅野総一郎氏・阪谷男爵・渋沢子爵・白仁武氏・森村男爵
  幹事 服部文四郎氏・増田明六氏・小畑久五郎
    懇談概要
渋沢子爵 此度愈々御赴任の由を承りましたので御送別の意を兼ね、従来日米親善に努力致して居ります所から、日米関係委員会の成立及び沿革に就き一応御了解を得て置きたいと存じましたので、御多用の処御出でを願ひました次第で御座います。
 小村侯爵が外務大臣であられた頃でありましたが、大臣は国民外交の必要を説かれました。其結果明治四十一・二年に於ける日米両国の実業訪問団が組織せられ、先づ第一に米国太平洋沿岸に於ける商業会議所の代表者が日本を訪問し、次ぎに日本の実業団が米国を訪問する事となつたのであります。
 大正二年に加州に土地法が布かれる事になりましたが、之れは加州在留同胞に大打撃を加へるものでありましたので、之れに対抗せんが為め、日米同志会を組織し、添田寿一氏及び神谷忠雄氏を派遣して之れが阻止に努めました。其後加州に於ける所謂職業排日家例へばハイラム・ジヨンソン氏。フエラン氏。インマン氏。シヤーレンバーグ氏。マクラツチー氏等の如き人々が気勢を上げて、益日本移民を加州より駆逐せようと努めたのであります。
 大正四年には桑港にパナマ開通記念博覧会が開かれ、日本からも出品することとなりました。其際実業家代表の意味で私が同会に出席することになりました。桑港の商業会議所の会頭はウオレス・エムアレキサンダー氏でありまして、一日私は会議所の招待を受け一場の演説を致しましたのが因をなしまして、同会議所内に米日関係委員会を組織し、同様の団体を日本にも組織することゝなつたのであります。東京に於ける現日米関係委員会の成立しましたのは大正五年二月で御座います。加州に於ける排日熱は年々熾烈になるばかりで、大正九年の秋には加州に人民投票を行つて、日本人を加州の農業地より全然排除する法案が提出されるとの噂さが春から専ら立つたのであります。其処で、日米関係委員会が主唱者となり米賓歓迎会を組織し、西部よりアレキサンダー氏の一行、東部よりヴアンダーリツプ氏の一行を迎へ殆んど聯続的に日米非公式協議会を開く事になつたのであります。右両協議会に於て決議しました重要の問題は両国の政府側より聯合高等委員会を設置することを両政府に建議するといふ事でありました。然し此提案は長い間行悩みの状態にあ
 - 第35巻 p.92 -ページ画像 
りましたが、日本政府では米国が発議するならば同意すべしといふ所まで漕ぎ付けました。けれども米国政府は終に此提案を採用するに至りませんでした。其内に彼の一千九百二十四年の排日移民法が米国議会を通過しましたが、此移民法の如何なるものであるかは各位の御承知の通りで御座います。此移民法はドーシテモ改正して貰はねばなりませぬ。米国の有力者中にも之れを主張する人々が少くないから、何れ早晩改正の機運が向ひて来るであらうと信じますが大使閣下に対しては是非此方面に御尽力を御願ひ致し度いのであります。
阪谷男爵 出淵大使は、日米関係委員会には御親みの深い方であります。本会に関する御話は渋沢子爵が十分に御述べになりましたから別に申上ぐる事もありませんが、唯一言附け加へて置き度い事は、此移民問題が過去の問題と思はれる事であります、然し吾々日本人に取つては之れは決して過去の問題ではなく、現実のものであります。此点は是非大使に御含みを願つて置き度いのであります。而して機会ある毎に之れを米国の有力者に警告して欲いのであります。実は此際出淵大使に東京を去らるゝは遺憾な事でありますが、ワシントン首府にも同大使に居つて戴きたいのであります。外務省には多士済々といふ訳けであるから、どちらかといへば大使のワシントン駐在は邦家の為めに祝すべき事と思ひまして、私は大使の御赴任を衷心より歓ぶものであります。
添田氏 排日移民法に就ては国民挙つて改正を希望して居ります。日米関係委員会は国民に対して、過激な挙動に出でしめない様に努めて居るから、此問題に関しては沈静を守つて居るのですが、心の底に於ては抑ヘ難き不満を以て充たされて居るのであります。過去二十有余年来渾身を込めて日米親善を唱道せらるゝ老子爵は此移民法の改正を見ぬ内は死んでも死に切れぬとの痛烈なる不満を抱いて居らるゝ事を大使閣下が御記憶下さる事を願ひ度いのであります。
渋沢子爵 今は故人になりましたが、ボストンのヱリオツト博士に移民法に関するステートメントを送りました時、博士は私の意見に厚き同意を表して長い書面を送つて呉れましたが、其内に日本婦人の地位を高める必要がありはしまいかとの意を漏らされました。国と国とが対等に交際をするには、其国々の婦人も教育の程度、社会の地位に於いて平等に交際する様に出来て居らねばならぬといはれました。私は之れには大に感じました。又私などは及ばずながら、日本婦人の地位を高める為めに尽力致して居る積りであります。婦人の教養はトテモ亜米利加の夫れには比較にはなりますまいが、遣つて居るといふことは大使も実地御覧の通りと存じます。此点に就ても機会が御座いましたならば、米国人に御知らせを願い度いのであります。
出淵大使 阪谷男爵より、過分の御言葉を頂戴しまして恐縮に存じます。私は一蓮托生の意味で、家族全体を引き纏めて参ります。伜は中学五年、娘は高等女学校の二年生で御座います。私は及ばずながら最善を尽す積りであります。松平大使との会見に於て、種々学び
 - 第35巻 p.93 -ページ画像 
ました。国会議員等の態度も頗る宜ろしい、民間の空気も好都合と思はれます。排日紙として歌はれて居つたシカゴ・ツリビユーン紙などが、排日移民法を改正して日本にコータ法を応用せよと申して居ります。移民問題は米国内部でも中々反対者が多いのですが、外部には余り出さないのであります。兎に角随時此移民法に対して不平を漏らす事がよろしいと思ひます。然し急いでは仕損ずる恐があると思ひます。此問題は決して忘れません。子爵の御尽力の程も決して忘れません。私は今余り語つた所で空手券を発行する様なもので効能が無いと思ひますから、先つ実績を挙げる事に努力しやうと思ひます。
 終りに渋沢子爵を始め日米関係委員諸君に厚く御礼申上げます。
姉崎博士 高等委員を組織する事は有害無効であると思ひますから玆に一言申上げて置き度いと存じます。


集会日時通知表 昭和三年(DK350020k-0003)
第35巻 p.93 ページ画像

集会日時通知表 昭和三年         (渋沢子爵家所蔵)
九月十三日 木 午後四時半ヨリ小委員会アリ
        午後六時 日米関係委員会催、出淵駐米大使送別会
             (銀行クラブ)