デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.7

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
4款 聖堂復興期成会
■綱文

第41巻 p.102-132(DK410043k) ページ画像

大正15年5月28日(1926年)

是日、日本工業倶楽部ニ於テ、聖堂復興期成会発起首唱者総会開カレ、聖堂復興期成会成立シ、栄一副会長トナル。爾後、寄付金募集ニ尽力シ、自ラ金五万円ヲ寄付ス。


■資料

各個別青淵先生関係事業年表(DK410043k-0001)
第41巻 p.102-103 ページ画像

各個別青淵先生関係事業年表       (渋沢子爵家所蔵)
 - 第41巻 p.103 -ページ画像 
    聖堂復興期成会
  大正十五年五月二十八日
発会式ヲ行フ、会長ニ徳川家達公副会長ニ青淵先生ヲ推ス、会ノ目的ハ聖堂再建資金百万円及ビ維持資金二十万円計百二十万円ヲ募集シ聖堂ヲ復興セントスルニアリ。而シテ復興サルベキ聖堂ヲシテ、国民教化ノ原動力タラシメンガタメ、国民ノ力ヲ合シテ之ヲ建立スルコト最モ意義有ルベキヲ以テ、先ヅ全国約弐万ノ小学校ノ校長ニ依頼シ、其設置区域内ノ有志者ヨリ平均金二十五円ヲ勧募スルコトトシ、其斡旋ヲ各府県学務部長及ビ師範学校長ニ依頼シ、此クテ五、六十万金ヲ得ル見込ヲ立テ、而シテ残余六、七十万金ノ喜捨ヲ貴族・富豪ニ請ハントス。現在全国各地(朝鮮台湾ヲモ含ム)ノ小中学等ノ学生児童ヨリ続々寄附金ヲ送ラレ、其他ノ有志者ノ寄附ヲ合セテ計金拾二万円ニ上レリ。青淵先生ハ卒先シテ五万円ヲ寄附セラレ、徳川会長ハ金一万円ヲ寄附セラレタリ。勧募ノコト天聴ニ達シ内帑若干ヲ賜フ


渋沢子爵ト聖堂復興期成会 斯文会編(DK410043k-0002)
第41巻 p.103-104 ページ画像

渋沢子爵ト聖堂復興期成会 斯文会編 (渋沢子爵家所蔵)
    渋沢子爵ト聖堂復興期成会
東京湯島聖堂ノ保存維持ニ関シテハ、往年子爵牧野伸顕君ガ文部大臣タリシ時ニ、渋沢子爵ニ適当ノ方法ヲ講ゼラレンコトヲ依頼シ、子爵ハ種種考慮ノ上又文部省トモ交渉サレタル結果、財団法人斯文会ニ於テ一定ノ資金ヲ具ヘ聖堂保管ノ委託ヲ受クルコトニ決シタリ、然ルニ斯文会ノ資金未ダ予定ノ額ニ達セザル中、大正十二年関東大震火災ノ為メ聖堂モ聖像モ共ニ灰燼ニ帰シタレバ、子爵深ク之ヲ慨シ斯文会理事ニ諮ルトコロアリ、斯文会理事ハ慎重審議ヲ申ネタル結果、斯文会関係者ヲ中心トシ汎ク朝野有力者ノ賛助ヲ得テ聖堂復興期成会ヲ組織スルコトト為シ、内閣総理大臣・文部大臣・貴衆両院議長・東京府知事・東京市長及ビ斯文会関係者等ヲ首唱者ト為シ、多数ノ発起人ト賛成者トヲ得テ大正十五年五月二十八日発会式ヲ挙ゲ、其席上ニ於テ公爵徳川家達君ハ会長ニ、子爵ハ副会長ニ推薦セラレタリ、其他男爵阪谷芳郎君ハ理事長ニ、文部次官・貴衆両院書記官長・斯文会関係者等ハ理事ニ選任セラレ、理事ノ中東京高等師範学校長三宅米吉君・東京帝国大学名誉教授服部宇之吉君・福島甲子三君・槙忠一郎君ヲ常務理事ト為セリ、期成会ノ成立ト同時ニ事務所ヲ湯島聖堂構内ヨリ貴族院議長官舎構内ニ移セリ、期成会ノ目的ハ聖堂再建資金百万円及ビ維持資金弐拾万円合計金百弐拾万円ヲ募集シ、聖堂ヲ復興セントスルニアリ、而シテ復興サルベキ聖堂ヲシテ国民教化ノ原動力タラシメンガ為メ、国民ノ力ヲ合シテ之ヲ再建スルコト最モ意義有ルベキヲ以テ、先ヅ全国約弐万ノ小学校ノ校長ニ依頼シ、其設置区域内ノ有志者ヨリ平均金弐拾五円ヲ勧募スルコトトシ、其斡旋ヲ各府県学務部長及ビ師範学校長ニ依頼シ、此クテ五六拾万金ヲ得ル見込ヲ立テ、而シテ残余六七拾万金ノ喜捨ヲ貴族富豪ニ請ハントス、現在全国各地(朝鮮台湾等ヲモ含ム)ノ小中学等ノ学生児童ヨリ続続寄附金ヲ送ラレ、其他ノ有志者ノ寄附ヲ合セテ計金拾弐万円ニ上レリ、子爵ハ率先シテ金五万円ヲ寄附セラレ、徳川会長ハ金壱万円ヲ寄附セラレタリ、勧募ノコト畏
 - 第41巻 p.104 -ページ画像 
クモ天聴ニ達シ、内帑若干ヲ下シ給ヘリ
   ○右書封入ノ封筒ニ左記ノ如ク表記サレタリ。
    「『渋沢子爵と聖堂復興期成会』の記録は、斯文会の山本邦彦氏の草案を基として、服部宇之吉博士が添削されたるものである」


聖堂復興略志 聖堂復興期成会編 第一七―二〇頁昭和一〇年九月刊(DK410043k-0003)
第41巻 p.104-105 ページ画像

聖堂復興略志 聖堂復興期成会編 第一七―二〇頁昭和一〇年九月刊
    第二章 聖堂復興期成会の創設
      第一節 聖堂復興の建議
 財団法人斯文会は仮聖堂を造営し、御物孔子像の交付を拝し年々の祭典を挙行し来りしが、御物孔子像は仮聖堂内に奉安すべきものにあらざるを以て、宮内省の了解を得て祭典の前日、宮内省より迎へ斯文会事務所内に厳重に安置し、翌日祭典終了後直ちに宮内省に送り、翌年迄保管を請ふことと為せり。斯くの如きことの一時権義の方にして固より永続すべきものにあらず、須らく一日も早く本聖堂を造営すべし。聖堂は国家の所有に属するものなれば之が復興は当然国家に於て為すべきところなり。況んや帝都の復興は単に物質的ならしむべからず、精神的復興の之が中心たるものなくして可ならんや。此の見地より、聖堂復興を精神的復興の代表として最先に著手さるべきものなり。然れども実際問題としては国費多端の際なれば聖堂復興の如きは却つて後廻しとなるの虞なしとせず。此に於て財団法人斯文会同人は造営を如何にもして、聖堂復興を実現せんと慎重に研究を重ねたり。当時問題となりし復興方策約三あり。(一)財団法人斯文会が聖堂復興を計画し、別に斯文会に対する後援会を組織し資金の募集に任じ復興を援助すること。(二)特に一の会を組織し、聖堂復興の計画、必要なる資金の募集等に任ずること。而して(一)案に就いては斯文会自身が奔走して後援会を組織するに非らざる以上、後援会の自然に発生せんことを望むべからず。(二)案に関しては斯文会と何等の関係なきものたらんか、斯文会と聖堂との歴史的関係を無視するのみならず、其他種々の不便あるを免れず結局二案共に良案に非ずとして斥けられ、更に、(三)案に就き審議を経たる結果、之を採用することに決せり。(三)案とは斯文会を中心として其他朝野各方面の同意を得て斯文会と一心同体なる会を組織し、聖堂復興の計画、資金の勧募、復興の実現に任ずる為め、聖堂復興期成会を起すこと是れなり。
 是れより先き文部省は、史蹟名勝天然記念物保存法に依り湯島聖堂跡を史蹟として指定する旨を斯文会に達するところあり。即ち復興せらるべき聖堂は全然旧規を墨守し、毫末も改変を加ふるところあるべからざることゝなり、財団法人斯文会は常議員工学博士伊藤忠太《(伊東忠太)》に託して復興の設計を為さしめたり。史蹟として指定の精神より言へば復興さるべき聖堂は当然木造たることを要すべきを以て、百年の後再び火災を被る虞なしとせず。之に備へんが為めに本殿の背後に鉄骨コンクリート不燃質の建物を造り御物孔子像を奉安する所と為さんとす。之に対する文部省の了解を求めたる上、大成殿の高さに関する疑問を解決し、又本聖堂竣功の上之を国家に献納し財団法人斯文会に於て、之が管理の委託を受くること等に関し予め政府当局の意思表示を求め置く必要あり、聖堂復興期成会発会以前に於て内務・文部両大臣に対して夫々
 - 第41巻 p.105 -ページ画像 
伺書を提出し、其指令を仰げり。当時提出の伺書等左の如し。
   聖堂復興建築に関する願書
 東京市本郷区湯島聖堂復興建築ノ件ニ関シ特別ノ御詮議願度儀有之其次第左ニ申陳候
 右聖堂ハ寛政年中ノ重建ニ係リ、歴史上ノ由緒モ古ク且正シクシテ現代国民道徳ノ涵養ニモ重要ノ関係有之、年々本会カ挙行スル孔子祭典ニハ度々皇族ノ台臨ヲ辱クシ居候次第ニ候処、去ル大正十二年九月関東大震火災ノ為ニ入徳門・水屋等ヲ除ク外其余尽ク焼亡シ我カ帝都ノ一偉観ヲ失ヒタルハ歎息痛恨ノ極ニ御座候
 本会ハ文部省ノ許可ヲ得テ不取敢仮堂ヲ建テ、之ヲ献納シタル上其保管ノ委託ヲ受ケ、以テ孔子祭典ノ続行ニ努メ居候処、事図ラスモ天聴ニ達シ御物孔子像一躯ヲ御交付アラセラレ聖恩優渥一同感激ノ至リニ堪ヘサルト共ニ、一日モ早ク本聖堂ヲ復興シテ聖旨ニ奉答スルコトノ急務ナルヲ感シ、玆ニ本会員等相謀リ聖堂復興期成会ヲ起シ寛政重建ノ規模ニ拠リ其輪奐ノ美ヲ復セントスルノ運ニ相成申候是レ一ハ曩ニ史蹟トシテ御指定相成リタル御趣旨ヲ体シタル儀ニモ有之候、然ル処現行市街地建築法第五条ニ拠レハ煉瓦造及木造ノ建築物ノ高サ四十二尺ト制限セラレ候カ、本聖堂ノ高サハ旧ト五十六尺ニ及ヒ居候ニヨリ、自然十四尺ノ超過ト相成可申候
 就イテハ何卒特別ノ御詮議ヲ以テ右復興聖堂ハ市街地建築物法施行令第二十七条ニヨリ、史蹟名勝天然記念物法ノ準用ヲ受クルモノトシテ御取扱被下度相願候
 右様御取扱被下候事ハ史蹟トシテ御指定アリタル御趣意ニモ相叶ウ事ト存スル次第ニ有之候、右ハ聖堂復興ノ計画ノ根本ト相成候事ナレハ至急御詮議ヲ仰キ、以テ内閣総理大臣ヲ始メ各国務大臣其他朝野有力者ノ同意ヲ得タル創立首唱者ノ総会ニ於テ聖堂復興期成会ヲ成立セシメ度候ニ付、右御含ミノ上関係官庁ヘ至急御通牒被下度此段願上候也
  大正十五年四月
            財団法人斯文会々長 公爵徳川家達
    内務大臣宛
右に関しては各関係官衙とも協議の上了解せる旨、斯文会総務服部宇之吉宛に口頭を以て内務省より指示せらる。同年五月二十五日文部大臣に宛左の願書を提出せり。
   聖堂造営及び献納に関する願書○略ス。
○下略


