デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
3節 国際団体及ビ親善事業
26款 国際教育関係諸団体 2. 海外植民学校
■綱文

第38巻 p.230-251(DK380021k) ページ画像

大正5年3月(1918年)


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是月、栄一当校顧問トナル。在任歿年ニ及ブ。


■資料

青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第二五頁 昭和六年一二月刊(DK380021k-0001)
第38巻 p.231 ページ画像

青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編
              竜門雑誌第五一九号別刷・第二五頁 昭和六年一二月刊
   昭和年代
 年 月
五 三 ―海外殖民学校顧問《(植)》―昭和、六、一一。


(崎山比佐衛) 書翰 渋沢事務所宛 昭和六年五月二二日(DK380021k-0002)
第38巻 p.231 ページ画像

(崎山比佐衛) 書翰 渋沢事務所宛 昭和六年五月二二日 
              (渋沢子爵家所蔵)
   子爵
    渋沢事務所御中
謹啓、益々御清祥奉賀ます。我が海外植民学校が子爵と森村翁とに顧問となつて頂きまして、創立致しましたのは大正五年の三月で御座ひました。森村翁には故人となられましたが、子爵には九十二歳の御高令を以て今日尚ほ御指導をうけて居ります。何れ参上委細申上げますが、何卒右御記録に御留め置き被下度御願ひ致します。先づは不取敢右御返事迄申上げます。子爵の上に、御事務所の上に、神様の御めぐみを祈ります。 頓首
  一九三一年五月廿二日
                海外植民学校長
  (返事控裏面ニアリ)          崎山比佐衛
拝復、然者去廿二日付貴書を落手、当主人を貴校顧問に御推薦被下候年月日御調の上御回示下され、正に拝見、御手数の段謝上候、右不取敢御請旁々御礼まで、寸楮如此御座候 拝具
                      渋沢事務所
昭和六、五、廿五端書発送済
  ○前掲「青淵先生職任年表」ニ顧問就任ヲ大正五年三月トセルハ右崎山ノ回答ニ依ルモノカ。後掲資料ニハ当校創立ヲ大正七年トナスモ、今姑ク右崎山ノ回答ニヨリ栄一就任ヲ大正五年トセリ。


海外植民学校書類 【海外植民学校一覧】(DK380021k-0003)
第38巻 p.231-232 ページ画像

海外植民学校書類             (渋沢子爵家所蔵)
    海外植民学校一覧
一、所在地 東京府荏原郡世田谷町下北沢
一、創立年月日 大正七年六月三日《(マヽ)》
一、現在ノ設備
    敷地          四千百八十坪
    校舎一棟住宅附 建坪   百五十四坪
    女子部校舎一棟  〃    百〇三坪
    寄宿舎一棟住宅附 〃    八十一坪
    女子部寄宿舎一棟 〃    二十七坪五合
    住宅    二棟 〃     五十坪

    畜舎    一棟 〃    八十七坪
    教具及図書  教具百名分図書六百八十冊
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    農具            五十人分
    標本            若干
    基本金   一、三二〇円(渡航記念トシテ寄附セル諸君ノ丹誠ニヨリテ得ツヽアリ)
一現在生徒数 七十名
一現在役員
          顧問      子爵 渋沢栄一
          顧問         村井保固
          校長兼講師      崎山比佐衛
          主事兼講師      今井修一
          事務         鈴木重威
          校医兼講師 医学博士 加藤晋佐次郎
          講師         酒井市郎
          講師     法学士 田村秀吉
          講師         アルミオ・リカルテ
          講師         吉田和可江
          講師         恒石光正
          講師         平井肇


集会日時通知表 大正八年(DK380021k-0004)
第38巻 p.232 ページ画像

集会日時通知表  大正八年        (渋沢子爵家所蔵)
六月二日 月 午前八時 崎山比佐衛氏来約 飛鳥山邸


渋沢栄一 日記 大正九年(DK380021k-0005)
第38巻 p.232 ページ画像

渋沢栄一日記  大正九年         (渋沢子爵家所蔵)
三月七日 晴 軽寒
○上略 午前十時崎山比佐衛氏管理ノ殖民学校職員学生等二十余名来《(植)》ル、近日学生等海外渡航ニ付一言ノ訓示ヲ要望セラルルナリ、依テ晩香廬ニ迎ヘ、人ノ海外ニ赴クニ当リ注意スヘキ要旨ヲ詳細ニ説示ス
○下略


海外植民学校報告 大正十三年度 大正一四年四月刊(DK380021k-0006)
第38巻 p.232 ページ画像

海外植民学校報告 大正十三年度  大正一四年四月刊
○本文略ス
(欄外・別筆)
 [同校修繕費トシテ金弐百円寄付セラル、一四、八、二六明六


海外植民学校報告 大正十四年度 大正一五年六月刊(DK380021k-0007)
第38巻 p.232 ページ画像

海外植民学校報告 大正十四年度  大正一五年六月刊
○上略
   (三)会計報告
○中略
B 、特に本校の事業に賛意を表せられて、左記各位より寄附金を拝受致しました(臨時寄附として収入の欄に記載致しました)
 一金弐百円也 東京 子爵 渋沢栄一殿
○中略
  合計金壱千二百円也
○下略

 - 第38巻 p.233 -ページ画像 

海外植民学校報告 大正十五年昭和元年度 昭和二年五月刊(DK380021k-0008)
第38巻 p.233 ページ画像

海外植民学校報告 大正十五年昭和元年度 昭和二年五月刊
○上略
   (一)処務報告
○中略
9 、本校顧問子爵渋沢栄一殿は、毎年卒業生及職員一同を同邸に招待せられて茶話会を催せらるを例とし、本年も卒業生の為、特にこの会を催されて一場の訓辞ありたり
○下略
(欄外・栄一鉛筆)
 [○金参百円寄付スル事


