デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.7

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
8款 陽明学会
■綱文

第41巻 p.195-227(DK410061k) ページ画像

大正11年6月24日(1922年)

是日、渋沢事務所ニ於テ、当会主催陽明全書講読会第一席ヲ開始ス。是ヨリ以降、大正十二年関東大震火災直前迄、毎月連続開講、栄一毎回出席ス。


■資料

集会日時通知表 大正一一年(DK410061k-0001)
第41巻 p.195 ページ画像

集会日時通知表 大正一一年       (渋沢子爵家所蔵)
六月廿四日 土 午後七時半 陽明全書講演会《(読)》(兜町)
 - 第41巻 p.196 -ページ画像 


陽明学 第一五八号・第八―一二頁 大正一一年一〇月 陽明先生全書講読会 正堂講述(DK410061k-0002)
第41巻 p.196-200 ページ画像

陽明学 第一五八号・第八―一二頁 大正一一年一〇月
    陽明先生全書講読会
                      正堂講述
 第一席 年譜 自首至弘治二年 先生十八才
      発端
 曩きに飛鳥山渋沢邸に開きたる講読会の発会式当日に於て、ほゞ其講述する方法をば申上たる通り、先づは先生の年譜につきざつと一通り評論的に申上げまして、後に学術事業の両方面のものを以て、両端緒に立てお談しする事が便利かと思ひます。年譜も種々あるが只今は全書兪本にあるものに拠りて其他を折衷して申す積り、兪本分必らずしも善と申すにも非らず、唯便宜上之による。全体先生の年譜は此こそとゆふ程のものを得ないので、私先人沢瀉先生などは曾て改訂の志もありて果さず、因て是は追て吾陽明学会の論定を以て一つ正確なる陽明先生年譜の製作をもなしてみ度いものとおもふのであります。
先生諱守仁。其先晋右軍将軍羲之云々。
 此の先生の系譜、別本には其先出晋光禄大夫覧之裔。曾孫羲之。とある。其第一始祖を王覧にすると羲之にするとには、何か訳けのある事と思はる。殊に近年吾同志中に彼邦に往きて先生家王氏の廟に謁したるものゝ談を聞くにも、先生の家廟は羲之を主として子孫は皆昭穆を以て其下に列し、而して陽明先生は独り別室に祠せられ、先生の子孫はまた皆共に羲之の廟中に入りてをる様子、之を見ると覧より羲之に至るまでには必らずしも其正系によらざる様の事ともあるによりて、羲之を其始祖にせるかとも思はるゝも、私は王覧を始祖と知る事は極めて要用であると思ふ。然る所以のものは、王覧の事蹟は殊に此の陽明先生の学風に大関係ある事を私は深く信じてをるものである。王覧の事は朱子小学書にも出してある。
  王祥弟覧。母朱氏遇祥無道。覧年数歳見祥被楚撻。輒涕泣抱持。至於成童。毎諫其母。其母少止凶虐。朱屡以非理使祥。覧与祥倶又虐使祥妻。覧妻亦趨而共之。朱患之乃止。
 どうも此の王覧の母子兄弟の間に処する至矣尽矣、此がとうて数百年後の末孫たる陽明先生の学風に関係するか、数百年前の祖先の性質が遺伝してをるとゆへば疑ふものもあるべきも、家庭の間祖先の行事は誰も幼時より耳慣れてをる事にて、因て以て其祖先の篤行が自然に其末孫たる陽明先生の精神を導きをると云ふことは争ふ可からず。私は陽明先生が其祖先王覧の篤行を以て虞舜の心として説出されたるを信ずるものである。伝習録に先生が虞舜を説かれをるを見るとよく分る。
  舜初時致得象要殺己。亦是要象好的心太急。此就是舜之過処。経過来乃知功夫只在自己。不去責人。所以致得克諧。
 と斯うてある。私は此は聊か発微の見かともおもふのであるも、私はかゝる理由によつて陽明先生の家系は、王覧より始まることを明
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記しておき度いとおもふのである。其六世の祖王綱字性常より以下は各本とも別に異同はなきも、先生家には其性常よりせる家学ともゆふべきものが伝はりてをることにて、性常の先つは其門人とも謂ふべき人には、即ち明太祖を輔けて帷幄に参せる開国佐命の元動劉基を出し、而して其末孫に先生を出したるは当然其筈の事なるも、世はまだ先生に家学のあるを知らざるものおほし。然れば此亦私発微の見なるを以て、猶同志諸子の研究論定を乞ふ。全書謝本分には特に世徳記を附して性常以下の伝墓誌銘などを悉く編入してあるは此其最も佳処。
成化八年。壬辰。九月三十日。丁亥先生生。云々。
十二年。丙辰。先生五歳。云々。
 大聖賢偉人の伝記には徃々に奇蹟談の附帯して居るものなるが、先生も亦其数に漏れない。私は此奇蹟談に就きては議論がある。先生が十四箇月にして生れた、これは成程奇蹟でもあらう、が昔し尭が十四箇月で生れた、それは聖帝となるの徴しに奇蹟があるとして、漢の昭帝も十四箇月、聡敏なる性質にも見えるが聖帝ともなれない中に蚤世した。折々十四箇月のものはある様子、然とも人が何か奇蹟がなけらねば聖賢になれないとは云へない。孟子にも人皆可以為尭舜とある。現に奇蹟なくして聖賢となりしものは幾人もある。
 因て私は此の奇蹟と云ふに対しては必らずしも之を一々に抹殺することに及ばず、又左程に不思議がるには足らない。たゞ後人の仮託に係はるものゝみを除外して見れば足ると思ふのみである。次に祖母岑夫人が夢に雲中より嬰児を授かつたと見て夢醒たる時、先生恰も生れられたるにより因て雲と命名し楼を瑞雲楼と云ふとあるは、私は頗る是れは其楼名よりして附随して起りたる誤伝には非るかを疑ふと雖も、夢に証拠はなければ訂正もならない、要するに如此は要するに其は何も嘗て先生の軽重をなすに足るものではない。其五歳までも言はざりしは事実でもあらうが、そこに神僧が出合して曰く可惜名字道破と、因て今名守仁に改めたればすくよく言はれだしたとあるに至つては、私は試みに之を詰らんと欲す、其児が雲中より授りたる雲と之をゆふてどうでわるいか、先生固り守仁の人として生れたるにより守仁と命じたるは当然なるも、其道破は亦己に甚し、此れ畢竟斉東野人の談にして仮託顕然、全く意義をすらなさないものであるが、然るに諸本年譜中皆之を収めて殊に先生行状は黄久庵の手筆に成るも亦同じく取りて疑はざるは何ぞや、実に怪しむべきの至である。
十七年。辛丑。先生十歳。云々。
十八年。壬寅。先生十一歳。云々。
 昨年に先生の父竜山公が進士第一甲第一人に挙げられて、俸養も得る身分となられたので、祖父竹軒公が先生をも携て上京せられたるが、其途中に金山寺の勝景を賞せられたる時、先生其座中に於て詩を作り大に其座中の客を驚かされたるは、其詩共に年譜に在る通り(就中蔽月山房の分は、余りに露骨に過ぎて、左程の傑作ではないが、)其詩が余りに美事なるにより、是は先生の少作でもあるまいかを疑ふものもあるけれども、私は別書に
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載する同じく、先生が幼時の詩を知るがゆえに更に此の年譜中のものを疑はず、別書は褚人獲堅瓠集にある様子。私も未だ其原集をば見ざるも世に全く其詩を知るものなければ左に録す。先生幼時余に象棋に耽らるゝので竜山公が怒られて遂に其象棋を取挙げ河中に投ぜられたる時に先生が作られたるとあれば、先生は余程の幼時なることは推して知るべし。
  象棋終日楽悠々。苦被厳親一且尤。兵卒堕河皆不救。将軍溺水一斉休。馬行千里随波去。象入三川逐浪游。(或作浮)咆哮一声天地震忽然驚起臥竜愁。
 象棋に耽て親に叱られるの時に、此程の詩が出来とせば実に不可思議驚くべきの天才である。
 猶其竜山公も中々の豪い人で、孝宗の朝には日講官となり、後には吏部尚書に至り、学者にして顕官、性又剛方、実に豪い、若し後に陽明先生の興らねば、竜山公で已に王氏は世に顕はれてをるのである。竜山公の事蹟には伝ふべきことが随分あるも、私は猶別に他日を待つて悉しく述ぶる時あるべし。
 猶此には先生が人相見に逢ふたることがある。おもしろき話にて各書とも収めてあるも、私はこんなことも先生伝中にことことしく入るゝ事にも及ばないとおもふ。但先生が塾師に答へて天下第一等の事とは、恐らくは聖人となる事であらふといへる一件、是は本統に先生の言に相違あるまい。然ども先生に後来の成蹟がなければ、一時の大言壮語は誰でもする、我等は唯其先生の精神が続いたことに感ずるのである。
二十年。甲辰。先生十三歳。云々。
 先生はこれで継母にかゝることゝなる、そこで先生の継母に関する逸話がある。継母は初め先生に余りに其温情をよせなかつたので、先生が巫媼と謀り其実母の死霊を巫媼に憑りたるかの如くになしてさんざんに其継母のあぶらをとりて、慚汗背を湿をなすに至らしめて遂に性行を一変せしめたる事、出身靖乱録に出づ。因て世には此を先生を毀るの一材料として曰く、其母を導きて善にいるゝはよし然ども先生の遣口は権謀である。此れが畢竟従来陽明学に権謀詐術覇道の風味ある所以であると、今諸本年譜並に其事を載せざるは、蓋し其故でもあらうか。然ども予は思ふ。此事は先生幼時の事、固りそれは其祖の王覧並び虞帝などの行事には及ぶべくも非ずと雖も謀略によりて人を道に納るゝは必らずしも深く咎むるには当るまい殊に先生は固り幼時である。諱むに足らず。先生学問熟後に正によく虞舜の心を説出し来る。
二十二年。丙午。先生十五歳。云々。
 此時明氏の世代は、既に中葉を過ぎ、各所とも随分騒々しくなるの姿があるにより、先生は深く其心を武事に注ぎ、居庸関などにをる老将を尋ね、兵法の事を詢ひ、健児に伍して騎射の術までをも講究せしは、さもあるべし。然とも年譜行状共に石和尚劉千金の乱によるとせるものは、後に毛西河の議ありて云ふ、石和尚劉千金の乱は共に成化二年に在つて、此時先生は未だ生もせざるの時也と、西河
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は必らず拠る所あるべし。要するに先生は世乱を慮つて、此時盛に往時の名将馬援の如きものを夢想するに至たるは明なる事にして、夢中に伏波廟に詣して詩あり、而し又先生が晩年に偶々馬援廟に詣れたるとき、丁度幼時に夢中に見た廟貌に分毫違はざるを見て、始めて先生は我の世に在て此に至るも亦天意なるかを感じられて、再び又其所一詩を賦しをらるゝ事にて、其詩中にも現に
  四十年前夢裏詩。此行天定豈人為。
 との句あり、実に此こそ其奇蹟不可思議とも云はるるもので、先生亦自ら其疑を留めてをらるゝは最である。而して其の十五歳夢中謁馬伏波廟の詩は、此兪本年譜にはただ詩を賦せしと計りにて其詩を挙げさるも、他謝本年譜などには其辞を挙てある、面白き詩なれば挙た方がよろしい。
  巻甲帰来馬伏波。早年兵法鬢毛皤。雲埋銅柱雷轟折。六字題文尚不磨。
 と斯うである。巻甲帰来云々は馬援の事であるが丁度先生の晩年を予言せるものゝ如くである。六字の題文は何んと書きたるのか未だ調査が届かぬけれど、多くは大漢馬援至此とでも書いたのであらう日本往年越後長尾秋水が松前に至りて云ふ。
  海城寒析月生潮。波際連檣影動揺。従是二千三百里。北辰直下建銅標。
 と面白詩なれども、先生が十五歳夢中の詩の方が気格稍高し、此時に已に其遠征の念がありたのは不可思議の俊才である。
弘治元年。戊申。先生十七歳。云々。
 先生が夫人諸氏を娶られると云ふ、稍早婚に似たれども、先生は幼時より成人も及ばない気象あるものなれば、十七の結婚は先生として当然の如かりしならんか。折角夫人と合𢀷即ち夫婦杯をせらるるの時に当り、賓客皆満堂と云ふに、肝腎なる婿さんが見附らないと云ふので、大噪ぎとなりたるが、所が翌朝に至りて、先生は偶然に其近所の道観鉄柱宮に入りて道士の偉人と道を談し、それが面白さに婚儀の事をば忘却してをられた事が分りて大笑となり、なとの奇談もある。爾来先生は往々寺院などに道士の偉人に遇うてをらるゝは、思ふに当時道士の中に英霊の気風余程に盛んであつた様である而して仏者方でも何か高僧に知人が居る筈と思ひて、固り先生が度度遊ばれた寺院も分りをる事により、私は嘗て段々調べて見るに、其人なし、却て寺院名勝の境にて、道士に逢ふてをらるゝは変である。
 夫人諸氏の事は余り委しくは知られないけれども、後先生が叛王宸濠の変に遇ひしとき、先生は賊兵の追跡を恐れて急に身を脱して他舟に移らんとせるに、夫人の座に在るので聊か泥まるゝ色のありたりしかば、夫人懐中より短刀を出し先生に示し、私は已に此の一口の短刀を用意してをるゆえ、如何なる賊が来るとも些も懼る心はあらぬ、私は棄てゝおきて急に他に移られよと、自ら其決心を示して先生を励まされたる事もあるので、諸氏も亦中々豪らい夫人であつたらしい。
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二年。己酉。先生十八歳。云々。
 此年に先生が始めて婁一斎に謁せられて、聖人必可学而至との談を聞かれたと云ふは、先生の伝中に最も注目を要すべきの一である。固り先生は正に気鋭向学の時にて此後も種々の方面に移転し、識見も容易に定まらず、換言せば先生は猶煩悶を重ねられたるも、到頭は遂に尭舜孔孟の直系を継せらるゝに至るは実に此の一斎の片言が自然先生の精神を闇々裡に指導してをるのである、一斎陳白沙と共に呉康斎に学んで高弟と称す、先生が後道義の心友として有名なる湛甘泉は白沙の弟子、それが無意にして一斎より其精神を伝はりし先生に遇ふて大に先生の学に助けとなりしとは奇縁である。
   ○雑誌「陽明学」所収「陽明先生全書講読会」ノ記事ニハ誤植ト推定セラルルモノ多キモ、ココニハ訂正ヲ加ヘズ。且ツ引用漢文ニ加ヘタル返点ハ是ヲ省略セリ。後出ノ講読会記事ニツイテモ同ジ。