斯文会書類(DK410043k-0004)
第41巻 p.105-106 ページ画像

斯文会書類               (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
謹啓、時下愈御清祥奉賀候、陳者去三日湯島聖堂復興ノ件ニ付貴族院議長官舎ニ於テ相談会相開候節、御熟議ニヨリ右ニ関スル首唱者総会ハ来二十八日正午内務大臣官舎ニ於テ開催可仕決定致候処、其後右総会ヘ御案内可申上方々多数ニ上リ候等ノ都合ニヨリ、同日午後二時ヨリ丸ノ内日本工業倶楽部ニ於テ開催ノ事ニ変更相成候間、此段御通知
 - 第41巻 p.106 -ページ画像 
申上候、何卒左様御承知被下度奉願候 敬具
  大正十五年五月十一日         福島甲子三
                     中村久四郎
    (宛名手書)
    子爵渋沢栄一殿


斯文 第八編第四号・第六五頁大正一五年七月 ○理事会(DK410043k-0005)
第41巻 p.106 ページ画像

斯文 第八編第四号・第六五頁大正一五年七月
    ○理事会
 五月二十一日午後四時三十分より、本会事務所に於て理事会を開き聖堂復興期成会の創立、資金募集、聖堂の造営及献納等に関する文部大臣宛願書の件を協議せり。
○下略
   ○右理事会ニ栄一ハ出席セズ。


聖堂復興期成会書類(DK410043k-0006)
第41巻 p.106 ページ画像

聖堂復興期成会書類           (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
拝啓、時下益御清祥奉賀候、陳者湯島聖堂ハ寛政年間ノ重建ニ係リ我邦教育史上最モ由緒アル建築物ニ有之候処、大正十二年九月一日大震火災ノ為メ焼亡致候ハ遺憾ノ極ニ有之、其復興ハ時節柄国民精神作興上最モ大切ノ儀ト存候、就テハ右ニ関シ御高見御伺申上度、本月二十八日金曜日午後二時麹町区永楽町日本工業倶楽部ヘ御賁臨被成下度、此段御懇請申上候 敬具
  大正十五年五月二十日
                      若槻礼次郎
                      岡田良平
                   公爵 徳川家達
                   子爵 清浦奎吾
                   子爵 渋沢栄一
                   子爵 石黒忠悳
                   男爵 平山成信
                      粕谷義三
                   男爵 阪谷芳郎
                      平塚広義
                      中村是公
                      服部宇之吉
    (宛名手書)
    子爵渋沢栄一殿
  追テ当日準備ノ都合モ有之候ニ付乍御手数封入ノはがきニテ五月二十五日迄ニ御出席ノ有無御一報ヲ煩ハシ度候


(聖堂復興期成会) 参考書 昭和四年六月刊(DK410043k-0007)
第41巻 p.106-107 ページ画像

(聖堂復興期成会) 参考書 昭和四年六月刊 (渋沢子爵家所蔵)
 ○聖堂造営及献納ニ関スル願書並文部大臣指令写
    聖堂造営及献納ニ関スル願書
本会カ現ニ貴省ヨリ保管ノ委託ヲ受ケ居候湯島仮聖堂ヲ旧規ノ壮観ニ復セントスル計画ニ付、更ニ御願申上度候、該聖堂ハ二千年来我カ民心ヲ支配シ来レル儒教ノ本山トモ謂フヘキモノニ有之、其復興ハ啻ニ
 - 第41巻 p.107 -ページ画像 
現下ノ時勢ニ鑑ミ、堅実ナル国民精神振作ノ為ニ最モ緊急適切ノ事ナルノミナラス、又由緒深キ名蹟ヲ復旧シテ帝都ノ美観ヲ添フル事トモ相成候義ト被存候、抑モ聖堂ハ元来国費ヲ以テ復興セラルヘキモノト相考ヘ候ヘトモ、国費多端ノ折柄直ニ御詮議ニ被及候コトモ困難ナル事情モ可有之カト存候ニ付、今般本会其他ノ有志者ヲ以テ湯島聖堂復興期成会ヲ創立シテ、聖堂ヲ旧趾ニ造営シ、之ヲ政府ニ献納スルノ目的ヲ以テ資金募集ニ着手仕度、其目的ノ達成ニ就テハ衆力ヲ合シテ大ニ奮励努力可仕覚悟ニ有之候、然ルニ右ハ何分ニモ巨額ノ資金ヲ要シ容易ナラサル事業ト存候ニ付、自然御援助ヲ仰ク事モ尠カラサル可シト存候ヘハ、其場合ニハ特別ノ御詮議相願度候、不日復興期成会ヲ成立セシメ申スヘクニ付、前記聖堂ノ造営及ヒ献納ノ件ト共ニ、此儀予メ御許可相成度、別冊期成会趣意書規約及ヒ設計予算案○次掲相添ヘ、此段願上候也
  大正十五年五月二十五日
             財団法人斯文会
               会長  公爵 徳川家達
               副会長 子爵 渋沢栄一
               同   男爵 阪谷芳郎
               同      井上哲次郎
               総務     服部宇之吉
    文部大臣 岡田良平殿
       ―――――――――――
雑会一二号
 大正十五年五月二十七日
              文部大臣 岡田良平 文部大臣之印
    財団法人斯文会長 公爵徳川家達殿
五月二十五日付ヲ以テ湯島聖堂復興期成会ヲ創立シ、聖堂ヲ造営及献納ノ儀ニ付予メ許可方御願出ノ処、右ハ国民精神振作ノ為メ最モ適切ノ事柄ナルニ付、其目的ヲ達成セラルヽ様十分御配慮相煩度、尚政府ニ於テモ出来得ル限リ御後援可致ニ付、御了知相成度、此段申進ム
 追テ造営ニ関スル設計其他ニ就テハ、御協議相成様致度為念申添フ(終)


聖堂復興期成会趣意書・規約・設計予算 第一―一二頁大正一五年一月刊(DK410043k-0008)
第41巻 p.107-110 ページ画像

聖堂復興期成会趣意書・規約・設計予算 第一―一二頁大正一五年一月刊
                    (渋沢子爵家所蔵)
    聖堂復興期成会趣意書
孔夫子の道は至大至高にして古今を貫き内外に通じ、その教は早く我が国に伝はり、我が神ながらの道と渾然融化して道徳の根柢となり、文化の淵源となり、以て万古不易の
皇謨を翼賛し、世界無比の国体を擁護せるは、今更吾人の賽言を要せざる所なり
抑々湯島聖堂は徳川幕府時代に於ける文教の中心にして、将軍綱吉の建立に係り、その後三度回禄の災に罹り、最近の殿堂は寛政中の重建に成り、結構の大なる輪奐の美なる、実に東都の偉観たるのみならず
 - 第41巻 p.108 -ページ画像 
その構内に昌平坂学問所を附設し、碩儒学を講じ、多士輩出せり、明時の初め大学寮をこの地に置き、後高等師範学校・女子高等師範学校となり、今日に至るまで依然として教育の本源たり
明治以還釈奠の儀久しく行はれず、有志の徒深く之を慨き、孔子祭典会を組織して祭祀を挙行せしが、財団法人斯文会の成立するに及び、之に併合し、同会は特に祭典部を置きて年々祭儀を執行し、聖堂を中心として専ら力を儒道の宣伝国民道徳の涵養に致せり、然るに大正十二年九月関東大震火災の難に遭ひ、聖像聖堂の空しく灰燼に帰したるは歎息痛恨措く能はざる所なり、是に於て同会は不取敢仮殿を旧址に建立し、例祭の続行に努めたり、事辱くも
天聴に達し 御物孔子像一躯を下賜せられたり、誰か
聖恩の優渥なるに感激せざる者あらん、而して仮殿は之を奉安すべき処に非ざれば、一日も早く聖堂を復興し、之を大成殿に安置して 聖旨に奉答する所以を思はざるべからず、且之を国民精神作興の上より見るも、又帝都復興の上より見るも、由緒深き湯島聖堂の再建は極めて意義あるものに非ずや、しかもこの事たる斯文会に一任すべきものに非ず、顧ふに釈奠は固より国家の盛儀たるべきもの、聖堂の復興は当然政府の為すべき所なりと雖も、現下国費多端の際直に之を国庫の支出に待つこと困難なる事情あり
是に於て有志者相謀り、聖堂復興期成会を創立し、遍く義捐金を朝野に勧募して聖堂の再建を計画し、啻に帝都の旧蹟を復興するのみならず、兼ねて世道人心の振作に資し、以て
聖恩の万一に酬い奉らんことを期す、冀くは満天下の有志諸君吾人の微衷を諒察し、奮て義金を寄与せられんことを
  大正十五年一月
    聖堂復興期成会規約
      第一章 名称及事務所
第一条 本会ハ聖堂復興期成会ト称ス
第二条 本会ノ事務所ハ当分ノ内之ヲ東京市麹町区内山下町貴族院議長官舎構内ニ置ク
      第二章 目的
第三条 本会ハ財団法人斯文会ガ文部省ノ委託ヲ受ケ保管スル所ノ東京市本郷区湯島二丁目一番地所在湯島聖堂ヲ旧規ニ復興シ且其維持資金ヲ募集スルヲ以テ目的トス
      第三章 資金
第四条 聖堂ノ復興及其維持ニ要スル資金ハ寄附金ヲ以テ之ニ充ツ
      第四章 役員及会議
第五条 本会ニ左ノ役員ヲ置ク
    総裁        一名
    会長        一名
    副会長       一名
    顧問        若干名
    理事長       一名
    理事        十名以内
 - 第41巻 p.109 -ページ画像 
    監事        二名
    評議員       若干名
    主事        二名
    委員        若干名
    書記        若干名
第六条 総裁ハ評議員会ノ協賛ヲ経テ会長之ヲ推戴ス
  会長副会長ハ創立首唱者総会ニ於テ之ヲ推薦ス
  会長ハ本会ヲ統理ス
  副会長ハ会長ヲ輔佐シ会長事故アルトキハ之ヲ代理ス
  顧問ハ評議員会ノ協賛ヲ経テ会長之ヲ委嘱ス
第七条 理事監事ハ創立首唱者総会ニ於テ之ヲ選挙ス
  理事長ハ理事之ヲ互選ス
  理事ハ本会ノ事務ヲ掌理ス
  理事長ハ理事ヲ代表シテ本会ノ常務ヲ専決シ、其他ノ事務ニ付キテハ理事会ノ決議ニ依ル
  理事長事故アルトキハ其指名ニ依リ、又其指名ナキトキハ理事ノ過半数ノ同意ニ依リ臨時代理者ヲ選定ス
  監事ハ本会ノ会計ニ関スル事項ヲ監督ス
第八条 評議員ハ理事会ノ協賛ヲ経テ会長之ヲ委嘱ス
  評議員ハ本会ノ重要事項ヲ評議ス
  評議員会ハ会長之ヲ招集シ且其議長ト為リテ議事ヲ整理ス
第九条 主事委員ハ理事会ノ決議ニ依リ会長之ヲ委嘱ス
  主事ハ理事長ノ命ニ依リ本会ノ庶務会計ヲ掌ル
  委員ハ本会ノ事務ヲ分担ス
第十条 書記ハ理事長之ヲ任免ス
  書記ハ本会ノ庶務会計ノ事務ニ従事ス
第十一条 主事委員及書記以外ノ役員ハ無給トス
      第五章 会員
第十二条 本会ニ資金ヲ寄附スル者ヲ会員トシ、之ニ会員章及記念品ヲ贈呈ス
第十三条 会員ハ本会解散後ト雖モ財団法人斯文会ニ於テ挙行スル孔子祭典ニ毎年参列スルコトヲ得
      第六章 附則
第十四条 会長・副会長・理事・監事ニ欠員アルトキハ評議員会ニ於テ之ヲ推薦又ハ選挙ス
第十五条 本会創立ニ関スル経費ハ財団法人斯文会ニ於テ之ヲ負担ス
第十六条 聖堂復興完成シタルトキハ左ノ手続ヲ為シ、本会ハ之ト同時ニ解散スルモノトス
  一臨時祭典ヲ挙行スルコト
  一聖堂ハ之ヲ政府ニ献納スルコト
  一聖堂維持資金ハ之ヲ財団法人斯文会ニ引渡スコト
  一会員ニ対シテハ収支決算報告ヲ為スコト
第十七条 本会ハ会員名簿二通ヲ作成シ、其一通ハ政府ニ聖堂献納ノ際之ヲ添附シ、他ノ一通ハ永ク聖堂ニ保存ス
 - 第41巻 p.110 -ページ画像 
第十八条 聖堂復興ノ資金ニ残余アルトキハ之ヲ聖堂維持資金ニ加ヘ残務ト共ニ財団法人斯文会ニ引渡スモノトス
    湯島聖堂復興費総予算
一金壱百弐拾万円
      内訳
                        円
 大成殿及仰高門新営費      七五七、〇〇〇・〇〇〇
     内 大成殿       七三一、三五〇・〇〇〇
       仰高門        二五、六五〇・〇〇〇
 塀其他              七五、〇〇〇・〇〇〇
     内 塀延長三百間     四五、〇〇〇・〇〇〇
       敷地整理及植込一式  二〇、〇〇〇・〇〇〇
       入徳門其他修繕    一〇、〇〇〇・〇〇〇
 事務費式典費及雑費       一六八、〇〇〇・〇〇〇
 聖堂維持費           二〇〇、〇〇〇・〇〇〇