(崎山比佐衛) 書翰 渋沢栄一宛 (大正一五年)一〇月二五日(DK380021k-0009)
第38巻 p.233 ページ画像

(崎山比佐衛) 書翰 渋沢栄一宛 (大正一五年)一〇月二五日
                    (渋沢子爵家所蔵)
謹啓
秋冷之候益々御清光の段、為邦家慶賀奉存候         本校に就ては特別の御同情を以て、相変らざる御指導に預り居り、誠に有難く厚く御礼申上奉候
一昨日は御多用の処、且つ御不快の趣に拝承致し居り候にも不拘、多数参上仕り、海外発展者に最も適切なる御教訓を賜り、温顔に接して一同深く感銘仕居候、今後益々一同邦家発展の上に努力致す可きを期し申居候
玆に謹んで感謝の意を表し、併せて御老体の益々御健康ならん事を祈上奉候
 二伸 追て紀念御撮影仕り候写真は、持参致す可く候間御高覧賜り度候 敬白
  十月二十五日              崎山比佐衛
                      外一同
    渋沢栄一殿


渋沢栄一書翰控 今井五介宛 昭和二年九月二三日(DK380021k-0010)
第38巻 p.233 ページ画像

渋沢栄一書翰控 今井五介宛 昭和二年九月二三日 (渋沢子爵所蔵)
拝啓、益御清適奉賀候、然ば本書持参の崎山比佐衛氏は海外植民学校経営者に有之、且其関係より伯爾西の事情に達し居候、老生は学校には直接関係無之候得共、年来懇意に致居候処、今般親しく申上度義有之候由にて、御紹介方申出候に付ては、本書相添候間、参趨の節は寸時御引見被下、御差支無之範囲に於て、御便宜御与被下度候、右得貴意度如此御座候 敬具
  昭和二年九月廿三日
                      渋沢栄一
    今井五介様


渋沢栄一書翰 控 田中義一宛 昭和二年九月二三日(DK380021k-0011)
第38巻 p.233-234 ページ画像

渋沢栄一書翰 控 田中義一宛 昭和二年九月二三日 (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、益御清適奉賀候、然は本書持参の崎山比佐衛氏は海外植民学校経営者に有之、老生学校には直接関係無之候得共、年来懇意に致居候処、是非拝光仕度由申出候ニ付、本書相付候間、拝訪の節は寸時御引
 - 第38巻 p.234 -ページ画像 
見被成下度候
  昭和二年九月二十三日
                      渋沢栄一
    男爵田中義一閣下


(海外植民学校) 報告 昭和二年度 第三―四頁 昭和三年五月刊(DK380021k-0012)
第38巻 p.234 ページ画像

(海外植民学校) 報告 昭和二年度 第三―四頁 昭和三年五月刊
    昭和二年度事業成績
○上略
(九)本校顧問子爵渋沢栄一殿は、毎年卒業生及職員一同を自邸に招待せられて茶話会を催せらるゝを例とし、本年度も卒業生の為、特に十月五日有益なる会合を催せられ、一場の訓辞ありたり
(十)本校々長崎山比佐衛氏は、曩に大正三年――五年に至り南北両米を踏破し、帰朝後、朝野各位の御後援により本校を創設し、爾来満十ケ年を経過し、有為の人材を養成して海外に送ること三百名に及び過去十年幸ひ其の初志の一端を達し得たるを以て、更に今後十ケ年の計劃を立て、其の使命に尽さんが為めに、且つは卒業生の成績調査、同胞慰問、未開地の探究等の重大なる用務を帯び、昭和二年十一月二十九日横浜発墨洋丸にて出発せられたり、此の行特に外務省より嘱托として、金弐千円也を下附せられたり
   其の他左記先輩各位より非常なる御後援を賜はり、御蔭を以て感激の中に予定の旅程につくを得たり
   渋沢栄一殿    深尾隆太郎殿
   木村久寿弥太殿  井上雅二殿
   福原八郎殿    竜江義信殿
   小林弥太郎殿   白仁武殿
   本山彦一殿    大谷登殿
   森村豊明会殿   大倉邦彦殿
   堀啓次郎殿
○下略