集会日時通知表 大正一一年(DK410061k-0003)
第41巻 p.200 ページ画像

集会日時通知表 大正一一年       (渋沢子爵家所蔵)
七月八日 土 午後七時 陽明全書講演会(兜町)


陽明学 第一五八号・第一二―一五頁 大正一一年一〇月 陽明先生全書講読会 正堂講述(DK410061k-0004)
第41巻 p.200-202 ページ画像

陽明学 第一五八号・第一二―一五頁 大正一一年一〇月
    陽明先生全書講読会
                      正堂講述
  第二席 年譜 自弘治五年壬子先生二十一歳 至十五年壬戌先生三十一歳
五年。壬子。先生二十一歳。云々。
六年。癸丑。先生二十二歳。云々。
 五年淅江郷試では程よく及第せられたるも、六年の南宮大試では落第であつた。此の郷試の時は先生孫燧・胡世寧と共に同じく及第せられたが、後に宸濠の乱胡公が先づ其奸を発し、孫公は其難に死し而して先生が之を平げられた、面白因縁ではあるも、闈中夜半二巨人ありて緋緑を衣て東西に立て三人好作事と大言せしなどを云ふは全く後人附託の妄伝と思はる。次年落第の時に李西涯が之を惜しみて来科状元の賦を命じたるが、先生即座に之を作られたりと、然ども先生は遂に来科も落第となり、漸く後六箇年にして二甲進士に挙られたるとせば、先生が落第を以て其意に介せられざるを見る。此は私が毎々書生などに談してきかせる所である。それに今日書生は丸で試験のための学問にして、一第を失ふて発病するなど、何ぞ其器の小なるや。
十年。丁巳。先生二十六歳。云々。
十一年。戊午。先生二十七歳。云々。
 こゝ数年間は先生は京師寓居の時にして、先生が当時の文豪李夢陽何景明などゝ共に古文辞の業を修められたるは正に此際で在る。此は亦所謂先生五溺の一なれば、先生の伝記中にもまた匆々に看過すべからざるものなるを今諸本年譜、先生が兵学を講究せられた、朱子格物の窮理法に苦心の余に発病となり転じて道家養生の学をなし遺世入山の意ありしとかを記して、先生の文学研究のあるを語らざるは大なる手落とおもふ。
十二年。己未。先生二十八歳。云々。
 - 第41巻 p.201 -ページ画像 
 是歳に先生は始て大試に及第して、工部に一職を得られた。偶々威寧伯王越の墓を造るの事あるて、役儀上先生は其役に監督せられたるものと雖も、其遺族より王越佩用の剣を贈りたることの夢と符したるにより、先生は余程悦ばれたと云ふので、私は王越の如何なる人物なるかを知度、嘗て少々は調て置たので、其逸事の一・二を挙ぐれば斯うである。
 史に称す、王越嘗て虜の三酋が分れて西路其処に冦するを知り、虜の家眷共に紅藍地にある以て、越兵を窃め両昼夜三百余里を行き襲ふて之を取る、虜帰れば帳中隻影を見ず、妻子畜産皆蕩尽して一もなし、因て相顧て慟哭し遂に遠く徙て、敢て王越が地方に近づき居らずと云ふ、又一日大雪越方に地鑢に坐して側に四妓を侍せしめ琵琶を弾じて酒を捧げしめをるの時に、一兵卒の虜を詷ひて帰るあり即ち召入れて虜事を談ぜしめしに、甚だ明晳なれば、越大いに喜て曰く、寒しと、手から金巵を把つて之に飲しめて其談を聞き、益々喜び、妓に琵琶を弾じて其酒を侑めしめ、即ち其金巵を併して之を与ふ、而して又其談を聞き、益々大いに喜ぶ、其妓中の最も姝麗なるものを指して曰く、汝之を欲するかと、遂に其妓を出して之に与へたり、自是して其卒至処に其死力を尽すと云ふ事もある。嘗て越夜虜帳を襲ふに風暴に起つて目を開く可らず、衆惑ふて帰んと欲す一老卒前んで曰く天我を賛くるなりと、越悟る、覚えず馬より下つて其卒を拝すと。此等の行事を見るに、越は固り尋常戦闘の将に非るなり、先生辺務八策も此年に作る、今先生集中亦其文を存す、此其最も読むべきものたるは言を待たず。
十三年。庚申。先生二十九歳。云々。
十四年。辛酉。先生三十歳。云々。
 先生は屡道士に逢ふて居らるゝ、此の蔡蓬頭と云ひ、地蔵洞の異人と云ひ、並に皆古今に卓絶せる豪傑と見える。此は九華山中化城寺での事なるが、先生が後に再び化城寺に遊ばれた時の詩が集中に在る。其中に会心人遠空余洞。識面僧来不記名。の句があるはどうも先生が闇にその地蔵洞の異人などを思はれたるものと察せらる。又靖乱録は正史には非れども、先生が地蔵洞で作られたる詩を載す。
  路入巌頭別有天。松毛一片自安眠。高談已散人何処。古洞荒涼散冷煙。
 先生の果して作かは知るに難きも、却々面白き詩で私は常に之を愛吟す。蔡蓬頭と云ひ地蔵洞の異人と云ひ、必らず是れ蓬頭跣足の賤民同然ものなるにも構はず、苟も道の取るべきありとせば先生はために百拝をも惜まれざるの具合は王越の風なしとせんや、而して其一たび官相あるを詰らるゝに及べば忽ちに大笑の別となる。蓋し先生は未だ世を棄る能はずして兵法の研究に其力を尽しゝも、翻つて世の穢悪を思へば世外超逸の心もあり、其実は当時先生の精神は未だ帰著の処なく換言せば即ち其煩悶、凡そ此各種の観念が薫蒸して先生は遂に其竜場の一悟に到達されたものと見て宜しい。
十五年。壬戌。先生三十一歳。云々、
 先生が陽明洞に籠り居りて神仙導引の術を修められ、遂には友人王
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思輿の来るをも前知せることの奇蹟もあるに至るも、後悟て曰く、此簸弄精魄非道也と、此れが先生がまた正学に復るの端となりてをる。而して先生の号も此に始る、洞と云ふも洞穴ではない。図画に遺るのを見ると矢張風景佳処に小斎を構へてある。全体先生には陽明洞が三所ある。余二所は先生が名けられたるものである。其竜場にあるは陽明小洞と称す、此は真の洞穴即是先生悟道の処。南贛で竜南回軍の途次に王石巌双洞の絶奇を愛し、改めて陽明別洞の名を附し再度もそこに遊ばれた。此れは洞穴もあるらしいも重に風景の賞玩にある。修練をして前知せるなどは何も不思議はない、精神を統一して虚静の境に入れば誰れでも出来る、昔伊川先生が某所に前知を能くする隠者ありと聞きて訪ふて見られたる揚句に、さして賢者と云ふ程の人物でもない唯是虚静なるのみと云はれたが、誠然り現今も透視眼などゝて豪らげな振りをしてをるも亦其前知者流であるが、中には其人物を見るとさんざんのものがおほい。此其学を以て自愚にして人を愚するに過ぎず、到底それで人事の変に当り、戡乱反正の功を収めて、天下国家の平治を開くことが出来るものではない、本統の大人物の心は単に虚静許りでは学べない、先生が之を簸弄精神すと勘破せられたる所に、先生の偉器たる所がほのめいてをる。顧ふに王司輿も亦先生と共に聖賢の正学に入つたものと見えて明儒学案中には陽明先生に附して其伝を立てゝてある。陽明先生が南贛に趣かるゝの時に、司輿は其門人に謂ふて曰く陽明此行必立事功と、或其故を問へば、曰く、吾触之不動とあるが、之を見ても尋常一様の人物に非ることもよく知れる。


集会日時通知表 大正一一年(DK410061k-0005)
第41巻 p.202 ページ画像

集会日時通知表 大正一一年       (渋沢子爵家所蔵)
十一月廿二日 土 午後 陽明全書講演会


陽明学 第一六一号・第九―一四頁 大正一二年一月 陽明先生全書講読会(離誌第百五十八号講義欄中の続き) (十一月二十二日開会)正堂講述(DK410061k-0006)
第41巻 p.202-206 ページ画像

