デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
5節 外賓接待
15款 其他ノ外国人接待
■綱文

第39巻 p.65-74(DK390019k) ページ画像

明治44年9月17日(1911年)

是日、日本女子大学校ハ、デーヴイッド・エス・ジョルダンヲ招待シテ午餐会ヲ開キ、又其演説ヲ乞フ。栄一出席シテ校内ヲ案内ス。十月九日、栄一、高橋是清・近藤廉平等ト共ニ、送別晩餐会ヲ帝国ホテルニ催シ、主人側ノ総代トシテ送別ノ辞ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK390019k-0001)
第39巻 p.66 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四四年        (渋沢子爵家所蔵)
九月十七日 小雨 冷
○上略正午ヨリ兼子ト共ニ女子大学ニ抵リ、ジヨルダン博士・同夫人其他ノ来会者ト共ニ午飧シ、後博士ハ講堂ニテ一場ノ女子教育ニ関スル演説アリ、畢テ教育会ノ多人数ニ接見ノ為メ、別室ニ茶話会ヲ開ク、午後四時頃散会帰宅ス○下略


桜楓会通信 第三九明治四四年一〇月 母校及び本部彙報 ジヨルダン博士の女子高等教育問題講演(DK390019k-0002)
第39巻 p.66 ページ画像

桜楓会通信 第三九明治四四年一〇月
    母校及び本部彙報
○ジヨルダン博士の女子高等教育問題講演 九月十七日母校にては此の程来朝中なりし米国スタンフオード大学総長ジヨルダン博士を招待し、且つ女子高等教育に関する諸名士及び母校毎月会員諸氏をも招き同日午後二時より校内学生一同新講堂に会し、ジヨルダン博士の女子高等教育に関する講演(二頁参照)を聴く、当日来会者の主なる人々は、大隈伯・渋沢男・添田寿一氏・高田早苗氏・中川鎌二郎氏・神田男○乃武、其他母校教授(口絵○略ス参照)


竜門雑誌 第二八一号・第四三頁明治四四年一〇月 ○日本女子大学のジヨルダン博士招待(DK390019k-0003)
第39巻 p.66 ページ画像

竜門雑誌 第二八一号・第四三頁明治四四年一〇月
○日本女子大学のジヨルダン博士招待 小石川目白台なる日本女子大学校にては、九月十七日午前目下来遊中のジヨルダン博士夫妻を招待し、成瀬校長・麻生学監を始め同校顧問大隈伯・青淵先生等の案内にて、校内を観覧に供し一同午餐を共にしたるが、引続き午後二時より校友知己数十名を招き、同校卒業生より成れる桜楓会員数百名と大講堂に会し、同博士の女子教育に関する講演を聴きたり、成瀬校長は満場に向つて博士を紹介し、是れより同博士の女子高等教育に関する意見を拝聴す云々と述べたるも、博士は高等教育に就ては別に可否を論ぜず、自分が日本に来りてより世界無比の歓迎を受くるその理由の一つは、女子教育に興味を有てるが為めならんとて、福喜多保之助氏の通訳にて一場の演説をなし、終りて別室に於て茶菓を喫しつゝ尚ほ懇談に時を移し、四時頃辞去せられたりとなり。


竜門雑誌 第二八一号・第四三頁明治四四年一〇月 ジヨルダン博士送別晩餐会(DK390019k-0004)
第39巻 p.66-67 ページ画像

竜門雑誌 第二八一号・第四三頁明治四四年一〇月
○ジヨルダン博士送別晩餐会 ジヨルダン博士及同夫人には九月下旬より朝鮮漫遊中なりしが、十月始め帰京して同十一日解欖のモンゴリア号にて帰国せらるゝに付き、青淵先生には高橋是清男・近藤廉平男・添田寿一・益田孝・豊川良平・中野武営及其他の諸氏と協議の上主人側となり、十月九日午後六時より帝国ホテルに於て送別晩餐会を開催せられたり、当日の来賓は博士夫婦の外石井菊次郎男、今西夫人、金子堅太郎子、神田乃武男、同夫人、永井松三、久万俊泰、松井慶四郎同夫人、福井夫人、ジエー・アール・ケネーデー、同夫人、寺尾亨、阪井徳太郎の諸氏にして、主人側は前記七氏の外飯田義一・岩原謙三・今西兼二・池田謙三・池田成彬・堀越善重郎・東郷昌武・小野英二郎・小沢武雄男・大橋新太郎・大川平三郎・加藤正義・高田慎蔵・高松豊
 - 第39巻 p.67 -ページ画像 
吉・佃一予・根津嘉一郎・成瀬正恭・村井吉兵衛・串田万蔵・松方巌・福井菊三郎・浅野総一郎・佐竹作太郎・木村清四郎・三井八郎右衛門男・三井八郎次郎男・三村君平・水町袈裟六・志村源太郎・荘清次郎・白石元治郎・日比谷平左衛門の諸氏なり、午後六時半主客一同来着したれば、先づ青淵先生には博士夫人を、松井夫人は博士を誘ふて食堂に進み、続いて一同着席したり、宴酣なるに際し先生は主人側の総代として、小野英二郎氏の通訳にて博士夫妻歓迎《(送カ)》の辞を述べ、博士は久万俊泰氏の通訳にて答辞を述べられ、次ぎに金子子爵の演説ありて午後十時宴を撤し、夫より別室に於て談話の後十一時無事散会したり。



