デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
2節 米国加州日本移民排斥問題
3款 日米関係委員会
■綱文

第35巻 p.127-132(DK350029k) ページ画像

昭和4年6月11日(1929年)

是日、当委員会、小委員会ヲ丸ノ内渋沢事務所ニ開キ、安部清蔵・佐藤定吉及ビ山室軍平等ヲ招キテ、アメリカ合衆国出生日本人問題ニ付キ協議ス。

栄一出席ス。


■資料

日米関係委員会往復書類(二)(DK350029k-0001)
第35巻 p.127-128 ページ画像

日米関係委員会往復書類(二)       (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、益御清適賀上候、然ば過去十年間米国シヤトル市を中心として太平洋沿岸に於ける同胞の為に尽瘁せられ居候安部清蔵氏、並に最近米国視察を了て帰朝せられたる理学博士佐藤定吉氏及日本救世軍の山室軍平氏より、日系米人の将来に関し種々調査の結果を報告致度旨申出有之候に付、此際小数の委員各位と共に三氏の報告を聴取致度と存候間、御繁用中恐縮ながら来十一日(火)午後二時半麹町区丸ノ内一
 - 第35巻 p.128 -ページ画像 
丁目仲廿八号館渋沢事務所へ尊来被成下度、此段御案内申上候 敬具
  昭和四年六月七日
                日米関係委員会
                 常務委員 渋沢栄一
                 同    藤山雷太
    子爵 渋沢栄一殿
  尚同日御参会相願置候方々は団男・堀越氏・井上氏・串田氏・森村男・阪谷男・添田氏・内田氏・頭本氏に御座候
  乍御手数御諾否御回示願上候


日米関係委員会集会記事摘要(DK350029k-0002)
第35巻 p.128-130 ページ画像

日米関係委員会集会記事摘要        (渋沢子爵家所蔵)
 昭和四年六月十一日(火)午後二時半、於渋沢事務所、日米関係委員会小委員会開催(日系米人即ち第二世問題研究)
 出席者
    安部清蔵氏。佐藤定吉理学博士。山室軍平氏。森田氏。《(宗馬氏)》
  会員 阪谷男爵。内田氏。頭本氏。渋沢子爵。藤山氏。
  幹事 小畑
    記事概要
渋沢子爵 子爵は日米関係委員会の起源並沿革に関し語らる。即ち小村外務大臣の慫慂により国民外交団を組織し、始めに日本側より米国人実業家の団体を招待し(明治四十一年)、次きに翌年米国側より招待を受けて渡米実業団を組織して米国を訪問せし事、大正四年パナマ開通記念博覧会が桑港に開催せられし時、子爵は日本の実業家を代表して参列せられ、此旅行に於て現在の日米関係委員会を組織すべき動機に接せられし事、其他一千九百廿四年の排日移民法改正に努力せられし事等を詳述して安部氏等の参考に供せらる。其れより諸氏交々談話せらる。
安部氏 氏は今回子爵が此会合を開催せられし事を深謝して左の如く語らる。シヤトルを中心として十年間太平洋沿岸及及ハワイなどを数回巡回しました。アメリカの教育は所謂「十割の米国人」を養成せんとして居るのであります。従つて日系米人たる第二世は立派な教育を受けて居ります。然し第二世は米国の教育を受ければ受ける程彼等の影が薄くなります。之れは彼等の親達が無教育である為めに、日本の真相を知り得ないのと同時に他の一方では白人に事業的に社交的に除外されて居るからであります。其処で私は幻灯などを用ゐて彼等に日本の文化を示しました。一年前白人の組合教会大会に於て第二世の啓発の必要を説いた所が大に賛成せられました。其賛成の理由は祖国の事情を知らないものは、現住国にも役に立たないから祖国に関する教育を与へる事が必要であるといふのである。而して此大会に於ては即座に金五百弗の寄附を得る事が出来たのであります。之れに対して日本の組合教会は一千円を寄附する事になつて居りますが、以上はホンの一時的のものであります。ドーシテも第二世の為めに日本文化博物館の様なものを設備する必要があると思ひます。米国の東部にはこういつた様なものがありますが、西
