デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.16

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
4節 国際記念事業
2款 タウンゼンド・ハリス記念碑建設
■綱文

第38巻 p.351-414(DK380040k) ページ画像

昭和2年10月1日(1927年)

是日、ハリス記念碑除幕式並ニ玉泉寺修繕落成式、同寺ニ於テ挙行セラル。栄一臨席シテ演説ヲナシ、翌二日帰京ス。栄一挙式ノ費用ヲ負担ス。


■資料

タウンゼンド・ハリス氏 記念碑除幕式 玉泉寺修繕落成式 書類(DK380040k-0001)
第38巻 p.351-353 ページ画像

タウンゼンド・ハリス氏 記念碑除幕式 玉泉寺修繕落成式 書類
                    (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
拝啓、秋冷の候益御清適賀上候、然ば伊豆国柿崎の玉泉寺は微々たる一小寺に候得共、安政三年米国総領事タウンセンド・ハリス氏の駐箚によりて、我が国最初の外国使臣館となり、其の名を海外にまで伝播致候、ハリス氏は深沈にして忠恕の念厚く、当時世界の大勢に疎き我が国に対し威圧を加ふるが如きことなく、隠忍持久、能く幕府の有司を誘導啓発し、極めて公平なる通商条約を締結し、以て爾後沓至せる諸外国をして皆之に準拠せしめ候のみならず、爾来頻発せる幾多外交上の葛藤に対しても、常に我が国情を察して懇切穏当の態度を持し、多大の便益を得せしめたる我が開国の恩人に御座候、然るに未だ此由緒ある史蹟と氏の遺徳とを永遠に記念すべき何等の施設無之は、老生の夙に遺憾とする所に有之候処、往年故米国大使バンクロフト氏も亦老生と感を同くし、同国人ウルフ氏と謀り、記念碑建設の事を老生に託せられ、頃日工事完成致候、又玉泉寺の堂宇は神奈川の開港と共に
 - 第38巻 p.352 -ページ画像 
下田港閉鎖せられ、米国領事館撤廃せらるゝ後、七十年の星霜を経て甚しく荒廃致候に付、同寺の住職檀越並に関係町村長等諸氏相謀り、汎く資を募りて修理を加へんとし、老生に援助を求められ候に付、乃ち日米協会会長徳川公爵に請ひ、同会員諸氏の賛同を得て、其挙を助け、以て旧観に復し候、就ては来る十月一日午後正三時、同地に於て右記念碑の除幕式と堂宇の修築落成式とを兼ねて挙行致候間、御多忙中恐縮に候得共、御繰合せ御参会被成下候はゞ本懐の至に御座候、右御案内申上度如此御座候 敬具
  昭和二年九月二十日
                      渋沢栄一
   (別筆)
   一般来賓宛
副申
 一柿崎は伊豆下田町を東方に距ること十余町、頗る僻遠の地に候得共、山を負ひ海に臨み野趣掬すべきもの有之候へば、秋天清澄の候一日都門の紅塵を避けて、此遺跡を探るも亦一快事なるへくと存候
 二御参考の為め別紙東京下田両地間汽車汽船発着時間表相添置候得共、当日東京より御参会の御方々は左記時刻を以て御出発被成下度候
  一東京駅発 普通列車午前五時五十分 沼津着午前十時 急行列車午前七時三十分 沼津着午前十時四十五分
  一沼津発自動車午前十一時柿崎着凡午後二時三十分
  右沼津までの御乗車賃は御自弁相願候へども、沼津より柿崎までの自動車は、一車五人乗として用意致置候に付、随意御乗車可被下候
 三当日昼飯は天城峠頂上にて差上候事に準備致置候に付、御承知被下度候
 四御帰途は御自由に相願候へども、若し当日下田町又は蓮台寺(下田附近温泉場)に御一泊の御方々には、御通知に依り旅館の御周旋可申上候
 五乍御手数封中端書にて御参否御回示被下度候
(下ゲ紙・朱書)
 [誠に恐入候へ共準備の都合有之候に付御参否来る九月二十六日迄に御回示被下度候
  ○別紙(汽船汽車発着表)、同封葉書略ス。

(印刷物)
拝啓、秋冷の候益御清適賀上候、然ば先年日米協会会長徳川公爵に頼りて、各位の御賛助を仰ぎ候米国最初の総領事タウンセンド・ハリス氏の遺跡なる伊豆国柿崎の玉泉寺本堂修築の儀は、去五月御報告致候通先般既に完成致候処、前米国大使バンクロフト氏並に同国人ウルフ氏と謀り、同寺境内ハリス氏の始めて米国旗を樹立せし位置に建設中の同氏記念碑も、頃日漸く竣工致候に付、来る十月一日午後正三時、同地に於て右両者の落成式を兼ねて挙行致候間、御多忙中恐縮に候得共御繰合せ御参会被成下候はゞ本懐の至に御座候、右御案内申上度如
 - 第38巻 p.353 -ページ画像 
此御座候 敬具
  昭和二年九月二十日
                      渋沢栄一
(四行別筆)
米国大使ニ御列席ヲ請フ為メ、同大使ノ出
席時日未決定ナリシタメ本書状ノ出来従テ
延引、九月廿日其決定ト共ニ印刷シタル次第ナリ 明六
    寄附者各位宛
副申
 一柿崎は伊豆下田町を東方に距ること十余町、頗る僻遠の地に候得共、山を負ひ海に臨み野趣掬すべきもの有之候へば、秋天清澄の候一日都門の紅塵を避けて此遺跡を探るも、亦一快事なるへくと存候
 二御参考の為め別紙東京下田両地間汽車汽船発着時間表相添置候得共、当日東京より御参会の御方々は左記時刻を以て御出発被成下度候
  一東京駅発 普通列車午前五時五十分 沼津着午前十時 急行列車午前七時三十分 沼津着午前十時四十五分
  一沼津発自動車午前十一時 柿崎着凡午後二時三十分
  右沼津までの御乗車賃は御自弁相願候へども、沼津より柿崎までの自動車は、一車五人乗として用意致置候に付、随意御乗車可被下候
 三当日昼飯は天城峠頂上にて差上候事に準備致置候に付、御承知被下度候
 四御帰途は御自由に相願候へども、若し当日下田町又は蓮台寺(下田附近温泉場)に御一泊の御方々には、御通知に依り旅館の御周旋可申上候
 五乍御手数封中端書にて御参否御回示被下度候
(下ゲ紙・朱書)
 [誠に恐入候へ共準備の都合有之候に付御参否来る九月二十六日迄に御回示被下度候
  ○別紙(汽船汽車発着表)、同封葉書略ス。


集会日時通知表 昭和二年(DK380040k-0002)
第38巻 p.353 ページ画像

集会日時通知表 昭和二年         (渋沢子爵家所蔵)
十月一日 土 午後三時   タウンセンド・ハリス氏記念碑除幕式
              (伊豆、柿崎玉泉寺)
       午後二時   米国大使御出迎の為波止場ニ御出向
       午後二時半  玉泉寺へ御出向 柿崎阿波久に御一泊
十月二日 日 午後五時二一 沼津発
       午後八時二〇 東京着


タウンゼンド・ハリス氏記念碑除幕式玉泉寺修繕落成式書類(DK380040k-0003)
第38巻 p.353-356 ページ画像

タウンゼンド・ハリス氏記念碑除幕式玉泉寺修繕落成式書類 
                    (渋沢子爵家所蔵)
    子爵玉泉寺御出向ノ事
一、一行 渋沢子爵 積積御後室 渋沢敬三氏 主治医林正直氏 岡田純夫氏 看護婦藤井 侍女
 - 第38巻 p.354 -ページ画像 
   七名
     外ニ運転手近藤、荒山、足立
一、九月三十日午前九時半東京駅発 十二時四十分沼津駅着
  子爵常用ノ自動車ヲ沼津駅ニ廻スコト
  敬三氏同     同
  自動車ニテ同地出発修善寺温泉ニ至ル
○中略
一、三十日ハ修善寺ニ一泊 旅館新井屋
  新井屋ニ一階ニテ室六ノ準備方依頼スミ
一、十月一日午前十時修善寺ヲ自動車ニテ出発○中略凡正午柿崎着
一、同日ハ柿崎ニ一泊   旅館阿波久
一、子爵ノ十月一日ノ日程(柿崎ニ於ケル分)
  午後二時少シ過キ駆逐艦ニテ参列スル大使ヲ波止場ニ迎へラルヽコト
  〃 二時半徳川公爵ヲ玉泉寺ニテ迎へラルヽコト
  午後三時  記念碑除幕
  〃 四時  式場ニテ御挨拶
  〃 五時半 参列者ト会食
  〃 六時  終了○中略
一、十月二日ハ柿崎ニ緩々セラルヽカ、又ハ午前御出発途中名蹟地ヲ探ラルヽカ、其時ノ相談ニ譲ルトシテ、帰途ハ前日ノ如ク自動車ニテ柿崎ヲ発シ、沼津発午後五時二十一分ノ特急ニテ帰京セラルルコト
○中略
一、増田明六・小畑久五郎両氏ハ事務所ノ用務ヲ弁シ次第、、二十九日午後東京駅ヲ発シ、可成其夜柿崎ニ到着スルコト、若シ不能ノ場合ハ湯ケ島ニ一泊シ、三十日朝可成早ク、遅クモ同地七時発定期自動車ニテ午前十時頃迄ニハ玉泉寺ニ至リ、村方委員ト当日ノ準備ヲ協議スルコト
    十月二日 渋沢子爵之御日程
午前七時半 朝食
午前八時半 曾我村長ト御会見ノ約(阿波久)
午前九時  村松春水氏ト御会見ノ約(阿波久)
午前十時  柿崎小学校へ御出向ノ約
午前十時半 阿波久旅館へ御帰館
午前十一時 午食
正午    出発
    十月二日 子爵御帰京ノ順序
一正午 阿波久(旅宿御出発)出発
○中略
一途中休憩ヲ予定セス、直路後四時静浦保養館ニ至リ休憩
一後五時二十分沼津発特急列車ニ搭乗
 - 第38巻 p.355 -ページ画像 
  夕食同車内
一汽車ニハ子爵・穂積令夫人・林正道・増田明六・中野時之・看護婦侍女ハ子爵ニ同乗シ、敬三殿・小畑久五郎氏・岡田純夫氏ハ敬三氏自動車ニ乗シ帰京
 増田・小畑・中野ハ下田ニテ自動車ヲ雇入レ同乗、子爵ノ自動車ニ従行

昭和二年十月一日午後三時
  ハリス記念碑、玉泉寺修築落成式
   東京側出席者氏名
           海路(軍艦)出発者
             米大使  チヤールス・マクヴエー
             陸、武官 チヤールス・バーネツト
             総領事  エドウヰン・ネヴヰル
             参事官  ノーマン・アーモア
             海、武官 ジヨージ・マツクコール・コールツ
             書記官  ユージエン・エツチ・ヅユーマン
             書記官  ヒユー・ミラード
              〃   ロバート・バーガー
              〃   ホーレツク・エー・バツヅ
                  米大使館員一名
             海軍少佐 長尾惣助
             海軍中佐 吉田健助
             海軍少佐 佐藤源蔵
                  海軍将校十二名
                伯 樺山愛輔
                  (外務大臣代理)
                  若杉要
                  武田円治
                  芝染太郎
           陸路出発者
                  藤沢利喜太郎
                  大谷嘉兵衛
                男 大倉喜八郎
                  同随行参名
                公 徳川家達
                  同随行壱名
                  頭本元貞
                  岸清一
                男 阪谷芳郎
                  同随行壱名
                  井野辺茂雄
                  藤井甚太郎
                  高田利吉
                  堀通名
 - 第38巻 p.356 -ページ画像 
                  テイ・エム・ラツフイン
                  同友人一名
                  神谷忠雄
                  服部金太郎
                  菱田静治
                男 近藤滋弥
                  中松盛雄
                  小田川全之
                  崎山比佐蔵
                  清水釘吉
                  清水組員弐拾名
                  渋沢子爵
                  渋沢敬三
                  林正道
                  増田明六
                  外随行七名
 以上合計八拾七名
 玉泉寺来会者合計百四名
総計合計百九十一名
  (別筆)
  穂積令夫人ト侍女
玉泉寺建築委員五氏へ、子爵ヨリ色紙二揮毫セラレタルヲ額ニ調成シテ送附シ、謝意ヲ表セラレタリ
  村上文機氏 曾我彦右衛門氏 寺川嘉三郎氏
  鈴木寅之助氏 土屋仁三吉氏
右二・九・三〇、○昭和二年九月三十日 清水組高橋君を経て、五氏の各自宅へ届けたり


タウンゼンド・ハリス氏 記念碑除幕式 玉泉寺修繕落成式 書類(DK380040k-0004)
第38巻 p.356-357 ページ画像

タウンゼンド・ハリス氏 記念碑除幕式 玉泉寺修繕落成式 書類
                   (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
  タウンセンド・ハリス氏記念
    建碑除幕式並玉泉寺修繕落成式次第
             昭和二年十月一日於伊豆柿崎玉泉寺
一、式開始         午後三時
   記念碑除幕終リテ本堂ニ参集
一、建碑並修繕ノ趣旨  子爵        渋沢栄一氏
一、祝辞        米国大使      チヤールス・マクヴエー氏
一、祝辞        公爵        徳川家達氏
一、祝辞        外務大臣男爵    田中義一氏
一、祝辞        男爵        大倉喜八郎氏
一、祝辞        静岡県知事     長谷川久一氏
一、謝辞        町村長総代下田町長 鈴木寅之助氏
 - 第38巻 p.357 -ページ画像 
一、謝辞        浜崎村長      曾我彦右衛門氏
   右ニテ式終了
一、食卓開始
   右終リテ解散


篭門雑誌〔竜門雑誌〕 第四六九号・第一―四頁 昭和二年一〇月 タウンセンド・ハリス記念碑除幕式に於て 青淵先生(DK380040k-0005)
第38巻 p.357-359 ページ画像

竜門雑誌 第四六九号・第一―四頁 昭和二年一〇月
   タウンセンド・ハリス記念碑除幕式に於て
                      青淵先生
 安政三年米国人タウンセンド・ハリスが、最初の総領事として我が国に来航し、領事旗を此の玉泉寺境内に樹てたのでありますが、此ハリスを永く記念する碑を建設したいと云ふので、種々心配して居りました所、漸く出来上りましたので、今日除幕式を挙行するに至つたので御座います。ハリスが玉泉寺に居りました時代は、寺も荒れては居なかつたと思ひますが、何分爾来七十年も経過したことでありますから、最近になつては本堂の如きかなりひどくなつて居りました。従つて建碑と同時に之れを修理する必要が起り、日米協会の尠なからぬ御援助を得まして、斯く立派に改修が出来上りましたことをお礼申上げます。
 我が国の外国に対する交通は、米国のペリー提督が渡来してからでありまして、三年後にハリスが来られ、日米通商貿易の条約を締結したのであります。当時或方面では尚ほ攘夷論が盛んであつただけに、甚だしい物議を生じましたが、ハリスは常に日本の前途の幸福を念願して、我が当局者を啓発誘導し、極めて公平に極めて親切に条約を結ぶに意を用ひ、他国の模範となつたのであります。又それ以来頻発致しました処の外交上の葛藤に対して同情ある誠を尽し、我が国に好都合になるやうに努力してくれたのであります。総領事として玉泉寺に駐在した約三年、並びに後公使として麻布の善福寺に駐剳して居た三年近く、前後を通じて五年九ケ月日本に滞在しましたが、其間実に誠意に満ちた行為に出で、此処に私達が記念碑を建てねばならぬ程の厚情を披瀝したのであります。
 特に申上げたいと思ふ事柄は、ハリスの通訳官として影の形に添ふ如く彼の働きを助けて居た和蘭人ヒユースケンが、万延元年攘夷論者に殺害せられたときに採つたハリスの行動であります。当時ハリスは公使として善福寺に居りましたが、各国の公使は此事件に憤慨し、幕府の警備の足らぬことを理由として夫々の公使館を引払ひ、神奈川まで引上げたのであります。然るにハリスは泰然自若として善福寺を去らず、他の公使の撤退勧告に対し「新らしく開かれやうとする国へ来て居る以上、多少の危険のあることは言ふまでもない。今度の事件に付ても、予て幕府からは夜の外出をせぬやうにとの注意を受けて居るのに、ヒユースケンは夜間に外出して此災難に遭つたのである。然らば幕府のみを責めることは出来ないではないか。然るに拘らず公使館を退去して幕府を無視する如きは採らざる所である」と答へ、敢然として主張を通した。従つて一度引上げた各国の公使も追々江戸へ帰つて来たのであります。誠に其の事理を弁へた言動、日本に対する思ひ
 - 第38巻 p.358 -ページ画像 
やりの深さ、其好意に満ちた点は、私等の銘記して忘れてならぬ処であります。更に斯様な武士的行為のみでなく、通商貿易に関する条約其他タリフ(税率)に就て、英仏其他の如き或る野心を持つて来る国国に先んじて、日本に有利な決定を為さしめたことは、一層記念すべき事柄であります。
 斯の如きハリスの日本に対する厚情を永久に記念しようと、皆様と共々に力を協せて事に当りました処、幸に玉泉寺の改修並に建碑が速かに工を終り、此処に米国大使閣下、徳川公爵其他各方面の有力者並に当浜崎村及び下田町の方々多数の御参集を請ひ、此式を挙げることが出来たのは、真に欣快の至りであります。
此処に又、衷心の喜を申上ると同時に、ハリスの霊にお答へせねばならぬことがあります。それは只今記念碑のある地点へハリスが、領事旗を樹てた九月四日の日記を意訳致しますと、次の如く書いてあります。
   西暦千八百五十六年九月四日。木曜日。昨夜は興奮と蚊群とに妨げられ殆ど眠を為さず。蚊は体躯極めて大なり。朝来予と共に上陸せし人々、予の旗竿を立てんとせしも、竿重くして捗らず、旗竿倒れ、横桁折れしも、幸に負傷せし者なし。終に軍艦よりの増援を得て、旗竿は立てられたり。此日午後二時半、一同其周囲に円をなし、予は此帝国に於ける「最初の領事旗」を掲揚したり感慨殊に深し、蓋し日本の国情変化の兆にして、更新の端なるべし。借間す。予が思惟する如く、日本の為に真に有益なりや如何にと。
 実に此の「自分の親切が日本の将来の幸福となるであらうか」と自問して居ることに対し、私はお答へせねばならぬ義務を感ずるのであります。そして「お思召の通りになりました。我々は貴方の厚情を忘れませぬ。霊あらばお享け下さい」と申すのでありまして、皆様と共に声を大にして在天のハリスの霊に対へ度いと思ふので御座います。即ち殊更に申述べるまでもありませんが、ハリス渡来後七十年間の日本の国情の変化を回顧致しますと実に感慨無量であります。就中私の如く親しく身に触れて其の経過を見て居る者には、よく斯くまで進んだものであると思はずには居られないのであります。我が国は今や米英と肩を並べて世界三大国の一つと云はれ、或は又五大強国の一つと称せられて居ります。政治上には封建的専制から立憲国となり、更に普通選挙も施行せられて居ります。経済に於ては資源乏しきに拘らずよく他列強に伍し、貿易額の如きも年々に増加し、学術に付ても亦先進国に劣らず、其他文明文化の施設に於ても、欧米の粋を採つて、東洋に偏在する一帝国でありながらも、世界の視聴を集めるまでになつて居りますが、之れ一つにハリスが最初外交・通商に同情ある指導を吝まず、よく日本の前途を心にかけて居てくれたことに端を発して居ると云つてもよからうと存じます。
 数日来の雨が残りなく晴れ、絶好なる秋日和となつた今日、記念碑の除幕式を盛大に挙行するを得ますのは、此建設者たる故バンクロフト大使も地下に喜んで居られることと思ひます。又其一人たる市俄古
 - 第38巻 p.359 -ページ画像 
のウルフ氏へも直ちに電報を以て通知致す筈であります。特に私に於ては欣喜に堪へず厚く関係者諸氏に御礼申すと同時に、皆様の御心労を深く謝する次第あります。
 右の一文は十月一日青淵先生が、伊豆下田在柿崎の玉泉寺に於けるタウンセンド・ハリスの記念碑除幕式にて述べられたものであります。尚ほハリスに関する先生の御感想に就ては、先生御執筆の「日本に於けるタウンセンド・ハリス君の事蹟」(特別欄掲載)を御覧願ひます。


竜門雑誌 第四六九号・第一〇二―一二二頁 昭和二年一〇月 ハリス記念碑除幕式(DK380040k-0006)
第38巻 p.359-365 ページ画像

竜門雑誌 第四六九号・第一〇二―一二二頁 昭和二年一〇月
    ハリス記念碑除幕式

図表を画像で表示--

 青淵先生が大正十四年から御心配になつて居た、タウンセンド・ハリスの記念碑はいよいよ竣工し、十月一日伊豆下田柿崎の玉泉寺に於て、同寺の修繕落成式と共に除幕式が挙行せられたのであります。本稿はハリス記念碑建設の経過、玉泉寺修理に関する事柄、並に当日の状況の大要を記録したものであります。 



