デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
3節 国際団体及ビ親善事業
3款 日印協会
■綱文

第36巻 p.44-46(DK360020k) ページ画像

大正9年9月(1920年)

是月栄一、当協会会頭大隈重信ノ推挙ニヨリ、副会頭ノ任ニ就ク。


■資料

JOURNAL OF THE INDO-JAPANESE ASSOCIATION No. 30 Sept. 1921 REPORT OF THE INDO-JAPANESE ASSOCIATION : Viscount Shibusawa as New Vice-President(DK360020k-0001)
第36巻 p.45 ページ画像

JOURNAL OF THE INDO-JAPANESE
ASSOCIATION No. 30 Sept. 1921
 REPORT OF THE INDO-JAPANESE ASSOCIATION
   Viscount Shibusawa as New Vice-President.
  Dr. B. Nanjo, who has been taking a very active part in the management of the I. J. A. as its Vice-President since the foundation of the Association, having resigned, Marquis Okuma, President, recommended Viscount E. Shibusawa as the successor of Dr. Nanjo, and the Viscount has accepted. Dr. Nanjo will assist the Association in its work as a member of the Board of Councillors.


JOURNAL OF THE INDO-JAPANESE ASSOCIATION No. 28 Sept. 1920 OFFICERS OF THE INDO-JAPANESE ASSOCIATION(DK360020k-0002)
第36巻 p.45 ページ画像

JOURNAL OF THE INDO-JAPANESE
ASSOCIATION No. 28 Sept. 1920
         OFFICERS
          OF THE
    INDO-JAPANESE ASSOCIATION
      --------------
         President
    M. E. Marquis Shigenobu Okuma
        Vice-Presidents
     Prof. Baron Naibu Kanda, M. A.
     Viscount Eiichi Shibusawa



〔参考〕動物愛護 第二四号・第一〇〇頁 昭和一六年二月一五日 動物愛護運動の回顧(二十三) 広井辰太郎(DK360020k-0003)
第36巻 p.45-46 ページ画像

動物愛護 第二四号・第一〇〇頁 昭和一六年二月一五日
    動物愛護運動の回顧(二十三)
                     広井辰太郎
      日印倶楽部のこと
 その頃の文化性と社会性とを持つ三つの新運動として、私は前号の誌上に動物虐待防止会と日印倶楽部とローマ字ひろめ会とを指名したが、動物虐待防止会のことは更めて言ふ必要がないから、あとの二つの運動の事丈を略記することにする。さて日印倶楽部を起したのは初代中央公論社長、桜井義肇君であつて、これを今日の立派な日印協会に育てあげたのは副島八十六君であると云ふことに誰も異議を申立てる者はあるまい。「明治三十五年十月五日午後一時、本郷真砂町における日印倶楽部発会式に臨む、出席者高楠順次郎、織田得能、桜井義肇・広井辰太郎、外印度人数名。夜呉服橋における印度人チヤツトレー一座のサーカスを観る」と私の日誌に記してある。又同年十一月二日の日誌には日印倶楽部が高橋・南条両博士の送別会を催したことが書いてある。明治三十五年より一躍同四十三年に飛ぶ。蓋しその間の日誌が誤つて整理の犠牲に供された為である。従つてその間の重なる事件はたヾ記憶と別個の記録に依る外はない。明治四十三年二月十九日の日誌に、早稲田大隈伯邸で日印協会総会があつた事が記してある
 - 第36巻 p.46 -ページ画像 
のを見れば、大隈伯がそれよりも余程以前に会長に、渋沢男亦副会長に就任したるものと察せられる。その時分の日印協会の評議員会は多く正金銀行支店で開かれ、或時は交詢社、又或時は上野の精養軒で開かれたものであるが、それは正金銀行支店長松尾吉士君の関係からであつた。毎会の評議会に出る顔振は大抵、松尾吉士・間島与吉・副島八十六・桜井義肇・斯波貞吉・平井金三・広井辰太郎と定まつて居つた。但し高楠順次郎博士が創立当時より常に会の中堅であつたことは言ふまでもない。又曾て大隈伯邸に於いて大隈伯と神田乃武男と桜井義肇君と私の四人が、昼餐を共にして相談をしたことがあつたのを以て見ると、神田乃武男も日印倶楽部創立何年かの後には同運動に参加しておつたものと思はれる。杉村楚人冠君が倶楽部創立時代によく顔を出したこともハツキリ記憶にはあるけれども、私の残存日誌の中には同君の名が出てゐないのを甚だ奇怪に思ふのである。して見れば既記の人々の外に会に出入した名士が他にも相当にあつたらうと信ずる近年の日印協会は主として、副島八十六君の努力によりて頗る大きな機関と成り、財政の基礎も先づ確立し、会務も整備したけれども、明治四十三年前後の謂はヾ日印協会初期の会勢は、まだ微々たるものであつたと言へやう。しかし、日印協会初期における行事中、日印関係における記録すべき事柄が二つあつた。その一つは明治四十三年五月二十一日の紅葉館に於けるバロダ王歓迎会、並に同二十二日における大隈邸における同王歓迎茶会で、他の一つは同年六月二十日におけるモルバンヂ王歓迎歌舞伎観劇会、同二十四日、大隈邸モルバンヂ王歓迎茶会並に同二十四日の上野常盤花壇における同王歓迎宴であつた。因に云両王の歓迎会には其都度私が王と大隈伯の中間に座して通訳の労を取つた所を見ると、その時分にはまだ大英学者の頭本元貞君は日印協会と関係がなかつたものと思はれる。
日印協会は整備した調査機関を持つてゐて日印の情報を交換し、両国貿易の改善と増進に貢献して日印親善に尽してゐるが、創立当時の倶楽部は名実共に随時会合する日印人の交歓会であつた。