 - 第35巻 p.129 -ページ画像 
部には無いのであります。
頭本氏 高等教育を受けても、第二世は社会的に除外されて居ります又就職難に悩まされて居ります。
内田氏 シヤトル市には有権者が幾人程ありますか。
安部氏 シヤトルには五十人程。ハワイには一千人、太平洋沿岸には一千人程と思つて居ります。第二世全体としてはハワイ在住者を含んで十万人もあらうと思ひます。
佐藤定吉氏 第二世今後の教育方針に就て、私にも言はして戴き度いと思ひます。私は今回三度目の太平洋沿岸旅行を致しました。第二世の学生に接触して大に感じた事があります。一九二六年の太平洋問題調査会大会に参列し、其足で太平洋沿岸を旅行しました。今回も同じ所を巡歴しました。私の決論はかうであります。第一は彼等は同化し切れないといふ事。第二は受けるものがあつても与へるものが無いといふ事であります。其処で与へ得る点にまで彼等を導く必要があります。今は第二世が危機に頻して居る時であると思ひます。此処五六年間に於ける梶の取方が大切であります。第二世は白人に較べれば体力に於ては負けるが、脳力に於ては決して劣つて居らないと思ひます。小学校・中学校・専門学校及大学等に於て此事実が証明されて居ります。第二世の指導者たるものは二つの事柄を記憶する必要があります。其一つは第二世に対して米国人の要求するものを与へること、モー一つは日本に関する知識を小学校時代から与へる事であります。米国人は東洋の文化を学ぼうとする心を抱く様になりました。故に第二世に真に日本を知らすれば能い通訳者になります。太平洋沿岸第二世の有数者を選抜して日本に送り、日本の教養を受けしめ、後彼等をして在留同胞を教育せしめる事が良好の策であると思ひます。今日の悩みは指導者を得る事の難事であります。第二世は幼稚の時代から目に依る教育即ち博物館の様なものを設立して、彼等に日本文化の如何なるものなるかを知らしめる必要があると思ひます。
山室氏 十年前に我が救世軍の小林政助氏が加州へ参りました。御蔭で成功しました。社会事業の方面から見ても成功して居ります。欧洲戦争中救世軍のなした働きを見て感激した桑港の或る屋主が、救世軍に一つの建物を六ケ月間無賃で貸して呉れ、若し六ケ月以内に何等かの必要あつて其家の空け渡しを請求する時は、壱千弗の賠償金を支払ふべしといふのである。六ケ月は無事に経過しましたが、其後は月額五拾弗の家賃を支払ふといふので、円で無賃借りの様なものでありましたが、終に非常な安価で買受ける事になりました。此家を中心として種々なる社会事業を経営して居ります。日本人の第一世は老境に這入りつゝあります。其内には故国に帰る者もありませうが、大部分は留る者と思ひます。其所で養老所の設置が起つて、不完全ながら経営して居ります。又育児所の設備もあります。私は安部・佐藤両氏の意見に心から賛成するもので御座います。第二世の指導等に関しては別に意見は御座いませんです。
頭本氏 加州に於ける日本救世軍は日本救世軍の管轄に属しますか。
 - 第35巻 p.130 -ページ画像 
山室氏 形式上米国の救世軍に属して居ります。
安部氏 山室氏・佐藤氏等の訪問は在留同胞に取り、大なる力であり又慰藉であります。
井上氏 海外移民の奨励は、其子孫の教育に深き注意を払ふ事にあります。若し此方面を閑却するならば、将来の移民は本国を恨む様になると思ひます。シンガポール辺で子供が三人あればトテモ貯蓄などは出来ないといふ事であります。其処で第二世は経済上ドーなるでせうか。
安部氏 経済力は一般米国人に劣らないと思ひます。仮令へば暑中休暇を利用して金を作り、之れを一年間の学資に充てる事が困難でありませんです。
佐藤氏 私は三年前には悲観論者でありましたが、今回は異つた考を抱きました。指導の宜敷を得ば彼等に向上心を鼓吹する事が出来ます。
内田氏 第二世・第三世までは中々困難な問題を引起しませう。然し追々同化性を発揮するに至ると思ひます。台湾にも其様な例があります。高等教育を受けた者程就職難に悩まされて居る様ですが、特に此例が米国の第二世に宛てはまると思ひます。
                          以上