      一
 故駐日米国大使エドガー・エー・バンクロフト氏は、大正十四年四月、駐日最初の総領事にして後に公使たりし、タウンセンド・ハリスが始めて上陸し、領事館としたる、伊豆下田在柿崎の玉泉寺に赴き、往古の使節が苦心経営せし当時を偲び、此処に記念の何物かを遺さんと決心し、我が青淵先生に詢る処があつた。而して氏の友人たるシカゴのヘンリー・エム・ウルフ氏は当時来朝中であつたが、其の費用に充当する為め若干金を寄附したのである。然るに、是より先大正
十三年頃より伊豆柿崎地方の有志は、此の維新当時の史蹟たる玉泉寺の保存を必要とし、玉泉寺住職・加茂郡長・下田町長・浜崎村長、其他同寺檀徒総代の名を以て本堂其他の修繕を為さんとし、村上住職及檀徒総代は青淵先生を訪問して熱心に尽力を請うたのである。従つて予てハリスの公正にして同情ある態度に敬服して居られた青淵先生は、一方バンクロフト氏により、又他方下田地方有志の意に動かされて、其の記念碑建設のこと、及び玉泉寺本堂其他修理のことに、中心となつて力を致さるゝことにせられた。故バンクロフト氏より最初の来翰は次の如くで大正十四年四月廿日附である。
 拝啓、玉泉寺の件に関し御言伝を賜り奉深謝候、新聞にて御承知の通り小生は同地に於て熱心なる歓迎を受け申候、同地の人々は小生の旅行をして愉快ならしめ、且つ印象深きものとせしめんが為め全力を尽されしものゝ如く小生は感じ申候。小生は同寺に於て安眠出来候事とは存候得共、御懇切なる御注意に従ひ日本式旅舎に一泊致し、極めて快適なる一夜を過し申候。
 タウンセンド・ハリス記念碑に関する御言葉は、小生の欣快とする処に有之候、至急碑文を御認め被下候はゞ直ちに鋳造に着手せしむるを可得と存候。該記念碑の設計及建立に際し小生も関係致すを得
 - 第38巻 p.360 -ページ画像 
ば幸甚と存候。只今日本に来遊中なる市俄古の一友人は、日本に於て忝うせる多くの好意に対し深甚なる謝意を表せんが為めに、該記念碑の設計に就き懸賞募集を試みん事を申出候得共、此事業は閣下によりて行はれ居るものにして、何を措いても閣下御自筆の文字を青銅に刻まるべきものなる旨を談置申候。此等の件に関し御面会の上御談話申上度と存候に付、御都合よき時日を御示被下候はゞ喜んで参上可致所存に御座候。
 下田に参り候節は天気晴朗にして、若し当日閣下の御出馬ありしならんには、実に此上もなき清遊なりしものをと遺憾に存居候 敬具
      二
 而して青淵先生は、日米問題に関係ある方面より援助を受くるを至当とせられ、十四年五月日米協会長徳川家達公に宛て左の如き書面を送られた。
 拝啓、益御清適奉賀候、然は伊豆国下田町の東南柿崎の玉泉寺は、辺陬の一小寺に候処、安政開国の初米国総領事タウンセンド・ハリス氏の駐箚によりて最初の外国使臣館となり、遠く海外にまで名を知らるゝに至り候、ハリス氏は御承知の如く勇敢真摯の士にして、当時世界の大勢に疎き我国に対しても威圧を加ふるが如きことなく隠忍持久、五年の久しきに亘りて誘導啓発し、極めて公平なる通商条約を締結し、以て後来諸外国をして其矩范を超ゆる能はざらしめ候のみならず、爾来頻発せる幾多外交上の葛藤に対しても懇切穏当の態度を持し、多大の便益を得せしめたる、申さば我が開国の恩人に御座候、然るに横浜の開港と共に下田港閉鎖せられ、米国国旗撤去せらるゝに及びて、玉泉寺は復た昔日の寒寺となり了り、爾来六十余年の星霜を経て幕末維新史上忘るべからざる此遺蹟も甚しく荒廃致し、徒らに雑草に埋るゝことゝ相成申候、同寺の住職・檀家並に関係郡長町村長等深く之を慨し、今回汎く資を募りて堂宇を旧観に復し以て永く後世に伝へんことを謀り、老生の賛助を求められ候老生は現今日米国交上の関係に鑑み、坐に感慨已み難きもの有之、如何にもして其計画を成就せしめ度と存候間、誠に勝手之御願に候へども何卒御会に於て此挙を賛せられ、右復旧費御補助被成下度、特に御依頼申上候 敬具
 謂ふまでもなく物事を合理的に考へねば已まぬ青淵先生は、此事項を一つは建碑、一つは修理に区別し、記念碑はバンクロフト氏の意向を尊重して、同氏及ウルフ氏並に青淵先生三人にて建設することゝし本堂の修理は、日米協会の会員有志の寄附金に待つ事とせられたのである。
 然るに不幸にもバンクロフト氏は、十四年七月廿八日突如長逝せられたから、青淵先生は建碑の設計に付て相談相手を失はれたが、爾来全責任を一身に引受けて計画を進められた。一方本堂修理に付いては総体の監督を増田明六氏に、修繕委員を下田町長鈴木寅之助、浜崎村長曾我彦右衛門、委員総代寺川嘉三郎、檀家総代土屋仁佐吉、玉泉寺住職村上文機の五氏に、又工事監督を清水組に嘱託して大正十五年十月修繕に着手し、昭和二年二月竣工せしめられた。而して記念碑の方
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も故大使の希望に依りて、表面にはハリスの日記の一節と建設の意味とを英文にて、又裏面には青淵先生の感想を邦文にて彫刻を了し、建設も滞りなく終つたので、現米国大使マクヴェー氏と打合はせの上、十月一日愈々記念碑除幕式並玉泉寺修繕落成式を挙行するに到つたのである。
      三
 青淵先生は九月三十日午前九時三十分東京駅を後にし、同夜修善寺に一泊の上、一日午後米国大便マクヴェー氏、徳川公等より先に柿崎に到着せられた。此日車上とは云ひながら、彼の天城の嶮岨を越えたに拘らず、些かの疲労の態もなく努められた。やがて駆逐艦島風が午後二時に着して、マクヴェー大使一行が上陸し、二時半には徳川公・阪谷男等の一行が陸路到着し、何れも玉泉寺に入る。午後三時いよいよ式は始まり、玉泉寺住職村上文機氏令息庸道君の手によりて記念碑の幕が除かれた。しばし拍手が静まらぬ。それから徳川公、マクヴェー大使、青淵先生の記念植樹があり、次で碑を後ろにしたものと、本堂を背景にした写真の撮影を為して後、一同式場たる本堂に参集し、左の順序にて式を進めた。
 一、建碑並修繕の趣旨 子爵        渋沢栄一氏
 一、祝辞       米国大使      チャールス・マクヴェー氏
 一、祝辞       公爵        徳川家達氏
 一、祝辞       外務大臣男爵    田中義一氏
 一、祝辞                 大倉喜八郎氏
 一、祝辞       静岡県知事     長谷川久一氏
 一、謝辞       町村長総代下田町長 鈴木寅之助氏
 一、謝辞       浜崎村長      曾我彦右衛門氏
 一、挨拶       子爵        渋沢栄一氏
 而して右青淵先生の「建碑並修繕の趣旨」は巻頭言として掲ぐる通りであり、其他の人々の祝辞や謝辞は次の如くである。
   マクヴェー大使祝辞 ○後掲ニツキ略ス
   徳川(公爵)日米協会長祝辞(翻訳)
 閣下、紳士並に淑女
 今日此重要なる式に諸君と共に列するを得たるは、私の最も光栄とする所であります。今日の此式には真に異常なる興味と意義とがあります。我々は此由緒ある土地に於て、偉大なる亜米利加の一市民であり、且其名が我帝国史上に於ける一大危機と共に、最も広く又最も著しく、永久に聯想さるゝ所の外交官を記念せんとして集つたのであります。
 日本が従来の鎖国を棄て、国際場裡に新しき不安の一歩を踏出さんとするの秋、泰西最初の外交使節としてタウンセンド・ハリス君の如き寛宏、中正にして且至公無私の主義に、忠実なる一人格を得たことは、日本並に亜米利加を愛する者の共に衷心感謝措く能はざる処であります。ハリス君によつて日本はその名誉と福利に対し、権威あり且力ある擁護者を得、同時に耐忍力に富める友人と、変りなき同情者を見出したのであります。
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 私は国を愛する者として、又日米国交の増進を忠実に祈る者として彼の事績を尊重するものであります。加之彼の遺績に私が深甚の敬意を抱き、愛着の念を禁じ得ざる所以のものがあります。タウンセンドハリス君が私が現に其の代表者たるの光栄を有する徳川家、当時の首長に国書を捧呈したことは申上げる迄もないのであります。故に私が合衆国最初の公使に関する総てに就て、個人的感興を有することは諸君の諒とせらるゝ所であると考へて居ります。
 終に臨み私は尊敬する友人渋沢子爵が、故バンクロフト大使並に市俄古のヘンリー・エム・ウルフ氏と共に、太平洋の両岸に位置する二強国間に於ける永久の友情の基礎を築いた、此大偉人に対する深き敬意と欽仰の情を表現する為め、斯の如く立派に計画せられたる周到なる用意に対し、厚く感謝の意を表せんとするものであります。
   田中内閣総理大臣兼外務大臣祝辞(代読)
 タウンセンド・ハリスハ安政三年七月二十一日、最初ノ米国総領事トシテ下田ニ来著シタリシカ、当時排外ノ気風盛ニシテ、外国使臣ノ身辺ニ危殆ノ及ハントセルコト罕ナラサリシニ拘ラス、ハリスハ克ク此ノ間ニ処シテ隠忍自重機宜ヲ愆ラス、終始熱意ヲ以テ世界ノ大勢ヲ説キ、当時幕府ノ閣老ヲ動カシ、遂ニ安政五年日米互市条約ヲ締結シ、玆ニ両国々交ノ端ヲ開キ、日米親善関係ノ基礎ヲ定メタリ、爾来安政六年特命全権公使ニ任セラレ、文久元年其ノ職ヲ辞スル迄一意両国友誼ノ増進ニ力ヲ竭シ、以テ東西文化ノ融合ニ貢献スル処尠カラス、今日両国間ニ存スル伝統的友誼ハ実ニハリスノ崇高ナル人格ト非常ノ努力トニ負フ所大ナルモノアリ、今ヤ斯ノ遺跡ニ記念碑ヲ建テ、正史ト共ニ消エサル此ノ偉功ヲ頌セントスルニ当リ聊カ蕪辞ヲ列ネテ式辞ニ代フ。
  昭和二年十月一日
          内閣総理大臣兼外務大臣男爵 田中義一
   大倉喜八郎氏祝歌
    ハリス君の建碑式場へ呈す
 建碑式むかししのべば感無量
         君の功は世に残りけり 鶴彦
   長谷川静岡県知事祝辞(代読)○後掲ニツキ略ス
   町村長総代鈴木下田町長謝辞 ○略ス
   曾我浜崎村長謝辞 ○後掲ニツキ略ス
   青淵先生挨拶
 只今は祝辞や謝辞の御叮嚀な御言葉を得ましたことを感謝致しますが、私の身にまで及んだ御賞めは恐縮に堪へぬ処であります。誠に此の玉泉寺は、単に浜崎村のものでも下田地方のものでもありません、日本が国家として記念せねばならぬ処のものでありますから、其の頽廃を遺憾と存じまして、建碑のことは故バンクロフト氏から御相談を受け、ウルフ氏の御援助があり、又本堂修築のことは村上さんからお話があり、日米協会の御援助を得まして私が些か御世話致しましたまでゞあります。何分此の計画を始めましたのは大正十四年でありましたが、ハリスの歴史を調べるのに時日を要しました為め、延び延びに
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なり漸く今日其の運びとなつたのであります。どうかハリスの行動が如何に開国当時の日本の為めになつたかを御理解下さるやうにお願申します。特にハリスとの関係浅からぬ御当地の方々には、ハリスの碑文や伝記をよく御覧下さるやう希望致します。又及ばすながら私もハリスの事を広く世間へ知らせるやう努力したいと思ふて居ります。
 何も御饗応はありませねが、粗末な小宴を設けましたから、杯盤の間の斡旋は困難でありますけれど、どうか御悠りとハリスに関するお話でもして下いますやう御願ひ申します。
 尚ほ当日出席の重なる人々は左の通りであつた。
          米国大使    チヤールス・マクヴェー氏
          同総領事    エドゥヰン・ネヴヰル氏
          公爵      徳川家達氏
          伯爵      樺山愛輔氏
          子爵      渋沢栄一氏
          法学博士男爵  阪谷芳郎氏
          海軍中佐    吉田健助氏
          外務大臣代理  若杉要氏
                  大倉喜八郎氏
                  大谷嘉兵衛氏
          理学博士    藤沢利喜太郎氏
          法学博士    岸清一氏
                  頭本元貞氏
                  小田川全之氏
          文学博士    姉崎正治氏
                  神谷忠雄氏
                  清水釘吉氏
                  井野辺茂雄氏
                  藤井甚太郎氏
                  芝染太郎氏
          故穂積男爵夫人 穂積歌子氏
                  渋沢敬三氏
                  増田明六氏
 式は五時半漸く終了して、人々は解散したが、マクヴェー大使一行及び樺山伯爵等は軍艦にて帰京され、阪谷男・大倉喜八郎氏等はそれぞれ下田又は蓮台寺に宿泊せられ、徳川公は自動車にて直ちに出発された。又青淵先生は予定の通り、柿崎の旅館阿波久に宿泊せられたのであつた。
      四
 此の一辺陬柿崎の地に於けるハリス記念碑の建設が、如何に日米の親善に力あるべきかは、交通不便の地に拘らず、斯く多数の有力者が参列せられたことでも明かである。が又其の成功は青淵先生の中心になつての御尽力の結果でもあつたと云へやう。扨て翌二日は昨一日の除幕式を秋日和の裡に無事終らしめた安心からか、早朝多少の秋時雨があつたけれども、一日のあはたゞしい終日の疲労を休めらるゝ人々
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が眼醒めた時分には、其の日の出発を慮つてか空は漸く晴れて来た。青淵先生は早くも村長初め同地方有力者のお礼がてらの訪問を受けられ、次で九時半柿崎小学校へ赴かれて次の如き演説をせられた。
  私は老人で、皆さんの年齢を八人位も寄せなければならぬ程の者でありますが、此方へ参りましたのは始めてゞ、御懇意の方もありませぬけれども、当地へ参るやうになりましたことを心から喜んで居ります。只今校長さんは偉人アブラハム・リンカーンにたとへて私のことを御紹介下さいましたけれども、私は決して偉人ではなく極めて平凡な人間で、少年の頃は皆さんと同様に腕白であつたのであります。扨てリンカーンにしてもジョージ・ワシントンにしても米国の偉い方々でありますが、其同じ米国人であるタウンセンド・ハリスと云ふ人が今から七十年前、日本の而も当地に参りまして、日本が外国との交通をするに就て色々と骨を折り親切にしてくれました。その親切を永く記念したいと云ふので、ハリスが最初に上陸して居住した玉泉寺に記念碑を建てることになり、漸く出来上り其除幕式を行ふことになりましたので、之に出席した訳であります。米国は建国以来の年月は短いに拘らず、土地は肥えて居り、産物が豊かであり、且つ国家として最も必要な鉄や石炭が多く所謂天恵に富んで居る上、人の智恵が発達して、よく之を利用するから益々発展し、愈々国富を増すと云ふ有様であります。一国の進運は天恵に由ると同時に、人智の進みが加はらねばなりませぬ。よい人が沢山生れねばならぬのであります。
  私は政活家でもなければ学者でもない。而も私の少年時代の生ひ立ちは、皆さんと同じく農民の倅と生れ、書物を読むことが好きであつた為め、よく丹精する子供だなどと云はれて居たのが、世の中へ出られる基となり今日に至りました。斯様な長寿を保つては居りますが余りお役にも立ちません。たゞ自分で出来るだけ力を尽して居るに過ぎないのであります。此度のハリス記念碑を建設したのも私が名を好み、利を欲するからでなく、真にハリスが日本の為め心配してくれた事実を現在将来の我が国民によく知らせ度いと思ひ、尚ほ之が日本と米国との国交の上によい影響を与へるならばと考へてのことであります。皆さんには或はこうしたお話は面白くなく脱線と云はれるかも判りませぬけれど、御話致します。我が日本は特殊な政治、即ち他国には見ることの出来ない万世一系の天皇を戴いた国柄でありまして、米国などとは全然相異して居ります。然し義に厚く思ひやりの強い点、言ひ換へますと正義を重んじ人道を尊ぶことは、両者相似て居るのであります。重ねて申せば我が国は米国に比較して、国は頗る狭く国民の数も少く、天恵の如き比較にならないが、人の観念は非常に相似して居るのであります。
  私は学校のお話も、教育に関するお話も出来ないのを遺憾と致しますけれど、斯様な老人でありながら記憶が割合よろしい。余り物忘れをしないのを自慢にして居ります。故に此記憶のよくなる実際の方法を皆さんに御伝授致しませう。記憶と云ひましても、物事は容易に憶へられるものでありません。総て感触の強いことが記憶に
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残るもので、嬉しかつたこと、恐ろしかつたこと、面白かつたことなどはよく憶へられるものであります。其処で記憶をよくしようとするには、此の感触を強める必要があるので、其の工風が肝要であり、其の心掛によつて記憶が確かになり得ると信じて居ります。否私は経験上斯う申すので、今日でも此事を実行致して居るのであります。それは夜寝てから十分ばかり、其日一日にあつたことを考へる。例へば今日午前中にはどうした。私自身とすれば此の地方の人人と話した。即ち村松さん、鈴木さん、又校長さん等と色々のお話をした。学校へ行き、それから宿へ帰つて食事を済ませ、沼津へ行つたと云ふ風に繰返して見る。私は近頃年を取つて老衰した関係からか、十人も人に会ふと誰に何を話したか忘れ易くなつたので困りますが、大抵のことは斯う繰返して見ると記憶を新たに致します。又早朝静かな折に目を醒すと同時に、今日自分は何をしようとして居るかを考へ、そして夜になつて其日あつた事柄を繰り返して好いか悪いか、又自分の意に叶ふたか、叶はぬかを思案すると、一つの行ひを正すことの助けにもなります。
  一般に偉い人は記憶がよいのでありまして、それに米国人とか日本人とかの区別はありません。リンカーンの話が出でたり、ハリスの建碑のことがありましたので、私の記憶に関する経験談を致し、皆さんにも実行せられてはどうかと御勧めする訳であります。殊に日本の前途の発展に対しては、充分に力ある人が沢山出て来ねばなりません。国の隅から隅まで強い精神を持つ人々が、学問に事業に力を尽さねばならぬのであります。
  要するに私は前にも申す通り、政治家でも学者でもないが、国家社会の為めに働くことは他人に譲らない積りで、昨日ハリスの建碑除幕式を挙行したのも、御国の為め未来のある若い人々に、日本開国当時の事情やハリスの事蹟に就て、強い観念を与へたいと思つて為したことであります。此処に居られる皆さんは単に浜崎村の人々ではない、日本国民である、農業に従事すると漁業に従ふとの区別なく、此の日本国民であるとの信念を持つて働くならば、国家は充実し、未来に大いなる希望を繋ぐることが出来るのであります。其順序として先づ記憶をよくするに努める要があるので、私は只今記憶術に就て御伝授致した訳であります。
 斯くて正午、村人の感謝の目送を受け、自動車に乗られた青淵先生は、今一度玉泉寺のあたりを見上げて、静かに柿崎の村を離れた。かくて途中静浦に小憩の後、午後五時二十一分沼津発の汽車に搭ぜられ同夜八時二十分元気よく帰京せられた。