陽明学 第一六一号・第九―一四頁 大正一二年一月
    陽明先生全書講読会(離誌第百五十八号講義欄中の続き)
     (十一月二十二日開会) 正堂講述
  第三席(自弘治十七年甲子先生三十三歳至正徳元年丙寅先生三十五歳)
十七年。甲子。先生三十三歳。云々。
 此の歳の秋、先生は山東の郷試に臨まれて、考武官となられたことがある。これを全書謝本に見ると、斯う云ふてある。巡按監察御史陸、聘主郷試々録皆出先生手筆云々録出人占先生経世之学と斯うある。
 そこで私は嘗て其先生の手筆たる山東郷試録なるものを見るを欲したるも、通行全書中には皆其の録を載せず、然るに往年古版の謝本陽明先生全書を見るに、新版全書と其の紙数の積量稍々異なるを疑ひたる事ありて、校訂を致したるに。二本共に其目録に何等の差別もなし。因て更に一々の紙を追て取調をせしに、所謂山東郷試録の特に其古版謝本全書中にあるを見認たり。私は初め山東郷試録を通行全書中に見当らず、而してたゞ山東郷試録序の一篇あるを見て、所謂人占先生経世之学と云ふも、序の事である。縦令試録を留るも
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必らず応試者の文なれば、それで先生の学が占せらるものではないと思ひしも、さりとはまた其文中所説の余り淡白にして、未だ其の占先生経世之学とある程にもなく、之れ果して其の何の指所なるかを疑へり、私は既に其の郷試録を得て、且又之を写し。爾来日夜私の案上に置き、反覆熟読して、然る後に正に信ずこれが果して先生経世の学が見えるとは即ち此の物なると。之れ併し乍ら、私は十余年の苦心研究を費しましたが、今世間は全く此の書を知るものなきにより、且は吾党同志のため、玆に先づ其の目録を示すべし。
      山東郷試録目録
  (四書三題)
(一)所謂大臣以道事君。不可則止。(論語先進篇孔子季子然に答へし中の語)
(二)斎明盛服。非礼不動。所以脩身也。(中庸、凡為天下国家有九経、曰修身也尊賢也云々中の語)
(三)禹思天下有溺者。由己溺之也。稷思天下有飢者。由己飢之也。(孟子離婁篇中の語)
  (易二題)
(一)先天而天弗違。後天而奉天時。(周易文書伝中の語)
(二)河出図。洛出書。聖人則之。(周易繋辞上伝中の語)
  (書二題)
 (一)王懋昭大徳。建中干民。以義制事。以礼制心。垂裕後昆。予聞曰。能得師者王。(書商書仲虺之篇中語)
 (二)継自今立政。其勿以倹人。其惟吉士。(書周立政篇中語)
  (詩二題)
(一)不遑啓居。玁狁之故。(詩小雅采薇篇中語)
(二)孔曼且碩。万民是若。(詩魯頌閟宮篇中語)
  (春秋二題)
(一)楚子入陳。楚子囲鄭。晋荀林父帥師。及楚子戦干邲。晋師敗績楚子減蕭。晋人宋人衛人曹人。同盟于清丘。(春秋宜公十二年中事)
(二)楚子、蔡侯、陳侯、許男、頓子、沈子、徐人、越人。伐呉。(春秋昭公五年中事)
  (礼二題)
(一)君子慎其所以与人者。(礼記礼器篇中語)
(二)心好之身心安之君好之民必欲之。(礼記緇衣篇中語)
  (論一題)
 人君之心惟在所養論。
  (表一題)
 擬唐張九齢上千秋金鑑録表。
  (策問)
 策五道。
 先づ右之通りであるが、通じて之を察するに、先生は四書五経中より、凡そ十三箇の題を選出して、応試者に経義を課し。別に論表各一と、五箇の策問を発したるものにして。経義と雖も、衆多格言中より、特に経世の義を説くに便あるの題を選び。策問に至りては、勿論明代当時の急務を問ふ事は、成程当時識者か視て覘先生経世之学ともゆひし筈なるも。然れども先生の選ぶは、題と問ととせば、
 - 第41巻 p.204 -ページ画像 
甚だ以て物足らぬ心地もする。而して今此の郷試録は一々に皆其の答案文の一箇つゞを以て編成するものは、怪訝の至りである。それが諸本全書中に其の録を収めず、而して古版謝本は之を収むるも亦其の目録を立てざるものが。於是乎私は多年反覆玩味して、之れが必らず必らず先生の筆に成るものなるを断定するに至りましたる所以は蓋し其の答案文が先生に非らざれば作り得べからざるの筆力あるを信ずるは勿論、且つ顧みて先生高弟王竜渓の選述に係る陽明文選中には郷試録中より策五道を抄出して、殊に策は其の問答共皆其の全文を出し、而して鐘伯敬の盛に其の批評讚辞を下しをるを見るに皆其の答案の所であれば、何ぞ応試諸生の文にしてかゝる誤解のあるべきや。私は明治当時の制度を詳にせざれども、此の定めで先生の如き考試官は、一々に其の採用上の標準を示すがために、自ら其の文を作り及落考試の公平を示したるものなるべし。されば先生全書中郷試録は亦決して欠く可からざるものと思ふ。猶其の文に就きても一々評論を試度き事もありしも、事頗る長時間に亘る事となるべければ、他日を期すことゝ致します。
十八年。乙丑。先生三十四歳。云々。
 此歳に、先生が始めて翰林庶吉士湛甘泉と相見て、意気投合の余、遂に共に深交を締結し、共に聖学を講明する事となりしは、大いに我等後学の注目せねばならぬ事である。全体先生は十五六の時より諸種の学問に没頭転遷して、熱烈なる研究を継続し、所謂五溺たる任侠・兵事・文学・道家・仏氏などに泛濫せしも。此の両年前よりは、先生も漸く其の従前雑学の非を悟り、一意其の志を聖学の講明に決したるが、時恰好し、先生第一の益友甘泉を得られしものである。
 湛甘泉、初名は雨、字は民沢。後名を若水。字は原明と改む。学を陳白沙に受けて其の高弟となる。故に白沙集中、甘泉に与へたる詩文は、皆雨若くは民沢と記す。白沙の学は固り程朱を以て宗となすものと雖も、極めて宋元末学の弊を踏まず、別に戸牖を啓き、隠然陽明先生の先駆を為したるかの感あり。先生が嘗て婁一斉の説を聞きて所感ありし事、前席に申したる通り。一斉は白沙と同じく呉康斉に学びたるものなれば、一斉の白沙とは実に同門の学友とも謂ふべきものなり。さすれば今や一斉に因縁ある先生が、無意にして、白沙の高弟子甘泉と相遇ふは、傾蓋直ちに刎頸の心交となるは奇縁ではなく寧ろ当然の結果である。但先生と甘泉は其の性質已に各別にして、両家入学の径路も亦異るなり。甘泉は最初に自得する所ありて、嘗て随処体認天理の説を挙て白沙に就正せしに、白沙極めて之れを激賞して曰く、此則所謂参前倚衡(論語孔子仲弓を称するの語)之学也と、深く之を允許せしかば、甘泉は遂に之を立て其の学の宗旨となし、以て一生を貫徹し、外に岐路は一度も入らざることは、大いに又陽明先生の学の師伝によらず、群言諸乱の間に研鑽して、遂に其の百氏を勘破して、聖学に入るものと異なり。当時今に至る迄王湛二家の学は全く同一の如く見るも、最も其の大義は分毫の差もなきも、仔細に見れば其の間猶直截迂曲の別は免かれず、当時先生同友は後来
 - 第41巻 p.205 -ページ画像 
皆先生の門下となるも、独り甘泉は終身友位を以て自居は其故で、何もそれで甘泉が偉いと云ふにも非らず、又傲と云ふにも非らず亦自ら其の所である。之れ併しかゝる性質もちがいたる心友が相切磋するは非常の洪益あるものにして、先生の甘泉が益を得られしは蓋し莫大と思はる。私は嘗て甘泉が楊子学弁を著はしたるを見るに、甘泉は陽明先生が頗ぶる楊慈湖無意の悪説に溺れてをらるゝがために、某の弁をなしたるかの如き事をいふてあつたと記憶す。然るに伝習録中に先生が慈湖を論ぜるには云ふ、慈湖不為無見。又著在無声無臭上見了。と先生何ぞ慈湖に溺れん。然れども、先生は甘泉の弁に因て悟入を得しものなる事明白也。後先生の墓表は甘泉実に其の筆を執れり、而して云ふ、非我孰銘之者と、信哉。
正徳元年。丙寅。先生三十五歳。云々。
 正徳元年は、武宗即位改元の年にして、又先生の生涯行履に於て一劃截をなしてをると云ふは、先生が南京科道即ち時の諫官戴銑蒲彦徽の諫により下獄せるを拯ふを抗疏せしに、忽ち武宗及び其の権姦劉瑾の怒に触れて、遂に貴洲竜場駅駅丞に謫せられたる事である。此の武宗と云ふは先生が世に立つて事に処して居らるゝ時の天子にして因て先生の事蹟を研究するには、武宗を知らねばならぬ必要がある。それで私はこゝで少々武宗を申しておきたいと思ふ。武宗の父皇孝宗は、明朝記事本末にも孝治治体と称して、明朝屈指の賢君にして、武宗も東宮にあるときは、講学に親しみ容貌端厳、記憶極めて強く。其の孝宗の弘治四年辛亥九月二十四日を以て生れたので生辰の十二支が申酉戌亥と相聯でをると云ふので、尤もそれは逆に相聯るならんも、孝宗も群下も目を属してをつたかの如くに、武宗外記と云ふものにある。此の外記は清儒毛奇齢の著にして、此の書も殊に陽明先生研究の余に著したるものなるべければ、武宗の事は随分無忌憚かいてあるが。其の書を見ても、武宗の東宮時代は何等の過失あるを見ず。但其の武事を好むの気風はあるも、夫れは孝宗も安に危を忘れざるは寧ろ善き事として、さして禁止もせなかつたとある。然るに即位の時正に十五歳、随て大婚も挙行せられたる事となりたるが。武宗は最早上に厳なるべき、父皇もなき事となり。丁度そこに狎親せらるゝ宦者劉瑾を始として凡そ其の類のもの八人称して八党となし、日夜に其の左右に附随して、遊嬉に耽ると云ふ様に至り、さんざんのものとなられたるも、元来は武宗も一向愚鈍の人主にはあらざりしが如し。古昔に其の人を求むれば、先は秦皇漢武とも謂ふ流派のものなるが如し。さてさうなると孝宗の臨終に顧命を受けたる大臣大学士劉健謝遷の如きは、諤々の気を帯び、正義凜然の士なるを以て。極めて彼の宦者八党等の武宗を誘惑するを憤り、上疏し、此の際断んじて八党等を黜けて法に処し、永く禍源を断つことを乞ふた。之には同じく宦者中にも司礼大監王岳と云ふ八党の組にも入らず、而も宦官中にて大監などとして権職に居る、これが九卿諸臣に同意して其含を以て中より、武宗へ申込たる事によりて、武宗も遂に其の請を允可し、そこで明朝に於て詔旨を発して以て八党のものを捕縛して罪を正さうと云ふことになりたる処、
 - 第41巻 p.206 -ページ画像 
其の謀が偶漏れて八党の耳に入りたり。八党中劉瑾は殊に奸智のあるものにして、之を聞き最早一時も猶予ならずとなし、夜八党と共に武宗の所に至り。泣訴へて云ふ、陛下は何故臣を殺す、臣等は、唯陛下の命を奉じて忠順服従する許り、狗馬鷹犬御用に足る様にしたとて、何も罪でもあるまい、全体王岳等は平生陛下のために何ぞ一つ献じたものすらなきに、却て外間としめし合して噪ぎ立つは不都合である、元来岳がわるいのであると、斯う武宗に泣付いたは、此れ所謂膚受之訴である。武宗忽ち色動き岳を捕ふるを許す、時已に夜、即座劉瑾に命じ入て司礼監の職を掌らしめ、団営に提督とし禁中禁営の重職共に瑾の手に帰し、其他内外要職皆八党の味方たるものを任用することゝなり、火急命を伝へて岳等を黜けて之れを逐ふことゝなるは、皆一夜中に於て悉く之れを断行せり、明朝諸大臣は全く知らず闕に伏して詔旨也。大臣等最早事の如何ともすべからざるを知り、各々上疏却を求め瑾又詔を矯めて、劉健謝遷諸人に致任を命ずることとなれり。劉瑾已に国の大柄を得て、蓋し最早寧ろ徹底の悪をなすに若かずとせるが、苟も諫むるものあれば皆武宗の怒に触るゝ様に仕向け、内は君意に迎合し外深文を以て其の已に異るものを懲治するに至り。最後に南京科道戴銑等の諫となり、而して先生の之れを拯うて上疏せしが、又武宗及び瑾の怒を買つて、竜揚駅の貶謫となるもの也。丁度此の具合は東漢末造の際、竇武陳蕃等諸大臣の宦官曹節輩を誅せんとし、唐文宗の朝に鄭注李訓が悉く宦者仇士良等を誅せんとして、事を謀る密ならず、為めに却て倒に彼等の乗ずるところとなるものゝ如し。抑も亦悪を悪む厳に過ぎ、窮鼠却て猫を噛むの禍に罹りたるものか。顧に当時孝宗顧命の大臣の如き誠忠義憤余ありて、妙謀智略或は足らず、武宗と雖も其の初猶拯ふ可きの機あり。又其の外記中の一節に斯ういふ事もある。
  上遂自瓜州。南渡鎮江。幸致仕大学士楊一清第。次日再幸。入書室。命一清検諸書進御。因問文献通考是佳書。一清対曰。有事実有議論。誠如皇言。問幾何冊。対曰。六十冊。問此間更有多干此者乎。対曰。冊府元亀校多凡一百二冊。命倶取以進。又明日飲一清第。楽作。上索筆製詩十章賜一清。命一清和之。一清呈詩。上覧畢。為易数字。是日一清有所献。上大悦。
 と、之れに視ると武宗巡遊は所謂師行而糧食民乃作慝ものにして、全く喪心狂気の沙汰とも謂ふべきの行事許りを続けをるが中にも、楊一清の宅に幸し、書を求め詩を賦しなどして、君臣恋々として別るゝに忍びざるの情あるは、奇とすべし。一清は嘗て大学士となり賢宰相と称せられ、陽明先生の先考竜山翁の墓誌銘は実に一清の執筆に成る。武宗にしてかゝる人物に意あるは、武宗は元是英材有為の質なるを知る。然るを最初任用の偶々其の人を誤りしより、遂に其の左右前後は皆群小の盤拠する所となるに至りては、武宗一時良心の発ありと雖も、且つ誰と共にか善事をなし得んや、惜哉。


陽明学 第一六一号・第八頁 大正一二年一月 陽明先生全集講読会社告(DK410061k-0007)
第41巻 p.206-207 ページ画像

陽明学 第一六一号・第八頁 大正一二年一月
    陽明先生全集講読会社告
 - 第41巻 p.207 -ページ画像 
右講読会は以後毎月の第一土曜の夕刻より、日本橋区兜町二渋沢事務所に開事に定め申候、最来年一月丈は第二土曜とする都合に御座候へば、予じめ御承知置可被下候
 尚其前御通知も可致積には候とも、通知漏なき様毎回通知御希望御申込を要し申候也


集会日時通知表 大正一一年(DK410061k-0008)
第41巻 p.207 ページ画像

集会日時通知表 大正一一年 (渋沢子爵家所蔵)
十二月二日 土 午後六時 陽明全書講読会(兜町)