集会日時通知表 大正一五年(DK410043k-0009)
第41巻 p.110 ページ画像

集会日時通知表 大正一五年       (渋沢子爵家所蔵)
五月二十八日 金 午後二時 湯島聖堂復興ニ関シ相談会(日本工業クラブ)
         引続キ徳川家達公ト御会見ノ約(工業クラブ)


斯文 第八編第四号・第六六―六七頁大正一五年七月 ○聖堂復興期成会の成立(DK410043k-0010)
第41巻 p.110-111 ページ画像

斯文 第八編第四号・第六六―六七頁大正一五年七月
    ○聖堂復興期成会の成立
 本会に於て兼ねて計画中なりし聖堂復興期成会は、五月二十日付を以て左記十二氏の名に依り其の案内状を発せられ、同月二十八日午後二時より、日本工業倶楽部に於て首唱者総会を開催せり。
    若槻礼次郎 子爵 渋沢栄一 男爵 阪谷芳郎
    岡田良平  子爵 石黒忠悳    平塚広義
 公爵 徳川家達  男爵 平山成信    中村是公
 子爵 清浦奎吾     粕谷義三    服部宇之吉
 右案内を受けたる人々は内閣各大臣を始め、枢密顧問官・貴衆両院議員・地方長官・大学以下各学校長・実業家・新聞社長等七百余名にして当日の出席者は百五十二名なり。
 阪谷男爵先づ起ちてこれより開会する旨を宣言し、大震火災以来聖堂の再建に関し屡々協議の結果、遂に本会を創立するに至りし今日までの経過を報告し、会の趣意書・規約、聖堂再建の設計予算書は別冊案の通承認せられたき旨を計りたるに一人の異議を唱ふる者なし。次に役員の選挙に移りたるに清浦子爵は先づ会長副会長を定め、会長には徳川公爵、副会長には渋沢子爵を推薦し、其の他の役員は正副会長の指名を請ひては如何との提議あり、満場拍手を以て之を迎ふ。徳川公爵・渋沢子爵各就任の挨拶あり、役員の指名は追て詮衡の上報告すべき旨を述べられ、次に伊東博士は建築設計に関する詳細なる説明あり、是にて議事は終了し、尋で別室大食堂に於て茶菓を饗す。席上清浦子爵・岡田文部大臣等有益なる談話あり、其の他種々意見の交換ありて散会せしは午後四時なりき。
 - 第41巻 p.111 -ページ画像 
 聖堂復興期成会は前記の如く成立を告げたるを以て、同会に関する記事は是にて擱筆す。以後は同会の報告に依り彙報欄に収録すべし。