(静岡県知事長谷川久一)祝辞(DK380040k-0007)
第38巻 p.365-366 ページ画像

(静岡県知事長谷川久一)祝辞       (渋沢子爵家所蔵)
    祝辞
日米通商条約締結紀念碑建設、並ニ米国領事館遺跡玉泉寺復旧工ヲ竣ヘ、本日玆ニ除幕式ト堂宇修築落成式ノ盛典ヲ挙行セラル、洵ニ慶賀ニ堪ヘサル所ナリ
顧レハ徳川幕府末葉、米国ハ使臣ヲ下田ヘ派シ日米通商条約ヲ締結セ
 - 第38巻 p.366 -ページ画像 
ムトシ、時ノ幕府ヲ動シテ遂ニ両国ノ親和ヲ結フニ至リ、初メテ下田港ノ開港トナル、是実ニ我海外貿易ノ発端ト云フヘシ、爾来船舶ノ往来スルニ及ヒテ米国総領事ハリス氏来リ、風光明媚ナル柿崎ノ郷玉泉寺ヲ以テ領事館ニ充ツ、玆ニ於テ両国ノ和親協同益々嵩ムニ至レリ、然ルニ偶々下田港廃セラルヽニ及ヒ、寺運亦頓ニ衰ヘ其荒廃ニ帰セムトスルヤ、同寺関係者並ニ同地方民之ヲ憂ヘ、堂宇ノ復旧ヲ計リシガ東西名士ノ賛助ヲ得テ、玆ニ其ノ工成ル、更ニ我国文化ノ揺藍タル遺跡ヲ永遠ニ紀念スヘク碑ヲ建テ、史蹟ヲ鐫刻シテ後尾ニ伝ヘントス、洵ニ美挙ト云フヘシ
玆ニ日米ノ親交弥々厚カランコトヲ祈リ、以テ祝辞トス
  昭和二年十月一日
           静岡県知事従四位勲三等 長谷川久一


(浜崎村長曾我彦右衛門)謝辞(DK380040k-0008)
第38巻 p.366 ページ画像

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中外商業新報 第一四九五〇号 昭和二年一〇月二日 ハリス氏記念建碑除幕式 秋色美しき伊豆の下田に きのふ盛大に挙行(DK380040k-0009)
第38巻 p.366-367 ページ画像

中外商業新報 第一四九五〇号 昭和二年一〇月二日
 - 第38巻 p.367 -ページ画像 
  ハリス氏記念建碑除幕式
    秋色美しき伊豆の下田に
      きのふ盛大に挙行
安政三年八月、伊豆の下田に初めて米国領事館を建てたタウンセントハリス氏の記念碑除幕式は、既報の通り一日午後三時から下田町柿崎の玉泉寺の境内において行はれた、米国人ウルフ氏や故米国大使バンクロフト氏等に建碑のことを託されて、主として努力された渋沢翁がその趣旨と経過とを述べられた、一同はハリス氏の来朝から七十三年間の変遷に、今更感慨を新にさせられた、米国大使マクヴエー氏、総領事ネヴイル氏、徳川家達公、阪谷芳郎男、大倉喜八郎氏、樺山愛輔伯、森村開作男、藤沢利喜太郎博士、岸清一氏等、朝野の名士多数の参会者があり頗る盛大であつた


東京朝日新聞 第一四八六四号 昭和二年一〇月二日 地下のハリス氏に今ぞ答へる渋沢子 米大使も感激の涙たゝへて緊張の記念碑除幕(DK380040k-0010)
第38巻 p.367-368 ページ画像

東京朝日新聞 第一四八六四号 昭和二年一〇月二日
  地下のハリス氏に今ぞ答へる渋沢子
    米大使も感激の涙たゝへて緊張の記念碑除幕
【下田電話】我国最初の外国使節タウンセンド・ハリス公使の伊豆下田玉泉寺境内における上陸記念碑除幕式は、秋晴れの一日午後三時から
 盛大に行はれた、横浜から駆逐艦島風に便乗した
 米国大使マクベー氏、館員ミラード氏、バーネツト中将、コールツ少佐、ネビール領事、仏人ヘンリーウビル氏、日米協会副会長樺山伯等
は午後二時下田港に着、直に玉泉寺に向ひ待合した渋沢子・大倉男・徳川公・阪谷男等も参列し、午後三時玉泉寺住職村上文機師の長男庸道君(四才)の
 手によつて記念碑の除幕後新築の本堂にて同寺修繕落成、並に建碑除幕の式典を行つた、その席上渋沢氏は立つて
 『使節ハリス氏に対し自分は今日お答へせねばならぬことがある』
と前提し、緊張した顔を見せたので、マクベー大使はじめ聞耳を立てた
子爵は
  ○演説前掲ニツキ略ス。
と結び、続いて米国大使マクベー氏は約三十分にわたつて祝辞を述べ最後に
 『ハリス氏は極端に冷胆とさい疑と排他的の国に来て、勇気と信念と犠牲的の精神によつて外国との通商条約の基礎を築いてくれた』
と涙をたゝへて説き、更に
 『当時の日本は諸外国環視の前に立つて危機の分水れいに立つてゐた、ハリス氏の眼をもつてしても七十年後の御代が今日の如くに平安幸福ならんとは透視し得なかつた、併しながら日本も今日普通選挙が布かれ選挙権の大拡張を見たことは、まさにこの分水れいに立つてゐるともいへる、かくの如く一時に、しかも平穏のうちに選挙権の大拡張を
 - 第38巻 p.368 -ページ画像 
見たことは列国に例がない、ハリス氏のいつた危険なるや、幸福なるやは、矢張り今日において再び日本の将来に向つてもいひ得る、幸ひハリス氏の憂慮がき憂であつたと同様に、普通選挙施行による危険幸福の分水れいが今後幸福の方であつて欲しいと祈るものである』
と結んだ、一行は午後五時下田港発再び島風で横須賀に向つた


渋沢栄一電報 控 ヘンリー・エム・ウォルフ、エルブリッジ・ビー・ピアス宛 昭和二年一〇月三日(DK380040k-0011)
第38巻 p.368 ページ画像

渋沢栄一電報 控
    ヘンリー・エム・ウォルフ、エルブリッジ・ビー・ピアス宛 昭和二年一〇月三日
                     (渋沢子爵家所蔵)
 米国シカゴ市
  ウルフ殿  Mr. Henry M. Wolf
        No. 134, South. La Satle St., Chicago, U.S.A
  ピーアス殿 Mr. E. B. Pierce
        c/o Mr. Wolf
    電報
十月一日タウンセンド・ハリス氏ノ記念碑除幕式ヲ伊豆玉泉寺ニ於テ挙行ス、小生ノ挨拶ノ外、マクヴエー大使・徳川公爵、及田中外務大臣等ノ祝辞ガアツテ盛況裡ニ終了シタ、小生ハ故バンクロフト氏ノ遺志ヲ継キ、貴下ト共ニハリス氏ヲ後世ニ記念スルコトヲ得タルヲ衷心ヨリ悦ニ堪ヘス
                      渋沢栄一
  ○右英文電報ハ昭和二年十月三日付無線電信ニテ発送セラレタリ


(ヘンリー・エム・ウォルフ及びバンクロフト家)電報写 エドウィン・エル・ネヴィル宛 一九二七年一〇月二日(DK380040k-0012)
第38巻 p.368 ページ画像

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(ヘンリー・エム・ウォルフ)電報 渋沢栄一宛 一九二七年一〇月五日(DK380040k-0013)
第38巻 p.368-369 ページ画像

(ヘンリー・エム・ウォルフ)電報 渋沢栄一宛 一九二七年一〇月五日
                     (渋沢子爵家所蔵)
CHICAGO
VISCOUNT SHIBUSAWA, TOKIO    Oct. 5, 1927
APPRECIATE YOUR CABLEGRAM AND THANK YOU FOR SO
 - 第38巻 p.369 -ページ画像 
 SPLENDIDLY COMPETING OUR JOINT UNDERTAKEN AND FOR SO IMPRESSIVELY DEDICATING MEMORIAL EVIDENCING JAPANESE AMERICAN FRIENDSHIP AND PERPETUATING MEMORY OF BOTH HARRIS AND BANCROFT WITH HEARTFELT WISHES FOR YOUR CONTINUED GOOD HEALTH AND WELL BEING SINCERELY
                      HENRY M WOLF
  ○右ノ訳文紙上ニ鉛筆ニテ左ノ記入アリ。
   十月六日申上済


日本に於けるタウンセンド・ハリス君の事蹟 渋沢栄一編(DK380040k-0014)
第38巻 p.369-375 ページ画像

日本に於けるタウンセンド・ハリス君の事蹟 渋沢栄一編
                 第一―第八頁・英文第一―六頁 昭和二年一〇月刊
    緒言
伊豆国下田柿崎の玉泉寺は、辺陬の小伽藍に過ぎざれども、タウンセンド・ハリス君が米国最初の領事館を置きたる旧蹟として、其名夙に著はる。ハリス君は我が開国の恩人なり、日米両国の交情常に親善なる所以のもの、君に負ふ所甚だ多し。然るに未だ此由緒ある史蹟を顕揚し、君の功績を永遠に記念すべき施設を見ざるは、予の探く遺憾とする所なり。偶米国全権大使バンクロフト氏亦之を慨し、同国人ウルフ氏と謀り、記念碑建立の事を予に託せらる。又玉泉寺の堂宇は、米国領事館撤廃の後、七十年の星霜を経て甚だしく荒廃し、大正十二年の震災に因りて更に大破したれば、住職檀越並に関係町村長等諸氏汎く資を募りて修理を加へんとし、予に援助を求めらる。予乃ち日米協会会長徳川公爵に請ひ、同会員諸氏の賛同を得て其挙を助け、以て旧観に復したり。而して建碑の事はバンクロフト氏の不慮の逝去によりて一時頓挫したるも、予は初志を枉げずして工程を進め、遂に之を落成せしめたり。惟ふに当年の領事館たりし精舎と、新に建設せられたる碑石とは、永へに日米交誼の由来を物語り、現在及び将来の両国民に、多大の感化を与ふるものあるべきを信ず。是れ予が玆に碑石と堂宇との落成式を挙ぐるに当り、特に此小冊子を印刷して来会の諸賢に頒ち、日本に於けるハリス君の事蹟を紹介し、併せて君が在天の霊に感謝する所以なり。
  昭和二年十月一日
                 子爵 渋沢栄一 識
    碑面英文意訳 其一
西暦千八百五十六年九月四日、(安政三年八月六日)始めて日本帝国の此一角に領事旗を掲げ、翌年十一月二十三日まで此地に居住し、千八百五十八年七月二十九日江戸条約によりて日本の門戸を世界に開きたる、米国総領事タウンセンド・ハリス記念の為め、此碑を建つ。
  千九百二十七年九月四日
    建立者
             子爵 渋沢栄一
      (故駐日米国大使)エドガー・エー・バンクロフト
      (市俄古市民)  ヘンリー・エム・ウルフ
    同 其二
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      ハリス総領事日記の一節
西暦千八百五十六年九月四日。木曜日。昨夜は興奮と蚊群とに妨げられ、殆ど眠を為さず。蚊は体躯極めて大なり。朝来予と共に上陸せし人々、予の旗竿を立てんとせしも、竿重くして捗らず、旗竿倒れ、横桁折れしも、幸に負傷せし者なし。終に軍艦よりの増援を得て、旗竿は立てられたり。此日午後二時半、一同其周囲に円をなし、予は此帝国に於ける「最初の領事旗」を掲揚したり。感慨殊に深し。蓋し日本の国情変化の兆にして、更新の端なるべし。借問す、予が思惟する如く、日本の為に真に有益なりや如何にと。
    碑陰の文
安政三年七月、タウンセンド・ハリス君の米国総領事として始めて豆州下田に渡来するや、我邦の上下未だ宇内の形勢に通ぜず、多くは外邦を以て貧婪饜くなきものとせり。君乃ち諄々として貿易の利害を説き、国交の情偽を語り、懇切に幕府有司の啓導に努めて、遂に日米通商条約を締結す。爾後幕府は相次で列国と条約を締結せるが、皆之を以て標準としたり。当時邦人尚或は此条約を以て、君が権謀術数を弄したるの結果なりとし、憤懣措かざる者ありしなり。尋で君が全権公使となりて江戸に移居するに及びても、幕府は内政益多端にして、外交の事亦甚だ険艱なり。之に加ふるに列国の使臣概ね我国情を解せず往々擅恣倨傲の行為あり、為に物議を滋くするの憾なきを得ず。然るに君は常に公平の見を持し絶えず同情を我れに寄せたり。殊に万延元年十二月、君の訳官ヒユースケン氏が麻布古川端に於て暴徒の兇刃に斃るゝや、列国公使は幕府の力を外人保護に用ゐざるを責め、各其国旗を撤して神奈川に退去せり。然るに当面の米国公使たる君は、却て列国使臣の行動を不当なりとし、其身辺の危険を顧みずして、麻布善福寺の公使館に留まり、平然として日常の事務を見たり。是に於て邦人始めて君の誠意を解し、深く米国に倚頼するに至れり。爾来玆に七十年、両国親交の渝らざるもの、蓋し君に負ふ所大なりと謂ふべし。是を以て予は嚮に本邦駐箚の米国大使バンクロフト氏及米人ウルフ氏と謀り、君が同国最初の本邦駐箚総領事として、我領土内に始めて其国旗を掲揚したる下田柿崎の玉泉寺境内に記念碑を建て、以て君の功績を永く後世に伝へんと企てたり。偶大使病を以て逝き、ウルフ氏亦帰国したるを以て、予は独り事に当りて終に工を完うすることを得たり。抑予は弱冠にして国事に奔走し、夙に君の事蹟を聞知して、其高風を欽慕すること久し。是を以て明治四十二年渡米実業団に長として彼地に渡航するや、紐育市ブルツクリンの古刹に君の墳塋を訪ねて恭しく香花を供へたりしが、時恰も晩秋にして、墓畔の楓葉錦繍の如く故人の丹心と相映ずるの想あり、低徊顧望去る能はず、坐ろに詩歌各一篇を賦して墓前に手向けたり。今此碑を建つるに当り、君の日記の一節を刻して、君の当年の苦衷に同情し、碑陰に事の顛末を記し、併せて予の詩歌を録し、以て銘に代ふと云ふ。
 古寺蒼苔秋色深。孤墳来弔涙沾襟。霜楓薄暮燃如火。留得当年錦繍心。
 今もなほ、君が心をおくつきの、夕日ににほふ、紅葉にぞ見る。
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  昭和二年九月 正三位勲一等 子爵 渋沢栄一撰并書
○(右英文)
           PREFACE
  Although the Gyokusenji Temple at Kakizaki, Shimoda, Idzu, is but an obscure Buddhist temple in a remote quarter, yet it is famous as a site where Mr. Townsend Harris established the first Consulate-General of America in Japan. Mr. Harris is a great benefactor of Japan in opening the country to foreign intercourse, and to him we owe in no small measure the friendly relations that have always existed between Japan and America. But to my deep regret, nothing has yet been done adequately to signalize this historic spot and perpetuate the memory of his remarkable record. This feeling of mine was shared by the late Mr. Edgar A. Bancroft, former American Ambassador, who, after a conference wigh a friend of his, Mr. Henry M. Wolf, entrusted to me the work of erecting a monument in honor of his great predecessor.
  As for the Gyokusenji Temple, the edifice which had been considerably dilapidated during the sixty odd years since it ceased to house the Consulate-General of America, was all but ruined by the great earthquake of 1923. A thorough repair being urgently needed, the priest in charge, the leading parishioners, the town and village mayors of the district, and other local notables formed a plan for raising the necessary funds by public subscriptions. As they approached me for help, I took it up with Prince Tokugawa, President of the America-Japan Society, and through the ready support of the members of that organization, the needed financial assistance was secured, enabling the restoration of the temple building to its original condition.
  In the meanwhile the execution of the plan for erecting the monument was delayed for a short time on account of the sad death of Ambassador Bancroft. The result was that henceforth it was my privilege to shoulder the whole responsibility for carrying out the work as originally planned, and I feel sincerely happy that it has been completed to my entire satisfaction. I cannot help feeling that the renovated temple, which once sheltered the Consulate-General of America, and the monument just erected, will not only constitute standing witnesses to the origin and history of friendship between Japan and America, but will also be a powerful inspiration for mutual cordiality to the present and future generations of the two nations. I have, therefore, thought it proper, on this auspicious occasion of rededicating the temple and unveiling the monument, to present
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the esteemed guests of the day with this pamphlet giving a record of Mr. Harris' work in Japan, and to take this opportunity of tendering to his spirit in heaven the sentiment of grateful reverence which I always feel for him.
                 Viscount EIICHI SHIBUSAWA.
   October 1, 1927.

  INSCRIPTION ON THE FRONT FACE OF THE MONUMENT.

            In Memory of
           TOWNSEND HARRIS
         American Consul-General
who by the Treaty of Yedo July 29 1858 opened Japan to the world and on this spot September 4 1856 raised the first consular flag in this empire and here resided until Novemeber 23 1857.
             Erected by
          Viscount E. Shibusawa
           Edgar A. Bancroft
       (Late American Ambassador to Japan)
               and
           Henry M. Wolf,of Chicago.
             September 4 1927

              Paragraph from
             the Consul's Diary:
  "Thursday September 4 1856. Slept very little from excitement and mosquitoes; the latter are enormous in size. Men on shore to put up my flag staff. Heavy lot. Slow work. Spar falls, breaks cross-trees, fortunately no one hurt. At last get a reinforcement from the ship, flag staff erected. Men form a ring round it, and half past two P.M. of this day I hoist the first Consular flag ever seen in this empire. Grave reflections. Ominous of change. Undoubted beginning of the end. Query,-if for real good of Japan?"

TRANSLTION OF THE INSCRIPTION IN JAPANESE ON THE BACK OF THE MONUMENT.
  Townsend Harris, the first Consul-General, of the United States of America to reside in Japan, arrived at Shimoda, Idzu, in August 1856. In those days, our people of all classes were poorly informed about the world's affairs, and most of them took it for granted that all foreign Powers were insatiably greedy and aggressive. Nothing daunted by this unfavorable atmos-
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phere, he spared no pains to point out to our authorities the advantage of starting commercial connection with foreign nations, and explained to them the established usages and conventions of international intercourse. His painstaking efforts at enlightening the minds of the officials of the Shogunate, were finally crowned with success in concluding a commercial treaty between Japan and America. Thid formed a model for the treaties which the Shogunate subsequently negotiated with other Powers. As a matter of fact, however, there were not wanting among our countrymen people who entertained toward Mr. Harris a deep feeling of indignation, because they thought that the treaty which he had succeeded in arranging was won by intrigue and chicanery on his part.
  In the meantime, Mr. Harris was promoted to the post of Minister Plenipotentiary and his official residence was moved to Edo. The Shogunate was then increasingly involved in difficulties, domestic as well as foreign. To add to its troubles, the Representatives of the Powers, generally lacking proper understanding of Japan and of things Japanese, not infrequently acted in an arbitrary and arrogant manner, thereby aggravating the public agitation against the Government. But so far as Mr. Harris was concerned, he always conducted hemself fairly and squarely, constantly showing his sympathy to Japan. His honorable attitude was most strikingly demonstrated in connection with the death of Mr. Henry C. J. Heusken, his official interpreter, who was assasinated in January 1861 by rowdies on the bank of the Furukawa in Azabu. All the foreign Ministers, with one exception, were highly wrought up by the incident, and blaming the Shogunate for its incompetency to protect them, they closed their legations at Edo and withdrew to Kanagawa. But the American Minister who happened to be the one most intimately concerned, did not approve the step taken by his colleagues of the other Powers. He refused to stir from his official quarters at the Zempukuji Temple, but calmly attended to his duties as usual as if wholly unconcerned about his own safety. The courageous and magnanimous attitude taken by Mr. Harris on this critical occasion made a strong appeal to the imagination of our people, who were now convinced of the genuineness of his sentiment toward them, and who from that moment began to put trust in America as a true friend of Japan.
Japan and America owe a heavy debt of gratitutde to Mr. Harris whose noble personality thus initiated the relationship of mutual friendship which has happily united the two nations during these seventy years.
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  For this reason I had a conference sometime ago with' the late Mr. Edgar A. Bancroft, the then American Ambassador to Japan, and his friend Mr. Henry M. Wolf of Chicago, who was staying with him, in connection with a plan for perpetuating the memory of America's first envoy to Japan. The plan we agreed upon was the erection of a monument at the Gyokusenji Temple, Shimoda, Idzu, where Mr. Harris set up the first consular flag of the United States on Japanese soil. But to my great sorrow, Ambassador Bancroft died during his incumbency, and Mr. Wolf returned to his homeland. Thus the responsibility of carrying out the plan we had agreed upon devolved upon me alone.
  While in my youth I was exerting myself in the affairs of my country, I heard much of the achievements of Mr. Harris, and have always held him in high admiration for his lofty character. Hence, when I journeyed through the United States in 1909 as the Chairman of the Honorary Commercial Commission of Japan, I made special efforts to visit his grave in an old cemetery in the city of Brooklyn, and reverently laid a wreath at his tomb. The time of my visit there was well nigh toward the close of autumn, and the maple leaves overshadowing the grave were almost turned to scarlet, as if testifying to the genuineness of the great heart lying underneath. Buried in a deep reverie I found it not easy to tear myself away from the sacred spot. I then composed two poems, one in the Japanese and the other in the Chinese styles, and dedicated them to the memory of the admired hero.
  Now in erecting this monument in honor of Mr. Harris, a paragraph from his diary is inscribed on the front face, as it affords us an insight into the conscientious catholicity of mind with which he grappled with his difficult task. On the back, I have thus far tried to outline the circumstances which led me to take part in this undertaking. To complete the sketch, I wesh to quote my two poems above referred to, ― all this by way of a humble tribute to his precious memory:
  "Late in autumn in the moss grown grave yard,
   A traveller from afar mournfully stands at the tomb,
  Lo the sunset glow transfuses the overshadowing maple into scarlet,
   An apt symbol of the genuine heart of the ancient hero."