陽明学 第一六二号・第二―一五頁 大正一二年二月 陽明先生全書講義(承前)(DK410061k-0009)
第41巻 p.207-210 ページ画像

陽明学 第一六二号・第二―一五頁 大正一二年二月
    陽明先生全書講義(承前)
      十二月二日日本橋区兜町渋沢事務所にて講読会 正堂講述
  第四席(年譜正徳二年丁卯先生三十六歳)
二年丁卯。先生三十六歳。云々。
 是歳の夏、先生は謫所の貴州竜場駅に赴かるゝ途中、銭塘に迄で至られたる時に権奸劉瑾より遣したる刺客に尾行せられたるの難事あり、先生自ら先づ其事を気附かれたるも免るまじきを度り、其所の江中に投入して死に就きたるが如くに装ひて難を免かれたるものである。絶命の詩なども留めてある。此の年譜には兪謝両本共に其詩を挙げず、先生集中も亦其作を収めざるは擬製による、然ども此は確に先生の手に成たるものと思ふ、即ち先生の擬製にして、他人の擬製には非らざるべし、靖乱録には其詩を載してある。
 学道無成歳月虗。天乎至此欲何如。生曾許国慙無補。死不忘親恨有余。自信孤忠懸日月。豈論遺骨葬江魚。百年臣子悲何極。夜々江濤泣子胥。
と是である。最も此時の作は二首であるが今其一を録す。明鑑易知録中にも、此詩の末二句を挙て、次に云ふ、此時淅江藩県も及び郡守楊孟瑛なども皆其死を信じて弔祭を江上に設けなどなし、先生家人も亦為に喪服を着けたりと。靖乱録中の詩は一々先生の作とも見えぬも、唯此作は先生の作に相違なきに非ればいかでか人を動得ん実に忠臣孝子臨終決死の情を写したる名篇である。但末句江濤の字を靖乱録には江声に作るも、是は昔時より所謂子胥濤の事を意味せるものゆゑ、予は易知録によりて江濤を取る。
さて先生は手際よく其難を脱して密に商船を附して江中に逃れ出られたるも、偶颶風の大に起るに逢ひ、吹れて閩界に至り、やつとの事で陸に登り、山中を狂奔する数十里にして遂に野廟虎穴の上にあるものに宿し、半夜虎吼を聞て熟睡しておられたとか、翌朝寺に入りて意外にも嘗て先生が鉄柱宮に於て相識たる道士に逢ひて、道士の詩もある。此も今靖乱録によりて、其全篇を挙れば斯うである。
 二十年前己識君。今来消息我先聞。君将性命軽毫髪。誰把綱常重一分。寰海已知誇聖徳。皇天終不喪斯文。英雄自古多磨折。好払青萍建大勲。
青萍は剣名である。於是先生は遂に道士と共に天下の事を論じ、出処進退の義に及びて、先生は又道士の説に従ひ、間道より武夷など
 - 第41巻 p.208 -ページ画像 
をも経過して返り、翻陽より更に其父竜山公を南京に省して、十二月に至りて始て其謫所たる竜場駅に赴く事とせりとあるは、頗る亦変幻恍惚として稍夢中の事を談するが如きは、大に後生読者の疑を招くこと多し。
道士にして天下の事を論するは不思議ではあるまい。古来道士中には陳希夷の如き豪傑もありて、愈世の乱離を憤慨して我に非れば孰が之を拯ふものぞとて、山中よりそろそろ出かけたる途中に宋芸祖か天下となりたると聞て、彼が出たれば天下定る、我の労はいらぬ事也とて因て大笑、馬上より落ちたる事あり。所謂携得琴書帰旧院野花啼鳥一般春。と是れなり。鉄柱宮の道士が兵談などなしたれとは怪むことはなきも、二十年前の京師鉄柱宮に於て相識るものが二十年後の今日閩界窮山中に来て待つて居つたは変である、詩は中々名篇で、陽明先生の詩風がある。
又此間に於て先生が或寺院に遊びし時の名高き逸話がある。私はそれが何書にある事を知らず、先生史伝には固りなし、疑敷思ひおりたるが、後三浦梅園の詩轍に此事を載せておるを見るに云ふ、先年即非録を見侍しに王陽明一日山寺に遊び、其院の封鎖甚固きあり、陽明之を開んと欲す、寺僧此中定僧あり閉ること已に五十年、開く可からずと云、陽明聞ず、発ひて見るに、龕中の僧貌酷陽明に肖たり、而して壁間に偈を題して、曰く。
 五十年前王守仁。開門原是閉門人。精霊剥尽還帰復。始信禅門不壊身。
五十年といへば閉門原是開門人と云べし、開門原是閉門人と云はゞ五十年後と云べし、倉卒の間定僧も平側に置泥まれたりと見ゆと梅園も此事は疑且怪みたるものと見え何とか嘲弄の口気もて書たり。
此れは必らず其即非録が牽強的構造談に相違なく、我輩は亦唯好事的に調へおくの事迄なるも、全体此時の事は総て奇怪疑ふべき事のみおゝし。
因之て清儒毛奇齢などは特に王文成伝本を作りて云ふ、
 時径行之竜場。而譜状乃尽情誑誕。挙凡遇仙遇仏。皆挙摭之干此二十年前三十年後。開関閉関随意胡乱。亦思行文説事。倶有理路淅江一帯水与福建武夷江西翻陽。倶隔仙霞常玉諸嶔嶠。而嶺表車筏。尤旦更番畳換。並身跨魚驚。可泛々而至其地者。即可通海。然断無越温台不駕商船得由海入閩之且陽明亦人耳。能出遊魂附鬼倀朝遊舟山暮飛鉄柱。何荒唐也。
此時先生は何事もなく唯一直に其謫所の竜場に赴きたるのである。其を且つ年譜ても、又は行状でも、筆を極めて言を尽し、凡そ神仏に遇ひてとうでありしとか、訳もない所謂二十年前云々とか五十年後云々とかの詩迄を収めて先生を化して全然妖怪魍魎者のものたらしめたるは遺憾のものである、暫らく百歩を譲りて、此れが文士の筆勢になる奇構としても、それには多少の理筋がなければならぬものなるも、先生の投江を装ひたるは淅江省の銭塘淅江での事なるにそれが福建省の武夷とも江西省の翻陽に至るには、其間多数の重嶺複嶂もあるので、如何に陽明先生が神通力あれはとて亦此れ人であ
 - 第41巻 p.209 -ページ画像 
るなれば、それがどうして妙に其遊魂を出して鬼神に伍して、朝に舟山に飛び暮に鉄柱にゆくなとの事が出来る筈はなく、文士の弄筆としても余の呆けた書かたであると云ふてあるので、殊に毛氏はそれで其途中刺客に逢れし一件をも抹殺しておるけれども、先生絶命の辞などは正史に伝へて、当時にも既にそれを信じて弔祭をもなしたものすらあるを、時代も遠き清儒の毛氏の一言にて、全くそれを無根の事となす事にはならないものである。
夫れ然れば、愈之を如何に吾等は断定するかの問題に入るのであるが、それは私は之を以て先生の親友湛甘泉の言に判断するより外はないと思ふ。甘泉の言は実に其陽明先生の墓表に明書してある。今其一節を抄すれば如左して、曰く。
 人或告曰陽明公至浙沈于江矣。至福建始起矣。登鼓山之詩曰。海上曾為滄水使。山中又拝武夷君。有徴矣。甘泉子聞之笑曰。此佯狂避世也。故為之作詩有云。佯狂欲浮海。説夢痴人前。及後数年会于滁。乃吐実。彼誇虚執有。為神奇者。烏足以知公者哉。
と、此に観ると、当時甘泉同志中にも、先生が江に沈てより福建に至られたるに相違なく、それには現に、武夷の鼓山に登られたる詩もあるが証拠であるとして、其奇を詫したるものもありしと見え、甘泉笑て、何もそんな事はない、それは皆陽明の自ら其蹤跡を晦して世難を避くるがための策略に出たるものにして、貴君などは亦同じく其策にのせられたるものであると。詩を作りて、此其所謂痴人前不可説夢ものであるとなした。後滁州に於て陽明に自分も親しく聞て見たれば果して陽明も実は其通りとの真音を吐たとある。然る上は凡そ此間に於る種々の伝説は元来其元陽明先生の疑を設けて身を晦ますの策略より出て、それには又後人の附加せし嘘もあらうが其始めは皆先生より出たるものと断定す。然るを猶後世に至りても即ち毛氏の如き紛々の論あるは、甘泉の所謂其笑ふべきものにして畢竟痴人の夢論を免がれざるべし。但其真虚相交へて伝播せしものして、其何部分まてが真か否かを見るに至りては猶頗ぶる困難である。今先生全集中にも、其の先生が鼓山の詩は立派に出ておるものなるも、而して先生が愈其鼓山に登られしかは猶疑問に属すべし。然も先生が此難を蒙ながらも悠々身を脱し間道其親に省して其実を告げて安堵せしめられたるなどは、先生として最もあるべきの事たるを信んず。当時先生は夏より謫所に向われて愈其所に著きしは、翌年春の三月とあれば、随分間道往来の出来ぬ事はなき筈である。然れば先生に不思議の神通もないが、寧ろ先生の策略の入神とも謂べきで、それに当時先生の知人までもだまされてしまつたのである当時唯甘泉がだまされなかつたの外、先生門弟徐愛がだまされなかつた。靖乱録に云。
 惟徐愛言。先生必不死。曰。天生陽明唱千古之絶学。豈如是而已乎。
徐愛は真に明知なる哉。愛字は日仁にして、先生の門に入る最も早く、年僅に三十三にして歿すと雖も、従来諸弟子及ぶ者あるなし、猶孔門に顔子あるが如と云ふ。又此の神秘詭怪なる蹤跡の当時より
 - 第41巻 p.210 -ページ画像 
世に伝はりしは皆陽明先生の策略の嘘に基くものなるは、後来高景逸も亦已に嘗て其の手品を看破なしたる一人である。


集会日時通知表 大正一二年(DK410061k-0010)
第41巻 p.210 ページ画像

集会日時通知表 大正一二年       (渋沢子爵家所蔵)
弐月三日 土 午後六時 陽明全書講読会(兜町)


陽明学 第一六三号・第八―一〇頁 大正一二年三月 陽明先生全書講義(承前)(DK410061k-0011)
第41巻 p.210-212 ページ画像

陽明学 第一六三号・第八―一〇頁 大正一二年三月
    陽明先生全書講義(承前)
      大正十二年二月三日(日本橋兜町渋沢事務所にて)講読会
   第五席(年譜正徳三年戊申先生三十七歳)正堂講述
三年戊申。先生三十七歳。云々。
 此章。兪謝両本共大略同様のものにて、先生謫居困難の情状は、今日我等想像以上のものあるが如し。先生全書中先生が此際に成る詩が沢山にある。それを見ても、亦其一斑を察すべし。因て今其数篇を左に抄すれば、斯うである。
      初至竜場。無所止。結草庵居之。
  草庵不及肩。旅倦体方適。開棘自成籬。土階漫無級。迎風亦粛疏
  漏雨易補緝。霊瀬嚮朝湍。深林凝暮色。群獠環聚訊。語龎意頗質
  鹿豕且同遊。玆類猶人属。汙樽映瓦豆。尽酔不知夕。緬懐黄唐化
  略称茅茨迹。
      始得東洞。遂改為陽明小洞天。三首、
  古洞閟荒僻。虚設疑相待。披莱歴風磴。移居快幽塏。営炊就巌竇
  放榻依石塁。穹窒旋薫塞。夷坎仍灑掃。巻帙漫堆列。樽壷動光彩
  夷居信何陋。恬淡意方在。豈不桑梓懐。素位聊無悔。
  童僕自相語。洞居頗不悪。人力免結構。天巧謝雕鑿。清泉傍厨落
  翠霧還成幕。我輩日嬉偃。主人自愉楽。雖無棨戟栄。且遠塵囂聒
  但恐霜雪凝。雲深衣絮薄。我聞莞爾笑。周慮愧爾言。上古処巣窟
  杯飲皆汙樽。沍極陽内伏。石穴多冬暄。豹隠文始沢。竜蟄身乃存
  豈無数尺榱。軽裘吾不温。邈矣箪瓢子。此心期与論。
      謫居糧絶。請学于農。将田南山。永言寄懐。
  謫居屡在陳。従者有慍見。小荒聊可田。銭鎛還易弁。夷俗多火耕
  倣習亦頗使。及玆春未深。数畝猶足佃。豈徒実口腹。且以理荒宴
  遺穂及鳥雀。貧寡発余羨。出耒在明晨。山寒易霜霰。
 此の数篇の詩を反覆諷誦せば、先生当日の様子が目に在る様に見える。如何に先生が貶謫の身なればとて、竜場駅丞が賤職なればとて苟も一職に任ずる官吏たるものにして、其が居住する草舎もなく、糧食もなき所を遣して顧みざる事は、言語に絶したる虐待である。先生は王氏大宗の閥族に生れ、先生父竜山公も顕官、先生も京師に相応の高位たりし身を以て。一旦罪譴によりたるとはゆふものゝ境遇の全く変つた所へ急転直下せるは殆んと常情の到底堪へ難き所なるにも拘らず、先生は頗る之を興味に考へてをらるゝ模様も、亦知らるゝ。
 靖乱録に拠れば、先生は僕従三人を携へて往かれたるものなれば、最初は其食料も携へて往かれたるものゝ如し。而し其居べきの小屋
 - 第41巻 p.211 -ページ画像 
もなきに及んで、草庵を結びたり、其東洞を見付けて其中に居住したり、糧絶に至りて荒地を買ふて、火田の耕作を試みたりなど、先生は皆其従者と共に其事に苦労せり。靖乱録に又云ふ、竜場地在貴州之西北万山叢棘中。蛇蚘成堆。魍魎昼見。瘴癘枯毒。苦不可言。夷人語言。又皆鴂舌難弁。居無宮室。惟累土為窟。寝息其中而巳と此皆実話に相違なきものにて、所謂東洞、即ち先生の改名陽明小洞天なるものも必是れ土著蛮民の棲棄たる旧穴居たるものたるを疑はず、先生は初めに仮に作られたる草庵も、到底ろくなものに非れば不便に苦しむの所。小洞を見て之に移り、先生は何も興味を以て之に当り、精神益々振ひて日に其中に端坐功夫を凝して、大発悟をせられたるも、従者は已に弱り果てゝ病となるに至るも、皆此時に在り。それより先生の徳が先づその蛮民の間に感孚し、諸夷が集りて助力し、竜岡書院何陋軒なども出来て、追々と諾生が他県より来りて、先生に従学するものもあるに至れり。後の先生門下の高弟に列したる、冀闇斎元享の如きも、先生に竜岡書院に学びたる中の一人である。
 先生此時の発悟を記する。兪謝年譜共に云、先生忽中夜大悟格物致知之旨。寤寐中若有人語之者。不覚呼躍と。此説大に其当を得たり蓋し先生竜場の発悟は大学格致、即ち知行合一の説にして、而して其良知の提唱は重に先生が五十以後宸濠の変に処せられたる以後に在るものである。最も大学致知を致知と解せらるゝは最初已に然と雖、良知の言も亦孟子に取ると雖、此時の発悟は、唯之を大学格物致知の旨と謂ふべくして、それを今直に之を孟子に附して説くは過当とおもはる。然るを毛氏の王文成伝本などには、先生が十七歳より孟子の言計りを思ひて、遂に此に至りて其説を悟るとして記しをるなどは、皆先生講学議論帰結の後を見て臆説せしものに過ぎず。而して靖乱録などは夜夢中に孟子に謁して其口授を得しものとまでに記てをるは、寧ろ笑ふべきの誣説である。但其両年譜共に云ふ、先生已に発悟の後、乃以黙記五経之言証之無不脗合。固著五経臆説とあるものに於ては、私は稍旧来其間に疑あり。今先生集中五経臆説序一篇を存す。而して其末に云、説凡四十六巻経各十、而礼之説尚多欠僅六巻と中々の大著と見ゆるも其著伝らず。今集中に只其十三条だけを存し、先生高弟銭緒山が先生歿後に偶先生廃稿中に此数条を得しものとしてある。僅々十三条にして春秋易詩に於ての説だけある。四十六巻は固り已に復読可からず、而して唯其十三条を見るだけでは到底充分の真相は分らぬ筈勿論と雖も、私は今其十三条に見ては、先生の所謂竜場発悟に於る大学致格の発揮と余りに相遠きものゝ感なき能はず。最も其筆は必らず先生の手勢を認るものあれば、因て予は此書が偶に先生竜場の時に成るを以て後の年譜を作るものゝ遂に之を以て先生悟道証明の一書と云ふものか。尚此一節は私は別に他日の研究を経て諸君に告ぐるの時あるべし。又先生此年の出来事中に、思州の守が人を遣して駅に至りし、先生を侮り諸夷が不平を起して其使を殴辱し、守が大に怒る事より、毛憲副が先生に禍福を諭し、先生に謝罪を勧めて、先生之に一書を裁答せしが
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遂にそれが守を慙服せしめたりし事あり。其書答毛憲副と題して現に先生集中にもあるものなるが、実に先生はかゝる窮境に少しも其心を動かさず、凛々正論を持し千古の下今に其書を読みても、尚幾多の人を感奮興起せしむるの力ある名文なり。先生此事謝本年譜には収めて之を載するも、兪本の略して載せざるは遺憾である、私は平生常に其文を誦し、又それには佐久間象山の酔時歌と題せる一詩もあり、私は又其詩をも共に常に誦して感奮するものである。因て試みに今其象山の作を左後に示す。近来世に象山は陽明学に非らずと謂るものおほし、象山自身も亦云、我学一斎特其文章のみと、然ども予が知人中現今象山が陽明先生全集に親筆書入せる評本を所持せるものあるを見る、最も其評は過半は一斎の評を写するものなれども亦已に丹鉛爛然なり。象山が陽明子を研究する此の如し、而して今又此詩を見れば象山の陽明子を慕ふも亦至る、何ぞ我の一斎に学ぶは文章のみとは謂ふや、英雄欺人の類に非らざるを得んや。
      佐久間象山、酔時歌。
  人欲加害已有取。少々害患心太苦。吾無取横罹寃。竄謫刀鋸裏亦安。陽明山人明快士。瘴毒魍魎一斎看。曾作書報毛憲副。言辞侃々不可干。屏居二月梅初発。対花斟酒興不竭。酔把王文読一過。白日瞳朧天地濶。