(崎山比佐衛)書翰 渋沢栄一宛 昭和二年一一月(DK380021k-0013)
第38巻 p.234-236 ページ画像

(崎山比佐衛)書翰 渋沢栄一宛 昭和二年一一月 (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物・横組)
   (四字別筆)
    渋沢栄一殿
謹啓 皆様益々御清福之段奉賀候。陳ば私儀今回再び南北両米巡視致す事に相成、此処に謹而一言御挨拶申上げ候。
 回顧すれば今より十有余年前(大正三年)、多大なる艱難の内にも皆様の厚き御同情により、南北両米約三万哩を踏破し、教育及植民の状態、農業及牧畜の事業を実地に視察致し候、其結果として吾が海外発展の急務なると同時に、其の人材養成の更に急務なるを感じ、之を世界の同胞に貢献する、正に不肖の任務なりと確信致し、東奔西走之が力説に努め候所、幸渋沢子爵及森村男爵両翁の多大なる御援助を蒙り次で幾多先輩諸彦の御賛成を得、大正五年海外植民学校を設立致し申候。
 爾来年を重ぬる事十有二年、其間、卒業式を挙ぐる事九回、出身者
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三百余名、彼等の多くは今や海外にありて健気に活動致し居り候。而して現在生徒六十余名、之れが経営又順調に進み居り候、之れ全く皆様方の御蔭と只管感謝の外無之候。
 時代も又幸吾等の予期に反せず、今や海外発展は事実となりて現れ労資、官民の別なく之が善良なる実行を急ぐの秋と相成申候。
 之れ本校が皆様方と共に、聊か先見の明ありしを思ひ、自ら慰むる所以に御座候。
 然と雖今日に於ては、海外の事情又昔日の如くならざるものあるべく、且つ吾が校内外の要求は到底現状を以て甘んずべきにあらざるを以て、今回此処に吾が校人材養成発展策攻究の為め、私儀再び南北両米を実地視察致す事に相成申候
 之が旅行の目的は概略左の如くに御座候
(一)海外にある本校の出身者と一般同胞の訪問。
(二)南米大陸の中腹踏査。
  南米は未開の大陸である、それで開拓された部分はホンの口元ばかりである、之れ普通の実業家及視察家には財ありと雖も、踏査し難きは又止むを得ざる事である、しかし将来を計劃せんと欲するものは奥地より口元を踏査し置く必要がある為め、
(三)新世界植民時代の祖先の跡を訪はむ。
  三・四百年前一帆船に乗じ、此新世界に植民し、幾多の艱難と闘ひ能く今日の基礎を定めたる祖先の跡を訪ひ、其殆ど殉教の死に等しき彼等の墓畔を訪ふて、新しき感激を受け、之を吾が校教育の資とせん為め、
  (1) 先づHawaiiより北米合衆国太平洋沿岸、
  (2) 次はMexico国よりPanama
  (3) 次はColombia国Caucaの高原と首府Bogotz
  (4) 次はPerù国Lima市と海岸地方、
  (5) 次はBolivia高原と其所に漂へるTiticaca湖と首府Lapaz
  (6) 次はPerù西部の高原CzucoよりSerro de Pasco迄縦断
  (7) 次はPerù Andesを越へAmazonの上流より海口に下る、
  (8) 次はBrazil S. Paulo州を中心として附近同胞の活動地、
  (9) 次はLa Plata 河の上流Palaguay河を下りBuenos Airesに到る
  (10) 次はBrazil南部三州独逸植民地、
  (11) 次はRio de Janeiroより北米合衆国New Orleans
  (12) 次は北米合衆国本部沿岸に於ける最初の植民時代の遺蹟及其建設者の墓畔訪参、
   (a) Florida St.Augustin 1.565西班人によつて建設、
   (b) Virginia Jamestown 1.607英国人によつて建設、
   (c) New York Manhattan島1.614和蘭人によつて建設、
   (d) Massachusetts Plymouth若しくはProvincetown1.620英国人Plygrim祖先によつて建設、
   (e) Canada Quiebec 1.608仏蘭西人によつて建設、
  (13) 次はCanadaの線を取りVancouverに出でSeattleより
 - 第38巻 p.236 -ページ画像 
船にて帰国。
 以上の目的を以て、私儀十一月廿九日墨洋丸にて横浜を出発する予定に御座候。
 此旅行たる、前回の其にもまして艱難多かるべくと存じ候、然りと雖も天には我が信任の神居まし、地には皆様方の厚き御祈ある事を信じ、唯だ直進直行、倒るれば起き、起れば力め、一意以て之が遂行を期せん覚悟に御座候。
 此行幸天祐と人助とに一路安全を得、帰国する機会も有之候へば、唯だ吾が校将来の発展のみならず、今後幾百千人の海外に渡航せんと欲する者の幸福とも相成る事と存じ候間、尚ほ此上共宜敷御願申上げ候。特に私不在中の母校の上に、又私自身の家族の上に、神様の御守護を御祈り被下度、伏して御願ひ申上げ候。
 実は御銘々を御訪ね致し、御暇乞ひ申すべき筈に候へ共、行李匆々其意を得ず、此処に謹而次第を陳じ、以て御暇乞の御挨拶に代へ申候呉れ呉も皆様の上に神様の御めぐみを祈り申候 頓首
  昭和二年十一月
               東京市外世田谷町
                 海外植民学校
                   校長 崎山比佐衛


海外植民学校書類 【謹啓 晩秋之候益々御清光の段賀奉候…】(DK380021k-0014)
第38巻 p.236 ページ画像

海外植民学校書類              (渋沢子爵家所蔵)
謹啓 晩秋之候益々御清光の段賀奉候
本校に就ては常に御配慮を辱ふし、誠に有り難く厚く御礼申上候
今回校長崎山比佐衛氏、移植民教育の見地より、第二回南北両米視察の途に上る事と相成、各位の非常なる御援助の下に準備漸く整ひ、来る十一月二十九日、横浜発墨洋丸にて渡航の運びと相成り申候
之偏に御高堂御同情の賜物と深く感謝致し居り候
就ては左記により有志相集ひ、簡単ながら送別会相催し度候間、御用御繋多の処を恐入り候へ共、何卒御臨席の栄を賜り度、此段御案内申上候 敬白
  昭和二年十一月廿一日
    記
一、日時 十一月二十七日(日曜日)
      午後五時
一、場所 丸ノ内
      生命保険協会

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 (主催者) 左近義弼 堀川直吉 今井修一 海外植民学校 



    渋沢栄一殿
○案内状封筒ニ鉛筆ニテ左ノ如ク記ス。
 既ニ伺上候て御断ノ旨御申付有之候
 - 第38巻 p.237 -ページ画像 

海外植民学校書類 【(表紙) (栄一鉛筆) 昭和二年十一月二十七日本人持参…】(DK380021k-0015)
第38巻 p.237-239 ページ画像

海外植民学校書類(渋沢子爵家所蔵)
(表紙)

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 (栄一鉛筆) 昭和二年十一月二十七日本人持参    (御覧済の上御差支無之候はゞ飛鳥山邸来訪ニ付面会して詳細ニ     閣下の回顧録事務所へ御廻し聴取せり[img 図]栄一  下し置かれ度候)     渋沢子爵閣下御別れに臨み                      崎山比佐衛 