  "The visitor at the tomb
   A glimpse of the hero's heart caught
    In the maple aglow with the sinking sun."
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           Viscount EIICHI SHIBUSAWA,
      Grand Cordon of the Order of the Rising Sun.
       Senior Grade of Third Class Court Rank.
  ○昭和八年五月ニ至リ右碑文英文ノ最後ニ左ノ補充訂正ヲ施シタリ。
   He left Shimoda finally on June 30 1859.


ハリス君記念碑除幕式に於ける マクヴェー大使の式辞 渋沢栄一編 第一―一三頁・英文第一―八頁 昭和三年二月刊(DK380040k-0015)
第38巻 p.375-384 ページ画像

ハリス君記念碑除幕式に於ける マクヴエー大使の式辞 渋沢栄一編
                   第一―一三頁・英文第一―八頁 昭和三年二月刊
    緒言
此一篇は、昨秋予等が本邦駐箚最初の米国総領事タウンセンド・ハリス君の記念碑を、伊豆下田港なる柿崎村玉泉寺内に建設し、除幕式を挙行せる時、現米国大使マクヴェー閣下が親しく臨場して朗読せられたる式辞なり。予は之を聴きて、先づ其趣旨の懇篤真摯にして、行文亦典雅流麗、詳にハリス君当年の苦哀を叙し、其直前勇往の義気と、百折不撓の忍耐力とを、眼前に髣髴せしめたるに深く感激したり。又閣下は、古来我国の君民が、政変に遭遇する毎に益々協心戮力して、能く世と推移し、以て今日の隆盛を致せるのみならず、近く国民の参政権を平和恬熙の中に拡張して、普通選挙を実行するに至れるは、世界に其例を見ざる盛事なりと称揚せられ、我国人は七十年前ハリス君が始めて領事旗を樹つるに当り「是れ蓋し日本の国情変化の兆にして更新の端なるべし、借問す、予が思惟する如く日本の為に真に有益なりや如何にと」と、其日記に明記したる如き疑懼心を全く無用に帰せしめたりと言ひ、最後に、若し日本国民の精神を一言にして道破せよと求むる者あらば、躊躇する所なく忠誠と答へんのみと断言せられたるは、予の深く知己の言たるを感ずる所なり。因りて空しく之を筐底に蔵するに忍びず、印行して同志に頒つことゝなせるなり。
  昭和三年紀元節                 渋沢栄一 識

現今日本を訪問する外国人は、欲するがまゝに見得る数多き名所旧蹟の選択に苦しんで居る。善美を尽した壮麗なる社殿に加ふるに、幽邃なる杉並木の路と、夏尚ほ寒き激湍を有する日光。雲の上に湛へながら、更に遥に聳ゆる山々を以て囲まれたる中禅寺湖。神秘的な富士の山陰に、瀟洒清澄なる蘆の湖を有する箱根。白砂千里の浜辺と、「寄せては返す浪の間に躍りながら声立つるさゞれ石」を有する鎌倉・逗子及兼山。静寂平穏なる人世の入江にして由緒に富み、且つ古き日本の文明に満てる京都・奈良、及び宮島等、枚挙に遑なしと云ふ有様である。其等の何れの地に於ても、我等外国人は、四季何れの時を問はず、日本人が其地に蓄積したる文化の宝庫を探り、又は其美術品を鑑賞する事が出来る。
七十年前の昔に於ても、日本は此等の勝地や、自国並に支那の優秀なる多くの美術品を以て誇りとして居た。然るに合衆国最初の使節タウンセンド・ハリスは此等の総てを全く見る事が出来なかつた。彼が合衆国の船から下田に上陸した時には、安政の地震の為めに痛ましく荒れ果てた土地に住はざるを得なかつた。然も日本の人々は猜疑どころ
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でなく排斥の態度を取つた。左様でなかつたのは僅に二・三名の支那人従者で自国の言語を以てはヒュースケンと話し得るのみであつた。ハリスが日本人と会談する時は、英語を以てヒュースケンに話し、ヒュースケンは之を和蘭語に通訳し(当時日本の通訳者は蘭語以外の外国語は解しなかつたから)日本の通辞は更に日本の官吏の為めに之を日本語に通訳した。斯かる有様であつたから、ハリスが日本の官吏と四時間も議論したり抗弁したり、又は弁駁した後には、大に疲労を感じ且つ快々たりしは、察するに難からぬ所である。加之前回の会議に於て話した事が、或は忘れられ、或は無視された為めに、毎日同じ事を繰返さざるを得ないのに、又一方本国の政府からは、十二ケ月間といふ長い間、慰安の言葉も同情の挨拶もなかつたと云ふ事を思ふ時、此人こそは実に困難の位地に立つたものと追想せざるを得ない。
歴史は長い歳月の間、何等の不平不満なく、全く「暴戻なる運命の虐待」に堪へた堅忍不抜なる傑士烈女の記録を以て満たされて居る。然しながら予は敢て断言する。斯かる人々は、宗教心・愛国心、乃至は尊皇心等に対する熱烈にして抑へ難い執著により、若しくは希望達成の為には、自己を犠牲にする事が重要なる要素であると云ふ信念によりて、試錬せられ援助せられて立つたものである。
然るにタウンセンド・ハリスには、高遠なる理想や深遠なる観念による慰藉はなかつた。彼に取つての唯一の目標、唯一の慰安は、職責其物であつた。彼は職責を以て「神の生める厳しい娘」と考へる人々と同様に、身に全責任を負うて、其進むべき方向に向つて精進したのである。彼の日記の中には自己の努力及び苦心によつて、仮令如何なる結果が生ずるとも、自己の名は数年にして忘れ去らるゝであらうと云ふ意味の感想を記した処が少くない。此感想が現に吾人の見る所と如何に距離があるかは、特に云ふまでもないが、ハリスが斯く覚悟した処に、彼の性格の一端が見え、且つ彼を理解し得る鍵がある。之に依つてハリスが、下田に於て能く其惨澹たる境遇に堪へ、且つ絶望的障礙に打勝つたのは、彼の利己的野心に依つてでもなければ、又名を後世に残さんとする殊勝な動機からでもなかつた事を、明かに知り得るのである。
果して然らば、ハリスの成功の秘訣は何であつたか。彼をして偉大なる事業を完成せしめた要素は何であつたか。
先づ第一に挙げたいのは勇気である。彼は殆ど単身で見ず知らずの、無愛想な、寧ろ排他的な国に来たのである。加之彼の母国の言語に通ずるものは唯一人の随員のみで、而も其人は和蘭人であつた。――勿論此和蘭人は、ハリスと共に歴史上に其名を特筆大書せらるべき人であつたけれども。
タウセンド・ハリスは、勇気の外に忍耐を持つて居た。日本及び其他の東洋諸国に於て事を成さんには、何を措いても欠くべからざるものは此忍耐である。更に此等に加ふるに強烈なる執著――目的を達成するまでは如何なる障礙にも打勝たんとの決心――を持つて居た。ハリスは又自己の仕遂げんとする事柄に関して、明確なる概念を把握する事の出来る人であつた。彼の言語及び動作には、何等散漫な点を認め
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ない。彼が下田に到着した瞬間から彼の目的は鮮明であつた。即ち日本が若し外国と通商条約を締結する場合には、先づ第一に合衆国と締結せしめねばならぬと云ふのであつた。ハリスは当時他の国々が囂々と日本に逼つて居た事、又日本が何時までも此等諸外国の強要に抵抗する事の不可能なる事を知つて居た。米国をして最初の締盟国たらしめんとするハリスの願望には、聊も虚栄心や野心の影がなかつた。大ピットが、「予は英国を救ひ得ると自覚して居る。又予以外の何人も英国を救ひ得ない事を自覚して居る」と、尊大ではあるが、予言者的の宣言をしたと同様な真剣味を付て、ハリスは自己の提唱した条約、及び之を締結せしめんが為めにする自己の政策は、日本の為めに永遠の幸福を齎らすものであるが、之に反して他の国によつて提唱される条約を締結する事は、日本をして最も不幸なる結果に到らしめるであらうと信じて居た。
ハリスをして斯かる確信を抱かしめたのは先見の明、即ち神の恩寵を受けて偉業を成就する資格を有する者にのみ与へらるる天賦の能力であつた。荒涼たる下田の陋屋に寄寓せるハリスをして、鎖国の暗黒裡に居れる太平洋上の島帝国の将来の運命を看破せしめ、西洋文明の光を以て照らさるゝ大伽藍・宮殿・都市・田畑・港湾などを、自身の脳裡に画き、且つ腰に横たへた両刀を、犁・鋤・水車、並に発動機に変へ、かくて此国に於ける農工商業を世界に知らしめ、「みかど」の国をして、世界大国の班に列せしめざるべからずと思はしめたのは、彼が先見の明であつた。日本が自ら醒めて、外国と交通する事は自己の利益なりと自覚するに非ざれば、日本の所謂「開国」は寧ろ災害であると看破したのも、亦同じく発見の明であつた。要するにハリスは其提唱する条約に賛同するやう、勇気・忍耐・犠牲心及び明晢なる頭脳等、其天賦の能力の全部を尽して日本の為政者を説破するに努めた。而して此間ハリスは日本国民の利害休戚を寸時も忘れなかつた。
然しながら、仮令如何に先見の明ありとも、将来を予見するに当つては「鏡をもて見る如く朦朧」ならざるを得ないから、ハリスが屡々「是れ果して幸か不幸か」と疑うたのも亦已むを得ない。其当時日本が全く危機に臨んで居た事をハリスは知つて居た。而して彼が指示した途は、日本を正当なる方向に向はしめるものであらう事を希望した。然しハリスの想像力を以てしても、七十年と云ふ短時日に、斯かる広大なる良き結果を実現すべしとは洞見し得なかつた。皇祖皇宗の聖徳を御一身に体得して、日本帝国に君臨し給ひし明治大帝の長い大御代を透視し得なかつた。又明治大帝が門地や階級の如何を問はせられず、広く各階級より、軍人・政治家等、有為の才を簡抜して帷幄に参与せしめ、彼等を通じて国威を未知の異邦に発揚せられしのみならず、常に国家の尊厳に寸毫の汚点を印することだも許されなかつたと云ふ事を予見する事が出来なかつた。ハリスが明治の大御代に興れる大業を予知し、且つ後に続ける賢明なる天皇陛下の施し給へる善政を推測する事を得たならば、屡々襲ひ来れる疑惑の為めに苦心焦慮する事はなかつたであらう。
タウンセンド・ハリスの此一事により、今日此処に列席せる人々は教
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へらるゝ所があると思ふ。日本は今や其国民生活に於て再び危機に頻して居る。此危機を安全に通過するには、あらゆる智慧と自制と愛国心とが必要である。
来るべき十二ケ月間に、日本は普通選挙を実行せんとして居る。此によりて日本は選挙権所有者を三倍に増加する事になつて居る。此の如き有権者の激増を、革命若しくは革命的脅迫によらず、全然憲法の規定に基いて達成し得たと云ふ事は、真に空前の美事である。英国の一千八百三十二年の改革案は、諸大都市に於ける流血破壊を伴ふ擾乱により、もはや民衆が該案通過の遷延を許容しない事が明白になつてから漸く通過した。又仏国革命に伴うて起つた血河屍山の惨状を想ふ時吾人は戦慄を禁じ得ないのである。然るに大正天皇は枢密顧問官諸公に御諮詢あらせられ、明治天皇が御治定遊ばされたる憲法の規定に従ひ、自ら進んで新に九百万の臣民に参政権を御賦与遊ばされたのである。歴史の教ふる所によれば、選挙権の拡張は、最も良い場合にも尚往々危険を伴ふものとせられて居る。故に現今日本並に他の国に於ける多くの思慮深き人々が、七十年前にハリスが発した「是れ果して幸か不幸か」と云ふ疑問を繰返して自問したとて驚く事はない。ハリスと同様に、吾人も亦未来の有する秘密を洞察する事は出来ない。かくて吾人も彼のやうに、「仮令善は遥か向ふに見ゆるとも、終には万人の物とならん」と祈り、且つ他日それが実現すべき事を確信するに過ぎない。
然れども斯かる確信を抱くについては適当且つ十分なる理由がある。
日本古来の歴史は偉大なる先覚者と忠良なる追従者との歴史である。
日本は本来武士の国であるから、各所各団体に於て、軋轢・闘争を生ずるのは免れ難い所であつた。同時に又斯かる闘争の裡から、常に「文武の道に長じたる」偉人が現はれ、其の与へられたる期間、陛下の御庇護の下に、正当・賢明にして、且つ愛国的なる政府を組職した事を知つて居る。又近くは国を挙げて内乱の巷となさんよりは、寧ろ自ら進んで大権を奉還するに若かずとして、一大英断に出でたる将軍並に其幕僚があつた。――此事は現に此処に集まつて居られる諸君の中に、親しく見聞せられた方がある。而して此等の人々は挙つて国家の安寧秩序の為めに其の力を致し、以て明治大帝以来の天皇陛下を輔佐し奉り、今日の国運隆昌を見るに至つたのである。此の如き聡明なる先覚者を有する民衆が、常に其指導に追随して来たといふ事は、少しも不思議でない。
若し予に一言を以て日本の精神を表明せよと求むる人あらば、躊躇なく「忠誠」と答ふるであらう。陛下に対し奉り、伝統に対し、理想に対し、並に愛する国家に対して抱ける此「忠誠」に刺戟せられて、彼等が其進路に横はる万難を排して勇敢に進み、遂に必ず其目的を達すべきは、毫も疑を要せぬ所である。予は日本が将来永遠に平和と繁栄とを持続せん事を衷心より希望する者であるが、吾人が今日歓喜の裡に記念せんとして居る所の日本の真の友人、即ち日本に派遣せられたる最初にして最大なる米国の使節タウンセンド・ハリスの衷心期する所も、亦同様であつたらうと信ずるのである。
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                 チャールス・マクヴェー
(右英文)
            Foreword
  This pamphlet contains the text of the address delivered by His Excellency Mr. Charles MacVeagh, the American Ambassador, on the occasion when the monument dedicated to the memory of Townsend Harris, the first American Consul General to Japan, was unveiled last fall in the compounds of the Gyokusenji Temple, at Shimoda Idzu.
  As I listened to him, I was deeplyimpressed by his earnestness of purpose and the classic beauty of his diction. The address most vividly pictured before my mind's eye the dauntless courage and the unswerving patience with which Harris surmounted the terrible odds confronting him.
  It will be noticed that His Excellency points out how Japan has emerged successfully from every political crisis in her history through the united efforts of her sovereign and people, thus building up the present edifice of her prosperity.He also eulogized us for the peaceful manner in which the system of manhood suffrage has been adopted, an event for which he says he finds few precedents in the history of the world.
  His Excellency, consequently, is satisfied to say that the course of our recent history has entirely falisfied the apprehension that troubled Harris' mind 70 years ago, when on the day he unfurled the first consular flag he wrote in his diary:"Ominous change. Undoubted beginning of the end. Query,―if for real good of Japan?"
  Finally he says that if he were asked to express in one word the spirit of Japan he should unhesitatingly answer "Loyalty."
  All these remarks of the American Ambassador have impressed me deeply as they come from a friend who truly understands us, and for this reason I prevailed on His Excellency to grant me the privilege of printing his address for distribution among my friends.
            VISCOUNT EIICHI SHIBUSAWA
  February 11 1928

           THE SPEECH
            AT THE
          GYOKUSENJI TEMPLE

  Today a foreigner landing in Japan finds it difficult to choose among the many attractive places of sojourn at his command. Nikko, with its superb and unrivalled Temples, its cryptomeria
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walks and groves, and its rushing waters; Lake Chuzenji, itself among the clouds, yet surrounded by mountains, rising far above it; the Hakone country, with its own serene and beautiful lake, lying under the shadow of the mystic Fujiyama; Kamakura, Dzushi, and Hayama, with their long stretches of sandy beach "and the grating roar of pebbles, which the waves draw back, and fling, at their return, up the high strand"; Kyoto, and Nara, and Miyajima, quiet, peaceful backwaters of life, yet full of the history and the civilization of old Japan. In any one of these places, or in all of them in turn, as the seasons change, we foreigners of today can stretch out a long period of time in delving into the stores of knowledge and wisdom accumulated by the Japanese throughout the ages, and lying there to our hands, or in happy contemplation of their artistic creations.
  Seventy years ago Japan could boast of the same havens of rest, with luxurious habitations filled with the choicest examples of Japanese and Chinese art. But to the Envoy of the United States all of this was closed, and when he landed from the U.S.vessel he was compelled to take up his residence on this barren spot, amidst the evidences of the recent devastating earthquake, surrounded by a suspicious and even hostile populace, with only Chinese servants, and deprived of all conversation in his own tongue except with Heusken. And in talking with the Japanese it was necessary for Townsend Harris first to speak in English to Heusken, then for Heusken to translate his remarks into Dutch and transmit them in this language to the Japanese interpreters, (who understood Dutch alone of all foreign languages), and who translated the Dutch message into Japanese for the benefit of the Japanese officials. Is it surprising that four hours of arguing, pleading, and disputation, under such circumstances, left Harris weary and despondent? And when we remember that day after day he was obliged to go over the same subject from the beginning, the conversation of the previous day apparently having been forgotten or ignored, and that during twelve long months he received not a single word from his Government of commendation, or cheer, or even sympathy, are we not justified in concluding that here was a man different from all other men?
  History is filled with the records of patient, courageous men and women, who have borne "the slings and arrows of outrageous fortune" without murmur of complaint through a long series of years; but I venture to say that in every instance such heroes have been instigated and upheld, and strengthened, by some passionate and overwhelming devotion to a Cause―Religion,
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 Patriotism, Loyalty―and by the belief that the sacrifices made by them were an important factor in the struggle for the realization of their hopes.
  But to Townsend Harris was vouchsafed neither the comfort nor the spur of high aspiration and deep rooted idealism. His only guide, his only consolation, was Duty, and like other true followers of that "Stern Daughter of the Voice of God" he pursued his way with a full realization of the consequences to himself. His diary contains many reflections to the effect that whatever may result from his labors and his sufferings, his name will be forgotten in a few years. How far that was from the truth we now know, but his belief that it would be so is an index to his character and helps us to an understanding of the man.We see clearly that it was not personal ambition, nor even that praiseworthy motive, the desire to leave behind him a name which would be acclaimed by future generations, which sustained him through the arduous days at Shimoda, and enabled him to overcome the almost heart-breaking obstacles which beset his path.
  What, then, was the secret of Townsend Harris's success? What were the attributes which enabled him to accomplsih his great work?
  In the first place, Courage. He came to this foreign, inhospitable, even antagonistic land practically alone, having only one companion speaking his language, and that one a Dutchman―but a Dutchman whose name is written in letters of gold on the pages of history side by side with that of his chief.
  With Courage, Harris had Patience, and without patience, in Japan, and all other Oriental countries, nought else availeth. Added to these he had, to a high degree, persistency―a determination to overcome all obstacles, and pursue his path to the end.
  Then, too, he had a definite idea of what he aimed at. There was nothing desultory about his talk or his actions. From the moment of his arrival at Shimoda, his purpose was clear―to conclude, on behalf of the United States, the first Commercial Treaty to be made by Japan with any foreign country. He knew that other nations were clamoring at the gates, and that the pressure could not long be withstood. There was no personal note of vain-glory or ambition in his desire to be first. As sincerely as the Elder Pitt proclaimed in that pompous but prophetic statement, "I know that I can save England, and I know that nobody else can," Townsend Harris believed that the treaty he proposed, and the policy pursued by him to procure
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its acceptance, would be for the lasting benefit of Japan, while the opening of Japan by other countries on the lines likely to be adopted by them, would lead to most unhappy results.
  But for him to understand this, it was necessary for Townsend Harris to be endowed with one more gift―a gift bestowed at birth only upon those who are beloved of the High Gods and destined for great achievements―the gift of Vision. It was the faculty of Vision that enabled Townsend Harris, in his miserable bungalow in bleak Shimoda, to pierce through the self-imposed darkness with which this Island Empire of the Pacific was surrounded, and picture to himself the great temples and palaces, cities and towns, fields and harbors, with the light of Western Civilization shining full upon them, and the citizens turning their two-handed swords into plough-shares, and mill wheels, and engines, until their agriculture, their manufacture, and their commerce should be known in every land, and the Mikado's Empire should be acclaimed one of the foremost powers of the entire world. And it was vision which enabled him to see that unless Japan herself could be brought to a realization that fuller contacts with other nations was in her own best interests, the so-called "opening" of Japan would be a calamity. And so it was that he called upon all his forces of courage, patience, self-sacrifice, and clearness of thought, to persuade the Japanese rulers to agree upon the treaty which he proposed―having always in mind, both in drawing the treaty and in the method of advocating it, what he conceived to be the best interests of the Japanese people.
  But even to the most clear-sighted of mortal eyes it is not given to see into the future, except "as through a glass, darkly," and the query "is it for good or ill" came often to his mind. He realized that Japan was at a turning point in her life as a nation, and he hoped that the path he pointed out led in the right direction, but even his imagination could not conceive the vast results for good which accrued in the short space of seventy years. He could not foresee the long reign of that Great Emperor Meiji, who seems to have embodied in himeslf all the wisdom of his noble ancestors, nor that illustrious body of soldiers, Statesmen and Counsellors, which Meiji Tenno drew from all classes, irrespective of previous station or degree, and who, under their beloved Emperor, carried his banner into hitherto unknown countries,―and always without permitting it to be soiled by the slightest stain of dishonor. If Townsend Harris could have visualized the events of these momentous years of Meiji, and of the years which have followed under the
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wise and patriotic rule of his successors, he would not have been troubled with the doubts which assailed him.
  And there is, in this, I think, a lesson for us all here today. Japan is again facing a crisis in her national life, and to meet it successfully, she will need every atom of wisdom, self-restraint, and patriotism that she can command.
  The next twelve months will witness the results of a tremendous increase in the voting population of Japan over three hundred per cent, a greater increase, I believe, than ever before brought about in any country at one time by purely Constitutional methods, and without revolution or threat of revolution. The reform act of 1832 in England was passed only after the riots in the large centres of population, with destruction of lives and property, had shown that the people would brook no further delay; and we shudder to think of the rivers of blood which accompanied the French Revolution. But here, His late Imperial Majesty with the advice of his Councillors and under the provisions of the Constitution granted by the Emperor Meiji, has voluntarily extended to nine million of his people the right to participate in his government. History teaches us that an extension of the right of suffrage is at the best an experiment, and often a dangerous one, and it would not be surprising if today many thoughtful men in Japan and elsewhere were asking themselves the question which seventy years ago was asked by Townsend Harris "is it for good or ill?"
  Like Harris, we have no crystal ball to show us in its mysterious depths what the future holds; and, like him, we can but hope and pray that
             "Good may fall
         At last, far off, at last, to all,"
and have faith that it shall be so.
  And for that faith we have good and sufficient reasons. The story of Japan from the earliest times is the story of great leaders, and of loyal followers. She has always been a nation of warriors, and continuous struggels for supremacy between different factions and different sections, were inevitable. But also inevitably there arose out of these struggles a man "great in Council and great in War," who, for the period of time allotted to him, and always under the aegis of the Emperor, gave to his country a just, wise and patriotic government. And there are those with us today who have witnessed the voluntary laying down of the supreme power of the State, next to that of the Emperor himself, rather than involve the country in civil war, and have seen the very men who had this power rally
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to the support of law and order, and to the enlightened and progressive measures of the Great Emperor and his successors. With such leaders as these it is not strange that the mass of the people have followed in the same path.
  If I were asked to express in one word the spirit of Japan, I should unhesitatingly answer "Loyalty." Animated by this spirit of Loyalty to thier Emperor, to their traditions, to their ideals, and to thier aspirations for their beloved country, they cannot fail to courageously face and successfully overcome all difficulties in the path of their triumphant progress as a nation. And in wishing for her, as I do from my heart, many years of Peace and Prosperity, I know that I am voicing the inmost feelings of that true friend of Japan, whose memory and achievements we today rejoice to honour―the first and greatest American envoy to Japan, Townsend Harris.
              (Signed) Charles MacVeagh
  ○除幕式ハ十月四日挙行ノ予定ナリシモ、アメリカ合衆国大使マツクヴェー参列ノ都合ニテ、十月一日ニ変更セラレタルナリ。