集会日時通知表 大正一二年(DK410061k-0012)
第41巻 p.212 ページ画像

集会日時通知表 大正一二年       (渋沢子爵家所蔵)
参月三日 土 午後六時 陽明全書講読会(兜町)


陽明学 第一六四号・第一六―一九頁 大正一二年四月 陽明先生全書講議(承前) 正堂講述(DK410061k-0013)
第41巻 p.212-215 ページ画像

陽明学 第一六四号・第一六―一九頁 大正一二年四月
    陽明先生全書講議(承前)
                      正堂講述
      三月三日(日本橋兜町渋沢事務所にて)講読会
  第六席(年譜 自正徳四年己巳先生三十八歳至七年壬申先生四十一歳)
 正徳四年己巳先生三十八歳の条下年譜、兪本には席元山の先生に対しての事を記する余りに過略。元山名は書、後に先生をは宜しく大用して必らず天子輔弼の任にすること当然たるべきと身を入れて推薦せしは亦此元山なれば、私は、此元山が先生と関係せし初めは今少しは詳叙しなければ、先生の学風も元山の精神も共に写得る事足らず。因て此の一節謝本を取る、今謝本年譜に見れば斯うである。
 始席元山書。提督学政。問朱陸同異之弁。先生不語朱陸之学。而告之以其所悟。書懐従而去。明日復来。挙知行本体。証之五経諸子。漸有省。往復数四。豁然大悟。謂聖人之学復覩於今日。朱陸異同各有得失。無事弁詰。求之吾性本自明也。遂与毛憲副。脩茸書院。身率貴陽諸生。以所事師礼事之。
此の元山は朱陸異同の弁を問ふたのを、先生は却て其所問朱陸の学をば語らずして而して、直ちに其自己悟る所のものを以て之に告げ、元山の猶それに疑あるに及んで、先生は更に告るに知行合一の本体を以てし、元山これに往復数回せる中に豁然として大悟し、聖人の真学問が再び今日に開けた。これは聖学の中興、我々を始として長い間世の
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学者は凡て盲者が闇夜の中を彷徨してをるが如きものであつたか、朱陸の論なとは余計の詮議、先生の告ざるは最千万と斯う云たとの事はそれが実に元山の深く先生の学に契入する所以にして、またそれが先生学の大根本で、今日吾等後学の最も深く其意味を了得せねばならぬ所である。蓋し先生が前年に於ける大発悟は即ち大学格物致知の事と云ふも、其実は亦唯其意味にして、朱晦庵かどうでも陸象山がどうでもよし、それは已に過去の昔人、骨朽て久し、何ぞ吾事に関係あらん所謂先づ自己の是非を論して、古人の是非を争ふ勿れ、我は先づ自己の猶非を脱するを計るの眼あらざるに、何ぞ余計の議論をするの用あらんと謂ふに在り。孟子にも、学者の患を、百姓が自己の田をば荒蕪に附して人の田を耕へすに譬へてある。藤樹先生が、諸生議論の親切ならざるを見ては、アーそれはまたまた淀船談になりた。我はそれを聞の暇はないと云ふて、おも屋に帰られをつたと云ふのも、亦唯其意味にして、大学格物致知と云ふも知行の合一と云ふも、更に余義なし蓋先生が最初元山に告ぐるに自己の事を以てし、其問ところの事を答へざるは即ち其大に之に答ふる所以である。此れ然し乍ら聖学入門第一義にして、道縁深きものに非らざれば気附得ざる所である、元山が称して聖学再び今日に開けたと絶叫したは最である。故に私は是非とも此事は先生年譜に出すことゝなしたいと思ふものである。
 五年庚午先生三十九歳で、先生は前先生と仇をなしたる劉瑾が改せられたので、先生も漸次向上の途となり、盧陵県の知県に陞られた。最も先生は竜場より盧陵へ向ふ途中常徳辰州を過られて、其嘗て教置し書生などが已に充分卓立の精神を奮つてをる様を見て、大に其心を慰められたと云ふ事がある。それも先生集中此歳に成たる書に与辰中諸生と云ふの一篇があるに見てもよくしれる。私は年譜中に此一事をも入る事になしたい。蓋し此の常徳辰州の諸生と云には冀闇斎がをる後に先生が叛王宸像が猶当時は其好学の虚名を飾つて、先生に講書に適当の書生でも遣して下されよと請ふた事がありし時に、先生は其機を利用し、特に諸生を遣し、陰に其講書に託して諭すに君臣の大義を以てして、幸よくは其宰王の叛計を未然に遏めんと試みたる事があつたが、其使命を授つたは此闇斎。最も其事成らず、闇斎は脱して帰る陽明先生の宸瞭を擒獲するとき娼嫉者の累を先生に及すを謀るありて先づ罪を闇斎に嫁し、闇斎を以て嘗て寧王に党せしものとなして、投獄の身となせしむ。其事のためで闇斎が其師の事にも粉骨砕身の労をなして、而も闇斎少しも屈せず、此時闇斎の妻をも逮問せしが妻君がこふ云た、吾夫は唯是平生師を敬し国を憂ふる事に厚く其他を知らざるものにして、それが賊に通することのあるべき筈はない、その上に吾夫の学は誠意正心の事を以て旨となし、平生閨門中夫婦袵席の間より天理に恥ざるを功夫する人物、それに何ぞそんな詰らぬ事を私などの前に申聞けますか、と言放ちたるにより聞者大愕て感心せしと云へり。実に王門諸子中第一節義凛然精神堅確の人物としては此人である其人である、又嘗て先生に竜場の時竜岡書院中に他の蛮民子弟と混じて従学せしも此人。是れが僅々一年半年の後に已に卓然として居りたるにより、先生は大に悦れた、如此先生伝中関係あるものなるを以て
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因て私は先生年譜中此一事をも加へ入れて置度と思ふのである。
 此の年冬十一月に、先生は入覲を以て京師に至り、興隆寺に寓居中始て黄宗賢と相見らるゝ事となつた、此は兪謝各年譜共に皆之を載するは最もの事である、宗賢号は久庵、実亦先生門中第一流の人物である。然し久庵最初此時より門人となるには非らず。丁度湛甘泉同様、共に皆友人の位である。此時王湛黄の三氏は訂盟講学の事となり、殆んど来往討論間日なしとゆふ有様で、固り三氏とも仕官中の人なれば其が屡々転職の勢もあるので、三氏はまた今の所謂運動経営の如く、種々極力引留策をしたものである。其中に先生の学は日の昇るが如く久庵も負けず劣らず段々修めたが、後十年を経て、久庵は先生の説を以て一々に信ずべきとなし、最早我は平然友位に居べきに非ずとなし改めて入門の礼を行ふて、こゝで始て門人と称した。或書に此事を載せて、後著語して曰く、可謂屈強と、十年間朝夕往来して居ながらも猶一層其学の根元まで見届て、始めて之を信んずるは、随分屈強のものである。陽明先生の歿後先生行状は久庵が書きて、墓表を甘泉が書いた、先生以外は何といふも、先づは甘泉・久庵に屈指するは其筈である。又先生歿後に、世間からは其遺子正臆の幼弱を侮りて迫害を加ふる勢あるにより、王竜渓などが心配して、当時久庵の勢位もあるを以て、久庵に王氏遺族を自宅に引受けて保護して貰ひ度事を相談に及びたるより、遂に竜渓が媒妁の形で黄王の婚約となりて王氏の遺族は一時引受たが、其婚約と云ふも、此時先生遺子王臆も久庵の娘も共に数歳計の幼夫婦であつたと云ふ奇談もある。
 六年辛未先生四十歳、其正月に先生は吏部験封主事となられた。此時方献夫は同し吏部で、郎中とせば、其先生の主事たるよりは寧ろ其位階が上で、蓋し其同局の長官であるにも拘らず、一旦先生と学論をせしより、其心大に服して、遂に先生に贄即ち束脩を呈して、入門の礼を行ひ門人となつた。此一つは、方献の志が俗流を抜いて、非常の人たるにはよるも、また先生の感化偉大の致す所ならずんばあらず、献夫字は叔賢、先生集中に先生が是歳に作られたる別方叔督序と云ふ一篇がある。之を見ると、叔賢の学が三変して後慨然として入聖の手筋になつて来た、因て其最初は先生と殆んど氷炭の如くに丸で意見が合はなかつたが、次は半合半離で、三変に至ては則ち沛然として全く先生と同趣となつた、而して其一変の度を経る毎に、叔賢の先生に対する心が変つて、遂には其位階も何も忘れて、先生を推して師と仰ぐに至つたとあつて、先生は之を無我の勇として、張横渠の虎比を撤せし時の精神に比て居られる。昔韓昌藜が師説を作つて、吾前に生て、其道を聞くが吾より先きなれば吾固り之を師とするが、若吾後に生ても、其道を聞くが吾より先きなれば、吾又従つて之を師とす、吾は道を師とするのである、道を学ぶには、貴賤に論なく、長幼に論なく、道のある所は師のある所と云ふて居るは、最の事であるが。但昌藜は自ら師になる積りで、李翺張籍などを門下生に見ておるも、李翺などよりは、吾友韓愈などゝ云ふてをるを見れば、中々昌藜を師と仰てはをらなかつた様で、それでは昌藜の師説も無用のものである。叔賢の如きは、それこそ真の虚心無我の勇とも謂ふべきである。
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 二月先生は会試の同考試官となられた。先生の考試官となられたは此れで二回。初めは山東の郷試で、所謂山東郷試録出でそれで天下識者は先生経済の学を窺ふたなどゝいふのであるが、当時取られたものの中にはさして高名のものはないかの様で、私は未だ誰あるを知らないが、今回の会試で、先生の取られたるものには南大吉が出た。大吉字は元善、号は瑞泉、後は遂に先生門下の高弟となり、伝習録の中巻は瑞泉の編輯して或る地方に刻したものである。先生集中元善に関する文数篇もある、何れも先生は盛に其人物を賞してをらるゝ、因て私は此所にも瑞泉が、先生に取られたる事を附記して置き度と思ふ心切也。
 たゞ此条下先生が始論晦庵象山之学とあるは、そは何に拠りていふものか、私は未だ其意を得ず。或は先生集中に先生の此歳に成る答徐成之書あるによるかなれども、先生の答徐之書にして聊も其言の朱陸に及ぶものは、即ち其徐に答へられたる第二書、嘉靖元年壬午の作である。而して壬午のものも矢張亦先生の言は、朱陸の学を論づと云ふよりも、寧ろ朱陸の是非をば論ぜずして自己の是非を論ずるが先着たるを論ぜらるゝものである。其意でも朱陸の論は論であるとせば、それは曩の竜場にて元山に告られたるを寧其始となすべきで、何も今年を始とは云へない。進退並に其拠なきものなれば、畢竟此一句は削つた方が却て宜しい。
 七年壬申先生四十一歳、南京太僕寺少卿に陞り、赴任途中の便に乗じて帰省せるとき、徐愛も亦同郷の人なるにより、自然同舟となりしが、此時徐愛は舟中先生の論学を聴きて筆記せるが、此が聊も彼の伝習録の濫触と云ふ事にて、今伝習録の首部がそれであるも、猶其書を見渡たるときは、伝習録中必らずしも一々其舟中計の筆記に限るものにもあらざるが如し。伝習録に就ては、私は別に嘗て著せる講義本あつて、既に発刊して世に行はるものもあるゆゑ、今こゝで一々は説かず。