    暫時の御別れに臨み
      十有余年前
太陽は太陽系の太陽であるけれども、又地球の隈にある一本の草にも其温かみが及んで居る、子爵は実に世界の子爵であるけれども、小さき我れにも又情をかけ給ふ、一本の草が大なる太陽の熱に感謝する如く、小さき我れは子爵の御恩に感謝するものである。それで此記事は事甚だ私に及ぶかも知れないが予め御許しを願ふ。子爵が私を知つて被下たのは大正五年の夏頃かと思ふ、それは森村翁の御紹介によつてであつた。子爵は何時も元気に御引見下された、間誤間誤すると槍込められたり、或は叱かられた、しかし其の御賛成被下た時と叱かられた時とに不拘、私の心に映じた子爵の人格には少しも区別がなかつた嚀ロ叱かられて却つて嬉れしい事があつた、御別れする時何時でも玄関まで送つて下された、私は門を出づる時何時も心が晴れ晴れした、子爵は決して人を失望させない人であつた。
      子爵は私を構ふてくださつた。
或る時伊豆の湯ケ原に、私は私の親友と子爵を御宿に訪ふた。子爵は喜んで御引見被下た、而して夜遅く迄殆んど一時頃迄御話下された。其の御話は多く御幼少の時の回顧談であつた。大童児の様に笑ひながら獅子神楽を被つて踊つた事など話されました、而して泊つて行けと云つて別室で休まして頂きました、其の時崎山君の仕事は確かによい仕事であると云はれました。他に何にか御願ひの人が来て居られましたが、其れはまだ御賛成なく私の仕事を御褒め下された時、私は構まつて下されたかの如く思ひました、又或る時大勢で写真を撮りました其れは私が試練の時代でありました、子爵は私の名を二度も崎山君は崎山君はと呼ばれました、有難く感じました。
又或る時先輩の経営せる学校の紀念式に列席しました、私は式が済んだので帰らふとすると、子爵はさあ々々斯ふ云ふ時に御目にかかつて置くのだと云ふ様な意味で、私を引き止めて而も子爵の御側に席を占めさせ、経営者へ懇に御紹介下さいました、斯かる事は子爵の自からなる御徳の発露で、私であるが為に特になされたものではありますまいが、私としては限り無く嬉しく感謝して居るものであります。
      子爵の自筆
学校がもう四万円あると完成するといふた時に、其の募集に御賛成下さいました、其れを実行するには一度学校を見て置く必要があると云
 - 第38巻 p.238 -ページ画像 
はれて、大雨の降る日に御出で下さいました。
私は子爵と自働車で同乗して御案内しました、途中千駄ケ谷の徳川公爵へ御寄りになられました、御話し下さる前に聴衆に対し私が御紹介致しましたが、子爵は私の紹介が余りくど過ぎるといふ意味で崎山君が刳る様に委細云ふたと言はれました、しかし其時の御話に崎山君とは親戚同様だと云はれました、御話し終つて御帰りの時私は又日本橋の事務所迄子爵を御送り致しました、雨は止みなく降つて宮益坂は道が悪ふ御座いました、子爵は咳が出て苦るしまれ、私は之れで生命を取られるのであらふと、親が子に言ふ様な言葉で云はれました、私は勿体なく感じました。
御来校の結果筆を執つて次の如く書かれました。
「海外植民教育会に於て主宰する植民学校の経営は、其実際に就て之を視察するに、質実素朴、着々其歩武を進めて漸く其効用顕著なるに至らむとす。崎山君の功亦多大なりといふべし、因て前段要請の趣旨を賛成して左に寄附之金額を附記す
  大正九年十一月十二日
 一金壱千円也             渋沢栄一(印)
  但即時払込之事」
何んと有難い事ではありませんか、子爵のものせられしもの、世に決して少なくはありますまい、子爵の御室の一つに入れば、天下の人より書を御願ひせるもの絹地・紙地の数殆んど壱千、子爵の手の下るを待つて居ります、而も私は未だ嘗て子爵に画字の一枚を御願ひした事がありません、其の理由の一つは前段の其れに優るものはないと自分で嬉んで居るからであります。
      其後間もなく御病気
御来校間もなく御病気になられました、而して其れが御危篤だと聞きまして済まない事をしたと思ひ、御側に待《(侍)》るべき訳の身にもあらざれば心やる方なく、嘗て湯ケ原で承つた御幼少時代の産神、御郷里血洗島の諏訪神社に到り、社前に佇み、我等の父なる神に翁の御平癒を祈りました、而して紀念にと思ひ写真を撮り持つて来て差上げました。
後幸ひ御快癒、唯だ唯だ感謝の外なかつたのであります、御鄭重なる御全快の御祝ひ迄頂きました。
      子爵去れと仰せられず
学校に試練の時がありました、子爵は始終御変りがありませんでした或る人々は私を去る様にと言ひましたが、子爵は角を矯めて牛を殺さぬ様にと云はれました、若し此の時子爵を初め他に二・三人が無かつたならば、私は去つたかも知れん、去つたら今日の私なく、又今日の植民学校も無かつたのであらふ、植民学校は未だ初期ではあるが我が民族の発展に多少たりとも役立つものとなるならば、之れだけは此の私の回顧録中世界の子爵たる一つである事を忘れてはならない。
      教育家たる子爵
子爵は教育家である、私は子爵を数々懐かしい意味で翁と呼ぶ事を許されて(但し自称)ゐる、しかし翁は教育家である、強い温い先見の明ある、而も私を教育してくれた先生中の最も大なるものである、我
 - 第38巻 p.239 -ページ画像 
が植民学校にとつて然り、書頭の約束により他は語らないが、同感の士多き事と思ふ、而も今日の教育家といふ言葉を以て言ひ現はし得ざる程大なる教育家である、其れと同時に、今日の実業家といふ言葉を以て言ひ現はし得ざる程大なる実業家であらふ、嗚呼高い哉翁の徳、嗚呼深い哉先生の意、翁は毎年我が校の卒業生と諸先生方を御邸へ招いて下さる、而して親切に鄭重に御訓話下され、又若い者を見て御自分で嬉んで下さるのである、今年も前日左様してくださいました、青年郷関を出で蛍雪の効なつて、将に万里の波濤を破つて世界に出でんとす、飛鳥の山に先生を訪ふて、慈父にも優る温顔に接し別れを告ぐ誰か感涙せざるものやある。
      私再度の旅行に就て
私は長い序文を書いた芳名帳を携げ、翁を訪ひ旅行の次第を申上げた翁は其れを声上げ眼鏡もかけず一言残さず読んで下さいました、而して賛成の次第を書かふと云はれましたが、私は注文して、翁が常に我が校の出身者に御書き下さる次の句を御願ひしました。
   賛成 渋沢栄一
    言忠信行篤敬雖蛮貊之邦行矣
    言不忠信行不篤敬雖州里行乎哉
     八十八翁   青淵題
而して又餞別をすると云はれました、此行極度の節約をなすも尚六千円を要するのであります、しかし今日は御話しする積りではなかつた翁は又事務所へ話して置くからと云はれました、私は蓋を開けず感謝して居るがよいと思ひました、其の訳は金と云へば何時でも翁へ真先に御相談するものであるから、然るに其後翁の主宰にかかる伊豆柿崎町の故Townsend Harrisの紀念除幕式に列席させて頂きました時、事務所の方へ行つたかとの事でありましたので、蓋を開けずに置く訳にゆかなくなりまして、事務所へ参りましたらチヤント包んで置かれてありました、而も其れは私の想像に優るものでありました。私は殆んど霊感的に感じ、嗚呼子爵よ、此の御恩に反ひてはならん、此行必らず成る、それにしても有難哉、先づ走つて之れを妻に報じ、共に感謝せんと云ひました。
   「十余年降る日照る日の別もなく
    又もかしこし今日の餞別」
十一月二十七日愈々飛鳥山へ御別に参りました、低徊去るに忍びず
   「飛鳥山巣立の雛やかくあらん
    親の大鳥安くおはせと」