竜門雑誌 第四七〇号・第二九―四一頁 昭和二年一一月 伊豆の旅(中) 穂積歌子(DK380040k-0016)
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竜門雑誌 第四七〇号・第二九―四一頁 昭和二年一一月
    伊豆の旅(中)
                   穂積歌子
明けて十月一日、昨日にました上天気で気候が非常に温かいのは何より喜ばしい。
 大人も早く御目覚めになつて御入浴遊ばす。近い方の浴室に御出になるのではあるが、階段の昇降が億劫で入らつしやらうのに昨夕も今朝も御入浴遊したは、こゝの温泉が御気に召したのであらう。
 いざ出発といふ時玄関前で一行の写真をとることになつた。これは大人を御搭せ申して天城の山越えをする記念にと、荒山等の希望によつてゞあるとか。これまで大人と御一緒に撮影すると、いつも歌子の方が老年らしく、大人の姉でもあるかの様に映るので誠に迷惑である然し又父上がそれ程御若く見えるは、非常に御壮健で入らせられる故と思へば嬉しくもある。
 九時頃又も二台の自動車に分乗して新井旅館を出発した。車の疾走する下田街道の山田には、折柄稲が半ば色づいて秋晴の光に明るく波うち、豊年を語つて居る。その田の畔を赤い色で句切りを付けた様に彼岸花が咲きみちて居る。斯様に沢山なこの花の盛りを始めて見た。然し彼岸花は、美しくはあるがその紅の色も何となく冷やかに思はれて親しみが感ぜられぬのは、毒草と聞くためであらうか。
  打わたす秋の山田の畔つゝき
      あかき布はへて曼珠沙華咲く
 湯が島をもいつか過ぎて、いよいよ山路にさしかゝり、追々に木立が深くなり谷も見えて来る。
 天城山は多年葉山の浜辺から遠く海を隔てゝ、朝日に紅を潮し夕陽
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に紫を彩どる優美な姿を眺めて居るし、又十年程前に大嵐で箱根の汽車道が崩れ、東海道線の交通が絶えた時、臨時の聯絡船高麗丸で江尻から横浜に帰つた折、海豚が浪間を縫ひ、飛魚が波上を走る伊豆の南の海を渡つて、碧空に聳え立つ雄姿を間近く仰ぎ見たこともあるのでことに親しみを感じて居るから、今この山中に分け入るにもたゞならぬ心地がする。
   雄々しともゆかしとも見し其山の
      山ふところに今そ入りぬる
車の進むにつれ木立は益々繁く、谷は段々深くなり、山気が身に迫る様な心地はするが、嶮岨を気遣ふた道は予想外に平坦であり、片方の山裾が立派な石畳みになつて居るには感心した。昔からの下田街道で相応な道が作られて居つた上に、近年自動車を通はす為によく修理されたのであらう。只道幅が広くないので、自動車が楽に行交ふことが出来ぬは惜しいことである。但し今日は乗合自動車にも木材を積んだ荷車にも行き合ふたが、行違ひに危険を感じる様なことは少しもなかつた。
 峰は勿論谷の両側の崖の斜面にも、杉の大木が鬱蒼と生ひ繁つて居る、此辺は皆御料林である。上古も御料の山で有つたものか、こゝから切り出した木材で巨船枯野が造られ、後に其材の一部で琴が作られたといふことは歴史に見える。
   上つ代もこの深山木は船となり
      琴ともなりてつかうまつりき
又道の辺の所々で、稀しいものを見かけた。それは細い谷間ひに段々に石垣が設けてあり、そこを清水が流れ落ちて居る。大人御附の藤井看護婦も歌子の供の女中ゑんも偶然にも同じ南伊豆の下田地方生れの人たちである故、あれが山葵の畑であるとをしへた。成程段ごとに青青とした葉が繁つて居る。花は春の頃白くかそけく咲くとのこと、山葵は殊の外穢れが嫌ひで、水が濁るとぢきに枯れるものゝよしである伊豆地方のものが上等であると予て聞いては居つたが、やはり土から生ずるものと思ふて、此様な幽邃な場所で斯ほどに清らかに、神仙の召上り物でもあるかの様にして作られるものとは知らなんだ。
   今よりはこの谷水の清き香も
      そへてわさびは味ひてまし
羊腸たる山道折れ曲ること何百回か、漸く峠に近づく頃、いさゝか平坦な所に出で、道の両側には桜の並木がある。こゝから見上る一つの山には一樹もなく、生ひ繁つた芽が稍色づいて、なだらかな高根が青空を背景に優美に見える。杉木立の中にめづらしいこの芝山は、物の具いかめしくとりよろふた兵どもに守られて、被衣まぶかに立つたる上臈姿が聯想される。
   ふもと路の花咲く春は山姫の
      おましところやかしこなるらん
後に林先生が此所で秋の日にかゞやく雪の富士が根を見たと云はれた先駆の軽い自動車は無蓋であるから展望が恣に出来て羨ましい。大人に陪乗の自分等は箱車の窓から見るのであるからもの足らぬ。其上に
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大人は吹き通す風が御嫌ひなので、硝子戸はしめてあるから、車内の温度は随分高くなり、若い二人の婦人たちはひそかに汗をぬぐふて暑さをこらへて居る様子である。山中といへば寒いものと思ふ旅なれぬ考へから、用心のために携へた羽織コート襟巻などの服紗包が、傍に有つて邪魔になるのも皮肉らしい。山とこそ云へ暖流のながるゝ大島沖に近いこの山を、秩父・日光などと一つに思ふたのが考へちがひであつた。然し其暖気の為であらう、まだ一抹の秋の色をも見得ぬのが残り惜しい。これは後に案内記様のもので知つたのであるが、浄簾の滝といふは彼の茅野山の後方に有つて、其辺では秋の紅葉が美しく、ふみ分けて鳴く鹿の声も聞かるゝといふことである。
 たうたう峠の隧道に着いた。自動車もこの中は徐行である。両方の隧道口からさし入る明りは口もとばかりで、暗黒な道の長いこと長いこと四丁程あるとのこと、ヘツドライトの光が荒々しい内壁を照らして物凄く見える。
   おほつかなあなたは星の光にて
      後への月の影細りゆく
父上と御一緒だから怖くはないなどと一寸の間、六十年も昔の稚な心にかへつて、又自らそれを苦笑した。隧道を出ると、こゝは割合に道幅が広く、崖際には手摺様な柵が設けてある。先駆の自動車も此所に留つて待つて居り、外に三・四人の人が作事をして居る。これは今日の建碑式参列に東京から参らるゝ方々に、こゝで御昼の弁当を差上る為の設けに、清水組の人々が仮のテーブル腰掛などをしつらへて居るのであつた。大人始め一同車から降りて景色をながめた。此所は崖の折れ曲りの出はなであつて樹木がない故、ことの外見晴しがよい。柵によつてこわごわ見おろすに、千仞の谷とは実にこれであらう、急傾斜な谷の両崖に梢を揃へて密生して居る杉の大木も、春の末野のつくづくしの杉菜の様で、其間から下方にちらちらと隠見するのは谷川の流れである。
   久方のあまきの山を越え来れは
      奈落の底に谷川なかる
実に雄大な渓谷の眺望に打たれて、只吐息をつくばかりであつた、こなたの崖の下に可なり大きな滝が見えるのを、これが浄簾の滝かと此時は思ふた。先を急ぐ道故いつまてこゝに景色を賞して居ることも叶はず、又も車に乗る。さてこれからは降り道である。畳なはる山又山の腰をめぐつて行ての道が絶え絶えに見えるのが却つて心細い様で、注意に注意して操縦する運転手の手元と嶮岨な断崖とが自然に見くらべられる。何十丈とも知れぬ急傾斜の崖も、鬱蒼としげりに繁つた杉木立の盛り上げた様な緑の色で感じが柔げられて居るが、もしこれが峨々たる岩石の露出てあつたなら、目もくるめくであらう。又も千百回折れてめぐつて車は降りにくだる。
   あまき山谷のかけちのつゝら折
      車は杉の梢をそゆく
来し方を見かへると、よくもあの嶮しい道を無事に過ぎて来たと胸もとゞろいて、
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   わたり来し木曾のかけ橋あやふきは
      かへりみてこそ立まさりけれ
といふ古歌を思ひ出す。修善寺の宿で見た奥伊豆めぐりといふ小冊子に、天城を越えた文士達の紀行の断片がしるしてある。「馬車中の人人は言葉を交はすことも少なく皆黙つて了つた」とか、「運転台に乗つて居る人が亢奮して詠嘆するのが、運転手の邪魔にならうかと、難所にかゝると彼に沈黙を命じた」とかあるのを読んで、少し無気味であったが、峠の隧道までは左程のこともないのにと思ふて居たのであるが、この深い谷を見て成程と思ふ。
 車の走せ降るにつれて渓谷の深さが追々減じ行くので、いさゝか心が軽くなった頃、突然山の南方の開けた所へ出て、谷川の水が流れの末長く、よる浪も長閑な海辺に人家が点在して居るのがはるかに見おろされた。
   打わたすかしこは夢の国なれや
      秋の日きらふ浦そひの里
其所は下河津の谷津温泉のあたりである。
 河津祐泰の居住地であつたといふから、かの一幡や箱王も五つや三つの年までは、川岸で花を摘み浜辺で貝拾ひなどして遊んだであらうと、一しほゆかしく思ふた。程なく上河津の湯が野温泉のほとりを過ぎ、谷川に架した橋を渡ると又道は登りになり、高根山といふ山の隧道を越えて又降り道になる。稲生沢川の上流の川添の道をひた走りに走るうち、哀れな物語りが有るといふお吉が淵といふ所も有つた筈だが気が付かなんだ。河内温泉では露天風呂・千人風呂など大きくしるした看板のみが目に付いた。蓮台寺温泉への分れ道を右に見て進み、川辺をはなれてしばし田中の道を行くと、右の方に高塔の様に聳え立つた岩山が見える。問はでもしるき下田富士である。
 やれやれ、たうたう下田に着いたとほつとしたが、又さしも嶮岨と思ふた天城山をあまりわけなく越えて来たのが、呆気ない様にも思はれた。下田町の一部分を通り抜けて下田橋にかゝる。橋は目下工事中で仮橋である。一寸見て危なげに思ふたが、大人が今日の催しで常になく多数の自動車が通行すること故、仮橋に万一にも危険が無い様、必要に応じて充分な設備を施す様に、清水組に依頼して置いたと仰せられるので、安心して通った。
 稲生沢川のこなたは浜崎村である。武山の下の海辺の道を数町行つて、柿崎の玉泉寺下の道についたのは正午頃であった。煙火の音が空に響いて大勢の人々が出て居る。大人が自動車から御降りになると、先着の増田・小畑・清水の諸氏、其他の人々が待ち迎へた。途の左方には下田町長、浜崎村長、町村の有志者大勢、浜崎村小学校長、同生徒たち、愛国婦人会々員等の人々、右方には在郷軍人、消防隊、ボーイ・スカウトなどが整列して居り、渋沢子爵を迎へて一斉に敬礼した増田氏の紹介で大人は町長・村長有志者にそれぞれ御挨拶があつた。中にも小学校長に対しては、当地は開国当時から日米両国々際上の関係が深い場所であるから、此地の人々はとりわけ其顛末を承知して居らねばならぬ、小学生徒たちにはちと六ケ敷い話かも知れぬが、ハリ
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ス領事の苦心の談などよりよりに話して開かせて、了解せしむる様御尽力を願ますと、立ながらの話としては懇ろに御話しなされた。其外の整列者一同には、詞をかけられる暇もないので只黙礼のみであつたが、大人の会釈には、人々の御芳志を嬉しく辱く存じますといふ心情が充分に表はれて居た。大人は昔から対座して談話する人々に春の日に浴する様な感じを御与へになる。それは今も同様であるが、以前はあまり接近すると偉大な人格の圧迫を感じるのであつた。然るに近年は燕居して居らるゝ時などは、円満其ものゝ好い御爺様と見上げらるることが多くなり、自動車に同乗などして居てもちとつとも窮屈で無くなつたのは、何と申しても御年齢のせいかと思はれるのであるが、表向きの用談等で人に対話される時は、少しも昔に変らぬ御元気さである。今日なども降車して後の渋沢子爵は車中の老大人に比らベて、二十余歳も御若くなつた様である。人に応じてそれぞれの挨拶諸事の注意等も老人くさい所は少しも無く、よくもあの様に御届きなさることゝ感服した。此様に思ふは我仏尊しの贔屓目であらうか。
 さて、大人は式に先立つて玉泉寺内の様子を見ようとて、一同細い道を歩行で寺に参る。この瑞竜山玉泉寺は山を負ひ海を前にした小高い土地にあつて、普通村落で見受ける型の小刹である。下道から見上る石段と山門はまだ改築が出来ぬので少し見すぼらしい。門を入ると此度大修繕落成した正面の本堂は存外に立派である。境内の向つて右方の広場、其昔領事館旗が立てられたと云ふ場所に碑石が白布に覆はれて建つて居り、左方にテント張りの参列者控所が設けられてある。此碑石の基礎工事は充分堅牢に建設致したから、安政元年の大海嘯、大正十二年の大地震の如き災害が有らうとも、傾き倒れることは決して無い筈でありますといふ清水釘吉氏の説明を聞かれて、大人は御欣びになつた。近い道を又車で定めの阿波久旅館に着いた。来訪者に挨拶され、又増田氏等と式に付ての打合せをなさる為に、昼食も落ち落ち召上り得なんだ。
 米国大使一行は駆逐艦島風に搭乗して午後二時に御着、又日米協会会長徳川公爵は二時半陸路御着になる予定故、大人の代理に敬三君が小畑氏と共に船まで大使を迎へ、大人は仮桟橋で待ち迎へられること又徳川公爵の御迎へは敬三君が御代理で玉泉寺下道まで参ることに定つた。
 大人が御出ましになつて後、歌子も急いで衣服を着かへなどして此家の見晴し台に登つて見た。阿波久旅館は吉田松陰の事跡のある、かの弁天島の附近の海岸の岩石に作りかけた建物で、楼上からも海が見えるが、岩の上の見晴し台からは下田の湾内は元より、太平洋の八重の汐路の末まで見晴るかして、風光明媚である。近きは昆沙子島、稍遠いは大走島、最も遠く見えるは灯台の立つて居る神子元島である。今日はことに風なく浪立たず、日の照り渡る海の沖辺はほのかに霞んで春にもまさる長閑さである。今までは下田と聞けば黒船の渡来前後の国難が聯想されて、暗い様な感じが有つたのに、来て見れば南国の明るさが特別で、平和の象徴とも云ふべき風景である。折柄駆逐艦島風は犬走島の附近に碇をおろし、米国大使の一行は出迎の和船に乗移
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られ、外に一隻の迎への船を従へて柿崎の埠頭に近づく、大人は今度仮に設けられた桟橋に立つて、増田・林・岡田の諸氏、其他の大勢と共に大使の着陸を待ち迎へらるゝ。程なく大使は上陸され、すぐに渋沢子爵と握手されて互ひの面に欣びがあふれて見える。此光景を目のあたり打ながめて、只管鎖国攘夷を国是と謬り信じた為に、幾多の有為の志土が徒らに命を捨てた七十年の昔を偲んで感慨無量であつた。
   黒船を怖ちけん人に知らせはや
      この浦浪の今日の長閑けさ
やがて大使と大人の一行は、此旅館の前の道を玉泉寺へ向はれる。両側に人垣が作られて自動車が辛うじて通る程であつた。暫くして式場から迎へが来た故、歌子も玉泉寺に参る。浜辺の道から寺の附近へかけて人で埋まる程である。此地方では黒船以来の事件であるから、他所から見物に集まつた人も多数であるといふ。寺の境内は参列の人々と参観の群集で立錐の地も無い。来賓控所に参り頭本氏の紹介で大使と握手し、徳川公・阪谷男、其外の方方に御挨拶して暫く大使の傍に居つたが、今日は好天気で結構で御座います位の外御話が出来ぬのが残念である。大使の椅子の後ろに丈二・三尺の枯木の幹が有り、屠牛木といふ立札がしてある。大使がこれは何ですかと問はるゝ。文字から推して察しは付くが、どうしてそれが英語で御話が出来やう。小畑さんをよんで説明を頼んだ。果して当時食用の牛を繋いだ木であつて近年枯れ果て幹ばかりかく存して居るのである。
 午後三時参列の人々碑前に整列し、いよいよ除幕式が行はれる。住職村上文機氏の令息当年四歳の康道君が母御の介添へで綱を引く、白布の幕が落ちて立派な大碑が表はれた。満場の人々の拍手しばし鳴りも止まず、今後の日米親善の誓の声とも開きなされて、かく思ひつゞけた。
   たてかへて仰ふくいさをそいや高き
      昔の旗手今日の石ふみ
   立て初めし旗手の風は今もなほ
      ふた国かけてなこやかに吹く
マクヴェー大使、徳川公爵、渋沢子爵の御三人は碑にめぐらした埒の中に、記念の月桂樹を植ゑられた、両様の撮影があつて後一同本堂内なる式場に参集して、順序によつて式は進められた。
 渋沢子爵の演説、米国大使・徳川公爵其外の方々の祝辞、下田町長浜崎村長の謝辞、最後の渋沢子爵の挨拶等は、十月の竜門雑誌の特別欄に記載されてあるからこゝに述べるには及ぶまいが、その中大使の御演説は懇篤な長いものであつた。
 原語を其まゝに解し得た者は今日の聴衆の中には多数ではあるまいと思はれるが、こめられた誠意には感動させられぬものは無かつた。又小畑氏の通訳は誠に立派なことであつた。大使館から演説の原稿を廻されたとき、時日が切迫して居つたので大急ぎで翻訳したのであるさうなが、遺憾なく原文の意が訳し出されたものと思はれる。そして其訳文朗読は明晣であり、末になる程力が加はつて「タウンセント・ハリスの此一事により、今日玆に列席せる人々は教へらるゝ所がある
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と思ふ、日本は今や其国民生活に於て再び危機に瀬して居る、此危機を安全に通過するには、凡ゆる智慧と自制と愛国心とが必要である、来るべき十二ケ月間に日本は普通選挙を実行せようとして居る」といふ一節の朗読を聴いた時は、成程成程左様である、此大切な時機に当り国民一同、私心利己主義などは全く捨てゝ真面目に忠誠愛国の本心をよび醒さねばならぬと、今更ながら深く感じたことである。時間が許さぬので徳川公爵の英語演説の通訳が略されたのは遺憾であつた。
 式は全く終らぬけれども搭乗の駆逐艦の都合上止むを得ぬとのことで、大使一行はこゝを辞し去られる、敬三君が又大人の代理で船まで御送り申した。鈴木下田町長・曾我浜崎村長の謝辞はいづれも誠に丁寧で、此地方の人々の欣びが充分に代表せられた。次に渋沢子爵の御挨拶があり、式は全く終つて徳川公・阪谷男、其外東京横浜からの参列者は辞去せられた。
 さて此堂内の式場の設けは、須弥壇を幕で覆ひ其前中央から左右の小室の前にかけて、横一列に椅子が並べられ、真中が米国大使、其左右が徳川公・渋沢子其外参列員の席である。歌子も其末席に請ぜられた、そして広い道場から左右の庇の間をかけて多数の低い卓が縦十数行に並べられ、此地方の参列者は卓に向ひ合ふてすわつたのである。其昔ハリス領事が浜崎村の人々を招待して饗応したことがあつたが、座席の設けが今日のと同様であつたと、其時の事を聞伝へて居る人の話であつた。式終了後には椅子を除けて渋沢子爵を始め一同其席に着坐した。子爵から参列者一同へもてなしの酒肴がはこばれる。それは赤飯煮〆の折詰、清酒一瓶、記念の小盃、及び日の丸と星条を表はした羊羹一折である。此外に参観に集つた多数の人々へも紅白の打物の菓子一包づつ配付せられた。はや夕暮が迫つた故一寸乾盃の略式だけで宴は終つた。ハリス氏居室に用ひられた堂内向つて左方の小室に据ゑてある書棚の中に、其昔の遺物が陳列してある。重なるものは皿・硝子盃・油画小額、及び今度本堂大修繕の為め一且取壊した時に発見したと云ふ葉巻莨などである。通訳の和蘭人ヒユースケン氏の部屋は右方の小室であつたといふ。住職村上師の説明によれば何しろ一年三ケ月領事館になつて居つた事故、遺留品は沢山有つたのであるが、其当時は異人の品を貰ふて秘蔵するとは怪しからぬなどと、非難する人が多かつたので、深く隠して夫なり失はれた品もあり、又海へ投捨てられた物もあるとのこと、村民中にも貰ふた品を極秘にして居り年経て後、ある人は窓掛の切れを婦人の帯に作つたものがあつたといふことである。領事館に当てるには下田町には客殿なども備つた大刹も有つたであらうに、国民の理解が全く無かつた当時のことゝて、人目に触れゝばふれる程物議の多いのを憚つて、幕府の当局が此僻地の小寺を選んだことゝ想像せらるゝ。この本堂内の道場が事務室に用ひられ須弥壇脇の小室とそれに続く畳廊下様の室とが領事の住居で有つて、この楣間に嵌込んである石材に丸く穴を穿つたものがストーブの煙突を通す為に取附けたもので、修繕後も旧態が存せられて有る。これ等を見ても其一年三ケ月の生活がいかに不自由なものであつたかが思はれる。墓地に接近した山陰のことゝて、日記の一節に云はれた通り、
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夏は蚊軍の襲撃に悩まされたであらう。又いかに気候温暖な南伊豆の一角の地であるとて、このがらんとした堂内では冬夜の寒気は身に迫つたであらう。この楣間の煙突の穴を見るに付けて、僅かにほとりのみ暖め得る小さいストーブの中にくゆる松薪の煙が目にしみて、おのづから望郷の涙が浮んだことも定めし有つたであらう。あの屠牛木とても、深く考へさせられる。仏地に於てしかも居室に近き場所で、家畜を屠殺するとは無慙の至りと非難するものがもし有らば、それはあまり軽卒な考へかたである。米国は「君子は庖廚を遠ざく」などいふ語が無いにしても、誰か其様なむごたらしいことを居所近くで行ふことを厭はぬ者があらう、臭気も烈しからう、蠅も多からう、実にいやなことである。それを敢てしたのには大に同情せねばならぬ。ハリス氏自身はともかくも、通訳の和蘭人にも、従者の支那人等にも、全然肉食を廃させることは、衛生からいふても出来得なんだであらう。さて牛肉が得たいといふても、領事館以外の場所で屠殺など行ふたなら村民の抗議が甚しいことであつたらう、寺の境内は広からず外に場所が無い故あそこで行ふたのであらうと想像する。何とわびしい生活では無かつたか。
 私生活はこの通り、公務の方は言語には二重三重に翻訳の不便があり、好意を以てしても当局へは通らず、渋滞に渋滞を重ねて空しく月日をおくる。並大抵の者ならとくに堪忍袋の緒を切つて立ち去つたであらうに、ハリス氏は職務上の義務観念と勇気、新開国に対する好意と思ひやりの心の深さとで、此惨憺たる境遇に堪へて、終に大功を立てられたのである。あはれ今日米国の排日説をとのふる人々よ。七十年の昔にかくまで日本に対して親切なる同国人が存在したといふことをよく記憶してほしい。
 この室の前の小庭を隔てた崖の上に、五基の石塔が並んで居る。これらはペリー提督部下の水兵三人と、横浜で歿した米人と和蘭人の墓であるさうな。この人々も日米国交開始の犠牲になつたのであるからこの親和の様を見て地下に瞑するであらう。この寺を去るに及んで再び碑石を仰ぎ見る、黄昏の薄明りの中に花崗石の色がくつきりと白く暮れ残つて居る。人々の真心もて底つ岩根固くつき堅めて建たる此石ぶみ、とこしへに動かずゆるがず、日米親善の楔ともなれかしと心に祈り、大人に随ふて旅宿に帰へる。長い間配慮尽力したことが首尾よく成就した時ほど愉快なものは無い。大人も其満足からことに御機嫌よく、少しも御疲れの御様子はなくて、此挙に就き尽力した人々をそれぞれねぎらはれた。とりわけ増田明六さんはこれまで長年大人を御扶け申して日米関係のことに尽された労は多大であるが、此度の挙にも初めからの尽力は勿論、先月来三回も此地に来て石碑建設、寺院修繕の監督を始めとし、参列諸員送迎、式場の設備、又饗応の赤飯・菓子のことまで細心意を用ひられた。何しろ物事に不慣れの地方の人と折衝して事をはこばせるには、存外の面倒も有つた様子であるのに、少しの支障も無く諸事好都合に結了したのは、誠実な同氏の徳によつてゞある。誠に増田氏は日米親善の隠れたる功労者の一人であると思ふ。清水組に於ても此度の建碑と寺院大修繕に奉仕的に力を入れられ
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たよしである。其外にも此挙を扶けた人々が多数なことゝ思ふ。
 夕飯の食卓は今夕は増田・小畑両氏が加はつて、一同用事を為し終へた心のくつろぎから、別して談がはづんだ。食後又敬三君は小畑さんをそゝのかしてこゝで囲碁を始める、小畑さんは敬三君に何目か置いて打つのである。其盤面は頗る面白い。今まで盤上に覇をなして居た大石が忽ち崩壊し、又一隅に跼まつて居た石が見る間に勢を得て来る。変幻きはまり無く宛も近頃の支那の戦争の状態である。其中たうたう小畑さんが大敗北になつて頭を掻いて居らるゝさまは、傍に見る目も笑止なことで、先刻立派な通訳文朗読で大に上げられた御綺量がこゝでは少し落ちた様に思はれる。
 先刻御寺には大勢、又この旅館には七・八人の若い婦人が給仕を手伝ふた。聞けばこゝの処女会の会員で皆志望して出たのであるさうな此旅館の室はあまり広く無い故、ときには御給仕の人たちを分けて通る様な滑稽が無いでもないが、御一同の志が誠に嬉しいことであるから、次の間にならんで居らるゝ傍に行つて、皆さんの厚い御思召を渋沢老人が深く喜んで居りますなどと少し話をした。其中夜も更けたから、明日の日程をほゞはかり定めて、銘々の室に退いた。大人はよく御寝なつたであらう。自分も少し疲れを覚えて常よりよく眠られたが後に聞けば階下の室に臥した人々は、此家の主婦が明朝の御汁は何がよからうとか、御昼食の献立はだうしようとか、女中や手伝の人と相談して居る声が高調子なので、なかなか眠り就けなんだといふことであるが、まれなる此珍客に精一ぱいよい御もてなしがしたい熱心のあまりと思へば、おこる訳にも行かなんだのであらう。