集会日時通知表 大正一二年(DK410061k-0014)
第41巻 p.215 ページ画像

集会日時通知表 大正一二年      (渋沢子爵家所蔵)
四月七日 土 午後六時 陽明全書講読会(兜町)


陽明学 第一六五号・第一六―一九頁 大正一二年五月 陽明先生全書講義(承前)(DK410061k-0015)
第41巻 p.215-218 ページ画像

陽明学 第一六五号・第一六―一九頁 大正一二年五月
    陽明先生全書講義(承前)
      四月七日(第一土曜)講読会(会場、日本橋区兜町渋沢事務所)
  第七席 (年譜、正徳八年先生四十二歳同九年先生四十三歳まで、) 正堂講述
八年。癸酉。先生四十二歳。云々。
九年。甲戌。先生四十三歳。云々。
 兪謝両本共、右に就き八年冬十月至滁州、九年四月陞南京鴻臚寺卿とある。それに謝本に於ては、九年条下に先生在滁と云ふて、八年の十一月より九年四月先生が滁に居れた事と見るの外はない、けれども、私は、先生が自らの陳言たる給由の疏に、先生歴官日数の届かしてあるのを見て、兪謝両本の共に誤るを断定するものであります。給由疏は、先全書中にある先生の自書の文字なれば第一精確の
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ものである。今其書の要所を挙れば、斯うである。
  正徳七年十二月八日。蒙陞南京太僕寺少卿。正徳八年十月二十二日。到任。至正徳九年四月二十一日止。本日接到吏部箚付。蒙陞南京鴻臚寺卿。本月二十五日。到任。云々
 此に見ると先生が正徳八年十月到任と云ふは、南京の任地に至られたのである。蓋し先生は七年十二月に其陞職の命を受られたる所のその鴻臚寺卿たるの任所即ち南京に到られたるものにして、滁州に至られたるものに非らず、而して滁州の事は疏中に全く言及ず。又謝本には先生が滁に於て督馬政ともある。若し然れば亦是れ任官、疏中に是非あるべきの筈なるも、また其事に言及せず。私は因て思ふに、七年条下兪謝両本共に先生が十二月陞職の命に接せられたるは北京考功司中の時なるに因て、便道帰省と云事になつて、而して謝本には八年条下二月至越とある、越は即ち先生郷里、帰省の地。是より其年の十月に南京の任に至られたのであれば、其間に先生が滁に立寄られ、暫くは猶徜徉同志と山水名勝の地に遊ばれる事はさしてあるまじき訳ではない。馬政は必らず任官と云ふでもなく、先生に其来京の道すがら其馬政を見合して呉れよと云が如き、特別臨時命令なので、給由疏中に入らざるものかとおもふが、兎角其十月至滁は共に両年譜の誤である。
 而して、先生が此時門人と山水名勝の間に傲遊せられて、自然其師弟談笑相親しむの中に感発開悟する事のあらしめられたる具合は、此はまた先生の教育法とも見らるるものにして、一種独得のもので先生は一生かゝる法によりて生徒を引立られたものである。此が又大に彼の宋代諸道学先生などの、所謂頭巾風を脱却しておらるゝ所である。故に当時諸生は先生を慕ひ親しみ、情父子骨肉に勝つた。かゝる情態て集合するがゆゑに、先生の道の一時に勃興するは其筈である。玆に先生集中別滁陽諸友と云ふの名詩がある。謝本は此詩を其条下に挿入しておるは、大に読者の感発を生じて面白い。其詩に曰く
      滁陽別諸友
  滁之水。入江流。江潮日復来滁州。相思潮水。来往何時休。空相思。亦何益。欲慰相思情。不如崇令徳。堀地見泉水。随処無弗得何必駆馳為千里遠相即。君不見。尭羮。与舜牆。又不見。孔与蹠対面不相識。逆旅主人多慇懃。出門転盻成路人。
 此は滁陽に従遊なしおりし諸生が先生のこれより江を渡りて南京の任地に是非赴かれねばならぬと云ふので、烏衣と云ふ所迄見送りたるが如何にも情至り恋々として別るゝに忍びず、先生も亦急に其行舟に入ることにもならず、日暮に及びて猶散せざるより、先生は遂に此詩を作りて諸生の別て帰るを促されたのである。実に其深情が数句中に籠つておる。滁の水が海潮と往来する如く、相互の情の往来は際限なきものなるが、さう思ひて離るるに忍びずとしても、到底永久にかうしておることは出来ない、好し其相思の情を慰めるには令徳を崇ふするがましである。此れが我々の本心で、これを知つて慕ふのでなくば駄目である、令徳は地を掘りて泉を見る如く、ど
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こにても引出されて、即ち帰来力行有余師である。例へば、昔し舜が帝尭を慕ふて、其の祭壇に供せる羮や牆壁の間に、帝尭の音容の髣髴たるを見る、此は真に舜が尭の心を知りて慕はれるので、我々もさうありたい、若し相互に其心を知らざるに於ては、孔子と盗跖とが対座して居るようのもので、其身は如何に接触しておるも、其心天淵の遠である、即ち所謂同牀各夢、試に彼の旅館の主人を見ずや、其のお客に対しおるの時は、かたの如くの親切慇懃至らざるなきも、一たび其門外に送りだしたるのちは、丸で路人となりてしまう、其は相互の心が元来別であるので其筈なるも、我々の交情はさうなりてすまないと言ふが、其の大意で、先生の訓諭は最も至極であるが、諸生のその恋々たるの深情も亦最である。此れには孟子の一節を引合して見たい、孟子に孔門諸子の其師に於ける事を述て斯うある。
  昔者孔子歿。三年之外。門人治任将帰。入揖於子貢。相嚮而哭。皆失声然後帰。子貢反築室於場。独居三年然後帰。他日子夏子張子游。以有若似聖人。欲以所事孔子事之。疆曾子。曾子曰。不可。江漢以濯之。秋陽以暴之。皜々乎不可尚已。云々
 孔子歿後三年間は、蓋し昔人親死盧其墓の具合に心喪を墓所になして、離散せられなかつたのは、孔門高弟の人皆其の通りであつた様なれば、固り曾子も此の連中であつたには相違ない。子貢の如きは又其後三年、都合で六年も、墓所を離るゝ事が能はなかつた。そこで、追々日数を経るに随つて、先師の音容儀範も日増に遠くなるので、何となく先師の道も物淋しく感ぜらるゝにより、子夏・子張などの発議で、是は一つ友人有若が多少先師の風采もあるによりて、之を以て吾党の盟主に推して、おりおりは集会切磋して、一層先師の道を講明なしたいと云ふ事が始まつたのは、最もの事である。然るを、曾子が異議を唱へた。それでは有若で先師の代理が出来ると云事になる。折角聖人の道を講明する先きに、先師の道を卑く見るの弊が出る。弥々我々が先師の道を講明するには、是より共に大奮発をして、自親其躬で講明せねば駄目であるとの意である。丁度これは陽明先生の令徳を崇するに限るとの訓諭と其意同然である。成程墓所に幾年附随して居つたとて、墓石が物いふ筈もなき事ゆゑ、諸子が果して其師を慕ふには、其師の心を知る、即ち令徳を崇うする、実に陽明先生の教訓曾子の説が本統である。然ども、子夏・子張などの考案、王門滁陽諸子の其師に恋々たるも最である、要するに其師弟総ての深情に、私は窃に感服して已まない心が甚しいのである。私は顧て今天下の情態を見るに先生の所謂逆旅主人今の慇懃をみたやうなる交際をして、怪まざるものは沢山ある。又恋愛は神聖などゝ云ふ説もあるが、それはたゞ男女間の恋愛で、未だ其師に恋々たるものは殆んど鮮い、吾未見好徳如好色者とは、孔子の辞であれば、通常世態は古今一般であるとも思ふ。現に吾陽明学会でも勿論今此席に列せる諸子、猶其外にも篤学深情のものは随分其は沢山と信ずるも、然し未々多くの人来り出去るものものの中には、何だか陽明学などゝ云ふは変んな学、まあちよつと探りて見てやらう
 - 第41巻 p.218 -ページ画像 
位ゐにて来り、甚しきは何か悪口の材料にするものを盗んでやらうと云ふ考で来るものも鮮くないと思ふ。是等のものは、到底彼の旅館主人程の慇懃もないので、吾学の世に興らないのは、又其筈である。
 次に、九年条下に、兪本、是年始専以致良知訓学者とあるも、誤である。これには謝本序説に銭緒山の説が挙てある。
  徳供曰。良知之説。発於正徳辛巳年。蓋先生再罹寧藩之変張許之難。而学又一番証透。
 とある。此の辛巳は実に正徳十六年、先生五十歳。今之を九年甲戌先生四十三歳に係くるは大なる不当の事である。最も先生が良知を以て大学致知の知を解せしは竜場発悟以後は已然であるゆゑ、良知の言は先生も早くより之を口にしておらるゝも。其良知を押て、此学の骨髄、一語万説を尽すに足ると迄に思ひ込れたるは、実に先生の五十歳寧藩之変張許之難に罹られたる後に在ること、百口動すべからざるの鉄案である。其が必らず先生遭難以後に在ることは、私は其先生が大難に当りて処置せられたる処置の間に精考せば、何人と雖もなる程と首肯するに至るに相違はない、と確信するものである。然るを惜らくは悠々たる人世に多少学者先生が殆んど、一も其先生の苦心を知るものなくたゞたゞ一の学説として見る迄なるかを疑ふ、嗚呼惜哉。


集会日時通知表 大正一二年(DK410061k-0016)
第41巻 p.218 ページ画像

集会日時通知表 大正一二年        (渋沢子爵家所蔵)
五月五日 土 午後六時 陽明全書講読会(兜町)