〔参考〕(神谷忠雄)書翰 渋沢栄一宛 (昭和四年四月六日)(DK350029k-0003)
第35巻 p.130-131 ページ画像

(神谷忠雄)書翰  渋沢栄一宛 (昭和四年四月六日)
                      (渋沢子爵家所蔵)
                      (別筆)
                       四月卅日入手
 東京                   神谷忠雄
  渋沢子爵閣下
拝啓、閣下益御健勝の御事と遥察慶賀の至りに存上候、小生事三月十五日桑港着、数日后サクラメントに赴きビルス氏に面会、閣下よりの御手紙も手交し色々懇談致し候、同氏は目下バンク・オヴ・アメリカオブ・カリホルニヤ(加州米国銀行)の重役にて、サクラメント支店を預かり居られ、七十二歳の高齢にも不拘、非常に御元気にて諸所御案内に預かり候、丁度岩崎清七氏と同行致し候、岩崎氏も旧知の間柄にて、色々ビルス氏と日米親交の問題につきても意見の交換を致され候。
桑港にては市長ルロルフ氏に面会。此人は小生旧知の仁に有之、敬意を表する為め訪問致し候処、早速「渋沢子爵は御機嫌よきや、御近況は如何」など色々叮嚀に御噂有之候、紐育スカーボロ、ヴアンダーリツプ氏御托送の御菓子は桑港より鉄道便にて直送し、同時に書面を以て紐育方面到着後訪問可致旨申送り置候処、丁度小生がロス・アンゼルスに滞在中、ヴアンダーリツプ氏秘書の方より、ヴアンダーリップ氏夫妻は目下ロス・アンゼルス附近パロス・ヴァデスの別荘に滞在中の旨通知有之。幸ひに一昨日同別荘を訪ひ御夫妻に面会、閣下よりの御書面を差上げ、色々御話を承はり候。移民問題につきてはヴァンダーリツプ氏は一九二四年の移民法は米国として自発的に之を改正し、日本に対し敬意を失せざる様なす事絶体に必要なるを切実に思ふが故
 - 第35巻 p.131 -ページ画像 
に、微力乍ら機会ある毎に尽力を継続し居るとの事。移民の制限は米国としては已を得ざるべきも、差別的待遇は絶体的に不可なるを以て成べく早く之を改むる様他の有力者とと《(衍)》相談して骨折る考也等の御話に有之候、同氏のパロス・ヴヱルデス(Palos Verdes)別荘と申処は三万英加もあり、事実は之を分割して売出の事業を経営し居らるゝか如きも、同氏自身の荘園は眺望絶佳、太平洋を眼下に見る丘上にありロス・アンゼルスを南に去る約三十哩、誠に愉快なる新天地に候。閣下御渡米の事は御高齢の為め普通にては無理なるべきもロス・アンゼルス迄海路御越になり、直に此自分の別荘に御迎えしてユルユル御保養を願ふ事出来得れば之に勝る吾等の歓喜なし、是非自分等の賓客として今一度此別荘への御出を願ひ度し、此事をよく伝上げくれと同氏夫妻切実に御話有之候。帰朝の上詳しく申上べく候。汽車中運筆自由ならず、乱筆御判読願上候、不取敢御礼旁御報告申上候 敬具
              四月八日頃紐育に着、六月帰朝の予定に候紐育着後皆様に面会の上更に可申上候。
  ○右書翰封筒ニ栄一鉛筆ニテ左ノ如ク記入ス。
    四年五月十五日熟覧
     六月頃帰国之由ニ付此来状ニ回答ハせさる事



〔参考〕(ヘンリー・ダブリュー・タフト)書翰 渋沢栄一宛 一九二九年五月七日(DK350029k-0004)
第35巻 p.131-132 ページ画像

(ヘンリー・ダブリュー・タフト)書翰  渋沢栄一宛 一九二九年五月七日
                   (渋沢子爵家所蔵)
Candwalader, Wickersham & Taft
                      40 Wall Street
                       New York
May 7, 1929
Viscount E. Shibusawa
  1 Nichome Yeirakucho Kojimachiku
  Tokyo, Japan
My dear Viscount:
  I was very much pleased to receive your letter of February 27th, by which you introduced to me Mr. T. Kamiya. I have just had a long and agreeable conversation with Mr. Kamiya, and found him to be both agreeable and intelligent. He has a very correct comprehension of the relations between our two countries, and if we could have such reasonable men as he is, dealing with those relations, I am sure all cause of discontent would be removed. As it is, however, I feel convinced that the best course to pursue is to allow the heated feelings aroused by the immigration agitation of 1924 to cool off. Some time, when the Japanese question ceases to have value as political ammunition, there may arise an opportunity to so amend our naturalization law as to put Japan upon the same footing as other nations in relation to immigration, as, according to the best thought in this country, it ought to be.
  I am delighted to know that you are in good health, and in spite of your age are still able to enjoy life and to take an
 - 第35巻 p.132 -ページ画像 
 interest in the relations between our two countries, in which you have for so many years taken an interest. I wish it were possible for you to come to this country again, but I quite realize that that might be hazardous. Be assured, however, my dear Viscount, that you are held in affectionate respect by your many friends in this country, among whom I always count myself.
  With kind regards and great respect, I am
           Very sincerely yours,
            (Signed) Henry W. Taft
HWT-cpr
(右訳文)
             (栄一鉛筆)
             四年六月五日閲
             回答差出度ニ付草案取調可申事
 東京市                 (五月廿九日入手)
  渋沢子爵閣下
              紐育
   一九二九年五月七日   ヘンリー・ダブルユー・タフト
拝啓益御清適奉賀候、然ば神谷氏御紹介の二月廿七日付御芳書拝誦仕侯、小生は神谷氏と長時間に亘り愉快に会談仕候、同氏は快活にして明敏なる方にて、日米関係につき頗る公正なる諒解を有し居られ候、日米関係問題も同氏の如き理智の人を得るに於ては、凡べて不満の原因を排除し得べくと存候、併し目下の処執るべき最良の道は、一九二四年の移民法発布に依つて惹起したる激越なる感情が、自然に冷却するを待つことゝ確信仕候、他日日本人問題が政治的に利用せらるゝ恐れなきに至る時、我帰化法を改訂する機会起り、斯くして我米国の最善なる思想に従ひ、当然移民に関して他の国民と同一の地位に日本を置くことゝ可相成候
閣下には益御健勝にて、御高齢にも拘らず猶矍鑠として、多年御尽力の日米関係に興味を有せらるゝ由奉慶賀候、閣下が再び米国へ御来遊の可能ならん事を希望致候得共、其難事なる事は十分承知致候、親愛なる閣下よ、我国には閣下の御友人多数有之、何れも閣下を敬慕致居り候、而して小生も其一たるを常に誇りとする者に有之候
右得貴意度如此御座候 敬具