竜門雑誌 第四七一号・第四六―五七頁 昭和二年一二月 伊豆の旅(下) 穂積歌子(DK380040k-0017)
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竜門雑誌 第四七一号・第四六―五七頁 昭和二年一二月
    伊豆の旅(下)
                      穂積歌子
 暁方降り出した雨は早朝に歇んで、十月二日の今日は空に折々雲の往来はあるが、可なりの秋晴日和、此旅行は申分のない御天気都合である。
 大人は朝八時頃から下田町の村松春水氏、其他多数の来訪者に面会して居らるゝ、午前十時には当村の小学校へ御出の筈である、それは校長が、米寿を迎へ猶矍鑠として、常に社会の為に尽瘁し居らるゝ渋沢老子爵の御顔をよく見せて置きたいと今日日曜にも係らず、三ケ所の小学校の生徒を一校に集めるといふことで、其希望を容れて生徒たちに対し訓話をなさるゝ筈である。
 歌子は此附近で名高い名所且つ模範村であるといふ白浜に行つて見たく、林先生を御誘ひ申し此旅館の主人植田氏を案内者にして出かける。大人が小学校へ行かるゝには、道路の都合上小型の自動車を御用ひになるにより、自分等は大人の箱車を拝借し荒山に操縦して貰ふ。白浜へは海岸伝ひなれば近いといふことなれど、車が通らぬ故廻り道して行かねばならぬ。反対の方向の武が浜を経て下田橋まで行き、そこから坂道を登つて武山を越えるのである。武山はさのみ高い山ではないが、坂の上から下田の町全体が一目に展望出来る。城山公園は指
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呼の間に有つて、行つて見ぬをうらみ顔である。植田氏が海岸を指して了仙寺はあの辺とをしへた。其寺は安政元年にペリー提督が林大学頭・井戸対馬守等と会見して、下田条約を締結した場所であつて、其後安政三年に幕府の役人がハリス領事を請待して饗応したこともあるといふ。武山越えは白浜を経て谷津の方面への自動車道であるから、路は誠に平坦で、乾燥した心天草を高く積んだ荷車に度々出会ふたが楽々と行き交ふことが出来た。一里余りの道を十五分程で白浜村に著いて神社前の丘様の場所で車は留る。其丘を降つて溝川の橋を渡りつつ右方を見ると、白砂の浜辺と青々とした海が見渡される。浦の見物はあとゝしてまづ神社に参る。白浜神社は奥伊豆第一の古社で、祭神は伊古奈比咩命におはしまして、神代に出雲の国を天孫に奉つて後、東海に来り住み海中に大島を始め十の島を焼き出しましたる事代主命の妃の命にておはしますと申す。社殿は大きからず神域も宏大と申す程ではないが、浜の中央に突出した岩山の上にこんもりと繁つた森である。森には松其他の樹も有らうが、古木・若木の槙栢といふ木の多いのをめづらしく見た。
 参拝を終つて南方の海辺に出て見る。成程見渡す浜は一面の白砂できらきらと日かげに輝き、さながら降り積つたる雪の景色である。
   時しくの雪のしら浜吹く風に
      さえぬ袂そあやしかりける
 此浜に名高い天草採りはと見廻はせど、沖に浮べる舟もなく、磯に潜女の影も見えぬ。天草採取は十月中旬迄と聞いて居るから、未だ期節が過ぎたからではなく、今日は風が強い為であらう。其光景を見得ぬのは残念である。植田氏の導きで神域の後方を岩石伝ひに週つて見る。こゝを御釜と称ふるのは、岩の廻りに、歯釜の鍔の様に突出した線が有るからであらう。右手の磯近く船の形した大岩がある。諸神がこゝに乗り捨てました神船が化石したものと伝へられる。御釜の真後ろの辺に洞窟がある。口はさのみ広くはないが、林先生が覗いて見て洞の奥の方十畳敷位の広さは見得ると云はれた。沖の晴れた日此所に来れば伊豆七島は水平線上に点々と並んで、中にも大島の煙は手にとる様に見えると云ふのに、生憎にも今日は沖一面に雲の幕が垂れて居て一島の影も見えぬ。
   近く来しかひなの浦の見渡しや
      大島のあたり雲立ちおほふ
 御釜をめぐりはてると又白砂の浜に出る。浜の真砂にまじつて軽石が沢山にあるのは、皆大島から流れよつたものゝよしである。これも御神火の燃え殻かと思へば、捨てがたき心地して三つ四つ拾ふ。この老年になつても稚気の失せぬことゝ人に笑はるゝであらうが、自分は少女時代から曲亭馬琴の稗史の愛読者であつて、中にも八犬伝、弓張月などは今に至つても興味が変らぬ。それで伊豆の下田と聞けば、黒船渡来の聯想の外に、源為朝が朝稚を括り付けて、大島から放つた大紙鳶の著陸地として偲ばれたのである。
 明治二十六・七年頃でもあつたか、歌舞伎座で九代目団十郎の演じた大島の為朝の劇を見た。
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 前の場からのつなぎの囃子はきれて、大風の音で幕が明く。舞台は大島の荒磯の態である。上手寄りの松の大木の幹に結び付けた綱は、下手寄り天井かけてはり切つて居る。朝稚を搭せた大紙鳶は、今しも空高く伸して下田の方角へなびいて居るさまである。
 歎きさゝへる簓江と鬼夜叉を左右へつき退け、ひらめかす白刃の光に、綱はふつつと切れて高く舞ひ上つた。舞台の中央に突立ち、斜め上を見つめた団十郎の為朝、悲痛苦悶の顔色に、烈風に弄ばれつゝ飄飄と海上を飛び行く大紙鳶を、歓喜会心の表情に、伊豆の下田の空に靉靆と閃き昇る梁田の時員が暗号の狼煙を、はつきりと観劇者の頭の中に画いたのであつた。此至芸に感動させられた為に、一層弓張月のあのくだりに興味が増し、随つて大島と下田がゆかしく思はるれのである。
 ところが昨日下田に来て見ても、大凧の著陸に適した浜辺が見当らぬので少し失望して居たが、この白浜は神社の岩山の左右が広い砂浜で、弓張月の北斎の挿絵を其まゝの景色もある。しかも此辺が大島の真正面と聞いて云ひしれぬ満足を覚えたが、あやにく今日は雲の隔てに其島が見えぬのがかへすがへす残り多い。
 白浜村は潜女がかづき上る天草の収獲の利潤によつて、村の資産がことの外豊かであつて、誠に理想的な共産の模範村であると聞いて、
   幸藻かるあまのをとめ子なかなかに
      世のうき浪はしらはまのさと
 自動車の待つて居る所へ戻つて来ると、藤井よし子の舎兄がこゝに出て居て、家はすぐ近辺故一寸立寄つて休息なされと案内された。模範村の模様、潜女の働きぶりなど聞きたくはあるが、帰りがおくれてはならぬ故断つた。
 武が浜まで戻つて来て、急ぐとは云へ有名な弁天島を見過ごすは残念故、庇浜で車を降りた。今丁度潮が満ちて居て一間あまり水を渉らねば島へ行かれぬ。足を濡らすもとたゆたふ中、植田氏が居合せた村の人を頼んでくれた故、一寸負はれて渡つた、そこの渚に吉田松陰の七生説と云ふを刻した石碑が立つて居るが、読んで見る暇もない。
 弁天の社は小さな祠であるが松陰と金子重輔の二人を宿泊せしむるには充分の広さである。然し松陰の抱いて居た大志は容れる余地がなかつたものか、此時は神の加護もなく、あたら大望が水泡に帰してしまふて実に実に気の毒の至りである。社の左側へ廻ると洞窟がある。此島は一寸江の島の雛形とも云へる。然しこゝの洞窟は行留りでなく通り抜けると島の後方に出る。こゝから近くは下田港の内外、遠くは太平洋を見晴るかして、風景佳絶であるが、緩々観賞しては居られず急いで宿に帰り、出発の仕度をする。其中大人も学校から御帰りになつた。昼食には昨夜相談して居た主婦の心入れの献立であらう、刺身蝦の鬼がら焼、口取様のものいろいろ出たが、おちおち味はふては居られず、十二時頃大勢の人々に見送られて柿崎の宿を出発した。増田小畑両氏及び昨日東京から来た中野氏も一緒に帰京するので、雇自動車であとに付き、三台の車が各々適当の距離をおいて疾走するのである。歌子は帰途にぜひ保養館に立寄りたい故、同館の門前で降車して
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石川老女と安藤未亡人に一寸面会し、あとから沼津へ行く積りで居つた処、敬三君・増田氏等の相談で、天城山を越えるには優に一・二時間の余裕を見て置かねばならず、さりとてあまり早く沼津に著いて停車場で長時間待つのは不都合であるから、いつそ大人始め一同で保養館に立寄つて休息し、五時頃に沼津に行くが上策であると一決して、今朝保養館へ其旨打電したのである。
 昨日来度々往復して見た武が浜の景色も、今はとなれば一しほ名残が惜しい。今度の旅行のこの奥伊豆の秋日和、空も海も青々と澄みきつた清らかさ爽かさ、決して不足を感じるのでは無いが、此の南の国には山は霞み海からは陽炎が立つ、初春の頃が他所では味ひ得ぬ情景があることゝ思はるゝ、
   命あらはまたこそとはめ南伊豆の
      はるのいそ山つはき咲くころ
 下田の町を過ぎ下田富士も忽ち見かへる様になつた。此山は一岩山といふて名の如く一つの岩石であるとのこと、山上の小祠は一千年前官祭に預つたといふ記録があり、白河楽翁公も伊豆巡遊の時参詣して初穂を奉つたことがあるといふ。又祠後の黐の木の幹に一八五五の年号と外人の姓名の頭字を刻したものが有つたが今は枯れたといふ。
 阪谷君は昨夜蓮台寺に一泊のよし、今朝早く帰京の途に就かれたのであらう。その温泉は清らかで量が豊富であり、宿の設備もよいといふ、高地故眺望も定めしよいであらう、立寄つて見たく思ふ。
 道に添ふて居た稲生沢川を段々見おろす様になり、ついに山路にかかつた。高根山を越え湯が野を過ぎいよいよ峠に近づく、天城越えの難所ともいふべきかの隧道以南の九十九折も、今日は昇り坂故昨日の降りに比して自動車操縦に気遣ひ少なく、大に楽であると運転手たちが云ふのを聞いて居た故、車上の人々の心も稍々軽く、昨日ほど緊張せぬが、景色の雄大なことは更に驚きを増すほどである。
   天城山見し昨日より谷深く
      峰また高くなりやまされる
   まきかへし山路の絵巻また見れは
      さらにいみしきなかめなるかな
 ハリス領事が幕府に迫つて、辛うじて許されて江戸に出府した時も陸路でこの天城越えをしたのであつたさうな。同氏の日記の一節に、外に通路が有るものを態と此様な峻険な山道を引廻すのでは無いかと思ふたとあるさうなが、成程馬か駕籠での其頃の旅行はどんなに難儀で、且もどかしいことであつたらう。柿崎を立つて江戸に著くまで中に一日日曜日に戸塚とかに逗留して、前後八日かゝつたと云ふことである。峠の隧道は昨日ほど長くは覚えなんだ。今日は空に雲のゆきゝがある故、かの茅野山は折柄日がかげつて、昨日の晴やかさに引かへ被衣の色もくすんで幽婉に見える。山姫にも時には物思ひが有るのであらう。山路を更に降つて、湯が島のこなたの道の辺に三台の自動車をしばしとゞめて休息する。こゝは格別見晴しとてはないが、此方の木立の下かげには、ぬるで柞の紅葉の色がうすく濃く、露にたわんで野菊を咲いて居る。かなたの岸に生ひ繁つたくま笹のかげには、谷川
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の岩せく水音が聞える。切り出してある材木の端に腰打かけて、魔法瓶からついで飲む番茶には又格別の味があつた。いよいよ天城山に別れを告げ修善寺・大仁をあとにして、三島行線路に添ふた道を走る。長岡温泉も江川の反射炉遺跡もこの附近と思はれる。もし時が許すならば、大人を韮山の江川家へ御案内申上げたい。
 韮山の江川家は世にも稀らしい旧家で、三十八代の当主英武翁の先人は、かの太郎左衛門英竜江川坦庵先生である。江川さんとも其姻戚の山田博士とも以前から懇意である故、先年静浦に滞在中山田博士の案内で、一日江川家に参つたことがある。同家は保元の昔に先祖が一族郎党を引具して都方から此地に来て土著したのであつて、大寺の一部の様に見える母家は其当時建造したものであると云ふから八百年近く経て居る。大黒柱は立木を其まゝの生き柱であるとも云ひ伝へる。時代を経て真黒な梁や柱などの木材の色が神秘的で、其昔を知りながら沈黙を守つて居る様に見えた。そしてこれも真黒で下からよくは見えなんだが、梁の上に日蓮上人の火伏の御符が貼つてある。日蓮上人が伊豆に流されて居た時、其時代の当家の主人が厚い帰依者であつて家に請じて教化を受けた折に、其時既に上人が此家は古い建物であるから今後も永遠に火災を免がるゝ様にとて、御符を書いて授けられたものゝよしである。又仏間には上人が自ら刻して授けられた木像が安置してある。其折感嘆のあまり
   岩かねに生ひけるまゝのまき柱
      うへこそ千代にゆるがざりけれ
   法の水深きちかひはすみ来つる
      火宅のほかの宿にこそ知れ
などと思ひつゞけた。
 江川家はかくて連綿と代々に栄えて、近代に到り英傑の士坦庵発生を生じたのである。維新前先生の功績声名は人のよく知るところであるが、遺された筆跡・画・什器・衣服等を見ても其人格が偲ばれる。ことに驚くべきは、先生が砲術・兵術の師表と仰がれた頃、其当時の大小名諸侯、及びあらゆる名士達から先生におくつた書翰の量の多いことで、
   底ひなき江川の淵にたゝえけり
      名ある流の水くきのあと
と詠嘆する程であつた。急いで一わたり見たのであるし、年も経たので逐一覚えては居らぬが、佐久間象山・渡辺華山・水戸烈公・安部伊勢守などのは記憶に残つて居る。中にも烈公と華山のはことの外懇ろな長文であつた。其時から此文書は渋沢の父上に御目にかけたら、嘸かし思出多く興味深く御覧になるであらうと思ふて居た。其上に楽翁公が谷文晃に富岳を画がかしめ、其神技に感嘆して写山楼といふ号を賜はつたが、其名画は此江川家の裏門辺から、その霊山を写生して成つたものであるといふ。深く楽翁公を敬慕なさるゝ大人にはこれも興味のあるべき話である。
 今度の旅行には往復とも江川家の近辺を通行するのであるから、一寸同家に立寄つて其古文書を御覧になる様な機会は作れまいかと、出
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立前に敬三君に相談して見た。同君も同感ではあつたが、それにはどうしても静浦あたりへ今一泊なさらねばならぬが、翌三日には東京に御用があつて、二日中に御帰京にならねばならぬとのこと故、遺憾ながら断念した。山田博士も江川家でも後に聞かれたら、嘸々残念に思はるゝであらう。
 此様な事を考へたり大人に御話申上たりする間に、はや三津を過ぎ江の浦を通つて静浦の保養館に著いた。門内に入ると庭園つゞきの浦松の緑のしたゝる様な色が昔に少しも変らぬ。別館の玄関に出迎へて居る番頭たちと女中たちの重な二・三人は昔なじみであつて誠になつかしい。とりわけ石川老女は背はいよいよ丸くなつたが少しも老衰の様子は見えず、其昔にもました深切さで迎へてくれた。
   来て見ればまさきくありけり浦の松
      しはしはこゝにかけをたのまん
 ほんとに昔なじみはなつかしいものである。貫之朝臣が初瀬で人はいさと云はれたのはなぜかしらと思ふ。石川老女が御なじみのあの御二階へといふはさることながら、大人の為に階下の室にしたいと云ふたら、それならとて東端の広間に案内された。当館は中央の辺にラヂオを据えたり、椅子・テーブルを置いたりした、一寸洋風装飾の小間が設けられた外は、どこもかしこも昔のまゝである。元より立派な普請ではないけれども、隅から隅までよく掃除が行届いて居て気持がよい。大人は余程の昔一寸こゝに立よつたことがあつたを、来て見て思ひ出した、成程普通の旅館とちがひ誠に落著いた居心のよささうな家であると仰せらるる。老女が大人への御挨拶はことの外恭やしい。この人は京都そだちで、西行法師の娘ではないが父は禁裏北面の武士なにがしと聞いて居る。行儀物ごしどこやらに其名残が有ると思ふ、安藤未亡人も挨拶に出られ、正胤が在世であつたら渋沢子爵の御来館をいか程喜ぶことで御座りませうと云はるゝ。前かた潮洛の番人であつた五十嵐勇助老人は歩行不自由と聞き、見舞の菓子料を少々遣したところ孫息子のますさんが礼に来た。此の息子は当村の模範的青年で、先頃村役場から祖父孝行の褒美を頂いたよしである。御やつの御鮨が出る。今尾さんが特別念入に調理させたものと見えことの外おいしく大人もよく召し上つた。扨歌子は其昔は毎年我別荘同様に思つて居たなじみの室に庭づたひに行つて見る。当館も今は一番滞在客のない時とてどの室も明いて居つた。其頃娘たちの居所と会食場とに用ひて居た階下の室には、床の掛物まで見覚のものが掛けてある。二階に上つて見ると猶更其かみが偲ばれる。上の間に供へ付けの柴檀の大机は、故主人が著述ものゝ勉強に使ひなれた其ものである。椽側に出て見ると軒の松が枝も葉ごしに見ゆる磯の浪も、瓜島の岩根も皆昔ながらのながめであるので、間の八・九年は記憶から消えて、其まゝ今が昔に立帰つた様な気がして只茫然としばし立ちつくして居つた。
   なれにけるおはしまによれは室の中
      文よみて君のいますが如し
 何時までさうしても居られず、思ひ切つて庭に出ると、こゝにも亦思出がある。西側の小庭の泉水がたの場所に白い小石が敷いてある。
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これは其昔主人と歌子が、朝夕の運動がてら浜で拾つて籠に入れたり風呂敷に包んだりして持ち帰り、数日かゝつて敷き詰めたので、物好きなこと御苦労様な事と人々に笑はれたものであるが、今になつては当館でも穂積男爵の記念の一つとして居る様である。浜の景色を見ようと柴垣の外に出て見るとこゝにも浜一ぱいに鰯が干してあり、渚までの通路もない程である。いつの間にか空は曇つて、伊豆の大瀬の崎の夕ばえも今日は見られぬ。元の座敷に戻るとはや五時近くなつた。敬三君が伯母さんはこゝに二・三泊なさつたらよからう云はれた。さうしたいは山々なれど、明後四日の晩に仲子の姪立花とし子の結婚披露会がある。立花の母御の喜びに同情して参つて祝詞を申さぬば気が済まぬ故、やはり帰京することにしたのである。石川老女・安藤未亡人等に別れを告げ再遊を契つて車に乗る。
 沼津停車場に著き大人と共に駅長室に案内されて行くと、先に徳川公爵が御出になつて居る。昨夜牛臥に御宿泊で此汽車で御帰京なさるとのこと。清水釘吉氏と令息康雄氏も同時帰京とてこゝに居られた。康雄氏は故穂積が賀名を撰んだ縁故もあるので、昨年三月結婚の節両人が媒妁をつとめた。何十組といふ程の媒妁をつとめたが、それが最終のものとなつたのである。ホームへ行く路の階段で、康雄氏が老人といたはつて手を取つて下さる。斯様にいたはらるゝのは嬉しくはあるが未だ少し残念な気もする。敬三君と岡田・小畑の両氏は大人の御見立てをして後、自動車で帰京するとの事である。五時二十一分沼津発の特急汽車は一同を乗せて発車した。前の埼玉県知事斎藤氏其外何人か同車した人々が大人の室へ挨拶に参らるゝ。大人は何処へ行かれても斯様であるからなかなか暢気な旅行などは御出来にならない。
 増田氏は大人の御用で徳川公爵の車室へ度々往復せらるゝので、ふと思ひ付いて増田氏に托して歌子持参の書類を公爵の御覧に入れた。それは安政四年にハリス領事が江戸に出府して、将軍に謁見仰せ付られた時の幕府の引見儀式次第書である。
 これで見れば可なり公式のものと見え鄭重を極めて居る。この書付は先年富沢充氏から貰ふて筐底に入れてあつたを先頃ふと見出し、亜米利加使節とあるからよく見るとハリス氏のことで有つた。其当時か否か、とにかく維新前に宇和島藩の人が筆写して置いたもの故、古風な字の略書でよみにくいから、高田さんに書き直して貰ふて、大人に御目にかけたのであつたが、林先生や岡田・小畑両氏にも御目にかけようと持参したものである。大人もさすがに幾分御くたびれたと見えうつらうつらして御出になり、随つて話もと切れる。外は暗く車外の眺望も出来ぬ。帰り汽車の中ではしるすべき事もなかつたから、あまり余談ではあるが、かの書付をだうして富沢氏から貰ふてあつたかについて少ししるしたい。開国の先覚者に関係ある話であるから。
 富沢充氏は故穂積と同郷宇和島出身であつて、祖父は伊達侯の典医としての名望のあつた人である。伊達宗城侯が高野長英をかくまふて宇和島に寓居せしめて居た頃、富沢氏の祖父と交際が有つたといふ。それで先年故主人が富沢さんに、あなたの家には長英の筆跡が蔵してありはせぬかと問ふたら、其当時長英と祖父と交通もしたといふこと
 - 第38巻 p.399 -ページ画像 
なれど、長英が世を憚る身の上故、其折皆火中などして仕舞ふたと聞いて居りますが、猶取調べて見ませうと云はれ、其後宇和島に帰省の折、一束の古文書を持つて来られた。いづれも詩の会などの詠草ともいふべきものらしく、粗末な半切れに書いた詩及文章であつた。其中の十数葉を穂積が後藤子爵に御見せ申して、此中に長英の筆跡が有るならば見分けて下さる様にと申した処、子爵は直ちにこれとこれとですと二枚を選び出され、そして長英の詩には大抵夢といふ字が入れてあるが、夫等にはだうですかと云はるゝ故、読んで見ると一首は旅中常に駕籠の戸は閉ぢてあるが田圃に牛を叱する声に、今正に初夏農事の繁なるを知るといふ意味のもの、一つは愛宕山下の旅寓に杜鵑の声を聞いて家郷を偲ぶの情を述べたものであつて、二首ともに夢といふ字がある。
 伊達侯が長英を江戸から連れ出す時には、家老桜田某の鎗持ちに身をやつさせ、其後旅行中は駕籠の中に忍ばせたといふこと、宇和島著は五月であつたといふこと、又宇和島に於ける長英の隠れ家は同地の一の宮宇和津彦神社の神苑なる愛宕山の下に有つたといふ云ひ伝へと符合する故、この二葉が長英の自作の詩且自書である事はたしかになつた。其節富沢氏は名古屋に在任して居られたので、当方で右の二枚を一幅の掛物に表装し箱の蓋の裏に、穂積が其由来をしたゝめて名古屋に送つて上げた。富沢氏はことの外喜んで家珍として蔵して居らるる。前述の米国使節御目見え次第書は富沢家蔵の古文書中に有つたもので、同氏が御宅に置けば何かの役に立つことも有らうからとて置いて行かれたものである。尤も此謁見次第書も当時の対米関係をしるした書籍の中には掲げてあるであらうが、其時代に手写したものが偶然出て来たのが一寸面白く感ぜらるゝのである。
 やがて夕食の用意が出来たとの知らせが来る。大人は先刻の鮨でまだ物ほしくもないが退屈しのぎに行かうと仰せられ、皆御一緒に食堂に行つた。
 林先生が、今度の私の御供は全く不必要でありましたが、これ程御めでたいことはありません、投薬したのは運転手と女中にアダリンを二・三粒づつ与へたゞけでしたといふて笑はれた。かれこれする中八時二十分になり東京駅に著した。大人御出迎への人々が可なり大勢あつた。例の椅子を搭せた運搬車が来て、大人はそれに御乗りなる。歌子にもと周囲の人々が勤める。今降車した人々は早く出口へ向ふて、近辺には大勢は居らぬ故、これも話のたねと歌子も同乗したが、誰か知人が居はせぬかと自然あたりが見廻はされた。エレベーターで下に降りると、そこに御迎への自動車が来て居り、大人は直ぐに御帰邸になる。歌子も帰宅すると重行がまだ起きて居て御土産はといふ。だうも柿崎には坊の御みやになる様なものがなかつたので、修善寺の歴史絵葉書と、かの日章と星条の羊羹を、明日の御八つにといふて間に合はせた。
 飛鳥山邸へ電話で御機嫌を伺ふと大人は少しも御疲れがないと申ことである。歌子も常になく両日とも長時間自動車に乗つたに係らず、少しも疲れを覚えぬ。これは全く自動車の車輛が上等で運転手が注意
 - 第38巻 p.400 -ページ画像 
して操縦した為である。始めは自家用の車を差廻すなど、ちと仰山なことゝも思ふたがそれは決して贅沢ではなかつた。然し敬三君は帰りの自動車に搭乗されたが、生憎夜の箱根路で雨が降り出して、車がはかどらず、十二時過ぎにやつと帰宅されたとのこと、誠に御苦労様のことであつた。
 大人には一昨年春以来、御尽力のハリス氏記念碑建設事業を完全に果されて、御満足此上ない。且其為の伊豆旅行も少しも御健康に御障りなく何よりも御めでたい。ことに歌子は、はからずも結構な御供をさせていたゞいて、実によろこばしく、且今後生涯のよい思出草である。
   天城山伊豆の海より御恵の
      高くもあるかな深くもあるかな