斯文 第八編第四号・第四七―五六頁大正一五年七月 聖堂復興期成会の創立総会議事録(DK410043k-0011)
第41巻 p.111-120 ページ画像

斯文 第八編第四号・第四七―五六頁大正一五年七月
    聖堂復興期成会の創立総会議事録
 ○阪谷男爵 今日は各方面の代表的の方々が斯く多数御来会下さいまして、誠に発起人として感謝に堪へませぬ。今日の順序は、第一に復興期成会の成立について御報告申上げまして之れが終りましたならば、伊東工学博士より聖堂の建築の設計の大要を申上げます。それが凡そ三時頃に済みます。三時から隣りに茶菓が設けてございます。其の方へ皆さんお出でを願ひまして茶菓を召上つて、その席上に於て渋沢子爵・清浦子爵その他御老人の方々が見えて居りますので、孔子のことに付て御所感談を一・二簡単に願ひたいと思つて居ります。
 一番の今日の趣旨は、聖堂復興のことですが、之に付きましては、文部省より指令を頂戴いたして居ります。ちよつと申上げて置きます
(別項会報参照)○文部大臣指令前出ニ付略ス
 偖この湯島聖堂につきましては事新しく申上げる必要はございませぬが、是は日本の徳川時代になりましてからの我が文教の中心淵源でございまして、徳川時代に於きましては殊に孔子を尊崇せられまして聖堂に重きを置き、唯今の焼けました聖堂は不幸にして徳川時代にも火災に罹りましたのでありますが、大正十二年の地震に焼けました建物は最も盛大を極め、額面に五代将軍綱吉公の真筆が掛つて居りましたのであります。如何に朝廷幕府に於て文教を尊崇せられたといふことが分ります。下りまして明治の初に於きまして聖堂は昌平大学として殆どその当時は此の中に文部省が入つて居りましたのであります。そうして大学と共に文教の政治を司つて居つたのであります。従ひましてこの聖堂より東に出来ました和泉橋、唯今三井慈善病院のあります場所に医科大学が出来ましたので、是が東に当るから大学東校と名づけ、唯今の一ツ橋外の高等商業学校、商科大学のあります所に開成校が出来、それが昌平校から南に当るから大学南校と言つたのであります。之れを以て見ても如何に此聖堂が我文教の中心でありしことが分るのであります。段々欧米の文物輸入と共に一時昌平校も以前の如くに孔子の祭典等も取行はれなかつたけれども、先年来孔子祭典会といふものが起りまして、此の孔子の祭典を年々致して、我国精神教育上に多大の恩恵ある孔子並に子弟の祭をするといふことになつて居ります。この孔子祭典会が、唯今の斯文会にこの祭典のことを合併になりました。御承知の通りに斯文会は明治の初に 明治天皇の特殊の思召に依りまして有栖川の元の大宮が会長となられ、谷干城氏であるとか、当時の諸先輩が指導せられて斯文学会といふものが出来て、そこで孔子の教を弘めて居りましたが、その後に段々変遷致しまして、今日は斯文会といふ財団法人で、先年文部大臣のお許しに依りまして聖堂の保管をして居ります。そうして年々孔子の祭典を致して居りました所が、先年来政府に於きましても、大宝令の昔をお調べになりまして、大宝令の時代に於ては、孔子の祭典といふものは官の祭である。
 - 第41巻 p.112 -ページ画像 
決して一斯文会の如き私のものに委ねて置くべきであるまいといふことで、江木文部大臣の時に自ら文部大臣として御参列になりまして、文部大臣としてそこで祝辞をお述べになり、尚ほ色々祭粢料をお供へになるといふやうな訳でございまして、又各皇族殿下に於かせられても、必ず帝室を代表せられて御参列になつて居るといふやうな訳で、近年に於きましては殊に文教に重きを置かせられることになつて居りましたのであります。然るに不幸にして大正十二年九月一日の大震火災の為に、是は地震には毀れなかつたのですが、火事が、最初の中は免れて居りましたのが、段々風が変つて到頭焼けました、惜しいことに孔子の像その外の像も焼けました。又五代将軍の御額も焼けてしまつたのは千載の遺恨であります。然るに此祭典に用ゐられた祭器その他のものが博物館に納つて居つた為に、是は残りました。所がこのことが朝廷に聞えまして、如何にも大正の御代になつて文教の中心たるべき聖堂が焼け、殊に孔子の像の焼けたといふことは遺憾に堪へない文教にも関係することであるといふことで、御沙汰がございまして、今上陛下が東宮殿下の御時よりお持ち遊ばして居る孔子の像は、有名なる明末の儒者朱舜水が日本に持つて参りまして柳川藩の儒者安東省庵氏に贈与したものです。それが先年元の曾我子爵が皇太子殿下のお守役であつた時分に、文教は日本の国体に最も大切にしなければならぬといふことで、之を皇太子殿下に献上になつた由緒深い聖像でございます。この外に日本には菅丞相に下されましたものと孔子の像が三つあるといふことになつて居りますが、之の三つの中の一つの最も皇室に縁故の深い孔子の像が御下渡になつたといふことは非常に我々として慰安になる次第であります。又日本の文教の為に仕合せと存ずる次第であります。
 偖てこの湯島の聖堂が焼けましてから、唯今皆さん御覧の通りに、斯文会に於きましては焼跡にバラツクを造りましてお祭を致して居りますけれども、どうも昔の荘厳なる意味が少しもございませぬ。一方に於て国民精神の作興の御趣旨もあるにも拘らず、其の最も歴史的に大切にすべき聖堂が如何にも荒廃になつて居るといふことは、湯島を通ります度に私は甚だ遺憾に存じて居ります、で文部大臣にも、是はどうも国家として第一に何とかしなければならぬことではあるまいかといふやうな話を致した次第でございますから、その考は皆様も同じであると見え段々話が出まして、併し何分にも少からぬ費用を要しますので、伊東博士の設計に依りますと、昔の通りの漆塗といふことは莫大の費用が掛る、迚も今日は難しいが、形を略々昔の形にするといふことは出来る、又昔と今日とは時世も違ふから、孔子の廟の前で多少論語の講釈ぐらゐは出来るやうな程度に造らなければならぬ。又今度朝廷から賜つた孔子の像は、如何なることがあつても焼けないといふ技術の方法にしなければならぬ、之は別段に造つて、何か故障が起りましたときには、自然に機械の働きでそれが地中に入つて上から土がかゝるやうな方法であるさうであります、で昔の通りの漆塗の立派なものは出来ぬけれども、荘厳の意味を失はぬ程度に於て復旧するには、維持金も多少附加へまして百二十万円位は見ねばなるまいといふ
 - 第41巻 p.113 -ページ画像 
話でございます、この設計のことは後に伊東博士からお話がございますが、兎に角少からぬ費用でございまして、震災後東京附近は皆何れも自らの家屋を建てるとか色々なことで困つて居る際でありますから何とか方法があるまいかと言うて相談致して居りました。所が先日高等師範学校の方々の校長の会がありまして、その節にこの話を、高等師範学校長の三宅校長の御配慮に依りまして、私がその席へ出て色々事情を申述べまして、何とか復旧の方法はないだらうか、高等師範学校は昌平校の跡に出来て現に文教を以て教育の任に当るといふ使命を帯びて居る、遠からず高等師範学校は文教大学といふことになる筈になつて居る、東洋の文教上最も大切なる場所であるから、諸君に何か御考はないかといふことを相談いたしました所が、各校長も非常に同情せられて是非国民一致してやるべきである、それで全国に約三万の小学校があつてそれには略々高等師範学校出身の者が何れも校長とか或は教頭を致して居る、それ等の者が自分に寄附するといふ力は無論ないことであるけれども、一つの学校の範囲内から先づ二十円程度のものを寄附するといふ位にして、是を二年若くは三年に割つたら……一ケ年六円位の程度のもので、その位のことは各校長が力を入れたならば、其の小学校の区域内で頼んだら出来るだらう、それが出来れば約六十万円になるから、後と半額に付ては何とか御心配が出来ぬものであらうかといふやうなお話もございました、それならばもう誠に楽な話で、斯く全国民の意思に依つて翕然として六十万円も資金が集るといふことであれば、後は各富豪諸君にお願ひする、又唯見て居るといふことはないと思ふから、さういふやうなことにして資金の募集が出来ることであるなら、兎に角玆に一つの聖堂復興に付ての期成会を拵へて、その会が一つの中心となつて、国民挙つて各方面漏れなく、各々分に応じて寄附を集めて之を復興するといふことは誠に聖代の美事、殊に聖像を賜つた朝廷の意思にも副ふことであらう、又国民精神作興の御趣旨にも副ふことと思ふ、といふことになりまして段々御賛成を求めつゝありました。今日は即ち貴衆両院首め各方面の方々約七百名の方々に案内状を差出して御賛同を求めたのであります、その中多数の御方々が御出席下さいましたことは、その首唱いたしました者は、非常な御後援を得たことで、勇気が一層増します次第で、特に御礼を申上げます次第でございます。今までの経過は右述べました通り是から即ち全国に亘りまして零細なる金を集め、その集りました所で又追々と有力な皆様に追つて御願ひするといふ今日は趣意でございますから、中には有力の方から既にもう寄附金のお申出の向もございましたが、順序と致しまして、先づ全国から零細な金を集めて、追つて又有力の方々にも特に御配慮を願ひたいといふ考でございます。総理大臣を首め東京府知事・東京市長、何れも皆国家並に東京市の上から見て、共同の精神的重要の仕事として御賛同を給はりましたことは、近来に於きまして、斯の如くに各方面一致しましたことは希なことでございます。是は畢竟するに三千年来我々の祖先以来孔子の教といふものが頭に入つて居りますので、考へて見れば、我々の精神を作ります上に於て、日本魂を作ります上に於て少からぬ恩恵に浴して居る訳
 - 第41巻 p.114 -ページ画像 
で、それに報ゆるといふ皆様の御意思が玆に来たものと考へるのであります。大体さういふ次第でございます。
 玆に申上げますのは、規則もきまり切つた会長を置くとか、副会長を置くとかいふやうなことでありますし、理事何人、評議員何人にするといふやうなことでありますから、もう改めて御討議を願ふまでもなく之を御是認を願ひたいと思ひます。その為に従来の経過を一通り申上げた次第でございます。
 ○清浦子爵 只今阪谷男爵より詳細なる御報告がございまして、極めて緊要且必要なことゝ考へます。就きましては只今阪谷男爵の申されました通り、会長其他のことは今御発議の通り是認致して然るべくと考へますから、皆様の御賛同を願ひます。而して会長には徳川公爵副会長には渋沢子爵を推薦致しまして、御両方の承諾を願つたらどうであらうかと考へます。
  (拍手起る)
 ○徳川公爵 只今清浦子爵の御発議の、私を会長に渋沢子爵を副会長に推薦するといふことに付て、諸君の御意見を伺ふのが順序かと存じます。只今の清浦子爵の御発議に御異存はあらせられまいか。
  (「異議なし」と呼ぶものあり)
 ○徳川公爵 御異議ないと認めます。私は甚だ御受けを致す器でないと存じますが、諸君に御異議あらせられませぬ以上は御受けを致します。
 ○渋沢子爵 副会長の御推薦に与りましたが、私は其の器でないので老衰致して甚だ行届かぬ者でございますけれども、大事な事でありますから……御受けを致します。
 ○清浦子爵 就きましては尚ほ皆様に御相談申上げますが、役員選挙等の事は総て会長・副会長に御願ひ申上げて御推薦を願ひたいと思ひます。
 ○徳川公爵 是亦清浦子爵の御意見通りで、御異存はございませぬか。
  (「異議なしと」呼ぶものあり)
 ○徳川公爵 御異議ございませぬければ左様に決します。此の役員の選定は後より御報告致す事に致します。左様御承知願ひます。
 ○阪谷男爵 是で会議は終りましたですが、是より伊東博士の建築に付て極く簡略の御説明がございます。
 ○伊東工学博士 此度の聖堂復旧の計画は、勿論復旧でありますから、在来の建築其儘の物を再び拵へますので、新規に新しく計画をする余地がないのであります。それだから今度焼けました大成殿・杏壇門総て昔の通りの規模であります。大きさに於きましても形に於きましても殆ど全く旧形の物であります。唯斯文会の御註文もあることでありますし、又建築上から見ましても幾らか修正した方が宜からうと思ふ点もありますで、旧形を変じない程度に於て多少変つたんであります。其の変りました点の中で、技術上の深いことは今日は申しませぬ。後に御質問でもございましたら申上げますが、大体の規模に関係を及ぼしまする大きな点を極く簡略に申上げますれば、最前阪谷男か
 - 第41巻 p.115 -ページ画像 
ら御話になりました通り、此度び朝廷より聖像の御下賜がありまして其の聖像を奉安する為には、只今のやうな建築でありますと、再び万一火災に罹つたやうな場合に洵に恐れ多いことであるから、是だけは是非永久に火事にも焼けず地震にも壊れないやうな設備をしたら宜からうといふ斯文会からの御話であります。もう一つは今の大成殿を之も阪谷男から御話がありましたが、唯あの儘で置くのは惜い、というては語弊があるか知れませぬが、何かに利用した方が宜からうと思ふ例へば儒学の講演といふやうなものに利用することが出来れば大変宜しいであらう。それの出来るやうな設備にして見たらどうかといふ、かういふ御話でございましたので、其の趣意に基きまして、多少変つたのが此処にございます青写真にしてあります点であります。聖像奉安所は御覧の通りに、元の大成殿の後ろの中央から渡廊下を付けまして、さうして其の後ろに三間半角の堂が出来たのであります。それは全然鉄筋コンクリートで、屋根も不燃質物を使ひまして、絶対安全なる建築に致して、御覧の通り床が高くなつて居る。それは地下室が出来る。其の地下室の中へ万一の場合に聖像を蔵める事が出来ますし、又貴重品も地下室に蔵める事が出来るのであります。其の奉安所の形は矢張り同じ支那式であります。それから大成殿の中で講演なり、其他之に類似の事に御使ひになる場合に、中が暗くては都合が悪いのであります。只今の所では甚だ暗いのでありますから、窓が左右三つ宛開けてあります。之が昔の姿を変化した重なるものであります。側面に三つ宛窓があると可なり明るいのでありまして、中で書物を見たり筆記したりするにも都合が好いのであります。それだけが重なる変りました点であります。其外の細い点に就きましては、余り諄々しくなりますから申上げませぬが、大体に於て昔の通りであると御承知下されて宜いのであります。尚ほ工費の事を阪谷男から御話になりましたが、阪谷男の御話では、元は漆塗りであつて、非常に立派であつたが今は出来ないから止めたといふやうな風に仰せられたやうに思ひますが、矢張り漆塗りなんで、唯其の程度が非常に違ふのであります。昔のやつは何十遍となく塗上げたのでありますが、今度のは最も簡単な漆塗りであります。それが為に工費が僅かに百万円以内で出来るのでありまして、尤も元通りにすれば二倍半掛るのでないかと思ふのであります。大体今申上げたやうなことでございます。御質問がございましたならどうか仰しやつて下さい。