陽明学 第一六六号・第一六―一九頁 大正一二年六月 陽明先生全書講義(承前) 正堂講述(DK410061k-0017)
第41巻 p.218-220 ページ画像

陽明学 第一六六号・第一六―一九頁 大正一二年六月
    陽明先生全書講義(承前)
                      正堂講述
      五月五日(第一土曜、日本橋区兜町渋沢事務所にて開く、)講読会
  第八席(年譜 自正徳十年乙亥先生四十四歳、至十一年丙子先生四十五歳)
正徳十年乙亥先生四十四歳云々条下。先生が三弟と共に子なきを以て其父竜山公の意により再従子の正憲を立て先生の養子とせる事あり。
先生同母としては、唯一妹即ち先生高弟子徐曰仁の妻たりしものゝある計にて、守倹以下三弟は共に其異母弟と云ふが中にも先生継母の腹に出たるは守文のみにて、余二人は共に庶腹の産たるに似たり。而して三弟中又守文が、殊に学を嗜みて先生に学たるかの如し。現に先生立志説は、三輪執斎も特に之を伝習録中巻の後に附刻し嘗て吉村斐山先生も之に拠りて其書の入学志殻を著しゝが如き、吾等初学に入徳の門を示す、先生全集中有数の文字なるを、而もそれが此守文のために作りたるものとせば、守文も尋常一様無学子弟に非るを知る。守文遺文雑誌陽明学第五十八号雑録欄姚江雑纂中にても載せてある。論学の書に非るも、また其文才が見られる。
嗣子正憲の事に就ては、先生集中、書正憲扇より嶺南寄正憲男及び寄正憲男手墨二巻、などありて下註中に云ふ。
 正憲字仲粛、師継子也。嘉靖丁亥師起征思田。正億方二齢。託家政
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于魏子廷豹。使飭家衆以字胤子。(胤子は正億を云ふ)託正憲干洪(銭緒山の事)与汝中。(王竜該の事)使切磨学問以飭内外云々。正憲年十四。襲師錦衣廕。喜正億生。遂辞職出就科試。即其平生。鄒子所謂授簡不忘。夫子於昭之霊。実寵嘉之。其無愧于斯言矣乎。
と之を見るに、先生は最初夫人諸氏に児なきを以て、正憲を養ひしとき正に八歳なりしが、後先生継室張氏が正億を生むに及んで、正憲年十四大に喜んで遂に其先生蔭によりて得たる錦衣の栄職をも辞して、家を譲りて正億に継がしむる事とせる。此亦決して不肖子弟にして成得る所に非らずとおもはる。
其擬諫迎仏疏も遂に中止して上るに及ばざる事、兪謝両本年譜共に皆之を載するは何ぞ、私は平生其意の何に在るを知るに苦しむ。其文は勿論先生集中に存んして殊に後人の盛に之を賞讚して、到底韓愈旧文の比すべきに非ずとするものなるも、已に中止として上疏の実行にも及ばざるものは、そふことごとしく、書立るにも及ばぬことなり。若しくは或は其意却て其が上らんとし遂に中止とせる所に先生たる所のあるを示さんとせるか。私は知る、先生の中止せるは猶先生が後日嘉靖大礼議の時に於けるが如きを。当時大礼議の紛争中、先生門人の其事に関するものは皆其事の是非を先生に問はざるはなきも先生一も之に答書せざりきと云ふ。先生の大礼議に関して其議論を明白にせざるは則ち先生の遠識卓見にして時務の緩急を知れる事世儒に超出せるものなるは、嘗て本邦頼山陽も已に此に著眼して先生に心服して居る様である。
疏請告。此の先生の祖母岑夫人と云は、先生には大恩人である。其訳は先生は十三歳にして其母鄭夫人を喪ひし後は、先生は継母及び庶母の手にかゝられたるを以て、全く祖母の俯育によりて成長せり。殊に当時其の庶母(前には継母の事かと思ひたるも小夫人とあれば庶母なるべし)などの中には多少先生に不慈なるものもありしかにて、先生が巫媼に結びて、詭言に借りて、其母の性行を矯改せしめたるなどの奇談もある位にて、そのため祖母の先生を慈すること、先生の祖母に感ずることの深情は、また格別なるものあるは其筈である。
十一年丙子先生四十五歳。此の九月に都察院左僉都御史に陞り、南贛の地に巡撫として臨まれたることゝなるものは、元来此の地方たる、此より前凡五十年計も先より、已に盗賊の淵叢となるものゝ如し。嘗て後鑑録(清毛齢著)を見るにも、左の如くに云へり。
 按贛前江撫李昂。干成化(明霊宗年号)二十三年謂。地連四省(汀西、湖広、広東、福建、是なり)多盗。奏設分守参将兵備副使各一干会昌県。以福建三千戸所江西南安瑞金二千戸所隷之、益選民快六七千人。分屯操守。而于安逮双橋竜南之下歴。各設巡撿司。掎角以禦盗賊。及弘治(孝宗年号)中。鎮監鄧原。復請増設巡撫。駐贛。専理輯捕。云々
之を見ると、南贛の盗叢たるは一朝夕の事に非ずして、巡撫は全く其事に因て特に設けたるものである。而して先生が遂に転じて其職に任ずるに至る所以は、今又其後鑑録と明朝記事本末(清谷応泰著)とを折衷して、其大要を得るには、
 最初正徳六年。右都御史陳金、総制軍務。右副御史兪諫、提督軍務
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として、軍を督して討伐するより、巡撫都御史周南も攻めて大帽等の山塞を破るなどの事あるも、全体で或は撫或は討じて、姑息の計らひ多く、遂に大懲創なく、且つ其調用する所の狼達土日(福建に居る一種蛮獷兵)の兵は、勇と雖も、機に乗じて暴をなし、因之良民多く害を蒙る。往々往年数百万の費を糜して何等獲所なく、度々進勦しても盗遂に諸からず、会ま逆濠の陰に通じて其後楯となるにより、賊益々忌憚する所なく、到底陳金等も策の施す所を知らざる事となるにより、遂に先生を転じて其難局に当らしめたるものである。
そこで、私は又窃に先生従来の此賊に対しての措置何知を見るに、先生は又一々其前轍に鑑みて、此に反して以て其功を奏せり。凡そ三箇の要著がある。
 一、三省夾攻は陳金以来襲用せる策なるも、彼は三省同時に並挙げんと欲せる故に無功、先生は其間に順次夾攻の法を立つ。
 二、彼等は専ら狼兵の力を頼むがため、繁費自困無功。因て先生は特に民兵を練用して、狼兵の擾をなさしめざるので、上下に怨尤少し。
 三、前者は一旦削平するも善後の策なきを以て、随て又乱る。因て先生は一賊を平ぐるときは則ちすぐにそれが善後の法を講ず、再乱の種を留めざる所以。
而して其特に先生を擢用するものは、全く兵部尚書王瓊の力による。王瓊号晋渓、実に先生の事業を成した事に大関係あるものは則此人なるを以て注目を要す。謝本特筆して曰く、尚書王瓊特挙先生と。而して兪本無之は至て不可也。史に称す。晋渓嘗て秘府の書を読み国家の典故に通ずと。稍一癖もある人物の如きも亦一代の英賢偉人である。
先生集中、先生が与王晋渓司馬尺牘十二通もある。それで先生が晋渓に如何に眷々たりしかゞ判る。
又此条下、王思輿の季本に語る一語。極て簡単なるも私は年譜中にかかる事あるは大に我等修学の資となるがゆゑ、極て喜び極めて取る。
思輿の言引て発せず、然ども私は其如何にして之に触たるかと、先生の如何にして動かざるかと知る。凡そ吾党諸君其試思之。
王思輿字文轅。号黄轝。明儒学按には、特に陽明先生伝後に此人を附載す。先生最初仙術修練の時よりの友人。余程聡明の人の如きも、惜哉蚤世。季本は即ち号彭山、字は明徳と云ひ、亦先生門下高弟。先生後思田を平ぐるの時、彭山恰も謫官として掲陽県主簿となり居しを以て又先生の配下に在て事を執りたり。


集会日時通知表 大正一二年(DK410061k-0018)
第41巻 p.220 ページ画像

集会日時通知表 大正一二年        (渋沢子爵家所蔵)
六月二日 土 午後六時 陽明全書講読会(兜町)


陽明学 第一六七号・第一〇―一五頁 大正一二年七月 陽明先生全書講義(承前) 正堂講述(DK410061k-0019)
第41巻 p.220-225 ページ画像

陽明学 第一六七号・第一〇―一五頁 大正一二年七月
    陽明先生全書講義(承前)
                       正堂講述
      六月二日(第一土曜日本橋兜町渋沢事務所にて)講読会
  第九席(年譜 正徳十二年丁丑先生四十六歳)
 - 第41巻 p.221 -ページ画像 
正徳十二年丁丑。先生四十六歳。
 正月至贛州経万安云々。先生が途中に賊に逢ひて、即ちよく咄嗟の間に其商船を結んで陣勢をなして戦闘の状をなしたるにより、賊をして忽に辟易屈伏せしめたる所以のものは、賊は其船に部伍節制の法あるを見てそは必らず徒に単純なる一箇の商船隊に非ずして寧ろこは真成の官兵が外商船を装ひたるものなるを疑ひたるによるものと思はる、唯此の先生対賊処置に着眼すべきことあり、陳幾亭要書にあり。曰く先威之随撫之と、然れども威撫の用若し其施しの前後を倒にすれば即ち事必らず敗る、読者知之。先生入贛曰云々。当時贛は四面賊巣の中に在りて、先生の一官吏を以て其中に至るは、丁度昔漢時に虞詡が単身を以て朝歌の長吏として至るものゝ如し。其盗賊の縦横たる事より、環境州郡の共に之を如何ともする事の能はざるより、南贛は実に宛然たる漢時朝歌に異ならず。若し此に処するに世間通常の官吏を以てせば必らずや其人は忽ちに賊の籠絡する所とならざれば其殺害せらるゝや明である。然るを先生はよく其盤根錯節に当り沈機俊発以てよく其事を済されたのであるが、要は先生が先づ慧眼以て其軍門作奸の一老隷を看破せし所にあり、最妙は其の許て之を殺さず、以て倒まに我用たらしめて先づ賊情を尽したる所にあり。此れ然し先生用間の妙にして、兵法に所謂三軍之事莫親於間とは是である。
 扨て先生入贛同時に先づ老隷を牛のものとして賊情の精細眼中に在る事となるも、顧て内治の方面を見るときは、従来官兵の役立ぬより、盗賊の猖獗を来す所以なるを知る。況んや南贛は地四省即ち江西・湖広・広東・福建の四省に連り、盗賊の盤拠せる所は殆んど其三分一と云ふ次第なるにより、当事者はまた其官兵の役立ぬより何かの事ある毎に、必らず遠く狼達を請調してやつとの事で其賊を抑へる外術なしと云ふに於てをや。然れども其の之を調集し此に来る迄には、往々に其間長日月を要し、経費も固り容易ならざるが上に其至るに先ち賊は已に充分に乱を成し利を取り、已に至れば賊又何れにか形を潜め影だに之を捕捉する由なし。元来此の狼達と云ふは明代に於ける広東西交界処に生息する蛮族なるが故に、紀律全無く最も獷悍淫暴、寧ろ以て一種の賊と見る可きものにして、討賊と云ふより唯良民に讐する迄のものである。故に先生は夙に其無益有害を知るより、先生入贛の初政に選民兵の事を断行せるもので、選民兵の方法は、謝本にざつと出てをるが先づこんなものである。
 先生は先づ四省の兵備官をして各々某属せる所の官兵中より、外懸格召募し、而して南贛兵備は特に自親之を編成せるは旗下中堅の兵を作るためなるべし。四兵備官は猶其毎県原額数内に於ても、其棟選有用者のみを量て三分二を留めて、猶之を以て守城防隘の任に当らしめ、而して其敵を摧ぎ陣を陥れるの事に至ては、則ち専ら今回特選の民兵を用ゆる事とせり。其の三分一の疲弱棟退せるものは、それ又其に代役料を出さしめ、其料を以て召募の用に増加する事とせり。謝本其の要旨を約して曰く。
  如此則各県屯之戌兵。既足以護守防截。而兵備募召之士。又可以
 - 第41巻 p.222 -ページ画像 
応変出奇。云々。
 十家牌も是亦先生特得の妙法にして、其選民兵と共に先生平賊の事業に重大の力をなしてをるも、今私は暫く煩を避けて其制度の精細は別に後日に之を講ずることゝなし、唯其大略の評論をのみしておく事と致します。顧ふに前の選民兵は、先生が専ら常備兵に就ての練兵事件にして、而して十家牌は之を民間に行ふものなれば寧ろ民政の事件に係る。換言せば亦防賊の事の中に善俗の意を含むは亦古へ郷約を設くるの意の如しと謂ふべし。蓋し先生自親も極て其法の妙用を信んじて、随処に多く此法を施行せる事となる。大塩中斎は嘗て此法を賛して、古昔周官の遺法とせるも、周礼大司馬の法ならんも其精しきは伝らず、兵法七書中にある司馬法は司馬穣且の法である。私が先人沢瀉先生は嘗て云ふ、此は蓋管仲内政寓軍令の遺意と、予は其説が寧ろ近実と思ふ。而して方谷先生は曰く、
  立十家牌制郷約之法者。地迫賊巣。民雑猺夷。非是無以易俗変風禁其姦匿也。然用之於内地寧謚之民。必生苦煩駭奇之患矣。
 王本年譜は李卓吾の撰である、而して其説は則ち又曰く。
  十家牌法。今人行之。則為撥民生事。生先行之。則為富国強兵。所謂人々皆兵。不必借兵狼達。家々皆兵。不患賊盗生発者也。不借兵則無行兵調兵之費。不患賊則無養兵之費。国以庶富。民以安彊。特今人未知耳。云々。
 二月平璋冦 此条も兪本は余りに過簡である。今謝本に拠るに、初先生道聞漳冦方熾。兼程至贛。即移文三省兵備。剋期起兵自正月十六日〓任。纔旬日。即議進兵。
 と斯うある。入贛匆々選民兵十家牌等の令已に発すとはゆふとも、僅々旬日にして進兵する事となれば、民兵其他は未だ何等の力をも得る迄には到らざる事勿論なれば、此時先生は猶旧来不練の兵を以て戦に臨まれたものである、加ふる先生技倆未だ世に顕れず、随て威令も亦充分行はれ難きの折柄なれば、果して単垣紀鏞の節度に違ひて死を致し、諸将も頗る遅滞策応の機を失ふなどの事あり。若し他人にあらしめば、此れ恰も一蹶大敗を招くの時也。然るを先生則ち厳に之を督促し、自ら陣頭に進み機により変を制して以て其勝を収めたるものである。妙は其善く諸将を督促し、転罪成功の途に出でしむるにあり。
 又班師の帰途に其行台に時雨堂と名けたるなどは、忽に之を見れば頗る亦俗気甚し。然れども其実は以て従民心ものにして其間に亦微権あるなり。
 其五月に至て、兵符を立つ。於是先生の兵力は、復前日の如きに非らず。
 此月又先生は平和県治を河頭に奏設するは、此れ其新創のものに係る。而して其旧来小渓にこれありし巡検司を以て枋頭に移す。共に皆其平漳冦ての善後策に係るものにして、之を以て漳賊の後来盤拠せる地盤形の中心を破りたるものである。以前は此善後策を講ぜざるにより深山要害再び賊の巣窟となるに至る。県治は此れ専ら政事の事をなし、而して巡検は兵刑を兼ね以て県治の旁助となる、政兵
 - 第41巻 p.223 -ページ画像 
分職の法も、此亦其善後に於ける先生用意のある所に似たり。当時先生一賊を平ぐるときは、先生皆此法を用ゆ、蓋し当時善後の法此よりよきはなきものとみゆ。
 六月請て疏通塩法するの事あり。此事などは今日政治家実業家などが精細に先生の措置を調査せば、極めて其参考に資すべきものがあるべきと思はるも、今は予は大約の要を云ふのみ。其所謂疏通とは此迄広塩、即ち広東方面より運ぶものをば南贛に止めて、而して南贛に続きたる表臨吉の三州へは、淮塩即ち淮陰・浙江方面より運ぶものを用ゆる事になりをるものを、改めて三州共に広塩を用ゆる事とせしむるを云ふにあり。三州へ広塩を用ゆるは其運路が其上流より舟を下すことにて運賃がかゝらぬゆゑ、其勢自然廉価の塩を三州へ売る事が出来る故に、三州民心も其方を要求するものなるを、而も此迄何故に淮塩を以て強いて其下流より逆運して、因又其高価の塩を三州に用ひしむるかは、蓋し、法を設けて以て淮塩を護するものなれども、三州の人心により広塩を上流より下すは容易の事なれば、南贛税関何等の用をもなすを得ず、法あるとも無きが如く、公然の秘密、広商の贛関官吏の目をぬすみて三州に私販するものおゝく、随て南贛塩関の正税何程の上りもなきに至る。因て先生は寧ろ其人心と地形との自然に従ひ三州に広塩を用ゆるを公許して、而して其脱税を厳査する事とせるに過ぎざるものである。然ども此の結果として南贛塩税は先生は之を以て此度の兵役諸費をも支弁するに大部分の財源は是で済たるとは驚いたものである。最もそれは、先生が常に寡兵を以て奇功を奏し、用兵の日数も極めて少ないのによる。昔桑弘羊が不加於民而財足の説を、司馬温公は何ぞ如此の奇法のあらふぞ、此はたゞ辞を巧みにして民にとるに過ぎず、其実は収斂の事害民の法であるとしておらるゝが、今先生の此挙を以てせば上朝廷を煩さず。所謂不加於民而国用足、恐くは司馬公も其喙を容るゝに所なかるべし。九月改提督南贛汀漳等処軍務。欽給旗牌。得便宜行事云々と。先生は此特権を得られたる事が実に先生の事業戦功に於ての大根本をなせるものにして、此あつて先生は最早よく南贛諸賊を掃蕩することに於て掌中のものたるを得るのみならず、且つ大に後日寧王謀反に対せし時の大便利となりしものである。旧来南贛には巡撫を設く、巡撫の職は亦一地方の高等顕官として、且つは盗賊追捕のために設けしものなるも、其権力の及ぶ区域が之を提督に比すべきに非らず。提督に於ては某権力の及ぶ区域が一層拡大するのみならず、又総て軍法を以て従事することが出来る。初め先生は其嘗て都御史周南が巡撫を以て一時特に請ふて旗牌を得て便宜行事と云ふ事になりたる故事により、其申明賞罰するの疏尾に添へて、従前周南の如くに旗牌を下し賜うるれば諸事大に意の如くなるべきとの言をなしたるは、先生は自ら進んで其特権の下賜を請はれたるによるが、然し此の特権の下賜を請はれたるが、然し此の特権請求は先生として甚だ之を言ふに難き情もあることにて、先生特に之を申明賞罰の疏尾に旁及の言の如くにせるものは、亦是先生苦心の処。先生が僅々山中勦賊の事に就き、旧来周南の故事に基くとは
 - 第41巻 p.224 -ページ画像 
ゆふものゝ其請求に嫌疑がある。果哉其求権の過大に疑ふたものもあつた、史に所謂有笑其迂者とは是である。幸ひに其先生僅に疏尾旁及の言の如くいと手軽に其辞を措くがために、世は之を一笑に止めたるものである。然らざれば先生の此言亦已に危哉。当是時又幸に兵部尚書に晋渓の居るにより、慧眼以て、先生の心を知るが故に大に先生の疏意に同情覆奏して以て遂に天子の御裁下を得のみならず、更に先生の位地を提督に進め、旗牌共に八面を給与せらるゝ事となし、更に明勅を下されて、凡そ其四省間に盗賊生発するあるときは、直ちに其権力を以て、文職武職に拘らず勝手に之に指令し、聞かざるものは共に軍法を以て処置しても宜しい、一切便宜行事を許すとの言を以てせる迄に取成たるは、全く晋渓の力によるものにて、畢竟晋渓は亦其以心伝心以て闇に後の擒豪の張本をなしたるものである、晋渓も亦千古の英豪也。此事の秘密なる以心伝心的の事の証拠は謝本にある。
  既而鎮守太監畢真。謀于近倖。請監其軍。瓊奏玖為兵法忌遥制。若使南贛用兵而必侍謀於省城鎮守。断乎不可。惟省城有警則聴南贛策応。事遂寝。
 と斯うであるが、若し此の江西寧府にをるところの太監畢真が請を容て兼て先生南贛の軍の軍監たらしめんか、先生は毎に其牽制拘束する所となりて、指向南贛滅賊覚束なきのみならず、後日寧王謀叛に対する事の如き亦到底絶望の事となりて、天下の事またなすべからざるに至る、唯その晋渓が断然其不可なるを論じ、却江西省城の警事あるときは南贛よりの策応する事とせるによりて、事遂寝むを得と云ふ。此の一節関係極大。而も今兪本は又之を落してをる。
 十月平横水桶岡云々、此条の前に謝本は特撫諭賊巣する一条を入れ而して其諭告の辞をも挙げたるも、今其辞迄をも講ずるは他日に譲り、予は先生が討賊の前に必らず藹然たる一道の諭告を与へしことは、已に先生対賊の恒例を成してをるものにして、亦以て先の王道仁義の術によつて権謀詐術の用に非るを見るものと思ふ。最も此事たるは一面先生当時捷音疏もあれば、之に照して其先生の王道中には猶事機の会を失はざるの妙あるをも知るを要とす、誠に此の先づ諭して其愈聴かざるが上に、又兵略上より見ても愈然あるべきものであるけれども、下手にやると不意を撃つて神速の勝を制する事が出来ず、却て自ら其敗北を取れば、宋襄の仁となる。余りに又上手に過ぎて私心があれば、則ち往時徳川家康が大阪に和を入れて周池を塡めしが如き奸謀となる。必らず先生の如くにして始めてそが仁且智を併したる王道仁義の作用となるのである。
 賊首謝志珊就擒云々。此一節、兪謝両本共に之を収載せしは、上手際である。夫主将之法。務攪英雄之心。とゆふは、三略の開巻第一句に出てをるものなるが、往時北条早雲が某に命じて三略を講ぜしめたるに、其首に其第一区を講じたる計にて、我已得之とゆふて其余を聴かずして講をよさしめたるが如き、早雲は遂に一句の力によりて関八州の地に割拠する雄図を成したることありしが、全く賊首謝志珊の言所に違はず、唯志珊は之を賊事に用ひたるの殊なるのみ
 - 第41巻 p.225 -ページ画像 
陽明先生は其門人を警発せしものは、我等の殊に味ふべき所である旧年吾先子沢瀉先生も凡事業をなすには、将軍なれば其部下、先生なれば其部下の履迄をも揃へてやる位でなけらねば、道を伝へ勝を制するとは成し得ぬものであるといはれたる事もありしが、全く其通りである、又靖乱録には陽明先生の此事を載せし後に一詩を添へてある。詩は定めて後人の作にて先生当時の製に非るも、其辞意共に絶妙、因て予は常に之を愛吟して感発多し、乃ち其詩如左。
  同志相求志自同。豈容当面失英雄。
  秉銓誰是憐才者。不及当年盗賊公。