渋沢栄一書翰 控 ヘンリー・エム・ウォルフ宛 昭和二年一一月一四日(DK380040k-0018)
第38巻 p.400-401 ページ画像

渋沢栄一書翰 控 ヘンリー・エム・ウォルフ宛 昭和二年一一月一四日
                     (渋沢子爵家所蔵)
                     (栄一鉛筆)
 北米合衆国市俄古市           十月五日閲了明六
  ヘンリー・ダブルユー・ウルフ殿《(ヘンリー・エム・ウルフ)》
                   東京 渋沢栄一
拝啓、益御清適奉賀候、然ば予て貴台並に故バンクロフト大使より御依託の、タウンセンド・ハリス氏記念碑建設の義、碑文・碑石並に建設地点の決定、碑文の彫刻等の為め意外に遷延罷在候処、過般工成り去月一日無滞除幕式を挙け、漸く小生の責任を完了致候義、玆に御報告申上候は欣快措く能はさる所に御座候
当日の状況は不取敢別記の通り、架電致、折返し御鄭重の御返電に接し恐縮に存候、ネヴイル総領事苑の貴電は、除幕式挙行の翌二日御転達被下候に付、僅一日の相違にて式場に於て御披露致兼候は遺懐千万に存候、事情御諒恕被下度候
御承知の通りタウンセンド・ハリス氏が、玉泉寺境内に初めて米国領事旗を掲揚せられしは、千八百五十六年九月四日に有之候間、九月四日除幕式挙行の事に予定致居候処、九月上旬は通例暴風雨多く且残暑酷しき折柄なるに付、一ケ月繰延へ候方可然との意見有之、遂に十月四日挙行の事に取決め候、然るに米国大使マクヴエー氏並に同氏便乗の駆逐艦「島風」の都合により、已むなく更に十月一日に変更致候、依て碑面には千九百二十七年九月四日建之旨刻し、一方別便拝送小冊子「日本に於けるタウンセンド・ハリス君の事蹟」には千九百二十七年十月一日建碑の旨記入致候義に御座候
御承知の通り玉泉寺所在の柿崎は伊豆半島南端の僻邑にして、途中鉄道の便を欠き候為め、東京よりは途中一泊を要し候に付、有力者諸氏の参列至難なるべくと存候処、幸にマクヴエー大使・徳川家達公爵・樺山伯爵・阪谷男爵・大倉喜八郎氏・藤沢利喜太郎氏を始め、知名の士数十氏の臨席を得、且数百の地方人士来会致、同地空前の大盛況を呈し候は、本懐の至に御座候
マクヴエー大使の演説は頗る壮重にして、ハリス氏の人と為りを知らしめしのみならず、日米親善増進に寄与する所多く、列席者一同に大
 - 第38巻 p.401 -ページ画像 
なる感動を与へ候、徳川公爵及田中外務大臣の祝辞は、孰れもハリス氏の功績を賞揚し、日米親善の必要に及び候、小生の挨拶は前申上候「タウンセンド・ハリス君の事蹟」の緒言を要約して申述置候間、御閑暇の折右御電覧被下候はゞ仕合に存候、尚ハリス氏の日記の一節、「借問す。予が思惟する如く、日本の為めに真に有益なりや如何にと」と自問せるに対し、当日式場に於て小生は声を大にし「日本は真に貴下の思惟せし如く、貴下の誘導によりて絶大の利益を得、国運の発展を見たり」と氏が在天の霊に告げ得たるを申添候
最後に記念碑並に会計の概要左に申添候
 一、碑  高さ八呎巾四呎四分ノ一厚さ八吋にして、高さ十二吋巾五呎厚さ三呎の台石の上に建つ。
 一、碑の基礎  割栗石厚さ十吋搗き固めの上、コンクリート厚さ二呎打とす。
 一、材碑  台石とも花崗石。表裏両面とも水磨きの上表面に英文裏面に日本文を刻す。
 一、外柵  碑の周囲巾二十呎奥行二十二呎半の土地を柵(花崗石柱を鉄棒にて繋ぐ)を以て囲繞し柵内は芝生とす。当日此一部に米大使・徳川公爵並に小生記念植樹(月桂樹)す。
 一、碑の位置  玉泉寺境内ハリス氏が始めて領事旗を樹立したる地点。
 一、工事  小生の信頼する有力土木建築業清水組に担当せしむ。
 一、会計  貴台並にピアス氏寄贈の合計金四千円、並に利息は全部碑石購入費、碑文彫刻費及建設費に充当し、全然他に使用不致、当日の式場の設備、来賓の案内及接待並に記念品等除幕式に関する一切の費用は、小生に於て負担致候
 尚々当日撮影為致候写真六葉(各裏面に説明を付置候)一組、並にプログラム数葉別便御送付申上候間、御一覧被下度候
右乍遷延御報告申上度如此御座候 敬具
  ○右英文書翰ハ昭和二年十一月十四日付ニテ発送セラレタリ。


渋沢栄一書翰 控 エルブリッジ・ビー・ピアス宛 昭和二年一一月三〇日(DK380040k-0019)
第38巻 p.401-402 ページ画像

渋沢栄一書翰 控 エルブリッジ・ビー・ピアス宛 昭和二年一一月三〇日
                     (渋沢子爵家所蔵)
 北米合衆国市俄古市           (栄一鉛筆)
  イー・ビー・ピアス殿         十月五日閲了増田
                   東京 渋沢栄一
拝啓、益御清適奉賀候、然ば予て御賛同被下候タウンセンド・ハリス氏記念碑建設の義、碑文・碑石並に建設地点の決定、碑文の彫刻等の為め意外に遷延致候処、過般竣工致、去月一日無滞除幕式を挙げ、玆に責任完了致候儀を御報告申上候は、本懐の至に御座候
当日の状況は不取敢打電致候処、折返し御鄭重の御返電を賜り恐縮至極に御座候
タウンセンド・ハリス氏が玉泉寺境内に初めて米国領事旗を掲揚せしは、千八百五十六年九月四日に候間、九月四日を以て挙式の事に予定致居候処、九月上旬は通例暴風雨多く且残暑酷しき折柄なるに付一ケ
 - 第38巻 p.402 -ページ画像 
月を繰延べ候方可然との意見有之、遂に十月四日挙式の事に取決め候然るに米国大使マクヴエー氏並に同氏便乗の駆逐艦「島風」の都合により、已むなく更に十月一日に変更致候、依て碑面の日付と、別途拝呈の「日本に於けるタウンセンド・ハリス氏の事蹟」に記入したる建碑の日と相異を生し候義、不悪御諒承被下度候
除幕式を挙行致候玉泉寺所在の柿崎は、伊豆半島南端の僻邑にして、途中鉄道の便を欠き候為め、東京よりは途中一泊を要し候に付、有力者諸氏の参列至難なるべくと存候処、幸にマクヴエー大使・徳川家達公爵・樺山伯爵・阪谷男爵・大倉喜八郎氏、藤沢利喜太郎氏を始め、知名の士数十氏の臨席を得、且数百の地方人士来会致同地空前の大盛況を呈し候は、欣快の至に候
マクヴエー大使の演説は頗る壮重にして、ハリス氏の人と為りを知らしめしのみならず、日米親善増進に寄与する所多く、列席者一同に多大の感動を与へ候、徳川公爵及田中外務大臣の祝辞は、孰れもハリス氏の功績を賞揚し、日米親善の必要に及び候、小生の挨拶は前申上候「日本に於けるタウンセンド・ハリス氏の事蹟」の緒言を要約して申述置候間、御閑暇の折御電覧を賜はらば仕合に御座候、尚ハリス氏の日記の一節「借問す。予が思惟する如く、日本の為めに真に有益なりや如何にと」と自問せるに対し、当日式場に於て小生は声を大にし、「日本は真に貴下の思惟せし如く、貴下の誘導によりて絶大の利益を得、国運の発展を見たり」と氏在天の霊に告け得たることを申添候
最後に記念碑並に会計の概要左に申添候
  ○以下前掲ウオルフ宛書翰ト同一ニ付略ス。
  ○右英文書翰ハ昭和二年十一月三十日付ニテ発送セラレタリ。