(崎山比佐衛) 書翰 渋沢栄一宛昭和二年一二月一三日(DK380021k-0016)
第38巻 p.239-240 ページ画像

(崎山比佐衛) 書翰 渋沢栄一宛昭和二年一二月一三日(渋沢子爵家所蔵)
    子爵渋沢栄一閣下
 謹啓 子爵閣下、私ハ予定の如く十一月廿九日墨洋丸で横浜を出ました、十二月七日に東径百八十度を東にむけ通過しました、それで其翌日も同じく七日でありました。十五日目、即ち十二日にホノルヽに着きました。日米親善の為め幾度か子爵が渡られた大洋である事を思ひました。私の船は三等でありますが、船長も事務長も至極親切にし
 - 第38巻 p.240 -ページ画像 
てくれます。乗客が参百人余あります、多くは南米ペルー国へゆく方方です、何かの参考にもならふと思ひまして、事務長の紹介で毎晩海外の事につひて講演を試みて居ります、今日迄に試みました講演題ハ
(一) 南米名物世界一          (二) 南米は酷暑の大陸にあらず
(三) 南米各国の国名由来        (四) 私は崎山比佐衛である
(五) 日米風俗の相違点         (六) 日本人の長所と短所
(七) メキシコ、パナマ、ペルーの征服者 (八) 九十一才小笠原吉次翁ブラジル行壮挙
(九) 新世界の発見者コロンブス           以上
私の此航海はペルーのカリヤオ港迄四十五・六日かゝります、其間事故のなひ限り毎晩でも皆様の為め御話する積りであります。
私は今船中で先生と呼ばれて居ります、しかし私を最も善良に教育して被下たのは子爵であります、暫時先生と呼ばして頂きます。
十二月廿七日朝御別《(一)》に伺ひました時、先生には何時帰るかと御問ねでありました、さ来年の二・三月頃と御答へ致しました、すると先生にはわしが九十歳になる年に帰るのかと仰せられました、今海上遥に其時の御温顔を思ひ
   師の君が九十歳の春になりませば
   我帰りぬと庭に待らん
呉れ呉れも御壮健の程謹而御祈り致します 頓首再拝
  昭和弐年十二月十三日
                      崎山比佐衛


(崎山比佐衛) 書翰 渋沢栄一宛昭和三年二月一七日(DK380021k-0017)
第38巻 p.240-241 ページ画像

(崎山比佐衛) 書翰 渋沢栄一宛昭和三年二月一七日 (渋沢子爵家所蔵)
(横書)
    子爵 渋沢閣下
 謹啓 御健康の程、遥に御祈りして居ります、
 私は至極元気で旅行つゞけて居ります、途中の見聞を後廻にし直ぐ此ペルー国に参りました、其わけは私の今回の旅行の主なる場所は、アンデスといふ世界第一の大山脈を越へて、又世界第一の大河であるアマゾンの水源を踏んで、4.000哩の長程を下り、河口に出づる事でありますので、他の所で多くの時と金を費すよりも、主点にむかつて早く力を注ぎたひと思ひましたからであります。
 それでもまだなか々準備がありますので、まだ主点にむかつて進めません、来る廿日、第一線として高原旅行に出かけまます、此は二ケ月程かゝります、其内に富士山より少し高ひ所に、琵琶湖の十三倍あるチヽカヽ湖といふのがあります、其上を汽船で147哩渡るのであります、此の旅行が故障なく終へましたなら、次の旅行は腹が出来ると思ひます。
 リマは気候の良ひ所であります、今此土地は真夏でありますが、毎日75°(華氏)を上る事はありません、小供の成長は非常であります産後五・六ケ月しますと大概三貫目以上あります。
 呉れ々も子爵の御身の上に神様の御めぐみを祈ります 頓首再拝
 - 第38巻 p.241 -ページ画像 
   昭和三年二月十七日
                      崎山比佐衛
(欄外・別筆)
 [昭和三年三月廿八日入手