 ○徳川公爵 それでは別席で一つどうか……
  (別席に移る)
 ○徳川公爵 先刻は清浦子爵の御推薦に依りまして、私が此の会の会長の栄を担ふことになりました。清浦子爵の御推薦に相成りました理由は、決して適任であるといふのでないと考へますが、斯文会の会長を汚して居る故に此の会の会長に御推薦に相成つた訳と考へます。此の会の事業は諸君の御承知あらせられます通りに、仲々難しいことでございますから、只今大倉男爵の御歌(聖堂の寄附を孔子ののたまはく宜べなるかなと君子うなづく)にもございました通り、諸君に於て多大なる御援助を下さらむことを切に祈る次第でございます。此処
 - 第41巻 p.116 -ページ画像 
に幸ひ清浦子爵や文部大臣が御出席下さいましたから、簡単で宜しうございますから、一言吾々の為に御述べになることを御願ひ致したいと考へます、其他どなたでも御有志の方は、どうぞ何なりと御意見を御申述べを願ひたく存じます。
 ○清浦子爵 私は前年支那に遊びました時に、彼の地の聖堂を二・三ケ所見て廻りましたが、其の殿堂たるや随分輪奐たるものであります。併ながら孔夫子を果して誠意誠心的に敬意の念を払つて御祀りでもして居るか、即ち釈奠の礼を行ふといふやうな点に付ては頗る杜撰であるやうに見えました。即ち其の形骸は立派に存して居るけれども其の精神は既に業に亡びて居るやうに見受けられたやうな次第でございます。然るに我が国に於きましては本家本山の支那よりも、今震火災に罹りし所の聖堂を復興するといふことに付ても、又従前に於て釈奠の行はれました精神等から考へましても、即ち孔夫子を尊崇する、即ち孔夫子の其の道を尊信するといふ所の精神は誠に汪溢して居るやうに思はれるので、却つて本家本山たる支那の方が其の精神は亡びて而して支那より伝来したる所の我国に於て却つて其の道の完全たるものを見るといふ、かういふやうな有様に思はれるのであります。即ち此度び聖堂復興の挙が催されまして、之が立派に出来上り、而して年年此の釈奠の礼などが行はれ、延いて以て東洋、即ち我が国に於ける道といふものが段々盛に行はるゝやうになるといふことは、先刻からも屡々御話に出ました通り、国民精神の作興とか、思想善導とかいふ上に於て多大なる功績のあることゝ信じて疑はぬのであります。即ち支那が斯の如く大きな国土を有し、斯の如く多くの人口を有して居りながら、斯の如く振はぬといふものは、即ち其の国に於ける所の根本の教たる所の孔子の道を寧ろ破れ莚の如く顧みないといふことが其の国の振はざる所以ではないか、即ち我が国の如く従来から孔子の道を尊んで、段々之を隆昌ならしめて行くといふことが、即ち我が国運の益々隆盛に趣く所以であらうかと思ふのであります。此の事業に就きましては、どうぞ皆様と共に出来るだけ大いに力を尽したいと考へます。それだけを一言申上げて置きます。
 ○岡田文部大臣 只今会長の御指名でございますので、私も一言所感を申述べたいと考へます。孔子様の名前は私共は子供の時から常に最も親しんで居つた名前であります。書物を読めば「子曰く」といふことを先づ第一に唱へたのであります。私どもの幼年の時代の書物は孔子様の教の外はなかつたのであります。爾来、近頃の外国から輸入されました所の学問も多少ございましたけれども、幼年の頃に親しみました、教へ込まれました教といふものは、私に取つては最も親しいものであります。又私の修養の上に於きましては、之が最も多きをなして居ると考へて居るのであります。而して孔夫子を尊敬する所の念は世界の何れの学者何れの大学者よりも、より大なることを常に感じて居つたのであります。其の孔夫子を祀つてある所の湯島の聖堂といふものが、一昨年の大震火災に依りまして湮滅に帰してしまつたといふことは実に祖先の家を失つたといふことゝ殆ど同じやうな感じを以て私は是を迎へたのであります。何とか復興のことが出来なくては相
 - 第41巻 p.117 -ページ画像 
成らぬと斯様な風に思つて居りましたが、幸ひに有力なる諸賢の御発起に依りまして、此の会が成立致しまして、斯く多数の有力なる方の御会合を得たことでありますから、吾々の日夕尊崇致して居りまする孔夫子の聖堂の復興といふものもそれは期して俟つべきものである。洵に今日の会議に列しまして、心強く愉快に感ずる次第であります。此の計画の中に於きましては、先刻阪谷男爵の御述べになりました通りに、教育家は最も此の復興に付ては厚い考を有つて居るものであります。全国教育家の者は従つて相当に努力致すであらうと私は確信致すのであります。併ながら、御承知の通り教育家の心は厚くありますけれども、実質上の力の甚だ薄いものであります。志余りあつて力が足らぬであらう、といふことを私は甚だ恐るゝ者であります。即ち先刻御話のありました通りの金額を教育家の力に依つて醵出し得るや否やといふことは私は甚だ懸念を致すのであります。唯其の志は非常に厚いといふことは確信致すのでありますけれども、右様の次第でありますからして、此教育家以外の有力者に於きましては非常なる御尽力を下さいませぬければ、此事業を予定通りに成功を見ることが出来ぬではあるまいかといふことを恐るゝ次第であります。就きましては諸君に於きましては此の教育者の熱心であるといふことゝ、而も力が足らぬといふことを十分に御諒承下さることを深く希望する次第であります。で、私は現に文教の府に居るものでございます、此の事業は文教の府としては洵に重大なる関係のあるもので、殊に昨今教育の上に於きまして世人の憂慮を招いて居る。又私共と致しまして大いに憂慮致して居る場合でございますから、此の思想を健全に導いて行くといふ上に於きまして、聖堂の復興といふことは最も重大なる関係を有するものでありますから、文教の府と致しましても出来るだけの尽力を此の事業に向つて致したいと思つて居ります。併ながら種々繁雑なる規則もありますことであつて仲々思ふ通りに委せぬ事等が多いのでございますから、出来るだけは努力致す積りでありますけれども、各位に於かれましても、此の辺は能く御諒承下さいまして、共に倶に最善を尽すといふことに御諒承を願ひたいと思ふのでございます。会長の御差図に依りまして唯思ひ付きましたことを述べ、又諸君に向つて深く期待を有して居るといふことを御諒承を願ひたいといふことの趣旨を申述べたに過ぎぬのでございます。
 ○渋沢子爵 別に申上げる事もございませぬが、誤つて副会長に御推薦を受けましたので果して其の任を全うすることが出来るや否や懸念致すのでございます。此の事に就きましては、どうぞ皆様方の御鞭撻を願ひ、又御援助を願ひたうございます。取立てゝ申上げる程の事もございませぬが、私は論語といふ書物に対して、事の外興味を有つて居るもので、論語は多少心得て居ります。学而篇から尭曰篇までどういふことが書いてあるかといふことを試みに御尋ね下されば、大概は御答へが出来ると存じます。それは何の効能もないことでございますけれども、私は小さい時に、人間はどうしても論語を読まなければならぬといふことを、親が頻りに訓戒を致しましたので、多少論語を理解することの教養を受けましてございますので、殊に其の中最も深
 - 第41巻 p.118 -ページ画像 
く感じて居りますのは、論語中、子貢の問に対して文章の全体は覚えませぬけれども、「一言にして終身之を行ふことは何か」と問はれた時に、「曰く恕なり、己の欲せざる所人に施す勿れ」といふことが、多分顔淵篇(衛霊公篇か)に教へて居ります。洵に尤もだと思ひまして、子供ながらに之は服膺せなければならぬといふことを深く感じたのでございます。己が嫌やと思つた事を人に仕向けたことは決して少なくないから、孔子の教には心に深く感じたのであります。明治六年に政府の役人を止めまして、銀行者になる時に、どうしても此の人間には何かの守るものがなければならぬといふことを感じました。殊に利害関係の多い者は、何か一つのしつかりした握つたものがなければならぬ。どうしても此の経済には道徳が伴はなければならぬ。道徳の伴はぬ経済は繁昌をなすものでないといふことを深く思ひました。子供の時に親に教はつた論語のことを、丁度銀行を始める時に思ひ起しました。此の観念は今日も尚ほ銀行屋を止めましても引続いて感じて居る事であります。故に孔子の教は徳教であるとか何とか、さういふやうな難しい議論でなく、今日人間として斯くありたいといふ感じを今も尚ほ有つて居るのであります。実は此の事に就きまして、変つたことを申上げるやうですけれども、大正四年にアメリカに参つて、偶然あちらの人と話合つた際に、彼曰く、お前は孔子の教に依つて身を立てるといふが、何故左様な考を持つか、孔子教を止めてキリスト教に入らぬかといふ。私は之に答へて、キリスト教は悪いとは思はぬけれども、孔子は死んでも孔子教は死なぬのだ。今現在の支那の人々が或は孔子教に背いた者があるか知らぬが、それはすべて支那ばかりでない。君の遵奉して居るキリスト教の人にもキリスト教に背いた者が沢山あるではないか、単り孔子教だけを謗ることが出来るものかと答へたことがございます。是は唯論語に対する、或は孔子に対する、或は外国人との討論に過ぎませぬので、申上げる程のことではございませぬけれども、どうも私は其の昔此の子供の時に感じたことはどうしても忘れることが出来ぬので、甚だ憚りもございますが、お集りの皆様に対しまして、之が孔子様の御門に近く行つたやうな心地がしまして、寧ろ御奨め申上げまして、どうぞこの事は成立するやうに私も微力を尽しますから、偏に御助力を願ひたいといふことを申上げたいのでございます。誠に老衰致しまして御役に立たぬといふことを自ら感じて頗る恐懼に堪へませぬけれども、併し右様な観念であるといふことを一言玆に告白するのであります。而して孔子の論語でございますが、私が特に心懸けるのではありませぬけれども、頻りにかういふ種類もある、あゝいふ種類もあるからといふことから、死なれた穂積男爵が私の為に論語の種類を集めて見やうといふことから、頻りに漁つて見まして、それは種々なものがございますが、殊に驚き入つたのは英仏に翻訳されたものがございます。それは幾つあると申上げる程細かに記憶致しませぬが、イギリスにも四ツ五ツある。フランスにも数多くあるやうであります。して見ると論語といふものは実に単り東洋ばかりでなしに西洋にもあると申して宜からうと思ふ。唯それ等の種類は先刻御話のありました震災で焼けましたので、私は今甚だ微々た
 - 第41巻 p.119 -ページ画像 
るものでありますが、この焼けたものだけは集めたいと心配して居るのであります。幸ひ本会が成立して、玆に復興の運びに至つたことは是程愉快なことはありませぬ。私は寧ろ有難くといふ一言を以て之で御免を蒙ります。
 ○阪谷男爵 先に皆様に申上げて置きますが、総理大臣が今日是非御出でになる筈でありましたが急に御差支といふことでありまして、宜しくと皆様に御伝言がございました。左様御諒承を願ひます。段々有力なる御方が沢山御出でになりますが、御急ぎの御方も御居でになるやうで、私より御願ひ致します演説は此の辺で止めまして、随意に御退散に相成つて差支ございませぬ。又御残り下すつて御話なさるとも、此の席は借りてございますので御自由に御話を願つて置きます。尚重ねまして、今日御忙がしい所を御繰合せ来会下さいましたことを一同に代り深く御礼を申上げて置きます。
 ○高島平三郎君 大変失礼ですが皆様に、御帰りになる御方は今御話になるやうにどうぞ御帰り下さいまして私一寸感じたことを御話して見たいと存じます。私は今日御招きを受けました時に「喜び出る」といふことを書いて置きました。非常に今日は嬉しく思ひました。而して只今文部大臣の仰せられたやうに、私も教育者の中に居る一人でございますから、意余りあつて力足らずで、迚も金銭物質を以て之を御助けするといふことは出来ませぬ。併し只今阪谷男爵から御話になりましたやうに、全国三万の小学校で、一つの小学校から二三年の間に二十円づゝの金を集めることは、必しも教育者から集められる意味でないと思ひますが、其の教育者たる人が此の必要なることを、生徒なり父兄なり、志ある者に聞かして、さうして許す限りに於て一円なり二円なり、出来るだけ多数の人から集める。日本国民が全体で建てるといふやうな考を有つやうにするといふのは、非常に良い事と思ひます。さつき参りました時に、服部博士から其の御話がございましたので、非常に又嬉しく思ひました。実は清浦子爵閣下なども御存じだと思ひますが、あの御同郷の水上七郎君が近江の琵琶湖の島の中へ五ケ条の御誓文の記念碑を建てたいといふことを計画致しまして、或る富豪に説いたら一人でも出すかも知れぬが、それでは面白くない。日本全国の人が皆一円……もつと少なくても宜いが、一円位づゝ出してさうしてやりたいといふことで最早数十年に相成りますが、僅かづゝ集つて居る。先年皇后陛下からそれに付て御下賜金があつたさうであります……此のやり方を非常に賛成して富豪の一人で出す者もあるけれども、それではあの人がやつたので俺等に関係がないといふやうになるから、努めて零砕なる金を多くの人から貰ひましてやつたならば私もあの一部分をやつたのだといふ感じが致しまして、非常に宜いことゝ思ふのであります。私共自分では力はございませぬ。私は能く申します。先生といふものは昔は先だつて生れるといふ風にして説いたが、今日は先づ生きて居ると解釈しなければならぬ。生は生きるですが、実際完全に生きられない。十分に自分で金を出すことは出来ぬが私も全力を注いで、私の知つて居る者に種々説きまして、一人でも多く寄附するやうに努める者でありますから、満場の諸君も御賛成を願
 - 第41巻 p.120 -ページ画像 
ひたいと思ひます。それから渋沢子爵の論語の御話もありまして、非常に私は感じました。実は私も論語を読んだのでありますが、迚も子爵の御記憶になつて居るやうに覚えませぬ。私は私の母から幼少の頃に、五経を暗記して居りましたが、四書は皆は暗記して居りませぬが始終四書五経の教を聞きまして、私がかういふことは何処にあつたかと本を探すよりも、母に言つて聞いた方が早く分つた。非常に便利をした事がありましたが、皆様も矢張り日本の国民は、吾々の年位の者は大概知らず識らずの間に儒教の精神に育まれて居ると思ひます。今渋沢子爵の御話もございまして誠に感慨に堪へない次第であります。
甚だ余計な事を御話致しまして恐縮であります。どうぞ先の趣意を御賛成を願ひます。