(チャールズ・マクヴェー)書翰 小畑久五郎宛 一九二七年一一月一六日(DK380040k-0020)
第38巻 p.402-404 ページ画像

(チャールズ・マクヴェー)書翰 小畑久五郎宛 一九二七年一一月一六日
                     (渋沢子爵家所蔵)
          EMBASSY OF THE
       UNITED STATES OF AMERICA
             Tokyo, November 16, 1927
My dear Mr. Obata,
  I enclose a copy of a letter from Mr. Donald A. Roberts, the Editor of the City College Alumnus, which is a paper published by the graduates of the City College in New York, of which one of the founders was Mr. Townsend Harris.
  Would it be possible for you to let me have a copy of the addresses made by Viscount Shibusawa and Prince Tokugawa at Shimoda (of course, I want them in English), and also a photograph of the memorial stone, such as Viscount Shibusawa was kind enough to give me? If you can let me have these I will forward them to Mr. Roberts, together with a copy of my own address. It would be very helpful if you could also send me a copy of the pamphlet prepared by Viscount Shibusawa.
for the occasion.
 - 第38巻 p.403 -ページ画像 
  Trusting that I am not asking too much of you, I am,
            Very sincerely yours,
             (Signed) Charles MacVeagh
Mr. Kyugoro Obata,
  Nakadori 28 gokan,
  Marunouchi. Tokyo.
(右訳文)
          (栄一鉛筆)
          十一月十九日一覧
          大使より請求之通り早々発送いたし其旨大使へも御答可被致候事

 東京市、渋沢事務所         (十一月十七日入手)
  小畑久五郎様
           東京、一九二七年十一月十六日
             米国大使 チヤールズ・マクヴエー
拝啓、益御清栄奉賀候、然者紐育シチー・カレツジ同窓会誌主筆ドナルド・エー・ロバーツ氏よりの来状写、玆許加封致置候間御一覧被下度候、同誌は紐育シチー・カレツジ卒業者によりて発行せらるゝ新聞紙にして、同校創立者の一人はタウンセンド・ハリス氏に有之候、下田に於ける渋沢子爵及徳川公爵の演説(勿論英語のもの)及び、渋沢子爵より小生の頂戴致したるが如き記念碑の写真をも御恵与願はる間敷く候哉、若し右御願ひ出来申し候はゞ、小生演説の写をも添へて之れをロバーツ氏に送附可致候、尚ほ当日渋沢子爵より配布相成たる小冊子をも一部御送り被下候はゞ大いに好都合と存候
御手数の段甚だ恐縮に候得共、何卒宜敷く御願申上候 敬具
(同封書翰)
             (COPY)
         THE CITY COLLEGE ALUMNUS
        Convent Avenue and 13th Street
           New York, N. Y.
                      October 26, 1927
Honorable, Charles McVeagh
  Embassy of the United States of America
  Tokio, Japan
Dear Sir :
  In a recent issue of the New York Times, I noticed an account of the unveiling at Shimoda of a memorial to Townsend Harris, and a list of those who made addresses on this auspicious occasion. Inasmuch as Townsend Harris was not only the first American Minister to Japan, but also the founder of the College of the City of New York, I am especially interested in bringing news of a celebration of this sort to the graduates of the College in the most complete and accurate manner possible. I am therefore taking the liberty of writing to ask whether it would be possible for me to reproduce the address you delivered on this occasion, in the Alumni magazine of the College. I shall
 - 第38巻 p.404 -ページ画像 
consider it a privilege to do so and I feel sure that all of our readers will be deeply interested in what you have to say of a man who means so much to the College.
  Of course I should like also to produce one or two of the addresses by the distinguished Japanese who spoke, and I shall be deeply grateful to you or to the members of your staff if arrangements can be made to send me copies of the remarks made either by Prince Tokugawa or Viscount Shibusawa.
  If I might ask one further favor, I should like to request that, if such a thing is available, you let me have a photograph of the memorial itself.
  Please be assured of the highest admiration of the graduates of the College of the City of New York for the excellent work you are doing in your high office of international goodwill.
              Very truly yours,
             (Signed) Donald A. Roberts
                  Editor
(右訳文)
      (写)
 東京市
  米国大使チヤールズ・マクベー閣下
              紐育、一九二七年十月廿六日
               シチー・カレツジ同窓会誌主筆
                ドーナルド・エー・ロバーツ
拝啓、最近の紐育タイムス紙上にて、小生はタウンセンド・ハリス記念碑除幕式が下田に於て挙行せられ候由を承知致し、尚ほ演説をなされたる方々の人名表をも一覧致候、タウンセンド・ハリスは日本駐在の最初の米国公使たりしのみならず、紐育シチー・カレツジの創立者に候へば、卒業者に対し此種の祝賀会の模様に就ては特に出来得る限り完全且つ正確に報道致度くと存居候、閣下が当日なされたる御演説をカレツジの同窓会誌上に掲載致し候ても御差支無之候哉御伺申上候右は小生の特権とする処にして同誌の読者は、大学の功労者に関する閣下の御話に対し深く興味を抱き可申と存候
勿論小生は当日演説相成たる日本人の名士の演説をも掲載致度所存に有之候へば、徳川公爵又は渋沢子爵の内何れかその演説の草稿を御送り被下候様、閣下又は貴大使館員に於かれ御取計ひ被下候はゞ難有奉存候、尚ほ恐縮ながら今一つ御願ひ申上度きは、若し御差支へ無之候はゞ記念碑の写真を一葉頂戴致度き事に御座候
閣下が外交官としての高地位に在せられ、国際親善の為めに貢献せらるゝ御努力に対し、我紐育シチー・カレツジの出身者は最高の賞讃を奉るものに御座候 敬具


(小畑久五郎)書翰 控 チャールズ・マクヴエー宛 一九二七年一二月二八日(DK380040k-0021)
第38巻 p.404-405 ページ画像

(小畑久五郎)書翰 控 チャールズ・マクヴェー宛 一九二七年一二月二八日
                     (渋沢子爵家所蔵)
 - 第38巻 p.405 -ページ画像 
                   December 28, 1927
His Excellency
Mr. Charles MacVeagh,
  American Ambassador,
  American Embassy, Totaku Building,
  Uchisaiwaicho, Kojimachiku, Tokyo
Dear Sir,
  The esteemed letter of Your Excellency dated the 16th November, together with a copy of Mr. Roberts' letter to Your Excellency was translated and submitted to Viscount Shibusawa. Now he instructs me to prepare all the necessary papers and send them to Your Excellency. A set of photographs which was taken at the time when the monument was unveiled also will be sent to Your Excellency with the request that Your Excellency be kind enough to forward them to Mr. Roberts.I should have attended to these matters promptly, but the revised edition of the pamphlet which the Viscount prepared did not come out till a few days ago. Hence this delay for which I beg Your Excellency's generous pardon.
            Yours most truly,
                (Signed) K. Obata
              Secretary to Viscount Shibusawa.


(エルブリッジ・ビー・ピアス)書翰 渋沢栄一宛 一九二八年一月一〇日(DK380040k-0022)
第38巻 p.405-406 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

(エルブリッジ・ビー・ピアス)書翰 渋沢栄一宛 一九二八年一月二六日(DK380040k-0023)
第38巻 p.406-407 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕タウンゼンド・ハリス氏記念碑除幕式玉泉寺修繕落成式書類(DK380040k-0024)
第38巻 p.407-408 ページ画像

タウンゼンド・ハリス氏記念碑除幕式玉泉寺修繕落成式書類
                     (渋沢子爵家所蔵)
(控)
昭和二年十月一日於伊豆下田町在柿崎
 タウンセンド・ハリス記念碑除幕式玉泉寺修繕落成式計算書
 金六百六拾壱円四拾五銭 宿泊料
  金弐拾壱円二拾八銭   湯ケ島落合楼払外一件
  金弐百拾壱円七拾八銭  修善寺新井旅館払
  金参百五拾参円参拾九銭 柿崎阿波久旅館払
  金七拾五円       静浦保養館払
 金百八拾八円六拾九銭  汽車費
 - 第38巻 p.408 -ページ画像 
 金百弐円七拾銭     自動車賃
 金千六百拾六円四拾七銭 除幕落成式費
  金百拾四円拾壱銭    式場諸設備費
  金参百弐拾七円     来賓送迎自動車費
  金参拾円        天城峠ニテ来賓食事費
  金百四拾円       羊羹折詰弐百箇代
  金八拾円        打菓子千箇代
  金参百参円       弁当折詰弐百拾九箇代
  金九拾弐円       日本酒壜詰弐百本代
  金四拾五円六拾銭    記念盃弐百箇代
  金七円参拾九銭     菊花記章弐百四拾箇代
  金七拾参円六拾銭    写真代
  金四百参円七拾七銭   活動写真撮影費
 金六百四拾六円参銭   印刷費
  金四百九拾参円     ハリス事蹟千部代
  金百弐拾円       記念扇子弐百五拾本代
  金九円弐拾銭      碑文参百枚代
  金弐拾参円八拾参銭   通知状返信端書封筒プログラム等代
 金参百八拾円四拾四銭  雑費
  金拾八円        玉泉寺及同委員へ贈額縁代
  金五拾壱円       式当日ノ応援者、青年団員、処女会員等へ贈
  金弐百円        頭本元貞氏へ謝礼
  金九拾四円壱銭     電報料(米国トノ往復電報トモ)
  金拾弐円参拾弐銭    郵税
  金五円拾壱銭      雑費
以上合計
 金参千五百九拾五円七拾八銭
右之通相違無之候也
 昭和二年十二月
                       中野時之(印)
  ○ハリスニ関スル栄一ノ談話ハ「年頭漫談」(銀行通信録第八九巻第五二八号・昭和五年一月所載)中ニアリ。
  ○バンクロフトニ就イテハ本資料第三十四巻所収「日米関係委員会」大正十四年二月二日ノ条参照。
  ○当日ノ記念撮影ノ写真ハ左ノ書類ニ収メラレタリ。
   「タウンゼンド・ハリス関係書類」(渋沢子爵家所蔵)



〔参考〕AMERICANS IN EASTERN ASIA pp.348-9(DK380040k-0025)
第38巻 p.408-409 ページ画像

AMERICANS IN EASTERN ASIA pp.348-9,1922
     APPOINTMENT OF TOWNSEND HARRIS
     ― INSTRUCTIONS AND TREATY WITH SIAM
  Townsend Harris had been a merchant in New York City, distinguished for his public spirit and service. He had been President of the Board of Education and was "a sound, reliable and influential Democrat." Giving up his business in New York he sailed for San Francisco in May, 1849, in a vessel of
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which he was part owner, and later embarked upon a leisurely trading enterprise in the Pacific and Indian oceans. On Christmas, 1849, he was "at sea in the North Pacific Ocean"; 1850, at Manila; 1851, at Penang; 1852, at Singapore; 1853, at Hongkong; 1854, at Calcutta. His enterprises, while at first successful, ended in failure, and in 1853, describing himself as a resident of Hongkong, he applied for the position of American consul at either Hongkong or Canton. Notwithstanding the efforts of influential friends in the United States he was assigned to the consulate at Ningpo (August 2, 1854) an unimportant and trivial post with a remuneration of $1000 for judicial services and such fees as the slight American trade at that port afforded. Harris, whose face was already turned towards home, appointed a missionary, Dr. D. C. Macgowan, as acting consul, and set out for New York. Immediately upon his arrival he secured the interest of his New York friends on behalf of a possible appointment to the newly created post of consul-general in Japan. To President Pierce he wrote (August 4, 1855) : "I have a perfect knowledge of the social banishment I must endure while in Japan, and the mental isolation in which I must live, and am prepared to meet it." He stated that even though he were offered the choice between the posts of commissioner to China and consul general to Japan, he would "instantly take the latter." His efforts were successful, and within two weeks after his arrival in New York, he had received his appointment which was later confirmed by the Senate.
  Harris was a man of urbanity, character and ability. While living at Hongkong he appears to have won the confidence and friendship of Sir John Bowring, and to have attracted the attention of Commodore Perry. He was also a friend of William E. Seward, then Senator from New York. As to convictions in Far Eastern policy Harris appears to have occupied a middle position between Perry and Parker, on the one side, and Cushing and the early Canton traders on the other. He thought, for example, the United States ought to acquire Formosa, but he would have had the acquisition made by purchase, and so recommended in a letter to marcy.
  ○右ニ引続キ、江戸ニ於ケルハリスノ行動ニ就イテハ右ノ書第三五五頁以下ニ記載アリ。



〔参考〕竜門雑誌 第四六九号・第六一―六六頁 昭和二年一〇月 伊豆縦断句抄 青淵先生に随行して 青南生(DK380040k-0026)
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竜門雑誌 第四六九号・第六一―六六頁 昭和二年一〇月
    伊豆縦断句抄
      青淵先生に随行して
                           青南生
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○上略
        ○
 十一月一日は一層の秋晴れで、楓の木々の梢に陽の光が散らばつて居る。朝の町へ出て見ると、向ふのふくらんだ山から雲がわき上つて居る。範頼や頼家の墓詣と思つたがよして帰る。
   百舌鳥鳴くや欅の梢高くして
   秋晴れの山頂に湧く雲白し
   楓葉にちらされてある秋日かな
 新井門前にて写真を撮り、九時半発車す。
        ○
 路は桂川に添ふて下りとなる、それより右折し下田街道に出で、いよいよ天城に向つての坂道を走駛する。箱根より続く伊豆の脊梁を為す山々を左手に、また真向ひに見て進む。山は多く草山で巨木を見ること稀であるが、それだけ明るく、一見高原の感じがある。湯ケ島よりいよいよ天城にさしかゝると、何となく山気がこめて来る。自動車はしばしば杉並木の中へは入つて冷んやりとする。
   洗ふ馬の脚に昼めく秋の水
   青丹塗る馬車悠つくりと蕎麦の村
   すゝき穂の山に重なる深き山
   杉鉾を見上げて秋陽さがしけり
        ○
 いく曲りか路は上つて行き、四周の山々が次第に低く見え、谷はいよいよ深くなる。自動車の上からふり返ると、富士が丸い山の上にくつきりと白雪を戴いて、濃紫の肌を現して居る。天城の御料林を仰ぎ見、伏し見して行く、多くは杉の森であるが、所々に紅葉したならばさぞかしと思はるゝ、樅や楓が茂つて居る。また盛あがつた樹々の中に、立枯れの白い巨木が、其処にも此処にも見られた。やがて所謂天城越の三方岳(海抜八百八十米)のトンネルをぬけて、南伊豆の地に入る。
   ふり向けば山々の上に秋の富士
   杉なみを見下すや谷の水澄めり
   木立出づすなはち崖ぞ爽かに
     天城峠
   秋涼し我の立つ土二千八百尺《ふたちやほ》
   立枯の木の白肌や秋の山
        ○
 路は下りとなつて、さらに嶮岨である。振り返り仰げば一天晴れて碧空は緑の山を浮き出して居る。天城の最高峰大岳は何れぞ―羊腸たる路、カーブ毎に警笛をならすと、遥かの深い谷を渡つて向ふの山に響き入るらしい。時に下田通ひの乗合自動車に出合ふて、道を避け合ふのに手間取る、尚ほ下ると見晴しのよい崖の処で清水組の人々が、此日の東京からの客を迎へるべく休み茶屋をしつらへて居た。下車して暫くその辺りの景色を賞す。但しこの雄大な秋の山の前に立つては駄句を吐く勇気もない、たゞ人間の小ささをしみじみ感ずるのみであ
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る。更に車上の人となつて下り行く、はるか右手に浄蓮の滝が木の間から見られた。
   空一碧秋晴るゝ山の高さ哉
   谷に向ひ一鳥飛び下る秋日和
     浄蓮滝
   滝の巾広くぞ見ゆれ秋の声
        ○
 更に下る程に路はやゝ坦々として自動車はスピードを出すによし。湯ケ野の温泉を過ぎてからは、再び上りとなる、峠に近づくにつれて風があり、遥かに相模灘が眺められる、沖には所謂白馬が躍つて居る見ゆる海の辺は浜あたりか、峠を越すと南伊豆らしい気分が迫る。道辺に芙蓉の花が咲いて居る、木槿が続く処もある。柿が青く、また赤く熟したのも見られる。山の薮が風になびいて居る。
   海よりの風ありて散る柿紅葉
   芙蓉咲くや伊豆の風なほ暖く
   首かしげて見上ぐる人等木槿垣
   山腹の薮に風ある秋日和
   青瓢を軒につるす家柿熟るゝ
        ○
 鮎の居さうな稲生沢川に沿ふて下る、吉田松蔭が疥癬の為め温泉に浴した蓮台寺の村を過ぎ、下田富士を右に見、やがて下田の町に入りそれより左して直ちに海岸を柿崎に到る。海は静かである。時に午后零時三十分――先発の増田氏・小畑氏あり。また青淵先生を迎へる町村長や有志の人々、青年団・処女会・小学校生徒・其他村人。挙村このハリスの建碑式を祝して素朴そのもののアーチまで出来て居る。青淵先生の自動車が着くと、活動写真を写す人々が飛び廻り、秋空に花火がたけしい音をたてる。小さな弁天島が手を延せばとゞきさうな処にぽつりと置かれてある、昔ながらの姿であらう。
 それから二時には米国大使の乗つた駆逐艦が沖に泊る。二時半には陸路から徳川公・阪谷男、その他東京からの人々が着く。其間しきりに花火が打ち上げられる。三時より予定の通り記念碑除幕式が行はれ五時半頃漸く盛大であつた催しを終つたので、旅館阿波久に疲れた身体を持ち込んだ。
   古ごとを秘めて深めり秋の水
     柿崎に入りて
   村こめて此処に人つどふ秋日和
   柿栗の露店出したり寺の路
   秋扇手に村人の往き来かな
   盛装の女つつまし花火かな
     記念碑除幕
   幼子の綱引きかねし碑に秋日
        ○
 二日の朝は小雨があつたらしい、波止場の石が濡れて居る、波の同じ間隔を置いて寄せる音が一種の階調を為す、柿崎の朝は如何にも物
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静かな浦らしい感じである。一日の催しの為めに造つた桟橋へ出て見ると、須崎あたりの空を行く雲足が早い。幾度か深く海の空気を吸ひ込んで、潮の香に浸る。
   やゝ冷ゆれ枕に近き波の音
   浜に出て鶏むれ走る秋あした
   眼に近く低雲行くや秋の海
        ○
 暫くすると陽がさしそめる。九時半と云ふに青淵先生は柿崎の小学校へ赴かれる。これより先穂積の大奥様は模範村、白浜村を訪ねられた。いよいよ十二時此地を出発、再び天城を越へ四時頃静浦の保養館に入り少憩の後、沼津にて五時二十一分の特急車に、青淵先生一行を送る。而して敬三様・小畑氏・青生は自動車にて箱根越えの夜強行を決行した。そして無時東京に帰つたのは雨に更けた三日午前零事過であつた。
     箱根峠の頂上に近し
   沼津三島の灯《ひ》は目《ま》な下に虫すだく
   夜の霧すゝき見えずなり箱根山
     箱根を越ゆ
   秋時雨するらし闇の杉並木
   湯の煙明るく四囲は闇冷ゆる
     京浜国道
   一路坦々濡れ灯うつれり肌寒さ
   ヘツトライトに秋雨さわぐ大路哉



〔参考〕(フロレラ・ジェー・ハー) 書翰 小畑久五郎宛 一九二九年九月三〇日(DK380040k-0027)
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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。