(崎山比佐衛) 書翰 渋沢栄一宛昭和三年四月一二日(DK380021k-0018)
第38巻 p.241-242 ページ画像

(崎山比佐衛) 書翰 渋沢栄一宛昭和三年四月一二日 (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物・横組)
   (宛名手書)
   子爵
    渋沢栄一殿
 謹啓 益々御清祥之段奉賀ます。陳ば私は至極元気に旅行を続けて居ります。御安心下さい。
    校友の動静
 此の国に於ける校友の動静につき一言申上げます、皆元気で活動して居ります。而して内外の人々からも相当に信用されて居ります、又多くの人々からも吾が国の海外発展に対する教育の必要を我が校友の善き実例によつて示されて居ります、之れ皆様方と共に最もよろこぶべき第一儀と存じます。
    旅行の要所
 次に私の今回の旅行中最も要所とする所は、吾が民族の将来をなすべき南米大陸の脊髄骨たるAndes山脈の主要部を幾分たりとも縦に踏み、而して又同じく南米大陸の大動脈たるAmazon河を水源地より河口迄約4.000哩下る事であります、今や我が国民挙つて頻に南米発展を唱導します、然共未だ一人の日本人にして此の大陸の主要地をばつ渉した者がありません、其で私の今回の旅行も他に如何なる事を見聞するも、此をなさずしては何の役にも立たないのであります。
    之が第一線として
 之が第一線として、私は去る二月廿日より本月(四月十二日)迄殆ど二ケ月間Andes旅行を試みました、其行程約1.500哩其地域は図に於ける太線の示すが如く、南はBolivia国の首府La Paz市より、北はPerú国Huanuco県迄であります。而して其高度は12.000尺以上の地であります。此所は熱帯ではありますが、如斯土地が高い為に寒いのであります。私は旅行中シヤツ二枚と冬の合服と外套とを何時も離した事はありませんでした。
    最も困難した所
 此旅行中最も困難した所はCuzco―Ayacucho間の200余哩であります、三月十日Cuzcoを立ち、馬を一頭買ひ、馬上の人となり、十八日目にAyacuchoと申す安全地帯に達しました。其間谷深く、峰又高いのであります、朝に雨さん(あられ)の降る程高い所をたどるかと思ふと、夕には幾千尺のけい底に於て甘蔗の繁げれる畑を過るのであります、而して幾度か非常に動遥するけい谷の空に懸るつり橋を渡り、又幾度か直立幾千尺の岩頭に馬を馳せました。
    怪我一つせず安全地帯に達す
 日本人居らず言語通ぜす、それで十八日間一笑も笑つた事がありません、而して家の内に寝た事は僅で多くは洞窟や土人の軒下や木の蔭
 - 第38巻 p.242 -ページ画像 
で寝ました。特に今時此地方雨季の候とて道甚だ悪しく、往来の馬倒れて死骸を路辺に遺し、旅人誤つて墓畔を道傍に築けるもの甚だ多いのであります、其にも不拘私は、私も馬も怪我一つせず右申すが如く十八日目にして安全地帯に達しました、之れ全く我が学校と私の身の上について御同情下さる皆様方の御祈の御蔭と厚く御礼申上げます。
    第二線のAmazon下り
 第二線のAmazon下りも亦如斯仕合にあれかしと今より祈つて居ります、之が出発は今月(四月)の廿五・六日頃なるべくと存じます而して此の旅行の日数はAmazon河口即ちPara市に出る迄が四ケ月の予定であります、又私が日本へ帰るのは来年二月頃なるべくと存じます。
    遥かに皆様の御健康を
 遥に皆様の御健康を御祈り致します、猶ほ私不在中の学校の上には此上共御同情被下度御願ひ致します。
先つは御礼旁々御報迄如斯申上げます。 頓首
  1928年(昭和三年)四月十二日
                海外植民学校長
                      崎山比佐衛
           Apartado 895 Lima,Perú(本紙投函)
           東京市外世田ケ谷町(海外植民学校所在地)
  ○図版略ス。南米ノ地図ニ本文中ニアル旅行ノ行程ヲ線ニテ示セリ。尚騎乗姿ノ写真ヲ併せ示ス。

図表を画像で表示--

  H.Sakiyama   Lima,Perú        東京市外飛鳥山    Señor         子爵渋沢栄一閣下   E.Shibusawa   (ゴム印)               Yokohama   [img 図]〓         Japón 



  ○封筒ニ押捺セルゴム印ハ受付ノ日ヲ示スモノニテ左ノ如シ。
   昭和三年四月十二日附
   昭和三年六月十二日入
    アマゾン流域ニテ
     崎山比佐衛氏来状


(崎山比佐衛) 書翰 渋沢栄一宛昭和三年八月二三日(DK380021k-0019)
第38巻 p.242-243 ページ画像

(崎山比佐衛) 書翰 渋沢栄一宛昭和三年八月二三日(渋沢子爵家所蔵)
    子爵渋沢栄一閣下
謹而遥に子爵の御全快を御祈り致します、四月廿七日ペルーの国リマ市を立ち、アマゾン旅行に向ひました私は、四千哩の長程を経、七月六日無事河口に出で、ベレームといふ町に着きました
而して八月廿一日にブラジルの首府リヲ・デ・ジヤネローに着きました
此処で東京(家内)からの通信を久しぶりに受取りました、而して御病気の事を知りました、何卒御全快してください、私ハ万里の外で子
 - 第38巻 p.243 -ページ画像 
爵の御全快を一層熱心に御祈り致します 頓首頓首再拝
  昭和三年八月廿三日
        ブラジル国リヲ・デ・ジヤネロー市に於て
                 海外植民学校長
                      崎山比佐衛


(崎山比佐衛) 書翰 渋沢栄一宛 昭和三年一一月一一日(DK380021k-0020)
第38巻 p.243 ページ画像

(崎山比佐衛) 書翰 渋沢栄一宛 昭和三年一一月一一日 (渋沢子爵家所蔵)
    渋沢子爵閣下
謹啓 御無沙汰致しました
日本の新聞で見ますと、子爵には御病気漸次よろしき由、まことにうれしく遥に御よろこび申上げます
私は今同胞の最も多ひブラジル国サン・パウロー州をあちこち視察致して居ります
今日海外興業会社の応接間に於て子爵の御肖像が高くかゝげられてあるのを見ました
御目にかゝつた様な気がしてうれしさに堪へませんでした
校友は何れも堅実な歩を進めて居ります、海外発展に人才の養生《(成)》が必要である事を、絶へず御同情を以て御指導被下し子爵に対し、今更の如く御礼申上げます
呉れ呉れも御健在の程遥に御祈り申上げます 再拝
  一九二八(昭和三年)十一月十一日
                     海外植民学校長
                         崎山比佐衛
            現在宿泊 c/o Señor S.Hirayama
                  Rua Ech de Queiroy 73
                       S.Paulo Brazil


海外植民学校書類 【(印刷物) 海外植民学校女子部の設立に際して御挨拶申上ます】(DK380021k-0021)
第38巻 p.243-245 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

海外植民学校書類 【(印刷物) 謹啓、余寒尚厳しく御座候処、…】(DK380021k-0022)
第38巻 p.245-247 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