中外商業新報 第一四四六〇号大正一五年五月二九日 湯島聖堂の復興期成会成る 昨日最後の相談会で資金は全国から募集(DK410043k-0012)
第41巻 p.120 ページ画像

中外商業新報 第一四四六〇号大正一五年五月二九日
    湯島聖堂の復興期成会成る
      昨日最後の相談会で
      資金は全国から募集
若槻首相・岡田文相・徳川家達公・渋沢栄一子等の名によつて計画を進められつゝあつた湯島聖堂の
 復興に 就ては、二十八日午後二時から日本工業倶楽部に最後の相談会が開かれてつひに聖堂復興期成会の成立を見た、集まつた人々は
 岡田文相・徳川公・渋沢子を始め、清浦奎吾子・石黒忠悳子・大倉喜八郎男・阪谷芳郎男・関屋宮内次官・平塚府知事・中村市長、それに鳩山春子・棚橋絢子女史
などの婦人が見えて、実業家・学者・教育家を網羅する朝野知多の士約二百名、先づ阪谷男から経過の報告があつて、斯文会長徳川公を会長に、渋沢子を副会長に、阪谷男を理事長に推して、斯文会に事務所をおくことになつた、伊東忠太博士の設計になる
 新聖堂 の特殊な構造、聖堂の名によつて残る孔子廟は今日全国に求めても十指を屈するに足らぬほど寥々たるもので、なかにも震災で焼亡した湯島のそれは由緒深きこと、新聖堂の孔子像は今上陛下御秘蔵品を貸与されたることなどは、すべて一月末の本紙に写真入りで詳報したところであるが、復興並に維持に要する資金百二十万円は聖堂復興を以て国民精神振興に資せんとする趣旨を以て、全国一般から零砕なる
 資金を 募集することになり、その方法の一として阪谷男及び三宅東京高師校長が、各府県師範学校を通じて有志の義捐を待つ筈である期成会成つて大倉男は喜びの朗吟「聖堂の寄附を孔子ののたまはく宜べなるかなと君子うなづく」を発表し、論語で有名な渋沢子、儒教で育つた岡田文相・清浦の思ひ出話など傾聴すべき談話多く、午後四時散会した


聖堂復興期成会書類(DK410043k-0013)
第41巻 p.120-122 ページ画像

聖堂復興期成会書類          (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、御健勝被為渉奉慶賀候、陳者去ル五月二十八日聖堂復興ニ関シ日本工業倶楽部ヘ御招待相成候人員惣数八百十六人中(内十二人ハ最
 - 第41巻 p.121 -ページ画像 
近ニ追加)当日出席セラレタル者百四十七人有之、其他六百六十九人ハ欠席相成候間、本会創立後ノ経過報告ヲ兼援助懇請ニ関シ、甲乙別紙之通本月一日全部発送仕候間、為御参照右供覧仕候 以上
  大正十五年七月三日
                   理事長 阪谷芳郎
    副会長 子爵渋沢栄一殿
(別紙印刷物)
(一行別筆)
 (甲)(乙)五月二十八日招待者一同へ
           聖堂復興期成会理事氏名
                     河井弥八君
                  男爵 阪谷芳郎君
                     中村藤兵衛君
                     服部宇之吉君
                     福島甲子三君
                     槙忠一郎君
                     松浦鎮次郎君
                     三宅米吉君
(一行別筆)
 (甲)当日出席諸君へ
拝啓時下益御清祥奉賀候、然者去月二十八日聖堂復興期成会創立総会ノ席上ニテ選任ノ御委嘱ヲ受ケタル理事ノ儀ハ、其後熟議ヲ遂ゲ候上別記ノ諸君ニ御依頼致ス事トシ、夫々御承諾ヲ経已ニ御就任相成候ニ付此段御報告申上候、尚将来発起人トシテ本会ノ為種々御尽力相願度此儀乍序予メ願上候、先ハ右而已得貴意候 敬具
  大正十五年六月二十五日
             聖堂復興期成会会長
                   公爵 徳川家達
             同    副会長
                   子爵 渋沢栄一
       殿
(一行別筆)
 (甲)五月廿八日出席諸君へ
拝啓、然者本会会長及副会長ヨリ御報告相成候如ク本会理事御指名相成候ニ付、本会規約ニ従ヒ理事会ニ於テ理事長ヲ互選シタル処、男爵阪谷芳郎君御当選相成候、更ニ理事会ニ於テ理事槙忠一郎氏ヲ兼主事トスル事ニ決シ、会長ヨリ御委嘱相成候、尚本会事務所ノ儀ハ徳川会長ノ御厚意ニ依リ、麹町区内山下町貴族院議長官舎構内ニ設クル事ト相成候
右併テ御報告申上候 敬具
  大正十五年六月二十五日
                      聖堂復興期成会
       殿
(一行別筆)
 (乙)当日欠席諸君へ
 - 第41巻 p.122 -ページ画像 
拝啓、時下益々御清祥奉賀候、然者先般御案内申上置候如ク、去月二十八日日本工業倶楽部ニ於テ聖堂復興ニ関スル御相談ヲ遂ゲタル結果別冊趣意書規約及予算ヲ承認セラレ、聖堂復興期成会成立致候、当日席上ニ於テ清浦子爵ノ発言ニ依リ、来会者一同ノ同意ヲ以テ下名等会長・副会長トシテ御推挙ヲ辱クシ即チ就任仕候、尚役員ノ儀ハ下名等ニ一任セラレ候ニ付熟議ヲ遂ゲタル結果、別記諸君ニ理事ヲ御委嘱致候処、夫々御承諾相成候、其他ノ役員ハ追テ手続ヲ経テ夫々決定可相成候
右ノ如ク聖堂復興期成会成立致候ニ就テハ、何卒貴下ニ於カセラレテモ発起人タル事ヲ御承諾被成下度候、下名等ハ衆力ヲ合シテ聖堂ヲ復興シ、以テ聖堂復興ノ事業ヲシテ大ニ意義アラシムルト共ニ、国民精神作興ノ上ニ資セントスルモノニ有之、而シテ其素志ヲ達成セントスルニハ広ク朝野ノ有力ナル方々ノ御援助ヲ仰ガザル可カラザルヲ以テ貴下ノ御賛成ヲ懇請致ス次第ニ有之候、右御諒知ノ上御承諾被成下候様願上候
別冊相添右得貴意候 敬具
  大正十五年六月二十五日
             聖堂復興期成会会長
                   公爵 徳川家達
             同    副会長
                   子爵 渋沢栄一
       殿
  追テ別段御回示無之節ハ乍勝手御承諾被成下候事ト心得申度候
   ○別冊前掲ニツキ略ス。


斯文 第八編第四号・第五六―五七頁大正一五年七月 ○聖堂復興期成会役員(DK410043k-0014)
第41巻 p.122-123 ページ画像

斯文 第八編第四号・第五六―五七頁大正一五年七月
    ○聖堂復興期成会役員
 聖堂復興期成会の役員は、前項同会創立総会議事録中に記せし如く会長・副会長のみ決定せしが、其の後六月一日付を以て会長より理事及監事の指名あり、同月七日には理事会を開きて理事長の互選あり、又主事兼務の任命もありたり。乃ち、同会役員の既に決定せし者左の如し。
             聖堂復興期成会役員
               会長  公爵 徳川家達
               副会長 子爵 渋沢栄一
               理事長 男爵 阪谷芳郎
               理事     松浦鎮次郎
               理事     河井弥八
               理事     中村藤兵衛
               理事     服部宇之吉
               理事     三宅米吉
               理事     福島甲子三
               理事兼主事  槙忠一郎
               監事     矢野恒太
 - 第41巻 p.123 -ページ画像 
               監事     内藤久寛


斯文 第八編第五号・第五二―五三頁大正一五年八月 ○聖堂復興期成会記事(DK410043k-0015)
第41巻 p.123 ページ画像

斯文 第八編第五号・第五二―五三頁大正一五年八月
    ○聖堂復興期成会記事
 聖堂復興期成会にては、六月七日の理事会に於て現在理事中、服、部・三宅・福島・槙の四氏に対し、常務理事たることを会長より委嘱せられしが、六月十一日及同月二十五日の両度、斯文会事務所に於て常務理事会を開き、顧問及評議員等に推薦すべき人人の予選を為したり。
 七月八日午後一時より、貴族院議長官舎構内なる同会事務所に於て理事会を開き、評議員三百二十五名協賛の件を決議し、会長より之を委嘱せられたり。同日午後三時より、同所に於て評議員会を開き、顧問四十一名協賛の決議を為し、会長より之を委嘱せられたり。


斯文 第八編第六号・第六四―六五頁大正一五年九月 ○聖堂復興期成会記事(DK410043k-0016)
第41巻 p.123 ページ画像

斯文 第八編第六号・第六四―六五頁大正一五年九月
    ○聖堂復興期成会記事
 聖堂復興期成会の評議員及顧問等委嘱の件は前号に報道せしが、其の内顧問に委嘱せられし人々の氏名を得たれば左に之を掲ぐ。
      聖堂復興期成会顧問(五十音順)
 子爵 石黒忠悳       一木喜徳郎     市来乙彦
 男爵 岩崎小称太   子爵 入江為守      江木千之
 男爵 大倉喜八郎      粕谷義三   子爵 金子堅太郎
 子爵 清浦奎吾       倉富勇三郎  侯爵 黒田長成
    小泉又次郎   公爵 近衛文麿      佐々木勇之助
 子爵 斎藤実        桜井錠二      志村源太郎
 男爵 田中義一       団琢磨    侯爵 徳川圀順
 伯爵 徳川達孝    侯爵 徳川義親   侯爵 徳川頼貞
    床次竹二郎      永田仁助   侯爵 蜂須賀正韶
    浜口雄幸       平沼騏一郎  男爵 平山成信
 男爵 藤田平太郎   侯爵 細川護立   伯爵 牧野伸顕
    馬越恭平    公爵 松方巌    伯爵 松平直亮
 男爵 三井八郎右衛門 男爵 安川敬一郎     若槻礼次郎
    井上準之助      岡田良平


中外商業新報 第一四四九五号大正一五年七月三日 聖堂復興期成会の理事(DK410043k-0017)
第41巻 p.123 ページ画像

中外商業新報 第一四四九五号大正一五年七月三日
    聖堂復興期成会の理事
徳川公・清浦子・渋沢子等の発起で起された聖堂復興期成会は、いよいよその目的のために事務を進むべく事務所を麹町区内山下町貴族院議長官舎に設けることゝなつた、なほ阪谷男を理事長に、左の諸氏が理事に就任した
 △河井弥八△中村藤兵衛△服部宇之吉△福島甲子三△槙忠一郎△松浦鎮次郎△三宅米吉


聖堂復興期成会書類(DK410043k-0018)
第41巻 p.123-124 ページ画像

聖堂復興期成会書類           (渋沢子爵家所蔵)
 - 第41巻 p.124 -ページ画像 
(葉書墨書)
拝啓、益御清祥奉賀候、陳者来ル八日(木曜)午後一時ヨリ貴族院議長官舎ニ於テ理事会相開キ候間、御差繰御出席被下度、此段御案内申上候 敬具
  大正十五年七月二日
                 貴族院議長官舎構内
                     聖堂復興期成会
    議案
 一評議員ノ選定ニ関スル件
 二大正十五年度予算案
 三其他


集会日時通知表 大正一五年(DK410043k-0019)
第41巻 p.124 ページ画像

集会日時通知表 大正一五年      (渋沢子爵家所蔵)
七月八日 木 午後一時 聖堂復興期成会理事会(貴族院議長官舎)


聖堂復興期成会書類(DK410043k-0020)
第41巻 p.124 ページ画像

聖堂復興期成会書類          (渋沢子爵家所蔵)
(葉書墨書)
拝啓仕候、然者来ル十日午後正三時ヨリ議長官舎ニ於テ理事会開催致候間、御繰合御出席相成度、此段御案内申上候也
  大正十五年九月三日
                東京市麹町区内山下町
                  貴族院議長官舎構内
                  聖堂復興期成会
    決議事項
 一資金募集方法
 一会員ノ資格其他細則
 一其他


集会日時通知表 大正一五年(DK410043k-0021)
第41巻 p.124 ページ画像

集会日時通知表 大正一五年      (渋沢子爵家所蔵)
九月十日 金 午後三時 聖堂復興期成会理事会(貴族院議長官舎)


聖堂復興期成会書類(DK410043k-0022)
第41巻 p.124-126 ページ画像

聖堂復興期成会書類          (渋沢子爵家所蔵)