〔参考〕竜門雑誌 第三五〇号・第二五―二六頁大正六年七月 ○長野市に於ける講演 青淵先生(DK390019k-0005)
第39巻 p.67-68 ページ画像

竜門雑誌 第三五〇号・第二五―二六頁大正六年七月
    ○長野市に於ける講演
                      青淵先生
  本篇は青淵先生が去五月中旬、長野県下巡回講演の際、同十六日長野市城山蔵春閣に於て講演せられたるものなり(編者識)
○上略
 大正三年に戦争の初つた頃、私などの想像は欧羅巴の戦乱が何処迄続くか知りませぬが、兎に角独逸と英吉利との力比べといふことになつたならば或は虞る、相当の大騒動になると言はなければならぬか知れない、併し其初め恰度忘れも致しませぬ、七月三十一日に私はずつと房州の方へ旅行しました、其旅行中には新聞には大変八釜しかつたが、愈々戦争になるか知れぬといふ説が頻に銀行若くは友人社会にありましたが、私は寧ろ成るまいといふ心を以て居つた、夫は何ういふ訳であるかと申せば其前々年でありました、亜米利加からスタンホルドのジヨルダンといふ人が来て、其人とモロツコ関係に就いて仏独の関係は遂に戦になるか何うか、欧羅巴戦争になるか何うかといふて、其ジヨルダンと頻に話合つた時に夫は必ず戦争になるまいと思ふ、兎も角も段々文明が進む程戦争は憶劫になる、戦争には沢山の金が掛るお互に智慧が進んで来ると、さう云ふ莫迦気た事は仕たくないといふ感じがする、政治家・軍人が仕たくも愈々金を要するといふことになると実業界が大変不同意をする、現に独逸はモロツコ関係に就て亜米利加の公債を望んで居るけれ共、彼のモルガンは是に応じないと言つて居るから、多くは戦争にならずに済むだらうといふことを申しました、尤も是は普通の談話でありますが、夫からジヨルダンは亜米利加に帰る途中亜米利加から電報が来て、モルガンの説の通り独逸はとうとう戦争の考へを止めたといふことを聞いて、自分がお前に話したことは先づ当つたやうに思ふといふて来た、夫が而も此戦争の初まる二年許り前である、旁々左様なことを思出し、先づ大略さう激しい事はないといふ想像を以て私は旅行した、ところが八月三日であります、私が帰つて参りますと中々ジヨルダンが二年前に言つたことは少しも当になりませぬ、愈々戦争開始といふことになつて将来如何に相成るかわからぬといふやうな有様、軈て其十六日と記憶して居りますが、帝国は英吉利との関係がございまして独逸に向つて最後の通牒を送るといふことになり、即ち日本でも戦争に参加致すことになつて世間は
 - 第39巻 p.68 -ページ画像 
愈々戦争状態となり、新聞は喋々する、火事は遠いが中々油断のならぬ位でありました○下略
   ○右ト同趣旨ノ栄一ノ談話ハ「東京市養育院月報」(第二九一号・大正十四年十月)所載「世界平和と人類文化」及ビ「竜門雑誌」(第四九四号・昭和四年十一月)所載「世界の平和に就て」中ニモアリ。



〔参考〕UNITY Monday, Jan. 11, 1932 Two Trans-Pacific Pacifists(DK390019k-0006)
第39巻 p.68-70 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕日米外交史 川島伊佐美著 第一一四―一一八頁昭和七年二月刊(DK390019k-0007)
第39巻 p.70-73 ページ画像

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〔参考〕日米外交史 川島伊佐美著 第一四二―一四五頁昭和七年二月刊(DK390019k-0008)
第39巻 p.73-74 ページ画像

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