海外植民学校書類 【(謄写版) 謹啓 春暖之候益々御清光奉賀候、本校に就ては…】(DK380021k-0023)
第38巻 p.247 ページ画像

海外植民学校書類             (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
謹啓 春暖之候益々御清光奉賀候、本校に就ては種々御指導賜り居り有難く深謝奉り候
今回第十一回卒業式に際しては、特別の御厚配を賜り深く感銘致し居り候、卅一名の卒業生は故国に於ける最後の式典として、非常なる感激を以て各位の御鞭撻に感謝し、将来真の植民者として異境に安んじて使命の為邁進する事を期し申候、左に当日の概況を御報告申上候
    内務大臣祝辞      社会局属 加藤義明
  海外植民学校カ夙ニ移住地経営者ノ養成ニ努メ、玆ニ第十一回卒業式ヲ挙行セラルヽハ邦家ノ為メ、慶賀ニ堪ヘサル所ナリ
  惟フニ我国現下ノ情勢ハ、有為ナル国民ノ海外発展ニ俟ツ所大ナルモノアリ、幸ニ進取ノ気象ニ富ミ元気旺隘セル諸氏、蛍雪ノ功成リ遠大ノ志ヲ抱キテ海外ニ進出セムトス、庶幾クハ内外ノ情勢ヲ察シ自重自愛、以テ国運ノ隆昌ニ貢献セラレムコトヲ、一言以テ祝辞トナス
   昭和四年三月廿一日
               内務大臣 望月圭介
    外務省代表祝辞(講演) 外務書記官 大橋忠一
    祝辞          海軍中将  中野直技
    祝辞          聖州義塾  小林美登利
    祝辞          帰朝者   渡辺忠雄
御参列を賜りたる方々の芳名○氏名略ス
祝辞を賜りたる方々の芳名
 ○中略 渋沢栄一殿 ○中略
祝電を賜りたる方々の芳名○氏名略ス
尚午後一時より崎山校長の御講演あり、帰国第一回の公開講演にて三百有余名の御来校を得て最も盛大裡に終り申候、亦崎山校長帰国に際しては、鄭重なる御祝辞を賜り深謝奉り候 敬白
  昭和四年三月二十五日
               東京市外世田谷町下北沢
                     海外植民学校
           殿
 - 第38巻 p.248 -ページ画像 

(海外植民学校)報告 昭和四年度 第九―一〇頁 昭和五年四月刊(DK380021k-0024)
第38巻 p.248 ページ画像

(海外植民学校)報告 昭和四年度 第九―一〇頁 昭和五年四月刊
    昭和四年度収支決算(自昭和四年四月一日至昭和五年三月卅一日)
○上略
○臨時寄附者芳名
○中略
 一金弐百円也 子爵 渋沢栄一殿
○中略
  合計 壱万弐百九拾五円也
○下略


(海外植民学校)南米分校設立計画概目一覧 第一―一〇頁 昭和四年刊(DK380021k-0025)
第38巻 p.248-251 ページ画像

(海外植民学校)南米分校設立計画概目一覧 第一―一〇頁 昭和四年刊
    分校設立趣旨書
謹啓 江湖諸彦益々御清祥の段奉大賀候
 陳者我が海外発展も愈々実行の時代に進み申候、顧れば本校が大正五年即ち今より十四年以前、渋沢子爵・森村男爵両翁を顧問とし、其他先輩諸彦の御援助を得て、東都の西郊世田ケ谷の一劃に呱々の一声を挙げし当時にありては、或人より「植木屋」の学校かと問はれ候程なりしが、今や海外発展は朝野の絶叫となり、且つ実現の歩を進むるに到り、之れと同時に、植民的人材の教養が如何に大切なる事業なるかを痛切に感ずる時代と相成り候。之れ先輩諸彦と共に、聊か先見の明ありしかを喜ぶものに御座候。
 我が海外植民学校は本邦中、此種の学校としては嚆矢のものにして此処に前後十一回の卒業式を挙げ、其間三百有余名の出身者と壱千余名の関係者を、海外即ち主として南米に送り申候。小生之れが活動状態を視察すべく、昭和二年より本年三月迄足掛三ケ年に渉り親しく踏査を遂げ候処、彼等は皆此時代に処して其の大勢を誤らず、自から斧を振ひ鍬を採つて、克く植民の本領に邁進致し居り候。
 然りと雖も世は常に進歩して止まず、我が海外植民の事業亦然りと存じ候、従つて之が教育の方針にも亦進歩改良の必要あるべくと存候然らば我等は如何に可致候や
 本校をして之が目的地たる南米に移し、彼の宏漠たる天地に於て一層実際的に、一層有効に教育即ち植民であるべく、之が完成を期する事に外ならずと存じ候。されど之れ一朝の能くする所にあらざれば、先づ其の一歩として彼地に分校を設立し、一方に本校より渡航し来れる学生の連絡を計り、他方に第二世教育の指導に全きを期し、漸を追ふて之が完成に進み度と存じ候。本校はキリスト教の主義を奉じ、額に汗して労働の真意義を学び、労・学兼備の人材を養成して植民の指導に貢献せんとするものに御座候へば、他諸学校の如く之が設立と雖も多大の費用を要せず、其の経営費の如き全く自給自足の方針に御座候。只だ第一要件として最も必要なるは之が適当の土地に御座候、然るに今回小生旅行中、之が適地約壱千町歩を選定し、内既に参百町歩を獲得仕候。其は大アマゾンの一支流マウエス河畔にて、此処は土地肥沃にして気候良好、交通亦便にして水害の憂なく、加ふるに現時最
 - 第38巻 p.249 -ページ画像 
も有用視せられつゝあるガラナの特産地に御座候。此等の点に於てアマゾン流域ニ、八〇〇、〇〇〇方哩中稀に見る所の好適地に御座候。
或は曰はん北伯アマゾンの地たる世界神秘処女の境にして、未だ之が開拓の経験に乏しく前途の成否遽に断じ難しと、然りと雖も士卒を前進せしめて将帥遠く後より従ふは、植民指導に於ける好戦術には無之と存じ候。我が国の海外発展の声常に大にして実之に添はざるの感なき乎。之れ或は其の指導の当を得ざる亦一つの原因にはあらざるかと存じ候。
 抑も植民とはそれ自身が先覚を要する大業に御座候へば、之が指導者たるものは自から旗幟を翳して陣頭に立ち、一般士卒の突進に誤りなきを期すべきものと存じ候。
 本校は玆に小生旅行の結果と過去の長き経験に鑑み、之が大業の将来を期し愈々其の目的に向つて進むべく決心致し申候。
 大方の諸彦之が前途の達成を期し、此上共御同情を賜はり度伏して奉懇願候。 頓首
 昭和四年五月
               東京府荏原郡世田谷町
                海外植民学校
                   校長 崎山比佐衛
    南米分校設立計画
一、本校ノ事業計劃ヲ五ケ年トス。
二、本校ハ附属地一千町歩ノ内、先ヅ百町歩ヲ開墾シ、残余ハ後日時機ヲ待ツテ新ニ之ガ計劃ヲナスモノトス。
三、本校ハ百町歩ノ内八十町歩ニガラナヲ植付ケ、残二十町歩ヲ牧場其他ニ使用ス。
四、本校ハガラナ園八十町歩ヲ八戸ニ分担シ、之ニ必要ナル設備ヲ施シ、五年契約ノ小作法ニヨリ遂行ス。
五、本校ノ学生人員ヲ五拾名トス。
六、本校ノ卒業年限ヲ二ケ年トス。労働及学業時間ノ割合ハ大体半日ヲ労働ニ半日ヲ学業ニ従事ス。
七、本校ハ卒業ノ後、労・学兼備ノ優秀ナルモノニ奨学資金ヲ用ヒテ海外(北米、日本、独逸、デンマーク、其他)ヘ練習派遣セシム。
      一、完成後ノ学校経営収支予算表
  一、ガラナ園八十町歩ノ内三十町歩ヲ直営トシ、残五十町歩(五戸)ヲ等分小作法ニテ経営ス。
  二、ガラナハ一町歩ニ三百五十株ヲ栽培ス、完成結実量ヲ一株ニ付一キロ(乾燥シタ儘ノモノ)トス。
  三、ガラナノ代価ハ一キロ(乾燥シタ儘ノモノ)十ミルレーストス。
  四、伯貨ノ単位ヲミルト云フ。而シテ千ミルレースヲ一コントストス。
  五、伯貨一コントスハ現時日貨ノ二百五十円ニ相当ス。
     収入ノ部
 - 第38巻 p.250 -ページ画像 