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七月七日 土 午後六時 陽明全書講読会(兜町)


陽明学 第一六九号・第八―一〇頁 大正一二年一二月 陽明先生全書講義(承前) 正堂講述(DK410061k-0021)
第41巻 p.225-227 ページ画像

陽明学 第一六九号・第八―一〇頁 大正一二年一二月
    陽明先生全書講義(承前)
                     正堂講述
      七月七日(第一土曜日本橋兜町渋沢事務所にて)講読会
   第十席(年譜正徳一三年戊寅先生四十七才)
正徳十四年。戊寅。先生四十七歳。
 正月従三浰云々。先生此の三浰を平げられたるは先生の南贛勦賊に於ける第一苦心の事たるに似たり。其故は、此の浰頭に盤拠せる賊首池仲容は、他謝忠珊などより数等を抽きたる奸黠逞ましきものなるによる。先生が南贛に着かれたると直に平漳寇の事あり、其年二月である、而して其十月には平横水桶岡諸賊ておらるゝ。此等は共に昨年中の事に係り、而して今年正月には此三浰に懸られたるものにして、三浰平いで南贛の賊は悉く平定した事となるが、其先生が此間に於る緩急疾徐の宜きを制せられたるが、殊に後学吾人の着眼すべき所である。
 蓋し南贛の諸賊は、固り皆同種の性質賊党なるを以て、同類相引て気脈を通じておるものに相違なきと雖も、そこが元来賊党たるがため、利害の急迫を見ては相結て協力もするも、其事の急ならざる場合には又決して互に義理を尽しあふものに非ざるのみならず、時には相殺をも構はざるは、此其の盗賊の性質に於て到底免れたるものなるを以て、先生は慧眼先づ此に着目しておられたと見ゆ。但漳寇は地形稍懸隔せしものにて、且つ咄嗟の間に討滅せしめたるを以て先生も未だ其下文に云ふが如き事に着手はなかりしが如きも、先生は其先づ取易き横水桶岡の賊に兵を進めし時には、浰頭の之に乗じて大に我事に妨るものあるを恐れ、乃ち一の告諭文を与へて、厚く其賊を招撫する事とせるものである。
 実に其辞の藹然たる、仁人君子の愚民を愛憫する意、楮墨の間に溢出するものありて、今其文は先生全書中にも残りおりて、一読誰も感動せざるなきものは、其は先生の所謂不教而殺事の仁義の道に非ずとせるの心よりして、此に出たる事は疑ふ可きの余地なきものにして、其証拠は賊中黄金巣の如きは翻然改心して軍門に至りて投降
 - 第41巻 p.226 -ページ画像 
もしておると雖も、一面より見ると、亦是れ先生が兵法用間の妙を得て以て賊党を散じ、各賊を孤立の地に陥らしめたる所以にして、兵機が其中に寓しておる。故に賊首池仲容の如きは遂に其が翻然改心と云ふ程には至らざりしも、表面猶先生の撫を聞くが如くに装ひて、其時機を窺ひて以て其邪謀を遂くると云ふの途に出たるものにて、そがまた早く已に先生の術中に陥て自ら其亡滅を取りたるものである。昔し孫子は其用間篇に斯く云ておる。
  昔殷之興也。伊摯在夏。周之興也。呂牙在殷。故明君賢将。能以上智為間者必成大功。此兵之要。三軍所恃而動也。
 伊尹の夏に在るも呂望の殷に在るも、其志は皆其時を扶翼するに在るものにして、用間のために非ずと雖も然とも、其機会の幾微を失はざる所を以て、孫子は猶視て以て兵法の要となせるものであるは亦以て王道の果して迂豁ならざるを見るべき所である。陽明先生全書、謝本に云ふ。
  横水既破。仲容等始懼。遣其弟池仲安来附。意以緩兵先生覚之。比征桶岡。使截路上新池。以迂其帰。厳警備。外若寛仮。云々。
 と、往時豊臣秀吉の毛利氏と連和して明智光秀との戦に向ふの時毛利氏よりも兵を遣して之を助けしと雖も、意猶其変を見て機宜を制せんとするに在つて、毛利氏の将は別に自兵を以て一方に当んと乞ひしを。秀吉曰く、然らず、毛利氏と雖も、唯単独に其の自兵計りを以て戦ふては其勢壮ならず、折角援助の勢を見ず、それよりは別つて之を諸隊に混じて、各処に毛利氏の旗幟を靡かしむの威勢よきには若かず、として遂に毛利氏をして一致独立の運用に便なからしめたりとの事である。がこれが即ち所謂内厳警備外若寛仮ものにして、而して先づ其の賊巣に告諭を投じて以て賊党の結束に難からしめしものも、若少しく其誠意の内に存するものなからしむれば、必らずや、丁度彼の徳川家康の和議を以て秀頼を籠絡して、以て大阪城の周池を埋めし奸謀たらずんばあらざるべし、此れ然ながら誠偽王覇の其道を殊にする所以にして、先生の誠意以て之を運らすに非るよりは、決してまた容易其歩趨を誤て覇者の作用に陥らざること難し。
 実に先生が彼の奸黠極まる池仲容を誘ふて我殻中に入るゝに至る。其苦心以て察すべし。仲容已に擒にすれば、即ち最早事大に定まるものにして、先生はそこで其の疾雷耳を掩はざるの間に、其数十年抜くことの能はざる賊巣を平定せしものは固其所てある。
 靖乱録に先生が此時に於けるの事を記て云ふ。
  時日過午。先生退堂。一箇頭旋。昏倒在地。左右慌忙扶起。嘔不止。衆官倶到私衙。問安。先生曰。連日積労所致。非他病也。幸食薄粥。稍静坐片時如故矣。是夜先生発檄催各路兵。云々
 と、其先生頭旋昏倒せし事を見ると、先生が如何に心力を費されたかを思はしむ。而して少時の静坐に因て忽ちに其精神を回復せしに於ては、また先生がかゝる時と雖も猶常に其心を学問の功夫に忘られざりもよく分る。而して其夜は即ち諸路の兵を発とは、亦何ぞ機敏にして従容余裕あるや。
 
 - 第41巻 p.227 -ページ画像 
其四月班師立社学より、七月刻古本大学するより、九月修濂渓書院に至るは、かかる煩忙の時に於て先生の益々其講学に眷々たるを見る。此れ固り先生の胸中綽として余裕あるがためとは謂ふものゝ、そは必らず先生に大に其所以あらずんばあらざるべし、謝本此下にある一条甚好し。予先生譜には是非とも此事を入るゝを願ふものであれば録す。乃ち其文如左、
  先生大征既上捷。一日設酒食。労諸生。且曰。以此相報。諸生瞿然問故。先生曰。始吾登堂。毎有賞罰。不敢肆。常恐有愧諸君。比与諸君相対。久之尚覚前此賞罰猶未也。於是思求其過以改之直登堂行事。与諸君相対時。無少増損。方始心安。此即諸君之助固不必事々煩口歯為。諸生聞言。愈省各畏。
 然れば先生行軍の時、猶諸生の其身に纏ふを辞せず、汲々として其教授を忘られざる所以のものは、即ち其自己講学の為めにして、且つ以て事業の功夫とせるものにして。先生の学は全く此の如くして学問の実効を収むるものである、従来我等は陽明先生を慕ふと雖も其用心の実を知らず、唯々口に其学説を講来講去畢竟唯是れ訓話の学と云ふものにして、其は決して我等が以て陽明先生を学ぶ所以に非らず。唯此条の如にして正に知行合一の真功夫と謂ふべし。予謂ふ世の先生を学ぶもの、必如此にして始めて其学徒ともゆふべきである。他又何をか説かん。