            (別筆)
            昭和二年五月二日槙忠一郎氏持参詳細説明シ、子爵モ全部承認セラレ、本日開催ノ理事会ニハ欠席セラル
    事務報告
 (甲)理事会
(一)大正十五年七月八日第二回理事会ヲ開キ、十五年度予算ヲ決議シ、且ツ顧問(四十一名)評議員(三百二十五名)ヲ予選ノ上、凡テ委嘱スルコトニ決定ス
(二)九月十日第三回理事会ヲ開キ、資金募集ニ関スル依頼状文案ヲ決議シ
 引続キ評議員会ニ移リ、河井理事辞任ニ付其ノ後任トシテ新貴族院
 - 第41巻 p.125 -ページ画像 
書記官長成瀬氏ヲ選挙シ、又河井氏ニ評議員ヲ委嘱ス
 (乙)常務理事会
 七月十七日以来年度末ニ至ル迄九回会合ヲ催シ、事務ノ処理ニ関シ重要ナル援助ヲ与ヘタリ、而シテ三月ヨリ毎月第一・第三月曜日ヲ定期会合日ト決定セリ

図表を画像で表示--

 七月十七日  資金募集手続ノ準備ニ関シ協議ス           阪谷理事長三宅・福島・槙 八月 六日  資金募集ニ関シ理事長起案文ヲ主ニ協議ス       服部・三宅・福島・槙 十月十四日  会員章及謝状調製ノ件勧募依頼状ニ関シ諸般ノ手続キ  同 十一月三日  事務打合セ                     同 十二月六日  師範学校長会議ニ出席ノ三宅理事ヨリ状況報告     同 一月十三日  地方名誉委員ヲ増置スルコト、内務部長県教育会長ヘモ援助ヲ乞フコト、感謝状調製ノコト  阪谷理事長・服部・三宅・福島・槙 二月十五日  名誉委員委嘱ノ件朝鮮ニ於テ資金募集ノ件       服部・三宅・福島・槙 二月十九日  同                         同 三月 三日  同                         同 



  (丙)資金勧募依頼状
(一)十一月五日三府四十三県知事・警察部長・学務部長及師範学校長ヘ二三六通ノ依頼状ヲ発セリ
(二)十一月二日ヨリ十二月三日ニ至ル期間ニ、北海道ヲ除キタル全国小学校長一八、六九四人宛ニ依頼状ヲ発セリ
(三)十二月十一日全国中等学校長宛二、五〇三通ヲ発セリ
(四)十二月二十四日文部省直轄学校其他関東庁管内中等学校長宛七十三通ヲ発セリ
(五)一月二十六日府県内務部長及教育会長ヘ新規募集援助依頼状及師範学校長ヘ右報告書総数一九二通ヲ発セリ
(六)一月二十八日台湾中等以上ノ諸学校及台湾総督府学務局長等ヘ五十二通ノ依頼状ヲ発セリ
(七)三月二十五日地方名誉委員五十二人ヘ勧募依頼状又師範学校長ヘ右報告書総数一五二通ヲ発セリ
    参考
    四月九日ヨリ十六日ニ至ル期間朝鮮総督・各道知事、其他小学校以上ヘ資金勧募依頼状二、〇六八通ヲ発セリ
  (丁)資金募集許可願
(一)大正十五年七月二十三日警視総監宛願書提出、九月八日許可
(二)十一月十九日福井・千葉両県知事宛出願許可
(三)昭和二年一月八日其他府県知事ニ出願セルニ今ニ不許可ノ府県左ノ如シ
    京都・大阪・兵庫・新潟・茨城・愛知・滋賀・岐阜・山形・富山・島根・徳島・香川・高知・山口・熊本・宮崎ノ二府十五県
     但宮城・沖縄ハ学務部長直接募集ニ付除ク
  (戊)其他重要記事
(一)十一月九日宮内省ヨリ金壱万円御下賜
(二)文部省ニ府県学務部長及師範学校長秋期会同ノ際、親ラ臨席、本会趣旨援助ニ関シ更ニ賛同ヲ求メタリ
(三)十月五日徳川義親侯家職稲生正政氏来会、聖像寄附ニ関スル用談ヲ
 - 第41巻 p.126 -ページ画像 
セラレタリ
(四)会報
 (イ)十二月十一日顧問・評議員及本会役員ヘ臨時会報ヲ発セリ
 (ロ)一月二十六日第一回寄附状況報告書、三月九日第二会報ヲ知事以下師範学校長宛発送シテ参考ニ供セルニ、人皆之ヲ頗ル便トセリ
 (ハ)十二月二十日会長以下役員一同ヘ年末事務報告書ヲ提出セリ
(五)三月三十一日沖縄県那覇市社団法人崇聖会員二百九十人ヨリ金六百九拾壱円ヲ本会ヘ寄贈セラレタリ
*貼紙
  寄附申込総額 八六、三八〇・五九〇
     収入額 二九、五〇一・〇九〇
     内訳
      東京 二四、五一四・五七〇
      地方 四、九八六・五二〇
         (ゴム印)
         昭和弐年五月弐日


斯文 第八編第七号・六三頁大正一五年一〇月 ○聖堂復興期成会記事(DK410043k-0023)
第41巻 p.126 ページ画像

斯文 第八編第七号・第六三頁大正一五年一〇月
    ○聖堂復興期成会記事
 聖堂復興期成会にては、近々の内愈々湯島聖堂再建に関する資金募集に着手せらるゝ予定なりと見え、九月十日同会事務所に於て理事会を開き、左記議案を可決せられたり。
 一、各地方長官・警察部長・学務課長・師範学校長・小学校長等へ資金募集に関する依頼状文案
 二、河井理事退任に付、貴族院書記官長成瀬達氏を後任理事に推薦の件


斯文 第八編第九号・五〇頁大正一五年一二月 ○聖堂復興期成会記事(DK410043k-0024)
第41巻 p.126-127 ページ画像

斯文 第八編第九号・第五〇頁大正一五年一二月
    ○聖堂復興期成会記事
 十月十四日午前十一時、文部省に於て各府県学務課長会議あるを機とし、聖堂復興期成会理事長阪谷男爵外理事数名出席の上、同会の趣旨宣伝の為め課長各位の援助を請ふ旨依頼したり。
 同月二十五日予て計画中の、同会資金募集に関し各府県当事者及学校長等宛依頼状の印刷物完成に付、目下其の配布方に勉めつゝあり、十一月中には全部発送を終了する由なり。
 十一月三日午後四時より、同会事務所に於て常務理事会を開き、阪谷理事長及各理事出席、福島理事より去月新潟・愛知両県旅行の際、県知事以下各学校長等へ同会の趣旨宣伝を依頼したる旨報告あり。当日の決議事項左の如し。
 一、師範学校と小学校との聯絡関係の外、広く各種の学校に対しても応分の尽力を請ふ事。
 二、必要に応じ各地方にも名誉委員を置く事。
 三、大方有志の寄附を歓迎する為め、喜捨袋を調製頒布する事。
 同月八日宮内大臣官房より電話にて、明九日午後零時三十分同会会長に出頭すべき旨達あり。徳川会長差支の為め阪谷理事長出頭し、一
 - 第41巻 p.127 -ページ画像 
木宮内大臣より左の御沙汰書と共に、金壱万円を拝受したり。
                      聖堂復興期成会
 今般其会ニ於ケル事業ヲ被聞食 思召ヲ以テ
 金壱万円下賜候事
  大正十五年十一月九日
                     宮内省


聖堂復興期成会書類(DK410043k-0025)
第41巻 p.127 ページ画像

聖堂復興期成会書類          (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
 昨九日宮内省ヨリ左ノ通リ
 御下賜金有之
 天恩優渥感激ノ至リニ不堪謹テ及御報告候
                    聖堂復興期成会
 今般其会ニ於ケル事業ヲ
 被聞食
 思召ヲ以テ金壱万円下賜候事
  大正十五年十一月九日
                     宮内省
 右
  大正十五年十一月十日
      聖堂復興期成会々長 公爵徳川家達 聖堂復興期成会会長印
    (宛名手書)
    副会長 子爵渋沢栄一殿


斯文 第九編第四号昭和二年四月 聖堂復興資金寄附ニ関スル規定(DK410043k-0026)
第41巻 p.127 ページ画像

斯文 第九編第四号昭和二年四月
    聖堂復興資金寄附ニ関スル規定
一、規約第十二条ニヨリ金六円以上ヲ寄附スル者ヲ会員トシ、会員章及紀念品ヲ贈呈ス
二、寄附金ハ即納又ハ分納トス、多額ノ寄附金ハ三年ニ分納スルモ可ナリ
三、寄附金最低額金六円ヲ数人ニテ寄附スルモ可ナリ、此ノ場合ニハ一個ノ会員章及記念品ヲ其ノ代表者ニ送ル
四、会員トナラスシテ只金員ヲ寄附スルモノアル時ハ壱円以上受納ス多人数相集リテ寄附金ヲ醵出スル場合ニハ各自ノ醵出金ハ壱円以下ニテモ可ナリ
五、団体ニシテ金六円以上ヲ寄附スルモノアル時ハ、其ノ団体ヲ一会員ト見做ス
六、会員トナリタル者ニハ可成速ニ会員章ヲ送ル、寄附金分納者ニハ分納金額六円以上トナリタル時之ヲ送ル
七、記念品ハ聖堂復興完成ニ至リタル時、報告書ト共ニ之ヲ送ル(記念品ハ新築聖堂写真大中小等)


斯文 第九編第六号・第五三頁昭和二年六月 ○聖堂復興期成会記事(DK410043k-0027)
第41巻 p.127-128 ページ画像

斯文 第九編第六号・第五三頁昭和二年六月
    ○聖堂復興期成会記事
 聖堂復興期成会にては、五月二日午後四時より同会事務所に於て理
 - 第41巻 p.128 -ページ画像 
事会を開き、徳川会長も臨席ありしが、渋沢副会長より資金募集に関し激励の辞あり、それより前年度の事務報告及決算報告、本年度の予算案を審議決定せり。
又理事松浦鎮次郎氏辞任に付、更に評議員に推薦して会長より之を委嘱せられ、後任理事には文部次官粟屋謙氏を推薦したり。


渋沢栄一 日記 昭和三年(DK410043k-0028)
第41巻 p.128 ページ画像

渋沢栄一日記 昭和三年         (渋沢子爵家所蔵)
一月十六日 曇 寒気強シ
○上略福島甲子三氏来リテ聖堂復興ノ事ニ付談話ス○下略


聖堂復興期成会書類(DK410043k-0029)
第41巻 p.128 ページ画像

聖堂復興期成会書類          (渋沢子爵家所蔵)
  昭和三年一月九日
                   聖堂復興期成会 
    副会長 子爵渋沢栄一殿
拝啓、来ル十七日午後三時ヨリ本会事務所ニ於テ理事会開会仕候間御繰合御出席被下度、御用ノ御都合モ可有之ト存シ早々ナカラ御通知申上候 敬具


集会日時通知表 昭和三年(DK410043k-0030)
第41巻 p.128 ページ画像

集会日時通知表 昭和三年 (渋沢子爵家所蔵)
一月十七日 火 午後三時 聖堂復興期成会理事会(貴族院議長官舎内同会)


斯文 第一〇編第四号・第六四頁昭和三年四月 ○聖堂復興期成会記事(DK410043k-0031)
第41巻 p.128 ページ画像

斯文 第一〇編第四号・第六四頁昭和三年四月
    ○聖堂復興期成会記事
理事会 一月十七日午後三時より、同会事務所に於て理事会を開きて常務を議し、三月十九日午後一時より、同所に於て理事会を開き、本田委員より地方巡廻の状況を聴取せり。
地方巡廻 本田委員は十月七日より、富山・石川・福井・岐阜・愛知・三重・静岡の各県。十一月十八日より、京都・大阪の二府、滋賀・奈良・和歌山・兵庫・高知・徳島の六県。一月二十日より、長崎・佐賀・福岡・大分・宮崎・鹿児島・熊本の諸県を巡廻し、此の程帰京したり。