図表を画像で表示収入ノ部

 項目   反別    収量        金額(日貨)     備考 直営  三〇町歩  一〇、五〇〇キロ  二六、二五〇・〇〇  伯貨一〇五コントストス 小作  五〇同    八、七五〇同   二一、八七五・〇〇  全収量及全金額ノ半分ヲ計上セシモノ、伯貨八〇七コントス五〇〇レース、トス 計   八〇同   一九、二五〇同   四八、一二五・〇〇 



    支出ノ部

図表を画像で表示支出ノ部

  項目    金額(日貨)       備 考 職員給    一五、〇〇〇・〇〇   農園・学校・教会共全員十二人 学生手当費   三、〇〇〇・〇〇   五十人、一人一ケ月平均五円 奨学資金    五、〇〇〇・〇〇   主トシテ練習生ノ旅費補助 事務費     二、〇〇〇・〇〇   通信費共 食料補充費   二、〇〇〇・〇〇   学生ノ外臨時客ヲ加ヘ一日平均五十五人、一人一ケ月三円当校ニ於テ自給シタルモノハ之ヲ省略ス 農園費     二、五〇〇・〇〇   農園ニ属スル費用一切 学校費     二、五〇〇・〇〇   学校ニ属スル費用一切 臨時費     三、〇〇〇・〇〇   特別ナル事項ニ要スル費用 予備費     五、〇〇〇・〇〇   臨時費トシテ不足ヲ生ジタル時支出ス  計     四〇、〇〇〇・〇〇 差引残額    八、一二五・〇〇 



      二、完成後ニ於ケル直営業種別所要人員表

項目   人員    備考
農園係  三五人 ガラナ二十町歩ト其間作
家畜係   五人 自家用家畜、搾乳及乳製共
炊事係   五人 飯タキ、其他
雑業係   五人 雑務一切
  計  五〇人 

  当務以外著シキ臨時ノ仕事ニ限リ農閑ヲ利用ス。
      三、設立予算表
 一、金五〇、〇〇〇円
    内訳
 項目      金額(日貨)      備考
創業開墾費  三〇、〇〇〇・〇〇  五ケ年間累計ノモノ
本建築費   二〇、〇〇〇・〇〇  校舎 ・寄宿舎・教会ノ本建築
                 (五千円)(一万円)(五千円)
      四、創業開墾費内訳予算表
   備考
     一、常員ハ家族ノ数ヲ六・七名トス。
     一、常員家族ハ次年ヨリ自給スルモノトス。
 一、金三〇、〇〇〇円
    内訳

図表を画像で表示創業開墾費内訳予算表

 項目            金額(日貨)     備 考 土地選定費        二、〇〇〇・〇〇   費用ノ割合少額ナルハ既ニ獲得シタル部分アルヲ以テナリ 伐木(百町歩)費     二、五〇〇・〇〇   耕作面積ノ五割増シ十町歩伐木請負賃約二百五十円ノ割 小屋掛(八戸)費     一、六〇〇・〇〇   各戸二百円宛 諸道具(農具及山道具)費   八〇〇・〇〇   各戸百円宛 炊事具及家具費        八〇〇・〇〇   各戸百円宛 家畜及諸種苗費        八〇〇・〇〇   各戸百円宛  以下p.251 ページ画像  事務所及設備費      二、〇〇〇・〇〇   建築費共 常員手当        一一、五〇〇・〇〇   常員二人 食料費          一、〇〇〇・〇〇   初年一ケ年間常員六・七人分、一人一ケ月約十二円宛 渡航手当費        二、〇〇〇・〇〇   常員及其家族 創業費          二、〇〇〇・〇〇 臨時及予備費       三、〇〇〇・〇〇   計         三〇、〇〇〇・〇〇 




海外植民学校書類 【(印刷物) (ゴム印)昭和五年度処務報告】(DK380021k-0026)
第38巻 p.251 ページ画像

海外植民学校書類           (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
                 (ゴム印)
    昭和五年度処務報告     昭和六年六月廿六日
○上略
尚玆ニ本校経営費トシテ昭和五年度中御寄附賜リタル左記方々ノ御芳名ヲ掲ゲ感謝ノ意ヲ表ス
      1 維持会
○中略
 合計 千百五十八円九十六銭也
      2 臨時寄附者芳名
○中略
 一金百円也    渋沢栄一殿
○中略
 合計金五千五百五拾弐円也
右簡単ながら御報告申上候、本年も一層の御力添へと御鞭撻の程奉願上候、終りに貴家御一統様の上に御健康と御祝福を祈上候 敬白
             (三行ゴム印)
              東京府荏原郡世田谷町下北沢
                   私立 海外植民学校
                     振替東京一五七七九番