(槙忠一郎) 書翰 増田明六宛(昭和三年)二月二八日(DK410043k-0032)
第41巻 p.128 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

斯文 第一一編第一号・第一〇一頁昭和四年一月 ○竜門社より聖堂復興費寄附(DK410043k-0033)
第41巻 p.128-129 ページ画像

斯文 第一一編第一号・第一〇一頁昭和四年一月
    ○竜門社より聖堂復興費寄附
 本会の編纂に係る国訳論語を、竜門社に於て渋沢子爵米寿祝賀記念
 - 第41巻 p.129 -ページ画像 
として刊行せられたることは既報の如くなるが、同社にては本会が編纂費を全部負担し、其の原稿を無償にて提供せしことを徳とし、本会の好意に対し謝意を表せんが為め、聖堂復興費として金参千円送付せられたるを以て、之を受領の上、十二月十二日聖堂復興期成会に転交せり。


(槙忠一郎) 書翰 渡辺得男宛(昭和四年)二月二五日(DK410043k-0034)
第41巻 p.129 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

聖堂復興期成会書類(DK410043k-0035)
第41巻 p.129-130 ページ画像

聖堂復興期成会書類           (渋沢子爵家所蔵)
  昭和四年九月三十日
                   聖堂復興期成会 
    渡辺得男殿
拝啓、秋冷ノ候益御清適賀上候、陳者毎度恐縮ナカラ募集追願書案及御送付候間、子爵之御決裁ヲ得テ御返送被下度願上候、尚其ノ節募集状況御申上被下度、別紙八月末日調同封差上申候 敬具
写                日比谷警察署経由提出
  昭和四年八月十九日提案
                       書記(印)
   (家達)  (阪谷)
 会長(印)  理事長(印)  庶務主事(印) 会計主事(印)
  副会長 栄一
 本会資金募集ノ追願書左案ノ通警視総監ヘ提出可相成哉
 右仰高裁
      案
   年 月 日 代表者 理事長名
    警視総監宛
      資金募集ノ儀ニ付追願
 一、募集追願金額四拾万円也(既許可額四拾万円也)
 一、〃 期限昭和七年九月七日(〃 期限昭和四年九月七日)
本会資金募集ノ件、去ル大正十五年九月八日第二二九二〇号ヲ以テ御許可相受ケ爾来鋭意従事罷在候処、七月末日現在東京府下ノ募集成績ハ参拾六万参千弐百余円(内金壱万円御下賜金包含)ニ有之、募集期間満了ノ本年九月七日迄ニ御許可額四拾万円ニ達セシムルコトハ敢テ困難ニ無之候得共他府県ニ於ケル募集成績ハ僅ニ五万弐千六百余円ニシテ予定ノ十分ノ一ニタモ達セス、尚精々努力可致候得共到底予定ノ半額ヲ募集スル
 - 第41巻 p.130 -ページ画像 
コトハ至難ト存セラレ候間、貴管下ニ於ケル募集総額ヲ金八拾万円ニ増額シ、募集期限ヲ昭和七年九月七日迄三ケ年ノ延長ヲ請ヒ、以テ所期ノ目的ヲ達成致度、尤モ従来ハ零細ノ資金ヲ広ク募集致居、富豪篤志家ノ募集ニ着手シタルハ極メテ最近ノ事実ニ付、増額募集ニ付テハ相当信念有之、即チ市内各戸ニ亘リ深ク資金ヲ募集スルコトナク、浅ク少数特志家ノ寄附ヲ仰キ候間特別ノ御詮議ヲ以テ至急御許可被成下度此段及追願候也
 追テ二ケ月毎ニ提出(最近ハ八月五日提出)スル寄附金募集収支計算届御参照被下度候
募集従事員ハ曩ニ御許可ヲ受ケタル槙忠一郎・福島甲子三ノ両名ヲシテ依然従事セシメ候間御聴置被下度候
    追願寄附金募集見込書
 募集金額         募集先
        円
  壱五〇、〇〇〇   篤志ノ銀行会社
  弐〇〇、〇〇〇   〃  富豪実業家
   五〇、〇〇〇   〃  華族
 計四〇〇、〇〇〇
    東京府以外ノ募集金割当○略ス
     (募集状況八月末日現在)
一金壱万円      御下賜金
      寄付芳名
        申込年月
一金壱万円   大正十五年十二月   公爵 徳川家達
一金五万円   〃     七月   子爵 渋沢栄一
一金五百円   〃     六月   男爵 阪谷芳郎
一金参千円   〃     九月      内藤久寛
一金弐千五百円 昭和二年四月        矢野恒太
一金千五百円  〃元年十二月        福島甲子三
一金五百円   〃二年九月     雨潤会代表 伯爵 陸奥広吉
一金拾壱万六百六拾四円 昭和三年十二月 財団法人斯文会々長 公爵徳川家達
一金壱千円   同年十二月     新潟県 神谷正治
一金参千円   同三年十二月    財団法人竜門社理事長 男爵 阪谷芳郎
一金五万円   同四年一月     三井合名会社長 男爵 三井八郎右衛門
一金五万円   同年二月      三菱合資社長 男爵 岩崎小弥太
一金弐万円   同年四月      合名会社大倉組 男爵 大倉喜七郎
一金壱万円   同年五月       東京 服部金太郎
一金壱万円   〃         古河合名会社長 男爵 古河虎之助
一金五百円   同年六月       東京 三枝祐介
一金壱千円   〃          東京 堀越角次郎
一金壱万円   昭和四年六月     東京 根津嘉一郎
一金五千円   〃七月           末延道成
一金五百円   〃             星野錫
一金五百円   〃八月           片倉兼太郎
一金六万六千八百九拾参円弐拾弐銭      五百円未満有志小中大学等
  合計金四拾壱万七千五拾七円弐拾弐銭
 - 第41巻 p.131 -ページ画像 



〔参考〕斯文 第九編第一号・五二頁昭和二年一月 ○聖堂復興期成会記事(DK410043k-0036)
第41巻 p.131 ページ画像

斯文 第九編第一号・五二頁昭和二年一月
    ○聖堂復興期成会記事
十一月二十五日午前十時より、文部省内に於て全国各師範学校長会議開催に付、聖堂復興期成会常務理事三宅博士及槙主事等右会場に出頭し、昨年末本会より依頼し置きたる寄附金募集に関し、更に一層の尽力あらんことを懇請したり、校長諸氏が勧募の参考に資せん為め、応募者の状況を詳細に記載したる印刷物を配贈したり。
 十二月六日午後四時より、同会事務所に於て常務理事会を開き、聖堂復興資金募集の件、其の他事務の打合せを為したり。
 三府四十三県下の各小学校長総数一八、六四五人に対しては、十二月三日迄に資金募集依頼状を全部発送済なるが、更に広く各種の学校長に対しても依頼状を発送しつつあり、不日完了の筈なり。同会の事業に対しては、各方面に於て好感を以て迎へられたり。其の状況は下記の数項に列挙せる所の如し。



〔参考〕斯文 第九編第二号・第五二頁昭和二年二月 ○聖堂復興期成会記事(DK410043k-0037)
第41巻 p.131 ページ画像

斯文 第九編第二号・第五二頁昭和二年二月
    ○聖堂復興期成会記事
 聖堂復興期成会にては一月十三日午後四時より日本倶楽部に於て常務理事会を開き、阪谷理事長以下各理事出席左の件を決議せり。
一寄附金募集の意味を徹底せしむる為め、各府県内務部長及市町村学務委員長等に依頼状発送の件
二全国の各小学校長等へ募集の状況報告旁再度依頼状発送の件
三主事一名を全国に派遣し極力勧募に従事せしむる件



〔参考〕斯文 第九編第三号・第六五―六六頁昭和二年三月 ○聖堂復興期成会記事(DK410043k-0038)
第41巻 p.131 ページ画像

斯文 第九編第三号・第六五―六六頁昭和二年三月
    ○聖堂復興期成会記事
 二月十五日午後四時より、同会事務所に於て常務理事会を開き、左の件を決議せり。
一、寄附金勧募に関し援助を請はんが為に各地方有力者に委員を依嘱する件
二、義捐袋を調製し各方面に配布の件



〔参考〕斯文 第九編第五号・第四七頁昭和二年五月 ○聖堂復興期成会記事(DK410043k-0039)
第41巻 p.131-132 ページ画像

斯文 第九編第五号・第四七頁昭和二年五月
    ○聖堂復興期成会記事
 聖堂復興期成会にては、四月四日常務理事会定日に付、午後四時より事務所に於て例会を開き、義金募集に関する件及び其の他の事務を協議したり。
 朝鮮総督府管内の各学校へ義金募集依頼の件に関し、服部理事より交渉の結果、京城帝国大学法文学部教授高橋亨・経学院司成金完鎮両氏の諒解を得て、総督府へ募集許可願を出し、各学校へ依頼状を発送すると共に、総督・道知事・其の他関係方面へ援助方を依頼したり。
 又北海道庁学務部長へ交渉せしも、未だ回答に接せざりし為め其の
 - 第41巻 p.132 -ページ画像 
儘に打過ぎしが、道庁管内の各学校へも依頼状発送に著手したり。



〔参考〕斯文 第九編第七号・第六〇頁昭和二年七月 ○聖堂復興期成会記事(DK410043k-0040)
第41巻 p.132 ページ画像

斯文 第九編第七号・第六〇頁昭和二年七月
    ○聖堂復興期成会記事
 六月六日(第一月曜)常務理事会定日に付、午後四時より同会事務所に於て例会を開き、会務を協議せり。
 又聖堂復興資金募集に関し、千葉・茨城方面に人を派し、先づ同地方の各学校に対して極力勧募中なりしが、其の結果の報告会を六月十一日に開催の予定なりしも、都合に依り同月十七日に延期したり。詳細は次号に報道すべし。



〔参考〕斯文 第九編第八号・第五三頁昭和二年八月 ○聖堂復興期成会記事(DK410043k-0041)
第41巻 p.132 ページ画像

斯文 第九編第八号・第五三頁昭和二年八月
    ○聖堂復興期成会記事
 七月四日(第一月曜)は常務理事会の定日なれども、緊急事件なき為め休会したり。
 聖堂復興資金募集に関し、茨城・千葉両県下へ委員派遣の事は前号に掲載せしが、右は五月二十五日以来前師範学校長本田嘉種氏を地方派遣事務委員に任用したるものにて、六月十一日・同十七日同氏の復命書は、別項○略ス記載の如し。



〔参考〕斯文 第九編第九号・第六三―六四頁昭和二年九月 ○聖堂復興期成会記事(DK410043k-0042)
第41巻 p.132 ページ画像

斯文 第九編第九号・第六三―六四頁昭和二年九月
    ○聖堂復興期成会記事
 七月十一日より、文部省会議室に於て全国学務部長会議開催中なるを機とし、同月十二日正午より阪谷理事長・三宅理事・槙主事・本田委員等該会場に至り、阪谷理事長より聖堂復興資金の勧募方につき重ねて何分の援助あらんことを依頼されしに、各学務部長は何れも之を快諾したり。
 同日関東庁内務局学務課長藤田〓治郎氏は別室に於て曰く。金州の孔廟は頽廃甚しきにつき目下修理の計画中なり、其の費用は約五万金を要し出資の方法は粗々成竹あるも、日支親善の為め幾分の寄贈あらば満足此上もなし。湯島聖堂の再建に対しては公文を以て小官宛御依頼あれば、応分の尽力を為すべし云々。
 八月八日(第一日曜)の常務理事会は酷暑中に付休会したり。